アリスが今よりもずっと神様に近かった頃の話だ。
アリスが大切にしていたぬいぐるみが無くなった。それは眼はボタン、口はジグザグ縫いで背中には六枚羽を模したフェルトが縫い付けられており、頭からは特徴的なアホ毛が反り返った、つまるところ神綺を模したものだった。
それが無くなったと気づいたとき、アリスは最初信じられないといった風に自失して、それから失くした心あたりのある場所――当時アリスはどこへ行くにもそのぬいぐるみと一緒だったから、自身の行動範囲の全て――をくまなく七回探し、それでも見つからなかったときになって初めて、ぽろぽろと声もなく泣き始めた。滅多に感情を表に出す子供ではなかったから周りの方が慌ててしまって、無くなった当初は大騒ぎだった。それこそ、神綺によって城内で捜索隊が組まれ、城内のありとあらゆる家具が動かされ、万が一荷物に紛れて外に出てしまわないように外界との荷のやり取りを制限し、それでも見つからないことに焦れた神綺が魔界総出での捜索を命じかけたところで夢子が慌てて止めに入った。
ぬいぐるみを失くしたことが余程ショックだったのか、当の神綺が慰めに訪れても、アリスは塞ぎ込むばかりだった。明るく聡明で、城の皆から愛されるアリス。彼女が沈んでいることで、城内もどこか重い空気に包まれていた。
そんなある日のことだった。
「人形作り?」
「ええ、少しでも気晴らしになればと思って」
代わりの人形をあげたのでは意味がないでしょう、と言って、それに自分で作れるようになればまた失くしてしまっても大丈夫だわ、と神綺は穏やかに笑んだ。その笑みが普段神としての仕事をしているときよりも、よほど神様らしく見えて、夢子は思わず、代わりの人形ではどうしていけないのですかと半ば反射的に尋ねていた。神綺はまたあの神様のような笑顔を浮かべて続けた。
「自分で作った人形になら、私に対する愛情を目いっぱい込められるでしょう?」
「神綺様から頂いたものにも、十分愛着を持っていたようでしたが」
「もう……やっぱりあなたは夢子ちゃんね。もう一度同じものを与えても、アリスはきっとそれを純粋には愛せないわ。失くしてしまった前の人形を思い出して、そして今度はこれも失くしてしまうんじゃないかと恐れて。ひとつめとふたつめの間に差異を見出さないのは、あなたが被造物として優秀だからよ」
一瞬、私は神綺様にとって一体幾つめの人形なのだろうという疑問が夢子の頭を過ったが、口をつくことはなかった。出すぎた質問であるように思えたし、何番目でも構わないと思ったからだ。ただ、自身より前に作られた被造物や夢子が存在を知らないだけでどこかに息づいているかもしれない妹達がどう過ごしているのかという疑問だけが、胸の奥に降り積もっていった。
夢子を見つめて、神綺は幼子のようにくすくすと笑った。
「あの子にはきっと、神様になる素質があるわ」
アリスだけはいくつめの外側にいるのだと、夢子にもその頃から分かっていたのだ。
◇◆◇◆◇◆
数日の後、一等上等な針と布、フェルトと綿を魔界中から取り寄せて――アリスには怪我をしないようにレザーのシンブル(指貫)も取り寄せて――新しい人形作りが始まった。
わざわざ取り寄せずとも、この魔界にある限り神綺が指を一つ鳴らすだけで最上のものを無から作り出すこともできるはずだった。だというのにそれをしないのは、子どものために手間暇をかけてみせることも親の務めだと考えているところがこの神様にあるからだ。
アリスに人形作りを教える際に、神綺は教本の類を用いることはなかった。ただ口頭で柔らかく手順を教え、自らの手でそれに沿って再現してみせた。幾多の被造物を創り上げた神綺の手先が器用なのはもちろん、アリスもそれが当然であるかのように魔法のような手つきで針を通していく。
通りがかった姉妹たちは皆一様に、元気を取り戻した末の妹の手捌きを見ると褒めそやし、臣下達も称賛の言葉を残していった。声を掛けられているアリスは、はにかみながら応えていたが、喜ぶというよりは照れて恥ずかしがっているようで、神綺以外の誰かが傍にいるときには、手つきが焦ったように早くなったり、逆にぎこちなくなったりした。
そして、夢子が夕食を作り終える頃に、人形は完成した。
我らが神様を模した二体の人形。
片方はまさに神がかりと言っても良いほどの出来の良さで、元が布と綿であったそれは、二本の足で自立することさえして見せた。無機物らしからぬ慈愛に満ちた微笑は、ともすれば夢子でさえ、それに神綺を模した単なる布の塊以上の意味を見出してしまいそうになるほどだった。
当の本人がそんな偶像めいた振る舞いをするかはともかくとして。
他方、アリスの作である。端正な顔つきの頭部、緻密な模様をかたどった翼、そしてしなやかな足先に至るまで魔界の創主から直々に教えを受けたとはいえ、部分として単一で見たならば、とても初めてとは思えないほど精緻な出来栄えだった。
しかし、なんというべきか……。その人形に対し、夢子は一瞬だけ何か違和感のようなものを覚えた。改めて全体を眺め、その正体に気づく。そう、バランスが悪いのだ。各部位の造形は素晴らしい。自分でも、きっとここまで巧くは造り得ないだろう。大きさの比率もおかしな所はない。
しかし――部位として完成されたそれらは全体としてのまとまりを欠いていた。独立した部位を無理に一つにまとめたそれはどこか歪で、バランスが悪く、あまりにも造形が整った部位達は総体としての不調和を補う余地がない。
アリスの人形が立つことはなかった。
「まあ!凄いわ、アリスちゃん。流石は私の娘ね」
アリスは自身の作った人形と神綺の人形を物憂げな顔で見比べていた。
「――ううん、そんなこと、ないわ」
「ええっ、でもこんなにそっくり――」
「違うわ」
断ずるようなアリスの言葉は、神綺に向けられてはいなかった。平生なら何よりもまず神綺に向けられていた視線が、今はただじっと手の内の人形に注がれていた。
「……」
「……ねえ、おかあさま」
「なあに、アリスちゃん」
「おかあさまの人形は、まるで生きているみたいね」
「ええ、そうね」
「わたしのは、しんでいるわ」
「そうかもしれないわね」
「なにがいけなかったのかしら」
「何もいけないことなんてないわ、アリスちゃん。初めてでこれなら上出来も上出来よ」
「けれど、わたしも生きているのがいいわ」
「――」
「なにが、いけなかったのかしら」
向けられる透き通った瞳に、しばらく、神綺は思案していたようだったが、やがてにっこりと笑い、アリスの耳に口を寄せてささやいた。
「それはね、アリスちゃん。あなたの人形には――――」
ごーん、ごーん、ごーん、ごーん、ごーん、ごーん。
それはさながら福音のように。
都合六度、主神の翼と同じ数だけ柱時計の鐘が響き渡る。
やがて残響が鳴りやむ頃、そっと神綺がアリスから身を離した。
その言葉を聞き取れたのかどうか、傍から見ていた夢子には分からない。けれど多分聞き取れなかったのではないかと夢子は思った。外形の上でのアリスの表情は、諾々と言うことを聞く人形のように、まるで変化が見られなかったから。
「お夕飯の時間だわ――夢子ちゃん」
「……はい。皆、食堂に揃っております。今日は、アリスの好きなクロカンブッシュを用意しました。元気になったお祝いです」
「ですって。良かったわね、アリスちゃん」
神綺は柔らかくアリスの頭を撫でた。
――それはまるで、自分で答えを見つけなさいというかのようで。
そうしてアリスははにかみながら、いつものように笑って見せた。
おそらくは、きっと、神綺が望んだそのとおりに。
◇◆◇◆◇◆
それから数日は同じような日々が続いた。最初の日と同じようにつきっきりで教える日もあれば、時折様子を見て一言二言、助言なのか励ましなのか判じづらいことを言って去っていくこともあった。夢子は神綺に付き従っているときにその様子を偶に目にするだけだったけれど、着実にアリスの技量が上達していることは伺い知れた。神様に与えられたこの瞳が、美しさの判断を誤ることはない。
アリスの人形は、確実に美しく、そしてそれだけではない何かを備えるようになっていった。
「夢子さん」
「――アリス、どうしたの?」
神綺への書類を持って廊下を歩いていると、アリスに呼び止められた。どこか落ち着かない様子のアリスは、ちょっと見てほしいものがあって――と、明瞭な物言いをする彼女らしくなく言葉を濁した。
夢子は新しく公布された魔界法案の書類に少し目を落としてから、いいわ、と安心させるように笑みを浮かべた。どんな場合であれ、神綺ならアリスを優先することを否定するはずがないと知っていたから。
手を引かれて連れられたのはアリスに割り当てられた部屋だった。
全体的に淡く甘やかな色合いを基調とした、メルヘンチックで御伽噺の御姫様のような部屋。神綺の嗜好をアリスが拒否しなかったことで成り立っているその部屋の一角は、アリスが人形造りに精を出し始めたことで、今や裁縫道具やフェルトといった人形の製作に必要なもので侵食されつつあった。
いくつか横たわるうちの一つを、そっと――まるで我が子でも抱き上げるように――抱え上げると、夢子の前に掲げて見せた。
「これは――私?」
「そうよ。お母さまをつくる前に夢子さんをつくろうと思ったの。夢子さんが大丈夫って言ってくれたら、きっとお母さまをつくっても大丈夫だと思うから」
それはどこか勝気な表情を浮かべた夢子の人形だった。
精緻であることは最早疑いようもなかったが、この間とは違い、そこにはただ単に技量が優れているというだけでは収まらないものがあるように感じられた。
アリスには自分がこんな風に見えているのか。
反発を抱くと同時に、確かにこれは私だとも思った。普段意識することなく、けれど確かに自身の本質である一部分を切り取って形にしたその姿は、夢子も予想だにしないほど強く、これは自身のうつし身だという実感を呼び起こした。
人形を通して、隠された自分の一面と唐突に向き合わされるような不思議な感覚に苛まれながらも、努めて平静に答える。
「――よくできているわ」
「本当?」
「ええ」
「良かった。そう言ってくれるなら安心だわ。夢子さんは優しいけど、こういうことで嘘はつかないもの……」
「ええ、本当に、よくできているわ」
重ねて告げると、アリスは安堵したように肩の力を抜いて、ほう、と詰めていた息を吐きだした。
「本当は怒られるんじゃないかって少しどきどきしていたの」
「怒るだなんて……何故?」
「こんなの私じゃないって」
はたかれたような衝撃を戒めて、夢子は表面上は柔らかく微笑んで見せる。
当人を模した人形を手の内で扱いかねるようにしながら、それでも創主として柔らかに抱くアリスは、以前とはまるで別人だった。人形作りは、確かにアリスの心に対してよい影響を与えただろう。しかし、単なる学習や技術の習得から外れたそれは、これまで神綺や姉妹たちの柔らかな愛に包まれていたアリスの心に、それだけではない何かを萌したようにも見えるのだった。
以前のアリスは、物静かで内心を推し量るのが難しい子ではあったが、神綺の言うことをよく聞き、他の姉妹とも緩やかな紐帯で結ばれている、つまりは夢子や他の被造物と似通った在り方をしていた。……あるいは努めてそうあるようにしていたのかもしれないが、少なくとも常の振る舞いからは、自身と同質なものに対する穏やかな親密さとでもいうべきものが感じられた。
けれど、人形作りを始めてから、夢子にはたまにアリスが分からなくなることがあった。
これまでも、魔法にせよ、それ以外の事柄にせよ、神綺や夢子が一度範を示しただけで、アリスは非凡な観察眼と卓抜した器用さでもってそれを習得してきた。ある意味では、神綺や夢子を上手に模倣し、追従するだけでいたのが、最近のアリスにはそれだけではない、何か、別の物を標榜しているように思える時がある。
――人形作りを教えたのは、あるいは間違いだったのかもしれない。
そんな考えが、夢子の頭を過る。
少しばかり情緒が発達しすぎているように、夢子には思えた。それも、被造物(つくりもの)の枠を越えかねない速さで。ひょっとしたら、神綺様が期待している以上にさえ。このままでは遠からず、神綺様の手を離れてしまうかもしれない。
少なくとも、自身の手からはもはや離れつつあることを夢子は認めないわけにはいかなかった。
腕の中の人形を見つめる、この深い色の眼差しもそうだ。
夢子の知らないアリスの姿。
ふと、疑念が湧いた。
あるいは危機感ともいうべき何かが。
この世界では、神綺様がいのちを吹き込んだこの世界では――創造主の企図しない、不都合な事態が起きてはならない。それは造られたものが守るべき第一の原則だ。神綺様のために魔界の秩序を保ち、神綺様の意にそぐわない事態を起こさせないために自分が存在しているのだということを夢子は自覚している。
――けれど、それならば、そうなる可能性が少しでもあると知りながら、それを許容することは創造主に対する許されざる背信なのではないか?
自らの手に負えなくなる可能性があるのであれば、今の内に不安要素は取り除いておくべきではないのか。咎められはするだろうが、神綺様はそれを許容するだろう。あの方は完成された秩序を好む一方で、そういう被造物の想定外の行動を何よりも尊重するところがある。思うに、外から手を出されるのは我慢ならなくとも、自らの手で造った被造物が何をしようと、それは自分がしたことと変わらないと考えているのだろう。例え被造物同士の間でどんなことが起きたとしても、神綺様はそれを喜ばしいこととして受け入れる。神綺様に唯一比肩する可能性を持つ彼女が失われることは損失には違いないが、それでも無限の時間を持つあの方ならばやがては同一の存在も生み出すことができるだろう。アリスが失われたことを嘆き、夢子が想定外の行動を起こしたことを寿ぐ。神綺様は、そういうお方だ。どうなったとしても、構わないのだ。ならば、今ここで――。
そこまで考えて、思わず苦笑する。
そんなもの、ただの嫉妬に過ぎない。
つまるところ、自分には無い可能性を与えられた他の姉妹を――アリスを羨んでいるだけなのだ。
「お母さま、喜んでくれるかしら」
「ええ、きっとお喜びになるわ――今のあなたを見たら」
夢子はそっとアリスの頭を撫でる。
神綺がアリスにそうしたように。
アリスが人形にそうするように。
上辺だけは、神様を真似して。
◇◆◇◆◇◆
次の日の夕方。談話室にはアリスと神綺、それから夢子だけがいた。いつかアリスが初めて人形作りを教わった場所だ。
アリスが人形を失くしてから、もう一月が経とうとしていた。
いつかと違い、他の姉妹たちの姿はなく、廊下は静まり返っている。部屋に差し込む柔らかな夕陽がカーテンをすり抜けて淡いセピア色に転じて、部屋は一様に朧げな色彩に染まっていた。その中央に、常とは違う布の掛けられた台座。夢子が想像していたよりも大きい。等身大とまでは言わないまでも、胸の高さくらいはあるだろうか。恐らくその布の下に神綺の似姿をした人形が鎮座しているのだろう。
今日はそのお披露目の日だ。
「私の人形を作ってくれたそうね」
「ええ、お母さま」
「私は、最初ので十分素敵だと思うのだけれど……」
「それじゃあ、私が納得できないの」
「……そう、あなたがそう思うのなら、仕方ないわね。うふふ、楽しみ。一体アリスちゃんはどんな風に私を作ってくれたのかしら」
くすくすと、本当に楽しそうに我らが神様は笑う。この方は、例えどんなものであっても喜ぶのだろうと夢子は思い、そして気づいた。あるいは、私は思い違いをしていたのかもしれない。神綺様は被造物が予想しない行動をとることを好むのではない。自らの予想の範疇に留まるか、逸脱するかに関わらず、私たちの為すこと全てが楽しくてたまらないのだ。
それは、アリスに限った話ではなく、おそらくは他のどの被造物に対しても――私に対しても、そうなのだろう。
そう自覚した時、夢子は自身の胸の内が俄かにざわめくのを感じた。
もし、特別なのはアリスだけでないのだとしたら。
私にも、神と被造物として以外の関係性が許されるのだとしたら。
アリスは、一歩台座へと近づく。
――もし、そうであるなら。
その手が音もなく伸ばされる。
私にとっての神綺様は――。
アリスはゆっくりと人形にかけていた白い布を外していく。
ゆっくり、ゆっくり。
そうして――人形が露わになる。
当人が企図しない姿を、対象の本質を、すっかり暴き象ったその似姿。
夢子が一度として見たことの無い神綺の姿。
その瞳を閉じて、死んだように穏やかな笑みを浮かべる神綺を見て、夢子は自身が自らの創造主に対して抱いている最も大きな感情は一体なんであるかを思い知らされた。
あるいは、そう在るように造られていることに気づかされた。
「そう、とっても上手に……本当に上手になったわね、アリスちゃん」
人形とそっくりな笑みを浮かべる神綺を、夢子は直視することができない。
「ねえ、アリスちゃん。あなたはそれを――“私”を作って、どう思った?」
「ええと、うまく言えないんだけど」
「ええ」
「私、思ったの」
「ええ」
「いつか、私も――おかあさまみたいになりたい」
「ふ――ふふふ、あっはっはっは!ええ、ええ!あなたなら、きっとなれるわアリスちゃん。だって私の娘なんですもの。あなたなら、きっとなれる。魔法を修めて、人形造りの腕を磨いて、自分の世界を創って、いつか命を造り上げて、そうして、そうして――」
――そうしていつか、私と同じことをするのね。
それはまるで、呪いのような言葉だった。そうであれと、そうなれと、彼女の未来を呪うような言葉。
アリスが柔らかな笑みを浮かべるのを見て、夢子は諦観と共に、これできっと彼女も神綺と同じ道を歩むのだろうと思った。
愛すべき妹は、やがて神様になるのだろう。
神綺様のような――おそろしい神様に。
自身が抱いた危機感など些末なもので、全ては神綺様の思う通りに物事は進んでいく。
そう、思っていたのに。
◆◇◆◇◆◇
アリスに呼ばれたのは、その数日後だった。
いつかのようにまた、見てほしいものがあるのだけど、と呼び止められた。
夢子は表面上はこれまで通りのにっこりとした笑顔を浮かべ、後の仕事を他の者に指図すると、アリスの部屋へと向かった。
これからは、神綺様の後継ぎとして接した方がいいのかしら、などと思いながらアリスに続いて部屋に足を踏み入れ、そして息を呑んだ。
アリスの部屋は、以前とは様変わりしていた。
以前のファンシーなお姫様然とした部屋は何処へやら。いつの間にか部屋の隅に据え付けられた作業机には設計図面と作りかけの手足、ぬいぐるみが並んでいた棚には完成品と思しき人形がいくつも並び、壁には人形の素体と思しき人型が吊られている。ベッドの傍に見慣れない白い花が飾られている以外は、さながら魔法使いの研究室のようだった。そしてひと際目を引くのが中央奥の壁にある、あの時と同じ、何かを覆う天蓋のような布。けれどそれは以前よりも明らかに大きかった。アリスの背丈以上ある。夢子はそれがアリスの言う、見せたいものなのだと直感し、何故か背が冷たくなるのを感じた。
背後で扉が閉まる。
平静を装い、夢子は尋ねる。
「サラに、ルイズに、これは――ユキとマイね。とても上手になったわ。……すっかり、人形作りが気に入ったみたいね」
「ええ、とっても」
「見せたいものって、これのことかしら?」
「ううん、違うの――ねえ、夢子さん」
「何?」
「夢子さんにとって、私は一体何なのかしら」
「……」
「私は、どんなふうに見えているのかしら」
「……そうね。魔術の優秀な弟子で、手先の器用なマナーの生徒で、将来有望なメイド秘儀の見習いで――愛する私たちの妹よ。少なくとも、私にとっては」
「それだけ?」
「え?」
「最近、夢子さんが私を見る目が変わったわ。私が気づいていることくらい、夢子さんならとっくに気づいていたはずよ」
「……。そして、今は神綺様の後継ぎ、候補でもあるわ」
候補、と付けたのは半ば意地のようなものだ。
夢子は、アリスに妹のままでいてほしいと思っている。
そう願うことが神綺の意図に反することは分かっている。いや、厳密には反するとまではいかないだろうが、神綺の楽しみの一つを奪うかもしれないことを承知でそう願っている。
神ではなく妹であれば、被造物の中で最も強い私が、いつまでも彼女を守っていられるから。
そうすれば、被造物の中で最強たる私の名のもとに、アリスの幸福は担保される。
「そう……それが、夢子さんにとっての私なのね。もし、夢子さんが私の人形を作ったなら、きっととても可愛らしいものになるわ。ねえ、夢子さん。私がやろうとしていることも、つまりはそういうことなのよ」
「どういう意味かしら」
「あのとき、お母さまに、お母さまみたいになりたいって言ったでしょう」
「ええ」
「あれは嘘よ」
「え?」
アリスは、夢見るように顔を綻ばせて続ける。
「――あのとき、お母さまは言ったわ。私の人形には“ごうまんさ”が足らないって。それでね、私考えたの。どうすればごうまんになれるのか……。ごうまんになるっていうのはきっと、ひとりきりになることなんだわ。相手の存在を認めないこと……かみさまになること。だからお母さまは、人形を作るのがあんなに上手なのね。つくること、こわすこと、思うままに造形し、操ること。お母さまは、私が神様に近づくと喜ぶでしょう。だから。だから、私がお母さまにとっての神様になってあげる。私が、お母さまをつくりなおしてあげるの。お母さまだけじゃないわ。魔界も、こことは違う世界も外の世界も、誰かが夢見た世界も、誰かが生きる世界も、うつつの世界も夢の世界も、全部全部ぜーんぶ、私が作るの。おかあさまよりおかあさまらしく。夢子さんより夢子さんらしく。――その対象の本質をつかむの!」
切なげに潤んだ瞳に、恋焦がれるように上気した頬。
きゅっと、祈るように胸元で両の手を握りしめたアリスは、その透き通った硝子の瞳に夢見る世界を映していた。
そこは主客の逆転した、すべてが代替物へと置換された世界。そこでは人形の方が本人よりもその人らしく在り続ける。人形は空虚で、そうであるが故に創り手が定めた個性は純化し、いつまでも変わることはない。
「――そうすればきっと、世界は、今よりももっと素敵になるわ。
そのために、まず私は私を――」
「つくり直すことにしたの」
白亜の布が、滑るような手つきで取り払われる。
それはアリスの人形だった。
今の彼女より幾分頭身が高く、自身の成長した――恐らくは、自らがそうあるべきと定めた――姿をしていた。すらりとした手足は、少女のしなやかさを備えていて、穏やかな微笑を湛えた顔は、中身が入っていないがためのものではなく、彼女がその身体を有していたなら同じような笑みを浮かべる様がありありと想像できた。
――思えば、もっと早くに気づくべきだったのだ。
神様と同じように被造物を造ることを覚えてしまえば、もはや神様への敬意を保てない。
夢子に組み込まれた規則に照らすまでもなく、それは自らを造り出した創造主への冒涜であり、魔界の民に、神の子たる存在に許されることではない。
夢子は胸を潰されるような思いで、”アリス”を見上げる。
閉じた瞼の内にある、赤裸々に対象を暴くその瞳。
膝の上に揃えられた、対象を偏執的なまでに忠実に象るその指先。
神の子として生まれ、後継ぎに見初められ、それでも妹だと思っていた彼女は、そんな自分さえも自らの手で造り替えてしまった。
ああ――あの子は。
姉に褒められ、はにかんで笑っていたあの子は、一体何処に行ってしまったのだろう。
親が我が子にそうするように、陶然と“アリス”に触れるアリスを見て、最早、夢子の愛した妹は何処にもいないのだと知った。
既にある被造物をより良い姿に造り直すことが、神の後継ぎであるということではない。
そんなものは、神様でもなんでもない。
そんなものは、ただの――。
「……人形遣いだわ」
そうして、アリスは神の子から人形遣いになった。
アリスが大切にしていたぬいぐるみが無くなった。それは眼はボタン、口はジグザグ縫いで背中には六枚羽を模したフェルトが縫い付けられており、頭からは特徴的なアホ毛が反り返った、つまるところ神綺を模したものだった。
それが無くなったと気づいたとき、アリスは最初信じられないといった風に自失して、それから失くした心あたりのある場所――当時アリスはどこへ行くにもそのぬいぐるみと一緒だったから、自身の行動範囲の全て――をくまなく七回探し、それでも見つからなかったときになって初めて、ぽろぽろと声もなく泣き始めた。滅多に感情を表に出す子供ではなかったから周りの方が慌ててしまって、無くなった当初は大騒ぎだった。それこそ、神綺によって城内で捜索隊が組まれ、城内のありとあらゆる家具が動かされ、万が一荷物に紛れて外に出てしまわないように外界との荷のやり取りを制限し、それでも見つからないことに焦れた神綺が魔界総出での捜索を命じかけたところで夢子が慌てて止めに入った。
ぬいぐるみを失くしたことが余程ショックだったのか、当の神綺が慰めに訪れても、アリスは塞ぎ込むばかりだった。明るく聡明で、城の皆から愛されるアリス。彼女が沈んでいることで、城内もどこか重い空気に包まれていた。
そんなある日のことだった。
「人形作り?」
「ええ、少しでも気晴らしになればと思って」
代わりの人形をあげたのでは意味がないでしょう、と言って、それに自分で作れるようになればまた失くしてしまっても大丈夫だわ、と神綺は穏やかに笑んだ。その笑みが普段神としての仕事をしているときよりも、よほど神様らしく見えて、夢子は思わず、代わりの人形ではどうしていけないのですかと半ば反射的に尋ねていた。神綺はまたあの神様のような笑顔を浮かべて続けた。
「自分で作った人形になら、私に対する愛情を目いっぱい込められるでしょう?」
「神綺様から頂いたものにも、十分愛着を持っていたようでしたが」
「もう……やっぱりあなたは夢子ちゃんね。もう一度同じものを与えても、アリスはきっとそれを純粋には愛せないわ。失くしてしまった前の人形を思い出して、そして今度はこれも失くしてしまうんじゃないかと恐れて。ひとつめとふたつめの間に差異を見出さないのは、あなたが被造物として優秀だからよ」
一瞬、私は神綺様にとって一体幾つめの人形なのだろうという疑問が夢子の頭を過ったが、口をつくことはなかった。出すぎた質問であるように思えたし、何番目でも構わないと思ったからだ。ただ、自身より前に作られた被造物や夢子が存在を知らないだけでどこかに息づいているかもしれない妹達がどう過ごしているのかという疑問だけが、胸の奥に降り積もっていった。
夢子を見つめて、神綺は幼子のようにくすくすと笑った。
「あの子にはきっと、神様になる素質があるわ」
アリスだけはいくつめの外側にいるのだと、夢子にもその頃から分かっていたのだ。
◇◆◇◆◇◆
数日の後、一等上等な針と布、フェルトと綿を魔界中から取り寄せて――アリスには怪我をしないようにレザーのシンブル(指貫)も取り寄せて――新しい人形作りが始まった。
わざわざ取り寄せずとも、この魔界にある限り神綺が指を一つ鳴らすだけで最上のものを無から作り出すこともできるはずだった。だというのにそれをしないのは、子どものために手間暇をかけてみせることも親の務めだと考えているところがこの神様にあるからだ。
アリスに人形作りを教える際に、神綺は教本の類を用いることはなかった。ただ口頭で柔らかく手順を教え、自らの手でそれに沿って再現してみせた。幾多の被造物を創り上げた神綺の手先が器用なのはもちろん、アリスもそれが当然であるかのように魔法のような手つきで針を通していく。
通りがかった姉妹たちは皆一様に、元気を取り戻した末の妹の手捌きを見ると褒めそやし、臣下達も称賛の言葉を残していった。声を掛けられているアリスは、はにかみながら応えていたが、喜ぶというよりは照れて恥ずかしがっているようで、神綺以外の誰かが傍にいるときには、手つきが焦ったように早くなったり、逆にぎこちなくなったりした。
そして、夢子が夕食を作り終える頃に、人形は完成した。
我らが神様を模した二体の人形。
片方はまさに神がかりと言っても良いほどの出来の良さで、元が布と綿であったそれは、二本の足で自立することさえして見せた。無機物らしからぬ慈愛に満ちた微笑は、ともすれば夢子でさえ、それに神綺を模した単なる布の塊以上の意味を見出してしまいそうになるほどだった。
当の本人がそんな偶像めいた振る舞いをするかはともかくとして。
他方、アリスの作である。端正な顔つきの頭部、緻密な模様をかたどった翼、そしてしなやかな足先に至るまで魔界の創主から直々に教えを受けたとはいえ、部分として単一で見たならば、とても初めてとは思えないほど精緻な出来栄えだった。
しかし、なんというべきか……。その人形に対し、夢子は一瞬だけ何か違和感のようなものを覚えた。改めて全体を眺め、その正体に気づく。そう、バランスが悪いのだ。各部位の造形は素晴らしい。自分でも、きっとここまで巧くは造り得ないだろう。大きさの比率もおかしな所はない。
しかし――部位として完成されたそれらは全体としてのまとまりを欠いていた。独立した部位を無理に一つにまとめたそれはどこか歪で、バランスが悪く、あまりにも造形が整った部位達は総体としての不調和を補う余地がない。
アリスの人形が立つことはなかった。
「まあ!凄いわ、アリスちゃん。流石は私の娘ね」
アリスは自身の作った人形と神綺の人形を物憂げな顔で見比べていた。
「――ううん、そんなこと、ないわ」
「ええっ、でもこんなにそっくり――」
「違うわ」
断ずるようなアリスの言葉は、神綺に向けられてはいなかった。平生なら何よりもまず神綺に向けられていた視線が、今はただじっと手の内の人形に注がれていた。
「……」
「……ねえ、おかあさま」
「なあに、アリスちゃん」
「おかあさまの人形は、まるで生きているみたいね」
「ええ、そうね」
「わたしのは、しんでいるわ」
「そうかもしれないわね」
「なにがいけなかったのかしら」
「何もいけないことなんてないわ、アリスちゃん。初めてでこれなら上出来も上出来よ」
「けれど、わたしも生きているのがいいわ」
「――」
「なにが、いけなかったのかしら」
向けられる透き通った瞳に、しばらく、神綺は思案していたようだったが、やがてにっこりと笑い、アリスの耳に口を寄せてささやいた。
「それはね、アリスちゃん。あなたの人形には――――」
ごーん、ごーん、ごーん、ごーん、ごーん、ごーん。
それはさながら福音のように。
都合六度、主神の翼と同じ数だけ柱時計の鐘が響き渡る。
やがて残響が鳴りやむ頃、そっと神綺がアリスから身を離した。
その言葉を聞き取れたのかどうか、傍から見ていた夢子には分からない。けれど多分聞き取れなかったのではないかと夢子は思った。外形の上でのアリスの表情は、諾々と言うことを聞く人形のように、まるで変化が見られなかったから。
「お夕飯の時間だわ――夢子ちゃん」
「……はい。皆、食堂に揃っております。今日は、アリスの好きなクロカンブッシュを用意しました。元気になったお祝いです」
「ですって。良かったわね、アリスちゃん」
神綺は柔らかくアリスの頭を撫でた。
――それはまるで、自分で答えを見つけなさいというかのようで。
そうしてアリスははにかみながら、いつものように笑って見せた。
おそらくは、きっと、神綺が望んだそのとおりに。
◇◆◇◆◇◆
それから数日は同じような日々が続いた。最初の日と同じようにつきっきりで教える日もあれば、時折様子を見て一言二言、助言なのか励ましなのか判じづらいことを言って去っていくこともあった。夢子は神綺に付き従っているときにその様子を偶に目にするだけだったけれど、着実にアリスの技量が上達していることは伺い知れた。神様に与えられたこの瞳が、美しさの判断を誤ることはない。
アリスの人形は、確実に美しく、そしてそれだけではない何かを備えるようになっていった。
「夢子さん」
「――アリス、どうしたの?」
神綺への書類を持って廊下を歩いていると、アリスに呼び止められた。どこか落ち着かない様子のアリスは、ちょっと見てほしいものがあって――と、明瞭な物言いをする彼女らしくなく言葉を濁した。
夢子は新しく公布された魔界法案の書類に少し目を落としてから、いいわ、と安心させるように笑みを浮かべた。どんな場合であれ、神綺ならアリスを優先することを否定するはずがないと知っていたから。
手を引かれて連れられたのはアリスに割り当てられた部屋だった。
全体的に淡く甘やかな色合いを基調とした、メルヘンチックで御伽噺の御姫様のような部屋。神綺の嗜好をアリスが拒否しなかったことで成り立っているその部屋の一角は、アリスが人形造りに精を出し始めたことで、今や裁縫道具やフェルトといった人形の製作に必要なもので侵食されつつあった。
いくつか横たわるうちの一つを、そっと――まるで我が子でも抱き上げるように――抱え上げると、夢子の前に掲げて見せた。
「これは――私?」
「そうよ。お母さまをつくる前に夢子さんをつくろうと思ったの。夢子さんが大丈夫って言ってくれたら、きっとお母さまをつくっても大丈夫だと思うから」
それはどこか勝気な表情を浮かべた夢子の人形だった。
精緻であることは最早疑いようもなかったが、この間とは違い、そこにはただ単に技量が優れているというだけでは収まらないものがあるように感じられた。
アリスには自分がこんな風に見えているのか。
反発を抱くと同時に、確かにこれは私だとも思った。普段意識することなく、けれど確かに自身の本質である一部分を切り取って形にしたその姿は、夢子も予想だにしないほど強く、これは自身のうつし身だという実感を呼び起こした。
人形を通して、隠された自分の一面と唐突に向き合わされるような不思議な感覚に苛まれながらも、努めて平静に答える。
「――よくできているわ」
「本当?」
「ええ」
「良かった。そう言ってくれるなら安心だわ。夢子さんは優しいけど、こういうことで嘘はつかないもの……」
「ええ、本当に、よくできているわ」
重ねて告げると、アリスは安堵したように肩の力を抜いて、ほう、と詰めていた息を吐きだした。
「本当は怒られるんじゃないかって少しどきどきしていたの」
「怒るだなんて……何故?」
「こんなの私じゃないって」
はたかれたような衝撃を戒めて、夢子は表面上は柔らかく微笑んで見せる。
当人を模した人形を手の内で扱いかねるようにしながら、それでも創主として柔らかに抱くアリスは、以前とはまるで別人だった。人形作りは、確かにアリスの心に対してよい影響を与えただろう。しかし、単なる学習や技術の習得から外れたそれは、これまで神綺や姉妹たちの柔らかな愛に包まれていたアリスの心に、それだけではない何かを萌したようにも見えるのだった。
以前のアリスは、物静かで内心を推し量るのが難しい子ではあったが、神綺の言うことをよく聞き、他の姉妹とも緩やかな紐帯で結ばれている、つまりは夢子や他の被造物と似通った在り方をしていた。……あるいは努めてそうあるようにしていたのかもしれないが、少なくとも常の振る舞いからは、自身と同質なものに対する穏やかな親密さとでもいうべきものが感じられた。
けれど、人形作りを始めてから、夢子にはたまにアリスが分からなくなることがあった。
これまでも、魔法にせよ、それ以外の事柄にせよ、神綺や夢子が一度範を示しただけで、アリスは非凡な観察眼と卓抜した器用さでもってそれを習得してきた。ある意味では、神綺や夢子を上手に模倣し、追従するだけでいたのが、最近のアリスにはそれだけではない、何か、別の物を標榜しているように思える時がある。
――人形作りを教えたのは、あるいは間違いだったのかもしれない。
そんな考えが、夢子の頭を過る。
少しばかり情緒が発達しすぎているように、夢子には思えた。それも、被造物(つくりもの)の枠を越えかねない速さで。ひょっとしたら、神綺様が期待している以上にさえ。このままでは遠からず、神綺様の手を離れてしまうかもしれない。
少なくとも、自身の手からはもはや離れつつあることを夢子は認めないわけにはいかなかった。
腕の中の人形を見つめる、この深い色の眼差しもそうだ。
夢子の知らないアリスの姿。
ふと、疑念が湧いた。
あるいは危機感ともいうべき何かが。
この世界では、神綺様がいのちを吹き込んだこの世界では――創造主の企図しない、不都合な事態が起きてはならない。それは造られたものが守るべき第一の原則だ。神綺様のために魔界の秩序を保ち、神綺様の意にそぐわない事態を起こさせないために自分が存在しているのだということを夢子は自覚している。
――けれど、それならば、そうなる可能性が少しでもあると知りながら、それを許容することは創造主に対する許されざる背信なのではないか?
自らの手に負えなくなる可能性があるのであれば、今の内に不安要素は取り除いておくべきではないのか。咎められはするだろうが、神綺様はそれを許容するだろう。あの方は完成された秩序を好む一方で、そういう被造物の想定外の行動を何よりも尊重するところがある。思うに、外から手を出されるのは我慢ならなくとも、自らの手で造った被造物が何をしようと、それは自分がしたことと変わらないと考えているのだろう。例え被造物同士の間でどんなことが起きたとしても、神綺様はそれを喜ばしいこととして受け入れる。神綺様に唯一比肩する可能性を持つ彼女が失われることは損失には違いないが、それでも無限の時間を持つあの方ならばやがては同一の存在も生み出すことができるだろう。アリスが失われたことを嘆き、夢子が想定外の行動を起こしたことを寿ぐ。神綺様は、そういうお方だ。どうなったとしても、構わないのだ。ならば、今ここで――。
そこまで考えて、思わず苦笑する。
そんなもの、ただの嫉妬に過ぎない。
つまるところ、自分には無い可能性を与えられた他の姉妹を――アリスを羨んでいるだけなのだ。
「お母さま、喜んでくれるかしら」
「ええ、きっとお喜びになるわ――今のあなたを見たら」
夢子はそっとアリスの頭を撫でる。
神綺がアリスにそうしたように。
アリスが人形にそうするように。
上辺だけは、神様を真似して。
◇◆◇◆◇◆
次の日の夕方。談話室にはアリスと神綺、それから夢子だけがいた。いつかアリスが初めて人形作りを教わった場所だ。
アリスが人形を失くしてから、もう一月が経とうとしていた。
いつかと違い、他の姉妹たちの姿はなく、廊下は静まり返っている。部屋に差し込む柔らかな夕陽がカーテンをすり抜けて淡いセピア色に転じて、部屋は一様に朧げな色彩に染まっていた。その中央に、常とは違う布の掛けられた台座。夢子が想像していたよりも大きい。等身大とまでは言わないまでも、胸の高さくらいはあるだろうか。恐らくその布の下に神綺の似姿をした人形が鎮座しているのだろう。
今日はそのお披露目の日だ。
「私の人形を作ってくれたそうね」
「ええ、お母さま」
「私は、最初ので十分素敵だと思うのだけれど……」
「それじゃあ、私が納得できないの」
「……そう、あなたがそう思うのなら、仕方ないわね。うふふ、楽しみ。一体アリスちゃんはどんな風に私を作ってくれたのかしら」
くすくすと、本当に楽しそうに我らが神様は笑う。この方は、例えどんなものであっても喜ぶのだろうと夢子は思い、そして気づいた。あるいは、私は思い違いをしていたのかもしれない。神綺様は被造物が予想しない行動をとることを好むのではない。自らの予想の範疇に留まるか、逸脱するかに関わらず、私たちの為すこと全てが楽しくてたまらないのだ。
それは、アリスに限った話ではなく、おそらくは他のどの被造物に対しても――私に対しても、そうなのだろう。
そう自覚した時、夢子は自身の胸の内が俄かにざわめくのを感じた。
もし、特別なのはアリスだけでないのだとしたら。
私にも、神と被造物として以外の関係性が許されるのだとしたら。
アリスは、一歩台座へと近づく。
――もし、そうであるなら。
その手が音もなく伸ばされる。
私にとっての神綺様は――。
アリスはゆっくりと人形にかけていた白い布を外していく。
ゆっくり、ゆっくり。
そうして――人形が露わになる。
当人が企図しない姿を、対象の本質を、すっかり暴き象ったその似姿。
夢子が一度として見たことの無い神綺の姿。
その瞳を閉じて、死んだように穏やかな笑みを浮かべる神綺を見て、夢子は自身が自らの創造主に対して抱いている最も大きな感情は一体なんであるかを思い知らされた。
あるいは、そう在るように造られていることに気づかされた。
「そう、とっても上手に……本当に上手になったわね、アリスちゃん」
人形とそっくりな笑みを浮かべる神綺を、夢子は直視することができない。
「ねえ、アリスちゃん。あなたはそれを――“私”を作って、どう思った?」
「ええと、うまく言えないんだけど」
「ええ」
「私、思ったの」
「ええ」
「いつか、私も――おかあさまみたいになりたい」
「ふ――ふふふ、あっはっはっは!ええ、ええ!あなたなら、きっとなれるわアリスちゃん。だって私の娘なんですもの。あなたなら、きっとなれる。魔法を修めて、人形造りの腕を磨いて、自分の世界を創って、いつか命を造り上げて、そうして、そうして――」
――そうしていつか、私と同じことをするのね。
それはまるで、呪いのような言葉だった。そうであれと、そうなれと、彼女の未来を呪うような言葉。
アリスが柔らかな笑みを浮かべるのを見て、夢子は諦観と共に、これできっと彼女も神綺と同じ道を歩むのだろうと思った。
愛すべき妹は、やがて神様になるのだろう。
神綺様のような――おそろしい神様に。
自身が抱いた危機感など些末なもので、全ては神綺様の思う通りに物事は進んでいく。
そう、思っていたのに。
◆◇◆◇◆◇
アリスに呼ばれたのは、その数日後だった。
いつかのようにまた、見てほしいものがあるのだけど、と呼び止められた。
夢子は表面上はこれまで通りのにっこりとした笑顔を浮かべ、後の仕事を他の者に指図すると、アリスの部屋へと向かった。
これからは、神綺様の後継ぎとして接した方がいいのかしら、などと思いながらアリスに続いて部屋に足を踏み入れ、そして息を呑んだ。
アリスの部屋は、以前とは様変わりしていた。
以前のファンシーなお姫様然とした部屋は何処へやら。いつの間にか部屋の隅に据え付けられた作業机には設計図面と作りかけの手足、ぬいぐるみが並んでいた棚には完成品と思しき人形がいくつも並び、壁には人形の素体と思しき人型が吊られている。ベッドの傍に見慣れない白い花が飾られている以外は、さながら魔法使いの研究室のようだった。そしてひと際目を引くのが中央奥の壁にある、あの時と同じ、何かを覆う天蓋のような布。けれどそれは以前よりも明らかに大きかった。アリスの背丈以上ある。夢子はそれがアリスの言う、見せたいものなのだと直感し、何故か背が冷たくなるのを感じた。
背後で扉が閉まる。
平静を装い、夢子は尋ねる。
「サラに、ルイズに、これは――ユキとマイね。とても上手になったわ。……すっかり、人形作りが気に入ったみたいね」
「ええ、とっても」
「見せたいものって、これのことかしら?」
「ううん、違うの――ねえ、夢子さん」
「何?」
「夢子さんにとって、私は一体何なのかしら」
「……」
「私は、どんなふうに見えているのかしら」
「……そうね。魔術の優秀な弟子で、手先の器用なマナーの生徒で、将来有望なメイド秘儀の見習いで――愛する私たちの妹よ。少なくとも、私にとっては」
「それだけ?」
「え?」
「最近、夢子さんが私を見る目が変わったわ。私が気づいていることくらい、夢子さんならとっくに気づいていたはずよ」
「……。そして、今は神綺様の後継ぎ、候補でもあるわ」
候補、と付けたのは半ば意地のようなものだ。
夢子は、アリスに妹のままでいてほしいと思っている。
そう願うことが神綺の意図に反することは分かっている。いや、厳密には反するとまではいかないだろうが、神綺の楽しみの一つを奪うかもしれないことを承知でそう願っている。
神ではなく妹であれば、被造物の中で最も強い私が、いつまでも彼女を守っていられるから。
そうすれば、被造物の中で最強たる私の名のもとに、アリスの幸福は担保される。
「そう……それが、夢子さんにとっての私なのね。もし、夢子さんが私の人形を作ったなら、きっととても可愛らしいものになるわ。ねえ、夢子さん。私がやろうとしていることも、つまりはそういうことなのよ」
「どういう意味かしら」
「あのとき、お母さまに、お母さまみたいになりたいって言ったでしょう」
「ええ」
「あれは嘘よ」
「え?」
アリスは、夢見るように顔を綻ばせて続ける。
「――あのとき、お母さまは言ったわ。私の人形には“ごうまんさ”が足らないって。それでね、私考えたの。どうすればごうまんになれるのか……。ごうまんになるっていうのはきっと、ひとりきりになることなんだわ。相手の存在を認めないこと……かみさまになること。だからお母さまは、人形を作るのがあんなに上手なのね。つくること、こわすこと、思うままに造形し、操ること。お母さまは、私が神様に近づくと喜ぶでしょう。だから。だから、私がお母さまにとっての神様になってあげる。私が、お母さまをつくりなおしてあげるの。お母さまだけじゃないわ。魔界も、こことは違う世界も外の世界も、誰かが夢見た世界も、誰かが生きる世界も、うつつの世界も夢の世界も、全部全部ぜーんぶ、私が作るの。おかあさまよりおかあさまらしく。夢子さんより夢子さんらしく。――その対象の本質をつかむの!」
切なげに潤んだ瞳に、恋焦がれるように上気した頬。
きゅっと、祈るように胸元で両の手を握りしめたアリスは、その透き通った硝子の瞳に夢見る世界を映していた。
そこは主客の逆転した、すべてが代替物へと置換された世界。そこでは人形の方が本人よりもその人らしく在り続ける。人形は空虚で、そうであるが故に創り手が定めた個性は純化し、いつまでも変わることはない。
「――そうすればきっと、世界は、今よりももっと素敵になるわ。
そのために、まず私は私を――」
「つくり直すことにしたの」
白亜の布が、滑るような手つきで取り払われる。
それはアリスの人形だった。
今の彼女より幾分頭身が高く、自身の成長した――恐らくは、自らがそうあるべきと定めた――姿をしていた。すらりとした手足は、少女のしなやかさを備えていて、穏やかな微笑を湛えた顔は、中身が入っていないがためのものではなく、彼女がその身体を有していたなら同じような笑みを浮かべる様がありありと想像できた。
――思えば、もっと早くに気づくべきだったのだ。
神様と同じように被造物を造ることを覚えてしまえば、もはや神様への敬意を保てない。
夢子に組み込まれた規則に照らすまでもなく、それは自らを造り出した創造主への冒涜であり、魔界の民に、神の子たる存在に許されることではない。
夢子は胸を潰されるような思いで、”アリス”を見上げる。
閉じた瞼の内にある、赤裸々に対象を暴くその瞳。
膝の上に揃えられた、対象を偏執的なまでに忠実に象るその指先。
神の子として生まれ、後継ぎに見初められ、それでも妹だと思っていた彼女は、そんな自分さえも自らの手で造り替えてしまった。
ああ――あの子は。
姉に褒められ、はにかんで笑っていたあの子は、一体何処に行ってしまったのだろう。
親が我が子にそうするように、陶然と“アリス”に触れるアリスを見て、最早、夢子の愛した妹は何処にもいないのだと知った。
既にある被造物をより良い姿に造り直すことが、神の後継ぎであるということではない。
そんなものは、神様でもなんでもない。
そんなものは、ただの――。
「……人形遣いだわ」
そうして、アリスは神の子から人形遣いになった。
最終的には傍観を選んでいてその理由も読んでいて納得に足るものだったので
これ以降本格的に自分とアリスの間に埋まらない絶対の溝が出来ることを思うとなんとも切ないものを感じました。面白かったです。
面白かったです。
ここでゾクッとしました
物語の構成の仕方がとても綺麗で、モチーフを上手い具合に連想させる手法がすごい良かったなと思います。
技術を手に入れエゴを手に入れ、ついに自分すら塗り替えていったアリスが素晴らしかったです
神話の一節のようでした
本筋とはそこまで関係ない部分で、
”一瞬、私は神綺様にとって一体幾つめの人形なのだろうという疑問が夢子の頭を過ったが、口をつくことはなかった。”
これさらっと書いた上でそこは無駄に掘らず流すの書き方として強いなあと尊敬しました
お見事でした
短い文量で旧作世界を書き切っていて、勿論面白かったです
感動的な方向に行くのかと思いきや、不穏で怖い方向にサクッと着地したのが上手かったと思います
有難う御座いました