こういった事で素人判断を下すのもどうかと思われるが、どうも気鬱が悪化しているらしい。しまいにはアルバイトに出向くのも物憂くなってしまった。アルバイトというのは、人里にある茶屋の給仕で、業務内容じたいはそれほど難しいわけでもなく、就業時間だって週に二、三日ほど店内に身を置く程度だ。そうした接客業が向いていなかったとは思わないのだが、かといって適職でもなかったのだろうとも思う。とにかく無難に黙々と何事もほどほどに適度に元気にやっていたつもりではあるが、ある時、起き抜けの体を動かすのもだるくなってしまった。今朝は雨が降っていたようだから、その湿気のせいだろうか、もう出る時間になっても薄暗すぎる外の様子のせいだろうかとも、適当に理由をこじつけてみたくなる。そのまま、お布団にくるまって、あといくら、もういくらとぐずぐずしているうちに、外に出るべき頃合いになって、過ぎてしまって、それではこうして寝ている方がましな気になってきた時、布団がぽこぽこと膨らんで、その中から自分の声がした。
「朝だよ……」
「わかっとるわい」
自分の声、自分の顔には慣れているが、どうも目を合わす気にはなれない。そうしているうちに、布団の中の酸欠と各々の吐く息の熱さが耐え難いものになってきたらしい。酸素と涼しさを求めた彼女自身の頭が、ぼろぼろと布団の中からこぼれ落ちる。
部屋の床に八つの生首が転がり回った。
「すずしー」
「やばかったー」
「最後の方、ちょっと意識落ちかけたよね」
「なんで若干我慢大会みたいな雰囲気になったんだろうね」
「うわー」
「いったいどうしたのよ」
「おなか痛いの?」
生首はわいわいと自分たちで雑談を始めるが、それでもいくつかは、自分自身の、赤蛮奇の頭に語りかけていた。
「……バイトいきたくなーい!」
赤蛮奇は嘆いた。
こうした場合、赤蛮奇の意思決定プロセスは議会的かつ民主的なものとなる。わかりやすく言ってしまうと、複数の頭をつきあわせて善後策を協議するのだった。
「どうにかして仕事行けんのか」
「ムリ」
これによって取るべき方針は二つに絞られた。アルバイトを欠勤するか、それとも他の頭に仕事を任せて、どうにかしてうまくやってもらうか。なるべくは出勤する方向で考えていきたいというところで頭たちの意見は一致していて、前者の案は消極的な否決によって立ち消えた――ただ、後者の議論がうまくいかなければ、いつでも復活する可能性がある否決だ。
議論がうまくいかなくなる可能性はあった。今現在、赤蛮奇自身の肉体に対する主導権を得ている頭は、あくまでこの気鬱の症状を一時的なものと見ていた。
「お仕事は休んでもいいわけだし、お店だって大変だろうけど困ったりはしないわ……」
「家賃」
「水道光熱費」
「スマホ料金等の通信料」
すかさず、何人かの生首がぐさぐさと現実を突きつけてきた。
「……首が回らない!」
「物理的にはよく回るよ」
「やめなよ、気持ち悪くなっちゃうから」
「もう既に……」
「ともかく、なにかと入用なんだからさ」
「私たちはもう人生という止まれないレースを出走しているのよ」
「なんだかかっこいいふうに言ったけど、めちゃくちゃ情けないからね?」
ともあれ「この気鬱が一時的なものか、長期的になるのかもわからないのだから、とりあえずは一旦他に主導権を譲ってみてもいいのではないか」というところに話は進み始めた。
「あまり気が進まないんだけどなあ……だいたい、誰が代わりにバイトに行ってくれるのよ」
主権者の赤蛮奇の頭は、ふてくされたように言った。そこでその他八つの頭の主導権争いが起こって、結局はなにも決まらず、ひとまず今日は欠勤するというところに話が落ち着く事を期待したのだった。
「……私が行くよ」
床をごろごろしている生首の一つが、そうきっぱりと言って、他も別に異論を挟まなかった。結局「どれだけぐだぐだやったところで、時間が差し迫っているのだから」決断は早い方が良い、という事で議事は強行採決された。賛成八、反対〇、棄権一。この結果に従って、赤蛮奇の頭は主導権が交代した。
しとしと雨はまだ運河の水面をいくらか動揺させているが、もう止むだろうと思われる。流れに沿って植わっている柳並木も降るようにしだれているが、もうその先から雨粒を垂らすほどではない。その並木の一本の下にしゃがんでいる人影が、ただ一人あった。
「あめあめふれふれ……あぁ、やんじゃ……たぁ……」
完全な静止状態におちいった水面を眺めながら、多々良小傘はうたうのをやめるしかない。
「……今日なにしよっかなぁ」
明け方の雨のせいか、里の往来にも人通りは少なく、人々の活動もなんだかのろく感じる。誰かをおどろかせてみたところで、不機嫌な牛が腹立たしく鼻を鳴らすほどの反応ももらえそうにない。さすがに、こんな空気の感じで一人だけはしゃぐ気にはなれなかった。
知り合いとつるんでみようかとも思うが、折悪く、みんな忙しそうだった。今すぐつるんでくれる友人がいるかというと、ぱっと思いつかない。あの子は屋台を引いて夜仕事だし、あそこは晨朝のお勤めの後もなんやかんやある、里の外は暇していそうだが、遠い。この世界はそこまで悪いものではないが、生計も無いままに自由に生きてゆけるのかというと、そうでもない。せいぜい天職を見つけて、楽しんで働くがいいさ。
結局、小傘はこのあたりでぐだぐだと待ち続けているのであった――何を? ひょっとすると、誰かが拾ってくれるのを待っているのかもね。
「――おお、おはよ」
しゃがんでいる背中を軽くどやされて、小傘は「ひい」と声を上げてしまった。ブーツの足裏で背中を押された感じだったからだ。
「なにやってんのよ、小傘?」
「ん、おはよお……?」
小傘は首を振り向かせて相手の存在を認めながら、微妙な違和感をおぼえもした。赤蛮奇という子のこうした人をおどろかせるご挨拶はよくある事ではあったが、大抵はぼんやりと気がつかないうちに背後の間合いに入って「やあ」とか「なにしてんの?」など声をかけてくる事がせいぜいで、軽く小突くというような事はあまりやらない気がした。
まずもって、接触ということが苦手なような子だったのだ。その距離の置き方が、ろくろ首という種族的なものなのか(ありうる事だ)単に本人の性向なのか(ありうる事だ)、どちらともなんとも言えないが、赤蛮奇はそういう子だった。
「……なんだかご機嫌そうだね」
「そんなわけないじゃん。こんなウツウツとした雨が降っちゃってさ。――いや、でもこの感じだと、今日はお客さん少なそうね」
「バイトだったっけ」
「そ。今から飲食の接客。単純だけど覚えなきゃいけない事が多い」
「そっか。じゃあ私はこのへんで――」
「待ちなよ」
赤蛮奇は友人を呼び止めた。小傘はそういうところに違和感をおぼえる。
「さっき言ったでしょ。どうせ今日お客が少なそうなのよ。なんか食べてかない?」
小傘は、この日の赤蛮奇の、そういうところに違和感をおぼえる。
やがて、赤蛮奇が飲食のアルバイトを辞めたという話が小傘にも聞こえてきた。
「じゃあ今なにやってるの?」
と小傘が尋ねた相手は屋台の店主で、その夜雀は私が知るものかよという反応をしつつも結局は多少の情報を持っていて、
「女の子の髪や顔をいじって小遣い稼ぎしてるって」
「バイト辞める前から初めてたみたいよ。今後はそっち一本でやるんじゃない」
と、屋台の手伝いが冷酒とおつまみの煮こごりを出しながら教えてくれた。赤蛮奇は美容師の真似事をやっているらしい。
ミスティア・ローレライから聞いた住所をもとに長屋の一角に行ってみると、赤蛮奇は本当に(小傘自身、別に情報そのものを疑ったわけではないのだが)客を取って、美容師のような事をやっていた。
「――あ、屋台に置いてもらっていた割引のクーポン」
探るように倉庫のような土間の空間に入って、きょろきょろとする小傘の手元を見て、赤蛮奇は言った。
「ま、安くしとくわ」
「前のバイト辞めたんだってね」
「あんまり性に合わなかったからねえ」
と言うものの、もう長い事やっているアルバイトだったのではないか。
「この椅子なんかはどこから」
そう指摘しながら、理髪用座椅子に座る小傘。
「近所で廃業する人がいたから、用具一式、中古で安く譲ってもらっちゃった」
「ふーん」
「で、どんな頭にする?」
「うーん」
小傘は視線を宙に泳がせた。開店したばかりの店内は殺風景で、サンプルの一つも無いありさまだったが、どのみちどうという理想像があるわけでもない。
「……なんか適当に、いい感じのそういう感じがするような感じにしといて」
「おまかせってわけね」
結局、髪をいじられている間もたいした話はできず、終わった後も世間話をだらだら長引かせるという気にはなれなくて、小傘はさっさと店を出た。
何か変わっているかというと、間違いなく頭は軽くなっている――悪口ではなく、髪が減ったぶんだけ。
(まあ、なんか心機一転したかったのかもなあ)
と、近頃の赤蛮奇の変わりようにも、月並みだがありそうな結論をもってくる事しかできなかった。
「おー?」
すれ違った誰かが自分に向かって声をかけてきたような気がしたので往来の中で振り向くと、命蓮寺の門徒たちだ。小傘も知った顔だった。
「……あれ、なにやってんの? 檀家回り?」
「あー、まあ、似たようなものか」
と言いながら、そのうちの一人――雲居一輪が、人差し指を唇の前に持ってきて、ぴっと飲み屋街のある行き先を指し示した。チクりは無しよと釘を刺されたわけだ。
「……いいね」
「いいでしょ」
村紗水蜜がニヤリと笑いながら、一緒にどうよと身振りで示す。
「いいね」
なんだか共犯にさせられている気もするが、悪くない。ありがたくご相伴に預かる事とした。
「それにしても、一瞬小傘だとは思わなかったわ」
と酒場の檀家回りを始めながら、一輪と水蜜はぽつりと言った。
「普段、なんというか、野暮ったい頭してるからさ、あんた」
「なにそれ」
どうやら髪の事を褒められているらしいと気がつくのに、最初の酒を一口飲んで、その熱さが喉を通っていくまでの間があった。
赤蛮奇が新しく始めた仕事は、なんやかんやと評判が良いようだった。
「……もうちょい刈り上げるね」
「あんまりやりすぎると聖に怒られちゃうよ」
「怒られる事に関しては、いまさらじゃないの」
「普段は目立たない感じになるようにしておくわ」
幽谷響子の注文に対して答えながら、赤蛮奇ははた目ではそうとわからないほどの慎重さで、そのサイドの髪を刈り上げていく。響子の前髪はふんわりと持ち上げられて、綿あめのような繊細さでセットされている。
「ステージで暴れたら崩れちゃうかも」
と響子は危惧したが、それはそれでいいように調整してあるから、と赤蛮奇は説明した。その横から、ミスティアも一言添えてくれる。
「だいたいパンクミュージシャンなんて、粋がっているガキが最後には濡れた子犬みたいになっているのが一番クールでしょ」
「それもそうか?」
「なにより、響子ってそういうのぴったりだしね」
「なんでいま悪口言ったの?」
ひと通りの事が済んだ鳥獣伎楽の二人は、赤蛮奇の店から出ていった。髪だけは明るい昼下がりのうちにセットしておいて、後のメイクなどは、ステージが始まる直前、現地でやるという事になっていた。今夜は彼女たちのライブがあるのだ。
夕方、店じまいをして外に出ると、もうずいぶん暗くなりかけている。その里の暗がりに、赤蛮奇は細身の黒ジーンズと黒のポケット付きTシャツ(近所で、外来人がやっている古着屋で見繕って買った)という、余計にまっくらな風体で外出した。
「うわ。びっくりした」
雑踏にまぎれているうちに、そうして声をかけてきたのは例によって多々良小傘だった。
「――あぁ、小傘か」
「なんでそんなに黒いのよ」
あのお人好しな小傘が、珍しく憎まれ口らしきものを叩いてくるのは、他人を驚かすという、自分のお株を奪われたからに違いない。
「今からライブの裏方手伝いに行くのよ。だからこういう格好」
「ライブ……ああ、チョージューギガクの」
(こんなふうに、小傘がなんらかのこみいった固有名詞を発音する時、なんだか滑稽な空気があると感じるのは私だけでしょうか)
と、ふと思う赤蛮奇。
「ともかくそれでそんな格好なのはわかったけど、首だけ浮かんでいるみたいでこわいわ」
「怖がらせの参考になるでしょ?」
里外れのコンサート会場に行く途中、赤蛮奇は店じまい直前の花屋の前を通った時に立ち止まり、いくつか花を指定して、茎を長めに切ってもらい、何本かずつ買った。
「どーすんのよそれ」
「……悪くない」
ミスティアは楽屋の鏡――公衆便所のそれの方がまだぴかぴかに見える、薄ぼけた汚れ方をしている鏡を、苦労しながら覗き込み、髪に編み込まれた花々を確認しようとした。
「使う?」
赤蛮奇が横合いから手持ちの三面鏡を渡す。編み込まれた何本もの花の茎は、頭を複雑な電線の束でハードワイヤードしたようにのたうっていて、その立体感が花弁以上に重視されているようだった。
「……悪かないわ」
ミスティアは先ほどと大差のない感想を漏らす。
「あんまりお花畑すぎてもパンクらしくないから、花の色味には気を使ったつもりよ」
「ひとつ間違えばお花畑のヒッピーだもんね」
同じ鏡で、前髪の盛りを自分なりに調整している響子が言う、その三人の様子を、小傘は楽屋の隅で黙って眺めていた。
「それにしても今日はありがと」
赤蛮奇はバンドのお礼を受けて、小さく肩をすくめた。
「メイクを手伝ってあげるって売り込んで、ちゃんと仕事しただけよ。今後とも贔屓にしてくれたら嬉しいけど」
「ふむ。それにしてもこのお花、ほんと綺麗だわ」
「ちゃんとしたお花屋さんで買ったもの」
「……なにか演出にも使えそうね」
「客に投げ渡すとか?」
「私たちは演歌歌手やシャンソン歌手じゃあないのよ」
「じゃあステージ上で食べたら?」
ずっと沈黙していた小傘は、そこでようやく発言した。そして、軽口のつもりでそう提案したはずなのだが、実際にそうなった。
「うがごもも」
鳥獣伎楽のライブパフォーマンスが終わり、楽屋に戻った後も、響子は相変わらず口の中で花をもごもごもしゃもしゃやっている。ミスティアはタオルに化粧まじりの汗をべっとり滲みこませながら、相方に言った。
「あんた呑みこめないのならげーしちゃいなさいよ」
「くちのなかしびれてきは」
「ねえあの花大丈夫なの」
「そりゃ食べ物じゃないけど、花屋さんで買ったものなの、あんたも見てるでしょ。毒ではないはずよ、たぶん」
小傘が心配そうに尋ねて、赤蛮奇もまあ大丈夫でしょうという口吻で応じたのだが、その後がまずかった。明らかに響子の様子がおかしくなって、
「もっとこれほひい。もっとくわせろ」
「おいこれあかんやつちゃうのかあ」
そうした感じのぐだぐだしたやりとりを仲間内でやったりもしながら、場は楽屋から外へと流れ、人里の往来でわいわい騒ぎ立てる(むろんのこと、赤蛮奇や小傘以外にも、鳥獣伎楽の活動をサポートする子らはいたので)十数人の少女の徒党と化して、そのまま一軒目の酒場に乗り込んだ。
三世紀の危機が一刻で過ぎ去ったかのような時間が酒場で流れて、また別の居酒屋で同じような事が起こる。それを何度か繰り返した末に、小傘と赤蛮奇はやっといつ終わるとも知れない地獄のように浮ついた時間から脱する事ができて、べこべこに酔っぱらった状態で長屋までずるずる歩いた。
「……なんであんた最後まで付き合っていたのよ?」
「しらなーい」
と答えながら、小傘の頭と視界では、赤蛮奇の耳元にかかっているスターリングシルバーの輝きが、重なったりぶれたりしながら漂っている。
そうした工業地帯のようなインダストリアルなピアスが、赤蛮奇の耳元にごろごろとついている事に気がついたのは、鳥獣伎楽の演奏中、ステージに駆け上がって乱入してきた観客を追い返す一幕の中でだ。
そもそもこのバンドのステージは近頃ますます過激化の一途をたどっていて、響子がマイク用のシールドケーブルを鞭のようにうならせて、最前列の観客をぴしりぴしりと打ちすえる中に、小傘たちはセキュリティ要員として乱入しなければならなかったのだが、小傘はその、最大慣性ですっ飛んできたケーブルの端を、鼻の下と上顎の歯茎の間にもろに喰らってしまって、演奏中のステージの上で悶絶する羽目になった。これでは乱入してきた観客となにも変わらない。
(こんなの、目にでも当たったら大変な事になっちゃうよ)
小傘は痛みの中で失明の危険について思いながら(彼女は片目の視力がきわめて弱い)、赤蛮奇に乱暴に引き立たされた。
「大丈夫?」
と言いながら、彼女が素早く対応に戻って、真っ赤なショートボブがまくれ上がったその頭のサイドが、すっきり刈り上げられている事に小傘は気がついた。耳元には大量のピアスがぶら下がっている。耳たぶにも大ぶりなハトメを留めたかのようなホール。それよりも気になったのは、後ろ髪の茂みからちょろりと顔を出しているイモリのタトゥーだった。
そういったものに、小傘は少しぎくりとしたものの、その時はそれどころではなかった。興奮した観客をステージ下に押し込んで――もちろん身一つで押し返さなければいけないわけで、暴力は使わなかった――、そのままセキュリティ要員として、さんざん興奮した罵声や、唾や、使用済みタンポンなどを顔面に受けた。鳥獣伎楽のステージは回を重ねるごとに過激化していっている。
「こおいう趣味だったのね」
と小傘が言ったのは、もう今日はうちに泊まって寝ていきなよと赤蛮奇に提案されてそのようになって、二人倒れるように長屋のあがり口に体を横たえた時だった。
「……あぁ? ああ、これ?」
と、赤蛮奇はあっちを向いて、がさっと後ろ毛をかき上げて、その下の剃り込んだ部分に棲息するイモリを見せてくれる。髪をおろしてしまうと完全に見えなくなるタトゥーやピアスを見せて、赤蛮奇はちょっと照れくさそうだった。
「あんた、こういうの苦手そう」
「……ううん、まあ、自分でやるのはないなと思うけど、人の事はとやかく言わないよ」
小傘は横になったままそう答え、イモリの腹がとくとくと脈打ち、時折口から舌をちろちろ出すのを、いつまでも眺めている。ただのタトゥーではなく、なにか動くような魔法がかかっているらしい。
「……昔からこういうのやりたかったんだけどさ、前のバイト先でやると、お客さんに怖がられちゃうじゃん」
そっぽを向きながらぼそぼそと言ったので、小傘にその説明は聞こえず、ひとりごとのようになったが、なぜかなんとなく会話が成立したふうの空気になる。
「じゃあ美容師ならいいのかっていうと、それも変な気はするけどね。でも、ああいう仕事の方がやっぱりファッションの情報は耳に入りやすいわけ。こないだだって――」
「別にダメだとは思わないよ……」
小傘はそれだけ言って、寝息を立てはじめた。家主の赤蛮奇は、こんな場所で友人に寝られても困るので、酔っぱらった体をなんとか起こして、彼女を自分の寝床まで引っ張っていってやった。
「え、なに、誰か連れ込んでるの……」
「小傘よ。酔っぱらっちゃったんだからしょうがないじゃん。まあ寝かしておいてやって」
ひとりごとのように赤蛮奇は呟いた――事実、ひとりごとではあった。別の八つの頭たちではあったが、彼女たちもまた赤蛮奇だったから。
「今日どうだった?」
「えーと、そうね。今日の活動報告からした方がいいんでしょうね」
「不測の事態を防ぐためにもね」
いずれかの頭がそう言った時、体に対して主権を有する頭は、ちょっと目を細めながら、本日の仕事での売り上げや、その他の活動に関して報告した。こんな煩瑣な報告会は、今までなかった。これ以上の勝手をされるのを他の頭たちが警戒しているのは明らかだった。
「それで、小傘が一緒に帰ってきたわけ――こんなところで本日の報告はいいかしら?」
「うん」
「いいんじゃない?」
「議論を再開しましょう」
発議は数日前、以前の体の持ち主であった頭(以下、頭:甲とする)が、現在の体の持ち主である頭(以下、頭:乙とする)を弾劾したところから始まる(他にも七つの頭があるが、それらを丙・丁……といったふうに殊更区別する必要性はなく、あくまでこの甲乙ふたつの頭を軸として今後も問題が展開していく)。
議論の発端は、今となっては議事録にもできない雑談の中で、前後の話題の流れなどもありながらそうした話になった。それらの煩瑣なやりとりを完全に修復する事は不可能だが、たとえ修復したところで本当らしい会話になるとは思えない。頭:甲が行った質問、またそれに答えた頭:乙の答弁は、大意で以下の通りだった。
頭:甲「ところでそのタトゥー、なんなん?」
頭:乙「……ご心配なく。首から下には彫ってもらっていないわ」
答えになっているともいえない答弁に、九つの頭はたちまちそれぞれの意見を勝手に述べ始め、そのまま会議の招集へとなだれこんだ。議論の要旨を整理すると以下の通りになる。
・ピアスやタトゥーは個々の頭の自由に委ねられるべきか、またその場合は頭から下の肉体に関してはどのように解釈すべきか。
「原則としては首から上は個々人の自由で、首から下に関しては、私たち九つの頭の共有物であるという意識を持っておけばいいんじゃない?」
「意見そのものは反対しないけど、それは本当に原則としての話にすぎないわね。間違いや誤解、解釈の拡大が起こる可能性はある」
「首から上は個人の自由と言ったって、そうした頭は、結局、共同体としての私からは脱しきれないものでもあるでしょ。……たとえば、顔面にいかついピアスやタトゥーを入れて、眉を全剃りなんかした私でない私が私と思われるの、率直に言って嫌だわ」
「そうなると今回すらも問題のある行為だという事にならない? 既に耳元もけっこういかつい事になっているし」
「首から上にも一定の制限は必要でしょう」
「外面さえ変わっていなければ問題ないという意見も、いかがかと思われるわ。人間、普通見えないところをめちゃくちゃにされる事もあるもの」
「そうなのよね……たとえば、個々の頭が勝手に体を使って、恋人とか愛人を作ったりするのは許されるのかしら。これだって外見は変わらないかもしれないけれど、えらく勝手をされている事にならない?」
「……色々な問題が別のところに及びそうだけど、とりあえずピアスとタトゥーの話だけにしようよ、ここは」
こういった流れで、それぞれの意見を一度取りまとめてみようという事になって、その結果は面白いくらいに割れてしまった。
「タトゥーもピアスも完全に否認」
「タトゥーもピアスも無制限に容認」
「ピアスは容認するがタトゥーは否認」
「タトゥーは容認するがピアスは否認」
「一定数までのピアスは認めるが制限を求める。タトゥーは容認」
「一定数までのピアスは認めるが制限を求める。タトゥーは否認」
「一定数までのタトゥーは認めるが制限を求める。ピアスは容認」
「一定数までのタトゥーは認めるが制限を求める。ピアスは否認」
「タトゥー・ピアスのどちらも認めるが一定の制限を求める」
ここで会議は一時的な休会になったが、その後突破口となる提案を行ったのは頭:甲だった。
「まず前提として、ピアスの問題とタトゥーの問題とは、その表面的な様相が似ているだけであって本来別問題でしょ。ということは、ピアスの容認/否認と、タトゥーの容認/否認という、別々の議論として行われるべきよ」
「そうなると、結果的に頭全体の意見の過半数を得るのは、ある程度は認めつつもある程度は制限した方が良いという、折衷的な意見になるでしょうね」
しかし、毎夜続く議論の中で、いつしか折衷派の意見は“一定の容認がされる”ではなく“一定の制限を設ける”方向性が強調された、消極的姿勢に転換させられていた。
「……難しいわね」
と、当夜の頭:乙(タトゥーもピアスも無制限に容認)は自分の頭を掻きながら呟いた。
こうした流れになる事を、予想できなかったわけではない。むしろ全体の意見を聞いていれば、首から下の肉体は個々の頭の自分勝手に侵されるべからずという原則こそが支配的で、だから折衷派の意見も積極的な賛成ではなく、消極的な制限や規制を求める方向に結局は流れていく事も、最初からなんとなくわかってはいた。その気持ちもわかる。
(しかし)
とも彼女は思うのだ。
(たしかに、私は私の体に、ピアスやタトゥーなど、取り返しのつかない事をやりたがっている――この野心は他の頭たちには表明していない――が、先に体を支配していた頭が、同じように取り返しのつかない事を肉体に――それだけでなく赤蛮奇全体に対して、やっていなかったと、誰が言いきれるのかしら)
事実、体を引き継いだ後、頭:乙は、以前の――頭:甲の、だらしない生活態度、消極的な世間との関わり方、姿勢の悪さ、野暮ったいショートボブなどに疑問を持ち始めていた。
(これこそ私をとりかえしのつかない体にしていっている事柄たちじゃないかしら?)
とさえ思うのだ。
だから彼女は以前のアルバイトを辞めたし、かねてからなんとなく興味があった、美容師の真似事をし始めた。その練習がてら、他の頭たちが求めれば、好きなように髪をカットしてやったり、パーマをかけてやった。今となってはそれをしてもらっていない方が少数派だ。彼女は彼女なりの趣味と方法で赤蛮奇を新たにしたかっただけだ。
様々に言いたいことが頭の中でぐるぐるしていたが、頭:乙からしてみれば、色々難しくしている張本人でしかない頭:甲(タトゥーもピアスも完全に否認)が、図々しくも寄り添うように言った。
「……まあ、色々難しいんだよ」
「はあ?」
思わず言葉強く応じてしまう。相手も思わぬ剣幕に一瞬びくりとしたものの、屈する事はなかった。
「……あんた、ちょっとは頭を冷やした方がいいよ」
その相手の言葉と、周囲の様子を窺うに、なぜか自分の不信任にまで話が広がろうとしている事に、彼女はようやく気がついた。
翌朝になっても、多々良小傘は二日酔いの悪夢から脱しきれていなかった。身を起こした時もなんだかよくない夢が続いているような気がして、枕元に生首がごろごろしているのを見てもさほど驚くことはなかった。
「……ああ、そうか。酔っぱらっちゃって、私」
「はよ起きろ」
ぽつりとした呟きも許されないほどにぶっきらぼうな声がかけられた。
「まったく、酔っぱらって連れ込まれでそのまま放っておかれているのに、相変わらずのんきだわねあんたときたら」
「え、ちょ、え、え、」
小傘が戸惑ったのは、赤蛮奇の頭が、半分起き上がった状態の小傘の体の上を毬のように跳ねて、ふとももから腹、胸へと駆け上がってきたからだった。
「小傘」
と目鼻を突き合わせた距離で、赤蛮奇の頭は止まった。
「お願い。私と一緒に、私の体を取り返して」
「え?」
……と、小傘はふと思い当たるものがあったのか、自分の手を差し上げると、相手のおかっぱ頭の野暮ったいサイドを指先でかき上げた。その耳には一つのピアスもついていないし、首元を見てみても、昨晩見たはずのイモリのタトゥーなどは彫られていなかった。
「……あーっ!」
「ちょっと私の調子が良くなかった事があって、他の子に体の主導権を与えていたのよ」
今までのあらましを赤蛮奇は説明した。小傘は二日酔いの頭なりにそれを聞いた。ありがたい事にそこまでこみいった話ではなかった。つい最近、赤蛮奇に対して覚えていた違和感の理由もわかった。
「――で、昨晩はあいつを詰めすぎた。はっきり言って、ちょっとへこませてやろうという気持ちが私にあったのも確かよ。でも朝になって、あいつは体と一緒にぷいっと……」
「ただの外出かもしれないわ」
説明に横やりが入って、小傘ははっと奥の方に目を向けた。赤蛮奇の七つの頭が、じいっとそこから視線を向けていた。
「その子が言うほど状況が切迫しているとは考えづらい、というのが私たちの総意です」
「……結局、あいつら自分の体がどんなになろうが、なんでもいいんだよ。自分が体の持ち主だと自覚した事なんて、ほとんどない子たちだからね」
赤蛮奇の頭がぼやくのを胸元に抱きながら、小傘は「黙って」と耳元で囁きながら、人里の路地に身をひそめていた。
「私のひとり相撲なのもわかっているのよ、ふん」
「まあ、気持ちはわかるよ。うん」
ふてくされる赤蛮奇の首を、小傘は慰めるしかなかった。
「色々難しいのよ」
ともかく、小傘たちは赤蛮奇の胴付きを探さなければならない。しかし、さっきのように往来で生首を抱えながら「あの……この子の体、知りませんか?」と尋ねるのは、まずい。――いや、小傘の腹は多少満たされるものがあったが。それでもまずさしかない。ちょっとした騒ぎになって、慌ててそのあたりの路地に逃げ込む羽目になってしまった。
「もっとうまい方法を考えなきゃ……」
「ああ、知ってたよ。(急になにやってんのこいつ)と思ったくらい」
「いやまあちょっとやってみたかったというかあ……」
赤蛮奇は嘆息した。
「……事が事だから、あんたの事、ちょっとは頼りにしてるのよ?」
「え、どゆこと?」
「あんた、鍛冶仕事でそういう彫り師んところにも出入りしてて、懇意にしてるでしょ」
小傘が野良鍛冶をやっていて評判も良い事は、つとに知られていた。
「あぁ、なるほど」
「ね。だからあんたの知り合いを辿れば目ぼしい彫り師はだいたい押さえられるんじゃないかというのが、私の考え」
(ちゃんと考えているのね)
と感心する小傘だった。
「じゃあそういう方針でいこうか――いや、待てよ」
歩きかけて、立ち止まって、ひとりごとのように思い直した。小傘の頭に浮かんだのは、イモリのタトゥーの、ちろちろとした舌の動きや、心臓のとくとくとした脈動だ。
「私の知り合い、あんな刺青彫れないよ」
実際、人里内で思い浮かぶ二、三の彫り師のところを訪ねて(そしてひどく気味悪がられもしながら)赤蛮奇の事を尋ねてみたものの、はかばかしい結果は得られなかった。
「出足をくじかれたわね」
しかし、タトゥーに魔法のようなものがかけられているのなら、それはそれで探しようがあるのではないかというのが、とりあえず二人の共通した見解でもあった。
「魔法といえばなにはともあれ魔理沙よ。少なくとも顔は広いし、ああいう彫り物をやってる人の事、ちょっとは知ってるかも」
「というかそれくらいしか魔法使いの知り合いおりませんからね我々」
赤蛮奇の生首をかかえて、小傘はなるべく目立たぬように人里をこそこそと横切る。その途中で、彼女の美容室にも寄ってみたが、店が閉まっている事を確認しただけだった。
時折、妖怪の知り合いに出会ったら、情報提供を求める事もしている。赤蛮奇本人は「あまり(文字通り)身内のごたごたを言い広めるような事はされたくないな……」と不満そうだったが、小傘を止める事もできない。そうした微妙な感情もあったので、人里外れのお寺で封獣ぬえに会って「なんかそういう感じの子を見かけたら教えてよ」とお願いした時の、相手の鼻で笑うような反応は少し気にさわったようだった。
「ふーん。ピアスとかタトゥーとか、ぴんとこない話だけど、無個性も無個性なりに苦労しているのね」と、あのどうしようもなく個性的な赤青の翼をぴこぴこと痙攣させながら、ぬえは言ったのだった。
「……まあ、元があれほど個性的だったら、そういうものも必要ないわな」
「私は、あなたの事とんでもなく個性的な子だと思うけどね?」
ぬえと別れた後で赤蛮奇がぶつくさ言うので、小傘はぽつんとフォローにもなっていないフォローを入れておいた。
“なんかします”と書かれた看板を横に通り抜けて、小傘と赤蛮奇は霧雨魔法店の扉の前に立った。扉には一応“不在”の札がかかっていたものの、その札も埃をかぶって薄汚れていて、もう何か月もひっくり返された形跡がない。
「……あ、でもなんか中にいる雰囲気あるわ」
「覗きに便利だよねその頭」
赤蛮奇がふよふよと浮かびながら窓枠から中を窺って教えてくれたので、小傘は店内に声をかけた。
「こんちゃーっす……霧雨、魔理沙さんは、おられますかあ?」
「おー、いるいる」
「この子の体、知りませんか?」
「お前ついにからかさお化けを廃業したのか?」
……結論から言えば、魔理沙は赤蛮奇の体の行方に、多少の心当たりがあった。
「あいつが美容師始めたって噂を聞いて、髪を切ってもらった時、そういう話になったんだ。もうそこそこ前だよ」
と、ふわふわした毛質の金髪をいじりながら言った。
「タトゥーを入れたいって言ってたわ、そういえば。……で、まあ、ちょうど、最近そういう、皮膚への着色技術の研究をしているやつがいた事を思い出したんだよ。そいつ、勉強のついでって事で実験台を探していたというか……」
「あずかり知らぬところで人体実験のタマにされるの、あまり気分が良くないよね」
「特殊な事情なんだろうけど同情するよ」
「……で、誰を紹介したの?」
「アリス。アリス・マーガトロイド」
アリスの家に迷い込むには、来た道を引き返しつつ、片目を隠しながら行くと見つけやすくなる、と魔理沙はアドバイスしてくれた。
「まあ別に隠さなくても行けるんだけどな。フィーリングの問題よ」
など魔理沙は更なる胡乱な言説を弄していたが、嘘はついていなかったらしい。小傘たちはほどなくしてアリスの家に行き着き、とんとんとんとその扉を叩いた。
「いらっしゃい。待っていたわ――って、あら」
と家主が出てきたので、小傘も赤蛮奇も訝しげな表情になった。しかしアリスの方が、よっぽど訝しげな表情になる権利を有している。実際そういう表情になった。
「……生首もって人んちの前に立っているの、趣味がよくないわよ」
(特に言い返せる要素ないよね)と素直に思う小傘と赤蛮奇だったが、アリスはとりあえず、この奇妙な一人と一頭を家へと入れてくれて、かねてから用意されていたものらしかったが、お茶まで出してくれた。
「でもその生首さん、見覚えがあるわ。どういう用事かしら?」
「問題はそこなのよ」
と、赤蛮奇は手短に事情をアリスに話した。
「――さっきの感じ、来客を待っていたんでしょ。もしかしたら、それ……」
「あいにくと、今日の予定はあなたの体を持ったあなた相手ではないのよ。その施術はもう終わっていて、追加の依頼があったわけでもない」
「……じゃあ、私の心配しすぎだったわけかな?」
そうした会話を、赤蛮奇がアリスとやっている間、小傘は準備されている施術道具の針や顔料などをのんびりと眺めて、ついで見本帳のようなものを見つけて、勝手に開かせてもらう。見本帳には、一辺が十センチほどの不透明な膜が貼りつけられていて、それぞれさまざまな意匠が彫り込まれている図柄が、周期的なアニメーションを描いている。
「その動くタトゥーの仕掛け自体は、皮膚の中に多重に色を載せて、レイヤー構造をアニメーテッドに遷移させているだけ。とても単純な仕組み」
小傘の興味に気がついたアリスが説明してくれた。
「もともと、人造皮膚の研究ついでで、この着色技術を見つけたの。だから私自身は別にタトゥーそのものに関心があるわけではないのよ――デザインやパターンは興味深いと思うけれどもね。それに彫り師さんって自分の体で練習するらしいけど、私はそういうのもまっぴらごめんだし」
「私もごめんだね」
「まあ……私も職人さんのために針を鍛えて卸す事はあるけど、別に……」
特に興味のない三者が、特に興味のない事柄について話す羽目になっているのも不思議だった。
そうした話をしながら、小傘が熱い紅茶にふうふうと息を吹きかけて冷めるのも待たず、アリスの本来の来客がやってきたようだった。
「……あー、ごめんなさい。ちょっと見学の方々がいるんだけど、いいかしら?」
家の戸口で少々ごたつく様子があったので、小傘と赤蛮奇はさっさと家を辞去しようとして、
「あのぉ、自分らこのへんでおいとまさせてもらっていいんで……」
と、姿勢を低くして、くぐるように玄関を出ていこうとしたのだが、生首を抱えた少女に急に出てこられても、来客の方が困る。きゃっと小さな叫び声が上がった。
「……やっぱり、なにもなかったのかしら」
森のはずれまでやってくると、木立の屋根がいっそう薄く、日が差してくるくらいの明るさになった。
「どうなんだろう……でも、施術は一通り終わったって言っていたから、それ以上の予定はないんだろうね」
「結局、私が気にしすぎだったって話か」
赤蛮奇は口元をへの字に曲げつつ、不機嫌そうに言った。
「悪い事しちゃったのかもな、あの子に」
「仲直りしなきゃいけないかもね」
と言いながら、小傘たちは人里の雑踏に戻っていて、ちょうど花屋の横を通った。
「……こういう時って、どうなのかな。お花でも買った方がいいのかな」
「食べられるお花にした方がいいと思うよ」
「なんじゃそりゃ」
しかし、赤蛮奇の家に戻ってみても、その体はまだ帰ってきておらず、他の七つの頭たちは、お互いの鼻の頭や毛先の当たる頬のあたりが痒くなってきたのを擦りあわせたりしながら、帰りを待ちわびていた。
赤蛮奇が「売り上げや仕事道具等は、毎日持ち帰っていたみたいだから」と言った通りに、長屋の一角にある職場の方は、たいした鍵もかけていない。住人の目がないわけでもなかったが、客の出入りのふりをしていれば怪しまれる事もない。
「最初からこうしていればよかったのかもね」
「でも、これってどうなの、別の頭に許可をもらっていても、空き巣になるのかなぁ?」
「知らないよ」
店内はやはり無人で、体を持った赤蛮奇は、どこかへと消えてしまっていた。
彼女たちは店内を見まわす。倉庫を改装したような土間に、専用の座椅子が一つというのは、小傘が以前に髪を切ってもらっていた頃の通りだが、他には色々と彩りが増えている。観葉植物や花といったものだけではなく(花瓶は日ごとに入れ替えているらしく、今はからだった)、待合のソファ、雑誌の入った本棚、地域のフリーペーパーや文芸同人、ファンジン等を収納したラックスペース、日雇い仕事を始めとした近所の求人広告を張りつけたコルクボード、ボールガムの自動販売機などが目に入る。
「……まあ、意見は合わなかったけれど、真面目にやっていこうとしていたのは伝わるわ」
「でも今はお店にいない。家にも戻っていない。彼女はどこに用事があるのかな」
「ただ買い物をしてぶらついてるのかもしれないじゃん。こっちだってそれをダメだというほど狭い料簡じゃあないわ」
「でも、いろんな子に見かけたら教えてって言い回ったじゃん。それでひとつも話が入ってこないなら、やっぱり人里にはいなさそう……」
赤蛮奇の意見を小傘は聞き置いておきつつ、店の奥まったところに簡素な机と椅子がある、事務スペースらしき場所に近寄った。事務スペースといっても、帳簿や判子のたぐいはもちろん持ち帰られていて、消耗品の筆記用具やカレンダーくらいしか残っていない。
「……なにか予定が入っていたみたい」
小傘はカレンダーに残されている詳細不明の記号――手早く確認してみたが、他の日付にはない記号――から、机の上に残されていた求人広告に目を移す。店内のコルクボードにも同様のものが貼られていたが、わざわざこれを机の上に置いていた理由は明らかだと思われる。
「……さっき会ったよね、この人」
広告に記された人事担当の名前を見て、赤蛮奇は言った。
とんだ二度手間だと思いながら魔法の森に戻りつつ、また多少手間取りながらアリスの家を再訪する羽目になった小傘と赤蛮奇は、問題なくその人をつかまえる事ができた。
(不思議なものよね、本当に探している当人はどうにもつかまらないのに、その他の事は運が良い)
「――そう。その面接のおかげで、予定の時間を少々遅れたのよね」
堀川雷鼓は施術の席を外しながら言った。
「別にツレが入れてもらうだけだから、私要らないんだけどね。あいつが“一緒に来てください”ってせがむからさ。お嬢様なんだよ。私と同じものを入れたいと言ってるんだけど、怖がってもいる。じゃあやらなきゃいいのに」
「……それで、えーと、この求人だけど」
苦笑いまじりののろけをいい感じのところで遮って尋ねてみると、雷鼓は即座に答えてくれた。
「プリズムリバー楽団ならびに私は、現在、長期のコンサートツアーを計画していて、それに帯同してくれるサポートスタッフを募集しております」
「長期ツアー? 畜生界への?」
「ええ。その広告に書いてあるとおりの」
「私も面接に来たんでしょ……面接内容や結果を教えてもらえる?」
赤蛮奇が少し考えた末に尋ねると、雷鼓はほほえむ。
「原則として守秘義務はないけれど、良識の範囲内という事になるわね。……でもまあ、彼女の体はあなたの体でもあって、彼女の問題はあなたの問題でもあるらしい」
ひとつ引っかかる出来事があった、と雷鼓は続けた。
「先日、私が彼女の評判を聞いて美容院に行ってみた時点で、ほぼ話は決まっていたのよね。だから今日の面接なんかも形ばかりの雑談だった……んだけど」
「んだけど?」
「あの子、今日はちょっと焦っているみたいだった。“採用不採用さえわかれば、畜生界に早入りしたい”って言い出したんだ。まだツアーの開始は半月も先だよ? そりゃあ私たちにとっても、大掛かりな公演。向こうにあるデカいハコを確保したりするだけでも何か月越しのプロジェクトになってるから、あっちとこっちを出ずっぱりで往復しているスタッフだっている。だからってメイクやヘアドレッサーさんがわざわざ早入りする意味もないわけだろ」
小傘と赤蛮奇は、もう弾かれたように動き出したかったが、同時に雷鼓の話をじっと聞いてしまってもいた。完全に相手のテンポに呑まれていたのだ。雷鼓自身、こういう場の空気を支配してしまう自分の悪癖を知っていたので、またも苦笑いしながら、彼女たちに動くきっかけを与えてやった。
「……事情はよくわかんないけど、その子に畜生界に入られたら、なにかと面倒くさいんじゃないの?」
小傘は赤蛮奇の首を抱えて、アリスの家を飛び出していった。
赤蛮奇の頭:甲は畜生界に直行できない。まずは自分の家に戻り、他の七つの頭を交えた緊急の議会を招集する必要があった。
出席八、欠席一、ならびに証人として多々良小傘を召喚。手早く述べられた論旨は以下の通り。
・頭:乙は他の頭たちに無断で畜生界入りを企てている。そこから先の彼女のプランは不明だが、これ以上彼女の好きにさせるのは危険だ。
直後にひっくり返ったような紛糾が沸き起こったが、直後に多々良小傘の証言が入った。彼女の弁はぎこちなく、とても感情に訴えかけるようなものでもなかったが、疑惑を固めるにはじゅうぶんだった。
「なにがあるにせよ、一度は身柄を留めて、問いただす必要がある」
誰を遣わせて問いただすか。
「……私と、小傘でいい?」
採決が行われた。賛成八、反対〇、棄権一(欠席)。頭:甲は赤蛮奇の九つの頭の首長としての立場を奪還した。
「それでは実際的な問題にとりかかりましょう」
実際的な問題とは、主権交代にともなって簒奪者に認定された赤蛮奇に、小傘たちが追いつけるか、どうか。
「面接はプリズムリバー邸で行われたらしいけど、そこから畜生界入りするルートはいくつあるかな」
「基本的に、彼岸を経由して地獄入りするとか、どんなルートでも時間はさして変わんないよ」
「湖をよけて、妖怪の山あたりでなんやかんやしなきゃいけないよね」
「そういえば、湖といえば姫ちゃんがいるけど、彼女に手伝ってもらって、沢を遡上して境界越えするような可能性は?」
「使えるとなれば使うだろうけど、どうかな。沢のあたりはトラブル多そうだし」
「そこなんだけどさ、たぶんあの子はあまり事を荒立てないように動くんじゃないかな」
「そうだね。そこでごたごたを起こして、時間を食われても馬鹿馬鹿しいし……だから、多少のんびりしていても堅実なルートを選ぶと思う」
「……という事は、よ」
赤蛮奇の頭は囁くように言った。
「こっちが問題しかない地域を問題しかないルートでぶっちぎれば、越境する前に確保できるんじゃない?」
「――畜生界への旅行の目的は?」
「仕事」
関所の係官の問いかけに赤蛮奇は答えて、堀川雷鼓に渡されていたスタッフパスを相手に見せびらかした。
「これの関係」
「ああ、なるほど」
係官の庭渡久侘歌も、得心いったように頷いた。是非曲直庁側でも、プリズムリバーウィズHの畜生界コンサートツアーの事は把握している。むしろ積極的な協賛まで表明していて、一つの文化事業として支援しているふしもあった。
「おかげであっちこっちの往来も増えちゃってぇ」
と雑談しながら、久侘歌は相手を値踏みする時間を作る。
「――やっぱり、向こう側との折衝かなにかの仕事ですかね?」
「……スタイリストよ」
赤蛮奇は少し考えた末に素直に答えて、自分の髪をわしゃわしゃと持ち上げた。耳元の大仰なピアスが目につく。
「髪なんかいじる人」
「なるほど」
久侘歌は書類になにごとか書き留めるふりをしながら、そんな人がわざわざ早入りする必要があるのかな、とも思った。
「……普段のお仕事も、ヘアスタイリングというか、そんなような事を?」
「つい最近始めたばかりなんだけどね。まあ思ったよりも簡単にお店が持てちゃって、とんとん拍子なのよ。おかげさまで評判も良くって」
「でも、そちらの、店舗の仕事はしばらくおやすみという事ですね。わざわざ半月ほどもこちらに早入りして……」
疑いの目を向けている事を、久侘歌は徐々に明らかにする。
「私も仕事なので」
と、なるべくやわらかに言った。赤蛮奇がその意味を考えて、口をつぐんでしまった時間は、数秒ほどの間にすぎなかっただろう。
「実を言うと、普段はここまで厳しくないんですよ、この関所」
「噂に聞いたのとは違うと思ってた」
「イベントをやるのは別にいいんです。それであっちとこっちの出入りが活発になるのもしょうがないでしょう。でも、だからこそ規制を強めていかないといけない事もあります」
「……早入りする理由に仕事以外もあるのは確かよ」
「ほう」
「でも、べつに法に触れるような事じゃないわ。ちょっとハメを外してみたくなっただけというか――」
赤蛮奇は、言いかけて言葉を切った。目の前の関所の番人に、そこまで話してやる義理があるのかどうかもわからなくなっていたし、かといって何をすればさっさとここを通過できるのかもわからない。
そんなところに、多々良小傘が赤蛮奇の生首を抱えて乱入してくる。様々な勢力の領地をなりふり構わず侵犯しながら、まっすぐにこの関所まですっ飛んできたので、彼女たちには大量の追手がついてきていた。
小傘はかねてから決めていた通りに、友人の頭を振りかぶりながら叫んだ。
「赤蛮奇ちゃん、新し……くはない、野暮ったいけどよく馴染む方の首よーっ」
「おわーっ」
生首が投げつけられ、赤蛮奇の頭部にぶつけられる。玉突き事故のように交代させられた頭部は、目を回しながら吹っ飛んでいく。それだけでなく、小傘たちを追いかけてきた各勢力の追跡者たちが、関所になだれ込んできた。
あまりの事態に、庭渡久侘歌は関所全体に警報を発した。
多々良小傘と赤蛮奇は、関所の留置所に別々に放り込まれている。どういう法的な基準があるのやら、小傘の独房に入れられたのは小傘一人だけだった(傘は没収された)が、赤蛮奇の独房には彼女の体一つと頭二つがあった。
(まあ、一晩も語り合っていれば、仲直りできるでしょ)
と、留置所の壁にもたれかかりながら、小傘は思った。自分がそれ以上どうこう言える問題でもない。彼女の中の折り合いは彼女でつけるしかないわけだし、それに今なら、頭ごなしな規制ばかりにならない予感もしていた。というより、そうなってくれると思わないと、今日の小傘たちの苦労もむなしいものになってしまう。
しかし翌朝、赤蛮奇のもとに雇い主の堀川雷鼓が身元保証人としてやってきて、釈放手続きが進んでいるらしいのを察知するにつれて、小傘の頭には別の疑問がよぎった。
(はて、そういえば私の身元保証人って誰になるのかな……)
またしても、誰にも拾ってもらえないのかな、とも思った。
(だとすればたちの悪い冗談みたいな状況ね)
しかし、ぼやいている暇もなく、小傘の独房の扉も開かれた。
「仕事増やしてくれたね」
雷鼓はニヤニヤと笑い、赤蛮奇は腰を低くして頭を掻いた。
「いやあ本当にこのたびは……」
「いいよ。面白い話を聞けたから――あ、あなたも出てきていいよ」
釈放後、返還される没収品の中に、小傘は見覚えのないネームホルダーを見つけた。
「ああ、それ、今度のうちらのツアーのスタッフパスだから、持っておきなよ」
「は?」
「……そういう事か」
「ひ?」
赤蛮奇は納得いっているが、小傘にはいまいち話が読めない。
「今回の件、赤蛮奇ちゃんの所持していたスタッフパス経由で私に連絡が入ったから来たんだけどさ、小傘ちゃんって考えてみると誰も身元保証人いないじゃない。だからまあ、かねてからスタッフとして雇っていた事にして、二人とも釈放させてあげるのが丸いかなって。お役所も忘れ傘をそのままにしておく余裕は無いし、それくらいの融通は効くのさ」
「ふ、うん……?」
「でも雇われたからには、やる事やってもらうからね」
「へ?」
半月後、多々良小傘の身は、ツアースタッフとして畜生界にあった。
「ほ?」
――次回、プリズムリバーウィズHの畜生界コンサートツアー編。
「朝だよ……」
「わかっとるわい」
自分の声、自分の顔には慣れているが、どうも目を合わす気にはなれない。そうしているうちに、布団の中の酸欠と各々の吐く息の熱さが耐え難いものになってきたらしい。酸素と涼しさを求めた彼女自身の頭が、ぼろぼろと布団の中からこぼれ落ちる。
部屋の床に八つの生首が転がり回った。
「すずしー」
「やばかったー」
「最後の方、ちょっと意識落ちかけたよね」
「なんで若干我慢大会みたいな雰囲気になったんだろうね」
「うわー」
「いったいどうしたのよ」
「おなか痛いの?」
生首はわいわいと自分たちで雑談を始めるが、それでもいくつかは、自分自身の、赤蛮奇の頭に語りかけていた。
「……バイトいきたくなーい!」
赤蛮奇は嘆いた。
こうした場合、赤蛮奇の意思決定プロセスは議会的かつ民主的なものとなる。わかりやすく言ってしまうと、複数の頭をつきあわせて善後策を協議するのだった。
「どうにかして仕事行けんのか」
「ムリ」
これによって取るべき方針は二つに絞られた。アルバイトを欠勤するか、それとも他の頭に仕事を任せて、どうにかしてうまくやってもらうか。なるべくは出勤する方向で考えていきたいというところで頭たちの意見は一致していて、前者の案は消極的な否決によって立ち消えた――ただ、後者の議論がうまくいかなければ、いつでも復活する可能性がある否決だ。
議論がうまくいかなくなる可能性はあった。今現在、赤蛮奇自身の肉体に対する主導権を得ている頭は、あくまでこの気鬱の症状を一時的なものと見ていた。
「お仕事は休んでもいいわけだし、お店だって大変だろうけど困ったりはしないわ……」
「家賃」
「水道光熱費」
「スマホ料金等の通信料」
すかさず、何人かの生首がぐさぐさと現実を突きつけてきた。
「……首が回らない!」
「物理的にはよく回るよ」
「やめなよ、気持ち悪くなっちゃうから」
「もう既に……」
「ともかく、なにかと入用なんだからさ」
「私たちはもう人生という止まれないレースを出走しているのよ」
「なんだかかっこいいふうに言ったけど、めちゃくちゃ情けないからね?」
ともあれ「この気鬱が一時的なものか、長期的になるのかもわからないのだから、とりあえずは一旦他に主導権を譲ってみてもいいのではないか」というところに話は進み始めた。
「あまり気が進まないんだけどなあ……だいたい、誰が代わりにバイトに行ってくれるのよ」
主権者の赤蛮奇の頭は、ふてくされたように言った。そこでその他八つの頭の主導権争いが起こって、結局はなにも決まらず、ひとまず今日は欠勤するというところに話が落ち着く事を期待したのだった。
「……私が行くよ」
床をごろごろしている生首の一つが、そうきっぱりと言って、他も別に異論を挟まなかった。結局「どれだけぐだぐだやったところで、時間が差し迫っているのだから」決断は早い方が良い、という事で議事は強行採決された。賛成八、反対〇、棄権一。この結果に従って、赤蛮奇の頭は主導権が交代した。
しとしと雨はまだ運河の水面をいくらか動揺させているが、もう止むだろうと思われる。流れに沿って植わっている柳並木も降るようにしだれているが、もうその先から雨粒を垂らすほどではない。その並木の一本の下にしゃがんでいる人影が、ただ一人あった。
「あめあめふれふれ……あぁ、やんじゃ……たぁ……」
完全な静止状態におちいった水面を眺めながら、多々良小傘はうたうのをやめるしかない。
「……今日なにしよっかなぁ」
明け方の雨のせいか、里の往来にも人通りは少なく、人々の活動もなんだかのろく感じる。誰かをおどろかせてみたところで、不機嫌な牛が腹立たしく鼻を鳴らすほどの反応ももらえそうにない。さすがに、こんな空気の感じで一人だけはしゃぐ気にはなれなかった。
知り合いとつるんでみようかとも思うが、折悪く、みんな忙しそうだった。今すぐつるんでくれる友人がいるかというと、ぱっと思いつかない。あの子は屋台を引いて夜仕事だし、あそこは晨朝のお勤めの後もなんやかんやある、里の外は暇していそうだが、遠い。この世界はそこまで悪いものではないが、生計も無いままに自由に生きてゆけるのかというと、そうでもない。せいぜい天職を見つけて、楽しんで働くがいいさ。
結局、小傘はこのあたりでぐだぐだと待ち続けているのであった――何を? ひょっとすると、誰かが拾ってくれるのを待っているのかもね。
「――おお、おはよ」
しゃがんでいる背中を軽くどやされて、小傘は「ひい」と声を上げてしまった。ブーツの足裏で背中を押された感じだったからだ。
「なにやってんのよ、小傘?」
「ん、おはよお……?」
小傘は首を振り向かせて相手の存在を認めながら、微妙な違和感をおぼえもした。赤蛮奇という子のこうした人をおどろかせるご挨拶はよくある事ではあったが、大抵はぼんやりと気がつかないうちに背後の間合いに入って「やあ」とか「なにしてんの?」など声をかけてくる事がせいぜいで、軽く小突くというような事はあまりやらない気がした。
まずもって、接触ということが苦手なような子だったのだ。その距離の置き方が、ろくろ首という種族的なものなのか(ありうる事だ)単に本人の性向なのか(ありうる事だ)、どちらともなんとも言えないが、赤蛮奇はそういう子だった。
「……なんだかご機嫌そうだね」
「そんなわけないじゃん。こんなウツウツとした雨が降っちゃってさ。――いや、でもこの感じだと、今日はお客さん少なそうね」
「バイトだったっけ」
「そ。今から飲食の接客。単純だけど覚えなきゃいけない事が多い」
「そっか。じゃあ私はこのへんで――」
「待ちなよ」
赤蛮奇は友人を呼び止めた。小傘はそういうところに違和感をおぼえる。
「さっき言ったでしょ。どうせ今日お客が少なそうなのよ。なんか食べてかない?」
小傘は、この日の赤蛮奇の、そういうところに違和感をおぼえる。
やがて、赤蛮奇が飲食のアルバイトを辞めたという話が小傘にも聞こえてきた。
「じゃあ今なにやってるの?」
と小傘が尋ねた相手は屋台の店主で、その夜雀は私が知るものかよという反応をしつつも結局は多少の情報を持っていて、
「女の子の髪や顔をいじって小遣い稼ぎしてるって」
「バイト辞める前から初めてたみたいよ。今後はそっち一本でやるんじゃない」
と、屋台の手伝いが冷酒とおつまみの煮こごりを出しながら教えてくれた。赤蛮奇は美容師の真似事をやっているらしい。
ミスティア・ローレライから聞いた住所をもとに長屋の一角に行ってみると、赤蛮奇は本当に(小傘自身、別に情報そのものを疑ったわけではないのだが)客を取って、美容師のような事をやっていた。
「――あ、屋台に置いてもらっていた割引のクーポン」
探るように倉庫のような土間の空間に入って、きょろきょろとする小傘の手元を見て、赤蛮奇は言った。
「ま、安くしとくわ」
「前のバイト辞めたんだってね」
「あんまり性に合わなかったからねえ」
と言うものの、もう長い事やっているアルバイトだったのではないか。
「この椅子なんかはどこから」
そう指摘しながら、理髪用座椅子に座る小傘。
「近所で廃業する人がいたから、用具一式、中古で安く譲ってもらっちゃった」
「ふーん」
「で、どんな頭にする?」
「うーん」
小傘は視線を宙に泳がせた。開店したばかりの店内は殺風景で、サンプルの一つも無いありさまだったが、どのみちどうという理想像があるわけでもない。
「……なんか適当に、いい感じのそういう感じがするような感じにしといて」
「おまかせってわけね」
結局、髪をいじられている間もたいした話はできず、終わった後も世間話をだらだら長引かせるという気にはなれなくて、小傘はさっさと店を出た。
何か変わっているかというと、間違いなく頭は軽くなっている――悪口ではなく、髪が減ったぶんだけ。
(まあ、なんか心機一転したかったのかもなあ)
と、近頃の赤蛮奇の変わりようにも、月並みだがありそうな結論をもってくる事しかできなかった。
「おー?」
すれ違った誰かが自分に向かって声をかけてきたような気がしたので往来の中で振り向くと、命蓮寺の門徒たちだ。小傘も知った顔だった。
「……あれ、なにやってんの? 檀家回り?」
「あー、まあ、似たようなものか」
と言いながら、そのうちの一人――雲居一輪が、人差し指を唇の前に持ってきて、ぴっと飲み屋街のある行き先を指し示した。チクりは無しよと釘を刺されたわけだ。
「……いいね」
「いいでしょ」
村紗水蜜がニヤリと笑いながら、一緒にどうよと身振りで示す。
「いいね」
なんだか共犯にさせられている気もするが、悪くない。ありがたくご相伴に預かる事とした。
「それにしても、一瞬小傘だとは思わなかったわ」
と酒場の檀家回りを始めながら、一輪と水蜜はぽつりと言った。
「普段、なんというか、野暮ったい頭してるからさ、あんた」
「なにそれ」
どうやら髪の事を褒められているらしいと気がつくのに、最初の酒を一口飲んで、その熱さが喉を通っていくまでの間があった。
赤蛮奇が新しく始めた仕事は、なんやかんやと評判が良いようだった。
「……もうちょい刈り上げるね」
「あんまりやりすぎると聖に怒られちゃうよ」
「怒られる事に関しては、いまさらじゃないの」
「普段は目立たない感じになるようにしておくわ」
幽谷響子の注文に対して答えながら、赤蛮奇ははた目ではそうとわからないほどの慎重さで、そのサイドの髪を刈り上げていく。響子の前髪はふんわりと持ち上げられて、綿あめのような繊細さでセットされている。
「ステージで暴れたら崩れちゃうかも」
と響子は危惧したが、それはそれでいいように調整してあるから、と赤蛮奇は説明した。その横から、ミスティアも一言添えてくれる。
「だいたいパンクミュージシャンなんて、粋がっているガキが最後には濡れた子犬みたいになっているのが一番クールでしょ」
「それもそうか?」
「なにより、響子ってそういうのぴったりだしね」
「なんでいま悪口言ったの?」
ひと通りの事が済んだ鳥獣伎楽の二人は、赤蛮奇の店から出ていった。髪だけは明るい昼下がりのうちにセットしておいて、後のメイクなどは、ステージが始まる直前、現地でやるという事になっていた。今夜は彼女たちのライブがあるのだ。
夕方、店じまいをして外に出ると、もうずいぶん暗くなりかけている。その里の暗がりに、赤蛮奇は細身の黒ジーンズと黒のポケット付きTシャツ(近所で、外来人がやっている古着屋で見繕って買った)という、余計にまっくらな風体で外出した。
「うわ。びっくりした」
雑踏にまぎれているうちに、そうして声をかけてきたのは例によって多々良小傘だった。
「――あぁ、小傘か」
「なんでそんなに黒いのよ」
あのお人好しな小傘が、珍しく憎まれ口らしきものを叩いてくるのは、他人を驚かすという、自分のお株を奪われたからに違いない。
「今からライブの裏方手伝いに行くのよ。だからこういう格好」
「ライブ……ああ、チョージューギガクの」
(こんなふうに、小傘がなんらかのこみいった固有名詞を発音する時、なんだか滑稽な空気があると感じるのは私だけでしょうか)
と、ふと思う赤蛮奇。
「ともかくそれでそんな格好なのはわかったけど、首だけ浮かんでいるみたいでこわいわ」
「怖がらせの参考になるでしょ?」
里外れのコンサート会場に行く途中、赤蛮奇は店じまい直前の花屋の前を通った時に立ち止まり、いくつか花を指定して、茎を長めに切ってもらい、何本かずつ買った。
「どーすんのよそれ」
「……悪くない」
ミスティアは楽屋の鏡――公衆便所のそれの方がまだぴかぴかに見える、薄ぼけた汚れ方をしている鏡を、苦労しながら覗き込み、髪に編み込まれた花々を確認しようとした。
「使う?」
赤蛮奇が横合いから手持ちの三面鏡を渡す。編み込まれた何本もの花の茎は、頭を複雑な電線の束でハードワイヤードしたようにのたうっていて、その立体感が花弁以上に重視されているようだった。
「……悪かないわ」
ミスティアは先ほどと大差のない感想を漏らす。
「あんまりお花畑すぎてもパンクらしくないから、花の色味には気を使ったつもりよ」
「ひとつ間違えばお花畑のヒッピーだもんね」
同じ鏡で、前髪の盛りを自分なりに調整している響子が言う、その三人の様子を、小傘は楽屋の隅で黙って眺めていた。
「それにしても今日はありがと」
赤蛮奇はバンドのお礼を受けて、小さく肩をすくめた。
「メイクを手伝ってあげるって売り込んで、ちゃんと仕事しただけよ。今後とも贔屓にしてくれたら嬉しいけど」
「ふむ。それにしてもこのお花、ほんと綺麗だわ」
「ちゃんとしたお花屋さんで買ったもの」
「……なにか演出にも使えそうね」
「客に投げ渡すとか?」
「私たちは演歌歌手やシャンソン歌手じゃあないのよ」
「じゃあステージ上で食べたら?」
ずっと沈黙していた小傘は、そこでようやく発言した。そして、軽口のつもりでそう提案したはずなのだが、実際にそうなった。
「うがごもも」
鳥獣伎楽のライブパフォーマンスが終わり、楽屋に戻った後も、響子は相変わらず口の中で花をもごもごもしゃもしゃやっている。ミスティアはタオルに化粧まじりの汗をべっとり滲みこませながら、相方に言った。
「あんた呑みこめないのならげーしちゃいなさいよ」
「くちのなかしびれてきは」
「ねえあの花大丈夫なの」
「そりゃ食べ物じゃないけど、花屋さんで買ったものなの、あんたも見てるでしょ。毒ではないはずよ、たぶん」
小傘が心配そうに尋ねて、赤蛮奇もまあ大丈夫でしょうという口吻で応じたのだが、その後がまずかった。明らかに響子の様子がおかしくなって、
「もっとこれほひい。もっとくわせろ」
「おいこれあかんやつちゃうのかあ」
そうした感じのぐだぐだしたやりとりを仲間内でやったりもしながら、場は楽屋から外へと流れ、人里の往来でわいわい騒ぎ立てる(むろんのこと、赤蛮奇や小傘以外にも、鳥獣伎楽の活動をサポートする子らはいたので)十数人の少女の徒党と化して、そのまま一軒目の酒場に乗り込んだ。
三世紀の危機が一刻で過ぎ去ったかのような時間が酒場で流れて、また別の居酒屋で同じような事が起こる。それを何度か繰り返した末に、小傘と赤蛮奇はやっといつ終わるとも知れない地獄のように浮ついた時間から脱する事ができて、べこべこに酔っぱらった状態で長屋までずるずる歩いた。
「……なんであんた最後まで付き合っていたのよ?」
「しらなーい」
と答えながら、小傘の頭と視界では、赤蛮奇の耳元にかかっているスターリングシルバーの輝きが、重なったりぶれたりしながら漂っている。
そうした工業地帯のようなインダストリアルなピアスが、赤蛮奇の耳元にごろごろとついている事に気がついたのは、鳥獣伎楽の演奏中、ステージに駆け上がって乱入してきた観客を追い返す一幕の中でだ。
そもそもこのバンドのステージは近頃ますます過激化の一途をたどっていて、響子がマイク用のシールドケーブルを鞭のようにうならせて、最前列の観客をぴしりぴしりと打ちすえる中に、小傘たちはセキュリティ要員として乱入しなければならなかったのだが、小傘はその、最大慣性ですっ飛んできたケーブルの端を、鼻の下と上顎の歯茎の間にもろに喰らってしまって、演奏中のステージの上で悶絶する羽目になった。これでは乱入してきた観客となにも変わらない。
(こんなの、目にでも当たったら大変な事になっちゃうよ)
小傘は痛みの中で失明の危険について思いながら(彼女は片目の視力がきわめて弱い)、赤蛮奇に乱暴に引き立たされた。
「大丈夫?」
と言いながら、彼女が素早く対応に戻って、真っ赤なショートボブがまくれ上がったその頭のサイドが、すっきり刈り上げられている事に小傘は気がついた。耳元には大量のピアスがぶら下がっている。耳たぶにも大ぶりなハトメを留めたかのようなホール。それよりも気になったのは、後ろ髪の茂みからちょろりと顔を出しているイモリのタトゥーだった。
そういったものに、小傘は少しぎくりとしたものの、その時はそれどころではなかった。興奮した観客をステージ下に押し込んで――もちろん身一つで押し返さなければいけないわけで、暴力は使わなかった――、そのままセキュリティ要員として、さんざん興奮した罵声や、唾や、使用済みタンポンなどを顔面に受けた。鳥獣伎楽のステージは回を重ねるごとに過激化していっている。
「こおいう趣味だったのね」
と小傘が言ったのは、もう今日はうちに泊まって寝ていきなよと赤蛮奇に提案されてそのようになって、二人倒れるように長屋のあがり口に体を横たえた時だった。
「……あぁ? ああ、これ?」
と、赤蛮奇はあっちを向いて、がさっと後ろ毛をかき上げて、その下の剃り込んだ部分に棲息するイモリを見せてくれる。髪をおろしてしまうと完全に見えなくなるタトゥーやピアスを見せて、赤蛮奇はちょっと照れくさそうだった。
「あんた、こういうの苦手そう」
「……ううん、まあ、自分でやるのはないなと思うけど、人の事はとやかく言わないよ」
小傘は横になったままそう答え、イモリの腹がとくとくと脈打ち、時折口から舌をちろちろ出すのを、いつまでも眺めている。ただのタトゥーではなく、なにか動くような魔法がかかっているらしい。
「……昔からこういうのやりたかったんだけどさ、前のバイト先でやると、お客さんに怖がられちゃうじゃん」
そっぽを向きながらぼそぼそと言ったので、小傘にその説明は聞こえず、ひとりごとのようになったが、なぜかなんとなく会話が成立したふうの空気になる。
「じゃあ美容師ならいいのかっていうと、それも変な気はするけどね。でも、ああいう仕事の方がやっぱりファッションの情報は耳に入りやすいわけ。こないだだって――」
「別にダメだとは思わないよ……」
小傘はそれだけ言って、寝息を立てはじめた。家主の赤蛮奇は、こんな場所で友人に寝られても困るので、酔っぱらった体をなんとか起こして、彼女を自分の寝床まで引っ張っていってやった。
「え、なに、誰か連れ込んでるの……」
「小傘よ。酔っぱらっちゃったんだからしょうがないじゃん。まあ寝かしておいてやって」
ひとりごとのように赤蛮奇は呟いた――事実、ひとりごとではあった。別の八つの頭たちではあったが、彼女たちもまた赤蛮奇だったから。
「今日どうだった?」
「えーと、そうね。今日の活動報告からした方がいいんでしょうね」
「不測の事態を防ぐためにもね」
いずれかの頭がそう言った時、体に対して主権を有する頭は、ちょっと目を細めながら、本日の仕事での売り上げや、その他の活動に関して報告した。こんな煩瑣な報告会は、今までなかった。これ以上の勝手をされるのを他の頭たちが警戒しているのは明らかだった。
「それで、小傘が一緒に帰ってきたわけ――こんなところで本日の報告はいいかしら?」
「うん」
「いいんじゃない?」
「議論を再開しましょう」
発議は数日前、以前の体の持ち主であった頭(以下、頭:甲とする)が、現在の体の持ち主である頭(以下、頭:乙とする)を弾劾したところから始まる(他にも七つの頭があるが、それらを丙・丁……といったふうに殊更区別する必要性はなく、あくまでこの甲乙ふたつの頭を軸として今後も問題が展開していく)。
議論の発端は、今となっては議事録にもできない雑談の中で、前後の話題の流れなどもありながらそうした話になった。それらの煩瑣なやりとりを完全に修復する事は不可能だが、たとえ修復したところで本当らしい会話になるとは思えない。頭:甲が行った質問、またそれに答えた頭:乙の答弁は、大意で以下の通りだった。
頭:甲「ところでそのタトゥー、なんなん?」
頭:乙「……ご心配なく。首から下には彫ってもらっていないわ」
答えになっているともいえない答弁に、九つの頭はたちまちそれぞれの意見を勝手に述べ始め、そのまま会議の招集へとなだれこんだ。議論の要旨を整理すると以下の通りになる。
・ピアスやタトゥーは個々の頭の自由に委ねられるべきか、またその場合は頭から下の肉体に関してはどのように解釈すべきか。
「原則としては首から上は個々人の自由で、首から下に関しては、私たち九つの頭の共有物であるという意識を持っておけばいいんじゃない?」
「意見そのものは反対しないけど、それは本当に原則としての話にすぎないわね。間違いや誤解、解釈の拡大が起こる可能性はある」
「首から上は個人の自由と言ったって、そうした頭は、結局、共同体としての私からは脱しきれないものでもあるでしょ。……たとえば、顔面にいかついピアスやタトゥーを入れて、眉を全剃りなんかした私でない私が私と思われるの、率直に言って嫌だわ」
「そうなると今回すらも問題のある行為だという事にならない? 既に耳元もけっこういかつい事になっているし」
「首から上にも一定の制限は必要でしょう」
「外面さえ変わっていなければ問題ないという意見も、いかがかと思われるわ。人間、普通見えないところをめちゃくちゃにされる事もあるもの」
「そうなのよね……たとえば、個々の頭が勝手に体を使って、恋人とか愛人を作ったりするのは許されるのかしら。これだって外見は変わらないかもしれないけれど、えらく勝手をされている事にならない?」
「……色々な問題が別のところに及びそうだけど、とりあえずピアスとタトゥーの話だけにしようよ、ここは」
こういった流れで、それぞれの意見を一度取りまとめてみようという事になって、その結果は面白いくらいに割れてしまった。
「タトゥーもピアスも完全に否認」
「タトゥーもピアスも無制限に容認」
「ピアスは容認するがタトゥーは否認」
「タトゥーは容認するがピアスは否認」
「一定数までのピアスは認めるが制限を求める。タトゥーは容認」
「一定数までのピアスは認めるが制限を求める。タトゥーは否認」
「一定数までのタトゥーは認めるが制限を求める。ピアスは容認」
「一定数までのタトゥーは認めるが制限を求める。ピアスは否認」
「タトゥー・ピアスのどちらも認めるが一定の制限を求める」
ここで会議は一時的な休会になったが、その後突破口となる提案を行ったのは頭:甲だった。
「まず前提として、ピアスの問題とタトゥーの問題とは、その表面的な様相が似ているだけであって本来別問題でしょ。ということは、ピアスの容認/否認と、タトゥーの容認/否認という、別々の議論として行われるべきよ」
「そうなると、結果的に頭全体の意見の過半数を得るのは、ある程度は認めつつもある程度は制限した方が良いという、折衷的な意見になるでしょうね」
しかし、毎夜続く議論の中で、いつしか折衷派の意見は“一定の容認がされる”ではなく“一定の制限を設ける”方向性が強調された、消極的姿勢に転換させられていた。
「……難しいわね」
と、当夜の頭:乙(タトゥーもピアスも無制限に容認)は自分の頭を掻きながら呟いた。
こうした流れになる事を、予想できなかったわけではない。むしろ全体の意見を聞いていれば、首から下の肉体は個々の頭の自分勝手に侵されるべからずという原則こそが支配的で、だから折衷派の意見も積極的な賛成ではなく、消極的な制限や規制を求める方向に結局は流れていく事も、最初からなんとなくわかってはいた。その気持ちもわかる。
(しかし)
とも彼女は思うのだ。
(たしかに、私は私の体に、ピアスやタトゥーなど、取り返しのつかない事をやりたがっている――この野心は他の頭たちには表明していない――が、先に体を支配していた頭が、同じように取り返しのつかない事を肉体に――それだけでなく赤蛮奇全体に対して、やっていなかったと、誰が言いきれるのかしら)
事実、体を引き継いだ後、頭:乙は、以前の――頭:甲の、だらしない生活態度、消極的な世間との関わり方、姿勢の悪さ、野暮ったいショートボブなどに疑問を持ち始めていた。
(これこそ私をとりかえしのつかない体にしていっている事柄たちじゃないかしら?)
とさえ思うのだ。
だから彼女は以前のアルバイトを辞めたし、かねてからなんとなく興味があった、美容師の真似事をし始めた。その練習がてら、他の頭たちが求めれば、好きなように髪をカットしてやったり、パーマをかけてやった。今となってはそれをしてもらっていない方が少数派だ。彼女は彼女なりの趣味と方法で赤蛮奇を新たにしたかっただけだ。
様々に言いたいことが頭の中でぐるぐるしていたが、頭:乙からしてみれば、色々難しくしている張本人でしかない頭:甲(タトゥーもピアスも完全に否認)が、図々しくも寄り添うように言った。
「……まあ、色々難しいんだよ」
「はあ?」
思わず言葉強く応じてしまう。相手も思わぬ剣幕に一瞬びくりとしたものの、屈する事はなかった。
「……あんた、ちょっとは頭を冷やした方がいいよ」
その相手の言葉と、周囲の様子を窺うに、なぜか自分の不信任にまで話が広がろうとしている事に、彼女はようやく気がついた。
翌朝になっても、多々良小傘は二日酔いの悪夢から脱しきれていなかった。身を起こした時もなんだかよくない夢が続いているような気がして、枕元に生首がごろごろしているのを見てもさほど驚くことはなかった。
「……ああ、そうか。酔っぱらっちゃって、私」
「はよ起きろ」
ぽつりとした呟きも許されないほどにぶっきらぼうな声がかけられた。
「まったく、酔っぱらって連れ込まれでそのまま放っておかれているのに、相変わらずのんきだわねあんたときたら」
「え、ちょ、え、え、」
小傘が戸惑ったのは、赤蛮奇の頭が、半分起き上がった状態の小傘の体の上を毬のように跳ねて、ふとももから腹、胸へと駆け上がってきたからだった。
「小傘」
と目鼻を突き合わせた距離で、赤蛮奇の頭は止まった。
「お願い。私と一緒に、私の体を取り返して」
「え?」
……と、小傘はふと思い当たるものがあったのか、自分の手を差し上げると、相手のおかっぱ頭の野暮ったいサイドを指先でかき上げた。その耳には一つのピアスもついていないし、首元を見てみても、昨晩見たはずのイモリのタトゥーなどは彫られていなかった。
「……あーっ!」
「ちょっと私の調子が良くなかった事があって、他の子に体の主導権を与えていたのよ」
今までのあらましを赤蛮奇は説明した。小傘は二日酔いの頭なりにそれを聞いた。ありがたい事にそこまでこみいった話ではなかった。つい最近、赤蛮奇に対して覚えていた違和感の理由もわかった。
「――で、昨晩はあいつを詰めすぎた。はっきり言って、ちょっとへこませてやろうという気持ちが私にあったのも確かよ。でも朝になって、あいつは体と一緒にぷいっと……」
「ただの外出かもしれないわ」
説明に横やりが入って、小傘ははっと奥の方に目を向けた。赤蛮奇の七つの頭が、じいっとそこから視線を向けていた。
「その子が言うほど状況が切迫しているとは考えづらい、というのが私たちの総意です」
「……結局、あいつら自分の体がどんなになろうが、なんでもいいんだよ。自分が体の持ち主だと自覚した事なんて、ほとんどない子たちだからね」
赤蛮奇の頭がぼやくのを胸元に抱きながら、小傘は「黙って」と耳元で囁きながら、人里の路地に身をひそめていた。
「私のひとり相撲なのもわかっているのよ、ふん」
「まあ、気持ちはわかるよ。うん」
ふてくされる赤蛮奇の首を、小傘は慰めるしかなかった。
「色々難しいのよ」
ともかく、小傘たちは赤蛮奇の胴付きを探さなければならない。しかし、さっきのように往来で生首を抱えながら「あの……この子の体、知りませんか?」と尋ねるのは、まずい。――いや、小傘の腹は多少満たされるものがあったが。それでもまずさしかない。ちょっとした騒ぎになって、慌ててそのあたりの路地に逃げ込む羽目になってしまった。
「もっとうまい方法を考えなきゃ……」
「ああ、知ってたよ。(急になにやってんのこいつ)と思ったくらい」
「いやまあちょっとやってみたかったというかあ……」
赤蛮奇は嘆息した。
「……事が事だから、あんたの事、ちょっとは頼りにしてるのよ?」
「え、どゆこと?」
「あんた、鍛冶仕事でそういう彫り師んところにも出入りしてて、懇意にしてるでしょ」
小傘が野良鍛冶をやっていて評判も良い事は、つとに知られていた。
「あぁ、なるほど」
「ね。だからあんたの知り合いを辿れば目ぼしい彫り師はだいたい押さえられるんじゃないかというのが、私の考え」
(ちゃんと考えているのね)
と感心する小傘だった。
「じゃあそういう方針でいこうか――いや、待てよ」
歩きかけて、立ち止まって、ひとりごとのように思い直した。小傘の頭に浮かんだのは、イモリのタトゥーの、ちろちろとした舌の動きや、心臓のとくとくとした脈動だ。
「私の知り合い、あんな刺青彫れないよ」
実際、人里内で思い浮かぶ二、三の彫り師のところを訪ねて(そしてひどく気味悪がられもしながら)赤蛮奇の事を尋ねてみたものの、はかばかしい結果は得られなかった。
「出足をくじかれたわね」
しかし、タトゥーに魔法のようなものがかけられているのなら、それはそれで探しようがあるのではないかというのが、とりあえず二人の共通した見解でもあった。
「魔法といえばなにはともあれ魔理沙よ。少なくとも顔は広いし、ああいう彫り物をやってる人の事、ちょっとは知ってるかも」
「というかそれくらいしか魔法使いの知り合いおりませんからね我々」
赤蛮奇の生首をかかえて、小傘はなるべく目立たぬように人里をこそこそと横切る。その途中で、彼女の美容室にも寄ってみたが、店が閉まっている事を確認しただけだった。
時折、妖怪の知り合いに出会ったら、情報提供を求める事もしている。赤蛮奇本人は「あまり(文字通り)身内のごたごたを言い広めるような事はされたくないな……」と不満そうだったが、小傘を止める事もできない。そうした微妙な感情もあったので、人里外れのお寺で封獣ぬえに会って「なんかそういう感じの子を見かけたら教えてよ」とお願いした時の、相手の鼻で笑うような反応は少し気にさわったようだった。
「ふーん。ピアスとかタトゥーとか、ぴんとこない話だけど、無個性も無個性なりに苦労しているのね」と、あのどうしようもなく個性的な赤青の翼をぴこぴこと痙攣させながら、ぬえは言ったのだった。
「……まあ、元があれほど個性的だったら、そういうものも必要ないわな」
「私は、あなたの事とんでもなく個性的な子だと思うけどね?」
ぬえと別れた後で赤蛮奇がぶつくさ言うので、小傘はぽつんとフォローにもなっていないフォローを入れておいた。
“なんかします”と書かれた看板を横に通り抜けて、小傘と赤蛮奇は霧雨魔法店の扉の前に立った。扉には一応“不在”の札がかかっていたものの、その札も埃をかぶって薄汚れていて、もう何か月もひっくり返された形跡がない。
「……あ、でもなんか中にいる雰囲気あるわ」
「覗きに便利だよねその頭」
赤蛮奇がふよふよと浮かびながら窓枠から中を窺って教えてくれたので、小傘は店内に声をかけた。
「こんちゃーっす……霧雨、魔理沙さんは、おられますかあ?」
「おー、いるいる」
「この子の体、知りませんか?」
「お前ついにからかさお化けを廃業したのか?」
……結論から言えば、魔理沙は赤蛮奇の体の行方に、多少の心当たりがあった。
「あいつが美容師始めたって噂を聞いて、髪を切ってもらった時、そういう話になったんだ。もうそこそこ前だよ」
と、ふわふわした毛質の金髪をいじりながら言った。
「タトゥーを入れたいって言ってたわ、そういえば。……で、まあ、ちょうど、最近そういう、皮膚への着色技術の研究をしているやつがいた事を思い出したんだよ。そいつ、勉強のついでって事で実験台を探していたというか……」
「あずかり知らぬところで人体実験のタマにされるの、あまり気分が良くないよね」
「特殊な事情なんだろうけど同情するよ」
「……で、誰を紹介したの?」
「アリス。アリス・マーガトロイド」
アリスの家に迷い込むには、来た道を引き返しつつ、片目を隠しながら行くと見つけやすくなる、と魔理沙はアドバイスしてくれた。
「まあ別に隠さなくても行けるんだけどな。フィーリングの問題よ」
など魔理沙は更なる胡乱な言説を弄していたが、嘘はついていなかったらしい。小傘たちはほどなくしてアリスの家に行き着き、とんとんとんとその扉を叩いた。
「いらっしゃい。待っていたわ――って、あら」
と家主が出てきたので、小傘も赤蛮奇も訝しげな表情になった。しかしアリスの方が、よっぽど訝しげな表情になる権利を有している。実際そういう表情になった。
「……生首もって人んちの前に立っているの、趣味がよくないわよ」
(特に言い返せる要素ないよね)と素直に思う小傘と赤蛮奇だったが、アリスはとりあえず、この奇妙な一人と一頭を家へと入れてくれて、かねてから用意されていたものらしかったが、お茶まで出してくれた。
「でもその生首さん、見覚えがあるわ。どういう用事かしら?」
「問題はそこなのよ」
と、赤蛮奇は手短に事情をアリスに話した。
「――さっきの感じ、来客を待っていたんでしょ。もしかしたら、それ……」
「あいにくと、今日の予定はあなたの体を持ったあなた相手ではないのよ。その施術はもう終わっていて、追加の依頼があったわけでもない」
「……じゃあ、私の心配しすぎだったわけかな?」
そうした会話を、赤蛮奇がアリスとやっている間、小傘は準備されている施術道具の針や顔料などをのんびりと眺めて、ついで見本帳のようなものを見つけて、勝手に開かせてもらう。見本帳には、一辺が十センチほどの不透明な膜が貼りつけられていて、それぞれさまざまな意匠が彫り込まれている図柄が、周期的なアニメーションを描いている。
「その動くタトゥーの仕掛け自体は、皮膚の中に多重に色を載せて、レイヤー構造をアニメーテッドに遷移させているだけ。とても単純な仕組み」
小傘の興味に気がついたアリスが説明してくれた。
「もともと、人造皮膚の研究ついでで、この着色技術を見つけたの。だから私自身は別にタトゥーそのものに関心があるわけではないのよ――デザインやパターンは興味深いと思うけれどもね。それに彫り師さんって自分の体で練習するらしいけど、私はそういうのもまっぴらごめんだし」
「私もごめんだね」
「まあ……私も職人さんのために針を鍛えて卸す事はあるけど、別に……」
特に興味のない三者が、特に興味のない事柄について話す羽目になっているのも不思議だった。
そうした話をしながら、小傘が熱い紅茶にふうふうと息を吹きかけて冷めるのも待たず、アリスの本来の来客がやってきたようだった。
「……あー、ごめんなさい。ちょっと見学の方々がいるんだけど、いいかしら?」
家の戸口で少々ごたつく様子があったので、小傘と赤蛮奇はさっさと家を辞去しようとして、
「あのぉ、自分らこのへんでおいとまさせてもらっていいんで……」
と、姿勢を低くして、くぐるように玄関を出ていこうとしたのだが、生首を抱えた少女に急に出てこられても、来客の方が困る。きゃっと小さな叫び声が上がった。
「……やっぱり、なにもなかったのかしら」
森のはずれまでやってくると、木立の屋根がいっそう薄く、日が差してくるくらいの明るさになった。
「どうなんだろう……でも、施術は一通り終わったって言っていたから、それ以上の予定はないんだろうね」
「結局、私が気にしすぎだったって話か」
赤蛮奇は口元をへの字に曲げつつ、不機嫌そうに言った。
「悪い事しちゃったのかもな、あの子に」
「仲直りしなきゃいけないかもね」
と言いながら、小傘たちは人里の雑踏に戻っていて、ちょうど花屋の横を通った。
「……こういう時って、どうなのかな。お花でも買った方がいいのかな」
「食べられるお花にした方がいいと思うよ」
「なんじゃそりゃ」
しかし、赤蛮奇の家に戻ってみても、その体はまだ帰ってきておらず、他の七つの頭たちは、お互いの鼻の頭や毛先の当たる頬のあたりが痒くなってきたのを擦りあわせたりしながら、帰りを待ちわびていた。
赤蛮奇が「売り上げや仕事道具等は、毎日持ち帰っていたみたいだから」と言った通りに、長屋の一角にある職場の方は、たいした鍵もかけていない。住人の目がないわけでもなかったが、客の出入りのふりをしていれば怪しまれる事もない。
「最初からこうしていればよかったのかもね」
「でも、これってどうなの、別の頭に許可をもらっていても、空き巣になるのかなぁ?」
「知らないよ」
店内はやはり無人で、体を持った赤蛮奇は、どこかへと消えてしまっていた。
彼女たちは店内を見まわす。倉庫を改装したような土間に、専用の座椅子が一つというのは、小傘が以前に髪を切ってもらっていた頃の通りだが、他には色々と彩りが増えている。観葉植物や花といったものだけではなく(花瓶は日ごとに入れ替えているらしく、今はからだった)、待合のソファ、雑誌の入った本棚、地域のフリーペーパーや文芸同人、ファンジン等を収納したラックスペース、日雇い仕事を始めとした近所の求人広告を張りつけたコルクボード、ボールガムの自動販売機などが目に入る。
「……まあ、意見は合わなかったけれど、真面目にやっていこうとしていたのは伝わるわ」
「でも今はお店にいない。家にも戻っていない。彼女はどこに用事があるのかな」
「ただ買い物をしてぶらついてるのかもしれないじゃん。こっちだってそれをダメだというほど狭い料簡じゃあないわ」
「でも、いろんな子に見かけたら教えてって言い回ったじゃん。それでひとつも話が入ってこないなら、やっぱり人里にはいなさそう……」
赤蛮奇の意見を小傘は聞き置いておきつつ、店の奥まったところに簡素な机と椅子がある、事務スペースらしき場所に近寄った。事務スペースといっても、帳簿や判子のたぐいはもちろん持ち帰られていて、消耗品の筆記用具やカレンダーくらいしか残っていない。
「……なにか予定が入っていたみたい」
小傘はカレンダーに残されている詳細不明の記号――手早く確認してみたが、他の日付にはない記号――から、机の上に残されていた求人広告に目を移す。店内のコルクボードにも同様のものが貼られていたが、わざわざこれを机の上に置いていた理由は明らかだと思われる。
「……さっき会ったよね、この人」
広告に記された人事担当の名前を見て、赤蛮奇は言った。
とんだ二度手間だと思いながら魔法の森に戻りつつ、また多少手間取りながらアリスの家を再訪する羽目になった小傘と赤蛮奇は、問題なくその人をつかまえる事ができた。
(不思議なものよね、本当に探している当人はどうにもつかまらないのに、その他の事は運が良い)
「――そう。その面接のおかげで、予定の時間を少々遅れたのよね」
堀川雷鼓は施術の席を外しながら言った。
「別にツレが入れてもらうだけだから、私要らないんだけどね。あいつが“一緒に来てください”ってせがむからさ。お嬢様なんだよ。私と同じものを入れたいと言ってるんだけど、怖がってもいる。じゃあやらなきゃいいのに」
「……それで、えーと、この求人だけど」
苦笑いまじりののろけをいい感じのところで遮って尋ねてみると、雷鼓は即座に答えてくれた。
「プリズムリバー楽団ならびに私は、現在、長期のコンサートツアーを計画していて、それに帯同してくれるサポートスタッフを募集しております」
「長期ツアー? 畜生界への?」
「ええ。その広告に書いてあるとおりの」
「私も面接に来たんでしょ……面接内容や結果を教えてもらえる?」
赤蛮奇が少し考えた末に尋ねると、雷鼓はほほえむ。
「原則として守秘義務はないけれど、良識の範囲内という事になるわね。……でもまあ、彼女の体はあなたの体でもあって、彼女の問題はあなたの問題でもあるらしい」
ひとつ引っかかる出来事があった、と雷鼓は続けた。
「先日、私が彼女の評判を聞いて美容院に行ってみた時点で、ほぼ話は決まっていたのよね。だから今日の面接なんかも形ばかりの雑談だった……んだけど」
「んだけど?」
「あの子、今日はちょっと焦っているみたいだった。“採用不採用さえわかれば、畜生界に早入りしたい”って言い出したんだ。まだツアーの開始は半月も先だよ? そりゃあ私たちにとっても、大掛かりな公演。向こうにあるデカいハコを確保したりするだけでも何か月越しのプロジェクトになってるから、あっちとこっちを出ずっぱりで往復しているスタッフだっている。だからってメイクやヘアドレッサーさんがわざわざ早入りする意味もないわけだろ」
小傘と赤蛮奇は、もう弾かれたように動き出したかったが、同時に雷鼓の話をじっと聞いてしまってもいた。完全に相手のテンポに呑まれていたのだ。雷鼓自身、こういう場の空気を支配してしまう自分の悪癖を知っていたので、またも苦笑いしながら、彼女たちに動くきっかけを与えてやった。
「……事情はよくわかんないけど、その子に畜生界に入られたら、なにかと面倒くさいんじゃないの?」
小傘は赤蛮奇の首を抱えて、アリスの家を飛び出していった。
赤蛮奇の頭:甲は畜生界に直行できない。まずは自分の家に戻り、他の七つの頭を交えた緊急の議会を招集する必要があった。
出席八、欠席一、ならびに証人として多々良小傘を召喚。手早く述べられた論旨は以下の通り。
・頭:乙は他の頭たちに無断で畜生界入りを企てている。そこから先の彼女のプランは不明だが、これ以上彼女の好きにさせるのは危険だ。
直後にひっくり返ったような紛糾が沸き起こったが、直後に多々良小傘の証言が入った。彼女の弁はぎこちなく、とても感情に訴えかけるようなものでもなかったが、疑惑を固めるにはじゅうぶんだった。
「なにがあるにせよ、一度は身柄を留めて、問いただす必要がある」
誰を遣わせて問いただすか。
「……私と、小傘でいい?」
採決が行われた。賛成八、反対〇、棄権一(欠席)。頭:甲は赤蛮奇の九つの頭の首長としての立場を奪還した。
「それでは実際的な問題にとりかかりましょう」
実際的な問題とは、主権交代にともなって簒奪者に認定された赤蛮奇に、小傘たちが追いつけるか、どうか。
「面接はプリズムリバー邸で行われたらしいけど、そこから畜生界入りするルートはいくつあるかな」
「基本的に、彼岸を経由して地獄入りするとか、どんなルートでも時間はさして変わんないよ」
「湖をよけて、妖怪の山あたりでなんやかんやしなきゃいけないよね」
「そういえば、湖といえば姫ちゃんがいるけど、彼女に手伝ってもらって、沢を遡上して境界越えするような可能性は?」
「使えるとなれば使うだろうけど、どうかな。沢のあたりはトラブル多そうだし」
「そこなんだけどさ、たぶんあの子はあまり事を荒立てないように動くんじゃないかな」
「そうだね。そこでごたごたを起こして、時間を食われても馬鹿馬鹿しいし……だから、多少のんびりしていても堅実なルートを選ぶと思う」
「……という事は、よ」
赤蛮奇の頭は囁くように言った。
「こっちが問題しかない地域を問題しかないルートでぶっちぎれば、越境する前に確保できるんじゃない?」
「――畜生界への旅行の目的は?」
「仕事」
関所の係官の問いかけに赤蛮奇は答えて、堀川雷鼓に渡されていたスタッフパスを相手に見せびらかした。
「これの関係」
「ああ、なるほど」
係官の庭渡久侘歌も、得心いったように頷いた。是非曲直庁側でも、プリズムリバーウィズHの畜生界コンサートツアーの事は把握している。むしろ積極的な協賛まで表明していて、一つの文化事業として支援しているふしもあった。
「おかげであっちこっちの往来も増えちゃってぇ」
と雑談しながら、久侘歌は相手を値踏みする時間を作る。
「――やっぱり、向こう側との折衝かなにかの仕事ですかね?」
「……スタイリストよ」
赤蛮奇は少し考えた末に素直に答えて、自分の髪をわしゃわしゃと持ち上げた。耳元の大仰なピアスが目につく。
「髪なんかいじる人」
「なるほど」
久侘歌は書類になにごとか書き留めるふりをしながら、そんな人がわざわざ早入りする必要があるのかな、とも思った。
「……普段のお仕事も、ヘアスタイリングというか、そんなような事を?」
「つい最近始めたばかりなんだけどね。まあ思ったよりも簡単にお店が持てちゃって、とんとん拍子なのよ。おかげさまで評判も良くって」
「でも、そちらの、店舗の仕事はしばらくおやすみという事ですね。わざわざ半月ほどもこちらに早入りして……」
疑いの目を向けている事を、久侘歌は徐々に明らかにする。
「私も仕事なので」
と、なるべくやわらかに言った。赤蛮奇がその意味を考えて、口をつぐんでしまった時間は、数秒ほどの間にすぎなかっただろう。
「実を言うと、普段はここまで厳しくないんですよ、この関所」
「噂に聞いたのとは違うと思ってた」
「イベントをやるのは別にいいんです。それであっちとこっちの出入りが活発になるのもしょうがないでしょう。でも、だからこそ規制を強めていかないといけない事もあります」
「……早入りする理由に仕事以外もあるのは確かよ」
「ほう」
「でも、べつに法に触れるような事じゃないわ。ちょっとハメを外してみたくなっただけというか――」
赤蛮奇は、言いかけて言葉を切った。目の前の関所の番人に、そこまで話してやる義理があるのかどうかもわからなくなっていたし、かといって何をすればさっさとここを通過できるのかもわからない。
そんなところに、多々良小傘が赤蛮奇の生首を抱えて乱入してくる。様々な勢力の領地をなりふり構わず侵犯しながら、まっすぐにこの関所まですっ飛んできたので、彼女たちには大量の追手がついてきていた。
小傘はかねてから決めていた通りに、友人の頭を振りかぶりながら叫んだ。
「赤蛮奇ちゃん、新し……くはない、野暮ったいけどよく馴染む方の首よーっ」
「おわーっ」
生首が投げつけられ、赤蛮奇の頭部にぶつけられる。玉突き事故のように交代させられた頭部は、目を回しながら吹っ飛んでいく。それだけでなく、小傘たちを追いかけてきた各勢力の追跡者たちが、関所になだれ込んできた。
あまりの事態に、庭渡久侘歌は関所全体に警報を発した。
多々良小傘と赤蛮奇は、関所の留置所に別々に放り込まれている。どういう法的な基準があるのやら、小傘の独房に入れられたのは小傘一人だけだった(傘は没収された)が、赤蛮奇の独房には彼女の体一つと頭二つがあった。
(まあ、一晩も語り合っていれば、仲直りできるでしょ)
と、留置所の壁にもたれかかりながら、小傘は思った。自分がそれ以上どうこう言える問題でもない。彼女の中の折り合いは彼女でつけるしかないわけだし、それに今なら、頭ごなしな規制ばかりにならない予感もしていた。というより、そうなってくれると思わないと、今日の小傘たちの苦労もむなしいものになってしまう。
しかし翌朝、赤蛮奇のもとに雇い主の堀川雷鼓が身元保証人としてやってきて、釈放手続きが進んでいるらしいのを察知するにつれて、小傘の頭には別の疑問がよぎった。
(はて、そういえば私の身元保証人って誰になるのかな……)
またしても、誰にも拾ってもらえないのかな、とも思った。
(だとすればたちの悪い冗談みたいな状況ね)
しかし、ぼやいている暇もなく、小傘の独房の扉も開かれた。
「仕事増やしてくれたね」
雷鼓はニヤニヤと笑い、赤蛮奇は腰を低くして頭を掻いた。
「いやあ本当にこのたびは……」
「いいよ。面白い話を聞けたから――あ、あなたも出てきていいよ」
釈放後、返還される没収品の中に、小傘は見覚えのないネームホルダーを見つけた。
「ああ、それ、今度のうちらのツアーのスタッフパスだから、持っておきなよ」
「は?」
「……そういう事か」
「ひ?」
赤蛮奇は納得いっているが、小傘にはいまいち話が読めない。
「今回の件、赤蛮奇ちゃんの所持していたスタッフパス経由で私に連絡が入ったから来たんだけどさ、小傘ちゃんって考えてみると誰も身元保証人いないじゃない。だからまあ、かねてからスタッフとして雇っていた事にして、二人とも釈放させてあげるのが丸いかなって。お役所も忘れ傘をそのままにしておく余裕は無いし、それくらいの融通は効くのさ」
「ふ、うん……?」
「でも雇われたからには、やる事やってもらうからね」
「へ?」
半月後、多々良小傘の身は、ツアースタッフとして畜生界にあった。
「ほ?」
――次回、プリズムリバーウィズHの畜生界コンサートツアー編。
結構な大事が起きているのに方針は普通に議論して決めたり他の野良妖怪とも程よい距離感で交流を持っていたり、どこまで行っても赤蛮奇って(幻想郷では)まとも寄りなキャラしてる……となりました。
面白かったです。
なんというか娘々に死体からでも、アリスに人形からでも、そのへん何とかしてそれぞれに身体をもらうのが丸い……なんてことはないな。それぞれが別人格を持ってるのに自由度増やすと混乱する。でも身体のない子たちの自由は……残念ながら日本国憲法は幻想郷に適用されるかは不明だし、ろくろ首の多重人格それぞれの人権は保障されてないからなぁ……。やっぱりお互いのためにも平等や公平ではなく、これまで通りの主と従の関係が一番丸く収まる気がしますね。なのでそうならなくなったこれからが気になるところ。悲劇にならなければいいと案じるばかりです。
面白かったです。
民主主義で行動を決めている赤蛮奇というありそうでなかったアイディアがまずおもしろく
それだけに収まらずピアスを開けたりタトゥーを入れたり好きにやりたい頭と制限を入れたい他の頭たちとで対立したりと妖怪の生態に対しての解像度が高くてすごかったです
小傘も不憫でよかったです
小傘と蛮奇が互いの印象を心の中で喋ってるのが良いなーって思いました。
ふらふらと移り行くような話だなって印象で楽しく読めました。
小傘は微妙に不憫ですね。地獄への道は善意で舗装されてるというオチ