この場所で倒れている祖母が発見されたのは、ちょうど一年前のことだった。
「ちょっとお散歩に行ってくるわね。夕方には戻るから」
齢九十五の祖母は、その年齢にもかかわらずよく歩きよく喋った。最晩年は落ち着いていたものの、九十の時に親友を失くすまでは、親友と一緒に月に二度は旅行へ行くほどで、それはもう人生を謳歌していた。
親友に先立たれてからも、旅行こそ行かなくなったが、やはり徒歩圏内のありとあらゆる公園やショッピングモール、喫茶店などに足を伸ばしているような人だった。だから、あの日もどこか買い物にでも行くのだろうと見送ったのだけれども、結局帰ってくることはなかった。
祖母が見つかったのは、畑のなかにぽつりと存在する木漏れ日の下だった。
駅を出ると、正面には雄大な山地が見える。その背後、駅の線路を越えて反対側に足を運んでみれば、こちらには丘陵地帯が。そのまま住宅街を抜けて歩いてみると、緩やかなアップダウンを越えていくうちに、いつのまにか丘陵の麓にやってくる。そこからの登りはたしかに心拍が上がったものの、二十代のわが身にとってはとくに問題は無い。しかし、老人の身には相当堪えたのではないか。
最後の坂を登りきったところにある小森の中で、祖母は事切れていたという。
ここは休憩には持ってこいの立地だと思う。炎天下の中を歩き続け汗だくになった私も、気付いたら木陰に立っていた。きっと、かつてここらで畑仕事に精を出していた人々も、こうして息を調えていたのだろう。
あるいは今も、この場所は現役なのかもしれない。木陰の下には折り畳み式の椅子が安置されている。その横には、いくつもの石碑が立っていた。いずれも風化していて文字を読み取ることは叶わない。峠といえば地蔵や庚申様、馬頭観音だが、ここにある石碑たちはきっと別物だ。人の背丈よりも大きな石碑は、きっとこの近辺で起きた何かしらの出来事を記録しているのだろう。私の腰ほどの石柱は、きっとこの場所に高名な人物がやって来た記念碑なのだろう。ペットボトルの水がお供え物の顔で置かれているが、きっとこれは誰かの忘れ物なのだろう。
祖母は、この石碑の間を通り抜けた先に倒れていた。
正面には駅から見上げた山塊が腰を据え、その裾野には、盆地にひしめく地方都市が陽の光を反射している。視線を足元に向ければ景色は農村の様相を示し始め、やがて丘陵に拓かれた段々畑が現れる。そこには、祖母の生家があった。
「おばあちゃん、最期の景色がこれで良かったね」
「これ、ここに置いておくから。よかったら飲んでね」
石碑の前に置かれていた誰かの忘れ物。その横に、新たなペットボトルを立て掛ける。桃の香りつきのミネラルウォーター。祖母が愛飲していたものだ。
生前の祖母は、とにかく桃が好きだった。何度か理由を聞いてみたことがあるが
「この匂いをかぐとね。なんだか心が安心するの」
「この匂いはね、私にとって大切な香りなの」
「理由はわからないんだけどね。とにかく、桃の香りが好きなのよ。とくに夏はね」
と、その時々で理由が変わってしまう。けれども祖母にとって桃のフレーバーは何か大切なものだったようで、強い執着を見せていた。
執着といえば、もうひとつ。祖母は、ことあるごとに青い髪の女性の話をしていた。その女性は、九月が近づくと夢に現れるのだそう。夢の中の祖母はまるで天女のような服を着て、青い髪の女性に付き従っていたという。
「メイドさんみたいな?」
「うーん。たしかに身の回りのお世話をしてはいるのだけど……だけど、天子様との関係はもう少しラフというか。私たちのお姉さんみたいだったのよね」
「え、おばあちゃん一人じゃないの?」
「うん。私ともう一人、同じくらいの年齢の女の子がいて、二人で天子様と暮らしていたの」
よく、そんなことを話してくれた。夢の中の天子様はいつも桃の香りを漂わせていたという。祖母が桃のフレーバーを愛していたことと何か関係があるのだろう。
祖母のことを思い出しつつあらためて盆地を見下ろす。
「おばあちゃん、よくここまで登って来たな」
ふと、山々の向こう側で何かがピカリと光った気がした。稲光にしては長いその光は、青空に浮かぶ白い雲を赤々と染め、またすぐに消えていく。
瞬間、足下からズンと突き上げるような揺れ。
「地震だ」
なお続く縦揺れ。思わず着いた膝が上がらない。それどころか、立膝ではバランスをとることが出来ないほどの揺れが続く。リュックサックで頭を覆い、その場に伏せる。眼を閉じ耐える。
揺れはまだ終わらない。どれくらい揺れているのだろう。もう、三十秒は経ったと思うが。十数年前の記憶がよみがえる。震源から遠く離れた関東でもあの時は一分近く揺れたという。しかし被災者の多くはそれ以上揺れたと語っていた。揺れ始めてどれくらい経ったのだろう。まだ収まらないのか。まだなのか。はやく。はやく。
◇◇◇
「天子様、そろそろ戻りましょうよ。怒られちゃいますよ」
「そうですよ。また、この前みたいにお仕置きされたらどうするんですか」
どこかから声が聞こえてくる。
少し離れた場所に三人の人影が在った。一際背の高い人影を先頭に、幼児ほどの身長の二人が続いている。三人は草原のなかに拓かれた砂利道を歩いている。
「そう? まだ大丈夫だと思うんだけど」
「そんなこと言いながら前はすぐに捕まっちゃったじゃないですか」
「衣玖様にはどうやっても逃げきれないんですから。はやく戻りましょうよ」
三人の進行方向はいずれもこちら。徐々に姿が見えてくる。
「……ヨネもトクも、今日はなんだか厳しいわね」
真ん中で気圧される人影は、三人のなかで一番背が高い。腰まで伸ばした青い髪を揺らしながらずんずんと歩いている。会話を聞く限り、彼女が天子様だろう。白いシャツの上にエプロンに似た白い前掛けを羽織っている。青い髪に青いスカート、その上に白い衣服を重ねる天子は、存在そのものが青空のようだった。
「当たり前です、私たちは天子様の従者ですから! 従者たるもの、主人を補助して当然です!」
その傍らで吠える少女は、さきほどヨネと呼ばれていた。薄く透き通った白い衣から、その下にまとう肌着の影が浮き上がる。このような服を襦袢というのだろうか。
「実は、私たちもあのあと叱られたんですよ」
ヨネの真意を呆れながら解説する少女は、トクという名前らしい。こちらもヨネと同じ服装だった。話しぶりからして、ヨネとトクは天子の従者か何かなのだろう。
「あーなるほどね。――わかった、今日は帰ろうか」
言うと、天子は二人の手を取る。そうして茶色いブーツで地面を軽く蹴ると、三人の身体はふわりと宙に浮きあがる。
「天子様って、こんな静かに飛び立てるんですね。いつも慌ただしいから」
「当たり前でしょ。追われてないんだから」
「できれば、いつもこうして欲しいです……私は急加速にいつまで経っても慣れなくて」
「もー、ヨネはいい加減慣れなって。たしかに初めて浮いた時は怖かったけどさ」
「あのときは本当にごめんって」
和やかに会話を続ける三人にとって、空への飛翔は日常の様だった。上空は風が強いのだろうか。高度を上げていくにつれ、三人の衣服がパタパタと風にはためく。青空を背景に地上を離れ行くその姿はまるで天女のようだ。
安定した軌道で昇天する三人は、青空に浮かぶ黒点となり、やがて見えなくなった。
地上に一人残された私に一陣の風が吹きつける。桃に似た甘い残り香が鼻腔をくすぐった。
◇◇◇
「おい。あんた大丈夫か」
ゆすぶられる刺激と声に跳ね起きる。顔を上げると、そこには作業服姿の男性が不安げにこちらを見ていた。どうやらそのまま眠ってしまっていたらしい。気が付くと、揺れは収まっていた。
「あ、ごめんなさい。ちょっと地震に驚いてしまって」
「ああ、さっきのは大きかったな。この前の余震だろう」
言われて思い出す。そういえば、この地域では一週間ほど前に地震があった。たしかその影響で私鉄が止まっていたような。
「それに、ここは昔地震で崩れた場所なんだ。あぶねえから離れた方が良い」
「そうなんですか」
言われてそそくさと木陰に逃げ戻る。男性は例のパイプ椅子を広げつつ続けた。
「関東大震災ってあるだろ。あのときその坂が、峯坂っていうんだけど、その坂が崩れたんだよ。そのとき女の子二人が行方不明になったって、うちの親父が話してたよ」
「この坂で、ですか」
「そう。そこの石碑は居なくなった女の子二人の慰霊碑なんだよ」
その指が示す石碑は、ちょうど私が桃のミネラルウォーターを供えたものだ。では、その横にある天然水は。
「今朝、おれが置いたんだよ。初めは親父がやってたんだが、俺が跡を継いだって訳だ。ただまあ、行方不明になっただけだからな」
「それは」
「そのままだよ。女の子二人――名前はヨネとトクだっけな――は、この場所で行方不明になった。ただ、遺体や身元の分かるものはいまに至るまで見つかっていないんだよ。だから、二人が死んだって証拠はない」
「もしかしたら、生き延びていたかもしれない。まだ生きていれば今年で九十六か? まあ、こっちは微妙なラインだが。そもそも二人を見たという証言自体、見間違いだった可能性もあるしな」
「もしかしたら、そのまま違う世界に飛ばされたのかもしれない。ほら、最近のマンガはそういうのが多いんだろ?」
「まあ、それは冗談として。実際のところ本当に二人の少女ががけ崩れに遭ったのかはわからない。ただ、このあたりではあの地震の影響で山崩れや土砂崩れが発生して、かなりの犠牲が出たのは確かだ。その事実を知ったうえで身近な場所で崖崩れが起きたとなれば、まあそういう不安に駆られるのもわからなくもない。それに、遺された家族にとって行方不明という事実は、ある種の希望でもあるからな」
「ま、いずれにしても部外者の俺たちがとやかく言うことではないことは確かだ。こういうのは当事者たちの判断に委ねるべきだと俺は思うよ」
そういうと、老人は言葉を切った。そうしてしばらくの間、私たちは言葉を交すことなく盆地を眺めていた。ときおり吹きつけるそよ風が心地よい。
「だからまあ、なんだ。あんたも気を付けて帰るんだぞ。さっきの地震で緩んでるかもしれないから」
突如姿を現し、一通りまくしたてた男性はその場を後にした。きっと作業に戻るのだろう。
その姿を見送りながら、祖母のこと、白昼夢のこと、老人の語ったことを振り返る。
「おじいさんはああ言っていたけど。でも、私、遺された家族なんだよな」
ヨネとトク。
白昼夢のなかに居たあの少女たちは、祖母とその親友と同じ名前だった。出生地も同じであり、老人の言葉を信じるならば、年齢も同じだった。また、白昼夢に出てきた天子という女性。彼女の特徴と、祖母の語る青い髪の女性のそれは一致していたことは、はたして偶然なのだろうか。
「それに行方不明、ねえ」
ここで起きたという崖崩れの伝承。それは、不安を解消するために創られた架空の災害伝承かもしれない。あるいは、遺された遺族が生み出した希望の物語かもしれない。ただ単に事実を伝えているだけかもしれない。
ただひとつ確かなことは、二人の少女が行方不明になったということのみ。行方不明なら生死は定まらない。だからこそ、様々なあり得たかもしれない未来を想像してしまうのだろう。
私もまた、そのひとりである。
私の祖母は崖崩れから生還し天寿を全うした「ヨネ」であり。
夢の世界で見た二人の少女は崖崩れをきっかけに夢の世界に入った「ヨネ」と「トク」であり。
夢の世界で見た青い髪の女性は、二人をあちら側に連れ出した張本人であり。
つまり私の祖母はこちら側に残された「ヨネ」の片割れであり。
祖母の記憶に残る青い髪の女性は、「ヨネ」が分裂した際の残り香であり。
祖母が見たという夢は、あちら側に行った「ヨネ」の日常そのものであり。
毎年九月一日が近づくと同じ夢を見るのは、分裂した「ヨネ」が同期されるためであり。
「ねえ。おばあちゃんは、また桃の香りを嗅げた? 青い髪の女性と再会できた?」
手向けに置いた桃の天然水。それを手に取りキャップを開ける。そのまま横に振りかざすと、木陰一帯に桃の香りが広がった。
「この景色と匂い。おばあちゃんと同じものを見れているかな」
私の視界に人影はない。
それでも、きっと。祖母の視界には現れたはずだ。
『こんなところで何してんの。ほら、さっさと帰るわよ』
青い髪を靡かせた天子様が、桃の香りを漂わせながら。天真爛漫な笑顔を浮かべて。
そういうことにしておきたい.
「ちょっとお散歩に行ってくるわね。夕方には戻るから」
齢九十五の祖母は、その年齢にもかかわらずよく歩きよく喋った。最晩年は落ち着いていたものの、九十の時に親友を失くすまでは、親友と一緒に月に二度は旅行へ行くほどで、それはもう人生を謳歌していた。
親友に先立たれてからも、旅行こそ行かなくなったが、やはり徒歩圏内のありとあらゆる公園やショッピングモール、喫茶店などに足を伸ばしているような人だった。だから、あの日もどこか買い物にでも行くのだろうと見送ったのだけれども、結局帰ってくることはなかった。
祖母が見つかったのは、畑のなかにぽつりと存在する木漏れ日の下だった。
駅を出ると、正面には雄大な山地が見える。その背後、駅の線路を越えて反対側に足を運んでみれば、こちらには丘陵地帯が。そのまま住宅街を抜けて歩いてみると、緩やかなアップダウンを越えていくうちに、いつのまにか丘陵の麓にやってくる。そこからの登りはたしかに心拍が上がったものの、二十代のわが身にとってはとくに問題は無い。しかし、老人の身には相当堪えたのではないか。
最後の坂を登りきったところにある小森の中で、祖母は事切れていたという。
ここは休憩には持ってこいの立地だと思う。炎天下の中を歩き続け汗だくになった私も、気付いたら木陰に立っていた。きっと、かつてここらで畑仕事に精を出していた人々も、こうして息を調えていたのだろう。
あるいは今も、この場所は現役なのかもしれない。木陰の下には折り畳み式の椅子が安置されている。その横には、いくつもの石碑が立っていた。いずれも風化していて文字を読み取ることは叶わない。峠といえば地蔵や庚申様、馬頭観音だが、ここにある石碑たちはきっと別物だ。人の背丈よりも大きな石碑は、きっとこの近辺で起きた何かしらの出来事を記録しているのだろう。私の腰ほどの石柱は、きっとこの場所に高名な人物がやって来た記念碑なのだろう。ペットボトルの水がお供え物の顔で置かれているが、きっとこれは誰かの忘れ物なのだろう。
祖母は、この石碑の間を通り抜けた先に倒れていた。
正面には駅から見上げた山塊が腰を据え、その裾野には、盆地にひしめく地方都市が陽の光を反射している。視線を足元に向ければ景色は農村の様相を示し始め、やがて丘陵に拓かれた段々畑が現れる。そこには、祖母の生家があった。
「おばあちゃん、最期の景色がこれで良かったね」
「これ、ここに置いておくから。よかったら飲んでね」
石碑の前に置かれていた誰かの忘れ物。その横に、新たなペットボトルを立て掛ける。桃の香りつきのミネラルウォーター。祖母が愛飲していたものだ。
生前の祖母は、とにかく桃が好きだった。何度か理由を聞いてみたことがあるが
「この匂いをかぐとね。なんだか心が安心するの」
「この匂いはね、私にとって大切な香りなの」
「理由はわからないんだけどね。とにかく、桃の香りが好きなのよ。とくに夏はね」
と、その時々で理由が変わってしまう。けれども祖母にとって桃のフレーバーは何か大切なものだったようで、強い執着を見せていた。
執着といえば、もうひとつ。祖母は、ことあるごとに青い髪の女性の話をしていた。その女性は、九月が近づくと夢に現れるのだそう。夢の中の祖母はまるで天女のような服を着て、青い髪の女性に付き従っていたという。
「メイドさんみたいな?」
「うーん。たしかに身の回りのお世話をしてはいるのだけど……だけど、天子様との関係はもう少しラフというか。私たちのお姉さんみたいだったのよね」
「え、おばあちゃん一人じゃないの?」
「うん。私ともう一人、同じくらいの年齢の女の子がいて、二人で天子様と暮らしていたの」
よく、そんなことを話してくれた。夢の中の天子様はいつも桃の香りを漂わせていたという。祖母が桃のフレーバーを愛していたことと何か関係があるのだろう。
祖母のことを思い出しつつあらためて盆地を見下ろす。
「おばあちゃん、よくここまで登って来たな」
ふと、山々の向こう側で何かがピカリと光った気がした。稲光にしては長いその光は、青空に浮かぶ白い雲を赤々と染め、またすぐに消えていく。
瞬間、足下からズンと突き上げるような揺れ。
「地震だ」
なお続く縦揺れ。思わず着いた膝が上がらない。それどころか、立膝ではバランスをとることが出来ないほどの揺れが続く。リュックサックで頭を覆い、その場に伏せる。眼を閉じ耐える。
揺れはまだ終わらない。どれくらい揺れているのだろう。もう、三十秒は経ったと思うが。十数年前の記憶がよみがえる。震源から遠く離れた関東でもあの時は一分近く揺れたという。しかし被災者の多くはそれ以上揺れたと語っていた。揺れ始めてどれくらい経ったのだろう。まだ収まらないのか。まだなのか。はやく。はやく。
◇◇◇
「天子様、そろそろ戻りましょうよ。怒られちゃいますよ」
「そうですよ。また、この前みたいにお仕置きされたらどうするんですか」
どこかから声が聞こえてくる。
少し離れた場所に三人の人影が在った。一際背の高い人影を先頭に、幼児ほどの身長の二人が続いている。三人は草原のなかに拓かれた砂利道を歩いている。
「そう? まだ大丈夫だと思うんだけど」
「そんなこと言いながら前はすぐに捕まっちゃったじゃないですか」
「衣玖様にはどうやっても逃げきれないんですから。はやく戻りましょうよ」
三人の進行方向はいずれもこちら。徐々に姿が見えてくる。
「……ヨネもトクも、今日はなんだか厳しいわね」
真ん中で気圧される人影は、三人のなかで一番背が高い。腰まで伸ばした青い髪を揺らしながらずんずんと歩いている。会話を聞く限り、彼女が天子様だろう。白いシャツの上にエプロンに似た白い前掛けを羽織っている。青い髪に青いスカート、その上に白い衣服を重ねる天子は、存在そのものが青空のようだった。
「当たり前です、私たちは天子様の従者ですから! 従者たるもの、主人を補助して当然です!」
その傍らで吠える少女は、さきほどヨネと呼ばれていた。薄く透き通った白い衣から、その下にまとう肌着の影が浮き上がる。このような服を襦袢というのだろうか。
「実は、私たちもあのあと叱られたんですよ」
ヨネの真意を呆れながら解説する少女は、トクという名前らしい。こちらもヨネと同じ服装だった。話しぶりからして、ヨネとトクは天子の従者か何かなのだろう。
「あーなるほどね。――わかった、今日は帰ろうか」
言うと、天子は二人の手を取る。そうして茶色いブーツで地面を軽く蹴ると、三人の身体はふわりと宙に浮きあがる。
「天子様って、こんな静かに飛び立てるんですね。いつも慌ただしいから」
「当たり前でしょ。追われてないんだから」
「できれば、いつもこうして欲しいです……私は急加速にいつまで経っても慣れなくて」
「もー、ヨネはいい加減慣れなって。たしかに初めて浮いた時は怖かったけどさ」
「あのときは本当にごめんって」
和やかに会話を続ける三人にとって、空への飛翔は日常の様だった。上空は風が強いのだろうか。高度を上げていくにつれ、三人の衣服がパタパタと風にはためく。青空を背景に地上を離れ行くその姿はまるで天女のようだ。
安定した軌道で昇天する三人は、青空に浮かぶ黒点となり、やがて見えなくなった。
地上に一人残された私に一陣の風が吹きつける。桃に似た甘い残り香が鼻腔をくすぐった。
◇◇◇
「おい。あんた大丈夫か」
ゆすぶられる刺激と声に跳ね起きる。顔を上げると、そこには作業服姿の男性が不安げにこちらを見ていた。どうやらそのまま眠ってしまっていたらしい。気が付くと、揺れは収まっていた。
「あ、ごめんなさい。ちょっと地震に驚いてしまって」
「ああ、さっきのは大きかったな。この前の余震だろう」
言われて思い出す。そういえば、この地域では一週間ほど前に地震があった。たしかその影響で私鉄が止まっていたような。
「それに、ここは昔地震で崩れた場所なんだ。あぶねえから離れた方が良い」
「そうなんですか」
言われてそそくさと木陰に逃げ戻る。男性は例のパイプ椅子を広げつつ続けた。
「関東大震災ってあるだろ。あのときその坂が、峯坂っていうんだけど、その坂が崩れたんだよ。そのとき女の子二人が行方不明になったって、うちの親父が話してたよ」
「この坂で、ですか」
「そう。そこの石碑は居なくなった女の子二人の慰霊碑なんだよ」
その指が示す石碑は、ちょうど私が桃のミネラルウォーターを供えたものだ。では、その横にある天然水は。
「今朝、おれが置いたんだよ。初めは親父がやってたんだが、俺が跡を継いだって訳だ。ただまあ、行方不明になっただけだからな」
「それは」
「そのままだよ。女の子二人――名前はヨネとトクだっけな――は、この場所で行方不明になった。ただ、遺体や身元の分かるものはいまに至るまで見つかっていないんだよ。だから、二人が死んだって証拠はない」
「もしかしたら、生き延びていたかもしれない。まだ生きていれば今年で九十六か? まあ、こっちは微妙なラインだが。そもそも二人を見たという証言自体、見間違いだった可能性もあるしな」
「もしかしたら、そのまま違う世界に飛ばされたのかもしれない。ほら、最近のマンガはそういうのが多いんだろ?」
「まあ、それは冗談として。実際のところ本当に二人の少女ががけ崩れに遭ったのかはわからない。ただ、このあたりではあの地震の影響で山崩れや土砂崩れが発生して、かなりの犠牲が出たのは確かだ。その事実を知ったうえで身近な場所で崖崩れが起きたとなれば、まあそういう不安に駆られるのもわからなくもない。それに、遺された家族にとって行方不明という事実は、ある種の希望でもあるからな」
「ま、いずれにしても部外者の俺たちがとやかく言うことではないことは確かだ。こういうのは当事者たちの判断に委ねるべきだと俺は思うよ」
そういうと、老人は言葉を切った。そうしてしばらくの間、私たちは言葉を交すことなく盆地を眺めていた。ときおり吹きつけるそよ風が心地よい。
「だからまあ、なんだ。あんたも気を付けて帰るんだぞ。さっきの地震で緩んでるかもしれないから」
突如姿を現し、一通りまくしたてた男性はその場を後にした。きっと作業に戻るのだろう。
その姿を見送りながら、祖母のこと、白昼夢のこと、老人の語ったことを振り返る。
「おじいさんはああ言っていたけど。でも、私、遺された家族なんだよな」
ヨネとトク。
白昼夢のなかに居たあの少女たちは、祖母とその親友と同じ名前だった。出生地も同じであり、老人の言葉を信じるならば、年齢も同じだった。また、白昼夢に出てきた天子という女性。彼女の特徴と、祖母の語る青い髪の女性のそれは一致していたことは、はたして偶然なのだろうか。
「それに行方不明、ねえ」
ここで起きたという崖崩れの伝承。それは、不安を解消するために創られた架空の災害伝承かもしれない。あるいは、遺された遺族が生み出した希望の物語かもしれない。ただ単に事実を伝えているだけかもしれない。
ただひとつ確かなことは、二人の少女が行方不明になったということのみ。行方不明なら生死は定まらない。だからこそ、様々なあり得たかもしれない未来を想像してしまうのだろう。
私もまた、そのひとりである。
私の祖母は崖崩れから生還し天寿を全うした「ヨネ」であり。
夢の世界で見た二人の少女は崖崩れをきっかけに夢の世界に入った「ヨネ」と「トク」であり。
夢の世界で見た青い髪の女性は、二人をあちら側に連れ出した張本人であり。
つまり私の祖母はこちら側に残された「ヨネ」の片割れであり。
祖母の記憶に残る青い髪の女性は、「ヨネ」が分裂した際の残り香であり。
祖母が見たという夢は、あちら側に行った「ヨネ」の日常そのものであり。
毎年九月一日が近づくと同じ夢を見るのは、分裂した「ヨネ」が同期されるためであり。
「ねえ。おばあちゃんは、また桃の香りを嗅げた? 青い髪の女性と再会できた?」
手向けに置いた桃の天然水。それを手に取りキャップを開ける。そのまま横に振りかざすと、木陰一帯に桃の香りが広がった。
「この景色と匂い。おばあちゃんと同じものを見れているかな」
私の視界に人影はない。
それでも、きっと。祖母の視界には現れたはずだ。
『こんなところで何してんの。ほら、さっさと帰るわよ』
青い髪を靡かせた天子様が、桃の香りを漂わせながら。天真爛漫な笑顔を浮かべて。
そういうことにしておきたい.
木漏れ日からの光景をわりと鮮明に伝えて、短い描写で祖母の死に対して切なさを抱かせる高いレベルの描写なら、このままの余韻で終わってもかなり完成度の高い短編だったと思う。それくらいそこまでの描写は素敵でした。
雰囲気も本筋も幻想的で良かったです。有難う御座いました。
最初は誰目線だろうという感じでしたが、しっかり東方を感じられて素敵です!