Coolier - 新生・東方創想話

文字呪

2025/08/28 19:16:05
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「レミリア・スカーレットは月面着陸をしていない」という言説が里で流行りはじめた。
 おそらく元々は根も葉も何もない単なる噂話だったのだろう。月という遠い天体に地上の技術で到達できるはずがない――逆ならともかく――という思い込みが最初にあり、後から「根拠」が生えてきた。写真がないだの戻ってきたのだから当然あるべき復路で用いたロケットが残骸の破片一つ地上にないだの。
 名誉を傷つけられた紅魔館当主が激しく怒り狂ったのは言うまでもないことだった。彼女が里への討伐隊を臣下に指示しなかったのは時代と幻想郷の社会秩序がそれを許さなかったからに過ぎない。もしもこれが三百年前か四百年前かの欧州で起こっていたことなら、彼女は間違いなくそれをしただろう。
 里を血に染める代わりに彼女は二回目の月面着陸を実行に移すことにした。一度目の時点でロケットを使うよりも境界操作のような術法を用いていく方が遥かに楽であるということは判明していたが、レミリアはロケットによる着陸にこだわった。一度目と同じ手法でなくては意味がない。紅魔館の地下図書館ではあのときと同じ系列の祭殿を塔にしたような形のロケットが、一度目と比べれば三倍は早いペースで組み立てれれていった。
 一度目の目的は月の征服だったが、二度目の目的は純粋な訪問である。永遠亭を通して月側に「敵意を持った侵略ではないので無血での着陸を許可してほしい」という通告がなされた。月の都は当然相当な難色を示したが、その後数度の折衝を経て、「着陸地点を都から遠く離れた静かの海沿岸にすることを確実にすること」という条件で奇跡的に受け入れられた。月の都側も、月にまつわる陰謀論が里でいたずらに流行っていることについて思うことがあったらしい。また、訪問には記録が必要だというので天狗の記者一人を同乗させる計画が進められた。意外にもこちらの方が月の都との交渉よりも難航したが、天狗側に「酒と焼き鳥」と揶揄されることとなる交渉により(レミリアは飴による籠絡を純粋に意図して行ったが、天狗にとって焼き鳥とは「言うことを聞かなければお前もこのような姿にするぞ」という最も恐ろしい脅しの鞭だ。文にとって、レミリアは紛れもなく串刺し公(ツェペシユ)だった)、射命丸文が同乗する事となった。もっとも決定してなお文本人は渋り続けていたが。
「天狗は自分で誰よりも自由に空を飛べますからね。そういう者にとって『他の力で空を飛ぶ』ってとんでもない苦痛なんですよ。河童が作った『飛行機』ってものに乗せられたことがあるんですが、あんな揺れる代物で空を飛ぶなんてあいつらマゾヒストなんですか? 聞くところによるとロケットとは飛行機よりももっと酷い乗り物らしいじゃないですか。ああやだ」


***


 上白沢慧音は稗田の屋敷で阿求と話しながら同時に外に聞き耳も立てていた。
「どうかしました? この辺りは特に何事も起きていなく平和そのものと思いますが」
「ああ、今日だったんじゃなかったと思って」
「何がです? ……あれですか」
「多分それだな」
「確かに日付としては今日ですが、時間はまだでしょう。吸血鬼なんですから、太陽がまだ出ている時間にそれに向かって飛んでいくなんていうあまりにも無謀なことはするはずがない」
 レミリアは一度目と同じようにロケット打ち上げを前にそれを披露する祝宴を開催し、それがいつ打ち上げられるかの日付も公表していた。一度目との違いは一度目のパーティーで招待されたのが主に妖怪だった(当時は悪魔の館という呼称が有名で、足を踏み入れようという胆力のある人間はごく僅かだった)なのに対して今回は里に招待状が撒かれたというのがある。結局それで来たのは撒かれた招待状の枚数の四分の一程度の物好きだったが、彼ら彼女らはロケット、洋館、洋食、妖精メイド、吸血鬼といった物好きが好きな珍奇な事物を満喫しパーティーは好評だった。阿求と慧音もこのパーティーに参加していた。阿求は物好きとして、慧音は万一に備えた護衛として。
「理屈の上ではそうなんだがあいつは理屈を超えたことをしでかすじゃないか」
「あの吸血鬼は意外と平穏を求めてますから多分夜になるまで打ち上げませんよ。それに万一今打ち上がろうが順当に夜になろうが、私達にとっては特に関係のないことではありませんか」
「そうは言うがね、あのロケットというものの飛翔は、ゴゴゴゴという遥か遠くからこちらの天地まで揺らす音はどうにも慣れない」
「意外と小心者なんですね。天が落ちてくるのを憂う杞の人みたい」
 阿求は意地悪く笑った。
「それだけ君達里の人間を案じているのだ。あんまりからかうものじゃない」
 慧音は少し頬を赤らめて説教した。
「まあまあ、真面目な話、『我々にとって』問題なのは打ち上げそのものじゃないのですよ。問題なのはその後どうなるか、ということで」
「一理あるな。里の現状はどうだ?」
「変わらずですね。相変わらず『月面着陸捏造説』は一部で根強い信仰を得ている」
 慧音は満月の日は編纂、それ以外の日は教鞭をとるのに忙しく、陰謀論の件の調査は阿求に任せていた。阿求も阿求も決して暇というわけではないが、彼女の場合はどのみち縁起に記録する可能性がある出来事の調査も兼ねることになるという実益が伴うから時間の捻出がしやすい。
「パーティーの参加者の中には一割くらいあの説の信奉者がいたと思うが、信念は変えずか」
「むしろ『こんなものが飛ぶわけがない』『それらしく見せるための模型だ』と逆に意固地になったようですね。熱心で行動力があるのは感心すべきことなのかもしれませんが、どうしてこうも頭が固いのか」
「お前に頭が固いと言われるとは夢にも思わなかっただろうな」
「貴方ほどじゃないですよ。寺子屋の子供達にも有名ですよ、貴方の石頭は。物理的にも、比喩という意味でも」
「言うじゃないか」
 阿求は慧音にとっては教え子の一人でもあったが、阿求に頭突きをしたことはなかったなと懐古した。今ここが教室だったら阿求を頭突いていただろう。ある種彼女も成長したのだなと慧音は感慨深い気持ちになった。
「いやほんとにあいつらなんなんですか。あったこと全部をなかったかのように言って」
「それはちょっと違うな。彼らだって、紅霧異変がなかったとは思っていない」
「そりゃそうでしょう。現にあったんだもん」
「しかし月面着陸、ひいては第二次月面戦争はなかったと思っている」
「これが分からない」
 阿求は小馬鹿にしたようにため息をついた。
「私はね、ある考え方を採用するならば、分からなくはないと思っている。逆にお前はどうして後者もあったと思っている?」
「いやだってそれが歴史じゃないですか」
「では問うが歴史とはなんだ?」
「釈迦に説法ですね。昔起きたこと」
「なるほどな。ところで私の昨日の夕食は蟹だったのだが」
「そうなんですか?」
「これは歴史か?」
「まあ、そうなんじゃないですか? 私の仕事じゃないけれど、そういうのを記録する人がいてもいいと思います」
「じゃあそう日記に書いておくか。ま、これは嘘なんだけれどな」
「じゃあ歴史じゃないじゃないですか。いつからそんなどこぞの白黒みたいな性格になったんですか」
「ものの例えだよ。昨日今日の出来事だから『私は昨日蟹を食べた』が嘘だと分かるが、そのまま放置して一ヶ月も経てばそれが嘘だったかどうかなんて忘れるから……普通の人は忘れるんだ、今は頭で理解してくれ、それが歴史になる」
「起こってもないのに」
「起こってはないが、歴史だ。お前は、『そういうのを記録する人がいてもいい』と言ったな。歴史の本質はそっち、記録されたものなんだ」
「それは、なんというか、随分と斜に構えた見方ですよね。その考え方採用すると何でもありってことになりますが、こっちだって一生懸命真実を遺そうとしてるんですよ」
 阿求は苛立った。
「仕方ないだろう。斜に構えすぎて土台がスッポ抜けた奴らの思考を想像してるんだから。つまり、まあ平たく言うと我々が記録主義なのに対してあいつらは一種の実証主義なんだ。間違いか間違いでないかでいうと彼らは間違っているんだが、一定の理はある。文字記録というのは一種の呪いだ。起きてないことを正しいものとねじ曲げるし、文字に書かなかったものは最初から起こっていなかったのと同じように消える」
「じゃあどうしろっていうんですか。まさかその目で見ないと信じないんだからロケットに全員くくりつけてっていうわけにはいかないでしょう?」
「いかないな。大体、今回はまだ冗談でもそういう案が言えるが、大体の歴史的出来事っていうのは後から二度目を体験して確認しますってわけにはいかないんだ。だからあいつらは斜に構えすぎて土台がスッポ抜けてる。社会を成立させるための常識的な歴史観って土台がない」
「土台を取り戻すしかないかあ。どうせ夏休みですよね? 大人集めて夏期講習でも。協力はしますよ」
「ありがたくはあるが、先生ってのは夏休みでもそんな暇じゃないんだ。世知辛いことに。なんせ子供の相手してる間先送りにしてる業務が全部来るからねえ」
「ありゃまあそれはご愁傷さま。愚痴なら鯨呑亭のとこの娘さんか夜雀のところにでもどうぞ」
「そこは『愚痴なら私が聞いてあげます』っていうところだ……。まあ、無策ではないんだ。要は文字への信仰を取り戻させればいいんだ。白沢ってのは、人々に歴史を信じさせることで力を保ってきた神獣なのでな。白沢になったものに代々伝わる呪法ってのがあるのさ」
 慧音は息を吐いて立ち上がり阿求に背を向けた。部屋の襖を開けると、廊下の隙間から夏の蒸し暑い空気が景色に陽炎をかけているのが少しだけ見えた。


***


 儀式はつつがなく行われたが、特に何か起こるということもなく次の満月になった。
 慧音が行ったのは白沢に代々伝わる呪法であり、白沢になった者にその知識は必ず埋め込まれる。だが、前世の記憶までは引き継がれないから、儀式をすると実際言われている通りの効能があるのかとか、そもそも過去行われたことがあるのかとか、そういうのは実のところ怪しい。自分は今里にはびこる陰謀論者とは違うと信じたい慧音だったが、自分が今儀式の効能を妄信しているのも彼らと何が違うのだという疑念が少しだけ芽生えてくる頃合いだった。
 が、それはそれとして満月になると変身し、変身している間に歴史の編纂を行わなければならない。これもまた白沢に代々伝わる呪いであり、こちらはどういうものか何度も経験していて疑いの余地はなかった。
 慧音の家の書斎は北側以外の三方向に襖があり、それらは容易に取り外せるようになっていて、しかも襖を外した三方向は屋外に広く口を開けた状態になる(西側は続く部屋の襖も取り外す必要があるが)。これは月に一度、歴史を作る作業に際して月光を屋内に全力で取り入れるためである。彼女は月の光を全身に浴びながら、月光と己の夜目のみで、人工的な灯りは一切用いずこの作業を行う。
 慧音は白紙の巻物を畳の上に放り投げるようにして端を開き――歴史の編纂という言葉から想像されるような繊細なイメージに反して作業の所作の一つ一つは最大限よくいっても野性的、有り体に言えばがさつだった――作業を始めようとしたが、紙が妙に黄色く光っているような気がして慧音は早々に手を止めた。
 作業を止められるというのは誠に苛立たしいことだが、気になっては作業にならないので手を止めてでも解決せねばならない。この場合作業を止めてるのは紙が黄色いなどという理性的には些事なことを感情的に気にしている自分自身なので、慧音は自分自身に苛立ちながら解決を求めた。
 とはいえ、原因に関しては手を止めて室内を見渡した時点で二つに絞れた。室内にあるもの全てが黄色かったからである。おかしいのは自分の目か世界かだ。それで慧音は次に鏡に自分の顔を映した。自分の目がおかしい場合の方がいくらか対処は楽だと思ったのである。眼球含めて自分の顔も全体的に黄色を足したようになっているのを確認した。
 これの意味するところは、と考えて慧音は苦笑いした。自分の目がおかしかろうと世界がおかしかろうと、どっちにしろ自分の目はおかしく見えるのだ。今の行動は何一つ証明してはいない。己の愚行(とは言い切れないがまあまあ無意味ではある行為)が馬鹿馬鹿しくなり、却って少し気が楽になった。
 強いて行動に意味を求めるならば、単純に一対一の二択だったのが、七割くらいはおかしいのは世界の側の可能性の方が高いというのに偏りはした。赤眼の兎が世界を赤く見ているのではないように、眼が黄色くても視界が黄色くなるとは限らないからである。
 ただ世界の方がおかしいという事態を避けたくはあった。そうだったら実に面倒だ。
 この思考は奇妙だ。慧音が面倒で避けたいと思ったとしてもそれとは無関係におかしくなるのが世界だ。後に慧音はこの時点で自分は狂っていたのだろうと述懐し、それが歴史となった。
 しかし、歴史になる前のこの時点ではまだ自分が狂ってるなんて思いもしなかったから完全に正常な判断として、嫌々確認をするために外に出て、最初に、誰に指図されるまでもなく月を見た。
 雲一つない夜空の東方に月が浮かんでいた。満月の大きさはいつもの倍くらいの大きさに見えて、その光に照らされた山の稜線はそこに生える木の枝や葉の付き方までもくっきりと見えるくらいだった。
 世界が黄色く光っているのは月が強く光っているから。月がおかしくなる異変が過去にあったにも関わらず、慧音はなんだそんなことか、至極当然なことではないかと思った。
「なぜこんなところにいる」
 ただ、これは少し奇妙なことだ。慧音は月に話しかけられたような気がした。
「少し気になったことがあったのです」
「気になった? これは当然のことではないか。石を池に投げ込めば波紋が広がっていく。そしてその石を投げ入れたのは貴様だ。それを気になったとはそれこそ異なこと」
「月に対して何かをした覚えはありませんが……」
「貴様は儀式をしたではないか。それが石だ」
 慧音は歴史や文字に対して儀式をした覚えはあるが、月にしてした覚えはない。だからこれに対する返答も「心当たりがない」であるべきだったが、彼女は自分を正気だと思い込んで狂っていたので、因果関係を疑問に思うことなく書斎に戻り、筆を手に取った。
 この日は異常に筆が乗った。普通なら編纂とは思考の出力だから考えて結果として筆が動くが、今は筆が勝手に動き、あらかじめ予定されていたかのように墨が紙面に撒かれた。あまりに早く書き進むので墨の残りを気にしないといけないくらいだったが、墨の追加すらも、墨を少し硯の上で擦ると偶然に適切に墨が崩れて水も一回で墨の量に対して丁度が入ったのでこの工程すら慧音の手を止めなかった。
「貴様の使命とはこれだ。貴様はそれを果たさなければならない」
 また月が語りかけてきた。
「儀式への対応の対応として歴史を編纂することがですか」
「儀式は関係ない。歴史の編纂そのものが、だ。貴様は使命があるから満月の日に一晩筆を取らなければならない」
「その言い草だと、私が自由意志ではなく貴方の傀儡として仕事をしているように聞こえますね。流石に認識が相違している」
「無論、貴様が間違っている。一体、どれだけの者が、どれだけの程度で真に自分の意志で行動をしているだろうか?」
「その言い方はいささか権威主義ですね。今の人妖は相当自由ですよ。無論私含め」
 慧音は月に反論するが、一番の反抗になる「執筆の手を止める」はそういう発想自体が思いつかなかったという理由でせず作業を進めた。
「例えば制度が自由だったとしても、まるで無制限に行動できるというわけではない。法によって束縛され、常識によって束縛され、呪いによって束縛される。貴様自身が言っていたではないか。『文字記録とは一種の呪いだ』と。地上人は、『文字記録に遺らない出来事を認識し続けることができない』という呪いと『文字記録に権威性を見出してしまう呪い』という文字に関する呪いを背負っている。酸素のない場所に留まることができないように、光のある場所を進むよう仕向けられているように、呪いにより指向された自由だ」
「文字が呪いというのは同意しますが、私がこの仕事をするのとはまだ繋がっていないように思えます」
「誰かが記録を作らなければなるまい。だから貴様は呪われたのだ。それが呪いである証拠として、白沢とは常に後天的なものとして生まれる」
 月が嘲笑したような気がした。編纂の間に高度を増した月そのものは書斎からは死角に入っていたし、慧音は月があるであろう方角に目を向けようともせずただ巻物のみを見つめていた。仮に見えたとして、そもそも月に表情なんてものはない。が、それでも慧音は月に嘲笑われたように思えた。それを意識した瞬間、手の自由が利かなくなり、手はまるで自分の手ではないかのように、それまでと全く同じように素早く紙の上に文字を投げ続けた。


***


 翌朝、慧音の手元には歴史とその倍くらいの量がある奇妙な文字列と記号の羅列が遺った。月の光に狂ったのかもしれないが、一種の呪符のような作用があるような気もした。これの存在があって術式が完成するのかもしれない。「自分がした儀式に対して月から働きかけがある」という事態が既に想定外だったから、自分の今までの経験に基づいて判断することはできなかった。安全策をとると「念の為歴史書とは分けて保管しておく」になる。量が量なので体感ではむしろ昨晩の執筆よりも時間のかかる作業で、慧音はこれを書いた過去の自分と書かせた月に心の中で文句を言っていた。
 月に対してはもう一つ文句を言いたいことがあった。月は光でもって自分を狂わせてこれをさせたに違いないが、月の光とは無差別に地上に降り注ぎ平等に全妖怪を狂わせるものである。絶対に影響は自分がおかしくなったというだけでは済まされず大混乱になったに違いない。整理を済ませた時点で昼を回っていたが、慧音は重い腰を上げて状況確認に外出した。
 意外なことに、妖怪がおかしくなったという話は聞かなかった。むしろ人間の側に種々の異常ありという話を、稗田家に着くまでの道中で色々耳にした。
 目に埃が入ると嘆く者がいた。ある視力自慢は空を飛ぶ鷲がよく見えなくなったと騒ぎ、ある画家は今朝から空の碧さが足りなくなったと不満をこぼした。
「異常現象により眼が喰らわれている」
 丁稚の一人が喘息の発作によって咳き込んでいた。ある中年は足を踏み出すごとにしゃっくりの音を立てていた。
「何かは喉を犯している」
 ある店は玄関が閉じられ、「作業が上手くいかないので本日臨時閉店」との張り紙が扉につけられていた。里の外から猟師が帰ってきたが手ぶらで、鹿を撃ち損じたことを嘆いていた。
「それは、頭脳や精神を麻痺させる呪いである」
 里は、小さな異常が埃のように積もり結構な、多少あり方を変えねばならぬくらいの混乱になっていたが、慧音はむしろ「まあこんなものか」と冷めつつあった。
「陰謀論騒ぎは一晩で全く鳴りを潜めた。それだけでも結構なことじゃないか」
「楽観的に考えるならばそうですね」
 阿求はぶっきらぼうにそう返事して意識の半分以上は慧音が持ってきた記録に目を通すのに使っていた。彼女は眼鏡をかけていた。症状は視覚に表れているらしい。
「不満そうじゃないか」
「ある狂乱が別の狂乱に上書きされたってだけですからね、これは。その原因は」
「文字の呪いなのだろうな。昨晩、私が起こした儀式の結果として月光が強さを増して、以来こうなった」
「今朝から文字の主張が激しくて目が疲れるのですよ。かといって立場上文字からは離れられないから眼鏡をかけて目薬をさしてごまかすしかない」
「まあいずれこの騒ぎも収まるさ。文字の呪いというのをもう少し考えていたのだが、文字とはそれが表す物に対する影のようなものなのではないのだろうか。例えば昨日までは文字の力が衰えていたから空の鷲を見るものは鷲そのものを見ていたが、文字の力が強くなって鷲の影の方を追おうとするようになった。猟銃は鹿ではなく鹿の影の方を向くから外れてしまう。今のところはね。人間の適応力というのを考えるならばいずれ影と物そのものの間にある視差は修正されるだろう」
「貴方は外野からそのいずれを待てるんでしょうけれどね、こちとらいずれまでに目の痛みに耐えながら里のゴタゴタの一部も処理しなきゃいけない立場なんですよ」
「そんなこと言われてもなあ、お前だって儀式に賛成したじゃないか」
「分かってます。誰のせいにもできないからやり場のない苛立ちを抱えているんじゃないですか。せめて愚痴くらいは聞いてください」
 慧音は阿求のあまりにも我儘な要求に苦笑いするしかなかった。前回、愚痴は聞くもんだというようなことを言った手前、断る訳にもいかない。
 前にもこんなことがあった気がしたなと慧音はふと思った。忘れてたというだけで、白沢が歴史を人々に信じさせるにあたっては毎度同じようなことが起きていたのではなかろうか? 御阿礼の子が百年二百年の間隔を経て現れることにも何か関係が? 慧音は何かに気が付きそうになったが、考えをまとめるには世界はあまりにも文字の混乱に満ちていた。
 慧音が考え事をして話を右から左に聞き流し続けるものだから、ついに阿求は頬を膨らませて客人を置いて部屋から出ていってしまった。無神経にもそのことを全く無視して思案し続けた後、文字記録が権威性を取り戻し陰謀論が霧散したという成果の前にはこの疑問は些事だという、いささか思考放棄的な結論に至った。慧音らしからぬが、それもまた文字の呪いなのかもしれないし、今の里の哲学を反映するならばこれで大正解だった。
 その日の夜、レミリアらは幻想郷に帰還した。翌日文が発行した「二度目の月面着陸に際して月で撮られた写真」が掲載された新聞は里で飛ぶように売れた。幻想郷縁起にも、「この年を代表する出来事」として新聞の切り抜きが掲載されている。
この話を書いた経緯なのですが、紅楼夢にサークル参加すること、出す小説のテーマを永夜抄にすることを決め、それにあたり慧音の小説が手持ちに丁度いいのがないから書き下ろそうとなった、というものです。丁度幻存神籤で慧音の情報追加されてたのでそれを使い、歴史とか記録と組み合わせやすそうなところで陰謀論ネタを一度やりたかったからそういう要素も入れて、で執筆していたのが6〜7月。

そして他の話含め執筆が終わったので校正と組版編集の段階に入るかと一太郎に文章を流し込み書式を整え終わったくらいのタイミングで錦上京製品版が頒布・公開されました。

その結果がこれですよ。本編が月の都が地上に介入しつつ情報氾濫に対処する話でExが陰謀論ネタでした。そんな題材被ることある!?

作品公開が製品版頒布より後になった以上「製品版を見ずに話を書いた」ことを証明するすべはないのですが……。ただその漂う「錦上京エアプ感」で信じてはもらえるのではないかと思ってます。絶妙に、ほんと大ハズレでもなく絶妙に、作中解釈とズレてますからね。錦製品版を見てたら少なくとも私はこの題材とストーリーでは書かないね。

東方二次創作史として、この作品は「幻存神籤と錦上京製品版の間」でしか書かれ得なかった、今後絶対に書かれることはない時代の徒花です。問題はこの話(と他の短編いくつか)を合わせて本にして価格をつけて売ろうとしてることですが……。正直少し悩みましたが、残りの期間でこれを超えるクオリティの話を書こうとすることにはリスクもあること、何より時代の徒花っぷりが一周回って面白かろうということで大筋はそのまま(絶賛校正中なので細かいところは変わるかも)で出そうと思います。

ということで2025年10月12日、インテックス大阪で開催される東方紅楼夢はスペース番号「か-18a」にてお待ちしてます。新刊『Moon Walk』は本作含めたそそわ公開済みの短編5本と新規書き下ろし短編3本を収録、頒布価格1000円です。
東ノ目
https://x.com/Shino_eyes
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コメント



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1.90ローファル削除
多分私の理解が及んでいない(のと錦上京EXをまだプレイしていない)ので月並みな感想になってしまいますが作中の二人の落ち着き払った様子の会話を見ているともし慧音が利己的な性格だったら人里って簡単に瓦解するのでは……と思えてしまいます。
日々仕事でお疲れの二人にお休みあれ。
2.90奇声を発する程度の能力削除
良かったです
3.90福哭傀のクロ削除
歴史と記録と文字の話、で多分いいはず。こうしてみると近いところにいるはずなのに、慧音と阿求は歴史の観点で言うと面白い見方もできるなと。難しい話……か?いや、整理すれば意外とシンプルな構造、でもまあ歴史弱者の私としてはとっかかりが難しそうなのに対して、取り上げた『月面着陸捏造説』がちょっと面白過ぎて、こういう気遣い?って大事だよなぁと。原作云々は時期的な隙間をぬって出した作品としてこういうのも全然ありかと。
5.100南条削除
面白かったです
文字と狂気の狭間で正しいことを正しいこととして記録して認識するというのがいかに難しいかを感じました
まあ信じるしかないんですけど
6.100名前が無い程度の能力削除
最初の一行目からやられました。大変興味深かったです。
7.100ひょうすべ削除
よかったです
8.100白梅削除
導入も面白くてそっちの話も見たくなるほどでした

原作で新しい物語や設定とかが出るのは興味深い反面二次創作においては歯がゆいことありますよね