――道具を大切にしろと、人は言う。
道具は人を助けてくれるものだ。人々の生活を豊かにし、便利にし、時には命をも助けてくれる。
しかし道具とは、どこまでいっても“道具“である。
どれだけ錆びぬよう手入れしようとも、どれだけ欠けた部位を修繕しようとも、いずれは使い物にならなくなり捨てられる。
付喪神のように第二の生を得たとて、“道具として使われ続ける”ことはない。
それが“道具”として生み出されたものの定めだ。
――ならば。
自らが人の礎に埋まってもいいと。たとえ自分は捨てられようとも、「自らを使う者の幸せが自分の幸せだ」と、そう言える者ならば。
その者の手足は、体は。魂は。
“道具”足りえるのだろうか――
爽やかに吹き抜ける風が木々を揺らした。
外ではチチッ、チチッ、ツィー……と鳥の会話が聞こえてくる。
今は皐月(さつき)の中頃、人里では田植えが始まり、幻想郷の各所は初夏の様相を呈している。
こんなのどかな日には、縁側に座ってお茶を飲みながら、自然を感じるのがいいだろう。あるいは、早めの風鈴でも吊り下げて涼やかな音を聞きながら、日陰で昼寝をするのもいいかもしれない。
しかし、そうゆったりと過ごせない者が一人。妖怪の山に居を構える射命丸文は、窓すら開けず、暗い部屋の中で机に突っ伏して唸っていた。
「うぅ、あたま痛……」
体が重く、動こうという気力が湧かない。窓の隙間が明るくなってからどれだけ経ったのだろう。
遠くに聞こえる渓流の水音を聴いていると少しだけ頭痛が和らぐような気がして、朝からずっとこうしていたのだが……。
いつまでも動かないわけにはいかない。いい加減活動を始めなければ。
嫌がる体を無理矢理起こし、跳ね上げ式の窓を開けて風を浴びる。
「はぁ……。なんでこんな時期に風邪なんて引いたのか。はたて辺りに知られたら全力で煽られそうだわ……。」
そう愚痴をこぼしながら背伸びをし、桶に溜めてあった水で顔を洗う。
冷感とは痛覚よりも優先して感じられるそうだ。夜のうちに冷えた水を頭から被ると、その冷たさに頭痛が上書きされ、働いていなかった頭が多少はスッキリする。
「ッ⁉︎寒…。水が冷えすぎてたのかしら……。まあいいわ。今日はどうしようか。取材か原稿か……。」
今は春眠に寝ぼけていた者たちがようやく暁を覚え、秋の収穫に向けて準備を始める、いわば生命が最も活発な時期。体調を崩したとしても、こんなときに家に籠っているなんて勿体無い。
よし。ならば今日は飛び回ってこよう。そうして気分転換できれば、風邪もすぐに治ってしまうに違いない。
太陽の畑は今頃紫陽花で埋め尽くされていそうだし、霧の湖や魔法の森は妖精たちがはしゃぎまわっているかも。――それから、あそこに行きたい。
……うーん、何故そう思ったのだろう?
ポンっと脳内に「あそこ」が思い浮かんだことに疑問を覚えるが、すぐにそれはかき消される。
「……まあ、あそこもネタの宝庫ですし。行って損はないでしょう。それにタイミングが合えば、豊作祈願の祈祷をしているかも……」
そんな言い訳がましいことを呟きながら外出の準備をする。
服装はいつものフォーマルな半袖シャツにミニスカート。文花帖は――鞄に入れた。写真機は――首に提げた。
確認は怠らない。いざというときに準備不足で満足な取材ができないとあっては記者の名折れだ。今ではどんな状況であろうと必ず行うルーティーンである。
「――さて。行きますか!」
外に出て自慢の翼を広げる。バササッという羽音とともに大量の黒い羽根が舞った。眷属の鴉たちが集まってきたのかな。
重かった身体も、やる気になってしまえばなんてことはない。普段よりも頭が軽いくらいだ。
文がふわっと空を見上げると、たちまち周囲の空気が渦巻き、木々がざわめく。そして流れ来た翠色の風を捉えると、一気に飛翔した。
「うーん、気持ちいいわねぇ……」
日常とお茶を愛する巫女――博麗霊夢は、縁側に寝転んで日差しに目を細めながら、そう呟いた。
ここ最近はどこも平穏そのもので、たまの宴会以外には大した行事も無ければ、事件も起こらない。
強いて挙げるなら、田園地帯で豊作祈願をしたくらいか。しかしそれだってあっさり終わるものだ。
私の仕事、もう落ち葉掃除だけでいいんじゃないかしら~。
などと考えていると、霊夢の鼻頭を微かな風がくすぐった。
実際には風など吹いていなかったのだが、感じ取ったのだ。霊夢はとろんとしていた表情を一転、眉をひそめた。
「……今日は随分とうるさいわね」
体を起こし、伏せてあった二つ目の湯飲みをひっくり返して急須を揺らす。手に伝わる重さから二杯分は残っていそうだと軽く頷き、急須を置いて、“いつもの”ぶっきらぼうな表情で空を見上げる。
次の瞬間、霊夢の前につむじ風が落ちたかと思うと、目の前に一つの影が現れた。
「そこな巫女さん。のんびりされてますが、お仕事はよろしいので?」
「生憎と、今日は無いわよ。行事ごとは大方終わってるし、ここに来ても大したネタ……は……」
霊夢はそこまで言って、言葉を詰まらせた。
「?……あのー、どうかしました?」
首を傾げて問う文には答えず、彼女の姿を頭から足先まで凝視する。
「えぇっと、私に何かついてますかね?そう無言で見つめ続けられると、居心地が悪いのですが……。」
言い募る文の瞳に、ゆっくりと視線を戻す。戸惑いの色を浮かべる文とは対照的に、見開かれた霊夢の瞳はどんどん色を失い、欠けたガラスのような剣呑な雰囲気を帯びていく。
霊夢の透明な瞳に映っていたのは、大空を力強く飛び、鋭い意志と覇気を宿す鴉天狗の姿ではなかった。
「……アンタ、気づいてないの?」
「気づいてないって、何に」
「その頭と、翼によ!!」
突然大声をあげた霊夢に驚いて、文は思わず後ずさる。
そこにいたのは、まるで澱んだ水のような生気のない顔をして、無理をしているとしか思えない雰囲気の少女だった。服は整えられているようで端が乱れており、肌には艶がない。
文は後ずさったことで足元に落ちていた幾枚もの羽根を踏んだことに気づき、首を傾げた。
その動作によって、さらに数枚の羽根が抜け落ちる。
「……私の羽根?羽繕い(つばさのかんり)は普段からしているのですが……いやここ数日はしていないかも……」
それを聞いた霊夢は呆れた様子で言う。
「うちに降りてくるまでにも、ばさばさ散らしてたわよ。それから、その頭。髪はボサボサ、頭襟もつけてないじゃない。一体、何があったのよ。教えなさい」
「え?あれっ。――そうか、妙に軽いと思ったら……。あ、いえ、少し体調を崩しただけで」「体調を崩した?」
「は、はい、ちょっと軽い風邪を。……あはは、おかしいですよね、こんな季節に風邪をひくなんて。まあすぐ治りますよ、大したことは……」
「天狗なんて高位の妖怪が体調を崩すなんて、そうそうあると思えない。それに、普段から散々アンタに絡まれてる(接してる)私が分からないと思う?今のアンタは十分すぎるくらいに、大したことあるわよ!」
しまったな。私としたことが、身なりを十分整えないまま出てきてしまうなんて。出発前に確認はしたはずなんだけれど……。
にしても、霊夢は随分と大げさね。ちょっと準備不足だっただけじゃない。
まあこんなナリでは出会った人に怪訝な顔をされてしまう。一番に此処へ来たのは不幸中の幸いってところね。とにかく一度帰って、改めて出直すとしよう。
「とにかく!私はどうってことありません。貴方の言うように此処には良いネタが無さそうですので、私はお暇(おいとま)させていただきますね。――それとも、貴方は私に此処にいて欲しいんですか?っと、これはこれは。甘えん坊で困った巫女ちゃんですねぇ。」
霊夢は笑ったり怒ったり、いつもせわしない。こういうことを言って煽ってやれば、大抵暴力巫女になって追い出そうとするのだ。
ほうら、みるみるうちに拳が震え出した。これで……
文は心の中でほくそ笑みながら言葉を並べるが、霊夢の反応は文の想像とは違うものだった。
振り上げられるかと思われた霊夢の手から力が抜ける。
そして霊夢の口から発されたのは、肯定の言葉だった。
「――はあ。……そうよ、いて欲しいの。」
「おや。どういった風の吹き回しでしょうかね」
予想が外れて疑問符を浮かべる私に、霊夢は脈絡なく口を開き。
「ね、勝負しましょう。私が勝ったら、今日はここにいて。アンタが勝ったら、どこへでも取材に行くといいわ。」
「どういう意図か存じ上げませんが、私がその勝負に乗って勝とうが乗らずに逃げようが、結果は変わらないのですが?勝負に乗るメリットがありません。」
そうだ。この子の言う勝負にわざわざ乗るまでもない。さっさと飛び去ってしまえばいいのだが。
「だってアンタは逃げないでしょう?誇り高い烏天狗さん。」
……私も霊夢のことをとやかく言えないかもしれないな。
普段とはあまりに様子が違うから、この子がいったい何を考えてるのか解らないけど。
そんなことをそんなに真面目な顔で言われたら、受けて立つしかないじゃない。
「……あつい。……いや、さむい……?」
目が覚めると、そこは神社の母屋の一室だった。横に目をやると、障子越しに朱い光がぼんやりと揺れている。そこからは障子の格子状に紺桔梗の影が伸びていて、今が夕方であることを教えてくれた。
首を回したことで、衣服にも違和感を覚える。麻布のような肌触りのそれは、文が気絶している間に霊夢によって着替えさせられたものらしい。
「こうしちゃ、いられ……っ」
重い。
文は直ぐに起き上がろうとしたが、体が言うことを聞かない。腕をあげるのがやっとで、今朝方感じていたものとは比べ物にならないくらいの倦怠感。力を抜いて持ち上げていた腕を下ろすと、はぁっと息が漏れた。
弾幕ごっこで被弾したからといってこんな風になるわけがない。恐らく風邪が悪化したのだろう。
文は無理に動くのを諦め、揺れる天井を眺めながら先程の記憶を思い起こす。
「……なんで負けたんだろう」
勝負はあっさりとしたものだった。
開始と同時に弾幕をばら撒いて、高速飛行で彼女の後ろに回り込もうとしたのだが、何故か彼女の方が明らかに速く動いていたのだ。普段ならば彼女が勘に頼らざるを得ないはずの瞬間的な移動に、目線がしっかりと追い付いていた。
そしてそのまま、読まれたように移動先に大幣が振り下ろされ、被弾と相成ったのだった。
「あんたが体調崩してるからよ。」
障子とは反対の方から聞こえた声に文が首を回すと、そこにはお盆を持った霊夢が苦笑いしながら立っていた。
「馬鹿も風邪は引くのねぇ」
霊夢が傍に座りながら呆れたように言ってくる。正面から馬鹿と言われたことに腹が立ったが、実際、大したことないと言いつつこうして倒れたのだから、私が馬鹿だということなんだろう。
言い返せず黙って目を逸らすと、不意に頬に冷たい物を当てられ、ひゃっと声を出してしまった。
「ふふっ。ひゃっ、だって。驚き方も普段と違って、か弱くて結構可愛いわね。実はこっちが素なのかしら。」
「なにを……あ……」
頬に当てられたのは濡れタオルだった。それを軽くたたんで、額に乗せられる。小川の水に手を触れたときのように、冷たすぎず気持ちのいい冷涼感が染みこんでいく。
「んぅ……」
こわばっていた全身がゆるりと弛緩するのを感じる。額を冷やされるだけでこうも違うものかと考えていると、こちらを見てほほ笑む霊夢と目が合った。
……待て。今、霊夢に何を言われた?タオルの気持ちよさにぼうっとしてしまったけど、確か、私のことを――
「……っ」
熱を冷まされていく額に反比例するように、風邪によるものとは違う要因で頬が火照るのを感じる。
いや、これは違うから。今の反応はちょっと驚いただけで……。
照れくさくなって思わず口を開こうとするが、その瞬間、喉が痛んで咳きこんでしまった。
「こら、無理に声出そうとしない」
霊夢に優しい声で諭される。ついでに頭を撫でられて、余計なお世話だとその手を払いたいのに。でも実際の自分は、眼を閉じてそれを受け入れてしまっていて……。
はあ。普段のように事が運ばなくて、自慢の速さを発揮できなくて、人間よりずっと身体の強い私が霊夢にその自分を委ねるしかなくて。
今の私の心は、かなり弱っているのかな。
己が弱っていることを自覚すると同時に、感情の天秤はネガティブな方向に傾き始めた。
ああ、情けない。無為に反発したがって、優しくされればそれに身を任せてしまう。これではまるで、親に守られるだけの雛鳥ではないか。
撫でられ続けていることで安心感が私を満たすとともに、同じくらい大きな不安が押し寄せる。
一度傾いてしまった天秤の皿は、もう元の位置には戻れなかった。
今や記憶の彼方にあるはずの、私がまだ普通の鴉だった時の感覚。
妖力を得て、天狗という妖怪の中でも高位に位置する誇り高き存在になって。数々の経験と研鑽を重ね、常に成長し続けてきた。
――普段の私ならば、そう言えただろうか。
――それって、どんな姿だったっけ。
堂々と前を向きすっくと立つ、そんな自分がイメージできない。たとえ身体が強くなろうとも、どれだけ技術を磨こうとも。中身が、私自身が、あの頃の自分から成長していると思えない。
……考えが表情に現れていたのだろうか。心配そうにこちらを見つめる霊夢の瞳は、夕焼けと宵闇を織り混ぜたような色を湛えている。
そして再び慈しむように、
「たまにはいいのよ。『清く正しい鴉天狗』でなくても。ここにいるときくらい――私といるときくらいは、『あや』でいて。」
……この子は、随分と酷いことを言う。だって私は、ずっと“あの姿”でい続けないといけない。私は『清く正しい烏天狗の射命丸文』だと、そう言い聞かせ思い込みそのイメージの通りに生きる。そうすればいつか“そう”なれる。そう信じてきたのに。
改良や修繕はされど、削れて芯が露出したのを放置して「それも自分だ」などと言い張ることはできない。してはいけない。
「甘やか、さないでよ」
喉の痛みを無視して声帯を震わせる。
「私の、信念、なの」
治まったはずの頭痛がまた始まって、重い腕で目の奥を上から押さえつける。先ほどから暑かったり寒かったり鬱陶しい。変な冷や汗も滲んできた。
「『あや』じゃ」
「迷ってばかりの劣化品じゃ、だめなの」
霊夢は何も言わずに私の頭を撫で続ける。しかしその手は、私の言葉を聞くうちに、段々と弱弱しくなっていくようだった。
――情けない。
――本当に、情けない。
「……落ち着いた?」
小さく首肯する。
「そう」
ふと外の方を見ると、ぼんやりと見えていた朱色はとうに溶けきって、障子は墨色に染まっていた。
霊夢が、あらもうこんな時間と呟いて行燈に火を入れる。
「文、お腹すいてる?お粥は食べられそう?」
「……ちょっと、きついかも」
「ん、分かった。それなら、生姜湯でも作ってあげるわ。いくら食欲が無くても、水分は必要だから。」
穏やかながら有無を言わさぬ調子の霊夢の言葉に頷くと、霊夢は部屋から出て、後ろ手に襖を閉めるのが隙間から見えた。
――足音が遠ざかり、やがて聞こえなくなる。そういえば、あの子は生姜湯を作ってくると言っていたけど、喉の痛みはいつのまにか無くなっていた。無駄なことをさせてしまったかな。
独り、部屋に残されてしまった。
行燈が照らすのは壁と、襖のみ。不思議と自分の息遣い以外には音もなく、この部屋にいる自分以外には何の存在も感じられない。
そうなってしまえば、襲い来るのは心細さ。
世界のすべてはこの部屋で構成されていて、あるのは布団と行燈だけ。新聞記事や原稿も無ければ、それを読む人もいない。
私はこの布団にくるまったまま、倦怠感と頭痛にうなされることしかできない。
……まるでこの小さな世界に閉じ込められたような。あの広い世界に、私の存在を否定されているような。
未だ揺れる天井をみつめていると、そんなことが頭をよぎって、ゆっくりと首を振って考えをシャットアウトする。
どうしようもないことを考えては頭から締め出し、また天井に視線を戻す。
……霊夢、遅いな。
五、六度は繰り返しただろうか。いい加減気が滅入ってきた頃、視界の端にちらりと影が映った。
霊夢が戻ってきたのだろうか。襖が開いた気配はなかったけど、私がぼうっとしていただけかな。そう考えて視線を向けるも、それはどうにも揺らめいていて、色は不明瞭。じっと見つめると、それは辛うじて人の形に見えた。
誰だ、と誰何するも、それは反応を示さない。
言葉を解するものではないのか?ならば彷徨っているうちに神社へ流れ着いた幽霊か、それとも悪戯をしに来た妖精の仕業か……などとぼんやりする頭で思考を巡らせていると、“それ”の方から小さな返事が聞こえた。
――私は……なんだろう。分からない。
その声は、一言で言うなら、変な声だった。どこかで聞いたことがあるような、しかし知っているかと問われれば首を傾げざるを得ない、そんな違和感満載の声。
「分からない?記憶もないのか?いずれにせよ、此処はお前のいるべきところではない。出て行け。」
一段トーンの下がった、低い声で警告する。
“それ”は私の言葉が聞こえているのかいないのか。頷く様子を見せたり首を振ったり、歩こうとしては止まり、突如上を見上げてはすぐに俯く。
なんなんだ、こいつは。一見すると自分が何者かも解っていない廃人のような存在だが、わざわざ夜の博麗神社に出向いてきたのだ。悪意ある存在でないとは限らない。かなり身体はしんどいが、此処を襲わせるわけにはいかない。場合によっては私が……。
私がそう脳内で考えを研いでいると、突如として影が叫んだ。
――そうだ、思い出した!……いや違う、解った!
解ったという言葉にやはり意思があるのかと警戒を強めようとしたが、続く言葉を聞いて、私は思わず固まってしまった
――私は、物!そしてお前は、私よ!
「……何を、言っている?」
この影が“物”、そして私が影…つまり私が物ということか?
意味が分からなかった。しかし、染みこむような“それ”の言葉に、つい意識が向いてしまう。
“それ”の言葉には、なにか引っ掛かるものがあった。
――そう、私は“物”よ。己の定義を自身で決められない物。
――私は後悔しているの。
――己の定義も、生きてきた道も、自分の足で踏み固め切り開いたものではない。
こんなもの、誰ともつかぬ影の戯言だ。訳の分からないことを言うなと、一蹴してしまえばいい。
なのに、なぜだろう。目も口も、顔中の筋肉が硬直してしまったかのように動かせない。まるで、顔にも体にも、心にまでも見えない糸を括り付けられて、影の方へ引っ張られているようだ。
――私はこう生きるのだと、定められたままに『役目』を果たしていれば。
どこか芝居がかったように語る影。その仄暗い声は私の耳を侵食し、やがてそれは脳に入りこんでガンガンと響きだす。
――そうしていれば、きっといい結果が得られるのだと、そう“必死に”断言して、前だけを向いて。
……。
――行きつく先を考えたことなどなかった。……いい結果。……良い結果!それは、一体誰にとっての“いい結果”なの?
……いい結果はいい結果だろう。ただの、皆が笑顔になるような結果でしかない。
気が付くと、私は頭の中で、影が投げた疑問に答えていた。頭に響くその声は留まるところを知らず、もっともっと私の深いところに染みこむようだ。
最早この声は私自身が発しているのではないかという錯覚さえ起こしそうで、私の揺れる意識は必死にその侵入者を否定する。
――驚いた。その“いい結果”の中に見える景色に、私はいないじゃない。
ああ、こんな“耳障りの悪い”ことを言う奴、早くいなくなって欲しい。くそ、頭痛が酷くなってきた。こんな時に風邪なんて引いていなければ、ひと風で吹き飛ばしてやれるのに。
――そもそもその結果を作るのは、自分でなければ成し得なかったの?
知らない。
――もしかすると、その結果を追い求めるのは、自分じゃなくても良かったんじゃないの?
それが分かるころには自分はいないんだろう?考えるだけ、無駄だ。
――必死に導いて作り上げた皆の笑顔を私が覚えていたとて、相手は私の顔を、努力を、覚えているの?
自分が満足できるなら、忘れられても構やしない。
――そうして私は、一体何を遺せる?
そんなの、決まってる。私が作り上げてきた、私の成果物だ。皆の、幻想郷の幸せだ。
――しかしそれは私でなくてもこなせる、そして、
「……私が為したことと、解らない、ような――?」
私の口は影の言葉を引き継ぐように、“思ってもみなかった”言葉を紡いでいた。
あれ。おかしい。私の、いやこいつの信じてきたことは、そんな結果に、なるの?
ドクンと、心臓が跳ねた。
気づかないうちに、影の言葉は私の大切で、繊細で、何人たりとも踏み入れさせたくない最も弱い領域に、足を踏み入れていた。
そのまま私は蹂躙されるのではないかという恐怖を覚え、落としていた視線をほとんど無意識に上げ、影を見る。
いつの間にか揺らめきが止まりハッキリと見えるようになっていたその顔は、とてもよく似ていた。
毎朝鏡で見る、私の顔に。
――お前は私に訊いたわね。誰だ、と。今一度答えてあげる。
恐怖と拒否感で目を見開く。
これ以上を、その先を、聞きたくない。識(し)りたくない。その先を聞いてしまったら、私が今まで信じ続けてきた全てが……!
――と。そういえば私の生き様とお前の生き様は、随分と似ているわね?それに姿も声も。偶然かしら。……偶然な訳がないわね?
動かない身体を無理矢理曲げ、縮こまって頭から掛け布団を被って耳を塞ぐ。
しかし、その嘲笑うような声は容赦なく耳を貫通し頭中に響いた。
――そう。私はお前だ。そしてお前は、私だ。己の定義も、生き方も役目も結果も成果も思いもすべて自分のものではない私だ。他人に流され使われるだけで、傷ついたら他の誰かに取って代わられる私だ。
――いつか私(おまえ)が見る最終結果(ゲームリザルト)を、私は知っているわよ。……こう言われるの――
いやだいやだいやだ聞きたくない識りたくない痛い寒い寂しい怖い……!
――『もう、いらない。』
……あ。
――お前は“道具”だ。“役目”を果たさないまま、見つけられないまま。何も遺せず、捨てられ、忘れられる。ただの“道具”だ。
…………ああ。
――それから、お前はこうも言ったわね。
………………助けて。
――此処はお前のいるべきところではない。出て行け。……全くもってその通り。
……………………助けてよ。
――博麗霊夢(そこ)は、道具(おまえ)如きが隣に並んでいい場所ではない。
――霊夢……!
「生姜湯を作るって言ったけど、そもそも生姜、ウチに残ってたかしら……。」
火のかかったやかんを眺めながら、大して気に留めていないことをわざわざ声にする。
「……はあ、今日は平穏な日かと思ったら、とんだ厄介事が降りかかってきたわねぇ」
自分の声で誤魔化そうとしても、文の言葉が頭から離れない。
――羽繕いを『管理』と言ったこと。もちろん「体調を管理する」とか、身体に対して「管理」という言葉をつかうことはある。それだけならおかしくはないのだけど。
「……何が、劣化品よ」
多分、いや間違いなく、あの『管理』は、そういう意味じゃない。まるで、包丁が刃こぼれしてしまわないように研ぐような、そんな、“物”に対して使う『管理』。
文の、自分の体の不調を何とも思っていない、あの態度。
まるで髪が、翼が、自分が。それらすべてを『自分』だと思っていないように見えてならない。
やがて、やかんの蓋が震え始めた。水につけて保存していた生姜を取り出してきて、流水で洗ってからおろし金に乗せる。
ゆっくりと擂り下ろし始めるが、その手はぎこちなく、生姜の擦れる音が、やたらと響いて聴こえた。
「……さっき私に見せたあの表情が、劣化品だっていうの」
ざっ。……ざっ。
「いつも私に見せていた姿は、全部あんたの姿じゃないっていうの」
ざっ。ざっ。ざっ。
「自分を自分のものとしか、いやそうとすら思っていないっていうの……っ」
ざっざっざっざっ
「……あっ」
気が付くと、手に持った生姜は小さな欠片になっていて、はみ出した指には小さな赤い筋ができていた。
口を真一文字に閉じる。それは指の痛みを我慢しているのか、それとも別の何かが溢れそうなのをせき止めているのか。
やかんが鳴き始める。無言で火を止め、湯飲みにお湯を注ぐ。そこにすりおろしたばかりの生姜を一掬い入れると、生姜のツンとした香りが広がった。
お湯一杯分に入れるだけなのに、勢い余って生姜をまるまる一つ下ろしてしまった。仕方なく残りを器に入れ、氷箱にしまう。そして戸棚に向かい、中から黄金色の液体が入った瓶を取り出した。
喉の痛みや咳を和らげ喉の乾燥も保護してくれ、健康と不死をもたらすともいわれるそれは、瓶の蓋を開けた途端濃密な甘い香りを放ち、霊夢の意識を黄金色に染めた。
妖怪でありながら山の守護神でもあって、想像もできないほど永い時間を生きている天狗のあいつ。
そのくせまるで人間のように悩んでいるみたいで、今日初めて私に弱いところを晒したあいつ。
あんな馬鹿につけるのは、この神々の秘薬――はちみつくらいが――ちょうど良い。
霊夢はそんな蜂蜜を生姜湯に垂らしながら、眼を鋭く光らせ、呟いた。
「このままただの風邪で終わらせてなんかあげないんだから。神(アンタ)の言葉を聞くのは巫女(わたし)の務め。アンタの本音、聞かせてもらうわよ……!」
大きめのお盆に、湯飲みとタオル、そしてたたんだ浴衣を乗せ、片手で持つ。もう片方の手にはぬるま湯の入った小さな桶をぶら下げている。
そうして文を寝かせた部屋の目の前まで来ると、襖越しに文の声が聞こえた。
――助けて
――助けてよ
――霊夢……!
「!」
最後まで聞くことなく、霊夢は持っていたものをその場に素早く置き、襖をスパンッ!と開く。
霊夢の目に映ったのは、掛布団にくるまって必死に耳を塞ぎ、うわごとのように霊夢に助けを求める文の姿。
「文⁉……文!何があったの!誰かいるの⁉」
急いで駆け寄り、印を結んで自分たちの周りに結界を張る。しかし、見回しても自分たちの他に気配は感じられない。
どういうことかと文を見るが、彼女はぎゅっと目をつむったまま震えているままだ。
とにかく一度、文を落ち着かせて何があったのか確認しなければ。
彼女の耳に口を近づけ、手を握りながら声を掛ける。
「文、大丈夫。私よ、霊夢よ。私の他には誰もいないわ。お願い、目を開けて。」
「……れ、れい、む……?」
無事に霊夢の声は届いたようで、恐る恐るこちらを向いた文と目が合った。
「そうよ。もう大丈夫だから。近くに誰かいるの?」
「そ、そこに、私の影が……」
「影?」
文が目を背けながら指さす。そちらに視線をやるも、何もいるようには思えない。
「……何も見えないわ。妖力も感じない。」
「えっ」
それを聞いて文は、ちらりとそちらを見る。
たしかに、先ほどまでそこで揺らめいていた影は、綺麗さっぱりいなくなっていた。
「影、って言ったわね。文、きっとあんた、夢を見てたのよ。影の姿で自在に動き回って、あんたをそこまで追い詰めるなんて妖怪、私は知らないわ。」
「夢……」
文はそれを聞いて、ようやく少し落ち着いたようで座りなおす。しかし、全身から冷や汗が滲んでいて、着ている寝間着にも染みこんでとても寒そうだ。
文の様子を見た霊夢が、置いてあったお盆と桶を手元に引っ張ってきて言う。
「その恰好じゃ寒いでしょ?生姜湯は後にして、先に身体を拭きましょう。」
――最初は、考えてもいなかった。自分が奔走した果てにある「いい結果」。幻想郷のためになることをしているのだ。「いい結果」は、「いい結果」に違いない。そう思いながら、自分を積み上げるのに必死だった。
そうして、その生き方にも慣れてきて、心に余裕が生まれた頃。段々と自分の中身を見る余裕が生まれてきて、そして解るようになってきた。“道具”である限り、自身の幸せを追い求めることはできない。まあ、それでもいいと。最大多数の最大幸福だ、幻想郷の幸せになるのなら、その輪の中に自分がいなくても構わないと思っていた。
でも、新聞を書き始めて、たくさんの命が全力で生を謳歌している様をレンズ越しに見て。たくさんの笑顔を受け取った。たくさんの覚悟を受け取った。そして、本のかけらだけ。もし叶うなら、自分もそうありたいと、思ってしまった。“いい結果”を映した写真を見た人に、「この写真を撮ってくれたの、誰だっけ」と言われるのが、怖くなってしまった。
それでも、道を変えることはできなかった。だってそうしたら、それまで積み上げてきたものに意味がなくなってしまうような気がしたから。視界の端に映る、『本物(にせもの)の私』を見ないように、まっすぐ、前だけを向き続けた。
「それじゃ、上から脱がせるわよ。」
霊夢が着せたとき、帯は苦しくないよう軽く巻く程度にしてあったため、文が激しく動いたことで帯が取れ、襟の辺りが大きくはだけてしまっていた。
「……ぅ」
文は自分の身体を見、霊夢の前でとんだ醜態を晒したことに気づいて、項垂れて目を逸らしている。
「私は文のどんな姿を見たって気にしないわ。いいから、両腕上げて。」
よろよろと腕が持ち上がる。霊夢は文の寝間着を持ち上げるようにして脱がせ、ついで肌着も捲るように剥く。そしてタオルをぬるま湯につけて絞り、文の背中から順に当てがい、撫でていく。
小さい背中だった。普段こいつの背中を見るときは、あんなに頼もしくて、大きな背中に見えてたのに。
肩甲骨や背骨の形が浮き出て、随分と骨ばっている。こんな背中からあの大きな翼が生えているのだとしたら、何かの間違いではないかと疑いたくなるような、最低限の筋肉しかついていない。
「あんたは、成長しない自分を劣化品だと思ってる?」
「……千年以上生きているのに、何も、変わらないんです。」
文は項垂れたまま、呟くように声を漏らす。
「日々成長しているのは、うわべだけ。中身が、変わらない。そんなもの、劣化品……でしか、ないでしょう。」
背中を拭き終わり、腕にタオルを当てて同じように撫で始める。その間、文は霊夢にされるがまま、ぽつり、ぽつりと先ほどまで見ていた夢の内容をこぼし始めた。
文の独白を聞きながら、その腕に手を添える。
細い腕だった。天狗の羽団扇を振るう、力強いはずの腕。
あの腕が振るわれる度、木々を根こそぎ吹き飛ばすような暴風がそれに応えていた。あの腕は、こんな枝のような腕だっただろうか。
弱弱しい手だった。カメラを構え、文花帖にメモを取る、繊細な手。
箸より重いものは持てない、そういう類の繊細さではない。がしっと掴まれそうな、それでいて包み込まれるような、優しくて綺麗な手だったのに。
痩せた脚だった。地を蹴り空を蹴る、強靭なはずの脚。
その蹴りひとつで、建物が壊れるほど。でも、今やガチガチに凝り固まって、とてもそんな強い脚だったとは思えない。
身体を拭き終わるとともに、文の独白が終わった。霊夢は替えの寝間着を広げて文の腕に通しながら、文に訊く。
「あんたは、私や里の住人や妖怪たちの中に、あんたがいないと思ってる?」
「みんなの中に、私が……?」
困惑する文を無視して、問いを重ねる。
「あんたは、もしあんたがいなくなったら、その代わりが何処かにいると思ってる?」
「……私の他にも記者はいるし、鴉天狗も天狗の里には大勢いるでしょう。」
文が質問に答えても、霊夢の表情は変わらない。
「あんたは、あんたが傷ついて、その結果問題が解決して、それで私たちは喜ぶと思う?」
「私一人がちょっと怪我をして他の全てが解決するなら、それでいいでしょう。」
一拍。霊夢は、それじゃあ、と前置くと。
「あんたは、自分のことを、道具だと思ってる?」
「ひっ」
『道具』という言葉を聞いた瞬間、文の顔が引きつる。
その顔を見た霊夢は、大きく息を吸い、はぁぁぁぁっとため息をついた。そして、もう一度息を吸うと。
「ぜんっっっぶ、違う!全部、間違ってんのよ!」
吐き出した。今日二度目の霊夢の大声に、文の肩が跳ねる。
「い~い?アンタはね、何もかも一人で背負い込み過ぎなのよ!事件があれば即向かって取材、ええ結構。幻想郷最速を自負する新聞記者だもの、早さこそが至上よね。でもね、隣に、目の前に、仲間がいるときくらい、巻き込みなさいよ!何も言わず一人で勝手に突っ走って、それで勝手に傷ついて、『ちょっと怪我しちゃいました。でも成果はありましたよ』?それでみんなが、私が、『ならいいか』で済ませると思う⁉汚れた服を見たら、悲しいの。羽根の抜けたボソボソの翼を見たら、申し訳ないの。背中の傷を見たら、自分が一緒にいられたら、って後悔するの。あんたは自分の後ろにいる人の顔を、見たことはある⁉」
黙って聞いていた文が、我慢ならないとばかりに口を開くが。
「私が勝手に行動しているというなら、貴方たちの悲しみだって、貴方たちの勝手で」
「ええそうよ、アンタが別に求めていないことを、私たちが勝手に悲しんでるの。でも、それが何故か分かる?」
ほとんど反射的に反論した文の言葉を、霊夢は肯定した。
「……」
「それはね、私たちの中に、あんたがいるから。あんたが今まで迷いながらも必死に積み上げてきた、『本物の』射命丸文が、私たちの中に生きてるの。あんたの代わり?そんなもの、世界中どこ探したって見つかりっこないわよ。射命丸文は一人しかいない。あんたと同じ姿かたちでも、あんたと同じ能力でも、あんたと同じ性格でも声でも、あんたの代わりにはならないわ。」
「貴方たちが見ているその『射命丸文』が、本物の私だと?ええ、確かに私は、今まで多くのものを積み重ねてきました。でも、さっきも言いましたがね、その中身が、魂が伴っていないんです。弱くて幼くて、自分の幸せのために生きる?それは私が千年以上の間信じてきた『射命丸文』ではない。貴方が言う『本物の私』は、貴方の中で美化されただけの虚像に過ぎないんですよ!」
「千年以上の間に一度でも弱さが露出したらいけないの?いつでも常に理想の姿であり続ける?そんな万能の聖人みたいになれると思った?……かっこつけてんじゃないわよ!」
「恰好つけてなんか……!」
それまで火を噴くように赫怒(かくど)していた霊夢は一転、ふぅと息を吐くと、静かに続けた。
「自分のために生きる射命丸文は、私の言う射命丸文は虚像だ、って、言ったわね。」
「何の事件も、何の行事もない日に。人間の里で、誰かがふっと笑った瞬間とか。妖精がいつも通りに遊びまわってる姿とか。そんなもの、写真に写したところで自分の栄養になんかならないし、新聞のネタにも使えやしない。」
「でもあんたは、そんな光景をいつも心底楽しそうな目で撮ってるわ。それは、あんたが信じる理想の姿とは外れてる気がするんだけど。――あの目も、私にはそう見えるだけの、虚像?」
文の目が見開かれた。
「そ……れ、は」
違う。
その目は……!
「あの目をしているときのあんたは、幻想郷で一番と言ってもいいくらいに、生を謳歌してるように見えるわ。天狗には、私たちには想像もできないくらいに長い時間があるのに、その一瞬一瞬を大事に握りしめて、小さな命に敬意を示して、それを遺そうとして……。それこそ必死に、全力でシャッターを切ってる。」
その私は、私が自ら否定した私だ。気づいてしまって、そうするともう逃げられなくて、必死に目を背けようとした私だ。
「私はね、そんなあんたの目が好きなのよ。」
……この子は。私自身ですら否定した『本物(にせもの)の私』を、『本物(ほんもの)の私』だと断じてくれているのか。
………………私だって。
「……私だって、そんな目でいたいわよ。でもそうしたら、私がずっと信じ続けてきたものは?ずっと積み重ねてきたものは、どうなるの?……それが崩れてしまうのが、怖いの。新しい私を定義したとき、そうなってしまったら、きっとやり直せない。また一から、なんて……」
「初めからやり直すことなんてないわ、今あるものの上に、積み重ね続けるの。……言ったでしょ?あんたが積み上げてきた“理想の文”だって、周りから見れば紛れもない“本物の文”なの。孤高で格好いい文も、小さな命を愛する楽しそうな文も、たまには甘えてくる可愛い文だって、全部全部 “射命丸文”なんだから!」
仮面を被った形ばかりの私から、それをすら余すことなく積み上げ糧とする生きた私へ……。
たった一人の人間に肯定されただけで、……いや、霊夢に肯定されただけで、私の千年間の全ては、こんなにも違って見えるものなのか。
「貴方の言うこと、おかしいわ。私は一人しかいないと言いながら、同時にいろんな私がいて、それらすべてが私だ、って。」
「?そんなにおかしいことかしら?」
霊夢のきょとんとした顔を見て、思わず苦笑する。
この子は常識に囚われないだけだ。私から見れば変な話でも、きっとこの子の中では、まっすぐつながって見える“何か”があるんだろう。
「ねえ、霊夢。」
「なあに?」
「やっぱり、まだ怖いわ。だから、もう一度訊いてもいい?」
小さな首肯とともに、優しい眼差しで促される。その暖かさにもう一度甘えるように、口を開いた。
「私は、“道具”なのかしら。」
「いいえ、違うわ。あんたは、誰よりも“生きている”射命丸文よ。」
「私は、貴方の中に、いる?」
「いるわ。私の中だけじゃない、幻想郷のみんなの中にはっきりと、射命丸文がいる。代わりは誰にも務まらない。」
「私も、“いい結果”の中に、一緒にいても、いい?」
「当たり前よ。あんたが隣にいない結果なんて、“いい結果”じゃないわ。」
噛み締める。霊夢が贈ってくれた否定(肯定)と肯定(激励)は、すっと胸に染み込んできた。
あとは、私がそれを己(おの)が魂に刻むだけ。
「これで、足を踏み出せる?」
目を閉じて、大きく深呼吸をする。これまでの自分を捨てるのではなく、変わるのでもなく。その上に積み上げ続ける、その準備のために。何度も何度も、吸って、吐いて、吸って、吐いて。
「ぁ」
霊夢の手が、握りしめられた私の手に重ねられた。
――よし。
最後に一度、深呼吸。目を開けると、霊夢が私を見て「やっとか」と呆れたように微笑んでいる。
「――ごめんなさい。もっと、自分を大切にするわ。……それから、」
「ありがとう」
目尻に何か浮かんでくるものがあって、上を向いた。さっきまで項垂れていたせいか首が痛かったけれど、天井の向こうに広がっているであろう星空を想像すると、再びその顔を下げる気にはならなかった。
「生姜湯、すっかり冷めちゃったわねぇ」
「いいわよ、最初から喉の痛みはそれほどでもなかったんだし。」
「だめよ、念のため飲んどきなさい。喉はよくても、頭痛は酷いんでしょう?水分足りてないのよ、きっと。温めなおしてくるけど、その……大丈夫?」
霊夢が訊いているのは、再びさっきのようにならないか、ということだろう。少し頬を赤らめながら答える。
「大丈夫よ。もう自分に囚われはしないわ。」
それを聞いた霊夢が安心した表情で襖を閉めるのを見送ると、すっかり乱れてしまった布団を整えながら待つことにした。
暫くして、霊夢が湯気の立つ湯飲みを片手に戻ってきた。
「はい。熱いから気を付けて。」
「ありがと」
湯飲みを両手で包み、ゆっくりと傾けて口に近づける。すこし粗めにおろされた生姜の香りが鼻を抜けていった。
少しだけ口に含むと、蜂蜜のほんのりとした甘さに舌が包まれて、弱った身体はそれを抵抗することなく受け入れる。そのまま飲み込むと熱さと生姜の辛さが喉から胸へと染み渡っていき、身体を中からじんわりと温めてくれるようだった。
思わず、ほぅ……と吐息が漏れる。
「美味しい?」
「とっても」
「良かった」
他に言葉を交わすことはなく、霊夢に見守られながら、文が嚥下する「こくっ、こくっ」という音だけが部屋に響く。
一口、また一口。飲み込むたびに、失った気力が満たされていく気がする。
温かさが胸の辺りから更に広がり、凝り固まった四肢がゆるゆるとほぐされていく。やがて指先まで熱が伝わると、全身がぽかぽかしてとても気持ちがいい。
霊夢の想いによって形を成しているその暖かさ。それが全身に浸透していくその感覚はまるで、霊夢という名の母鳥の翼で包まれている、ような。
そんなことを考えると、再び雛鳥の頃の記憶が湧き上がってきた。しかし、今度は情けなさや劣等感を覚えることはない。
成長していないと落胆する必要はないのだ。その身が削れて弱さ(芯)が露出したら、それを包んでくれる存在が、隣にいる。
空になった湯飲みを丁寧に置いて、恐る恐る視線をそちらに動かす。彼女は、一度はその翼を振り払ってしまった私を、微笑みながら、もう一度受け入れてくれた。
――ぽふっ、とたおやかな綿羽(むね)に身を委ねる。安心感で私を満たしてくれる、柔らかい綿羽だった。
気づけば、もっとそれを強く感じたいとばかりに、半分無意識に両腕をまわしていた。すると彼女も、その両翼で私の上体をぎゅっと引き寄せて、そのまま優しく後ろ頭を撫でてくれた。
その手の動きに意識を向けていると、その心地よさに、声にならない吐息が漏れる。
こんな気分になったのはいつぶりだろう。
もう少し、このまま……。
そうして抱かれたまま頭を撫でられるうちに、瞼がだんだんと重力に逆らえなくなってくる。
柔らかくもしっかりと抱き留められていた身体は、少しずつ自分の身体と周囲の境目も分からなくなって、翼の中に溶けていく。
瞼が閉じられていくにつれて視界が暗くなる。ゆっくりと、湖の底に沈んでいくように。音は聞こえないし、もはや全身が弛緩してしまって声を発することもできない。
唯一感じるのは、私を包んでくれる胸と翼の暖かさだけ。でも、今の私には、それらがあれば、他には何もいらない。そう思えた。
――おやすみ、あや
遠くから響いてきたその声に、おやすみなさい、と心の中で返して、目を閉じた。
チチッ、チチッ、ツィー。
翌朝。文は、普段から聴いている鳥たちの話し声で目を覚ました。
妖怪の山も、此処も、朝の音というのはそう変わらないものなのねぇ。
よく考えたら、私の家と此処では大して標高も変わらないんだし、住人が似通ってるのも頷けるか。
でも、彼等の性格は違うみたい。山に住む鳥たちは環境的に危険が多いせいか気を張っていることが多いけど……。ぐうたら巫女にあてられたのかしら?ここの子達はみんなのんびり屋だわ。
意識が浮上したとはいえ、まだ頭は回らないし、身体を起こす気にもならなかった。外から聞こえてくる鳥の声に耳を傾けながら、ぼうっとくだらないことを考えていると、ス、ス……と襖がほんの少し開かれる音がした。
「文、起きてる?」
寝ていたら気づかない程度の、囁くような声で呼びかけながら、霊夢が顔を覗かせる。
「起きてるわよ」
文が自分の方に目線をやったのを見て、霊夢は空きかけの襖をもう一押ししてするりと部屋の内側に体を滑らせた。
「調子はどう?一晩寝ただけじゃ大して変わらないかもだけど……」
霊夢に訊かれ、ようやくとろんと溶けた身体に力を入れる。持ち上げた腕は昨夜に比べれば軽く、一息に上体を起こすこともできた。
頭を軽く振る。頭痛は……ない。それから喉も……痛くない。
「まあまあ、平気。昨日の生姜湯のおかげかしら。」
霊夢はその言葉を聞いて、ほっと胸をなでおろした。その仕草を見て思い出したのは、昨夜自分を包んでくれた綿羽。
「……。」
一晩ぐっすり眠ったことで、倦怠感や頭痛といった濃霧に覆われていた脳はスッキリと晴れ渡っていた。ぼやけたままでいた方がよかったことまで思い出すほどに、それはもう、スッキリと。
「……あの、……霊夢、さん。」
「んー?」
――いいか射命丸文、これは後世に遺してはいけない。もし他の誰かに知られでもしたら、今後延々と擦られること間違いなしの大スキャンダルだ。なんとか、せめて霊夢さんの内に留められるように誤魔化せ。
霊夢という名の脅威度不明の未確認生物を前に。私は餌ではないのだと、刺激しないよう、ゆっくりと口を開く。
「その、昨夜の、こと、なんですが……」
「昨夜?……あ~、ね♪」
「ぁ」
その先の言葉を紡ごうとしながら霊夢の顔を見て、気づいた。
やった。やらかした。前置きもなしにキーワードを出してしまうなんて。やはり私の脳内は、未だ曇っていたらしい。
霊夢の口がにんまりと弧を描く。瞳がキラキラ輝きだした。ああ、あの目はよく知っている。この子が楽しそうなものを見つけたときの、子供のように純粋で、これから綺麗な色を取り込まんとして光を湛えた、私の大好きな目。でも、今はその目が恐ろしい。
――逃げてもいいですか?
――逃がすと思う?
「な~に~?顔赤くして、口調も敬語になってるわよ?今更恥ずかしくなってんの?アンタ、あ~んな物欲しそうな顔で私を見つめてきちゃって、そんなに人恋しかったのね~」
「ちっ、が、そうじゃないです。私はただ」
「ただ、何?あ、もしかして、『私に』抱きしめて欲しかったの?それなら嬉しいわ~。きゅって両手まわしてきたから抱きしめ返して撫でてあげたら、心底嬉しそうな顔しながら寝落ちちゃったわね。小動物に甘えられてるみたいで可愛かった~」
あああ聞きたくない識りたくないっ!思わず両手で耳を塞ぐ。顔から火が、いや灼熱地獄の炎が出そうだ。
霊夢は空を掻き抱くようにして昨夜の文の仕草を真似て悦に入っている。
攻守が交代することもなく、このままこの子に揶揄われ続けるのかと思っていると、不意に霊夢がふう、と一息ついて、呆れたような笑顔で向き直る。
「ただ風邪を拗らせただけかと思ったら、あんな思いを抱えてたなんてね。本気の言葉でぶつかり合って、弱ったところを見せられて。あんた普段疲れた様子すら見せないんだから、正直驚いたわ。」
「……私も、夢ひとつであれほど取り乱すとは思わなかったわ」
どうやら危機は去ったようなので、霊夢に向き直って話をする姿勢に入る。
「ねえ、なんであんたは、此処に来ようと思ったの?最初からここに取材に来ようとしてたわけじゃないのよね?体調を崩したって言ってたし……」
言われてみて、そういえば、と考える。他にも行く場所の候補はあったのだ。ここに来る理由の方が屁理屈というか、弱かったはず。それにもかかわらず、博麗神社を選んだ理由。それは……
なんとなく顔をあげると、霊夢と目が合った。
この子は、巫女で、その目で妖怪である天狗をよく見ていて、だから私の異変にも……いや、きっと、それだけじゃない。
……この子が、霊夢だから?誰よりも私がこの子のことを知っていて、それでいてこの子も私のことをよく“視て”いて……
ハッと、霊夢をじっと見つめていたことに気が付いて、気まずくなって眼を逸らす。
「……別に。なんとなく、よ。」
「……ふーん?」
この子は私のことをどこまで“視て”いるのだろう。私自身が見ているよりも、もっと深いところまで見通しているのかもしれない。まるでサトリ妖怪みたいだと思いながらも、嫌な気分はしなかった。寧ろ“視てくれている”のが、嬉しい。
「心配しなくてもいいわよ。此処でのあんたのこと、他の奴らに話しゃしないわ。せっかく私を“選んで”くれたんだもの。『霊夢なら』って、きっとどこかで思ってくれたんでしょう?
「……まあ、ね」
「素直に嬉しい。私だけが『あの』あやを知っていて、私を選んでくれて、私を頼ってくれた。普段の可愛さはみんな知っているけど、今のあんたの“その”顔を知っているのは、私だけ。今のあやは、私だけのものよ。」
好意だけでつくられた瞳が綺麗だった。さっきまでとは違う意味で顔が熱いし、心臓の鼓動もうるさい。このバクバクとした音、霊夢に聞こえているんじゃなかろうか。
「ねえ、文。」
「な、何かしら」
「見せて、あやの全部。」
「……へ?」
突拍子もないことを言われて、素っ頓狂な声をあげてしまった。全部を見せてとは、いったいどういう意味なんだ?
「ぜ、全部、って……?」
「あんた、最近翼の手入れしてないって言ってたじゃない?私にやらせてよ。」
「翼?……あ、ああ、そういう意味……。」
「どういう意味だと思ったのよ」
「ああ貴方には、解らなくて結構」
「そう?じゃあ翼出して」
霊夢の勢いに押されて、霊力を背中に集める。
ばさばさと、黒い羽根を散らしながら翼が広がった。
「本当にボロボロね……自分が使う風に耐えられてないんじゃないの?」
霊夢は片翼に手を差し込むと、その細く白い指で羽毛を一枚一枚撫でていく。
絡まったところは、指先を櫛のように羽毛の中に滑らせ解く。並びが乱雑になってしまったところは、羽先を整えてから手櫛で綺麗に直す。
いつも文が見せてくれる、あの美しい翼を取り戻せるように。少しずつ、少しずつ、羽根を整え、凝った翼の筋肉も揉み解していく。
片翼が綺麗になると、反対も同じように整えていく。やがて全ての羽根が整然と並ぶと、仕上げに翼を持ち上げ、文には見えないように互いの顔の間に来るように支える。そして、その美しい鴉羽に軽く唇を触れさせた。
「ふふっ。……これで、よし!」
満足そうに笑う霊夢だが、文はそれどころではなかった。
たった今霊夢に何をされたのか、霊力を纏った翼が故に、感じ取れてしまった。
――今のって……私の勘違い?いやでも、感触的には確かに霊夢さんの……っ――
「そうだ、文。お願い聴いてくれたお礼、してあげる」
霊夢は赤面してあたふたしている文に構わず言葉をかける。
「お、お礼?」
「ええ。とっておきのおまじないよ。気持ちを新たにしてから最初に積み上げる、一段。新しい“本物”をあげるわ。」
昨日ここへ来てから何度目かの、霊夢を待つだけの、一人の時間。けど最初に比べれば、心身共にかなり調子を取り戻したように感じる。……まあ、いつも通りにとまでは、行かないけれど。
既に日は高く昇り、昨夕は陽に朱く照らされていた障子も、屋根の影に寄りかかって風の音に聞き入っている。この神社に相応しい、ゆったりとした日常の光景だ。
そんな日陰の縁側に座って足をぶらぶらさせていると、湧き上がってきたのは、自分でも説明のし難い、矛盾する感情。
――こんな穏やかな日なのだから、あちこちに出向いて取材して、日常を非日常に変える、そんな有意義な時間(日常)にすべきではないか。
――いや、こんな穏やかな日なのだからこそ、穏やかな日常という「非日常」に身を委ねるべきではないか。
「そういえば、今までこんな風に迷ったことも無かったな……」
一見普段通りに見えるものの中に「隠れた異」はないかと、日常にカモフラージュされた「真実」を、唯追い求める。日常を非日常に変える。そればかりを考えていた。それが私にとっての「日常」だった。
だから、日常を日常として受け止める、そんな「非日常」は初めてだ。
そして、そんな初めて感じる「非日常」を、心地よいと思っている自分がいる。
――これは、霊夢に貰った言葉の数々のおかげなのだろうか。
「この知らない感覚、どうしたらいいのかしら……」
「楽しめばいいんじゃない?」
振り返ると、布団を畳んで空いた畳の上には、いつの間にかちゃぶ台が置かれている。そしてそれを為したのは、数品の小料理が乗った皿を配膳している霊夢だった。
「穏やかそうな雰囲気だったし、深刻な悩みじゃあないんでしょう、きっと。それなら、素直に楽しめばいいのよ。なんとなくこっちかな、こうすればいい気がするなって、思うように進むの。そうしたら、いつのまにか解決してるわよ。」
「毎回異変の黒幕の元に勘で辿り着く巫女が言うと、説得力があるわね。」
霊夢のように自由に飛び回ることはできないけど、それなら。
今日、ここにいる間くらいは直情的に、頭ではなく心に、体を委ねても良いかもしれない。
私の考えがひと段落したと表情から読み取ったらしい霊夢が尋ねてくる。
「ところでもうすっかりお昼なわけだけど、お腹空いてる?…もう作っちゃったから今さら聞くのもなんだけど、朝は私が時間奪っちゃって食べさせてあげられなかったし…」
「そうね、ある程度食欲も戻ってきた感覚はあるし、何か入れておきたいわ。それに朝も……霊夢に翼の手入れをされるのは、その……結構、気持ちよかったし、気にすることないわよ。」
少々申し訳なさそうだった霊夢の顔がぱっと明るくなる。
「ほんと⁉︎良かったぁ」
此処へ来てから、普段なら絶対に隠し通すはずの自分の内面をたくさん霊夢に見られてしまっているけど、霊夢はそのお返しと言わんばかりに、普段のツンとした顔や笑顔とはまた違った「霊夢」を私に見せてくれる。
こんな日常(非日常)は、普段の私なら喜んで利用しようとするのだろう。けれど今は、目の前にあるこの顔を見るのは、私だけでいい。そう思った。
「それで、何を作ってくれたの?」
食卓につきながら霊夢に訊く。目の前に広がっているのは2品。どちらも魚料理のようだ。片方は紅白が散らされ、もう片方は味噌だれらしきものがかかっている。
「それはね、鯖料理よ。こっちの紅と白の方は“なます”で、そっちは味噌煮。どう?味つけは薄めにしてあるから食べやすいと思うんだけど。」
――鯖料理、か。
「鯖、って、海にいる魚でしょう?どうやって手に入れたのよ」
「さっき紫を呼びつけて、取り寄せてもらったの。よかったわ、あいつが冬眠中じゃなくて。憎たらしいけど、すぐに欲しいっていうときは、あいつの能力はぴったりだから。」
「さすがは天下の博麗の巫女さまね。あの賢者をあっさりこき使えるのは、貴方くらいのものよ。」
「それで褒められても嬉しかないわ。……ところで、食べないの?」
「え、ああ、いや、食べるわ。いただきます。」
なますが盛られた瑠璃色の器を手に取る。箸で人参と大根をつまんで、口に運んだ。
それらは口の中でほぐれて、纏っていた酢の酸っぱさが解放される。
美味しい、と言って、二度、三度と人参や大根をつまむ。箸を動かすたび、器の中から紅白の鮮やかさが失われていく。
「もしかしなくてもさ」
「んっ、ん⁉……んくっ、ケホッ、ゴホッ……」
突然霊夢が話しかけてきたので、驚いて気道に酢が入り、咳きこんでしまった。胸元を押さえながら聞き返す。
「な、なに?」
見ると霊夢の顔は、なぜか少し楽し気だ。頬杖をついて、鯖ばかりが残った器を見ながら言葉を繋げる。
「あんた鯖、苦手よね?」
「い、いやそんなことは」
反射的に眼を逸らしてしまった。眼を逸らすということは、堂々と言い返せない理由があるということだ。今回の場合、それは肯定を表しているわけで……。
「まあ最初からそうじゃないかなーとは思ってたわよ?だってあんた、誰がどう見ても『豆――魔滅(まめ)が苦手な方』の天狗だものね?」
「ぐぅ……」
そう。天狗は、鯖が苦手なのだ。
鯖とはその読みを転じて「産飯(さば)」ともいう。生まれてからそう年月の経っていない赤子、すなわち「神のものである」赤子に食べさせる飯。神やその眷族に捧げるもの――神饌は、当然概して神聖なものである。
人間の子を攫い、山に入る人間には悪戯をはたらく。人間にとって天狗とは、悪行を働き人間を困らせる「魔」の存在だ。それこそ、洩矢の神が威信を広めるために天狗を悪として利用するくらいには。そして天狗側も、その役を許諾しその立場を利用するくらいには、自分たちを「鬼」だと認識している。
そんな天狗が、神饌である産飯、そして鯖を好むだろうか――。
「解っていたのなら、何故これを選んだのよ……」
ただの悪ふざけだろうか。しかしそれだけのためにわざわざ賢者を巻き込むわけはない。それに、霊夢は「そういう」子ではない。
解を求めて、霊夢を見る。
しかし霊夢は目で笑ったままだ。そして口を開いたかと思うと、一言。
「食べてみれば解るわよ。」
食べたくはない。遠い昔に興味本位で鯖を手に入れ食べたときのことを思い出す。あれは、何とも言い難い不味さだった。自分の属性と真逆のモノを摂取して平気なはずがない。
しかし、これは霊夢が用意してくれたものだ。しかも、自分のために、わざわざ賢者の手を借りてまで。その思いを無為にしたくはない。
――酢で湿った鯖の切れ端を箸で持ち上げる。異様に重く感じるそれを睨みつけるように見るが、そうして何が変わるわけでもないのだ。
重い腕を動かし、息を止めながら一思いに口に放り込んだ。
一噛み。ほろほろと身が崩れた。
二噛み。柔らかい酢が染み出して、口の中に広がった。
三噛み、四噛み……。
――それは、想像していたものとは全く異なる味だった。むしろ……。
「……どう?」
「――美味しい……?」
それを聞いた霊夢は満足げに笑う。反対に、私の頭の中は疑問符で埋め尽くされていた。咀嚼していた切れ端を飲み込んで、呟くように霊夢に尋ねる。
「どういうこと?私が苦手なのは、鯖の味じゃなくて聖性よ。調理したからってそれが変わるわけじゃ……」
すると目の前の顔は、さもそれが当然であるかのように頷く。
「ええ、鯖の神聖さはその名前が由来なんだから、調理しても鯖は鯖。でも、それでいいのよ」
「それでいいって」
「だってあんたは『魔』じゃないもの。」
私が「魔」じゃない?何を言っているんだろう、この少女は。
霊夢は戸惑う私を放置して語り始める。
「疑問だったのよ。なんで天狗は鯖が苦手なんだろう、って。だって天狗の魔性は、天狗の一面でしかないじゃない。天狗は古くから山の守護神でもあったわ。山岳信仰の中にも、天狗を祀るところがある。聖魔併せ持つ存在、それが天狗。なら、神饌を嫌う“だけ”だなんて、ありえないでしょう?」
考えたことも無かった。私たち天狗は「悪戯をする存在」だから、神饌など嫌って当然だと……いや、もしかすると、原因は“これ”か……?
「でね、人間の『思い込み(イメージ)』以外にも、天狗の在りように干渉してるものがあるんじゃないかと思ったの。それが」
「……天狗自身の『思い込み(イメージ)』」
「そういうこと。自己暗示、っていうのかしら。できないと思ったら本当にできなくなる、なんて、よく言ったもんだわ。種族の性質にまで影響しちゃうんだもの、思い込みの力って凄いわねぇ」
確かに思い込みの力はすごい。が、それは私が鯖を「美味しく感じる」ことへの説明には不十分だ。
「それで?それが私と鯖に、どう繋がるの?」
「さっき言ったでしょ?“新しい本物をあげる”って。あんたが『魔』じゃなく、『守護神』だって。そう“思い込んだ(信じた)”のよ。」
「私が……守護神……?」
「そう。あんたの写真、見るたびに思うの。ああ、ここに写っている子たちは、みんな全力だなぁって。生を謳歌してるんだなぁって。何気ない日常の中にふっと映ったみんなの表情が綺麗なの。羨ましくなるくらい。確かにあんたはいっつもうざったらしくて、はた迷惑なパパラッチよ?事件がなきゃ自分で起こして報道してるでしょ。けどそれだって、普段は隠れてるみんなの思い(命)を引き出すきっかけになっていないとも言えない……」
「……おやおや、私の取材をそんな風に思ってくれたとはね。それじゃ、今後はもっと取材活動(追跡)に励まなきゃかしらね?」
私の取材をそんな風に見てくれているだなんて思っていなかったから、頬が熱くて仕方がない。つい、誤魔化すように普段の揶揄い口調になってしまった。
霊夢はそれを見抜いているのかいないのか、彼女の頬もほんのりと赤らんで見えるのは気のせいだろうか。
「しつこい取材はお断りよ。……まあ、とにかく。幻想(いのち)を遺し伝える、伝統の幻想ブン屋。私にとって、あんたはそんな“幻想郷の護り神”、なのよ。」
そこで霊夢も羞恥心が限界に達したのか、誤魔化すように捲し立てる。
「ほ、ほら、早く食べなさいよ、料理が覚めちゃうじゃない!博麗の巫女が神に捧げるために作った料理よ、美味しくないわけがないんだから!」
目頭が熱くなるのを我慢しながら、霊夢の勢いに押されるようにして箸を動かす。
鯖の味噌煮に箸を差し込むと、まるで豆腐を切るかの如くすっと身が割れ、口に運ぶとそのまま溶けるようにほぐれていった。みるみるうちに料理は減っていき、最後の一口を飲み込む。
直後、身体の内側に小さな灯りが点った。
温かさが喉元を通り抜けお腹に溜まるのを感じたのだが、こんなに熱かっただろうか?
それに視界が明るい。熱いものを飲み込んだどころか、体の中に火が点いているのではと錯覚するほどだ。しかしそれは決して不快なものではなく、寧ろ……。
それは言うなれば、命の灯火。私の中に、新しい命が吹き込まれたような気がした。生まれ変わったとか、潰えそうな命を継ぎ足されたとか、そういうんじゃない。まるでたった今、自分を覆い隠していた卵殻を意志でできた卵歯で突き破り、外の世界を見たような。
今の私なら、何にだってなれる。そう思わせてくれるような、熱く熱く、そして明るい灯火だった。
私の中に灯った火が、瞳にまで映っていたのだろうか。微笑む霊夢の瞳の中で、私の瞳が明るい一等星のごとく瞬いている。
その様子に目を奪われていると、霊夢が目を細めたためにその一等星が隠れる。霊夢に星を抱きしめられたように感じた。
すると霊夢は、未だ赤面しながらも口を開き、その言葉を――巫女としての祝詞を――告げる。
「昨日言ったわよね、『どんな文も全部ひっくるめて射命丸文だ』って。私が鯖料理を“捧げた”今、あんたの中に新しい“射命丸文”が生まれたわ。私の隣を歩いて、私のことを見ていてくれる。そして私にも、あんたのことを見せてくれる。そんな“守護神”のくせに“人間”みたいな今まで通りの、新しい文。」
その言葉(のりと)は、一言一言が私の中の奥深くに刻まれ、“私”を形作っていく。
「今までの自分じゃ満足できないなら、積み直すんじゃなくて、その上に積み重ねる。成長を感じられないなら、開き直ったって良いわ。もっともっと、きっと手が届くところまで、積み重ね続けてよ。」
ああ、なんて不思議な少女だろう。神がいて、その言葉を聴くのが巫女だろうに、その巫女が神に存在意義を与える?これまで数えるのも馬鹿らしいほどの年月を過ごしてきたけれど、そんな存在、聞いたこともない。
それに、そんな巫女にこうして背中を押してもらう神がいることも。
「あんたはその目と、写真機と、新聞で。命を射(うつ)して、その伝統(わ)を繋いでいくの。あんたがしたいと、思うとおりにね?」
まあ、この世界には八百万も神がいるのだし、ましてやここは幻想郷。1人くらい、そんな変わった神がいても良いだろう。
「――いいでしょう。その信仰(おもい)、しかと受け取りました」
「今まで躓いたときは完璧に立ち直ってきたつもりでしたが、そういうわけでもありませんでしたね……。けれど、ようやくスッキリできました。」
胸に手を当てながら、霊夢に、そして自分に宣誓するつもりでまっすぐ視線を合わせながら、言葉を刻む。
「――不肖この射命丸文、幻想郷の愛しい命を護り、その伝統を紡いでいく者として。」
「これからも日常(取材)の日々を、続けていこうと思います。――今後も文々。新聞を、よろしくお願いしますね!」
「はいはい」
霊夢の返事はおざなりだけれど、その瞳の色は優しくて、私を応援してくれているような気がした。
爽やかに吹き抜ける風が木々を揺らした。
外ではチチッ、チチッ、ツィー……と鳥の会話が聞こえてくる。
博麗神社は今日ものどかだ。日課である境内の掃除を終わらせた霊夢は、縁側に腰掛け、いつものようにお茶を飲んでいた。
枝を跳び移ってるあの鳥たちは、いったい何をしているんだろう。どんなことを話しているのかな。……あ。
よく見ると、片方の鳥がくちばしに赤い粒を挟んでいた。その鳥が逃げ回るように跳んでいることから、木の実の取り合いでもしているのかもしれない。
――なんでかしら。あの追いかけてる方の子、なんか私に似てる気がするわ。それに、木の実を咥えてる方は、ちょっと“あいつ”みたい。
そんなことを考えていると、上空をこちらに向かって飛んでくる誰かの気配を感じた。
霊夢は「今日は静かね」とどこか満足げに呟いて、未だ見えない“そいつ”の方へ視線を向ける。
数秒もしないうちに霊夢の頭上は巨大な影で覆われ、近くの木がざぁぁっと激しく揺れる。そして直後、吹き荒れた風を完璧に抑え、何事もなかったかのように一対の翼が舞い降りた。
「おはようございます、霊夢さん。」
「おはよ」
目の前に着地して翼を畳んだ鴉天狗――射命丸文――は、”いつものように”霊夢に声をかける。
「もう風邪は平気なの?」
「ええ、すっかり治りましたよ。いやぁ、先日はお騒がせしてすみませんでした。」
「いいわよ、あれくらい。きっとあんたには必要なことだったんでしょう。……そうね。私に感謝する気持ちがあるんなら、今度からウチのことを新聞に書くときは、なるべくいい風に書いてよね。」
「いい風に、とは?」
「余計な記事とか、捏造記事を書くなってことよ!私が昼寝してる写真とか、たまに新聞に載せてるじゃない。ああいう写真ばっかり載せるから、私がぐうたら巫女に思われるんじゃないの!」
その言葉を聞いて少しは態度を改めるかと思われたが、目の前の天狗は不思議そうに首を傾げている。
「うーん……?十二分に“いい風に”書いてるつもりなんですがね……。まあ、足りないというのであればもっと気合を入れて記事を書かなくてはいけませんね!つきましては、今後はより一層の密着取材を」
ガツンッ!
突然のご都合解釈に、思わず手が出てしまった。
このまま喋らせては、またいつものように揶揄うだけ揶揄われておしまいだ。そう思い、この場から追い出すために早口で言葉を投げつける。
「はー、もう良いからさっさと失せなさい!今度恥ずかしい記事を書いたらただじゃおかないんだからね。ほらほら、此処にはネタなんか無いんだから、帰った帰った!」
「え、や、ちょっと」
文は抵抗するが、まだエンジンがかかりきっていないのか霊夢の勢いに押されて後ずさりする。
「っとと、違います違います。今日は霊夢さんにお願いがあって来たんですよ!」
「……何よ、お願いって」
文を押し出す手を止めた霊夢が訝しみながら問う。
「はい……。」
霊夢に見つめられ、いつものキレはどこへ行ったのか。文は視線を彷徨わせ、返事も絞り出すような声しか出なかった。
「……文?」
「えぇっと、ですね」
心を落ち着かせるように胸に手を当て、やがてゆっくりと視線を上げ霊夢の瞳を見つめ返すと。
「私と一緒に、写真に写って欲しいんです。貴方に頂いた『新しい私』……。」
そこで文は一度言葉を切り、一息ついて、微笑みと共に告げた。
「そんな私がいる『いい未来』の写真の、一枚目に。」
――私の鞄に入っている文花帖と写真機。いつでも私の傍にあって、私の生き方を支えてくれる、大事な道具。
この子達には、単なる取材道具としてだけじゃない、私と共に生きて、私の生き様を憶えていてくれる、そんな大きな大きな「生きる意味」がある。
たとえ文花帖の頁を使い果たそうとも、たとえ写真機が壊れて修復不可能になろうとも。きっと私は、それらを手放すことはない。
霊夢と一緒に撮った写真は、その最初の頁に、そのレンズに。綴じられて、焼き付いている。
私の魂の、大切な大切な一欠片は。一生を共にする相棒たちが――きっと道具などではないそれらが――、そっと胸に秘めてくれている。
道具は人を助けてくれるものだ。人々の生活を豊かにし、便利にし、時には命をも助けてくれる。
しかし道具とは、どこまでいっても“道具“である。
どれだけ錆びぬよう手入れしようとも、どれだけ欠けた部位を修繕しようとも、いずれは使い物にならなくなり捨てられる。
付喪神のように第二の生を得たとて、“道具として使われ続ける”ことはない。
それが“道具”として生み出されたものの定めだ。
――ならば。
自らが人の礎に埋まってもいいと。たとえ自分は捨てられようとも、「自らを使う者の幸せが自分の幸せだ」と、そう言える者ならば。
その者の手足は、体は。魂は。
“道具”足りえるのだろうか――
爽やかに吹き抜ける風が木々を揺らした。
外ではチチッ、チチッ、ツィー……と鳥の会話が聞こえてくる。
今は皐月(さつき)の中頃、人里では田植えが始まり、幻想郷の各所は初夏の様相を呈している。
こんなのどかな日には、縁側に座ってお茶を飲みながら、自然を感じるのがいいだろう。あるいは、早めの風鈴でも吊り下げて涼やかな音を聞きながら、日陰で昼寝をするのもいいかもしれない。
しかし、そうゆったりと過ごせない者が一人。妖怪の山に居を構える射命丸文は、窓すら開けず、暗い部屋の中で机に突っ伏して唸っていた。
「うぅ、あたま痛……」
体が重く、動こうという気力が湧かない。窓の隙間が明るくなってからどれだけ経ったのだろう。
遠くに聞こえる渓流の水音を聴いていると少しだけ頭痛が和らぐような気がして、朝からずっとこうしていたのだが……。
いつまでも動かないわけにはいかない。いい加減活動を始めなければ。
嫌がる体を無理矢理起こし、跳ね上げ式の窓を開けて風を浴びる。
「はぁ……。なんでこんな時期に風邪なんて引いたのか。はたて辺りに知られたら全力で煽られそうだわ……。」
そう愚痴をこぼしながら背伸びをし、桶に溜めてあった水で顔を洗う。
冷感とは痛覚よりも優先して感じられるそうだ。夜のうちに冷えた水を頭から被ると、その冷たさに頭痛が上書きされ、働いていなかった頭が多少はスッキリする。
「ッ⁉︎寒…。水が冷えすぎてたのかしら……。まあいいわ。今日はどうしようか。取材か原稿か……。」
今は春眠に寝ぼけていた者たちがようやく暁を覚え、秋の収穫に向けて準備を始める、いわば生命が最も活発な時期。体調を崩したとしても、こんなときに家に籠っているなんて勿体無い。
よし。ならば今日は飛び回ってこよう。そうして気分転換できれば、風邪もすぐに治ってしまうに違いない。
太陽の畑は今頃紫陽花で埋め尽くされていそうだし、霧の湖や魔法の森は妖精たちがはしゃぎまわっているかも。――それから、あそこに行きたい。
……うーん、何故そう思ったのだろう?
ポンっと脳内に「あそこ」が思い浮かんだことに疑問を覚えるが、すぐにそれはかき消される。
「……まあ、あそこもネタの宝庫ですし。行って損はないでしょう。それにタイミングが合えば、豊作祈願の祈祷をしているかも……」
そんな言い訳がましいことを呟きながら外出の準備をする。
服装はいつものフォーマルな半袖シャツにミニスカート。文花帖は――鞄に入れた。写真機は――首に提げた。
確認は怠らない。いざというときに準備不足で満足な取材ができないとあっては記者の名折れだ。今ではどんな状況であろうと必ず行うルーティーンである。
「――さて。行きますか!」
外に出て自慢の翼を広げる。バササッという羽音とともに大量の黒い羽根が舞った。眷属の鴉たちが集まってきたのかな。
重かった身体も、やる気になってしまえばなんてことはない。普段よりも頭が軽いくらいだ。
文がふわっと空を見上げると、たちまち周囲の空気が渦巻き、木々がざわめく。そして流れ来た翠色の風を捉えると、一気に飛翔した。
「うーん、気持ちいいわねぇ……」
日常とお茶を愛する巫女――博麗霊夢は、縁側に寝転んで日差しに目を細めながら、そう呟いた。
ここ最近はどこも平穏そのもので、たまの宴会以外には大した行事も無ければ、事件も起こらない。
強いて挙げるなら、田園地帯で豊作祈願をしたくらいか。しかしそれだってあっさり終わるものだ。
私の仕事、もう落ち葉掃除だけでいいんじゃないかしら~。
などと考えていると、霊夢の鼻頭を微かな風がくすぐった。
実際には風など吹いていなかったのだが、感じ取ったのだ。霊夢はとろんとしていた表情を一転、眉をひそめた。
「……今日は随分とうるさいわね」
体を起こし、伏せてあった二つ目の湯飲みをひっくり返して急須を揺らす。手に伝わる重さから二杯分は残っていそうだと軽く頷き、急須を置いて、“いつもの”ぶっきらぼうな表情で空を見上げる。
次の瞬間、霊夢の前につむじ風が落ちたかと思うと、目の前に一つの影が現れた。
「そこな巫女さん。のんびりされてますが、お仕事はよろしいので?」
「生憎と、今日は無いわよ。行事ごとは大方終わってるし、ここに来ても大したネタ……は……」
霊夢はそこまで言って、言葉を詰まらせた。
「?……あのー、どうかしました?」
首を傾げて問う文には答えず、彼女の姿を頭から足先まで凝視する。
「えぇっと、私に何かついてますかね?そう無言で見つめ続けられると、居心地が悪いのですが……。」
言い募る文の瞳に、ゆっくりと視線を戻す。戸惑いの色を浮かべる文とは対照的に、見開かれた霊夢の瞳はどんどん色を失い、欠けたガラスのような剣呑な雰囲気を帯びていく。
霊夢の透明な瞳に映っていたのは、大空を力強く飛び、鋭い意志と覇気を宿す鴉天狗の姿ではなかった。
「……アンタ、気づいてないの?」
「気づいてないって、何に」
「その頭と、翼によ!!」
突然大声をあげた霊夢に驚いて、文は思わず後ずさる。
そこにいたのは、まるで澱んだ水のような生気のない顔をして、無理をしているとしか思えない雰囲気の少女だった。服は整えられているようで端が乱れており、肌には艶がない。
文は後ずさったことで足元に落ちていた幾枚もの羽根を踏んだことに気づき、首を傾げた。
その動作によって、さらに数枚の羽根が抜け落ちる。
「……私の羽根?羽繕い(つばさのかんり)は普段からしているのですが……いやここ数日はしていないかも……」
それを聞いた霊夢は呆れた様子で言う。
「うちに降りてくるまでにも、ばさばさ散らしてたわよ。それから、その頭。髪はボサボサ、頭襟もつけてないじゃない。一体、何があったのよ。教えなさい」
「え?あれっ。――そうか、妙に軽いと思ったら……。あ、いえ、少し体調を崩しただけで」「体調を崩した?」
「は、はい、ちょっと軽い風邪を。……あはは、おかしいですよね、こんな季節に風邪をひくなんて。まあすぐ治りますよ、大したことは……」
「天狗なんて高位の妖怪が体調を崩すなんて、そうそうあると思えない。それに、普段から散々アンタに絡まれてる(接してる)私が分からないと思う?今のアンタは十分すぎるくらいに、大したことあるわよ!」
しまったな。私としたことが、身なりを十分整えないまま出てきてしまうなんて。出発前に確認はしたはずなんだけれど……。
にしても、霊夢は随分と大げさね。ちょっと準備不足だっただけじゃない。
まあこんなナリでは出会った人に怪訝な顔をされてしまう。一番に此処へ来たのは不幸中の幸いってところね。とにかく一度帰って、改めて出直すとしよう。
「とにかく!私はどうってことありません。貴方の言うように此処には良いネタが無さそうですので、私はお暇(おいとま)させていただきますね。――それとも、貴方は私に此処にいて欲しいんですか?っと、これはこれは。甘えん坊で困った巫女ちゃんですねぇ。」
霊夢は笑ったり怒ったり、いつもせわしない。こういうことを言って煽ってやれば、大抵暴力巫女になって追い出そうとするのだ。
ほうら、みるみるうちに拳が震え出した。これで……
文は心の中でほくそ笑みながら言葉を並べるが、霊夢の反応は文の想像とは違うものだった。
振り上げられるかと思われた霊夢の手から力が抜ける。
そして霊夢の口から発されたのは、肯定の言葉だった。
「――はあ。……そうよ、いて欲しいの。」
「おや。どういった風の吹き回しでしょうかね」
予想が外れて疑問符を浮かべる私に、霊夢は脈絡なく口を開き。
「ね、勝負しましょう。私が勝ったら、今日はここにいて。アンタが勝ったら、どこへでも取材に行くといいわ。」
「どういう意図か存じ上げませんが、私がその勝負に乗って勝とうが乗らずに逃げようが、結果は変わらないのですが?勝負に乗るメリットがありません。」
そうだ。この子の言う勝負にわざわざ乗るまでもない。さっさと飛び去ってしまえばいいのだが。
「だってアンタは逃げないでしょう?誇り高い烏天狗さん。」
……私も霊夢のことをとやかく言えないかもしれないな。
普段とはあまりに様子が違うから、この子がいったい何を考えてるのか解らないけど。
そんなことをそんなに真面目な顔で言われたら、受けて立つしかないじゃない。
「……あつい。……いや、さむい……?」
目が覚めると、そこは神社の母屋の一室だった。横に目をやると、障子越しに朱い光がぼんやりと揺れている。そこからは障子の格子状に紺桔梗の影が伸びていて、今が夕方であることを教えてくれた。
首を回したことで、衣服にも違和感を覚える。麻布のような肌触りのそれは、文が気絶している間に霊夢によって着替えさせられたものらしい。
「こうしちゃ、いられ……っ」
重い。
文は直ぐに起き上がろうとしたが、体が言うことを聞かない。腕をあげるのがやっとで、今朝方感じていたものとは比べ物にならないくらいの倦怠感。力を抜いて持ち上げていた腕を下ろすと、はぁっと息が漏れた。
弾幕ごっこで被弾したからといってこんな風になるわけがない。恐らく風邪が悪化したのだろう。
文は無理に動くのを諦め、揺れる天井を眺めながら先程の記憶を思い起こす。
「……なんで負けたんだろう」
勝負はあっさりとしたものだった。
開始と同時に弾幕をばら撒いて、高速飛行で彼女の後ろに回り込もうとしたのだが、何故か彼女の方が明らかに速く動いていたのだ。普段ならば彼女が勘に頼らざるを得ないはずの瞬間的な移動に、目線がしっかりと追い付いていた。
そしてそのまま、読まれたように移動先に大幣が振り下ろされ、被弾と相成ったのだった。
「あんたが体調崩してるからよ。」
障子とは反対の方から聞こえた声に文が首を回すと、そこにはお盆を持った霊夢が苦笑いしながら立っていた。
「馬鹿も風邪は引くのねぇ」
霊夢が傍に座りながら呆れたように言ってくる。正面から馬鹿と言われたことに腹が立ったが、実際、大したことないと言いつつこうして倒れたのだから、私が馬鹿だということなんだろう。
言い返せず黙って目を逸らすと、不意に頬に冷たい物を当てられ、ひゃっと声を出してしまった。
「ふふっ。ひゃっ、だって。驚き方も普段と違って、か弱くて結構可愛いわね。実はこっちが素なのかしら。」
「なにを……あ……」
頬に当てられたのは濡れタオルだった。それを軽くたたんで、額に乗せられる。小川の水に手を触れたときのように、冷たすぎず気持ちのいい冷涼感が染みこんでいく。
「んぅ……」
こわばっていた全身がゆるりと弛緩するのを感じる。額を冷やされるだけでこうも違うものかと考えていると、こちらを見てほほ笑む霊夢と目が合った。
……待て。今、霊夢に何を言われた?タオルの気持ちよさにぼうっとしてしまったけど、確か、私のことを――
「……っ」
熱を冷まされていく額に反比例するように、風邪によるものとは違う要因で頬が火照るのを感じる。
いや、これは違うから。今の反応はちょっと驚いただけで……。
照れくさくなって思わず口を開こうとするが、その瞬間、喉が痛んで咳きこんでしまった。
「こら、無理に声出そうとしない」
霊夢に優しい声で諭される。ついでに頭を撫でられて、余計なお世話だとその手を払いたいのに。でも実際の自分は、眼を閉じてそれを受け入れてしまっていて……。
はあ。普段のように事が運ばなくて、自慢の速さを発揮できなくて、人間よりずっと身体の強い私が霊夢にその自分を委ねるしかなくて。
今の私の心は、かなり弱っているのかな。
己が弱っていることを自覚すると同時に、感情の天秤はネガティブな方向に傾き始めた。
ああ、情けない。無為に反発したがって、優しくされればそれに身を任せてしまう。これではまるで、親に守られるだけの雛鳥ではないか。
撫でられ続けていることで安心感が私を満たすとともに、同じくらい大きな不安が押し寄せる。
一度傾いてしまった天秤の皿は、もう元の位置には戻れなかった。
今や記憶の彼方にあるはずの、私がまだ普通の鴉だった時の感覚。
妖力を得て、天狗という妖怪の中でも高位に位置する誇り高き存在になって。数々の経験と研鑽を重ね、常に成長し続けてきた。
――普段の私ならば、そう言えただろうか。
――それって、どんな姿だったっけ。
堂々と前を向きすっくと立つ、そんな自分がイメージできない。たとえ身体が強くなろうとも、どれだけ技術を磨こうとも。中身が、私自身が、あの頃の自分から成長していると思えない。
……考えが表情に現れていたのだろうか。心配そうにこちらを見つめる霊夢の瞳は、夕焼けと宵闇を織り混ぜたような色を湛えている。
そして再び慈しむように、
「たまにはいいのよ。『清く正しい鴉天狗』でなくても。ここにいるときくらい――私といるときくらいは、『あや』でいて。」
……この子は、随分と酷いことを言う。だって私は、ずっと“あの姿”でい続けないといけない。私は『清く正しい烏天狗の射命丸文』だと、そう言い聞かせ思い込みそのイメージの通りに生きる。そうすればいつか“そう”なれる。そう信じてきたのに。
改良や修繕はされど、削れて芯が露出したのを放置して「それも自分だ」などと言い張ることはできない。してはいけない。
「甘やか、さないでよ」
喉の痛みを無視して声帯を震わせる。
「私の、信念、なの」
治まったはずの頭痛がまた始まって、重い腕で目の奥を上から押さえつける。先ほどから暑かったり寒かったり鬱陶しい。変な冷や汗も滲んできた。
「『あや』じゃ」
「迷ってばかりの劣化品じゃ、だめなの」
霊夢は何も言わずに私の頭を撫で続ける。しかしその手は、私の言葉を聞くうちに、段々と弱弱しくなっていくようだった。
――情けない。
――本当に、情けない。
「……落ち着いた?」
小さく首肯する。
「そう」
ふと外の方を見ると、ぼんやりと見えていた朱色はとうに溶けきって、障子は墨色に染まっていた。
霊夢が、あらもうこんな時間と呟いて行燈に火を入れる。
「文、お腹すいてる?お粥は食べられそう?」
「……ちょっと、きついかも」
「ん、分かった。それなら、生姜湯でも作ってあげるわ。いくら食欲が無くても、水分は必要だから。」
穏やかながら有無を言わさぬ調子の霊夢の言葉に頷くと、霊夢は部屋から出て、後ろ手に襖を閉めるのが隙間から見えた。
――足音が遠ざかり、やがて聞こえなくなる。そういえば、あの子は生姜湯を作ってくると言っていたけど、喉の痛みはいつのまにか無くなっていた。無駄なことをさせてしまったかな。
独り、部屋に残されてしまった。
行燈が照らすのは壁と、襖のみ。不思議と自分の息遣い以外には音もなく、この部屋にいる自分以外には何の存在も感じられない。
そうなってしまえば、襲い来るのは心細さ。
世界のすべてはこの部屋で構成されていて、あるのは布団と行燈だけ。新聞記事や原稿も無ければ、それを読む人もいない。
私はこの布団にくるまったまま、倦怠感と頭痛にうなされることしかできない。
……まるでこの小さな世界に閉じ込められたような。あの広い世界に、私の存在を否定されているような。
未だ揺れる天井をみつめていると、そんなことが頭をよぎって、ゆっくりと首を振って考えをシャットアウトする。
どうしようもないことを考えては頭から締め出し、また天井に視線を戻す。
……霊夢、遅いな。
五、六度は繰り返しただろうか。いい加減気が滅入ってきた頃、視界の端にちらりと影が映った。
霊夢が戻ってきたのだろうか。襖が開いた気配はなかったけど、私がぼうっとしていただけかな。そう考えて視線を向けるも、それはどうにも揺らめいていて、色は不明瞭。じっと見つめると、それは辛うじて人の形に見えた。
誰だ、と誰何するも、それは反応を示さない。
言葉を解するものではないのか?ならば彷徨っているうちに神社へ流れ着いた幽霊か、それとも悪戯をしに来た妖精の仕業か……などとぼんやりする頭で思考を巡らせていると、“それ”の方から小さな返事が聞こえた。
――私は……なんだろう。分からない。
その声は、一言で言うなら、変な声だった。どこかで聞いたことがあるような、しかし知っているかと問われれば首を傾げざるを得ない、そんな違和感満載の声。
「分からない?記憶もないのか?いずれにせよ、此処はお前のいるべきところではない。出て行け。」
一段トーンの下がった、低い声で警告する。
“それ”は私の言葉が聞こえているのかいないのか。頷く様子を見せたり首を振ったり、歩こうとしては止まり、突如上を見上げてはすぐに俯く。
なんなんだ、こいつは。一見すると自分が何者かも解っていない廃人のような存在だが、わざわざ夜の博麗神社に出向いてきたのだ。悪意ある存在でないとは限らない。かなり身体はしんどいが、此処を襲わせるわけにはいかない。場合によっては私が……。
私がそう脳内で考えを研いでいると、突如として影が叫んだ。
――そうだ、思い出した!……いや違う、解った!
解ったという言葉にやはり意思があるのかと警戒を強めようとしたが、続く言葉を聞いて、私は思わず固まってしまった
――私は、物!そしてお前は、私よ!
「……何を、言っている?」
この影が“物”、そして私が影…つまり私が物ということか?
意味が分からなかった。しかし、染みこむような“それ”の言葉に、つい意識が向いてしまう。
“それ”の言葉には、なにか引っ掛かるものがあった。
――そう、私は“物”よ。己の定義を自身で決められない物。
――私は後悔しているの。
――己の定義も、生きてきた道も、自分の足で踏み固め切り開いたものではない。
こんなもの、誰ともつかぬ影の戯言だ。訳の分からないことを言うなと、一蹴してしまえばいい。
なのに、なぜだろう。目も口も、顔中の筋肉が硬直してしまったかのように動かせない。まるで、顔にも体にも、心にまでも見えない糸を括り付けられて、影の方へ引っ張られているようだ。
――私はこう生きるのだと、定められたままに『役目』を果たしていれば。
どこか芝居がかったように語る影。その仄暗い声は私の耳を侵食し、やがてそれは脳に入りこんでガンガンと響きだす。
――そうしていれば、きっといい結果が得られるのだと、そう“必死に”断言して、前だけを向いて。
……。
――行きつく先を考えたことなどなかった。……いい結果。……良い結果!それは、一体誰にとっての“いい結果”なの?
……いい結果はいい結果だろう。ただの、皆が笑顔になるような結果でしかない。
気が付くと、私は頭の中で、影が投げた疑問に答えていた。頭に響くその声は留まるところを知らず、もっともっと私の深いところに染みこむようだ。
最早この声は私自身が発しているのではないかという錯覚さえ起こしそうで、私の揺れる意識は必死にその侵入者を否定する。
――驚いた。その“いい結果”の中に見える景色に、私はいないじゃない。
ああ、こんな“耳障りの悪い”ことを言う奴、早くいなくなって欲しい。くそ、頭痛が酷くなってきた。こんな時に風邪なんて引いていなければ、ひと風で吹き飛ばしてやれるのに。
――そもそもその結果を作るのは、自分でなければ成し得なかったの?
知らない。
――もしかすると、その結果を追い求めるのは、自分じゃなくても良かったんじゃないの?
それが分かるころには自分はいないんだろう?考えるだけ、無駄だ。
――必死に導いて作り上げた皆の笑顔を私が覚えていたとて、相手は私の顔を、努力を、覚えているの?
自分が満足できるなら、忘れられても構やしない。
――そうして私は、一体何を遺せる?
そんなの、決まってる。私が作り上げてきた、私の成果物だ。皆の、幻想郷の幸せだ。
――しかしそれは私でなくてもこなせる、そして、
「……私が為したことと、解らない、ような――?」
私の口は影の言葉を引き継ぐように、“思ってもみなかった”言葉を紡いでいた。
あれ。おかしい。私の、いやこいつの信じてきたことは、そんな結果に、なるの?
ドクンと、心臓が跳ねた。
気づかないうちに、影の言葉は私の大切で、繊細で、何人たりとも踏み入れさせたくない最も弱い領域に、足を踏み入れていた。
そのまま私は蹂躙されるのではないかという恐怖を覚え、落としていた視線をほとんど無意識に上げ、影を見る。
いつの間にか揺らめきが止まりハッキリと見えるようになっていたその顔は、とてもよく似ていた。
毎朝鏡で見る、私の顔に。
――お前は私に訊いたわね。誰だ、と。今一度答えてあげる。
恐怖と拒否感で目を見開く。
これ以上を、その先を、聞きたくない。識(し)りたくない。その先を聞いてしまったら、私が今まで信じ続けてきた全てが……!
――と。そういえば私の生き様とお前の生き様は、随分と似ているわね?それに姿も声も。偶然かしら。……偶然な訳がないわね?
動かない身体を無理矢理曲げ、縮こまって頭から掛け布団を被って耳を塞ぐ。
しかし、その嘲笑うような声は容赦なく耳を貫通し頭中に響いた。
――そう。私はお前だ。そしてお前は、私だ。己の定義も、生き方も役目も結果も成果も思いもすべて自分のものではない私だ。他人に流され使われるだけで、傷ついたら他の誰かに取って代わられる私だ。
――いつか私(おまえ)が見る最終結果(ゲームリザルト)を、私は知っているわよ。……こう言われるの――
いやだいやだいやだ聞きたくない識りたくない痛い寒い寂しい怖い……!
――『もう、いらない。』
……あ。
――お前は“道具”だ。“役目”を果たさないまま、見つけられないまま。何も遺せず、捨てられ、忘れられる。ただの“道具”だ。
…………ああ。
――それから、お前はこうも言ったわね。
………………助けて。
――此処はお前のいるべきところではない。出て行け。……全くもってその通り。
……………………助けてよ。
――博麗霊夢(そこ)は、道具(おまえ)如きが隣に並んでいい場所ではない。
――霊夢……!
「生姜湯を作るって言ったけど、そもそも生姜、ウチに残ってたかしら……。」
火のかかったやかんを眺めながら、大して気に留めていないことをわざわざ声にする。
「……はあ、今日は平穏な日かと思ったら、とんだ厄介事が降りかかってきたわねぇ」
自分の声で誤魔化そうとしても、文の言葉が頭から離れない。
――羽繕いを『管理』と言ったこと。もちろん「体調を管理する」とか、身体に対して「管理」という言葉をつかうことはある。それだけならおかしくはないのだけど。
「……何が、劣化品よ」
多分、いや間違いなく、あの『管理』は、そういう意味じゃない。まるで、包丁が刃こぼれしてしまわないように研ぐような、そんな、“物”に対して使う『管理』。
文の、自分の体の不調を何とも思っていない、あの態度。
まるで髪が、翼が、自分が。それらすべてを『自分』だと思っていないように見えてならない。
やがて、やかんの蓋が震え始めた。水につけて保存していた生姜を取り出してきて、流水で洗ってからおろし金に乗せる。
ゆっくりと擂り下ろし始めるが、その手はぎこちなく、生姜の擦れる音が、やたらと響いて聴こえた。
「……さっき私に見せたあの表情が、劣化品だっていうの」
ざっ。……ざっ。
「いつも私に見せていた姿は、全部あんたの姿じゃないっていうの」
ざっ。ざっ。ざっ。
「自分を自分のものとしか、いやそうとすら思っていないっていうの……っ」
ざっざっざっざっ
「……あっ」
気が付くと、手に持った生姜は小さな欠片になっていて、はみ出した指には小さな赤い筋ができていた。
口を真一文字に閉じる。それは指の痛みを我慢しているのか、それとも別の何かが溢れそうなのをせき止めているのか。
やかんが鳴き始める。無言で火を止め、湯飲みにお湯を注ぐ。そこにすりおろしたばかりの生姜を一掬い入れると、生姜のツンとした香りが広がった。
お湯一杯分に入れるだけなのに、勢い余って生姜をまるまる一つ下ろしてしまった。仕方なく残りを器に入れ、氷箱にしまう。そして戸棚に向かい、中から黄金色の液体が入った瓶を取り出した。
喉の痛みや咳を和らげ喉の乾燥も保護してくれ、健康と不死をもたらすともいわれるそれは、瓶の蓋を開けた途端濃密な甘い香りを放ち、霊夢の意識を黄金色に染めた。
妖怪でありながら山の守護神でもあって、想像もできないほど永い時間を生きている天狗のあいつ。
そのくせまるで人間のように悩んでいるみたいで、今日初めて私に弱いところを晒したあいつ。
あんな馬鹿につけるのは、この神々の秘薬――はちみつくらいが――ちょうど良い。
霊夢はそんな蜂蜜を生姜湯に垂らしながら、眼を鋭く光らせ、呟いた。
「このままただの風邪で終わらせてなんかあげないんだから。神(アンタ)の言葉を聞くのは巫女(わたし)の務め。アンタの本音、聞かせてもらうわよ……!」
大きめのお盆に、湯飲みとタオル、そしてたたんだ浴衣を乗せ、片手で持つ。もう片方の手にはぬるま湯の入った小さな桶をぶら下げている。
そうして文を寝かせた部屋の目の前まで来ると、襖越しに文の声が聞こえた。
――助けて
――助けてよ
――霊夢……!
「!」
最後まで聞くことなく、霊夢は持っていたものをその場に素早く置き、襖をスパンッ!と開く。
霊夢の目に映ったのは、掛布団にくるまって必死に耳を塞ぎ、うわごとのように霊夢に助けを求める文の姿。
「文⁉……文!何があったの!誰かいるの⁉」
急いで駆け寄り、印を結んで自分たちの周りに結界を張る。しかし、見回しても自分たちの他に気配は感じられない。
どういうことかと文を見るが、彼女はぎゅっと目をつむったまま震えているままだ。
とにかく一度、文を落ち着かせて何があったのか確認しなければ。
彼女の耳に口を近づけ、手を握りながら声を掛ける。
「文、大丈夫。私よ、霊夢よ。私の他には誰もいないわ。お願い、目を開けて。」
「……れ、れい、む……?」
無事に霊夢の声は届いたようで、恐る恐るこちらを向いた文と目が合った。
「そうよ。もう大丈夫だから。近くに誰かいるの?」
「そ、そこに、私の影が……」
「影?」
文が目を背けながら指さす。そちらに視線をやるも、何もいるようには思えない。
「……何も見えないわ。妖力も感じない。」
「えっ」
それを聞いて文は、ちらりとそちらを見る。
たしかに、先ほどまでそこで揺らめいていた影は、綺麗さっぱりいなくなっていた。
「影、って言ったわね。文、きっとあんた、夢を見てたのよ。影の姿で自在に動き回って、あんたをそこまで追い詰めるなんて妖怪、私は知らないわ。」
「夢……」
文はそれを聞いて、ようやく少し落ち着いたようで座りなおす。しかし、全身から冷や汗が滲んでいて、着ている寝間着にも染みこんでとても寒そうだ。
文の様子を見た霊夢が、置いてあったお盆と桶を手元に引っ張ってきて言う。
「その恰好じゃ寒いでしょ?生姜湯は後にして、先に身体を拭きましょう。」
――最初は、考えてもいなかった。自分が奔走した果てにある「いい結果」。幻想郷のためになることをしているのだ。「いい結果」は、「いい結果」に違いない。そう思いながら、自分を積み上げるのに必死だった。
そうして、その生き方にも慣れてきて、心に余裕が生まれた頃。段々と自分の中身を見る余裕が生まれてきて、そして解るようになってきた。“道具”である限り、自身の幸せを追い求めることはできない。まあ、それでもいいと。最大多数の最大幸福だ、幻想郷の幸せになるのなら、その輪の中に自分がいなくても構わないと思っていた。
でも、新聞を書き始めて、たくさんの命が全力で生を謳歌している様をレンズ越しに見て。たくさんの笑顔を受け取った。たくさんの覚悟を受け取った。そして、本のかけらだけ。もし叶うなら、自分もそうありたいと、思ってしまった。“いい結果”を映した写真を見た人に、「この写真を撮ってくれたの、誰だっけ」と言われるのが、怖くなってしまった。
それでも、道を変えることはできなかった。だってそうしたら、それまで積み上げてきたものに意味がなくなってしまうような気がしたから。視界の端に映る、『本物(にせもの)の私』を見ないように、まっすぐ、前だけを向き続けた。
「それじゃ、上から脱がせるわよ。」
霊夢が着せたとき、帯は苦しくないよう軽く巻く程度にしてあったため、文が激しく動いたことで帯が取れ、襟の辺りが大きくはだけてしまっていた。
「……ぅ」
文は自分の身体を見、霊夢の前でとんだ醜態を晒したことに気づいて、項垂れて目を逸らしている。
「私は文のどんな姿を見たって気にしないわ。いいから、両腕上げて。」
よろよろと腕が持ち上がる。霊夢は文の寝間着を持ち上げるようにして脱がせ、ついで肌着も捲るように剥く。そしてタオルをぬるま湯につけて絞り、文の背中から順に当てがい、撫でていく。
小さい背中だった。普段こいつの背中を見るときは、あんなに頼もしくて、大きな背中に見えてたのに。
肩甲骨や背骨の形が浮き出て、随分と骨ばっている。こんな背中からあの大きな翼が生えているのだとしたら、何かの間違いではないかと疑いたくなるような、最低限の筋肉しかついていない。
「あんたは、成長しない自分を劣化品だと思ってる?」
「……千年以上生きているのに、何も、変わらないんです。」
文は項垂れたまま、呟くように声を漏らす。
「日々成長しているのは、うわべだけ。中身が、変わらない。そんなもの、劣化品……でしか、ないでしょう。」
背中を拭き終わり、腕にタオルを当てて同じように撫で始める。その間、文は霊夢にされるがまま、ぽつり、ぽつりと先ほどまで見ていた夢の内容をこぼし始めた。
文の独白を聞きながら、その腕に手を添える。
細い腕だった。天狗の羽団扇を振るう、力強いはずの腕。
あの腕が振るわれる度、木々を根こそぎ吹き飛ばすような暴風がそれに応えていた。あの腕は、こんな枝のような腕だっただろうか。
弱弱しい手だった。カメラを構え、文花帖にメモを取る、繊細な手。
箸より重いものは持てない、そういう類の繊細さではない。がしっと掴まれそうな、それでいて包み込まれるような、優しくて綺麗な手だったのに。
痩せた脚だった。地を蹴り空を蹴る、強靭なはずの脚。
その蹴りひとつで、建物が壊れるほど。でも、今やガチガチに凝り固まって、とてもそんな強い脚だったとは思えない。
身体を拭き終わるとともに、文の独白が終わった。霊夢は替えの寝間着を広げて文の腕に通しながら、文に訊く。
「あんたは、私や里の住人や妖怪たちの中に、あんたがいないと思ってる?」
「みんなの中に、私が……?」
困惑する文を無視して、問いを重ねる。
「あんたは、もしあんたがいなくなったら、その代わりが何処かにいると思ってる?」
「……私の他にも記者はいるし、鴉天狗も天狗の里には大勢いるでしょう。」
文が質問に答えても、霊夢の表情は変わらない。
「あんたは、あんたが傷ついて、その結果問題が解決して、それで私たちは喜ぶと思う?」
「私一人がちょっと怪我をして他の全てが解決するなら、それでいいでしょう。」
一拍。霊夢は、それじゃあ、と前置くと。
「あんたは、自分のことを、道具だと思ってる?」
「ひっ」
『道具』という言葉を聞いた瞬間、文の顔が引きつる。
その顔を見た霊夢は、大きく息を吸い、はぁぁぁぁっとため息をついた。そして、もう一度息を吸うと。
「ぜんっっっぶ、違う!全部、間違ってんのよ!」
吐き出した。今日二度目の霊夢の大声に、文の肩が跳ねる。
「い~い?アンタはね、何もかも一人で背負い込み過ぎなのよ!事件があれば即向かって取材、ええ結構。幻想郷最速を自負する新聞記者だもの、早さこそが至上よね。でもね、隣に、目の前に、仲間がいるときくらい、巻き込みなさいよ!何も言わず一人で勝手に突っ走って、それで勝手に傷ついて、『ちょっと怪我しちゃいました。でも成果はありましたよ』?それでみんなが、私が、『ならいいか』で済ませると思う⁉汚れた服を見たら、悲しいの。羽根の抜けたボソボソの翼を見たら、申し訳ないの。背中の傷を見たら、自分が一緒にいられたら、って後悔するの。あんたは自分の後ろにいる人の顔を、見たことはある⁉」
黙って聞いていた文が、我慢ならないとばかりに口を開くが。
「私が勝手に行動しているというなら、貴方たちの悲しみだって、貴方たちの勝手で」
「ええそうよ、アンタが別に求めていないことを、私たちが勝手に悲しんでるの。でも、それが何故か分かる?」
ほとんど反射的に反論した文の言葉を、霊夢は肯定した。
「……」
「それはね、私たちの中に、あんたがいるから。あんたが今まで迷いながらも必死に積み上げてきた、『本物の』射命丸文が、私たちの中に生きてるの。あんたの代わり?そんなもの、世界中どこ探したって見つかりっこないわよ。射命丸文は一人しかいない。あんたと同じ姿かたちでも、あんたと同じ能力でも、あんたと同じ性格でも声でも、あんたの代わりにはならないわ。」
「貴方たちが見ているその『射命丸文』が、本物の私だと?ええ、確かに私は、今まで多くのものを積み重ねてきました。でも、さっきも言いましたがね、その中身が、魂が伴っていないんです。弱くて幼くて、自分の幸せのために生きる?それは私が千年以上の間信じてきた『射命丸文』ではない。貴方が言う『本物の私』は、貴方の中で美化されただけの虚像に過ぎないんですよ!」
「千年以上の間に一度でも弱さが露出したらいけないの?いつでも常に理想の姿であり続ける?そんな万能の聖人みたいになれると思った?……かっこつけてんじゃないわよ!」
「恰好つけてなんか……!」
それまで火を噴くように赫怒(かくど)していた霊夢は一転、ふぅと息を吐くと、静かに続けた。
「自分のために生きる射命丸文は、私の言う射命丸文は虚像だ、って、言ったわね。」
「何の事件も、何の行事もない日に。人間の里で、誰かがふっと笑った瞬間とか。妖精がいつも通りに遊びまわってる姿とか。そんなもの、写真に写したところで自分の栄養になんかならないし、新聞のネタにも使えやしない。」
「でもあんたは、そんな光景をいつも心底楽しそうな目で撮ってるわ。それは、あんたが信じる理想の姿とは外れてる気がするんだけど。――あの目も、私にはそう見えるだけの、虚像?」
文の目が見開かれた。
「そ……れ、は」
違う。
その目は……!
「あの目をしているときのあんたは、幻想郷で一番と言ってもいいくらいに、生を謳歌してるように見えるわ。天狗には、私たちには想像もできないくらいに長い時間があるのに、その一瞬一瞬を大事に握りしめて、小さな命に敬意を示して、それを遺そうとして……。それこそ必死に、全力でシャッターを切ってる。」
その私は、私が自ら否定した私だ。気づいてしまって、そうするともう逃げられなくて、必死に目を背けようとした私だ。
「私はね、そんなあんたの目が好きなのよ。」
……この子は。私自身ですら否定した『本物(にせもの)の私』を、『本物(ほんもの)の私』だと断じてくれているのか。
………………私だって。
「……私だって、そんな目でいたいわよ。でもそうしたら、私がずっと信じ続けてきたものは?ずっと積み重ねてきたものは、どうなるの?……それが崩れてしまうのが、怖いの。新しい私を定義したとき、そうなってしまったら、きっとやり直せない。また一から、なんて……」
「初めからやり直すことなんてないわ、今あるものの上に、積み重ね続けるの。……言ったでしょ?あんたが積み上げてきた“理想の文”だって、周りから見れば紛れもない“本物の文”なの。孤高で格好いい文も、小さな命を愛する楽しそうな文も、たまには甘えてくる可愛い文だって、全部全部 “射命丸文”なんだから!」
仮面を被った形ばかりの私から、それをすら余すことなく積み上げ糧とする生きた私へ……。
たった一人の人間に肯定されただけで、……いや、霊夢に肯定されただけで、私の千年間の全ては、こんなにも違って見えるものなのか。
「貴方の言うこと、おかしいわ。私は一人しかいないと言いながら、同時にいろんな私がいて、それらすべてが私だ、って。」
「?そんなにおかしいことかしら?」
霊夢のきょとんとした顔を見て、思わず苦笑する。
この子は常識に囚われないだけだ。私から見れば変な話でも、きっとこの子の中では、まっすぐつながって見える“何か”があるんだろう。
「ねえ、霊夢。」
「なあに?」
「やっぱり、まだ怖いわ。だから、もう一度訊いてもいい?」
小さな首肯とともに、優しい眼差しで促される。その暖かさにもう一度甘えるように、口を開いた。
「私は、“道具”なのかしら。」
「いいえ、違うわ。あんたは、誰よりも“生きている”射命丸文よ。」
「私は、貴方の中に、いる?」
「いるわ。私の中だけじゃない、幻想郷のみんなの中にはっきりと、射命丸文がいる。代わりは誰にも務まらない。」
「私も、“いい結果”の中に、一緒にいても、いい?」
「当たり前よ。あんたが隣にいない結果なんて、“いい結果”じゃないわ。」
噛み締める。霊夢が贈ってくれた否定(肯定)と肯定(激励)は、すっと胸に染み込んできた。
あとは、私がそれを己(おの)が魂に刻むだけ。
「これで、足を踏み出せる?」
目を閉じて、大きく深呼吸をする。これまでの自分を捨てるのではなく、変わるのでもなく。その上に積み上げ続ける、その準備のために。何度も何度も、吸って、吐いて、吸って、吐いて。
「ぁ」
霊夢の手が、握りしめられた私の手に重ねられた。
――よし。
最後に一度、深呼吸。目を開けると、霊夢が私を見て「やっとか」と呆れたように微笑んでいる。
「――ごめんなさい。もっと、自分を大切にするわ。……それから、」
「ありがとう」
目尻に何か浮かんでくるものがあって、上を向いた。さっきまで項垂れていたせいか首が痛かったけれど、天井の向こうに広がっているであろう星空を想像すると、再びその顔を下げる気にはならなかった。
「生姜湯、すっかり冷めちゃったわねぇ」
「いいわよ、最初から喉の痛みはそれほどでもなかったんだし。」
「だめよ、念のため飲んどきなさい。喉はよくても、頭痛は酷いんでしょう?水分足りてないのよ、きっと。温めなおしてくるけど、その……大丈夫?」
霊夢が訊いているのは、再びさっきのようにならないか、ということだろう。少し頬を赤らめながら答える。
「大丈夫よ。もう自分に囚われはしないわ。」
それを聞いた霊夢が安心した表情で襖を閉めるのを見送ると、すっかり乱れてしまった布団を整えながら待つことにした。
暫くして、霊夢が湯気の立つ湯飲みを片手に戻ってきた。
「はい。熱いから気を付けて。」
「ありがと」
湯飲みを両手で包み、ゆっくりと傾けて口に近づける。すこし粗めにおろされた生姜の香りが鼻を抜けていった。
少しだけ口に含むと、蜂蜜のほんのりとした甘さに舌が包まれて、弱った身体はそれを抵抗することなく受け入れる。そのまま飲み込むと熱さと生姜の辛さが喉から胸へと染み渡っていき、身体を中からじんわりと温めてくれるようだった。
思わず、ほぅ……と吐息が漏れる。
「美味しい?」
「とっても」
「良かった」
他に言葉を交わすことはなく、霊夢に見守られながら、文が嚥下する「こくっ、こくっ」という音だけが部屋に響く。
一口、また一口。飲み込むたびに、失った気力が満たされていく気がする。
温かさが胸の辺りから更に広がり、凝り固まった四肢がゆるゆるとほぐされていく。やがて指先まで熱が伝わると、全身がぽかぽかしてとても気持ちがいい。
霊夢の想いによって形を成しているその暖かさ。それが全身に浸透していくその感覚はまるで、霊夢という名の母鳥の翼で包まれている、ような。
そんなことを考えると、再び雛鳥の頃の記憶が湧き上がってきた。しかし、今度は情けなさや劣等感を覚えることはない。
成長していないと落胆する必要はないのだ。その身が削れて弱さ(芯)が露出したら、それを包んでくれる存在が、隣にいる。
空になった湯飲みを丁寧に置いて、恐る恐る視線をそちらに動かす。彼女は、一度はその翼を振り払ってしまった私を、微笑みながら、もう一度受け入れてくれた。
――ぽふっ、とたおやかな綿羽(むね)に身を委ねる。安心感で私を満たしてくれる、柔らかい綿羽だった。
気づけば、もっとそれを強く感じたいとばかりに、半分無意識に両腕をまわしていた。すると彼女も、その両翼で私の上体をぎゅっと引き寄せて、そのまま優しく後ろ頭を撫でてくれた。
その手の動きに意識を向けていると、その心地よさに、声にならない吐息が漏れる。
こんな気分になったのはいつぶりだろう。
もう少し、このまま……。
そうして抱かれたまま頭を撫でられるうちに、瞼がだんだんと重力に逆らえなくなってくる。
柔らかくもしっかりと抱き留められていた身体は、少しずつ自分の身体と周囲の境目も分からなくなって、翼の中に溶けていく。
瞼が閉じられていくにつれて視界が暗くなる。ゆっくりと、湖の底に沈んでいくように。音は聞こえないし、もはや全身が弛緩してしまって声を発することもできない。
唯一感じるのは、私を包んでくれる胸と翼の暖かさだけ。でも、今の私には、それらがあれば、他には何もいらない。そう思えた。
――おやすみ、あや
遠くから響いてきたその声に、おやすみなさい、と心の中で返して、目を閉じた。
チチッ、チチッ、ツィー。
翌朝。文は、普段から聴いている鳥たちの話し声で目を覚ました。
妖怪の山も、此処も、朝の音というのはそう変わらないものなのねぇ。
よく考えたら、私の家と此処では大して標高も変わらないんだし、住人が似通ってるのも頷けるか。
でも、彼等の性格は違うみたい。山に住む鳥たちは環境的に危険が多いせいか気を張っていることが多いけど……。ぐうたら巫女にあてられたのかしら?ここの子達はみんなのんびり屋だわ。
意識が浮上したとはいえ、まだ頭は回らないし、身体を起こす気にもならなかった。外から聞こえてくる鳥の声に耳を傾けながら、ぼうっとくだらないことを考えていると、ス、ス……と襖がほんの少し開かれる音がした。
「文、起きてる?」
寝ていたら気づかない程度の、囁くような声で呼びかけながら、霊夢が顔を覗かせる。
「起きてるわよ」
文が自分の方に目線をやったのを見て、霊夢は空きかけの襖をもう一押ししてするりと部屋の内側に体を滑らせた。
「調子はどう?一晩寝ただけじゃ大して変わらないかもだけど……」
霊夢に訊かれ、ようやくとろんと溶けた身体に力を入れる。持ち上げた腕は昨夜に比べれば軽く、一息に上体を起こすこともできた。
頭を軽く振る。頭痛は……ない。それから喉も……痛くない。
「まあまあ、平気。昨日の生姜湯のおかげかしら。」
霊夢はその言葉を聞いて、ほっと胸をなでおろした。その仕草を見て思い出したのは、昨夜自分を包んでくれた綿羽。
「……。」
一晩ぐっすり眠ったことで、倦怠感や頭痛といった濃霧に覆われていた脳はスッキリと晴れ渡っていた。ぼやけたままでいた方がよかったことまで思い出すほどに、それはもう、スッキリと。
「……あの、……霊夢、さん。」
「んー?」
――いいか射命丸文、これは後世に遺してはいけない。もし他の誰かに知られでもしたら、今後延々と擦られること間違いなしの大スキャンダルだ。なんとか、せめて霊夢さんの内に留められるように誤魔化せ。
霊夢という名の脅威度不明の未確認生物を前に。私は餌ではないのだと、刺激しないよう、ゆっくりと口を開く。
「その、昨夜の、こと、なんですが……」
「昨夜?……あ~、ね♪」
「ぁ」
その先の言葉を紡ごうとしながら霊夢の顔を見て、気づいた。
やった。やらかした。前置きもなしにキーワードを出してしまうなんて。やはり私の脳内は、未だ曇っていたらしい。
霊夢の口がにんまりと弧を描く。瞳がキラキラ輝きだした。ああ、あの目はよく知っている。この子が楽しそうなものを見つけたときの、子供のように純粋で、これから綺麗な色を取り込まんとして光を湛えた、私の大好きな目。でも、今はその目が恐ろしい。
――逃げてもいいですか?
――逃がすと思う?
「な~に~?顔赤くして、口調も敬語になってるわよ?今更恥ずかしくなってんの?アンタ、あ~んな物欲しそうな顔で私を見つめてきちゃって、そんなに人恋しかったのね~」
「ちっ、が、そうじゃないです。私はただ」
「ただ、何?あ、もしかして、『私に』抱きしめて欲しかったの?それなら嬉しいわ~。きゅって両手まわしてきたから抱きしめ返して撫でてあげたら、心底嬉しそうな顔しながら寝落ちちゃったわね。小動物に甘えられてるみたいで可愛かった~」
あああ聞きたくない識りたくないっ!思わず両手で耳を塞ぐ。顔から火が、いや灼熱地獄の炎が出そうだ。
霊夢は空を掻き抱くようにして昨夜の文の仕草を真似て悦に入っている。
攻守が交代することもなく、このままこの子に揶揄われ続けるのかと思っていると、不意に霊夢がふう、と一息ついて、呆れたような笑顔で向き直る。
「ただ風邪を拗らせただけかと思ったら、あんな思いを抱えてたなんてね。本気の言葉でぶつかり合って、弱ったところを見せられて。あんた普段疲れた様子すら見せないんだから、正直驚いたわ。」
「……私も、夢ひとつであれほど取り乱すとは思わなかったわ」
どうやら危機は去ったようなので、霊夢に向き直って話をする姿勢に入る。
「ねえ、なんであんたは、此処に来ようと思ったの?最初からここに取材に来ようとしてたわけじゃないのよね?体調を崩したって言ってたし……」
言われてみて、そういえば、と考える。他にも行く場所の候補はあったのだ。ここに来る理由の方が屁理屈というか、弱かったはず。それにもかかわらず、博麗神社を選んだ理由。それは……
なんとなく顔をあげると、霊夢と目が合った。
この子は、巫女で、その目で妖怪である天狗をよく見ていて、だから私の異変にも……いや、きっと、それだけじゃない。
……この子が、霊夢だから?誰よりも私がこの子のことを知っていて、それでいてこの子も私のことをよく“視て”いて……
ハッと、霊夢をじっと見つめていたことに気が付いて、気まずくなって眼を逸らす。
「……別に。なんとなく、よ。」
「……ふーん?」
この子は私のことをどこまで“視て”いるのだろう。私自身が見ているよりも、もっと深いところまで見通しているのかもしれない。まるでサトリ妖怪みたいだと思いながらも、嫌な気分はしなかった。寧ろ“視てくれている”のが、嬉しい。
「心配しなくてもいいわよ。此処でのあんたのこと、他の奴らに話しゃしないわ。せっかく私を“選んで”くれたんだもの。『霊夢なら』って、きっとどこかで思ってくれたんでしょう?
「……まあ、ね」
「素直に嬉しい。私だけが『あの』あやを知っていて、私を選んでくれて、私を頼ってくれた。普段の可愛さはみんな知っているけど、今のあんたの“その”顔を知っているのは、私だけ。今のあやは、私だけのものよ。」
好意だけでつくられた瞳が綺麗だった。さっきまでとは違う意味で顔が熱いし、心臓の鼓動もうるさい。このバクバクとした音、霊夢に聞こえているんじゃなかろうか。
「ねえ、文。」
「な、何かしら」
「見せて、あやの全部。」
「……へ?」
突拍子もないことを言われて、素っ頓狂な声をあげてしまった。全部を見せてとは、いったいどういう意味なんだ?
「ぜ、全部、って……?」
「あんた、最近翼の手入れしてないって言ってたじゃない?私にやらせてよ。」
「翼?……あ、ああ、そういう意味……。」
「どういう意味だと思ったのよ」
「ああ貴方には、解らなくて結構」
「そう?じゃあ翼出して」
霊夢の勢いに押されて、霊力を背中に集める。
ばさばさと、黒い羽根を散らしながら翼が広がった。
「本当にボロボロね……自分が使う風に耐えられてないんじゃないの?」
霊夢は片翼に手を差し込むと、その細く白い指で羽毛を一枚一枚撫でていく。
絡まったところは、指先を櫛のように羽毛の中に滑らせ解く。並びが乱雑になってしまったところは、羽先を整えてから手櫛で綺麗に直す。
いつも文が見せてくれる、あの美しい翼を取り戻せるように。少しずつ、少しずつ、羽根を整え、凝った翼の筋肉も揉み解していく。
片翼が綺麗になると、反対も同じように整えていく。やがて全ての羽根が整然と並ぶと、仕上げに翼を持ち上げ、文には見えないように互いの顔の間に来るように支える。そして、その美しい鴉羽に軽く唇を触れさせた。
「ふふっ。……これで、よし!」
満足そうに笑う霊夢だが、文はそれどころではなかった。
たった今霊夢に何をされたのか、霊力を纏った翼が故に、感じ取れてしまった。
――今のって……私の勘違い?いやでも、感触的には確かに霊夢さんの……っ――
「そうだ、文。お願い聴いてくれたお礼、してあげる」
霊夢は赤面してあたふたしている文に構わず言葉をかける。
「お、お礼?」
「ええ。とっておきのおまじないよ。気持ちを新たにしてから最初に積み上げる、一段。新しい“本物”をあげるわ。」
昨日ここへ来てから何度目かの、霊夢を待つだけの、一人の時間。けど最初に比べれば、心身共にかなり調子を取り戻したように感じる。……まあ、いつも通りにとまでは、行かないけれど。
既に日は高く昇り、昨夕は陽に朱く照らされていた障子も、屋根の影に寄りかかって風の音に聞き入っている。この神社に相応しい、ゆったりとした日常の光景だ。
そんな日陰の縁側に座って足をぶらぶらさせていると、湧き上がってきたのは、自分でも説明のし難い、矛盾する感情。
――こんな穏やかな日なのだから、あちこちに出向いて取材して、日常を非日常に変える、そんな有意義な時間(日常)にすべきではないか。
――いや、こんな穏やかな日なのだからこそ、穏やかな日常という「非日常」に身を委ねるべきではないか。
「そういえば、今までこんな風に迷ったことも無かったな……」
一見普段通りに見えるものの中に「隠れた異」はないかと、日常にカモフラージュされた「真実」を、唯追い求める。日常を非日常に変える。そればかりを考えていた。それが私にとっての「日常」だった。
だから、日常を日常として受け止める、そんな「非日常」は初めてだ。
そして、そんな初めて感じる「非日常」を、心地よいと思っている自分がいる。
――これは、霊夢に貰った言葉の数々のおかげなのだろうか。
「この知らない感覚、どうしたらいいのかしら……」
「楽しめばいいんじゃない?」
振り返ると、布団を畳んで空いた畳の上には、いつの間にかちゃぶ台が置かれている。そしてそれを為したのは、数品の小料理が乗った皿を配膳している霊夢だった。
「穏やかそうな雰囲気だったし、深刻な悩みじゃあないんでしょう、きっと。それなら、素直に楽しめばいいのよ。なんとなくこっちかな、こうすればいい気がするなって、思うように進むの。そうしたら、いつのまにか解決してるわよ。」
「毎回異変の黒幕の元に勘で辿り着く巫女が言うと、説得力があるわね。」
霊夢のように自由に飛び回ることはできないけど、それなら。
今日、ここにいる間くらいは直情的に、頭ではなく心に、体を委ねても良いかもしれない。
私の考えがひと段落したと表情から読み取ったらしい霊夢が尋ねてくる。
「ところでもうすっかりお昼なわけだけど、お腹空いてる?…もう作っちゃったから今さら聞くのもなんだけど、朝は私が時間奪っちゃって食べさせてあげられなかったし…」
「そうね、ある程度食欲も戻ってきた感覚はあるし、何か入れておきたいわ。それに朝も……霊夢に翼の手入れをされるのは、その……結構、気持ちよかったし、気にすることないわよ。」
少々申し訳なさそうだった霊夢の顔がぱっと明るくなる。
「ほんと⁉︎良かったぁ」
此処へ来てから、普段なら絶対に隠し通すはずの自分の内面をたくさん霊夢に見られてしまっているけど、霊夢はそのお返しと言わんばかりに、普段のツンとした顔や笑顔とはまた違った「霊夢」を私に見せてくれる。
こんな日常(非日常)は、普段の私なら喜んで利用しようとするのだろう。けれど今は、目の前にあるこの顔を見るのは、私だけでいい。そう思った。
「それで、何を作ってくれたの?」
食卓につきながら霊夢に訊く。目の前に広がっているのは2品。どちらも魚料理のようだ。片方は紅白が散らされ、もう片方は味噌だれらしきものがかかっている。
「それはね、鯖料理よ。こっちの紅と白の方は“なます”で、そっちは味噌煮。どう?味つけは薄めにしてあるから食べやすいと思うんだけど。」
――鯖料理、か。
「鯖、って、海にいる魚でしょう?どうやって手に入れたのよ」
「さっき紫を呼びつけて、取り寄せてもらったの。よかったわ、あいつが冬眠中じゃなくて。憎たらしいけど、すぐに欲しいっていうときは、あいつの能力はぴったりだから。」
「さすがは天下の博麗の巫女さまね。あの賢者をあっさりこき使えるのは、貴方くらいのものよ。」
「それで褒められても嬉しかないわ。……ところで、食べないの?」
「え、ああ、いや、食べるわ。いただきます。」
なますが盛られた瑠璃色の器を手に取る。箸で人参と大根をつまんで、口に運んだ。
それらは口の中でほぐれて、纏っていた酢の酸っぱさが解放される。
美味しい、と言って、二度、三度と人参や大根をつまむ。箸を動かすたび、器の中から紅白の鮮やかさが失われていく。
「もしかしなくてもさ」
「んっ、ん⁉……んくっ、ケホッ、ゴホッ……」
突然霊夢が話しかけてきたので、驚いて気道に酢が入り、咳きこんでしまった。胸元を押さえながら聞き返す。
「な、なに?」
見ると霊夢の顔は、なぜか少し楽し気だ。頬杖をついて、鯖ばかりが残った器を見ながら言葉を繋げる。
「あんた鯖、苦手よね?」
「い、いやそんなことは」
反射的に眼を逸らしてしまった。眼を逸らすということは、堂々と言い返せない理由があるということだ。今回の場合、それは肯定を表しているわけで……。
「まあ最初からそうじゃないかなーとは思ってたわよ?だってあんた、誰がどう見ても『豆――魔滅(まめ)が苦手な方』の天狗だものね?」
「ぐぅ……」
そう。天狗は、鯖が苦手なのだ。
鯖とはその読みを転じて「産飯(さば)」ともいう。生まれてからそう年月の経っていない赤子、すなわち「神のものである」赤子に食べさせる飯。神やその眷族に捧げるもの――神饌は、当然概して神聖なものである。
人間の子を攫い、山に入る人間には悪戯をはたらく。人間にとって天狗とは、悪行を働き人間を困らせる「魔」の存在だ。それこそ、洩矢の神が威信を広めるために天狗を悪として利用するくらいには。そして天狗側も、その役を許諾しその立場を利用するくらいには、自分たちを「鬼」だと認識している。
そんな天狗が、神饌である産飯、そして鯖を好むだろうか――。
「解っていたのなら、何故これを選んだのよ……」
ただの悪ふざけだろうか。しかしそれだけのためにわざわざ賢者を巻き込むわけはない。それに、霊夢は「そういう」子ではない。
解を求めて、霊夢を見る。
しかし霊夢は目で笑ったままだ。そして口を開いたかと思うと、一言。
「食べてみれば解るわよ。」
食べたくはない。遠い昔に興味本位で鯖を手に入れ食べたときのことを思い出す。あれは、何とも言い難い不味さだった。自分の属性と真逆のモノを摂取して平気なはずがない。
しかし、これは霊夢が用意してくれたものだ。しかも、自分のために、わざわざ賢者の手を借りてまで。その思いを無為にしたくはない。
――酢で湿った鯖の切れ端を箸で持ち上げる。異様に重く感じるそれを睨みつけるように見るが、そうして何が変わるわけでもないのだ。
重い腕を動かし、息を止めながら一思いに口に放り込んだ。
一噛み。ほろほろと身が崩れた。
二噛み。柔らかい酢が染み出して、口の中に広がった。
三噛み、四噛み……。
――それは、想像していたものとは全く異なる味だった。むしろ……。
「……どう?」
「――美味しい……?」
それを聞いた霊夢は満足げに笑う。反対に、私の頭の中は疑問符で埋め尽くされていた。咀嚼していた切れ端を飲み込んで、呟くように霊夢に尋ねる。
「どういうこと?私が苦手なのは、鯖の味じゃなくて聖性よ。調理したからってそれが変わるわけじゃ……」
すると目の前の顔は、さもそれが当然であるかのように頷く。
「ええ、鯖の神聖さはその名前が由来なんだから、調理しても鯖は鯖。でも、それでいいのよ」
「それでいいって」
「だってあんたは『魔』じゃないもの。」
私が「魔」じゃない?何を言っているんだろう、この少女は。
霊夢は戸惑う私を放置して語り始める。
「疑問だったのよ。なんで天狗は鯖が苦手なんだろう、って。だって天狗の魔性は、天狗の一面でしかないじゃない。天狗は古くから山の守護神でもあったわ。山岳信仰の中にも、天狗を祀るところがある。聖魔併せ持つ存在、それが天狗。なら、神饌を嫌う“だけ”だなんて、ありえないでしょう?」
考えたことも無かった。私たち天狗は「悪戯をする存在」だから、神饌など嫌って当然だと……いや、もしかすると、原因は“これ”か……?
「でね、人間の『思い込み(イメージ)』以外にも、天狗の在りように干渉してるものがあるんじゃないかと思ったの。それが」
「……天狗自身の『思い込み(イメージ)』」
「そういうこと。自己暗示、っていうのかしら。できないと思ったら本当にできなくなる、なんて、よく言ったもんだわ。種族の性質にまで影響しちゃうんだもの、思い込みの力って凄いわねぇ」
確かに思い込みの力はすごい。が、それは私が鯖を「美味しく感じる」ことへの説明には不十分だ。
「それで?それが私と鯖に、どう繋がるの?」
「さっき言ったでしょ?“新しい本物をあげる”って。あんたが『魔』じゃなく、『守護神』だって。そう“思い込んだ(信じた)”のよ。」
「私が……守護神……?」
「そう。あんたの写真、見るたびに思うの。ああ、ここに写っている子たちは、みんな全力だなぁって。生を謳歌してるんだなぁって。何気ない日常の中にふっと映ったみんなの表情が綺麗なの。羨ましくなるくらい。確かにあんたはいっつもうざったらしくて、はた迷惑なパパラッチよ?事件がなきゃ自分で起こして報道してるでしょ。けどそれだって、普段は隠れてるみんなの思い(命)を引き出すきっかけになっていないとも言えない……」
「……おやおや、私の取材をそんな風に思ってくれたとはね。それじゃ、今後はもっと取材活動(追跡)に励まなきゃかしらね?」
私の取材をそんな風に見てくれているだなんて思っていなかったから、頬が熱くて仕方がない。つい、誤魔化すように普段の揶揄い口調になってしまった。
霊夢はそれを見抜いているのかいないのか、彼女の頬もほんのりと赤らんで見えるのは気のせいだろうか。
「しつこい取材はお断りよ。……まあ、とにかく。幻想(いのち)を遺し伝える、伝統の幻想ブン屋。私にとって、あんたはそんな“幻想郷の護り神”、なのよ。」
そこで霊夢も羞恥心が限界に達したのか、誤魔化すように捲し立てる。
「ほ、ほら、早く食べなさいよ、料理が覚めちゃうじゃない!博麗の巫女が神に捧げるために作った料理よ、美味しくないわけがないんだから!」
目頭が熱くなるのを我慢しながら、霊夢の勢いに押されるようにして箸を動かす。
鯖の味噌煮に箸を差し込むと、まるで豆腐を切るかの如くすっと身が割れ、口に運ぶとそのまま溶けるようにほぐれていった。みるみるうちに料理は減っていき、最後の一口を飲み込む。
直後、身体の内側に小さな灯りが点った。
温かさが喉元を通り抜けお腹に溜まるのを感じたのだが、こんなに熱かっただろうか?
それに視界が明るい。熱いものを飲み込んだどころか、体の中に火が点いているのではと錯覚するほどだ。しかしそれは決して不快なものではなく、寧ろ……。
それは言うなれば、命の灯火。私の中に、新しい命が吹き込まれたような気がした。生まれ変わったとか、潰えそうな命を継ぎ足されたとか、そういうんじゃない。まるでたった今、自分を覆い隠していた卵殻を意志でできた卵歯で突き破り、外の世界を見たような。
今の私なら、何にだってなれる。そう思わせてくれるような、熱く熱く、そして明るい灯火だった。
私の中に灯った火が、瞳にまで映っていたのだろうか。微笑む霊夢の瞳の中で、私の瞳が明るい一等星のごとく瞬いている。
その様子に目を奪われていると、霊夢が目を細めたためにその一等星が隠れる。霊夢に星を抱きしめられたように感じた。
すると霊夢は、未だ赤面しながらも口を開き、その言葉を――巫女としての祝詞を――告げる。
「昨日言ったわよね、『どんな文も全部ひっくるめて射命丸文だ』って。私が鯖料理を“捧げた”今、あんたの中に新しい“射命丸文”が生まれたわ。私の隣を歩いて、私のことを見ていてくれる。そして私にも、あんたのことを見せてくれる。そんな“守護神”のくせに“人間”みたいな今まで通りの、新しい文。」
その言葉(のりと)は、一言一言が私の中の奥深くに刻まれ、“私”を形作っていく。
「今までの自分じゃ満足できないなら、積み直すんじゃなくて、その上に積み重ねる。成長を感じられないなら、開き直ったって良いわ。もっともっと、きっと手が届くところまで、積み重ね続けてよ。」
ああ、なんて不思議な少女だろう。神がいて、その言葉を聴くのが巫女だろうに、その巫女が神に存在意義を与える?これまで数えるのも馬鹿らしいほどの年月を過ごしてきたけれど、そんな存在、聞いたこともない。
それに、そんな巫女にこうして背中を押してもらう神がいることも。
「あんたはその目と、写真機と、新聞で。命を射(うつ)して、その伝統(わ)を繋いでいくの。あんたがしたいと、思うとおりにね?」
まあ、この世界には八百万も神がいるのだし、ましてやここは幻想郷。1人くらい、そんな変わった神がいても良いだろう。
「――いいでしょう。その信仰(おもい)、しかと受け取りました」
「今まで躓いたときは完璧に立ち直ってきたつもりでしたが、そういうわけでもありませんでしたね……。けれど、ようやくスッキリできました。」
胸に手を当てながら、霊夢に、そして自分に宣誓するつもりでまっすぐ視線を合わせながら、言葉を刻む。
「――不肖この射命丸文、幻想郷の愛しい命を護り、その伝統を紡いでいく者として。」
「これからも日常(取材)の日々を、続けていこうと思います。――今後も文々。新聞を、よろしくお願いしますね!」
「はいはい」
霊夢の返事はおざなりだけれど、その瞳の色は優しくて、私を応援してくれているような気がした。
爽やかに吹き抜ける風が木々を揺らした。
外ではチチッ、チチッ、ツィー……と鳥の会話が聞こえてくる。
博麗神社は今日ものどかだ。日課である境内の掃除を終わらせた霊夢は、縁側に腰掛け、いつものようにお茶を飲んでいた。
枝を跳び移ってるあの鳥たちは、いったい何をしているんだろう。どんなことを話しているのかな。……あ。
よく見ると、片方の鳥がくちばしに赤い粒を挟んでいた。その鳥が逃げ回るように跳んでいることから、木の実の取り合いでもしているのかもしれない。
――なんでかしら。あの追いかけてる方の子、なんか私に似てる気がするわ。それに、木の実を咥えてる方は、ちょっと“あいつ”みたい。
そんなことを考えていると、上空をこちらに向かって飛んでくる誰かの気配を感じた。
霊夢は「今日は静かね」とどこか満足げに呟いて、未だ見えない“そいつ”の方へ視線を向ける。
数秒もしないうちに霊夢の頭上は巨大な影で覆われ、近くの木がざぁぁっと激しく揺れる。そして直後、吹き荒れた風を完璧に抑え、何事もなかったかのように一対の翼が舞い降りた。
「おはようございます、霊夢さん。」
「おはよ」
目の前に着地して翼を畳んだ鴉天狗――射命丸文――は、”いつものように”霊夢に声をかける。
「もう風邪は平気なの?」
「ええ、すっかり治りましたよ。いやぁ、先日はお騒がせしてすみませんでした。」
「いいわよ、あれくらい。きっとあんたには必要なことだったんでしょう。……そうね。私に感謝する気持ちがあるんなら、今度からウチのことを新聞に書くときは、なるべくいい風に書いてよね。」
「いい風に、とは?」
「余計な記事とか、捏造記事を書くなってことよ!私が昼寝してる写真とか、たまに新聞に載せてるじゃない。ああいう写真ばっかり載せるから、私がぐうたら巫女に思われるんじゃないの!」
その言葉を聞いて少しは態度を改めるかと思われたが、目の前の天狗は不思議そうに首を傾げている。
「うーん……?十二分に“いい風に”書いてるつもりなんですがね……。まあ、足りないというのであればもっと気合を入れて記事を書かなくてはいけませんね!つきましては、今後はより一層の密着取材を」
ガツンッ!
突然のご都合解釈に、思わず手が出てしまった。
このまま喋らせては、またいつものように揶揄うだけ揶揄われておしまいだ。そう思い、この場から追い出すために早口で言葉を投げつける。
「はー、もう良いからさっさと失せなさい!今度恥ずかしい記事を書いたらただじゃおかないんだからね。ほらほら、此処にはネタなんか無いんだから、帰った帰った!」
「え、や、ちょっと」
文は抵抗するが、まだエンジンがかかりきっていないのか霊夢の勢いに押されて後ずさりする。
「っとと、違います違います。今日は霊夢さんにお願いがあって来たんですよ!」
「……何よ、お願いって」
文を押し出す手を止めた霊夢が訝しみながら問う。
「はい……。」
霊夢に見つめられ、いつものキレはどこへ行ったのか。文は視線を彷徨わせ、返事も絞り出すような声しか出なかった。
「……文?」
「えぇっと、ですね」
心を落ち着かせるように胸に手を当て、やがてゆっくりと視線を上げ霊夢の瞳を見つめ返すと。
「私と一緒に、写真に写って欲しいんです。貴方に頂いた『新しい私』……。」
そこで文は一度言葉を切り、一息ついて、微笑みと共に告げた。
「そんな私がいる『いい未来』の写真の、一枚目に。」
――私の鞄に入っている文花帖と写真機。いつでも私の傍にあって、私の生き方を支えてくれる、大事な道具。
この子達には、単なる取材道具としてだけじゃない、私と共に生きて、私の生き様を憶えていてくれる、そんな大きな大きな「生きる意味」がある。
たとえ文花帖の頁を使い果たそうとも、たとえ写真機が壊れて修復不可能になろうとも。きっと私は、それらを手放すことはない。
霊夢と一緒に撮った写真は、その最初の頁に、そのレンズに。綴じられて、焼き付いている。
私の魂の、大切な大切な一欠片は。一生を共にする相棒たちが――きっと道具などではないそれらが――、そっと胸に秘めてくれている。
弱々しくうなだれる文に新しい芯が通ったような気がしました
もうずっとイチャついていればいいと思いました