Coolier - 新生・東方創想話

余殃祓い

2025/07/23 01:07:41
最終更新
サイズ
87.94KB
ページ数
1
閲覧数
1966
評価数
17/20
POINT
1810
Rate
17.48

分類タグ

 古い棚ばかり並んだ部屋だった。
 天井に近い丸窓から真昼の日光が柔く差し込む。
 少女が身に纏っている紅い巫女服はサイズが大きすぎるのか、まだ少しぶかぶかだった。
「たいした呪物じゃないわ」巫女の少女が抑揚の無い口調で言う。「なにかが逃げた感じでもない。新しいおふだをはっておけば……大丈夫なはず」
 巫女は荷物を床に広げると、その中から紙と筆と朱墨とを取り出し、慣れた手つきで新品の札を書き始めていった。
「ありがとぉ! ほんとに助かったぁ。お祖父様の留守中にうっかり変な箱落としちゃったから、もしすっごく危険な物だったりしたら私、どうしようかって……」
 巫女は依頼人の言葉に興味が無いのだろうか。張り替えて間もない茶色の床板の上で正座をしたまま、黙々と手を動かしている。
 その小さな背中を見て何か感じるものでもあったのか、依頼人はまた声をかけた。
「霊夢ちゃん、今いくつ?」
 霊夢と呼ばれた少女の手が止まった。
「しらない。必要ないし」
 今年二十になった依頼人にとって、その巫女の少女――博麗霊夢はあまりに幼い。
 さらにまじまじと見ると、体のところどころにまだ新しい擦り傷が見える。妖怪退治による負傷か、その訓練によるものか。
 箱の封印を終えた霊夢に謝礼を手渡したあと、依頼人は「少し待ってて」と言って部屋を出た。しばらくして戻ってきた彼女は、狭い部屋で退屈そうにしていた霊夢に一本の赤い棒付きキャンディーを差し出した。
「なにこれ?」
「私の不注意で迷惑かけちゃったから、迷惑料!」
 そう言いながら、依頼人はニカッと笑ってみせた。
 霊夢は黙ってキャンディーを受け取ると、俯きがちな顔を少し赤くして言った。「……しごとだから」
 蝉の声がやたらと煩かった。



「――あぁもう、蝉が煩いわね!」
 幻想郷、人間の里。その南西の端に一軒の古い邸宅があった。
 普段は閑静なその家の門前を、今日は十人ほどの野次馬が取り囲んでいる。
「ほらどいてどいて、博麗の巫女が通りますよー」
 異変解決の専門家、巫女の博麗霊夢は、大声で野次馬を散らしながら敷地内に入って行った。
 東城(とうじょう)家は里全体で見ても上から数えた方が早い名家である。しかし里人との接点は多くなく、この邸宅も人目を拒むかのようにひっそりと建っている。
「そりゃあ、森が近いからだな」思いがけず聞き慣れた声がしたので、霊夢はそちらに目をやった。
「あー? 何の話……って、なんで魔理沙がいるのよ」
 魔法の森に住む魔法使い、霧雨魔理沙は愉快そうに笑って言った。
「何の話って、私がここにいる理由だろ? それと蝉が煩い理由。どっちも森が近いからだよ」
 霊夢は一瞬面倒そうな顔をしてから、すぐに諦めて溜息をついた。
「あのねぇ。できれば帰ってくれない? 今回は……」
「ああ、殺人事件だろ? だから巫女のお前が出る幕じゃないぜ。霊感探偵の私に任せときな」
「遊びじゃないんだけどなぁ」
 屋敷の玄関口に一人の老爺が待ち構えている。この家の当主、東城郷士郎(ごうしろう)に違いないだろう。
 隣には二十歳そこそこの娘が一人、気もそぞろな様子で控えていた。
「郷士郎さんですね? 博麗の巫女です。妖怪に人が殺されたと聞いて参りました」
 郷士郎は頷いた。「ご足労感謝いたします。……そちらは、霧雨の……?」
「近頃は巫女の助手をやってましてね。良い仕事しますぜ」
 郷士郎は少し面食らったようだったが、ごわごわとした固そうな口元を緩めて「それは頼もしい」と笑った。
「こちらは孫娘の奈々子です。殺された男というのは奈々子の婿でして……」
 東城奈々子は浅くお辞儀をした。この状況のわりには気丈そうに見えるが、やはりどこか怯えているようにも見える。
「お祖父様……やっぱり私、部屋で休んでいても良いでしょうか」
「ああ、無理をさせたな。今はゆっくりと休みなさい」
 奈々子が屋敷の奥に消えて行く。去り際にちらりと振り返ったようだったが、軽く微笑んでみせただけで何も言わなかった。
「では早速ですが、現場をご覧になっていただきましょう」
 霊夢と魔理沙の二人は郷士郎に連れられ、屋敷の離れへと案内された。
 離れにはロープが張られ、人が入らないようにされている。ここが事件現場であることは明らかだ。霊夢たちはロープをくぐり、屋内に足を踏み入れた。
 強い血の匂いがする。
「あれ? あんたは……」霊夢は現場をうろうろしている妙な少女を見つけて呼びかけた。「誰だっけ?」
「うん? ……あっ! ちょっとちょっと、霊夢さん! 小兎姫ですよ。警察の小兎姫です!」
「あぁ、そういえばいたなぁ。警察とか言って、里で起きた事件にたびたび首を突っ込んでくる迷惑な変人」
 小兎姫は魔理沙の顔をじっとりと睨んだ。「あなたにだけは言われたくない」
「どうでもいいけど警察屋さん。私たちより先に現場にいたってことは、なんか情報を持ってるんでしょ? 早く説明してよ」
 霊夢に急かされた小兎姫は少々不機嫌そうに咳払いをして、奥の地面に転がっているものへ視線を向けた。
 うつ伏せに倒れた成人男性の遺体。後頭部が大きく抉れ、辺りは血の海になっている。腕や首には噛みちぎられたような跡もあり、その様子は凄惨の一言であった。
「ゴホン。……被害者は見てのとおりだ。死因は多分、後頭部への一撃。あっちの床に落ちている証拠物件1を見てもらえばわかると思うが……」
 小兎姫が指差した部屋の隅を見に行くと、被害者の肉片らしきものが土壁のそばに落ちていた。恐らく後頭部を殴打された拍子に吹き飛んで来たのだろう。
「人間の力じゃないわね」
「……さすがにグロいな……」
 小兎姫はさらに説明を続ける。「被害者は東城家の次女、東城奈々子の夫の東城惣兵衛(そうべえ)。……婿養子ってやつね。死亡推定時刻は――」
「あー、いや、そういうのじゃなくってさぁ」途中からじれったそうにしていた霊夢が早くも痺れを切らした。「もっと直球なのは無いわけ? その辺に怪しい妖怪とかいないの? って言っても、怪しくない妖怪なんていないんだけど」
「えぇー……」
 見かねた魔理沙が言葉を遮る。「まあ待てよ霊夢。これはいつもの異変じゃないんだ。モノホンの殺人犯がその辺の草むらからひょっこり見つかるわけないだろ?」
「む、それはそうだけど……」
「こういうのは地道な情報整理が肝なんだ。つまりお前の苦手分野だよ。悪いこと言わないから、このヤマは私に任せとけって」
「なっ……! あんたと違ってこっちは仕事なの! それに私はクリスQ全巻読んでるのよ⁉ 犯人だって一回当てたことあるし……!」
 二人がくだらない言い争いを始めかけたとき、離れの外から足音が近づいて来た。
 揃って入り口の方に顔を向けると、大柄な体躯の男がお盆に飲み物を四つ乗せ、のっそりと入ってくるところだった。
「郷士郎様、お客様に麦茶をお持ちしました」
 男と霊夢の目が合った。
「なんだ、いるじゃん怪しい妖怪」
 一足で部屋の中を跳ぶ霊夢。
 男の脳天にお祓い棒が振り下ろされる寸前、これまで静観していた郷士郎が声を荒らげた。「お待ちください!」
 霊夢はギリギリで動きを止めた。元々制止されることも想定していたのだろう。
 あまりの速さで急転した事態に置いていかれ、魔理沙と小兎姫は呆気に取られていた。
「郷士郎さん、なんで屋敷に妖怪がいるの? こいつが犯人なんじゃないの?」
「彼はうちで下男として働いている辰彦です。決して怪しい者ではありません」
 郷士郎はあくまで落ち着いた態度だったが、ちらりと門の方に目をやった。博麗の巫女が現れたからか、先ほどよりも野次馬の数が増えているように見える。
「巫女様、続きは母屋の方でお話ししたいのですが、よろしいですかな?」
 霊夢は依然厳しい眼光を向けていたが、ひとまず了承することにした。
「辰彦、お前も来なさい」
 辰彦は持って来た飲み物だけ置くと、文句も言わずに従って行った。霊夢の荒っぽい対応に気を乱した様子もあまり無い。
「それじゃあ、私はこっちで勝手に調べさせてもらうかな」魔理沙はそう言って離れに残ると、後ろ手に組んだ腕をぐっと伸ばした。「さあて、競争開始だぜ」


 霊夢を客間に通すと、郷士郎は向かいの座布団に腰を下ろした。辰彦はしばらく座る気配が無かったが、郷士郎から「客人を威圧してしまう」と諌められると、彼の傍に着席した。
 外観からも想像できるとおり、東城邸の中はいかにも古風な日本屋敷そのものだった。明治時代に隔離された幻想郷の人里のなかでもさらに古臭く、重苦しいタイプの威容を誇っている。
 しかし何より霊夢が警戒したのは、屋敷中のあらゆる場所で渦巻いている得体の知れない妖力だった。辰彦という下男が発する妖気だけではない。大雑把に拾っても客間の東側に一つ、二階の奥の方にもう一つ、異常と言える力の滞留を感じられる。細かいものまで入れると魔力の源は数え切れない。無数のマジックアイテムの気配が混じり合ったような独特の感覚は、あの魔理沙の部屋と比較しても劣らないかもしれないと霊夢は思った。
 東城郷士郎は居住まいを正すと、おもむろに話を切り出した。
「紹介が遅れて失礼いたしました。お見立てのとおり、この辰彦は人ではありませぬ。ですが、決して今回の下手人ではございません」
「どうしてそう言い切れるのよ」
 郷士郎は辰彦に目配せをした。
 辰彦は上着を脱ぎ、自身の背中を大きく曝け出してみせた。彼の体の構造は外見だけなら人間の男と区別できない。しかし異様なことに、彼の背中の腰の辺りから首元にかけて、罪人が彫るものとも違う奇妙な形の刺青がびっしりと彫り込まれていた。
「私が彫りました」郷士郎が淡々と話す。「未来永劫の食人を禁じる呪(まじな)いです。どうぞ、近くでお検めください」
 霊夢は辰彦の側へ寄り、その体に彫られた呪いをじっくりと観察した。霊夢の使う流派とは異なるものだったが、基本構造が似通っているためなんとなく読み解くことはできそうだった。
「うーむ……。本物っぽいわね……。多分」
「辰彦、経緯を説明してさしあげなさい」
 郷士郎に促された辰彦は少しまごまごしていたが、やがて言葉が纏まったのか、自分の来歴を語り始めた。
「自分は……元々山に棲んでいました。他の多くの妖怪たちと同じようにです。気付いたときにはそこにいて、親や兄弟といったものも無く、自分が何の妖怪である……というような、特別な能力とか、存在意義のようなものも何もありませんでした。
 そんな自分も妖怪である以上、人を食うこと――人に恐れられる存在であり続ける必要がありました。ご存じのことと思いますが、この幻想郷では里の人間を襲うことはできません。なので我々在野の妖怪は、どこか別のところから運ばれて来た食料を配給されて生きています。
 自分は……そんな生活に疑問を持ちました。人を脅かすために生まれたであろう妖怪の自分が、何をするでもなく人間のいない山に棲み、どこか知らない世界で死んだ、顔もわからない人間の肉をただ生きるために分け与えられる生活にです。自分は何のために生きているのか? 自分が食べている肉は誰なのか? 自分はこの肉を食べるに値する存在なのか? 何もわからなくなったのです。
 自分はその答えを他でもない人間に求めようとしました。妖怪である自分に疑問を持ち、実は自分は人間なのではないかと思い描くようになったのです。
 そう考えた末、自分は人間の里と妖怪の領域の境目に住む郷士郎様に相談することにしました。人里屈指の妖怪調伏師であり、人妖宥和論者の筆頭という評判だった東城郷士郎様なら、何か答えを見つけることができるかもしれないと思ったからです。郷士郎様は自分の話を真剣に聞いてくださいました。そして自分に一つの道を示してくださいました。
『二度と人を食わぬのならば、あるいは人のようになれるのかもしれぬ。しかし人を食わぬのならば、躰は確実に蝕まれるだろう』
 自分はそれで良いと答えました。
 以来、自分は人として東城家に住まわせていただき、この呪いと共に人として生きているのです」
 辰彦は話し終えると、はだけていた上着を着直した。
 郷士郎が話を継ぐ。「お聞きになったとおり、辰彦は人を食うことができません。しかるに惣兵衛の遺体は妖怪に食い荒らされておりました。ですから私は、辰彦が下手人でないと言ったわけです」
「躰が蝕まれるっていうのは、具体的にどうなるの?」
「妖怪として長生きはできないという意味です。恐らく二、三十年ほどで動くことができなくなるでしょう。最期は普通の妖怪の死と同様、死体も残さず煙のように消え去ることと思います」
 霊夢は郷士郎たちの話を聞き終わっても、まだ何か釈然としないというような顔をしていた。
「じゃあ……犯人の手がかりは何も無いわけね?」
「まったく、というわけではありません。最初に死体を発見した孫の可澄(かすみ)が、森の方に逃げ去っていく妖怪の影を見たと」
「え? 犯人を見た人がいるの?」霊夢は勢い良く立ち上がった。「それを早く言ってよ。で、その可澄さんはどこにいるの?」
「二つ隣の自室におりますが……死体を見たショックで寝込んでおります。まともな受け答えができるかどうか」
「とりあえず会ってみたいわ。現状他に手がかりが無いんだもん」
「承知しました。ついて来てください」
 三人は客間を出て、廊下を東へ進んだ。
 部屋の前に着いたとき、霊夢は思わず顔をしかめた。目の前の襖の奥から、明らかに異様な妖気が漏れ出てきている。寝込んでいる理由は本当に死体を見たショックだけなのかと、疑いたくなってしまうほどだ。
「巫女様、私は一度失礼します。奈々子の様子が気になりますので」
 そう言って廊下を戻ろうとする郷士郎を、霊夢が鋭く呼び止めた。「待って。郷士郎さん」
「何か……?」
「博麗の巫女として、あなたに一つ言っておきたいことがあるの。――あなたがそこの妖怪に施した呪いなんて、ハッキリ言って何の意味も無いわ。そいつはただいたずらに寿命を縮めただけ。妖怪が人間になれるかも、なんて妙な考え、早めに捨てた方が身のためよ」
 郷士郎はさすがに驚いたようで、細い目を丸く見開いた。
「そうでしょうか? たしかにこの幻想郷では、人が妖怪になることは厳しく禁じられています。しかし、その逆を禁じる掟は無い。違いますかな?」
「禁じられていないのは不可能だからというだけの話よ。あなたは幻想郷の仕組みにも多少詳しいみたいだけど、もっと大きなシステムが見えていない。たとえ純粋な慈悲の心から出た行動だとしても、世界の理に反することをすれば、その歪みは必ず自分自身に返ってくるものなのよ」
 郷士郎はしばし茫然と考え込んでいたが、やがて一言、「肝に銘じさせていただきます」とだけ言い、辰彦を連れてその場から去った。
 廊下を歩いていく途中、二人は無言だった。しかし角を曲がって霊夢の姿が見えなくなると、辰彦が小さな声で囁いた。
「郷士郎様……。あとでお話が」


 一方その頃、霧雨魔理沙は彼女流のやり方で情報を集めようとしていた。
(小兎姫のやつが言うには、今日の明け方に被害者の義姉――東城可澄が離れで死体を発見し、ショックで気を失う狭間に森の方へ逃げ去っていく妖怪の影を見たらしい。
 当然犯人はその妖怪ということになるが、いくらなんでも情報が少なすぎる。仮に可澄が犯人の顔を見ていたとしても、そいつが自分の外見を自由に変えられるタイプの妖怪だったら意味が無い。そもそも可澄が見たという姿だって幻覚を見せられていたのかもしれん。妖怪ってやつらは全体で見ると何でもアリだからな。
 つまりこの場合、まず手繰るべきは動機だ。妖怪は物理法則には縛られにくいが、精神の働きにはやたらと正直なやつが多い。『ホワイダニット』から『フーダニット』まで目星が付けば、『ハウダニット』なんてのは食後のデザートに乗っているパセリのようなものだ。
 犯人が無差別に人を襲っていたらどうするか? 多分それは無い。東城家の当主、東城郷士郎は今でこそ引退しているが、ついこの間まで現役で鳴らしていた妖怪調伏の名手だ。妖怪たちの間でもその名は忘れられていないだろう。そんな危険な爺さんの家にわざわざ押し入っておいて、獲物も一口二口しか食べずに即退散? 孫娘を襲うリスクを冒さず撤退を選ぶ理性もあるなら、ただの飢えた馬鹿な妖怪って線も薄いよな。
 やはりまずは、被害者の東城惣兵衛! こいつの人間関係を徹底的に洗う!)
 魔理沙は事件現場を離れ、東城邸の門前に集まっている野次馬たちから話を聞くことにした。
「そんなわけで、ちょっと情報が欲しいんだ。東城惣兵衛が誰かから恨まれてたとか、変な妖怪とつるんでたとか、そんな話を持ってるやつはいないかな?」
 野次馬たちはざわざわと隣近所で話し合ったかと思うと、その中から一人の男が発言した。
「恨まれてたっつうと……女かなぁ」
「ほう、詳しく」
 男は周りと顔を見合わせて、さてどう言ったものかというジェスチャーをしている。まだ年端もいかない少女に話す内容ではないと考えているのだろう。
「んー、まあ、要するにだな、浮気性というか、女癖が悪かったというか、だな。正直、そういう悪評はかなり有名だったよ」
「つまり、被害者の嫁の奈々子が怪しいってことか?」
 男は慌てて両手を振った。「おいおいおいやめてくれっ、そんなこと言ってねえよ! 第一、巫女が来てるってことは、犯人は妖怪なんだろ?」
「まだ共犯って線もあるからな。まあ、情報提供者のプライバシーは概ね守られる傾向にあるから安心してくれ。他には何か無いか?」
 野次馬たちがまたざわざわと話し始めた。一体どれだけ良くない話が出てくるのだろうか。
 これは大変そうだぞ、と魔理沙が思っていると、一人の女がぽつりと呟くように言った。
「余殃――」
 その途端、野次馬たちのざわめきが水を打ったように静まり返った。
 女から目を逸らす者や顔をしかめる者、ごくりと唾を飲む者など反応は様々だが、誰も次の言葉を発しようとはしない。
 仕方がないので、魔理沙はその女に聞き返した。
「ヨオウ? なんだ、それは?」
「……先祖のした行いの報いが、その子孫に災禍となって返ることです」
「先祖? 災禍? どういうことだ?」
 女は初め、おどおどと視線を揺らしていたが、やがて気が落ち着くと、ある昔話を始めた。
「有名な話です。十五年ほど前だったでしょうか。惣兵衛さん――当時はまだ荒巻(あらまき)という姓でしたが、彼の父親が山の崖下で死んでいるのが見つかりました。初めはただの事故かと思われたのですが、葬儀を終えた数日後の朝、今度は惣兵衛さんの歳の離れた兄二人が忽然と姿を消してしまったのです」
 魔理沙はそのストーリーに聞き覚えがあった。「待てよ……たしか、その父親ってのは……」
「惣兵衛さんの父親は荒巻正藏(しょうぞう)、『完全なる妖怪撲滅』を掲げる団体の元頭領です」
「そうか! 姓が変わってるから気が付かなかったが……荒巻兄弟失踪事件か!」
 女は小さく頷いた。「荒巻正藏は、妖怪と聞けば是が非でも退治すると豪語し、時々山へ入っては妖怪相手に辻斬りのような真似をしていました。だから大方、最期は妖怪に殺されたのだろうと。さらに妖怪たちの怨みの矛先は当人のみに留まらず、二人の息子まで消し去ってしまったのだと……」
「その話は私も聞いたことがある。その一件以来、里の妖怪退治屋は揃って及び腰になり、妖怪側もあらぬ罪を着せられて処罰されることを恐れ、人妖の敵対関係の膠着を深刻化させるトリガーになってしまったと……。しかし、荒巻家には三男がいたのか」
「荒巻家と東城家が近所だったこともあり、まだ幼かった惣兵衛さんは東城家の養子として迎えられました。生前の正藏さんは郷士郎さんと思想的に対立していましたが、郷士郎さんは惣兵衛さんを三人目の孫のように育てていたそうです」
「しかしその惣兵衛も妖怪に殺され、荒巻家の呪いは成就してしまった、か……」
 想定よりも話がデカくなってきたぞ、と魔理沙は思った。
 荒巻兄弟失踪事件といえば、近年の幻想郷では数少ない重大未解決事件の一つである。幼少期の魔理沙も大人たちからよく「妖怪に関わるな」という訓戒の意味を込めてこの話を聞かされていた。
(惣兵衛殺しの犯人は十五年前の事件にも関わってるのか……? 動機は妖怪を過剰に弾圧していた荒巻正藏への復讐ということになる……。いや、それなら最後の犯行に十五年も時間を空けた理由は何だ? それよりは誰か別の犯人が、十五年前の事件にかこつけて捜査を撹乱しようとしているという方があり得る、か……?)
 結局それ以上の情報が浮かび上がることはなく、野次馬たちも解散する流れとなった。
「殺人事件と失踪事件……妖怪撲滅派だった荒巻正藏の息子を引き取ったのが、人妖宥和派で有名な東城郷士郎……東城家の下男は妖怪……惣兵衛の女癖……」
 魔理沙は一人門前に残り、ぶつぶつと独り言を唱えながら頭の中を整理していた。「……駄目だな、まったくピースが足りていない」
「あのぉ、ちょっと、いいですかい?」
 と、一人の男が魔理沙に話しかけてきた。見ると、それは先ほど惣兵衛の女癖の悪さを暴露していたあの野次馬の男だった。
「あ、ああ、なんだい? 何か言い忘れたことでもあったのか?」
 男は明らかに周囲を警戒するそぶりを見せ、魔理沙の耳元に顔を近付けてきた。
「なあ、本当にぷらいばしぃは守られるんだよな?」
「もちろんだ。守られなかったという話はまだ聞いたことがない」
 男はほっとして少し離れた。
「これはまだ誰にも言ったことが無いんだけども……俺ぁ、実はあの夜、おかしな体験をしたんだ」
「あの夜?」魔理沙の目が光る。
「荒巻兄弟の失踪が発覚した、その前の夜だよ。俺ぁ当時まだ十七、八でな、里の外の川で釣りをしてたんだが、その日はやたらよく釣れるもんだから、つい面白くなっちまって、気付いたらもう日が暮れかけてたんだ。
 慌てて駆け出したけど、辺りはどんどん暗くなっていって、とうとう里に辿り着く前に真っ暗になっちまった。俺ぁ走って転んでせっかくの釣果を失わないように、ゆっくり進むことにした。音を出して妖怪に見つかるのも怖かったからな。そしたらおめぇ、聞こえてきたんだよ」
「何が聞こえてきたんだ?」
 男はごくりと唾を飲み込んで、心底恐ろしそうに言葉を絞り出した。
「『どんっ、どんっ、どんっ……』って、何かが地面に叩きつけられているような音が、森の方から近づいてきたんだよ……! 俺ぁもう恐ろしくって恐ろしくって、ひたすら息を殺して音が通り過ぎるのを待つしかなかったんだ」
 そこまで話を聞いた魔理沙は、その証言の中に大きな矛盾があることに気が付いた。
「ちょ、ちょっと待てよ。そいつはいかにも失踪事件に絡んでそうな怪事じゃないか。それをあんた、なんで今日まで誰にも言わずに黙ってたんだ?」
 男の表情がいよいよ怯えたものになった。
「問題なのは音の行き先なんだ……。その音はだんだんと遠ざかって行った。人里の方に……」男の声が上擦った。「東城家の方角に……!」


 博麗霊夢は目の前に出されたお茶の茶柱を数えた。何度数えても二本しか立っていない。
「うーん、幸先悪いなぁ。大丈夫かなぁ」
 彼女がいる場所は既に東城邸ではない。人里の中心部、東城邸よりもさらに巨大な豪邸の一室で、パステルカラーのお茶菓子を齧りながら人が来るのを待っていた。
「お待たせしました」一人の少女が障子を開けて現れる。「東城家の件について、ですね?」
 少女の名は稗田阿求。幻想郷における名家中の名家、人間の里の代表格、稗田家の一人娘だ。
「話が早いわね。あそこの姉妹が一時期、ここで働いてたって聞いて来たのよ。本当?」
 霊夢は話が早いというか、気が早い。
 阿求は慌てず騒がず、品のある所作で霊夢の対面に座った。
「ええ。可澄さんと奈々子さんなら、何年か前にうちでお預かりしていましたよ」
「東城郷士郎とあんたのお爺さんが懇意だから、孫娘の勉強のために、ってのも合ってる?」
「合ってます」阿求は笑顔で頷いた。「霊夢さんはもう、可澄さんたちとお会いになったんですよね?」
 それを聞いて、霊夢は苦い顔になった。「うーん。会ったといえば、会ったんだけど……」
 ――郷士郎たちと廊下で別れたあと、霊夢は怪しげな妖気漂う可澄の部屋の襖を開けた。
 異様な光景だった。黒い文字をびっしりと走り書きした紙が壁一面に貼ってあり、作業机とその周りの床には歴史書や魔術の手引書、妖魔本の類いが散乱している。
 そして薄暗い部屋の中央には布団が敷かれ、見るからに衰弱した様子の東城可澄が苦悶の表情で喘いでいた。
「――姉の可澄の方はとてもじゃないけど話せる状態じゃなかったわ。なんでも気を失ったとき、被害者の血溜まりの中に顔面から倒れちゃったらしいのよ。死体を見たことというよりも、そっちの精神的ショックが大きかったんでしょうね」
「そうですか……」阿求は軽く唇を噛んだ。「可澄さんは元から体が強くありませんでしたが、勉強熱心で人当たりも良く、とても優しい方でした」
「ふーん……」霊夢はお茶菓子の無くなってしまった皿を見ながら悲しそうな顔をした。「それにしては、部屋の趣味がすこぶる悪かったわよ」
「部屋、ですか?」
「あの人、何かおかしな術に傾倒していたんじゃない? 部屋中に御札とか呪いの技術書がどっさりあって、まるで鈴奈庵みたいだったわよ」
 鈴奈庵、という単語に反応したのか、阿求は小さく苦笑した。
 霊夢はさらに畳みかける。
「勉強熱心なのは結構なことだけど、あの部屋に充満する魔力はどうも異質だわ。実はあの姉妹も妖怪でした、なんてことないわよね?」
「それは無いです」阿求は即座に断言した。「お二方とも、うちに入れる際に入念に身元を調べています。間違いなく東城家の人間ですよ」
「あ、そう? なら良いんだけどー……」
「可澄さんがその手の勉強をしているのは、多分……」阿求は言い出してから、途中で喋るのを躊躇った。
「多分、何よ?」
「いえ、その、プライバシーに関することなので、どうしようかと」
「プライバシー? そんなの何の意味があるってのよ。人が一人殺されてるのよ?」
「ま、まあ、それもそうですね」霊夢の勢いに押し切られ、阿求は話を続けることにした。「可澄さんは以前こう言っていました。ゴホン。『阿求様、誰にも秘密にしてくださいね? 私、実はぁ……、恋人がいるんです……っ! でも、その人は特殊な病気にかかっていて……、二人でずーっと一緒にいるために、私がいっぱい勉強しなきゃダメなんです!』……と」
 原文ママです、と阿求は付け加えた。
「こ、恋人?」内容があまりにも想定外だったためか、霊夢は目に見えてうろたえている。「そ、それはあんた、プライバシーの侵害というか……」
「だ、だって霊夢さんが言えって言うから……!」
 霊夢は熱いお茶をごくごくと飲んだ。阿求もそれに倣って湯呑みを手に取る。この行為にはフィールドリセットの効果がある。
「……可澄さんの件はわかったわ。でもさすがにあの様子は異常だったから、事態が落ち着いたら私が改めて指導してみる」
「私からもお願いします」
「それで、次に気になるのは……」霊夢は頭に指を当てて気になっていたことを思い出す。「そうそう、当主の郷士郎さんよ。あの人はどうなの?」
「どうなの、と言うと?」
「何か怪しい噂とかは無いのかってことよ。私の見立てだと、ああいうタイプはなーんか悪いことしてそうなのよね」
「待ってください、犯人は妖怪という話では?」
「そうなんだけど、どうもあの家の空気は普通じゃないって感じがしたのよ。もしかしたら、妖怪と手を組んでるんじゃないかと思って」
「なるほど。悪いこと、ですか……」阿求は無理難題を言われて困ったというような顔をしている。「あの人は里屈指の知識人だし、良識派として知られてますからね。たまに寺子屋で臨時講師を頼まれることもあるくらいだし」
「うーむ……。たしかに、あからさまに善人オーラは出していたわね」
「何が霊夢さんの勘に引っ掛かったんですか?」
「それは……」霊夢は辰彦のことを言おうとして思いとどまった。彼が妖怪であることを隠し、人として馴染めているのならば、積極的に暴き立てるのもどうかと思ったからだ。「いやまあ、その」
「もしかして、下男の辰彦さんのことですか?」
「あ、なんだ、知ってたの?」
「言ったでしょう? 東城家の人間の身元は入念に調べたと」阿求は薄氷のような笑みを浮かべた。「たしかに、郷士郎さんは妖怪に甘いところがあるようですが……まあそれも、悪意は無いものと判断しました」
「……まあ良いわ。えっと、最後は……」
「次女の奈々子さんですね」
「そうそう。あの人は見た感じ、特に問題なさそうだったわね」
 霊夢は東城邸で可澄との面談を諦めたあと、東城奈々子にも会ってから辞去していた。彼女たちが稗田家で働いていたという情報もそのときに得たものである。
「旦那さんが亡くなって気の毒だけど、気丈に振る舞っていたわ」
 そう言って呑気そうに湯呑みを抱えている霊夢の前に、阿求は警告するように人差し指を立ててみせた。
「こう言っては良くないですが霊夢さん、奈々子さんも決して簡単な性格ではないですよ」
「え? そ、そうなの?」
「彼女が旦那さんの殺害に関与するような人だとは私も思いません。ですが、奈々子さんは自分の生まれ育った東城家を随分嫌っているようでした」
「えぇ? そんな様子は全然……」
「彼女はなんというか……いえ、私の主観で語ってしまうとどうも貶めるようで良くないですね。捜査の手がかりとして、事実だけを伝えます。ある日彼女は他の使用人たちとの会話の中で、こんなことを言っていました。――『もうほんと、あの家は異常なのよ! お祖父様は得体の知れない妖怪を勝手に家に置くし、稗田のお勤めから戻ってきたお姉ちゃんは気持ちの悪い呪いにのめり込んで、日に日におかしくなっていくし! 東城は呪われてるのよ。あんな不気味な家に戻ったら、きっと私も殺されちゃうわ!』……という感じでした」
「……も?」
「え?」
 しばしの沈黙。
 阿求は霊夢に聞き返された意味がわからず、二人してきょとんとしたまま見つめ合った。
「いや、あんた今、『きっと私〝も〟殺されちゃう』……って言わなかった?」
 阿求はもう一度記憶を遡った。
「――『東城は呪われてるのよ。あんな不気味な家に戻ったら、きっと私も殺されちゃうわ!』……! 言ってるわ……!『私も殺される』って言ってる!」
「ちょ、ちょっと待って。あんたのその能力、間違いなく一言一句正確なのよね⁉」
「ええ、目で見た情報と違って上手く聞き取れない場合はあるけど、こうして思い出せたということは百パーセント確実な記憶よ……!」
 二人は偶然舞い込んだ大きな手がかりに興奮していた。
「私も殺されるってことは、東城奈々子は既に誰かが殺されてると知ってたってことよね⁉︎ 本当にクリスQの小説みたいになってきたわ……!」
「えっ⁉︎ あ、ええ、そうですね。ははは……」
「でも、誰が殺されたのかしら。惣兵衛さんは当然まだ生きているでしょう? その時期よりも前に起こった殺人事件……いや、事故として処理されているのかも……」
 再び阿求が記憶を浚う。
「……荒巻正藏の不審死と、荒巻兄弟失踪事件……」
「え? 荒巻って、あの妖怪撲滅運動の荒巻?」
「今朝殺された東城惣兵衛は、荒巻正藏の三男です……!」
 霊夢は言葉を失った。
「だとすると、あれも……、か……」阿求は手で口元を覆い、何かぶつぶつと呟き始めた。
「な、何よ、まだ何かあるの?」
「……これはかなり確度の低い話だと思ってほしい。でも、もしかしたら万が一にでも関係があるのかもしれない」阿求は冷静さを取り戻したらしく、真剣な面持ちで話し始めた。「奈々子さんがうちで働き始めて半年ほど経った頃、彼女は階段から落ちて頭に大怪我を負ったことがあるの。すぐに医者を呼んで外科手術を開始したんだけど、麻酔の導入時にせん妄の症状が出て、彼女は朦朧とした意識のなかで意味のわからないうわごとを言い始めた」
「なんて言っていたの?」
「――『離れに行きたくない、離れは嫌。お祖父様、なんなの、お祖父様、どうして、どうして死体たちが、私のことを見下ろすの?』」


「――なんだって? 東城家の婿養子が殺された……⁉」
 その少し前、森近霖之助は霧雨魔理沙に驚愕のリアクションを見せつけていた。
「なんだ香霖。知らなかったのか?」
「いや、君たちと同じように号外で知ったよ。ただちょっと言ってみたくてね。そう何度も口に出せる台詞じゃあないと思ったから」
「好きなだけ口に出すと良いぜ」
 霖之助は読んでいた本を閉じてテーブルに置いた。「で、君は僕を殺人事件に巻き込みに来たのかい」
「もちろんそのとおりだ。そう何度も巻き込めるものじゃないと思ったからな」
「……東城家は人里の外れの森側にある。そして僕の家は森の外れの人里側だ」霖之助は煩わしそうに眉間に皺を寄せた。「目撃証言を集めているな?」
「さすが香霖、話が早いぜ」
「悪いことは言わない、手を引いた方が良いよ。魔理沙」
「なに? 手を引けだと?」
 霖之助は椅子の肘掛けにどかっと頬杖をついた。
「本気で逃げ通そうとする妖怪を人間が捕まえることはできないよ。君たちがいつもしている決闘は人間と妖怪の信頼関係で成り立っている。もしも強大な妖怪――たとえば八雲紫のようなやつが人を殺したとして、君は彼女に罪を償わせることができると思うかい?」
「幻想郷中に吹聴すれば村八分にできるな。あいつは構ってちゃんだからよく効くはずだ」
「違う。その前に君は殺される」
 自分を諭す霖之助の目つきがかつてないほど厳しく、魔理沙は心臓を掴まれたような気がした。
「いや、そもそも犯人の正体に辿り着くこともできないだろう。どこからともなく現れたり消えたり、死体を完全に消すことだって造作もない。犯行すら発覚しないかもな」
 魔理沙は霖之助の目を下から睨み返した。「死体は消えてない。逃げ去る影を見たやつもいる。情報も集まりつつある。絶対に私が犯人を捕まえてやるよ」
 この返答は想定内だったのだろう、霖之助はふぅと溜息をついた。
 魔理沙も一呼吸おいて、今度はいつもの調子を取り戻そうとするかのように話の方向を変えてみた。
「やけに捜査の邪魔をしようとするじゃないか。まさかとは思うが、香霖、お前がやったんじゃないだろうな?」
「被害者は食い殺されていたんだろう? 僕だって半分人間だ」霖之助は右手で口元を隠すかのように、ずれた眼鏡の位置を直しながら言った。「それはまだ……試したことがないよ」
「今日はやけに脅すな。まさか本当に――」
「君のことが心配だからだ」
 沈黙。
 驚きと疑問と戸惑いが混ざったような無垢な目で、魔理沙は霖之助の顔を見つめている。
 妙な沈黙に耐えられなくなり、先に視線を切ったのは霖之助だった。
「……幸い、今回事件があったのはあの東城郷士郎の家なんだろう? 郷士郎に任せるのが一番良い。君は知らないだろうが、博麗の巫女が不在の期間は彼がその手の仕事を引き受けることも珍しくなかったんだ。やらせておけば良い」
「あの爺さん、そんなに強いのか?」
 霖之助は記憶を掘り起こそうとするように天井を見上げた。
「若いときから稗田家に通って書物を読んだり、山の仙人に弟子入りしたり、とにかく知識と経験が豊富な人だよ。妖術、魔術、巫術の基礎から薬物の調合に至るまで幅広く修めて……特に仙術や道術の類いには秀でていたはずだ」
 魔理沙は驚いて身を乗り出した。「仙術って……あの爺さん、まさか仙人なのか? それはかなり話が違ってくるんじゃ……」
「いや、人間をやめてはいないよ。規律を重んじる人だからね。私欲のために行きすぎた力を求めるようなことは無かった。たしか被害者は頭を凄い力で殴られていたんだろう? そういう超人的な術は多分、身に付けていないと思う」
「そ、そうなのか……」
 霖之助の言葉に納得しかけたとき、魔理沙は野次馬の一人が語った話を思い出した。
『その音はだんだんと遠ざかって行った。東城家の方角に……!』
(……いや、東城郷士郎は信用できない。きっと何か隠してることがある)
 魔理沙が大人しくなったと思ったのか、霖之助はほっとした様子で言った。
「そういうわけだ。今回は一回休みにしよう」
「……ああ、お言葉に甘えさせてもらうとするよ。とりあえず、茶でも淹れてこようかな。外が涼しくなってきたら捜査再開だ」
「なにっ……⁉︎」霖之助は騙されたという顔をした。「君は僕の話を聞いてなかったのか? 実際に人が死んでるんだぞ」
 魔理沙は道具の山に掛けておいた三角帽子を取り上げると、再度深く被りなおした。
「香霖こそ私の話を聞いてなかったのか? この事件を解決するのはこの私だ。誰にも邪魔はさせないぜ」
「……どうして君は、昔からそう意固地になるんだ? 仕事でもないのになんの目的があって、こんな事件に首を突っ込んでいる?」
 魔理沙はまるで夢にも思わぬことを問われたかのように目を丸くすると、口元で小さく笑った。
「人間の『ホワイダニット』なんて気にしても無駄だ。私はいつでも、やりたいと思ったことをやるだけだよ」
 霖之助はそれ以上、何も言うことができなかった。
「邪魔したな。次に会うときは土産代わりに新作の武勇伝を聞かせてやるよ。実録の大捕物噺をな」
「……待ちなさい」
 魔理沙は出口の扉の前で足を止めた。ドアノブを握ろうとした右手には、じんわりと汗が滲んでいる。「止めるのか?」
「いいや、止めないよ」霖之助は椅子の背もたれに深く体を沈めて言った。「事件の朝、森に逃げ込んでくる妖怪を見た。名前も住処も知ってる。地図を描くから、少し待ちなさい」
 霖之助は眼鏡の汚れを拭きながら思考する。
――魔理沙のエネルギーは止められない。そんな簡単なことも忘れていたとは、我ながら要反省だ。今の僕にできることは、彼女が道を誤らないよう、正しい地図を描くことくらいだ。
 親父さんも、こんな気持ちだったのだろうか。


 太陽は西の空に傾いている。
 もっとも、この魔法の森の中ではあまり光も届かない。
 魔理沙は霖之助から貰った地図を頼りに、薄暗い森の中を進んでいた。
(こんなに簡単に逃げた妖怪を特定できるとは思わなかった。あとはそいつを引っ捕らえて、郷士郎の前に突き出せば一件落着……ってわけにはいかんのだろうな。
 何だかんだ言ってあの様子じゃあ、香霖のやつが危険な殺人犯のいる場所に私一人を行かせるとは思えない。初めからそいつが犯人ではないと思って地図を描いた可能性が高いな。
 しかし、事件の朝に里の方から逃げてきたって部分は本当のはずだ。上手くいけば、その妖怪がこの事件の最後のピースになるかもしれん)
 地図に記された場所まで行って辺りを探すと、岩壁の一箇所に木戸が嵌め込まれてあった。魔法の森の中は概ね歩き尽くしたと思っていた魔理沙だったが、こんなところに妖怪の隠れ家があるとは知らなかった。
 戸の横にはどういうわけかインターホンのようなものまである。魔理沙が木製の丸いボタンを押すと、部屋の中からチリンチリンと鈴の音が聞こえた。
 しかし、誰も出てこない。
「おーい、開けてくれ」魔理沙はドアをどんどんと叩いた。「香霖堂の遣いの者だ」
 すると部屋の中で何かが動いているような気配がし、ほどなくして扉の鍵が開けられた。
「森近の……? ったく、こんなときだってのに、一体なんの用で……」不機嫌そうに出てきた妖怪の男は、魔理沙の顔を見るなり仰天した。「人間じゃねえか‼︎」
 急いで扉を閉めようとする妖怪だったが、魔理沙がすぐさまその隙間に箒の柄を突っ込んだ。
「葦之丞(あしのじょう)だな? お前を逮捕する」
「違う! 違う! オレじゃない! オレは殺ってない!」
 葦之丞というその妖怪はひっくり返らんばかりの慌てようで部屋の奥にすっ飛んでいった。
「待て待て、悪かった。冗談だよ」魔理沙は苦笑しながら葦之丞をなだめた。「話を聞きたいだけなんだ。東城家で何があったのか、情報を知らないか?」
 葦之丞は酷いパニックに陥っているのか、まだ魔理沙のことを妖怪退治屋だと思い込んでいるらしい。
「ほん、本当に違うんだよ、オレはたまたまっ! 久々に東城のっ爺さん、と、酒、酒でも飲もうと思って……い、行ったら、離れでだ、れかしん、誰か、死んだって騒いでて……」
「お、おい、落ち着けって。大丈夫か?」
「そ、そしたら、死んだのは、荒巻の、三男みたいだって……」
「ああ、東城惣兵衛が離れで殺されてたんだ。……本当に大丈夫か? 頼むから落ち着いてくれよ。お前がやったんじゃないのはもうなんとなくわかったから」
「オレじゃない……!」葦之丞は我を忘れたように叫んだ。「三男はオレじゃない‼︎」
 部屋の中に葦之丞の過呼吸の音が響く。
 魔理沙は自分の背筋がゆっくりと凍り付いていくのを感じた。
「三男は……って……お前……」
「あ、ち、違う……ちが、違くて……」
「お前が関わってる事件は……十五年前の事件の方……なのか?」
 部屋の温度がみるみるうちに下がっていく。
 魔理沙が震える手で八卦炉を取り出そうとしたその瞬間、葦之丞が部屋を震わすような悲鳴を上げた。
「うわアアアアアアッ‼︎」
 突然葦之丞の体から凍えるような突風が起こり、魔理沙の体は吹き飛ばされそうになった。
 葦之丞が風と同じ速度で魔理沙の脇を通り抜け、半開きになっていた扉を粉々に突き破った。
 そして彼はそのまま、風と共に暗い森の中に逃げていった。
「なんだよあのヤロー! マジでやってるじゃねーか!」
 魔理沙は冷えた体を抱いて咳き込みながら、まるで台風が通過したあとのように荒れた部屋の真ん中に、一人取り残されていた。


 すっかり日も暮れた頃、魔理沙はへとへとの体を引きずって博麗神社に辿り着いた。
「おーい、霊夢、帰ってるかー?」
 しばらく待っていると、白い寝巻き姿の霊夢が勝手口の方から出てきた。
「なによ魔理沙。今日はもう寝るとこだったんだけど」
「馬鹿を言うな。今から今日集めた情報を交換するぞ。作戦会議だ」
 霊夢は眠そうな顔で不満を言った。「こんな時間から? まあ……別に良いけど」
 そこからたっぷり一時間近く喋り続け、二人は今日一日の成果をひととおり披露し合った。
「――とまあ、こんな感じだな」
「なんだ、じゃあもうその葦之丞って妖怪を退治すれば終わりじゃない」
「何言ってるんだ。ありゃどう見ても今回の殺しに関しちゃシロだぜ」
「でも、前科一犯は確定なんでしょ? 明日は葦之丞探しね」
「それも良いんだが……私が気になったのはだな」魔理沙は会議メモのなかの一枚を指差した。「この、東城可澄の恋人とかいうやつ。何者だ?」
 霊夢は眉をひそめた。「ちょっと、気になるって……下世話ねぇ」
「違う、そういう意味じゃない。魔術や呪いを学ばないと治せない特殊な病気って、一体なんなんだ?」
 霊夢は顎に手を当て、少し上を向いたポーズで考えた。「言われてみればそうねえ。妖怪に呪われてるとか、怨霊に憑かれてるとか……、でも、病気なんて表現するかなぁ」
「それに、もしそうなら普通、お前のところに行くだろ。なんで可澄がどうにかしようって話になるんだよ」
「あっ、それもそうか」
 魔理沙は胡座をかいたまま両手を腰に当て、畳の上に並べてある何枚ものメモに顔を近づけた。「霊夢には言えない理由があるんだよ。可澄の恋人は何か都合の悪い秘密があって、可澄以外の力で治癒させることができないような呪いを受けている」
「よく考えたら、東城家があんなことになってるのにまったく姿を現さないってのもおかしいわね。それとももう別れちゃったのかな」
「いや、可澄の部屋の様子は今も呪いの勉強をしているようだったんだろ? 外出できないほど症状が重いんじゃないか?」
「もしくは……実はずっと可澄さんの近くにいて……」
「……呪いのようなもので……寿命が短くなっている……?」
 そこまで言って、二人は同時に顔を上げた。
「下男の辰彦⁉︎」
 魔理沙は大きく首を振った。「いやいや! そもそも良いのか? 幻想郷のルール的に!」
「それはアリよ……アリのはず」霊夢は頭を抱えている。「前になんかの記事で読んだ覚えがあるのよ。天女の羽衣婚活がどうとか……。それに、霖之助さんの両親だってそうでしょ?」
「彼奴の場合はいつの時代の生まれかも正直よくわからんが……」魔理沙は自分の顎に手を当てて、すべてが腑に落ちたというように喉を唸らせている。「待て待て、そうするとどうなるんだ?」
「可澄さんは恋人の辰彦が呪いのせいで長く生きられないと知って、それをどうにか解こうとしているのよね?」
「その呪いってのが食人を禁じる呪いだから……お、おい、ヤバいんじゃないのか⁉︎」
 霊夢は冷静に否定した。「それは大丈夫。今日私が見たときには、呪いは機能していたと思うから。辰彦が惣兵衛を殺害するのはやっぱり無理よ」
「可澄が一時的に呪いを解いて、惣兵衛殺害後にもう一度かけ直したんじゃないのか?」
「……絶対とは言い切れないけど、そういうことができる可能性は低い……と、思う」
「ハッキリしないな。しかし、これで辰彦も潔白とはいかなくなったぞ」
 霊夢は何枚かのメモを選び取り、二人の間に重要そうな順に並べていく。
「こうして見ると、なんだか全員怪しく見えてきちゃうわね」
「実際怪しいからな。とにかく明日、全員に話を聞く必要がある」
「まあ、どうしてもってなったときは最悪、さとりのやつを呼べばなんとかなりそうね」
「えっ?」魔理沙から素の『えっ?』が出た。
 霊夢はさも当然のことのように言う。「だってそうでしょ? 容疑者不在だった最初と違って、今はこんなに怪しいやつがいるんだから。片っ端から心を読めば良いのよ」
「いやまあ、それはそう、なんだが」魔理沙は虚を突かれたと言いたげな顔をしている。「来てくれるかな?」
「私としても地底の妖怪に頼りたくはないから、最終手段よ。断られた場合は無理やり来てもらうわ」
「うーん、なんだかなぁ」
 その日はもう遅かったので、魔理沙は神社に泊まっていくことになった。
 神社で寝るのは別に珍しいことではない。
 そこそこ馴染みのある布団、そこそこ馴染みのある天井。それなのに、今夜はなかなか寝付くことができずにいた。興奮しすぎたためだろうか。
 目を瞑って横になる魔理沙の脳内に、昼間遭遇したいくつものシーンがめちゃくちゃに去来する。

『違う! オレじゃない! オレは殺ってない!』
 でも、お前は殺ったんだろう?

『問題なのは音の行き先なんだ……』
 音の正体はなんだ? なぜ音が移動した?

『……どうして君は、昔からそう意固地になるんだ?』
 それが私だから。

『あんたと違ってこっちは仕事なの!』
 ……。

『余殃――』
 ……?

『君のことが心配だからだ』

「……なあ、霊夢」
 魔理沙は目を開けずに語りかけた。
「お前はなんで、妖怪を退治するんだ?」
 数秒の静寂の後、耳に届いたのは寝返りの音だった。
 魔理沙は諦めて寝ようとした。
「んっ……しが……」
 霊夢の寝言が聞こえてくる。
「私が……やらなきゃ……」



 翌日の昼過ぎ、霊夢と魔理沙は揃って神社を出発した。
 天気はあいにくの雨模様。霊夢の持った傘が心なしかふらふらとしている。昨夜の夜ふかしのせいで今朝は寝坊し、今もまだ少し眠いのだろう。
 二人が東城邸に着くと、今日は東城奈々子が出迎えた。
「お姉ちゃんの様子が落ち着いてきたの。まだ部屋で寝てるけど、今日は喋れると思いますよ」
 奈々子は喜んでいるように見せてはいるが、心なしかその顔に昨日よりも苦悩の色が見える。一夜明け、心境にも微妙な変化が出てきたのだろうか。
 霊夢はまず、昨晩の会議で発覚した懸念から片付けることにした。
「奈々子さん。不躾なことを聞きますけど、可澄さんと辰彦さんは交際しているんですか?」
 霊夢の発言に対し、奈々子はその取り繕ったような表情に初めて本心を表した。
「……そうですよ。……まったく……」
 一つ目の疑惑が事実に変わり、霊夢は次の弾を撃つ。
「可澄さんが辰彦さんの呪いを解いた可能性があります。辰彦さんは今どこに?」
 奈々子は怪訝そうな顔をした。「お姉ちゃんが呪いを解こうと頑張ってるのは私もお祖父様も知っているけど、とても成功していたようには……。第一、お祖父様の呪いがそう簡単に解けるとも思えないし。だからこそお祖父様も黙認しているものと思ったのですけど」
「可能性の話です。万が一があってはいけませんから」
 霊夢は呪いの状態を再度正確に確認するため、奈々子から教えられた辰彦の部屋へ向かった。
 一方、魔理沙は霊夢のあとにはついて行かず、奈々子に別の質問をした。
「なあ、あんた、妖怪は嫌いかい?」
 奈々子は眉をひそめる。「……得体が知れないものは好きではないわ。妖怪も、それ以外のものでも」
「だからこの家のことも嫌いなのか?」
 奈々子の表情がすうっと外行きのものになった。「この家を? まさか。そんなことないわよ」魔理沙が予想外に自分のことを深く探っていると勘付いたのだろう。警戒心からか、心を閉ざしてしまったようだ。
 これはもう何を話してもシラを切られるな、と魔理沙は思い、標的を切り変えることにした。
「ところで、郷士郎さんは家にいるのかな?」
「ええ、お部屋にいますよ。二階に上がってすぐの部屋です。なんだか昨夜は珍しく遅くまで起きていたようで、疲れているみたいでしたけど」
「そうか。ありがとな。あんたもしばらく休むと良い」
「いえいえ。でも、今日は小兎姫さんを部屋でお待たせしているので」
 そう言って、奈々子は軽く一礼し、廊下の奥の部屋に消えていった。
 魔理沙はぎしぎしと不安げに軋む階段を上り、郷士郎の部屋の前に立った。
「郷士郎さん、入っても良いかい?」
 すぐに返事があった。「どうぞ」
「邪魔するぜ」
 襖を開けた先は、郷士郎本人の印象をまさにそのまま空間にしたような部屋だった。
 床の間に飾られた日本刀、虎の絵が描かれた渋めの屏風、何かの術に使うであろう専用の器具、そして書棚に整然と並ぶ古今東西の書籍の数々……。
 伝統を墨守せんとするその部屋の主は、テーブルの前で正座をして待っていた。
「ようこそ」郷士郎は口を細くして笑っている。「この部屋が気に入ったかね?」
「ああ。私の趣味ではないが、他人の部屋を見るのは好きでね」
 郷士郎はまた笑った。
「実は十年ちょっと前に改築したんだがね。老朽化が原因だったから、内装や雰囲気は殆ど変えていないんだ。まだ幼かった孫からは、『せっかく家が新しくなると思ったのに』と怒られたよ」
 魔理沙はテーブル越しに郷士郎と対面した。
 年老いて小さくなった体は、とても妖怪退治の名手には見えない。
「かわいい孫娘の惚気話に付き合いたいところだが、もたもたしてると地獄から厄介な妖怪が来ちまうんでな。今日は直球で行かせてもらうぜ」魔理沙は上半身を斜めにし、テーブルの上に右腕を突いた。「何を隠してる?」
 郷士郎は動揺する気配すら無く、あくまで穏やかな態度を崩さない。
「何のことだかわかりませんな。私は何も隠していない」
「嘘が下手だぜ。あんた、葦之丞という妖怪と繋がっているだろう」
 郷士郎の眉が少し動いた。
「葦之丞がどうかしたのか? たしかにアイツとはたまに酒を飲んだりしているが」
「昨日葦之丞を問い詰めた。そしたら急にパニクりだして、十五年前の荒巻家殺しを白状したよ」
「殺したのか?」
 魔理沙は質問の主語を理解するのに一瞬苦労した。「……いや、逃げられた。今も逃亡中だ」
「……そうか」
 郷士郎は平静を装っているが、その声に明らかな安堵が混ざったことを魔理沙は見逃していなかった。
「だが、未解決失踪事件の犯人は葦之丞でした、めでたしめでたし、じゃあ問屋が卸さない。十五年前の事件の夜、何かが地面に叩きつけられるような謎の怪音がこの家に向かっていくのを聞いた、という証言が出ている」
「誰がそんなことを?」
「魚屋の喜助だ」魔理沙は郷士郎の細い目を正面から捉えた。「もう一度だけ言うぜ。何を隠してるんだ?」
 郷士郎はしばらくの間口を閉ざしていたが、やがてゆっくりと膝を引いて立ち上がると、魔理沙に背を向けてこう言った。
「霧雨の……名前はなんと言うんだったかな」
 魔理沙は意図のわからない問いかけに警戒したが、ひとまず正直に答えた。「……魔理沙だ」
「魔理沙、霧雨魔理沙か」郷士郎の表情は見えない。「良い名前だ」
「どうした? 言い逃れしないのか?」
 郷士郎は背を向けたまま答える。
「言い逃れるも何も、私は何もしていない。私が何かしているという証拠も無い」
「残念だったな。証拠は必要無いんだ。この事件があともう何日か解決しなければ、地底から心を読める妖怪が連れて来られることになっている。それで強制タイムオーバーというわけだ」
 一時の沈黙が流れた。
 外では瓦屋根にしとしとと、ぬるい雨音が鳴っている。
 郷士郎は小さく息を吐いた。
「……霧雨魔理沙。君はもう帰りなさい」
「なに?」魔理沙が片方の眉を吊り上げる。
「私を疑っているようだが、あいにく私は事件の犯人ではない。これが何を意味するか? まだこの近くに本当の殺人犯が息を潜めているということだ」郷士郎が振り返り、魔理沙の瞳をじっと見つめる。「君の身に何かあったら、私は霧雨のせがれに合わす顔がない」
 魔理沙の細い指先が、本人の意思とは無関係に強張った。
 郷士郎はさらに続ける。「ここは私の顔に免じて、大人しく規律に従ってほしい。幻想郷の禁を破った者は博麗の巫女が裁く。それがこの世界の自然な仕組みなのだ」諭すような、遠い声。「君が無理をする必要は無い」
「なんだと……?」魔理沙は立ち上がりそうになった。「だからあんたも何もしないって言うのか?」
「何?」
「最初からずっと妙だったんだよ。孫同然の惣兵衛が殺されたっていうのに、元妖怪調伏師のあんたの表情からはまるで気迫が感じられない。なぜ自分で犯人を探さない? どうして惣兵衛が殺された理由を必死になって探ろうとしない? あの野次馬どもみたいに、あんたも荒巻正藏の余殃だと考えているのか?」郷士郎の張りの無い額に青筋が立った。「……それがあんたを疑う、最大の理由だよ」
 睨み合う二人の間に重い沈黙が流れた。
 心臓の鼓動が聞こえるような静寂。
 気付けば雨音も聞こえなくなっていた。曇天で薄暗かった部屋の照明も、心なしか力強さを増している。
 郷士郎は深く息を吐き、テーブルの前に座り直した。
「君の言うとおりだ」力が抜けたように呟く郷士郎の表情は、どこか今までよりも自然なものになっていた。「君の言うことが正しい。この事件は、他ならぬ私が終わらせねばならないものだった」
「あくまで自分はやってないと言うのか? 私はまだあんたのことを疑ってるぜ?」
「疑われても構わない」郷士郎の視線は魔理沙の方を向いている。しかしその目は、どこか遠い時代を見ているようでもあった。「息子夫婦が――可澄と奈々子の両親が流行り病で死んだとき、私は不意に気付いた。次に死ぬのは私の番だと。そして私が死んだあと、そこに孫たちやその子孫たちを守ってくれる者はいないかもしれないと――」
 魔理沙は黙って老人の話を聞いていた。
「愛する者たちを守れないことが怖かった」郷士郎の目から涙が溢れた。「それなのに……どうして……!」
 魔理沙の目には、この老人の涙が嘘をついているようには見えなかった。
「犯人に心当たりは無いのか? 惣兵衛や荒巻正藏や……、あんたに深い恨みを持ってそうな妖怪は?」
 郷士郎は首を振った。「私や惣兵衛はともかく、荒巻に恨みを持つ妖怪は斬って捨てるほどいる。もはやこの幻想郷に住むすべての妖怪に動機があると言っても良い」
「だったら……一番近くにいる妖怪は辰彦だ。あいつに動機は無いか?」
「無い。そもそもあいつは人を食えない」
「あんたの孫の可澄がその呪いを解こうとしてただろ? 今霊夢が改めて調べてる。もしこれで何か異常が見つかったときは……」魔理沙は郷士郎の目をまっすぐ見据えた。「あんたが辰彦を殺す、ということで良いんだな?」
 郷士郎は深く頷いた。「すべての責任は取る」
 その言葉を聞いて、魔理沙はやっと肩の荷が降りたような気がした。「わかった。それじゃあもう、私は失礼するよ。その……なんか、悪かったな」
 部屋を出ようと立ち上がる魔理沙に、郷士郎は声をかけた。「できれば、可澄の様子を少し見てやってくれないか。あの子は昔から体が弱い」
 魔理沙は襖を開けながら振り返らずに言った。「心配するな。言われなくともそのつもりだ」
 後ろ手に襖が閉められ、ぎしぎしと階段を下りる音が小さく遠ざかっていく。
 外の雨は止んだが、今度は冷たい風が出てきた。ひゅううううと鋭い音が鳴り、格子窓がガタガタと揺れている。
 照明の灯りがゆらゆらと、部屋の中に影を落とす。
 郷士郎は懐紙で涙の跡を拭くと、丸めて屑かごに放り込んだ。
「歪みは、必ず……」ぐったりと立ち上がる。「自身に返る」
 郷士郎は床の間の刀に手をかけ、その研ぎ澄まされた刀身を鞘から抜き放った。
「余殃などと……決して……!」


 魔理沙が郷士郎との会談を始めた頃、霊夢は東城家の資料庫からいくつかの書物を運び出していた。呪いを破壊することなら朝飯前の彼女だが、構造の分析や改竄の痕跡探しとなるとまだまだ知識が足りていない。
 霊夢は持ってきた資料の山をどさっと床に置き、辰彦の背中の呪いと向かい合う。
 解析と尋問が始まった。
「ねえあんた、本当に殺してないの?」
 辰彦は抑揚の無い声で答える。「殺していません」
「さっさと自白してくれたら、私も無駄な仕事しなくて済んで楽なんだけど」
 返事は無い。
「そういえばあんた、可澄さんと交際してるんでしょ?」霊夢は書物の中の模様と実際の呪いとを見比べながら口を動かす。「何が目的なの?」
「目的?」顔を後ろに向けようとして、辰彦の短い襟足が首に掠れた。「どういう意味でしょうか?」
「最初から何か目的があって東城家に近付いたんじゃないの? たとえば長女の可澄さんと結婚して、この家の財産を奪ってやろうとか」
「私がここへ来た経緯は、以前にお話ししたことがすべてです」辰彦の声色が変わる様子は無い。「ただ……、先週、結婚が決まったことは事実です」
「へえっ⁉︎」霊夢は自分で言っておいて驚いた。「あ、そうなの……。それはその、おめでとうございます」
「ありがとうございます」
 妙な空気になった。
 それからしばらく、広い和室の中に響くのは霊夢が頁をめくる音だけだったが、そのまま数分が経つと、珍しく辰彦の方から口を開いた。
「可澄さんは、優しい人間です」
「な、なによ急に」
 辰彦は話し続ける。「人ではない自分にも、悪い顔ひとつせずに接してくれました。彼女の体も強くはないのに、自分が呪いで長く生きられないと知って、涙を流してくれました。こんな自分を、まるで人のように扱ってくれたのです」
 霊夢はなんとなくばつが悪い感じがして、途中で口を挟むことができなかった。
「正直に言って……、初め、彼女から告げられた想いを受け入れることにしたのは、打算の意味もありました。人間とより深く通じることで、自分の中の人間性を発見することができるのではないかと。
 しかし……、その目論見は外れました。彼女や東城の方たちと接すれば接するほど、自分と人間の違いがはっきりとわかるようになっていったのです。
 そのとき、自分は初めて郷士郎様に呪いを彫ってもらったことを……少しだけ後悔しました」
 霊夢は本に目線を落とした。「なに? やっぱり人間を食いたくなったってこと?」
「違います」辰彦は淡々と答える。「ただ、安易だったと」
 霊夢の分析は五割ほど終了していた。そして同時に彼女は、この呪いが一度解除された形跡など見つからないであろうということもうっすらと悟っていた。
「ごちゃごちゃ言ってるけど、要は愛なんて無かったんでしょ? だったらなんで、結婚なんてする気になったのよ」
「愛、なのかはわかりません」辰彦は確かな口調で言った。「――が、自分は……いつの間にか、少しずつ、彼女とずっと一緒にいたいと願うようになっていました。身を削って私の呪いを解こうとしてくれる彼女に、自分も何かしたいと思いました。彼女のことを……守りたいと、そう考えるようになりました。そのためなら――」霊夢は頁をめくる手を止めた。「自分の生まれなど、些末な問題だと思っています」


 一階に下りてきた魔理沙は東城可澄の部屋へと向かった。
 途中に通り過ぎた部屋からは霊夢の喋り声がした。まだ呪いの解析が終了していないらしい。一方、廊下の奥に見える部屋からは明かりと談笑の声が漏れている。奈々子と小兎姫が揃って何か楽しそうにしているようだ。ちゃんと取り調べになっているのだろうか。
 魔理沙は可澄の部屋の前に立ち、襖の縁をノックした。
「どうぞ、入ってください」
 初めて聞く声がする。
 魔理沙の手がゆっくりと襖を開く。
 部屋の中は霊夢から聞いたとおりの有り様だ。ただ一点昨日と違うのは、可澄が布団の上で上半身を起こしていることだった。
「凄い妖気だな」魔理沙は思わずたじろいだ。「こりゃ体も悪くなるぜ」
「あら? あなた」可澄は不思議そうな顔をした。「霊夢ちゃんじゃないのね」
 魔理沙は淀んだ部屋の空気を掻き分け、畳の上にあぐらをかいて座った。「なんでも屋の霧雨魔理沙だ。良い仕事をしに来たぜ」
 魔理沙の口上を聞くと、可澄はくすくすと笑った。「初めまして、魔理沙ちゃん。東城可澄です」
「ああ、こりゃご丁寧に」魔理沙の姿勢が少し改まった。「病み上がりで悪いが、いくつか聞きたいことがある。良いかな?」
「どうぞ」
 魔理沙は目の前の華奢な女性に訊きただすべき情報を、初めの部分から順に思い起こした。
「昨日の朝、あんたは離れで惣兵衛さんの死体を発見し、森の方角に逃げ去っていく妖怪の影を見た。間違い無いな?」
 可澄は苦しそうに目を伏せた。「うん、間違いありません」
「そのとき、犯人の特徴をなんでも良いから見なかったか? 顔じゃなくても着ている服とか、角や翼が生えていたとか」
 可澄はやはり苦しそうに額を押さえて、ゆっくりと首を横に振った。「ごめんねぇ……。気を失う寸前だったから、本当に何も思い出せないの」
 魔理沙は最後の情報源が空振りに終わりそうだとわかり、少なからず失望に沈んだ。
(……いや、本人が思い出せなくとも、さとりの能力でまだ何か掘り起こせる可能性がある。落胆するのは早い)
「十五年前に起きた荒巻兄弟失踪事件について、何か覚えていることは無いか?」
 可澄は困ったような顔をした。「あのときは……私はまだ十歳だったし、やっぱり何も覚えていないわ」
「そうか……。仕方ないな」魔理沙は頭を掻いた。「えぇっと、下男の辰彦さんと付き合ってるんだって?」
 その言葉を聞いて、可澄の頬にすうっと赤みが差した。「……はい……。実は先週、結婚も決まって」
「おおっ⁉︎ そいつはめでたいじゃないか!」
 可澄は少し哀しそうな顔で言う。「その矢先にこんなことがあったから、どうなるかわかんないんだけどね」
 魔理沙は気まずそうに口端を歪めた。「あー、つかぬことを聞くんだが、その、どうして辰彦さんと? 妖怪と一緒になろうと思ったんだ?」
「妖怪とか人間とか、関係ないのよ」可澄は笑って言った。「あの人、凄く頑張ってるの。自分に人間と違うところがあるって思ったら、何が違うのかをちゃんと考えて、また同じことを繰り返してしまわないように、毎日毎日苦悩して……」
「それで惹かれた?」
「もちろんそれだけじゃないよ」可澄は口元に手を当てた。「でも、私が彼の好きなとこ全部言い始めたら、魔理沙ちゃん呆れて帰っちゃうかもね」
 魔理沙は苦笑いした。
「まあ、しかしだな……」
 魔理沙にはどうしても、目の前の女性が健全な恋愛をしているようには思えなかった。
「男の呪いを解こうとして、逆にあんたの方の寿命が縮んでるんじゃないのか? 私は魔法使いだからわかるんだ。今はまだ大丈夫でも、いつか必ず体が壊れるぞ。元々体が丈夫じゃないあんたなら尚更だ」
 それを聞いて、可澄の瞳に暗い色が浮かんだ。「……魔理沙ちゃんにもいつかわかるよ。本当に好きな人に出会って……。この人と一緒なら、死んじゃっても良いって思えるような気持ちが、この世にはあるんだって」
「……百年生きても理解できるとは思えんが、まあ、そういうのもあるか」
 魔理沙は改めて部屋の中を見回した。
 壁に貼られた紙は何度も消して書き直したようでぐしゃぐしゃになっている。
 積み重ねられた本にはどれも大量の付箋が貼られ、よれよれになるくらい読み込まれているのが遠目からでもわかった。一番上に見える表紙は、恐らく幻想郷縁起の写本だろう。
「呪いは解けそうなのか?」魔理沙は事前に聞くつもりのなかった質問をした。
 可澄は自嘲するように笑った。「私、やっぱりダメな子みたい。どれだけ本を読んでも、阿求様のところで勉強しても、お祖父様の力の足元にも及ばない」
「ダメなんてこと無いだろ。あの爺さんと比べたら誰だってそんなもんだ」
 可澄は魔理沙の瞳を見つめて言った。「でも多分、霊夢ちゃんならできるよね」
 言いようのない違和感が魔理沙を襲った。「霊夢のことを知っているのか?」
「……私ね、本当は妖怪退治屋になりたかったんだぁ」可澄がどこか、すべてを諦めたかのように言う。「お祖父様みたいに。博麗の巫女様みたいに」可澄の腰まで伸びた長髪が、揺れる明かりを反射して墨のように黒く輝く。「でも、私には力が無かった。だからせめて、あの人の呪いだけは解きたいの。あの人を……私が守ってあげたかったの」
 可澄の表情が持つ妙な気迫に、魔理沙は自然と息を呑んだ。
「力が、あれば――」

 がしゃん‼︎
 がらがらがら‼︎

「なんだ⁉︎」
 屋敷の二階から何かが打ち壊されたような轟音が響いた。
「お祖父様……?」
 そして今度は、また別の音が聞こえてきた。

 どんっ、どんっ、どんっ……!

「この音……⁉︎」
 魔理沙は襖を開け放ち、弾かれるように廊下に飛び出した。霊夢や辰彦、奈々子と小兎姫も同じような様子で各々の部屋から顔を出している。
「二階だ! 郷士郎の部屋だ!」
 可澄以外の全員が階段を駆け上がり、郷士郎の部屋の襖を開けた。
「郷士郎さん! 何が……」
 まず目に飛び込んできたのは、無残にも巨大な穴が開けられた壁だった。格子窓のあった部分が粉々に破壊され、外の風がごうごうと吹き込んできている。
 屏風が倒れ、書棚は風の影響でがたがたと震えているが、他に激しく荒れているようなところは無い。
「お祖父様……?」
 部屋に入って振り返ると、右手に日本刀を握ったままの郷士郎が、廊下側の壁にもたれるような体勢で、全身を食いちぎられて死んでいた。


 体調の万全でない可澄を除き、今この家にいる五人全員が一階の客間に集まった。
 当主の死に最も動揺しているのは孫の奈々子で、「どうして……どうして……」としきりに呟いている。
 下手に触れれば破裂してしまいそうな異様な空気の中、話し合いの口火を切ったのは小兎姫だった。
「二階から壁を破壊する音が聞こえた瞬間、私たちは全員一階にいた。間違いないですね?」
 霊夢が答える。「私と辰彦さんは一緒だった」
「私と可澄さんもだ」魔理沙が続く。
「私と奈々子さんも同様です。つまり……、東城郷士郎さんを殺害したのは外部の妖怪ということになる」
 再び沈黙が訪れる。
 魔理沙の頭には、つい先ほどまで生きて喋っていた郷士郎の言葉が思い起こされていた。
『この幻想郷に住むすべての妖怪に動機があると言っても良い』
「……どうしろってんだよ、そんなの」
 これまで腕を組み、目を瞑っていた霊夢が口を開いた。「明日の朝一番に、さとりを呼びに行くわ」
 魔理沙は反論した。「呼んでどうするんだよ。幻想郷の妖怪全員を一列に並べて見せるのか? 不可能だ」
 霊夢は強い口調で言い切る。「現状何も手がかりが無いんだから、何もしないよりマシよ。それに私の勘が言ってるの。この事件はきっと、さとりの能力さえあれば完全に解決できる気がする。もたもたと考えるばかりで、これ以上犠牲者を出すわけにはいかないわ」
「論理的じゃないが……霊夢の勘、か」
 勘と言うなら、今回ばかりは魔理沙にも奇妙な直感が働いていた。
 さとりを呼んではいけない。もしこの場にさとりを呼んでしまえば、この事件は何か、取り返しのつかない暗い結末を迎えてしまうのではないか。
 しかし、魔理沙はそれを口にしなかった。彼女の直感の方が霊夢の勘よりもよほど非論理的だし、彼女自身、そういうあやふやなものに頼るという選択を採る気は無かった。
 魔理沙はあくまで、自分の目に映る世界の中から真実を見出そうとしていた。
「初めに音がしてから私たちが二階に上がるまで、何秒かかった?」
 魔理沙の質問に小兎姫が答える。「十秒か、もう少し……? 多分、二十秒はかかっていないはず」
「いくらなんでも短すぎるんじゃないか?」魔理沙の指摘に、霊夢と小兎姫がハッとした。「妖怪が外から壁を破って部屋の中に突入し、それに気付いた郷士郎さんが床の間に飾ってあった日本刀を取って応戦。しかし抵抗虚しく、郷士郎さんは悲鳴を上げる暇すら与えられずに全身を食われて死亡。犯人は壁の穴から逃走した……」
 小兎姫が魔理沙の話に納得する。「たしかに、あまりにも手際が良すぎる」
「絶対に無理よ」霊夢も強く同意した。「普通の人間ならともかく、相手は東城郷士郎よ? 妖怪退治を引退したとはいえ、そう簡単にやられるタマとは思えない」
「部屋も殆んど荒れていなかったし、全身を食われたにしては血もあまり飛び散っていなかった気がする」魔理沙は不審すぎる郷士郎の死の状況に対し、ほぼ確信に近いものを得ていた。「……永琳を呼んでこよう。私が戻るまで、誰も遺体に触らないようにしてくれ」


 突風が吹き荒ぶ東城邸に、迷いの竹林に住む名医、八意永琳が到着した。
 第二の事件現場へ案内された彼女は遺体を見ても顔色ひとつ変えず、「少しかかるから、あなたたちは下でお茶でも飲んでてちょうだい」と言うと、一人で部屋に籠った。
 五人は言われたとおり客間で待ったが、どこからもお茶は出てこなかった。
「私が思うに、壁の穴と破壊音はブラフだ」竹林から往復してきたばかりの魔理沙が少し息を切らしながら言った。「恐らく犯人は、私が一階に下りてからそう経っていない間に郷士郎さんの部屋に侵入したんだ」
「ど、どうやって……? どこから……?」多少は気が落ち着いてきたのだろう、奈々子が話に参加した。
「それは考えても仕方が無い。妖怪なら壁をすり抜けたり、好きな場所に瞬間移動できるやつだって……あー、それは人間にもいるんだが、とにかく、犯人はあの部屋に壁を壊さずに入った、とひとまず考える」
 霊夢と小兎姫が頷いた。
「それから犯人は声を出されないような何らかの方法で静かに郷士郎を殺害し、完全に息の根が止まってからその遺体を食ったんだ。心臓が止まっているから、出血も少なかったはずだ。そして最後に部屋の壁を破壊し、私たちが駆けつける前に姿を消した」
「よくわからないことが多すぎるわ」霊夢は頭が痛くなってきたのか、こめかみの辺りをぐりぐりと押さえている。「壁を破壊せずに侵入できる犯人が、どうして壁を破壊して出るのよ。それに郷士郎さんを殺害した何らかの方法っていうのも何?」
「壁を破壊することのメリットとしては、犯行のタイミングを誤魔化すことができる。実際、私たちも一瞬騙されそうになったしな。しかし、この計画はかなりお粗末だ。さっき外に出たときに確認したが、壁の破片は殆どが屋敷の外に散乱していた。壁が内側から破壊されたっていうのはまず間違いないんだよ。
 そして郷士郎を殺害した方法だが、これは今まさに永琳が調べているわけだ。アイツなら必ず何か見つけるだろう。絞殺だったり、刺殺だったり……毒殺だったりの痕跡をな」
「毒殺……?」小兎姫が魔理沙の言葉に引っかかった。何かぶつぶつと口の中で喋っている。「……ちょ、ちょっと外に出てきます。急いで戻ります」
「な、なんだ?」
 そう言い残して、小兎姫はばたばたと屋敷の外へ出て行ってしまった。
「……とにかく、今回の犯行には明らかな粗がある。なぜかはわからないが、犯人は焦っていたんだよ。だからきっと、他にも何かミスが見つかるかもしれない」魔理沙は膝の上で拳を握った。「何か、あともう少しで……」
 それから十分ほど経った頃、二階で検死を行っていた永琳が階段を下りてきた。
 客間に入ってきた彼女に霊夢が詰め寄る。「どうだった? 何か見つかったの?」
 永琳はまるで何事も無いように、落ち着き払って言った。「死因はシアン化合物系の薬剤をベースに複数の成分を混ぜて即効性を高めたもの。つまり、毒死ですね」
 四人が一斉にざわついた。
「では、私はこれで」
 そそくさと帰ろうとする永琳に霊夢が食ってかかった。「ちょっと、アッサリしすぎじゃない? 他に何か無いわけ? アンタの頭脳なら犯人もわかったりするんじゃないの?」
 永琳は小さく溜息をついて言った。「そんなことは私の仕事ではない。それに、私を呼びつけたということは、死因にある程度の目星が付いていたということでしょう?」永琳の目尻が僅かに緩んだ。「それならもう、あなたたちの力で謎は解けるでしょう」
 そう言って、永琳は今度こそ帰って行った。
「……さて、他に怪しいところと言えば……」
 魔理沙が会話を再開させる。
 すると奈々子が声を上げた。「音よ。壁が壊れたあとに、どんっ、どんっ、って、何か床に叩きつけてるような音が聞こえなかった?」
 魔理沙はハッと思い出した。「そうだ、音だ……! 十五年前の事件の夜、魚屋の喜助が聞いたという音と、あれは多分同じ音なんじゃないか……⁉︎」
「魚屋の、喜助……?」奈々子がよくわからないという顔で聞き返す。
「ほら、やっぱり。葦之丞とかいう妖怪がやったんじゃないの?」霊夢が閃いたような顔をして言う。「十五年前の事件はそいつがやったんでしょ? それと同じ音が今回もしたんなら、もう確定じゃないの」
 魔理沙は顎に手を当てて考える。「たしかに、郷士郎と仲の良かったらしい葦之丞なら、毒を飲ませることも難しくなかったかもしれない。しかし……」
 魔理沙は前日の出来事を思い出していた。
 まず、霖之助が自分と葦之丞を引き合わせたこと。霖之助は葦之丞のことを前から知っており、危険性の無い妖怪だと考えていたからこそ魔理沙が会うことを許可したとしか思えない。
 そして、実際に会ってみた葦之丞本人の印象。自分が罪を被せられることに対するあの異常な怯えようからは、今回のような積極的な殺人を行うようにはどうも見えなかった。
 そうこうしているところに、先ほど慌てて出て行った小兎姫が、やはり大慌てで戻ってきた。
「はぁ、はぁ、わかったわ! 犯人が!」
 予想外のタイミングでの解決宣言に、魔理沙たちは揃って驚愕した。「な、なんだと⁉︎」
「ほ、本当ですか? 小兎姫さん」奈々子が小兎姫の前に歩み出る。「一体誰がお祖父様を……」
「その前に確認したいわ。郷士郎さんの死因は毒殺で間違いなかった?」
「ああ、永琳のお墨付きを貰ったぜ」
「じゃあ、もう確定だ」そう言うと小兎姫は笑顔になって、ポケットから取り出した手枷を東城奈々子の手首にかけた。「犯人は奈々子さん、あなたよ!」
 客間にどよめきが広がった。
「ちょっと小兎姫さん⁉︎ 冗談よね⁉︎」両手を拘束された奈々子は大声で叫びながら狼狽している。
 小兎姫は笑いながら言った。「奈々子さん、いや、東城奈々子。お前は気付かなかったと思うが、私は昨日一日中、お前の行動を監視していたんだ」
 奈々子の額からは大粒の汗が出ている。「か、監視?」
「昨日の夕刻、霊夢や魔理沙がこの家を去ったあと、お前は里に買い物をしに出かけたな? 私はこっそりとそのあとをつけていた。そして見ていたのよ。お前が里の薬屋で、なにか薬のようなものを買って出てきたのを……!」
 奈々子は目を大きく見開き、その場で少し後ずさった。「ち、違う……!」
「今その薬屋に行って直接聞いてきたわ。なんでもあの店の娘、お前の昔馴染みだそうだな。あそこはただの薬屋じゃなく、仙人や魔女が使うような毒性のある材料も特別に置いている。普段は絶対に普通の人間には売らないらしいが、アッサリと白状したよ」小兎姫は人差し指をまっすぐに奈々子へ向けた。「昨日、東城奈々子に毒を売ったと!」
 奈々子は言葉に詰まった様子で、周りの面々をきょろきょろと振り返った。
 そこに納得のいかない魔理沙が待ったをかける。「奈々子が本当に毒を仕入れてたとして、どうやって郷士郎に飲ませたり、壁を破壊したりしたんだ?」
 小兎姫の代わりに答えたのは霊夢だった。「妖怪と共犯ということならどうにでもなるわよ。となるとやっぱり、怪しいのは葦之丞……?」
「違うの、あれは違うの!」奈々子はまだ犯行を認めようとしない。「たしかに、私は毒を使うつもりで買ったけど……まだ使ってないの! お祖父様は私が毒を使う前に殺されたのよ!」
「なんだって?」小兎姫は奈々子の言葉尻を捕らえた。「それはつまり、どちらにせよ東城郷士郎に飲ませる目的で毒を買ったということじゃない!」
 奈々子は図星を突かれたのか、口をわなわなと震わせて黙り込んでしまった。
「お、おいおい、マジかよ……」真相が信じられないのか、魔理沙はまだ困惑している。
「さあ、続きは私の家で聞こう」小兎姫が手枷に繋がったロープを引いて、奈々子を客間から出るように促した。
 東城奈々子は最後まで「違う、殺してない」と呟いていたが、そのまま東城邸から連れ出され、見るからに上機嫌な様子の小兎姫と二人で、里の方角に消えて行ってしまった。
 静かになった東城邸に残された霊夢と魔理沙、そして寡黙な辰彦の三人は、なかなか次の言葉を発することができなかった。
「……なんだか呆気なかったけど、とりあえず、これで犯人は捕まりそうね」霊夢がようやく口を開いた。「明日さとりの能力で東城奈々子の心を読めば、共犯者の正体も確実にわかる。葦之丞だろうとそうでなかろうと、あとは総力を上げてそいつを退治すれば万事解決よ」
「そう、だな……」
 魔理沙はまだ納得していなかった。突然犯人が捕まってしまって不完全燃焼だったというのもあるが、やはりまだ何か、釈然としないものがあるのだ。
(十五年前の事件のとき、奈々子はまだ七、八歳程度だ。そっちの一件に関しては切り離して考えて良いだろう。
 惣兵衛殺しの動機は旦那の浮気性が原因? 筋は通る。
 郷士郎殺しはなんだ? 奈々子は辰彦を家に迎えた郷士郎を疎ましく思っていたようではあったが、殺すほどのことだったのか?
 郷士郎の部屋の壁を破壊したのも正直意味がわからない。犯行時間を誤認させるためとは言ったものの、それによってアリバイが成立したり崩れたりするようなやつが一人もいないのはどういうことだ? 私に罪を着せられると思ったのか?
 そして、十五年前の失踪事件と郷士郎殺しで共通する、あの音の正体はなんだったんだ……?)
「とりあえず、私はもう帰ろうかなぁ」霊夢が大きく伸びをしながら言った。「あ、そうそう。辰彦さんの背中の呪いだけどね。やっぱり効果が解除されたような形跡は無かったわ」
「そうか、それはなによりだ」
 霊夢は立ち上がって帰ろうとしたが、何かに気付いて立ち止まった。
「そうだ、倉庫から出してきた本を返しておかなきゃ」
「倉庫? どこにあるんだ?」
「二階の郷士郎さんの部屋の奥よ。見ておく?」
「ああ、そうしようかな」
 霊夢は客間を出る前に、存在感の希薄な辰彦を振り返って言った。「あんたは可澄さんの側にいてあげなさい。あの人の味方はもう、あんたしかいないんだから」
 辰彦は目を瞑り、ゆっくりと頷いた。


 古い棚ばかり並んだ部屋だった。
 天井に近い丸窓から夕暮れ時の日光が淡く差し込む。
 森の方から風に乗ってくる蝉の声が、今日はやけに寂しく聴こえた。
 霊夢は運んできた本の山を元あったところに戻すと、二日分の疲れをすべて追い払うように、ぐっと腰に手を当てて体を伸ばした。
「よーし、終わり終わり。帰るわよ」
 魔理沙は部屋の棚に並ぶさまざまな本やマジックアイテムを眺めて、こっそりと目を輝かせていた。
「なかなか凄いな。もう使う人もいないことだし、五個くらい貰ってっても良いかな?」
「駄目に決まってるでしょ。これらは全部可澄さんのものになったんだから」
(……あれ?)
 そのとき、部屋の中を眺めていた魔理沙は何かに気付いた。
(この部屋の壁……)
「あーっ!」魔理沙の思考は霊夢の歓声によって中断された。「この箱、懐かしいなぁ。まだあったんだ」
「なに?」魔理沙は霊夢の手元に目をやった。霊夢は古びた棚の中から、一つの黒っぽい小箱を取り出しているところだった。「懐かしいって、お前、この家に前に来たことがあるのか?」
 霊夢は小箱を眺めまわしながら言う。「五年くらい前だったかしら? まだ私が小っちゃい頃にね。この小箱の御札が破けちゃったからって言って、もう一度封印するように頼まれたのよ」
 魔理沙は少し興味を持った。「ほう、危険なものなのか?」
 霊夢はかつて自分が書いた御札を片手の親指で破りながら言う。「いや、ぜんぜん。本当は封印って言うよりは、退魔とか浄化の効果がある御札なのよ。よくわかんなかったから、前の御札をそのまま書き写したんだけどね」
「適当だな……」
 霊夢は小箱の蓋を開けて見せた。「だってほら、この中に入ってるのって、ただのお米なのよ?」
「お米?」
「そう、この小袋に入った……あっ!」
 霊夢が箱の中の袋を持ち上げようとしたとき、ちょうど袋の口を結んでいた紐が切れ、中身がすべて床にこぼれ出てしまった。
「あーあー、やっちゃった……」
「紐が古くなってたんだな。よっと……」
 霊夢と魔理沙はその場にしゃがみ込み、二人で床に落ちた米粒を拾い始めた。
 隅に飛んでいった米を一粒一粒拾い集めながら、魔理沙はずっと事件のことを考え続けていた。
(もう少し……あと一つ、あと一つ何かあれば……ほんの少しの切っ掛けがあれば、すべてが繋がりそうな気がするのに……)
「まったく、こんな掃除が面倒なものを置いとかないでほしいわよね」霊夢が理不尽な愚痴を言い始めた。「ていうかよく見たらこれ、餅米なのね」
「餅米?」
 霊夢は拾った米粒を手のひらに乗せて見せた。「ほら、普通のお米よりちょっと白い」
 その米粒の色はたしかに白く、普通のお米よりも透明感が無かった。
「餅米……?」
 魔理沙の脳が何かを思い出しそうになった。
「餅米……浄化……」
 その知識の源泉は、たしか外の世界の本だった。
(…………まさか)
 そして彼女は、ついに真相の鍵に手を触れた。
(そういうことだったのか――!)


 深夜、魔理沙は一人で東城家の敷地に忍び込んだ。
 彼女の頭の中の推理を裏付けることのできる、とある証拠品を発見するためだ。
(やっぱり食後のデザートには、パセリのようなものが無くっちゃな)
 一階の窓から灯りが漏れている。東城可澄がまだ起きているようだ。辰彦も一緒かもしれない。
 魔理沙はふわりと空を飛び、二階の郷士郎の部屋に開いた大きな穴から屋敷の中に侵入した。
 今夜は月が出ているため、物色するのに困らない程度の明かりがある。魔理沙はさっそく、郷士郎の部屋の中を見回した。
 郷士郎の遺体は既に他へ移されており、床の血痕だけが彼の存在を記憶している。
 昼間の強風も嘘のように止み、書棚はもう揺れていない。
 何に使うのかわからない器具。
 血の付いていない日本刀。
 そして、倒れた虎の屏風。
(――屏風が九十度回転して倒れている!)
 魔理沙は元々屏風が立っていた辺りの壁をくまなく調べた。
 すると、ある一点に奇妙な図形が描かれているのを見つけた。
(これだ……)
 魔理沙は図形に手をかざし、そこに弱い魔力を流し込む。
 音も無く壁が消え失せ、そこに郷士郎の隠し部屋が現れた。
(思ったとおりだ。郷士郎の部屋の広さと外の廊下の長さに対して、倉庫の壁がやけに近い気がしたんだ)
 魔理沙は罠の有無などを慎重に確認しながら隠し部屋の中へと進んでいく。
 体がすべて入った辺りで、隠し扉は自動的に閉ざされた。
(ここまで来ればまず間違いない。絶対にアレがあるはずだ)
 魔理沙はスカートの中からミニ八卦炉を取り出し、右手の中で小さな炎を灯した。
 果たしてそれはあった。
 狭い隠し部屋の闇の中、オレンジ色の炎に照らされ、それは魔理沙の眼前にくっきりと浮かび上がった。
 十五年前、とうに探すことを諦められた、最も重要な証拠品が。
(……さて、運ぶとするか)
 魔理沙は一時的な肉体強化魔法を自身にかけると、重たい証拠品を背負って運び始めた。
 これから始まるであろう、真犯人との決戦のバトルフィールドへ。


 夜明け前の最も暗い闇の中、人里の南西の端、東城家の離れの入り口に、二つの人影が近付いてきた。
 一人が離れの木戸に手をかけ、からからと音を立てて開く。
 彼女は建物の中で待っているであろう少女に声をかけた。
「ごめんね魔理沙ちゃん。着替えに時間がかかっちゃって」
 東城可澄は変わらない笑顔で微笑んだ。
「気にするな。こんな時間に呼び出した私も悪い。ところで、もうあの部屋から出て来ても良いのか?」暗闇の建物の中から、霧雨魔理沙の声が問う。「妖気が漏れてるぜ」
 可澄は無感情に言った。「良いでしょ、もう」
「それもそうだな」魔理沙が入り口の明かりのそばまで歩み出る。「もう終わりだ。あんたも出てこいよ」
 可澄の後ろから、辰彦が姿を現した。
 魔理沙は二人を指差し、そしてこう言った。
「一昨日の夜、この離れで東城惣兵衛を殺害した犯人は――、辰彦と東城可澄、あんたら二人だ」
 名指しされた二人は何か反論するでもなく、ただ受け入れるように目を伏せた。
 可澄はいつもと変わらない調子で言った。「どうしてそう思ったのか、聞いても良いかな?」
「その言葉を待ってたぜ」魔理沙が再び暗い部屋の奥へ歩いていく。「少し長いが、すべてを話して聞かせてやる。お前らの知ってることも、知らないこともな」
 魔理沙は暗闇の中で立ち止まると、パチンと右手の指を鳴らし、空中に魔法の炎を灯した。
 先ほど魔理沙が運び出してきた、二体の証拠品の姿が浮かび上がる。
「これは……」可澄は少し驚いたようだった。「本当に、うちにあったのね」
 そこに立っていたのは、十五年前に行方不明になって以来発見されていなかった、あの荒巻兄弟の死体だった。
「こいつはキョンシーというやつだ」魔理沙が死体を横目に説明する。「勉強熱心なあんたなら知ってるだろうが、見るのは初めてだったかな? 私はもうちょっと出来の良いのを見たことがあるんだが……こいつらはもう、思考する能力も残ってないみたいだな」
 可澄は何か納得がいったのか、黙って魔理沙の言葉に耳を傾けていた。
「私がこいつの存在に気付いた切っ掛けは、二階の倉庫で清めてあった餅米だ。昔外の世界の本で読んだんだが、餅米はキョンシーの毒を治療したり、ぶつけてダメージを与える効果があるんだそうだ。
 ただ実際には、それは外の世界の創作物の中で生まれたフィクションであって、本物のキョンシーに効果があるのかはよくわからんようだ。でも、知識欲の旺盛な郷士郎はとりあえず試しておいたんだろうな」
「もしかして……」可澄の表情に、微かに興奮のような色が浮かぶ。「あの箱に入ってたお米かぁ……!」
 魔理沙はニヤリと笑ってみせた。
「――すべての始まりは十五年前、反妖怪主義者の筆頭だった荒巻正藏が、山の崖下で死体になっているのを発見されたことだった。
 これはあくまで私の憶測に過ぎないが、その事件が起きたあと、人間の妖怪退治屋だけでなく妖怪たちも冤罪を恐れ始めたということから、恐らく正藏の死は本当にただの事故だったんじゃないかと思う。大方、酒でも飲んで酔っ払ったまま意気揚々と妖怪狩りに出かけて、崖から足を滑らせたんだろうぜ。
 しかしながら、当然そうは思わないやつも多かった。荒巻家の長男と次男――つまり惣兵衛の兄たちもその口だ。
 元々正藏から反妖怪主義を叩き込まれていたであろう兄弟は、父親を殺したのは妖怪に違いないと決め付け、復讐の妖怪狩りを敢行した。手近な魔法の森に踏み入った二人は、そこで出会った葦之丞という妖怪に問答無用で襲いかかり……返り討ちに遭った。
 焦ったのは葦之丞の方だった。この幻想郷では、妖怪が里の人間を殺すことはいかなる場合でも許されない。まず極刑だ。私がやつの家を訪れたときのあの異常な怯えようも、そのときのトラウマによるものと考えれば納得できる。
 弱り果てた葦之丞は藁にもすがる思いで、里の人間の中でも人妖の宥和に積極的と噂されていた東城郷士郎に泣きつき、自身の正当防衛を主張して、殺人の罪を隠蔽してくれるように頼み込んだ。
 郷士郎は葦之丞に同情したんだろう。森で動かなくなってしまった荒巻兄弟を道術でキョンシーに変え、他の妖怪に探られる心配も少ない自宅に連れ帰って隠すことにした。十五年前、魚屋の喜助が聞いたという、何かを地面に叩きつけているような音とは、キョンシーが飛び跳ねながら移動するときの足音だったんだ。
 元々キョンシーというのは、客死した人間の死体を故郷に輸送するための手段として開発された術だという説もある。見つかっていない死体、森から東城家まで移動する音、道術に秀でていた郷士郎……永琳のような頭脳の持ち主なら、これらのヒントからでも十分に真相に辿り着けていたかもしれんな」
 可澄は感心したように聞き入っている。魔理沙が語った情報は、彼女にとっても初めて触れるものだったのだろう。
「一つだけ今もわからないことがある。それはあの良識派の郷士郎が、どうして死体の隠蔽にキョンシーなどという死体を弄ぶような術を選んだのかということだ。郷士郎が死んだ今となっては誰にもわからないし、実際にこうして死体がある以上、考える必要など無い『ホワイダニット』だがな」
 魔理沙はひと呼吸置いて、事件の続きを話し始めた。
「死体を運んでしばらく経ったある日、郷士郎にとって予想外の事態が起きた。まだ幼かった孫の奈々子が何かの拍子に、離れに隠してあった二体のキョンシーを見つけてしまったんだ。
 郷士郎は一時的にキョンシーを別の場所に移しておき、急いで屋敷を改築して隠し部屋を作った。目の届く自室のすぐ側にキョンシーを隠しなおすことで、二度と発見されないようにしたわけだ。
 死体を見てしまった奈々子に対し、郷士郎は上手く言いくるめようとしたのだろうが、奈々子の不信感を払拭することはできなかった。すぐには気付かずとも、奈々子が成長するに従って、どこかのタイミングであの二体の死体が行方不明になっている惣兵衛の兄たちだということにも勘付いたんだろうな。
 稗田家で話していた内容から察するに、奈々子は自分の祖父の郷士郎が、荒巻家の兄弟を殺害した張本人だと思い込んでしまっていたんだろう。
 そしてそのことが、新たな殺人事件に繋がる遠因となってしまった」
 魔理沙はちらりと可澄たちの方を見た。
「……初めの事件から十五年も経った今、どうして再び悲劇が起きたのか? これには明確な引き金があった。それは……あんたら二人の結婚が決まったことだ」
「私たちの……?」可澄は予想外という顔をした。
 魔理沙は帽子のつばを少し下げ、二人への目線を隠した。
「東城奈々子は元々郷士郎に不信感を持ち、幼少期に不可解な死体を見たトラウマもあって、妖怪や魔法のような力が大嫌いだった。それは同じ家に住む辰彦に対しても例外ではない。
 奈々子は恐らく、辰彦が姉と結婚することで、東城家の財産を得体の知れない妖怪に奪われるのが我慢できなかったんだろう。
 どうにか結婚を阻止できないかと考えた奈々子は協力者を得るため、夫の惣兵衛にある秘密を打ち明けた。惣兵衛の二人の兄が郷士郎によって殺害され、今もその死体がこの屋敷に隠されている……という、半分間違った事実をだ。
 恐らく奈々子の計画では、被害者の弟でもある惣兵衛が事件の真相をネタに郷士郎を脅し、東城家全体を思い通りにできるよう仕向けたかったんだろう。
 しかし惣兵衛は、ここで考えうる限り最も最低な行動に出た。歳の離れていた兄よりも育ての親である郷士郎を慕っていたからなのか何なのか、理由はよくわからんが、とにかく惣兵衛は、このネタを郷士郎を脅すことには使わなかった。そしてあろうことか……義姉であるあんたを脅して、無理やり関係を迫ったんじゃないか?」
 魔理沙の言葉が鉛のように、重く鈍く染み入ってゆく。
 可澄は無言のまま、小さく頷いた。
「……こいつは女癖が悪いとかいうレベルの話じゃない。殺人を肯定するわけではないが、殺されても文句は言えんだろうと、私は思う。
 惣兵衛は運も悪かった。祖父のスキャンダルを盾にこの離れであんたのことを脅していた最中に、厠にでも行こうとしたのか、偶然辰彦が通りかかった。
 恩人の郷士郎と婚約者の可澄がおびやかされている。動機は十分だ。辰彦は衝動的に惣兵衛の頭を背後から殴り、惣兵衛は何を想う間もなく即死した。
 あんたたち二人の間でその後どんな会話が交わされたかは知るよしもない。ただ、何を行ったかははっきりとわかる」
 魔理沙は可澄一人の方を向いて語りかけた。
「里の人間を殺した妖怪は処刑される。辰彦の命を救うためには、この犯行が辰彦によるものではありえないという偽の証拠を作る必要があった。
 あんたは脳を飛び散らせて動かなくなった惣兵衛の傍に跪いた。
 そしてその腕を拾い上げ……、そっと歯を立てた」
 魔理沙は可澄の両目を正面から見た。可澄は何も言わないが、その目はたしかに語っていた。それで正しいと。
「人が人を食うなんて普通なら考えられん。後頭部の致命傷もあることだし、まず妖怪の仕業として疑われることはない。あんたはそう考え、そして実行した。
 まだ温かい皮膚を強靭な意志で噛みちぎり、肉を噛み潰し、そして飲み込む。……にわかに信じがたいことだが、あんたの部屋の様子からも垣間見えたあの狂気的とも言える執念、それがこの犯行を可能にしたとしか言いようがない。
 おそらく数時間かけて十分な咬傷を遺体につけたあんたは、頃合いを見計らい、さも今この瞬間に死体を発見したかのように悲鳴を上げて人を呼び、気を失ったふりをして、被害者の血溜まりの中に顔面から倒れ込み――」魔理沙は足元にまだ残っている、掠れた血溜まりの跡を指差した。「口元の証拠を消した」
 可澄は少女のように目を輝かせて言った。「凄いわ。全部合ってる。なんでも屋さんって、本当になんでもできるのね」
「言い忘れそうになったが」と魔理沙が補足する。「森の方に逃げて行く妖怪を見たなんていうのは、当然あんたの狂言だな。そのあと葦之丞が東城家に来ちまったのは完全に偶然だ。まったく、つくづく運の無いやつだぜ」
 そこにずっと黙っていた辰彦が出てくると、相変わらずの落ち着いた声で話しだした。
「自分が惣兵衛さんを殺してしまったあと……、可澄さんは自分に、『私に考えがあるから、あなたは返り血のついた着物をどこか遠くに埋めてきて』と言いました。
 自分はどうしていいのかわからず、彼女の言うことに従いました。そして着物を埋めて戻ってくると、彼女は既に、惣兵衛さんの肉をいくらか飲み込んでしまったあとでした。
 自分はもう引き返せないのだと悟り……、彼女に言われたとおり、一人で部屋に戻りました」
 話が一区切りつき、しばしの沈黙が場に降りる。
 やがて仕切り直すかのように、魔理沙が話を再開した。
「……続けるぜ。ここまでが一日目の事件の真相だ。あとはもう難しいところはないが、二日目の郷士郎毒殺事件も解決しておかなきゃな。
 これは今まで説明してきた話を纏めれば簡単に答えが出せる。恐らく郷士郎はかなり早い段階で、惣兵衛殺しに孫の可澄が関わっていたことを見抜いていたんだろう」
 辰彦が口を挟んだ。「事件の当日、巫女様が帰られたあと、自分からも説明をしました。確かに郷士郎様は、初めから真相を見抜いておいででした」
 魔理沙は納得したように頷いた。「郷士郎の死因は自殺だよ。孫のあんたを庇おうとしたんだ。
 恐らくあんたの犯行を知った瞬間から覚悟はしていたんだろう。自殺する前日の夜、郷士郎は遅くまで起きていたと奈々子が言っていた。特製の毒薬を作っていたんだろうな。
 郷士郎は心を読む妖怪が来る予定だと私に聞かされ、もう時間が残されていないと悟った。辰彦が霊夢と一緒にいることを私の言葉から確認した郷士郎は、私に可澄のことを見てくるように言い、さりげなくあんたら二人のアリバイを確保した。
 そして隠し部屋のキョンシーを静かに自室まで運び、命令をした。自分の心臓が止まったらその体の一部を食い、数分経ったら部屋の壁を破壊して、また隠し部屋に戻るように、とな。壁の破壊音のあとに響いてきた例の足音がその証拠だ。
 そして郷士郎は自分が妖怪と戦おうとしていたように見せかけるため、床の間に飾ってあった日本刀を握ったまま、毒を飲んで死んだんだ。……本当に嘘が下手な爺さんだよ。キョンシーを部屋に運び込むときにどけた隠し扉の前の屏風も、不自然な倒れ方をしたままになっていたしな」
 可澄は寂しそうに目を瞑った。
「こうして郷士郎は、一連の事件が外部の妖怪の犯行であるように見せかけた。わざわざ私に『すべての妖怪が容疑者だ』なんて刷り込んでな。
 そしてここからわかる郷士郎の本性は……決して人妖宥和論者なんて大それたもんじゃあない。あの爺さんはただ、自分の目の前にいる相手が見捨てられなかっただけなんだよ。そいつが人間だろうと妖怪だろうと、関係無くな。それが周りの人間からは、人と妖怪の間を取り持つ先進的な姿として映ってしまったんだろうな。
 ……本来なら、この工作によって東城家の人間は容疑から外れ、捜査は暗礁に乗り上げるはずだった。しかし蓋を開けてみると、なんとさとりの来る予定はむしろ早まった。郷士郎の計画が裏目に出てしまったんだ。こればっかりは――霊夢の勘ばっかりは、どうしようもない」
 ここまで黙って話を聞いていた可澄が、不安げな様子で言う。
「奈々子が警察に連れて行かれたと聞いたんだけど……」
 それを聞いて、魔理沙は「忘れていたぜ」とでも言いそうな顔になった。「ああ、奈々子も運が悪かったな。恐らく奈々子は、惣兵衛殺しの犯人も郷士郎だと思い込んでいたんだ。惣兵衛が郷士郎ではなく可澄のことを脅しに行くなんて、嫁の奈々子に言うわけがないからな。
 奈々子からすれば、かつて夫の兄弟を殺した祖父が、そのことで脅してきた夫までをも容赦なく殺害したようにしか考えられない。だからもう自分の手で殺してしまうしかないと思って、薬屋で毒を買ってきたんだろうよ。勘違いとはいえ、その心境は地獄だったろう。同情するぜ。
 ただ、すぐにでも釈放されるはずだ。私がさっき、件の薬屋を見つけて話を聞いてきたからな。奈々子が買っていった毒薬は附子の毒だった。永琳が検出したのとは別のものだし、完全に心臓が止まるまでにも少し時間がかかるから、奈々子が犯人ということはありえないというわけだ」
 魔理沙の話が終わり、東城邸には静けさが満ちた。
 東の空がうっすらと白み、離れの周りに朝靄が漂い始めている。
「さて……」魔理沙は帽子のつばをくいっと上げた。「前置きはこんなもんか」
「前置き?」逆光気味になっていることもあり、可澄の表情からは感情が読み取れない。
「とぼけるんじゃあない。まだ明かされていない秘密があるだろう」魔理沙はようやくこの話ができると、どこか楽しんでいるようにも見えた。
「……東城可澄は婚約者の辰彦の命を守るため、義弟である東城惣兵衛の死体を食った。だが、本当にそれだけだったのか? 食人という禁忌を犯したことには、実は別の目的があったんじゃないのか?」
 可澄の長い黒髪が、風も無いのにそよいでいる。
「人を食った獣は妖獣になることもあるらしい。では、人を食った人は何になる……?」
 山の稜線に太陽がかかり、空が真っ白に輝いた。
「――東城可澄、あんたはもう人間じゃない。退治されてしかるべき、立派な人鬼だ」
 激しく渦巻く逆光の中、可澄は声も無く笑っていた。
「……私や霊夢があんたの正体に気付けなかったのは、あの部屋に集められた妖魔本が発する魔力にあんたの妖気が紛れ込んでいたからだ。だが、ずっと一緒に暮らしていた郷士郎は一目で気付いただろうな。すっかり騙されたぜ。
 あんたのことだ。人を食った生き物がどうなるかなんてことは重々承知していたはずだろう。にもかかわらず、あんたは迷わず人間をやめた。それはなぜか?
 その答えは保険だ。あんたは自分たちの犯行がばれ、こうなったときのことを考えていた。幻想郷の禁を破った辰彦を自分自身で守るため、あんたは一人でも戦える力が欲しかった!」
 魔理沙はスカートの中からミニ八卦炉を取り出した。
「……さあ、私があんたたちのラスボスだ。始めようぜ」
 刺すようだった曙光がやわらぎ、離れの中は相対的に薄暗くなった。
 可澄と辰彦はしばらく立ち尽くしたまま、魔理沙の呼びかけに答えようとしなかった。
「……どうした?」魔理沙が尋ねる。「戦い方がわからないのか?」
「違うよ、魔理沙ちゃん」可澄は地面を見つめながら言った。「魔理沙ちゃんの推理、一つだけ間違ってるの」
「なに……?」
 辰彦が口を開く。「自分たちは……少し前、信用できる方に、手紙を書きました。自分と可澄さんの犯行のすべてを、自白する手紙をです。さとり……というのは、心を読む妖怪のことですよね。そんな妖怪が連れてこられれば、自分たちはもう、終わりだからです。手紙は既に、届けられていることでしょう」
 魔理沙の認識が少しずつ崩れ始めた。
「私たちはね、誰とも戦うつもりなんてないんだよ」可澄が優しい声色で言う。「私たちがこれから向かうのは、博麗神社。私たちはこれ以上、規律を乱したくないの」
「まさか……」二日間フル稼働していた魔理沙の脳が、この最後の謎に答えを出した。「あんたが人間をやめたのは……」
 可澄は後ろを振り返り、白い朝日の中に歩を進める。
「その力で、辰彦と共に戦うためじゃなく……」
 歩き出した可澄の後ろを、辰彦がついていく。
「辰彦と一緒に、殺されるためなのか……?」

『本当に好きな人に出会って……。この人と一緒なら、死んじゃっても良いって思えるような気持ちが』

 可澄は足を止め、少しだけ振り返って微笑んだ。「いつかわかるよ。魔理沙ちゃんにも」
 二人が離れから遠ざかって行く。
 どこか清々しさすら感じるその背中を、魔理沙は直視することができなかった。
「待てよ」
 可澄と辰彦が立ち止まる。
「お前ら……何にもわかってないな」魔理沙が下を向いたまま呟いた。「……これほどまでにむかっ腹が立ったのは、生まれて初めてかもしれん」
 可澄が心配そうに眉をよせ、一歩魔理沙に近付いた。
「いつかわかるだのわからないだの……規律だの仕事だの、自然な仕組みだの……! 的外れで勝手なことばかり言いやがって……!」
 魔理沙は八卦炉を両手で構え、可澄と辰彦に向かって突きつけた。
「――アイツは‼︎ お前らのための練炭じゃねえって言ってるんだ‼︎」
「――‼︎」八卦炉の角が陽光を反射し、見開かれた可澄の瞳に星を宿した。「危ない‼︎」
 その瞬間、今までぴくりとも動く気配の無かった二体のキョンシーが跳ね動き、魔理沙の両腕を押さえつけた。
 弾かれた八卦炉が手から離れ、土間の石床に滑り落ちる。
(動いた⁉︎ 何の命令で――)
 魔理沙の脳裏を郷士郎の声が掠める。

『次に死ぬのは私の番だと。そして私が死んだあと――』

(――あの爺さん……っ‼︎)
 キョンシーは今にも魔理沙の首筋に噛みつこうとしている。
「魔理沙ちゃん! 逃げて!」可澄が魔理沙に走り寄る。
「……人の心配をしてる場合じゃないぜ」魔理沙は動かすことのできない腕に力を込めた。「なんたって、お前らは今から、ここで死ぬんだからな……!」
 何かを察し、辰彦が可澄の体を後ろから抱き寄せた。
「この屋敷にこびりついた歴史……、欺瞞も血も、愛憎も規律も、全部――!」魔理沙は右手の指を高らかに鳴らした。「私がまとめて焼き祓ってやるよ‼︎」
 床に落ちていたミニ八卦炉に膨大な魔力が流れ込み、天に向かって虹色の炎が立ち上った。
 炎は赤や黄色に色を変え、離れの壁を舐め尽くしていく。
 まるで意思を持ったかのようなその炎の龍は母屋にも飛びかかり、あっという間にそのすべてを腹に収めた。
 人里に白い朝日が昇るなか、東城邸は美しく燃えていた。



 博麗神社。
 幻想郷の東の境にあるその神社で、紅い巫女服を着た少女が唸っていた。
「どうなってるのよ、一体!」霊夢が新聞の記事に向かって吼えた。「東城邸が全焼⁉︎ 殺人事件の犯人は可澄と辰彦⁉︎ 私が寝ている間に何が起こったのよ!」
 魔理沙は笑って言った。「何が起こったもなにも、新聞に書いてある通りだろ」自分が持ってきた号外を広げて読み上げる。「今日未明、人間の里の名家として知られる東城邸で火災が発生。火元は離れと見られるが、母屋にも燃え移り全焼した。東城邸自体が比較的僻地に建っていることや、幸いにも風の無い日だったため、他家への延焼被害は起こらなかったもよう……」
「そんなことよりも、ここよ、ここ!」霊夢は新聞紙の真ん中辺りをびしばしと指差した。「離れからは年齢、性別不明の焼死体が二体発見された。先日発生した殺人事件への関与を自白する遺書のような手紙が稗田家に送られていたことから、遺体は同家に住む東城可澄さん、辰彦さんのものである可能性が高いと見られる……」
 魔理沙は遠くを見ながら言った。「ああ、残念だったな」
 霊夢は行き場のない怒りが収まらないようだ。「残念だったな、じゃないわよ! 惣兵衛殺しの犯人が辰彦で、その死体を可澄が食べて偽装したってとこまでは良いけど、郷士郎を食った妖怪が不明のままじゃない!」
「それはだな……」魔理沙は口をもごもごしながら答えた。「東城郷士郎は自殺だったんだよ。永琳が言っていた薬の成分はその辺の店で売ってるものじゃないから、仙術や薬学に通じていた郷士郎が自作したに違いないんだ。そして、孫の犯行の責任を感じて服毒自殺した郷士郎の遺体を……偶然通りかかった妖怪が食っちまったんだな」
 霊夢は「はぁ?」と言いたそうな顔をしている。
「人間を殺した妖怪は罪になるが、死んだ人間を食っても罪にはならん。だから郷士郎の遺体を食った妖怪を探す必要は、もう無い」
「そ……そんなことって」霊夢は愕然として新聞を取り落とした。
「東城奈々子の冤罪も晴れたし、この事件はこれで終わりだ。さとりを呼びに行かなくて済んで、まあ良かったんじゃないか」
「いや……でも、何か忘れてることがある気がするんだけど……」
 霊夢は新聞記事を穴が開くほど眺めながら、「辰彦……死体……煙……?」とぶつぶつ呟き続けている。
「……ていうか、あんたそれ、さっきから何食べてるの?」霊夢が新聞から顔を上げ、魔理沙がずっと口に咥えていたものに疑問を持った。
「ああ、これか?」魔理沙は口に咥えていた棒を取り出して見せた。「なんか知らんが、そこの賽銭箱の裏に落ちてたのを拾ったんだよ」
「あっ! ちょっと! それって私への奉納品ってことじゃないの!」
「神様への、じゃないのか?」
「どっちにしても、あんたは神様じゃないでしょ!」
「まあそうキーキー言うなって。二本落ちてたから、一本やるよ」
 魔理沙はそう言って、霊夢に赤い棒付きキャンディーを手渡した。
 あれほど煩かった蝉の声も、あともう数日で聞こえなくなるだろう。
 博麗霊夢は甘くて平べったいキャンディーを口に頬張り、上機嫌になった。
追記:エピローグに最後の秘密が隠されている気がします。ぜひ解いてあげてください。ただし、霊夢には内緒で……。
簡易評価

点数のボタンをクリックしコメントなしで評価します。

コメント



0.150簡易評価
1.90名前が無い程度の能力削除
面白かったです
2.100岩塩削除
丁寧に張られた伏線とその回収が読んでいてとても気持ちよかったです。魔理沙の言動も面白くて可愛くて、終盤にはキチッと事件を解決に導いていたのがカッコよくて好きです
それにしても、2人分のキャンディーを残していったのは一体誰なんでしょうね
3.90奇声を発する程度の能力削除
良かったです
4.100上杉蒼太削除
とっても面白かったです! 一気に読んでしました。
5.100名前が無い程度の能力削除
面白かったです。
まずミステリ面ですが、変にミステリ風を前面に出した書き味なっておらず、自然な形で謎の提示から謎解きまで読むことができたのが良かったです(その上で、正統派な読み味だったのが好きでした)
メインをホワイダニットに据えたことにより、「本質的にファンタジー世界だとハウダニットって何でもありだよね」という問題が解消されていたように思います。その上で伏線をしっかり張っていたうえでのハウダニットの回収があり、構図として綺麗だったように思います。一方、「何かを床に叩きつけているような音」がキョンシーの移動音だった、という繋がりには個人的には少々違和感を覚えてしまいました。(繋がりがおかしい、ということは全くないのですが、もう少し単体でもキョンシーの移動音だとわかるようなワードチョイスだったら好きだったなあという好みの話ではあります)
キャラクター面ですが、妖怪退治を仕事と捉えている時代の幼い霊夢の描写がまずよかったです。本編は現代原作時間軸のようなのでそのあたりの気持ちは変わっているあとかなと思いきや、まだそれを引き摺っているようで……そのあたりを理解している魔理沙の様子も良かったです。
中盤の霖之助のくだりもあり、魔理沙の描写がどちらへ向かうのか勝手に不安になってしまったのですが……最終的には「霊夢のため」という着地になっていた(ように見えた)のが勝手ながら好きでした。年上は魔理沙の心配をして霊夢に任せよと言う。魔理沙はそれに反発はするが、その理由は魔理沙が侮られたことではなく、霊夢にあった、という流れが良かったです。
霊夢との関係以外にも、どう考えても守られる匂いにしないぷらいばしぃのくだりも魔理沙らしくとても良かったです。あとゲスト出演的に現れて勝手に楽しんで誤認逮捕して帰った様子のおかしい小兎姫が好き……。
個人的には、幻想郷のルールの扱いが、「理由があってルールがある」のではなく「まずルールがあるのでそれは絶対に守られなければならない」ように感じ、少々違和感を覚えてしまったのですが(正当防衛なら流石に普通に許されそうな気もする、ような)、そこはミステリという骨子を成立させるための厳格な定義化として機能していたので、これはこれで良かったように思います。
最後の最後のオチは一読で読み取れなかったのですが……とても良いと思いました。最終版、霊夢のためとはいえ魔理沙があんな形で全てを燃やすか……? と感じていましたが、なるほどと腑に落ちて気持ち良く読了することができました。
また全体として読みやすく、序文から本文に入るまでのスムーズさもとても良かったと思います。
有難う御座いました。
7.90名前が無い程度の能力削除
霊夢も魔理沙もどこかエンタメ感覚で取り組んだ殺人事件ですが、現実の殺人事件なんて全然楽しくない陰惨なものだよねというのがよくよく伝わりました。魔理沙はそんな現実を見せつけられたわけですが霊夢はなんかクリスQの小説感覚のままで終わってしまったのは天衣無縫が守られたというべきか未だ殺人事件に幻想を見続けているというべきか、なかなか複雑な感を抱きました。あいつをお前らの練炭にするんじゃないという怒りはごもっともですが、そこで自分が練炭を務めてしまう魔理沙も、いかにもそれらしくありつつやるせない印象でありました
9.100深雪野深雪削除
まず、東方創想話における「ミステリ」というタグを存続させたこの作品に最大限の敬意を表したいと思います。why done itが前面に出されるタイプのミステリは、探偵の万能性という推理小説が抱える構造上の問題があると思うのですが、それをやがて浮かび上がる動機の転換と、上手いhow done itによって乗り切ったのは非常に良かったと思います。伏線の一つ一つは思うところは少しあれど、綺麗だと思います。そもそもファンタジーとミステリーは鰻と梅干みたいなもので、非常に扱いが難しい組み合わせですから、その中で作品を成立させたことが一番素晴らしい点だと思いました。ありがとうございました。
10.100東ノ目削除
ミステリとして面白いのもそうなのですが、人間と妖怪との関係や人里のあり方に対して、既存キャラの役割を殺さない範囲で上手くオリキャラを仕込んで納得のいく答えの一つを提示しているバランスが見事だと思いました
11.100のくた削除
面白かったです。旧家ミステリのお約束「全部燃える」をクリアした魔理沙偉い。最後のキャンディのオチも良い。途中の阿求が妙に怪しげだったのも良い
12.100夏後冬前削除
めちゃくちゃ面白かったです。若干ゲゲゲっぽい因習村の雰囲気を感じたりして身構えましたが、内実、この物語を構成しているものが優しさであるのが魅力的でした。幻想郷を舞台にしてミステリとして成立させている手腕も圧巻の一言でした。
13.90ひょうすべ削除
おもしろかったです。
14.100南条削除
面白かったです
悲喜こもごもの愛憎物語が広がって収束する構成が最高でした
素晴らしかったです
それにしても霊夢も魔理沙もうっきうきで殺人事件を捜査していてとてもよかったです
15.100名前が無い程度の能力削除
面白かったです。全部掌の上で転がされた感じがします。とにかく登場人物の動機づけが丁寧で、犯人あての流れから全部一つに収束する感じが美しかったです。
16.無評価ねつ削除
気づいたら読み終わってしまうほどとても面白かったです!
追記を見るまで気づかなかった…
17.100ねつ削除
点数入れ忘れです!
18.100福哭傀のクロ削除
東方でのミステリーというトップクラスに難しいジャンルをこの高いレベルで書き上げるのはちょっと真面目にすごいなと……!個人的にはミステリーは読みながら解くタイプではないので、読者が一緒に推理できるような整合性云々はよくわからない人なのですが、少なくてもエンタメとして間違いなくおもしろい。被害者、過去の事件の関係者、複数の容疑者と結構オリキャラ出てきてるはずなんですけど、途中で誰だっけこいつ……ってならないのが地味にすごい。滅茶苦茶守備力の高い文章作品、お見事でした
19.100Elis削除
東方のミステリーとしてちょうどいいバランスと綺麗な構成、そして最後の謎が解けたときに全て繋がる爽快感。傑作です。
21.100名前が無い程度の能力削除
まいったな……