八雲(やくも)。私の姓に、自身の業を表す意味が加わったのは、博麗大結界を張った夜のことだった。
——
——
——
明治初期、鎖国が終わり、文明開化と称されて西洋の科学が持ち込まれると、いよいよ妖怪の存在は危うくなった。
多くの妖怪は、人間に恐れられて存在する。例えば、疫病や災害を引き起こす妖怪は、人間が作り出したものだ。そうすることで、身の回りの不幸を妖怪のせいにして納得できるし、対象を退治したとして、擬似的に問題を解決することもできる。無知な人間にとっては、それが精神の安寧のために必要だったのだ。
ところが、科学が発展したらどうなるか。疫病は医学によって、災害は地球科学によって解明されれば、妖怪は不要になるだろう。
これは私にとっても例外ではない。神隠しの主犯、超常現象を説明する対象として、境界の操作という神に等しい能力を偶然にも手に入れた。それを最大限に活用し、森羅万象を知って気づいたのは、自分は幻想であり、本来存在するはずがないということだった。
最近では、海の外の人間が電磁気についてかなり正確に説明して見せた。このまま他の力についても理解が進み、もし、それらを統一する理論が構築されたなら——
——私は消失するのだろう。
いや、消失すべきと言っても良い。神隠しは説明され、超常現象は常識となり、私は不要になるのだから。
確かに、真理への道はまだ長い。しかし、ほんの数百年前まではまったくの無知と言って良かった人間が、ここまで加速度的に発展するのは想定外であり、圧倒的な恐怖だ。
……恐怖。死にたくない、消えたくないと思う心。地上に生きるすべての生物が負った穢れ。実に千年以上生きてきた私でさえ、その理の内にある。人間の恐怖から生まれた私が、逆に人間を怖れるとは、なんて皮肉だろうか。
ここまで考えて、私は1つの構想に辿り着いた。
私を恐怖する人間を、閉じ込めてしまおう。彼らから知恵と発展を奪い、妖怪の恐怖のもとへ置いてしまえば良いではないか——
——
——
——
そこからの行動は早かった。
必要なのは、一種の結界だ。妖怪を信じない人間がこれからの常識となるならば、それを外とし、その逆を内とすれば良い。つまり、非常識を内、常識を外とする結界である。これにより、妖怪を信じる人間や妖怪そのものは、外の世界の非常識なので内、つまり結界から出られない。逆に、妖怪を否定する都合の悪い常識は外であり、結界の内に入れない。
詳細な設計には2年掛かった。常識と非常識の境界を決めるというのは、妖怪それ自体を再定義するようなものだ。妖怪である私自身がそれを行うのは、自己言及と矛盾に満ちた難解な作業だった。
設計を式として組むのには3年掛かった。人間の常識は絶えず変化していく。結界は、その変化に自律して適応しなければならない。そのための算法は、間違いなく、有史以来で最も緻密かつ複雑なものになった。
式の修正には4年掛かった。単純な書き間違いも多かったが、そもそもの思い違いによる重大な設計ミスが数回発生し、生まれて初めて頭を抱えることとなった。連日の、睡眠を削っての作業が影響しているようだった。
結界を張るための妖力の確保に、さらに1年必要だった。ここまで寝る間も惜しんで作業してきたはずなのに、うまく眠れない日々が続いた。
同時に、関係各所への打診も進めた。
まず、妖怪側への説明を行った。各勢力の代表者、有力者、賢者と呼ばれる者達を順に尋ねて、根気よく説明していった。多くの面々は、自分達の存在を強固にするためならばと提案を受け入れた。一部からは、自由な出入りが不可能となることを理由に、最後まで反対された。しかし、たとえ反乱されたとしても、鎮圧できる程度だと判断した。
次に、人間側への説明を行った。里の代表者、権力者、人格者などに説明を行ったが、皆反対した。「なぜ閉じ込められなければならないのか」というのはもっともな疑問だった。生活水準の現状維持は絶対で、可能な限りの向上を約束すること、人里を安全地帯とし、妖怪の出入りを禁止することなどを提案したが、混乱は大きくなるばかりだった。最終的には、博麗の巫女に仲裁へ入ってもらい、事態を収拾して同意が得られた。
——
——
——
明治18年、私は博麗神社の境内に1人で立っていた。結界の構想から10年。科学は急速に普及し、ほぼ常識となりつつある。旧知の妖怪勢力は、どこも弱体化が著しい。もはや猶予は無い。
今夜は満月だが、曇天が一切の光を通さない。離れたところで、巫女がこちらを見ている。
私は意を決して叫んだ。
「式『博麗大結界』!」
直後、強い衝撃音と烈風。史上最大の術式が動き始めた証。
駆動する何千もの部分式を睨みつける。目まぐるしく変化する状況。最大限に集中し、僅かな違和感も見逃さない。
大部分の仕掛けは予定通りに作動している。一部の設定値に誤りが発覚。しかし、自律適応が瞬時に訂正した。工程は正常に進行している。
雲はより分厚くなり、うねるようだ。
自己診断が終わり、大結界は、いよいよ広範囲への展開を開始した。妖力の消費が想像以上に凄まじい。思わず立ちくらみそうになるが、地面を踏みしめて耐える。
結界は空と大地に希釈され、もはや五感では感じられない。しかし、なおも大量の報告を術者へ送り続けている。
実際に展開してみると、些細ではあるが想定外の報告が上がってきた。いずれも、重大な結果に繋がらないことを、次々と検証していく。丁寧に、しかし迅速に。持てる能力の全てを発揮し、事態を掌握する。
ぽつり、と水滴が頬に当たった。雨が降り始めている。
やがて、結界からの情報の速度が低下し、ゆるやかになり、ついに停止した。
最後の、「管理者命令待機状態」という履歴が示すのは、大結界が主である私の命令を待っているということ。つまり、
「……起動は成功した」
後は、命じるだけである。結界は成立し、内と外を分かつだろう。
その時、冷たい風が吹き、雨が急激に強まるのを感じた。それはすぐに土砂降りとなり、やがて地上の全てが水没するのではないかという程の猛烈な勢いになった。
原因は分かっている。龍神、この土地の最高神の怒りに触れたのだ。
——結界を構築するまでの10年間、常に考え続けていたことがある。それは、「そもそもなぜ私は、この大掛かりな仕掛けによって人間を幽閉してもなお、妖怪を存続させたいのか」ということだった。
自身が消えたくないから、という思いはもちろんある。私も地上に生きる以上、穢れの理からは抜け出せない。しかしそれだけなら、これほどまでに壮大な計画は必要ない。せいぜい、人間達の統一理論の構築を邪魔すれば良いだけだ。
何年も自問を繰り返し、最終的に達した結論は、私に愛するものがあるから、ということだった。
つまり私は、「妖怪と人間」という関係性を愛しているのだ。
これは残酷な話だ。妖怪が人間を襲い、人間が妖怪を退治するという、古来より連綿と続いてきた血の歴史を、なおも続けていくことに他ならない。
しかし一方で、多種多様で、時にはおかしくて笑ってしまうような幻想的存在達のことを、私はどうしても嫌いになれないのだ。海坊主や木霊(こだま)などの妖怪は、自然への畏怖や信仰、感謝といった人間の強い想いが具現化したものだ。そうかと思えば、小豆洗いや天井なめのような、日常の些細な変化に対してすら、存在を見出された者達がいる。
私は、そのような存在を創り出してしまう人間達もまた、大好きなのだ。万物に霊魂が宿ると信じ、八百万の魑魅魍魎を現実に産み出してしまった。その独創性と想像力が、堪らなく愛おしいのだ——
空では、天が割れるほどの雷鳴が響いている。
私は豪雨に濡れながら、龍神、土地、そして自分自身に対して宣誓した。
「照覧あれ! 我は、時代の危機に瀕す幻想と、その創造者を愛する者! そして、彼らを消し去る常識を忌避する者! 結界は、この土地を隔離し、彼らを保護する! 暫時は、混乱、紛争が予想される! 自由と発展を奪われる者達へは、多分の配慮が必要となるだろう! しかし、人妖双方に利する法を必ず構築し、ここに楽園を築くと誓う!」
ある歌を思い出す。
八雲(やくも)立つ 出雲(いずも)八重垣(やえがき) 妻(つま)ごみに 八重垣つくる その八重垣を
これは日本最古の和歌であり、アマテラスオオミカミの弟、スサノオノミコトが、妻との新居を建てた際に詠んだとされる。雲が湧く出雲の地で、妻を籠もらせるための垣根を何重にも造ろう、という意味である。私の姓である八雲は、元々ここから取ったものだ。
今日、私は、人間を妻として籠もらせ、ここに新しい居を構える。
人間に対しては、償っても償いきれない。私は、自由と近代文明を奪った首謀者として、愛する彼らから永遠に恨まれ続けるだろう。私にできるのは、彼らに謝罪し続けること。そして、せめて可能な限りの幸福な生活を用意することだけだ。
八雲という姓に、この業の意味を込めよう。名乗るたびに、今日の誓いを思い出せるように。
「八雲(やくも)紫(ゆかり)の名において、大結界に命ずる! 常識を否定し、非常識を肯定せよ!」
結界は幻想を取り込み始めた。
雨は相変わらず止まない。
「八重垣つくる その八重垣を——」
——
——
——
——
——
——
「みなさんって、好きな人はいますか!?!?!?」
うるさい。
私、博麗(はくれい)霊夢(れいむ)は、午前中に今日の仕事を済ませて、神社の裏にある縁側で午後のティータイム(といっても飲んでいたのは緑茶だが)を優雅に嗜んでいた。
そこに押しかけて来たのが、悪友で魔法使いの霧雨(きりさめ)魔理沙(まりさ)と、最近幻想郷に来た巫女仲間の東風谷(こちや)早苗(さなえ)である。暇だから遊びに来たらしい。
「どうなんですか!?!?!?」
早苗が言う。
「うるさい」
暴言がついに口から出た私が言う。
「急にどうしたんだよ」
魔理沙が言う。
「だって、うら若き女の子3人が集まってるんですよ! 恋バナするしか無いでしょう!」
というのが早苗の主張だ。
「そうなのか?」
魔理沙は懐疑的らしい。
「鯉花?」
私は意味が分かっていない。なんだ、鯉花って。
「ほら、魔理沙さんにはいないんですか? そういう人!」
「うー、えーっと……」
言葉を詰まらせている。
「その反応はいるってことですよね! 霊夢さんは知ってますか? 魔理沙さんの好きな人!」
早苗が目をキラキラさせながら聞いてきた。ああ、コイバナって、恋の話で恋バナって意味か。
「知ってるわよ」
「キャーーーっ!!! 誰!?!? イケメン!?」
「イケメンっていうかねぇ」
「霊夢ぅ……」
魔理沙が助けを求めるような顔でこっちを見てくる。見るな。
「何よ、秘密にしたいの?」
「そういうわけじゃないけどさ……」
「じゃあ教えてあげなさいよ」
「うぅ……」
「魔理沙さん! 教えてください! 私の知ってる人ですか!?」
すごいハイテンションだ。早苗がいるだけで部屋の気温が2、3度上がっているんじゃないか?
「…………アリス」
「……へ?」
早苗が固まった。
「……だから! 私の恋人はアリス・マーガトロイドだって言ってるんだよ!」
「え、えええぇぇぇぇ!?!?!?」
耳がおかしくなりそうだ。
「え、アリスさんって……あのアリスさんですか!?」
「そのアリスさんしかいないだろ!」
「だっ、だって! アリスさんって女の子……ですよね?」
「そうだよ!」
「魔理沙さん、妙に男の子口調だなって思ったら……!」
「誰が女装男子だ! 私も女だよ!」
「つまり……百合ってことですか!? はわわわわ」
百合?また花の話か。
「お、女の子同士って、幻想郷だと、その……一般的なんですか?」
早苗が私に聞いてくる。
「一般的、ってわけじゃないわよ。たまに人里の結婚式に巫女として呼ばれるけど、普通に男女だったし」
「ですよね……?」
「ただ、里の外だと人間以外にもいろんなヤツがいるでしょ? そっちはただでさえ種族が多いのに、そのうえ性別まで気にしてられないって感じなんじゃない?」
「はぁ……」
「実際、アリスは妖怪で魔理沙は人間だし」
「た、確かに……」
「とにかく、本人たちが幸せならそれで良いじゃない。気を抜くと、人前でもよくイチャイチャしてるもの。この前うちに来たときなんか、ちょっと話題が途切れるとすぐ見つめ合っちゃってさ。ねぇ? 魔理沙?」
「覚えてろ……」
魔理沙が涙目だ。ちょっとやりすぎたかもしれない。
「魔理沙さんとアリスさんが……ふむ、なるほど……」
早苗は何かを考えて、何かに納得したようだ。
「魔理沙さんとアリスさんはラブラブなんですね……! そう考えると、なんだかほっこりしますね! 霊夢さんにはそういう話は無いんですか?」
「……霊夢にそんなのあるわけないだろ」
先程の仕返しか知らないが、魔理沙が言った。
「……あの凶暴な霊夢だぜ? 例えば、いくら仕事だからって、目の前の妖怪を問答無用で退治するか? 普通は少しくらい話を聞くだろ。それにこの前なんか、金目のモン巻き上げて泣かしてたぜ。公私混同もいいとこだ。そりゃ鬼巫女って呼ばれるだろ。可愛げの欠片もない」
言い過ぎではないか。
「なるほど!」
早苗も失礼だ。
「じゃあ仕事以外はどうなのかっていったら、このだらしの無さだよ。毎日ぐーたらして、お茶飲んで寝てるだけ。おしとやかさの欠片もない。こんなヤツに恋人がいるか? いやいない」
「確かに!」
言わせておけば……。
「どんなヤツに対しても平等と言えば聞こえは良いが、それは誰かに思い入れがないってことだ。恋人どころか、好きなヤツすらいない。火を見るより明らかってやつだ。そうだろ?」
「いるわよ」
「は?」
失言だった。
つい、むっとして言い返してしまった。
「霊夢さんの好きな人……すっごく気になります……!」
早苗は両手で口元を抑えながら真っ赤になっている。
「霊夢に好きなヤツ? え? え?」
魔理沙は混乱して頭が真っ白という様子だ。
赤かったり白かったり、紅白は私の専売特許ではなかったのか?などと考えていると
「だれなんですか!?」
早苗が聞いてきた。
お茶をすすりながら答える。
「秘密よ」
「教えてください!」
「嫌よ」
「告白! 告白はしたんですか!?」
「しないわよ」
「そんな! 何でですか!?」
「脈なしだもの」
「わからないじゃないですか!」
「分かるの」
「諦めちゃうんですか!」
「最初から無理なこともあるの」
「でも……」
「それに、私には釣り合わないわ。高嶺の花ってやつよ」
「霊夢さん……」
「霊夢……」
「哀れんだ顔でこっちを見るな」
遠くでかすかに、シャッターを切る音がした。
——
——
——
私は自宅で新聞を読んでいた。
博麗大結界の管理は、今や式神の八雲藍(らん)に任せてある。かなり優秀だ。
もちろん、それ以外にもすべき仕事は様々ある。幻想郷内の紛争を仲裁したり、外からの移住者を手続きしたり、我々に害を及ぼす外部勢力を監視したり。また、定期的に人間の里を訪れ、生活に問題が無いか視察したり、困りごとがないか聞き込みしたりしている……相変わらず人間には嫌われているが。
しかし最近は、それらの問題がぱったりと止んでしまった。こういうことは稀にある。有り体に言って暇なのである。
「文々。新聞」は、天狗が書いている新聞で、暇つぶしに最適だ。この新聞には、それほど重要なことは書かれていない。記者がいつも「ネタ不足だ」と言っている通り、日頃の、本当に些細なニュースばかりが載っている。しかし、一息つくのにはぴったりだ。
私の大好きな幻想郷の、ちょっと面白い日常を読みながら午後のティータイムを優雅に嗜む。これが、ここ最近の楽しみである。
~~~~~~~~~~~~~~~~
文々。新聞 x月号
博麗の巫女に想い人発覚! そして失恋か!?
~~~~~~~~~~~~~~~~
「んぐっ!」
思わず紅茶を吹き出しそうになった。
~~~~~~~~~~~~~~~~
x月x日、博麗霊夢は、自宅で友人達と談笑中に、心に想う人物が居ることを証言した。
本人によれば、相手は高嶺の花で、脈なしであるため、想いは伝えないという。
相手が具体的に誰なのかの情報は得られていない。
~~~~~~~~~~~~~~~~
「霊夢に好きな人? あの霊夢に?」
これは失礼かもしれない。しかし本当に驚いた。
霊夢は、竹を割ったような性格だ。裏表がなく、真っ直ぐで、思ったことはすぐに言う。誰に対しても平等で、ひいきしない。そんな彼女が、特定の人物に想いを抱くとは意外だった。
歴代の巫女と比較しても、霊夢とは特に多く関わってきた。巫女の仕事に関していえば、戦闘からボロボロになって帰ってくるのが心配だったため、術や修行の指導をしたことがある。コンビを組んで異変を解決したこともあった。
だが、それは稀なことで、普段は良い友人として接してきた。
……情けない話だが、私の発言は周りから基本的に信用されない。気持ちはよく分かる。私の活動には、誰にも気づかれないよう手を回したり、謀略をめぐらせたりといったものが多い。これは、私の立場上仕方のないことだし、そのような者の発言には、何か裏があるのではないか?と考えるのが普通だ。
しかし霊夢は素直で、私の言うことをまっすぐ、そのままの意味で受け止めてくれる。気を張らずに、お茶を飲みに来たのだと言って、何気ない会話ができる友人は霊夢だけだ。
私は、そんな時間を大切に思っているが、もし霊夢に恋人が出来たら、それも減ってしまうのだろうか。
そう考えると、寂しい。
しかし、霊夢の幸せを考えるなら、想う人ができるのは喜ばしいことだ、とも思う。
霊夢に限らず、博麗の巫女には特に幸せになってほしいと思っている。妖怪退治は危険な仕事であるし、これは、私が目指す人と妖の関係に必要不可欠だ。つまり、私の都合に付き合ってもらっていると言って良い。時には、若くして亡くなってしまう巫女もいる。やりたいことも、楽しいこともこれからだったはずなのに。そうなってしまったら、私には、せめて冥福を祈ることしか出来なくなってしまう。
だから、霊夢が生きて幸せになってくれたら十分だ。それ以上は贅沢というものだろう。
「それにしても霊夢、落ち込んでいないかしら……」
霊夢が悲しんでいるところ、というのは最近はあまり想像できないが、さすがに失恋ともなれば参っているかもしれない。もしそうなら、慰めてあげたい。
また、霊夢の好きな人が誰か、純粋に気になる。友人は多い霊夢だが、本人が「高嶺の花」と評するとなると心当たりがない。「脈なし」とのことだったが、実態はどうかわからないし、場合によっては、何か手伝えることがあるかも知れない。
とにかく、本人に会って聞いてみるのが一番だろう。
——
——
——
結論から言うと、私の好きな相手というのは八雲紫である。
私に物心がついた頃から既に、紫は近くにいた。私が怪我をして帰ってくると、いつも心配そうな顔で手当をしてくれた。霊術や結界について、助言してくれたこともあった。修行は好きではないが、紫の教え方は端的で分かりやすかった。異変解決でコンビを組んだときは、危ないところを何度も助けてもらった。普段は、いつもニコニコしながらお菓子を持って遊びに来る。取り留めもない雑談をすると、楽しそうに笑う。困りごとを相談すると、一緒に解決してくれる。何が楽しいのかわからないが、紫は私にばかり接してくる。
こんなに甲斐甲斐しくされたら、妖怪だとか女同士だとかをすっ飛ばして、そりゃ好きになるだろう。
だが、この恋は始まったのと同時に終わっている。というのも、紫は妖怪の賢者であり、幻想郷の管理者であり、境界操作という強力な能力を持っている。当然、私の、紫に対する気持ちを見通しているはずである。それはもはや、私から告白しているも同然だ。
それでも紫が何も言ってこないのはなぜか?
最も考えられるのは、「紫は私のことをどうとも思っていない」ということである。紫にとって、私は歴代の巫女の一人に過ぎない。それどころか、千年以上も生きる紫にとって、私は彼女が出会った何百、何千の一人に過ぎない。そんな私が紫から好かれる確率は、いったい如何程のものだろう。それこそ高嶺の花だ。紫は私の気持ちに気づいているが、私を傷つけないようにあえて沈黙してくれているのだ。優しいところもあるじゃないか。
次に考えられるのは、「私の気持ちを分かっていて、それを利用している」ということである。紫の健気な努力によって、私はまんまと彼女が好きになってしまった。紫の言うことはちゃんと受け止めるし、紫のお願いなら聞いてあげたい。幻想郷の管理者として、巫女をうまく御していると言えるだろう。もしかしたら、歴代の巫女全員に同じことをしているんじゃないか? それはご苦労なことだし、なんて狡猾なヤツだ。
いずれにせよ、私が紫を好きになって、紫が何も言ってこない時点で、この恋は終わりなのだ。最初から無理、というのはこういうわけである。
まぁ私が紫を好きになったのはだいぶ前だし、気持ちの整理は付いている。今更こんなことで落ち込んだりはしない。
などと、母屋のちゃぶ台で1人、お茶を飲みながら考えていると
「霊夢〜いるかしら〜〜?」
悩みの元凶である紫が現れた。
「霊夢……思ったより元気そうね……?」
「はぁ?」
「新聞を読んで、霊夢が失恋したって知ったから……」
そう。先日私は、この恋について新聞にすっぱ抜かれた。相手が紫であることは書かれていなかったが、あのパパラッチ天狗は、今度見かけたらコテンパンにしようと思う。
それはそうとして、なぜ今頃になって紫が来るのか。失恋ならだいぶ前からずっとしている。私の気持ちを知っていながら今更来たということは……
「よし。喧嘩なら買うわ」
私は針と札を構えた。
「霊夢!? どうしたの!? やめて!?」
「冷やかしにでも来たんでしょ」
「冷やかし?」
「私の気持ちを知っておきながら今更ここに来たってことは、そういうことになるじゃない」
「霊夢の気持ち……?」
紫はピンと来ていないらしい。
「私、好きな人について、霊夢から教えてもらったことがあったかしら」
「ないわね」
「人づてに聞いたとか?」
「相手のことは誰にも言ってないわ」
「そもそも、恋だとか愛だとかについて、私達の間で話題にしたことは……?」
「今まで無かったわね」
「……なら、知っているわけないでしょう!」
紫は何を言っているんだろう。
「そんな事しなくても分かるでしょ」
「どうやって?」
「紫は頭が良いんだから、推理でもなんでもできるし」
「推理って……」
「そもそも、境界を使ってさっさと調べればいいし」
「あのねぇ……」
紫は呆れたような顔をしている。
「良い?霊夢。 私は覚り妖怪じゃないのだから、霊夢の心を読んだりはできないの」
「……そうなの?」
「それに、境界をいじって秘密を覗こうなんて、そんなはしたないことも、霊夢が嫌がることもしませんわ」
「……そう」
「だいたい、境界を使ったら、貴方気づくでしょう」
「……そう?」
「そうよ」
「そっか」
そうらしい。
「…………」
……どうしよう。顔が熱い。
知らなかった。私の気持ちが、紫にバレていなかったなんて。ということは、紫は私の想いを知ってわざと黙っていたのではない。つまり、これから告白すれば可能性があるかもしれない。誰だ、最初から無理なんて言ったのは。
紫と恋人になるとはどんな感じか想像してみる。朝が弱いらしいから、午前中は同じお布団でゆっくり寝るのはどうだろう。それで、いっしょにお昼ご飯を作って食べて、午後は他愛もないことをしゃべって笑うのだ。うわ、考えただけで幸せだ。
「霊夢、大丈夫? 顔がすごく赤いわ」
「っ、大丈夫! なんでもない!」
「そう……」
変な妄想が暴走しすぎた。
ともかく、告白してみるしか無いだろう。紫が私を好きになる確率は相変わらず低い。しかし、これだけ長年関わっているわけだし、嫌われているわけではないと思う。もしダメだったとしても、気持ちに区切りをつける良い機会になるはずだ。あとはどのタイミングでするかだが、
「……霊夢」
「はい!?」
唐突に名前を呼ばれたので変な返事が出た。
「あのね、霊夢。好きな人のこと、良ければ教えてくれないかしら」
「え?」
「今日来たのはね、失恋して、霊夢が落ち込んでいるんじゃないかって思ったからなの」
「……」
「その……嫌なら話さなくても良いのだけれど、誰かに話すことで気が楽になるということもあるでしょう? 見た感じは思ったより元気そうだけれど、もしかして、やっぱり悲しんでいるんじゃないかって思って……その、霊夢が心配なの……」
「紫……」
「それにね? もしかしたら、何か手伝えることがあるかも知れないじゃない?」
「……」
「霊夢は、相手が脈なしだって思っているかもしれないけれど、もしかしたら違うかもしれないわ。 霊夢は素敵な女の子だもの、その可能性は十分にあるし、必要なら、」
「紫!」
私は紫の言葉を遮った。
「は、はい」
「だから、紫!」
「えっと……何かしら? 霊夢」
「——っ! あんたが言ったんでしょ! 私の好きな人教えてって! だから、紫が好きって言ってんの!」
「へ……?」
思い切って言ってしまった。
「え? 霊夢が……」
「そうよ」
「私のことを、好き……?」
「そう言ってるじゃない」
「そんな……。まさか、そんなの…………」
「……」
「そんなの……ありえないわ……」
「っ……!」
ああ。私は今日、本当に失恋したんだ。
実を言うと怖かった。「もしダメだったとしても」なんて自分に言い訳するくらい。人生で初めての、最大の恋だった。
「っ…………。うっ……。ぐすっ………………」
「れ、霊夢、泣かないで……」
「ひっ……ぐっ……。誰のっ……せいだとっ……!」
「霊夢、その……違うの……!」
「何がっ……違うって、いうのっ」
「その……私が霊夢を、ではなくて、霊夢が私を好きなのが、ありえないというか……」
「ぐす……ぇ?」
少し嗚咽がおさまり、代わりに混乱する。
「ですから、……私は立場上、人間から慕われるわけがないというか……償いがあるというか……」
立場?償い?
「つまりその……幻想郷を創ってしまった責任というか、その……」
「っ! 紫が言ってることっ……全然わかんないっ……!」
「霊夢……」
「さっきもそう! 紫なら、私の気持ちなんて、お見通しだって、思い込んでたっ! 私は、大好きな紫のこと……なにも……なんにも知らないっ……!」
また涙が出てくる。
「ぐすっ……紫のこと、教えてよ! ……いままでの、こととか、償いっ、とかっ……ぜんぶ! ひっく、うぅ、うぅぅ……」
ついに、年甲斐もなく泣いてしまった。
「霊夢!」
ぎゅ、と紫に抱きしめられ、背中をさすられる。
「霊夢、言葉が足りなくてごめんなさい……いい子、いい子」
久しぶりの感覚だ。紫に慰められて安心する。少し気持ちが落ち着いてくる。
「…………少し、長くなりますわよ……?」
「長くても、いいから」
「……分かりましたわ。 …………私の、八雲という姓に、私自身の業を表す意味が加わったのは、博麗大結界を張った夜のことでした——」
紫は、泣いている私をあやすような、子供に昔話を聞かせるような口調で、語り始めた。
——
——
——
紫は教えてくれた。明治初期の混乱、博麗大結界の構想と構築、そして、結界を張った夜の誓いと、八雲の業。紫が幻想郷を愛する理由。
大結界がどのような理由で張られたのかは、いくら不勉強な私でも、里や神社の資料によって知っていた。しかし、当事者の気持ちや想いは、資料からは読み取れない。
今日の話で、紫がどんなに思いつめて、どんなに悩んで来たのかを知ることができた。
そんな紫の気持ちに対する、私の正直な感想は
「……暗い!」
というものだった。
「暗い、って……」
だってそうだろう。
「聞いてて分かったわ。紫は、全体的に後ろ向き過ぎる!」
「そ、そうかしら……」
「例えば、人間に勝手に生み出されて、今度は勝手に消されそうになるとこなんか、どっちかって言ったら、紫は被害者じゃないの」
「……でも、妖怪の都合で、人間達を閉じ込めて……」
「合意の上で、でしょ? 交換条件はいろいろあったみたいだし、当時の巫女が仲裁したならそれで良いじゃない」
「……」
紫はかなり自責思考が強いらしい。
「…………巫女」
「何?」
「それでも、巫女達は、私のせいで、危険な仕事に就いて……」
「まぁ、それはたまに危険ね」
「そうでしょう。だったら、私が霊夢に好かれるなんて……」
「おかしくないわよ。あのね、この立場になった時点で、ある程度の危険は割り切ってるの」
「……」
「それに最近は、弾幕ごっこが普及してきてるでしょ? 昔に比べたら、あんなのただのスポーツみたいなもんよ」
「それは……そうかもしれないけれど……」
「だいたい、当時の巫女もそこまで思いつめてなかったと思うわよ? 大結界の資料が物置きにあるけど、端っこに『結界を張って宣誓する紫ちゃん、めっちゃカッコよかった♡』って落書きがあるもの」
「なにそれ……」
めっちゃカッコいい紫、ちょっと私も見たかった。
「ねぇ、紫。私は、幻想郷は良い方向に向かっていると思う」
「……」
「新聞読んでてもわかるでしょ? 暑すぎて氷精が溶けたとか、里で新しい遊びが流行ったとか。巫女としてやることなさすぎて、腹立つくらい平和だわ」
「…………」
「紫の、当時の事情や想いを否定するわけじゃない。けど、時代は変わったの。もう少し、自分を許しても良いんじゃないかしら」
「……霊夢」
「なによ」
「霊夢…………ぐすっ……」
ぎょっとした。紫が泣いているところなんて、もちろん見たことがない。
「霊夢ぅ……」
「……だからなによ」
「……わ、私っ……幻想郷の、ためにっ…………ずっとっ……」
「……」
「ずっとっ……独りでっ…………」
「…………」
「う、うまく…………できていたのかしら……?」
紫は、誰に評価されるでもなく、自身の理想と、罪の意識との間で板挟みだったのだろう。人間の勝手で不要と言われ、それでもなお人間が好きだという妖怪。そんなのって……
私は、思わず紫を抱きしめた。
「紫はよく頑張ってると思う。さっきも言ったでしょ? 幻想郷はすごく平和だって。最近の人里じゃ、人間も妖怪も一緒になって遊んでるわ。それが、紫が創りたかった楽園なんじゃないの?」
「うぅっ……霊夢っ……」
「もちろん、紫は妖怪だから、人間から怖がられることもあると思う。でもそれは、嫌われるのとは違うと思う。みんなどこかで、こんな楽園を作ってくれたことに感謝してるんじゃないかしら。……私はそう思うわ」
「——っ!」
「紫、今までよく頑張ったわね。よしよし……」
紫の背中をさすってやる。さっき紫にしてもらったように。
「う……うわぁああぁっ! 霊夢……! 霊夢——っ!」
紫も私にしがみついてきて、わぁわぁ泣いている。
こんな時になんだが、かわいいな、と思う。
普段からは想像できない姿。ずっと、こうして誰かに認められたかったのだろうか。だとしたら、私がその1人になれて、紫がそれを望むなら、
このまま、泣き止むまで撫でてあげよう。
——
——
——
紫が落ち着いた後も、私達はなんとなく離れる気にならず、抱きしめ合っていた。
ただ、こうしているだけで心地いい。紫の体温と、少し甘いような良い匂いが伝わってくる。
「……霊夢」
沈黙を破ったのは紫だった。
「そのままで聞いて欲しいの。あのね、新聞で、霊夢に好きな人が出来たと知った時、私、正直、その…………寂しいなって、思ったの」
「!」
「霊夢は、こんな私と、いつもお話ししてくれるでしょう? そんな時間が無くなってしまうのかなって考えたら……悲しくて」
「……」
「そう思ってたから、さっき霊夢に、その……好きって言われた時、私、嬉しかったわ」
「……!」
「最初は巫女として、心配だったから近づいたのだけれど、いつからか、霊夢といっしょに居るだけで、楽しいなって思うようになったの……! だから……。だから、私は霊夢が好き!」
「紫……!」
「……なんだと思いますわ! たぶん……!」
「は?」
なんだその肩透かし。
抱きしめる手を解いて、紫に向き直り、肩を掴んで言った。
「なによ、その多分ってのは」
「だ……だって! 誰かを好きになったことなんて、無いんですもの!」
頭が真っ白になった。
「え? 好きになったことがない?」
「う……。そうよ」
「それって、誰かを好きになったことがないってこと?」
「だからそう言ってますわ!」
あまりに信じられず、2回聞いてしまった。
「紫って千年以上生きてるのよね。あってる?」
「……そうですけれど」
「これまで何千という人妖に会ってきたのよね?」
「……まぁ、そうなるわね」
「えぇ? それで1回も? えぇ……」
私は半ば驚きながら呆れた。
「……っ! しょうがないじゃない! こんなの、霊夢が初めてなんですもの!」
「ふっ……」
「笑わないでよ!」
どうしよう、すごく嬉しい。自然と顔がにやけてしまう。
私はもう一度紫に抱きついた。
「紫……ふふっ……紫……」
紫の首筋に頬を押し付ける。
「霊夢ったら……なんなのよ、もう……」
しばらく紫を堪能した後、抱きつきながら私も意を決して言った。
「紫、さっきも言ったけど、私は紫が好き。 いつものおしゃべりも好きだし、今日の話を聞いて、紫のことを知って、もっと好きになった! 紫が、また思いつめるようなことになったら、支えてあげたい。2人でいたら、辛いことも半分にできるでしょ? ……だから、こんな私でも良ければ、付き合ってくれないかしら?」
「……! 霊夢……っ! 付き合いますわ! もちろん!」
そう言って、紫も私を抱きしめ返してきた。
「紫……ふふ。これで私達、恋人同士ね」
言いながら。紫の頭を撫でる。
「ええ、霊夢……。えへへ……私の霊夢……大好き……!」
紫は、今までで一番幸せそうだ。
これから先、大変なことも多いと思う。
まず、人間と妖怪の代表である巫女と賢者の交際がバレたら、たぶん大騒ぎになる。みんなにどう説明しようか。魔理沙や早苗たちの反応は、逆に見てみたい気もする。
次に、種族差や性別といった問題もあるだろう。でも、この自由奔放な幻想郷であれば、案外だれも気にしないかもしれない。
他にも、価値観や寿命の違いなど、考えだしたらキリがない。
しかし、どんな困難だって、私達2人ならきっと大丈夫だ。そう考えたほうが楽しいし、実際どうにかしてしまうのだろう。
明日から、紫との幸せな生活が待っている。そう思っただけで、私は紫に、さらに強く抱きついてしまうのだ。
——
——
——
明治初期、鎖国が終わり、文明開化と称されて西洋の科学が持ち込まれると、いよいよ妖怪の存在は危うくなった。
多くの妖怪は、人間に恐れられて存在する。例えば、疫病や災害を引き起こす妖怪は、人間が作り出したものだ。そうすることで、身の回りの不幸を妖怪のせいにして納得できるし、対象を退治したとして、擬似的に問題を解決することもできる。無知な人間にとっては、それが精神の安寧のために必要だったのだ。
ところが、科学が発展したらどうなるか。疫病は医学によって、災害は地球科学によって解明されれば、妖怪は不要になるだろう。
これは私にとっても例外ではない。神隠しの主犯、超常現象を説明する対象として、境界の操作という神に等しい能力を偶然にも手に入れた。それを最大限に活用し、森羅万象を知って気づいたのは、自分は幻想であり、本来存在するはずがないということだった。
最近では、海の外の人間が電磁気についてかなり正確に説明して見せた。このまま他の力についても理解が進み、もし、それらを統一する理論が構築されたなら——
——私は消失するのだろう。
いや、消失すべきと言っても良い。神隠しは説明され、超常現象は常識となり、私は不要になるのだから。
確かに、真理への道はまだ長い。しかし、ほんの数百年前まではまったくの無知と言って良かった人間が、ここまで加速度的に発展するのは想定外であり、圧倒的な恐怖だ。
……恐怖。死にたくない、消えたくないと思う心。地上に生きるすべての生物が負った穢れ。実に千年以上生きてきた私でさえ、その理の内にある。人間の恐怖から生まれた私が、逆に人間を怖れるとは、なんて皮肉だろうか。
ここまで考えて、私は1つの構想に辿り着いた。
私を恐怖する人間を、閉じ込めてしまおう。彼らから知恵と発展を奪い、妖怪の恐怖のもとへ置いてしまえば良いではないか——
——
——
——
そこからの行動は早かった。
必要なのは、一種の結界だ。妖怪を信じない人間がこれからの常識となるならば、それを外とし、その逆を内とすれば良い。つまり、非常識を内、常識を外とする結界である。これにより、妖怪を信じる人間や妖怪そのものは、外の世界の非常識なので内、つまり結界から出られない。逆に、妖怪を否定する都合の悪い常識は外であり、結界の内に入れない。
詳細な設計には2年掛かった。常識と非常識の境界を決めるというのは、妖怪それ自体を再定義するようなものだ。妖怪である私自身がそれを行うのは、自己言及と矛盾に満ちた難解な作業だった。
設計を式として組むのには3年掛かった。人間の常識は絶えず変化していく。結界は、その変化に自律して適応しなければならない。そのための算法は、間違いなく、有史以来で最も緻密かつ複雑なものになった。
式の修正には4年掛かった。単純な書き間違いも多かったが、そもそもの思い違いによる重大な設計ミスが数回発生し、生まれて初めて頭を抱えることとなった。連日の、睡眠を削っての作業が影響しているようだった。
結界を張るための妖力の確保に、さらに1年必要だった。ここまで寝る間も惜しんで作業してきたはずなのに、うまく眠れない日々が続いた。
同時に、関係各所への打診も進めた。
まず、妖怪側への説明を行った。各勢力の代表者、有力者、賢者と呼ばれる者達を順に尋ねて、根気よく説明していった。多くの面々は、自分達の存在を強固にするためならばと提案を受け入れた。一部からは、自由な出入りが不可能となることを理由に、最後まで反対された。しかし、たとえ反乱されたとしても、鎮圧できる程度だと判断した。
次に、人間側への説明を行った。里の代表者、権力者、人格者などに説明を行ったが、皆反対した。「なぜ閉じ込められなければならないのか」というのはもっともな疑問だった。生活水準の現状維持は絶対で、可能な限りの向上を約束すること、人里を安全地帯とし、妖怪の出入りを禁止することなどを提案したが、混乱は大きくなるばかりだった。最終的には、博麗の巫女に仲裁へ入ってもらい、事態を収拾して同意が得られた。
——
——
——
明治18年、私は博麗神社の境内に1人で立っていた。結界の構想から10年。科学は急速に普及し、ほぼ常識となりつつある。旧知の妖怪勢力は、どこも弱体化が著しい。もはや猶予は無い。
今夜は満月だが、曇天が一切の光を通さない。離れたところで、巫女がこちらを見ている。
私は意を決して叫んだ。
「式『博麗大結界』!」
直後、強い衝撃音と烈風。史上最大の術式が動き始めた証。
駆動する何千もの部分式を睨みつける。目まぐるしく変化する状況。最大限に集中し、僅かな違和感も見逃さない。
大部分の仕掛けは予定通りに作動している。一部の設定値に誤りが発覚。しかし、自律適応が瞬時に訂正した。工程は正常に進行している。
雲はより分厚くなり、うねるようだ。
自己診断が終わり、大結界は、いよいよ広範囲への展開を開始した。妖力の消費が想像以上に凄まじい。思わず立ちくらみそうになるが、地面を踏みしめて耐える。
結界は空と大地に希釈され、もはや五感では感じられない。しかし、なおも大量の報告を術者へ送り続けている。
実際に展開してみると、些細ではあるが想定外の報告が上がってきた。いずれも、重大な結果に繋がらないことを、次々と検証していく。丁寧に、しかし迅速に。持てる能力の全てを発揮し、事態を掌握する。
ぽつり、と水滴が頬に当たった。雨が降り始めている。
やがて、結界からの情報の速度が低下し、ゆるやかになり、ついに停止した。
最後の、「管理者命令待機状態」という履歴が示すのは、大結界が主である私の命令を待っているということ。つまり、
「……起動は成功した」
後は、命じるだけである。結界は成立し、内と外を分かつだろう。
その時、冷たい風が吹き、雨が急激に強まるのを感じた。それはすぐに土砂降りとなり、やがて地上の全てが水没するのではないかという程の猛烈な勢いになった。
原因は分かっている。龍神、この土地の最高神の怒りに触れたのだ。
——結界を構築するまでの10年間、常に考え続けていたことがある。それは、「そもそもなぜ私は、この大掛かりな仕掛けによって人間を幽閉してもなお、妖怪を存続させたいのか」ということだった。
自身が消えたくないから、という思いはもちろんある。私も地上に生きる以上、穢れの理からは抜け出せない。しかしそれだけなら、これほどまでに壮大な計画は必要ない。せいぜい、人間達の統一理論の構築を邪魔すれば良いだけだ。
何年も自問を繰り返し、最終的に達した結論は、私に愛するものがあるから、ということだった。
つまり私は、「妖怪と人間」という関係性を愛しているのだ。
これは残酷な話だ。妖怪が人間を襲い、人間が妖怪を退治するという、古来より連綿と続いてきた血の歴史を、なおも続けていくことに他ならない。
しかし一方で、多種多様で、時にはおかしくて笑ってしまうような幻想的存在達のことを、私はどうしても嫌いになれないのだ。海坊主や木霊(こだま)などの妖怪は、自然への畏怖や信仰、感謝といった人間の強い想いが具現化したものだ。そうかと思えば、小豆洗いや天井なめのような、日常の些細な変化に対してすら、存在を見出された者達がいる。
私は、そのような存在を創り出してしまう人間達もまた、大好きなのだ。万物に霊魂が宿ると信じ、八百万の魑魅魍魎を現実に産み出してしまった。その独創性と想像力が、堪らなく愛おしいのだ——
空では、天が割れるほどの雷鳴が響いている。
私は豪雨に濡れながら、龍神、土地、そして自分自身に対して宣誓した。
「照覧あれ! 我は、時代の危機に瀕す幻想と、その創造者を愛する者! そして、彼らを消し去る常識を忌避する者! 結界は、この土地を隔離し、彼らを保護する! 暫時は、混乱、紛争が予想される! 自由と発展を奪われる者達へは、多分の配慮が必要となるだろう! しかし、人妖双方に利する法を必ず構築し、ここに楽園を築くと誓う!」
ある歌を思い出す。
八雲(やくも)立つ 出雲(いずも)八重垣(やえがき) 妻(つま)ごみに 八重垣つくる その八重垣を
これは日本最古の和歌であり、アマテラスオオミカミの弟、スサノオノミコトが、妻との新居を建てた際に詠んだとされる。雲が湧く出雲の地で、妻を籠もらせるための垣根を何重にも造ろう、という意味である。私の姓である八雲は、元々ここから取ったものだ。
今日、私は、人間を妻として籠もらせ、ここに新しい居を構える。
人間に対しては、償っても償いきれない。私は、自由と近代文明を奪った首謀者として、愛する彼らから永遠に恨まれ続けるだろう。私にできるのは、彼らに謝罪し続けること。そして、せめて可能な限りの幸福な生活を用意することだけだ。
八雲という姓に、この業の意味を込めよう。名乗るたびに、今日の誓いを思い出せるように。
「八雲(やくも)紫(ゆかり)の名において、大結界に命ずる! 常識を否定し、非常識を肯定せよ!」
結界は幻想を取り込み始めた。
雨は相変わらず止まない。
「八重垣つくる その八重垣を——」
——
——
——
——
——
——
「みなさんって、好きな人はいますか!?!?!?」
うるさい。
私、博麗(はくれい)霊夢(れいむ)は、午前中に今日の仕事を済ませて、神社の裏にある縁側で午後のティータイム(といっても飲んでいたのは緑茶だが)を優雅に嗜んでいた。
そこに押しかけて来たのが、悪友で魔法使いの霧雨(きりさめ)魔理沙(まりさ)と、最近幻想郷に来た巫女仲間の東風谷(こちや)早苗(さなえ)である。暇だから遊びに来たらしい。
「どうなんですか!?!?!?」
早苗が言う。
「うるさい」
暴言がついに口から出た私が言う。
「急にどうしたんだよ」
魔理沙が言う。
「だって、うら若き女の子3人が集まってるんですよ! 恋バナするしか無いでしょう!」
というのが早苗の主張だ。
「そうなのか?」
魔理沙は懐疑的らしい。
「鯉花?」
私は意味が分かっていない。なんだ、鯉花って。
「ほら、魔理沙さんにはいないんですか? そういう人!」
「うー、えーっと……」
言葉を詰まらせている。
「その反応はいるってことですよね! 霊夢さんは知ってますか? 魔理沙さんの好きな人!」
早苗が目をキラキラさせながら聞いてきた。ああ、コイバナって、恋の話で恋バナって意味か。
「知ってるわよ」
「キャーーーっ!!! 誰!?!? イケメン!?」
「イケメンっていうかねぇ」
「霊夢ぅ……」
魔理沙が助けを求めるような顔でこっちを見てくる。見るな。
「何よ、秘密にしたいの?」
「そういうわけじゃないけどさ……」
「じゃあ教えてあげなさいよ」
「うぅ……」
「魔理沙さん! 教えてください! 私の知ってる人ですか!?」
すごいハイテンションだ。早苗がいるだけで部屋の気温が2、3度上がっているんじゃないか?
「…………アリス」
「……へ?」
早苗が固まった。
「……だから! 私の恋人はアリス・マーガトロイドだって言ってるんだよ!」
「え、えええぇぇぇぇ!?!?!?」
耳がおかしくなりそうだ。
「え、アリスさんって……あのアリスさんですか!?」
「そのアリスさんしかいないだろ!」
「だっ、だって! アリスさんって女の子……ですよね?」
「そうだよ!」
「魔理沙さん、妙に男の子口調だなって思ったら……!」
「誰が女装男子だ! 私も女だよ!」
「つまり……百合ってことですか!? はわわわわ」
百合?また花の話か。
「お、女の子同士って、幻想郷だと、その……一般的なんですか?」
早苗が私に聞いてくる。
「一般的、ってわけじゃないわよ。たまに人里の結婚式に巫女として呼ばれるけど、普通に男女だったし」
「ですよね……?」
「ただ、里の外だと人間以外にもいろんなヤツがいるでしょ? そっちはただでさえ種族が多いのに、そのうえ性別まで気にしてられないって感じなんじゃない?」
「はぁ……」
「実際、アリスは妖怪で魔理沙は人間だし」
「た、確かに……」
「とにかく、本人たちが幸せならそれで良いじゃない。気を抜くと、人前でもよくイチャイチャしてるもの。この前うちに来たときなんか、ちょっと話題が途切れるとすぐ見つめ合っちゃってさ。ねぇ? 魔理沙?」
「覚えてろ……」
魔理沙が涙目だ。ちょっとやりすぎたかもしれない。
「魔理沙さんとアリスさんが……ふむ、なるほど……」
早苗は何かを考えて、何かに納得したようだ。
「魔理沙さんとアリスさんはラブラブなんですね……! そう考えると、なんだかほっこりしますね! 霊夢さんにはそういう話は無いんですか?」
「……霊夢にそんなのあるわけないだろ」
先程の仕返しか知らないが、魔理沙が言った。
「……あの凶暴な霊夢だぜ? 例えば、いくら仕事だからって、目の前の妖怪を問答無用で退治するか? 普通は少しくらい話を聞くだろ。それにこの前なんか、金目のモン巻き上げて泣かしてたぜ。公私混同もいいとこだ。そりゃ鬼巫女って呼ばれるだろ。可愛げの欠片もない」
言い過ぎではないか。
「なるほど!」
早苗も失礼だ。
「じゃあ仕事以外はどうなのかっていったら、このだらしの無さだよ。毎日ぐーたらして、お茶飲んで寝てるだけ。おしとやかさの欠片もない。こんなヤツに恋人がいるか? いやいない」
「確かに!」
言わせておけば……。
「どんなヤツに対しても平等と言えば聞こえは良いが、それは誰かに思い入れがないってことだ。恋人どころか、好きなヤツすらいない。火を見るより明らかってやつだ。そうだろ?」
「いるわよ」
「は?」
失言だった。
つい、むっとして言い返してしまった。
「霊夢さんの好きな人……すっごく気になります……!」
早苗は両手で口元を抑えながら真っ赤になっている。
「霊夢に好きなヤツ? え? え?」
魔理沙は混乱して頭が真っ白という様子だ。
赤かったり白かったり、紅白は私の専売特許ではなかったのか?などと考えていると
「だれなんですか!?」
早苗が聞いてきた。
お茶をすすりながら答える。
「秘密よ」
「教えてください!」
「嫌よ」
「告白! 告白はしたんですか!?」
「しないわよ」
「そんな! 何でですか!?」
「脈なしだもの」
「わからないじゃないですか!」
「分かるの」
「諦めちゃうんですか!」
「最初から無理なこともあるの」
「でも……」
「それに、私には釣り合わないわ。高嶺の花ってやつよ」
「霊夢さん……」
「霊夢……」
「哀れんだ顔でこっちを見るな」
遠くでかすかに、シャッターを切る音がした。
——
——
——
私は自宅で新聞を読んでいた。
博麗大結界の管理は、今や式神の八雲藍(らん)に任せてある。かなり優秀だ。
もちろん、それ以外にもすべき仕事は様々ある。幻想郷内の紛争を仲裁したり、外からの移住者を手続きしたり、我々に害を及ぼす外部勢力を監視したり。また、定期的に人間の里を訪れ、生活に問題が無いか視察したり、困りごとがないか聞き込みしたりしている……相変わらず人間には嫌われているが。
しかし最近は、それらの問題がぱったりと止んでしまった。こういうことは稀にある。有り体に言って暇なのである。
「文々。新聞」は、天狗が書いている新聞で、暇つぶしに最適だ。この新聞には、それほど重要なことは書かれていない。記者がいつも「ネタ不足だ」と言っている通り、日頃の、本当に些細なニュースばかりが載っている。しかし、一息つくのにはぴったりだ。
私の大好きな幻想郷の、ちょっと面白い日常を読みながら午後のティータイムを優雅に嗜む。これが、ここ最近の楽しみである。
~~~~~~~~~~~~~~~~
文々。新聞 x月号
博麗の巫女に想い人発覚! そして失恋か!?
~~~~~~~~~~~~~~~~
「んぐっ!」
思わず紅茶を吹き出しそうになった。
~~~~~~~~~~~~~~~~
x月x日、博麗霊夢は、自宅で友人達と談笑中に、心に想う人物が居ることを証言した。
本人によれば、相手は高嶺の花で、脈なしであるため、想いは伝えないという。
相手が具体的に誰なのかの情報は得られていない。
~~~~~~~~~~~~~~~~
「霊夢に好きな人? あの霊夢に?」
これは失礼かもしれない。しかし本当に驚いた。
霊夢は、竹を割ったような性格だ。裏表がなく、真っ直ぐで、思ったことはすぐに言う。誰に対しても平等で、ひいきしない。そんな彼女が、特定の人物に想いを抱くとは意外だった。
歴代の巫女と比較しても、霊夢とは特に多く関わってきた。巫女の仕事に関していえば、戦闘からボロボロになって帰ってくるのが心配だったため、術や修行の指導をしたことがある。コンビを組んで異変を解決したこともあった。
だが、それは稀なことで、普段は良い友人として接してきた。
……情けない話だが、私の発言は周りから基本的に信用されない。気持ちはよく分かる。私の活動には、誰にも気づかれないよう手を回したり、謀略をめぐらせたりといったものが多い。これは、私の立場上仕方のないことだし、そのような者の発言には、何か裏があるのではないか?と考えるのが普通だ。
しかし霊夢は素直で、私の言うことをまっすぐ、そのままの意味で受け止めてくれる。気を張らずに、お茶を飲みに来たのだと言って、何気ない会話ができる友人は霊夢だけだ。
私は、そんな時間を大切に思っているが、もし霊夢に恋人が出来たら、それも減ってしまうのだろうか。
そう考えると、寂しい。
しかし、霊夢の幸せを考えるなら、想う人ができるのは喜ばしいことだ、とも思う。
霊夢に限らず、博麗の巫女には特に幸せになってほしいと思っている。妖怪退治は危険な仕事であるし、これは、私が目指す人と妖の関係に必要不可欠だ。つまり、私の都合に付き合ってもらっていると言って良い。時には、若くして亡くなってしまう巫女もいる。やりたいことも、楽しいこともこれからだったはずなのに。そうなってしまったら、私には、せめて冥福を祈ることしか出来なくなってしまう。
だから、霊夢が生きて幸せになってくれたら十分だ。それ以上は贅沢というものだろう。
「それにしても霊夢、落ち込んでいないかしら……」
霊夢が悲しんでいるところ、というのは最近はあまり想像できないが、さすがに失恋ともなれば参っているかもしれない。もしそうなら、慰めてあげたい。
また、霊夢の好きな人が誰か、純粋に気になる。友人は多い霊夢だが、本人が「高嶺の花」と評するとなると心当たりがない。「脈なし」とのことだったが、実態はどうかわからないし、場合によっては、何か手伝えることがあるかも知れない。
とにかく、本人に会って聞いてみるのが一番だろう。
——
——
——
結論から言うと、私の好きな相手というのは八雲紫である。
私に物心がついた頃から既に、紫は近くにいた。私が怪我をして帰ってくると、いつも心配そうな顔で手当をしてくれた。霊術や結界について、助言してくれたこともあった。修行は好きではないが、紫の教え方は端的で分かりやすかった。異変解決でコンビを組んだときは、危ないところを何度も助けてもらった。普段は、いつもニコニコしながらお菓子を持って遊びに来る。取り留めもない雑談をすると、楽しそうに笑う。困りごとを相談すると、一緒に解決してくれる。何が楽しいのかわからないが、紫は私にばかり接してくる。
こんなに甲斐甲斐しくされたら、妖怪だとか女同士だとかをすっ飛ばして、そりゃ好きになるだろう。
だが、この恋は始まったのと同時に終わっている。というのも、紫は妖怪の賢者であり、幻想郷の管理者であり、境界操作という強力な能力を持っている。当然、私の、紫に対する気持ちを見通しているはずである。それはもはや、私から告白しているも同然だ。
それでも紫が何も言ってこないのはなぜか?
最も考えられるのは、「紫は私のことをどうとも思っていない」ということである。紫にとって、私は歴代の巫女の一人に過ぎない。それどころか、千年以上も生きる紫にとって、私は彼女が出会った何百、何千の一人に過ぎない。そんな私が紫から好かれる確率は、いったい如何程のものだろう。それこそ高嶺の花だ。紫は私の気持ちに気づいているが、私を傷つけないようにあえて沈黙してくれているのだ。優しいところもあるじゃないか。
次に考えられるのは、「私の気持ちを分かっていて、それを利用している」ということである。紫の健気な努力によって、私はまんまと彼女が好きになってしまった。紫の言うことはちゃんと受け止めるし、紫のお願いなら聞いてあげたい。幻想郷の管理者として、巫女をうまく御していると言えるだろう。もしかしたら、歴代の巫女全員に同じことをしているんじゃないか? それはご苦労なことだし、なんて狡猾なヤツだ。
いずれにせよ、私が紫を好きになって、紫が何も言ってこない時点で、この恋は終わりなのだ。最初から無理、というのはこういうわけである。
まぁ私が紫を好きになったのはだいぶ前だし、気持ちの整理は付いている。今更こんなことで落ち込んだりはしない。
などと、母屋のちゃぶ台で1人、お茶を飲みながら考えていると
「霊夢〜いるかしら〜〜?」
悩みの元凶である紫が現れた。
「霊夢……思ったより元気そうね……?」
「はぁ?」
「新聞を読んで、霊夢が失恋したって知ったから……」
そう。先日私は、この恋について新聞にすっぱ抜かれた。相手が紫であることは書かれていなかったが、あのパパラッチ天狗は、今度見かけたらコテンパンにしようと思う。
それはそうとして、なぜ今頃になって紫が来るのか。失恋ならだいぶ前からずっとしている。私の気持ちを知っていながら今更来たということは……
「よし。喧嘩なら買うわ」
私は針と札を構えた。
「霊夢!? どうしたの!? やめて!?」
「冷やかしにでも来たんでしょ」
「冷やかし?」
「私の気持ちを知っておきながら今更ここに来たってことは、そういうことになるじゃない」
「霊夢の気持ち……?」
紫はピンと来ていないらしい。
「私、好きな人について、霊夢から教えてもらったことがあったかしら」
「ないわね」
「人づてに聞いたとか?」
「相手のことは誰にも言ってないわ」
「そもそも、恋だとか愛だとかについて、私達の間で話題にしたことは……?」
「今まで無かったわね」
「……なら、知っているわけないでしょう!」
紫は何を言っているんだろう。
「そんな事しなくても分かるでしょ」
「どうやって?」
「紫は頭が良いんだから、推理でもなんでもできるし」
「推理って……」
「そもそも、境界を使ってさっさと調べればいいし」
「あのねぇ……」
紫は呆れたような顔をしている。
「良い?霊夢。 私は覚り妖怪じゃないのだから、霊夢の心を読んだりはできないの」
「……そうなの?」
「それに、境界をいじって秘密を覗こうなんて、そんなはしたないことも、霊夢が嫌がることもしませんわ」
「……そう」
「だいたい、境界を使ったら、貴方気づくでしょう」
「……そう?」
「そうよ」
「そっか」
そうらしい。
「…………」
……どうしよう。顔が熱い。
知らなかった。私の気持ちが、紫にバレていなかったなんて。ということは、紫は私の想いを知ってわざと黙っていたのではない。つまり、これから告白すれば可能性があるかもしれない。誰だ、最初から無理なんて言ったのは。
紫と恋人になるとはどんな感じか想像してみる。朝が弱いらしいから、午前中は同じお布団でゆっくり寝るのはどうだろう。それで、いっしょにお昼ご飯を作って食べて、午後は他愛もないことをしゃべって笑うのだ。うわ、考えただけで幸せだ。
「霊夢、大丈夫? 顔がすごく赤いわ」
「っ、大丈夫! なんでもない!」
「そう……」
変な妄想が暴走しすぎた。
ともかく、告白してみるしか無いだろう。紫が私を好きになる確率は相変わらず低い。しかし、これだけ長年関わっているわけだし、嫌われているわけではないと思う。もしダメだったとしても、気持ちに区切りをつける良い機会になるはずだ。あとはどのタイミングでするかだが、
「……霊夢」
「はい!?」
唐突に名前を呼ばれたので変な返事が出た。
「あのね、霊夢。好きな人のこと、良ければ教えてくれないかしら」
「え?」
「今日来たのはね、失恋して、霊夢が落ち込んでいるんじゃないかって思ったからなの」
「……」
「その……嫌なら話さなくても良いのだけれど、誰かに話すことで気が楽になるということもあるでしょう? 見た感じは思ったより元気そうだけれど、もしかして、やっぱり悲しんでいるんじゃないかって思って……その、霊夢が心配なの……」
「紫……」
「それにね? もしかしたら、何か手伝えることがあるかも知れないじゃない?」
「……」
「霊夢は、相手が脈なしだって思っているかもしれないけれど、もしかしたら違うかもしれないわ。 霊夢は素敵な女の子だもの、その可能性は十分にあるし、必要なら、」
「紫!」
私は紫の言葉を遮った。
「は、はい」
「だから、紫!」
「えっと……何かしら? 霊夢」
「——っ! あんたが言ったんでしょ! 私の好きな人教えてって! だから、紫が好きって言ってんの!」
「へ……?」
思い切って言ってしまった。
「え? 霊夢が……」
「そうよ」
「私のことを、好き……?」
「そう言ってるじゃない」
「そんな……。まさか、そんなの…………」
「……」
「そんなの……ありえないわ……」
「っ……!」
ああ。私は今日、本当に失恋したんだ。
実を言うと怖かった。「もしダメだったとしても」なんて自分に言い訳するくらい。人生で初めての、最大の恋だった。
「っ…………。うっ……。ぐすっ………………」
「れ、霊夢、泣かないで……」
「ひっ……ぐっ……。誰のっ……せいだとっ……!」
「霊夢、その……違うの……!」
「何がっ……違うって、いうのっ」
「その……私が霊夢を、ではなくて、霊夢が私を好きなのが、ありえないというか……」
「ぐす……ぇ?」
少し嗚咽がおさまり、代わりに混乱する。
「ですから、……私は立場上、人間から慕われるわけがないというか……償いがあるというか……」
立場?償い?
「つまりその……幻想郷を創ってしまった責任というか、その……」
「っ! 紫が言ってることっ……全然わかんないっ……!」
「霊夢……」
「さっきもそう! 紫なら、私の気持ちなんて、お見通しだって、思い込んでたっ! 私は、大好きな紫のこと……なにも……なんにも知らないっ……!」
また涙が出てくる。
「ぐすっ……紫のこと、教えてよ! ……いままでの、こととか、償いっ、とかっ……ぜんぶ! ひっく、うぅ、うぅぅ……」
ついに、年甲斐もなく泣いてしまった。
「霊夢!」
ぎゅ、と紫に抱きしめられ、背中をさすられる。
「霊夢、言葉が足りなくてごめんなさい……いい子、いい子」
久しぶりの感覚だ。紫に慰められて安心する。少し気持ちが落ち着いてくる。
「…………少し、長くなりますわよ……?」
「長くても、いいから」
「……分かりましたわ。 …………私の、八雲という姓に、私自身の業を表す意味が加わったのは、博麗大結界を張った夜のことでした——」
紫は、泣いている私をあやすような、子供に昔話を聞かせるような口調で、語り始めた。
——
——
——
紫は教えてくれた。明治初期の混乱、博麗大結界の構想と構築、そして、結界を張った夜の誓いと、八雲の業。紫が幻想郷を愛する理由。
大結界がどのような理由で張られたのかは、いくら不勉強な私でも、里や神社の資料によって知っていた。しかし、当事者の気持ちや想いは、資料からは読み取れない。
今日の話で、紫がどんなに思いつめて、どんなに悩んで来たのかを知ることができた。
そんな紫の気持ちに対する、私の正直な感想は
「……暗い!」
というものだった。
「暗い、って……」
だってそうだろう。
「聞いてて分かったわ。紫は、全体的に後ろ向き過ぎる!」
「そ、そうかしら……」
「例えば、人間に勝手に生み出されて、今度は勝手に消されそうになるとこなんか、どっちかって言ったら、紫は被害者じゃないの」
「……でも、妖怪の都合で、人間達を閉じ込めて……」
「合意の上で、でしょ? 交換条件はいろいろあったみたいだし、当時の巫女が仲裁したならそれで良いじゃない」
「……」
紫はかなり自責思考が強いらしい。
「…………巫女」
「何?」
「それでも、巫女達は、私のせいで、危険な仕事に就いて……」
「まぁ、それはたまに危険ね」
「そうでしょう。だったら、私が霊夢に好かれるなんて……」
「おかしくないわよ。あのね、この立場になった時点で、ある程度の危険は割り切ってるの」
「……」
「それに最近は、弾幕ごっこが普及してきてるでしょ? 昔に比べたら、あんなのただのスポーツみたいなもんよ」
「それは……そうかもしれないけれど……」
「だいたい、当時の巫女もそこまで思いつめてなかったと思うわよ? 大結界の資料が物置きにあるけど、端っこに『結界を張って宣誓する紫ちゃん、めっちゃカッコよかった♡』って落書きがあるもの」
「なにそれ……」
めっちゃカッコいい紫、ちょっと私も見たかった。
「ねぇ、紫。私は、幻想郷は良い方向に向かっていると思う」
「……」
「新聞読んでてもわかるでしょ? 暑すぎて氷精が溶けたとか、里で新しい遊びが流行ったとか。巫女としてやることなさすぎて、腹立つくらい平和だわ」
「…………」
「紫の、当時の事情や想いを否定するわけじゃない。けど、時代は変わったの。もう少し、自分を許しても良いんじゃないかしら」
「……霊夢」
「なによ」
「霊夢…………ぐすっ……」
ぎょっとした。紫が泣いているところなんて、もちろん見たことがない。
「霊夢ぅ……」
「……だからなによ」
「……わ、私っ……幻想郷の、ためにっ…………ずっとっ……」
「……」
「ずっとっ……独りでっ…………」
「…………」
「う、うまく…………できていたのかしら……?」
紫は、誰に評価されるでもなく、自身の理想と、罪の意識との間で板挟みだったのだろう。人間の勝手で不要と言われ、それでもなお人間が好きだという妖怪。そんなのって……
私は、思わず紫を抱きしめた。
「紫はよく頑張ってると思う。さっきも言ったでしょ? 幻想郷はすごく平和だって。最近の人里じゃ、人間も妖怪も一緒になって遊んでるわ。それが、紫が創りたかった楽園なんじゃないの?」
「うぅっ……霊夢っ……」
「もちろん、紫は妖怪だから、人間から怖がられることもあると思う。でもそれは、嫌われるのとは違うと思う。みんなどこかで、こんな楽園を作ってくれたことに感謝してるんじゃないかしら。……私はそう思うわ」
「——っ!」
「紫、今までよく頑張ったわね。よしよし……」
紫の背中をさすってやる。さっき紫にしてもらったように。
「う……うわぁああぁっ! 霊夢……! 霊夢——っ!」
紫も私にしがみついてきて、わぁわぁ泣いている。
こんな時になんだが、かわいいな、と思う。
普段からは想像できない姿。ずっと、こうして誰かに認められたかったのだろうか。だとしたら、私がその1人になれて、紫がそれを望むなら、
このまま、泣き止むまで撫でてあげよう。
——
——
——
紫が落ち着いた後も、私達はなんとなく離れる気にならず、抱きしめ合っていた。
ただ、こうしているだけで心地いい。紫の体温と、少し甘いような良い匂いが伝わってくる。
「……霊夢」
沈黙を破ったのは紫だった。
「そのままで聞いて欲しいの。あのね、新聞で、霊夢に好きな人が出来たと知った時、私、正直、その…………寂しいなって、思ったの」
「!」
「霊夢は、こんな私と、いつもお話ししてくれるでしょう? そんな時間が無くなってしまうのかなって考えたら……悲しくて」
「……」
「そう思ってたから、さっき霊夢に、その……好きって言われた時、私、嬉しかったわ」
「……!」
「最初は巫女として、心配だったから近づいたのだけれど、いつからか、霊夢といっしょに居るだけで、楽しいなって思うようになったの……! だから……。だから、私は霊夢が好き!」
「紫……!」
「……なんだと思いますわ! たぶん……!」
「は?」
なんだその肩透かし。
抱きしめる手を解いて、紫に向き直り、肩を掴んで言った。
「なによ、その多分ってのは」
「だ……だって! 誰かを好きになったことなんて、無いんですもの!」
頭が真っ白になった。
「え? 好きになったことがない?」
「う……。そうよ」
「それって、誰かを好きになったことがないってこと?」
「だからそう言ってますわ!」
あまりに信じられず、2回聞いてしまった。
「紫って千年以上生きてるのよね。あってる?」
「……そうですけれど」
「これまで何千という人妖に会ってきたのよね?」
「……まぁ、そうなるわね」
「えぇ? それで1回も? えぇ……」
私は半ば驚きながら呆れた。
「……っ! しょうがないじゃない! こんなの、霊夢が初めてなんですもの!」
「ふっ……」
「笑わないでよ!」
どうしよう、すごく嬉しい。自然と顔がにやけてしまう。
私はもう一度紫に抱きついた。
「紫……ふふっ……紫……」
紫の首筋に頬を押し付ける。
「霊夢ったら……なんなのよ、もう……」
しばらく紫を堪能した後、抱きつきながら私も意を決して言った。
「紫、さっきも言ったけど、私は紫が好き。 いつものおしゃべりも好きだし、今日の話を聞いて、紫のことを知って、もっと好きになった! 紫が、また思いつめるようなことになったら、支えてあげたい。2人でいたら、辛いことも半分にできるでしょ? ……だから、こんな私でも良ければ、付き合ってくれないかしら?」
「……! 霊夢……っ! 付き合いますわ! もちろん!」
そう言って、紫も私を抱きしめ返してきた。
「紫……ふふ。これで私達、恋人同士ね」
言いながら。紫の頭を撫でる。
「ええ、霊夢……。えへへ……私の霊夢……大好き……!」
紫は、今までで一番幸せそうだ。
これから先、大変なことも多いと思う。
まず、人間と妖怪の代表である巫女と賢者の交際がバレたら、たぶん大騒ぎになる。みんなにどう説明しようか。魔理沙や早苗たちの反応は、逆に見てみたい気もする。
次に、種族差や性別といった問題もあるだろう。でも、この自由奔放な幻想郷であれば、案外だれも気にしないかもしれない。
他にも、価値観や寿命の違いなど、考えだしたらキリがない。
しかし、どんな困難だって、私達2人ならきっと大丈夫だ。そう考えたほうが楽しいし、実際どうにかしてしまうのだろう。
明日から、紫との幸せな生活が待っている。そう思っただけで、私は紫に、さらに強く抱きついてしまうのだ。
想いを伝えることがなかっただけで霊夢以外の歴代の巫女からもたくさん片思いされてそうな紫様。甘々なゆかれいむでよきでした。
遠大な過去を持つ紫様なのに妙に初々しくてよかったです
勇気を出して気持ちを伝えた霊夢も素晴らしかったです