Coolier - 新生・東方創想話

こいしと煙のおじさん

2025/07/10 20:12:33
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春の終わり、川沿いの草地には、名も知らぬ野花が揺れていた。
風が吹くたび、遠くの山肌に霞がかかり、静かに幻想郷の境界をなぞる。
 
その河川敷に、ひとりの男が座っていた。
背中は丸くない。だが、どこか疲れて見える。
くたびれた上着に、無精ひげ。口数は少なく、表情はほとんど変わらない。
手には、銀色の煙草ケースがあり、
火をつけた一本の煙草が、彼の指の間でゆっくりと揺れていた。
煙は、まるで過去の記憶のように、形を持たずに空へ昇っていく。
 
男――名も記憶も持たぬ彼は、
いつからここにいたのか、どこから来たのか、思い出せなかった。
分かるのはただひとつ。
この煙草だけが、自分と過去をつなぐ唯一のものだということ。

「....風が強くなったな」
誰に言うでもなく、ぽつりと呟いた。
川のせせらぎだけが、応えるように流れている。
そして――そのすぐ背後に、
ひとりの少女が立っていた。
風に揺れる帽子、スカートの裾、小さな靴音。
淡く艶やかな緑色の髪、胸に咲いたような意匠の第三の目。
だが、それは閉じられていて、感情の色を宿していない。
少女の名は、古明地こいし。
誰の目にも映らぬよう、無意識のまま歩く存在。
その気になれば、すれ違う者すら彼女を“認識”できない。
ただ、今日はなんとなく、川の方へ歩いてきただけだった。
風に誘われたように。
あるいは、煙の匂いに釣られるように。
こいしは、男の背中をじっと見つめた。
そのままそっと、近づいて――声も音もなく、隣に立つ。
それでも、彼は煙草の火を絶やさず、視線を空に向けたままだ。
そして、数秒後。
まるで当然のように、彼は言った。
「....嬢ちゃん、なんか用かい?」
こいしのまぶたが、わずかに震えた。

無意識の能力を“すり抜けて”、自分の存在に気づいた人間など――今までに、いなかった。

「....おじさん、どうしてわたしが見えるの?」
「さぁな。....ただ、煙草の煙が揺れてると思ったら、そっちに誰かいる気がしてな」
「ふうん.....変わった人」
こいしは、男の横にちょこんと座った。
何かを期待しているわけではない。
ただ、風の音を聞いていたいだけ。
男も、特に何を言うでもなく、煙草をくゆらせていた。
「名前、あるの?」
「....たぶん、あった。けど思い出せねぇ」
「ふーん」
「でもまあ、困っちゃいない。ひとりでぼーっとしてるのは嫌いじゃないしな」
「でも、煙草吸ってるだけじゃ、さびしいよ?」
「....それはどうだかな」
煙草の火が短くなり、男はそれを指先で軽くもみ消す。
銀のケースにしまい、次の一本には手を伸ばさなかった。
こいしは、すこしだけ横目で彼を見る。

「“無”に似た人」――それが、彼女の第一印象だった。
けれどその“無”は、空白ではなく、何かを埋めようとしている“余白”のようだった。
「....嬢ちゃん、名前は?」
「こいし。古明地こいし」
「変わった名だな」
「うん。よく言われる」
風が吹く。
野花が揺れる。
煙草の匂いは消えて、空だけがどこまでも高い。
こいしは、ふとつぶやいた。
「.....わたしね、心を閉じてるの」
「ほう」
「でも、おじさんの煙の匂い.....なんだか、懐かしい気がした」
男は何も答えなかった。
ただ、もう一本煙草を取り出し、火をつける。
そして静かに空を見上げながら、ひとことだけ。
「.....そいつぁ、不思議だな」
こいしは、くすりと笑った。
風が笑い声を連れていく。
それが、ふたりの最初の午後だった。

日が暮れるのは、だいたい決まっている。
けれど――こいしが彼のもとに現れる時間は、決まっていなかった。
朝の霧の中だったり、
昼の木陰だったり、
夜明け前の河原だったり。
それでも、男はいつも、同じようにそこにいた。
草の上に座り、煙草をくゆらせ、風の音に目を細める。
 
「よく飽きないね」
「飽きたら、他の場所に行くだけだ」
「行かないでよ」
「.....何だ、もう寂しいのか」
「別に。おじさんがいなくても、わたしは気づかないかもしれないし」

こいしは、そう言いながら
男の隣に並んで歩くようになっていた。
二人は川べりの土手を、なんとなく歩く。
彼女は時折、草の上に寝転んだり、流れてきた木の枝を拾ったり。
男は特に何もせず、ただ一定の歩幅でついてくる。
「こいし」
「なに?」
「俺が“前は何をしていたか”、お前は知らないか?」
こいしは、少し考えたあと、
ぱっと顔を上げた。
「ううん、知らない。でも、あなた.....人を怒らせるような人じゃなかったと思うよ」
「.....根拠は?」
「“言葉を選ぶ癖”がある。きっと昔も、誰かにそう教わったんだと思う」

男は目を伏せた。
沈黙が流れる。
こいしはそれ以上、何も言わなかった。
彼が話すかどうかは、彼の中にあるものの速度にまかせる。
「.....お前は、何してるんだ?」
「うーん。わたしはね、“ただ歩いてる”だけ」
「歩いて、どこへ行く?」
「行きたいところがあったら、そこに」
「今は?」
「おじさんの隣かな」
男は、煙草の火を指で弾いた。
火が消える音はなかったけれど、空気がほんの少しだけ揺れた。
「....変な奴だな」
「おじさんもね」
そのあと、ふたりはふたたび黙って歩いた。
けれど、その沈黙は居心地が悪いものではなかった。
風が吹いて、草を撫でる。
水面に映った雲が流れていく。
そのすべてが、会話のようだった。
こいしは、ふと立ち止まり、背を向けたまま呟いた。
「.....おじさんのこと、もっと覚えていたいな」
「.....」
「わたし、忘れやすいから。“気持ち”とか、“印象”とか、すぐにどこかへ消えてく」
「そうか」
「でもね、おじさんの煙の匂いだけは、すごく残ってるの。不思議だよね」
男は、少しだけ笑った。
目元に、ほんの微かなしわが寄った気がした。
「そうか。なら、明日も煙をつけよう」
「ほんと?」
「ああ。....煙が、お前をここに連れてくるならな」
こいしは、ぱっと笑顔を浮かべた。
目を閉じたままでも、その笑顔はちゃんと“届いて”いた。
風がふたりの間を抜けていく。
夕焼けの光が、水面に滲んでゆく。
そのとき、こいしは初めて気づいた。
自分の心が、“誰かと並んでいる”ことを、嬉しいと思っているということに。
 
その日、こいしは神社の鳥居の近くまで足を延ばしていた。
空は薄曇り。
風はあたたかくも、どこか重い。
普段は誰にも気づかれない――はずのこいしに、巫女が声をかけた。
 
「最近、あんた.....誰かと一緒にいるわね」
 
霊夢だった。
淡々と、けれど核心を射抜くように言う。
こいしは、少し目を見開いたが、すぐに肩をすくめた。
 
「見てたの?」
「見えたの。“気配”っていうのは、誰かに何かが移ったときに残るのよ」
「ふーん.....。ねえ霊夢、記憶ってどうして消えるんだろうね?」
「知らないわよ。けど、消えたものは“どこかに残ってる”と思う。本人が覚えてなくても、誰かの中には――ね」
 
こいしは、それを聞いて黙り込んだ。
足元の石畳の隙間に、小さなタンポポが咲いている。
彼の中には記憶がない。
でも、自分の中に“彼との記憶”が生まれつつある――それは確かだった。
そして、それが怖かった。
 
その日の午後、こいしは土手に降りるのが少し遅れた。
彼は、いつものように草の上に座り、煙草に火をつけていた。
だが、火がついた煙草を見つめながら、静かに言った。
 
「.....嬢ちゃん。今日は来ないかと思った」
「ちょっと考えごとをしてたの」
「珍しいな。お前がそんな顔するのは」
「.....おじさんは、いなくなったらどうするの?」
「は?」
「いなくなるとしたら....いつ? どこに行くの?」
 
男は煙を吐き出して、しばらく空を見上げた。
風が草をなびかせ、空に薄い雲が流れていく。
 
「.....さぁな」
「答えになってない」
「それが答えだよ。俺は自分が“何者だったか”すら分からない。けど、ここで煙を吸ってる間だけは、自分が“ここにいる”って思える」
 
こいしは、その言葉に目を伏せた。
「煙がなければ.....?」
「“お前が来れば”、それでいいかもしれんな」
 
こいしの第三の目は、閉じたままだった。
けれど、そこに微かな“痛み”のような感覚が差し込む。
感情。気配。思い出。名残。
そうしたものを切り離していたはずの自分に、今、それが少しずつ“染み込んでくる”。
 
「....わたしね。無意識でいる方が、楽だったの」
「そうかもな」
「でも、あなたに会ってから、“思い出すのが怖い”って気持ちが生まれた。忘れてたはずの感情が、時々チクッとするの」
 
男は煙草の火を落とし、銀のケースを閉じる。
「.....それは悪いことか?」
「分かんない。でも、思い出したくなるほど、わたしはあなたのことが“好きになった”んだと思う」
 
その言葉に、男は何も答えなかった。
ただ風の音が、その沈黙を包んだ。
 
こいしは、そっと草の上に腰を下ろした。
男の隣、ほんの少し近くに。以前より、もう少しだけ。
 
「.....記憶って、どこかにあるのかな?」
「あるさ。煙の中に、草の匂いの中に、風の音の中に。それを忘れても、“感じた”ことは、きっとお前の中に残る」
 
こいしは、その声が好きだった。
誰よりも、静かであたたかく、そして心に沁みる。
そして、自分の“心”というものが、
今まさにそこに生まれている気がした。
 
その夜、こいしは夢を見た。
誰かの背中を見ていた。
煙の匂いと、風の音があった。
だけど、それ以上のことは思い出せなかった。
ただ――
胸の中に、ぽっと灯った火だけが、まだ消えずに揺れていた。

朝露が降りた草原に、煙の匂いはなかった。
こいしが河川敷に来たとき、
そこにいたはずの男の姿は――なかった。
 
「....いない」
誰に向けた言葉でもなかった。
けれど、口に出さずにはいられなかった。
 
昨日、確かに隣で煙草を吸っていた人。
「また明日な」と呟いた声。
自分が“感じた”そのぬくもりは、まだ指先に残っている。
それなのに、そこにはもう誰もいない。
 
足元に、小さな銀の煙草ケースが落ちていた。
中には、最後の一本の煙草。
そして、小さく折りたたまれた紙片が添えられていた。
 
『嬢ちゃんへ。俺は、自分が誰だったかは思い出せなかった。
でも、お前といた時間だけは、確かに“今の俺”の記憶として残ってる。
....ありがとな。
この煙草は、お前にやる。
匂いくらいは残るだろ。風の中で吸ってくれたら、たぶん俺もそこにいる。またな。』
 
こいしは、そっと紙を握りしめた。
そして、空を見上げた。
 
「.....ずるいよ。最初から、そういう人だったくせに」
風が、頬をなでた。
髪を揺らし、目に見えない“なにか”を運んでいく。
 
こいしは、そのまま草の上に座った。
ケースから煙草を取り出し、マッチを擦る。
 
「煙草って、こんなに苦かったっけ.....」
口にくわえた煙草の火はすぐに消えてしまった。
けれど、それでも煙は、ほんの少しだけ立ち上った。
その匂いを、こいしは目を閉じて嗅いだ。
記憶のない男。
名前を呼んだことのない人。
でも、自分が“初めて覚えた誰か”。
そして――もう、二度と会えない誰か。
 
「.....あなたが、わたしの記憶になったんだよ」
こいしは、そっと笑った。
泣くことはできない。
でも、確かに胸の奥が少しだけ、きゅっとした。
風が、まるで応えるように吹いた。
草が揺れる。雲が流れる。
そして、煙が空へと消えていく。
 
こいしは、静かに立ち上がった。
第三の目は閉じたまま。
けれど、心の中には“確かに誰かがいた”という記憶が残っている。
その人は、「煙草が好きで」「無口で」「嬢ちゃん」と呼んでくれて――
 
こいしは、もう一度だけ空を見て、そっと呟いた。
 
「――またね、おじさん」
 
そして、歩き出した。
記憶は、煙のように消えるかもしれない。
けれど、ぬくもりは風に溶けて、きっとまた誰かの心に残る。
それが、忘れることしか知らなかった少女が、
初めて“残したい”と願った記憶の話だった。
 
 
ここまで読んで頂きありがとうございました。
他の作品も読んで頂けると嬉しく思います。
Mr
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コメント



0.簡易評価なし
1.90ローファル削除
名前を知っていても紙片の宛名には「嬢ちゃん」としか書かれていないところに
男とこいしが世界から切り離された場所で確かに二人きりで過ごした時間があったことが
現れているように思いました。
面白かったです。
2.90奇声を発する程度の能力削除
良かったです
3.100南条削除
面白かったです
あっさりした消え方が本当に煙のようなおじさんでした
4.100名前が無い程度の能力削除
消えてもちょっと残る、すてきな話でした。
5.50名前が無い程度の能力削除
なんだか、良くわかんなかったです!
でもいい雰囲気(?)だったので50点!
6.100物語を読む程度の能力削除
私なんかの低脳には理解が難しかったですが、面白かったです!すごく読みやすかったです。