Coolier - 新生・東方創想話

晩餐

2025/06/07 17:36:14
最終更新
サイズ
26.34KB
ページ数
2
閲覧数
622
評価数
7/10
POINT
830
Rate
15.55

分類タグ

一.イタリア、十九世紀
 ジュゼッペ・コルテは壁にかけられた振り子時計が夜九時の鐘を鳴らすのに合わせて舌打ちした。もう寝なければならない時間だ。コルテ家はナポリの町では中流階級の中か上と言って差支えのない、そこそこ裕福な家で、妻一人と子供二人を養いながら家に書斎を構えて本を読むことができるくらいの余裕はあった。だが、だからといって灯りに油を自由に使えるわけでもない。
 ランプの火を消すと部屋は真っ暗になった。ジュゼッペは手探りで壁を伝い書斎のドアノブに手をかける。月が出る夜ならばどうにかしてあと十分くらいは本を読んでいられるのだが。ジュゼッペは新月の夜が嫌いだった。
 部屋から出る瞬間、ジュゼッペは背後に視線を感じた。
「ステファノ?」
 ジュゼッペは振り返って息子の名前を呼んだ。いたずら好きな息子が知らぬ間に書斎に侵入しかくれんぼしている可能性をまず最初に疑ったのである。が、返事も、例えば驚いた視線の主が机のペン立てを揺らすとか、そういう音も返ってこない。
 ステファノではなさそうだ。よくよく考えると当たり前で、ステファノも、ステファノの妹のカタリナも、もう妻と一緒の部屋で寝てるに違いないのだ。
 とはいえ他の可能性は思いつかなかった。ペットも飼っていない。ジュゼッペは犬でも飼っておこうかと思った。犬がいたら、何者かが侵入したら吠えてくれる。もし吠えない犬でも、とりあえず意味不明な視線を飼い犬のせいということにしておける。
 ジュゼッペは書斎が相変わらず無音を貫いているのを確認して、今回は気のせいなのだと思うことにした。振り返ってから一、二分は経っただろうが月の光一つないのでは目が慣れる慣れないの問題どころではなく何も見えやしない。見えないのなら、何も存在しないのと同じことだ。
 万に一つステファノのかくれんぼの可能性は鑑みて、ジュゼッペは書斎に鍵はかけず寝室に向かった。





 翌朝、朝食のためにダイニングに降りたジュゼッペは、ステファノが妻に叱られているのを見つけた。
「どうしたんだ」
「どうしたもこうしたもありません。ほらこれ」
 ジュゼッペの妻、ソフィアは苛立たしげに右手に持っているものを突きつけた。それはハムの塊だったが、雑に食い荒らされてる。
「いくら食べ盛りだからって、やっていいことと悪いことがあるでしょ!!」
「僕じゃないもん!!」
 ステファノは涙目で反駁する。ジュゼッペはその様子、ではなくソフィアが持っているハムを観察した。家事を妻に任せっきりにしているジュゼッペは、そのハムが元々どのくらいの大きさだったのかも正確には把握してないが、残っている部分から予想することはできる。そして、その差分、つまり食べられている箇所は、ステファノというまだ十歳にも満たない男児一人の犯行とするにはいささか多すぎるような気がした。
「じゃあなんなの? カタリナのせいだっていうの? まだよちよち歩きのあの子がハムを食べるわけないでしょ!!」
「カタリナのせいだっては言わないよ。でも僕のせいでもないんだ。神様に誓って」
 ジュゼッペは泣きわめくステファノの前にしゃがんで頬を手で押さえた。
「あなた!!」
「ひぐっ……。ぶたないで……」
「ぶったりしないよ。口の匂いを嗅がせておくれ」
 朝っぱらから叱られているのだから当然のこととして、ステファノはまだ朝食を食べていない。だからもし夜中ハムを食べていたのならその匂いが残っているはずなのだが、ハムの匂いはしない。
「ステファノじゃなさそうだ。歯の間にもハムのかけら一つついちゃいない」
「でもあなた、ハムについている歯型は子供のものですよ」
「ステファノのものにしちゃあ、少しだけ大きすぎるんじゃないか? まあ、歯型をとってみるなんてことをするつもりはないけれど」
 ソフィアからしてみればステファノ以外にこれをやりそうないしできる者は思いつかないから、ステファノが犯人でなければならない、くらいの気持ちで詰問していた。なので夫がどうしてここまでステファノの肩を持つのかが分からなかった。
「ステファノがやったんじゃないとしたら、誰がやったっていうの」
「さあ? でも、ステファノがやったのではないってのは確かなんだ。無実の者に罪をかぶせるのは神のご意思に反する」
 ジュゼッペに諭されて、怒りで赤くなっていたソフィアは冷静になったが、それも通り越して今度は青ざめることとなった。確かに、証拠はステファノの有罪ではなくステファノの無罪を示している。が、それは同時に得体の知れているもの全てが犯人ではないということも示していて、これをした何か得体のしれないものが家の中にいるということになる。
「ネズミか何かかしら。嫌ねぇ」
 歯型でステファノが犯人でないのだとしたらネズミはもっと犯人ではないが、ソフィアはそう思い込むことにした。そう思い込みたかった。
「カタリナを起こしに行かないと……」
 そしてその場から逃げるように慌ただしげに階段を登っていった。
 ジュゼッペは昨晩書斎で感じた視線を思い出した。いや、まさかな。ジュゼッペは書斎を確認しに行こうかと少し足首を回したが、すぐにやめた。仮にそれが犯人だとしてもう書斎にはいないような気がした。なんとなくだが。
「今夜は僕も君の部屋で寝るとしよう。そうすれば万一があっても命は多少安全にはなるだろうし、少なくとも僕ら全員犯人ではないというのがはっきりする」
 ジュゼッペはカタリナを抱えてダイニングに戻ってきた妻にそう提案した。
「だから僕じゃないもん!!」
「知ってるよ。それにしても、そのハム勿体ないね。どっかの誰かも、せめてナイフとフォークを使って綺麗に食べてくれたら余った部分を捨てなくていいのに」
 ジュゼッペは疑念と得体のしれないものへの恐怖に支配された場の空気をなんとかしようと、軽口をたたいた。





 翌朝。ジュゼッペとソフィアは台所の光景を前に呆然と立ち尽くした。
 昨晩もハムが盗み食いされ、更にはチーズも被害に遭ったらしい。が、前の害獣が食い荒らしたかのような惨状から一転して、ご丁寧にも端から三分の一くらいを刃物で切って取り分ける食べ方をしていて、使ったと思われる皿とナイフとフォークが一箇所にまとめて遺されていた。
 二人は顔を見合わせて、ステファノの方を同時にちらりと見た。二人の息子にして元容疑者は、パンくずを上半身の服の上に大量にこぼしながら朝食をとっていた。躾ければ外に出しても恥ずかしくないテーブルマナーで食べてくれるとしても、一人盗み食いするのにこうも丁寧にする子ではない。改めて、ステファノは犯人ではないらしい。
「番をすべきは台所の方のようだな」
 ジュゼッペはためらいがちにそう呟いた。夜の時間を台所の硬い床の上で監視をしながら過ごさなければならないというのは、お世辞にも愉快な話ではない。
「……そうね」
 ソフィアもかなり消極的に同意した。初日はジュゼッペが番をすることになったから、せめてそこで解決すれば楽なのだが、くらいに思っている。
 が、結局次の日も備蓄は食われたので、ソフィアは番の途中居眠りをする夫に呆れつつ交代した。そして、結局夫と同じ轍を踏む。聖書にも似た話があったなと、二人揃って苦笑いするしかなかった。
 その後、一ヶ月くらいは頑張ってみたが、結局犯人は分からなかった。慣れてくると食べ物が入った棚の扉を塞ぐようにして寝ることを覚えたり一晩中起きたりできるようにはなり、そういう日は被害は出ないが、つい一時間でも寝てしまうとその間に何かが食われる。酷いときには起きていたのに真っ暗な台所の中で何が起こったのか分からないままにベーコンが消えていることもあった(どういうわけか、この何者かはたまに乳製品を盗む以外は肉ばっかり標的にしていた)。だからといって、食べ物の損を防ぐために台所の灯りに油を使っていては本末転倒なのである。
 大体、仕事に家事に子育てにと忙しい中で意味不明な盗人への対応を続けていては神経がどんなに太くても擦り切れてしまうというものだ。
 翌月最初のミサが終わった後、ジュゼッペは神父にこの件を相談することにした。
「どうしましたジュゼッペさん」
「すみません神父様。おりいってご相談したいことが……」
「構いませんが、人目をはばかることであれば場所を変えることもできますよ」
「ああいえ、個人的な罪の告白ではないのでそこは大丈夫です。実はですね、我が家に泥棒が住み着いているらしくて」
 ジュゼッペは事のあらましを話した。神父は頷きながら聞いていた。
「ふむ。それはおそらくルーミアですな」
「ルーミア?」
「悪霊の類です。古代ローマの時代から報告がなされていて、当時はラテン語で『光』を意味するルーメンと呼ばれていたのが訛ってそう呼び名が変わった。その名に反して、必ず暗闇の中に現れるのですが」
 悪霊と聞いて、ジュゼッペは身構えた。
「ああそんなにご心配なさらず。悪霊の中では最も無害な部類です。食べ物以外の被害は出ていないでしょう? 病人や老人、子供が一人で何時間もいて、という環境だと稀に食べられてしまうらしいのですが、ジュゼッペさんのお宅ならば大丈夫でしょう」
 台所の番があまりにも大変なので夫婦二人共台所に行って交代で寝るやり方にしようかと思ったことが一度だけあった。実行に移していたらどうなっていたことか。ジュゼッペは震えた。
「我が子のことは常に見ておけと」
「それが第一です」
「しかしいくら無害な方といえども悪霊は悪霊でしょう。頻繁に食べ物がなくなるとなると」
「ルーミアも悪霊ですから神聖なるものを嫌います」
「神聖なるもの、というと十字架でしょうか。それを台所に置いておけば」
「いえ、残念ながら。我ら神を信ずる者にとって十字架とは神聖の象徴ですが、不信心なるあれにとっては只の縦棒と横棒です。例えば吸血鬼には十字架が効きますが、それは吸血鬼に墜ちた者にもかつては信仰心があったため。ルーミアは神を信じたことがないのです。だからもっと普遍的に効果のあるものがよい」
 神父はジュゼッペに手招きして教会の入り口の方に出た。
「聖水盤から水を汲みなさい。皿に入れて置いておけば、数日は魔よけになるでしょう」
 ジュゼッペは神父に丁寧に礼を述べて、神父から借りた瓶に水を汲んだ。
「懐かしい気分になりましたよ」
 神父は水を汲み終わったジュゼッペに、唐突にそう話しかけた。
「懐かしい、ですか」
「ジュゼッペさんの話を聞いて思い出しました。昔、私の家にも出没したのです。こういうことをしていますから退治しようと思えばすぐにでもできたし、実際そうしたのですが……」
 神父は少し目を伏せた。
「あれは正しいことだったのか、と今になると思います。申命記にはこういう律法が書かれています『国のうちにいるあなたがたの兄弟の悩んでいる者と貧しい者に、必ずあなたの手を開かなければならない』。施しとは等しく主によって祝福された隣人を愛せよ、ということならばルーミアは人ではないから、と正当化するこももできますが、しかしあれもまた、そうせねば生きていけない祝福されるべき隣人のうちではないか、とも思うのです」
「それは……私に退治せずルーミアが我が家のものを食い荒らすのをただ許せと、そうおっしゃるのですか?」
「いえ、ジュゼッペさんにはジュゼッペさんの、そしてコルテ家としての生活があるでしょうし、それに、他の神父なら退治すべきと言うかもしれない。我々は主のご意思を少しでも正しく知ろうと努力はしますが、どうしても我々が主本人ではなくあくまでその伝道者でしかないが故に一つの答えを出し得ない問題というのがあり、これもその一つなのです。ただ確かなこととして、あなたが家族を守ろうと努力してきたこと、そしてあなた自身にそのつもりがなく結果的にそうなったとしても、ルーミアという持たざる存在に与えたことを主は見ておられ、祝福されることでしょう。きっと苦しみからも許されることでしょうが、もし解決しなかったら、もう一度私に相談して下さい」





 ナポリの街にガス灯が点いたのはそれから五年後のことで、しばらくするとコルテ家にもガスが配線された。
 ジュゼッペは書斎で本を読んでいた。ガス以前に比べて一時間は遅い時間まで本を読むことができるようになっていた。ガスによって信じられないくらい夜が明るくなった、というより、ガスがない時代の夜は信じられないくらい暗かった。
 ジュゼッペはふとルーミアのことを思い出した。あれ以来、ルーミアが何かをすることはなかった気がする。聖水に効き目があったのだろうか。それともどうにもならず神父にもう一度相談に行きどうにかしてもらった(その場合は多分、神父が引き取っていったという流れになったのだろう)という部分の記憶を忘却してしまっているのだろうか?
 ジュゼッペは少しだけ懐かしい気持ちになった。これが神父が自分の話を聞いたときに覚えた感情か。しかし、ジュゼッペのそれは「今が平穏で便利ならそれでいいじゃないか」という気持ちの前に一瞬で霧散するものだった。
 ジュゼッペは神父ほどには信心深くはなかった。そしてステファノやカタリナはもっと。ジュゼッペはそれ以来ルーミアのことを思い出すことはなかったし、彼の子供たちはルーミアが姿を見せなくなって以来一度たりともその話題を口にすることはなかった。

コメントは最後のページに表示されます。