春は嫌いだ。
それは古明地さとりが年中思っていることのひとつだった。地底に住む者にとって、四季のうつろいなど無縁のものだ。それでも、ときおり吹き上がる暖かな風や、上から舞い落ちてくる花びらの気配が、無性に鼻につく。
――だから、なんの気まぐれか自分がこうして地上に出てきたことにも、正直いささか後悔していた。
「やっぱり、来るべきじゃなかったわね....」
ため息とともに吐き出された独白は、誰に届くでもなく空に溶けていった。
道行く人間たちの心の中は、花見だの、名物団子だの、他愛のない喜びに満ちているかと思えば、その裏で隣人への妬みやら、恋人の不誠実への疑念やらが渦巻いていた。 彼らは笑顔で語らいながら、同時に互いの心に小さな爪を立てあっている。
さとりには、それがすべて「視えて」しまう。だからこそ、彼女は人の群れを避け、森の奥の草原へと足を運んでいた。
そして――そこで、彼女は出会ったのだ。
木陰の下、春の陽射しを浴びながら、男が一人、うたた寝をしていた。 見慣れぬ顔。
地上の人間らしい服装だが、どこか浮世離れしている。にもかかわらず、その寝顔は不思議なほど穏やかで、なぜか見過ごせなかった。 さとりは警戒心から、とっさに彼の心を読んだ。
――.....なに、この人。
驚いた。 そこには虚飾も打算もなかった。
ただ「春の日差しが心地よいな」「風が気持ちいいな」といった、ごく単純な感情が流れているだけ。 人間というのは、大抵もっとぐちゃぐちゃな思考を抱えているものだ。過去の後悔とか、未来の不安とか、他人への嫉妬とか。 だがこの男には、そうした影がまるでない。まるで、子どものような。
「....起きなさい。焼けるわよ、その顔」
つい声が出た。
自分でも意外だった。
だが、それに反応して青年がゆっくりと目を開けた。
「....ああ、こんにちは。あなたも日向ぼっこ?」 「....違うけど。あなた、ここで何してたの?」
青年はのんびりと身を起こすと、芝に手をつき、空を見上げながら言った。
「いい天気だと思って。風が気持ちよくて、つい……寝てました」 「そのまま獣にでも食べられたらどうするつもり?」 「そしたら、きっとそれも仕方なかったって思います。……あ、でもあなたが起こしてくれたから、助かりました」
――呆れるしかなかった。 けれど、その心の中を見ても、やはり嘘はない。
これほど無防備な人間が、ほんとうに存在するのか。
古明地さとりは、久々に“心を読んだのに理解できない相手”に出会ったのだった。
「....あの、あなたは誰ですか?」
青年の問いに、さとりは一瞬だけ逡巡する。
名乗ることなど、今まで数えるほどしかなかった。
どうせ誰にも好かれないし、名を覚えられても迷惑になるだけだから。
だがこの青年は、きっと名を聞いても引かないだろう――そう直感して、口を開いた。
「....古明地さとり。地底の妖怪よ。人の心が読める、嫌われ者」 「へぇ....さとりさん。綺麗な名前ですね」
反射的に心を読んだ。
嘘ではない。
本心からそう思っている。 ――ほんとうに、バカなんじゃないかしら。
「あなたは?」
「ん? 僕ですか? ....あんまり自分に名前とかつけて考えたこと、ないかもしれません」 「はぁ?」 「必要なときに名乗れば、それでいいかなって。今日の僕は、『春の風に吹かれてるお兄さん』でいいかも」
とんでもなくふざけた答えだったが、その裏にも、裏がなかった。
どこまでも真っ直ぐで、馬鹿みたいに素直で。 さとりは自分でも知らぬ間に、唇の端が微かに持ち上がっているのを感じた。
「....どうして、そんなに人を疑わないの?」
問いは、心を読む力では得られない。
あえて言葉にして問うたのは、きっとそれを“彼の口”から聞きたかったからだ。
青年はほんの少しだけ考えたあと、まるで春風のような声で答えた。
「信じたいから、かな。信じられないことばかりだと、寂しくなっちゃうから」 「....そんなこと言って、何度も騙されたこと、あるでしょうに」 「うん、あります。でも――それでも、信じるのをやめたら、自分が嫌になりそうで」
その瞬間、さとりの胸にかすかな違和感が灯った。 “この人は、本当に傷ついたことがあるのだ”。だがそれを、表に出さない。 心の中にも怨みはない。
あるのは、過去の痛みに蓋をして歩くための、優しい強がりだけ。
「....ふうん。物好きな正直者ね」
青年はくすりと笑って、空を仰いだ。
空には、淡い雲が流れていた。 その様子を横目で見ながら、さとりは言った。
「....また寝てたら、今度こそ妖怪に襲われるわよ」 「そのときは、またさとりさんに助けてもらえたら嬉しいな」
「馬鹿」
その一言を残して、さとりはくるりと踵を返した。背を向ける直前、青年の心を読んでみる。そこには、「また話せるかな」「次は何を聞いてみよう」と、まるで子どものような期待が溢れていた。
....ほんとうに、変な人。
そう呟いて、さとりは春の草原を離れた。
だがその背中には、これまでにない柔らかな空気が纏わりついていた。
その日も、春の陽は優しかった。 地霊殿の庭には、地底には珍しい光が差し込み、石畳の端に咲いた花々が風に揺れている。さとりは縁側に腰を下ろし、湯呑みに注いだお茶を無言で啜っていた。
「....また来たのね」
足音もなく現れた青年に、さとりは視線も向けずに言った。 彼は地霊殿の敷地に足を踏み入れながらも、相変わらず無防備な笑みを浮かべていた。
「うん。あのあと、気になっちゃって」 「気になるって、何が?」 「さとりさんが、どんな人なのか。....いや、どんな妖怪なのか、かな」
さとりはひとつ息を吐く。声の調子は平坦だが、心の中には微かな波紋が広がっていた。
「....好奇心で来たってこと?」 「違いますよ。あのとき、話せて楽しかったから。また話したくて」 「馬鹿みたいに正直ね。普通はそういうの、少し隠すものよ?」
「じゃあ僕、普通じゃないのかも」 青年はそう言って、縁側の反対側に腰を下ろした。無遠慮ともいえるその行動に、さとりは咎めもせず、ただ静かに湯呑みを置いた。
「....まあ、あなたと話すこと自体が普通じゃないわね。私は、心を読む妖怪。地上では、忌み嫌われる存在よ」 「でも、話してみたらすごく穏やかで....柔らかい雰囲気でしたよ」 「....それは、心を読まれてるってことに気づいてないから言えるのよ」
青年は首を傾げる。
そして素朴な声で尋ねた。 「心を読めるって、どんな感じなんですか?」
「心を読むって――」 さとりは、少し間を置いてから言った。 「....それは、目の前の人間が笑っていても、頭の中では舌打ちしているのがわかるということよ」 「....」
「挨拶してきた相手が、同時に『面倒な奴が来た』って思っているのが見えるの。美辞麗句の裏に、嘲笑があることを知るの。目に映る姿と、心の中がまるで違う。そんなの、見たくて見てるわけじゃないのに、勝手に入ってくるのよ」
青年は黙って聞いていた。
その目には、否定も哀れみもなかった。
ただ、静かに受け止めようとする気配だけがあった。
「だったら、羨ましいって思います」 「....は?」 さとりは思わず聞き返した。
「心を知れるって、すごいことだと思うから。たとえ嫌なことでも、本音がわかるって、相手をちゃんと見てるってことですよね?」 「あなた、何言ってるの?」
呆れながら、さとりは青年の心を読んだ。
そこには嘘がなかった。 彼は本気で、他人の本音に触れられることを“うらやましい”と思っている。
「.....ほんとうに、変わった人ね」 「そうですか?」 「普通の人は、そんなふうに言わない。心が読めるって言うと、大抵は怖がるか、遠ざけるか、試そうとするか.....」 「僕は、どれもしたくないです」 そう答えた青年は、少し困ったように笑って続けた。
「たぶん、嘘がない人って、あんまりいないですよね。でも、全部が悪いわけじゃないと思うんです。本音って、誰かに知ってもらえると楽になることもあるんじゃないかなって」
さとりの目が、わずかに見開かれる。 彼の言葉には、利己心も、計算もない。
ただの“思いつき”のような、それでいてまっすぐな善意だけがあった。
「.....あなた、時々すごくうっとうしいこと言うわね」 「そうかもしれません」 青年は肩をすくめ、けれどまったく気にした様子はなかった。
さとりは、自分の中に沈んでいた小さな塊が、ほんの少しだけ溶けるのを感じていた。 長い間、自分にしか見えない“本音の海”に溺れそうだった心が、いま、ほんの少しだけ息継ぎをしたような感覚だった。
「昔、ちょっと痛い目に遭ったことがあるんです」 ぽつりと、青年が言った。
さとりはその言葉に、目を伏せたまま耳を傾けた。心を読むまでもなく、それが“思い出したくない過去”であることは、彼の言い回しと呼吸のリズムから察せられた。
「人を信じすぎて、裏切られて、お金も友達も失って.....でも、その人たちを恨むことができなかった」 「....できなかった、じゃなくて。しなかった、んじゃないの?」 「かもしれません。たぶん、怒ったり恨んだりするのが、僕には上手くできないんです」
さとりは静かに彼の心を覗いた。 そこには、確かに痛みがあった。裏切られた瞬間の驚き、混乱、喪失――そして、何より強かったのは、“自分を責める”気持ちだった。
「.....馬鹿ね。怒るべきところで怒らないなんて、ただの都合のいい駒にされるだけよ」 「そうかもしれない。でも、怒ると余計につらくなるから。誰かを憎んでると、自分まで苦しくなるから――それなら、信じたままでいたほうが、まだ楽なんです」
その言葉に、さとりの中で何かが弾けた。 “苦しみから目を逸らすために、優しさで包んだ”。 それは単なる甘さじゃない。
痛みを知ってなお、人を信じようとする、ひどく不器用な強さだ。
「....信じるって、そんなに価値があるものなのかしら」 「わかりません。でも、信じられたとき、嬉しかったなって思い出すんです」
その声はとても柔らかく、そして深かった。 まるで、長く張り詰めていた自分の“壁”の一角に、静かに水が染み入るような感覚だった。
「....あなたって、ほんとうに変な人ね」 「そう言われるの、今日で三回目です」
青年はいたずらっぽく笑った。
さとりは思わず小さく息を漏らした。
それが、笑いか溜息か、自分でもわからなかった。
だが確かに、いまこの瞬間、彼と話している自分は、嫌じゃないと思っていた。
陽が少し傾いてきた。 地霊殿の庭には長い影が伸び、花の香りのなかに、ほんの少し冷たい風が混じり始めていた。
青年は立ち上がり、服についた埃を軽く払うと、縁側のさとりに向き直った。
「今日は、ありがとうございました」 「....なにが?」 「話を聞いてくれて。こんなにちゃんと、誰かと話せたの、久しぶりでした」
さとりは湯呑みの縁を指でなぞりながら、視線を合わせようとはしなかった。けれど心のどこかで、その言葉が嘘ではないことを、ちゃんと感じ取っていた。
「.....気が向いたら、また来てもいいわよ」 「え?」
青年が目を丸くする。
さとりはそっぽを向いたまま、早口で続けた。
「その、別にあなたが来なくても困らないけど....まあ、暇なときなら、話くらいは聞いてあげなくもない、ってだけよ」 「....ふふ」 「な、なによ」 「いえ、嬉しかったので。じゃあ、明日も気が向きそうです」
その一言に、さとりは顔を少し赤らめた。
だが、それを隠すように立ち上がり、背中を向ける。
「....勝手にしなさい。門は開けておくけど、変な時間に来たら地獄送りよ」
「気をつけます!」
青年の笑い声が、庭に軽やかに響いた。 さとりはその背中を見送らず、ただそっと胸元のサードアイに手を添えた。
今日、心を読んでいたはずの彼に、逆に少しだけ“見透かされた”ような気がしたのだった。
その日は、空が重たく曇っていた。 地霊殿の庭に降り注ぐ光は鈍く、花も草も、昨日までの鮮やかさを少しだけ失っていた。
さとりは縁側に座り、いつもと同じ湯呑みを手にしていたが、その視線は庭を遠く眺めていた。
春の陽だまりは、どこかに隠れてしまったようだった。
やがて、聞き慣れた足音が近づいてくる。青年だった。
「.....また来たのね」 「はい...」 彼は笑ってみせたが、その笑顔にはどこか翳りがあった。
目元は疲れ、声にも覇気がない。
さとりは即座に彼の心を覗いた。 けれど、そこにはいつもの“透明さ”がなかった。 感情は、曇ったガラスの向こうにあるようで、はっきりとは読み取れなかった。
「....どうしたの。今日は元気がないわね」 「そう、見えますか?」 「見えてるわよ。あなたの“心”で、だけど」
青年は少しだけ目を伏せた。
そして、縁側に腰を下ろすと、手を膝の上で組んだ。しばしの沈黙が流れる。
「....話しても、いいですか?」 「聞くだけなら、いくらでも」
さとりはそう答えた。 自分でも気づかぬほど自然に、その言葉が口をついて出たことに、少しだけ驚いた。
「.....その人は、僕が一番信じていた人でした」
青年の声は、どこか遠くを見ていた。 さとりは黙って耳を傾けた。
心を読むまでもなく、その話の重さは言葉に滲んでいた。
「何を言っても否定されなかったし、どんな失敗も笑って受け止めてくれた。だから、僕は全部信じてたんです。....でも、全部、演技だった」
ぽつり、ぽつりと、記憶の断片が零れ落ちる。 金銭の問題、人間関係、裏での噂――青年はそのすべてを、最も信じた相手に“計算”され、崩された。
「目の前で笑いながら、裏で僕のことを『都合のいい馬鹿』って呼んでた。.....それを知った時、何も言えなかった。怒ることも、泣くこともできなかった」
さとりの中で、静かに怒りが沸き上がる。 この青年は、ただまっすぐで、何も悪くない。ただ善意を向け、信じただけだ。 それを利用し、壊して、平然と捨てた――。
「名前を教えて。私、その人を八つ裂きにできるけど?」 静かな口調だった。
感情を抑えていたのは、殺意が本物だからだ。
青年はぎょっとしてさとりを見た。
だが、すぐにその目が柔らかくなる。
「......だめです。そんなこと、絶対にしないでください」 「なぜ?あなたのために怒ってあげてるのに」 「そうじゃないんです」
青年の声は震えていた。 「さとりさんが、そんなことをしてまで、僕を守ろうとしなくていい。.....僕は、もう傷ついたけど、それでも誰かを恨むことで、あなたがまた“人から嫌われる”のが、嫌なんです」
「.....」
「あなたは、人の心を読めるからこそ、いろんなものを知りすぎてきた。僕がそれを一瞬でも“暖かいもの”だって思えたのは....あなたが優しかったから。だから、そんな力で誰かを傷つけてほしくないんです」
さとりは、返す言葉を失っていた。
――心を読めるこの力は、呪いだと思っていた。 けれどこの青年は、呪いの力が「誰かを守るために使われようとしたこと」を、否定ではなく“赦し”として受け止めた。 そしてその上で、「さとりという存在」を傷つけたくないと願っている。
「.....あなた、ほんとうに手がかかるわね」
ようやく出た言葉は、ほとんど呟きだった。
けれどその声には、あたたかいものが滲んでいた。
沈黙が、庭を包んでいた。 曇った空の下で、鳥の鳴き声すら聞こえない。だが、それは不快な静けさではなかった。
「.....さとりさん」 青年が、ゆっくりと口を開いた。
「さっき、怒ってくれて、嬉しかったです」 「怒るだけなら簡単よ。妖怪なんだから」 「でも、僕のために怒ってくれた。――心を読んでくれたから、そう思ってくれた。....ありがとう」
その言葉に、さとりの胸がわずかに震えた。 ありがとう。 この力に、その言葉をもらったのは.....初めてかもしれない。
「....私は、ただ見ていただけよ。あなたの心の中に、痛みがあったから。自分では気づいてないくらい、深い傷がね」
青年は少し目を伏せて、それから小さく笑った。
「そうかもしれません。....でも、誰かに『気づいてもらえた』って思えたとき、不思議と、少し楽になるものなんですね」
さとりはその姿を見つめていた。 心を読めるこの能力は、これまで他人との間に壁をつくるものだった。
信頼の否定であり、好意の破壊者だった。
だが今、目の前の青年は、心を読まれたうえで、自分を肯定してくれている。 そして、自分の力さえも――「人と繋がるための手段」として受け入れてくれた。
「....ほんとうに、変な人」
そう呟いたその瞬間、胸元のサードアイが、かすかに脈打った。 ぴたり、と音が聞こえたような気がした。
暖かな脈動。
それは、心の奥底に触れるような、やさしい鼓動。
呪いのように思っていたこの第三の眼が、まるで微笑んでいるように感じた。
「....ありがとうって言うべきは、私の方かもしれないわね」
さとりの言葉に、青年は穏やかに目を細めた。
「じゃあ、今日はそろそろ....帰りますね」
青年はそう言って、縁側から立ち上がった。 さとりもまた、そっと立ち上がり、彼の背を見送る。
「....また来るの?」
投げかけた問いは、声音よりもずっと柔らかかった。
青年は振り返り、いつもの笑顔で頷いた。
「ええ。また来ます。.....さとりさんが、それを嫌でなければ」
「.....嫌じゃないわ」 さとりは少しだけ俯きながら言った。 「むしろ、あなたが来ない方が、変な感じすると思うから」
青年は笑った。
その笑顔は、曇り空の下でもはっきりとあたたかくて、それを見たさとりの心の中に、微かに、でも確かに光が差した。
彼が歩き去る背中を、さとりは今度こそ見送った。 庭の上空では、分厚い雲の隙間から、一本の光が差し込んでいた。
その光は――春の陽だまりよりも、ずっとやさしく、胸に沁みた。
「やっぱり、来るべきじゃなかったわね....」
ため息とともに吐き出された独白は、誰に届くでもなく空に溶けていった。
道行く人間たちの心の中は、花見だの、名物団子だの、他愛のない喜びに満ちているかと思えば、その裏で隣人への妬みやら、恋人の不誠実への疑念やらが渦巻いていた。 彼らは笑顔で語らいながら、同時に互いの心に小さな爪を立てあっている。
さとりには、それがすべて「視えて」しまう。だからこそ、彼女は人の群れを避け、森の奥の草原へと足を運んでいた。
そして――そこで、彼女は出会ったのだ。
木陰の下、春の陽射しを浴びながら、男が一人、うたた寝をしていた。 見慣れぬ顔。
地上の人間らしい服装だが、どこか浮世離れしている。にもかかわらず、その寝顔は不思議なほど穏やかで、なぜか見過ごせなかった。 さとりは警戒心から、とっさに彼の心を読んだ。
――.....なに、この人。
驚いた。 そこには虚飾も打算もなかった。
ただ「春の日差しが心地よいな」「風が気持ちいいな」といった、ごく単純な感情が流れているだけ。 人間というのは、大抵もっとぐちゃぐちゃな思考を抱えているものだ。過去の後悔とか、未来の不安とか、他人への嫉妬とか。 だがこの男には、そうした影がまるでない。まるで、子どものような。
「....起きなさい。焼けるわよ、その顔」
つい声が出た。
自分でも意外だった。
だが、それに反応して青年がゆっくりと目を開けた。
「....ああ、こんにちは。あなたも日向ぼっこ?」 「....違うけど。あなた、ここで何してたの?」
青年はのんびりと身を起こすと、芝に手をつき、空を見上げながら言った。
「いい天気だと思って。風が気持ちよくて、つい……寝てました」 「そのまま獣にでも食べられたらどうするつもり?」 「そしたら、きっとそれも仕方なかったって思います。……あ、でもあなたが起こしてくれたから、助かりました」
――呆れるしかなかった。 けれど、その心の中を見ても、やはり嘘はない。
これほど無防備な人間が、ほんとうに存在するのか。
古明地さとりは、久々に“心を読んだのに理解できない相手”に出会ったのだった。
「....あの、あなたは誰ですか?」
青年の問いに、さとりは一瞬だけ逡巡する。
名乗ることなど、今まで数えるほどしかなかった。
どうせ誰にも好かれないし、名を覚えられても迷惑になるだけだから。
だがこの青年は、きっと名を聞いても引かないだろう――そう直感して、口を開いた。
「....古明地さとり。地底の妖怪よ。人の心が読める、嫌われ者」 「へぇ....さとりさん。綺麗な名前ですね」
反射的に心を読んだ。
嘘ではない。
本心からそう思っている。 ――ほんとうに、バカなんじゃないかしら。
「あなたは?」
「ん? 僕ですか? ....あんまり自分に名前とかつけて考えたこと、ないかもしれません」 「はぁ?」 「必要なときに名乗れば、それでいいかなって。今日の僕は、『春の風に吹かれてるお兄さん』でいいかも」
とんでもなくふざけた答えだったが、その裏にも、裏がなかった。
どこまでも真っ直ぐで、馬鹿みたいに素直で。 さとりは自分でも知らぬ間に、唇の端が微かに持ち上がっているのを感じた。
「....どうして、そんなに人を疑わないの?」
問いは、心を読む力では得られない。
あえて言葉にして問うたのは、きっとそれを“彼の口”から聞きたかったからだ。
青年はほんの少しだけ考えたあと、まるで春風のような声で答えた。
「信じたいから、かな。信じられないことばかりだと、寂しくなっちゃうから」 「....そんなこと言って、何度も騙されたこと、あるでしょうに」 「うん、あります。でも――それでも、信じるのをやめたら、自分が嫌になりそうで」
その瞬間、さとりの胸にかすかな違和感が灯った。 “この人は、本当に傷ついたことがあるのだ”。だがそれを、表に出さない。 心の中にも怨みはない。
あるのは、過去の痛みに蓋をして歩くための、優しい強がりだけ。
「....ふうん。物好きな正直者ね」
青年はくすりと笑って、空を仰いだ。
空には、淡い雲が流れていた。 その様子を横目で見ながら、さとりは言った。
「....また寝てたら、今度こそ妖怪に襲われるわよ」 「そのときは、またさとりさんに助けてもらえたら嬉しいな」
「馬鹿」
その一言を残して、さとりはくるりと踵を返した。背を向ける直前、青年の心を読んでみる。そこには、「また話せるかな」「次は何を聞いてみよう」と、まるで子どものような期待が溢れていた。
....ほんとうに、変な人。
そう呟いて、さとりは春の草原を離れた。
だがその背中には、これまでにない柔らかな空気が纏わりついていた。
その日も、春の陽は優しかった。 地霊殿の庭には、地底には珍しい光が差し込み、石畳の端に咲いた花々が風に揺れている。さとりは縁側に腰を下ろし、湯呑みに注いだお茶を無言で啜っていた。
「....また来たのね」
足音もなく現れた青年に、さとりは視線も向けずに言った。 彼は地霊殿の敷地に足を踏み入れながらも、相変わらず無防備な笑みを浮かべていた。
「うん。あのあと、気になっちゃって」 「気になるって、何が?」 「さとりさんが、どんな人なのか。....いや、どんな妖怪なのか、かな」
さとりはひとつ息を吐く。声の調子は平坦だが、心の中には微かな波紋が広がっていた。
「....好奇心で来たってこと?」 「違いますよ。あのとき、話せて楽しかったから。また話したくて」 「馬鹿みたいに正直ね。普通はそういうの、少し隠すものよ?」
「じゃあ僕、普通じゃないのかも」 青年はそう言って、縁側の反対側に腰を下ろした。無遠慮ともいえるその行動に、さとりは咎めもせず、ただ静かに湯呑みを置いた。
「....まあ、あなたと話すこと自体が普通じゃないわね。私は、心を読む妖怪。地上では、忌み嫌われる存在よ」 「でも、話してみたらすごく穏やかで....柔らかい雰囲気でしたよ」 「....それは、心を読まれてるってことに気づいてないから言えるのよ」
青年は首を傾げる。
そして素朴な声で尋ねた。 「心を読めるって、どんな感じなんですか?」
「心を読むって――」 さとりは、少し間を置いてから言った。 「....それは、目の前の人間が笑っていても、頭の中では舌打ちしているのがわかるということよ」 「....」
「挨拶してきた相手が、同時に『面倒な奴が来た』って思っているのが見えるの。美辞麗句の裏に、嘲笑があることを知るの。目に映る姿と、心の中がまるで違う。そんなの、見たくて見てるわけじゃないのに、勝手に入ってくるのよ」
青年は黙って聞いていた。
その目には、否定も哀れみもなかった。
ただ、静かに受け止めようとする気配だけがあった。
「だったら、羨ましいって思います」 「....は?」 さとりは思わず聞き返した。
「心を知れるって、すごいことだと思うから。たとえ嫌なことでも、本音がわかるって、相手をちゃんと見てるってことですよね?」 「あなた、何言ってるの?」
呆れながら、さとりは青年の心を読んだ。
そこには嘘がなかった。 彼は本気で、他人の本音に触れられることを“うらやましい”と思っている。
「.....ほんとうに、変わった人ね」 「そうですか?」 「普通の人は、そんなふうに言わない。心が読めるって言うと、大抵は怖がるか、遠ざけるか、試そうとするか.....」 「僕は、どれもしたくないです」 そう答えた青年は、少し困ったように笑って続けた。
「たぶん、嘘がない人って、あんまりいないですよね。でも、全部が悪いわけじゃないと思うんです。本音って、誰かに知ってもらえると楽になることもあるんじゃないかなって」
さとりの目が、わずかに見開かれる。 彼の言葉には、利己心も、計算もない。
ただの“思いつき”のような、それでいてまっすぐな善意だけがあった。
「.....あなた、時々すごくうっとうしいこと言うわね」 「そうかもしれません」 青年は肩をすくめ、けれどまったく気にした様子はなかった。
さとりは、自分の中に沈んでいた小さな塊が、ほんの少しだけ溶けるのを感じていた。 長い間、自分にしか見えない“本音の海”に溺れそうだった心が、いま、ほんの少しだけ息継ぎをしたような感覚だった。
「昔、ちょっと痛い目に遭ったことがあるんです」 ぽつりと、青年が言った。
さとりはその言葉に、目を伏せたまま耳を傾けた。心を読むまでもなく、それが“思い出したくない過去”であることは、彼の言い回しと呼吸のリズムから察せられた。
「人を信じすぎて、裏切られて、お金も友達も失って.....でも、その人たちを恨むことができなかった」 「....できなかった、じゃなくて。しなかった、んじゃないの?」 「かもしれません。たぶん、怒ったり恨んだりするのが、僕には上手くできないんです」
さとりは静かに彼の心を覗いた。 そこには、確かに痛みがあった。裏切られた瞬間の驚き、混乱、喪失――そして、何より強かったのは、“自分を責める”気持ちだった。
「.....馬鹿ね。怒るべきところで怒らないなんて、ただの都合のいい駒にされるだけよ」 「そうかもしれない。でも、怒ると余計につらくなるから。誰かを憎んでると、自分まで苦しくなるから――それなら、信じたままでいたほうが、まだ楽なんです」
その言葉に、さとりの中で何かが弾けた。 “苦しみから目を逸らすために、優しさで包んだ”。 それは単なる甘さじゃない。
痛みを知ってなお、人を信じようとする、ひどく不器用な強さだ。
「....信じるって、そんなに価値があるものなのかしら」 「わかりません。でも、信じられたとき、嬉しかったなって思い出すんです」
その声はとても柔らかく、そして深かった。 まるで、長く張り詰めていた自分の“壁”の一角に、静かに水が染み入るような感覚だった。
「....あなたって、ほんとうに変な人ね」 「そう言われるの、今日で三回目です」
青年はいたずらっぽく笑った。
さとりは思わず小さく息を漏らした。
それが、笑いか溜息か、自分でもわからなかった。
だが確かに、いまこの瞬間、彼と話している自分は、嫌じゃないと思っていた。
陽が少し傾いてきた。 地霊殿の庭には長い影が伸び、花の香りのなかに、ほんの少し冷たい風が混じり始めていた。
青年は立ち上がり、服についた埃を軽く払うと、縁側のさとりに向き直った。
「今日は、ありがとうございました」 「....なにが?」 「話を聞いてくれて。こんなにちゃんと、誰かと話せたの、久しぶりでした」
さとりは湯呑みの縁を指でなぞりながら、視線を合わせようとはしなかった。けれど心のどこかで、その言葉が嘘ではないことを、ちゃんと感じ取っていた。
「.....気が向いたら、また来てもいいわよ」 「え?」
青年が目を丸くする。
さとりはそっぽを向いたまま、早口で続けた。
「その、別にあなたが来なくても困らないけど....まあ、暇なときなら、話くらいは聞いてあげなくもない、ってだけよ」 「....ふふ」 「な、なによ」 「いえ、嬉しかったので。じゃあ、明日も気が向きそうです」
その一言に、さとりは顔を少し赤らめた。
だが、それを隠すように立ち上がり、背中を向ける。
「....勝手にしなさい。門は開けておくけど、変な時間に来たら地獄送りよ」
「気をつけます!」
青年の笑い声が、庭に軽やかに響いた。 さとりはその背中を見送らず、ただそっと胸元のサードアイに手を添えた。
今日、心を読んでいたはずの彼に、逆に少しだけ“見透かされた”ような気がしたのだった。
その日は、空が重たく曇っていた。 地霊殿の庭に降り注ぐ光は鈍く、花も草も、昨日までの鮮やかさを少しだけ失っていた。
さとりは縁側に座り、いつもと同じ湯呑みを手にしていたが、その視線は庭を遠く眺めていた。
春の陽だまりは、どこかに隠れてしまったようだった。
やがて、聞き慣れた足音が近づいてくる。青年だった。
「.....また来たのね」 「はい...」 彼は笑ってみせたが、その笑顔にはどこか翳りがあった。
目元は疲れ、声にも覇気がない。
さとりは即座に彼の心を覗いた。 けれど、そこにはいつもの“透明さ”がなかった。 感情は、曇ったガラスの向こうにあるようで、はっきりとは読み取れなかった。
「....どうしたの。今日は元気がないわね」 「そう、見えますか?」 「見えてるわよ。あなたの“心”で、だけど」
青年は少しだけ目を伏せた。
そして、縁側に腰を下ろすと、手を膝の上で組んだ。しばしの沈黙が流れる。
「....話しても、いいですか?」 「聞くだけなら、いくらでも」
さとりはそう答えた。 自分でも気づかぬほど自然に、その言葉が口をついて出たことに、少しだけ驚いた。
「.....その人は、僕が一番信じていた人でした」
青年の声は、どこか遠くを見ていた。 さとりは黙って耳を傾けた。
心を読むまでもなく、その話の重さは言葉に滲んでいた。
「何を言っても否定されなかったし、どんな失敗も笑って受け止めてくれた。だから、僕は全部信じてたんです。....でも、全部、演技だった」
ぽつり、ぽつりと、記憶の断片が零れ落ちる。 金銭の問題、人間関係、裏での噂――青年はそのすべてを、最も信じた相手に“計算”され、崩された。
「目の前で笑いながら、裏で僕のことを『都合のいい馬鹿』って呼んでた。.....それを知った時、何も言えなかった。怒ることも、泣くこともできなかった」
さとりの中で、静かに怒りが沸き上がる。 この青年は、ただまっすぐで、何も悪くない。ただ善意を向け、信じただけだ。 それを利用し、壊して、平然と捨てた――。
「名前を教えて。私、その人を八つ裂きにできるけど?」 静かな口調だった。
感情を抑えていたのは、殺意が本物だからだ。
青年はぎょっとしてさとりを見た。
だが、すぐにその目が柔らかくなる。
「......だめです。そんなこと、絶対にしないでください」 「なぜ?あなたのために怒ってあげてるのに」 「そうじゃないんです」
青年の声は震えていた。 「さとりさんが、そんなことをしてまで、僕を守ろうとしなくていい。.....僕は、もう傷ついたけど、それでも誰かを恨むことで、あなたがまた“人から嫌われる”のが、嫌なんです」
「.....」
「あなたは、人の心を読めるからこそ、いろんなものを知りすぎてきた。僕がそれを一瞬でも“暖かいもの”だって思えたのは....あなたが優しかったから。だから、そんな力で誰かを傷つけてほしくないんです」
さとりは、返す言葉を失っていた。
――心を読めるこの力は、呪いだと思っていた。 けれどこの青年は、呪いの力が「誰かを守るために使われようとしたこと」を、否定ではなく“赦し”として受け止めた。 そしてその上で、「さとりという存在」を傷つけたくないと願っている。
「.....あなた、ほんとうに手がかかるわね」
ようやく出た言葉は、ほとんど呟きだった。
けれどその声には、あたたかいものが滲んでいた。
沈黙が、庭を包んでいた。 曇った空の下で、鳥の鳴き声すら聞こえない。だが、それは不快な静けさではなかった。
「.....さとりさん」 青年が、ゆっくりと口を開いた。
「さっき、怒ってくれて、嬉しかったです」 「怒るだけなら簡単よ。妖怪なんだから」 「でも、僕のために怒ってくれた。――心を読んでくれたから、そう思ってくれた。....ありがとう」
その言葉に、さとりの胸がわずかに震えた。 ありがとう。 この力に、その言葉をもらったのは.....初めてかもしれない。
「....私は、ただ見ていただけよ。あなたの心の中に、痛みがあったから。自分では気づいてないくらい、深い傷がね」
青年は少し目を伏せて、それから小さく笑った。
「そうかもしれません。....でも、誰かに『気づいてもらえた』って思えたとき、不思議と、少し楽になるものなんですね」
さとりはその姿を見つめていた。 心を読めるこの能力は、これまで他人との間に壁をつくるものだった。
信頼の否定であり、好意の破壊者だった。
だが今、目の前の青年は、心を読まれたうえで、自分を肯定してくれている。 そして、自分の力さえも――「人と繋がるための手段」として受け入れてくれた。
「....ほんとうに、変な人」
そう呟いたその瞬間、胸元のサードアイが、かすかに脈打った。 ぴたり、と音が聞こえたような気がした。
暖かな脈動。
それは、心の奥底に触れるような、やさしい鼓動。
呪いのように思っていたこの第三の眼が、まるで微笑んでいるように感じた。
「....ありがとうって言うべきは、私の方かもしれないわね」
さとりの言葉に、青年は穏やかに目を細めた。
「じゃあ、今日はそろそろ....帰りますね」
青年はそう言って、縁側から立ち上がった。 さとりもまた、そっと立ち上がり、彼の背を見送る。
「....また来るの?」
投げかけた問いは、声音よりもずっと柔らかかった。
青年は振り返り、いつもの笑顔で頷いた。
「ええ。また来ます。.....さとりさんが、それを嫌でなければ」
「.....嫌じゃないわ」 さとりは少しだけ俯きながら言った。 「むしろ、あなたが来ない方が、変な感じすると思うから」
青年は笑った。
その笑顔は、曇り空の下でもはっきりとあたたかくて、それを見たさとりの心の中に、微かに、でも確かに光が差した。
彼が歩き去る背中を、さとりは今度こそ見送った。 庭の上空では、分厚い雲の隙間から、一本の光が差し込んでいた。
その光は――春の陽だまりよりも、ずっとやさしく、胸に沁みた。