じゃれじゃれ
六時四十分
雨が降っていた。
ばつばつばつばつ
なんの音?
ばつばつばつばつ
瓦の音。雨が瓦を打っている。雫が居間の外の縁側も叩く。
音のやかましさをいやがって、喉でぐるぐると唸りながら、両手が布団の中をまさぐった――求めているはずの人肌がない。
「ウン……」
と霧雨魔理沙が眠そうに喉を鳴らす。
ばつばつばつばつ
音に耳が疾患した。すると目を覚ましたくないのに瞼の裏が敏感に光を捉えた。
仕方がないので起きあがった。それから米と味噌汁の香りが鼻をくすぐった。とんとんと俎板の音もした。
「……豆腐かな」
それとも切っているのは漬物だろうか。
漬物だろう――漬物が良い――朝に豆腐は重いから。そんなふうに決めつけた。
目をこすった。顔の辺りに手をやるだけで髪がとんでもないことになっているのが分かった。
何日も水で洗われていない、駄犬のような髪の跳ねかた。
両手で前髪をうしろに流して、でこの辺りを揉みほぐしてみた。
なんとなくである。こうすると目の血流がよくなって、目が冴えるような気がしたのだ。
しかし変化はなかった。別に眠たかった。
それから急に居間の板戸が開いた。博麗霊夢が割烹着でそこに立っていた。
「あら……起こしにきたのに」
「ンン……」
「しゃんとして」
「起きたところだって」
霊夢は有無を言わせない。彼女は居間の壁に立てかけてある、卓袱台のほうを見ると魔理沙に言った。
「朝餉にしたいから、流しで歯を磨いて」
「あとが良い」
「駄目」
六時五十分
霊夢が朝餉の用意をしているあいだ、台所のとなりの流しで歯を磨いたあと、不意に房楊枝をまじまじと眺めた。柔らかな毛が減っており、長さも随分と短くなっていた。
「何本目だっけ」
と散漫な声で言った。
考えてみると房楊枝を何本も取りかえるほど、この神社に来ているのだと思考していた。
歯には拘るほうで博麗神社の物も一月に一度は交換していた。これを霊夢に教えると「勿体ない」と言われもした。
嘆かわしいことだと思った。
「こう言ったところから、女はきれいでなくなる」
と魔理沙が信条で指摘しても霊夢は彼女をしばくだけであった。
居間に戻ると準備ができていて、卓袱台の上に食膳が置かれていた。
白米と茄子の味噌汁。それに川魚の干物と胡瓜の漬物であった。
「胡瓜か」
卓袱台の前に座ると開口に言った。
「うん」
「このごろの胡瓜は妙においしいんだ。なんでかな」
「河童が胡瓜の植えかたで百姓に文句を言ったって……去年の新聞に書いてあったような」
「ふん? 律儀な百姓もいるんだな。妖怪の文句に従うなんて」
「胡瓜の専門家だし」
「こう言うのは意地の問題だ」
「なんでも良いじゃない。おいしいなら」
ふたりで手を合わせた。居間で静かに食器が鳴った。
雨は今もばつばつと降っていた。
それを気にしているのか、食事の途中で魔理沙が言う。
「いつまで降るのかな」
「知らない」
「祈祷でなんとかならないのか」
「そんなの体力の無駄」
「……家が心配だ」
家で特定の菌類が暴れたのは何日も前である。
魔法の森の菌類の中でも、異常な湿度に反応するものがある。
魔理沙が実験で使っていたそれは、彼女の誤りと連日の湿度に反応して、たちまち家を“くさびら”で埋めた。
これを理由に魔理沙は神社で厄介になっていた。
「二日も晴れてくれたら、なんとかなりそうだけど。湿度が落ちないとなんともできない」
「雨も曇天も交互に来てるけど……」
「それなんだよ……梅雨には早いよな?」
「梅雨でなくても空の機嫌がわるいときもあるって」
「それにわたしの機嫌もわるい」
「あとで髪を梳かしてあげるから」
「不思議だな……機嫌が戻った」
「そう」
七時三十二分
朝餉の食器を洗ってしまうと居間の隅の鏡台の前で足を組んだ。ふんふんと妙な鼻歌を漏らしている、御機嫌な魔理沙のうしろで霊夢も正座をした。
「何よ」
「うん?」
「たのしそうにして」
「そう?」
と魔理沙は不思議を聞くけれども、返事の調子までたのしそうである。
鏡台に肘を置き、手で頬を支えた。愉快そうに目を細めた。
霊夢は髪を梳くのがうまい。と言うのが魔理沙の見解であった。
それもそのはず。霊夢が射干玉を誇りにしているのが、魔理沙の目には瞭然なのであった。
第一に髪を梳くのが長い。第二に手癖で髪に触れる。第三に髪をさわらせたがるときがある。
それは自分の髪が好きな女の癖である。
一方で魔理沙はそうではない。きらいとまでは言わないけれども、歯のように拘るほうではなかった。
どうしてかと言うと第一に癖が強い。第二に癖が湿気で爆発する。第三に朝に金髪を見ると目がうざったい。そのような理由で魔理沙はひとつを除くと髪への拘りがなかった。
もちろん拘りとは左側の編みこみのことである。
「やって」
「はいはい」
櫛を持つと霊夢は髪を梳きはじめた。さらさらと風が流れるように櫛が通った。
魔理沙は目をとじた。耳で髪の音をたのしんだ。
いつもこう言うふうに甘やかされているわけではない。沢山の妖怪が知っているように、霊夢が献身的なわけがないのだ。
霊夢が甘やかすには条件がある。単に暇なときである。
何が暇なのか。もちろん連日の雨が原因である。
雨が降る。すると外に出たくなくなる。そして暇でやることがなくなる。なので魔理沙の世話でもしているほうが時間を潰せる。これが霊夢の作用であった。
魔理沙はその心理のおこぼれを頂戴しているだけなのだ。
「そう言えば……短くしたよね」
と霊夢は梳きながらに言った。
「うん」
「前はどれくらいだっけ」
「背中の中間はあった……と思う」
「思う?」
「適当にやったんだよ。これからは暑くなるし……邪魔になるだろ」
「勿体ない」
「何がだよ……毛量? 髪を切らなくても禿にならないわけじゃないぞ。半端な禿は幽鬼のようになる」
「そんなの知ってる」
「それなら、なんだよ」
「勿体ないのはきれいだから……はい」
と霊夢は櫛を抜いた。それから鏡を眺めるように催促した。
魔理沙が前髪を撫でた。寝癖の“ふくれ”も髪の跳ねもない。なのに質感は見事なふわふわで――つまりは文句なしである。
「うん」
「良いでしょう」
「うん、うん」
魔理沙がうんうんと頷いている。霊夢はこれが納得しているときの仕草だと知っていた。しかも非常に納得したときの仕草であった。
霊夢が櫛を鏡台の棚に入れた。
十時二分
適当な本を読みはじめてから、気がつくと二時間も経っていた。
いろいろな姿勢で本を読んだ。
最初は胡坐。そのあとに正座。それから座っているのがいやになると横になった。
今は涅槃仏の姿勢で本を読んでいる。
半目で紙をめくる。つまらないわけではないのに、どうにも読書に惰性を感じていた。
これも霊夢が甘やかしてくるのと同じで、本を読むのは単にやることがないからだ。時間を殺すための読書である。魔理沙は読書が好きだけれども、これが不毛なのも理解していた。
暇で本を読む。すると本に飽きる。しかし飽きてもやることがない。だから本を読む。悪循環である。
ちらと霊夢のほうを見る。彼女は卓袱台の前で予備の装束のほつれを直していた。魔理沙がそうであるように彼女も半目である。慣れているので集中の必要もないのであった。
それから十分の不毛な読書のあと、魔理沙は不意に視線に気がついた。
さきほどのように霊夢を見た――露骨に視線を逸らされた。
「どうした」
「別に」
こんなに下手な嘘があるのだな。と魔理沙は思った。
「何もないのに見てたのか」
「そう言うわけでもないけど……」
「なんだよ」
それから霊夢が口を割る。
「……襦袢がはだけてる」
胸元を見るとたしかにまるだしになっていた。別に服のずれに気がついていなかったのではない。どうでもよかったので気にしなかったのである。
「よくあるだろ」
「そうだけど……」
「なんだよ」
「……胸も見えたから」
「……別に良い」
「乳首も」
「乳首!?」
魔理沙が雷速で体を起こした。ついでに襦袢のずれも直した。
「見るなよ!」
「見たんじゃない……見えたのよ」
「嘘」
「嘘じゃないもん」
「視線を感じたぞ」
霊夢の目線が魚のように宙で泳いだ。
「なんで見てた」
「別に……あれよ……気になるときがあるじゃない」
「何が」
「他人の体と……ほら……どうちがうのか……とか。銭湯でやったことがあるでしょう」
「あるけど……乳首はないだろ。乳首は」
「連呼しないでよ!」
「おまえが言うからだ」
「……知らない!」
と叫ぶと霊夢がうしろを向いた。それから思いだしたように針仕事へ戻った。
「おい」
「……」
「おい」
「……」
魔理沙が言っても霊夢は返事をしなかった。
なんなんだよ――今の流れも、今の会話も。そんな呆然が魔理沙の頭を過ぎていった。
うなじは良い。胸も許そう――しかし乳首は駄目だろう。
人型のオキモノになりながら、そんな意味不明を考えていた。
それでも魔理沙はさらに考えた。さらに考えて――今度は人型の敷物にでもなったような気がしてきた。なので面倒になって、考えるのを已めた。
霊夢が背中を向けっぱなしで返事をしたのは、敷物が無集中の読書を十四分してからであった。
「魔理沙」
敷物が溜息を吐いた。
「……なんだよ」
と霊夢のほうに体を向けた。
敷物はじとじとの半目で霊夢の背中を疑っていた。
「何日だっけ」
「何が」
「あんたが来てから」
敷物はさらに思考を捨てたくなる。話題に脈絡がなさすぎるからだ。
敷物は霊夢の背中を眺めた。その背中は彼女の表情ほどに素直ではなかった。
「四日だけど……それが?」
「四日」
霊夢が針仕事の手を止めた。
「そんなにいたのね」
「……迷惑?」
「そんなこと……ないけど」
と言うと霊夢は針仕事に戻った。その動きは背中で追っても迷いがなく、敷物は彼女を針仕事の機械のように思った。
敷物が読書に戻ったあと、霊夢は小さな声で言った。
「六日もしてない」
十一時十六分
本のあとがきを読んでいると腹が鳴った。
昼餉の時間だろうか? 腹が鳴っているのだから、昼餉の時間にちがいない。と魔理沙は決めつけた。
「おい……昼は――」
わたしが用意しようか? と言おうと振りかえった。
すると霊夢の姿が忽然と消えている。単に針仕事の跡が投げだされている。
本当に――いつの間にか。
意外と本の終わりは集中できていたのだな。と魔理沙は得意になった。
それはそれとして。
「危ないな……」
いくつかの裁縫針が卓袱台の下に散らばっていた。あまり霊夢らしくない。
すこし乱暴な気質があるとは言え――霊夢は客人がいるのに針を散らかすようなやつではない。と魔理沙は知っている。
「土間かな」
立ちあがると土間への板戸を開けた。
前を見る。もちろん奥の玄関には誰もいない。
左を見る。台所にも流しにも霊夢はいない。
「ふん」
と鼻を鳴らした。
壁の向こうで拝殿の掃除でもしているのだろう。と魔理沙は考えた。
沓脱石の上で草履を履くと土間に立った。
霊夢がいなくても料理をするのは変わりない。それから――そのまえに流しの反対側の板戸を開けた。先には風呂場への板戸、奥に便所への板戸がある。もちろん目的は便所である。料理の途中で行きたくないので、尿意の始末をしておきたかったのだ。
便所の板戸を引く。開かなかった。
その刹那! 便所の中で暴れるような音がした。馬鹿な泥棒が主人に見つかって、混乱しているような印象であった。
「何!? ……誰!?」
と便所が叫んだ。
「落ちつけよ」
「……魔理沙? そう……そうよね」
「ほかに誰がいる。ヘンなやつだな」
平坦に言っているけれども、内心は非常に“おっかな”だ。誰もいないと思っているところで物音がしたのだ。心臓が跳ねるに決まっている。
魔理沙が板戸をこんこんと叩く。
「何よ」
「いや……わたしも使いたいから」
「待ちなさいよ」
これは逆算でしかないけれども、居間土間での独りの時間を加味するに、霊夢は長々と便所にいたのだろう。と魔理沙は思った。
「腹の具合がわるいのか」
「別にわるくないし。なんで?」
「いや……具合がわるいなら、飯を軽くしようと」
「……そう」
「おまえ……ヘンだぞ」
「何が」
霊夢の声が板戸の向こうでいやに籠る。
「裁縫のときもヘンだったし」
「あんたが何日もいるからよ」
「はい?」
「……だから!」
と急に霊夢が声に憤りを乗せ――それから急に板戸がわずかに開いた。
「途中なの! 六日も辛抱なの! 分からないの、言ってること!」
板戸の隙間で霊夢の顔が近くに見えた。彼女の目がぎらぎらとした。ふうふうと息もひどかった。妙に頬が紅潮して、前髪が乱れている。今にも歯をむきだしに噛みつきそうな調子であった。
魔理沙は――それと分かった。
「あっ」
「何よ!」
「わるい」
「独りにして」
「はい」
霊夢が魔理沙を蛇のように睨みつけた。
「……買いだしに行ってきて」
「雨だけど」
「だから?」
「……はい」
「仮に逆の立場だとする。台所にわたしがいて、あんたはできるのね? ……充分に」
「できません」
「独りにして」
「はい」
魔理沙は蚊の鳴くような声で言う。
「六日もな……」
「独りにして!」
板戸の隙間が雷速で塞がれた。
二時二十四分
「最低、最低、最低、最低」
ほかにもグアーーとか、ウワーーとかを叫んだ。それなのに頭は冴えていた。
傍目に狂人だと思った。しかし雨天の空にいるので気にしなかった。
こんな雨の日に飛ぶやつは馬鹿だ。わたしはその馬鹿だ
それが出力されると魔理沙は慟哭するのである。
最初は霊夢に申しわけないと思った。しかし買いだしのために飛んだときには後悔した。買いだしで人里を歩いているときは虚無であった。そして今に虚無への供物は憤慨であった。
それがグアーーである、それがウワーーである。それが理不尽への憤りである。
そのうち神社が見えてきた。落ちるように境内に立つと裏手の玄関へダダダダと走った。
玄関を抜けると土間で帽子と装束を雑巾のように絞りあげた。
頭を振る。前髪の水滴がうざったい。
それから沓脱石の上で靴を脱ぐと居間への板戸を開けた。
「おかえりなさい」
霊夢は卓袱台で呑気に茶を飲んでいた。
魔理沙は何かを言おうとして――何も言わなかった。文句を言いたかったのに、体があまりに疲労していた。
「……」
魔理沙が買いだしの袋を畳に落とした。
「風呂」
と単に言った。
霊夢は魔理沙を穴が開くほどに眺めていた。真顔であった。
こいつは恥を感じないのか? と魔理沙は思った。
便所での態度は恥を感じているようであった。しかし今は何も感じていないような調子でいる。魔理沙は霊夢の神経が分からなかった。
霊夢がくすくすと笑った。
「濡れてる」
「当たりまえだろうが」
「馬鹿っぽい」
「あのな――」
「風呂」
と霊夢が遮った。
「沸かしてあるから、あんたのためにね」
魔理沙は何も言えなかった。
二時三十六分
「グアーー」
と魔理沙が言った。今度は憤りの叫びではなく、風呂の加減への安心である。
むかつくことに好きな温度を理解されていた。
風呂に口まで浸かって、ぶくぶくと泡を吐いた。
飛んでいるときと気分が何十度もちがった。まるで人権を取りもどしたようであった。
風呂は人格を単純にするものである。
泡を吐きだしきると、今度は姿勢を楽にして、風呂のへりに右腕を乗せた。
ばつばつばつばつ
窓の外で瓦の音がする。
朝はやかましかったのに、風呂のために風情と思う。
しばらく死んだように浸かっていた。
ばつばつばつばつ。
意識の隅で便所の“こと”がぐるぐるとした。
わたしがわるいのか? と魔理沙は考えた。
そうだとも思った。客人がいるのにするほうがわるいとも思った。合計で六日は長いとも思った。
ぐるぐるぐるぐる
何が原因なのか? やはり六日の我慢と考えた。
しかし火縄を刺激したのは――。
「……何が乳首だよ」
と魔理沙はそれを見た。
考えるほどに馬鹿であった。要するに襦袢の下の肌色と赤色が霊夢の我慢を刺激したのであって――それなら襦袢のずれを直していれば――。
ぐるぐるぐるぐる。
右手の指を見た。左手で膝を撫でた。それから腰の下を見た。
霊夢の顔が頭に浮かんだ。別に心臓がばくばくとしたりはしなかった。仮に本当にするとしても惰性の読書と同じようにすると感じた。
指が伸びそうになったところで頭を振った。
「たしかに馬鹿っぽい」
そのうち疲労が瞼を蝕んできた。雨の単調な音がそれを助けた。
――うつらうつらとたゆたうように船を漕いだ。
十六時十四分
目を開けると霊夢の顔が至近にあった。
跳ねるように起きあがり――きょろきょろと周囲を見ると場所が居間と分かった。
とまどうように頭を撫でると、髪に一枚の拭いが巻かれていて、ついでに襦袢も着ているのだ。
どうにもおかしい。風呂の途中で記憶の連続性がちぎれている。
霊夢を見た。彼女はすうすうと眠っていた。
事情を聞けたのは十分後に霊夢が起きてからであった。
「あまりに遅かったから、風呂の様子を見たのよ」
それで魔理沙は風呂でのぼせていたことを知ったのである。彼女を連れだしたあとは流れで一緒に眠ったとも言った。
そのあと霊夢は卓袱台の上の茶を差しだしてきた。
「はい」
「うん」
と言うしかなかったので素直に茶を飲んだ。霊夢も横で同じようにした。
飲みながらに霊夢を見た。彼女はすでに開けっぱなされている、縁側のほうを唖のように眺めていた。
いつもと同じことをしているのに、魔理沙は痒くなるように緊張した。
ばつばつばつばつ
「なんでのぼせたの」
「思ったよりもつかれたんだよ」
「なんでつかれたの」
「なんで……おまえが雨の中を飛ばせるから」
「そう」
霊夢が魔理沙と目を合わせずに言う。
「風呂でつかれるようなことはしてないの」
「…………おまえ……無敵か?」
今度は目を合わせてくる。視線が宙で衝突した。霊夢は無表情でまばたきもしないで魔理沙を見た。
「どうなの」
「してないよ」
「そう」
霊夢が立ちあがった。
「酒を買ってきたのね」
霊夢は買いだしの袋に一升瓶を確認していた。
「夕餉は何が良い?」
「早くないか」
「良いじゃない……そんな日があっても」
霊夢が土間への板戸を開けた。
「今日は何時間でも飲みたいし」
二十時三十八分
魔理沙がふらふらと箸を揺らした。小皿の上の湯豆腐を挟みたいのにうまくできない。
いけずな湯豆腐が逃げまわる。そのうち面倒になって、箸でくしざしにしてやった。
湯豆腐を口に入れると魔理沙は叫ぶ。
「だからな」
「ん~~?」
霊夢が生返事をしても魔理沙はかまわずに言う。
「わたしは思うわけなんだよ。どんなに溜まっているからって、するために雨の中を飛ばせるのは、どんなにひどいことかってな!」
霊夢が爆笑した。彼女は発言の内容がおもしろかったわけではない。単に“どんなに”が連続したのが“つぼ”であった。
一升瓶の中身がすでにさびしくなっていた。
ふたりは完全にできあがっていた。傍目に終わっているのであった。
「あんたが四日もいるからよ」
「我慢があるだろ……我慢が」
「わたしは三日に一回はするの。なのに三日目にあんたが来たの」
「そんなの教えるな!」
「へへへへ~~」
へらへらと霊夢が表情をくずした。それから右目を眇めると首をだるそうに傾けた。
魔理沙のほうでも力を抜くように両肘を卓袱台に置いた。
「何日にするの」
と霊夢が右目を開けた。
「何が」
「何日に一回?」
「決まってないって」
「一回じゃないんだ」
「一度の回数じゃない。歪曲するな」
「歪曲……歪曲って……どう言うんだっけ? ……意味」
霊夢が両方の酒杯に残りの酒を入れた。
「歪曲は……」
と魔理沙が説明しようとしたのに霊夢は無視であった。
「飲まないの?」
「……頭が熱い」
「飲んでよ」
「あ~~。いやだ、いやだ。後悔する……絶対に後悔する。あとで……こんな話をして……分かってるのに」
霊夢が焦れるように手を伸ばし、魔理沙の口に酒杯を押しつけた。彼女は雛鳥のようにじゅるじゅるとそれを飲んだ。途中で噎せかえっても最後まで飲んだ。
ばつばつばつばつ
魔理沙の頭がぐらぐらと揺れる。耐えきれずに畳へ倒れた。
「勝った」
「……うるさい」
顔が見えないのに霊夢の御満悦の表情が分かった。残りの酒を一気に飲んでいるのだろう。耳に喉の音が聞こえてきた。酒杯が卓袱台に置かれるのも――雨が降っていた。
卓袱台の下で霊夢の腕と足が見えた。それが畳を這いながら、ずりずりと寄ってくる。起きようとしても力が出なかった。それから無防備に腰に乗られた。
「酔ってるな」
「ふん」
と霊夢が鼻を鳴らした。彼女が顔を寄せてくる。
それにしても闇色の漆の髪――射干玉が触手のように魔理沙の頭上を支配した。
天幕のように髪が光を遮ってきた。うすくらがりの中で霊夢の表情が見える。微笑しているように見えた。
「最後までしなかったのよ」
「……何が」
「あんたに買いだしを頼んだあと」
「……わたしはなんのために買いだしに行ったんだよ」
「良いんじゃない? 酒も買えたんだから」
「おまえ……」
起きあがろうとしたけれども、霊夢はそれを許さないのである。彼女は魔理沙の手首を両手で封じた。
「あんた……酔うと口が軽いよね」
「知らないよ」
「軽い。このまえも宴会のときに昔の失敗の話をされた」
「なんの話だよ」
「とにかく……今日のことを言われるといやなわけ……」
霊夢がさらに顔を寄せてくる。口が触れそうで――その口を怪物のようだと思った。目も異常にぎらついていた。
微笑しているので余裕なのだと思っていた。しかし意外とそうでもないようで、息が非常な早さで吐きだされていた。
「あんたも失敗してよ、それで口を塞ぐから」
「脅迫?」
「そうかも……」
霊夢が右手をほどく。顔を上にやると袖に額の汗を擦りつける。
「興奮してる。死にそう」
「勝手に死んでろ」
ばたばたばたばた
雨はいまだに降っている。
ぐるぐるぐるぐる
「何よ……冷静なフリなんて。分かってるんだから……どうする? 抵抗して」
魔理沙が霊夢の髪に噛みついた。それから口の中でもごもごと舐めた。その反撃に彼女は目を丸くした。しかし動揺したのは一瞬であった。あとには電流が背筋と血管を走りぬけた。
霊夢の左手が無意識に魔理沙の手首を締めあげた。
余裕がなくなり、微笑が剥がれた。霊夢が空腹の犬のように歯をむきだしにした。
「せっかくだからね、本気でいやがって」
じゃれじゃれ 終わり
六時四十分
雨が降っていた。
ばつばつばつばつ
なんの音?
ばつばつばつばつ
瓦の音。雨が瓦を打っている。雫が居間の外の縁側も叩く。
音のやかましさをいやがって、喉でぐるぐると唸りながら、両手が布団の中をまさぐった――求めているはずの人肌がない。
「ウン……」
と霧雨魔理沙が眠そうに喉を鳴らす。
ばつばつばつばつ
音に耳が疾患した。すると目を覚ましたくないのに瞼の裏が敏感に光を捉えた。
仕方がないので起きあがった。それから米と味噌汁の香りが鼻をくすぐった。とんとんと俎板の音もした。
「……豆腐かな」
それとも切っているのは漬物だろうか。
漬物だろう――漬物が良い――朝に豆腐は重いから。そんなふうに決めつけた。
目をこすった。顔の辺りに手をやるだけで髪がとんでもないことになっているのが分かった。
何日も水で洗われていない、駄犬のような髪の跳ねかた。
両手で前髪をうしろに流して、でこの辺りを揉みほぐしてみた。
なんとなくである。こうすると目の血流がよくなって、目が冴えるような気がしたのだ。
しかし変化はなかった。別に眠たかった。
それから急に居間の板戸が開いた。博麗霊夢が割烹着でそこに立っていた。
「あら……起こしにきたのに」
「ンン……」
「しゃんとして」
「起きたところだって」
霊夢は有無を言わせない。彼女は居間の壁に立てかけてある、卓袱台のほうを見ると魔理沙に言った。
「朝餉にしたいから、流しで歯を磨いて」
「あとが良い」
「駄目」
六時五十分
霊夢が朝餉の用意をしているあいだ、台所のとなりの流しで歯を磨いたあと、不意に房楊枝をまじまじと眺めた。柔らかな毛が減っており、長さも随分と短くなっていた。
「何本目だっけ」
と散漫な声で言った。
考えてみると房楊枝を何本も取りかえるほど、この神社に来ているのだと思考していた。
歯には拘るほうで博麗神社の物も一月に一度は交換していた。これを霊夢に教えると「勿体ない」と言われもした。
嘆かわしいことだと思った。
「こう言ったところから、女はきれいでなくなる」
と魔理沙が信条で指摘しても霊夢は彼女をしばくだけであった。
居間に戻ると準備ができていて、卓袱台の上に食膳が置かれていた。
白米と茄子の味噌汁。それに川魚の干物と胡瓜の漬物であった。
「胡瓜か」
卓袱台の前に座ると開口に言った。
「うん」
「このごろの胡瓜は妙においしいんだ。なんでかな」
「河童が胡瓜の植えかたで百姓に文句を言ったって……去年の新聞に書いてあったような」
「ふん? 律儀な百姓もいるんだな。妖怪の文句に従うなんて」
「胡瓜の専門家だし」
「こう言うのは意地の問題だ」
「なんでも良いじゃない。おいしいなら」
ふたりで手を合わせた。居間で静かに食器が鳴った。
雨は今もばつばつと降っていた。
それを気にしているのか、食事の途中で魔理沙が言う。
「いつまで降るのかな」
「知らない」
「祈祷でなんとかならないのか」
「そんなの体力の無駄」
「……家が心配だ」
家で特定の菌類が暴れたのは何日も前である。
魔法の森の菌類の中でも、異常な湿度に反応するものがある。
魔理沙が実験で使っていたそれは、彼女の誤りと連日の湿度に反応して、たちまち家を“くさびら”で埋めた。
これを理由に魔理沙は神社で厄介になっていた。
「二日も晴れてくれたら、なんとかなりそうだけど。湿度が落ちないとなんともできない」
「雨も曇天も交互に来てるけど……」
「それなんだよ……梅雨には早いよな?」
「梅雨でなくても空の機嫌がわるいときもあるって」
「それにわたしの機嫌もわるい」
「あとで髪を梳かしてあげるから」
「不思議だな……機嫌が戻った」
「そう」
七時三十二分
朝餉の食器を洗ってしまうと居間の隅の鏡台の前で足を組んだ。ふんふんと妙な鼻歌を漏らしている、御機嫌な魔理沙のうしろで霊夢も正座をした。
「何よ」
「うん?」
「たのしそうにして」
「そう?」
と魔理沙は不思議を聞くけれども、返事の調子までたのしそうである。
鏡台に肘を置き、手で頬を支えた。愉快そうに目を細めた。
霊夢は髪を梳くのがうまい。と言うのが魔理沙の見解であった。
それもそのはず。霊夢が射干玉を誇りにしているのが、魔理沙の目には瞭然なのであった。
第一に髪を梳くのが長い。第二に手癖で髪に触れる。第三に髪をさわらせたがるときがある。
それは自分の髪が好きな女の癖である。
一方で魔理沙はそうではない。きらいとまでは言わないけれども、歯のように拘るほうではなかった。
どうしてかと言うと第一に癖が強い。第二に癖が湿気で爆発する。第三に朝に金髪を見ると目がうざったい。そのような理由で魔理沙はひとつを除くと髪への拘りがなかった。
もちろん拘りとは左側の編みこみのことである。
「やって」
「はいはい」
櫛を持つと霊夢は髪を梳きはじめた。さらさらと風が流れるように櫛が通った。
魔理沙は目をとじた。耳で髪の音をたのしんだ。
いつもこう言うふうに甘やかされているわけではない。沢山の妖怪が知っているように、霊夢が献身的なわけがないのだ。
霊夢が甘やかすには条件がある。単に暇なときである。
何が暇なのか。もちろん連日の雨が原因である。
雨が降る。すると外に出たくなくなる。そして暇でやることがなくなる。なので魔理沙の世話でもしているほうが時間を潰せる。これが霊夢の作用であった。
魔理沙はその心理のおこぼれを頂戴しているだけなのだ。
「そう言えば……短くしたよね」
と霊夢は梳きながらに言った。
「うん」
「前はどれくらいだっけ」
「背中の中間はあった……と思う」
「思う?」
「適当にやったんだよ。これからは暑くなるし……邪魔になるだろ」
「勿体ない」
「何がだよ……毛量? 髪を切らなくても禿にならないわけじゃないぞ。半端な禿は幽鬼のようになる」
「そんなの知ってる」
「それなら、なんだよ」
「勿体ないのはきれいだから……はい」
と霊夢は櫛を抜いた。それから鏡を眺めるように催促した。
魔理沙が前髪を撫でた。寝癖の“ふくれ”も髪の跳ねもない。なのに質感は見事なふわふわで――つまりは文句なしである。
「うん」
「良いでしょう」
「うん、うん」
魔理沙がうんうんと頷いている。霊夢はこれが納得しているときの仕草だと知っていた。しかも非常に納得したときの仕草であった。
霊夢が櫛を鏡台の棚に入れた。
十時二分
適当な本を読みはじめてから、気がつくと二時間も経っていた。
いろいろな姿勢で本を読んだ。
最初は胡坐。そのあとに正座。それから座っているのがいやになると横になった。
今は涅槃仏の姿勢で本を読んでいる。
半目で紙をめくる。つまらないわけではないのに、どうにも読書に惰性を感じていた。
これも霊夢が甘やかしてくるのと同じで、本を読むのは単にやることがないからだ。時間を殺すための読書である。魔理沙は読書が好きだけれども、これが不毛なのも理解していた。
暇で本を読む。すると本に飽きる。しかし飽きてもやることがない。だから本を読む。悪循環である。
ちらと霊夢のほうを見る。彼女は卓袱台の前で予備の装束のほつれを直していた。魔理沙がそうであるように彼女も半目である。慣れているので集中の必要もないのであった。
それから十分の不毛な読書のあと、魔理沙は不意に視線に気がついた。
さきほどのように霊夢を見た――露骨に視線を逸らされた。
「どうした」
「別に」
こんなに下手な嘘があるのだな。と魔理沙は思った。
「何もないのに見てたのか」
「そう言うわけでもないけど……」
「なんだよ」
それから霊夢が口を割る。
「……襦袢がはだけてる」
胸元を見るとたしかにまるだしになっていた。別に服のずれに気がついていなかったのではない。どうでもよかったので気にしなかったのである。
「よくあるだろ」
「そうだけど……」
「なんだよ」
「……胸も見えたから」
「……別に良い」
「乳首も」
「乳首!?」
魔理沙が雷速で体を起こした。ついでに襦袢のずれも直した。
「見るなよ!」
「見たんじゃない……見えたのよ」
「嘘」
「嘘じゃないもん」
「視線を感じたぞ」
霊夢の目線が魚のように宙で泳いだ。
「なんで見てた」
「別に……あれよ……気になるときがあるじゃない」
「何が」
「他人の体と……ほら……どうちがうのか……とか。銭湯でやったことがあるでしょう」
「あるけど……乳首はないだろ。乳首は」
「連呼しないでよ!」
「おまえが言うからだ」
「……知らない!」
と叫ぶと霊夢がうしろを向いた。それから思いだしたように針仕事へ戻った。
「おい」
「……」
「おい」
「……」
魔理沙が言っても霊夢は返事をしなかった。
なんなんだよ――今の流れも、今の会話も。そんな呆然が魔理沙の頭を過ぎていった。
うなじは良い。胸も許そう――しかし乳首は駄目だろう。
人型のオキモノになりながら、そんな意味不明を考えていた。
それでも魔理沙はさらに考えた。さらに考えて――今度は人型の敷物にでもなったような気がしてきた。なので面倒になって、考えるのを已めた。
霊夢が背中を向けっぱなしで返事をしたのは、敷物が無集中の読書を十四分してからであった。
「魔理沙」
敷物が溜息を吐いた。
「……なんだよ」
と霊夢のほうに体を向けた。
敷物はじとじとの半目で霊夢の背中を疑っていた。
「何日だっけ」
「何が」
「あんたが来てから」
敷物はさらに思考を捨てたくなる。話題に脈絡がなさすぎるからだ。
敷物は霊夢の背中を眺めた。その背中は彼女の表情ほどに素直ではなかった。
「四日だけど……それが?」
「四日」
霊夢が針仕事の手を止めた。
「そんなにいたのね」
「……迷惑?」
「そんなこと……ないけど」
と言うと霊夢は針仕事に戻った。その動きは背中で追っても迷いがなく、敷物は彼女を針仕事の機械のように思った。
敷物が読書に戻ったあと、霊夢は小さな声で言った。
「六日もしてない」
十一時十六分
本のあとがきを読んでいると腹が鳴った。
昼餉の時間だろうか? 腹が鳴っているのだから、昼餉の時間にちがいない。と魔理沙は決めつけた。
「おい……昼は――」
わたしが用意しようか? と言おうと振りかえった。
すると霊夢の姿が忽然と消えている。単に針仕事の跡が投げだされている。
本当に――いつの間にか。
意外と本の終わりは集中できていたのだな。と魔理沙は得意になった。
それはそれとして。
「危ないな……」
いくつかの裁縫針が卓袱台の下に散らばっていた。あまり霊夢らしくない。
すこし乱暴な気質があるとは言え――霊夢は客人がいるのに針を散らかすようなやつではない。と魔理沙は知っている。
「土間かな」
立ちあがると土間への板戸を開けた。
前を見る。もちろん奥の玄関には誰もいない。
左を見る。台所にも流しにも霊夢はいない。
「ふん」
と鼻を鳴らした。
壁の向こうで拝殿の掃除でもしているのだろう。と魔理沙は考えた。
沓脱石の上で草履を履くと土間に立った。
霊夢がいなくても料理をするのは変わりない。それから――そのまえに流しの反対側の板戸を開けた。先には風呂場への板戸、奥に便所への板戸がある。もちろん目的は便所である。料理の途中で行きたくないので、尿意の始末をしておきたかったのだ。
便所の板戸を引く。開かなかった。
その刹那! 便所の中で暴れるような音がした。馬鹿な泥棒が主人に見つかって、混乱しているような印象であった。
「何!? ……誰!?」
と便所が叫んだ。
「落ちつけよ」
「……魔理沙? そう……そうよね」
「ほかに誰がいる。ヘンなやつだな」
平坦に言っているけれども、内心は非常に“おっかな”だ。誰もいないと思っているところで物音がしたのだ。心臓が跳ねるに決まっている。
魔理沙が板戸をこんこんと叩く。
「何よ」
「いや……わたしも使いたいから」
「待ちなさいよ」
これは逆算でしかないけれども、居間土間での独りの時間を加味するに、霊夢は長々と便所にいたのだろう。と魔理沙は思った。
「腹の具合がわるいのか」
「別にわるくないし。なんで?」
「いや……具合がわるいなら、飯を軽くしようと」
「……そう」
「おまえ……ヘンだぞ」
「何が」
霊夢の声が板戸の向こうでいやに籠る。
「裁縫のときもヘンだったし」
「あんたが何日もいるからよ」
「はい?」
「……だから!」
と急に霊夢が声に憤りを乗せ――それから急に板戸がわずかに開いた。
「途中なの! 六日も辛抱なの! 分からないの、言ってること!」
板戸の隙間で霊夢の顔が近くに見えた。彼女の目がぎらぎらとした。ふうふうと息もひどかった。妙に頬が紅潮して、前髪が乱れている。今にも歯をむきだしに噛みつきそうな調子であった。
魔理沙は――それと分かった。
「あっ」
「何よ!」
「わるい」
「独りにして」
「はい」
霊夢が魔理沙を蛇のように睨みつけた。
「……買いだしに行ってきて」
「雨だけど」
「だから?」
「……はい」
「仮に逆の立場だとする。台所にわたしがいて、あんたはできるのね? ……充分に」
「できません」
「独りにして」
「はい」
魔理沙は蚊の鳴くような声で言う。
「六日もな……」
「独りにして!」
板戸の隙間が雷速で塞がれた。
二時二十四分
「最低、最低、最低、最低」
ほかにもグアーーとか、ウワーーとかを叫んだ。それなのに頭は冴えていた。
傍目に狂人だと思った。しかし雨天の空にいるので気にしなかった。
こんな雨の日に飛ぶやつは馬鹿だ。わたしはその馬鹿だ
それが出力されると魔理沙は慟哭するのである。
最初は霊夢に申しわけないと思った。しかし買いだしのために飛んだときには後悔した。買いだしで人里を歩いているときは虚無であった。そして今に虚無への供物は憤慨であった。
それがグアーーである、それがウワーーである。それが理不尽への憤りである。
そのうち神社が見えてきた。落ちるように境内に立つと裏手の玄関へダダダダと走った。
玄関を抜けると土間で帽子と装束を雑巾のように絞りあげた。
頭を振る。前髪の水滴がうざったい。
それから沓脱石の上で靴を脱ぐと居間への板戸を開けた。
「おかえりなさい」
霊夢は卓袱台で呑気に茶を飲んでいた。
魔理沙は何かを言おうとして――何も言わなかった。文句を言いたかったのに、体があまりに疲労していた。
「……」
魔理沙が買いだしの袋を畳に落とした。
「風呂」
と単に言った。
霊夢は魔理沙を穴が開くほどに眺めていた。真顔であった。
こいつは恥を感じないのか? と魔理沙は思った。
便所での態度は恥を感じているようであった。しかし今は何も感じていないような調子でいる。魔理沙は霊夢の神経が分からなかった。
霊夢がくすくすと笑った。
「濡れてる」
「当たりまえだろうが」
「馬鹿っぽい」
「あのな――」
「風呂」
と霊夢が遮った。
「沸かしてあるから、あんたのためにね」
魔理沙は何も言えなかった。
二時三十六分
「グアーー」
と魔理沙が言った。今度は憤りの叫びではなく、風呂の加減への安心である。
むかつくことに好きな温度を理解されていた。
風呂に口まで浸かって、ぶくぶくと泡を吐いた。
飛んでいるときと気分が何十度もちがった。まるで人権を取りもどしたようであった。
風呂は人格を単純にするものである。
泡を吐きだしきると、今度は姿勢を楽にして、風呂のへりに右腕を乗せた。
ばつばつばつばつ
窓の外で瓦の音がする。
朝はやかましかったのに、風呂のために風情と思う。
しばらく死んだように浸かっていた。
ばつばつばつばつ。
意識の隅で便所の“こと”がぐるぐるとした。
わたしがわるいのか? と魔理沙は考えた。
そうだとも思った。客人がいるのにするほうがわるいとも思った。合計で六日は長いとも思った。
ぐるぐるぐるぐる
何が原因なのか? やはり六日の我慢と考えた。
しかし火縄を刺激したのは――。
「……何が乳首だよ」
と魔理沙はそれを見た。
考えるほどに馬鹿であった。要するに襦袢の下の肌色と赤色が霊夢の我慢を刺激したのであって――それなら襦袢のずれを直していれば――。
ぐるぐるぐるぐる。
右手の指を見た。左手で膝を撫でた。それから腰の下を見た。
霊夢の顔が頭に浮かんだ。別に心臓がばくばくとしたりはしなかった。仮に本当にするとしても惰性の読書と同じようにすると感じた。
指が伸びそうになったところで頭を振った。
「たしかに馬鹿っぽい」
そのうち疲労が瞼を蝕んできた。雨の単調な音がそれを助けた。
――うつらうつらとたゆたうように船を漕いだ。
十六時十四分
目を開けると霊夢の顔が至近にあった。
跳ねるように起きあがり――きょろきょろと周囲を見ると場所が居間と分かった。
とまどうように頭を撫でると、髪に一枚の拭いが巻かれていて、ついでに襦袢も着ているのだ。
どうにもおかしい。風呂の途中で記憶の連続性がちぎれている。
霊夢を見た。彼女はすうすうと眠っていた。
事情を聞けたのは十分後に霊夢が起きてからであった。
「あまりに遅かったから、風呂の様子を見たのよ」
それで魔理沙は風呂でのぼせていたことを知ったのである。彼女を連れだしたあとは流れで一緒に眠ったとも言った。
そのあと霊夢は卓袱台の上の茶を差しだしてきた。
「はい」
「うん」
と言うしかなかったので素直に茶を飲んだ。霊夢も横で同じようにした。
飲みながらに霊夢を見た。彼女はすでに開けっぱなされている、縁側のほうを唖のように眺めていた。
いつもと同じことをしているのに、魔理沙は痒くなるように緊張した。
ばつばつばつばつ
「なんでのぼせたの」
「思ったよりもつかれたんだよ」
「なんでつかれたの」
「なんで……おまえが雨の中を飛ばせるから」
「そう」
霊夢が魔理沙と目を合わせずに言う。
「風呂でつかれるようなことはしてないの」
「…………おまえ……無敵か?」
今度は目を合わせてくる。視線が宙で衝突した。霊夢は無表情でまばたきもしないで魔理沙を見た。
「どうなの」
「してないよ」
「そう」
霊夢が立ちあがった。
「酒を買ってきたのね」
霊夢は買いだしの袋に一升瓶を確認していた。
「夕餉は何が良い?」
「早くないか」
「良いじゃない……そんな日があっても」
霊夢が土間への板戸を開けた。
「今日は何時間でも飲みたいし」
二十時三十八分
魔理沙がふらふらと箸を揺らした。小皿の上の湯豆腐を挟みたいのにうまくできない。
いけずな湯豆腐が逃げまわる。そのうち面倒になって、箸でくしざしにしてやった。
湯豆腐を口に入れると魔理沙は叫ぶ。
「だからな」
「ん~~?」
霊夢が生返事をしても魔理沙はかまわずに言う。
「わたしは思うわけなんだよ。どんなに溜まっているからって、するために雨の中を飛ばせるのは、どんなにひどいことかってな!」
霊夢が爆笑した。彼女は発言の内容がおもしろかったわけではない。単に“どんなに”が連続したのが“つぼ”であった。
一升瓶の中身がすでにさびしくなっていた。
ふたりは完全にできあがっていた。傍目に終わっているのであった。
「あんたが四日もいるからよ」
「我慢があるだろ……我慢が」
「わたしは三日に一回はするの。なのに三日目にあんたが来たの」
「そんなの教えるな!」
「へへへへ~~」
へらへらと霊夢が表情をくずした。それから右目を眇めると首をだるそうに傾けた。
魔理沙のほうでも力を抜くように両肘を卓袱台に置いた。
「何日にするの」
と霊夢が右目を開けた。
「何が」
「何日に一回?」
「決まってないって」
「一回じゃないんだ」
「一度の回数じゃない。歪曲するな」
「歪曲……歪曲って……どう言うんだっけ? ……意味」
霊夢が両方の酒杯に残りの酒を入れた。
「歪曲は……」
と魔理沙が説明しようとしたのに霊夢は無視であった。
「飲まないの?」
「……頭が熱い」
「飲んでよ」
「あ~~。いやだ、いやだ。後悔する……絶対に後悔する。あとで……こんな話をして……分かってるのに」
霊夢が焦れるように手を伸ばし、魔理沙の口に酒杯を押しつけた。彼女は雛鳥のようにじゅるじゅるとそれを飲んだ。途中で噎せかえっても最後まで飲んだ。
ばつばつばつばつ
魔理沙の頭がぐらぐらと揺れる。耐えきれずに畳へ倒れた。
「勝った」
「……うるさい」
顔が見えないのに霊夢の御満悦の表情が分かった。残りの酒を一気に飲んでいるのだろう。耳に喉の音が聞こえてきた。酒杯が卓袱台に置かれるのも――雨が降っていた。
卓袱台の下で霊夢の腕と足が見えた。それが畳を這いながら、ずりずりと寄ってくる。起きようとしても力が出なかった。それから無防備に腰に乗られた。
「酔ってるな」
「ふん」
と霊夢が鼻を鳴らした。彼女が顔を寄せてくる。
それにしても闇色の漆の髪――射干玉が触手のように魔理沙の頭上を支配した。
天幕のように髪が光を遮ってきた。うすくらがりの中で霊夢の表情が見える。微笑しているように見えた。
「最後までしなかったのよ」
「……何が」
「あんたに買いだしを頼んだあと」
「……わたしはなんのために買いだしに行ったんだよ」
「良いんじゃない? 酒も買えたんだから」
「おまえ……」
起きあがろうとしたけれども、霊夢はそれを許さないのである。彼女は魔理沙の手首を両手で封じた。
「あんた……酔うと口が軽いよね」
「知らないよ」
「軽い。このまえも宴会のときに昔の失敗の話をされた」
「なんの話だよ」
「とにかく……今日のことを言われるといやなわけ……」
霊夢がさらに顔を寄せてくる。口が触れそうで――その口を怪物のようだと思った。目も異常にぎらついていた。
微笑しているので余裕なのだと思っていた。しかし意外とそうでもないようで、息が非常な早さで吐きだされていた。
「あんたも失敗してよ、それで口を塞ぐから」
「脅迫?」
「そうかも……」
霊夢が右手をほどく。顔を上にやると袖に額の汗を擦りつける。
「興奮してる。死にそう」
「勝手に死んでろ」
ばたばたばたばた
雨はいまだに降っている。
ぐるぐるぐるぐる
「何よ……冷静なフリなんて。分かってるんだから……どうする? 抵抗して」
魔理沙が霊夢の髪に噛みついた。それから口の中でもごもごと舐めた。その反撃に彼女は目を丸くした。しかし動揺したのは一瞬であった。あとには電流が背筋と血管を走りぬけた。
霊夢の左手が無意識に魔理沙の手首を締めあげた。
余裕がなくなり、微笑が剥がれた。霊夢が空腹の犬のように歯をむきだしにした。
「せっかくだからね、本気でいやがって」
じゃれじゃれ 終わり
ラスボス(だっけ?)の手持ちにも鳴った凶悪なはずのサザンドラがかわいいポケモンのじゃれつくで葬られていくのは癖を感じますね
二人の距離感がよかったです。
※「音に耳が疾患した」は結構攻めた表現というか、段落の最初に置かれる文として違和感があったかも、というのと、「うなじ」は首の後ろの部分なので胸元といっしょには見えないかな、と思ってしまいました(そこに意図があったとしたらすみません…)
茶化すにはあまりにもプライベート過ぎて文句も言いづらいものの雨の中飛ばさせられてさすがにキレてる魔理沙が最高でした
はい
けれど、そんな性を恥と捉える理性や品も、溜まり切ってしまった欲望には耐えられない。だから霊夢は、物語後半から恥が消えたんだ。何回するの、とか完全にそこら辺の男と言ってることが変わらない。霊夢は脳みそが性欲で支配されてしまった。僕は衝撃を受けた。品がない。文章の中では彼女の所作の一つ一つが美しく描写されている。黒髪はきっと霊夢にとても似合っているのだろう。そんな汚し難い彼女は欲に支配されたのだ。許し難い。僕は怒りに満ち溢れた。この話は湿度が高いだとか、百合とかそんなもんじゃない。上品さを性欲で支配する、その瞬間を書いている。人が欲に負ける瞬間をだ。何故なら霊夢は魔理沙との性の出来事を失敗と呼ぶからだ。そこに愛は無い、これは百合ではないのだ。けれども僕は願うばかりである。失敗が成功へのきっかけと昇華することを。レイマリフォーエバー