西暦20XX年。旧・京都府北部。
その山間に、ひとつの“道”が存在する。
かつての地図には載っていた。 だが現在の電子地図投影では、そこだけが曖昧にぼやける。 航空写真にも映らず、ドローンの航路は必ず迂回を命じられる。 国土地理院のデータベースには、存在すら記されていない。
それでも、道はあるのだ。 実在するにもかかわらず、記録に残らない峠。 “忘れられた幻の峠道”――地元ではそう呼ばれていた。
一説には、かつて走り屋たちの聖地だったと言われる。 だが、事故も逸話も語られない。 敗北も勝利も、誰かに伝えられることはなく、ただ夜の闇と共に記憶から失われていった。
では、その道に、もし“走り屋の願い”が宿っていたとしたら? もう一度走りたい。もう一度誰かに見てもらいたい。 そう願った“何か”が、今でもその峠に潜んでいるとしたら?
――この物語は、記録に残らない現実の中で、 ひとりの女と、一台のミニと、そして助手席の苦労人が“走った”夜の記憶である。
「――免許、取ったわ」
その日、蓮子は研究棟のカフェスペースで紅茶を飲みながら、さも当然のようにそう言った。
対面にいたマエリベリー・ハーンは、一瞬ポカンとしたあと、静かにカップを置いた。
「.....運転免許の、話よね?」
「ええ。普通自動車。AT限定じゃないわよ。ちゃんとマニュアルで」
「.........は?」
それは“研究発表のついで”にするような会話ではなかった。 だが、蓮子は書類の山を手でどけ、カバンからカードサイズの小さなプラスチックを取り出す。
確かに、そこには「宇佐見蓮子」の名前と顔写真。 写真の本人よりも目つきが悪く見えるのは、きっと気のせいではない。
「どうして突然.....?」
「ほら、私たちって今までは徒歩と電車と境界超えだったじゃない? そろそろ“地上の自由”も欲しくなったの」
「それ、自由の意味が違うと思う.....」
メリーは額に手を当てる。 どうせ蓮子のことだ、突拍子もない理由に違いない。
だが、理由はもっとひどかった。
「一夜漬けで覚えたのよ。交通法規、標識、合図、全部ね。気合いと集中力、あと適当な覚悟。免許センターの職員、ちょっと引いてた」
「それ、取らせちゃいけない側の引き方じゃない!?」
メリーが半ば叫ぶ。 だが蓮子は悪びれもせず、口元を緩める。
「で、取ったからには乗らなきゃでしょ。今日、納車なの」
「納車!? なに、車まで買ったの!? 勢いで!?」
「ふふ、見せてあげるわ。こっちよ、メリー」
2人が向かったのは、学術区の裏手にある小さな駐車場。 そして、そこに停まっていたのは――
「....赤いミニ?」
「そう、ローバーミニよ。クラシック。ラリー仕様。しかも英国正規モデル。かわいいでしょ?」
「え、赤!? ミニ!? ラリーって何!? ラリーってあの....あのラリー!?」
「そうよ。“W○C”に出てたこともある伝説のマシン。走行安定性とタイヤ配置が絶妙なの。これで峠も問題なし!」
「いやおかしいってば!!」
「可愛い見た目なのに、運転者が峠攻めるタイプだなんて、ミニが泣いてるわよ!」
「大丈夫よ。ミニはね、“峠を攻められるために生まれた”の。生まれながらの走り屋なのよ」
「それただの思い込みでしょ!? 擬人化して納得させるのやめてよ!?」
蓮子は車体を撫でながら、実に誇らしげに言った。
「名前は“ルビー号”よ。赤くて可愛くて、だけど峠では容赦ない――そんな彼女にピッタリでしょ?」
「.....もう何も言えない.....」
メリーがうなだれたそのとき、キーが回され、エンジンが小気味よく唸った。
「さ、乗ってメリー。夜の峠に走りに行くわよ」
「いやよ! 怖いわよ! そもそも運転経験ゼロじゃない!?」
「大丈夫。夢中になれば、だいたい何とかなるわ」
「“だいたい”じゃ困るのよーッ!!」
夜の気配は、街の境界を越えると途端に濃くなる。 舗装は粗く、街灯の数もまばらになり、代わりに虫の声と風のざわめきが耳に届いてきた。
「ここ.....本当に道なの?」
メリーが、助手席で半ば呆れたように言った。 ルビー号――赤いローバーミニは、細く曲がりくねった山道を登っていた。 前照灯だけが道を照らし、ガードレールの外には深い闇が広がる。
「道よ。正確には、地図にない“道だったもの”ね」
蓮子は平然と答える。 左手でハンドルを操作しながら、右手でウインカーを律儀に出す。 ただ、交差点など存在しない。
「私有地じゃないの?」
「厳密には“所在不明地”。国の管轄でも県の管理でもない、行政の死角に落ちた土地。だから、記録に残らない。けれど、確かに“ある”」
「そういう“都合のいい場所”、どうして毎回見つけられるの.....」
メリーはため息をつく。 助手席の足元には、まだ説明書が開かれたままのナビ端末が転がっている。 GPSは最初のカーブを越えたあたりから“圏外”になったままだ。
「そもそも、走るって....何するの?」
「決まってるじゃない。“走る”のよ。タイヤで、路面で。言葉でなく、速度で語る夜の美学――」
「はいはい、分かったから詩的に言わないで!」
突如、左のヘアピンが現れる。
「.....減速」
「減速ぅぅぅっ!?」
ギアが落とされ、サイドブレーキがかすかに引かれる。 ミニの車体が一瞬、左右に揺れ――
「よし、抜けた」
「ぬ、ぬけたって.....カーブが“浮いて見えた”んだけど!? 物理法則おかしくなかった!?」
「メリー、これが“体感G”よ」
「体感やめてぇぇえ!!」
そのときだった。
前方の道に、光のない“車”が現れた。 ヘッドライトは点いていない。 だが、車体の輪郭だけが、わずかな月明かりに照らされていた。
「――来たわね」
蓮子の声が、低く響く。
「待って。あれ、何? どうしてあんなに静かに.....タイヤが滑ってる? 音が....消えてる....」
「幻想の走り屋よ」
「は?」
「きっと、かつてここで走っていた。だけど記録に残らなかった。語られることもなかった、名前も車種も失われた存在」
「“忘れられた者が、誰かにもう一度見つけてほしいと願った”とき――幻想は、現れる」
メリーの目が、かすかに見開かれる。
「じゃあ、あれは....?」
「挑戦状よ。ルビー号に対する、幻想のリターンマッチ」
赤いミニのエンジンが唸る。
蓮子はハンドルを強く握りしめた。 そして、静かに宣言した。
「行くわよ、ルビー。夜の記録は、私たちが書き換える」
赤いローバーミニが、山の中腹で停止する。 闇の中に灯るテールランプだけが、現実との境界をかろうじて保っていた。
前方――ほんの数十メートル先に、黒い車体が浮かび上がっていた。 ヘッドライトは点いていない。エンジン音もしない。 だが、その存在は“そこに在る”と、無言で全身に訴えかけてくる。
「なんなのよ.....あれ。見えないのに、視界の端にずっと残る.....」
メリーが息を呑む。 その感覚は、彼女にしかわからない“異常”だ。 視線の焦点が合わず、存在の輪郭だけが残る。 あれは物体ではない。“記憶にだけ残る、形”――
「走るわよ、メリー」
「えっ、今から!?」
「勝負を挑まれたなら、応えなきゃ失礼でしょ?」
「いやいや! 失礼とかそういう次元じゃなくて――ッ!」
蓮子はギアを1速に入れる。 エンジンが高鳴り、赤いボンネットがかすかに揺れた。
「準備は?」
「してないッ!!」
「よろしい」
クラッチが繋がれ、ルビー号が飛び出す。
一瞬で加速する赤いミニ。 車体の軽さを武器に、低速域から高回転へ一気に持っていく。
先行する黒い車体は、まるで地面を滑るような動きでヘアピンに突入していく。 無音。無光。無音速。 その挙動は、常識を逸していた。
「音がしないのが、逆に怖いんだけど!?」
「メリー、体で感じるのよ。“重力のズレ”が奴のブレーキングポイントよ!」
「そんな感覚、持ち合わせてないわよ!!」
だが蓮子は、迷いなく操作していた。 右足でブレーキを煽り、左足でクラッチを一瞬抜く。
「.....溝落とし、行くわよ!」
「ミニの足回り、壊れるからやめてぇええ!!」
ガッ!と鈍い音が鳴る。
左前輪がわずかな縁石に接触し、車体が外に膨らむ衝撃を殺す。 外周をなぞるようにミニが滑る。 小さなボディがコーナーの内側へ吸い込まれるように突っ込んだ。
「この軽さ、この重心、このタイヤ幅――ラリーの血は伊達じゃない!」
「またラリーの話!? 頼むからW○Cと峠を一緒にしないでぇ!!」
ミニの後輪がギリギリでグリップを保ち、次の直線へ滑り出す。 幻想の走り屋の姿は、その先にまだあった。
消えかけて、また見える。 霧のように、残像のように。
だが――その車のテールランプは、確かに“こちらを試すように”灯った。
「笑ってるわね、あの子....」
蓮子が呟く。
「えっ、見えるの?」
「いや、ただの勘よ」
「勘かーーーい!!」
幻想と現実の狭間で、赤いミニが追いつこうとしていた。 夜風が唸る。タイヤが叫ぶ。 ミニは今、確かに走っている――“記録されない現実”の上を。
赤いローバーミニ――“ルビー号”の心臓部、 1275ccの直列4気筒エンジンが咆哮を上げた。 高回転域へ踏み込まれたアクセルが、金属の咽を切り裂くように唸る。
「回転数、6,000....まだ上がる!」
蓮子の視線は、スピードメーターではなく新たに増設されたタコメーターを睨んでいた。 このミニにとって大事なのは速度じゃない。 “回ること”こそ、生命線。
ガクン、と一瞬重心が沈む。 2速から3速へ。
ギアが入ると同時に、タイヤが再び路面を掴む。
「グリップ、まだ生きてる....よし、次のS字、抜ける!」
「そんなギリギリで判断しないでーッ!!」
助手席のメリーが悲鳴を上げる。 車体は、山肌をえぐるようなタイトなS字カーブに突入していた。
タイヤが鳴く。
キィィィ――と甲高い悲鳴を上げる。 その音は、ルビー号の“限界へのアンサンブル”だった。
左フロントがイン側の縁石すれすれをなぞり、 右リアが外輪に軽く浮く。 前傾姿勢を保ったまま、車体全体が“しなる”。
「この車、サスが.....! 跳ねてるのに、掴んでる.....!」
メリーの手がシートを握り締める。 普段は感覚型の彼女でも、この挙動には確かに“恐れ”を感じた。
「重心が低い。剛性がある。設計が古い分、動きが読める。――このミニ、やれるわ!」
蓮子の目が、獣のように光る。 4速へ――いや、敢えて“引っ張る”。 カーブの手前、再び3速へ落とし、エンジンブレーキとブリッピングでスピードを調整。
「フェイント入れる!」
「フェイントぉぉぉっ!?」
軽くステアリングを右へ振ってから、即座に左へ切り返す。 ミニの車体が一瞬、横滑りし―― タイヤが角度をつけたまま、アスファルトの上を“滑るように”走った。
「.....ドリフトォッ!!?」
タイヤが再び悲鳴を上げる。 だが、それは“耐えられる範囲”だった。
「前輪が踏ん張ってる.....!後輪が、路面に食いついてる....!」
そして、脱出。 ルビー号は、S字を切り裂くように抜け、幻想の黒い影に肉薄する。
メリーは、荒い呼吸のまま、かすれた声を上げた。
「こんなの.....ただのクラシックカーじゃない....!」
「“赤い獣”....!」
闇を走るルビー号のテールランプが、今だけは確かに“生き物の眼”のように見えた。
だが――その瞬間だった。
蓮子がふと、ブレーキペダルに違和感を覚えた。
「....? 踏み込みが浅い?」
もう一度、強く踏む。
キィィィッ――ギリギリの減速。
「ブレーキパッド、焼けてる....?」
メリーがゾッとする。
「それってつまり――」
「まだイケる!!」
「ポジティブが狂気に変わってるーッ!!」
S字を抜けた先のストレート。 その終点で、黒い幻想の車体が、ふっと――かき消えるように姿を消した。
「....いなくなった?」
蓮子が言う。 その声には、ほんのわずかに熱があった。 ただの知性や皮肉ではない、“走った者の余韻”という熱。
後ろを振り返ると、そこにはもう何もない。 闇と霧と風だけが戻ってきていた。
「終わった....の?」
助手席のメリーが、小さく息を吐いた。 この数分間の恐怖と緊張が、ようやくほぐれ始めた。
「やっと.....戻れるのね.....」
そう、彼女は思った――その一瞬後だった。
ルビー号はそのまま直進を続けていた。 山道の緩やかな下り。 本来なら、ここで軽くブレーキを踏み、ギアを落として速度を調整するべき場所。
.....けれど、ミニは“止まらなかった”。
メリーは、異常に気づく。
「蓮子.....? スピード.....落ちてない.....よ?」
「え?」
蓮子が軽くブレーキペダルに触れる――何も起きない。
もう一度、強く踏み込む――抵抗がない。 感触が、空っぽだ。
「....あれ?」
三度、踏み直す。
変わらない。
沈みきったペダルが、靴底に冷たく触れる。
「............あ」
「.....蓮子?」
蓮子の口元が、わずかにひきつる。
「ブレーキが.....」
そして――笑うように、言った。
「.....ブレイクしてる」
「ブレイクしてるぅぅぅッッッ!?」
メリーの叫びが、山に木霊した。
次のコーナーが迫る。 ブレーキは効かない。 ギアを落とす。 エンジンブレーキでも抑えきれない。 車体は重く、タイヤはもはや悲鳴を通り越して“泣いて”いた。
「ルビー.....まだ、走るの.....?」
蓮子の声は、どこか陶酔していた。
「“止まれない”ってことは――走り続けるしか、ないってことよ....!」
「名言っぽく言うなーーーッ!!!」
ガードレールが目前に迫る。 メリーの視界が、傾きはじめる。
「これ、絶対に現実じゃない.....!!」
「夢であってーーーッ!!!」
その叫びと同時に――
赤いミニは、空を飛んだ。
視界が、真っ白に染まる。 音が消える。 風も、悲鳴も、エンジンの唸りも、すべてが遠のいていく。
ミニが宙を舞ったその瞬間、世界は“無”へと滑り込んだ。
そして――
「....っ!」
マエリベリー・ハーンは、ベッドの上で跳ね起きた。 夜明け前の薄明かりが、カーテンの隙間から差し込んでいる。 額にはうっすらと汗。 心臓は、まだ走っていた。
周囲を見渡す。 書きかけのスケッチブック。 机の上に置いたティーカップ。 静まり返った部屋。
どこにも、赤いミニはない。 ハンドルも、タイヤの音も、助手席も、飛んでいない。
メリーは少しの間、呼吸を整えてから、ぽつりと呟いた。
「.....夢か.....」
それだけだった。 それ以上、何も言葉にしなかった。
その日の朝。 学術区中央棟のカフェテラス。 金属とガラスでできた都市の谷間に、春先のやわらかな光が差し込んでいる。
マエリベリー・ハーンは、いつもの席に座っていた。 ノートパソコンを開き、ゆっくりと紅茶を口に運ぶ。 夜の悪夢――いや、悪夢だったはずの“夢”は、まだどこかで余韻を引きずっていた。
そして、彼女の向かいに現れたのは、あまりに見慣れた顔だった。
「おはよう、メリー。いい朝ね」
宇佐見蓮子。 いつも通りの、いつも通りではない顔。
「....おはよう。今日はちゃんと地に足つけてる?」
「なにそれ、怖い言い方」
蓮子は笑いながら、コーヒーを注文する。 その手元には一枚のパンフレット。 表紙には大きく「普通自動車免許 取得ガイド」と書かれていた。
「ちょうどいいタイミングだったわ。今、ちょっと考えてるの。免許、取ろうかなって」
「.........」
メリーは紅茶を置き、真顔になった。
そして、静かに、ハッキリとこう言った。
「....やめた方がいい」
それは、夜を知る者の本能だった。
蓮子は目を丸くして、それから肩をすくめる。
「そう? でも....「やめて。本当にやめて」
「まだ何も言ってないのに!?」
メリーは、どこか本気の視線で蓮子を睨む。 夢の中で見た、あのタイヤの焦げる匂い、宙に浮いた感覚、そして――ブレイクしたブレーキの手応え。
「あれは....二度とごめんだわ....」
蓮子は笑っていたが、メリーはすでに警戒していた。 “夢”は、時として現実よりも確かに警鐘を鳴らす。
赤い車体が、ふたたび走り出す前に。 彼女は、今度こそブレーキを踏ませるつもりだった。
かつての地図には載っていた。 だが現在の電子地図投影では、そこだけが曖昧にぼやける。 航空写真にも映らず、ドローンの航路は必ず迂回を命じられる。 国土地理院のデータベースには、存在すら記されていない。
それでも、道はあるのだ。 実在するにもかかわらず、記録に残らない峠。 “忘れられた幻の峠道”――地元ではそう呼ばれていた。
一説には、かつて走り屋たちの聖地だったと言われる。 だが、事故も逸話も語られない。 敗北も勝利も、誰かに伝えられることはなく、ただ夜の闇と共に記憶から失われていった。
では、その道に、もし“走り屋の願い”が宿っていたとしたら? もう一度走りたい。もう一度誰かに見てもらいたい。 そう願った“何か”が、今でもその峠に潜んでいるとしたら?
――この物語は、記録に残らない現実の中で、 ひとりの女と、一台のミニと、そして助手席の苦労人が“走った”夜の記憶である。
「――免許、取ったわ」
その日、蓮子は研究棟のカフェスペースで紅茶を飲みながら、さも当然のようにそう言った。
対面にいたマエリベリー・ハーンは、一瞬ポカンとしたあと、静かにカップを置いた。
「.....運転免許の、話よね?」
「ええ。普通自動車。AT限定じゃないわよ。ちゃんとマニュアルで」
「.........は?」
それは“研究発表のついで”にするような会話ではなかった。 だが、蓮子は書類の山を手でどけ、カバンからカードサイズの小さなプラスチックを取り出す。
確かに、そこには「宇佐見蓮子」の名前と顔写真。 写真の本人よりも目つきが悪く見えるのは、きっと気のせいではない。
「どうして突然.....?」
「ほら、私たちって今までは徒歩と電車と境界超えだったじゃない? そろそろ“地上の自由”も欲しくなったの」
「それ、自由の意味が違うと思う.....」
メリーは額に手を当てる。 どうせ蓮子のことだ、突拍子もない理由に違いない。
だが、理由はもっとひどかった。
「一夜漬けで覚えたのよ。交通法規、標識、合図、全部ね。気合いと集中力、あと適当な覚悟。免許センターの職員、ちょっと引いてた」
「それ、取らせちゃいけない側の引き方じゃない!?」
メリーが半ば叫ぶ。 だが蓮子は悪びれもせず、口元を緩める。
「で、取ったからには乗らなきゃでしょ。今日、納車なの」
「納車!? なに、車まで買ったの!? 勢いで!?」
「ふふ、見せてあげるわ。こっちよ、メリー」
2人が向かったのは、学術区の裏手にある小さな駐車場。 そして、そこに停まっていたのは――
「....赤いミニ?」
「そう、ローバーミニよ。クラシック。ラリー仕様。しかも英国正規モデル。かわいいでしょ?」
「え、赤!? ミニ!? ラリーって何!? ラリーってあの....あのラリー!?」
「そうよ。“W○C”に出てたこともある伝説のマシン。走行安定性とタイヤ配置が絶妙なの。これで峠も問題なし!」
「いやおかしいってば!!」
「可愛い見た目なのに、運転者が峠攻めるタイプだなんて、ミニが泣いてるわよ!」
「大丈夫よ。ミニはね、“峠を攻められるために生まれた”の。生まれながらの走り屋なのよ」
「それただの思い込みでしょ!? 擬人化して納得させるのやめてよ!?」
蓮子は車体を撫でながら、実に誇らしげに言った。
「名前は“ルビー号”よ。赤くて可愛くて、だけど峠では容赦ない――そんな彼女にピッタリでしょ?」
「.....もう何も言えない.....」
メリーがうなだれたそのとき、キーが回され、エンジンが小気味よく唸った。
「さ、乗ってメリー。夜の峠に走りに行くわよ」
「いやよ! 怖いわよ! そもそも運転経験ゼロじゃない!?」
「大丈夫。夢中になれば、だいたい何とかなるわ」
「“だいたい”じゃ困るのよーッ!!」
夜の気配は、街の境界を越えると途端に濃くなる。 舗装は粗く、街灯の数もまばらになり、代わりに虫の声と風のざわめきが耳に届いてきた。
「ここ.....本当に道なの?」
メリーが、助手席で半ば呆れたように言った。 ルビー号――赤いローバーミニは、細く曲がりくねった山道を登っていた。 前照灯だけが道を照らし、ガードレールの外には深い闇が広がる。
「道よ。正確には、地図にない“道だったもの”ね」
蓮子は平然と答える。 左手でハンドルを操作しながら、右手でウインカーを律儀に出す。 ただ、交差点など存在しない。
「私有地じゃないの?」
「厳密には“所在不明地”。国の管轄でも県の管理でもない、行政の死角に落ちた土地。だから、記録に残らない。けれど、確かに“ある”」
「そういう“都合のいい場所”、どうして毎回見つけられるの.....」
メリーはため息をつく。 助手席の足元には、まだ説明書が開かれたままのナビ端末が転がっている。 GPSは最初のカーブを越えたあたりから“圏外”になったままだ。
「そもそも、走るって....何するの?」
「決まってるじゃない。“走る”のよ。タイヤで、路面で。言葉でなく、速度で語る夜の美学――」
「はいはい、分かったから詩的に言わないで!」
突如、左のヘアピンが現れる。
「.....減速」
「減速ぅぅぅっ!?」
ギアが落とされ、サイドブレーキがかすかに引かれる。 ミニの車体が一瞬、左右に揺れ――
「よし、抜けた」
「ぬ、ぬけたって.....カーブが“浮いて見えた”んだけど!? 物理法則おかしくなかった!?」
「メリー、これが“体感G”よ」
「体感やめてぇぇえ!!」
そのときだった。
前方の道に、光のない“車”が現れた。 ヘッドライトは点いていない。 だが、車体の輪郭だけが、わずかな月明かりに照らされていた。
「――来たわね」
蓮子の声が、低く響く。
「待って。あれ、何? どうしてあんなに静かに.....タイヤが滑ってる? 音が....消えてる....」
「幻想の走り屋よ」
「は?」
「きっと、かつてここで走っていた。だけど記録に残らなかった。語られることもなかった、名前も車種も失われた存在」
「“忘れられた者が、誰かにもう一度見つけてほしいと願った”とき――幻想は、現れる」
メリーの目が、かすかに見開かれる。
「じゃあ、あれは....?」
「挑戦状よ。ルビー号に対する、幻想のリターンマッチ」
赤いミニのエンジンが唸る。
蓮子はハンドルを強く握りしめた。 そして、静かに宣言した。
「行くわよ、ルビー。夜の記録は、私たちが書き換える」
赤いローバーミニが、山の中腹で停止する。 闇の中に灯るテールランプだけが、現実との境界をかろうじて保っていた。
前方――ほんの数十メートル先に、黒い車体が浮かび上がっていた。 ヘッドライトは点いていない。エンジン音もしない。 だが、その存在は“そこに在る”と、無言で全身に訴えかけてくる。
「なんなのよ.....あれ。見えないのに、視界の端にずっと残る.....」
メリーが息を呑む。 その感覚は、彼女にしかわからない“異常”だ。 視線の焦点が合わず、存在の輪郭だけが残る。 あれは物体ではない。“記憶にだけ残る、形”――
「走るわよ、メリー」
「えっ、今から!?」
「勝負を挑まれたなら、応えなきゃ失礼でしょ?」
「いやいや! 失礼とかそういう次元じゃなくて――ッ!」
蓮子はギアを1速に入れる。 エンジンが高鳴り、赤いボンネットがかすかに揺れた。
「準備は?」
「してないッ!!」
「よろしい」
クラッチが繋がれ、ルビー号が飛び出す。
一瞬で加速する赤いミニ。 車体の軽さを武器に、低速域から高回転へ一気に持っていく。
先行する黒い車体は、まるで地面を滑るような動きでヘアピンに突入していく。 無音。無光。無音速。 その挙動は、常識を逸していた。
「音がしないのが、逆に怖いんだけど!?」
「メリー、体で感じるのよ。“重力のズレ”が奴のブレーキングポイントよ!」
「そんな感覚、持ち合わせてないわよ!!」
だが蓮子は、迷いなく操作していた。 右足でブレーキを煽り、左足でクラッチを一瞬抜く。
「.....溝落とし、行くわよ!」
「ミニの足回り、壊れるからやめてぇええ!!」
ガッ!と鈍い音が鳴る。
左前輪がわずかな縁石に接触し、車体が外に膨らむ衝撃を殺す。 外周をなぞるようにミニが滑る。 小さなボディがコーナーの内側へ吸い込まれるように突っ込んだ。
「この軽さ、この重心、このタイヤ幅――ラリーの血は伊達じゃない!」
「またラリーの話!? 頼むからW○Cと峠を一緒にしないでぇ!!」
ミニの後輪がギリギリでグリップを保ち、次の直線へ滑り出す。 幻想の走り屋の姿は、その先にまだあった。
消えかけて、また見える。 霧のように、残像のように。
だが――その車のテールランプは、確かに“こちらを試すように”灯った。
「笑ってるわね、あの子....」
蓮子が呟く。
「えっ、見えるの?」
「いや、ただの勘よ」
「勘かーーーい!!」
幻想と現実の狭間で、赤いミニが追いつこうとしていた。 夜風が唸る。タイヤが叫ぶ。 ミニは今、確かに走っている――“記録されない現実”の上を。
赤いローバーミニ――“ルビー号”の心臓部、 1275ccの直列4気筒エンジンが咆哮を上げた。 高回転域へ踏み込まれたアクセルが、金属の咽を切り裂くように唸る。
「回転数、6,000....まだ上がる!」
蓮子の視線は、スピードメーターではなく新たに増設されたタコメーターを睨んでいた。 このミニにとって大事なのは速度じゃない。 “回ること”こそ、生命線。
ガクン、と一瞬重心が沈む。 2速から3速へ。
ギアが入ると同時に、タイヤが再び路面を掴む。
「グリップ、まだ生きてる....よし、次のS字、抜ける!」
「そんなギリギリで判断しないでーッ!!」
助手席のメリーが悲鳴を上げる。 車体は、山肌をえぐるようなタイトなS字カーブに突入していた。
タイヤが鳴く。
キィィィ――と甲高い悲鳴を上げる。 その音は、ルビー号の“限界へのアンサンブル”だった。
左フロントがイン側の縁石すれすれをなぞり、 右リアが外輪に軽く浮く。 前傾姿勢を保ったまま、車体全体が“しなる”。
「この車、サスが.....! 跳ねてるのに、掴んでる.....!」
メリーの手がシートを握り締める。 普段は感覚型の彼女でも、この挙動には確かに“恐れ”を感じた。
「重心が低い。剛性がある。設計が古い分、動きが読める。――このミニ、やれるわ!」
蓮子の目が、獣のように光る。 4速へ――いや、敢えて“引っ張る”。 カーブの手前、再び3速へ落とし、エンジンブレーキとブリッピングでスピードを調整。
「フェイント入れる!」
「フェイントぉぉぉっ!?」
軽くステアリングを右へ振ってから、即座に左へ切り返す。 ミニの車体が一瞬、横滑りし―― タイヤが角度をつけたまま、アスファルトの上を“滑るように”走った。
「.....ドリフトォッ!!?」
タイヤが再び悲鳴を上げる。 だが、それは“耐えられる範囲”だった。
「前輪が踏ん張ってる.....!後輪が、路面に食いついてる....!」
そして、脱出。 ルビー号は、S字を切り裂くように抜け、幻想の黒い影に肉薄する。
メリーは、荒い呼吸のまま、かすれた声を上げた。
「こんなの.....ただのクラシックカーじゃない....!」
「“赤い獣”....!」
闇を走るルビー号のテールランプが、今だけは確かに“生き物の眼”のように見えた。
だが――その瞬間だった。
蓮子がふと、ブレーキペダルに違和感を覚えた。
「....? 踏み込みが浅い?」
もう一度、強く踏む。
キィィィッ――ギリギリの減速。
「ブレーキパッド、焼けてる....?」
メリーがゾッとする。
「それってつまり――」
「まだイケる!!」
「ポジティブが狂気に変わってるーッ!!」
S字を抜けた先のストレート。 その終点で、黒い幻想の車体が、ふっと――かき消えるように姿を消した。
「....いなくなった?」
蓮子が言う。 その声には、ほんのわずかに熱があった。 ただの知性や皮肉ではない、“走った者の余韻”という熱。
後ろを振り返ると、そこにはもう何もない。 闇と霧と風だけが戻ってきていた。
「終わった....の?」
助手席のメリーが、小さく息を吐いた。 この数分間の恐怖と緊張が、ようやくほぐれ始めた。
「やっと.....戻れるのね.....」
そう、彼女は思った――その一瞬後だった。
ルビー号はそのまま直進を続けていた。 山道の緩やかな下り。 本来なら、ここで軽くブレーキを踏み、ギアを落として速度を調整するべき場所。
.....けれど、ミニは“止まらなかった”。
メリーは、異常に気づく。
「蓮子.....? スピード.....落ちてない.....よ?」
「え?」
蓮子が軽くブレーキペダルに触れる――何も起きない。
もう一度、強く踏み込む――抵抗がない。 感触が、空っぽだ。
「....あれ?」
三度、踏み直す。
変わらない。
沈みきったペダルが、靴底に冷たく触れる。
「............あ」
「.....蓮子?」
蓮子の口元が、わずかにひきつる。
「ブレーキが.....」
そして――笑うように、言った。
「.....ブレイクしてる」
「ブレイクしてるぅぅぅッッッ!?」
メリーの叫びが、山に木霊した。
次のコーナーが迫る。 ブレーキは効かない。 ギアを落とす。 エンジンブレーキでも抑えきれない。 車体は重く、タイヤはもはや悲鳴を通り越して“泣いて”いた。
「ルビー.....まだ、走るの.....?」
蓮子の声は、どこか陶酔していた。
「“止まれない”ってことは――走り続けるしか、ないってことよ....!」
「名言っぽく言うなーーーッ!!!」
ガードレールが目前に迫る。 メリーの視界が、傾きはじめる。
「これ、絶対に現実じゃない.....!!」
「夢であってーーーッ!!!」
その叫びと同時に――
赤いミニは、空を飛んだ。
視界が、真っ白に染まる。 音が消える。 風も、悲鳴も、エンジンの唸りも、すべてが遠のいていく。
ミニが宙を舞ったその瞬間、世界は“無”へと滑り込んだ。
そして――
「....っ!」
マエリベリー・ハーンは、ベッドの上で跳ね起きた。 夜明け前の薄明かりが、カーテンの隙間から差し込んでいる。 額にはうっすらと汗。 心臓は、まだ走っていた。
周囲を見渡す。 書きかけのスケッチブック。 机の上に置いたティーカップ。 静まり返った部屋。
どこにも、赤いミニはない。 ハンドルも、タイヤの音も、助手席も、飛んでいない。
メリーは少しの間、呼吸を整えてから、ぽつりと呟いた。
「.....夢か.....」
それだけだった。 それ以上、何も言葉にしなかった。
その日の朝。 学術区中央棟のカフェテラス。 金属とガラスでできた都市の谷間に、春先のやわらかな光が差し込んでいる。
マエリベリー・ハーンは、いつもの席に座っていた。 ノートパソコンを開き、ゆっくりと紅茶を口に運ぶ。 夜の悪夢――いや、悪夢だったはずの“夢”は、まだどこかで余韻を引きずっていた。
そして、彼女の向かいに現れたのは、あまりに見慣れた顔だった。
「おはよう、メリー。いい朝ね」
宇佐見蓮子。 いつも通りの、いつも通りではない顔。
「....おはよう。今日はちゃんと地に足つけてる?」
「なにそれ、怖い言い方」
蓮子は笑いながら、コーヒーを注文する。 その手元には一枚のパンフレット。 表紙には大きく「普通自動車免許 取得ガイド」と書かれていた。
「ちょうどいいタイミングだったわ。今、ちょっと考えてるの。免許、取ろうかなって」
「.........」
メリーは紅茶を置き、真顔になった。
そして、静かに、ハッキリとこう言った。
「....やめた方がいい」
それは、夜を知る者の本能だった。
蓮子は目を丸くして、それから肩をすくめる。
「そう? でも....「やめて。本当にやめて」
「まだ何も言ってないのに!?」
メリーは、どこか本気の視線で蓮子を睨む。 夢の中で見た、あのタイヤの焦げる匂い、宙に浮いた感覚、そして――ブレイクしたブレーキの手応え。
「あれは....二度とごめんだわ....」
蓮子は笑っていたが、メリーはすでに警戒していた。 “夢”は、時として現実よりも確かに警鐘を鳴らす。
赤い車体が、ふたたび走り出す前に。 彼女は、今度こそブレーキを踏ませるつもりだった。
メリーも展開も勢いに身を任せていて読んでいて楽しかったです