「タイトルが過度に煽情的で恥を知らないなって思っちゃって、手が伸びないのよ」
フランはそう言うが、私は思う。
つまりそれって媚びてきているのが見え透いていてイヤだという事だと。
しかし、媚びてないのが良いからって手に取って今読んでるその本は、あなたのそういう処に媚びているとは考えられないかしら?と。
でも、フランだってそれは重々承知しているはずだった。
要は「うまくうまく媚びてちょうど良くやって、読者である私をせいぜいたのしませなさい」という事だ。
読者というのは何処までも堕落したケシ(堕落しているのはケシを用いる人間の方で、ケシ自体は堕落してないだろって? 黙れ)の様な存在だ。
一頁目、いや、一段落目に快楽が十分な量詰まっていなければ「此の本読む価値ナシ」と逃げていってしまう。
一頁目を超えたからと言って安心してはいけない。
手を変え品を変え目を引いて、どうかこちらを見てくださいと甲斐甲斐しくお世話してやらねばならない。
言いたいことがちょっとでもわざとらしいと、ハッと我に返ったような顔で説教くさいなどと宣う。
そうしてなんとか手を繋いでクライマックスに連れてきてやったら、最後には手土産を渡さねばならない。
奴隷よろしく働いて働いて働いても、まあ、悪くなかったんじゃない? じゃあ次もよろしく頼むよ! という事になる。
その内どれか一つでも駄作ならば、それはもうとんでもない話だ。
道端で駄々を捏ねて、えんえんとみっともなく泣きはらして、何日も何日も脳みその裏にこびりついてくる。
彼らはそういう、大きな赤子達を相手取って日々戦っているのだった。
作家はインクを使って戦争をする。
介護という名の戦争だ。
ここまで考えて、フランがせっかく会話を打診してきたのに私が一人で納得していてはいけないと思い、言った。
「つまりそれって媚びてきているのが見え透いていてイヤという事だと思うのだけれど、媚びてないのが良いからって手に取って今読んでるその本は、あなたのそういう処に媚びているとは考えられないかしら?」
「そんなのわかってるわよ。要はうまくうまく媚びてちょうど良くやって、読者である私をせいぜいたのしませなさいってことじゃない」
予定調和染みた会話だった。
適当な気持ちで読んだ本の、適当な気持ちで行われる会話だ。
度し難い。
これだから読者という生き物は。
「その点、この本はいいわ。軽い気持ちで読んでも入ってくるし。適度にテーマ性があってしかも不愉快になる要素が少なくて」
「ちょっと読みづらいくらい、こっちが少し本気で腰据えて読めば解決することでしょ」
「いやよ。口を開いてたら快楽が入ってきてほしいわ」
「これだからなあ。本を読むって闘いなのよ。こっちを傷つけてくるトラップやモンスターがうじゃうじゃしてる迷宮みたいなものなの。そこから宝物を持ち帰るのが本気の読書というものでしょ」
「そういうのは作る側の理屈じゃん。パチェや私にあるべき心持ちとは思わないわ。大体、読んでる間中ずっと、こっちは好き勝手に本の中からワアワア言われる訳でしょ? 楽して楽しくなりたいくらいの我儘は許されてしかるべきよ。むしろその程度の動線も用意できないのに、自分の世界観は理解してほしいなんて言うならそっちの方が怠惰だと思わない?」
「さ、作者と読者って怠惰を批判しあう関係だったのかしら……」
私以外の全ての者は本気で本を読んで本気で話すべきなのに。
その義務があるハズなのに。
大抵の読者というのは己の人生と照らし合わせるという手順を踏むことで、作品と向き合うことを大幅にスキップしている。
得意げな顔で漏らした感想の八割は怠惰の産物だ。
うすら寒くて滑っていて滑稽だ。
本気で読めないならばせめて口を噤(つぐ)むべきだ。
作品の格までもが落ちる。
「でも、ご褒美を用意してくれてるのよ、フラン。本気で読んだ暁には、きっと作者が何かを持ち帰らせてくれるの。適当に読んで手に入るものなんて、所詮適当にやった範囲のものでしかないのよ?」
「それでいいもん。別に現状には満足してるしそこまで乾いてないから、適当にやった範囲で手に入るものまでで」
怠らないでほしい。
すべてを怠らないでほしい。
適当にやっていいのは私だけだからだ。
なぜ私だけは適当にやっていいのかと言うと、私はそれを啓蒙する立場だからだ。
啓蒙すると、世界が少し、本気になる。
世界が少し本気になると私が少し楽しくなる。
そういう取引が行われているのだ。
誰とだよとかそういうのは別にいいのだ。
とにかく、適当にやっていいのは私だけなのだ。
フランはカヌレを食べた。
少し食べづらそうにしていた。
このタイミングで食べるものだから、食べ物はおいしいのが当然みたいなツラをしているのに、本はそうじゃないなんて、どう考えても理不尽だろうと主張しているようにも見えてしまった。
ゆるせない。
本は生きるのに必須じゃないんだから本気でやりなさいよ!
***
「姫様にハマれればハマれるし、姫様にハマれなければハマれないっていう一点突破の本ねこれ」
「姫様にハマれなかったってこと?」
「ハマれたわ。だって健気でかわいいじゃない。健気っていうのはいいわよね。特に、ちょっとでも役に立とうと思って物資を提供しようとするけど、あまりにも雀の涙で戦局にはほぼ影響しないのが丸わかりで、勇者もそれを取り繕いながら姫様にお礼をいうんだけど、姫様も実は勇者の表情からそれは察してたことが後から判明するシーンとか、いじらしくて好きよ」
フランはその話がどんな形をしているか見抜きたがる。
もっと言うと、見抜くに足るような形が存在している本が好きだ。
今回で言えば、「姫様にハマれればハマれるし、姫様にハマれなければハマれないっていう一点突破の形をしている」というのが、フランの見抜いたこの本の形であった。
「でも、姫様と勇者以外の登場人物がこんなに多いのは何か理由があるのかしら。よくわからなかったわ。特にこの【勇者の剣に感応した十六人の英雄】ってすごくない? 多いでしょ。三人とかでいいんじゃないの? 全員出てきて名前もあってちょっとずつ活躍するけど、特にこれといった掘り下げがある訳でもなくて……」
「魔王側もすごいわよね。四十八の軍団とその軍団長が居て、その上に八人の将軍が居て、全員に名前があって、ちょっとずつ活躍するけど、これといった掘り下げがある訳でもなくて……」
「敵側はまだ味方側との戦力差が絶望的っていう演出になるし完全に意味不明ってわけではないけれど」
「連載物だったみたいだからね。ご長寿ものにするつもりだったんじゃないかしら」
「それならそれで掘り下げが済み次第、後出しで出せばいいのに」
しかしフランに見抜けない構造があった場合、その本はフランにとっては「見抜くべき形のない駄作」ということになる。
それはフランが悪いのだろうか? フランはきっとそうは思わないだろう。
作品の構造をうまく見抜かせて読者を気持ちよくさせるのも作家の腕次第なのだから。
というかそれをしないのであれば何を書いているのだという話になる。
自分語りか? 自分語りが悪いわけではないが、つまらない自分語りをしておきながら駄作認定をされて怒っているようでは話にならない。
いや、作家が貶されて怒っているかもしれないということ自体、読者の勝手な想像に過ぎないが……。
ある意味、読書というのは脳内に生成された作家との独り相撲という側面がある。
「パチェ、会話、会話」
「ああ、失礼」
フランは手持無沙汰気に机の照明を付けたり消したりしていたが、私が話し始めると、それはそれで煎餅をかじりはじめた。
私には(心情的にも作業的にも)絶対できないが、なんでこの子は本を読みながら会話が出来るんだろうか?
私は喋ってる時ちゃんと本を読む手が止まっているというか、なんならどこまで読んだかなあって段落の最初から読み直したりするので、一向にページが進まないというのに。
「そういえばその本、結局完結しないまま終わっちゃったのよね」
「ぐあああ! ちょっと、続きどこって聞こうとしたのに!」
「明らかに人間が一生の間に書ききれる量じゃないものね。続きはこれよ。どうぞ」
「どうも。この本どうなのって私聞いたよね。面白いわよってパチェが言うから私はさ」
「面白いでしょ?」
「面白いけど、教えといてよ!」
「教えたら読まないでしょ。読んでほしかったんだもの」
「ううむ」
「ううむて」
「この煎餅おいしいね」
「美鈴が貰いものだって言ってもってきたやつよそれ」
「美鈴が」
「謎に人徳あるから、門の前に立ってるだけで色々貰うみたいよ」
「美鈴と言えばさ」
「うん」
「前に夜番を変わってって頼んでみたのよ。門の前で風に当たりながら本を読みたかったの。別に変わってもらう必要まではなかったのだけれど、私が居るのに美鈴は要らないじゃん。美鈴休めるじゃんって、善意で提案してあげたわけ」
「あなたってそういう処あるわね」
「そしたら断られたの! なんかムカっときて、私が居るのに美鈴要らないじゃん! って言っちゃったんだけど」
「あなたって本当にそういう処あるわね」
「妹様のことは信頼していますよ。しかし、これは私がお嬢様から仰せつかったことですから。他の人に任せたので大丈夫です、なんて訳には行きませんよって、そう言うのよ。私もう気が抜けちゃって結局美鈴の膝の上で本読んだわよ」
「あれで堅物なとこあるのよね意外と」
「ねえ、まって、この本ずっと思ってたんだけど、何で急にわけわからない日常ギャグを始めるの? この描写要る?」
「絶対に要る」
***
「やっぱり私、賢者の贈り物パロディが好きだわ」
「それは賢者の贈り物が好きな訳ではなくて?」
「いや、賢者の贈り物自体はそんなに好きな訳ではないけれど」
「どうして?」
「だってその、やっぱり、古臭いじゃない。けど、あの話の形自体はとっても優れてるから、新しいキャラクターがそれをやっているだけで良いものになっちゃうじゃない。あと、結局、その優れた古典が使い回されているのを私は知っています、という事実が、私を気持ちよくさせるじゃない。だから賢者の贈り物パロディが好き」
フランの言っているパロディには二つの要件がある。
パロディ元が優れていることと、パロディした作家の腕が優れていることだ。
パロディ元が優れていないと、それは単なる自己満足の引用に過ぎず、パロディ元を知らない人が楽しくない。
パロディした作家の腕が優れていないと、それは更なる自己満足の引用に過ぎず、パロディ元を知っている人も知らない人も楽しくない。
ところで、せっかく賢者の贈り物の話をしたので、この段落では賢者の贈り物パロディをすべきではないだろうか?
咲夜はレミィのためなら懐中時計を売っぱらうだろうか?
売っぱらうだろうな……。
咲夜はレミィのために何をプレゼントするだろう?
レミィが大切にしているもので賢者の贈り物パロディをしやすいもの、別にないな……。
っていうか、紅魔館って裕福な方だから、プレゼントのために自分の大切なものを売り払うって選択肢にあんまり妥当性ないんだよな……。
「今お姉さまと咲夜で賢者の贈り物パロディができないか考えてたでしょ」
「なんでわかったの」
「なんかニヤけてたから」
少なくとも、私に優れたパロディを提供する作家としての腕はなさそうだった。
別に、そんなものはいらない。
私は本を読めさえすればよいのだ。
実際に筆を執る必要などない。
責任を持つべきなのは作家や私以外の読者であって、私ではないのだった。
フランは一人用のソファの側板を枕にして無理やり寝転がりながら本を読んでいた。
いつの間にか用意されていた(いつも丁度いい処で用意されている)紅茶とマカロンを見ると、向き直って交互に嗜んだ。
「パチェは好きなパロディないの?」
「パロディっていうかただのフレーズだけど、月が綺麗ですねは好きよ」
「げえ、あんなのが好きなの?」
「ふん、まだ『そこ』? はやくここまで登ってきなさい」
「うざ。あれって全ての作家がかかる『はしか』みたいなものでしょ。『はしか』が好きだなんて異常性癖者だわ。えんがちょ~」
「あれは『はしか』じゃなくて第二次成長期よ。尊ぶべきものなの」
「きも」
「本も読み慣れてくると類型や構造が見えてきてうんざりしてくる時期が訪れるものよ。今のフランってまさにそれ。あと四百九十五倍ばかり読めば、私のように本を愛でる余地をたくさん見つけられるようになるわ」
「心の中ではいつも罵詈雑言飛び交ってるくせに何を急に聖人ヅラしてるんだか」
「は? うるさい!」
フランはけらけら笑った。
私は「もー」と言って大げさにそっぽを向いた。
上から物を言ってばかりいると説教染みてしまうので、良い感じの処で腐されたら負けておくに限るのだ。
歳だけで言ったらフランの方が上だけども。
***
「いじめの描写ばっかりうまいわよね、この作者」
「な、なんでそんなこと言うの」
「翻って、楽しそうな処の描写がすごい薄っぺらいと言うか、体験したことがないけど無理やり捻り出してるんだろうなって感じちゃう」
自分で読んだときにそんな風には思わなかったが、言われてみて思い返すと、確かにそんな処があったような気もする。
カーストの上位層をイメージしてみるものの、外側から見た歪んだ認知でしか知らないので、それをうまく捻出できていないという感じ。
「そのうまいって言ったいじめの描写にしても凡百よね。そんなに鮮烈じゃない。最後の一線でペットの猫を殺されちゃってブチギレた拍子に超能力が覚醒してみんな殺しちゃうって。ありきたりすぎる! ペット殺すのって、ライン超えてる中ではライン超えてない感じしない? いじめの描写なんてただでさえ下らないもの見せられてるのに、それが大して鮮烈でもなかったらどうしようもなくない?」
「言いたいことはわかるけど、ペット飼ってる人には同じこと言わないように気を付けてね」
そもそも彼女基準での鮮烈というのがどの程度のものなのか考えたくもない。
そして鮮烈だったらどうなるというのか。
悦ぶのだろうか?
キャーって。
こわい。
「でもこの、悲しいことだけど、この程度の事は世界の何処でも起きてるのに、なんで自分のケースでだけ覚醒なんて都合のいいことが起きたのかって主人公が疑問に思って、しかもそれがちゃんと解明される処はえらいわね」
「その、フランの酷評を元にして言うと、作者も大概凄惨な体験をしたんでしょうに、それでも生み出す作品には一筋の光というか、ちゃんと人を楽しませようって心持ちが感じられるのは、根が善人なんだろうなって思っちゃうわね」
「多分、本に救われたクチなんでしょ」
主人公は人を殺したという咎を背負ってしまった。
が、それ以上の殺生はすまいとするのである。
しかし自分と同じように理不尽に苦しむ人間を放っておくこともできず、主人公は超能力を使って悪人を法の下に裁かせるように暗躍する人間になる。
その中で、自分と同じように超能力に目覚めた人間に出会ったり、超能力者を取り巻く陰謀に巻き込まれたりもする。
やっぱりこんなやつは殺してしまった方がいいのではないかと苦しんだりもする。
助けた人間に超能力がばれてしまったりもする。
そうやって生まれる主人公の葛藤が面白い。
助けた人間とのヒューマンドラマとかもあるし。
全体的にやりたいことを全力でやっていて楽しい本だと思う。
「いじめの描写はもう、滲み出ちゃったのかな。我慢できなかったのよね。多分やりたくて仕方がなかったんでしょうね」
「まあ、いじめがきっかけで超能力に目覚めたとかもそうだけど、言われてみると話を動かすためのギミックが大分稚拙だった印象はあるわね。ホントに言われてみれば程度のレベルだけど」
「そうそう。なんかやたらと足手纏いがアホなことして状況が悪化する展開多くない? ヒロインの横恋慕するライバル男出すのもやめてほしかったし。そういうのに頼るなとは言わないけど、頼るなら頼った箇所は責任持って面白くしなさいよ」
「やたらとって程では……ううん、そうだったような気もしてきた……」
物語を動かすための手段は様々あるが、それらは大抵読者にとって面白いものではない。
話が進行しているというだけで面白くなるなら、誰もが頭の悪い第三者に状況を悪化させる手法を取る。
だがそれではげんなりするだけなので、違う方法がないかと苦心しているわけだ。
それでもその手法を取るならば、それは怠惰の結果だということだ。
フランはそれからも、あそこが嫌だっただの、やきもきしただのと言った話をした。
ビスケットが出されているのに、気付いてもいないようだった。
よほどその本を楽しんだと見えた。
多少粗があってもパワーがあればこのように「もっていかれる」のが本の面白い処なのだ。
***
二人で三色団子を食べた。
三色団子の良し悪しって何処で決まるのか、本当にわからないと言う話をした。
全部同じに思える。
というか私からしたら紅茶の違いも大して判らない。
咲夜が淹れた奴と、そうじゃないやつの二種類しかなくない? この世に。
フランは違いが判ると言っていたが、私は見栄を張っているだけだと思っている。
「本の違いは判っても、お茶の違いは判らないの?」
「本は違いが判るとかじゃなくて、明白(あからさま)に違うじゃない。だって、書いてあることが違うんだから。でも紅茶は全部紅茶でしょ。本が全部一緒って言うのは、食べ物なら全部一緒って言うのと同じくらい変なことよ」
「うーん、そうかも?でもほら、やっぱ似たような話ってあるじゃない。中華の中の青椒肉絲だったら、サイエンスフィクションの中の宇宙物、みたいな」
「それでもまだまだ違うわよ。青椒肉絲の具とか調味料とかあるわけだし。火の入れ方まで行ったら紅茶と同じかもしれないけれど、その領域まで行っても、文字が違うんだから違うとしか言いようがないってことになると思うわよ。だから、本の違いとお茶の違いを同列に語るのは変よ」
「変かも~」
「折れるのね」
「料理の感想と物語の感想も同じかなって方に考えがとられて、そっちはどうでもよくなっちゃった」
「自由ね。感想は一緒よ。違うのはいつも作る方だけで、消費する方は全部一緒よ一緒」
「パチェって、自分自身も消費者に徹している割に消費者に厳しくない?」
「その二つって別に相反しないでしょ?それってただ自分に厳しいって言ってるだけなんだから」
「しないかもだけど」
「作ってる方には上であってほしいのよ。それっておかしい?」
「おかしいとも言えるかな。咲夜は私たちにいろんなものを作ってくれるけど、でも咲夜が私たちより上なのかって言ったらそうじゃないし。消費する側の方が基本的には上じゃない? って考え方も別にできる。消費する側にとって需要がなければ作ってる側は食べていけない訳なんだし」
こんな言い方をするということはフランも分かっていることと思う。
私が言いたいのはつまり、世界の構造はそうかもしれないが、精神的に優れているのは作っている方だという話な訳だ。
物質的な世界で不自由なく生きていく才能にたまたま恵まれていることが、イコール全てにおいて優れているということになるなら、知能を持って生まれてきた意味がない。
それならライオンかシャチにでも産まれてくればよいのだ。
知生体として優れていることは何を生み出したか、他の知生体に何を投げかけたかということで決まる。
決まるというか、決まっていてほしいと言うべきだが、とにかくそういうことを私は言いたいのである。
もっと言えば、物質的に満たされているだの満たされていないだのということは知性持って生まれたものの真の欲求とは認められない。
知生体の持つ真なる欲求は常に知生体同士の「つながり」の中にある。
私は、本を書く、読む(つまり、物を作る、摂取するという振舞い全般)というのはそれを暴き出すものだと考えている。
何処かの誰かの作ったものを身にまとい、食べて、読んで、遊んで、寝て起きている。
その全ては「つながり」の中にある。
知性を持って生きている以上「つながり」の中にいないというのは考えられない。
ここまで考えて、こういうことにしてしまうと、感想というのは作品との「つながり」の輪廻の関係にあって、どちらかに優劣はないし、どちらも無くてはならないということになるかもしれない、と思った。
イヤだな、都合が悪い。
都合が悪いからフランには黙っておこう。
とにかく、私個人の希望として、作ってる方が上だったら上なのである。
誰も私に逆らうな。
卵が先か鶏が先かという言葉があるが、本と感想に当てはめれば、本が先に決まっている。
感想が先にあって本が生まれるなどということは絶対にない。
本が全ての母であり、それに涙を流しながら有難がって魂を削って読みふければよいのだ。
そうすれば、喜びなり怒りなり、本物の感情が滲み出てくる。
そして、滲み出てきた本物の感情というものはどこかにぶつけねば気が済まないハズだ。
そういうものだ。
それが尊いことなのだ。
それが「読書」だ。
世の皆々がやっている殆どのそれは「読書以下」だ。
そうだそうだ。
そういうことにしておこう。
「か」
「か?」
「感想を言う側の方が品質が低い傾向にある」
「黙ってるなと思ったらすごいざっくりした偏見が来たわ」
「まあでも、自分のは品質が低いかもしれないからって感想も言わないなんて怠惰は許されないけれどね」
「あれ? でも前に、真にその作品のことを想ってるならバカは口を噤むべきだって言ってなかった?」
「バカはどんな理不尽なこと言われても仕方ないのよ。だってバカなんだもの」
「確かにそうね」
紅茶に例えて話をしておきながらなんだが、今私たちが嗜んでいたのは緑茶であった。
当然である。
だって、三色団子なんだから。
***
「文盲(もんもう)って言葉あるじゃない」
クイニーアマンを食べながら、フランは言った。
文盲。
文字の読み書きができない人。
転じて文脈のわからない人をあざけって使う言葉。
私も良く使う。
心の中で他人をあざけり優越性を誇示するのに適している。
そういった自分の心の動きを諫める気持ちがないわけではない。
「何急に」
「いや、文盲って言葉が出てきたのよ。今読んでる本に。『この文盲共が! お前らがそんなにも盲いているから私は!』って台詞で。ルビも振ってなくて。売れない作家が悪いやつにそそのかされて怪人になっちゃうってくだりなんだけど」
「ははあ」
「文盲って言葉、すごい性格悪いなって思ったのよ。【ぶんもう】でいい処を、わざわざ【もんもう】って読ませてるじゃない? その理由を考えると、文盲を【ぶんもう】って読んで使用する人間の滑稽さをこの世の何処かに産み出したかったからとしか考えられないワケじゃない」
「そうかもね?」
「で、これを正しく読んで使ったら使ったで、今度は選民思想丸出しの勘違い野郎になっちゃうじゃない? この言葉を作った人は、多分そういう傲慢さを嘲笑う心も持っているだろうって思うのよね」
「たった二文字の言葉についてずいぶん考えるわね」
「この言葉が使われててルビも振ってない、この本のこの段落、きっと文盲はお断りだぜ、しねばーか! って思って書いたんだろうなって思うのよ」
「でも文盲って言葉にわざわざルビを振ってるのって、それはそれで【愚かな愚かなお前たち、勉強になったかい?】って感じで鼻持ちならないけどね」
「どっちの傲慢にするか選べるってこと!?」
読者を目の敵にする作家が居たとてそこまで意外な事ではないが、その敵愾心を丸出しに作品に出してしまうなんて端的に阿呆という気がする。
読者は何処まで行っても愚か者なのだから、上から上から降ろしていただければそれでよい。
こちらは下から下からいくから。
そう考えると、作家の真の敵は読者ではなくて別の作家ということになる。
もしこの世に作家しかいなかったとすると、すべての作家は同時に読者でもあるため、その作家兼読者はただの読者よりも数段馬鹿馬鹿しくて低劣薄弱な気がする。
この考えは作家というものを神聖視しすぎているだろうか。
神聖視させていただきたい。
読者は作家の愚かな側面など見たくない。
見たかったとすればそれは作品の中で見たい。
でも人間が愚かだなんて当たり前のことを得意げに言うのは簡単なので、できればやっぱり愚かさの中に光を見たいという気持ちもある。
要は、フランが読んでいるその本がそういう内容なのかどうかということだ。
フランはクイニーアマンでべとべとになった手を拭いた。
「で、その本面白いの? フラン」
「こういう試みが在っても良いって思うけど、それはこの人じゃなくても別に良い」
こういう試みが在ってもいいというのは、試み以外に褒められるところがなく、その試み自体もさして珍しいものでない時にしか使わない言葉だ。
というか、面白かったら面白かったと言えばいいのであって、その言葉を使わない時点で、それは面白いと言うに足らないものだったことの証左だ。
つまりつまらないし、つまらないなりの意義も特にないということになる。
酷評である。
フランが絶賛するなどそう滅多にないことだが、酷評は語るにつけ行われている。
価値あるものを見つける難しさを物語っている。
「試みの価値って常に陳腐化しないものだと思うけれどね」
「そう? ほかの人がやってること、わざわざやらなくても良いじゃんって思っちゃうけれど」
「自分の頭に同じもの入れるのは無駄だからっていう自分本位な理由でそういうことを言ってるんだろうけど、まあ待ちなさいよ」
「あによ」
「同じ試みでも、行われたらその試みの中ではそれが最新ってことになるでしょう」
「ああ、ね」
フランは本を読んでいた時と打って変わって、興味あり気にこちらに向き直った。
こういう処がかわいいんだよなと思う。
生意気だけど素直で。
読者としては落伍者でもこれでお釣りが来てしまう。
あとは私の啓蒙が届けば完璧なのだが。
「だからそれは、直近の風俗に基づいて組みなおされた試みってことになるわけだから、新世代の人間たちにとっては『入っていきやすい』ものになっていると思うのね。そういうわけで、面白い試みっていうのは何回でも焼き増しされてしかるべきだと思うわけ。前に賢者の贈り物のパロディはどれだけされても良いって話をしてくれたのと、似たような話よ」
「でもこの本は試み云々の前にクオリティがまず低いよ。面白くないもん」
せっかくさっきは直接の言及は避けたのに、結局面白くないってハッキリ言った!
「ホントにそうならそこは擁護できない……もう、あとで私にも読ませなさいよ、それ。面白かったらフランのことけちょけちょに言ってやるから」
「パチェは大体どんな本読んでも面白いって言うじゃん」
「投げやりにそう言ってるなら駄目だと思うけど、私はホントに面白いって思ってるもん」
「大体、説教が長ったらしいとか過度に話が難しいとかで読み切れなかった時に、『これって私が悪いの?』ってなるんだけど、そうならせてることを恥じて、もうホントに恥じ入ってほしいわ。初対面で『あ、私はこの本の対象じゃないんだ』って気づいた時も、同じくらいムカつくのよ。読む人間を最初から選り好みしてるような奴が書くものなんて、どうせ大したもんじゃないって」
「いいえ、フラン。あなたは本当は選ばれしものなのよ。自分で気づいてないだけで。本気で読み込めばすぐにこっちにこれるわ、大丈夫」
「もーーー! うざーーーい!」
いいから簡単で楽しいやつを寄越しなさーい! と叫んでフランは床に大の字になった。
私が寄って行ってわき腹をちょいちょいとつつくと、のそのそ起きてまた本を読み始めた。
「っていうかさ、そもそも文盲って語感がダサくない?使ってる時点でセンスない感じがする」
「そもそもすぎ」
***
「この物語では数多の可能性によって世界に分岐が発生するということがなくて、つまり、並行世界っていうものがなくて、何か事象が確定したときに、分岐したかもしれない可能性の数々が魔力となって世界に生まれている、という解釈でいいのかしら?」
「一番しっくりくるのはそうね」
「まあこんなの理解してなくても良いっちゃ良いのかしら」
「戦争を止めて国を救いたいので敵国の計画を阻止するっていうのが最初で、戦争の原因になっている魔力の不足を引き起こしている上位存在に気付いてその討伐を目的とするようになる、っていう主人公の大目標の遷移さえ理解してればいいんじゃない?」
「そんなのわかってるわよ。だから私が愚者を買って出てあげてるんでしょ」
「んん? 会話が繋がってるようで繋がってない……話しかけてきておきながら、本読みながら適当に受け答えするのやめてもらえる?」
フランは本を読みながらでも破綻しない程度の会話はできるはずだ。
そんなフランが私との会話が適当になっているということは、それだけ面白い本ということ?
いや、やっぱり普段は手を抜いて本を読んでるってことじゃないのか、それは。
ふざけやがって!
私は適当に扱ってもいいけれど、本は適当に扱うなよ!
本気で読め!
本気で読め本気で読め本気で読め。
それに賢者か愚者か立場のはっきりしないものと喋るのは疲れる。
可愛げを出すために愚者のフリをするのは賢者の振舞いだが、途中で愚者のフリをしていたとネタばらしをするのは、初めから可愛げがないのより数段印象が悪い。
「私が本を読む理由は暇つぶしよ。それなら、本を読んだ後、それを読んだ他の人とその本について共有する行為は、一冊当たりさらに効率的な暇つぶしじゃない。ここにある本は多いけど、私の寿命を全部食いつぶせるほどって訳じゃないんだから」
「それは四人に分かれて速読してるからじゃなくて? しかも四人分の感想を聞かされて私は新しい本を読む時間がない。あと四人に分かれたくらいで網羅できるほど、この世にあなたを楽しませる本は少なくないし」
「そうそう、そういうツッコミ処を用意してあげてる訳よ」
「全部その理屈でいくつもりなの? というか、買って出てくれているというなら徹しなさいよ。いや、そうじゃなかった。だから適当に喋るくらいなら話しかけないで。もう、三人は本読んで、一人は私と会話する用にしたらいいじゃない。そうしたらいよいよ私は本が読めなくなるけれど」
そういえば以前、実際にそのような行為をしていた(つまり、三人は図書館に居て一人はレミィとお茶を飲んでいた)のがレミィにバレた時、フランはちゃんとブチのめされていた。
レミィはついでで自分に構われるのがとても嫌いである。
それからフランは二度とレミィの前に分体を顕(あらわ)にしたことはない。
私は気にしない方だが、それでも明らかにこっちに割かれているリソースが散漫だと「集中しろよ」と思うので、基本的には失礼な行為なのだと思われる。
それにしても、「本を読んだら、同じ本を読んだ人と共有するところまでが読書」というのはポジティブな考えだ。
私は共有する人なんていなくても味方をしてくれるのが本というものだと考えているので、手放しで同意はできないが。
いずれにしろ、本というのは読む人にとって「なにか」を齎(もたら)している。
誰しも、筆を執るならば「なにか」を「だれか」に齎したいと考えているはずだ。
翻って、なにも齎さないというのは本の要件を満たしていない。
すべての本の話はその本が読者になにかを齎しているという前提のもとに為されている。
「ちょっと良いシーンだったのよ、ごめんね!」
「ちょっと良いシーンなのに話しかけてくる神経を疑うわ」
「本は読みたかったけどパチェには構ってほしかったの~許してよ~」
「だめよ欲張りは。なんでダメなのかって言うとどっちにも身が入らなくなるから」
適当に本を読んだその口で、適当に読んだ本の話をするなど始末に負えない。
伽藍洞なほど大層な音が鳴る。
薄っぺらな言葉ほど下品千万に頭に残るものだ。
これだから読者という生き物は度し難い。
怠るな。
すべてを怠るな。
優れた私を煩わせるな。
優れた私の適当は、貴様ら愚者の本気とようやく等価なのだ。
蒙昧で浅薄なその脳みそを使っていては、本気を出すくらいしか仕方がないではないか。
そして完璧な読書は己の中のみにある。
「でもパチェは許してくれるじゃん」
みたいなことをよく考えるが、一時の感情に任せた戯けた情動だと思う。
どの面下げて数多ある罵詈雑言を煮詰めたが如く誹り詰っているのだろう。
いや、フランの言葉を通して私は世界の何処かと戦っていたのだ。
実際には彼女を相手取ってすらいない。
だって私フランのこと好きだし。
フランの話を聞くのも好きだし、フランが本読んでるのを見るのも好き。
とはいえ、反省している訳でもない。
次の瞬間には同じように何かと戦っている気がする。
私にとっての読書とはこのようなものであるからして、無理からぬことだった。
私はフランにマドレーヌの包みを放り投げた。
フランは本を手に取ったまま、包みを口でキャッチした。
弊書斎の本は魔法がかけてあるので、お菓子ごときで汚れたりはしない。
フランはそう言うが、私は思う。
つまりそれって媚びてきているのが見え透いていてイヤだという事だと。
しかし、媚びてないのが良いからって手に取って今読んでるその本は、あなたのそういう処に媚びているとは考えられないかしら?と。
でも、フランだってそれは重々承知しているはずだった。
要は「うまくうまく媚びてちょうど良くやって、読者である私をせいぜいたのしませなさい」という事だ。
読者というのは何処までも堕落したケシ(堕落しているのはケシを用いる人間の方で、ケシ自体は堕落してないだろって? 黙れ)の様な存在だ。
一頁目、いや、一段落目に快楽が十分な量詰まっていなければ「此の本読む価値ナシ」と逃げていってしまう。
一頁目を超えたからと言って安心してはいけない。
手を変え品を変え目を引いて、どうかこちらを見てくださいと甲斐甲斐しくお世話してやらねばならない。
言いたいことがちょっとでもわざとらしいと、ハッと我に返ったような顔で説教くさいなどと宣う。
そうしてなんとか手を繋いでクライマックスに連れてきてやったら、最後には手土産を渡さねばならない。
奴隷よろしく働いて働いて働いても、まあ、悪くなかったんじゃない? じゃあ次もよろしく頼むよ! という事になる。
その内どれか一つでも駄作ならば、それはもうとんでもない話だ。
道端で駄々を捏ねて、えんえんとみっともなく泣きはらして、何日も何日も脳みその裏にこびりついてくる。
彼らはそういう、大きな赤子達を相手取って日々戦っているのだった。
作家はインクを使って戦争をする。
介護という名の戦争だ。
ここまで考えて、フランがせっかく会話を打診してきたのに私が一人で納得していてはいけないと思い、言った。
「つまりそれって媚びてきているのが見え透いていてイヤという事だと思うのだけれど、媚びてないのが良いからって手に取って今読んでるその本は、あなたのそういう処に媚びているとは考えられないかしら?」
「そんなのわかってるわよ。要はうまくうまく媚びてちょうど良くやって、読者である私をせいぜいたのしませなさいってことじゃない」
予定調和染みた会話だった。
適当な気持ちで読んだ本の、適当な気持ちで行われる会話だ。
度し難い。
これだから読者という生き物は。
「その点、この本はいいわ。軽い気持ちで読んでも入ってくるし。適度にテーマ性があってしかも不愉快になる要素が少なくて」
「ちょっと読みづらいくらい、こっちが少し本気で腰据えて読めば解決することでしょ」
「いやよ。口を開いてたら快楽が入ってきてほしいわ」
「これだからなあ。本を読むって闘いなのよ。こっちを傷つけてくるトラップやモンスターがうじゃうじゃしてる迷宮みたいなものなの。そこから宝物を持ち帰るのが本気の読書というものでしょ」
「そういうのは作る側の理屈じゃん。パチェや私にあるべき心持ちとは思わないわ。大体、読んでる間中ずっと、こっちは好き勝手に本の中からワアワア言われる訳でしょ? 楽して楽しくなりたいくらいの我儘は許されてしかるべきよ。むしろその程度の動線も用意できないのに、自分の世界観は理解してほしいなんて言うならそっちの方が怠惰だと思わない?」
「さ、作者と読者って怠惰を批判しあう関係だったのかしら……」
私以外の全ての者は本気で本を読んで本気で話すべきなのに。
その義務があるハズなのに。
大抵の読者というのは己の人生と照らし合わせるという手順を踏むことで、作品と向き合うことを大幅にスキップしている。
得意げな顔で漏らした感想の八割は怠惰の産物だ。
うすら寒くて滑っていて滑稽だ。
本気で読めないならばせめて口を噤(つぐ)むべきだ。
作品の格までもが落ちる。
「でも、ご褒美を用意してくれてるのよ、フラン。本気で読んだ暁には、きっと作者が何かを持ち帰らせてくれるの。適当に読んで手に入るものなんて、所詮適当にやった範囲のものでしかないのよ?」
「それでいいもん。別に現状には満足してるしそこまで乾いてないから、適当にやった範囲で手に入るものまでで」
怠らないでほしい。
すべてを怠らないでほしい。
適当にやっていいのは私だけだからだ。
なぜ私だけは適当にやっていいのかと言うと、私はそれを啓蒙する立場だからだ。
啓蒙すると、世界が少し、本気になる。
世界が少し本気になると私が少し楽しくなる。
そういう取引が行われているのだ。
誰とだよとかそういうのは別にいいのだ。
とにかく、適当にやっていいのは私だけなのだ。
フランはカヌレを食べた。
少し食べづらそうにしていた。
このタイミングで食べるものだから、食べ物はおいしいのが当然みたいなツラをしているのに、本はそうじゃないなんて、どう考えても理不尽だろうと主張しているようにも見えてしまった。
ゆるせない。
本は生きるのに必須じゃないんだから本気でやりなさいよ!
***
「姫様にハマれればハマれるし、姫様にハマれなければハマれないっていう一点突破の本ねこれ」
「姫様にハマれなかったってこと?」
「ハマれたわ。だって健気でかわいいじゃない。健気っていうのはいいわよね。特に、ちょっとでも役に立とうと思って物資を提供しようとするけど、あまりにも雀の涙で戦局にはほぼ影響しないのが丸わかりで、勇者もそれを取り繕いながら姫様にお礼をいうんだけど、姫様も実は勇者の表情からそれは察してたことが後から判明するシーンとか、いじらしくて好きよ」
フランはその話がどんな形をしているか見抜きたがる。
もっと言うと、見抜くに足るような形が存在している本が好きだ。
今回で言えば、「姫様にハマれればハマれるし、姫様にハマれなければハマれないっていう一点突破の形をしている」というのが、フランの見抜いたこの本の形であった。
「でも、姫様と勇者以外の登場人物がこんなに多いのは何か理由があるのかしら。よくわからなかったわ。特にこの【勇者の剣に感応した十六人の英雄】ってすごくない? 多いでしょ。三人とかでいいんじゃないの? 全員出てきて名前もあってちょっとずつ活躍するけど、特にこれといった掘り下げがある訳でもなくて……」
「魔王側もすごいわよね。四十八の軍団とその軍団長が居て、その上に八人の将軍が居て、全員に名前があって、ちょっとずつ活躍するけど、これといった掘り下げがある訳でもなくて……」
「敵側はまだ味方側との戦力差が絶望的っていう演出になるし完全に意味不明ってわけではないけれど」
「連載物だったみたいだからね。ご長寿ものにするつもりだったんじゃないかしら」
「それならそれで掘り下げが済み次第、後出しで出せばいいのに」
しかしフランに見抜けない構造があった場合、その本はフランにとっては「見抜くべき形のない駄作」ということになる。
それはフランが悪いのだろうか? フランはきっとそうは思わないだろう。
作品の構造をうまく見抜かせて読者を気持ちよくさせるのも作家の腕次第なのだから。
というかそれをしないのであれば何を書いているのだという話になる。
自分語りか? 自分語りが悪いわけではないが、つまらない自分語りをしておきながら駄作認定をされて怒っているようでは話にならない。
いや、作家が貶されて怒っているかもしれないということ自体、読者の勝手な想像に過ぎないが……。
ある意味、読書というのは脳内に生成された作家との独り相撲という側面がある。
「パチェ、会話、会話」
「ああ、失礼」
フランは手持無沙汰気に机の照明を付けたり消したりしていたが、私が話し始めると、それはそれで煎餅をかじりはじめた。
私には(心情的にも作業的にも)絶対できないが、なんでこの子は本を読みながら会話が出来るんだろうか?
私は喋ってる時ちゃんと本を読む手が止まっているというか、なんならどこまで読んだかなあって段落の最初から読み直したりするので、一向にページが進まないというのに。
「そういえばその本、結局完結しないまま終わっちゃったのよね」
「ぐあああ! ちょっと、続きどこって聞こうとしたのに!」
「明らかに人間が一生の間に書ききれる量じゃないものね。続きはこれよ。どうぞ」
「どうも。この本どうなのって私聞いたよね。面白いわよってパチェが言うから私はさ」
「面白いでしょ?」
「面白いけど、教えといてよ!」
「教えたら読まないでしょ。読んでほしかったんだもの」
「ううむ」
「ううむて」
「この煎餅おいしいね」
「美鈴が貰いものだって言ってもってきたやつよそれ」
「美鈴が」
「謎に人徳あるから、門の前に立ってるだけで色々貰うみたいよ」
「美鈴と言えばさ」
「うん」
「前に夜番を変わってって頼んでみたのよ。門の前で風に当たりながら本を読みたかったの。別に変わってもらう必要まではなかったのだけれど、私が居るのに美鈴は要らないじゃん。美鈴休めるじゃんって、善意で提案してあげたわけ」
「あなたってそういう処あるわね」
「そしたら断られたの! なんかムカっときて、私が居るのに美鈴要らないじゃん! って言っちゃったんだけど」
「あなたって本当にそういう処あるわね」
「妹様のことは信頼していますよ。しかし、これは私がお嬢様から仰せつかったことですから。他の人に任せたので大丈夫です、なんて訳には行きませんよって、そう言うのよ。私もう気が抜けちゃって結局美鈴の膝の上で本読んだわよ」
「あれで堅物なとこあるのよね意外と」
「ねえ、まって、この本ずっと思ってたんだけど、何で急にわけわからない日常ギャグを始めるの? この描写要る?」
「絶対に要る」
***
「やっぱり私、賢者の贈り物パロディが好きだわ」
「それは賢者の贈り物が好きな訳ではなくて?」
「いや、賢者の贈り物自体はそんなに好きな訳ではないけれど」
「どうして?」
「だってその、やっぱり、古臭いじゃない。けど、あの話の形自体はとっても優れてるから、新しいキャラクターがそれをやっているだけで良いものになっちゃうじゃない。あと、結局、その優れた古典が使い回されているのを私は知っています、という事実が、私を気持ちよくさせるじゃない。だから賢者の贈り物パロディが好き」
フランの言っているパロディには二つの要件がある。
パロディ元が優れていることと、パロディした作家の腕が優れていることだ。
パロディ元が優れていないと、それは単なる自己満足の引用に過ぎず、パロディ元を知らない人が楽しくない。
パロディした作家の腕が優れていないと、それは更なる自己満足の引用に過ぎず、パロディ元を知っている人も知らない人も楽しくない。
ところで、せっかく賢者の贈り物の話をしたので、この段落では賢者の贈り物パロディをすべきではないだろうか?
咲夜はレミィのためなら懐中時計を売っぱらうだろうか?
売っぱらうだろうな……。
咲夜はレミィのために何をプレゼントするだろう?
レミィが大切にしているもので賢者の贈り物パロディをしやすいもの、別にないな……。
っていうか、紅魔館って裕福な方だから、プレゼントのために自分の大切なものを売り払うって選択肢にあんまり妥当性ないんだよな……。
「今お姉さまと咲夜で賢者の贈り物パロディができないか考えてたでしょ」
「なんでわかったの」
「なんかニヤけてたから」
少なくとも、私に優れたパロディを提供する作家としての腕はなさそうだった。
別に、そんなものはいらない。
私は本を読めさえすればよいのだ。
実際に筆を執る必要などない。
責任を持つべきなのは作家や私以外の読者であって、私ではないのだった。
フランは一人用のソファの側板を枕にして無理やり寝転がりながら本を読んでいた。
いつの間にか用意されていた(いつも丁度いい処で用意されている)紅茶とマカロンを見ると、向き直って交互に嗜んだ。
「パチェは好きなパロディないの?」
「パロディっていうかただのフレーズだけど、月が綺麗ですねは好きよ」
「げえ、あんなのが好きなの?」
「ふん、まだ『そこ』? はやくここまで登ってきなさい」
「うざ。あれって全ての作家がかかる『はしか』みたいなものでしょ。『はしか』が好きだなんて異常性癖者だわ。えんがちょ~」
「あれは『はしか』じゃなくて第二次成長期よ。尊ぶべきものなの」
「きも」
「本も読み慣れてくると類型や構造が見えてきてうんざりしてくる時期が訪れるものよ。今のフランってまさにそれ。あと四百九十五倍ばかり読めば、私のように本を愛でる余地をたくさん見つけられるようになるわ」
「心の中ではいつも罵詈雑言飛び交ってるくせに何を急に聖人ヅラしてるんだか」
「は? うるさい!」
フランはけらけら笑った。
私は「もー」と言って大げさにそっぽを向いた。
上から物を言ってばかりいると説教染みてしまうので、良い感じの処で腐されたら負けておくに限るのだ。
歳だけで言ったらフランの方が上だけども。
***
「いじめの描写ばっかりうまいわよね、この作者」
「な、なんでそんなこと言うの」
「翻って、楽しそうな処の描写がすごい薄っぺらいと言うか、体験したことがないけど無理やり捻り出してるんだろうなって感じちゃう」
自分で読んだときにそんな風には思わなかったが、言われてみて思い返すと、確かにそんな処があったような気もする。
カーストの上位層をイメージしてみるものの、外側から見た歪んだ認知でしか知らないので、それをうまく捻出できていないという感じ。
「そのうまいって言ったいじめの描写にしても凡百よね。そんなに鮮烈じゃない。最後の一線でペットの猫を殺されちゃってブチギレた拍子に超能力が覚醒してみんな殺しちゃうって。ありきたりすぎる! ペット殺すのって、ライン超えてる中ではライン超えてない感じしない? いじめの描写なんてただでさえ下らないもの見せられてるのに、それが大して鮮烈でもなかったらどうしようもなくない?」
「言いたいことはわかるけど、ペット飼ってる人には同じこと言わないように気を付けてね」
そもそも彼女基準での鮮烈というのがどの程度のものなのか考えたくもない。
そして鮮烈だったらどうなるというのか。
悦ぶのだろうか?
キャーって。
こわい。
「でもこの、悲しいことだけど、この程度の事は世界の何処でも起きてるのに、なんで自分のケースでだけ覚醒なんて都合のいいことが起きたのかって主人公が疑問に思って、しかもそれがちゃんと解明される処はえらいわね」
「その、フランの酷評を元にして言うと、作者も大概凄惨な体験をしたんでしょうに、それでも生み出す作品には一筋の光というか、ちゃんと人を楽しませようって心持ちが感じられるのは、根が善人なんだろうなって思っちゃうわね」
「多分、本に救われたクチなんでしょ」
主人公は人を殺したという咎を背負ってしまった。
が、それ以上の殺生はすまいとするのである。
しかし自分と同じように理不尽に苦しむ人間を放っておくこともできず、主人公は超能力を使って悪人を法の下に裁かせるように暗躍する人間になる。
その中で、自分と同じように超能力に目覚めた人間に出会ったり、超能力者を取り巻く陰謀に巻き込まれたりもする。
やっぱりこんなやつは殺してしまった方がいいのではないかと苦しんだりもする。
助けた人間に超能力がばれてしまったりもする。
そうやって生まれる主人公の葛藤が面白い。
助けた人間とのヒューマンドラマとかもあるし。
全体的にやりたいことを全力でやっていて楽しい本だと思う。
「いじめの描写はもう、滲み出ちゃったのかな。我慢できなかったのよね。多分やりたくて仕方がなかったんでしょうね」
「まあ、いじめがきっかけで超能力に目覚めたとかもそうだけど、言われてみると話を動かすためのギミックが大分稚拙だった印象はあるわね。ホントに言われてみれば程度のレベルだけど」
「そうそう。なんかやたらと足手纏いがアホなことして状況が悪化する展開多くない? ヒロインの横恋慕するライバル男出すのもやめてほしかったし。そういうのに頼るなとは言わないけど、頼るなら頼った箇所は責任持って面白くしなさいよ」
「やたらとって程では……ううん、そうだったような気もしてきた……」
物語を動かすための手段は様々あるが、それらは大抵読者にとって面白いものではない。
話が進行しているというだけで面白くなるなら、誰もが頭の悪い第三者に状況を悪化させる手法を取る。
だがそれではげんなりするだけなので、違う方法がないかと苦心しているわけだ。
それでもその手法を取るならば、それは怠惰の結果だということだ。
フランはそれからも、あそこが嫌だっただの、やきもきしただのと言った話をした。
ビスケットが出されているのに、気付いてもいないようだった。
よほどその本を楽しんだと見えた。
多少粗があってもパワーがあればこのように「もっていかれる」のが本の面白い処なのだ。
***
二人で三色団子を食べた。
三色団子の良し悪しって何処で決まるのか、本当にわからないと言う話をした。
全部同じに思える。
というか私からしたら紅茶の違いも大して判らない。
咲夜が淹れた奴と、そうじゃないやつの二種類しかなくない? この世に。
フランは違いが判ると言っていたが、私は見栄を張っているだけだと思っている。
「本の違いは判っても、お茶の違いは判らないの?」
「本は違いが判るとかじゃなくて、明白(あからさま)に違うじゃない。だって、書いてあることが違うんだから。でも紅茶は全部紅茶でしょ。本が全部一緒って言うのは、食べ物なら全部一緒って言うのと同じくらい変なことよ」
「うーん、そうかも?でもほら、やっぱ似たような話ってあるじゃない。中華の中の青椒肉絲だったら、サイエンスフィクションの中の宇宙物、みたいな」
「それでもまだまだ違うわよ。青椒肉絲の具とか調味料とかあるわけだし。火の入れ方まで行ったら紅茶と同じかもしれないけれど、その領域まで行っても、文字が違うんだから違うとしか言いようがないってことになると思うわよ。だから、本の違いとお茶の違いを同列に語るのは変よ」
「変かも~」
「折れるのね」
「料理の感想と物語の感想も同じかなって方に考えがとられて、そっちはどうでもよくなっちゃった」
「自由ね。感想は一緒よ。違うのはいつも作る方だけで、消費する方は全部一緒よ一緒」
「パチェって、自分自身も消費者に徹している割に消費者に厳しくない?」
「その二つって別に相反しないでしょ?それってただ自分に厳しいって言ってるだけなんだから」
「しないかもだけど」
「作ってる方には上であってほしいのよ。それっておかしい?」
「おかしいとも言えるかな。咲夜は私たちにいろんなものを作ってくれるけど、でも咲夜が私たちより上なのかって言ったらそうじゃないし。消費する側の方が基本的には上じゃない? って考え方も別にできる。消費する側にとって需要がなければ作ってる側は食べていけない訳なんだし」
こんな言い方をするということはフランも分かっていることと思う。
私が言いたいのはつまり、世界の構造はそうかもしれないが、精神的に優れているのは作っている方だという話な訳だ。
物質的な世界で不自由なく生きていく才能にたまたま恵まれていることが、イコール全てにおいて優れているということになるなら、知能を持って生まれてきた意味がない。
それならライオンかシャチにでも産まれてくればよいのだ。
知生体として優れていることは何を生み出したか、他の知生体に何を投げかけたかということで決まる。
決まるというか、決まっていてほしいと言うべきだが、とにかくそういうことを私は言いたいのである。
もっと言えば、物質的に満たされているだの満たされていないだのということは知性持って生まれたものの真の欲求とは認められない。
知生体の持つ真なる欲求は常に知生体同士の「つながり」の中にある。
私は、本を書く、読む(つまり、物を作る、摂取するという振舞い全般)というのはそれを暴き出すものだと考えている。
何処かの誰かの作ったものを身にまとい、食べて、読んで、遊んで、寝て起きている。
その全ては「つながり」の中にある。
知性を持って生きている以上「つながり」の中にいないというのは考えられない。
ここまで考えて、こういうことにしてしまうと、感想というのは作品との「つながり」の輪廻の関係にあって、どちらかに優劣はないし、どちらも無くてはならないということになるかもしれない、と思った。
イヤだな、都合が悪い。
都合が悪いからフランには黙っておこう。
とにかく、私個人の希望として、作ってる方が上だったら上なのである。
誰も私に逆らうな。
卵が先か鶏が先かという言葉があるが、本と感想に当てはめれば、本が先に決まっている。
感想が先にあって本が生まれるなどということは絶対にない。
本が全ての母であり、それに涙を流しながら有難がって魂を削って読みふければよいのだ。
そうすれば、喜びなり怒りなり、本物の感情が滲み出てくる。
そして、滲み出てきた本物の感情というものはどこかにぶつけねば気が済まないハズだ。
そういうものだ。
それが尊いことなのだ。
それが「読書」だ。
世の皆々がやっている殆どのそれは「読書以下」だ。
そうだそうだ。
そういうことにしておこう。
「か」
「か?」
「感想を言う側の方が品質が低い傾向にある」
「黙ってるなと思ったらすごいざっくりした偏見が来たわ」
「まあでも、自分のは品質が低いかもしれないからって感想も言わないなんて怠惰は許されないけれどね」
「あれ? でも前に、真にその作品のことを想ってるならバカは口を噤むべきだって言ってなかった?」
「バカはどんな理不尽なこと言われても仕方ないのよ。だってバカなんだもの」
「確かにそうね」
紅茶に例えて話をしておきながらなんだが、今私たちが嗜んでいたのは緑茶であった。
当然である。
だって、三色団子なんだから。
***
「文盲(もんもう)って言葉あるじゃない」
クイニーアマンを食べながら、フランは言った。
文盲。
文字の読み書きができない人。
転じて文脈のわからない人をあざけって使う言葉。
私も良く使う。
心の中で他人をあざけり優越性を誇示するのに適している。
そういった自分の心の動きを諫める気持ちがないわけではない。
「何急に」
「いや、文盲って言葉が出てきたのよ。今読んでる本に。『この文盲共が! お前らがそんなにも盲いているから私は!』って台詞で。ルビも振ってなくて。売れない作家が悪いやつにそそのかされて怪人になっちゃうってくだりなんだけど」
「ははあ」
「文盲って言葉、すごい性格悪いなって思ったのよ。【ぶんもう】でいい処を、わざわざ【もんもう】って読ませてるじゃない? その理由を考えると、文盲を【ぶんもう】って読んで使用する人間の滑稽さをこの世の何処かに産み出したかったからとしか考えられないワケじゃない」
「そうかもね?」
「で、これを正しく読んで使ったら使ったで、今度は選民思想丸出しの勘違い野郎になっちゃうじゃない? この言葉を作った人は、多分そういう傲慢さを嘲笑う心も持っているだろうって思うのよね」
「たった二文字の言葉についてずいぶん考えるわね」
「この言葉が使われててルビも振ってない、この本のこの段落、きっと文盲はお断りだぜ、しねばーか! って思って書いたんだろうなって思うのよ」
「でも文盲って言葉にわざわざルビを振ってるのって、それはそれで【愚かな愚かなお前たち、勉強になったかい?】って感じで鼻持ちならないけどね」
「どっちの傲慢にするか選べるってこと!?」
読者を目の敵にする作家が居たとてそこまで意外な事ではないが、その敵愾心を丸出しに作品に出してしまうなんて端的に阿呆という気がする。
読者は何処まで行っても愚か者なのだから、上から上から降ろしていただければそれでよい。
こちらは下から下からいくから。
そう考えると、作家の真の敵は読者ではなくて別の作家ということになる。
もしこの世に作家しかいなかったとすると、すべての作家は同時に読者でもあるため、その作家兼読者はただの読者よりも数段馬鹿馬鹿しくて低劣薄弱な気がする。
この考えは作家というものを神聖視しすぎているだろうか。
神聖視させていただきたい。
読者は作家の愚かな側面など見たくない。
見たかったとすればそれは作品の中で見たい。
でも人間が愚かだなんて当たり前のことを得意げに言うのは簡単なので、できればやっぱり愚かさの中に光を見たいという気持ちもある。
要は、フランが読んでいるその本がそういう内容なのかどうかということだ。
フランはクイニーアマンでべとべとになった手を拭いた。
「で、その本面白いの? フラン」
「こういう試みが在っても良いって思うけど、それはこの人じゃなくても別に良い」
こういう試みが在ってもいいというのは、試み以外に褒められるところがなく、その試み自体もさして珍しいものでない時にしか使わない言葉だ。
というか、面白かったら面白かったと言えばいいのであって、その言葉を使わない時点で、それは面白いと言うに足らないものだったことの証左だ。
つまりつまらないし、つまらないなりの意義も特にないということになる。
酷評である。
フランが絶賛するなどそう滅多にないことだが、酷評は語るにつけ行われている。
価値あるものを見つける難しさを物語っている。
「試みの価値って常に陳腐化しないものだと思うけれどね」
「そう? ほかの人がやってること、わざわざやらなくても良いじゃんって思っちゃうけれど」
「自分の頭に同じもの入れるのは無駄だからっていう自分本位な理由でそういうことを言ってるんだろうけど、まあ待ちなさいよ」
「あによ」
「同じ試みでも、行われたらその試みの中ではそれが最新ってことになるでしょう」
「ああ、ね」
フランは本を読んでいた時と打って変わって、興味あり気にこちらに向き直った。
こういう処がかわいいんだよなと思う。
生意気だけど素直で。
読者としては落伍者でもこれでお釣りが来てしまう。
あとは私の啓蒙が届けば完璧なのだが。
「だからそれは、直近の風俗に基づいて組みなおされた試みってことになるわけだから、新世代の人間たちにとっては『入っていきやすい』ものになっていると思うのね。そういうわけで、面白い試みっていうのは何回でも焼き増しされてしかるべきだと思うわけ。前に賢者の贈り物のパロディはどれだけされても良いって話をしてくれたのと、似たような話よ」
「でもこの本は試み云々の前にクオリティがまず低いよ。面白くないもん」
せっかくさっきは直接の言及は避けたのに、結局面白くないってハッキリ言った!
「ホントにそうならそこは擁護できない……もう、あとで私にも読ませなさいよ、それ。面白かったらフランのことけちょけちょに言ってやるから」
「パチェは大体どんな本読んでも面白いって言うじゃん」
「投げやりにそう言ってるなら駄目だと思うけど、私はホントに面白いって思ってるもん」
「大体、説教が長ったらしいとか過度に話が難しいとかで読み切れなかった時に、『これって私が悪いの?』ってなるんだけど、そうならせてることを恥じて、もうホントに恥じ入ってほしいわ。初対面で『あ、私はこの本の対象じゃないんだ』って気づいた時も、同じくらいムカつくのよ。読む人間を最初から選り好みしてるような奴が書くものなんて、どうせ大したもんじゃないって」
「いいえ、フラン。あなたは本当は選ばれしものなのよ。自分で気づいてないだけで。本気で読み込めばすぐにこっちにこれるわ、大丈夫」
「もーーー! うざーーーい!」
いいから簡単で楽しいやつを寄越しなさーい! と叫んでフランは床に大の字になった。
私が寄って行ってわき腹をちょいちょいとつつくと、のそのそ起きてまた本を読み始めた。
「っていうかさ、そもそも文盲って語感がダサくない?使ってる時点でセンスない感じがする」
「そもそもすぎ」
***
「この物語では数多の可能性によって世界に分岐が発生するということがなくて、つまり、並行世界っていうものがなくて、何か事象が確定したときに、分岐したかもしれない可能性の数々が魔力となって世界に生まれている、という解釈でいいのかしら?」
「一番しっくりくるのはそうね」
「まあこんなの理解してなくても良いっちゃ良いのかしら」
「戦争を止めて国を救いたいので敵国の計画を阻止するっていうのが最初で、戦争の原因になっている魔力の不足を引き起こしている上位存在に気付いてその討伐を目的とするようになる、っていう主人公の大目標の遷移さえ理解してればいいんじゃない?」
「そんなのわかってるわよ。だから私が愚者を買って出てあげてるんでしょ」
「んん? 会話が繋がってるようで繋がってない……話しかけてきておきながら、本読みながら適当に受け答えするのやめてもらえる?」
フランは本を読みながらでも破綻しない程度の会話はできるはずだ。
そんなフランが私との会話が適当になっているということは、それだけ面白い本ということ?
いや、やっぱり普段は手を抜いて本を読んでるってことじゃないのか、それは。
ふざけやがって!
私は適当に扱ってもいいけれど、本は適当に扱うなよ!
本気で読め!
本気で読め本気で読め本気で読め。
それに賢者か愚者か立場のはっきりしないものと喋るのは疲れる。
可愛げを出すために愚者のフリをするのは賢者の振舞いだが、途中で愚者のフリをしていたとネタばらしをするのは、初めから可愛げがないのより数段印象が悪い。
「私が本を読む理由は暇つぶしよ。それなら、本を読んだ後、それを読んだ他の人とその本について共有する行為は、一冊当たりさらに効率的な暇つぶしじゃない。ここにある本は多いけど、私の寿命を全部食いつぶせるほどって訳じゃないんだから」
「それは四人に分かれて速読してるからじゃなくて? しかも四人分の感想を聞かされて私は新しい本を読む時間がない。あと四人に分かれたくらいで網羅できるほど、この世にあなたを楽しませる本は少なくないし」
「そうそう、そういうツッコミ処を用意してあげてる訳よ」
「全部その理屈でいくつもりなの? というか、買って出てくれているというなら徹しなさいよ。いや、そうじゃなかった。だから適当に喋るくらいなら話しかけないで。もう、三人は本読んで、一人は私と会話する用にしたらいいじゃない。そうしたらいよいよ私は本が読めなくなるけれど」
そういえば以前、実際にそのような行為をしていた(つまり、三人は図書館に居て一人はレミィとお茶を飲んでいた)のがレミィにバレた時、フランはちゃんとブチのめされていた。
レミィはついでで自分に構われるのがとても嫌いである。
それからフランは二度とレミィの前に分体を顕(あらわ)にしたことはない。
私は気にしない方だが、それでも明らかにこっちに割かれているリソースが散漫だと「集中しろよ」と思うので、基本的には失礼な行為なのだと思われる。
それにしても、「本を読んだら、同じ本を読んだ人と共有するところまでが読書」というのはポジティブな考えだ。
私は共有する人なんていなくても味方をしてくれるのが本というものだと考えているので、手放しで同意はできないが。
いずれにしろ、本というのは読む人にとって「なにか」を齎(もたら)している。
誰しも、筆を執るならば「なにか」を「だれか」に齎したいと考えているはずだ。
翻って、なにも齎さないというのは本の要件を満たしていない。
すべての本の話はその本が読者になにかを齎しているという前提のもとに為されている。
「ちょっと良いシーンだったのよ、ごめんね!」
「ちょっと良いシーンなのに話しかけてくる神経を疑うわ」
「本は読みたかったけどパチェには構ってほしかったの~許してよ~」
「だめよ欲張りは。なんでダメなのかって言うとどっちにも身が入らなくなるから」
適当に本を読んだその口で、適当に読んだ本の話をするなど始末に負えない。
伽藍洞なほど大層な音が鳴る。
薄っぺらな言葉ほど下品千万に頭に残るものだ。
これだから読者という生き物は度し難い。
怠るな。
すべてを怠るな。
優れた私を煩わせるな。
優れた私の適当は、貴様ら愚者の本気とようやく等価なのだ。
蒙昧で浅薄なその脳みそを使っていては、本気を出すくらいしか仕方がないではないか。
そして完璧な読書は己の中のみにある。
「でもパチェは許してくれるじゃん」
みたいなことをよく考えるが、一時の感情に任せた戯けた情動だと思う。
どの面下げて数多ある罵詈雑言を煮詰めたが如く誹り詰っているのだろう。
いや、フランの言葉を通して私は世界の何処かと戦っていたのだ。
実際には彼女を相手取ってすらいない。
だって私フランのこと好きだし。
フランの話を聞くのも好きだし、フランが本読んでるのを見るのも好き。
とはいえ、反省している訳でもない。
次の瞬間には同じように何かと戦っている気がする。
私にとっての読書とはこのようなものであるからして、無理からぬことだった。
私はフランにマドレーヌの包みを放り投げた。
フランは本を手に取ったまま、包みを口でキャッチした。
弊書斎の本は魔法がかけてあるので、お菓子ごときで汚れたりはしない。
それでも、別に文盲の滓でも良いので言うけれど冒頭から中盤までがあまりにも作者と読者を貶めていて、その貶め方の完成度があまりにも高いから小説としてではなくて記事とか、そういうので読みたかったなと思う。文盲の滓達への憎悪がキャラのフィルターを通さずにそのまま感じたかった。これが低品質で愚かな感想の一つ。中盤以降は馴染んできたのか割と面白かった。うまく目を瞑れたんだと思います。
作中で記された文言は、読んでいる私にとっても一種の毒なのは間違いなのですが、その毒も結局はパチュリーの独白とフランドールの会話という閉じた世界に収まっており(もちろん信頼関係というかTPOは前提として)それぞれの感覚で好きに語らえばいいのではないかと、そんなふうに思いました。
フランは議論しているように見せかけて全然パチュリーの相手をしていないというのも、ある種作者自身のこの小説に対する皮肉(もしくは、毒を包むためのオブラート?)なのかもしれないな、と思ったりもしました。あと、「文盲」という言葉の持つ悪意に対する考察は目から鱗でした。こんなの思いつけたら言葉を操るのが楽しいだろうな…と思いました。
言語化がとても秀逸で、なんとなく心当たりのあるような話が整頓されていくようで不思議な感覚でした
面白かったです。ご馳走様でした。