気づくと、ひと気のない舗装された高架の道端に佇んでいた。
直前まで何をしていたのかは全くもって定かではなく、もしかすれば私はもうずっと長い間こうして孤独に呆けていたのかもしれない。例えるなら、ただ無為に散らばっていた木片が何かの拍子に偶然組み上がったようなもの。予定された調和とは程遠くはあれど、そうした経緯で思いがけず認知が確立されたとしても、その瞬間の私にとっては何ら不思議な話ではないと思えた。
歩道から奥へ下っていく短い石階段があり、その中段の辺りに一匹の白い犬が蹲っていた。犬は年老いており、ひどく衰弱しているように見えた。近寄ると、吠えることこそしないがどこか苦しそうに虚ろな眼をこちらへ向けてきた。さほど大きくはない。長い毛並みに全身が覆われていて温かそうだと思ったけれど、暖かくも寒くも感じられない空漠とした日和であったから、それは単に、私に宿る生来の性質がただそう思わせただけかもしれない。貧乏神としての、底に穴の空いた瓶のように満ちることを知らない飢餓感。身に馴染みすぎたそれはいつだって、私の意識を私以外の何かの色彩へ巻き込もうとする。ほとんど、こちらの意思とは無関係に。
私は一段上から犬を見下ろすような形で自身の足を抱くように屈んでいたが、気が向いて手を伸ばすと老犬は口を半開きにして首をこちらへと向けた。膠着状態に陥った私は、固まったまま白い犬の黒い眼をじっと見つめていた。とても愛らしい顔つきだった。
しばらくすると老犬は枯れ枝のような足を震わせてどうにか立ち上がり、私に構うことなく石階段を下り始めた。最下段を過ぎた後も老犬は不安定な足取りで歩を進めた。私は少し離れてその後をついていった。
犬が何度か高い声で鳴いた。応答を期待するような鳴き方だったから、誰かを探しているのかもしれない。だとしたらひどく虚しいと思った。ここには私達以外には誰もいない。どうしてか、それだけは間違いのない理解だという確信があった。
静かな道端に、犬の声は虚しくもよく響いた。
私が応えてもよかったけれど、それはこの老犬の期待することではないように感じられた。私達だけしかいないこの空間で、犬にとって私は完全なる部外者であり、本来なら交わることのない繋がりだった。世の中の大半の出来事がそうであるように。犬が赤い首輪をしていることに、私はそのときになってようやく気づいた。
飼い主を、探している?
でも、ここには誰もいないよ。心の中でそう小さく呟く。
老犬は行き止まりに突き当たり、再び蹲ったかと思うと、やがておもむろに横たわってしまった。うっすらと開いた眼はどこにも焦点が合っていないように見えた。私は犬のそばへと寄って腰を下ろした。長く白い毛並みはよく毛繕いされているように見えた。触れることはせず、ただ膝を抱えてその姿を瞳に収め続けた。
しばらくして、犬がひときわ大きな声で鳴き、驚いた私は思わず目を瞑る。
ゆっくりと目蓋を開くと、荒屋の見慣れた天井がぼんやりと浮かんでいた。
鼻をくすぐるような春の匂いに混じって、窓から差し込む柔らかな白い陽射しが、さして広くもない部屋の中へ溶けている。どこか遠くで鳥の鳴く声が聞こえた。部屋はとても静かだった。
長閑な陽気に反抗して気怠げに身を起こす。隣を見やったが、そこに妹の姿はなかった。すでに家を出たのだろう。いや、もしかすると、昨夜から帰っていないのかもしれない。つい先程まで見ていた光景の印象が強すぎたせいだろうか。どうにも記憶が判然としなかった。
私達姉妹には、意識的な習慣というものがあまりない。ずっと家に閉じ籠もっていたかと思えば、何日も家に戻らないこともある。たぶん、特定の対象に対する帰属意識といったものが希薄なのだろう。少なくとも私の方は、女苑がどこで何をしているかなんてことをいちいち把握していない。わざわざ確認したことはないが、おそらく向こうもそれほど大差はない気がする。けれど不思議なことに、気が向いて会いたいと思えば、大抵はどこで何をしているかの見当がつくし、その推測はあまり外れない。姉妹の絆なんていう都合のいい空言を持ち出す以前に、単に、少し頭を捻れば思い当たるようなことしかしていないのだと思う。お互いに。意識的な習慣はなくとも、無意識的な行動規範のようなものは、いつだって私達をこの世界に縛り付けている。
たまに何か計画じみた面倒事を持ってくるのはいつも妹の方で、先の異変もそういった気まぐれの一つだった。とはいえそれも普段の行いの延長のようなもので、妄想はすれど何か長期的な道程を描いているわけもなく、幕引きというのはいつも唐突で呆気ない。私達姉妹の性質からして、それはきっと、わかっていても避けられない。
「お腹空いたなあ……」
呟いてみても当然、応答する者はいない。家に何もないのは確認するまでもないことで、けれど散歩でもしてみようという気も起きない。身に染み付いた怠惰を差し引いても、どうにも体調が優れないように思われた。
出かける気もないことに自覚的になったからか、身体はふっつりと糸が切れたように再び布団へと崩れ落ちる。
「これは……数日はダメそう、かな」
たまにあることだった。どこからかやってきた——おそらくは外の世界の——思念が知らずうちに私の内側へ入り込んで、それが大抵は夢という形をとって立ち現れる。今際の際での幻夢、とでも言えばいいのだろうか。多くがそんな夢なので、目覚めた後も全身に纏わりつくような消えない後味をしばらく残し続ける。明確な根拠はないけれど、それが私の貧乏神の性質に基づくものであることにほとんど疑いの余地はなかった。
動きたくないのなら無理に動く道理もない。幸い、惰眠を貪るには手頃な季節だった。静寂を乱す騒々しい妹もちょうど留守にしている。私は安心して目を瞑った。
二日経ってようやく外に出てみる気分になった私は、ひと気のない我が家の周辺をのんびりとぶらついていた。春の草花の繁茂する匂いが、物侘しい雰囲気にわずかながら柔らかさを与えていた。午前中の爽やかな風がとても気持ちよかった。
「まあ、こんなものかな」
片手に抱えた色彩の束を見て私は一人満足する。ナズナ、タンポポ、ノアザミ、シロツメクサ……。道すがら摘んだ野草からは、貧窮とは無縁の、生命に満ちた芳香が鼻をついた。見ているとお腹が鳴りそうになるけれど、これは食べてはいけないので我慢する。
「あとは水、と……適当な石」
近くの小川で椀に水を汲んだ後、とぼとぼと歩き回って間もなく、手のひらに収まる程度の大きさの手頃な石を発見する。辺りに田畑や家屋も見当たらず無人であることを改めて確認して、ここでいいか、と納得して腰を下ろす。
ひび割れた椀からぼたぼたと大粒の雫が滴り、乾いた石の表面を湿らせていく。春の陽射しを受けて端然と輝く石の前に、摘んできた白、黄色、赤紫の花々の束をそっと添えた。それから目を閉じて、静かに手を合わせる。
「——何をしてるんだ?」
気配もなく唐突に背後から声をかけられてやや驚きつつ振り返ると、そこには春の陽気よりも眩しい優美な神々しさがあった。
「天人様……」
「弔事か?」
そう言って、私の手元の辺りへと興味深そうな視線を向ける。天人様は大抵前触れなくやってくる。私が動揺したのは、私のやっている些事に天人様が関心を持たれた様子だったからだ。
「……確かに、弔いのようなもの、です」
「ふむ? とはいえ、まさか取り憑いて誰かを手にかけたというわけでもないだろう?」
私は小さく頷いてみせる。直接的に死に至らしめるほどの力はこの身に備わってはいない。天人様もきっとそれは承知していて、だから疑問を覚えているのかもしれない。
「夢で、犬と会ったんです」
「犬?」
「はい。白い毛並みの、とても愛らしい老犬です」
私は、先日見た夢の話をたどたどしく語った。とはいえ夢の話など大抵は要領を得ないものであり、私のそれも大差はなかった。それでも天人様は黙って一通りの内容を聞いてくれていた。
「ごめんなさい。他人の夢の話なんて、聞いても何も面白くもないですよね」
「私が聞きたくて頼んだんだ。謝る必要なんてない」と天人様は泰然とした表情で言った。「つまり、その老犬はきっともう死んでいるのだな」
「たぶん。……ただ、とても愛されていたんだと思います。根拠があるわけじゃ、ないですけれど」
自分の骨張った腕を擦りながらそう呟く。あの犬も、随分と痩せていた。ただ、あの痩せ方は食うに困った結果というふうには見えなかった。飼い主を探していたのだから、誰かに飼われていたわけで、整えられた毛並みの感じからは捨てられたという印象も受けない。だからたぶん、単なる老いによるものだろう。衰弱のせいで、自分でも飼い主がわからなくなるくらいに意識が朦朧としていたのかもしれない。それが悲しくて鳴いていたんだろうか。
天人様は、何かを考えるようにしばらく腕を組んで沈黙し、それからぽつりと口にした。
「お前は毎回こうして弔いをしているの?」
「……はい」
「へぇ、意外だな。財と運を吸い尽くす貧乏神が、律儀に墓標を立てて手を合わせるなんて」
天人様のそれは、別にこちらを嘲弄するような調子ではなかった。ただ本当に意外だと言いたげな、理性的で落ち着いた自然な口ぶりだった。
私は濡れた石にそっと触れる。陽の光を浴びたからか、冷ややかさの中に春の霞のような暖かさが仄かに感じられた。それ以上のものは何もない。もちろん、誰かの骨も、魂も。
「……信仰される神様だって、祈ってくれる者には見返りを与えると思います。たぶん、それと同じなんです。不幸というのは私を象る性質ですから。私に巻き込まれてくれたのなら、神様として何かを形として示さないとって思うんです。まあ、私は見ての通りなので、供えられる物もほとんどありませんけれど」
望まれたわけでも、頼まれたわけでもない。だからこれはひどく手前勝手で、儀礼と評するのもおこがましいような行為だった。それでも何の因果か私の元へ流れ着いたのなら、その巡り合わせには意味を与えてもいいような気がした。私は神様なのだから。
「泰山は土壌を譲らずというけど、どんな不運をも受け入れるのはやはり貧乏神の為せる業といったところか。とはいえ、確かに野花だけというのは少し物足りないかもしれないな」
そう言うと、天人様は私の隣でしゃがみ込んで、懐から取り出したものを濡れた石の前に無造作に置いた。その代物を見て、私は思わず目を見張る。
「て、天人様。そんな、ご大層なものをっ」
「桃なんて捨てても余るくらいにあるんだ。大したものじゃない。あ、だからって勝手に食べるなよ?」
横顔で不敵な笑みを作ってから、天人様はきれいに手を合わせて瞑目した。間近で見る天人様の物腰はいつも通り高貴で美しかった。私もまた倣うようにして目を閉じ、手を合わせる。視界が遠のいて、春の噎せ返る匂いが私の肌や髪を無邪気に撫でていく。
目を開けて隣へ視線を向けると、天人様はすでに腰を上げて遠くの景色をぼんやりと眺めていた。私が立ち上がったことに気づくと、「気は済んだか?」と涼しい顔で尋ねてくる。
「……そう、見えますか?」
「ああ。まるで憑き物が落ちたような顔をしている」
その言葉に一瞬、目が点になる。思いも寄らなかったので、私は我慢できずに肩を揺らして微笑んだ。天人様はやっぱり優しいお方だ。
肩の力を抜いて息を吸いながら天を見上げる。空は代わり映えもせずどこまでも青々としていた。安らかに、春の風が空へと吹き抜けていった。
言葉にできないのですが、この紫苑はすごく尖った感情を持っている気がします。
ご馳走様でした。面白かったです。
紫苑は弔いなんて考えたこともなさそうだと思っていましたが、いざ読んでみると新鮮さがありました
そっと桃を供えてくれる天子もやさしくてよかったです