Coolier - 新生・東方創想話

風と記憶

2025/04/30 19:30:51
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「では皆さんは、あの満ちたり欠けたりする月にはいったい誰が住んでいるのか、分かりますか」

 上白沢慧音は、黒板に白墨で大きな円を描くと、教場に座る生徒たちに問いをかけた。
 ころころとした子供たちが、ひそひそと隣同士で話したり、くすくすと笑ったりする。その様子を見て、射命丸文は思わず頬を緩めた。
 やがてひとりの少女がおずおずと手を挙げ答える。

「兎が住んでいます」
「えぇ、その通りです」

 慧音が円の内側に、兎の一文字をさらりと書き記す。

「月では兎がお餅をついていますね。他にはどうでしょう」

 少し難しい問いに、子供たちの騒めきが大きくなった。お前分かるだろ、いや知らないし、と交わされる囁きの中、慧音が最後列の少年の名前を呼んだ。
 文には、少年が机の下で竹を削っていたのが見えていた。案の定話を聞いていなかった生徒に、教師はあらためて問う。

「月に住んでいるものは、兎の他になにがありますか」
「えーっと」

 ばつが悪そうに視線をさまよわせてから、少年はにやりと笑って言った。

「先生の家族」

 とたんに数人がけらけらと笑う。

「……残念、不正解です」

 慧音は黒板に向き直り、円の中にふたつの名前を加えた。

――じょうが
――かつら男

「皆さんもご両親から口を酸っぱくして言われているでしょう。月をむやみに見つめてはいけない、と。その理由がこのふたつです。嫦娥とは月の日向に住むヒキガエルの姿をした女の神様、桂男は月の陰に住む男の神様です」

 本当の月にはもっと多くの月の民が住まい、月都で複雑怪奇な権力構造を構築している。文でさえその一端しか知らない。里の子供たちに月の恐ろしさを知らしめるためには、このくらい単純化した授業で事足りるだろう。

「嫦娥は月の光を通じて、妖怪の力を引き上げることができます。この妖怪の力というのは妖怪のみならず、動物や、皆さんのような普通の人間にも宿っているものなのです。つまり月の光を眺め続ければ、心がどんどん妖怪のようになってしまう」

 小さな生徒たちは先生の真剣な語り口に、いつしか話を止めていた。

「いっぽう桂男には、月を欠けさせる力があります。これは同時に、命を欠けさせる力でもあるのです。ですから、大きく欠けた月を見つめていると、桂男と目が合って、命を奪われてしまうかもしれません」

 ひっ、と誰かが小さく悲鳴を上げる。

「月の兎は、こういった神様たちに仕える妖獣なのです。お餅をついているのは、神様へのお供物なんですね」

 そう慧音が言ったところで、里の昼の鐘が高く鳴った。
 日直による終礼が終わると、子供たちは三々五々に帰途へと就く。

「寺子屋も、すっかり馴染んだようですね」

 文は最後の生徒が出て行くのを待って、慧音へ声をかける。
 教師は外壁で黒板消しの粉払いをしながら、新聞記者へと振り返った。

「いや、私の至らなさを毎日思い知らされるばかりですよ」
「貴方が歴史を教え始めた頃は、どうなることかと思ったもんですが。順調に続いているようで何よりです」
「――それで、急に私に取材とは、どういった風向きで?」

 黒板消しを元に戻すと、慧音は教壇を降りた。
 その目には、未だ残る警戒の色。

「いえ、少し……調査をしておりまして」
「調査、とは」

 立ち話も何なので、と慧音は文を教員室へと案内した。壁一面に資料や教材が納められた棚が並ぶ、半分倉庫みたいな部屋だった。もっとも文の塒も記事の資料ばかりだから人のことは言えないが。

「粗茶ですが」
「あぁいえ、お構いなく。というか、客用の湯呑みなんて置いてるんですね」
「保護者面談などもありますので」

 慧音のものだという机は、紙の重みで少し足が傾いていた。

「それで、私の何を記事にしようと?」
「記事のためではありません。ただ私には、どうしても明らかにしておきたい真実がある」

 首を傾げる慧音に、文は鞄から取り出した紙束を渡す。

「……『文々春新報』?」
「えぇ、まぁ、はい」

 歯切れの悪い返事とともに、文は頬を掻いた。
 文々春新報とは、彼女が外の世界の週刊誌を参考に、新機軸の情報媒体として出版を試みた雑誌である。この媒体は幻想郷に馴染みは無いが、新聞よりもセンセーショナルに事実を拡散でき、さまざまな読み物を包含しているために長い期間読み返してもらえるという利点を見込めた。

 書き上げた時点では、文はその出来映えに自信を持っていたのだが。

「……これはまた、新聞以上に飛ばしている」
「書いているときは、そんなことまったく思わなかったんですがね。今になって読み返してみると、かなりこう、過激ですね。私から見ても。それでまぁ、出版直前に取り止めたんです」
「でしょうね。こんなものが世に出ていたら、私の目に触れないはずが無い」

 はじめは、読み手の感情に引っかかるようなテーマとして、幻想郷に入り込む外の世界や地獄からの来訪者について取り上げた。ただそれだけだった。
 しかし、記事が書き上がってくるうちに、それはどんどん排他的な論調を濃くしていった。「来訪者は幻想郷を破滅へ導く!」といった過激思想を煽るものへと仕上がっていったのだ。

「……最後のインタビューで地獄の神に指摘されたのです。『貴方は気づかないうちに月の民と接触し、それにつけ込まれて記事を書いている』とね」

 地獄の神、ヘカーティア・ラピスラズリ曰く、月の民は考え得る限り最悪の連中。
 自分たち以外のすべてを見下す、この上なく排他的な世界。
 その影響下に自分が置かれていると知ったときの、文の衝撃は大きかった。

「出版停止の判断は正しかった。時間が経てば経つほど、それを実感します。私は月の民に、何をさせられようとしていたのか? それをずっと調べ続けているのですが、いやはやまったく、雲を掴むような話でして」
「話の大筋は理解しましたが、それでなぜ、私のところへ?」
「……この一件と同じものを、貴方に感じたからですよ」

 慧音の視線が、鋭くこちらを刺した。
 茶は熱かったが、文は構わずに半分ほど喉へ流し込んだ。



     §     §     §



 昼食でも、と文は慧音を連れて通りへ出た。
 慧音は戸惑った顔を見せたが、そういう相手を連れ出すのは得意だった。

 土曜日の昼下がりは、多くの人間で賑わっていた。人間のふりをして人混みに紛れるにしても、半端な妖怪なら後込みしてしまいそうだ。もっとも、文はそんな惰弱さとは無縁であるが。

「さっきの授業で、貴方も言っていたではないですか。月光に含まれる嫦娥とやらの魔力で、地上の妖怪たちは高揚する。そしてそれは、貴方が妖怪となるトリガーでもある」
「それは、そうですが」
「さらには、貴方の歴史にまつわる能力。貴方が語らなかったことは歴史にならず、貴方が綴ったことが歴史に残る。強大な力です」
「まさか。目の前の小石ひとつすら割れない、非力な能力ですよ」
「私から言わせれば、反則すれすれですけどね。細かいことは脇に置いておくとしても、あの雑誌で私が企んだことの完全上位互換と言える。ただし――そんなあなたも、月の影響下にある」

 春めいた薄い青の空、見上げれば、細い月が刺さっている。
 命を欠けさせる刃のような、白く霞む月が。

「鯢呑亭、という店なんですがね。ご存知です?」
「えぇ。最近、看板娘が働き出して客の入りが良いとか。……え、そこに向かってるんですか?」
「煮物が美味いんです。少々並ぶかもしれませんが、その価値はあると思いますよ」

 慧音の目が、ほんの少し泳ぐ。
 文は訝しんだが、話を続けた。

「歴史を創っているのは確かに貴方です。その膨大な知識から編み出される歴史は、幻想郷の安定化に欠かせない。この点については私も疑いはありません。ですが、月の民が考えることというのは迂遠で狡猾です。弄する策が完遂されるまでに長い時間がかかる代わりに、嵌められたほうはなかなか気付けず、そして気が付いた時には、もう遅い」
「月の民が私を操っている、と?」
「端的に言えば、その可能性があるということです。月都の手法に詳しい者がよく観察しないかぎりは、貴方自身でさえ気付かないでしょう。私がそうだったように」
「でも私は、ずっとこの郷のために」
「分かっています。私は貴方の責任を追求したいわけじゃない。ただ、月の民が幻想郷に何をしようとしているのか、それを知りたいだけ」

 表通りをひとつ折れたところにある鯢呑亭は、正午から店を開けている。この時間は食事目当ての客が主だが、品書きは夜と同じなので、この時間から酒盛りをすることもできる。
 並んで待つ客こそいないが、戸を開ければその席は八割がた埋まっていた。

「いらっしゃいませー! ……あら」

 元気良くふたりを出迎えた看板娘――奥野田美宵に、文は連れの客がいることを告げる。

「はーい。ではこちらへ」
「ここは居酒屋なんですが、食事が美味しくてね。古今東西、さまざまな美食を喫してきた私が言うんだから間違いありま……おや?」
「…………」

 慧音は、開け放たれたままの扉を前にして、その場に立ち尽くしていた。

「どうしました、先生?」
「いや、私は、ここは……」

 美宵に目配せをすると、文は慧音の元へ戻った。その半妖の顔には、諦めが強く滲んでいる。

「すみませんが、こういう人の多い店は、遠慮することにしていまして」
「人目のある場所での会食、お嫌いでしたか?」
「そういうわけではないんです。でもほら、私は」

 慧音は少し笑ってみせた。なんだか悲しい笑顔だった。

「私は、人間ではないから」

 文の時間が、一瞬だけ止まった。
 その言葉を理解するのに時間を要したのだ。

(――石頭とは聞いていたけど、これほどとは)

 確かに、上白沢慧音は純粋な人間ではない。満月の夜にだけハクタクへ変ずる、半人半獣である。人間の里に住むことを許された、唯一の非人間。

 だが居住の許可があるからといって、人間と同じように過ごせるかはまた別の問題だ。

「ひとの集まるところにいけば、私を気にするひとがたいていいるものです。それが原因で騒ぎなど起こってしまったら、お店に申し訳ない」
「いや、でも」

 食事くらい、と文は思ったが、口をつぐんだ。
 きっとかつてあったのだろう。本当に、「騒ぎ」になってしまったことが。

(仮にも里の住人である彼女より、私の方が自由だなんて)

 文は歴とした妖怪であるが、それを隠し人間のふりをして、ここにいる。そうしている限りは何も問題はない。妖怪の出入りが禁じられているこの里における不文律だ。
 だが、慧音にはその手段が取れない。彼女の正体について、この里でそれを知らぬ者はいないから。

 それはおかしな話だ。文は単純にそう思った。
 そしてそういった歪さが、文は大嫌いだった。

「――まぁまぁ。そう仰らず」
「え、あ、ちょっと」

 素早く慧音の背後に回り込む。そのまま彼女を、鯢呑亭の扉へ押し込んだ。

「美宵ちゃん、ふたりね」

 その声につられて、店中の人間の視線が、文と慧音のほうを見た。

――沈黙が、一秒間、通り抜けた。

 いてはならないはずのものの、例外。
 ただひとりだけ許されている、特例。
 誰もが考えた。半人半獣がここにいて良かったかどうかを。

「…………っ」

 慧音は目を伏せる。まるで誰かに謝っているかのように。
 永遠に続くかのような一秒間の後、店内に喧噪が戻る。

 幸いなことに騒ぎにはならなかった。妖怪の排除を声高に主張するような者がいたとしたら、危なかったかもしれない。
 もっとも、そんな事態になれば、文が強引にでも収めるつもりだったが。

「これも、貴方が創った歴史だというの?」
「……自分の歴史は、創れませんので」

 文の正面の席に座った慧音は、まだどこか落ち着かなさそうな様子である。
 名物である煮物の出汁の香りが店内を満たしていた。美宵の料理の腕は確かで、とくに酒の肴になるものが得意である。そして汁気のある肴は米飯のお供にも良いわけで、昼食目当ての客の半分以上は煮物定食を注文する。
 ふたりもそれに倣った。美宵は満面の笑みで伝票にささっと書き付けると、ふたり分の茶を置き、くるくると席の間を縫いながら厨房へ戻っていった。

 それにしたって。

 言いたいことは、文にはまだ山ほどあった。
 慧音が人に害をなすという話は聞いたことがない。それどころか、彼女の能力はいまや幻想郷になくてはならないものだ。彼女がしっかりと歴史を調整しているからこそ、この郷の妖怪と人間のバランスが奇跡のように保たれている。

 最初に慧音に目を付けたのは自分だ、と文は自負している。紅霧異変より前、まだ弾幕決闘がこの世界のシステムではなかった頃。妖怪と人間の関係性が壊れかけていたタイミングで、文は慧音を取材し記事にした。
 歴史を創ることができれば、世界もそれに合わせて形を変える。それができる存在が人里に隠れ住んでいるということを、妖怪たちに知らしめたのだ。
 果たして文の目論見どおり、妖怪の賢者たちは慧音に接触したらしい。
 その結果、彼女は幻想郷の安定化に協力しながら、さらには人里の監視役まで担っている。博麗霊夢や霧雨魔理沙が表舞台の英雄だとすれば、彼女は縁の下の力持ちというやつである。

 その功労者がほんの少しばかり人間でないというだけで。

「……良いの? このままで」

 なぜこんなに窮屈な思いをしなければならないのだろう。

「だってこのままじゃあ、貴方はこの先もずっと」
「そうかもしれない。未来を、これからの歴史を紡ぐ力は、私も皆も同じなので。でも」

 文の目を、慧音は真っ直ぐに見つめ返す。

「それよりも、何よりも、郷の歴史が正しく皆のために整っていることのほうが、私にとっては大事なのです」

 そこにある光があんまり眩しかったので、烏天狗はつい目を逸らしてしまった。

 省みられることも、報われることすらも望まずに。
 ただ己にできることを、世のため人のために行う。
 それはあまりにも、人間くさい生き方だった。我が強く目立ちたがりな妖怪には無理だ。ひょっとしたら理解すらされないかもしれない。

――それにしたって。

 文は歯噛みした。これはあんまりだと思った。慧音の負う荷とその覚悟を理解している者が、ここにはいない。彼女はただ、人間でないのに人里に住んでいる何かでしかない。

 自分にできることが、何かあるだろうか。
 彼女の偉業を報じる記事でも書くか?

 いや、藪をつついて蛇が出たら洒落にならない。報道という未来の歴史を導く力は、その結末を読み切ることはできない。読んだ記事の内容をそのまま飲み込む者ばかりではないのだ。酷いときには、書いてない裏の裏まで勝手に妄想を広げ、虚像に対して義憤を抱く者すらもいる。

 慧音はきっと、経験から知っている。自分が目立つだけで、誰かの逆鱗に触れてしまうことがあり得る、と。
 さらに言うならば、歴史喰いと歴史創りの詳細を喧伝してしまうのは、手品の種明かしのようなものだ。下手にばらしてしまえば、彼女の能力は効きが悪くなる。歴史を疑う者が増えるほど、幻想郷の安寧は危うくなってしまう。

「だから、良いんですよ、これで」

 半獣は穏やかな笑顔で茶を啜った。

「人間と妖怪の間にきっちりと線が引かれているからこそ、この小さな世界は回っていられるんですから」

――現状が、最善。
 その答えに着地してしまうことが、文には腹立たしかった。

 やがて定食が運ばれてくると、膳を見た慧音の目が輝いた。

「これは確かに美味しそうだ」

 いただきます、と両手を合わせて呟いて箸を手に取る。
 鯢呑亭の煮物は、具材ごとに分けて盛り付けられるのが特徴だ。里芋は里芋どうし、椎茸は椎茸どうし、人参は人参どうし。それぞれが互いに寄り集まって、一皿の調和を作り上げている。
 しっかりと面取りされた里芋は煮崩れることなく、それでいて芯までしっかりと味が染み込んでいる。手抜かり無い調理技術がある証拠だ。

 文にとってはもうすでに馴染みの味。
 けれど、慧音にとっては初めての味。

 半人半獣は、綺麗に盛り付けられた煮物を崩さないよう、慎重な箸使いで食べ進めていく。多少崩れようが気にしない文の皿とは少し、趣が違う様相を呈している。

 何が正しいかは誰にも分からないのに、誰もが正しくあろうとする。正しさなんて存在しないとしても、誰もが正しく生きたがる。それは妖怪も人間も変わらない行動原理だ。
 文からは、慧音の正しさは、間違っているように見えた。

――でも、何が、どのように?

 ざらざらしたものが、胸の奥でこすれて軋んでいる。そのせいで腹の虫が暴れ始めて、文の眦はだんだんと険しいものになっていた。
 苛立ちとともに煮物を平らげて、鉢から煮汁を茶碗飯にぶっかける。そのままがしがしと汁飯をかき込む烏天狗に、慧音は眉根を寄せた。



     §     §     §



 慧音にとって月の民は、とても遠い世界の住人という、ただそれだけである。

 永遠亭に住まう姫君とその従者たちが、元々は月の民だったことは知っている。たしかにあれは排他的な組織ではあるが、人間の里とまったく関わりが無いというわけでもない。竹林の薬は里でも一定の評判を得ているから、悪評を聞くこともほとんど無かった。
 それ以外に、月の住人と接触した覚えなど無い。

(……私が、月の民の影響下に?)

 だから、文の話は寝耳に水であった。

 慧音の家は、人里の大通りから逸れて数町の田畑を越えた先、小高い丘の上にある。
 自宅に戻り、日が暮れた後も、慧音は文の言葉を反芻していた。月都は地上への影響力を行使し続けており、月の光による妖怪の活性化、つまり慧音の変身もその一環だというのである。
 それが仮に正しいとすれば、慧音は月都に都合の良い歴史を創らされているということになる。あるいは、歴史を喰い創る慧音が存在することそのものが、月の民の意向に添った事態なのだ。
 それがいったい、何を意味するというのか。

(もしも私の行いが、いつか幻想郷に害を為すとしたら)

 全身が凍てついたような痛みが、慧音の心を蝕んだ。
 それは考えないように努めていたことだった。どんな歴史にも正負の両面がある。世界のルールが変われば、人々が歴史に見い出す意味も変わる。かつては正義とされた歴史が、後世になって汚点とされることもあるだろう。慧音が創った歴史だって同じことだ。
 慧音が歴史を創るのは、今を生きる人々の平穏のためだ。そして、歴史とは今がある理由である。

 夜の暗い静寂が圧しかかる。
 その重さに、呼吸の仕方を忘れそうになる。

 世界は歴史の見方を定めるが、その逆もしかりである。もしも誰かが世界を改変したいと望むのなら、歴史を変えてしまうことがもっとも早くて確実だ。

(ハクタクは名君の前に現れるというけれど、でも、逆でないことの証明は……)

 詮無い思考に陥りかけ、慧音はぶんぶんと頭を振る。それは悪魔の証明である。

 慧音は、幻想郷は、現行の歴史が継続することを望んでいる。外の世界と結界で隔たれ、人間と妖怪が弾幕決闘の元で併存している世界。
 それは歪であるかもしれない。卑怯と言う者もいるかもしれない。だが慧音は、これが正しいと信じるから歴史を喰い創る。

 もしもこれを覆そうとするなら。
 もしもこれを壊そうとするなら。

(別の歴史家を生み出すか、あるいは私が歴史を翻すか、か)

 ふらふらと庭へ降り、井戸水を汲んで顔を洗う。そしてひと口、冷たい水を喉へ押し込む。

 考え過ぎならば良いのだが。根拠らしい根拠など何も無い。そもそも、烏天狗が適当な記事を書くことなど日常茶飯事である。あの言葉のみをもって不安に刈られるのは杞憂と言うものだろう。
 けれど、幻想郷をかろうじて維持している自分の歴史が、満月の光が無くては成立し得ないものであることは、紛れもない事実だ。

 前髪から水が滴る。粒が落下し地面で弾けるまでの僅かな間、無限深の夜空をその表面に映す。
 細い月はもう、太陽と一緒に沈んでしまった。ここにいるのは一介の歴史家、ただの人間。

(止めよう。事実だろうとそうでなかろうと、いまの私にはどうすることも――)

 そのときだった。

 不吉な風が渦巻く。妖気をはらんだつむじ風が、この丘の上に飛来したのだ。

「!?」

 慌てて母屋へ戻ろうとするも、すでに妖気の主はそれを阻むように立っている。

「お久しぶりね」
「なっ……?」

 そこにいたのは数刻前に里を辞したばかりの、射命丸文。
 その出で立ちはもう、世を忍ぶゴシップ記者のものではなかった。獰猛さを隠そうともしない、烏天狗そのものの様相である。

 里から少し外れた場所に居を構えざるを得ない以上、慧音も妖怪を警戒している。一帯には博麗神社の御札で構築された簡易結界が張られていた。だが文ほどの相手となれば無力だろう。
 一定の実力を持つ妖怪であれば、慧音に手を出すということの意味するところを理解できそうなものだが。

「何用だ?」
「そう構えないでよ。私はただ――貴方を攫いに来ただけ」

 そう軽やかに言い放つと、天狗の姿はかき消えた。

 いや――。

 文だけでなく、辺りの景色もかき消えた。
 風がごうごうと唸る。夜がひっくり返る。

 自分の身体が文の両腕の中にすっぽりと収まっていることに気が付くまで、たっぷり十秒はかかった。そして理解したときには、もう彼女は目的地へと着地していた。
 急制動に目を白黒させる慧音を、文は構わずその場へ降ろす。固く踏み均らされた地面に尻餅を付いた。何が何だか分からず、状況を把握しようと辺りを見回すと。

「…………えっ」

 そこは人間の里の中だった。
 それに見覚えのある通りだ。
 灯りも落とされ眠りに就いた里。この時間に営業している店に心当たりは無いが、しかし目の前の居酒屋には、ぼうとした光が確かに点っている。

 どういうことか測りかねている慧音を後目に、文はその入り口の戸をがらりと開けた。

「さぁ、入っていらっしゃい」
「いったい何を……? いや、そもそもここは」

 ここは、鯢呑亭だ、昼に訪れたばかりの。
 里の中で、烏天狗がいったい何をしている?

 文は背後からの疑念をまったく意に介することなく、暗い店内へと消えて行ってしまった。追わなくては、と足を踏み出そうとして、しかし躊躇した。店内から漂ってくる、得体の知れない何かが蠢く気配。まともな人間なら、何の準備もせずにひとりで立ち入ろうとは思わないだろう。

 自警団を呼ぶべきか。天狗相手とはいえ、退魔を専門にしている者が来ればあるいは。
 だがそれすらも踏ん切りが付かなかった。通報したとて、自分がこの時間にここにいることを納得してもらえるだろうか。慧音が天狗と繋がっているという噂が立ちでもしたら、里での立場は一気に危うくなる。そして、噂を立てることは奴の十八番だ。

 最悪のシナリオを思い浮かべ、胸を冷たい棘が刺す。

 つまるところは我が身可愛さで、慧音は文の後を追った。選択肢はそれしかなかった。それを選ぶよう誘導されていたのかもしれないが、それが何だというのだろう。慧音の人生は、思えば選ばされてきたものばかりだった。

 敷居をまたいだ、その途端に。

「……な、なんだ、これは」

 そこには何名かの先客がいた。驚いたことに、誰ひとり人間ではなかった。ひと目でそれと分かる激烈な妖気が、居酒屋の隅々まで満ちている。

「美宵ちゃん、ふたりね」

 その声につられて、店中の妖怪の視線が、文と慧音のほうを見た。
――沈黙が、一秒間、通り抜けた。

「おや、これはこれは」

 立ち上がったのは、妖怪狸の首魁、二ツ岩マミゾウだ。

「これは瑞兆か、はたまた凶兆か。珍しいこともあるものじゃ。里の歴史家先生とこんな場所で顔を合わせるなんざ」

 慧音でなくとも、人間の里で何らかの経営に携わったことがある者ならば、どこかで彼女の存在に勘づく。里の金融情勢をほんの数年で塗り替えた彼女は、人前に姿を現すことこそ稀だが、表向きには人間の実業家として通っている。その正体が妖怪狸であることは、一定の地位を持つ者の間では公然の秘密だ。
 そんな怪物が、いっさいの化けの皮を被らず、素顔のまま里で酒を呑んでいる。

 歩み寄ってきたマミゾウは、品定めするようにじろじろと見ながら、慧音の周りを歩く。

「一度こうして話してみたいと思っておったが、なんでまたこの天狗と?」
「いや、それは、その」
「おいおい、止めておけ。そいつの話はつまらんぞ」

 店の奥で呵々と笑うのは、鬼の伊吹萃香である。

 人間の里において、単に鬼と言えば彼女を指す。節分の日にやられ役を買って出るせいで、子供たちの間でも知名度がやたらと高い。だがその実力は幻想郷でも指折りであり、怪力と酒豪ぶりを誇示するエピソードには事欠かない。彼女を舐めてかかった愚か者には、地獄より惨い破滅が必ず訪れる。

「何度か風に紛れて授業を覗いたことがあるが、確かにありゃあ、子供なら寝入る。だがそいつの力には興味があるね。歴史を喰うとか創るとか、私ら鬼の領分に近い」
「……お二人とも」

 文が間に割って入った。

「彼女は私の紹介客です。絡み酒なら余所でやって」
「だってよ、マミゾウ。天狗の持ち物に手を付けるもんじゃないぞ。こいつら本っ当に根に持つから」
「おいおい、儂を節操無しみたく言わないでくれんか」
「ちょっと……ちょっと待ってくれ!」

 慧音は思わず後ろへ飛び退いた。
 まだ事態を飲み込めていない。目の前の光景が、とてもじゃないが信じられない。

「なぜお前たち、ここに? いったい何をしてる?」

 里に入ることができるのは、人間だけだ。そういうしきたりになっている。
 だから妖怪たちが里に入り込むときは、人間のふりをしなければならない。

――それなのに。

「お前たち、妖怪のままで、どうして」

 目の前で酒を呑むのは紛れもなく、何を取り繕うでもない、妖怪そのもの。それも全員、本気を出せば博麗の巫女ですら苦戦させるほどの実力がある。
 里に近しいと言えないことも無い連中とはいえ、こうも堂々と正体をさらけ出して里に入り込んでいるだなんて、前代未聞だ。

 何かの間違いが起こればただでは済まない。里の人間に露見すればパニックになるだろうし、そもそもこの中の誰かが機嫌を損ねただけで大きな被害に繋がりかねない。

「こんなこと、許されるわけが……」
「まぁまぁ、とりあえず座って」
「触るな、掴むな、放せ!」

 語気だけは取り繕ったものの、何の準備も無い一介の歴史家の力では、天狗に抵抗などできるはずもなく。
 力尽くで席に着かされた慧音の前に、文が美宵から引ったくったお猪口を置いた。

「そんなに構えないでよ。ここはただの居酒屋。深夜にだけ暖簾を出す、妖怪専用の店だけど」
「妖怪、専用?」
「えぇ。こんなお店が里に一軒くらいあっても良いでしょ」
「良いわけないだろう! 信じられるか、そんな戯れ言を」
「貴方が思っているよりもずっと、世界は戯れ言で回っているものよ」

 徳利を差し出しながら、文はにやりと笑う。

「貴方は今日、ここに入ることを遠慮しようとした。『人間ではないから』と言って。それならこちらに入る資格があるでしょう。まさか『妖怪でもない』だなんて言わないわよね。論理的に考えれば、この郷の住人はすべて、どちらか一方であるか、どちらでもあるか、そのいずれかのはずよ」

 慧音は眼前の小さな酒器を見下ろす。それをつまむ文の細くしなやかな指が、やたらと白く輝いて見える。

 これを、もしも受け取ってしまったら。
 ここで、酒席を共にするということは。

 それはとんでもない裏切りであるように、慧音には思えた。だって自分が勝ち得た信頼は、人間であることが大前提のものなのだから。人間の役に立ち、人間に害を為さないことを誓うことで、はじめて許されるものだから。

 それを失ってしまえばどうなるだろう。

 他に生きていく場所なんて無い。里の外で生きていけるほど、自分は強くはない。寝食が必要ないほど妖怪に近かったり、そもそも死ななかったりするのであればともかく、普段の慧音はただの人間と大差ないのだ。

 それに。

「……幻想郷が成り立っていられるのは、人と妖の境がきっちりと分け隔てられているからだ」

 懇願するように、慧音は言葉を絞り出す。
 人が妖を恐れ、妖が人を脅かす。その関係が崩れてしまえば、幻想郷はかつての不安定な時代に逆戻りだ。

 慧音はその境目に立っている。足元の線ははっきりしているようでいて実はとても曖昧だ。恐れを知らない人間が妖怪になることもあれば、力を失った妖怪が人間になることだってある。慧音が半妖と化した理由にはもっと複雑な背景があるとはいえ、それをもって酌量されることがあってはならない。白と黒とを分かつとき、灰色の立ち振る舞いですべてが決まるのだから。

 だから、彼女は。

「それを、乱したくない」

 人は人として。妖は妖として。
 互いの領分をしっかりと守り、そして互いに侵すべきではないという信念とともに生きている。

 不器用なことは自覚している。いや、不器用だからこそ、八方に笑顔を振りまくような真似ができない。石頭と言われようと、愚直と言われようと、慧音には境目に立って歴史を喰い創ることしかできないのだ。

「すまない。勘弁してくれ」

 その声はもう、ほとんど消え入りそうだった。

 けれど、文は徳利を引っ込めようとはしない。紅玉のような両瞳が、俯く慧音の横顔をじっと見つめている。

「……歴史を修整するって仕事は、貴方が自分を殺してまでするほどのものじゃあないと思うわ」
「……え?」
「まぁ、万事に通じるけど、『自分にはこれしかない』って入れ込んだ物事が駄目になってしまったときほど、悲惨なものはないからね。いざとなればぜーんぶ放り投げてやろう、ってくらいが調度良い」
「そ、そんな無責任な」
「第一、人間にも妖怪にも遠慮していたら、孤立していくばっかりじゃない。貴方が孤独をこじらせて予後不良になりでもしたら、どんな歴史を創るのか、考えただけでも恐ろしい」

 あまりに明け透けな物言いに返す言葉も無い慧音をよそに、文はしゃべり続けた。

「私は私のやりたいようにやる。誰の言う通りにもならない――と言い切れないのが天狗社会に属する私のつらい所だけれど、それでも譲れない一線というものはある。月の民に操られて良いようにされるだなんて、まさしくそれよ。連中が何を企んでいるかは分からないけど、きっと幻想郷からすればろくでもないことだわ。だから我慢ならなくて、貴方に声をかけた。私の思いは、同じ境遇にあるひとにしか理解してもらえないだろうと思ったから」

 酔っぱらった狸と鬼の談笑が、やたらと遠くに聞こえる。

「我が文々。新聞は幻想郷の未来を担う。そして貴方の力は幻想郷の歴史を司る。そして今日で確信した。貴方と私は、この郷を守りたいという同じ願いを持って行動しているってね。月都の企みにも、ひとりでは抗えないかもしれないけど、ふたりならなんとかなるかもしれない。私は貴方と協力したい。でもそのためには、貴方にも私と同じくらい、やりたいようにやってほしい。そうじゃなきゃ、幻想郷の前に、貴方が壊れてしまうわよ」
「でも、私は……」
「貴方が人間だろうと妖怪だろうと、どっちだって構わない。私は上白沢慧音に話をしている。ここにいる貴方と一杯呑みたいと思っているの」

 隣に座る烏天狗の新聞記者が、おかしなことを言っているようには思えなかった。その声色には、嘘も誤魔化しも感じられなかった。

 慧音は、自分を人間でも妖怪でもあると考えている。だから人間の中にいれば妖怪の面が目立つ。妖怪に混ざればその逆だ。「お前は我々とは違う」。その無言の圧力をずっと思い知らされてきたのが彼女の半生だった。
 ひとは彼女自身を見る前に、レッテルで判断しては、曖昧な笑顔でやんわりと遠ざける。
 その繰り返しは、慧音自身が思っていたよりも、彼女を傷つけていたのかもしれない。だから自ら遠ざけて、高い壁を築いてしまっていた。

 けれど今日、不躾な怪鳥が、その壁をぶち破った。

「……攫っておいて、随分と乱暴ね」

 慧音はゆっくりと、その僅かな重みを確かめるように、お猪口を手に取った。
 文は破顔し、そこに徳利の中身を注いだ。



 
幻存神籤の神主コメントに全世界五千兆人の慧音ファンは衝撃を受けたことと思います。
僕もそのひとりです。
居ても立っても居られなくなり、気付いたらこの原稿が手元にありました。
しじま うるめ
https://x.com/roombutterfly
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コメント



0.130簡易評価
1.90奇声を発する程度の能力削除
良かったです
2.100名前が無い程度の能力削除
うらやましくなるほど面白い作品でした。
ご馳走様でした、面白かったです。
3.90のくた削除
珍しい二人組だなと思いましたが、良いお話でした
4.100名前が無い程度の能力削除
慧音の人格の部分に対して素晴らしく丁寧な掘り下げがなされていたように感じます。とても良かったです。
5.100南条削除
面白かったです
文と慧音のTPOを弁えたやり取りが素晴らしかったです
最後に居酒屋というPに乗った慧音が肩の荷を下ろしたように感じられてとてもよかったです
7.100名前が無い程度の能力削除
良かったです
8.90竹者削除
よかったです
9.100福哭傀のクロ削除
あんまり大したことが言えないけど、すごく作者様の腕を感じました。なんていうか、豪華な焼き肉!絢爛なパフェ!というよりは丁寧に作った煮物のようなというか、細かい描写まで丁寧で二人の立ち位置を考えをすごく表現してるなーと。
あとは好みでいうとエゴのない文があんまりなのと、敬語な慧音がすきなので、どちらも魅力的でした。
10.90ローファル削除
面白かったです。
13.100東ノ目削除
かくいう私も神籤のEx慧音には衝撃を受けたものですが、解釈に苦慮した挙句に文果真報と結び付けるという発想はついぞ思いつかなかったのでこうすればいいのか!! という驚きと少しの悔しさがありました。面白かったです
14.80名前が無い程度の能力削除
とても良かったです
これが真実なんですね……