開きかけの目を擦り、布団を抜け出す。
窓外へ視線をやると吹きつける風がびゅうびゅうと音を立てている。
今日は結構寒そう。
一方でまだ温もりが残っている布団はその存在だけで私を誘惑してくる。
今日は特別予定もないし、二度寝しちゃおうかな。
テーブルの上の時計を見ると時刻は午前八時を少し回ったところ。
ルナ姉はまだ寝てるかな。
メル姉は多分もう起きてる。
常に六時起床がデフォだし。
でも基本的にじっとしてるのが苦手だからオフの日は大抵どこかに出かけてる。
あと一歩で、さっきまで私を包んでいた布団に手が届く。
この身を取り込まれるまであとほんの数センチ。
すんでのところで私はふっと息を吐く。
そのまま布団を持ち上げ、叩きつけるように一気に畳む。
ちょっと埃が舞ったけど気にしない。
駄目だ、そんな自堕落なことしてたら。
オフの日だからって朝からゴロゴロしてたら、きっと後で後悔するんだから。
隣のルナ姉の部屋がある方の壁にそっと耳を当ててみる。
しんと静まり返り、なにも聞こえない。
まだ寝てるのか、それとも起きてはいるけど布団から出てないのか。
ただでさえ朝に弱いルナ姉は寒い時期になるとそれがより顕著になる。
それでも用事がある日は時間の五分前にきっちりすべての準備を終える。
ある意味すごい。
逆にメル姉はいつも最初に起きてるのに服選びやメイクに時間をかけすぎる。
そのせいで出発前は私達の中で一番慌ただしくしてる。
いつものことながら二人とも本当に極端だと思う。
そんなことを考えながら身だしなみを整え、一階に降りる。
思った通り、リビングには誰もいない。
トーストと紅茶だけの簡単な朝食を済ませ、外に出る。
予想通り、今日は少し肌寒い。
空の半分以上を覆う灰色の雲も、その存在だけで寒気を強めている感じがする。
先日買ったばかりの薄いブルーの手袋を嵌め、地を蹴る。
早朝に森の奥深くを通る人がいるとは思えない。
それでも、なんだかだらしがない気がするから飛ぶ時は意地でもポケットに手を入れない。
今日の服装はいつもの赤一色のコーディネートとは違う。
真っ白なダッフルコートに薄い桃色のマフラー。
それに普段は歩きにくいから滅多に履かない、皮製のブーツ。
買ったばかりの服を着るだけで、自然と晴れやかな気持ちになってくる。
高度が上昇するにつれて、身を揺らす風圧が徐々に大きくなっていく。
秋が終わり、本格的に冬が訪れようとしている。
そのまま飛行を続けていると、目下には見慣れた田園風景。
水田は既に今年の役割を終え、次の田植えを静かに待っている。
周辺には農家の家もあるけど、出歩いている人はほとんどいない。
そう言えば夏にやった野外ライブにはここのおじいちゃんおばあちゃんもたくさん来てくれたっけ。
しばらく当時の光景を追想していると、見慣れた人間の里が見えてきた。
入口付近に着地し、中に入る。
まだ朝早い時間帯だからか、往来に人はまばらだった。
五線紙が少し減ってきたので、いつも利用している文具屋を訪れる。
店内は薄暗く、客も私一人だった。
いつも買っている束を抱えてカウンターに持ち込むと、奥から店主のおばちゃんが姿を見せた。
相変わらず腰は完全に曲がり、歩き方も前来た時より危なっかしい気がする。
「あらあら、リリカちゃんこんにちは」
「おはよ、おばちゃん」
長居をするつもりはなかったが、お菓子とお茶を出してくれたのでお言葉に甘える。
まあ、他にお客が来たら離れればいいかな。
そういえば、と店内を見回す。
いつもおばあちゃんの傍で寛いでいる斑模様の猫がいない。
そんな私の視線に勘付いたのか、おばあちゃんが寂しそうにぽつりと言った。
「先月亡くなってねえ。あの人がいなくなってから随分一緒に暮らしたんだけど」
確かに、動物に詳しくない私にも分かる程度にあの猫は老齢だった。
おばあちゃんは夫を亡くして、少ししてからあの猫を飼い始めた。
本人曰く、いつの間にか軒下に住み着いて餌をせがんできたところを拾ったらしい。
「……そう、だったんだ」
こういう時、なんて言えば良いんだろう。
適切な言葉が見つからない。
それでも黙っているわけにはいかず、私は言葉を続けた。
「……その、あの子いつも懐いてたしさ。
おばちゃんに飼ってもらって、きっと幸せだったと思うよ」
私達姉妹は人外で、年を取ることがない。
だからその見た目以上に多くの出会いと別れを経験している。
それでも、こんなありきたりな言葉しかかけてあげられない自分が嫌になる。
おばちゃんが目を細めて口元を緩めながら応える。
「なかなか気難しい子でねえ。構って欲しさにいろいろ悪戯もされたけど、やっぱり」
不意に言葉が途切れる。
後に続けたかった言葉は、なんとなく分かる。
もし、自分がこのおばあちゃんのような立場だったら。
ルナ姉とメル姉がいなくなって、独りぼっちになったら。
そんな風に考えたことは何度かある。
勿論、考えたところで答えなど出ない。
でも、今まで当たり前に居てくれた存在が急にいなくなる。
そんなことになったら。
私は、耐えられるのだろうか。
平静、もっと言えば正気を保っていられるのだろうか。
「私ももう年だから、そろそろお迎えが来るような気がしてねえ」
「もー、そんなこと言っちゃだめだって」
大袈裟に手を振って否定する。
寺子屋の年少クラスに通うぐらいの年の子がやりそうな、いかにも子どもっぽい仕草で。
尤も私が人里の子どもと違うことぐらい、おばあちゃんもとっくに気付いているはずだけど。
勿論私だって相手を騙すつもりでこういう仕草をやってるつもりはない。
それでも、なんだか自分が下手なお芝居をしているようでひどく居心地悪く感じる。
「私にも孫が、リリカちゃんみたいなかわいい子がいてくれたらねえ」
直後、入口の引戸が開いた。
和服姿の黒髪の女性がおばあちゃんの方を見てなにやら聞きたそうにしている。
多分何か探している物があるんだろう。
私は会話を打ち切って席を立った。
「……また買いにくるからさ。
とにかく、まだまだ元気でいてくれなきゃだめなんだからね!」
「ふふ、ありがとうね」
「絶対だよ、絶対!」
最後は半ば逃げるようにお店を出て行った。
中央通りまで戻ってくると、さっきよりは人通りが増えていた。
米屋、八百屋、雑貨屋。
あちこちの店舗で店主とお客さんのやり取りする声が聞こえてくる。
しかし相変わらず風が強く、空模様も今にも雨が降り出しそうだ。
そのせいか人々は皆足早で、急いで家に帰ろうとしていた。
私に声をかけてくる人もいない。
いつもだったら大体誰かに話しかけられるんだけど。
こんな日に路上で演奏しても、みんな聴くどころじゃないよね。
とりあえず、他に今日すぐに買いたい物はない。
あとは適当にウィンドーショッピングでもして帰ろうかな。
そんなことを考えていると、肩に何かがぽつりと当たる。
それが雨粒だと気付いた時には既に雨が降り始め、人々は蜘蛛の子を散らすようにそれぞれの家に向かって駆けていった。
五線紙の入った袋を抱え込むように庇い、そのまま急いで近くの茶屋に入った。
店内に私以外のお客さんはいない。
注文を聞きにきた店主のおじさんも、配膳を終えると勝手口の方でなにやら片付けを始めたようだ。
しばしの間、店内には雨が地面を叩く音と私がパンケーキを咀嚼する音だけが聞こえた。
生地がふんわりやわらかくて、蜂蜜の甘さも私好み。
すごくおいしいけど、どこか気分は晴れない。
甘い物が大好きなメル姉だったらこのパンケーキ、絶対気に入るだろうな。
ルナ姉は甘党ではないけど、私達が誘ったら必ず来てくれるし。
こんなにおいしいなら、一緒に食べたかったな。
直後、落雷の音が響き我に返る。
遠くだけど、結構大きい。
そういえば、傘を持ってきていないせいで帰りをどうすればいいかということに今頃気付く。
普段三人で出かける時は少しでも雨が降りそうだったら絶対忘れないのに。
いつもはあんまり考えない服装のことに気合を入れ過ぎたせいで、肝心なことがすっかり頭から抜け落ちていた。
パンケーキを食べ終え、珈琲を一口飲む。
朝は時間を無駄にしないために、なんて格好つけたことをしたけど。
なんだか、朝からどこか気分が空回ってる気がする。
これなら今日は家で大人しくしていた方がよかったかもしれない。
雨、当分止まないよね。
溜息をついたその時、さっきの店主のおじさんが近付いてきた。
食べ終えたパンケーキのお皿を端に避けてから私は言った。
「ごちそうさまでした、おいしかったです」
「ありがとう、嬉しいよ。ところで、リリカちゃん傘は持っているのかい」
私はジェスチャーで持ってない、と応えた。
するとおじさんが短めの黄色い傘を持たせてくれた。
「いいんですか?」
「余ってる分だから、またそのうち返してくれればいいよ」
私は席を立ち、頭を下げてお礼を言った。
「すみません、ありがとうございます」
するとおじさんは豪快に声をあげて笑った。
「ははは、そんなに畏まらないでよ。
息子がリリカちゃん達のファンだから、傘を貸したと聞けばむしろ喜ぶかもしれないな」
「今度はお姉ちゃん達と一緒に来ます」
「楽しみにしているよ、気を付けて」
「はい!」
そのままカウンターで代金を払い、もう一度礼をしてからお店を出た。
貸してもらった傘を差し、里の出口を目指して歩を進める。
五線紙だけは濡らさないようにしないと。
傘に当たった雨粒が弾けるように強い音を立てる。
足元を見ると至る所に水溜まりが出来ていた。
雨足が弱まることには期待出来そうもない。
とにかく、早く帰らなくちゃ。
そういえばさっきのお店のカウンター奥に飾られてた色紙。
あの特徴的なぐるぐる、多分メル姉のサインだ。
あの家の男の子がいる時に偶然メル姉がお店を訪ねて、サインをねだられたのかな。
ま、小さい男の子に一番人気なのはメル姉だし。
別に驚くようなことじゃない。
楽団を始めたばかりの頃は個別のファンの数を競ってよくメル姉と言い合いしたっけ。
さすがに今はそんなことをいちいち気にしたりはしない。
一度喧嘩が長引き過ぎてルナ姉に本気でお説教されたせいもあるけど。
歩けど歩けど、足元に広がる無数の小さな波紋だけが視界に広がる。
なんか、だめだ。
ただひたすらに歩き続けるのって、すごくストレスを感じる。
騒霊は自分達が音を出してこその存在なのに、この耳障りな雑音に延々とさらされるなんて。
そんなことを考えながら歩を進めていると、ようやく人里の出口が見えてきた。
後は飛んで帰るだけ、と微かに安堵した直後。
さっきよりも大きい、地鳴りのような音とともに再び雷が落ちる。
場所も、だいぶ近い。
反射的に音がした方を振り向く。
しかし、足元をよく見なかったのが悪かった。
深い水溜まりに足を踏み入れてしまい、ブーツの中まで水が浸みてくる。
私は再び溜息をつき、足元の水を蹴飛ばす勢いで身体を宙に浮かべた。
差した傘を前方に傾け、少しでも雨がかからない体勢を取る。
そのまま来る時よりも低い高度で飛行を続け、朝と同じ田園地帯の上空を通り過ぎる。
勿論道には人っ子一人出歩いていない。
雨水が浸みたブーツが気持ち悪い。
せっかく買ったばかりだったのに。
勿論、天候への注意が足りなかった自分が悪いのは分かってる。
それに茶屋のおじさんが貸してくれた傘がなかったら全身ずぶ濡れで帰るか、
止むかも分からない雨を一人でひたすら待ち続けるかしかなかった。
そうならずに済んだだけ感謝しなきゃいけない。
今度は姉さん達、最低でもメル姉だけは連れて返しに行かないと。
気付けばダッフルコートもぐしょ濡れになっている。
高度を下げて傘を差していても、これだけ強い雨はどうしようもない。
なんか、今日は本当にだめな日だ。
帰ったらさっさと横になろ。
そうして鬱々とした気分のまま飛行し続け、ようやく家が見えてきたタイミングで雨は急にぴたりと止んだ。
まるで今日一日、私に憑りついていたかのような質の悪い雨。
ああもう、腹が立つ。
玄関扉を開き、足を踏み入れた。
三和土に服の水滴がぽたぽたと落ちる。
傘を閉じて傘立てに入れ、五線紙の入った袋を靴箱の上に置く。
やっと両手が解放され、肩の荷が下りた。
あとは中まで湿ったブーツが気持ち悪いけど、このままじゃさすがに上がれないか。
するとそこに、リビングから出てきたメル姉が通りがかった。
びしょ濡れの私の姿を見て、一言。
「あらら、ちょっと待っててねー」
なにか言おうとしたが疲れで言葉は出てこず、その間にメル姉は脱衣所の方へと姿を消した。
奥から声がする。
「姉さーん、リリカ帰ってきたよー!」
ルナ姉も起きてるらしい。
多分もうお昼過ぎだし、それはそうか。
そんなことを考えていると、メル姉がバスタオル片手に文字通り飛んで戻ってきた。
「はいこれ」
「……ありがと、メル姉」
受け取ったタオルで髪と服を拭き終えると、メル姉が手を差し出してきた。
タオルと一緒にコートとマフラーも脱いで手渡し、もう一度お礼を言う。
「ありがと」
「リリカさー」
「なに?」
「このコートやブーツ、どこで買ったの」
「……どこだったっけ、お店の名前忘れちゃった。あんまり流行ってないとこ」
勿論しっかり覚えてるけど、なんとなく面倒な気分が私に嘘をつかせた。
するとメル姉は頬をぷうと膨らませた。
「むー、思い出しなさいよ」
「いいじゃん、そんなのどこでも」
「リリカっていつも知らないうちに服買ってるから、一緒に選べなくてつまんないんだもん」
「子どもじゃないんだから、服ぐらいいつ買ってもいいでしょ」
「だってだって、この白いコートとか私が勧めてあげたかったんだもん。
リリカは絶対白似合うのにいつも着ようとしないし」
「私が白系の色着たら色合いがメル姉とちょっと被るじゃん」
「私服はいいの、私服は!」
白はメル姉、黒はルナ姉の方が似合うに決まってるし。
だから私は滅多にこの二色は選ばない。
ああだこうだと言い合っていると、リビングからもう一人の姉が姿を現した。
「シャワー、早く浴びてきなさい。洗濯はあとでまとめてするから」
「はーい」
いつもの黒のシャツにチェックのロングスカート。
藍色の前掛けも着けているあたり、炊事の途中だろうか。
それはさておき、私はこれ幸いとメル姉とのやり取りを強引に中断して脱衣所に向かった。
シャワーを終えていつもの部屋着を纏い、廊下に出る。
はあ、疲れた。
一応姉さんにお礼だけ言って、さっさと部屋にあがろ。
そんなことを思ってリビングに足を踏み入れると、ルナ姉が湯気立ち上るマグカップを差し出してきた。
「はい」
「あ、ありがと」
私の好きなホットココア。
わざわざ淹れてくれたんだ。
その甘さに心奪われていると、ルナ姉ともう一度目が合った。
口元を緩めて微笑んでいる。
「……なに?」
「それ飲んでるとき、相変わらず幸せそうね」
「な、なによ。別にいいじゃない。」
「あ、焼けたみたい」
聞いてないし。
ルナ姉が私そっちのけで愛用のオレンジのミトンを着け、オーブンの扉を開く。
中には硬貨ぐらいの大きさの丸い小麦色のクッキーが並んでいた。
等間隔に、端までぎっしり。
甘く香ばしい匂いがふわふわと辺りに漂い始める。
「お菓子焼いてたんだ」
「今日は久しぶりのオフだし、ちょっと作ってみたの」
確かに、我が家でこういうことが好きなのは専らメル姉で私やルナ姉は滅多に作らない。
私は別に嫌いなわけじゃないけど、お店で買えばいいじゃんって思っちゃう方だし。
でもそうか、これがルナ姉の休日。
こういう過ごし方もあるんだ。
ルナ姉がクッキーをお皿に移し始めたので、とりあえずテーブルを布巾で拭く。
そうしていると、メル姉がリビングに戻ってきた。
「あー、いいにおい!」
ルナ姉が焼いたクッキーの山を見て、嬉しそうに駆け寄る。
ふと、疑問が沸いたので聞いてみる。
「今日、メル姉は一緒に作らなかったの?」
いつもなら絶対一緒にやろうとするはずだけど。
するとメル姉はまた頬を膨らませて言った。
「今日は私が作ってあげたいから待ってて、って姉さんが言うんだもん」
ああ、そう言えば。
「だから今日のクッキーは全部丸いんだ」
するとルナ姉がクッキーの乗ったお皿をテーブルに置きながら言った。
「なんか、ちゃんと真円になってないと落ち着かなくて」
「家庭のお菓子作りで真円なんて言葉使うの、多分ルナ姉ぐらいだよ」
直後、横でメル姉が早速クッキーを一つ口に入れた。
さくっ、と小気味いい音が鳴る。
「私は姉さんに言ったのよ、ミリ単位まできっちり計らなくても大丈夫って」
「でも、材料丁度使い切らないとなんだかもったいないし」
「姉さんは本当几帳面よねえ」
そう言うメル姉は、こういうところもルナ姉と正反対。
お菓子に限らず分量は結構適当だし、どちらかというと見た目の楽しさにこだわるタイプ。
クッキーを焼けばいろんな形を作るし、ケーキを焼けば腕を組んでデコレーションに真剣に悩む。
リンゴを切るだけでも、必ずうさぎさんにしようとする。
私もクッキーを一つ口に入れる。
あ、メル姉のより甘い。
私はこっちの方が好きかも。
気付けば、口に出ていた。
「おいしい」
「よかったわ」
ルナ姉が目を細めて頷いた。
クッキーをもう一つ口に入れたところで、メル姉が持ってきた包みをテーブルの上に置いた。
あ、この包み。
それが今日買った五線紙の包みであることに気付く。
玄関に置きっぱなしにしてたの、すっかり忘れてた。
「あ、ごめんメル姉」
「リリカの曲作るペース、本当おかしいわよね」
「私はどんどん作って、完成してこそだと思ってるだけだし」
これもいつものやり取り。
多分ルナ姉とメル姉の作った曲数を足しても、私が作る数の方が多い。
別にルナ姉達が遅いとは思ってないし、当然多ければいいってものじゃない。
ただスタンスが違うだけの話。
二人はあらかじめ確保した期間で作るんじゃなく、思いついたその時に一気に書き上げるタイプだし。
私は最初に設けた時間で必ず完成させると決めて作るから、その部分は絶対に相いれない。
クオリティとの両立がどうとか、モチベーションが乗るときに作る方がいいとか、そういう話は散々語り尽くしたし。
出来た曲がライブにまで採用されるかは勿論別の話だけど。
ルナ姉が五線紙の袋を見ながら問いかけてくる。
「今日もなにか書きたいものがあったの?」
そりゃ姉さん達からすれば一番下の妹がオフの日の朝一に何も言わずに出掛けて、
五線紙だけ買ってびしょ濡れで帰ってきたらそう思うよね。
正直に言うと、ネタのストックは前のライブで既に使い切っている。
ああ、どうしよう。
やっぱり二人みたいに今日はのんびりする休日でよかったじゃん。
五線紙も別に急いで買わなきゃいけないほど減ってるわけでもなかったし。
しかし、それを素直に言うほど私は正直ではない。
「まあね、まだ完成はしてないけど大体の形は出来上がってる」
するとメル姉が嬉色を浮かべて言った。
「ライブ用の曲に困り気味の時でも、リリカの曲はいつも安心感があるもんね。
姉さんはちょっと、色々不安定だし」
言い終えたところでにやけた顔をしながらルナ姉の方を見る。
ルナ姉が少し気まずそうに応えた。
「仕方がないじゃない、理由は分からないけど気分が優れない時の方がペンが進むんだから」
「部屋に一日引き籠って、夕方やっと出て来たと思ったら
『メルラン、出来た、出来たわ……』って青ざめた顔で楽譜渡してきた時は流石に腰が抜けたわ。
しかもライブ用だって言ってるのにまた切ない系の曲だったし。」
え、初耳なんですけど。
私がツッコミを入れる前にルナ姉がすかさず言い返す。
「それを言うならメルランの曲だってその楽器で出せない強さの音を要求してくるのは勢い任せが過ぎるんじゃないの?
安定して出せない音を前提にした楽曲なんて無謀過ぎるわ」
「えー、やってみたら出来るかもしれないじゃない」
それも初耳なんですけど。
え、普通に一回でオーケーが出てるの私だけ?
気付けば私の気持ちは声に出ていた。
「二人とも次からさ、私に最初に見せてくれない?」
直後、二人の返事がハモった。
メル姉は「どうして?」と言いたそうな表情を、ルナ姉はきょとんととぼけた顔をしながら。
「えっ」
「いいから!」
「「はい」」
結局その後もリビングで過ごし、気付けば二階の自室に上がることはすっかり忘れていた。
入浴を終え、ようやく自室に戻る。
勿論部屋は朝出て行った状態のまま。
五線紙の束を机に置き、そのまま真っすぐベッドに倒れこむ。
仰向けに寝転がり、目を閉じた。
するとすぐに柔らかい微睡が訪れ、私の意識を徐々に曖昧にしていく。
結局今日一日で曲は全然書けてない。
部屋の掃除も出来てない。
でも、なんでだろう。
なんか、雨に打たれてた時からの嫌な感じ、いつの間にか消えてる。
家に帰ってからの出来事が順番に追想される。
メル姉は帰ってきてずぶ濡れの私にすぐにタオルを差し出し、脱いだ服も置きっぱなしの五線紙も世話してくれた。
ルナ姉の作ってくれたクッキーとココア、美味しかった。
その後も二人はほぼずっと、私に構いっぱなしだった。
メル姉の勢い任せのマシンガントーク。
それにルナ姉がのんびり相槌を打ったり私がツッコミを入れたり。
……次のオフ、いつだったかな。
えっと、まずみんなで茶屋に行って一緒にお菓子食べて。
今日借りた傘も返して。
文具屋にも三人で行ったら、おばちゃんちょっとは元気出してくれるかな。
それから、えっと。
……服屋さんにも行って、それから。
ええと。
やがて、薄れゆく意識が徐々に夢の世界へと落ちていった。
翌朝の目覚めがいつになく清々しいものになることを今夜の私はまだ、知らない。
「むにゃ、ルナ姉、メル姉……」
窓外へ視線をやると吹きつける風がびゅうびゅうと音を立てている。
今日は結構寒そう。
一方でまだ温もりが残っている布団はその存在だけで私を誘惑してくる。
今日は特別予定もないし、二度寝しちゃおうかな。
テーブルの上の時計を見ると時刻は午前八時を少し回ったところ。
ルナ姉はまだ寝てるかな。
メル姉は多分もう起きてる。
常に六時起床がデフォだし。
でも基本的にじっとしてるのが苦手だからオフの日は大抵どこかに出かけてる。
あと一歩で、さっきまで私を包んでいた布団に手が届く。
この身を取り込まれるまであとほんの数センチ。
すんでのところで私はふっと息を吐く。
そのまま布団を持ち上げ、叩きつけるように一気に畳む。
ちょっと埃が舞ったけど気にしない。
駄目だ、そんな自堕落なことしてたら。
オフの日だからって朝からゴロゴロしてたら、きっと後で後悔するんだから。
隣のルナ姉の部屋がある方の壁にそっと耳を当ててみる。
しんと静まり返り、なにも聞こえない。
まだ寝てるのか、それとも起きてはいるけど布団から出てないのか。
ただでさえ朝に弱いルナ姉は寒い時期になるとそれがより顕著になる。
それでも用事がある日は時間の五分前にきっちりすべての準備を終える。
ある意味すごい。
逆にメル姉はいつも最初に起きてるのに服選びやメイクに時間をかけすぎる。
そのせいで出発前は私達の中で一番慌ただしくしてる。
いつものことながら二人とも本当に極端だと思う。
そんなことを考えながら身だしなみを整え、一階に降りる。
思った通り、リビングには誰もいない。
トーストと紅茶だけの簡単な朝食を済ませ、外に出る。
予想通り、今日は少し肌寒い。
空の半分以上を覆う灰色の雲も、その存在だけで寒気を強めている感じがする。
先日買ったばかりの薄いブルーの手袋を嵌め、地を蹴る。
早朝に森の奥深くを通る人がいるとは思えない。
それでも、なんだかだらしがない気がするから飛ぶ時は意地でもポケットに手を入れない。
今日の服装はいつもの赤一色のコーディネートとは違う。
真っ白なダッフルコートに薄い桃色のマフラー。
それに普段は歩きにくいから滅多に履かない、皮製のブーツ。
買ったばかりの服を着るだけで、自然と晴れやかな気持ちになってくる。
高度が上昇するにつれて、身を揺らす風圧が徐々に大きくなっていく。
秋が終わり、本格的に冬が訪れようとしている。
そのまま飛行を続けていると、目下には見慣れた田園風景。
水田は既に今年の役割を終え、次の田植えを静かに待っている。
周辺には農家の家もあるけど、出歩いている人はほとんどいない。
そう言えば夏にやった野外ライブにはここのおじいちゃんおばあちゃんもたくさん来てくれたっけ。
しばらく当時の光景を追想していると、見慣れた人間の里が見えてきた。
入口付近に着地し、中に入る。
まだ朝早い時間帯だからか、往来に人はまばらだった。
五線紙が少し減ってきたので、いつも利用している文具屋を訪れる。
店内は薄暗く、客も私一人だった。
いつも買っている束を抱えてカウンターに持ち込むと、奥から店主のおばちゃんが姿を見せた。
相変わらず腰は完全に曲がり、歩き方も前来た時より危なっかしい気がする。
「あらあら、リリカちゃんこんにちは」
「おはよ、おばちゃん」
長居をするつもりはなかったが、お菓子とお茶を出してくれたのでお言葉に甘える。
まあ、他にお客が来たら離れればいいかな。
そういえば、と店内を見回す。
いつもおばあちゃんの傍で寛いでいる斑模様の猫がいない。
そんな私の視線に勘付いたのか、おばあちゃんが寂しそうにぽつりと言った。
「先月亡くなってねえ。あの人がいなくなってから随分一緒に暮らしたんだけど」
確かに、動物に詳しくない私にも分かる程度にあの猫は老齢だった。
おばあちゃんは夫を亡くして、少ししてからあの猫を飼い始めた。
本人曰く、いつの間にか軒下に住み着いて餌をせがんできたところを拾ったらしい。
「……そう、だったんだ」
こういう時、なんて言えば良いんだろう。
適切な言葉が見つからない。
それでも黙っているわけにはいかず、私は言葉を続けた。
「……その、あの子いつも懐いてたしさ。
おばちゃんに飼ってもらって、きっと幸せだったと思うよ」
私達姉妹は人外で、年を取ることがない。
だからその見た目以上に多くの出会いと別れを経験している。
それでも、こんなありきたりな言葉しかかけてあげられない自分が嫌になる。
おばちゃんが目を細めて口元を緩めながら応える。
「なかなか気難しい子でねえ。構って欲しさにいろいろ悪戯もされたけど、やっぱり」
不意に言葉が途切れる。
後に続けたかった言葉は、なんとなく分かる。
もし、自分がこのおばあちゃんのような立場だったら。
ルナ姉とメル姉がいなくなって、独りぼっちになったら。
そんな風に考えたことは何度かある。
勿論、考えたところで答えなど出ない。
でも、今まで当たり前に居てくれた存在が急にいなくなる。
そんなことになったら。
私は、耐えられるのだろうか。
平静、もっと言えば正気を保っていられるのだろうか。
「私ももう年だから、そろそろお迎えが来るような気がしてねえ」
「もー、そんなこと言っちゃだめだって」
大袈裟に手を振って否定する。
寺子屋の年少クラスに通うぐらいの年の子がやりそうな、いかにも子どもっぽい仕草で。
尤も私が人里の子どもと違うことぐらい、おばあちゃんもとっくに気付いているはずだけど。
勿論私だって相手を騙すつもりでこういう仕草をやってるつもりはない。
それでも、なんだか自分が下手なお芝居をしているようでひどく居心地悪く感じる。
「私にも孫が、リリカちゃんみたいなかわいい子がいてくれたらねえ」
直後、入口の引戸が開いた。
和服姿の黒髪の女性がおばあちゃんの方を見てなにやら聞きたそうにしている。
多分何か探している物があるんだろう。
私は会話を打ち切って席を立った。
「……また買いにくるからさ。
とにかく、まだまだ元気でいてくれなきゃだめなんだからね!」
「ふふ、ありがとうね」
「絶対だよ、絶対!」
最後は半ば逃げるようにお店を出て行った。
中央通りまで戻ってくると、さっきよりは人通りが増えていた。
米屋、八百屋、雑貨屋。
あちこちの店舗で店主とお客さんのやり取りする声が聞こえてくる。
しかし相変わらず風が強く、空模様も今にも雨が降り出しそうだ。
そのせいか人々は皆足早で、急いで家に帰ろうとしていた。
私に声をかけてくる人もいない。
いつもだったら大体誰かに話しかけられるんだけど。
こんな日に路上で演奏しても、みんな聴くどころじゃないよね。
とりあえず、他に今日すぐに買いたい物はない。
あとは適当にウィンドーショッピングでもして帰ろうかな。
そんなことを考えていると、肩に何かがぽつりと当たる。
それが雨粒だと気付いた時には既に雨が降り始め、人々は蜘蛛の子を散らすようにそれぞれの家に向かって駆けていった。
五線紙の入った袋を抱え込むように庇い、そのまま急いで近くの茶屋に入った。
店内に私以外のお客さんはいない。
注文を聞きにきた店主のおじさんも、配膳を終えると勝手口の方でなにやら片付けを始めたようだ。
しばしの間、店内には雨が地面を叩く音と私がパンケーキを咀嚼する音だけが聞こえた。
生地がふんわりやわらかくて、蜂蜜の甘さも私好み。
すごくおいしいけど、どこか気分は晴れない。
甘い物が大好きなメル姉だったらこのパンケーキ、絶対気に入るだろうな。
ルナ姉は甘党ではないけど、私達が誘ったら必ず来てくれるし。
こんなにおいしいなら、一緒に食べたかったな。
直後、落雷の音が響き我に返る。
遠くだけど、結構大きい。
そういえば、傘を持ってきていないせいで帰りをどうすればいいかということに今頃気付く。
普段三人で出かける時は少しでも雨が降りそうだったら絶対忘れないのに。
いつもはあんまり考えない服装のことに気合を入れ過ぎたせいで、肝心なことがすっかり頭から抜け落ちていた。
パンケーキを食べ終え、珈琲を一口飲む。
朝は時間を無駄にしないために、なんて格好つけたことをしたけど。
なんだか、朝からどこか気分が空回ってる気がする。
これなら今日は家で大人しくしていた方がよかったかもしれない。
雨、当分止まないよね。
溜息をついたその時、さっきの店主のおじさんが近付いてきた。
食べ終えたパンケーキのお皿を端に避けてから私は言った。
「ごちそうさまでした、おいしかったです」
「ありがとう、嬉しいよ。ところで、リリカちゃん傘は持っているのかい」
私はジェスチャーで持ってない、と応えた。
するとおじさんが短めの黄色い傘を持たせてくれた。
「いいんですか?」
「余ってる分だから、またそのうち返してくれればいいよ」
私は席を立ち、頭を下げてお礼を言った。
「すみません、ありがとうございます」
するとおじさんは豪快に声をあげて笑った。
「ははは、そんなに畏まらないでよ。
息子がリリカちゃん達のファンだから、傘を貸したと聞けばむしろ喜ぶかもしれないな」
「今度はお姉ちゃん達と一緒に来ます」
「楽しみにしているよ、気を付けて」
「はい!」
そのままカウンターで代金を払い、もう一度礼をしてからお店を出た。
貸してもらった傘を差し、里の出口を目指して歩を進める。
五線紙だけは濡らさないようにしないと。
傘に当たった雨粒が弾けるように強い音を立てる。
足元を見ると至る所に水溜まりが出来ていた。
雨足が弱まることには期待出来そうもない。
とにかく、早く帰らなくちゃ。
そういえばさっきのお店のカウンター奥に飾られてた色紙。
あの特徴的なぐるぐる、多分メル姉のサインだ。
あの家の男の子がいる時に偶然メル姉がお店を訪ねて、サインをねだられたのかな。
ま、小さい男の子に一番人気なのはメル姉だし。
別に驚くようなことじゃない。
楽団を始めたばかりの頃は個別のファンの数を競ってよくメル姉と言い合いしたっけ。
さすがに今はそんなことをいちいち気にしたりはしない。
一度喧嘩が長引き過ぎてルナ姉に本気でお説教されたせいもあるけど。
歩けど歩けど、足元に広がる無数の小さな波紋だけが視界に広がる。
なんか、だめだ。
ただひたすらに歩き続けるのって、すごくストレスを感じる。
騒霊は自分達が音を出してこその存在なのに、この耳障りな雑音に延々とさらされるなんて。
そんなことを考えながら歩を進めていると、ようやく人里の出口が見えてきた。
後は飛んで帰るだけ、と微かに安堵した直後。
さっきよりも大きい、地鳴りのような音とともに再び雷が落ちる。
場所も、だいぶ近い。
反射的に音がした方を振り向く。
しかし、足元をよく見なかったのが悪かった。
深い水溜まりに足を踏み入れてしまい、ブーツの中まで水が浸みてくる。
私は再び溜息をつき、足元の水を蹴飛ばす勢いで身体を宙に浮かべた。
差した傘を前方に傾け、少しでも雨がかからない体勢を取る。
そのまま来る時よりも低い高度で飛行を続け、朝と同じ田園地帯の上空を通り過ぎる。
勿論道には人っ子一人出歩いていない。
雨水が浸みたブーツが気持ち悪い。
せっかく買ったばかりだったのに。
勿論、天候への注意が足りなかった自分が悪いのは分かってる。
それに茶屋のおじさんが貸してくれた傘がなかったら全身ずぶ濡れで帰るか、
止むかも分からない雨を一人でひたすら待ち続けるかしかなかった。
そうならずに済んだだけ感謝しなきゃいけない。
今度は姉さん達、最低でもメル姉だけは連れて返しに行かないと。
気付けばダッフルコートもぐしょ濡れになっている。
高度を下げて傘を差していても、これだけ強い雨はどうしようもない。
なんか、今日は本当にだめな日だ。
帰ったらさっさと横になろ。
そうして鬱々とした気分のまま飛行し続け、ようやく家が見えてきたタイミングで雨は急にぴたりと止んだ。
まるで今日一日、私に憑りついていたかのような質の悪い雨。
ああもう、腹が立つ。
玄関扉を開き、足を踏み入れた。
三和土に服の水滴がぽたぽたと落ちる。
傘を閉じて傘立てに入れ、五線紙の入った袋を靴箱の上に置く。
やっと両手が解放され、肩の荷が下りた。
あとは中まで湿ったブーツが気持ち悪いけど、このままじゃさすがに上がれないか。
するとそこに、リビングから出てきたメル姉が通りがかった。
びしょ濡れの私の姿を見て、一言。
「あらら、ちょっと待っててねー」
なにか言おうとしたが疲れで言葉は出てこず、その間にメル姉は脱衣所の方へと姿を消した。
奥から声がする。
「姉さーん、リリカ帰ってきたよー!」
ルナ姉も起きてるらしい。
多分もうお昼過ぎだし、それはそうか。
そんなことを考えていると、メル姉がバスタオル片手に文字通り飛んで戻ってきた。
「はいこれ」
「……ありがと、メル姉」
受け取ったタオルで髪と服を拭き終えると、メル姉が手を差し出してきた。
タオルと一緒にコートとマフラーも脱いで手渡し、もう一度お礼を言う。
「ありがと」
「リリカさー」
「なに?」
「このコートやブーツ、どこで買ったの」
「……どこだったっけ、お店の名前忘れちゃった。あんまり流行ってないとこ」
勿論しっかり覚えてるけど、なんとなく面倒な気分が私に嘘をつかせた。
するとメル姉は頬をぷうと膨らませた。
「むー、思い出しなさいよ」
「いいじゃん、そんなのどこでも」
「リリカっていつも知らないうちに服買ってるから、一緒に選べなくてつまんないんだもん」
「子どもじゃないんだから、服ぐらいいつ買ってもいいでしょ」
「だってだって、この白いコートとか私が勧めてあげたかったんだもん。
リリカは絶対白似合うのにいつも着ようとしないし」
「私が白系の色着たら色合いがメル姉とちょっと被るじゃん」
「私服はいいの、私服は!」
白はメル姉、黒はルナ姉の方が似合うに決まってるし。
だから私は滅多にこの二色は選ばない。
ああだこうだと言い合っていると、リビングからもう一人の姉が姿を現した。
「シャワー、早く浴びてきなさい。洗濯はあとでまとめてするから」
「はーい」
いつもの黒のシャツにチェックのロングスカート。
藍色の前掛けも着けているあたり、炊事の途中だろうか。
それはさておき、私はこれ幸いとメル姉とのやり取りを強引に中断して脱衣所に向かった。
シャワーを終えていつもの部屋着を纏い、廊下に出る。
はあ、疲れた。
一応姉さんにお礼だけ言って、さっさと部屋にあがろ。
そんなことを思ってリビングに足を踏み入れると、ルナ姉が湯気立ち上るマグカップを差し出してきた。
「はい」
「あ、ありがと」
私の好きなホットココア。
わざわざ淹れてくれたんだ。
その甘さに心奪われていると、ルナ姉ともう一度目が合った。
口元を緩めて微笑んでいる。
「……なに?」
「それ飲んでるとき、相変わらず幸せそうね」
「な、なによ。別にいいじゃない。」
「あ、焼けたみたい」
聞いてないし。
ルナ姉が私そっちのけで愛用のオレンジのミトンを着け、オーブンの扉を開く。
中には硬貨ぐらいの大きさの丸い小麦色のクッキーが並んでいた。
等間隔に、端までぎっしり。
甘く香ばしい匂いがふわふわと辺りに漂い始める。
「お菓子焼いてたんだ」
「今日は久しぶりのオフだし、ちょっと作ってみたの」
確かに、我が家でこういうことが好きなのは専らメル姉で私やルナ姉は滅多に作らない。
私は別に嫌いなわけじゃないけど、お店で買えばいいじゃんって思っちゃう方だし。
でもそうか、これがルナ姉の休日。
こういう過ごし方もあるんだ。
ルナ姉がクッキーをお皿に移し始めたので、とりあえずテーブルを布巾で拭く。
そうしていると、メル姉がリビングに戻ってきた。
「あー、いいにおい!」
ルナ姉が焼いたクッキーの山を見て、嬉しそうに駆け寄る。
ふと、疑問が沸いたので聞いてみる。
「今日、メル姉は一緒に作らなかったの?」
いつもなら絶対一緒にやろうとするはずだけど。
するとメル姉はまた頬を膨らませて言った。
「今日は私が作ってあげたいから待ってて、って姉さんが言うんだもん」
ああ、そう言えば。
「だから今日のクッキーは全部丸いんだ」
するとルナ姉がクッキーの乗ったお皿をテーブルに置きながら言った。
「なんか、ちゃんと真円になってないと落ち着かなくて」
「家庭のお菓子作りで真円なんて言葉使うの、多分ルナ姉ぐらいだよ」
直後、横でメル姉が早速クッキーを一つ口に入れた。
さくっ、と小気味いい音が鳴る。
「私は姉さんに言ったのよ、ミリ単位まできっちり計らなくても大丈夫って」
「でも、材料丁度使い切らないとなんだかもったいないし」
「姉さんは本当几帳面よねえ」
そう言うメル姉は、こういうところもルナ姉と正反対。
お菓子に限らず分量は結構適当だし、どちらかというと見た目の楽しさにこだわるタイプ。
クッキーを焼けばいろんな形を作るし、ケーキを焼けば腕を組んでデコレーションに真剣に悩む。
リンゴを切るだけでも、必ずうさぎさんにしようとする。
私もクッキーを一つ口に入れる。
あ、メル姉のより甘い。
私はこっちの方が好きかも。
気付けば、口に出ていた。
「おいしい」
「よかったわ」
ルナ姉が目を細めて頷いた。
クッキーをもう一つ口に入れたところで、メル姉が持ってきた包みをテーブルの上に置いた。
あ、この包み。
それが今日買った五線紙の包みであることに気付く。
玄関に置きっぱなしにしてたの、すっかり忘れてた。
「あ、ごめんメル姉」
「リリカの曲作るペース、本当おかしいわよね」
「私はどんどん作って、完成してこそだと思ってるだけだし」
これもいつものやり取り。
多分ルナ姉とメル姉の作った曲数を足しても、私が作る数の方が多い。
別にルナ姉達が遅いとは思ってないし、当然多ければいいってものじゃない。
ただスタンスが違うだけの話。
二人はあらかじめ確保した期間で作るんじゃなく、思いついたその時に一気に書き上げるタイプだし。
私は最初に設けた時間で必ず完成させると決めて作るから、その部分は絶対に相いれない。
クオリティとの両立がどうとか、モチベーションが乗るときに作る方がいいとか、そういう話は散々語り尽くしたし。
出来た曲がライブにまで採用されるかは勿論別の話だけど。
ルナ姉が五線紙の袋を見ながら問いかけてくる。
「今日もなにか書きたいものがあったの?」
そりゃ姉さん達からすれば一番下の妹がオフの日の朝一に何も言わずに出掛けて、
五線紙だけ買ってびしょ濡れで帰ってきたらそう思うよね。
正直に言うと、ネタのストックは前のライブで既に使い切っている。
ああ、どうしよう。
やっぱり二人みたいに今日はのんびりする休日でよかったじゃん。
五線紙も別に急いで買わなきゃいけないほど減ってるわけでもなかったし。
しかし、それを素直に言うほど私は正直ではない。
「まあね、まだ完成はしてないけど大体の形は出来上がってる」
するとメル姉が嬉色を浮かべて言った。
「ライブ用の曲に困り気味の時でも、リリカの曲はいつも安心感があるもんね。
姉さんはちょっと、色々不安定だし」
言い終えたところでにやけた顔をしながらルナ姉の方を見る。
ルナ姉が少し気まずそうに応えた。
「仕方がないじゃない、理由は分からないけど気分が優れない時の方がペンが進むんだから」
「部屋に一日引き籠って、夕方やっと出て来たと思ったら
『メルラン、出来た、出来たわ……』って青ざめた顔で楽譜渡してきた時は流石に腰が抜けたわ。
しかもライブ用だって言ってるのにまた切ない系の曲だったし。」
え、初耳なんですけど。
私がツッコミを入れる前にルナ姉がすかさず言い返す。
「それを言うならメルランの曲だってその楽器で出せない強さの音を要求してくるのは勢い任せが過ぎるんじゃないの?
安定して出せない音を前提にした楽曲なんて無謀過ぎるわ」
「えー、やってみたら出来るかもしれないじゃない」
それも初耳なんですけど。
え、普通に一回でオーケーが出てるの私だけ?
気付けば私の気持ちは声に出ていた。
「二人とも次からさ、私に最初に見せてくれない?」
直後、二人の返事がハモった。
メル姉は「どうして?」と言いたそうな表情を、ルナ姉はきょとんととぼけた顔をしながら。
「えっ」
「いいから!」
「「はい」」
結局その後もリビングで過ごし、気付けば二階の自室に上がることはすっかり忘れていた。
入浴を終え、ようやく自室に戻る。
勿論部屋は朝出て行った状態のまま。
五線紙の束を机に置き、そのまま真っすぐベッドに倒れこむ。
仰向けに寝転がり、目を閉じた。
するとすぐに柔らかい微睡が訪れ、私の意識を徐々に曖昧にしていく。
結局今日一日で曲は全然書けてない。
部屋の掃除も出来てない。
でも、なんでだろう。
なんか、雨に打たれてた時からの嫌な感じ、いつの間にか消えてる。
家に帰ってからの出来事が順番に追想される。
メル姉は帰ってきてずぶ濡れの私にすぐにタオルを差し出し、脱いだ服も置きっぱなしの五線紙も世話してくれた。
ルナ姉の作ってくれたクッキーとココア、美味しかった。
その後も二人はほぼずっと、私に構いっぱなしだった。
メル姉の勢い任せのマシンガントーク。
それにルナ姉がのんびり相槌を打ったり私がツッコミを入れたり。
……次のオフ、いつだったかな。
えっと、まずみんなで茶屋に行って一緒にお菓子食べて。
今日借りた傘も返して。
文具屋にも三人で行ったら、おばちゃんちょっとは元気出してくれるかな。
それから、えっと。
……服屋さんにも行って、それから。
ええと。
やがて、薄れゆく意識が徐々に夢の世界へと落ちていった。
翌朝の目覚めがいつになく清々しいものになることを今夜の私はまだ、知らない。
「むにゃ、ルナ姉、メル姉……」
家に帰ってからの姉たちの温かみが素晴らしかったです
劇的なイベントが無い何気ない一日も尊いものだと感じさせられました
三姉妹の生活の書き分けが良かったなと思いました