孟秋のある日の夕方。
太陽が一日の役目を終え、地平線の下に沈もうとしている。
洗濯物を畳んでいると玄関の方に何者かの気配を感じた。
私達は幻想郷で暮らし始めてから、まだ日が浅い。
だからこの家を知る者もまずいない。
しかし八橋ならいつも通りただいまと元気な声で帰ってくるはず。
家事の手を止めて居間を出る。
一応足音に用心しながら三和土で靴を履き、引戸の隙間から外の様子を窺う。
そこにいたのは妹の八橋だった。
警戒する必要がなくなったことに安堵し、戸を完全に開けるとすぐに視線が合った。
「おかえり」
「あ、姉さん、ただいま……」
視線が泳ぎ、明るい茶色の瞳はきょろきょろと落ち着きがない。
言葉の歯切れも悪いし、いつもはきはき喋る八橋にしては珍しい。
すぐに入ってこなかったことも含め、なにかあったのだろうか。
そんなことを考えていると、彼女がなにかを抱えているのに気付く。
それは兎だった。
白い身体は土に汚れており、目は開いているものの元気がなくぐったりしている。
視線に気付き、八橋が気まずそうな顔をする。
今のこの状況だけで考えていることはほぼ見当がつく。
でも、まずは本人の口からちゃんと言ってもらうべきだろう。
「その兎はどうしたの?」
「帰ってくる途中で倒れてるのを見つけて、かわいそうで、その……」
八橋は私が怒っていると思ったのか明らかにおどおどしていた。
「……うん、それでその子をどうしたいの?」
「あのままにしてたら、きっと他の動物や妖怪に襲われちゃう。
だからお願い、ちょっとの間この子の面倒を見てあげたいの」
「……いいわ。でも、飼い主が見つかるまでだからね」
「やったあ! ありがとう姉さん!」
八橋が晴れやかな笑顔で兎をぎゅっと抱きしめる。
やれやれ、まあ私が同じ立場でもどうしていたかは分からないし。
「よかったね、うーちゃん」
飼い主を見つけるまでだと言ったばかりなのにもう名前まで付けて。
でも、また一つ彼女の素敵な一面を知ることが出来た。
それがなんだか嬉しい。
私達がこの幻想郷に生を受けたのが大体一カ月前。
空に逆さのお城が現れた異変が収束し、この古びた家屋で共同生活を始めてからは今日で丁度二週間。
だから、私達はまだお互いのことをよく知らない。
それに、つい先日までは正真正銘の一文無しだった。
雨風をしのぐ場所すらなく、常に危険と隣り合わせの生活。
今はようやく見つかったこの家に無縁塚で拾い集めた古道具を持ち込んで生活している。
人里での路上ライブで少しずつだけど投銭も得られるようになった。
おかげで辛うじて食べていける状態ではある。
それでも余裕がある生活とは言い難く、今後あの兎をずっと付きっきりで見ていてあげるのには無理がある。
八橋もそれは分かっていたからこそ、私に言うのを躊躇ったのだと思う。
さておき、当面はあの兎が元気になるまで交代で面倒を見るしかない。
「とりあえずなにか食べられるもの……野菜の残りしかないけど仕方ないわね」
残っていた人参とキャベツを水でよく洗う。
それを小さく切ってやると、兎はゆっくりとではあるがもそもそと食べ始めた。
八橋が一安心した様子でしゃがみ、頭を撫でる。
「よかった、食べてる食べてる」
「見た感じ怪我はなさそうだけど、まずは休ませるしかなさそうね。明日は私が人里に行くわ」
「ごめん、姉さん」
「いいのよ、心配でしょう」
普段は必ず二人一緒に人里を訪れる。
だから明日の一人での訪問は初めてということになる。
少し心細い気持ちはあるけど、しっかり稼いでこなくちゃ。
その後は川から汲んできた水で兎を洗ってやった。
土汚れがすっかり落ち、綺麗な乳白色の毛並みが露わになる。
手拭いで水を拭き取りながら、思わず口に出ていた。
「……綺麗ね、この子」
「なんだかお金持ちの家の子みたいだね」
「でも、道端に倒れてたのよね」
「うん、全然人通りのないところ」
見たところ装飾品の類も身に付けていない。
やはりたまたま身綺麗だというだけで、人に飼われていない野良兎なのだろうか。
それならそれで里親探しをすることになる。
一人で動き回れる程度まで回復したら、一度人里に連れて行こう。
そうして飼ってくれる家を探すのが一番近道に違いない。
一応最近縁の出来た付喪神の仲間は何人かいる。
でもその大半は私達と同じように、自分が生きるだけで精一杯の生活をしている。
中には一部、人間の住居にこっそり住み着いているおかげで比較的安全に過ごしている者もいる。
しかしどちらにせよ兎を飼ってくれるのは人間しかいないだろう。
間違っても里の外で気ままに暮らす妖怪達に引き渡してはいけない。
その後どうなるかは考えるまでもないのだから。
「姉さんも抱っこしてあげて」
考え事に集中し過ぎていたせいか、八橋の言葉で我に返った。
兎を抱きかかえながら相変わらず頬を緩ませている。
「ん、よいしょ」
落とさないように慎重に受け取り、胸元に抱え込む。
一瞬長い耳をぴくりとさせたが、特に抵抗はされなかった。
とろんと半分閉じた目で、されるがままになっている。
思っていた以上に体温が高く、温かい。
八橋があまりに喜んでいるから気後れしていた部分もあったのかもしれない。
兎と目が合う。
鳶色の瞳がぼんやりとこちらを見つめている。
かわいい。
「かわいいよね」
「……ええ、そうね」
その夜、私と八橋は兎を挟む形、川の字で床に就いた。
かなり狭いけど、布団が一組しかない以上やむを得ない。
こうしていないとこの子の身体が冷えてしまいそうだし。
「えへへ、あったかい」
「あんまりぎゅっとしたらだめよ、息が出来なくなってしまうから」
「分かってるって」
兎には声帯がない。
だから他の動物のように声で意思を表示することは出来ない。
でも、今は微かな呼吸音がとくとくと聞こえてくる。
この子が生きているんだというのがはっきりと伝わってくる。
それから三分ほど経過したところで八橋の返事がなくなったと思ったら、案の定既に眠りについていた。
相変わらず寝つきがいい。
口元が微かに開き、一定のリズムで寝息を立てている。
すると白兎、うーがそれに倣うように耳をぴくぴくと動かし始めた。
ああ、この子にもちゃんと八橋の吐息が聞こえてるんだ。
明日の巡回ルートを思い描きながら目を閉じる。
やがて意識が少しずつ闇の中へと落ちていった。
「……おやすみ」
それから二日間、私と八橋はそれぞれ交代で人里に出掛けた。
もう一人は家で兎の面倒を見ながら留守番。
そして二日目の夕方、うーはすっかり元気になり家の中を一人で歩き回れるようになった。
夕飯の用意をしながらその様子を眺める。
「ふふ、よかったわね」
八橋も喜ぶだろうな、と物思いにふけっていたその時。
うーが急に玄関に向けて駆けて行った。
戸が開く音とともに八橋の声が聞こえる。
「ただいまー……って、え!?」
炊事の手を止めて玄関まで出て行くと、八橋が荷物も放ってうーを抱きしめていた。
「よかったねえ、よかったねえ……」
しばしの間、口を挟まずにその様子を見ていた。
やがてようやく私に気付いたのか、八橋は頬を染めながら咳払いをした。
「おかえり」
「ただいま、姉さん。うーちゃん、いつから元気になったの?」
「お昼ご飯の後はずっと眠っていたんだけど、私が夕飯の用意を始めたらいつの間にか足元に来ていたのよ」
頬ずりをして甘えてきたことは言わなかった。
言えばきっと頬を膨らませるだろうから。
それから三人で夕食を摂り、うーを初日と同じように水で洗ってやった。
相変わらず大人しく、暴れたり逃げ出したりはしなかった。
一昨日人里で知り合った筆の付喪神から聞いた話を思い出す。
本来兎は臆病で、同時に用心深い性格の生き物だと。
なんにせよ、嬉しい誤算だ。
手拭いで身体を拭いてやると、八橋がスカートのポケットから得意げに何かを取り出した。
手際よくそれをうーの首に付ける。
見るとそれは薄いピンク色のリボンだった。
八橋が満足げにうーを撫でながら言った。
「似合う似合う、かわいい」
「どうしたの、それ」
「小物屋さんで買ってきたの。あたしの演奏を褒めてくれたおばあちゃんがやってるんだよ」
八橋もソロでの活動は今日が初めてだったはず。
妹が確実に里での知名度を上げていることが分かり、それもまた私を嬉しい気持ちにさせた。
これは私も負けていられない。
でもいずれこの子、うーの里親を見つけなければならない。
正直、これ以上情が移ると私の方から「八橋がどうしてもと言うのなら」なんて口にしかねない。
でも、それは駄目だ。
生き物を飼うということは一生その子に責任を持たなければならない。
生活の基盤が全く安定していない今の私達には無理がある。
家もこんなにボロボロだし。
いずれ別れの時が来ることは、当然八橋だって分かっているはず。
せめて、可愛がってくれる人がもらってくれるといいな。
まだいつお別れになるかも分からないのにどこか寂しい気持ちになりながら、今日も二人が眠りについてから私は目を閉じた。
「わあ、かわいい!」
今日の演奏会場は人里の集会場の向かいにある材木置き場。
聞こえるのは今日何度目の歓声だろうか。
いつもの私達姉妹の演奏にうーがちょこんと追加されただけで、足を止めてくれる人が明らかに増えた。
それに、うーを連れている私と八橋の名前を一緒に覚えてくれる人も普段以上に多かった。
演奏を終えると、八橋がうーを抱っこしたまま寺子屋の子供たちとなにやら楽しそうに雑談を始めた。
私はうーに飲ませてあげようと持ってきた水筒を取り出す。
するとすぐ隣で雑貨屋を営む割烹着姿のおばちゃんが微笑みを浮かべて言った。
「ふふ、あの兎ちゃんよく懐いてるねえ」
「いえ、そんな」
「里親なんか探さなくても、弁々ちゃんたちが飼ってあげたら喜ぶんじゃないのかい」
苦笑しながらその場を誤魔化す。
元々は演奏のついでにうーの里親を探すつもりで人里に連れてきたはずだった。
でも実際はそのうーのおかげでいつも以上に投銭や差し入れをもらってしまった。
ありがたくはあるけど、演奏家としてこれを素直に喜んでいいのかはちょっと複雑だった。
その日の深夜、不意に目が覚めた。
寝ぼけ眼をゆっくりと開き、乱れた髪を手探りで適当に直しながら辺りを見回す。
すると、自分と八橋の間で寝ていたはずのうーが姿を消していた。
こんなことは初めてなだけに平静さを失いそうになる。
しかし幸いなことに、うーはすぐに見つかった。
最近やっと居間にだけ取り付けたカーテンの隙間から外の景色をじっと見つめている。
この家は人通りの極端に少ない道沿いに建っている。
だから外を見ても面白いものなんてないはずだけど。
「もっとお外で遊びたい?」
小さい声で囁いても、うーはしっかりと聞き取ってこちらを振り返った。
そして、耳を小刻みにぴくつかせながら鼻を鳴らし始める。
私にはなぜか、それがすんすんとすすり泣くような音に聞こえる。
でも、顔色は悪くないし今日の夕飯もしっかり食べていた。
それとも単に、私達に挟まれて寝るのが暑苦しかったのかな。
ああでもないこうでもない、と思考を巡らせても答えは出ない。
うーはこの場を動くつもりはないようだし、無理に寝かしつけるのもかわいそうだ。
私は一枚だけ余っていた小さめの毛布を横に敷いてやった。
「おやすみ。ちゃんとそれにくるまって寝るのよ」
うーに背を向け、寝床に戻る。
八橋は相変わらず気持ちよさそうに、口元を緩めた穏やかな表情で眠っていた。
翌朝、異変に気付いたのは私も八橋もほぼ同時だった。
うーがいないのだ。
「姉さん、いた!?」
「いないわ、家の周りも探して来たんだけど」
この家は元々長い間人が住んでいない無人の家屋だった。
だからあちこちにガタがきている。
玄関は施錠出来るけど、炊事場の勝手口の鍵は壊れている。
とはいえ夜中に何者かがこの家に忍び込んできてうーを攫った、なんてことはさすがにないはずだ。
私達の家を知っている者自体、多分まだ誰もいないのだから。
だから、考えたくないけれど。
「八橋、元気を出して。また帰ってくるかもしれないから」
こんな言葉は気休めにもならないし、八橋だって薄々分かっているはず。
むしろ、私自身が今のこの喪失感溢れる無言の空間に居たくないから。
だからこんな空虚な言葉を絞り出したんだと思う。
八橋の返事がない。
昼間うーが寛いでいた毛布をじっと見つめている。
その痛々しい姿に思わず、「なんて恩知らずな奴」と心の中で毒づきそうになった。
でも、その直後昨晩の出来事が追想される。
昨日のうーは明らかにいつもと様子が違った。
私は懸命に先夜の出来事を八橋に説明したが、それとうーがいなくなったこととのはっきりした因果関係はない。
案の定、八橋はすっかり元気をなくしてしまっていた。
「……うー、私達のこと嫌いになっちゃったのかな」
「そんなことないわ、あんなに懐いてくれてたじゃない」
「でも、じゃあどうしていなくなるの?」
「それは……」
その日の演奏は間違いなく、過去最悪だった。
なにが酷いって、音が終始上滑りしていた。
この幻想郷で最も高い知名度を持つ音楽グループ。
それは勿論言わずもがな、プリズムリバー楽団。
活動を始めて間もない私達なんて、それこそ彼女達の足元にも及ばないだろう。
それでも、すごいお手本が近くにいるのだから見習わない手はない。
彼女達に教わったことを物に出来るよう、私達なりに努力している。
ルナサさんからは、「常にお客さんを意識すること」。
リリカさんからは、「常にパートナーとの調和を気にすること」。
そしてメルランさんからは。
「……ごめんなさい、姉さん」
「謝らないで、私こそ今日は全然駄目だったから。ごめんなさい」
自分達も思いっきり楽しむこと。
奏者自身が楽しめないライブがお客さんを喜ばせられるはずがない。
今日の私達が、一つも出来ていなかったことだ。
それでも朝の出来事を忘れようと、空元気を出した結果。
音を外し、リズムは崩れ、観客が明らかに盛り下がっていることに気付いてしまった。
そして最後の挨拶を終え、帰ろうとした時に一人の子どもから期待の眼差しとともに言われた言葉。
「ねえねえ、明日はうーちゃん連れてきてくれる?」
答えられるはずがない。
「朝になったら逃げてしまっていた」なんて。
どちらが言うともなく、いつもより早い時間に人里を離れた。
自宅までの道中、無言に耐えきれなくなったのか先に口を開いたのは八橋の方だった。
「……姉さん、うーちゃん元気にしてるかな」
なにか相槌を打たなければと思いつつも、適切なそれが思い浮かばない。
しかし、八橋は私の返事を待たずに続ける。
「……私、姉さんが姉妹になろう、一緒に生きようって言ってくれたとき本当に嬉しかったの」
八橋と姉妹の契りを交わしたあの日の風景が追想される。
もうなんだか随分前のことに思える。
空に逆さのお城が突如現れた輝針城異変。
私と八橋はその黒幕が振るった打ち出の小槌の魔力によって同じ日に生を受けた。
生まれたばかりでどこに行けばいいのかも分からず、一人彷徨っていたところを彼女と出会った。
和楽器から生まれた付喪神同士で、勿論音楽が大好き。
話が合わないはずがなく、私達はすぐに意気投合した。
気付けば誘い文句の一つも考えないままに、私の方から切り出した。
「私達、姉妹にならない?」と。
「それを言うなら、私も八橋に救われたのよ。」
飛行するスピードを緩め、言葉を返す。
すると八橋はその場でブレーキをかけ、私の手をぎゅっと握った。
「私がまだ上手く飛べなかった時、ずっと手を握っていてくれたよね。
その時思ったの、姉さんがお姉ちゃんでよかった、って」
「でもすぐに飛べるようになったじゃない」
確かに最初、八橋は空を飛ぶのが苦手だった。
落下の恐怖がしばしば彼女の身体をこわばらせ、コントロールを失ってしまうこともあった。
だから私は彼女が落ちないよう、慣れるまでの間その手を握って一緒に飛んだ。
尤もそれは本当に最初のうちだけで、八橋はすぐに一人で飛行出来るようになった。
「姉さんに手を握ってもらってた時思ったの。一人じゃないって、こんなに心強いんだって。」
それから私も、誰かが困っていたら助けてあげようと思ったの。だから……」
弱っている兎を放っておけなかった、助けてあげたかった、か。
私は八橋の腰に手を添え、そっと抱き寄せた。
「……もし、また同じように道に動物が倒れていたらどうする?」
数秒、無言の時間が流れた後に八橋は応えた。
「決まってる、またお世話するの」
「……じゃあもしも、私が渋い顔をしたら?」
言い終えた途端、彼女の両手が私の背中をホールドする。
鮮やかな茶色の髪が胸元で乱れる。
顔を埋めたまま、しかしはっきりした声が聞こえた。
「……姉さんに、たくさんお願いする」
私は無言のまま腰に添えた手を離し、そっと頭を撫でた。
意地悪な質問して、ごめんね。
「……八橋のそういうところ、とっても素敵よ」
背中をさすると嗚咽と鼻をすする音がする。
直後、吹き込んできた突風によってそれはすぐにかき消された。
丁度陽が傾き始めたところで、私達は家に帰り着いた。
玄関の少し手前で地に足を着き、歩を進める。
あとほんの数歩というところで、私は横を歩く八橋を手で制した。
出掛ける時確かに閉めたはずの引き戸が微かに開いている。
まさか、空き巣か。
八橋も意味を理解したのか緊張した様子を見せる。
「……どうする、姉さん」
「……私が先に入るわ。合図したら勝手口に回って」
すぐに弾幕を放てるよう身構え、一歩近づこうとしたその時。
戸の隙間から白いなにかが覗いていることに気付く。
もしやと思い構えを解き、小声で呼びかけてみる。
「……うー?」
直後、白いなにかは耳をひくつかせながら玄関の敷居をぴょんと乗り越えて姿を現した。
胸元にはあの日八橋がプレゼントしたリボン、見間違うはずもない。
私がなにか言う前に八橋がうーの元に駆け寄る。
「うーちゃん! 心配したんだよ!!」
八橋がうーを抱き上げ、背中を撫でてやると胸元のリボンからなにかが落ちる。
拾ってみるとそれは白い封筒だった。
宛名は書いていないが、構わずに封を開けて中身を取り出す。
出て来たのは三つ折りの手紙だった。
達筆な字で縦書きの文章が綴られている。
内容は短く、すぐに読み終えた。
……そうか、やっぱりあの夜はそういうことだったのか。
でも、今はそれよりも。
読み終えた手紙を一度畳んだところ、八橋がうーを抱っこしたまま興味深そうにこちらを見て言った。
「なんて書いてあったの?」」
説明してもよかったけど、それはせずに手紙を八橋に渡した。
引き換えにうーを受け取り、慎重に身体を支える。
鳶色の眸を覗き込むと、なんとなく元気がなくしゅんとしている。
一方、八橋は興奮した声でまくし立てるように言った。
「姉さん、これ!」
「……貴女の優しさ、ちゃんとこの子に伝わっていたわね」
「あたしだけじゃないよ、姉さんもだよ!」
手紙には、こう書かれていた。
「二人のおねえちゃん。
わたしを助けてくれて、それにたくさんかわいがってくれて、本当にありがとう。
はじめて連れて行ってもらった人間の里も、とてもたのしかったです。
お礼がしたいけど、わたしは人間の言葉を話すことができません。
それにおうちのお姫様にもずっと心配をかけるわけにはいきません。
必ずお礼をしに戻って来ます。
心配をかけて、ごめんなさい。
二人とも、だいすきです。」
そこで一度文章が切れ、数行の余白の後こう続いた。
「はじめまして。
ここからは私の言葉で失礼します。
まず、うちの子を助けてくれて本当にありがとう。
この子は兎の中でも特に賢くて、人間の言葉の大部分を理解できます。
だから二人がしてくれたことは、私の家の兎の言葉が分かる妖怪を介して全て教えてもらいました。
助けてもらったお礼も、一度帰らなければならない理由も言えないまま、
家から黙って抜け出すことを本当に申し訳なく思っていたようです。
是非一度、ささやかではありますがお礼をさせて下さい。
私の家は少し複雑な場所に建っていますがその子の後を着いてくれば辿り着けます。
それから、小さいですが薬屋を営んでいますのでなにかあれば今後是非頼って下さい。
貴女方二人の来訪を心よりお待ちしております。
代筆:永遠亭当主 蓬莱山輝夜」
最後に朱色の捺印がなされていた。
本人が書いた手紙と証明するためのものだろう。
考えを巡らせていると、八橋が続けて言った。
その声は微かに震えている。
「……うーちゃん、ちゃんと他の人に飼われてたんだね」
「……これで本当にお別れになるけど、寂しくない?」
「……ううん、この手紙の人すごく優しそうだもん。
ちゃんといい人に飼われてて、よかった」
口ではそう言いつつも、声のトーンも少し低い。
……やっぱり、寂しいんだろうな。
すると今度は気を取り直すように、いつもの明るい声で続けた。
「それより姉さん、永遠亭って知ってる?」
「全然知らないわ、うーに着いて行けばいいって書いてはいるけど」
「妖怪と一緒に暮らしてるってことは、この輝夜って人も妖怪なのかな」
「どうかしら、人間と共存出来る妖怪もいるしそれは行ってみないと分からないわね」
「どんなところかな、楽しみ」
八橋はそう言いながら、うーを抱っこして頬ずりをする。
そうだ、永遠亭がどんな所かは確かに気になる。
でも、今はそれよりも。
「たかいたかーい」
妹の、八橋の優しさが報われたことが嬉しかった。
あとのことは、二の次でいい。
「ほら、姉さんも」
「はいはい」
八橋からうーを受け取り、向かって左胸に抱きかかえる。
長い耳をぴくつかせながらも、抵抗はされない。
……そういえば、まだ言っていなかった。
「……おかえり、うー」
八橋も私の言葉を聞いて思い出したように続ける。
あの日、初めてうーが家にやって来た日と同じような満面の笑みを浮かべて。
「おかえり!」
うーの鼻先が、ちょっぴり紅くなったような気がした。
翌日、うーに導かれるままに迷いの竹林を訪れた。
私達の家の数十倍はある、永遠亭のあまりの広さ。
数えきれないほどの兎達による、歓迎のパレード。
絵本に出てくる綺麗なお姫様そのままとしか言いようのない、輝夜さんの姿。
持ち切れない量のお土産。
私達は永遠亭の全てに文字通り面食らうことになったのだが、それはまた別のお話。
太陽が一日の役目を終え、地平線の下に沈もうとしている。
洗濯物を畳んでいると玄関の方に何者かの気配を感じた。
私達は幻想郷で暮らし始めてから、まだ日が浅い。
だからこの家を知る者もまずいない。
しかし八橋ならいつも通りただいまと元気な声で帰ってくるはず。
家事の手を止めて居間を出る。
一応足音に用心しながら三和土で靴を履き、引戸の隙間から外の様子を窺う。
そこにいたのは妹の八橋だった。
警戒する必要がなくなったことに安堵し、戸を完全に開けるとすぐに視線が合った。
「おかえり」
「あ、姉さん、ただいま……」
視線が泳ぎ、明るい茶色の瞳はきょろきょろと落ち着きがない。
言葉の歯切れも悪いし、いつもはきはき喋る八橋にしては珍しい。
すぐに入ってこなかったことも含め、なにかあったのだろうか。
そんなことを考えていると、彼女がなにかを抱えているのに気付く。
それは兎だった。
白い身体は土に汚れており、目は開いているものの元気がなくぐったりしている。
視線に気付き、八橋が気まずそうな顔をする。
今のこの状況だけで考えていることはほぼ見当がつく。
でも、まずは本人の口からちゃんと言ってもらうべきだろう。
「その兎はどうしたの?」
「帰ってくる途中で倒れてるのを見つけて、かわいそうで、その……」
八橋は私が怒っていると思ったのか明らかにおどおどしていた。
「……うん、それでその子をどうしたいの?」
「あのままにしてたら、きっと他の動物や妖怪に襲われちゃう。
だからお願い、ちょっとの間この子の面倒を見てあげたいの」
「……いいわ。でも、飼い主が見つかるまでだからね」
「やったあ! ありがとう姉さん!」
八橋が晴れやかな笑顔で兎をぎゅっと抱きしめる。
やれやれ、まあ私が同じ立場でもどうしていたかは分からないし。
「よかったね、うーちゃん」
飼い主を見つけるまでだと言ったばかりなのにもう名前まで付けて。
でも、また一つ彼女の素敵な一面を知ることが出来た。
それがなんだか嬉しい。
私達がこの幻想郷に生を受けたのが大体一カ月前。
空に逆さのお城が現れた異変が収束し、この古びた家屋で共同生活を始めてからは今日で丁度二週間。
だから、私達はまだお互いのことをよく知らない。
それに、つい先日までは正真正銘の一文無しだった。
雨風をしのぐ場所すらなく、常に危険と隣り合わせの生活。
今はようやく見つかったこの家に無縁塚で拾い集めた古道具を持ち込んで生活している。
人里での路上ライブで少しずつだけど投銭も得られるようになった。
おかげで辛うじて食べていける状態ではある。
それでも余裕がある生活とは言い難く、今後あの兎をずっと付きっきりで見ていてあげるのには無理がある。
八橋もそれは分かっていたからこそ、私に言うのを躊躇ったのだと思う。
さておき、当面はあの兎が元気になるまで交代で面倒を見るしかない。
「とりあえずなにか食べられるもの……野菜の残りしかないけど仕方ないわね」
残っていた人参とキャベツを水でよく洗う。
それを小さく切ってやると、兎はゆっくりとではあるがもそもそと食べ始めた。
八橋が一安心した様子でしゃがみ、頭を撫でる。
「よかった、食べてる食べてる」
「見た感じ怪我はなさそうだけど、まずは休ませるしかなさそうね。明日は私が人里に行くわ」
「ごめん、姉さん」
「いいのよ、心配でしょう」
普段は必ず二人一緒に人里を訪れる。
だから明日の一人での訪問は初めてということになる。
少し心細い気持ちはあるけど、しっかり稼いでこなくちゃ。
その後は川から汲んできた水で兎を洗ってやった。
土汚れがすっかり落ち、綺麗な乳白色の毛並みが露わになる。
手拭いで水を拭き取りながら、思わず口に出ていた。
「……綺麗ね、この子」
「なんだかお金持ちの家の子みたいだね」
「でも、道端に倒れてたのよね」
「うん、全然人通りのないところ」
見たところ装飾品の類も身に付けていない。
やはりたまたま身綺麗だというだけで、人に飼われていない野良兎なのだろうか。
それならそれで里親探しをすることになる。
一人で動き回れる程度まで回復したら、一度人里に連れて行こう。
そうして飼ってくれる家を探すのが一番近道に違いない。
一応最近縁の出来た付喪神の仲間は何人かいる。
でもその大半は私達と同じように、自分が生きるだけで精一杯の生活をしている。
中には一部、人間の住居にこっそり住み着いているおかげで比較的安全に過ごしている者もいる。
しかしどちらにせよ兎を飼ってくれるのは人間しかいないだろう。
間違っても里の外で気ままに暮らす妖怪達に引き渡してはいけない。
その後どうなるかは考えるまでもないのだから。
「姉さんも抱っこしてあげて」
考え事に集中し過ぎていたせいか、八橋の言葉で我に返った。
兎を抱きかかえながら相変わらず頬を緩ませている。
「ん、よいしょ」
落とさないように慎重に受け取り、胸元に抱え込む。
一瞬長い耳をぴくりとさせたが、特に抵抗はされなかった。
とろんと半分閉じた目で、されるがままになっている。
思っていた以上に体温が高く、温かい。
八橋があまりに喜んでいるから気後れしていた部分もあったのかもしれない。
兎と目が合う。
鳶色の瞳がぼんやりとこちらを見つめている。
かわいい。
「かわいいよね」
「……ええ、そうね」
その夜、私と八橋は兎を挟む形、川の字で床に就いた。
かなり狭いけど、布団が一組しかない以上やむを得ない。
こうしていないとこの子の身体が冷えてしまいそうだし。
「えへへ、あったかい」
「あんまりぎゅっとしたらだめよ、息が出来なくなってしまうから」
「分かってるって」
兎には声帯がない。
だから他の動物のように声で意思を表示することは出来ない。
でも、今は微かな呼吸音がとくとくと聞こえてくる。
この子が生きているんだというのがはっきりと伝わってくる。
それから三分ほど経過したところで八橋の返事がなくなったと思ったら、案の定既に眠りについていた。
相変わらず寝つきがいい。
口元が微かに開き、一定のリズムで寝息を立てている。
すると白兎、うーがそれに倣うように耳をぴくぴくと動かし始めた。
ああ、この子にもちゃんと八橋の吐息が聞こえてるんだ。
明日の巡回ルートを思い描きながら目を閉じる。
やがて意識が少しずつ闇の中へと落ちていった。
「……おやすみ」
それから二日間、私と八橋はそれぞれ交代で人里に出掛けた。
もう一人は家で兎の面倒を見ながら留守番。
そして二日目の夕方、うーはすっかり元気になり家の中を一人で歩き回れるようになった。
夕飯の用意をしながらその様子を眺める。
「ふふ、よかったわね」
八橋も喜ぶだろうな、と物思いにふけっていたその時。
うーが急に玄関に向けて駆けて行った。
戸が開く音とともに八橋の声が聞こえる。
「ただいまー……って、え!?」
炊事の手を止めて玄関まで出て行くと、八橋が荷物も放ってうーを抱きしめていた。
「よかったねえ、よかったねえ……」
しばしの間、口を挟まずにその様子を見ていた。
やがてようやく私に気付いたのか、八橋は頬を染めながら咳払いをした。
「おかえり」
「ただいま、姉さん。うーちゃん、いつから元気になったの?」
「お昼ご飯の後はずっと眠っていたんだけど、私が夕飯の用意を始めたらいつの間にか足元に来ていたのよ」
頬ずりをして甘えてきたことは言わなかった。
言えばきっと頬を膨らませるだろうから。
それから三人で夕食を摂り、うーを初日と同じように水で洗ってやった。
相変わらず大人しく、暴れたり逃げ出したりはしなかった。
一昨日人里で知り合った筆の付喪神から聞いた話を思い出す。
本来兎は臆病で、同時に用心深い性格の生き物だと。
なんにせよ、嬉しい誤算だ。
手拭いで身体を拭いてやると、八橋がスカートのポケットから得意げに何かを取り出した。
手際よくそれをうーの首に付ける。
見るとそれは薄いピンク色のリボンだった。
八橋が満足げにうーを撫でながら言った。
「似合う似合う、かわいい」
「どうしたの、それ」
「小物屋さんで買ってきたの。あたしの演奏を褒めてくれたおばあちゃんがやってるんだよ」
八橋もソロでの活動は今日が初めてだったはず。
妹が確実に里での知名度を上げていることが分かり、それもまた私を嬉しい気持ちにさせた。
これは私も負けていられない。
でもいずれこの子、うーの里親を見つけなければならない。
正直、これ以上情が移ると私の方から「八橋がどうしてもと言うのなら」なんて口にしかねない。
でも、それは駄目だ。
生き物を飼うということは一生その子に責任を持たなければならない。
生活の基盤が全く安定していない今の私達には無理がある。
家もこんなにボロボロだし。
いずれ別れの時が来ることは、当然八橋だって分かっているはず。
せめて、可愛がってくれる人がもらってくれるといいな。
まだいつお別れになるかも分からないのにどこか寂しい気持ちになりながら、今日も二人が眠りについてから私は目を閉じた。
「わあ、かわいい!」
今日の演奏会場は人里の集会場の向かいにある材木置き場。
聞こえるのは今日何度目の歓声だろうか。
いつもの私達姉妹の演奏にうーがちょこんと追加されただけで、足を止めてくれる人が明らかに増えた。
それに、うーを連れている私と八橋の名前を一緒に覚えてくれる人も普段以上に多かった。
演奏を終えると、八橋がうーを抱っこしたまま寺子屋の子供たちとなにやら楽しそうに雑談を始めた。
私はうーに飲ませてあげようと持ってきた水筒を取り出す。
するとすぐ隣で雑貨屋を営む割烹着姿のおばちゃんが微笑みを浮かべて言った。
「ふふ、あの兎ちゃんよく懐いてるねえ」
「いえ、そんな」
「里親なんか探さなくても、弁々ちゃんたちが飼ってあげたら喜ぶんじゃないのかい」
苦笑しながらその場を誤魔化す。
元々は演奏のついでにうーの里親を探すつもりで人里に連れてきたはずだった。
でも実際はそのうーのおかげでいつも以上に投銭や差し入れをもらってしまった。
ありがたくはあるけど、演奏家としてこれを素直に喜んでいいのかはちょっと複雑だった。
その日の深夜、不意に目が覚めた。
寝ぼけ眼をゆっくりと開き、乱れた髪を手探りで適当に直しながら辺りを見回す。
すると、自分と八橋の間で寝ていたはずのうーが姿を消していた。
こんなことは初めてなだけに平静さを失いそうになる。
しかし幸いなことに、うーはすぐに見つかった。
最近やっと居間にだけ取り付けたカーテンの隙間から外の景色をじっと見つめている。
この家は人通りの極端に少ない道沿いに建っている。
だから外を見ても面白いものなんてないはずだけど。
「もっとお外で遊びたい?」
小さい声で囁いても、うーはしっかりと聞き取ってこちらを振り返った。
そして、耳を小刻みにぴくつかせながら鼻を鳴らし始める。
私にはなぜか、それがすんすんとすすり泣くような音に聞こえる。
でも、顔色は悪くないし今日の夕飯もしっかり食べていた。
それとも単に、私達に挟まれて寝るのが暑苦しかったのかな。
ああでもないこうでもない、と思考を巡らせても答えは出ない。
うーはこの場を動くつもりはないようだし、無理に寝かしつけるのもかわいそうだ。
私は一枚だけ余っていた小さめの毛布を横に敷いてやった。
「おやすみ。ちゃんとそれにくるまって寝るのよ」
うーに背を向け、寝床に戻る。
八橋は相変わらず気持ちよさそうに、口元を緩めた穏やかな表情で眠っていた。
翌朝、異変に気付いたのは私も八橋もほぼ同時だった。
うーがいないのだ。
「姉さん、いた!?」
「いないわ、家の周りも探して来たんだけど」
この家は元々長い間人が住んでいない無人の家屋だった。
だからあちこちにガタがきている。
玄関は施錠出来るけど、炊事場の勝手口の鍵は壊れている。
とはいえ夜中に何者かがこの家に忍び込んできてうーを攫った、なんてことはさすがにないはずだ。
私達の家を知っている者自体、多分まだ誰もいないのだから。
だから、考えたくないけれど。
「八橋、元気を出して。また帰ってくるかもしれないから」
こんな言葉は気休めにもならないし、八橋だって薄々分かっているはず。
むしろ、私自身が今のこの喪失感溢れる無言の空間に居たくないから。
だからこんな空虚な言葉を絞り出したんだと思う。
八橋の返事がない。
昼間うーが寛いでいた毛布をじっと見つめている。
その痛々しい姿に思わず、「なんて恩知らずな奴」と心の中で毒づきそうになった。
でも、その直後昨晩の出来事が追想される。
昨日のうーは明らかにいつもと様子が違った。
私は懸命に先夜の出来事を八橋に説明したが、それとうーがいなくなったこととのはっきりした因果関係はない。
案の定、八橋はすっかり元気をなくしてしまっていた。
「……うー、私達のこと嫌いになっちゃったのかな」
「そんなことないわ、あんなに懐いてくれてたじゃない」
「でも、じゃあどうしていなくなるの?」
「それは……」
その日の演奏は間違いなく、過去最悪だった。
なにが酷いって、音が終始上滑りしていた。
この幻想郷で最も高い知名度を持つ音楽グループ。
それは勿論言わずもがな、プリズムリバー楽団。
活動を始めて間もない私達なんて、それこそ彼女達の足元にも及ばないだろう。
それでも、すごいお手本が近くにいるのだから見習わない手はない。
彼女達に教わったことを物に出来るよう、私達なりに努力している。
ルナサさんからは、「常にお客さんを意識すること」。
リリカさんからは、「常にパートナーとの調和を気にすること」。
そしてメルランさんからは。
「……ごめんなさい、姉さん」
「謝らないで、私こそ今日は全然駄目だったから。ごめんなさい」
自分達も思いっきり楽しむこと。
奏者自身が楽しめないライブがお客さんを喜ばせられるはずがない。
今日の私達が、一つも出来ていなかったことだ。
それでも朝の出来事を忘れようと、空元気を出した結果。
音を外し、リズムは崩れ、観客が明らかに盛り下がっていることに気付いてしまった。
そして最後の挨拶を終え、帰ろうとした時に一人の子どもから期待の眼差しとともに言われた言葉。
「ねえねえ、明日はうーちゃん連れてきてくれる?」
答えられるはずがない。
「朝になったら逃げてしまっていた」なんて。
どちらが言うともなく、いつもより早い時間に人里を離れた。
自宅までの道中、無言に耐えきれなくなったのか先に口を開いたのは八橋の方だった。
「……姉さん、うーちゃん元気にしてるかな」
なにか相槌を打たなければと思いつつも、適切なそれが思い浮かばない。
しかし、八橋は私の返事を待たずに続ける。
「……私、姉さんが姉妹になろう、一緒に生きようって言ってくれたとき本当に嬉しかったの」
八橋と姉妹の契りを交わしたあの日の風景が追想される。
もうなんだか随分前のことに思える。
空に逆さのお城が突如現れた輝針城異変。
私と八橋はその黒幕が振るった打ち出の小槌の魔力によって同じ日に生を受けた。
生まれたばかりでどこに行けばいいのかも分からず、一人彷徨っていたところを彼女と出会った。
和楽器から生まれた付喪神同士で、勿論音楽が大好き。
話が合わないはずがなく、私達はすぐに意気投合した。
気付けば誘い文句の一つも考えないままに、私の方から切り出した。
「私達、姉妹にならない?」と。
「それを言うなら、私も八橋に救われたのよ。」
飛行するスピードを緩め、言葉を返す。
すると八橋はその場でブレーキをかけ、私の手をぎゅっと握った。
「私がまだ上手く飛べなかった時、ずっと手を握っていてくれたよね。
その時思ったの、姉さんがお姉ちゃんでよかった、って」
「でもすぐに飛べるようになったじゃない」
確かに最初、八橋は空を飛ぶのが苦手だった。
落下の恐怖がしばしば彼女の身体をこわばらせ、コントロールを失ってしまうこともあった。
だから私は彼女が落ちないよう、慣れるまでの間その手を握って一緒に飛んだ。
尤もそれは本当に最初のうちだけで、八橋はすぐに一人で飛行出来るようになった。
「姉さんに手を握ってもらってた時思ったの。一人じゃないって、こんなに心強いんだって。」
それから私も、誰かが困っていたら助けてあげようと思ったの。だから……」
弱っている兎を放っておけなかった、助けてあげたかった、か。
私は八橋の腰に手を添え、そっと抱き寄せた。
「……もし、また同じように道に動物が倒れていたらどうする?」
数秒、無言の時間が流れた後に八橋は応えた。
「決まってる、またお世話するの」
「……じゃあもしも、私が渋い顔をしたら?」
言い終えた途端、彼女の両手が私の背中をホールドする。
鮮やかな茶色の髪が胸元で乱れる。
顔を埋めたまま、しかしはっきりした声が聞こえた。
「……姉さんに、たくさんお願いする」
私は無言のまま腰に添えた手を離し、そっと頭を撫でた。
意地悪な質問して、ごめんね。
「……八橋のそういうところ、とっても素敵よ」
背中をさすると嗚咽と鼻をすする音がする。
直後、吹き込んできた突風によってそれはすぐにかき消された。
丁度陽が傾き始めたところで、私達は家に帰り着いた。
玄関の少し手前で地に足を着き、歩を進める。
あとほんの数歩というところで、私は横を歩く八橋を手で制した。
出掛ける時確かに閉めたはずの引き戸が微かに開いている。
まさか、空き巣か。
八橋も意味を理解したのか緊張した様子を見せる。
「……どうする、姉さん」
「……私が先に入るわ。合図したら勝手口に回って」
すぐに弾幕を放てるよう身構え、一歩近づこうとしたその時。
戸の隙間から白いなにかが覗いていることに気付く。
もしやと思い構えを解き、小声で呼びかけてみる。
「……うー?」
直後、白いなにかは耳をひくつかせながら玄関の敷居をぴょんと乗り越えて姿を現した。
胸元にはあの日八橋がプレゼントしたリボン、見間違うはずもない。
私がなにか言う前に八橋がうーの元に駆け寄る。
「うーちゃん! 心配したんだよ!!」
八橋がうーを抱き上げ、背中を撫でてやると胸元のリボンからなにかが落ちる。
拾ってみるとそれは白い封筒だった。
宛名は書いていないが、構わずに封を開けて中身を取り出す。
出て来たのは三つ折りの手紙だった。
達筆な字で縦書きの文章が綴られている。
内容は短く、すぐに読み終えた。
……そうか、やっぱりあの夜はそういうことだったのか。
でも、今はそれよりも。
読み終えた手紙を一度畳んだところ、八橋がうーを抱っこしたまま興味深そうにこちらを見て言った。
「なんて書いてあったの?」」
説明してもよかったけど、それはせずに手紙を八橋に渡した。
引き換えにうーを受け取り、慎重に身体を支える。
鳶色の眸を覗き込むと、なんとなく元気がなくしゅんとしている。
一方、八橋は興奮した声でまくし立てるように言った。
「姉さん、これ!」
「……貴女の優しさ、ちゃんとこの子に伝わっていたわね」
「あたしだけじゃないよ、姉さんもだよ!」
手紙には、こう書かれていた。
「二人のおねえちゃん。
わたしを助けてくれて、それにたくさんかわいがってくれて、本当にありがとう。
はじめて連れて行ってもらった人間の里も、とてもたのしかったです。
お礼がしたいけど、わたしは人間の言葉を話すことができません。
それにおうちのお姫様にもずっと心配をかけるわけにはいきません。
必ずお礼をしに戻って来ます。
心配をかけて、ごめんなさい。
二人とも、だいすきです。」
そこで一度文章が切れ、数行の余白の後こう続いた。
「はじめまして。
ここからは私の言葉で失礼します。
まず、うちの子を助けてくれて本当にありがとう。
この子は兎の中でも特に賢くて、人間の言葉の大部分を理解できます。
だから二人がしてくれたことは、私の家の兎の言葉が分かる妖怪を介して全て教えてもらいました。
助けてもらったお礼も、一度帰らなければならない理由も言えないまま、
家から黙って抜け出すことを本当に申し訳なく思っていたようです。
是非一度、ささやかではありますがお礼をさせて下さい。
私の家は少し複雑な場所に建っていますがその子の後を着いてくれば辿り着けます。
それから、小さいですが薬屋を営んでいますのでなにかあれば今後是非頼って下さい。
貴女方二人の来訪を心よりお待ちしております。
代筆:永遠亭当主 蓬莱山輝夜」
最後に朱色の捺印がなされていた。
本人が書いた手紙と証明するためのものだろう。
考えを巡らせていると、八橋が続けて言った。
その声は微かに震えている。
「……うーちゃん、ちゃんと他の人に飼われてたんだね」
「……これで本当にお別れになるけど、寂しくない?」
「……ううん、この手紙の人すごく優しそうだもん。
ちゃんといい人に飼われてて、よかった」
口ではそう言いつつも、声のトーンも少し低い。
……やっぱり、寂しいんだろうな。
すると今度は気を取り直すように、いつもの明るい声で続けた。
「それより姉さん、永遠亭って知ってる?」
「全然知らないわ、うーに着いて行けばいいって書いてはいるけど」
「妖怪と一緒に暮らしてるってことは、この輝夜って人も妖怪なのかな」
「どうかしら、人間と共存出来る妖怪もいるしそれは行ってみないと分からないわね」
「どんなところかな、楽しみ」
八橋はそう言いながら、うーを抱っこして頬ずりをする。
そうだ、永遠亭がどんな所かは確かに気になる。
でも、今はそれよりも。
「たかいたかーい」
妹の、八橋の優しさが報われたことが嬉しかった。
あとのことは、二の次でいい。
「ほら、姉さんも」
「はいはい」
八橋からうーを受け取り、向かって左胸に抱きかかえる。
長い耳をぴくつかせながらも、抵抗はされない。
……そういえば、まだ言っていなかった。
「……おかえり、うー」
八橋も私の言葉を聞いて思い出したように続ける。
あの日、初めてうーが家にやって来た日と同じような満面の笑みを浮かべて。
「おかえり!」
うーの鼻先が、ちょっぴり紅くなったような気がした。
翌日、うーに導かれるままに迷いの竹林を訪れた。
私達の家の数十倍はある、永遠亭のあまりの広さ。
数えきれないほどの兎達による、歓迎のパレード。
絵本に出てくる綺麗なお姫様そのままとしか言いようのない、輝夜さんの姿。
持ち切れない量のお土産。
私達は永遠亭の全てに文字通り面食らうことになったのだが、それはまた別のお話。
八橋たちの想いがちゃんと伝わっていてよかったです
ペットが脱走して焦る二人が面白かったです