私達が地底の洋館――今は地霊殿と呼ばれている――を改装してそこに住み始めた頃、地霊殿には按摩が出入りしていた。
按摩は鬼の種族だった。按摩職でよくあるように、彼は「めくら」だった。正確には全盲ではなく、極端に視力が低い弱視で、比喩抜きで目と鼻の先にまで近づければ物も見えたそうだ。しかしいくらほんの少しの視力があるとはいえ、体の万全こそが市民権を得る条件の根底である鬼社会において、彼は必然的に蔑まれる存在に甘んじることになった。元々二本、左右の耳それぞれから握り拳一つ分上の場所に生えていた角は根本からへし折られていた。彼は按摩でよくあるように盲目で、盲目でよくあるように按摩だったが、順番としての正解は、盲目で食い扶持を稼ぐには按摩になるか乞食になるかしかなかったという方だった。
彼はそのあからさまな迫害に対して一切悲しむことがなかった。その半生において常に差別され続けていたが故に、ヒエラルキーの最底辺に属していることは彼にとっては悲しむべきことではなくただの日常の一要素だった。
鬼は彼を差別したが地霊殿の動物は彼を差別しなかった。元々お姉ちゃんがペットに施術してもらうために彼を呼んだのだ。ペットの中には地上出身の動物も多く、地上から地底という環境の変化で多かれ少なかれ体調を崩すものも多かった。では地底出身なら按摩のお世話にならずに済んだのかというと必ずしもそうではなかった。困ったことに私達が地霊殿に移り住んで程なくして、「動物飼育施設」としても地霊殿は評判になり、飼えず引き取り手もいない動物を地霊殿に捨てに行く風習が生まれてしまった。捨てられる動物の約半分が姥捨てされた老いた動物だったからそれらのためにも按摩は必要だった。
按摩を受けている動物達は彼に純粋に感謝していた。相応の腕はあったのだ。
地霊殿の動物は彼を差別しなかったが、地霊殿の主は彼を差別した。呼んでおいて酷い話だが、当時のお姉ちゃんは自分のことを地底一大きい館の主、地底の元締めの大貴族と思っていたから他人は全員下賤の階級という位置づけだったのである。一応お姉ちゃんを擁護するならば、旧地獄が担っていた地底の管理責任を引き継いだからという、名目のちゃんとある権威ではあった。地位がそれに見合った義務を求めるのとは逆に、ノブリス・オブリージュが身分を規定していた。
ただし、お姉ちゃんの身分意識は自分以外の全て平民という暴君の絶対王政ではなく、平民の中にも身分差をつけていて、件の按摩師は平民でも最下位だった。これも擁護するならば、あくまで外様であるお姉ちゃんが地底社会で上の地位を得るには既存の身分制度を利用するのが最善策だったという事情もあったのだろう。だが、お姉ちゃんはそんな私の擁護を台無しにするが如く、ただの個人的好き嫌いで彼を差別している節があった。自分のペットに対して毛づくろい以上の身体接触をする彼に対して動物性愛
の気があるものと信じて疑っていなかった。これが最悪なのは、お姉ちゃんはさとり妖怪なのだから心を読めばその真偽が分かるのにそれをしなかったことだ。当時は私も他人の心が読めたから私も試して、当たり前の話だが、その結果は偽だった。
「お疲れ様です」
お姉ちゃんはあくまで淑女として按摩に接し、玄関から客間まで帯同し(施術は全て客間で行われた。ペットを入れるに十分な広さがあったし、玄関から近い部屋でもあった。按摩は客間より奥に立ち入ることは許されなかった)、扉から入ってすぐの位置に置いた椅子に座って腕組みをして見守った。ペットの視点だと自分を心配して見守る慈悲深き飼い主の鑑に見えたことだろうし、事実そう見られることを意図していたという側面もあった。が、それはあくまで副次的効果であって、主眼は按摩の監視だった。読心したら、そっちが少なくとも八割、下手すると九割あった。
按摩師が仕事を終えるとお姉ちゃんは少しだけ警戒を解き、扉を開けて廊下に按摩師を誘導する。廊下から玄関までは短い一本道で、両脇方向にある閉められる扉は全て閉まっている。寄り道せずとっとと帰れという無言の意思表示だった。
†
私はこの按摩師に対して特別な感情は抱いていなかった。お姉ちゃんのように政治で動かなければならない立場ではなかったし、そうでありたいとも思わなかった。当時の私は幼かったから、時々仕事に来るおじさんとだけ思っていた。
否、特別な感情を何も持っていなかったというのは少し違うな。いくらか按摩師を贔屓している面はあった。とはいえ、普通の対応とは違うという意味での特別ではあったが、判官贔屓というのはとくに子供がするそれという文脈では特別でもなんでもないごくありふれたことだ。
私は按摩師の代わりにドアを開ける専属のドアガールのような立場になった。お姉ちゃんは何も言わなかった。妹の一挙一動に一々干渉するのも大人げないし、穢らわしい手がノブに触れるよりはとも思っていたのだ。最初は丁寧に一礼を貰うくらいだったのが(盲目のはずなのに毎回正確に私がいる方向に礼をくれるのが不思議だった)、ドア番を始めてから一ヶ月くらいするとお菓子を貰うようになった。とはいえ初めてのことではなく按摩が来てから最初の数回はお菓子を持ってきてくれていたのだが、お姉ちゃんが丁重に断ったので三回目くらいからは中断されていたのだった。ちなみにこの丁重に、というのはあくまで外面の話で内心ではもっと負の感情から拒絶していたというのは言うまでもない。それが、受け取り人がお姉ちゃんから私になったことで無事再開したわけだ。お菓子は二人分貰っていたが、お姉ちゃんは不浄を感じてやっぱり拒否したので、私が毎回二人分のお菓子を食べていた。
とはいえこうした交流はあくまで館内のことだったから、当時は按摩師と私がそれなりに仲良くしているというのは知られていなかった。逆に言えば、お姉ちゃんが理由の半分を鬼社会への体面として按摩師とは友好的にしなかったことも知られていなかったわけで。
この時期、一度だけ外で遊んでいたせいで按摩師が来る時間に帰宅せず、館の外の大通りで按摩師に会ったことがある。私の方から挨拶して按摩師が一礼、お菓子を取り出そうとしたのか自分の服の下をまさぐっていたが途中で諦めたように腕を出してもう一度一礼して立ち去るという、私達二人のやり取りとしてはそれだけのなんということもない邂逅だった。
場所が大通りだからそのときも鬼が九で地面が一という割合の混雑を見せていたのだが、不思議と私達の周りは空いていた。「障り」がないようにと、皆避けて歩いていたのだ。
動機としては按摩師には人未満の存在に向ける侮蔑であり私達さとり妖怪に対しては常識の埒外のものに向ける畏怖だから、鬼の属する位置をy軸ゼロとすると正か負かという真逆になる。が、二つの感情をそれぞれ端的に言い表すならばどちらも「厄介者には近寄らないでおこう」なのだった。地霊殿に向かって去っていく按摩師にもそれ以上の感情を向ける鬼はあまりいなかったが、何人かは「厄介者どうしくっついてくれれば俺らが関わらなくていいからむしろ結構なことだ」くらいに思っていたのは確かだった。
私達は嫌われ者だった。地上にいた時分から好かれたことなんてないから、それが普通で悲しくはない。按摩師が差別されない身分を知らないようなものだ。違いがあるとするならば、按摩師は一本の「被差別身分である」というレールの上を走る人生だったが、私達は一度地上から地底へのレールの乗り換えを行っていた。それで何かが変わることを期待していたが、結局嫌われる普通が普通でなくなるなんてことはなく、その普通が残念ではあった。
†
春、地底で花見があった。
地上で埋められた死体の魂は沈殿してやがて地底の天井から薄赤色の結晶片となって降り注ぐ。これは石桜と呼ばれ、石桜を愛でるのが地底の花見である。
ただ、鬼は花より団子で団子より喧嘩みたいな連中だから、昔は一部の特別風流な奴らが細々と眺めているだけだったらしい。
行事としての花見を企画したのはお姉ちゃんだった。鬼は花見がなくても困らないが、怨霊には花見かそれに相当するものが必要だった。統治の原則が飴と鞭として、さとり妖怪であるお姉ちゃんは存在が鞭そのものだったから飴を沢山与えなければならなかったのだ。それに、怨霊の不満の九割が何かと理由をかこつけて地上に出たいと言い出すものだったので、お姉ちゃんは地底で全てが与えられるように腐心しなければならなかった。
かように政治的な理由で行われた花見だったから、主催であるお姉ちゃんの周りはひどく政治だった。温泉街の元締めだの武闘館の館主だの鬼の中でも一等そういうのが群がって世間話で薄っぺらく包んだ利権や権力の綱引きをしていた。大人の会話の場に迷い込んでしまった子供が手持ち無沙汰になるのは世の常だが、これはもっと酷い。あまりにつまらなかったのでお姉ちゃんの近くからは抜け出した。
少し外側には祭りの屋台が並んでいた。鬼には花そのものよりもこちらの方が求心力が高いようで、無名の有象無象な鬼のだいたいはここにいた。つまりこれは鬼向けの飴。
「バトルステージでも置いたほうがいいんじゃない?」
花見の計画段階で、私は一度だけお姉ちゃんに口出しというか提案をした。鬼を釣るという合理性だけならば花よりも団子で招く方がよく、団子よりも喧嘩の方が効率に優れる。が、お姉ちゃんはただ一言
「今回は喧嘩はなし」
とだけ言って、お互いにお互いなので発言の裏の腹の中まで理解してそれで終わった。
お姉ちゃんは文民なのだ。文民が武人を統治するには文が武よりも優れるということを文でもって徹底的に叩き込まなければならない、らしい。だから飴玉は暴力の形であってはならず、平和の形態をとっていなければならなかった。
こうして設けられた「腑抜けた」場に対して鬼は、血を見ないことに多かれ少なかれ不満を覚えつつも、それはそれとして楽しんでいるようだった。血が欠けていることへの不満は中華系の怨霊が出していた鴨血
の屋台が一番の行列を叩き出していたことに表れていて、血のない楽しみをいささか消極的にでも肯定しているのは鬼の血が流れていないことに表れていた。
鬼も、林檎の果肉と皮くらいの比率には理性による本能の覆い隠しが進展しているらしい。啓蒙は順調だ。でも私はその様に虚飾を覚えてなんだか冷めてしまったので、お祭り価格の唐揚げだけ買って屋台区画からも離れた。
†
会場の一番外れの場所に按摩師がいるのを見つけた。正直、いるのが意外だった。花見とは文字通り花を見る娯楽で、圧倒的に視覚を用いる。
「楽しいの?」
失礼な質問の仕方だなと我ながら思うが、これはどうやっても失礼にしかならない問いなのでそのままぶつけることにした。
「楽しいさ。少なくとも家で一人静かに飲むよりは楽しいね」
按摩師は家から持ってきたとおぼしき瓶の中身を家から持ってきたとおぼしき盃に注いでいた。
「そうかな?」
「そうだとも。陽気な集まりじゃないか」
「あんま陽気じゃないよ。少なくとも中身は」
彼は喧騒の方に顔を向けて数度耳を動かした。
「そうかもしれないな。でもまあ、おいら達には関係のない話じゃないか」
社会の上層構造から完全に断絶されたこの人と違い、私の立ち位置は流動的だ。一番縁起でもない例を挙げるとお姉ちゃんの身に万一何かが起きたら次期地霊殿当主は私になる。
だから、中の駆け引きに対して関係ないとまで言い切る按摩師の言には同意はしかねるところもあった。が、その一方で理想的には関係なくありたいものだとも思う。地霊殿当主になったらなった一秒後に退位して出奔してやるんだ。後世の歴史家にはボロクソに書かれるだろうが生きているうちは絶対楽しい。
「火事は川の対岸から眺めるのが一番楽しい、みたいな」
「ちょっと違う。火事があったなんてことを知らないのが一番楽しいんだ」
按摩は立ち上がって近くの地面を探った。そこにはちょうど今落ちてきた石桜が一片だけあってそれを拾ったのだった。目のすぐ前のものは見えるから、落ちたのを拾うことができれば狭義の花見もできるらしい。ただそれには前提があって、盲目の状態で落ちた石桜を拾わねばならないのだが……。
「賑やかなのはいいが、人混みは疲れるからいけないねえ。このくらいがちょうどいいや」
人混みが疲れるのは同意するが、花見での人混みは混む理由がある。結局桜が見えるところに集まる。これは鬼ですらそうで、もう少し分解すると風流な鬼がいい場所に集まって、それを相手に屋台が出て、屋台目当ての鬼が集まるとなって鬼の花見も桜が見える場所が混雑になる。一方ここは混んでいなく、つまり桜があまり見えない。上空の風の具合かたまに落ちてくるようだが、それでも地面の上には余裕で数えられるくらいにしか石桜がない。ちょうどいい、とは言い難い。
「もうちょっと近くで見ないの?」
「おいらは『見』てはいないからね」
「あっ」
私は思わぬ失言に申し訳なく思ったが、彼は特に気にもとめていなかった。慣れているのだろう。一層心が痛む。
「お嬢ちゃんはお嬢ちゃんの好きな場所で花見をすればいいじゃないか。おいらはここで楽しむと決めたからここにいる」
「いや、私もここがいいよ」
私は今まで立ち見していたが座ることにした。石桜のついた地底の天蓋がちょっと遠くなった。
「唐揚げを持っているのかい?」
「あ、うん」
「酒は飲むかい?」
按摩の立て続けの質問にちょっとたじろいでしまった。食べ物を持っているかとどうかという質問が単に「持っています」「そうか」で終わるなんてことは九割ありえない。そこに酒を飲むかどうかと聞かれた日にはこれはもう彼は唐揚げと酒の物々交換が成立するものと信じて疑っていないのである。
私は按摩師の心を読んで、悪意はないのだということを知った。単に私に対して交換が成り立つものと信用している。信用しているのは私にではなく酒に対してかもしれない。自分の酒の残りが唐揚げ一個以上の価値があると信じている。困ったことに、私は酒はそんなに好きでもないし、強いていえば果実酒派だからこの人の酒に唐揚げを手放すほどの魅力は見いだせなかった。
つまり損得勘定としては提案を断るべきだったのだが、私は唐揚げの入ったコップを按摩師の方に差し出した。彼は軽くコップを縦に揺らすと、コップの中で音を立てた唐揚げの一つを目敏く見つけて骨ばった手でかっさらう。
「ラッパでもいいかい?」
そして按摩は酒がだいたい二割くらい残った一升瓶を私の方にぐいと差し出した。容器がないから瓶から直飲みになるということは交換の開始前に伝えてほしかったものだが、もうこうなっては仕方ないからいいということにした。
按摩師の持っていた酒は喉が消毒されるみたいな味がした。ご飯や甘酒を「米を丸めた料理」とするならばこれは「米を針のように徹底的に、度を過ぎて尖らせた料理」だ。私が日本酒が嫌いな理由のイデアみたいな酒である。按摩師の目が見えないことをいいことに私は思いっきり顔をしかめた。
「楽しいねえ」
彼はそんな私を煽るかのような台詞を吐きながら唐揚げと酒を交互に口の中に入れている。その様子だけを見たら、よもや彼がめくらだとは誰も思わないだろう。
「おや、焼き芋の屋台があるのかい」
「買いに行ってくる?」
「あいや、芋の季節とは真逆だろうに屋台があるのが意外だっただけさ」
「芋は長持ちするから」
私にとっては焼き芋があることはそんなに不思議でもない。焼き芋の屋台があることを屋台区画から遠く離れた場所にいる按摩師が知っていることのほうがよっぽど意外だった。
「どうして屋台があるって分かるの?」
「匂いがしないかい?」
「しないよ」
それを聞いて回答を得るも、結局不思議さの内容が少し変わっただけに思えた。私は釈然としない気持ちのままに唐揚げを咀嚼し、時々飲まないのも勿体ないという理由で酒瓶の中身に少し口をつけた。
場は閉塞してしまったと思った。按摩師は相変わらず暢気で、空気に重苦しさを感じているのはこの場の半分だけとも言えるが、逆にこの場の半分、つまり私は、ただ参加者が無言で食べ物を消費するだけというこの状況を打開せねばと思っていた。それにはきっかけが必要だ。
天はそんな私を憐れんでか、しばらくの後にきっかけを与えてくれた。
「あっ、石桜が落ちてきた」
「そうなのかい……。む、今回は遠いなあ」
按摩は石桜の落ちた方角を向いて残念がった。立ち上がって結晶を取ろうという試みすらしない。
桜は石を投げたらようやく届くだろうかというくらいの距離に落ちた。発光していなかったらどこに落下したか分からなくなっていたに違いない。私は地べたにあってなお淡い薄桃色の燐光を発するそれを少しの間眺めていたが、飽きて花より団子に戻った。
ただ、この流れでさっきの不思議が言語化された気がした。この人は私とは五感の別な部分を使って世界を
感じている。私は遠くの景色を眺めながら目の前の食べ物の匂いを味わう。この按摩師は眼前に見たいものを近づけながら遠くで食べ物の匂いがするなと思っている。
「おじさんにとっての世界は音と匂いと味なんだ」
「世界とは音と匂いと味じゃないかね。いや、言わんとすることは分かる。君たちにとっては視覚も重要な構成要素らしいね。が、おいらにはどうせ人並みに物が見える世界など予想はつかないから視覚が世界に含まれるかどうかは議論する意味がないんだ。超音波を聞き取れるコウモリにとって世界がいかにうるさいかを、それができない存在は決して共感できないというのと同じことさ」
「かわいそうだね……」
「君にはそう見えるのかもしれないね。さとり妖怪の君は五感どころか心を読むという第六感まで使えるから、心が読めず目もほとんど見えないおいらよりも二つも多く感覚を使えるわけだ。だが、使える感覚が少ないというのもそう悪いことじゃない。余計な情報が頭に入ってこないからこそ、一個一個の感覚は研ぎ澄まされる」
「そういうものなのかな」
「目を閉じてみたら分かるよ。音がよく聞こえるし、多分君も無意識にそれはときどきしてるんじゃないかな」
按摩師に促されて私は目を閉じてみた。おじさんのいた方向からカラカラという音が微かにした。それでこの按摩師は盃に音が鳴る細工をしていて、だから目が見えなくても酒をこぼさずに注ぎ飲めるのだということにようやく気がついた。
†
花見の前後から按摩師への社会の当たりが強くなったように思えた。
心が読めるさとり妖怪からの視点でなお「思えた」という類推でしか語れないのは、まず下劣な悪意のみの地底住人の心をわざわざ読むということに関心が向かなかったからであり、能動的に読まずとも感じる上っ面の部分では変化がなくこの説への裏付けがとれないからでもある。結局のところ、按摩師は最初から迫害されていた。だから花見の後の草木が芽吹いて伸びていく時期に、逆に按摩の体から水が抜けて鬼の輪郭を保っていた体躯がついに細い枯れ木のようなそれへと漸近していったという結果は、何かが変わったからではなく、何も変わらなかったからもたらされたものなのかもしれない。ただ少なくとも見た目にはちょうどその頃に彼に負の変化があって後の悲劇に繋がったという流れがあるから、話の筋としては風当たりが強くなったという変化として語るべきだろう。
そして花見の後、私への社会の当たりも強くなった。
これは断定形で語ることができる。花見の席で按摩師と懇意にしてたことが噂になり、それまで地霊殿の御曹司(続柄が妹でも御曹司という語が適切なのかは分からないが、私に対してはこの語彙が用いられていた)という属性でその属性故不可侵だったのが、社会ののけ者たる按摩師の味方という属性が追加されてこの立場をもって私に攻撃することが法的にではなく社会の空気として許されるようになった。
この変化はそれまで商品を一個おまけしてくれておた駄菓子屋がおまけしてくれなくなるという正からゼロの変化としてまず現れ、次いでわざと質の悪い商品を処分するのに私を使うというゼロから負の変化として現れた。意地の悪いことに、私が按摩のグルだからという理由でそういう仕打ちをして、反論は私が地霊殿のお嬢ちゃんという立場ある存在だからそんな大人気ないことはしないよねという心の中での一方的了承でもって封殺してくるのだ。
もっとも、逆に駄菓子屋の仕打ちが意地悪という程度で収まっていたように、私への仕打ちは実のところそんなに酷くはなかった。常に私が地霊殿の妹であるというのが天秤の片側にあったから、例えば直接に危害を加えたら姉に報復されかねない、精神的なものでも告げ口される可能性を考えると、言い訳のしようもないくらいこちらに非があることはできないという自制が地底社会全体にあった。それに、迫害は地霊殿を取り囲む生け垣を境界としてその外側でのみなされたことであって、内側では庭に生える薔薇も、屋敷に住まう何十、百の単位かもしれない数の動物も私を差別しなかった。お姉ちゃんですら、私に対してあの按摩師と仲良くするとは随分な変人ねと不思議がりはするものの、あくまで自分と性格が違うというのを確認するだけで私が可愛い妹であるという事実をねじ曲げるものではなかった。私は聖域を得ていた。
だから私は自身が社会的には不安定になりつつあるという状況に陥ってなお自分よりも按摩師を憐れんだ。彼の地位を示す天秤は壊れていたから皆無限に重荷を乗せたがっていたし、聖域と言えるのは多分地底一家賃の低い四畳一間とかそのくらいの貸長屋と思われた。しかもその聖域の食事事情は果樹しか食料のないエデンの園とそう変わらないのだろうということが、心を読まずとも、いよいよ柳の枝と相似形になった姿を見ることで容易に想像できた。余裕がなくなったことでお菓子もくれなくなった。
按摩師に関するグラフの全てが下落していて、そのままでは早晩値ゼロの死かそうでなくても閾値を下回っての休職になるのではないかと私は気をもんだ。が、彼は
「大丈夫だよ」
「お嬢ちゃんに気遣われるほど落ちぶれてはいねえや」
などといって善意にすら取り繕うとはしなかった。やせ我慢ではないかと私は悲しくなった。
私が悲しくなった次の日も変わらない発言を纏い按摩師は来た。更にその次の日も。
そこから一ヶ月して、按摩師は言葉を纏わなくなったが、それはついに精魂尽きたからではなく私が殊更に指摘しようとしなくなったからだ。予想外なことに按摩師を苛ましていた下降線は閾値の上で平衡した。
「何一つ不自由などしていないさ」
これを口でも言うし腹の中ですらそうというのが本当に不可解だった。が、事実として、枯柳のような姿は、鬼の体型としてそれが相応しいのかという問題は抜きにしてそれより細くなるということはなかったし、体力が落ちて施術に支障が出るということもなく、政治が分からぬうちのペットからは施術の良さから相変わらず好評だった。
「給料が上がったの?」
私は按摩師とお姉ちゃんにそう聞いたが、前者は穏やかに、後者は迷惑そうに、感情は違うが答えは同様に、上がりも下がりもしていないという否定だった。迫害とは経済的には同じ金でも貰える量が減るということだと身にしみて感じていたから、迫害されてるこの中年の鬼がいかにして痩せすぎにしてもその体型を維持しているというのが謎だった。が、人のプライバシーに無闇矢鱈と野次馬しないという倫理を持ち合わせているくらいには私は育ちがよかったので、彼が不自由していないと思っているならまあいいかとの納得でこの件は終わらせようとした。
†
私は、幸福とは言わないまでも見た目ほどには不幸ではないというこの日常が永遠に続くものだと無邪気に思っていた。
それは唐突に終わった。按摩師が窃盗をして捕まったのだ。
その日もいつもと変わらない様子で彼は来て仕事をした。確かに心を読まなかったから内心どう思っていたのかというのは分からなかったが、少なくとも表層心理まで苦痛、恨み、その他犯罪につなかまるような状態では決してなかったというのは保証できる。私は彼を信頼していて、信頼に値する者への礼儀として心は読まなかった。
一方お姉ちゃんも按摩師の心は読んでいなかったようだ。ただ私とは理由が逆で、「言わずとも所詮信頼のできない奴」というのが根底にはあったのだろう。
この認識の違いは、按摩師が施術の帰りに突然廊下に飾られていた銀製の置物を手にとって懐に仕舞ったときに現れた。私はあまりにも予想外だったから玄関の扉に手をかけたまま思考停止して固まってしまったが、お姉ちゃんはまるであらかじめ打ち合わせでもしていたかのように眉一つ動かさず、しかし打ち合わせの八百長でない証拠に明確な敵意をもって、攻撃を仕掛けた。
「おっと、捕まるわけにはいかないねえ。こっちも生活がかかってるんだ」
背後からの弾幕は普通は大いに手を焼くものだと思うが、按摩は目が見えることは不要でむしろ足枷とでも言わんばかりに、お姉ちゃんの攻撃が最も単純な弾幕かのように避けていった。
私は彼の心を読んだが、やはり窃盗に繋がる悪意は微塵も見て取れず、心中と現実の乖離にこれは夢なのかと錯覚した。ただ、「これは至極当然なことである」という心理は明確にこの按摩師にはあり、この「これ」が今彼がしていることにかかってるのだとしたら? 「当然」が、かつて羅生門で「己もそうしなければ、饑死をする体なのだ」と吐き捨てて追い剥ぎをした下人と同様の倫理に基づくものなのだとしたら?
さとり妖怪は心を読める。が、それは心に対しての全知は保証しない。人は視覚や嗅覚を持つから腐った林檎と腐っていない林檎を見分けることができるが、一方で食用キノコと毒キノコの見分けがつかなかったばっかりに死んでいった人間は枚挙にいとまがない。
この、ある感覚を持っていることは全知とは異なる、という事実は逃走を試みる按摩師にも当てはまった。外に出ていたお燐が偶然か騒ぎを聞きつけてなのかたまたま帰ってきて(これは本当に偶然だったから私も予見できず、勢いよく開かれた扉に跳ね飛ばされてしまった)、半ば反射的に弾幕を放った。按摩師は多分、殺気を第六感で検知してお姉ちゃんの攻撃をかわしていたが、お燐の攻撃は殺意によるものではなかったので、普通に目が見えるのなら余裕で抜けることのできる単純な交差弾に撃ち抜かれた。
†
捕まった次の日には按摩師は広場の見世物になっていた。後ろ手に縛られてうつ伏せに倒され、首の上に錆びたノコギリを当てられている。
司法が去って久しい旧地獄では逮捕から刑の執行までが極めて迅速に、かつ独裁的になされる。これもお姉ちゃんがしたことだろう。明らかに処刑を見世物にしている。その倫理的是非を問う意味はここではない。あえて問うならば、これは是なのだ。地底とはそういう場所。あるいは、地底倫理から血なまぐさい暴力を除こうとしたお姉ちゃんも、暴力なしでの統治は不可能と悟り、「合法的暴力」というのを模索しはじめたのか。真意がどちらかは心を読めば分かることだが、私はとても読む気にはならなかった。
中国で行われていたらしい処刑方法に着想を得ていたというのは明白だった。あえて切れない錆びたノコギリを通行人に引かせて断首することで即死ではなく苦しみを持続させることができる。ただ鬼でノコギリを引く者はほとんどおらず、代わりに殴る、蹴るといった(低い位置に磔になっていたので、蹴りを選ぶ鬼が圧倒的に多かった)より直接的な暴力がなされた。
按摩の顔は酷く腫れ上がりその膨らみは傷と砂と泥で元の皮膚が見えぬくらい塗装されていた。その汚れが塗りたくられた顔が少し上がり、私の方を向いた。まさか動くとは思っていなかったのか鬼たちは驚愕し、按摩と私との間の人だかりはモーセを目の前にした海の如く割れた。不可視の線での結びつきができると、周りで按摩に驚愕していた鬼の感情は私への軽蔑に少しずつ変わっていった。ほら、あの非常識な地霊殿の妹がクズを哀れんで助けに来たぞ。のけ者がもう一人お出ましだ。
救いようのないことに、当の按摩師本人すら私が彼を助けに来たものだと考えていた。
「なあ、嬢ちゃん。縄をほどいてはくれないかね……」
心が読めるが故にその瞬間に感じとってしまった異常さよ!! 鬼は加虐を求め按摩師が加虐から逃れることを求め、両者は価値観において全く対立していたはずなのに、私が現れたのを見つけた瞬間に「私が按摩師を助けることを期待する」という方向に意見が一致した!! 彼が救いの声を発する前も、発した後においても!!
そう、鬼も私が縄を解くことを期待していた。そうすれば公然と殴れる肉体が一つから二つに増えるから。しかも二つ目地霊殿のさとり妖怪の一人、鬼にとっては生け好かないのに社会階級上丁重に接することを義務付けられていた目の上のたんこぶ。表情で白い目の嫌悪を私に向けながら、心の中は穢れなんてものを知らない無垢な子供のようにしていた。
この状況下で何か一ミリでも按摩師の利益になる行動ができるわけがなかった。その異様な空気は、最早特別心が読めるさとり妖怪だからこそ分かるというものではなく、普通の感性ならば容易に感じ取ることができるだろう域にまで熱せられていた。
私は踵を返して走り逃げた。
私はあの場における一種の堰であったらしく、私が物を投げても按摩には届かないくらい磔の現場から遠ざかった瞬間、肉に向けて足を蹴り落とす音が幾重にも聞こえた。
六感の全てが機能しているときよりも、一部の感覚が使えないときの方が他の感覚は研ぎ澄まされる。距離と方角から惨劇を視覚と嗅覚で感じ取ることができなくなった私の心に、嗚咽と憤怒と狂喜が容赦なく入り込んできた。私には黒い毛皮に光り輝く目と顔からはみ出した牙を持っている巨大な怪物が兎のような獣を貪り食っているイメージがあった。やがて嗚咽する兎の声はもう届かなくなり、怪物は私に迫ってきたから私は足をさらに速めて逃げたが、憤怒と狂喜の影はむしろますます巨大化して私と距離を詰めてきた。
地霊殿の玄関の扉を開き――私はこの瞬間ほど扉が重い石造りであることを恨んだことはなかった――つんのめって倒れ、振り向きざまに起き上がりながら扉を閉めて――私はこの瞬間ほど扉が重い石造りであることに安心感を覚えたことはなかった――ようやく怪物の追跡を振り切った。でも建物の外壁を挟んだすぐ外側に怪物が徘徊しているような気分は消えず、その日の残りは自分の部屋に閉じこもって震えていることしかできなかった。
†
次の日も私は外を徘徊する悪意に怯え、館に引きこもっていた。
その次の日も私は外を徘徊する悪意に怯え、館に引きこもっていた。
またその次の日も。
更にその次の日に、私はお姉ちゃんが使っていた裁縫道具を物色して、一番太い糸と針を借りた。心が読めたところで何一ついいことなんてないのだ。二度と読めないように、目を塞いじゃった方がいい。
私は大きな木組みの椅子に座って、第三の目の縫い合わせをした。針を刺すごとに目から赤い液体と透明な液体が溢れ、紫色の目も淡い黄色の服も白色のテーブルクロスも濡らしていったが、私は痛みに耐えて手を動かした。
一刻経って手術が終わった。私は汗だくの体で床に倒れ込み、疲労が目の痛みを上回っている間だけは寝ることができた。
†
気がつけば日付けも変わっていた。痛みは全くない。
朝ごはんを食べるために食堂に行ったら、お姉ちゃんがいつもの眠そうな目でこちらを見ていた。
「あら、目を閉じてしまったの。なんて愚かなことを……」
お姉ちゃんの後ろの壁にはゴキブリがいた。遅かれ早かれ両者は遭遇し、お姉ちゃんは悲鳴を上げることになるだろう。心が読める世界がすべてだと思ってるんだから。それが面白かった。
金切り声をBGMにジャムを塗ったパンを食べた。小麦の匂いが青々としているように思えた。小麦の旬は今頃なのだろうか? 街外れの粉挽き小屋(お姉ちゃんが「地底の産業革命」とか格好つけて導入したものだ。一応擁護すると、パンはともかくうどんは鬼や怨霊も食べるので需要はちゃんとある)も繁忙期かもしれない。今日の行き先はそこにしようか。
朝食を食べた私はすぐに外に出た。夏の終わりを迎えた大通りは、建物も地面も地面に生えた草も原色に近い彩りで光っていた。地獄蝉の生き残りの鳴き声が微かに聞こえる。虫の繁殖という観点からはこいつらは伴侶を未だ見つけられていない負け犬。だが、このくらいの数の方がやかましくなくてよろしいと、環境音芸術として見るならば世界の最終選考を突破したエリートの蝉達である。気温も、夏服で過ごす分にはだが暑すぎもなくちょうどいい。散歩するのにいい季節だ。どうして数日も外に出ていなかったのか。私はその理由をどうにも思い出せなかった。
「おお、地霊殿の妹さんじゃないか」
建物前にいたどこかの店の店主の鬼が、いつも通りに豪放磊落な笑みを浮かべて私に話しかけてきた。
世界は、昨日までよりずっと輝いていた。
按摩は鬼の種族だった。按摩職でよくあるように、彼は「めくら」だった。正確には全盲ではなく、極端に視力が低い弱視で、比喩抜きで目と鼻の先にまで近づければ物も見えたそうだ。しかしいくらほんの少しの視力があるとはいえ、体の万全こそが市民権を得る条件の根底である鬼社会において、彼は必然的に蔑まれる存在に甘んじることになった。元々二本、左右の耳それぞれから握り拳一つ分上の場所に生えていた角は根本からへし折られていた。彼は按摩でよくあるように盲目で、盲目でよくあるように按摩だったが、順番としての正解は、盲目で食い扶持を稼ぐには按摩になるか乞食になるかしかなかったという方だった。
彼はそのあからさまな迫害に対して一切悲しむことがなかった。その半生において常に差別され続けていたが故に、ヒエラルキーの最底辺に属していることは彼にとっては悲しむべきことではなくただの日常の一要素だった。
鬼は彼を差別したが地霊殿の動物は彼を差別しなかった。元々お姉ちゃんがペットに施術してもらうために彼を呼んだのだ。ペットの中には地上出身の動物も多く、地上から地底という環境の変化で多かれ少なかれ体調を崩すものも多かった。では地底出身なら按摩のお世話にならずに済んだのかというと必ずしもそうではなかった。困ったことに私達が地霊殿に移り住んで程なくして、「動物飼育施設」としても地霊殿は評判になり、飼えず引き取り手もいない動物を地霊殿に捨てに行く風習が生まれてしまった。捨てられる動物の約半分が姥捨てされた老いた動物だったからそれらのためにも按摩は必要だった。
按摩を受けている動物達は彼に純粋に感謝していた。相応の腕はあったのだ。
地霊殿の動物は彼を差別しなかったが、地霊殿の主は彼を差別した。呼んでおいて酷い話だが、当時のお姉ちゃんは自分のことを地底一大きい館の主、地底の元締めの大貴族と思っていたから他人は全員下賤の階級という位置づけだったのである。一応お姉ちゃんを擁護するならば、旧地獄が担っていた地底の管理責任を引き継いだからという、名目のちゃんとある権威ではあった。地位がそれに見合った義務を求めるのとは逆に、ノブリス・オブリージュが身分を規定していた。
ただし、お姉ちゃんの身分意識は自分以外の全て平民という暴君の絶対王政ではなく、平民の中にも身分差をつけていて、件の按摩師は平民でも最下位だった。これも擁護するならば、あくまで外様であるお姉ちゃんが地底社会で上の地位を得るには既存の身分制度を利用するのが最善策だったという事情もあったのだろう。だが、お姉ちゃんはそんな私の擁護を台無しにするが如く、ただの個人的好き嫌いで彼を差別している節があった。自分のペットに対して毛づくろい以上の身体接触をする彼に対して動物性愛
の気があるものと信じて疑っていなかった。これが最悪なのは、お姉ちゃんはさとり妖怪なのだから心を読めばその真偽が分かるのにそれをしなかったことだ。当時は私も他人の心が読めたから私も試して、当たり前の話だが、その結果は偽だった。
「お疲れ様です」
お姉ちゃんはあくまで淑女として按摩に接し、玄関から客間まで帯同し(施術は全て客間で行われた。ペットを入れるに十分な広さがあったし、玄関から近い部屋でもあった。按摩は客間より奥に立ち入ることは許されなかった)、扉から入ってすぐの位置に置いた椅子に座って腕組みをして見守った。ペットの視点だと自分を心配して見守る慈悲深き飼い主の鑑に見えたことだろうし、事実そう見られることを意図していたという側面もあった。が、それはあくまで副次的効果であって、主眼は按摩の監視だった。読心したら、そっちが少なくとも八割、下手すると九割あった。
按摩師が仕事を終えるとお姉ちゃんは少しだけ警戒を解き、扉を開けて廊下に按摩師を誘導する。廊下から玄関までは短い一本道で、両脇方向にある閉められる扉は全て閉まっている。寄り道せずとっとと帰れという無言の意思表示だった。
†
私はこの按摩師に対して特別な感情は抱いていなかった。お姉ちゃんのように政治で動かなければならない立場ではなかったし、そうでありたいとも思わなかった。当時の私は幼かったから、時々仕事に来るおじさんとだけ思っていた。
否、特別な感情を何も持っていなかったというのは少し違うな。いくらか按摩師を贔屓している面はあった。とはいえ、普通の対応とは違うという意味での特別ではあったが、判官贔屓というのはとくに子供がするそれという文脈では特別でもなんでもないごくありふれたことだ。
私は按摩師の代わりにドアを開ける専属のドアガールのような立場になった。お姉ちゃんは何も言わなかった。妹の一挙一動に一々干渉するのも大人げないし、穢らわしい手がノブに触れるよりはとも思っていたのだ。最初は丁寧に一礼を貰うくらいだったのが(盲目のはずなのに毎回正確に私がいる方向に礼をくれるのが不思議だった)、ドア番を始めてから一ヶ月くらいするとお菓子を貰うようになった。とはいえ初めてのことではなく按摩が来てから最初の数回はお菓子を持ってきてくれていたのだが、お姉ちゃんが丁重に断ったので三回目くらいからは中断されていたのだった。ちなみにこの丁重に、というのはあくまで外面の話で内心ではもっと負の感情から拒絶していたというのは言うまでもない。それが、受け取り人がお姉ちゃんから私になったことで無事再開したわけだ。お菓子は二人分貰っていたが、お姉ちゃんは不浄を感じてやっぱり拒否したので、私が毎回二人分のお菓子を食べていた。
とはいえこうした交流はあくまで館内のことだったから、当時は按摩師と私がそれなりに仲良くしているというのは知られていなかった。逆に言えば、お姉ちゃんが理由の半分を鬼社会への体面として按摩師とは友好的にしなかったことも知られていなかったわけで。
この時期、一度だけ外で遊んでいたせいで按摩師が来る時間に帰宅せず、館の外の大通りで按摩師に会ったことがある。私の方から挨拶して按摩師が一礼、お菓子を取り出そうとしたのか自分の服の下をまさぐっていたが途中で諦めたように腕を出してもう一度一礼して立ち去るという、私達二人のやり取りとしてはそれだけのなんということもない邂逅だった。
場所が大通りだからそのときも鬼が九で地面が一という割合の混雑を見せていたのだが、不思議と私達の周りは空いていた。「障り」がないようにと、皆避けて歩いていたのだ。
動機としては按摩師には人未満の存在に向ける侮蔑であり私達さとり妖怪に対しては常識の埒外のものに向ける畏怖だから、鬼の属する位置をy軸ゼロとすると正か負かという真逆になる。が、二つの感情をそれぞれ端的に言い表すならばどちらも「厄介者には近寄らないでおこう」なのだった。地霊殿に向かって去っていく按摩師にもそれ以上の感情を向ける鬼はあまりいなかったが、何人かは「厄介者どうしくっついてくれれば俺らが関わらなくていいからむしろ結構なことだ」くらいに思っていたのは確かだった。
私達は嫌われ者だった。地上にいた時分から好かれたことなんてないから、それが普通で悲しくはない。按摩師が差別されない身分を知らないようなものだ。違いがあるとするならば、按摩師は一本の「被差別身分である」というレールの上を走る人生だったが、私達は一度地上から地底へのレールの乗り換えを行っていた。それで何かが変わることを期待していたが、結局嫌われる普通が普通でなくなるなんてことはなく、その普通が残念ではあった。
†
春、地底で花見があった。
地上で埋められた死体の魂は沈殿してやがて地底の天井から薄赤色の結晶片となって降り注ぐ。これは石桜と呼ばれ、石桜を愛でるのが地底の花見である。
ただ、鬼は花より団子で団子より喧嘩みたいな連中だから、昔は一部の特別風流な奴らが細々と眺めているだけだったらしい。
行事としての花見を企画したのはお姉ちゃんだった。鬼は花見がなくても困らないが、怨霊には花見かそれに相当するものが必要だった。統治の原則が飴と鞭として、さとり妖怪であるお姉ちゃんは存在が鞭そのものだったから飴を沢山与えなければならなかったのだ。それに、怨霊の不満の九割が何かと理由をかこつけて地上に出たいと言い出すものだったので、お姉ちゃんは地底で全てが与えられるように腐心しなければならなかった。
かように政治的な理由で行われた花見だったから、主催であるお姉ちゃんの周りはひどく政治だった。温泉街の元締めだの武闘館の館主だの鬼の中でも一等そういうのが群がって世間話で薄っぺらく包んだ利権や権力の綱引きをしていた。大人の会話の場に迷い込んでしまった子供が手持ち無沙汰になるのは世の常だが、これはもっと酷い。あまりにつまらなかったのでお姉ちゃんの近くからは抜け出した。
少し外側には祭りの屋台が並んでいた。鬼には花そのものよりもこちらの方が求心力が高いようで、無名の有象無象な鬼のだいたいはここにいた。つまりこれは鬼向けの飴。
「バトルステージでも置いたほうがいいんじゃない?」
花見の計画段階で、私は一度だけお姉ちゃんに口出しというか提案をした。鬼を釣るという合理性だけならば花よりも団子で招く方がよく、団子よりも喧嘩の方が効率に優れる。が、お姉ちゃんはただ一言
「今回は喧嘩はなし」
とだけ言って、お互いにお互いなので発言の裏の腹の中まで理解してそれで終わった。
お姉ちゃんは文民なのだ。文民が武人を統治するには文が武よりも優れるということを文でもって徹底的に叩き込まなければならない、らしい。だから飴玉は暴力の形であってはならず、平和の形態をとっていなければならなかった。
こうして設けられた「腑抜けた」場に対して鬼は、血を見ないことに多かれ少なかれ不満を覚えつつも、それはそれとして楽しんでいるようだった。血が欠けていることへの不満は中華系の怨霊が出していた鴨血
の屋台が一番の行列を叩き出していたことに表れていて、血のない楽しみをいささか消極的にでも肯定しているのは鬼の血が流れていないことに表れていた。
鬼も、林檎の果肉と皮くらいの比率には理性による本能の覆い隠しが進展しているらしい。啓蒙は順調だ。でも私はその様に虚飾を覚えてなんだか冷めてしまったので、お祭り価格の唐揚げだけ買って屋台区画からも離れた。
†
会場の一番外れの場所に按摩師がいるのを見つけた。正直、いるのが意外だった。花見とは文字通り花を見る娯楽で、圧倒的に視覚を用いる。
「楽しいの?」
失礼な質問の仕方だなと我ながら思うが、これはどうやっても失礼にしかならない問いなのでそのままぶつけることにした。
「楽しいさ。少なくとも家で一人静かに飲むよりは楽しいね」
按摩師は家から持ってきたとおぼしき瓶の中身を家から持ってきたとおぼしき盃に注いでいた。
「そうかな?」
「そうだとも。陽気な集まりじゃないか」
「あんま陽気じゃないよ。少なくとも中身は」
彼は喧騒の方に顔を向けて数度耳を動かした。
「そうかもしれないな。でもまあ、おいら達には関係のない話じゃないか」
社会の上層構造から完全に断絶されたこの人と違い、私の立ち位置は流動的だ。一番縁起でもない例を挙げるとお姉ちゃんの身に万一何かが起きたら次期地霊殿当主は私になる。
だから、中の駆け引きに対して関係ないとまで言い切る按摩師の言には同意はしかねるところもあった。が、その一方で理想的には関係なくありたいものだとも思う。地霊殿当主になったらなった一秒後に退位して出奔してやるんだ。後世の歴史家にはボロクソに書かれるだろうが生きているうちは絶対楽しい。
「火事は川の対岸から眺めるのが一番楽しい、みたいな」
「ちょっと違う。火事があったなんてことを知らないのが一番楽しいんだ」
按摩は立ち上がって近くの地面を探った。そこにはちょうど今落ちてきた石桜が一片だけあってそれを拾ったのだった。目のすぐ前のものは見えるから、落ちたのを拾うことができれば狭義の花見もできるらしい。ただそれには前提があって、盲目の状態で落ちた石桜を拾わねばならないのだが……。
「賑やかなのはいいが、人混みは疲れるからいけないねえ。このくらいがちょうどいいや」
人混みが疲れるのは同意するが、花見での人混みは混む理由がある。結局桜が見えるところに集まる。これは鬼ですらそうで、もう少し分解すると風流な鬼がいい場所に集まって、それを相手に屋台が出て、屋台目当ての鬼が集まるとなって鬼の花見も桜が見える場所が混雑になる。一方ここは混んでいなく、つまり桜があまり見えない。上空の風の具合かたまに落ちてくるようだが、それでも地面の上には余裕で数えられるくらいにしか石桜がない。ちょうどいい、とは言い難い。
「もうちょっと近くで見ないの?」
「おいらは『見』てはいないからね」
「あっ」
私は思わぬ失言に申し訳なく思ったが、彼は特に気にもとめていなかった。慣れているのだろう。一層心が痛む。
「お嬢ちゃんはお嬢ちゃんの好きな場所で花見をすればいいじゃないか。おいらはここで楽しむと決めたからここにいる」
「いや、私もここがいいよ」
私は今まで立ち見していたが座ることにした。石桜のついた地底の天蓋がちょっと遠くなった。
「唐揚げを持っているのかい?」
「あ、うん」
「酒は飲むかい?」
按摩の立て続けの質問にちょっとたじろいでしまった。食べ物を持っているかとどうかという質問が単に「持っています」「そうか」で終わるなんてことは九割ありえない。そこに酒を飲むかどうかと聞かれた日にはこれはもう彼は唐揚げと酒の物々交換が成立するものと信じて疑っていないのである。
私は按摩師の心を読んで、悪意はないのだということを知った。単に私に対して交換が成り立つものと信用している。信用しているのは私にではなく酒に対してかもしれない。自分の酒の残りが唐揚げ一個以上の価値があると信じている。困ったことに、私は酒はそんなに好きでもないし、強いていえば果実酒派だからこの人の酒に唐揚げを手放すほどの魅力は見いだせなかった。
つまり損得勘定としては提案を断るべきだったのだが、私は唐揚げの入ったコップを按摩師の方に差し出した。彼は軽くコップを縦に揺らすと、コップの中で音を立てた唐揚げの一つを目敏く見つけて骨ばった手でかっさらう。
「ラッパでもいいかい?」
そして按摩は酒がだいたい二割くらい残った一升瓶を私の方にぐいと差し出した。容器がないから瓶から直飲みになるということは交換の開始前に伝えてほしかったものだが、もうこうなっては仕方ないからいいということにした。
按摩師の持っていた酒は喉が消毒されるみたいな味がした。ご飯や甘酒を「米を丸めた料理」とするならばこれは「米を針のように徹底的に、度を過ぎて尖らせた料理」だ。私が日本酒が嫌いな理由のイデアみたいな酒である。按摩師の目が見えないことをいいことに私は思いっきり顔をしかめた。
「楽しいねえ」
彼はそんな私を煽るかのような台詞を吐きながら唐揚げと酒を交互に口の中に入れている。その様子だけを見たら、よもや彼がめくらだとは誰も思わないだろう。
「おや、焼き芋の屋台があるのかい」
「買いに行ってくる?」
「あいや、芋の季節とは真逆だろうに屋台があるのが意外だっただけさ」
「芋は長持ちするから」
私にとっては焼き芋があることはそんなに不思議でもない。焼き芋の屋台があることを屋台区画から遠く離れた場所にいる按摩師が知っていることのほうがよっぽど意外だった。
「どうして屋台があるって分かるの?」
「匂いがしないかい?」
「しないよ」
それを聞いて回答を得るも、結局不思議さの内容が少し変わっただけに思えた。私は釈然としない気持ちのままに唐揚げを咀嚼し、時々飲まないのも勿体ないという理由で酒瓶の中身に少し口をつけた。
場は閉塞してしまったと思った。按摩師は相変わらず暢気で、空気に重苦しさを感じているのはこの場の半分だけとも言えるが、逆にこの場の半分、つまり私は、ただ参加者が無言で食べ物を消費するだけというこの状況を打開せねばと思っていた。それにはきっかけが必要だ。
天はそんな私を憐れんでか、しばらくの後にきっかけを与えてくれた。
「あっ、石桜が落ちてきた」
「そうなのかい……。む、今回は遠いなあ」
按摩は石桜の落ちた方角を向いて残念がった。立ち上がって結晶を取ろうという試みすらしない。
桜は石を投げたらようやく届くだろうかというくらいの距離に落ちた。発光していなかったらどこに落下したか分からなくなっていたに違いない。私は地べたにあってなお淡い薄桃色の燐光を発するそれを少しの間眺めていたが、飽きて花より団子に戻った。
ただ、この流れでさっきの不思議が言語化された気がした。この人は私とは五感の別な部分を使って世界を
感じている。私は遠くの景色を眺めながら目の前の食べ物の匂いを味わう。この按摩師は眼前に見たいものを近づけながら遠くで食べ物の匂いがするなと思っている。
「おじさんにとっての世界は音と匂いと味なんだ」
「世界とは音と匂いと味じゃないかね。いや、言わんとすることは分かる。君たちにとっては視覚も重要な構成要素らしいね。が、おいらにはどうせ人並みに物が見える世界など予想はつかないから視覚が世界に含まれるかどうかは議論する意味がないんだ。超音波を聞き取れるコウモリにとって世界がいかにうるさいかを、それができない存在は決して共感できないというのと同じことさ」
「かわいそうだね……」
「君にはそう見えるのかもしれないね。さとり妖怪の君は五感どころか心を読むという第六感まで使えるから、心が読めず目もほとんど見えないおいらよりも二つも多く感覚を使えるわけだ。だが、使える感覚が少ないというのもそう悪いことじゃない。余計な情報が頭に入ってこないからこそ、一個一個の感覚は研ぎ澄まされる」
「そういうものなのかな」
「目を閉じてみたら分かるよ。音がよく聞こえるし、多分君も無意識にそれはときどきしてるんじゃないかな」
按摩師に促されて私は目を閉じてみた。おじさんのいた方向からカラカラという音が微かにした。それでこの按摩師は盃に音が鳴る細工をしていて、だから目が見えなくても酒をこぼさずに注ぎ飲めるのだということにようやく気がついた。
†
花見の前後から按摩師への社会の当たりが強くなったように思えた。
心が読めるさとり妖怪からの視点でなお「思えた」という類推でしか語れないのは、まず下劣な悪意のみの地底住人の心をわざわざ読むということに関心が向かなかったからであり、能動的に読まずとも感じる上っ面の部分では変化がなくこの説への裏付けがとれないからでもある。結局のところ、按摩師は最初から迫害されていた。だから花見の後の草木が芽吹いて伸びていく時期に、逆に按摩の体から水が抜けて鬼の輪郭を保っていた体躯がついに細い枯れ木のようなそれへと漸近していったという結果は、何かが変わったからではなく、何も変わらなかったからもたらされたものなのかもしれない。ただ少なくとも見た目にはちょうどその頃に彼に負の変化があって後の悲劇に繋がったという流れがあるから、話の筋としては風当たりが強くなったという変化として語るべきだろう。
そして花見の後、私への社会の当たりも強くなった。
これは断定形で語ることができる。花見の席で按摩師と懇意にしてたことが噂になり、それまで地霊殿の御曹司(続柄が妹でも御曹司という語が適切なのかは分からないが、私に対してはこの語彙が用いられていた)という属性でその属性故不可侵だったのが、社会ののけ者たる按摩師の味方という属性が追加されてこの立場をもって私に攻撃することが法的にではなく社会の空気として許されるようになった。
この変化はそれまで商品を一個おまけしてくれておた駄菓子屋がおまけしてくれなくなるという正からゼロの変化としてまず現れ、次いでわざと質の悪い商品を処分するのに私を使うというゼロから負の変化として現れた。意地の悪いことに、私が按摩のグルだからという理由でそういう仕打ちをして、反論は私が地霊殿のお嬢ちゃんという立場ある存在だからそんな大人気ないことはしないよねという心の中での一方的了承でもって封殺してくるのだ。
もっとも、逆に駄菓子屋の仕打ちが意地悪という程度で収まっていたように、私への仕打ちは実のところそんなに酷くはなかった。常に私が地霊殿の妹であるというのが天秤の片側にあったから、例えば直接に危害を加えたら姉に報復されかねない、精神的なものでも告げ口される可能性を考えると、言い訳のしようもないくらいこちらに非があることはできないという自制が地底社会全体にあった。それに、迫害は地霊殿を取り囲む生け垣を境界としてその外側でのみなされたことであって、内側では庭に生える薔薇も、屋敷に住まう何十、百の単位かもしれない数の動物も私を差別しなかった。お姉ちゃんですら、私に対してあの按摩師と仲良くするとは随分な変人ねと不思議がりはするものの、あくまで自分と性格が違うというのを確認するだけで私が可愛い妹であるという事実をねじ曲げるものではなかった。私は聖域を得ていた。
だから私は自身が社会的には不安定になりつつあるという状況に陥ってなお自分よりも按摩師を憐れんだ。彼の地位を示す天秤は壊れていたから皆無限に重荷を乗せたがっていたし、聖域と言えるのは多分地底一家賃の低い四畳一間とかそのくらいの貸長屋と思われた。しかもその聖域の食事事情は果樹しか食料のないエデンの園とそう変わらないのだろうということが、心を読まずとも、いよいよ柳の枝と相似形になった姿を見ることで容易に想像できた。余裕がなくなったことでお菓子もくれなくなった。
按摩師に関するグラフの全てが下落していて、そのままでは早晩値ゼロの死かそうでなくても閾値を下回っての休職になるのではないかと私は気をもんだ。が、彼は
「大丈夫だよ」
「お嬢ちゃんに気遣われるほど落ちぶれてはいねえや」
などといって善意にすら取り繕うとはしなかった。やせ我慢ではないかと私は悲しくなった。
私が悲しくなった次の日も変わらない発言を纏い按摩師は来た。更にその次の日も。
そこから一ヶ月して、按摩師は言葉を纏わなくなったが、それはついに精魂尽きたからではなく私が殊更に指摘しようとしなくなったからだ。予想外なことに按摩師を苛ましていた下降線は閾値の上で平衡した。
「何一つ不自由などしていないさ」
これを口でも言うし腹の中ですらそうというのが本当に不可解だった。が、事実として、枯柳のような姿は、鬼の体型としてそれが相応しいのかという問題は抜きにしてそれより細くなるということはなかったし、体力が落ちて施術に支障が出るということもなく、政治が分からぬうちのペットからは施術の良さから相変わらず好評だった。
「給料が上がったの?」
私は按摩師とお姉ちゃんにそう聞いたが、前者は穏やかに、後者は迷惑そうに、感情は違うが答えは同様に、上がりも下がりもしていないという否定だった。迫害とは経済的には同じ金でも貰える量が減るということだと身にしみて感じていたから、迫害されてるこの中年の鬼がいかにして痩せすぎにしてもその体型を維持しているというのが謎だった。が、人のプライバシーに無闇矢鱈と野次馬しないという倫理を持ち合わせているくらいには私は育ちがよかったので、彼が不自由していないと思っているならまあいいかとの納得でこの件は終わらせようとした。
†
私は、幸福とは言わないまでも見た目ほどには不幸ではないというこの日常が永遠に続くものだと無邪気に思っていた。
それは唐突に終わった。按摩師が窃盗をして捕まったのだ。
その日もいつもと変わらない様子で彼は来て仕事をした。確かに心を読まなかったから内心どう思っていたのかというのは分からなかったが、少なくとも表層心理まで苦痛、恨み、その他犯罪につなかまるような状態では決してなかったというのは保証できる。私は彼を信頼していて、信頼に値する者への礼儀として心は読まなかった。
一方お姉ちゃんも按摩師の心は読んでいなかったようだ。ただ私とは理由が逆で、「言わずとも所詮信頼のできない奴」というのが根底にはあったのだろう。
この認識の違いは、按摩師が施術の帰りに突然廊下に飾られていた銀製の置物を手にとって懐に仕舞ったときに現れた。私はあまりにも予想外だったから玄関の扉に手をかけたまま思考停止して固まってしまったが、お姉ちゃんはまるであらかじめ打ち合わせでもしていたかのように眉一つ動かさず、しかし打ち合わせの八百長でない証拠に明確な敵意をもって、攻撃を仕掛けた。
「おっと、捕まるわけにはいかないねえ。こっちも生活がかかってるんだ」
背後からの弾幕は普通は大いに手を焼くものだと思うが、按摩は目が見えることは不要でむしろ足枷とでも言わんばかりに、お姉ちゃんの攻撃が最も単純な弾幕かのように避けていった。
私は彼の心を読んだが、やはり窃盗に繋がる悪意は微塵も見て取れず、心中と現実の乖離にこれは夢なのかと錯覚した。ただ、「これは至極当然なことである」という心理は明確にこの按摩師にはあり、この「これ」が今彼がしていることにかかってるのだとしたら? 「当然」が、かつて羅生門で「己もそうしなければ、饑死をする体なのだ」と吐き捨てて追い剥ぎをした下人と同様の倫理に基づくものなのだとしたら?
さとり妖怪は心を読める。が、それは心に対しての全知は保証しない。人は視覚や嗅覚を持つから腐った林檎と腐っていない林檎を見分けることができるが、一方で食用キノコと毒キノコの見分けがつかなかったばっかりに死んでいった人間は枚挙にいとまがない。
この、ある感覚を持っていることは全知とは異なる、という事実は逃走を試みる按摩師にも当てはまった。外に出ていたお燐が偶然か騒ぎを聞きつけてなのかたまたま帰ってきて(これは本当に偶然だったから私も予見できず、勢いよく開かれた扉に跳ね飛ばされてしまった)、半ば反射的に弾幕を放った。按摩師は多分、殺気を第六感で検知してお姉ちゃんの攻撃をかわしていたが、お燐の攻撃は殺意によるものではなかったので、普通に目が見えるのなら余裕で抜けることのできる単純な交差弾に撃ち抜かれた。
†
捕まった次の日には按摩師は広場の見世物になっていた。後ろ手に縛られてうつ伏せに倒され、首の上に錆びたノコギリを当てられている。
司法が去って久しい旧地獄では逮捕から刑の執行までが極めて迅速に、かつ独裁的になされる。これもお姉ちゃんがしたことだろう。明らかに処刑を見世物にしている。その倫理的是非を問う意味はここではない。あえて問うならば、これは是なのだ。地底とはそういう場所。あるいは、地底倫理から血なまぐさい暴力を除こうとしたお姉ちゃんも、暴力なしでの統治は不可能と悟り、「合法的暴力」というのを模索しはじめたのか。真意がどちらかは心を読めば分かることだが、私はとても読む気にはならなかった。
中国で行われていたらしい処刑方法に着想を得ていたというのは明白だった。あえて切れない錆びたノコギリを通行人に引かせて断首することで即死ではなく苦しみを持続させることができる。ただ鬼でノコギリを引く者はほとんどおらず、代わりに殴る、蹴るといった(低い位置に磔になっていたので、蹴りを選ぶ鬼が圧倒的に多かった)より直接的な暴力がなされた。
按摩の顔は酷く腫れ上がりその膨らみは傷と砂と泥で元の皮膚が見えぬくらい塗装されていた。その汚れが塗りたくられた顔が少し上がり、私の方を向いた。まさか動くとは思っていなかったのか鬼たちは驚愕し、按摩と私との間の人だかりはモーセを目の前にした海の如く割れた。不可視の線での結びつきができると、周りで按摩に驚愕していた鬼の感情は私への軽蔑に少しずつ変わっていった。ほら、あの非常識な地霊殿の妹がクズを哀れんで助けに来たぞ。のけ者がもう一人お出ましだ。
救いようのないことに、当の按摩師本人すら私が彼を助けに来たものだと考えていた。
「なあ、嬢ちゃん。縄をほどいてはくれないかね……」
心が読めるが故にその瞬間に感じとってしまった異常さよ!! 鬼は加虐を求め按摩師が加虐から逃れることを求め、両者は価値観において全く対立していたはずなのに、私が現れたのを見つけた瞬間に「私が按摩師を助けることを期待する」という方向に意見が一致した!! 彼が救いの声を発する前も、発した後においても!!
そう、鬼も私が縄を解くことを期待していた。そうすれば公然と殴れる肉体が一つから二つに増えるから。しかも二つ目地霊殿のさとり妖怪の一人、鬼にとっては生け好かないのに社会階級上丁重に接することを義務付けられていた目の上のたんこぶ。表情で白い目の嫌悪を私に向けながら、心の中は穢れなんてものを知らない無垢な子供のようにしていた。
この状況下で何か一ミリでも按摩師の利益になる行動ができるわけがなかった。その異様な空気は、最早特別心が読めるさとり妖怪だからこそ分かるというものではなく、普通の感性ならば容易に感じ取ることができるだろう域にまで熱せられていた。
私は踵を返して走り逃げた。
私はあの場における一種の堰であったらしく、私が物を投げても按摩には届かないくらい磔の現場から遠ざかった瞬間、肉に向けて足を蹴り落とす音が幾重にも聞こえた。
六感の全てが機能しているときよりも、一部の感覚が使えないときの方が他の感覚は研ぎ澄まされる。距離と方角から惨劇を視覚と嗅覚で感じ取ることができなくなった私の心に、嗚咽と憤怒と狂喜が容赦なく入り込んできた。私には黒い毛皮に光り輝く目と顔からはみ出した牙を持っている巨大な怪物が兎のような獣を貪り食っているイメージがあった。やがて嗚咽する兎の声はもう届かなくなり、怪物は私に迫ってきたから私は足をさらに速めて逃げたが、憤怒と狂喜の影はむしろますます巨大化して私と距離を詰めてきた。
地霊殿の玄関の扉を開き――私はこの瞬間ほど扉が重い石造りであることを恨んだことはなかった――つんのめって倒れ、振り向きざまに起き上がりながら扉を閉めて――私はこの瞬間ほど扉が重い石造りであることに安心感を覚えたことはなかった――ようやく怪物の追跡を振り切った。でも建物の外壁を挟んだすぐ外側に怪物が徘徊しているような気分は消えず、その日の残りは自分の部屋に閉じこもって震えていることしかできなかった。
†
次の日も私は外を徘徊する悪意に怯え、館に引きこもっていた。
その次の日も私は外を徘徊する悪意に怯え、館に引きこもっていた。
またその次の日も。
更にその次の日に、私はお姉ちゃんが使っていた裁縫道具を物色して、一番太い糸と針を借りた。心が読めたところで何一ついいことなんてないのだ。二度と読めないように、目を塞いじゃった方がいい。
私は大きな木組みの椅子に座って、第三の目の縫い合わせをした。針を刺すごとに目から赤い液体と透明な液体が溢れ、紫色の目も淡い黄色の服も白色のテーブルクロスも濡らしていったが、私は痛みに耐えて手を動かした。
一刻経って手術が終わった。私は汗だくの体で床に倒れ込み、疲労が目の痛みを上回っている間だけは寝ることができた。
†
気がつけば日付けも変わっていた。痛みは全くない。
朝ごはんを食べるために食堂に行ったら、お姉ちゃんがいつもの眠そうな目でこちらを見ていた。
「あら、目を閉じてしまったの。なんて愚かなことを……」
お姉ちゃんの後ろの壁にはゴキブリがいた。遅かれ早かれ両者は遭遇し、お姉ちゃんは悲鳴を上げることになるだろう。心が読める世界がすべてだと思ってるんだから。それが面白かった。
金切り声をBGMにジャムを塗ったパンを食べた。小麦の匂いが青々としているように思えた。小麦の旬は今頃なのだろうか? 街外れの粉挽き小屋(お姉ちゃんが「地底の産業革命」とか格好つけて導入したものだ。一応擁護すると、パンはともかくうどんは鬼や怨霊も食べるので需要はちゃんとある)も繁忙期かもしれない。今日の行き先はそこにしようか。
朝食を食べた私はすぐに外に出た。夏の終わりを迎えた大通りは、建物も地面も地面に生えた草も原色に近い彩りで光っていた。地獄蝉の生き残りの鳴き声が微かに聞こえる。虫の繁殖という観点からはこいつらは伴侶を未だ見つけられていない負け犬。だが、このくらいの数の方がやかましくなくてよろしいと、環境音芸術として見るならば世界の最終選考を突破したエリートの蝉達である。気温も、夏服で過ごす分にはだが暑すぎもなくちょうどいい。散歩するのにいい季節だ。どうして数日も外に出ていなかったのか。私はその理由をどうにも思い出せなかった。
「おお、地霊殿の妹さんじゃないか」
建物前にいたどこかの店の店主の鬼が、いつも通りに豪放磊落な笑みを浮かべて私に話しかけてきた。
世界は、昨日までよりずっと輝いていた。
確かに他者様の幻想郷にもその物語がありました。心が読めてしまうことがこいしに如何なる苦痛を与えるのか、そのワケは、道程は、どう閉ざす? そこに圧力がかかるように思います。
これに按摩職要は感覚を一部閉ざしている者を取り上げたのはシナジーあって大変綺麗な構成に見えます。閉ざすことの肯定的立場。身分ともにさとりとは真逆のようなのもまた整っている。こいしが瞳を閉じる選択をするに足る窮屈さ、重苦しさ、耐えきれなさを身に身に感じました。
「鬼は花より団子で団子より喧嘩」
おもしろい。
「ご飯や甘酒を「米を丸めた料理」とするならばこれは「米を針のように徹底的に、度を過ぎて尖らせた料理」だ。」
「度を過ぎて」という表現をあえて選んだのって「過度(角)」と掛けた対比でしょうか。だとしたらけっこう好きかも。そもそも米を針にたとえるのもおもしろい。
「地霊殿の玄関の扉を開き――私はこの瞬間ほど扉が重い石造りであることを恨んだことはなかった――つんのめって倒れ、振り向きざまに起き上がりながら扉を閉めて――私はこの瞬間ほど扉が重い石造りであることに安心感を覚えたことはなかった――ようやく怪物の追跡を振り切った。」
クライマックスに最高の印象を与えています。この絶望と焦りの感たるや。目見開き冷や汗まみれ。扉を閉ざす時の彼女のいちいちが浮かびました。
長々とすみません。大変おもしろかったです。
姉妹が正反対の理由で心を読まない、対比の構図が作られているのも印象的でした。(さとりはさとりで立場上妹以上にいろんな物を見過ぎてある意味妹より先に心が完全にスレてしまったのかなとか、色々考えさせられました)
面白かったです。
こいしはそれに耐えられなかっただけなのかと思いました。
面白かったです。
面白かったです
按摩師に対してなぜか戦闘能力の高いイメージがあったため普通にボコられててそらそうだよなという気になりました
この按摩師にしてもなんか仲良さげだったのに急に盗むし迷いは無いしで不気味さを感じました
割と迫害されてなんぼみたいな奴らばっかで良かったです。基本的に嫌われる奴らが集まった空間で、かつその中の身分なので胸糞みたいな雰囲気になるのは納得行きました。按摩師の心情を理解するのは本当に難しかったのですが、こいしも按摩師のお互いの心情がよく描写されていて良かったです。
しかしまぁ、気味の悪いオチです。自ら感受性を鋭くするどころか、鈍くしている。そうして世界が輝いて見えるというのは、う~~~~む気持ちが悪い。地獄という世界をよく表されていますね。面白かったです。