Coolier - 新生・東方創想話

十三年階段

2025/02/08 20:59:53
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『十三年階段』
 
 五分間が命取りの世界だ。たった五分間、便所に行っただけでわたしの荷物が綺麗さっぱりに無くなっている。わたしの財布や、わたしの個人情報や、河童の企業秘密の全てをぶち込んだアホみたいにでかいリュックサックが、たったの五分間、便所に行っただけでどこかへ行ってしまった。付喪神にでもなって勝手に歩き出したと言うわけじゃないんなら、誰かが持って行ったということになんの疑いも持てない。

 わたしは座っていた席に戻り、隣の金髪の奴に声をかけてみる。ここにあったリュックを知らないか?
 「知らない」
 「嘘だろ?」
 「リュックってなに?」
 「……」
 金髪で緑色の目をした美人は、優雅に酒を飲んで、自分の人生からわたしという存在を追いやった。わたしは周囲を見渡したが、わたしの荷物はやっぱりどこにも無かった。
 「へい、マスター……」誰も飲み物なんか頼んじゃいないのにシェイカーを振り続ける妖怪のマスター。
 「あんたの荷物のことなんか、知らないね」
 「そうかい」
 「なにか頼んでくれよ」
 「じゃあ……」カウンターの向こうの棚に入っている酒瓶を見繕う。「そこの青いラベルの奴」
 「ない」
 「……」
 隣の金髪の美人が、なにがツボにハマったのか知らないけどケタケタ笑った。
 「あんた、どこから来たの?」と、金髪。
 「地上から……ってか、お前、わたしのこと知ってるだろ」
 「地上に知り合いなんかいないわね」
 「地上の地獄から来たんだ……地獄みたいな目に遭ったって意味ね」
 「あら、河城じゃないの。そんな気がしてたわ。店に入って来た時のあんた、妙にイラついてたものね」
 「別に」
 「この不幸な河童にわたしと同じ酒を出してあげて」
 マスターがよし来たと言わんばかりにシェイカーの中に入っていたカクテルを床にこぼし、そこに新しい酒を入れてく。

 こんな鼻持ちならない店に来たのは、鼻持ちならない女にふられたのが原因だと言うことを、水橋パルスィに悟られてはならない。他人の不幸、それも嫉妬がらみの不幸にまつわる話を聞くと、水を得た魚のように元気になる肝っ玉の小さいヤローだ。こんな奴にわざわざ酒の肴をくれてやるつもりなどない。

 鼻持ちならないマスターがシェイカーを振る。わたしがカウンターの裏を覗き込むと、おれは生まれてこのかた不誠実なこととは無縁だと言うような顔をされた。わたしのリュックはカウンターの裏にも無かった。

 「なに飲んでるの?」手持ち無沙汰になって、パルスィに話しかける。
 「ギブソン。カクテルにも花みたいに言葉があってね、これは『嫉妬』の意味を持つお酒らしいわよ」
 「インターネットで調べたのか?そんな酒を飲んだって、なんの証明にもならないよ」
 「インターネットって?」
 「ギブソンです」マスターがわたしの前にグラスを置く。「いつも彼女のために作ってるんで、腕は保証するよ」

 わたしは鼻持ちならない酒を飲んだけど、味よりも別のことが気がかりだった。
 「こんな名前の酒は知ってるのに、リュックがなにかを知らないのか?」
 「あんたはリュックを知ってるけど、このお酒のことは知らなかった。それと同じよ」
 「店に入った時に背負ってた奴だよ。文脈でわかれ」
 「そんなにリュックのことが気がかりなら、さっさと探しに行けば?」
 「いや……」
 「大事なリュックのことを後回しにするほど、別のなにかが気がかりなのね」
 どうせなにもかも見透かされていると言うのなら、自分から洗いざらい喋ってしまうこととなんの違いがある?
 「女にふられたんだ」
 言うや否や、パルスィが飲んでいた酒を噴き出した。まるで今の自分には『嫉妬』を意味する酒なんか必要ないとでも言うかのように。
 「マジ?」大笑いをするための助走だと言わんばかりに質問をしてくる。「本当にふられたの?」
 わたしは背中を押してやる。「ああ、こっ酷く」
 「へえ……じゃあ、どんな風に?」
 「『あなたの心はいつも機械の方に向けられてる』って。身体は近くにあっても、心は遥か遠くにあるんだとよ」
 「あはははっ!」パルスィの笑顔が弾ける。こんな経緯じゃなくて、パルスィのことなんかなんにも知らないなら、惚れてしまいそうになる笑顔だった。「いつも機械の方に向けられてるって?それって、河童にとってサイコーの褒め言葉じゃない?あははははっ!」

 くそ、やっぱり喋るんじゃなかった。マスターが腹を抱えて笑うパルスィを見て、シェイカーを上下させる手を自分の下腹部に持って行こうとする。わたしの不幸で寂れたバーが少しだけ和む。こんな些細なことで幸せになれる連中だ。わたしが石に躓いただけで、ここの住民をみんな笑い死にさせられるんじゃないか?

 だけど、リュックのことでそんなに慌てていないのも事実だった。もう地上なんかに戻ってやるもんかと思ってここへ来たわけだし、失うものなんかなんにもないという感覚は、なるほど、こういう感じか。わたしは天井を見上げ、その先に広がる岩盤を見透し、地上で涙ぐむ鍵山雛の姿を想像して、彼女の気分になってギブソンをあおった。失ったものの価値に気付きやがれ、あのアマ!

 「未練があるみたいね」
 パルスィがわかったようなことを言い、実際、それは正しかった。他人から嫌われるために、地底の奴らはみんな読心能力でも備えてんのか?
 「ないし」断固として言う。「あんな女に未練なんかないし」
 「ねえ、この哀れな河童さんに同じお酒を淹れてあげて」
 「いらん、いらん!」
 マスターが慣れた手つきで酒を作り、わたしの前に置く。けっ、飲まなきゃやってらんねぇ!
 「言っとくけど、リュックの中に財布を入れっぱなしで、こっちは無一文だからね」
 「安心して、お金以上に価値のあるものを既に貰ってるから」
 「嫌な奴しかいないな、ここは!」
 「だから来たんでしょう」
 「まあね」
 
 グラスが空になると、マスターがパルスィに目配せをして、グラスを酒で満たす。わたしはすっかり酔っ払って、鍵山雛のことを捲し立てる。彼女と共に過ごした夜のこと、彼女と迎えた幸せな朝のこと、彼女を幸せにするために作った道具や、それにかかった予算のこと。パルスィに聞かせているうちに自分の中で雛がどんどん良い女になり、ふられたのが自分のせいなのではないかと認めてしまいそうになる。
 「妬けるわね」と、パルスィもギブソンを頼む。「そんな良い女と少しの間でも付き合えた自分の幸運をもっと噛み締めるべきよ」
 「階段を踏み外したらな、そこまで登ったことの意味なんか無くなっちまうんだよ。楽しかった時間が、眠れない夜には地獄の責め苦に変わるんだ」
 「低い段階で踏み外せて良かったわね」
 「いいか、妖怪の換算でもな、十三年って言う月日は充分長いんだよ」
 
 十三年間。思えばそんなに長く付き合っていたのか。出会った時の思い出が霞むほどの年月だ。もしもギネスに「厄神と最も長く付き合えた人物、或いは妖怪」みたいな項目があったら、間違いなくわたしの名前が載るだろうな。
 「だいたい、どういう関係よ。河童と厄神って?」
 「そういうデリカシーの無いことを言われるたびに思うんだけどな」わたしはこの界隈が火の海になることを期待して、タバコに火を付ける。「種族間の恋愛に口出しするのがなんらかのハラスメントに該当しないのかなってな」
 「調べりゃあるかもね」パルスィがギブソンを二つ注文する。「垣根を超えた恋愛……これは間違いなく嫉妬の味ね、ちくしょう」
 「もう飲めないや」目の前に置かれた酒から目を逸らし、タバコを吸う。「マスター、飲んで良いよ」
 「おれ、酒飲めないんすよ」
 「……」

 飲まずにはいられない。地上ですら酒を飲めない奴は顰蹙を買うと言うのに(こういうのを外の世界じゃアルハラと言うらしい)、地底で酒を飲めない奴はいったいどうなってしまうんだ?こんなうらぶれたバーで、嫉妬に狂った女のために酒を出すくらいしか、この先の人生(?)に楽しみを見出すしかないのか?
 そんな風に考えて、思い出す。あのリュックの中にはそんな連中のための企画書が入ってたんだっけ……

 「まだ飲む?」と、パルスィ。
 「良いか、わたしに奢ってるからって良い気になるなよ。そんなことをしたって、お前が嫉妬の苦しみから解放されることは無いんだからな!」
 「顔でも洗ってきたら?」
 そうした。
 水道から出てくる冷たい水は、最後に聞いた雛の声よりは温かみがあった。酔眼が鮮明に世界を映し出し、鏡が本当のわたしを映し出す。やつれたわたしの姿を。雛が生きていることが、ひどい理不尽に思えてくる。
 胃から込み上げてくるもので窒息死しそうになったので、個室に入った。
 「あっ!」思わず声をあげた。
 「どうしたの?」パルスィが後ろから覗き込んでくる。「あっ!」
 便器の上に鎮座ましますそれは、紛れもなくわたしのリュックだった。
 「……リュックと一緒に便所に入ったんだった」

 
 リュックが見つかってしまったせいで、勘定も割り勘になってしまったが、パルスィが艶っぽくマスターの耳元でなにかを呟くと、どういうわけか勘定を少しだけ負けてくれた。地獄の沙汰もそんなに金次第じゃないのかもしれない。
 外に出ると、冷たい風がわたしとパルスィの間を吹き抜けて行った。昼間に店先に置かれていた看板や提灯が仕舞われていることだけが、今が夜だと言うことを証明していた。
 「どこかに泊まるアテはあるの?」手をこすり合わせながら、パルスィが尋ねた。
 「重い荷物を枕にしようと思ったんだけど、馬鹿みたいに寒いな」
 「水の中で暮らす河童でも、野宿なんてしたら凍死するわよ」
 「旧都の冬の風物詩になるのは御免だね」

 わたし達は口を結び合わせて、店が連なる街道を歩いた。寒すぎて喋る気力もなかったが、歩いたくらいではなんの気休めにもなりゃしなかった。
 「ねえ、わたしの家で飲み直さない?」パルスィはここで暮らしてる分、寒さに慣れてるらしい。
 「散々飲んだっつーの。寝床を提供してくれるんなら考えるけど」
 パルスィが小さく頷いた。
 「マジ?」
 「なによ」
 「いや……」寒さのせいではなく、言葉が見つからない。「優しいね」
 「それ、古明地にも言われたことある」
 「あいつならきっと本心だろ」
 「あんたは?」
 「本心だよ」
 「あーあ」隣を歩いていたパルスィがやにわに前に出て、立ち塞がった。「こんなもんで優しいなんて、あんた、どんだけぬるま湯に浸かってんのよ。本当に嫉妬しちゃう」
 「なんだよ?」
 「ここからが、わたしの優しさの本領発揮。ねえ……」
 パルスィが近づいてきて、彼女の細い指がわたしの顎を撫でる。
 「冷たっ」
 「忘れさせてあげようか、雛って女のこと」
 「え?」
 
 しばらく見つめ合ったのは、たぶん、どちらも腹の中を探り合っていたからだと思う。わたしはパルスィから政治的な打算を、パルスィはわたしの弱みを。
 
 「パルスィ……」わたしは彼女の手を払った。「飲み過ぎだ」
 リュックが見つかったことや、彼女の本心かもわからない優しさは、わたしの傷心に対してなんの慰めにもならない。十三年と言う長きに渡る思い出は、ちょっとやそっとの埃で埋もれさせることはできないのだ。
 「はあ」パルスィが白い息を吐く。「そんなに根深いのね」
 「重傷だよ。その上で傷つくことを望んでるのかもしれないな」
 「外で寝たら、本当に死ぬわよ」
 「それはどうかな?」

 わたしは店と街道に跨る橋の欄干の上に飛び乗る。
 「ちょっと!」
 「もしかしたら、水の中は外より暖かいかもしれないぜ」
 水路に飛び降りる。そこそこの深さで、まるで今のわたしの心境みたいに濁っている。他に生物がいるような気配はないし、外よりも過ごしやすいと言うのは確かだった。
 水から顔を出すと、パルスィが心配そうにわたしを見下ろしていた。
 「今夜はここで寝るよ!」
 パルスィは呆れたように肩を竦めた。怒っているかもしれない。わたしとて、優しさを無下にしてしまったことに対して罪悪感を覚えないでもない。
 それでも、誰かの優しさで雛との優しい思い出を上書きしたくなかった。

 「パルスィ!」なにも言わずに顔を逸らす彼女を呼びかける。「また飲もうぜ、きょうだい!」
 やはりなにも言わずにパルスィは去った。もしかしたら、とあり得ない可能性について考えてしまう前に、わたしは目を閉じ、思考を終わらせ、水の中で朝が来るのを待った。

 ※

 なにかがぶつかって来る衝撃よりも、鼻が捻じ曲がりそうになる圧倒的な臭いで目を覚ました。旧都は全体的に臭いが、その中でもとりわけて臭いなと思った。なにかと思って目を凝らすと、さっきからぶつかってたのは内蔵を丸出しにした人間の死体だった。
 
 大急ぎで水から上がって、瘧みたいに身体を震わして水気を払う。旧都はとっくに朝だった。
 「姉ちゃん、大丈夫か?」腹の中の水を吐き出してると、頭のハゲ上がった親父が背中をさすってくれた。「あんた、水の中で死んでから蘇ったのか?」
 酒を飲んだあとで水の中で眠ってはいけない。頭がガンガン痛み、胃の中が空っぽになるまで吐き、手や足の先が物凄く冷えてもんどり打っていても、通行人達は「ここじゃ誰だって朝はそうなるんだ」と言わんばかりに通り過ぎ去っていく。
 「水、ちょうだい」ダメ元で親父に言ってみる。
 「散々飲んだんじゃないか?」
 「お願い……」

 親父が死体でも見つけたみたいに、おおい、水だ、と叫ぶ。すると、朝っぱらから酒を飲んでいた奴らが水を持ってぞろぞろとやって来る。まるで水をあげた順番からわたしの身体を好きにしても良いと言う約束事があるみたいに。
 「ありがと」一人から水を受け取って飲み干すと、他の親切な人達はまたぞろ自分の人生に戻って行く。「助かった……」
 「水路の中でなにをしてたんだ?」ハゲた親父はまだそこにいた。
 「色々あったんだ」
 「そうか」色々、で済ませてしまえるほどに、旧都では色々なことが起こる。「まあ、死にたくなることもあるわな」
 「別にそういうわけじゃ……」
 「あんた、おれの息子と合わなかったか?」
 「え?」空っぽのコップを地面に置くと、別の奴が水を注いでくれた。「知らないな」
 「誰かに刺されて、血塗れになりながら歩いてるって、昨日の晩に聞いてな。内臓も飛び出てたらしいんだが、それだったら目立つよな」
 「……」 

 『親切』と言う言葉の意味を辞書で引いてみたくなった。どうすれば誰も傷付けずにこの場を切り抜けられる?さっき会いましたよと教えてやるべきか?息子の死を知って、この親父が後を追うようなことがあったら、わたしが苦しまなくてはならないのか?
 幸いなことに、親父はわたしの答えになんの期待も抱いていないみたいだった。百回くらい別の奴に同じ質問をしているのかもしれないけど。
 「色々あったんじゃないか?」わたしは言ってやった。「子供はいつか親から離れるもんだ」
 「そうだな」親父はとっくに息子の死なんか乗り越えてるみたいに冷静だった。「それが一番だ」

 そう言うと、親父もまた朝っぱらから酒を飲む集団に混じり、可哀想な父親からどこにでもいる飲んだくれに成り果てた。

 
 わたしは昨日の記憶を辿り、パルスィと飲んだバーを探し当て、ドアの前に立った。見慣れない文字が書かれた看板をぶら下げてあったが、頓着せずにドアを開くと、妖怪のマスターがカウンター席に座ってなにかを扱いていた。カクテルを作る練習をしているのでなければ、パルスィのことでも思い浮かべているのかもしれない。しばしその光景を眺め、向こうがこちらに気付くのを待ったが、なかなかその時が訪れない。

 「おい」声をかけると、マスターが恍惚の表情でこっちを見た。自分でもなにをしているのかわかっていないみたいだった。「勘弁してくれ」
 「あわわわ……」ようやく自分の置かれた状況が飲み込めたマスターは、露出しているものをどうにかして隠そうとした。「ざけんなよ!『CLOSE』の文字が見えなかったのか⁉︎」
 「見えたけど、読めなかったんだよ」
 「くそっ!そんな客ばっかりだ!」
 マスターが悪態を吐きながらカウンターの奥にる事務所にでも引っ込む。扉の向こうからギッタンバッコンと激しい音が聞こえてくる。壁を殴っているのでなければ、自殺でも試みているんだろう。
 やがて事務所から出てきたマスターは、うらぶれたバーのマスターに相応しい格好になっていた。
 「いらっしゃい。バー『MIZUHASHI』へようこそ」
 「……」
 
 みんな自分がなにをすべきかわかってる。わかってないのは、きっと世界中でわたしだけだ。どんな不渡りを出しても、それを後ろへと追いやること。それが今のわたしがやらなくてはならないことだ。それができるこのバーのマスターや、息子を殺された親父は強い。それに比べて、河城にとり、お前はどうだ?女にふられたからって、それがなんだってんだ?そんなことで自分を見失う程度で、旧都で暮らす権利が与えられると思うなよ!

 「店、まだ開けてないんですけど……」
 「クローズ、ってそういう意味だったの?」
 これだから河童は、みたいな顔をされてしまった。
 「まあ、いいじゃん。居させてよ」
 断固としてここを動くつもりは無いという意思を見せると、マスターは事務所にさっきの続きを再開しに行った。

 わたしはカウンターに、背負うのも億劫な巨大リュックを置き、中身をあらためる。財布、個人情報、そして大事な企画書は水に流されることなくちゃんと入っていた。

 企画書、と言ってもほとんど実行に移されると言っても良い。地底に来たのは雛にふられたせいばかりではない、ここに新たな遊び場を提供してやることが目的だったのだ……嘘だ。でも、ここならこの企画が失敗しても、そんなに痛手にはならないと思う。
 
 目的は、大人向けの、それも金持ちや金を使うことに頓着しない人間向けの遊び場だ。これまで河童はキャニオニングやプラネタリウムなどと言った様々な事業に手を出してきたが、来る客は若い奴らや妖精とか、そんなんばかり。本当に金を持ってる大人から巻き上げるにはどうしたら良いかと外の世界の文献にまで手を出して調べたところ、ドンピシャなものがあった。
 
 と、店のドアが開かれて、反射的に企画書をリュックにしまった。見やると、パルスィがこちらに緑眼を光らせていた。驚いているようにも、やっぱりね、と言いたいようにも見える。
 「河城、ここ、気に入った?」
 「いや」会釈をして、身体ごとパルスィの方へ向き直る。「この店ならないがしろにしても良いような気がしてね」
 今度は事務所の方のドアが開かれる音。そっちの方を向くと、マスターが顔を少しだけ覗かせて、こちらを見ていた。下半身を見られたくない事情でもあるみたいだった。
 「パ、パルスィさん⁉︎店はまだやってないですよ!」
 「あら?」パルスィが入り口の方を見やった。「看板『オープン』になってたけど」
 「ああ、わたしがやっといた」
 マスターがいそいそと事務所に引っ込んで、中で何事かガサゴソやる。化粧でもしてるんじゃなければ、二回戦に突入しているんだろう。
 「この店ならないがしろにしても良いって言うの」パルスィがわたしの隣に座った。「すごくわかる」
 「あんたの名前が付けられてる店だから、妙に親近感が湧くよ。さっき知ったんだけどね」
 「うん。自分の名前の店だから、どう扱っても良い気がする」

 やがてマスターが事務所から出てきて、わたしに憎たらしい一瞥をくれた後に、パルスィへ誰からも愛されそうな輝かしい笑顔を向けた。
 「今日は随分とお早いご来店で」マスターは手をモミモミやった。やはり妙に親近感が湧く。「なにか飲みます?」
 「河城はなんか飲む?」
 「うーん……」
 酒を飲みたい理由はある。と言うか、現実逃避をしたい理由。酒を悪者にするのは申し訳ないけど、現実逃避の片棒を担がせるのに丁度いいのは酒くらいしかない。
 「ここじゃあ朝っぱらから飲んでたって、誰にもなにも言われないわよ」悩み始めてからまだ三秒くらいなのに、パルスィはわたしの矮小な気がかりを見透かしていた。「良いんじゃない、ようやく解放されたんなら、羽目を外しても」
 「解放ってなんだよ」
 「本当は孤独でいられる所が正しい場所ってことね」
 
 パルスィがいつもの、と言うと、マスターは今この時のためにさっきまでマスかいてたんだと言わんばかりにシェイカーを振った。『いつもの』がパルスィの前に置かれると、彼女は早くも嫉妬の味に酔いしれた。
 「わたしはまだ、あんたの言うところの『正しい場所』ってところにはいないな」わたしも同じ奴を頼んだ。「だって、今はパルスィが隣にいる」
 「昨日はわたしの誘いを断ったくせに」そのせいで母親が死んだんだぞ、とでも言いたげな顔をされた。「あんたの心はね、まだ雛って女のところにあるのよ」
 「孤独じゃねえな」
 「いいえ、だから孤独なの。雛の心はあんたの近くには無いだろうから」
 「くそ」わたしは酒を飲み、グラスを空にした。「この酒の味がわかってきたような気がする」
 と、パルスィが隣で大笑いに笑って、マスターの脳裏に彼女の笑顔が突き刺さる。
 「それね、ギブソンじゃないわよ」
 「え?」
 「そのお酒はね、『愛情』を意味するの。そのお酒の味がわかったって?今夜のわたしの相手はあんたに決まったようなもんね」
 「……」
 
 くそ、酒の味もわからないくらいに途方に暮れてるってのか、わたしは?それに、パルスィの今夜のわたしの相手は云々かんぬん、どうにも冗談とは思えない響きがあった。
 パルスィの言葉と自分の思い込みを結び付けるあらゆる物事を焼き切りたい一心でタバコに火を付ける。どうかこの煙が見たくないものを全て隠してくれますように。
 「待てよ」ふと思い出して、わたしはパルスィの肩を叩いた。「あんた、さっき『いつもの』って頼んだよな。いつも愛情の味がする酒を飲んでるのか?」
 「いつも誰かと一緒にいたいって思うことが間違ってるって言うの?」
 「さっきは孤独こそ正しい場所だとか抜かしてただろうが」
 「正しいことをやれば楽しく生きられるわけじゃない」パルスィはマスターの愛情がたっぷり染み渡っているであろう酒をあおった。「あんた、自分が今どこにいるかわかってるの?」
 「あぁあ!」ちくしょう、パルスィじゃダメなのか、わたしよ!「マスター、きゅうりない?無性にきゅうりが食いたい」
 「キューカンバーサンドイッチならある」
 「頼む」

 いったいこんなところでなにをやってるんだ?こんなところには雛もいないし、わたしが誰よりも劣っているという意味で、わたしに相応しい人もいない。ここの住民は逞しいけど、少しでもその逞しさに絆されることもない。完璧に自分の殻に閉じこもってしまっているみたいだ。
 
 「ねえ、パルスィさん」と、マスター。「そんなに愛情に飢えているなら、おれと……」
 思わず身構えてしまう。パルスィを見やると、彼女の心はこの店のどこにも無いように見えた。サンドイッチが砂を噛んでいるような感触になり、そこから味さえも消えてしまった。
 「ごめんなさいね」パルスィは言った。なるべくマスターを傷付けまいとしようとしているみたいだった。「この店には客として来たいから」
 マスターが力無く笑った。嫌だなあ、冗談ですよ、と。パルスィも笑った。彼らの痛々しさが身に染みるようで、わたしは酒に逃げまくった。
 屋号に好きな女の名前を付けるほどの奴がそんな冗談を言うはずがないし、今のパルスィがそんな冗談を聞いて笑って済ませられるはずがない。マスターにはパルスィの拒絶が優しさの形をした別の感情だと言うことがわかっていたし、パルスィにはマスターの告白が冗談にかこつけた本気だと言うことがわかっていたのだ。
 この地底にも慈愛の神様でもいるんなら、ああ、どうかこの世界を消し去ってくれ!
 
 昔のことを思い出していた。十三年前、霊夢や魔理沙と言った歴史に名を残した少女達が山に入って来た時のこと。わたし達は二人を追い払う役目を担っていたけど、失敗してしまったこと。傷だらけのところをたまたま雛と出会って、イライラして大喧嘩をおっ始めてしまったこと。
 それからわたし達は度々出会って、喧嘩をしては酒を飲み、どちらからともなく夜を一人で過ごす寂しさを訴え出した。間違いが始まった瞬間は、紛れもなくあの時を置いて他にはないだろう。世界が崩れて、新しい世界が生まれた。
 今の状況はたった一つの間違いが生んじまったのだ。
 
 「待てよ」また、はたと思い出して、パルスィの肩を叩く。「あんた……あ、いや、聞いても良い?」
 「どうぞ」
 「傷付けちゃうかもしれないけど」
 「良いよ」
 「失恋でもした?」
 「……」
 「なんか、変じゃん。わたしを家に誘ったりさ、こんなに酒を飲む奴でもなかっただろ」
 「知らない」
 「どういうこっちゃ」
 「失恋ってなに?」
 「嘘こけよ!」
 「いや、本当に……」明らかに動揺しているのを隠せていない。「してないわよ」
 「今日は店仕舞いだ!」マスターが声を張り上げた。「さあ、お二人さん、帰った帰った!」
 断固として席を立つつもりは無いと言う態度を取ったが、マスターも頑固だった。下半身に用事でもあるのかってくらい、マスターの意思は強固で、代金はツケといてやるからと言われて折れざるを得なかったのはこちらの方だった。
 「サンドイッチ、美味かった」わたしは席を立ち、リュックを背負った。「これに免じて、今日のところは出て行ってやる」
 「マスター、ごめんなさいな」パルスィも席を立った。「無理させて」
 マスターがまた力無く笑った。「無理なんてしてないっすよ。また二人で来てください」
 わたし達は店を出た。
 
 外はまだ昼間だけど、昼間のうちから飲んどかないと夜を生きて乗り越えられないような連中がうじゃうじゃいた。時間や大事なことは、酒が全て流れさせていた。
 「……なにしてんの?」
 パルスィがバーの入り口のドアををちょこっとだけ開けて、そこから中を覗き込んでいた。わたしもパルスィに倣ってみた。
 中ではマスターがカウンターに突っ伏して、恨み言のようなことを呟いていた。
 「あれは嫉妬の涙ね」と、パルスィ。
 「パルスィ?」
 「他人の嫉妬は蜜の味。いつもありがとうね、マスター」
 「……」
 パルスィが静かに扉を閉め、自分の人生からマスターを完全に締め出す。わたしは、死神みたいな奴らが誰かの涙を啜って生きていくこの世界に対してなんにも思わないばかりか、それでこそパルスィだと安心してしまった。
 みんな、自分がなにをするべきかはっきりとわかっているのだ。


 昼間の表街道は、概ね朝と大して変わらなかった。朝に飲んだくれていた奴らは今も飲んだくれているし、話題も朝と大して変っちゃいない。わたし達はこの界隈じゃまともなんですよという面をしながら、そこを歩いた。
 「朝にな、ハゲた親父に聞かれたんだ」隣を歩くパルスィに、聞こえるともなく話しかけた。
 「なんて?」
 「おれの息子を見なかったか、って」
 「ふうん」
 「その息子は見たんだよね。水路の中で死んでた」
 「珍しい話じゃないわね」
 「そうだね」

 わたし達は無言で歩き続けた。無言の価値を知っていた。口を開けば、また誰かを傷付けてしまうかもしれない。パルスィはそれでも良いかもしれないけど、わたしは雛のことを思い出したくなかった。
 バーを出て、わたし達はパルスィの家で飲み直すことにしていた。「ねえ、わたしが失恋したかどうか知りたいなら、家で飲み直さない?」

 可愛いじゃないか!散々人の不幸を笑いやがって、今度はお前の番だ。そのせいで雛のことを思い出しても、それはそれで構わなかった。誰かと共有できる傷が欲しかったのだ。
 わたし達はあとどれだけ世界に痛めつけられれば良いのだろう?どれだけ時間に置いてかれれば、そこで見切りを付けることができるのだろう?期待できることがなんにもないこの世界に、どれだけ期待を裏切られ続ければ気が済むんだ?

 「着いたわよ」
 と、パルスィが言ったが、パルスィの家は他と殆ど外観の違いが無くて、着いたと言われても実感が無かった。表札も無いから、あのバーの方がこいつの家って言われても納得ができる。
 「入って」
 建て付けの悪い戸を開けて、パルスィが先に入って、後についていく。なんとなくドキドキしてしまう自分の浅はかさを呪ってやりたくなった。
 居間に入ると、全然知らないおっさんが布団の上で眠るか死んでるかしていて、一同固まった。かなり失礼だけど、パルスィのお眼鏡に叶うような見た目では無かった。そのおっさんがパルスィの家の布団で寝ているという事実が、どうにも結びつかない。パルスィがこのおっさんをわたしに紹介しようとしているんでもないなら、失恋でもしてくれていた方が遥かにマシだった。
 
 パルスィがおっさんを指差して言った。
 「誰、このおっさん」
 「……知るか!」
 パルスィがおっさんの出っ張った腹を踏み付けたが、おっさんは目を覚ますどころか声も出さず、あろうことか息さえ吐かなかった。
 「死んでる」パルスィが大した感動もなく言った。「めんどくさぁ」
 「この界隈じゃ自宅で他人が死んでてもおかしくないのか?」
 「たまにね……」
 ガラリと玄関の戸が開いた。
 「ちわーっす、死体を引き取りに来ました」いつぞやに見たことのある猫が車を押して押し入って来る。
 「どうしてここに死体があるってわかった?」と、わたし。
 「勘だよ。久しぶりだね、河童さん」
 「良いから、早く連れてって」パルスィが死体を顎でしゃくった。
 「はいはい。それにしても、嫉妬のお姉さんも隅に置けないね。この前は別の男を連れ込んでいたのに、今度は河童かい」
 思わずパルスィの方を見たが、パルスィの方はなんにも見ちゃいなかった。猫が車に死体を押し込んで、わたし達の邪魔をしちゃ悪いとばかりにそそくさと家を出て行った。

 パルスィが台所に行って酒の準備をしている間に部屋の中を物色する。他の人間が住んでいたことを感じさせるものはどこにもなかったが、ここでパルスィが生活をしているという痕跡もなかった。
 「なにか食べたいものある?」と、台所から声。
 「きゅうり」
 「ないわ」
 「タバコ吸っても良い?」

 パルスィが台所から酒とおつまみを持って来る。彼女はさっきまで男が死んでいた布団の上に座って、乾杯(なにに?)も待たずに酒をあおった。
 「ねえ、さっきの猫が言ってた……」触れて良いことか迷った。「男を連れ込んでたって?本当に失恋なの?」
 パルスィもタバコを咥えた。火を付けてやると、彼女は美味そうに煙を吸い、天井に向けて吐いた。
 「失恋と言えばそうかもしれないし、そうじゃないかもしれない」
 「わたしだって話したんだぞ」
 「教えてどうなるって言うの?」
 「傷を舐め合えるかもしれないし、失恋の先輩としてアドバイスを送れるかもな」
 パルスィが気炎を吐き、それから五分くらい黙った。
 なにか間違ったことを言ったような気持ちになって、後悔した。酒とタバコがあって良かった。この後悔の時間をやり過ごせるアイテムがあって、本当に良かった。パルスィが黙っている間に、酒のボトルが空になり、タバコのパックがクシャクシャになった。
 「先輩だなんて、笑わせないでよね。わたしはあんたより多く、それもうんと多く失恋を経験してるんだから」パルスィが立ち上がり、台所から新しいボトルを持って来る。「わたしからあんたにしてやれるアドバイスなんか、なにも無いけどね」
 「威張れることじゃないからな」
 「それにね」手から取りこぼれたボトルが、辛うじて布団の上に落ちて転がった。「今回のはまだ失恋って決まったわけじゃない」
 「じゃあ、どうしてわたしを誘ったりしたんだ?」布団から転がり落ちたボトルを拾い上げて、栓を抜いてラッパ飲みする。「わたしで失恋の辛さとの釣り合いを取ろうとしたんじゃないのか?」
 「あんたこそ、どうして今日は来たのよ」
 
 考えずにはいられない。どうして誘いに乗ったんだ、にとり?パルスィと傷を舐め合って、自分を慰める時に生じる雛に対する罪悪感への言い訳に利用したいんじゃないか?
 「誰かと一緒にいたいって思ったんだ」わたしは言った。「誰かと一緒にいたいって気持ちは、誰でも良いってことなんだよ。あのバーのマスターとでも良かったんだけど、店を閉められちゃったからな」
 「本当にそう思ってるの?」
 「昨日、わたしに言ったよな。雛のことを忘れさせてあげるって。あれって、お前も誰かを忘れたいってことだったんじゃないか?」
 パルスィが口を噤む。どうにも居心地が悪いのが、酒やタバコでも払拭できそうにない。
 なにもかもが言い訳の材料になり得た。十三年?それがどうした!
 本当は十三年間も付き合ってなんかいなかったのかもしれない。心が雛から離れていたのは、もっとずっと前からだったのかもしれない。十三年間も階段なんか登ってなくて、どこかで停滞していたのかもしれない。階段を踏み外したんじゃなくて、階段の方が崩れたのかもしれない。雛がわたしを突き落とした可能性だってあるけど、可能性は言い逃れでしかない。
 「暑いな」この暗い空間から逃げ出したくて、取り止めもない会話ならばなんでも良かったし、嘘でも良かった。「飲みすぎたかも、ちょっと夜風にでも当たって来るよ」
 「まだ夕方だけど」
 「……」
 「いってらっしゃい。荷物は置いてってもいいわよ」
 「ありがと」
 
 家を出ると、確かにまだ夕方だった……って、わかるか!わたしには地底の時刻なんかてんでわかりゃしない。真夜中以外は朝も昼も夕方も夜も同じに見える。みんなまったく同じ場所で酒を飲んでるもんだから。
 このくそったれな表街道は誰かの裏街道だ。裏街道しか歩けないような奴らの表街道を、わたしは適当に練り歩く。不思議なのは、朝からずっと酒に耽っているのに、奴らの神経がどこか冴え渡って見えること。みんな酔っ払いのフリをしているようにしか見えなかった。きっと、酒以外に自分を保ったり、時間を受け流す方法がないのかもしれない。いつまでも付き纏ってくる過去も、置いてけぼりにしていく未来も、ここでは全ての住民に等しく分け与えられている。
 虚しいじゃないか!わたしはこんなとこで、本当になにをしているんだ?

 眩しすぎる表街道を抜けて、なにもかもが幸せへと変貌していく絶望感から逃れるために、裏路地に入った。地上で生きるのが難しくてここへ落ちてきたのに、そこでさえ生き方がわからない連中が行き着く裏路地へ。ここには絶望が絶望のまんま転がっている。提灯の光すら届かない建物の影が、絶望の象徴みたいに真っ直ぐに伸びている。ここで酒を飲んだらさぞや美味いだろうなと思いつつ、わたしは歩いた。

 十字路に差し掛かった時に、右手の奥に小さな灯りがポッと灯っているのを見つけた。暗闇の中で淡く光るそれは、まるで誘蛾灯のように確信的な役割を持っているように見えた。わたしはそれに近付いた。近付きながら思った。なんやかんや、大目に見てもらおうとしている。光に吸い寄せられるような蛾みたいな奴が、旧都に住む権利を持てると思うなよ!

 光は近付くごとに輪郭を見せてきた。三百六十度、どこから見渡しても光は光でしかないのに、そいつはまるで意思を持っているみたいにこちらを向いたように見えた。ずっと誰かが来るのを待っていたみたいだった。
 「あんた……」光に話しかけるなんてアホみたいだな、と自分でも思った。次の質問をするに至っては、自分でもとうとう頭に変調を来したかなと思った。「わたしと会ったことがないか?」
 物言わぬ光が、さらにちょっとだけ輝いた。質問に対して肯定されたように感じた。
 「え、マジで?」
 「うん」光が言った。
 「喋れるんかい!」
 「でも、おれの言うことにあまり返事をしない方が良い。あんたはまだ、こっち側じゃない」
 「どういうこと?」
 「あまり時間がない。すぐにおれを求めて、死神がやって来る。後生だ、おれの言うことを聞いてくれないか。誰かに聞いて貰うために、おれはここで息を潜めてたんだ」
 わたしは光の言葉を待った。
 「……金髪で、緑色の目をした女性に伝えて欲しい。おれは死んでも、あんたを愛していたって」
 「え?」思わずひっくり返りそうになった。「あんた……」
 「不渡りばっかで、賭場の金をちょろまかしちまって、刺されたんだ。それだけさ、それだけで人生が終わった。愛が終わった。おれの死体は今頃、水の中で朽ち果てているかもしれない。だから、探さないでくれ。そう伝えてくれ」
 どうか頼む、それだけ言って、光は闇と一体化し、なにも残らなくなった。水路の中で出会った死体や、親父のハゲ頭や、パルスィの澄んだ瞳のことが思い浮かんだ。

 わたしは街道に戻った。みんなまだ酒を飲んでいて、酔っ払いの顔は他の酔っ払いと見分けがつかなかった。それでも、わたしはあの親父を探さずにはいられなかった。
 やがて、小さな店の端っこで一人で飲んでいる親父を発見した。親父はこちらに気付いたが、声をかけるべきか迷ってしまった。親父はもう息子が死んでいることに気付いていて、わたしにできることなんかなんにも無いような気がした。
 「よう、水濡れの姉ちゃん」不名誉な呼ばれ方をしてしまった。「おれになんか用か?」
 「え?」
 どうしてわかった?と聞く前に言われた。
 「あんたの顔に書いてあるぜ。なにか大事な用があるってな」
 
 全てを見透かされているのなら、なにも話さないでいることの意味なんかなんにもなかった。親父は黙ってわたしの話を聞いた。頷きさえせず、息子の死の報告でさえ酒で流し去ろうとしているみたいだった。
 「そうか」全てを聞き終えて、親父が初めに発したのがこれだった。「おれのせいだ」
 「え?」
 「おれにはなにも言わなかったんだろ?その光は」
 答えあぐねていると、親父に頭を撫でられた。
 「恨まれてたんだろうよ。こんなクソみてえな場所であいつを産んじまったことをな」
 「……」
 「でも、安心したぜ。あいつは最後に誰かを愛せたんだな」
 話はそれっきりだ、とばかりに親父は酒に戻った。わたしは呆然と親父を眺めていた。わたしにできることなど、やっぱりなにも無かった。
 店を出ようとしたところで、親父が酒を頼んだ。思わず振り返って見やると、親父の手元のグラスにはまだ酒が残っていた。親父はそれを飲み干そうとはしなかった。親父はタバコを二本取り出して、それぞれに火を付けた。
 わたしの出る幕はない。悲しみはそこら中に転がっていて、それはそれだけのことだった。
 店の外に出ると、今が夜だと言うことがわたしにもわかった。酒を飲んで騒ぎ立てる男や、預かり知らぬ憤りを酒で焼く男達の雰囲気が、どことなく悲しげだったのだ。

 ※

 パルスィの家に帰ると、それはもう酷い惨状で、いっとき地上に帰ろうかなと本気で悩んでしまったほどだ。布団はビリビリに破れ、酒はそこら中に転がり、パルスィは頭から血を流し、襖と言う襖がぶっ倒れていた上に、わたしのリュックの中身まで散乱していたとなれば、こっちだってわけもわからず悲しくなるに決まってる。いったい、この界隈はどうなってやがるんだ!
 「おい、起きろ、おい!」
 パルスィの頬を平手でパンと張る。まるで起きる気配が無いので、あの死体を引き取ってくれる猫がこいつを引き取りに来る気配が無いのを訝しんでしまうほどだった。
 
 ふと、パルスィが手になにかを握り締めていることに気付いた。紙だ。恐ろしい握力で握られているそれを破らないように慎重に引き抜いた。
 「これ……」
 わたしと雛が映った写真だった。だけど、どうしてこんなものがここに?
 リュックの中はパルスィに荒らされたんだろうけど、こんなものまでリュックに入れて来た記憶はなかった。雛と別れた時も、わたしはしたたかに酔っ払っていたのだ。だからと言って、無意識のうちに彼女との思い出まで大事なものと一緒にリュックに詰め込んでいたと言うのか?
 「くそぅ……」畳の上で死にゆく(ように見える)パルスィが声を漏らして、思わず耳をそば立てる。「なにが失恋だよ、あいつ……」
 「……」
 こんなセンチメンタルな奴が、旧都に住めると思うなよ!
 
 わたしはライターを取り出して、思い出の、わたしを苦しめる呪いの、もうどうにもならない過去の写真に火を付け、タバコが横溢する灰皿の上に捨てた。死の臭いが部屋の中にわだかまって、たちまちパルスィが目を覚まし、写真が灰の山と同化していく。
 わたしはまた階段を登ることもできるし、一生ここで立ち尽くすこともできる。新しく浮かび上がった世界が、灰に埋れていき、その中で死ぬことさえできる。選べないのは「動かない」と言う選択肢だけ。
 動け。
 動くんだ。

 「河城……?」
 むっくりと起き上がるパルスィに水をくれてやる。頭から流れ出した血がコップの中に入ったけど、彼女はそれごと飲み干した。
 「パルスィ」部屋の惨状を見廻して尚、覚醒した様子のないパルスィに声をかけてやる。「聞かせなきゃいけないことがある」
 「なに?……っていうか、なんでこんなになってるの、部屋?」
 「お前の恋人にさっき会った」
 「……」
 「魂だけだったけど、お前に言いたいことがあるって、現世に留まってたんだ」
 「うん」
 「『愛してた』って」

 パルスィが頭の血に触れて、その手をぼんやりと眺める。かと思えばパルスィは部屋をキョロキョロ見廻して、破れた枕を見つけると、うつ伏せに倒れてそれに顔を埋めた。
 「あははははっ!」パルスィが震えながら足をバタバタさせた。「良かった、失恋じゃなかったんだ、失恋じゃなかったんだ!」
 パルスィは一頻り笑い、笑い続け、笑い死にしそうになり、そのまま本当に死んだように眠ってしまった。
 
 とにかく、これでようやく、みんな前に進める。
 
 ※

 「は?チンコ?」バーのマスターが自分の下半身を見つめる。「は?」
 パルスィがドン引きしてこっちを見る。わたしは取り残されたような気分になりながらタバコを吸った。なるほどね、これが正しい場所にいるって感覚か!悪くない。
 「良いか、『河童チンコ』だ。よく聞け。河童チンコはな、これからの大人の娯楽になる」物分かりの悪い奴らに因果を含める。「まさに画期的なギャンブルなんだ!」

 なに言ってんだ的な顔をされて、ますます心細くなった。
 「どういう遊びなの?」と、パルスィが怪訝そうに尋ねて来る。
 「まず玉を買う」すると、マスターがなにかを想像して、顔を痛そうにしかめた。「そして打つ!」
 マスターが事務所に消えた。
 「……それで?」
 「玉を穴に入れるんだ。そうしたら色々と起こって……まあ、そこは調整するけど、当たったら金が貰える」
 「うーん……」想像が付かない、とパルスィは首を傾げる。当然だ。わたしにもまだイメージができてない。企画書だって書くだけ書いておざなりにしていたわけだし。
 でも、ここで二日くらい過ごして、ドンピシャだと思ったことは少しも揺るがない。酒しか娯楽のない連中にピッタリじゃないか!運さえ良ければ金を稼げるんだからな。
 と、言うことをパルスィに教えてやると、まあ確かにと好感触を得た。
 「でも、先ずは地上で河童チンコ一号店を開く」
 「あれ、旧都が先じゃないの?」
 「このギャンブルはとても危険なんだ。ハマると抜け出せなくなるかもしれない。だから、先ずは地上で試す」
 「だったら尚更こっちで開いた方が良いんじゃない?」
 「いやね」わたしはタバコを吸った。「なんて言うか、この場所が好きになっちまったんだ」
 「……」
 「それに、準備をするのは一人じゃ無理だろ?どの道、地上には帰らなきゃいけないしさ」
 「それもそうね」
 「よし」
 わたしは立ち上がり、落書き同然の企画書をリュックに詰め、それを背負う。
 「もう行くの?」
 「今、動かなきゃな」
 「地上の昔の女に誑かされて、また動けなくならないようにね」
 けっ、わたしはグラスに残っていた酒をあおった。この河城にとりさまを見くびってもらっちゃ困るぜ!
 「つか、もう古明地さとりの営業の許可を貰ってるんだよね、土地も確保して貰っちゃった」
 パルスィが尊敬の眼差しでわたしを見つめて来る。
 「古明地だと⁉︎」
 事務所のドアが恐ろしい勢いで開かれて、隠して然るべき場所を丸出しにしたマスターが鼻息も荒く天井を仰ぐ。
 「さとりさんと話したことがあるのか⁉︎」
 わけがわからないまま頷く。
 「良いよな、さとりさんのあのアンニュイな雰囲気……はあ、さとりさん……」
 わたしとパルスィは顔を見合わせた。
 新しい恋はそこら中に転がっている。
 
 このバーの屋号が「KOMEIJI」とかに変わる日も、そう遠くはないかもしれないね。
 
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コメント



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1.90奇声を発する程度の能力削除
面白かったです
2.100福哭傀のクロ削除
なんかもう作者様の作品の特徴なんだろうけど、全部ぶち込んで軽く体裁整えてって感じで出してくるある種の二郎系?(間違ってるかもしれない)な作品なのに、面白いのがなんかこう……パワーの作者様だなーって……。パルスィがいい女……ではないか、なんていうんだろ、美味しい毒って感じで魅力的でした……?
3.90ローファル削除
パルスィがダウナーな雰囲気を漂わせながらも日々を楽しんで生きてる感あってとても好みでした。面白かったです。
4.100竹者削除
よかったです
5.100名前が無い程度の能力削除
おもしろかったです
6.100夏後冬前削除
なんでこんなにやさぐれた女のエロスを書くのが上手いんだ。意味が判らん。という気持ち。描かれてるのはどうしようもない掃きだめの筈なのにそれが妙に美しく感じられるのは変な実感の籠りを感じてしまいました。
7.100名前が無い程度の能力削除
やるせなさというか孤独感というか、そういうもののなかにいるからこそぬくもりがきれいに映るのだなと感じます。素敵でした。
8.100東ノ目削除
登場人物だいたい舞台地底らしくクズなのに思った以上に愛の話してるし死んだ男も魂光らせながら満足して去っていくしでなんか面食らいました。面白かったです
9.100南条削除
面白かったです
あまりにも無駄のない構成で笑いました
地底にはびこる抑うつ的な雰囲気に慣れ切った奴らでしたが、それでも住民みんな少しづつ関係が繋がっているような感覚がありました
11.100名前が無い程度の能力削除
こんな気持ちになるために東方ss読んでるわけじゃないと思ったけど、河童チンコでどうでもよくなりました。