序
「お願いします! 一緒にやりましょうよ! ねぇいいじゃないですか、ね!」
虫のさざめく白昼に、射命丸文は必死に懇願する。丸テーブルの向かいには二人の人物が座っており、窓から射し込む陽光は文の異様を引き気味で見つめる河城にとり、犬走椛両名の表情を、眩く、照らしていた。
「椛、どうする? 射命丸がなんだか必死だけども」
「だめです、だめだめ。やめておきましょう。こういうときの文さんに関わると、ろくな目に合わないんですから」
手を合わせ、じっと頭を下げたの文の額には汗が滲んでおり、今にもテーブルに滴り落ちそうでいた。瞼は懇願を表すようにぎゅっと結ばれていたが、ときおり様子を伺うように片方を瞬かせて、胡散臭さを醸している。
「ほらぁ。にとりさん、怪しいですよ。ちらちらこっち伺ってぇ……」
「うーん、でもなぁ。最近ちょっと、思うところがあってさ」
なんかやな予感! と聞きたくなさげな椛に対し、にとりは無表情に語る。
「射命丸。この肥え担ぎに近頃、わたしたち冷たくしすぎたんじゃないかなって」
にとりが言うと、文は閉じた両眼を見開いて、同意の意を示すように小刻みに何度も頷いてみせた。しかし文の諂うような仕草に椛は嫌悪と侮蔑とで一瞥くれて、困ったようににとりへと向き直り、首を傾げた。にとりはすかさず眉を潜めて椛の言わんとするところへの同意を示したが、まあでも……と遠慮がちに声を潜めて、言った。
「やりすぎだよ、こないだのは。檻に閉じ込めて放置するのは、いくらなんでもひどかった」
椛は首を振って、そんなことはない、と抗議した。
「確かにさ、こいつがわたしたちの家財を少しずつ盗んで売ってたのは許せないけど、二ヶ月間はちょっと長すぎたと思わない? こいつも一応生き物だし……。それに、刺す虫が多い藪の中ってのも、すこし残酷すぎた気がする。だからさ、その詫びというか、恩で黙らせるというか……椛、わたしの言ってること、間違ってると思う?」
にとりの〝友愛主義〟が膨張を始めたのを感じながら、椛は「いや、まちがってる……」をごにょごにょ呟いた。
「つまり、つまりね。わたしが言いたいのは、射命丸、こいつも〝友だち〟だってこと!」
椛は愕然と頭を抱えて、「終わった!」とテーブルに突っ伏した。
「あの頃はさ、椛と射命丸とわたし。まいにち、まいにち遊んでさ、日が暮れるまで笑い合ったよね。それが、いまではこんな……いがみあって……。終いに折檻……! と、友だちを檻に閉じ込めるなんて……! わたしたち、仲良し三人組なのに。誓い合ったのに。あの夏の、真っ赤な空の下に。う、うぅ……」
情緒不安定なにとりをよそに、文は椛に対し勝ち誇ったような笑みを浮かべたわけだが、当の椛はそれを知ってか知らずか、俯いたままに、怨嗟の歯軋りを響かせていた。
「射命丸。わたし、協力するよ! 友だちが困ってるときになにもしないなんて、そんなことできないもんね!」
友だちの家財を無断で売り払う鴉にしても、友愛の花園を実現すべくひとりの友だちを犠牲にする河童にしても、かつての友だちを藪の中に二ヶ月間幽閉し何ら苛まれずにいる狼にしても三人が三人最悪だった。文はいつもふたりの家財をくすねたし、にとりはいつも三人のためにひとりを蔑ろにした。椛はいつだって文の破滅を今や今やと待ち望んだ。
「やった! 決まりですね、今回の件は私たち仲良し三人組で取り掛かる、と! いやあ、よかった。断られたらどうしようって、冷や冷やしてたんです、私! なんせお山絡みですから、私一人の力ではどうにも……」
安堵の到達点めいた表情から繰り出される文の感嘆で、やっと、椛の抱え込んだ頭が解き放たれる。いけしゃあしゃあと喋りまくる友だちの顔を刺すように睨みつけて、椛は言った。
「お山絡みって……そういうことなら。話はまるで別です」
件のお山についてだが、文の言うところのそれと椛の言うところのそれでは微妙に意味合いが異なってくる。掻い摘んで簡単に説明すると現在、山は二つの派閥に割れているのである。山の中に限り絶対的な強権を握る飯綱丸の派閥と、山の中ではそれなりだが、物流など人間の里に影響力を持つ守矢の派閥とのそれぞれが、山の双肩を担っている。大まかに云えば鴉天狗にとってのお山は飯綱丸であり、河童にとってのお山は守矢である。白狼たちはその時々で立場を変えて、実質的なバランサーを担っていた。その点で云えば増長と謙りを往復する文のソレは鴉天狗の体質そのもので、自身の行いがひとびとを笑顔にすると信じてやまないにとりのソレは河童の体質そのものだった。そんな鴉天狗が河童をお山絡みの案件に担ぎこもうというのなら、バランサーたる白狼天狗には黙っていられない。なによりも、椛にとって文は絶対的な悪であり、にとりはかけがえのない友だちだった。椛は諦めたようにため息を吐いて、文に尋ねた。
「それで、私とにとりさんに何をしろっていうんですか?」
文は照れ臭そうに頭をかいては渋々と言った具合に、いやあ、と口を切るが、その目は待ってましたと言わんばかりに溌剌としていた。
「それがね、まあなんといいますか……」
かくして文の口から語られたお山絡みの案件、その詳細はにとりの瞳を輝かせる代わりに椛を閉口へと追いやった。しかし、これはあくまでも三人のやり取りであって、ともすればそれはプライベートでもあり、本来であれば誰にも秘匿されるべき交友の一部なのである。誰の心にも罪悪感は存在する。なにも勿体ぶって伏せようというつもりはないが、そもそもことの次第などというのは概ね、下か左を追えばみんな判るように出来ているものなのだ。それは場面があっちにいったりこっちにいったりしたとして変わらない。兎にも角にも下か左を忍耐強く追い続ければみんな判ると、そういうものなのだ。たとえば経験上、次に下か左に間が空けば、それらしいお題目が見えてくるはずである。
『猿』
『鳥』 ① 〜自室にて
河城にとりの発明と妖怪の山の企業努力によってラジオ・テレビ類の普及した今なら、ケータイ電話を所有する妖怪も少なくはない。かつてパンク・ロックのバンドで名を馳せたミスティア・ローレライでさえも、今はワイドショーを流しながら、真剣な面持ちでケータイの画面に食い入っている。
『先週のこと、たしかにわたしが悪かったとは思うけど。だからって、謝らせてもくれないなんて、ちょっとずるいなって思った』
画面にはそんな言葉が認められていたが、それは誰かから受信したものではなく、送信前の、ミスティア自身が打ち込んだ言葉だった。宛先には『響子』の二文字があった。
朝。カーテンは閉まっているが、部屋にはかろうじて晴れの光量が埃とともに漂っている。広いワンルームである。フローリングに敷かれた円形のラグマットは暖かな黄緑色をして、淡いピンクのカーテンとの調和を為している。しかし部屋の隅で重々しい存在感を放つ深紅のベッドがなんとも恥ずかしい感じである。それはミスティアの趣味ではなかったし、件の“響子”の趣味でもなかった。けれど、そんなベッドを部屋に置くことなったのは、ミスティアの同居人になることを選んだ幽谷響子に理由がある。せっかく二人で暮らすのならば大きなベッドが必要であると、ミスティアの反対を押し切って、急ごしらえで用意したのがそのベッドだった。互いに趣味の悪いベッドだと口を揃えてはいたが、いざ眠るとなると、内心、ふたりで寝るにはちょうどいいサイズだと満足していた。
キッチンからタイマーが響いて、ミスティアは諦めたように、ふいと〝切〟のボタンを二度押して立ち上がる。メールの文面について真剣に悩めるというのは律儀さと云えるが、結局のところキッチンタイマーには抗えないというのもまた律儀さと云えるだろう。しかしふたつの律儀さが持つ微妙な力関係とその強弱が、そのまま彼女の美点であり欠点だった。先週から今日に続く同居人の不在も、そんなミスティアの紙一重に起因しているのである。ミスティアは茹で上がったパスタにミートソースを和えてテーブルに運ぶ。ワイドショーは相変わらずにどうでもいいようなニュースを垂れ流しているから、ミスティアは不貞腐れたように荒っぽく手を合わせ、唇だけではやばや六字をなぞり、巻きつけるのも中途半端にパスタを運んだ。中途半端にしたせいで、ミスティアはフォークにぶら下がる〝中途半端ぶん〟を頭ごと迎えにいかなくてはならなくなった。ミスティアはパスタを中途半端にしたままふと硬直する。犬食いは同居人の専売特許だった。ミスティアの思考の空白に『現場のはたてさーん』と、不調和な声が差し込まれる。
『……テレビの前のみなさま、そしてスタジオのみなさま、それからテレビをお持ちではないみなさまにも。こんにちは。現場の姫海棠はたてです。こちらご覧ください。えー、この荒らされた鉢植えはこちらのお宅のお子さんが、ミニトマトを栽培していた鉢植えなのですがこの通り、いまやひどい有様です。……猿は未明にかけて山を降り、そこから西の方角へと向かった模様です。このひどい鉢植えのお宅が異音を聞いたのが今朝となっており、近隣にお住まいの方々からの情報によると猿はさらに西へと向かっているとのことです』
配慮が行き届いてるのやら届いてないのやら、やる気があるんだかないんだかで知られるリポーターの姫海棠はたては最近出ずっぱりで、ミスティアにも馴染みがあった。ちなみに姫海棠はたてはテレビが発明されてからというもの、十一チャンネル二十四時間全番組の編集・出演を任されている。出ずっぱりなどという次元の話ではない。ひとは悲しい。
「さる……」
ミスティアは迎えにいった中途半端ぶんを中途半端にしたまま、テレビ画面へとひとり呟いた。たしかにケータイは双方向性を持つが、ときには一方的なテレビをやさしく感じられる日というものも確かに存在する。単に一方的という意味でなら、テレビはミスティアの同居人と似た部分があったかもしれない。知ってか知らずか、ミスティアはパスタを半端にし続ける。
『ですが、所詮猿のやることですので。本当か? と聞かれるとちょっと不安です。ですから近隣のお住まいの方から寄せられたアレは不確かな情報といえるでしょう。そもそも西て。ザ・ざっくり……チッ……以上。スタジオにお返しします』
ニュースは続く。
『犬』 ① 〜命蓮寺にて
時を同じくして朝食を取る者たちがいる。間取りのせいで陽のささないリビングはいつも蛍光灯に照らされていた。
そんな食卓を六つの椅子が囲んでいる。それぞれに腰を落ち着ける六人は各々に箸を動かして、今日のおかずを取り合っていた。「ちょっとあんた、ぬえのぶん取っておきなさいよ」言いながら、雲居一輪は箸の長さが許す限りに突き刺して、大皿のミートボールを独占する。「帰るか帰らないかもわからないやつに遣う気なんてないね」村紗水蜜はトングを用いて、また別の大皿からスパゲッティを巻き取りまくった。「わ、悪いですよ、そんな言い方は……」遠慮がちにおひたしを箸で摘んで、寅丸星は六杯目のご飯を頬張る。「あら、あら」聖白蓮は例の温和な笑みでそれらを見守り、誰の邪魔を入れることなく、滑らかな所作でもって三角食べを行使し続けている。そんななか、幽谷響子は呆れながらも、我関せずの顔でテレビを眺めつつ箸を動かしていた。
『まずはお詫びさせていただきます現場のはたてです。えー先ほど〝所詮は猿〟などと、猿の方たちの能力を軽視した発言をしてしまいました。あまりにも配慮のない発言に深く傷ついた猿の方たち、並びに猿を愛好する方たちへ、本当に申し訳ございませんでした。それから、やはり〝所詮は猿〟と考えている方たちの気持ちを結果として裏切ってしまったこと、そこについても深くお詫び申し上げます。本当に、申し訳ございませんでした』
テレビは深々と頭を下げる姫海棠はたてを映している。響子はさほどの興味もないといったふうにそれを眺めていたが、自身が確保したおかずが載った小皿に腕が伸びれば、すぐに、じろり、と目線を刺した。目線に刺された張本人はびくっと硬直して、即座に(汗)のマークを浮かべる。ひとのおかずをくすねるべく算段した狼藉者、その正体は無表情の面霊気、秦こころだった。響子は無表情に(汗)を浮かべるこころと、こころの手元の空いた小皿をじっ、と交互に見てから、まあいいけど……と、自身のおかずを分け与えた。こころはすぐに(笑)を浮かべて、もらったおかずへと嬉しそうに箸を伸ばす。そんなこころを一寸だけ眺めてから、響子は言った。
「なんで居んの?」
また、こころの動きが止まる。今度は(汗)に変わった。貪欲な箸の群れは今もおかずを減らし続けているし、テレビでは姫海棠はたてが今後の方針などを話している。空いた小皿は食事という闘争に不慣れな証拠だった。響子はこころの無表情と浮かぶ括弧の中をじっ、と交互に見てから、まあいいけど……と、自身の箸を動かし始めた。こころはすぐさま(笑)を浮かべ無表情に一息ついて、今度こそもらったおかずを嬉しそうに食べ始める。響子は茶碗を顔に近づけながらも観察するようにこころをみていた。ミートボールがこころの口元に近付くのを見計らったようにして、響子は口を開いた。
「寝室の、布かぶったデカい箱。あれなに?」
こころは硬直する。浮かぶ(笑)は(汗)になり、一秒、二秒と経つにつれ(汗)は(汗汗)になり(汗汗汗)へと推移する。響子はしばし忙しないこころの感情表現を眺めていたが、結局は、まあいいけど……でテレビに向き直った。ふいにスパゲッティの村紗水蜜が口を出す。
「いるんだよねえ、そうやってなんでもかんでも隠したがるやつ。何故か、急に、久々に、帰ってきた響子チャンといい……道観のミンナが大好き、な、はずの、こころチャンといい……玉手箱か、つって。ふくろとじか、つって。意味ありげにそこにあって、いざ開けてみると煙とか、ちぢれた毛とか。そんなもんしか出てこないくせにさあ」
村紗の言葉には各々がイラッとした様子でいたが、響子とこころにすれば見透かされたような辛辣さを感じたことだろう。久々の帰省の理由を〝なんとなく〟で片付けた響子には殊更な言葉だった。響子は単なる痴話喧嘩で飛び出してきたわけだが、今更それを打ち明けることができるだろうか。あんなことを言われた今なら、なおさら、できるわけがなかった。気まずい静寂に、箸とテレビの音だけが響く。
『我々はこれより猟友会の方々と合流するべく予定した合流地点へと向かいます。えー、その前に上層部から読むように言われた紙を読めとのことなので読みます。えーと……里には守矢から派遣された哨戒部隊が巡回してるはずなのにどうして猿の一匹をうんたらかんたら、的な、山から派遣された猟友会ならもう安心、的な感じの、守矢の力不足を剔抉して対立構図を示唆するような、エッジの効いた感じのコメントを述べるべし……チッ……以上。スタジオにお返しします』
能天気にスパゲッティを頬張りながら村紗は言う。
「ふうん、猟友会……。里に猿が降りたんだってさ。なるほどねえ……。あ、そもそも猿ってなんだかわかる?」
問いかけられたこころは応えることをしなかった。無視である。かわりといってはなんだが、こころは(爆汗)を浮かべていた。なにかを素直に打ち明けることができないのは、響子だけではないようである。ふたりはちらと目を見合わせた。
『猟友会』 ① 〜山道にて
話は数刻前に遡る。射命丸文、河城にとり、犬走椛はまだ漆黒に支配された夜の山道を下っている。にとりは不満げに、拗ねたように唇を尖らせている。椛も椛でそっぽを向きながらなんだかずっとへらへらしている。ふたりとも手ぶらだった。ふたりの荷物はすべて文に預けられていて、文は自前のリュックを肩にかけ、残りの二つを両手に提げていた。いじめられっこの小学生のようではあるが、文自身はさほど気にしていない様子で悠然と下り坂を歩いている。右手に提げたにとりのリュックからは長い筒が飛び出して、文の歩調に合わせて揺れた。筒は、隣を歩く椛の腿にときおりぶつかった。
「へらへら」
「あっ、ごめんなさい。また……」
文は半ばの習性で表面上気を遣った言葉を吐くが、言ってる間にもう一回、もう一回と椛の腿に鈍い衝撃が走る。椛も椛で距離を取ればいいものの、なにが気に入らないのかずっとへらへらしっぱなしでいた。
「へらへら」
「あっ、また。いやあすみませんね、どうも……」
筒をぶつけられるたびに発声されるソレは文に謝罪を促しているかのようでもあった。にとりは繰り返されるやり取りには頓着せずに唇を尖らせて黙々歩いた。この場において不満を感じていないのは文ひとりきりである。まず椛は文のやり方が気に入らなかった。先日、文が語ったお山絡みの正体は、里に降りた〝猿〟を山から派遣された〝猟友会〟として捕獲する、というものだった。要するに、山からの使者のその活躍をメディアを通しアピールして、最終的には守矢から派遣された哨戒部隊の仕事を奪おうということである。椛は独自のツテでそれを知った。猟友会という呼称には便宜上を超える意味もない。友だちというだけで、哨戒部隊長たる自分をそんな〝猟友会〟に平然と招き入れんとした文の図太い無神経が、椛とっていよいよ我慢ならなかったのだ。純真さにつけこんで、にとりを巻き込んだことも椛の怒りに拍車をかけた。
そう、椛はことを妨害するべく山を下っている。成績不振の文にもう後がないことは確かだった。でなければ、ご立派な記者たる鴉天狗がたかだか猿の捕獲などに駆り出されるはずもない。文の弱まった立場にとどめを刺すためならば、腿の痛みなど無いも同然だった。
「へらへら」
「あっ、すみませんね。どうしてもあたっちゃう」
椛はへらへらしながら、へらへらと、へらへらを発音し続けた。もし身近な友だちが妙にへらへらし始めたら注意しておくといいだろう。その友だちはきっと、力強く足を引っ張るタイミングを今か今かと伺っていることに違いないのだ。へらへら。
「またへらへら……今日の椛ってばなんか変じゃないですか? へらへらとしかいわないし。ねえにとりさん?」
「……しらない。そんなの」
さて、にとりもにとりで拗ねに拗ねまくっているから大変だ。にとりは下山を始めてから殆ど言葉を発していなかった。それほどまでにとりを拗ねさせた原因は先ほどから椛の腿を攻撃し続けている筒にある。リュックから飛び出した長く重たい筒の正体は、にとり手製の猟銃だった。
――私たちは猿を捕獲します。それも〝猟友会〟として。
先日、文の口から告げられた言葉に、にとりは瞳を輝かせた。猟友会に含まれる〝友〟の字は、にとりがいちばんすきな漢字だったのだ。加えて〝猟〟の字も、そのとき、にとりの瞳の輝きを倍化させたのである。にとりが猟銃を造った経緯については思いつきという言葉以外で説明するのは難しい。しかし、ものをつくったからには実際に使わずにいられないのが河童の性分というものだ。けれど、猟銃を実際に使うというのは、そのまま何かの生命を奪うことである。にとりの頭のなかはいつだって、ものづくりと友だちのみによって満たされていた。にとりは悩んだ。猟銃の試し撃ち、数少ない友だち……文を撃つか、椛を撃つか。いやそんなことはできない、けれど、つくってしまった以上、猟銃は絶対に使わなければならない。自分に……? そんな深刻すぎる悩みを抱えてるときに振って降りたのが〝猿〟と〝猟友会〟だった。
――私たちは猿をホカク(聞いたことがない言葉)します。それも猟友会(猟銃を使う友だちの会!)として。
にとりの瞳は輝かないはずもなかった。それは捕獲という熟語を認識の外に追いやるには十分な喜びだったのだ。しかし、いざ荷造りをするという際に文から告げられたのは、にとりにとって信じられない裏切りの言葉だった。
――あ、だめですよ猟銃は。置いていってください。
それでもにとりは諦めきれずに、文の緩い抵抗を押し切って猟銃をリュックに詰めた。結果として捕獲の意味を辞書で引かされ、にとりは現在こうして唇を尖らせているのである。
「……なんで殺しちゃだめなのさ。猟友会なのに」
「なんでって、そんなの。私たちが猟友会で、妖怪だからですよ。カメラの前で妖怪が猿をバーンといちげき! 里に住むひとたちドン引きですよ。常駐してる中立の哨戒部隊はおろか、山はもう里に踏み入ることができなくなります。そんなの困ります。私が」
私が、の部分で椛はすかさずへらへらを発音して、にとりはますます拗ねまくった。ぱち、ぱちと蛾は爆ぜる。薄青の電灯がぽつり、ぽつりと辺りを照らす。草木からクビキリギスの鳴き声が響いていた。三人のなかで比較的あっけらかんとしている文だが、軽い足取りとは裏腹に、今回をしくじれば山からの追放、要は首切りという重荷を背負っていた。知ってか知らずか、椛は追求するように口を開いた。
「へらへら。……でも。もしも捕獲が遅れて、山から駆除のお達しがきたら、文さんどうするんですか。まさかそのときのために、にとりさんを連れてきたわけじゃないですよねへらへら」
「いや、そのときは私が撃ちますよ、バーンと! それですべて落着ですとも。おふたりに声をかけたのは、単に、それがいちばん心強いからですよ」
自身を首切り寸前まで追い詰めた要因のあっけらかんは確かな欠点ではあるが、欠点とはやはり裏を返せば美点となり得る。椛はほんの少しだけ自分が恥ずかしくなってやおらへらへらを引っ込めた。公衆の面前で何者かがひとつ生命を奪えば、公衆はいつまでもその顔を記憶し続けることだろう。
「なんでさ! わたしの発明品はわたしがいちばんうまく使えるんだぞ。わたしが使う! わたしの発明品だもん」
「まあまあ。私が使いたくなるのも当然じゃないですか。なんせにとりさんの発明品ですからね」
にとりは不満げに鼻を鳴らしたが、その顔といえばまんざらでもなさそうな感じでいて、少なくとも悪い気はしてないようだった。椛と文はちらと目を見合わせて一寸だけ笑った。椛はおもむろに、文に預けたリュックのひとつを取り返して、言う。
「捕獲道具のパーツ、どこかで組み立てないといけませんね。こんな遅くに山を下りるってことは、どこか宿でも取ってあるんですか?」
「あれ、言ってませんでしたか。お山が旅館をとってくれたそうで、里についたらまずそこに向かうつもりです。けっこーいいとこらしくて、なんでしたっけ。ホテルニューなんちゃらとかっていう」
「え! 旅館に泊まるの!」
旅館の一言は不満のすべてを吹き飛ばし、不貞腐れたにとりの口をすぐさま解かせた。長く助走を取った方がより遠くへ飛べるというのが誰の談であるかはわからないが、ともかくこれまで必要以上に沈黙を保ってきたその口は、解き放たれたようにして悠々と動きまくった。
「旅館っていったら露天のお風呂でしょ、卓球でしょ! 和室の変なスペースでしょ、ウノでしょ、ふだんはできない内緒話でしょ! それからねぇ――」
かくして、ようやっと一纏めに至った猟友会ではあるが、そもそも捕獲対象の猿というのはどういうものか。やけに重要視されている猿だが、そもそも猿の一匹が人里に下りて、それがなんだというのだろう。ことというほどのことでもないと、誰もがそう考えるに違いない。しかし、ことというのは得てしてしょうもないものなのである。その実像はいつだってドーナツの穴ほどにくだらない。問題はドーナツの主体が穴と輪のどちらにあるかで、そんな主体の争奪戦を、ひとは得てしてことと呼ぶのだ。
『馬』 ① 〜人里にて
朝食時。多々良小傘は最悪だった。年が明けてからこの春まで、一度として働いていなかった。覚醒したとは言い難い寝ぼけ眼で畳の上を這い回り、最後の食料に手をつける。ビニールに包まれたアジのひらきはべっとりと、またぬるぬると滑った。小傘の着ているTシャツには〝焼けば食える〟と印字されていたが、不幸にもガスはしばらく前に止まっていた。せめて表面だけでも洗い流そうと蛇口をひねる。水は一寸のあいだとぼとぼ流れて、そしてすぐに枯れてしまった。しょうがないを呟いて、色の悪いアジをそのままテーブルに運ぶ。薄い座布団に腰を下ろしてリモコンのスイッチを押す。テレビはパチンと点灯して、ワイドショーを流し始めた。
『現在人気テレビタレントとして活躍する彼女は幅広い分野の資格を保持しており――』
そう、多々良小傘はものぐさだった。水道とガスは止まっているのにテレビをつける電気があるのは、単に電気代の伝票がいちばん初めに目についたからである。食べ物にしても、なにも保存のきく果物や干物を取っておけば、腐ったアジを食べずとも済んだのだ。金もあるとは云えないがまったく無いというわけでもない。小傘の自覚としてはまったく無いが正しいが、それは小傘が忘れてるだけか、或いは畳の隙間に挟まっているかのどちらかである。今にしても、やっつけなければならないアジのことなどすっかり忘れてテレビをまじまじみつめている。
『――ここで速報が入りました。本日未明、またしても里にさ――』
かと思えば今度はここでテレビを消す。アジ食べないと、とでも言いたげにリモコンをわざとらしく遠くへ置いて、アジに向き直る。あまり間も良くなかったし、リモコンを置いた場所もきっと忘れる。資質はどうあれどうしてもだめな性分を持つ者はこの世の中にごまんとあって、小傘もそのうちのひとりだった。それから、得てしてそんな者ほど自分は標準のど真ん中にあると信じて疑わない。いただきますとごちそうさまでしたを欠かしたことのない多々良小傘なら、もちろん例に漏れずである。
小傘はアジを食べ終え家を出る。わずかな小銭でもって切れた食料の補充するべく通りへ向かうのだ。
「戸締りよし! 服よし! 財布よし!」
家の前で諸々の確認を済ませて歩き出すも、小傘の後ろ髪は跳ねに跳ねまくっていた。しかし、こんな小傘の美点といえば人当たりのよさだろう。良くも悪くも裏表のないその人柄は里に住むひとびとに好ましい印象を与えていた。通りに出れば、小傘ちゃん、小傘ちゃん、と声がかかって、跳ねた後ろ髪もすぐに元どおり、となることだろう。ゆくゆく、いずれ、おそらく、きっと。
雑多な路地から通りへ抜け、小傘は八百屋へと向かった。通りに出ると長屋の乱立する狭苦しい路地が嘘のように道は開けて、今日の空模様――小傘曰く〝いい天気!〟――を広大な空に映している。小傘の歩調といえば至ってのんびり、というよりはなんだかふわふわしたもので、一歩ごとに頭が上下するような始末だった。近辺に暮らしている者であれば、遠目で見てもその歩調のみで小傘を識別できるだろう。したがって、仕切りに声がかかった。小傘ちゃん、後ろ髪が跳ねてるよ。小傘ちゃん、後ろ髪。小傘ちゃん、小傘ちゃん……。小傘は指摘されるたびに〝あ! いけない!〟と笑顔を添えて礼をした。しかし礼を言ったのちも後ろ髪は跳ねていた。多々良小傘は礼が言える。それは裏表のない小傘の美点であったが、裏も表もないのなら前髪も後ろ髪も変わらない。鏡で見た前髪のみが小傘の認知のすべてであり、また戸締り服財布よしの問題なしが……とにかく小傘は礼を言うだけ言ったら、問題の後ろ髪を直すのを忘れるのである。あんまりだ。
跳ねた頭髪など取るに足らないないといったふうに取り留めもなく小傘はふわふわ歩き続ける。大抵の場合、本人にとって取るに足らないコトというのは、誰かにとっての大問題なのだ。例えばそう、今まさに〝小傘ちゃん〟を発音しようとしている、買い物上手のおばちゃんにとってはまさしくだった。
「小傘ちゃん! あんたちょいと、小傘ちゃん! ちょいと!」
小傘は一瞬ぎょっとしたが、すぐに笑顔になった。おばちゃんの声量とその圧、ついでにその買い物上手については、近辺に暮らしている者であれば誰もが知るところにあった。圧倒的な声量と壊滅的なその圧力でもって商売人やその他の大勢には恐れられているおばちゃんだったが、小傘はそんなおばちゃんが大好きだった。おばちゃんの言うことを聞くと、すべてが安く、最大無料で、手に入る。
「おばちゃん! おばちゃんの言うこと聞くよ。おばちゃんの言う通りにするよ!」
「あっ小傘ちゃんあんた、後ろ髪!」
ゆくゆくいずれおそらくきっとの後ろ髪は、かくして元通りと相なった。小傘の物語は、これで終わりだ。おそらく、きっと。
『犬』 ② 〜宝物庫にて
場所は命蓮寺。朝食を摂り終えた面々は広々とした宝物庫に集まり、慄然と震える寅丸星を中心に、その開口を待っていた。雲居一輪は腕を組み呆れたように寅丸を睨めつけているし、雲山は対照的に同情の目を送って、村紗水蜜は興味なさげに居合わせるだけ居合わせて、聖白蓮は困ったように寅丸の口切を待った。寅丸は俯き、視線を方々に彷徨わせていたが、ときおり雲山に助けを求めるようにその視線を向けた。雲山が諦めたように首を横にゆっくりと振ると、寅丸は震えた声をしぼりだすかのようにぽつり、と言葉をこぼす。「な、失くして……」寅丸の両手はゆっくりと頭を迎えに行く。
「失くして、なくしてしまいました……! すべてを……!」
今ではしっかりと抱え込まれた頭に、各々はため息をついた。ときに、その物のおかれた状況が極端、甚だしい、水準を超えてしまっている際に、ひとびとは弩という文字を用いてソレを説明する。例えば今なら何に弩を付けるべきだろうか? とにかく、この弩級の珍事は今回の話の中で語りきるのは難しいだろう。そのうちきっと、鼠がやってきてなんとかしてくれるに違いないのだ。
宝物庫の珍事を尻目にして、響子はこころと寝室に居た。朝食を摂ってすぐに眠るほどふたりはものぐさではないし、こころに至っては宝物庫で何が起こっているのか気になって仕方がなかった。しかし響子にとって宝物庫で何が起こっているかなどわかりきっていた。朝食のあと様子のおかしい寅丸が“話がある”と皆を宝物庫へ連れ立てば、そのあとのことなど火を見るよりも明らかだった。響子はこころに「いつものことだよ、それより……」と言って、皆に気づかれないようこっそりと寝室に連れ出した。響子の興味はこころの布団のわきにおいてある箱に向けられていた。
「さっきも聞いたけど。この、布かぶったデカい箱。これなに?」
訪ねるも、こころは恥ずかしそうに手をすり合わせてうつむくばかりだった。まだるっこしい、響子はそうも思ったが、それよりもこころの隠し事の正体が気になった。こころが道観から命蓮寺に来るとき、それはたいていの場合は避難だった。こころが道観の風水師と喧嘩したとき、道観の風水師が放火事件を起こし道観全体に石が飛んできてやまないとき、こころはいつも所在なさげに命蓮寺にやってきた。そんなとき、似たような境遇、同じように引き取られた経験を持つ響子はこころに共感と親しみを持って接していた。そして今回、こころは隠し事と共に寺にやってきた。となれば、隠し事の正体を探らないわけにもいかない、というのが響子の思いやりでもあった。「めくっちゃうよ、布」こころは慌てて止めに入るが、響子の手は止まらない。響子は赤い厚手の布を掴んで、ひと思いにひっぱった。
「……うわ」
そこには猿がいた。箱は檻で、檻の中、猿の頭には短い毛に器用にもリボンが巻かれていて、どうやらそれはこころが巻いたらしかった。証拠に、秘密を探られて(汗)を出していたこころだったが、あらわになった猿がこころをみつけ、キィ、と手を伸ばすとこころの(汗)は一瞬で(照!)に変わった。いかにも溺愛、メロメロといったふうに(照!照!)を浮かべつづける。「……さる」響子はあっけにとられていたが、ふいに我に返った。
「……どこで貰ったの、それ」
こころはギクッとして(汗)を浮かべる。忙しいやつ……響子は懐かしさに栓をして、努めてじとっとした目つきでこころを見つめた。「言えないようなところで貰ったって、そういうわけ?」こころは(汗!汗!)と主張して、視線を泳がせる。響子は以前ミスティアと行った金魚すくいを思い出す。たまたま最後の一匹になった金魚がポイから逃げ惑う際の動きが、ちょうど今のこころのソレを酷似していた。「うっ」途端に響子は頭を抱える。浴衣姿のミスティアと嫌な思い出とが連れ立って歩いてきたようだった。響子は、ねえ、なんか隠してるでしょ、と詰るミスティアの声を思い出して煩悶した。ふいと顔をあげるとこころは(…?)と無表情に響子を見つめている。こころの表情を読むのは極めて難しいが、響子にはそれが心配の表情であることはわかる。響子は気を取り直して立ち上がる。
「応えらんないなら。まあ、いいけど……」
こころはわかりやすく(嬉!)と浮かべて猿と顔を見合わせた。「餌、取ってくるから」響子が云うと、こころはがぜん(嬉!嬉!)とはしゃいで、猿とハイタッチする。響子が歩く廊下はこころの素直さのせいか、すこし肌寒いような感じがする。
「――だいたいあんたはねぇ、使いもしないのにどうして宝物庫の物をあっちにやったりこっちにやったりするの! 閉まっとけばいいでしょう、使わないんだから!」
「で、でも。あるでしょう? たまに取り出して眺めたくなる、といいますか……遊びたくなる! といいますかぁ……」
宝物庫の前を通りかかる。響子は腕を抱え、首をすぼめる。生きていると様々な状況に直面するし、そのたびには恥さえをもかくだろう。壇上でミスをしたとき、意図せずひとを傷つけたとき、誰かに憧れたとき……様々な理由で言葉の数は減っていく。しかし減った口数が恥を取り去ってくれるわけではない。閉じた唇はあくまで恥を遠ざける、或いは覆い隠すばかりだ。響子はかぶりを振って肌寒さを払い、冷蔵庫の戸を引いた。
寝室に戻り、響子は持ってきたミニトマトをこころに渡す。こころは見るからに喜んで、それを猿が伸ばす手に収めた。猿はやっときた! と言わんばかりにミニトマトにむしゃぶりつく。こころはそんな猿の姿に(照!)と浮かべて悶えた。「いちおう聞くけど」
「この……猿と。テレビでやってる猿って、同じ?」
ミニトマトを食べる猿にはしゃぎながらも、こころは一寸のあいだ首を傾げて逡巡し、それからゆっくりと首を横に振った。「そっか」響子もそれを疑うことはせずに、そのあとは、こころと一緒になって猿にミニトマトをやった。
『猟友会』 ② 〜ゴミ捨て場にて
「ここらへんにいるはずなのよね」
寝坊したスズメはひとつ鳴き枝を飛び立つ。誰もがそれぞれの朝を謳歌するなか、惰眠を貪る者もいる。それは朝寝坊のニワトリにしてもそうだし、夜更かしなフクロウにしてもそうだし、ゴミ捨て場で眠る天狗、犬、河童にしてもそうだった。「ほらやっぱり」姫海棠はたては腕を組んでため息をついた。
「これ映していいやつっスか?」
「だめよ」
ふいと風が吹いて木々がざわめく。すこし離れたところには水銀灯が立っていて、水銀灯は呆れかえったようにあかりを落とし、はたてや、山城たかね率いるカメラクルーたちと一緒になって、ぐちゃぐちゃの三匹を見下ろしている。三匹の内訳はもちろん天狗、犬、河童だ。「あれ」文の横で伸びているにとりが目を覚ます。上体を起こすと、背中にはがそごそと、雑然たるビニール袋の気配がした。椛も少し遅れてむくりと起き上がる。「わぁ……」振り向くと、ゴミ袋が当然のように山積されていた。「こら。いつまで寝てんのよ」はたてが伸びっぱなしの文を蹴りつける。「う、うぅ……」うめき声をあげながら文が目を覚ますと、ふいと風がやみ、木々は静まり返り、沈黙と肌寒さとが三匹の肌を撫でた。
低いコンクリートの塀のゴミ捨て場、三匹は捨て子の様相でゴミ袋に塗れていた。髪はぼさぼさ、服はしわくちゃ、目の下には、不足した睡眠に隈がよっている。三匹はどうして夜から投棄されたゴミのようだった。「さむ……」青空のもと、また風が吹く。同じ動物のように、習性を思わせるそぶりで、各々はおもむろに肘をだいた。
話は昨晩、三匹が旅館にチェックインするところまで遡る。
通りゃんせ 通りゃんせ
ここはどこの 細道じゃ
天神さまの 細道じゃ
ちっと通して 下しゃんせ
御用のないもの 通しゃせぬ
この子の七つの お祝いに
お札を納めに まいります
行きはよいよい 帰りはこわい
こわいながらも
通りゃんせ 通りゃんせ
「いやあ。たまにはいいもんですね、歌も。おかげであっという間に到着しました」
三人は森を抜け里のはずれに位置する旅館に至るまでを激こわ童謡『通りゃんせ』で荷物の重さをやり過ごし、やっとの思いで旅館にたどり着く。「おわー! どうしましょう! みてくださいよ、この立派な門構え!」文は剰った感動のままに自らの頭を両掌で押さえつけながら謡う。
「ほんとほんと。この逆さまの天守閣が入口っていうのも、なんか豪勢なかんじ!」
はしゃぐにとりの云う通り、逆さまの天守閣が出迎える天上の城、ホテルニュー輝針城はまさしくグランドホテルのソレだった。ホテルまでの長旅で疲れ果てた三匹にとって、入口の照明の華やかさは今日の終点にふさわしかった。「でも。なんていうんでしょう、こういうの。なんか……ヘンなホテルみたいですよね」訝し気な椛の口調に、ふたりは首を傾げた。たしかに、入口付近の電柱に括られた巨大な看板のネオンは猥雑な印象を放っている感じもする。言われてみるとなんだかいかがわしい感じがする。ふたりはせっかくの気分に水を差されたような気分になったが、結局のところは「たしかに」と腕を組んでは唸りながら頷いた。「でも。まずは……」椛はそのままの口ぶりで言葉を続ける。
「まずはチェックインしませんか。せっかく取ってもらった宿ですし、何より荷物が重たくて……ちょっと眠たいし……明日はテレビのインタビューもあるし……はやくお風呂に入って眠りたいし……もうぜんぜん動きたくないし……」
にとりは椛の語り口に落胆した。椛のその平時より心ばかり横柄な語り口は椛特有の不機嫌、眠たくなっちゃったときのサインだった。こうなると椛はぜんぜん動いてくれない! にとりはホテルに備え付けられている卓球やカラオケの可能性が限りなくゼロに近づいたことに心底がっかりした。そしてそのまま、胸ポケットで冷たくなったウノに突き動かされるがまま口を開く。
「い、いやだ! せっかくみんなでホテル……旅館にきたのに、なにもしないで、ただお風呂に入って寝るだけなんて! ……そんなんだったら、わたしはもう捕獲道具とかは組み立てない」
「困りましたね。でも、椛の言う通り明日はインタビューもあるし、私の腕もパンパンですし……はやくお風呂に入って眠るのには賛成……」
文がそこまで言うと、にとりは「そんなんだったら、わたしはもう捕獲道具とかは組み立てない」と拗ねまくった。文と椛は「うーん」と腕を組み、にとりの納得が得られるくらいの折衷案がないかと模索する。「とりあえずチェックインしてから考えませんか」椛が言うも、にとりはふいと顔を背けるばかりだ。「まあまあ、そんなに拗ねないでくださいよ」文は冗談めかしてにとりの腕を引こうと掴んだ。「さ、触るなよ!」にとりは本気で嫌がって文の腕を振り払った。ひとに触られるのがどうしても無理な河童というのはどこにでもいて、それは仕方のないことで、仕方のないことはたくさんあって……とにかくふたりはどうにか河童の機嫌をとり、チェックインだけは済ませることができた。今回わかってほしいのは、仕方のないことはたくさんある、ということである。
チェックインさえ済ませてしまえばにとりの機嫌はたちどころに好転した。入口、受付奥のおみやげコーナー、そのわきに温泉の男湯女湯の暖簾、そばの壁沿い、ぽつねんと体重計、一回百円、マッサージチェア……急上昇するにとりのテンションは先ほどまでの拗ねまくりをすっかり忘れ、荷下ろしを済ませたころには「温泉だろ! はやくしないと、まにあわなくなる!」などとはちきれんばかりだった。
お風呂上り、にとりと椛は腕がパンパンな文を残し、先に部屋へと戻っていた。「みろよ。エアー・コンディショナー!」にとりは広い畳のうえ、指をさして椛に喋るともなくしゃべり続ける。「へえ……」お風呂に入ってぼうっとしている椛は応えるともなくこたえて、にとりの話を聞くともなく聞き流し続ける。「わたしが造った。わたしだけがつかえる……」今度あれに、暖房機能もつけようと思っている。今度は開発予定のエアコンの基本スペックをぶつぶつと唱えながら、捕獲道具を黙々組み立て始める。本来ぶつぶつやりながらの作業に黙々という形容はふさわしくないかもしれない。しかし椛にとってにとりの言葉は理解不能の呪文であり、ともすれば虫の声と同義で、それは風の音が静寂を際立たせるのとおんなじにして、椛の脳内にもたげる眠気をほどよく刺激していた。「えらいですね、にとりさんは。結局、やるんだから……」うとうと呟けど、にとりは「液φ6.4・ガスφ9.5、配管長10m、10畳冷やす……エアコンの性能は室外機で決まる……」と呪文をやりながら組み立てを遂行し続ける。にとりはたのしいみんなの時間のために、文が帰ってくるまでに組み立てを終わらせる気でいた。椛はたのしいみんなの時間が始まる前に、文が帰ってくるまでには眠ってしまおうと思っていた。けれど、それでも目を閉じずににとりの作業を見つめ続けるのは、結局のところ椛の美点の弊害といえるだろう。今回の件に協力してしまったのもそうだ。椛はことの展望に一抹の不安を感じて、せっせと捕獲道具を組み立てるにとりから目をそらす。
視線を逃したさき、椛の視界はふいに、ソレに占有される。支配、と呼んでもいいかもしれない。ソレは空間だった。窓際、低いテーブルを低い椅子が挟んでいる。椛は凡百の旅館客よろしく、例の空間に心を一瞬にして奪われた。「足りない馬力をカバーする……室外機と室外機を接続した、スーパー室外機……」にとりの言葉も耳に入らない。椛はうっすらとした嫌な予感に包まれながらも、その空間から目を離せなかった。ふいに、部屋の戸ががちゃり、と音を立てて開く。
「戻りましたよ、私が。いやあ、いいもんですね温泉も。パンパンだった腕がもうこんなに……それからぁ……」
えへへ、と笑う文が、その手元で何やらがさごそと音を立てる。椛はハッとして文の方へ向き直った。
「買ってきちゃいました、これ。ロビーで……えへへ」
文は手元のビニール袋からがさごそとソレを取り出した。基本的に文に興味のないにとりは、そこでやっとなにかを察知したようにしてピクリと作業の手を止め、文の方へ向き直る。椛は文の手に握られたソレに愕然とする。「あ、文さん。あなたは――」
「――な、なんてものを買ってくる。わかってるんですか……明日はインタビュー、いわば仕事、仕事なのに……」
「射命丸。わたしはときどき、おまえがすごくまともなやつにみえるときがある。それがいま」
文は恥ずかしそうに片手で頭をかいて、えへへへ、と発音する。文がビニール袋から取り出し、ふたりを感嘆させたソレは、悪魔の水……缶ビールだった。「ひとり二本くらいで……パッと飲んで、パッと寝ちゃえば、すこしくらい……」そして文はまた、えへへと笑った。たのしいみんなの時間を待ち望んでいたにとりはもとより、先ほど謎空間に魅了された椛にも文の凶行を諫めることは不可能だった。三人はひとり二本をかんたんに飲み干し、そしてかんたんに我を失った。途端に三人の夜は加速する。例の空間で語らう三人は缶ビールが切れるなりロビーへ急行し、にべなくワンケースを購入せしめる。「観光地は歩いて回らないと」誰が言い出したかそのまま旅館を飛び出し、散策しながら空の白むまでワンケースを堪能した。歯止めの効かない、狂った夜……その結果が、この朝、この現在である。
「こら! シャキッとしなさい! このダメ妖怪ども!」
青空の下、姫海棠はたてが怒号を飛ばす。三匹は寝覚めの悪さと肌寒さ、それから理外の怒号に「こわ……」と肘を抱いて涙ぐむ。ダメ人間という言葉は人として備えているべき最低限の人格や良識が欠けているひとを指すし、この場合のダメ妖怪もまるっきり同じ意味である。ともかくあと数刻の猶予もなくカメラは回る。おこらないで……ぐあいわるい……はきそう……三匹は各々好き勝手に弱音を吐き続ける。
「これ、映していいやつっスか?」
「だめだってば……」
姫海棠はたてはこみ上げる頭痛を堪えるように、ため息を吐くのだった。
『鳥』 ② 〜自室にて
ソファは軋む。ミスティアはケータイを見るともなく眺め、テレビは聞きもしないのにしゃべりまくる。心を許せる同居人が安心だったとして、ミスティは現在その安心を失っている。これが生活を手に入れる以前の、土中の蝉のような精神性であったなら、疼痛のような孤独感に身動ぎさえできなかっただろう。しかしミスティアは生活のなかにいる。自分の空腹を満たすこと、食器の清潔を保つこと。ほかにも数々の生活の同義語がミスティアのなかで反復する。足りないのは響子だけだった。
『先週のこと、たしかにわたしが悪かったとは思うけど。』
増えるどころか減った文面にミスティアはため息をつく。携帯をソファの脇に放って、ミスティアは部屋を見渡す。なんとなく色彩のかけたリビングで、真っ赤なベッドだけが鮮やかだった。その赤色はなんだかシミのようで、みればみるほど滲んで、広がっていくような感じがする。そうして、もう幾度となく思い返した場面がまた再生される。
ねえ、なんか隠してるでしょ。なんて! 自分はどうして響子を追い詰めるような言い方ばかりしてしまうのだろう。自分のつめたい声色と、響子の困窮したような、あの、弱弱しい表情……。ミスティアは脱力感に苛まれる。その場面を回想するとどうして感情は複雑に、混ざったあとの姿でミスティアの胸中に湧いて出た。元の姿がわからないこともミスティアの脱力、無力感を助長させていた。
とっさに、ミスティアは縋るようにケータイに手を伸ばす。とにかく謝ってしまおう、文字であろうと言葉であろうと、伝えることに変わりはない。とにかく伝えなくては。ソファについた手をずらして、ケータイに手をかける。『現場のはたてさーん』
ミスティアはハッとした。その瞬間に、一瞬前のベッドの赤色のことなんて夢のように薄れて、手のひらに触れるソファの感触が急に繊細に感じられた。ミスティアには伸ばしかけた手が何を掴もうとしていたかさえ曖昧になって、視線はテレビに釘付けになった。テレビに目を奪われるのもそう悪いことではない。むしろ現実感が薄れるほどの逡巡を終わらせるのにはうってつけかもしれない。とにかく、今のミスティアを生活に引き戻したのはテレビの声だった。テレビはまた、聞きもしないのにしゃべりまくる……。
『えー、こちら現場のはたてです。我々は予定よりもすこし遅れましたが現在、無事に猟友会の方たちと合流することに成功しました。みてください、この、ボロボロの三人組……』
画面には髪がぼさぼさの河童、目に隈がよった天狗、衣服がよれよれの犬が映し出される。河童はカメラに向かって両手を振りすくなくとも愛嬌ではないナニカをふりまき、天狗はどうしたらいいかわからなさそうに片手でピースを作ってへらへらとして、犬は自分はいま恥ずかしいです、と恥ずかしさを表明するように自分の顔を両手で覆っていた。「なに……?」なぜか浴衣姿の猟友会の面々にミスティアは唖然とする。
『さっそくこの、渡された紙を参考に話を伺いっていきたいと思います。……えー、まずは天狗以外を映さないことが大前提……そのあとは天狗に台本を……チッ……いったんスタジオにお返しします』
返されても困る、といわんばかりの変な雰囲気が流れ、ミスティアはがぜん釘付けになってしまう。沈黙するスタジオは「いったんブイ」の声で画面は瞬時に切り替わり、猿に関連したニュースが流れ始める。人里に住むM子さん(年齢不詳)のテロップとともに顔にモザイクのかかった人物が映し出され、猿に遭わされた被害についてを話し始める。『(今朝)起きたらこんなふうになってて……』M子さんがそういうと、今度は無残に破壊された檻が移される。『はい。この檻に(でっかいブタ)入ってたんですけど……みんな逃げちゃってぇ……』そのあと黒い画面に切り替わり『増加する猿の被害……』が太字で浮かび上がってくる。そしてまたM子さんのインタビューに戻り『困りますね……はやく捕まってほしいです』でもってVTRは終わり、スタジオに戻る。こういった声も届いていますから、となんとはないコメントが行き交ったのち、ようやくまた『では準備も整ったようですので……現場のはたてさーん』とはじめに戻る。「なんなの……」困惑しつつも目が離せない。
『はたてです。では今から猟友会の“天狗のお三方”に話を伺っていこうと思います。まず山から降りてきた動物を捕まえること数十年……捕獲のプロフェッショナル、アヤさんにお聞きします。どうでしょう、捕まりますか。猿は』『ええ、ええ。捕まるでしょうね。まあ、山から降りてきてこういうふうに里を荒らす、脅かす……そういった動物が捕まらない、捕まらなかったということはその……今まで一度もない。なかったことでしたからね。』『捕まえてきたと?』『ええ。まあ、捕まえてきた……捕まえてきましたね。』『……はい。心強いコメントでした』
『続いて捕獲道具を造り続けて数十年……捕獲技師のカワシロ先生にお聞きします。今回はなにか秘密兵器があるということですが?』『ああ! あるよ! 秘密兵器! これはねえ、今回猿が降りたって聞いた瞬間ばちーん! ときてさぁ。そしたらもう止まんないよ、なんていうんだろ。パズルのピースっていうか、車輪とレールっていうかさぁ』『それは、そのリュックの猟銃ではなく?』『ああ、これはね! これも、わたしが考えたんだけども、今回はもみじが』『秘密兵器の詳細を伺ってもよろしいでしょうか?』『もちろん! 秘密兵器だから、秘密!』『……わかりました』
『最後に、動物心理学者のモミジ・イヌバシリ教授にお聞きします。今回降りてきた猿ですが、動物が里に降りる、降りてしまう心理というのはどういったものなのでしょう?』『わかりかねます』『……ありがとうございます』
『えー、今回は猟友会のなかでもそれぞれの分野から精鋭が集まったようです。あー……“このメンバーであれば今日中の捕獲は確実。山の威信をかけて成し遂げてくれるでしょう”……チッ……以上、現場のはたてでした』
そしてカメラはパンして“秘密兵器”にズームをかけた。秘密兵器は赤い厚布で覆われていたが、布の長さが足らず、下の方がはみだしていた。どうやらそれは檻らしく、檻の底には、なにやらトマトのようなものが仕掛けられている。「秘密兵器……」ミスティアは呆然としたまま呟く。カーテンから差し込む陽はソファに座るミスティアの腿あたりを切断せんと照らしていた。時刻は正午に差し掛かる。ワイドショーには今、不思議な魔力が宿っていた。
『猟友会』 ③ ~撮影後
インタビューを終えた文たちは近くのちょっとした広場に移動してはたてたちの休憩に合わせ昼食をとっていた。三人は東屋のベンチに並んで座り、出演料代わりにもらったお弁当を有難く頂いていた。カメラクルーの山童たちは何グループかに分かれて各々ブルーシートを敷いてにぎやかにぶちかましている。弁当に早々にお弁当を摂り終えたにとりといえば、撮影機材一式が置かれたブルーシートの上で、山童製のカメラに興味津々といった風に釘付けになっていた。
「あんたたちも大変ね」
並んで座るふたりにはたてが近づいて、缶のお茶を差し出した。「あ、どうも……」文は二本受け取って、そのうちの一本を椛に回す。椛はプルタブを開けながら「そちらこそ」と口を切る。
「リポーターなんてやらされて。ごたごたのど真ん中じゃないですか」
ほんとよ! と言って笑うので、ふたりも同調するように控えめに笑った。「意外と元気そうですね」椛は文に耳打ちする。テレビで見る限り常時不機嫌なはたてを人知れず心配していた文だが、それを誰かに話した記憶はなかった。もしかすると、例の空間で喋ってしまっていたかもしれない。頬でもかきたい気分になったが、生憎文の両手は弁当と割り箸で埋まっていた。
「くだらないわ! 上の考えることっていつもそう。見くびりすぎなのよ。猿一匹捕まえたところで、何が変わるっていうんでしょうね。……まあでも、これで誰かの役に立つっていうなら悪くないわ」
実際、はたてのソレは誰かのお茶の間を照らしていることに違いない。あっけらかんと語るその口調に、椛は白狼天狗としての自分をすこしだけ重ねて「たしかに」と笑った。「なんのはなしさ!」カメラに飽きたか、にとりは元気よく駆け寄ってきて会話に割り込んだ。「あのカメラはだめだ!」断言して、それより、と話し続ける。
「それよりさ。わたしたちはこのあとどうすればいい? はたてさんの話だと、猿は西に向かってるらしいけど。西ってのも、漠然としてるっていうか。茫洋としちゃうっていうか。椛が実際に動物心理学者で、射命丸が捕獲のプロフェッショナルならよかったんだけど。本物のプロはわたしだけだし……」
ねえ? と、にとりは文と椛に同意を求める。要するににとりは秘密兵器の設置場所についてどうするかを話したいらしい。ふたりは腕を組んで「うーん」と考え始める。はたてははたてでなにか案があるようだったが、しばらくの付き合いになるにとりが未だに自分をはたて“さん”と呼ぶのがなんとなくショックで言い出せずに、それはそれで腕を組み悩んでいた。「そうですねぇ」と、はじめに口を開いたのは文だった。
「……今までの話をまとめると、猿は里で作物を荒らして、動物の檻をこわして。そしてとにかく西へ向かっている……。柵や檻みたいな囲いを破壊するのが好きなようですが、それだったら西のみならず、見つけ次第いろんな方角で壊して回るはずですよね。でも、そういう話は届いていない。つまり、おそらく猿は西へ向かう“ついで”で、道すがらの柵や檻を壊していると考えられます。はたてさん、今まで壊された囲いの数は?」
「五千件。五千と二百九十七件のお宅の囲いが破壊されたと報告を受けてるわ……さすが、首がかかってるだけのことはあるじゃない。猿は最初に現れた地点から西の方角にある囲いはすべて破壊している。にもかかわらず、他の方角で囲いが壊されたという話はゼロ……ということは、よ!」
察しの良い文ははたての言わんとせんことを察して、察しの普通な椛も猿が次に現れる箇所の予測が立つことを理解し、察しが悪いとかではないが集中力のないにとりはまた機材のほうに戻って「この肩紐はいい!」と山童を称揚していた。親切な山童が「カメラストラップってんだよ」と教えるも、にとりは耳に入ってない様子で「でもこのカメラはだめだ!」と吐き捨て、文たちの方へ走って戻ってくる。「いまはなんのはなし!」元気よく割り込むと、親切な椛はにとりにあらましを説明する。
「ええと。猿は西へ向かう道中にある柵や檻をかならずを破壊するから、次に現れる箇所の予測がついて、なんなら次に壊されるであろう柵や檻の前ににとりさんの“秘密兵器”を置いておけば、猿はおのずとあらわれて、秘密兵器にひっかかる……みたいなはなし……で、合ってますか?」
はたて無言で深く頷き、文も同じようにした。椛はほっとして胸をなでおろして、それから自慢げに、そういうことです! と、にとりに胸を張った。ちょうど弁当を食べ終えた文はぱん、ぱんと手を払って立ち上がる。
「それじゃあ、向かいますか。西へ!」
やる気に満ちた口調で叫んではみたが、椛はまだ弁当を食べているし、カメラクルーたちの準備もまだだし、にとりもにとりで、なぜ秘密兵器が猿をひっかけるものだとばれたのか不思議で仕方なく、誰も文の調子に合わせられる者はいなかった。はたてはにとりに渡そうと思っていたお茶をそういえば、と取り出して、にとりに、はい、と差し出した。
「あ! ええと、どうも! ありがとうございます……」
ぎこちない距離感を間近で確かめながら、文はおとなしく席に着いた。ちょっとした広場に設置されたちょっとした日時計は正午を指していた。ふいと風が吹き、広場の囲いの低木や並木が俄かに揺れる。ブルーシート上、撮影機材の横に置かれた秘密兵器は布をかぶり、虎視眈々と陽の目を待っていた。……ともあれ、三人は間もなく出発する。はたて等カメラクルーと同行し、向かうのだ。
西へと。
「あー。出発前になんなんだけど……文、ちょっと来て」
はたてはビデオカメラを取り出した。
一旦終わり。
『犬』 ③ ~人里にて
人混みのなか、布をかぶった箱が揺れる。正午を過ぎて、通りは中繁盛といった具合に往来があって、空はひどくそれらしい空模様だった。響子は寺の紛失事件、そのごたごたから逃れるべく、こころを連れて里まで出て来ていた。寺では現在、物失くしのプロが引き寄せた失くし物のプロが寺中を物色しているに違いない。あのまま寺に居ては、寝室に置かれたこころの“箱”も見つかって、紛失事件は更なる混迷を極めたことだろう。皆と一緒に昼食を囲まないことが世のため人のためになることだってある。歩きながら、響子は手持無沙汰にこころの持つ箱を眺めていた。
響子はもちろん箱の中身を知っている。こころの持つ箱の中身はリボンを付けた猿で、猿といえば例のワイドショーだった。そそくさと寺を出る前にもみかけたが、山から猟友会なんてものも派遣されていたようだった。こころは箱の中身は件の猿ではないというが、響子にはこころの持つ箱とワイドショーがまるで無関係であるとは到底思えなかった。しかし、それはそれとして、響子が今現在しげしげとこころの持つ箱を眺めているのにはほかの理由があった。こころの歩調にあわせてゆらゆらと揺れる箱……正体は檻で、檻には猿が入っている。檻といえば鉄製で、鉄といえば、とにかく重い……重たくはないのだろうか? こころは何の感情も浮かべてはいないが、もしかすると、これは自分の助力を待っているのではないだろうか。
響子は寺を出て久しいが、体力には自信があった。寺に居たころ、風呂を沸かすための薪はすべて響子が割っていたし、今回にしても、実家のようなものとはいえ、泊めてもらう最低限の礼として二日分の薪を割って出てきたところだ。ミスティアとバンドだって組んでいたし、あれもなかなか、体力がいる。
響子はこころの胸中をどうにか推察しようと思考をめぐらす。はたしてこころは響子の、そういった体力自慢な面を知っているのかいないのか。知らずに、箱の重さに耐え忍び黙っているのか。或いは、知りながら、いつ響子が助力を申し出てくれるのかを待っているのか。響子は考える。いや、知らないはずがない! 響子は思い出す。バンド時代、こころは響子たちのライブに足しげく通ってくれていた。『ゴーゴー!響子♡ ゴーゴー!ミスティア♡』のうちわを自作して、無表情に演奏を眺めてくれていたのだ。それは響子たちが前人未到の『来たれお正月!108日連続カウントダウンライブ』を敢行した際も同じだった。こころは108日間欠かすことなく様々なうちわを持参し無表情にライブを見届けてくれていた。今日の薪割もみてたし……こころが響子の体力を知らないなんてことはあり得なかった。響子は愕然とする。ということは、こころはやはり、重たい檻を持ちながら、重たくない? 代わろうか? を待っていることになる! 響子は焦燥にかられる。こころは寺を出てから今までの道中、ずっとその言葉を今や今やと待ち遠しく思っていたに違いない。もう手遅れなのではないだろうか! 響子は絶望した。かけるべき温かな言葉はとっくに冷め切り、もはや腐って使い物になろうはずもない。響子は呆然と、こころの無表情を眺望する……ああ! 遅すぎたのだ! なにもかも……。
響子の視線に気づいたこころはしばらく(?)を浮かべて、然るのちそれは(照)に変わった。理由もなくじっと見つめられて照れない者はいない。こころは(照!)と浮かべて、響子の顔をぺちぺちと叩いた。響子は戦慄した。こころはやはり怒っているに違いない! そうでなければ、ひとの顔を二度も叩く理由がみあたらない……憔悴する心とは裏腹に、響子の顔に表情はない。響子は努めて、自身の感情を気取られまいと表情を御していた。理由はいくつかあるが、響子がいちばんに恐ろしいのは恥をかくことだった。もしこれまでの逡巡すべてが甚だしい勘違いで、馬鹿馬鹿しい早計で、恥ずかしい杞憂だったとしたら……。気付けばまた(?)に戻っているこころをみて、焦って極めて冷静に言葉を吐いた。
「ああ、なんでもないよ。なんかみつけた? 食べたいやつ」
聞かれると、こころは遠くを指さした。通りの突き当りの店を指しているらしい。看板には西洋料理店、と書いてあるようだった。つまるところそれはレストランで、こころは嬉しそうに(スパゲッティ!)を浮かべている。不意に響子はいつかの朝食を思い出して、そのまま固まってしまう。不意に足を止める響子に、こころは(涙)、(涙涙涙)とわかりやすく駄々をこねる。「ああいや」我に返った響子はなんとか取り繕おうと言葉を紡ぐ。
「まあ、いいけど……」
そういって、響子は店に向かって歩き始める。それがわかると、こころはまた(嬉!)と追従する。揺れる箱を、おまえにもわけてやる、とでも言いたげに指で二度つつく。そんなこころを眺めながら、響子は一先ず安心した。突き当りまで歩き、いよいよ入店、その段になって、響子は向こうの人だかりに気づく。人だかりは大きなカメラを中心に形成されていて、中心ではリポーターらしき人物が『猿』がどうであるとかを喋っている。人だかりはきっと野次馬だろう。響子はまた気が気でなくなった。こころが上機嫌で運ぶ箱……幸いこころは野次馬にも、大きなカメラにも気がついていないようだ。響子はそそくさとレストランに入店した。
こころはスパゲッティに舌鼓を打ちつつ、何度もこっそりと箱の布をめくり、具材のミニトマトをそのなかへ運んだ。その際、布と箱のあいだからするりと紙が落ち、響子はなんとなく焦ってそれを拾った。紙にはこう書かれていた。
『このヒジョーに重要な猿は、粗忽者の布都、異常者の青娥はもちろんのこと、食いしん坊の芳香や真っ正直の屠自古にも預けられない。特に屠自古にこれがバレては何を言われるかわからない。とゆーわけで、今回この猿はお前に預けることにする。そのときが来るまで丁重に扱うように! P.S.誰にもバレないよう管理するコト! 豊聡耳神子より。』
それから響子は気が気でなくなった。読んだことを気取られまいと努めて平然とパスタを巻き取り口に運んでも味がしなかった。こっそりとポケットにしまった手紙が妙につめたく感じられ、妙な汗までかきはじめる次第だった。響子は必死に頭のなかで安心を探す――
ねえ、なんか隠してるでしょ。
――けれども、響子の頭に浮かぶのはそんな声ばかりだった。その声は何度も、なんども響子の頭のなかを反射して、増幅していく……からん、と音が鳴り、響子はハッとした。響子は自分が落としたフォークをかがんで拾って、疑問符を浮かべるこころに「ああ、なんでもないよ」と平然を吐き繕った。こころは安心した様子でミニトマトを突き刺し、布を捲る。「キィ!」声がするや否や「ああいや!」と響子は立ち上がり、大声でまわりに弁明した。
「なんでも、なんでもありません!」
響子の懊悩は続く。
『馬』 ② ~人里にて
「現場のはたてです。現在我々は猟友会の方たちが割り出した“次に猿が現れる”と思われる地点に到着しました。すごい数の野次馬が、我々を取り囲んでいます。野次馬といっても尻尾などはついておらず、その大多数は里に住む人たちのようで……チッ……いったんスタジオに返します」
昼下がりの里で、多々良小傘は人だかりの中、おばちゃんの横で小ぢんまりとしていた。いいかい小傘ちゃん、とおばちゃんは耳打ちをする。そうして小傘はおばちゃんから再三再四聞いた今回の仕事の説明をまた受ける。おばちゃんは同じ話を何度もするし、小傘は聞いた話をすぐに忘れる。ふたりはとにかくウマが合った。
「これはね、えらい人からの頼まれごとなんだ。今からあそこにいる三人のやることなすこと全部にケチをつけるのさ。いいかい。躊躇っちゃだめだよ。あの三人はとんでもない悪いやつって思いなね。同情はなし! わかったかい?」
ともかくおばちゃんの説明曰く、今回の仕事は偉い人から頼まれたことで、おばちゃんの言うようにカメラの前で猟友会の悪口をいえば、とにかくお金がもらえるらしい。
「わ、わかった……!」
小傘はいままさに、野次馬たちの最前列で猿の捕獲を見物していた。小傘の後ろでは野次馬たちやいのやいのと不安げな声をあげている。その原因はまさに小傘の眼前にあった。そこには大勢のカメラクルーに囲まれた、大きな布をかぶった箱があった。これはなに……? 小傘は気圧される。「えー。現場のはたてです。まずはみなさまにさきほどの発言について謝罪申し上げます。まず野次馬というのは所謂ところの馬ではなく……」そんな小傘をみておばちゃんは仕方ないねと小声でつぶやき、腕をまくった。「みてな、小傘ちゃん」こうやるんだよと、呟いて、おばちゃんは声を張り上げた。
「どうでもいいだろそんなことはァ!!! 大事なのはそれだろ、その、秘密兵器!!! さっさと見せなァ!!!」
とんでもない大音声に、一瞬、世界のすべてが静止する。「……そ、そうだ」束の間、空気は一変する。「そうだそうだ! はやくみせろ!」「そうだ! みせろ!」「わーわー!」野次馬たちはいっぺんに加熱して騒ぎ始める。どうだい、とおばちゃんはウィンクして、小傘は当惑した。どうしてこれでお金がもらえるのだろう。そんな疑問が小傘の頭のなかでもたげる。しかし、よくよく考えてみればこれまでおばちゃんが嘘をついたことがないことを思い出す。途端に小傘のやる気に火が付いた。ようし、わちきだって……!「えー、ではいよいよ、秘密兵器の登場です」リポーターの声に合わせて、秘密兵器の禁が解かれた。それは巨大な檻だった。檻の底にはなにやらトマトが仕掛けられており、野次馬たちは唖然とした。「えー。アヤさん。この秘密兵器なのですが、これが猿を捕獲するトラップということはわかるのですが、この、トマトというのは……?」そしてアヤさん、と呼ばれた猟友会のひとりが『トマトの柵を荒らしていたから、猿の好物はトマトに違いない』といった内容の、ずさんな推理を披露した。
「ふぅざけるなよこのバカ!!! 異常者か!!! 猿の好物はバナナだろうがァ!!!」
キレまくりのおばちゃんに合わせて、小傘は「わちきは魚が好き!」と叫んだ。すると、小傘の後方の野次馬たちもそれに続けた。「俺はうどん!」「野菜は嫌いだ!」「僕はトマトいけます!」小傘は得心のいった面持ちでおばちゃんの肩をぽんぽんと叩き、振り向いたおばちゃんにウィンクした。ナイスだよ……! おばちゃんに褒められて、小傘はますます図に乗った。「えー。続いて、カワシロ先生。今回この秘密兵器ですが、具体的にどういった仕掛けなのでしょうか」呼びかけられた背の低い猟友会のひとりは勇んで檻のなかに飛び込み『通常トマトを取ったら仕掛けが作動し、扉が閉じるが、今回のトラップのすごいところは取ったタイミングではなく、齧ったタイミングに作動するところである』と、檻の中から実際に身振り手振りで実演して見せた。
「なぁにをしてるこのチビはァ!!! 犯罪者か!!! 自分が捕まってどうする!!!」
おばちゃんが叫ぶと、檻に囚われたあのチビは両手で柵を掴んでひどくしょんぼりとした。おばちゃんに遅れまいと、小傘は「むかし住んでたところはなかったよ、屋根!」と叫んだ。すると、小傘の後方の野次馬たちもそれに続いた。「うちは築七十年だって!」「わんわん!(ぼくは犬小屋)」「おれなんか栃木だよ!」小傘は振り向いてハイタッチを始める。いぇーい三回でくる、くると回転し、最後はハイターッチとおばちゃんに求めた。ナイスだよ……! おばちゃんとハイタッチして、小傘は鼻高々だった。「……動物心理学者のモミジ・イヌバシリ教授に伺います。可能でしょうか、捕獲は」呼びかけられた最後の猟友会のひとりは『わかりかねます』と返答した。
「こんのやろうこのとんちきめが!!! 正直者か!!! 犬走椛か!!!!!!!!」
おばちゃんが正直者の代名詞を叫ぶと件の正直者は両手で顔を覆って、まるで自分はここに居ないと言い聞かせるように首を横に振りまくった。おばちゃんに負けじと小傘は「がんばれー!」と叫んだ。すると、小傘の広報の野次馬たちもそれに続いた。「いいじゃん、犬走椛!」「やまいちばんのがんばりもの!」「今月のMVP!」小傘はモミジ・イヌバシリ教授にかけよって肩を叩いた。野次馬たちも一緒になって励ましに行ったし、おばちゃんだってそうした。ナイスだよ……! おばちゃんに撫でられて、小傘は有頂天になった。
ぱち、ぱち、ぱち。
混迷を極める現場に、拍手の音が響いた。それは一匹の猿で、猿は拍手を続けながら、猟友会のあのチビが囚われている檻まで近づく。ぱち、ぱち、ぱち、と打ちながら、猿は檻ににじり寄る。拍手はまるでその檻を『素晴らしい発明だ』と称揚しているようにもみえた。囚われのあのチビは思わず会釈をする。そして猿はあのチビから齧りかけのトマトを受け取るような滑らかさで奪い、そのまま、トマトを齧り齧りに去っていた。
途端に、場の空気は沈下した。からっ風がぴゅうと吹いて、その場全体が、まるで狐に抓まれたようだった。檻の中のあのチビを含め、猟友会の三人は唖然としたのち、事の大きさに愕然として頭をかかえた。それは誰がどうみても揺らぐことのない大失態であった。モミジ・イヌバシリ教授のそばにいた小傘は思わずその頭を撫でる。し、しかたないよ、慰めるように言葉を紡ごうとするのは野次馬たちも一緒だった。ただ、ひとりを除いては。「……やっぱり」一瞬震えたその声に、誰もが同じ方を向いた。
「やーっぱり!!! しょうもないねェ猟友会ってのはさ! たかだか猿一匹捕まえられないじゃないか! ありえるのかい、こんなことが! あんたら山から派遣されてんだろう、あの“お山”から!!! あんたたちがそんなんなら、お山ってのもたいしたことないねえ! 聞けば里に常駐してる哨戒部隊も“お山”の差し金らしいじゃないか! 不安だねぇ私は! いっそ守矢の神様んところに全部任せたらどうなんだい! あんたたちのお山なんかより、ずっと安心だよ!」
場は凍り付いていた。そのなかで、小傘は困惑していた。小傘の記憶にあるおばちゃんは、厳しいけれど、こうも辛辣な物言いをするひとじゃなかった。おばちゃんは厳しいけれどやさしくて、いつも小傘の足りなさをいろんなやさしさで埋めてくれていた。食べるものがなくてひもじいとき、おばちゃんはいつも「食べていきな」と小傘にご馳走してくれた。近所の子供たちにいじめられて悲しいとき、おばちゃんはいつも「おいで小傘ちゃん」と小傘を慰めてくれた。働き先でポカをやらかしてクビになりそうなとき、おばちゃんはいつも「いいから、いいから」と一緒に謝りに行ってくれた。おばちゃんは厳しいけれど、こんなひどいことを言うひとじゃなかった。「それに、なんだい。この秘密兵器ってのは……」お、おばちゃん。もう用をなさない秘密兵器ににじり寄るおばちゃんの裾を、小傘は掴もうとした。けれど、おばちゃんは止まらない。
「……こんなおもちゃで、猿なんか捕まえられるかい!」
そういって、おばちゃんは檻を蹴りつけて破壊した。「あー!」囚われていた猟友会のひとりはあまりの事態に泣き出し、檻の中でへたり込んでしまう。猟友会のほかのふたりにしても狼狽して、すぐには動き出せなかった。野次馬たちもおばちゃんの凶行にたじろいで、誰もなにも言えなかった。
「お、おばちゃん、どうしちゃったの……? ねえ……?」
小傘はすこし怯えながら、振り絞るように声をかけた。おばちゃんは小傘の頬を両手をやさしく包み、怯える瞳をみつめて、声を絞りだすようにして言った。
「お金のためなんだよ、小傘ちゃん……安心して、おばちゃんに任せておきなさい……ね?」
そう語るおばちゃんの声は、小傘にとって、やさしいおばちゃんのままだった。けれどその瞳は、小傘がみたこともないほど悲しそうだった。「だ、だめ……!」小傘は思わずおばちゃんの手を掴み、駆け出した。「ちょ、ちょいと! 小傘ちゃん!」当惑するおばちゃんの声を無視して、おばちゃんの手を引いたまま、小傘はその場から出来るだけはやく離れようと逃げ出した。「う、撃て射命丸! 椛! だれかあのおばちゃん、撃ち殺してよぉ!」遠くで泣き叫ぶ声が響く……こんなのは違う、こんなのは間違ってる。殺したいほどにくまれるなんて……小傘の胸中には様々な感情が渦を巻いて暴れていた。何が違うのか、なにが間違ってるのか、いったい何が、おばちゃんにこうまでさせたのか。小傘はおばちゃんの手を引きながら、おばちゃんの言葉を反芻する。お金のため。おばちゃんはひどく悲しい目をして、そう言った。時刻は正午をまわり、太陽は厚い雲に紛れていった。
『鳥』 ③ ~自室にて
ミスティアはあっけにとられたままでいた。テレビが、ワイドショーがなにか、もう物凄いことになっている。『秘密兵器が破壊され、猟友会が泣き出し、事態は混迷を極めています』リポーターの声とともにカメラは破壊された秘密兵器から切り替わり、今度はぺたん座りで泣きじゃくるカワシロ先生を慰めるふたりが映し出される。あまりの悲痛さにミスティアは画面から目を逸らそうとするも、どうしてか目を離せなかった。なんというドキュメンタリーだろうか。ミスティアは幼いころのことを思い出す。あれはたしか、縁日で友達とはぐれたときのこと……ミスティアの思考とは裏腹に、テレビは止め処なくしゃべり続ける。
『えー。渡された紙を読みます。“ともかく猟友会の不備を徹底的に挙げ連ね、山とは無関係の素人であったことを表明せよ”……チッ……現場は引き続き猿の行方を』
プツン、と音が鳴り、画面は暗転する。ミスティアはリモコンをテーブルの上に放り投げて、ため息交じりに天井を仰ぐ。テレビのない部屋は途端に静まり返り、その静寂はミスティアに孤独であることを耳打ちするかのように響き渡った。
「……バカみたい」
ひとは悪意に触れたとき、それが自分と無関係であろうとなかろうと嫌な記憶や想念が引きずり出される。それはひとではないミスティアにしてもおんなじで、ミスティアは見上げた天井にあらゆる嫌悪を透明にして浮かべていた。軽い耳鳴りがした。一方的に騒ぎ立てて、ひとたび拒絶したら、今度は二度と喋らない。なんてやなやつ、ミスティアは睨みつけるように視線を落としてテーブルの上を一瞥する。テーブルの上、部屋の薄明りの中、リモコンはぽつねんとただそこにあった。ほかのボタンよりも大きな『電源』の赤色は悪びれるようにそこにあって、それを押さない自分を責めるかのようでもあった。嫌気がさして、ミスティアは後頭部をソファにつけたまま、ずるずると横たわる。横たわると、こつん、と側頭部にケータイがあたった。ミスティアはため息をつき、あきらめたようにケータイを開く。メールを開き、受信ボックスが空であることを確認する。そのまま何度か指がすべり、どういうわけかミスティアはその文面を開いてしまう。
『先週のこと、たしかにわたしが悪かったとは思うけど。』
『先週のこと、たしかにわたしが悪かったとは思うけどⅼ』
『先週のこと、たしかにわたしが悪かったⅼ』
『先週のこと、たしかにⅼ』
『ⅼ』
そのまま点滅する『ⅼ』をしばし眺めて、それから結局、ミスティアはケータイを閉じた。「はぁ……」ごとり、と床にケータイを落として、ミスティアはまたため息を吐く。ミスティアの腿を切断せんと照らしていた陽差しはもうどこかへ隠れて、部屋の中はお昼未満明け方以上の薄明るさに満ちていた。なんだかお腹が空いた気がする、シャワーを浴びたいような……嫌気を天井に揺蕩わせたまま、気付かぬうちにミスティアの瞼は落ちた。そのままゆっくりと時が流れ、そのうち、部屋の薄明るさのなかに橙色が紛れ込んで、紛れ込んだ橙は時間とともに、部屋全体を侵食していく。気付けば、部屋には烈しい夕凪が横たわっていた。
猟友会 ④~帰路
森は夕陽で真っ赤に染まって、木々はその赤色に焼かれるように身もだえている。夕刻、お役御免な猟友会の三人はとぼとぼと帰路を辿っていた。誰も喋らないかわりに足音ばかりが大きく響いた。三人の靴の裏を滑る山砂は踏みにじられるべくそこにあって、当然のように三人の靴を汚し続ける。文の手にはリュックが提げられていて、リュックからは長い筒が飛び出している。それはにとり手製の猟銃だった。猟銃は文の歩調に合わせて揺れ、銃口は西日を反射しててらてらと光っている。ゆらりと揺れても、今度は誰の脛をかすめることもなく空を切り続ける。文はリュックを持ち直して、今朝よりも増したその重量感に殊更口の端を強く結んだ。文の後方の椛のさらに後ろで、にとりはぽつりと口を開く。
「でもさあ、どうして猿も降りてきちゃったんだろ。捕まるか、そうでなきゃ撃ち殺される……わかんないもんだね、なんか哀れだよ。そうなったら、さっきみたいに大勢に囲まれてさ。猟銃なんか向けられたら、きっと、ぜったい怯えるよ。わたし、猟銃を作ったとき考えたんだけど。これでふたりのうちどっちを撃ち殺そうかって。何回も、なんかいも考えたんだけど……結局、どっちも撃てなかった。あたりまえだよ。だって、友達がいなくなっちゃうのって、いやだもん。だからいま、もしかするとあの猿にも友達がいて……みたいなこと、考えたんだ」
友人の剣呑な想像と感傷的な結論に、文はふと思い返す。昼食のあと、はたてに呼び出された文はふたりのいないところである映像を撮影していた。それは文が猟銃を構えてるだけの数秒間の映像で、はたて曰くそれは『まだ未完成』の映像だった。文はそのとき、もちろんこの映像が何に使われるのか仔細を尋ねた。どうやら今日中に捕獲或いは駆除が遂行されない場合、どこかから“替え玉の遺体”が提供され、最後にその写真を挿入することで映像は完成し、明日テレビにて駆除の決定的瞬間として放送されることが決まっている、という話らしかった。文が気がかりなのはどこかの替え玉についてだった。
「なんてさ。わたしだって、ほんとはやだよ。誰かが傷ついたり、傷つけたりするの。あーあ。作んなきゃよかった、銃なんて……」
文の悩みはもう銃を使うか使わないかではなく、どちらの猿が死ぬか生きるかということに推移していた。腐っても天狗、本気になれば猿の一匹なんてわけはない。それでも今回カメラの前で『山から派遣された安全で安心な猟友会』をやらなければならなくなったのは、どうしたって自分の責任だった。もう手段を選べる時間は残されていない。あとはどのようにケリをつけるか、それだけだった。
「仕方ないですよ、こうなっては。突如現れた猿に日常生活を脅かされたみなさま、心中お察しいたします。そして野生動物を守りたい。その人たちの気持ちも尊重したい。そして猿も猿なりに、なんていうのはどっかのリポーターの仕事です。私たちは妖怪です。妖怪だから、できることをする。それだけのことですよ」
文の言葉が決意の表明であるのと同時に、自身への慰めであることがにとりにもわかった。にとりは黙って頷いて、椛のあとに続いた。椛も椛で俯いていたが、そのうち顔をあげて文に尋ねた。
「本当にやるんですか。だって、その。意味わかんないです。猿を撃ち殺させて、猟友会は有用だけど銃はあぶないってニュースにして、猟友会を銃と文さんごと処分して、あたらしい安全な猟友会を作って、それをまたニュースにする……なんか回りくどすぎるし、本当に意味があるのか。甚だ疑問です」
「決まってたことですから」
要するに、今回の捕獲作戦でお山が欲しかったものは実績だった。猿を即日捕獲できる実績ある猟友会を手に入れ、里に派遣されている中立の哨戒部隊のパイを守矢から奪うことが目的なのだ。本来なら銃やらの“ちから”に頼らず猿を捕獲し、殺傷力のない安全で安心な猟友会ならなお良かったが、捕獲ができないにせよ駆除という形で障害を取り払えるならそれでもいい。捕獲にせよ駆除にせよ里にとって益のある実績を立てれば猟友会は注目を得るし、注目さえ得れば誰もが数日間は猟友会のニュースを追うだろう。ケチのついた殺傷力などそのときに取り払えばいいだけの話である。実行者がその後どうなるかはわからない、見せしめとして哨戒部隊長に処刑されるという噂もあれば、河童の地下工場で最低の工場長のもと生涯こき使われるという噂もあった。文の毅然とした口ぶりに、椛とにとりは目を逸らさずにはいられなかった。
「だから、おふたりはここまでです。あとは私、ひとりでやれます」
文の言葉に、椛とにとりは立ち尽くすほかなかった。椛にも、にとりにも立場があって、本来お山側に位置する文に肩入れすること自体が、望外に危険なことだった。このまま文についていけば、ふたりとも、哨戒部隊長に処刑されるかもしれないし、河童の地下工場で最低の工場長のもと生涯こき使われるかもしれない。ふたりは互いの胸のうちで反響するしかたないを噛みしめる事以外できなかった。
「……それじゃあにとりさん、この鞄はお返しします」
リュックから猟銃を抜き取り、文は去っていく。ふたりは小さくなる文の背中をしばらく見つめていたが、そのうちにとりは堪え切れなくなって目を逸らし、そのまま歩き始める。「……それじゃあ、わたしも帰るよ」にとりの言葉に、俯いたまま相槌を打って、椛も歩きだす。そうして三人は、たのしかった旅館ではなく、それぞれの帰路に向けて歩き始めた。
文は西へ沈む夕陽を眺めては、口笛など吹いてやろうかという気分だった。東から西へ、この数千年間ただの一度を除いて、そのサイクルは破綻せずに続いてきたのだ。どうせ明日はやってくる。望む望まないにかかわらずやってくるのなら、迎えに行ってやろうというものである。そんなやぶれかぶれな気持ちで、猟銃を沈む橙に向けて構える。するとどうして眩しくて、文は思わず目頭を抑えるのだった。
夕陽をみていたのはにとりも同じだった。にとりは沈みゆく夕暮れの真っ赤にあの夏のことを思い出していた。湖畔で遊び、はしゃぎまわったあの日々。そして誓い……。「わたしたちは、なにがあってもずっと友だち……」呟くと、すぐに涙が込み上げてくる。泣いてはいけない、誓いを破ったのは誰でもない、最後まで付き合ってやることのできなかった自分なのだから。ひとりごちると、涙はもう溢れだして止められなかった。「誓い合ったのに。あの夏の、真っ赤な空の下に。う、うぅ……」空はまるであの夏の思い出を嘲るように、焼き尽くすかのように、刻一刻と赤く染まった。こんな残酷な夕景があるだろうか? 隣を歩く椛は思わずにとりに声をかけてしまった。「も、もみじ……行っちゃったんじゃないの……」
「にとりさん、どうも……私たち、やっぱり帰り道が一緒なんです。だって、まだ浴衣だし……返さなくちゃいけないし……ホテルに」
なんということだろうか。ふたりはインタビューを受けているあいだも、捕獲道具を説明しているあいだも、カメラの前ではずっと浴衣だったのである。それはもちろん、ふたりの遥か前方で寂しげに歩く射命丸文にしても同じことだ。三人は前日、浴衣を着たままホテルのロビーでワンケースを買い、そのままホテルの外をほっつきまわり、酔いつぶれていた。そして起きたのは姫海堂はたてに発見されたゴミ捨て場、ということはつまり、三人に着替える時間など与えられていなかったのである! なんということだろうか、まさに灯台下暗し。この事実にいったい誰が気づけたというのだろう。
「じゃ、じゃあ!」
「ええ、走りましょう!」
ふたりは沈みゆく夕陽に向かって駆け出した。しょぼくれた友達に追いつくために、来たる明日に追いつくため、走った!
「射命丸!」
「文さん!」
驚いて振り向く文にふたりは叫ぶ。このままじゃ終われない! 文がなにより驚いたのはふたりの着るその浴衣だった。驚いて、文は自分の衣服をあらためる……「あああっ……!」そのとき文に電流走る――! 「わ、私も浴衣っ……! 浴衣のままっ……!」文に追いついたふたりは息を切らし「そのとおりだ/そのとおりです」を切れ切れ口にする。
「で、でも。いいんですか、おふたりは。このまま一緒にいたら、おふたりまで、哨戒部隊長に処刑される/河童の地下工場で最低の工場長のもと生涯こき使われる、かもしれないのに……!」
「いいんですよ! それに、安心してください、里の哨戒部隊長は私です!」
「ああ! その、最低の工場長っていうのも、たぶんわたしさ!」
ふたりの心強い言葉に、文は感涙してしまう。
「わ、わたし……ほんとはこれから、不安でたまらなくって……!」
「ほんとは……ふたりがいなくなっちゃったら、どうしようって、おもってて……!」
うわーっと泣きついてくる文をにとりは「さ、触るなァ!」と本気で嫌がって振り払う。振り払われた文は椛の胸に軟着陸しておいおいと泣きじゃくる。
「な、泣くなよ射命丸。まだ上手くいくって、決まったわけじゃないんだから」
「大丈夫ですよ、文さん。処刑はしませんし、もし寮を追い出されても、暫くは私の家に居させてあげますから」
かくして友情の危機を乗り越え再結成した三人組は一緒に旅館に帰ることにした。まずはお風呂に入りたいし、作戦も立て直さなくてはならない。「まずは夕日に向かってゴーだろ!」にとりが駆け出すので、ふたりも遅れて走り出す。「あっ、すみませんね」リュックに詰めなおした猟銃が椛の脛をいじめた。前回は歩いていたのに対して今回は走っているから威力は速さと重さと友情パワーが相乗して何万倍にも膨れ上がった。「ぐ、ぐうう……」椛は声にならない声をあげる。
「捨てちゃえ、そんなの!」
前方から嬉しそうににとりは叫んだ。
『犬』 ④ ~帰路
こころは歩きながら、両手で軽々と箱を顔の前まで持ち上げ、捲った布を頭にかけ、視界不良など気にも留めずになかの猿となにやら交わしてはしゃいでいる。対照的に響子はくたくただった。その原因はひとえに猿にあるといえる。
話は遡り、レストランで一皿目を食べ終えた頃合いにそれは起こった。「猿が出たぞ!」店の中か、或いは外か。とにかく誰かのその一声で騒動が起きた。食事中にもかかわらず席を立ち猿を一目見ようと駆け出す者、何が起きたか騒動を逃れるべく店のなかに駆け込んでくる者。レストランの空気は一瞬にして猿一色に染まり、そのレストランど真ん中の座席で、響子は慄然と頭を抱えた。響子の心を知ってか知らずか、こころは嬉しそうに猿に注文したミニトマト盛りをやりつづける。捲られた布からときたま飛び出る毛むくじゃらの細腕に響子は心臓が飛び出るような想いだった。響子は例の手紙をポケットの中でぐちゃぐちゃに丸め、やおら立ち上がり、退店するべく、ミニトマトをやりつづけるこころの腕に手を伸ばしかけた。そのとき、レストランのドアがぐわん、と開いて、カメラクルーが飛び込んでくる。一寸遅れてマイクを持った人物が入店してきた。
「現場のはたてです。猿はどうやらこのレストランに逃げ込んだようです、えー……“使い物にならない素人に代わり、私自身が猟友会として行方の調査を”……チッ……いったんスタジオに返します」
それはテレビでよくみるリポーター姫海棠はたてそのものだった。偽物じゃないか? 一瞬疑ってみた響子だったが、となりで(テレビのひと!)と大喜びするこころをみれば、たちまちその疑念は焦燥に化けた。
「あー、ごめんなさい。いまカメラまわってないんで! いきなり失礼しました。取材とか大丈夫でしたか? あ、オーケー? ありがとうございます。じゃあさっそくお尋ねしたいんですけど。あ、大声だしまーす。えー店内で猿を見た、或いは見ていないってひと、手をあげてもらえますかー」
そして店内の誰もが手をあげる。「あ、ごめんなさい。見てないってひとだけでお願いしまーす」今度は誰も手を下ろさない。響子は慌てて片手を振り上げた。「わ、私も! 私も見てません!」もちろん、レストランのなかに居た者なら、猿が逃げ込んでいないことなど明らかだった。しかし、この場にふたりだけ、猿を見てない、と言い切れない者がいる。ご存じ嘘つき響子と正直こころのふたりである。響子はこの状況に微動だにしないこころの片手を、挙げてないほうの片手で必死につかんで上へ上へ持ち上げようとする。しかしこころの瞳は“テレビのひと”こと姫海棠はたてリポーターに釘付けだった。憧れに瞳を輝かせているあいだは誰しもが無敵で、響子は無力だった。響子の努力空しく、上がらないこころの手はあえなくはたてに発見され、はたては「おっとこれは特ダネの予感」とふたりの席まで近づいてきた。「まわしていいですか? カメラ」響子は全力で首を横に振って、こころは(驚嘆!驚嘆!驚嘆!)と興奮気味に首を縦に振りまくった。
「じゃあまわしますねー。さん、にぃ、いち……。えー、現場のはたてです。猿が逃げ込んだ、とされるレストランでたったいま、目撃者の方を発見しました。ではさっそくお尋ねします。いますか? 猿は」
響子は大慌てで腕を伸ばし、こころの口をふさいだ。しかし最近は括弧内だけの感情表現がマイブームのこころはお構いなしにはたての問いに応じた。
(ここにいます!!!!!!!!!!)
絶句、響子は絶句した。そのとき響子は呼吸が止まるような思いでこころを眺めることしかできなかった。こころはきらきらと輝く瞳でリポーターを見つめ、そのリポートに全身全霊を持って応じてしまっていた。響子には座席に置いてある箱、その中身のリボンをつけた猿と里で話題沸騰のあの猿にどんな繋がりがあるかは知らない。けれど、ポケットのなかで無残に丸まったあの紙、あの手紙には『ヒジョーに重要な猿』の文言と共に『豊聡耳神子より』と差出人の名前までしっかりと綴られていたのである。豊聡耳神子のことは響子も知っていた。まるでテーブルの煎餅をぱくつくみたいにマツリゴトをつまみ食いしている仙人の名は、昨今テレビでもよく聞く名前だった。その仙人が“ヒジョーに重要”と云うならこころの箱も非常に重要なのだろう。このまま中身がばれて、中身がばれたのが仙人にバレれば、身内のこころに代わって、居合わせた自分がなにかひどいめに遭うに違いない……きっと仙人の不思議なちからで、里の哨戒部隊長に処刑/河童の地下工場で最低の工場長に死ぬまでこき使われたり、するに違いないのだ……! 終わった……響子は頭を抱えた。
「へえ、いますか。猿は」
しかしリポーターの反応は響子の予想とは大きく外れていた。
「えー、やはり猿はこの店内にいるようです。じゃあ今度は隣の方にお尋ねします。どこですか、猿は」
リポーターはどうやらこころの回答を可能な限り響子にとって有難い方向に解釈してくれたらしかった。しかも今度は目撃者のこころではなく、何故か見てない方に挙手してた自分に質問してくれている。しめた!! 響子は可能な限り遠くの地名を思い浮かべ叫んだ。
そして所変わって間欠泉地下センターである。ごうごうと唸る熱気のなかで、カメラに囲まれた響子はこれまでかいたこともない、未知の汗をかいていた。
「現場のはたてです。親切な目撃者のお二人に案内していただき、現在我々は間欠泉地下センターまで来ています。ではさっそくお尋ねします。ここに猿がいる、とのことでしたが?」
マイクはこころに向けられた。響子は何を勘違いしたか、それを向けられたのが自分でないことに一安心してほっと息をついた。茹だるような熱気のなか、こころは瞳を輝かせて全身全霊でリポーターの問いに応じる。
(ここにいます!!!!!!!!!!)
絶句、響子は絶句した。そのとき響子はこころが両手で提げる箱を思わず二度見して、まだ何も解決したわけではないことを瞬く間に思い出した。それどころか、こころは二度目になる“猿はここに居る! 宣言”をしてしまっていたのだ。自分はなにをほっとしていたのだろう。とんでもない、救えない大馬鹿だ! 響子は自分を卑下しながら最悪の未来を想定する。聴衆の前で哨戒部隊長が構える大刀が自分の首に振り下ろされる瞬間/最低の工場長に胡瓜で頬をしばきまわされながら説教される、そんな未来を……! 終わった……っ! 響子は頭を抱えた。
「へえ、やはりいますか。猿は」
おや……? リポーターがおかしい。もしかするとこれは……!
「えー、やっぱり猿はこの間欠泉地下センターにいるようです。じゃあ今度は隣の方にお尋ねします。どこですか、猿は」
ラッキー!!! リポーターはどうやら物凄いおたんちんか弩級のエンターティナーだった。だからやっぱり次は目撃者のこころではなく未知の汗をかきまくり挙動不審な自分に質問してくれている。ここで決める! 響子は可能な限り嘘を疑われない範囲のなかで最も遠い地名を思い浮かべ、叫んだ。
しかし嘘というのは悲しいもので、それは大概その場しのぎ以上の効力を持たなかった。そして嘘は次の嘘を招く。響子の吐いた嘘も同様で、響子は地下センターからロープウェイへ、ロープウェイから廃洋館へ、廃洋館からマヨヒガへ、翻って、やっぱり人里へと……地下センターから逃げた猿はロープウェイを使ったに違いない、ロープウェイを下りた猿は廃洋館に隠れたに違いない、我々が迷子になっているから猿も迷子に違いない、もう夕方だから猿ももといたところに帰っているに違いない……響子は都度とんでもねえ理屈を組み上げてリポーターに嘘を吐いた。人里に戻ってきた響子は頭のなかで次の理屈を組み立てながら、リポーターの次の質問を今や今やと待っていたが、それはリポーターの「休憩入るので」の一声でお蔵入りと相成った。行く先々で猿はここにいると主張する正直者と、弩級の敏腕リポーターと、芋蔓式泥縄発掘術の響子……何が間違っているのか、その判断は今となっては難しい。
そして、現在である。
記憶さえも霞むような真っ赤な夕凪の中。こころは歩きながら、両手で軽々と箱を顔の前まで持ち上げ、憧れのリポーターと施設見学/索道体験/肝試し/迷子を堪能した喜びを猿に聞かせ分かち合っている。対照的に響子はくたくただった。箱の中身はバレずに済んだ。その安心感でいっせいに沸き上がった疲労感が響子の頭を冷やし、自分がやらかした失態、数々の嘘をその頭の中に反復させていた。それは後悔だった。
響子はこれまで嘘をついたことはなかった。聞かれたことに対して誤魔化したり押し黙ったりすることはあっても、あからさまに嘘を吐いてその場をしのいだことなどなかったのだ。響子は烈しい後悔に苛まれていた。それも、あろうことかカメラの前で嘘をつく響子の姿は各家庭のテレビにてオン・ジ・エアーされてしまった。響子の人となりを知らない者なら、テレビのなかの響子の言葉が嘘かどうか判断できないだろう。もしかすると本当の証言をしていると肯定的な見方をしてくれる者も、なかには居たかもしれない。けれど響子が思い浮かべるテレビはただひとつだった。それはあの部屋、淡いピンクのカーテン、黄緑色のラグマット、そして深紅のベッド……ミスティアはソファに座り、呆れかえったようなあの目で、テレビのなかの自分を冷ややかに見つめているに違いない……。イメージは恥ずかしさでかき乱れ、子供の落書きとミスティアの姿が反復して、気付けばまた例のシーンが再生しはじめる。
ねえ、「ねえ、なんか隠してるでしょ」
「別に。なにも隠しやしないよ」それより……
響子は叫びだしたくなった。あの会話、ミスティアの、呆れかえったような、あのつめたい目……。当たり障りの無い言葉でその場をやり過ごすのと、甚だしい嘘でその場をしのぐことに、何の違いがあるだろうか。響子は思わずその場で頭を抱えた。
気付くと響子の前にはこころが(汗)を浮かべ立っていた。その手には例の箱が抱えられている。こころのそれは紛れもなく心配で、こころの持つ箱は直面すべき問題だった。響子はハッと気を持ち直して、こころと、こころの持つ箱についての今後を考え始める。
「なんでもない。ちょっとつかれたかもだけど。それよりさ……その、箱なんだけど」
こころは一瞬ギクッとして(汗)を浮かべて鳴らない下手な口笛を吹き始める。響子としてはこころは紛れもなく友人で、友人の抱える問題を放っておくわけにはいかななった。様々巡って、里に帰ってきてから、この帰路のなかでさえも破壊された囲い、猿の被害は散見された。被害者や野次馬と思しきひとびとが徒党を組んでどこかへ向かっていく様子もあった。それはまさに騒動で、里は山から下りた猿によって確かに混乱しているらしかった。
「その箱……檻の中身……猿のことなんだけど」
こころはたちまち(汗汗汗)と数を増やして、そっぽに向けた口笛で下手なりの『魔王』を奏で始める。こころが箱を持っていることで今後どうなるかはわからない。しかしまったく心配しないことなどできるはずもなかった。響子にとって、こころは紛れもなく友人で、かけがえのない思い出だって、いくつかある。ライブに通ってくれていたこころの姿、『ゴーゴー!響子♡ ゴーゴー!ミスティア♡』の、あのうちわ……かけがえのない思い出たちに紛れて、またあのシーンが明滅を始める。眉をしかめそうになる響子だったが、こころに気取られまいと必死でそれを抑え込んだ。いま向き合うべきは友人の抱える問題で、忌まわしくて恥ずかしくて甚だしい自分の失態などではない。響子は努めて平然と言葉を続けた。
「まあいいけど……って、言ってやれたらいいんだけど」
止まらない追及にこころは括弧も魔王も引っ込めて、俯いて、箱を抱える手にギュっと力を込めた。それはまるで隠し事を守りたがる子供ような手つきで、響子はたちまち居た堪れなくなる。――ねえ、なんか隠してるでしょ。ねえ、ねえ、ねえ……「あーもううるさい!!!!!」
突然こころが叫んだ。「うるさい! うるさすぎるぞ!! おまえは!!!」こころは立てつづけに怒鳴った。こころはおまけに(怒)をたくさん浮かべて、わたしは怒っています、をこれ以上ないほどわかりやすく表明している。響子はあっけにとられて、なんだか開いた口がふさがらなかった。「もう、いいだろ!!! わたしはいま怒ってて、とても説明できる状態じゃない!!」わからないのか! と怒鳴りながら、今度は(怒)を引っ掴んでは響子に向けて投げつける。響子は唖然としながら投げつけられる(怒)をただただ浴び、立ち尽くす。ひとしきり投げたのち、こころはふいと踵を返してずかずかと歩き始めた。
「……帰ったら話す。帰るまでは話さない」
遠くで夕鳴きの屋台がチャルメラを吹いた。無意識でキャッチしていた手元の(怒)がぐいっと響子を引っ張った。慌てて響子が手を離すと(怒)は響子の手元を離れ、こころのもとへすーっと帰っていく。そのさまを呆然と眺めていた響子だったが、ふいに(怒)は止まって(……)と変化し、それから(かえるぞ!)となって、最終的に(はやくこい!)と推移した。なんという一方的なコミュニケーションだろうか。そして(怒!怒!)と変化した感情はこころのもとへ帰っていく。器用なのか、不器用なのか、わからないが。開いた口の塞がらない響子はしばし固まっていたが、すぐにいろいろな感情を一息に吐いて、それから、こころの足跡を辿るのだった。
カラスが数羽の群れになって夕景を滑っていく。(怒)をふりまきながらぷんすかと歩くこころの十五歩手前を響子は歩く。とにかくこころは帰ったら話すし、帰るまでは話さない。その歩調のはやさにはたしかに怒りが感じられたし、付き纏う(怒)には説得力があった。こうなればそれはもう絶対で、響子がいかに言葉を積んだところでこころは口を利かないのだろう。風は無い、夕暮れは凪いでいる。およそ十五歩の距離などは、寺につけば問題にさえならないだろう。響子はもう諦めて、とりとめもなくこころの足音をただただ辿った。記憶さえも霞むような真っ赤な夕凪の中を、ふたりは等間隔で歩き続けた。
『馬』 ③~公園にて
東の空にはすこしダークブルーが滲んでいる。公園のグラウンドに設置された巨大で背の高い照明はあと数刻もしないうちに点灯することだろう。
「ここでね、よく野球するんだ。目の色が違うから、助っ人ガイコクジン……なんだって」
「……そうかい」
相槌を打ちながら、おばちゃんは買ってきたたい焼きを袋から取り出して、ベンチに座る小傘にそのひとつを渡す。それを渡したあと、おばちゃんはよっこいしょをやって、小傘の隣に腰を落ち着けた。
「小傘ちゃん、悪かったよ。おばちゃんちょっとやりすぎた……はいこれも、あったかいから」
「……うん、いただきます」
そういって、小傘はおばちゃんからおしるこも受け取る。一口頬張って、一口飲み込む。たいやきは甘いし、おしるこも甘い。それにどっちもあたたかい。泣きつかれた小傘は不思議な気持ちに包まれた。
あの悲しい捕獲劇のあと、この公園まで走った小傘だったが、それからどうしたらいいかはわからず、結局、着くなり小傘は泣き出してしまった。それから数刻のあいだ、おばちゃんは諫めるでもなく、ただ小傘のそばで、小傘が泣き止むまで一緒にいてくれた。甘いたいやきも温かいおしるこも、小傘にはおばちゃんのやさしさだった。おばちゃんはこんなにやさしい。なのに……小傘はまた泣きそうになる。おばちゃんはバツの悪そうに空を見上げながら、小傘の背中をぽんぽんと強く叩いた。小傘はまた泣いてしまうのをなんとか堪えて、おばちゃんの方を見た。おばちゃんは小傘の視線に気付いているのかいないのか、そっぽを向いてたいやきを片手に咀嚼している。
「ねえ、ねえ……おばちゃん。言ってたよね? お金のためだ、って……」
「……お金って、そんなの。難しくって、いってもわからないでしょう?」
うん……。小傘は俯いて、またたい焼きを一口齧る。難しい話はわからないかもしれないが、それでも、そう語るおばちゃんの瞳はやっぱりかなしそうだった。小傘はたい焼きを齧りながら考える。おしるこも飲む。甘いものは頭にいいと聞いたことがあった。思い出すなり、小傘は一口、もうひとくちと、たいやきを頬張った。小傘は頭の中で、無残に破壊された秘密兵器とカワシロ先生の涙について考える。お金のためなら、しょうがないことなのかな……。小傘はもやもやと、思いつめた表情のまま、考えともつかない考えを真剣になって巡らせた。
おばちゃんもおばちゃんで、そんな小傘をみるのはつらかった。小傘をみると、おばちゃんはいつも嫁いでしまった娘のことを思い出した。今にしても、つらそうな小傘に娘の姿を重ねて、嫁ぎ先で困っていないか、帰りたいと泣いてはしないかと心を痛めていた。
小傘ちゃん……おばちゃんね、娘がいるの。小傘ちゃんはいつもみたいに、わたしおばちゃんよりも年上なんだー! なんて、否定するかもしれないけど。小傘ちゃんと、おんなじくらいの女の子で……。などと、今にも話し出してしまいたいおばちゃんだったが、それをなんとか堪え、おしること一緒に気持ちを押し流した。そんなことを話したら、やさしい小傘のことだから、また、余計に気を使われてしまうかもしれない。それに、小傘はいつもひとりだった。いろんな事情のある子なのかもしれない、おばちゃんは常々小傘が心配で、目が離せなかった。そんな小傘に、これ以上心配をかけるようなことは言えない、言うもんじゃないと、おばちゃんはたいやきをあぐあぐと口いっぱいに頬張った。
それから静かな時間が流れる。どこか遠くでチャルメラがなって、向こうの薄暗い路地には台所の明かりが窓から漏れている。そんなときは決まってカレーの匂いが漂った。郷愁はふたりの肩を黙ったままそっと冷やして、ゆるやかな風となって路地の方へと吹き抜けていった。夕空には薄青が差し込んで、その青にうっすらと月が顔をだしていた。すこし冷えてきた。このまま真剣な表情で唸らせていたら、この子は風邪でも引いてしまうかもしれない。
「帰ろうか、ね。小傘ちゃん……」
小傘は応えない。さっきよりも俯いて、表情はみえないが、どうやらたい焼きを必死に咀嚼しているようだ。「ほんと、悪いことしちゃったねぇ……」口には出さずに、おばちゃんは小傘のリスみたいな頬を眺めながら反省した。しかし眺めていると様子がおかしい。小傘のリスみたいな頬はさらに膨らみ、小傘が頷くたび、またひとつ、もうひとつと膨らんでいった。「ありゃ! そんなにがっついて!」おばちゃんは小傘の片手のおしるこをひったくって、小傘の口元にむりやり押し付ける。「飲みなんせ、あんた飲みなんせ!」小傘はおばちゃんの押し付けるおしるこを無視して、咀嚼をはやめた。「ゆっくり食べるんだよ!」おばちゃんの忠言は公園に響き渡るが、小傘は咀嚼の速度をさらにあげて、よりいっそうあぐあぐとした。どうやらどうしても早くたいやきを飲み下したいようだった。おばちゃんは「あーあー……」と困ったように笑いながら、押し付けるおしるこを諦めて、小傘の嚥下を待つことにした。と思えば「んー! んー!」と小傘はおばちゃんの肩を叩く。言わんこっちゃない! おばちゃんはあばれる小傘の手を掴んで、その手におしるこをしっかりと握らせた。そして小傘は大わらわにおしるこを流し込んだ。ごくごくごく、と勢いよく喉が鳴って、小傘は案の定大きく息をつく。「はぁぁ~~~……ぁぁぁあああ!!」突如大音声をあげる小傘におばちゃんは当惑する。おばちゃんは面食らいながら、どしたの小傘ちゃん、と尋ねようとするも、それはまたしても小傘のそれに遮られる。「ひ、ひ、ひ」今度はなんだ! おばちゃんは身構えた。
「ひ、ひ、ひ……ひらめいた! おばちゃん、わかっちゃったよ……わかっちゃったんだ、わちき!」
あっけにとられるおばちゃんに向けて、小傘は続ける。
「まずね、考えたの! そもそも、なんで、どうして猟友会をいじめたらお金がもらえるのかなって。それと、悪いのはなにかなって。どっちもよくわかんないけど、原因はきっと猿! これは間違いない……自信があるから、絶対!」
ま、まあ。とおばちゃんは丸い目のまま相槌を打つ。しかし小傘はおばちゃんの相槌などないも同然といったふうにしゃべり続けている。
「猿が原因でしょ? そしたら猟友会がでてきて、猟友会のひとたちにいじわるなことをいったら、お金がもらえるんでしょ? だったら……猿を捕まえればもっといっぱいお金がもらえるはず! じゃじゃーん! どうどう? 名案? 名案でしょ? ねえ、おばちゃん! だからさ、一緒に、あの猿を捕まえようよ!」
それは短絡的で、理屈になっていない、いかにも小傘の考えそうなことだった。けれど、おばちゃんは小傘が大好きだった。里で、いつも元気で放っておけない小傘を里のみんなが大好きだった。おばちゃんにしたって、そんな小傘は可愛くって仕方がなかった。――おばちゃんはお金持ちの家に嫁いだ娘が心配で仕方なかった。嫁いだ先でお金のことに困ったり、恥をかいてやしないかと不安で仕方がなかった。ちょっとの仕送りでもしてやれればよかったが、けれど、そんな余裕もなく。心配だ、という理由だけで便りなど送っては、それが娘に恥をかかせることになるかもしれない。なにか、なにかできることはないものか……そんなときに里の掲示板でみかけたのが例の求人だった。『テレビカメラの前で野次を飛ばすだけ!』簡潔すぎる説明と簡単すぎる内容に不安を覚えないおばちゃんではなかったが、それでも、これがすこしでも娘のためになるなら、そう思うと、おばちゃんは止まれなかった。――おばちゃんは小傘の屈託のない笑顔を眺め、諦めたように笑った。
「そうだね。今回はおばちゃん、小傘ちゃんの言う通りにしてみることにするよ」「あー!!!!」
言ってる途中で、小傘はまた声をあげる。「猿いた! 猿いたよ!」驚いて、小傘の指さす方をみやると、薄暗くてわからないが、たしかに猿の影のようなものが、公園のフェンス越しに見えた。「行こう、おばちゃん!」
「走って追って、ふたりで一緒に捕まえよう!」
小傘は駆けだした。同時に、猿の影もささっと動き出す。どうやら本当に猿らしい。おばちゃんは、よっこいしょ、と重たい腰を上げ、小傘の後を追って走り出す。
「小傘ちゃーん! 止まるんじゃないよー! おばちゃんがどんなに遅れても、止まらずに、猿をひったててやるんだ!」
小傘は聞こえてもいない様子で猛然と走った。公園を出て、路地を爆走する小傘の背中は西日で滲んで、おばちゃんの始まりかけの老眼では眩しいし、厳しかった。けれど、おばちゃんも止まらない。西へ、西へと逃げてゆく影は沈みゆく太陽を追う。小傘はその影を追って、おばちゃんはその小傘の背を追った。この物語も終盤に差し掛かっている。
そして、小傘の話は、これで終わりだ。
「あんたたち! あの猿はわたしたちがいただくよ! そしたら賞金、わかってんだろうねー!」「わかってんだろうなー!」
まだ終わらないらしい。
不意の大音声にカメラクルーはあっけにとられる。誰も来なさそうな人里の路地にブルーシートを敷いて休憩中だった一同の横を、なにかがすごい勢いで通り過ぎていった。伝令係から渡された次の原稿をリポーターである姫海棠はたてに渡そうとしていたところだった山童は、呆然としたまま、なかば機械的に「……えっと、これ、次の原稿で」と説明しかける。しかしその言葉は背中に走った強い衝撃に遮られた。「なにぼーっとしてんの、追うわよ!」はたてはそのまま、クルーの手に宙ぶらりんの原稿をひったくって、破り捨てるがはやいか駆け出していた。「あんたたちも! 捨てなさい、そんなもの!」違うブルーシートで編集作業に取り掛かろうとしていたクルーたちも、大慌てで作業を放りだしては駆けだした。「カメラまわして!」その声で、残りのクルーたちも全員カメラを抱えながらに走り出す。
「やっぱそうよね、リポートって! ……そうでなくっちゃ!」
姫海棠はたての瞳には溌剌とした光が宿っていた。
かくして多々良小傘とおばちゃん、そしてワイドショーの一行は逃げる猿を追いかけ、走り出した。太陽は今にも沈んでしまいそうだが、まだ確かにそこで有り難い橙の光を放っている。そことはどこか。無論、西である。今度こそ、小傘の話はこれで終わりだ。
『鳥』 ④ ~自室にて
薄暗い部屋のなか、ミスティアは空腹感に目を覚ました。どうやらすこし眠ってしまっていたようだ。薄ら闇のなか、ソファに寝転んだまま床に手を伸ばして、ぺた、ぺたと物色する。そうしていると見知った冷たさが指に触れた。ミスティアはその感触にうんざりしながらも指をぴんと反らして、その表面を撫でるようにしてなんとか引き寄せ、手のひらに掴んだ。それはもちろんケータイだった。ミスティアはこのケータイに今日一日どれだけ失望させられただろうか。それでも、湿った失望の予感のなかから希望は淡く浮上して、ミスティアにケータイを開かせる。パカ、と乾いた音は空しく響いた。開いた画面の明るさとその眩しさは時刻以外を伝えることはなく、ミスティアは起きて早々苛立ちを感じながら、ソファの端にケータイを放り投げては大きくため息をついた。ぼんやりと、パスタを切らしていることを思い出す。再度ため息は大きく響いた。
「ほんと、バカみたい……」
苛立ちの矛先はテーブルの上に向いた。テレビのリモコンは、ミスティア寝て起きるまでのあいだ、ずっとぽつねんと立ち尽くしているかのようにそこにあって、それ自体がすべて計算かのように、再度ミスティアに電源ボタンを押させてみせた。ミスティアは憤懣やるかたない気持ちでふん、とソファに座りなおして、むすっとした頬を肩肘をついて押しつぶし、焦らすように暗転しているブラウン管を睨みつけた。『――場のはたてです』
『現場のはたてです! お伝えします、事態は急変しました! 野次馬の方たちがこの数刻行方をくらましていた猿を発見し、捕獲に奔走している模様です。我々は出遅れましたが、いまその最後尾にて、たしかに猿の尻尾を捉えています! みえますでしょうか、あれが、今日一日我々を翻弄した、にっくき猿めの尻尾です!』
ミスティアはじっとりと画面を睨みながらも、その表情とは裏腹に、すでにテレビに心を奪われ始めた。なんと簡単な心だろうか、ミスティアは自分を恥じながらも、八つ当たりのような視線を逸らすことはせず、黙って揺れる画面を眺めた。カメラは大きく揺れていて、ブレまくりで、何が映っているのかさえわからない。それは機材の問題かもしれなかった。とにかく、ミスティアはますます苛々した。世界はどうしてこうも、なにかをひとつ伝えるために、要領の得ないことばかりをするのだろうか。テレビ画面の横、部屋の隅っこにはミスティアのギターと響子のベースが仲睦まじげに立てかけられている。
『思えば、私たちは大切なことを見失っていたのかもしれません。リポートとは渡された原稿を読むことでも、追えと言われて猿を追うことでもありません。……まずはみなさまに、今まで謝罪してきたすべてに謝罪します。申し訳ございません。そして、そのうえで、今の謝罪を含めたすべての謝罪を撤回させていただきます。そしてリポートとは、自身の興味を満たすべく自身の興味の赴くままその真相を追及し解明し暴き立て騒ぎ立てることであるとここに表明します』
『ではお騒がせいたします……現場のはたてです! さあ! ご覧になれますでしょうか、あのにっくき猿めの尻尾をば! 我々はこれより、今日一日駆けずり回された私怨、そして事の結末を私利私欲の赴くがままに激写します! スタジオには返しません、絶対絶対、この結末は私が最初に報じます! もう返さないから! 誰ひとり! その画面から! 目を逸らすな!』
リポーターが叫ぶと、カメラのブレはたちまち収まり、その輪郭が見えてくる。前方には大勢の走る野次馬たちと、さらに奥の方、小さな影が鮮明に映し出された。ミスティアの肩肘に少しの力が込められる。画面のなか、次第にカメラはその小さな影にフォーカスして、ズームしていく。「……ばれ、がんばれ」それはミスティアの口から発せられた。ミスティア自身も気づかないほど、ちいさな声だったが、それでも当人は声に気づく。自分はいったい何を応援しているのだろう。また苛立ちは胸のなかに立ち返って、ミスティアをやきもきとさせる。
『前方の野次馬二名はどうやら“賞金”目当てに猿を追っている模様です! 果たして賞金とは一体、いつどこで誰が何のために懸けたものなのでしょうか! それは本当に懸かっているのかどうかすら定かではありません! そして、この猿は! 一貫して西へと向かっています! この先に! 一体なにがあるのでしょうか!』
そして、画面は小さな影を完全に捉えた。それは誰がどうみても猿だった。猿はその四本足で懸命に地を蹴り猛進していた。「がんばれ、がんばれ……!」気付けばミスティアはまたしてもそれを口にした。それは苛立ちだったはずだが、ひとつ呟くごとに少しずつ姿を変えていくようでいて、ミスティアはその正体に引き寄せられるように、言葉を繰り返した。「がんばれ、がんばれ……るな……げるな」言葉の方も、だんだんとより正しい姿に近づいていく。画面はもう完全に猿の弩アップを映し続けている。ときたま振り向いた猿の必死の形相といえば、それは世界の誰にも捉えることはできないような迫力で、ともすれば猿はこのまま誰にも捕まらず、逃げ果せてしまうかもしれなかった。
「……逃げるな、逃げるな!」
ミスティアは居ても立ってもいられずに部屋を飛び出した。真っ暗な部屋の中で、取り残されたテレビは光と音と情報を吐き出し続ける。この暗い部屋を照らすこと、静かな部屋を僅かでも彩ること、すべての暮らしがすこしでも意味と寄り添えるよう、テレビはいつまでも流れ続けた。
『横のクルーから速報です! 猿、この猿は! 命蓮寺方面に向かっているようです! ……はあ!? 返せって? スタジオに? 絶対? 返さなきゃ死ぬって、そんなの……チッ……いっかいだけ返しまーす!』
そこまでを映したのち、テレビは明かりを落とし沈黙した。
テレビの話もこれで終わりだ。
『猟友会』 ⑤ ~ホテルニュー輝針城玄関前にて
なんと綺麗な星空だろうか。青から藍色になりつつある春の空、欠けた月は星々を吹き飛ばすかのように輝いて、三人の頭上にあった。「いいですか? 何事にも節度ってもんがあるんですよ」浴衣姿の射命丸文は空いた片手でなにか上機嫌に手振りをしながら、ふたりに向けて喋っている。
「だいたいねぇ。やりすぎなんですよ、猿も、山も。わかりますか? 五千件のお宅の囲いが破壊されてるんです、逃げてるんですよ、大事な家畜が。捕まえるべきは一匹の猿じゃなくて逃げた家畜たちでしょう、どう考えても!」
まともなことを喋っている文だが、空いていない方のお手手には例のキチガイ水が握りこまれている。それは話を聞くにとりにしても同じで、にとりは組んだ腕の片方に缶ビールを握りこんでいた。にとりは缶ビールを握ったままその人差し指をピンと立てて、椛の視線を誘導する。「わたし、ちょっと考えたんだけどね。この山と、似てるものはないかって」椛は両手で缶ビールを握りこんだまま、にとりの立てる人差し指に夢中になってしまう。「この、山とかけまして、温泉と説く……」椛はたちまち合点のいった表情をして、その心は! と口にした。
「どちらもつかれる(浸かれる/疲れる)でしょう」
椛はパアっと笑顔を咲かせて、文と顔を見合わせた。見合わせたまま、文はやおら頷いては拍手を打ち始める。同時に、椛も文のソレよりも細かく何度も拍手を打った。にとりはまんざらでもなさそうに腕を組んだまま、照れ臭そうに称揚を噛みしめた。
旅館に戻り、温泉に浸かった三人は例のごとくそれをおっぱじめてしまっていた。しばしにとりの“ちょっと考えたんだけどね”に放心していた椛だったが、缶ビールに一口つけると気を持ち直してにとりに尋ねた。
「それで、なんのはなしでしたっけ?」
「山はさいてーってはなし!」
言ったあと、にとりは椛に向けて“ああ、言っちゃった!”の顔を作る。すると、椛も“あっ! 言っちゃいましたね!”の顔を作って、ふたりはその顔を見合わせては大爆笑して手をはたきはじめる。ふたりの世界が始まってしまう予感をいち早く察知していた文はもう新しい話相手をみつけて、勝手にしゃべり続けていた。
「猿の一匹を取り逃せば処刑である、ですとか。死ぬまで地下工場に軟禁である、ですとか。極端なんですよ、ないんですよ節度が。我々を見習っていただきたいものです……節度があればなんでもできる。節度があれば、この夜のうち猿だってつかまえられる……ねえ?」
ねえ? と問いかけた先にあるのは巨木だ。文は木に向かって話していた。無論返事はない。にとりと椛はふたりの世界の中で、言っちゃいけないことのライン上を反復横跳びしてはしゃいでいる。三人がまた三匹へと魂のステージを降ったのには理由がある。しかしもう理由は説明しない。もういいだろう。とにかく三匹はこの夜のうちに猿を捕まえてしまおうと決めていた。猿の行方はわからなかったが、失せ物は探すよりも待つ方が見つかるものだ、と誰かの名案が飛び出して、三匹はホテルの玄関前で飲み明かすことに決めたのだった。ホテル近辺は林で囲まれていたし、動物の気配だって結構するし、宵の口に呑む酒はうまいし、猿もきっと来てくれるに違いないのである。
突如として浴衣姿の三匹の前を小さな影が横切った。――ほら!――けれども三匹はこともあろうに各々笑いあったり喋りまくったりしていたから、それを見逃してしまう。小さな影はお気づきの通り猿で、猿が通れば、次に来るのはそれを追うもの達だ。「待ーてー!」どこで拾ったか虫取り網を構えた多々良小傘がホテルの前を横切っていく。「待ーーてーー!」多々良小傘が奏でる緩やかなドップラー効果に、文はピクリと反応した。「あれ。いまなにか……」振り向けど、そこにあるのは笑いまくるにとりと椛の世界のみだ。文は気を取り直して巨木へと向き直る。それでですね……口を開きかけた文だが、それは小傘の後続によって遮られる。
「小傘ちゃん!!!! 止まるんじゃないよォ!!! いま増援を呼ぶからねぇ!!!!」
遅れるどころかこのまま行けば堂々三位のダークホースな健脚おばちゃんの大音声に、三匹は否応なしにハッとする。「いまなんか聞こえた?」しかしハッとするのみに留まり、事の自覚には至らなかった。残念だ。瞬間、ぴぃぃぃぃぃぃと指笛が響き渡る。それは通り過ぎていったおばちゃんの指笛で、里まで届くような芯の通った音色だった。三人は狐に抓まれたような顔をしてきょとん、と見合わせた。そして静寂が辺りを包む。にとりは何かに気がついたか、気がついていないのか、とにかくハッとして、おもむろに口を開く。「……ヘンな鳥!」無念だ。三人は手を叩いて笑いあった。
しかし、おばちゃんの指笛がもたらしたのは三匹のバカな勘違いだけではない。それは地響きだった。三匹は各々笑いを引っ込めて、周囲を見渡す。低く響きわたるその音はホテルの東側からすごい速さで接近しているようだ。それは足音だった。無数の足音が、木々さえなぎ倒すような勢いで迫った。
「う、うわああああああ!」
それとはまったく関係なしに、にとりは近くの茂みから飛び出してきたでっかいブタに吹っ飛ばされた。そのまま半回転して、服の襟がブタの尻尾に引っかかる。でっかいブタはお構いなしににとりを引きずったまま猛スピードで爆走する。そして無数の足音はようやく場面に追いついてくる。「指笛はこっちからだ!」「あのブタを追え!」「追いつくぞ!」それはかの捕獲劇で小傘やおばちゃんと共に野次を飛ばした三人だった。三人はいつも仲良く小傘を助けた。「わんわん!」犬もいる。ところでこの三人と一匹の足の数は合わせて十本、走っているから速度をかけてニ十本、そこに友情パワーが加わると数えきれない数になる。まさしく無数の足音は土埃を撒きながら、ホテルニュー輝針城玄関前を駆け抜けていった。
「射命丸、椛ぃ! このブタを撃て! 撃ち殺せ! いますぐ撃って、わたしをたすけろ!」
唖然とする文と椛はまたまた顔を見合わせる。にとりの悲鳴が遠く離れて行く。「みました?」文がいうと、椛は合点のいった面持ちをして、確かめるように何度も頷いた。「でっかい、でっかいブタ……!」何が面白いのかはわからないが、ふたりはげらげらと笑い始めた。こういうのは酔っ払いで合ってるのだろうか。甚だ疑問である。また、ドタバタと足音がなる。それははたて率いる中継隊で、先頭のカメラを抱えた山童が馬鹿笑いの二人に気がついてそれを白眼視する。それまでは先の面々に追いつこうと走っていた山童はふいと足を向け、ゆっくりとカメラを動かす。馬鹿笑いの猟友会を映してしまおうというのだ。いいぞ、やってしまえ! 誰もがそう思ったが、一寸遅れてやってきた姫海棠はたての手のひらがレンズを覆った。はたてはぜえはあ、と息を切らせながら、ふたりを睨みつけている。文と椛は見知った顔の登場に思わず笑いを引っ込めて、またまた何かを確認しあうように、視線を、互いの顔と息絶え絶えのはたてを交互する。先に口を切ったのは文だった。「これはみえてますか?」椛は今にも笑い出しそうになりながら「みえてます、みえてます……!」と文に応える。はたては怒りで爆発しそうになった。クルーの一人がはたてにバケツを手渡す。
「あんたたちも、早く走れ!」
はたてはバケツいっぱいの水をぶっかけて、クルーたちと猿のあとを追う。ホテルニュー輝針城玄関前に取り残さたふたりも我に返り、ようやく走り出した。
「う、うわああああああああ!!!」
にとりの悲鳴が響く。でっかいブタはおばちゃんを追い抜き、小傘を追い抜いて、ものすごい速さで猿に迫った。でっかいブタに気がついた猿は腕一本で後転して、流暢にブタの背にまたがってみせる。猿を背にしてもブタは意に介さず暴走を続ける。「ま、待ってよー! 乗り物なんて卑怯だよー!」言いながらも、小傘は必死に食らいついた。小傘のすぐ後ろでおばちゃんが叫ぶ。
「小傘ちゃん、気を付けるんだよ! その先は階段だから!」
「か、か、階段!?」
驚愕したのはにとりだった。にとりは引き回されながら引っかかった襟を外そうと四苦八苦するも、でっかいブタの尻尾はくるんと丸まって、しっかりとにとりの襟を巻き込み固定していた。にとりはあまりの事態に愕然とした。ブタがこの速度で階段を駆けあがったらきっと体が弾け飛んでしまうのではないか。にとりの恐怖とは裏腹に、またがった猿はブタの腹を足で挟むように叩いて加速を促している。「や、やめろ!」懇願に猿は振り向いて、にとりの顔をじっと見つめた。「や、やめろよ……」猿はふいと前方に向き直って首を傾げて、またブタの腹を足で叩いた。ブタは加速した。「う、うわああああああああああ!!!!!」悲鳴と共に、猿と豚と河童は大階段へと突入した。一寸の間を置かずに小傘も階段を駆け上がり、おばちゃんも続いた。「おばちゃんに続け!」「ああ!」野次馬たちも間髪入れずに叫ぶ。「わんわん!」犬も吠える。そしてカメラクルーその後方から、怒涛の追い上げをみせるものがいた。
「わ、わ、忘れてました! 自分にもう、あとがないって!」
くああ、であるとかくおお、であるとか、うめき声をあげながら、射命丸文は運動不足に軋む体を前へ前へと運んだ。クルーを追い抜き、野次馬を追い抜いて、文はおばちゃんと肩を並べた。「やるじゃないか! 猟友会の!」すこし距離を置いて、犬走椛は幾分余裕そうな足取りで文の後ろを走っていた。結局、クビを免れるためには文自身がカメラの前で猿を捕獲するしかない。哨戒で体力に自信のある椛ならブタに追いつくことも可能だったかもしれないが、今出来るのは、そばで応援することだけだった。
「ご覧ください! 猿、ブタ、河童。続いて虫取り網を持った女の子、猟友会の秘密兵器を破壊したおばちゃん、そして野次馬の方々が凄まじい勢いで命蓮寺へ続く大階段を駆け上っていきます! 我々も必死に食らいついておりますが、すべてをこのカメラで捉えるのは難しいでしょう! しかしながら、そのうえで、カメラは、私は! すべてを捉え、この状況を皆様に正確に届けることを約束します!」
ブタは爆走し、猿は逃げる。河童は階段を引き摺られながら昇っていく。小傘は虫取り網を振り回しながらそれを追い、おばちゃんは射命丸文に抜かれまいとペースを速め、文も張り合うかのように脚を動かす。野次馬たちも負けじと走り、犬も夢中になって駆け上がる。クルーたちはカメラを振り乱しながらぴったりと追従して、はたてもクルーから奪ったカメラで状況を激写している。階段上でデッドヒートする逃走劇はじきに終わる。爆走するブタ、鞭打つ猿、引き摺られる河童の奥に、うっすらと命蓮寺の巨大な門がみえてきた。遠景、石段の手前に立ち尽くす者がいた。「私も……私だって!」ミスティアローレライだった。ミスティアは逃げる猿と追う全員を石段の下から睥睨し、すぐに追いつく、と言わんばかりに力を込めて石段を駆け上がった。
小傘は逃げる猿の速さに泣きそうになっていた。もし猿を捕まえられなかったら、おばちゃんがまた悲しむかもしれない。しかし泣いていたって猿には追い付かない。小傘は涙を堪えながら、それでも走った。
おばちゃんは文と張り合いながら、そんな小傘のいじましい背中に胸がいっぱいだった。もう猿が捕まらなかったとしても、おばちゃんは満足だった。これが終わればきっと娘に便りを書こうと決めていた。ただ残したくないのは後悔と、小傘の泣き顔だった。そのためには猟友会に道を譲るわけにはいかない。おばちゃんは軋むボディに鞭を打ち走った。小傘に追いつき、励ましてやるために。ただ走った。
文は必死だった。ここで猿を逃がせば自分以外にもきっとその累は及ぶ。どこかにいるという替え玉の猿や、後ろでリポートし続けるはたてのこと。しかし文はもう自分の心配が第一で、なりふり構っていられなかった。クビなのだ。猿を捕まえられなければ、もうみんなと対等に笑いあうことさえもできなくなる。自分の問題にケリをつけるのは自分でなければならない。振り向くと、椛は頑張りましょう、とほほ笑んだ。文はやにわに脚を動かした。
はたてはクルーや野次馬たちに揉まれながら、カメラを抱えながら懸命に走った。数刻前までの忸怩たる思いは完全に消えうせて、胸中にあった自分を振り回した猿への私怨と嘘ばかり読ませる山への不満はとっくに爆発して、すべてはリポートのための原動力になっていた。テレビ局に配属されたばかりの、あのキラキラとした気持ちがはたての中を駆け巡っている。もう何があってもカメラとマイクは手放さない、すべてを思うがまま、お茶の間の円卓の上に暴き立て挙げ連ねてやる。はたては決心のまま石段を駆け上がった。
ミスティアはそれらすべてに追いつくべく走った。伝えたいことがあるのに自室に籠って、画面を見ているだけの時間はもうたくさんだった。何かを伝えたいのなら走ればよかった。いつか画面に映るかもしれない受信メールや堂々の捕獲劇を眺めたって救われない。響子がどこにいるのかなんて、ミスティアには初めからわかっていたのだ。ミスティアは走った。猿に、ブタに、河童に、野次馬に、カメラに追いつくため、眺めるだけだったすべての今日に追いつくために、猛然と走った。
独走を続ける猿は振り向いて、自分を追う全員をたしかめるように眺めまわして、また前へと向き直る。猿は口をいの字に広げて、急かすようにまたブタを蹴り上げる。命蓮寺の巨大な門が見えてくる。捕まるわけにはいかなかった。矢庭にブタの腹を蹴ってまたスピードを速める。向かうは命蓮寺、その蓮池に。
「ひ、ひえええ」
河童は体が弾け飛びそうだった。
『猿』 ~命蓮寺境内、蓮池にて
時を同じくして夕食を摂る者たちがいる。陽の暮れた今なら蛍光灯は本領を発揮して、リビングをまさに明るく照らしていた。
そんな食卓を六つの椅子が囲んでいる。それぞれに腰を落ち着ける六人は各々に箸を動かして、またまたおかずを取り合っていた。「すくないんだけど、私のミートボール」言いながら、封獣ぬえは不満げに箸を突き刺して、少なくなったミートボールを心ばかり独占する。「帰ってこないやつが悪い、戦いなんだ。飯ってのは」村紗水蜜はお玉を用いて、スープジャーからカレーをよそいまくった。「落ち着いて食べなさいよ、子供じゃないんだから」悠然とエビフライを貪りながら、雲居一輪は次のエビフライに箸を伸ばす。「あら、あら」聖白蓮は例の温和な笑みでそれらを見守り、誰の邪魔を入れることなく、滑らかな所作でもって三角食べを行使し続けている。そんななか、寅丸星は押し黙って、隣の席から絶え間なく浴びせられる小言に震えながら、遠慮がちに福神漬けを咀嚼していた。
「たまに呼ばれたと思ったら、これだ! どういうつもりだ? 全部みつけてくださいっていうのは。なんだ全部とは。全部失くすな! そんな量の失くし物をまとめて解決させようとするな! 小分けにして呼べ、もっと云うなら小分けで失くせ、願わくば小分けなドジであれ。……怒られてるときはおかわりするな!」
「ううう、ごめんなさい……」
寅丸は米を「やめろ」よそいながら「よそうな!」謝罪を繰言にする。こういった団欒にはテレビの音はつきもので、慌ただしい団欒のなか、雲山はため息をつきながらリモコンを弄った。チャンネルとチャンネルの間にただの雑音と心地良い雑音を隔てる壁があり、雲山は命蓮寺の中ではいっとう心地良い方の雑音を拾うのがうまい、と自負していた。まとまりのない団欒も、その雑音さえあればなんとはなしに調和して、のどかな暮らしの一部になる。雲山はピコピコとリモコンを押して、チャンネルからチャンネルへと跨いでいく。そしてビタっとはまった。揺れるカメラの右上に『突撃リポート! 捕獲劇、ついに幕が……?』のテロップ。それはお昼からぶち抜きで報道されつづけたワイドショーの終幕だった。
『ご覧になれますでしょうか、あろうことが猿はでっかいブタに跨り、流暢に乗りこなしている模様です! 誰か引き摺られています! 聞こえますでしょうか、この悲鳴が! どうやらブタの尻尾に襟がひっかかって、そのまま石段をずるずると、がたがたと引き回されている模様です!』
目減りしたおかずにぶー垂れる鵺と悪びれる寅丸、叱り続けるナズーリンと三角食べの聖白蓮……初めに気がついたのは村紗だった。
「あれ、この階段……」
呟けど命蓮寺の団欒は続く。画面のなか、カメラはリポーターの歩調に合わせて激しく上下して、リポーターは息も切れ切れにリポートし続ける。『このまま行くと、暴走するブタは猿とともに命蓮寺に……「貸して!」あっちょっとカメラ!』しかしふいにカメラはぐわんと半回転する。誰かがカメラを奪ったようだ。カメラはしばらくのあいだ激しく動いて、奪い取った者の衣服や肩を映した。次第に焦点が合わさって、誰かの口元がどアップで映し出される。そしてどアップになった口元が開く。『ねえ! みてるよね、響子!』テレビから聞こえたその名前に、その場の誰もが箸を止めた。そして否応なくテレビ画面を注視する。
『響子! 私、考えたんだけど! ずっと、考えたんだけど! やっぱり変だと思った! 私が謝るのって、違うなって思った! だから行くから! いるんだよね命蓮寺に! 私行くから、そこで待ってて! 会ったらちゃんと、謝って!』
それは大好きだよ、響子! と続いて、お茶の間を凍り付かせる。リポーターはなんとかカメラを取り返して大変失礼しましたなどと謝罪を述べているが遅かった。ぬえと一輪はあっけにとられて箸の上からおかずを落としたし、寅丸と村紗は何が起きたかわからないの顔でぽかんとして、雲山とナズーリンはとんでもないドキュメンタリーに赤面する顔の目以外を両手で覆って隠していた。門の方からけたたましい破壊音が響く。聖白蓮は箸を止め、あら、あら、と云った。
そして境内、寺の一番奥にある蓮池の裏側に響子とこころは居た。居間で放送された赤面モノはつゆ知らず、響子は檻の中の猿にこころとふたりで餌をやっていた。ふたりは日暮れ、命蓮寺に帰ってきたはいいが夕食時のナズーリンに“箱”が見つかったら面倒だと考え、食べてきたから、でもって夕食を回避していたのだ。かといって、宝物庫も寝室も隠れるには距離が近すぎる気がして、ふたりはできるだけリビングから離れた蓮池のその裏側に屈みこみ、抱えた秘密を明かしあっていたというわけだ。
「結局どういうわけさ。この猿ちゃんは」
帰ったら話す、そう言ったからにはこころは懸命に説明に励んだ。猿にトマトをやりながら、響子に対して(説明)(猿)(悲)(嬉)(涙)(涙涙涙)と説明を重ねている。「わかんないって」響子が笑うと、こころは(怒怒怒)を浮かべてみせる。「まあいいけどさ」そういって、響子はポケットから冷蔵庫からくすねてきたトマトを取り出した。ミニじゃなく、でっかい方のトマトだった。たちまち(驚!)と反応するこころに、響子は言われるまでもなくトマトを渡す。こころは檻にトマトを近づけるが、でっかいトマトは檻の隙間に通らなかった。開けてやりな、と響子が言うと、こころはせわしなく鍵を取り出し、興奮気味に檻に鍵を差し込んだ。その瞬間、檻から猿が飛び出した。
「猿はあそこだ!!! あんたたち!!! 捕まえなァ!!!」
響子とこころは突然の大音声に思わずすくみあがった。「あっ……」そのすきに、檻から飛び出した猿はこころの持つトマトのわきをすり抜けていく。縁側の方からおびただしい足音がなって、途端に迫る。響子が焦って立ち上がると、そこには見知らぬ大群が必死の形相でなにかを追いかけている姿があった。響子は面食らってその場に立ち尽くした。
先頭にはブタがいて、ブタの上には猿が居た。ブタは境内を爆走し、そして縁側に飛び乗って廊下を爆走しながら響子の方へと迫った。「ひ、ひえええ」引き回されっぱなしの河童もいる。そして大勢はブタの後を追って命蓮寺の廊下にけたたましい足音を響かせた。
「待て! 待ってよ! まってくれないと、おばちゃんが、おばちゃんが困っちゃうんだよー!」
「クビが、クビがかかってるんです! 私が捕まえないとダメなんです! だから!」
「知ったこっちゃないよアンタ! どうせアンタの行いが招いた結果だろう!! 私と小傘ちゃんの邪魔をするんじゃないよ!!」
目に涙を浮かべながら虫取り網を振り回している多々良小傘の姿があった。もうあとがない必死な射命丸文の姿があった。射命丸文の服を引っ掴み手柄を譲らんとするおばちゃんの姿があった。ブタは爆走し、猿は逃げる。それを一緒くたになって大勢がひしめくから、廊下はさながら百鬼夜行の一枚絵のようであった。
「みなさん、池がありますよ! あそこに猿を誘導して、囲い込んで捕まえましょう!」
「仕掛けるぞお前ら!」「合点だ!」「わんわん!」
「我々は現在命蓮寺の縁側沿いを爆走しております、ご覧ください! あっけにとられて何がなんやらわからない、と言いたげ食卓の方々、その表情を!」
友人を助けるためか的確に指示を飛ばす犬走椛の姿があった。一致団結して陣を組む野次馬たちの姿があった。団欒を意外な形で突撃リポートするはたての姿もあった。けれど、響子が金縛りのごとくその場を動けないのは、その中に紛れるただひとりのせいだった。「う、うわああああああ!!!」縁側の切れ目まで走って、段差を下りるのに失敗したブタはにとりとともに吹き飛んでいく。猿は鋭敏にブタから飛び降りて、蓮池の方に走り出す。
「響子! やっと、やっと見つけた、やっと会えた! 待っててね、今行くから! そこからもう、一歩も動くな!」
器用に方向転換した猿を追って、誰もが縁側から駆け降りていく。響子の足は地面にピッタリと固定されてしまう。その足元から一匹が蓮池の正面へと飛び出して行く。野次馬たちはブタよろしく段差を下りるのに失敗して転げ飛んだ。猿は蓮池の向こうにもう一匹の猿をみつけ、途端に加速する。「飛びますか、あの猿は!」椛が叫んだ。蓮池の端に急接近して、猿は今にも飛び跳ねそうでいた!「さ、させるかーーー!」小傘は走って、思いっきり振りかぶった網を猿めがけて振り下ろす。しかし網は惜しくも空を切って、蓮池の石囲いをこつん、と鳴らす。「小傘ちゃん!」おばちゃんが叫ぶも、猿はもう跳躍してしまっていた。「いやなんです! クビだけは!」勢いで崩れこんだ小傘の上を射命丸文が飛んだ。文は池に落ちるのを覚悟で猿を捕まえるべく跳んだのだ。しかし、猿は空中で飛び込んできた文の頭を振り向きもせずに足蹴にして、また跳んだ。「響子!」そしてミスティアは崩れこむ小傘を背を跳ねつけ、あとは蓮池に落下するだけの文を踏み台にしてさらに跳ぶ。「あんたたちも跳びなさい!」はたてはその瞬間を撮り逃すまいとカメラクルーをけしかける。
猿は跳んだ。ミスティアも跳んだ。踏まれた小傘はぐええと膝をつき、後ろでは石囲いつんのめったクルーたちが押し合ったりへし合ったりしている。空中で踏み台にされた文はぐええを発音する間もなくあとコンマ何秒をかけずに池に落下するだろう。廊下の曲がり角では困り顔の聖白蓮を筆頭に命蓮寺の面々がその瞬間を物珍し気に眺めていた。響子は驚きながらも大ジャンプのミスティアの落下地点にて大慌てで両手を広げている。
「あらら」
聖白蓮の一声で世界は速度を取り戻し、文は勢いよく池に落下した。押し合いへし合いのクルーたちも次々と池に落ちていく。響子めがけて勢いよく飛んだミスティアは見事に響子の胸へ衝突し、ふたりはそのまま勢いよく転げ飛んで行く。猿はそんな面々を尻目に、リボンを付けた猿の手を引いて塀に飛び乗って、二匹はそのまま山の端に光る月の方へと消えていく。姫海棠はたては呆然とそのカメラを構えていたが、やがておもむろに口を切った。
「……な、なんということでしょうか! またもや、またもや猿を! 取り逃しました!」
カメラの先、池に落ちたクルーたちとずぶぬれの文を、土埃だらけのにとりが指をさして爆笑していた。「ひー、ず、ずぶ濡れ! おもしろすぎる、ひえー!」 ともかく無事だったにとりに椛は安堵の息をついてから、一緒になって笑い始めた。「ぐ、ぐわああああ!」転がる響子とミスティアの勢いはこころの足元まで転がりこんで、やっと止まった。仰向けになった響子にミスティアが覆いかぶさるような形で、ふたりはそのまま見つめ合った。「……ねえ、テレビみてた?」やおら口を開いたふたりは同じ言葉を口にする。え! 映ってたの! と互いに素っ頓狂をやるふたりには目もくれず、こころは足元のからっぽになった檻の前に突っ伏して(涙涙涙涙涙)と号泣していた。からっぽの檻の脇、手のついていないトマトを拾い上げながら村紗は突っ伏したこころの傍にしゃがみ込む。「……お前も、そろそろ帰れ!」そういってげんこをぶたれたこころはますます泣いて(嫌無理涙涙涙!)と駄々をこねるから、遠くで見ていた命蓮寺の全員が、仕方ないといったふうにこころのもとに駆け寄ってくる。ミスティアは響子に覆いかぶさったまま響子に尋ねる。「ねえ。みんなが来ちゃう前にさ。私に言わなきゃいけないこと、あるんじゃない?……あっ、ちょっと!」響子はミスティアをどかして「帰ったら話すよ」と言って笑いながら逃げ出した。雲居一輪はなんだかよくわからないが逃すまいと、すれ違う響子の袖を掴んだ。
「ご覧ください! このずぶ濡れのクルーたちと、泣きじゃくる野次馬の方を!」
そんなやり取りとは別に蓮池の前では猿を取り逃した小傘とおばちゃんが抱き合いながら泣いていた。
「ううぅ。猿逃がしちゃったよう、ごめんね、ごめんねおばちゃん……!」
「いいんだよ、小傘ちゃん! いらないよ、くだらないバイト代なんて! 小傘ちゃんから、もう充分もらったんだから!」
くだらないバイト代とはどういうことでしょうか! リポートを続けるはたてを尻目に、椛は秘密兵器を壊した張本人を見つけ今にも襲い掛かりそうなにとりを精一杯押さえつけていた。蓮池のなか機材の故障に慌てふためくカメラクルーたちに紛れて、文もこっそり涙ぐんでいたが、ずぶ濡れが幸いして、誰にも気付かれることはなかった。そうして、しばらくの間命蓮寺の境内は騒がしさに包まれていたが、そのうちにやってきた突然の雷鳴と土砂降りの通り雨で各々は散り散りになって帰っていった。
猟友会の三人は今度こそ浴衣を着替えるべくホテルへと、響子とミスティアは自分たちの家へと、こころはやってきた為政者に連れられて道観へ、小傘とおばちゃんは自宅のある人里へと。……はたて率いる報道隊はお山に叱られるために威勢よく局までを歩き果せた。しかし山も山で大混乱だった。読まされた原稿、くだらないバイト代、偽物の猟友会等々。はたてが電波に乗せた数々の言葉たちは局内外で波紋を呼んで、ひとまずはたてや文の処遇に取り合えるほどの暇はなさそうだった。
猿がどうして里に下りたのか、もう一匹の猿は何時何処で誰が如何して捕まえたのか、猿たちがあれからどこへ行ったのか。すべては時とともに聴衆の関心が薄れるにつれ、話題にさえあがらなくなっていった。しかし混乱に責任というのは付き物で、後日の突撃取材で豊聡耳神子との癒着を剔抉されたお山は、守矢もろともを巻き込んでの謝罪説明をする羽目になった。今はまだ確かではないが、くだらないバイト代は口封じという形でおばちゃんに手渡されることだろう。ともかくとして、猿の騒動は無事終結した。あの夜の雨があがって以来、里は連日のカンカン照りで、誰もが陽射しの下で懸命に暮らしていた。
射命丸文は白昼の里を駆け回っていた。猟友会が解体された直後、はたてが口走った数々の衝撃に山は震えて、その影響で文の処遇は曖昧になっていた。文は息を切らして走り回る。いつお山が思い出したかのように「お前クビ」と言ってくるかわからない。そうなる前の今のうちに大ネタを掴み、なんとか手柄を立てなければ。そういえば向こうの路地に育てていた事件があったような気がする。文は踵を返して路地へと向かった。
「あれ? 文さんじゃないですか。どうしたんですか、慌てて」
途中でばったりと出くわしたのは犬走椛だった。椛は哨戒の最中のようで、正装をして大刀をヤンキーの釘バットのように構えて辺りを無自覚に威圧しまくっていた。いろんな仕事がある。椛はこれで哨戒部隊長としての務めを果たしているのだろう。
「ああ、いや? なんでもありませんけど」
しかし文は威圧感のある椛の出で立ちにこれ以上なく狼狽した。走っているのを捕まった人間が「なんでもない」と口走ったら、そんなの十中八九嘘だし、それは人間ではなく鴉天狗に場合も同じことがいえる。運動後の汗とは種類の違う汗をかきまくる文を見咎め、椛は「なんか、怪しいですね」と大刀をちらつかせる。「記事を書こうかなって。だから急いで帰ろうかなって、思ってたんです」縮こまりながら文が言うと、椛はしばしの逡巡のあと「……まあ、いいでしょう」と解放した。文は、へへへ、ありがとうございます、でもってその場を離れようとそそくさを開始する。
「椛、そいつに騙されるな!」
しかし不意に現れた河城にとりがそれを止めた。「にとりさん、どういうことですか!」文の肝は快晴のもと冷えに冷えまくった。工場から抜けてきたのか、にとりは汚れたつなぎを着て、持ってきたスパナで文の顔をビシッと指して話し始めた。
「椛、覚えてるかな。そいつがわたしたちの家財を少しずつ盗んで売り払ってたこと。実はいま、工場の若いやつらと喋ってたんだけど、聞くとどうやら、そいつの家からも少しずつ家財が消えてたらしいんだ。わたし、おかしいなって思って。ヘンだなって思って、里に出てきて聞き込みをした。そしたらどうだ! 里のみんなの家財も、少しずつ消えてたそうなんだよ!」
文はすわ逃げ出した。
「あっ、こら! 待ってください文さん!」
「さんなんて付けなくていい! かならず捕まえて、ふたりでするぞ! 処刑!」
煌々と照り付ける太陽のもと、文は走った。にとりと椛はどこまでも追って、それは日が暮れるまで続くだろう。
時を同じくして昼食を摂るふたりがいる。それはプチ家出から戻った響子と連れ戻したミスティアのふたりだった。開いた窓から風が吹き込んでカーテンが揺れる。響子はキッチンからパスタの乗った皿を二枚運んで、テーブルの上に乗せ、それからソファに座るミスティアの隣に腰かけた。ミスティアは無言で、すすす、と距離を取ってしまいにはソファから立ち上がり、わざわざ対面に移動して腰を下ろした。響子は頭を抱えたくなった。あの日、ふたりで家に帰ってきてからというものミスティアは口を利かなかった。正確には響子の“隠し事”を聞いてから、ミスティアはまるで押し黙ってしまったのだ。
あの日以降壊れて付かなくなったテレビ画面と、押し黙って何も言わないミスティアとが響子の視界を支配した。響子の脳内を後悔が支配する。やはりあんなこと、言うべきではなかった! 響子がミスティアに告白した“隠し事”はここで書くにはあまりにも恥ずかしい内容なので割愛するが、とにかくミスティアにはとんでもない衝撃を与えたようだった。それを聞いたときミスティアは赤面して、返答に窮して、それからというものずっと同じように押し黙っていた。
ミスティアはソファに座る響子とその向こうにある真っ赤なベッドをみて、また赤面して俯いた。あの日連れ帰った響子から聞き出した“隠し事”は未だにミスティアにたしかなダメージを与え続けていた。まさかあんなことを言われるなんて! ミスティアは響子に告げられた“あんなこと”を思い出すとまた顔が熱くなるのを感じた。また風が吹いて、カーテンが揺れる。風はときに静寂を際立たせるし、いまにしたってそうだった。
「まあ、食べようよ。冷めちゃうし」
気まずいような恥ずかしいような沈黙を破るのは響子のなんでもなさそうな声だった。ミスティアはハッとして顔をあげる。しかしそうすると、また響子とあのベッドが両方視界に飛び込んでくるから、ミスティアは慌てて俯いた。
「その。もしかしてだけど……気にしてる? こないだの、あの……」
言い淀む響子に、ミスティアは無言のままこくり、と頷いた。すると響子はあからさまに動揺して、またしどろもどろに言葉を紡いだ。それは、いや、であるとか、あのその、であるとか、言葉ともつかない言葉が吐き出され続けたが、次第に落ち着いて、諦めたようにゆっくりと口を開いた。
「あれは、その……食べ終わってから話すのは、どう?」
ミスティアはまたこくり、と頷いた。そうして二人は手を合わせて、いただきますを小声で重ねた。あの日の響子の隠し事は言うなれば問いかけであり、それ以降、まるであの日とは真逆に、押し黙るミスティアの返事を響子が待っていた次第である。しかしそれも今日までだ。恐らく響子とミスティアのあいだに横たわるなんらかは食事のあと、なんらかの形でもって進展するのだろう。
カーテンは風に靡いて、部屋には真昼間の光量が溌剌と満ちていた。広いワンルーム、フローリングに敷かれた円形のラグマットは暖かな黄緑色をして、淡いピンクのカーテンとの調和を為している。しかし部屋の隅で重々しい存在感を放つ深紅のベッドがなんとも恥ずかしい感じの二人であった。
「あのベッド売ろうよ。質屋に」
パスタを食べながら、ミスティアは何度も頷いた。
同時刻、昼食を摂り終えた円卓を囲むのは小傘とおばちゃんだった。畳は荒れている、おばちゃんの部屋だった。おばちゃんは低いテーブルの上に置かれた白紙を前に、むむむと唸っている。小傘はおばちゃんの背中を叩いて、おばちゃんの目の前に筆をバンと置いた。
「おばちゃん、今日こそは完成させようね! じゃないとお金、腐っちゃうよ」
「お金は腐りゃしないよ! でもねえ……」
おばちゃんは白紙と、その横で束になる紙幣を見比べてため息を吐いた。おばちゃんと小傘にはあの日のくだらないバイトの口止め料として、多額の賄賂が贈られていた。口止めもなにも、テレビでオンジエア―されるのをわかって野次を飛ばしていた二人には後ろ暗いところもない。二人は大喜びでそれを受け取り、その使い道を考えた。大半は小傘が滞納した水道代や光熱費に消えたが、残りのお金は嫁いでしまったおばちゃんの娘宛のお便りに包んで贈ろうという話になった。それは事情を知った小傘の提案だったし、おばちゃんは喜んでそうすることにした。しかし、あれから幾日が立つ今でも、そのお便りが郵送されることはなかった。
「恥ずかしいってなんなのさ! 娘さん喜ぶよ、おばちゃんからお便りきたら、絶対! お金まで包むんだもん、そんなの貰ったら、娘じゃないわたしだって嬉しいよ。だから、絶対喜ぶ!」
「そりゃあ、そうだろうけどねぇ……」
おばちゃんはどうしても恥ずかしかった。もしかするとあの一部始終はテレビで見られてしまっているかもしれないし、見られていなかったとしても、今更手紙なんて、何を書けばいいかわからなかったのだ。そんな具合で筆を執れどどうしたって文面には照れが滲んだ。来る日も来る日も出来上がった手紙を破って、小傘はそれを拾い集める。そのうちに貰った賄賂は手紙代に掻き消えてしまうかもしれない。
「じゃあもう、わたしが書くから!」
「ああ、待ちなよ! そんな急かすもんじゃないよ、まったく……」
ひび割れた窓から隙間風や陽射しが舞い込んで、狭い畳には笑顔が満ちていた。二人の声は窓から響いて、それを聞きつけた犬が鳴き、また、その鳴き声を聞きつけた誰かしらを笑顔に変えた。畳の上、白紙を前に、おばちゃんと小傘の奮闘はいつまでも続いた。
和やかなことばかりではない。
命蓮寺の宝物庫にて、一堂に会する皆に対し、ナズーリンは神妙な面持ちで切り出した。
「この通り。紛失したお宝はすべて宝物庫に戻ってきた。この私が、今しがた取り戻してきたんだが」
雲山は大喜びして鳴らない拍手を叩きまくってナズーリンの働きを称揚した。しかし失くし物のプロたる寅丸はもちろん、他の面々も怪訝な面持ちでナズーリンの次の言葉を待った。ナズーリンの神妙な口ぶりから、それがめでたしめでたし、と結ばれる話でないことを理解していたのだ。
「問題はこのお宝がどこで見つかったか、だ……わかるか、村紗」
「しらないよ、興味ないし」
私も、私も知りません、見当もつかない! と寅丸が同調する。失くした本人が見当もつかないなんて、そんな馬鹿な話があるだろうか。封獣ぬえは迷惑そうに腕を組んで寅丸を睨みつける。「ほんとに、本当に知らないんですよう!」寅丸は必死になって弁解する。「まあまあ」場を諫めたのは雲居一輪だった。雲山も決めつけるのはよくない、とでも言わんばかりに腕を組んで一輪の言葉を待った。
「続きがあるんでしょう? まずは聞きましょうよ」
天晴だ! 雲山は一輪の意見を大きな拍手でもって称揚する。村紗はため息を吐きながら首を横に振って呆れてみせた。ナズーリンはひとつ頷いて話を再開する。
「ふむ。この反応をみるに、この場に犯人はいないようだな」
ナズーリンの言葉に、寅丸はほっと胸をなでおろす。それで済ませればいいものを、ほら、本当に知らなかった、とアピールするかのようにぬえに向かって胸を張るから、つまらなくなったぬえはまた大きな声で茶々をいれた。「犯人ってなにさ!」ナズーリンは聖が頷いたのを確認して、また話し始めた。
「ぬえも本当に知らないようだし……よく聞け。このお宝たちは、里の質屋に並んでたんだ。聖と相談してすべて買い戻してきたが、質屋にあったということは、質入れしたものがいるということだ。しかし……正直、この場に犯人が居てくれた方が簡単だった。ご主人の知能では一人で質入れなんぞはできないだろうし、一輪も、雲山も、村紗もぬえも、反応からして今の今まで本当に知らなかったとみえる……となると、これは命蓮寺の中だけでは済まない、正式な事件として届け出なければならない。家財すべてを盗んで売り飛ばすなんて重罪だ。犯人は少なくとも里の哨戒部隊長に処刑/河童の地下工場で最低の工場長に死ぬまでこき使われる、ことは間違いないだろう。……どうする、届け出は」
「出すに決まってます!/出すべきよ!/出せばいいじゃん/出さない意味ない」
そして聖は困り顔のまま言った。
「出しましょう」
満場一致で届け出を出すことに決まった。あと数日もしないうちに、犯人は幻想郷中を広域手配されることだろう。南無三。
そして道観にて、可愛い猿を失ってからというもの、こころは日々を(涙)で過ごした。それは次第に(涙涙涙)と推移し、しまいには(;;)と新しい表現技法を確立させていた。今日も真昼間からこころは今に突っ伏して( ;;)と泣き濡れている。見かねた豊聡耳神子が声をかけようとするも、あんたのせいでしょ、と言わんばかりに屠自古がそれを阻止した。肘で打たれた激痛に屈みこむ神子をよそに、屠自古は涙に暮れるこころを心配そうに眺めて息をついた。霍青娥もそうしたし、芳香も同じようにした。
「ポストになんか入っておる!!!!」
元気いっぱいに叫んだのは道観いちばんの粗忽者、物部布都だった。屠自古は焦って駆け出した。粗忽者の布都に宅配物を預けてはどうなるかわからない、屠自古は玄関先で布都からそれをふんだくって、部屋に戻った。「なんでしたか?」戻ってきた屠自古に霍青娥が尋ねる。
「いや、わかんないんだけど……なんか、トマトと……リボン?」
こころはがばっ、と起き上がって屠自古が手にするそれを見やった。たちまち、こころは( ^^)と浮かべて、屠自古からそれをふんだくりまじまじと眺めた。こころはリボンの巻かれたトマトを眺め"(-""-)"と浮かべ!(^^)!と浮かべたのち( ;∀;)と結局は泣いた。「わかりにくいぞ」芳香は困った顔をして呟いた。
かくして日々は続いていく。
あの猿たちがどこへ行ったのかは誰にもわからない。しかし、朝起きてから眠りにつくまでのそのあいだ、自覚の有無に問わず、誰もが猿のあとを追った。猿はいまでも西へ、西へと逃げてゆく。誰もが営むそれぞれの日々は、東から太陽が昇って、西へ沈むのと同じようにして、いつまでも、どこまでも繰り返されてゆくのである。
『猿』 完。
「お願いします! 一緒にやりましょうよ! ねぇいいじゃないですか、ね!」
虫のさざめく白昼に、射命丸文は必死に懇願する。丸テーブルの向かいには二人の人物が座っており、窓から射し込む陽光は文の異様を引き気味で見つめる河城にとり、犬走椛両名の表情を、眩く、照らしていた。
「椛、どうする? 射命丸がなんだか必死だけども」
「だめです、だめだめ。やめておきましょう。こういうときの文さんに関わると、ろくな目に合わないんですから」
手を合わせ、じっと頭を下げたの文の額には汗が滲んでおり、今にもテーブルに滴り落ちそうでいた。瞼は懇願を表すようにぎゅっと結ばれていたが、ときおり様子を伺うように片方を瞬かせて、胡散臭さを醸している。
「ほらぁ。にとりさん、怪しいですよ。ちらちらこっち伺ってぇ……」
「うーん、でもなぁ。最近ちょっと、思うところがあってさ」
なんかやな予感! と聞きたくなさげな椛に対し、にとりは無表情に語る。
「射命丸。この肥え担ぎに近頃、わたしたち冷たくしすぎたんじゃないかなって」
にとりが言うと、文は閉じた両眼を見開いて、同意の意を示すように小刻みに何度も頷いてみせた。しかし文の諂うような仕草に椛は嫌悪と侮蔑とで一瞥くれて、困ったようににとりへと向き直り、首を傾げた。にとりはすかさず眉を潜めて椛の言わんとするところへの同意を示したが、まあでも……と遠慮がちに声を潜めて、言った。
「やりすぎだよ、こないだのは。檻に閉じ込めて放置するのは、いくらなんでもひどかった」
椛は首を振って、そんなことはない、と抗議した。
「確かにさ、こいつがわたしたちの家財を少しずつ盗んで売ってたのは許せないけど、二ヶ月間はちょっと長すぎたと思わない? こいつも一応生き物だし……。それに、刺す虫が多い藪の中ってのも、すこし残酷すぎた気がする。だからさ、その詫びというか、恩で黙らせるというか……椛、わたしの言ってること、間違ってると思う?」
にとりの〝友愛主義〟が膨張を始めたのを感じながら、椛は「いや、まちがってる……」をごにょごにょ呟いた。
「つまり、つまりね。わたしが言いたいのは、射命丸、こいつも〝友だち〟だってこと!」
椛は愕然と頭を抱えて、「終わった!」とテーブルに突っ伏した。
「あの頃はさ、椛と射命丸とわたし。まいにち、まいにち遊んでさ、日が暮れるまで笑い合ったよね。それが、いまではこんな……いがみあって……。終いに折檻……! と、友だちを檻に閉じ込めるなんて……! わたしたち、仲良し三人組なのに。誓い合ったのに。あの夏の、真っ赤な空の下に。う、うぅ……」
情緒不安定なにとりをよそに、文は椛に対し勝ち誇ったような笑みを浮かべたわけだが、当の椛はそれを知ってか知らずか、俯いたままに、怨嗟の歯軋りを響かせていた。
「射命丸。わたし、協力するよ! 友だちが困ってるときになにもしないなんて、そんなことできないもんね!」
友だちの家財を無断で売り払う鴉にしても、友愛の花園を実現すべくひとりの友だちを犠牲にする河童にしても、かつての友だちを藪の中に二ヶ月間幽閉し何ら苛まれずにいる狼にしても三人が三人最悪だった。文はいつもふたりの家財をくすねたし、にとりはいつも三人のためにひとりを蔑ろにした。椛はいつだって文の破滅を今や今やと待ち望んだ。
「やった! 決まりですね、今回の件は私たち仲良し三人組で取り掛かる、と! いやあ、よかった。断られたらどうしようって、冷や冷やしてたんです、私! なんせお山絡みですから、私一人の力ではどうにも……」
安堵の到達点めいた表情から繰り出される文の感嘆で、やっと、椛の抱え込んだ頭が解き放たれる。いけしゃあしゃあと喋りまくる友だちの顔を刺すように睨みつけて、椛は言った。
「お山絡みって……そういうことなら。話はまるで別です」
件のお山についてだが、文の言うところのそれと椛の言うところのそれでは微妙に意味合いが異なってくる。掻い摘んで簡単に説明すると現在、山は二つの派閥に割れているのである。山の中に限り絶対的な強権を握る飯綱丸の派閥と、山の中ではそれなりだが、物流など人間の里に影響力を持つ守矢の派閥とのそれぞれが、山の双肩を担っている。大まかに云えば鴉天狗にとってのお山は飯綱丸であり、河童にとってのお山は守矢である。白狼たちはその時々で立場を変えて、実質的なバランサーを担っていた。その点で云えば増長と謙りを往復する文のソレは鴉天狗の体質そのもので、自身の行いがひとびとを笑顔にすると信じてやまないにとりのソレは河童の体質そのものだった。そんな鴉天狗が河童をお山絡みの案件に担ぎこもうというのなら、バランサーたる白狼天狗には黙っていられない。なによりも、椛にとって文は絶対的な悪であり、にとりはかけがえのない友だちだった。椛は諦めたようにため息を吐いて、文に尋ねた。
「それで、私とにとりさんに何をしろっていうんですか?」
文は照れ臭そうに頭をかいては渋々と言った具合に、いやあ、と口を切るが、その目は待ってましたと言わんばかりに溌剌としていた。
「それがね、まあなんといいますか……」
かくして文の口から語られたお山絡みの案件、その詳細はにとりの瞳を輝かせる代わりに椛を閉口へと追いやった。しかし、これはあくまでも三人のやり取りであって、ともすればそれはプライベートでもあり、本来であれば誰にも秘匿されるべき交友の一部なのである。誰の心にも罪悪感は存在する。なにも勿体ぶって伏せようというつもりはないが、そもそもことの次第などというのは概ね、下か左を追えばみんな判るように出来ているものなのだ。それは場面があっちにいったりこっちにいったりしたとして変わらない。兎にも角にも下か左を忍耐強く追い続ければみんな判ると、そういうものなのだ。たとえば経験上、次に下か左に間が空けば、それらしいお題目が見えてくるはずである。
『猿』
『鳥』 ① 〜自室にて
河城にとりの発明と妖怪の山の企業努力によってラジオ・テレビ類の普及した今なら、ケータイ電話を所有する妖怪も少なくはない。かつてパンク・ロックのバンドで名を馳せたミスティア・ローレライでさえも、今はワイドショーを流しながら、真剣な面持ちでケータイの画面に食い入っている。
『先週のこと、たしかにわたしが悪かったとは思うけど。だからって、謝らせてもくれないなんて、ちょっとずるいなって思った』
画面にはそんな言葉が認められていたが、それは誰かから受信したものではなく、送信前の、ミスティア自身が打ち込んだ言葉だった。宛先には『響子』の二文字があった。
朝。カーテンは閉まっているが、部屋にはかろうじて晴れの光量が埃とともに漂っている。広いワンルームである。フローリングに敷かれた円形のラグマットは暖かな黄緑色をして、淡いピンクのカーテンとの調和を為している。しかし部屋の隅で重々しい存在感を放つ深紅のベッドがなんとも恥ずかしい感じである。それはミスティアの趣味ではなかったし、件の“響子”の趣味でもなかった。けれど、そんなベッドを部屋に置くことなったのは、ミスティアの同居人になることを選んだ幽谷響子に理由がある。せっかく二人で暮らすのならば大きなベッドが必要であると、ミスティアの反対を押し切って、急ごしらえで用意したのがそのベッドだった。互いに趣味の悪いベッドだと口を揃えてはいたが、いざ眠るとなると、内心、ふたりで寝るにはちょうどいいサイズだと満足していた。
キッチンからタイマーが響いて、ミスティアは諦めたように、ふいと〝切〟のボタンを二度押して立ち上がる。メールの文面について真剣に悩めるというのは律儀さと云えるが、結局のところキッチンタイマーには抗えないというのもまた律儀さと云えるだろう。しかしふたつの律儀さが持つ微妙な力関係とその強弱が、そのまま彼女の美点であり欠点だった。先週から今日に続く同居人の不在も、そんなミスティアの紙一重に起因しているのである。ミスティアは茹で上がったパスタにミートソースを和えてテーブルに運ぶ。ワイドショーは相変わらずにどうでもいいようなニュースを垂れ流しているから、ミスティアは不貞腐れたように荒っぽく手を合わせ、唇だけではやばや六字をなぞり、巻きつけるのも中途半端にパスタを運んだ。中途半端にしたせいで、ミスティアはフォークにぶら下がる〝中途半端ぶん〟を頭ごと迎えにいかなくてはならなくなった。ミスティアはパスタを中途半端にしたままふと硬直する。犬食いは同居人の専売特許だった。ミスティアの思考の空白に『現場のはたてさーん』と、不調和な声が差し込まれる。
『……テレビの前のみなさま、そしてスタジオのみなさま、それからテレビをお持ちではないみなさまにも。こんにちは。現場の姫海棠はたてです。こちらご覧ください。えー、この荒らされた鉢植えはこちらのお宅のお子さんが、ミニトマトを栽培していた鉢植えなのですがこの通り、いまやひどい有様です。……猿は未明にかけて山を降り、そこから西の方角へと向かった模様です。このひどい鉢植えのお宅が異音を聞いたのが今朝となっており、近隣にお住まいの方々からの情報によると猿はさらに西へと向かっているとのことです』
配慮が行き届いてるのやら届いてないのやら、やる気があるんだかないんだかで知られるリポーターの姫海棠はたては最近出ずっぱりで、ミスティアにも馴染みがあった。ちなみに姫海棠はたてはテレビが発明されてからというもの、十一チャンネル二十四時間全番組の編集・出演を任されている。出ずっぱりなどという次元の話ではない。ひとは悲しい。
「さる……」
ミスティアは迎えにいった中途半端ぶんを中途半端にしたまま、テレビ画面へとひとり呟いた。たしかにケータイは双方向性を持つが、ときには一方的なテレビをやさしく感じられる日というものも確かに存在する。単に一方的という意味でなら、テレビはミスティアの同居人と似た部分があったかもしれない。知ってか知らずか、ミスティアはパスタを半端にし続ける。
『ですが、所詮猿のやることですので。本当か? と聞かれるとちょっと不安です。ですから近隣のお住まいの方から寄せられたアレは不確かな情報といえるでしょう。そもそも西て。ザ・ざっくり……チッ……以上。スタジオにお返しします』
ニュースは続く。
『犬』 ① 〜命蓮寺にて
時を同じくして朝食を取る者たちがいる。間取りのせいで陽のささないリビングはいつも蛍光灯に照らされていた。
そんな食卓を六つの椅子が囲んでいる。それぞれに腰を落ち着ける六人は各々に箸を動かして、今日のおかずを取り合っていた。「ちょっとあんた、ぬえのぶん取っておきなさいよ」言いながら、雲居一輪は箸の長さが許す限りに突き刺して、大皿のミートボールを独占する。「帰るか帰らないかもわからないやつに遣う気なんてないね」村紗水蜜はトングを用いて、また別の大皿からスパゲッティを巻き取りまくった。「わ、悪いですよ、そんな言い方は……」遠慮がちにおひたしを箸で摘んで、寅丸星は六杯目のご飯を頬張る。「あら、あら」聖白蓮は例の温和な笑みでそれらを見守り、誰の邪魔を入れることなく、滑らかな所作でもって三角食べを行使し続けている。そんななか、幽谷響子は呆れながらも、我関せずの顔でテレビを眺めつつ箸を動かしていた。
『まずはお詫びさせていただきます現場のはたてです。えー先ほど〝所詮は猿〟などと、猿の方たちの能力を軽視した発言をしてしまいました。あまりにも配慮のない発言に深く傷ついた猿の方たち、並びに猿を愛好する方たちへ、本当に申し訳ございませんでした。それから、やはり〝所詮は猿〟と考えている方たちの気持ちを結果として裏切ってしまったこと、そこについても深くお詫び申し上げます。本当に、申し訳ございませんでした』
テレビは深々と頭を下げる姫海棠はたてを映している。響子はさほどの興味もないといったふうにそれを眺めていたが、自身が確保したおかずが載った小皿に腕が伸びれば、すぐに、じろり、と目線を刺した。目線に刺された張本人はびくっと硬直して、即座に(汗)のマークを浮かべる。ひとのおかずをくすねるべく算段した狼藉者、その正体は無表情の面霊気、秦こころだった。響子は無表情に(汗)を浮かべるこころと、こころの手元の空いた小皿をじっ、と交互に見てから、まあいいけど……と、自身のおかずを分け与えた。こころはすぐに(笑)を浮かべて、もらったおかずへと嬉しそうに箸を伸ばす。そんなこころを一寸だけ眺めてから、響子は言った。
「なんで居んの?」
また、こころの動きが止まる。今度は(汗)に変わった。貪欲な箸の群れは今もおかずを減らし続けているし、テレビでは姫海棠はたてが今後の方針などを話している。空いた小皿は食事という闘争に不慣れな証拠だった。響子はこころの無表情と浮かぶ括弧の中をじっ、と交互に見てから、まあいいけど……と、自身の箸を動かし始めた。こころはすぐさま(笑)を浮かべ無表情に一息ついて、今度こそもらったおかずを嬉しそうに食べ始める。響子は茶碗を顔に近づけながらも観察するようにこころをみていた。ミートボールがこころの口元に近付くのを見計らったようにして、響子は口を開いた。
「寝室の、布かぶったデカい箱。あれなに?」
こころは硬直する。浮かぶ(笑)は(汗)になり、一秒、二秒と経つにつれ(汗)は(汗汗)になり(汗汗汗)へと推移する。響子はしばし忙しないこころの感情表現を眺めていたが、結局は、まあいいけど……でテレビに向き直った。ふいにスパゲッティの村紗水蜜が口を出す。
「いるんだよねえ、そうやってなんでもかんでも隠したがるやつ。何故か、急に、久々に、帰ってきた響子チャンといい……道観のミンナが大好き、な、はずの、こころチャンといい……玉手箱か、つって。ふくろとじか、つって。意味ありげにそこにあって、いざ開けてみると煙とか、ちぢれた毛とか。そんなもんしか出てこないくせにさあ」
村紗の言葉には各々がイラッとした様子でいたが、響子とこころにすれば見透かされたような辛辣さを感じたことだろう。久々の帰省の理由を〝なんとなく〟で片付けた響子には殊更な言葉だった。響子は単なる痴話喧嘩で飛び出してきたわけだが、今更それを打ち明けることができるだろうか。あんなことを言われた今なら、なおさら、できるわけがなかった。気まずい静寂に、箸とテレビの音だけが響く。
『我々はこれより猟友会の方々と合流するべく予定した合流地点へと向かいます。えー、その前に上層部から読むように言われた紙を読めとのことなので読みます。えーと……里には守矢から派遣された哨戒部隊が巡回してるはずなのにどうして猿の一匹をうんたらかんたら、的な、山から派遣された猟友会ならもう安心、的な感じの、守矢の力不足を剔抉して対立構図を示唆するような、エッジの効いた感じのコメントを述べるべし……チッ……以上。スタジオにお返しします』
能天気にスパゲッティを頬張りながら村紗は言う。
「ふうん、猟友会……。里に猿が降りたんだってさ。なるほどねえ……。あ、そもそも猿ってなんだかわかる?」
問いかけられたこころは応えることをしなかった。無視である。かわりといってはなんだが、こころは(爆汗)を浮かべていた。なにかを素直に打ち明けることができないのは、響子だけではないようである。ふたりはちらと目を見合わせた。
『猟友会』 ① 〜山道にて
話は数刻前に遡る。射命丸文、河城にとり、犬走椛はまだ漆黒に支配された夜の山道を下っている。にとりは不満げに、拗ねたように唇を尖らせている。椛も椛でそっぽを向きながらなんだかずっとへらへらしている。ふたりとも手ぶらだった。ふたりの荷物はすべて文に預けられていて、文は自前のリュックを肩にかけ、残りの二つを両手に提げていた。いじめられっこの小学生のようではあるが、文自身はさほど気にしていない様子で悠然と下り坂を歩いている。右手に提げたにとりのリュックからは長い筒が飛び出して、文の歩調に合わせて揺れた。筒は、隣を歩く椛の腿にときおりぶつかった。
「へらへら」
「あっ、ごめんなさい。また……」
文は半ばの習性で表面上気を遣った言葉を吐くが、言ってる間にもう一回、もう一回と椛の腿に鈍い衝撃が走る。椛も椛で距離を取ればいいものの、なにが気に入らないのかずっとへらへらしっぱなしでいた。
「へらへら」
「あっ、また。いやあすみませんね、どうも……」
筒をぶつけられるたびに発声されるソレは文に謝罪を促しているかのようでもあった。にとりは繰り返されるやり取りには頓着せずに唇を尖らせて黙々歩いた。この場において不満を感じていないのは文ひとりきりである。まず椛は文のやり方が気に入らなかった。先日、文が語ったお山絡みの正体は、里に降りた〝猿〟を山から派遣された〝猟友会〟として捕獲する、というものだった。要するに、山からの使者のその活躍をメディアを通しアピールして、最終的には守矢から派遣された哨戒部隊の仕事を奪おうということである。椛は独自のツテでそれを知った。猟友会という呼称には便宜上を超える意味もない。友だちというだけで、哨戒部隊長たる自分をそんな〝猟友会〟に平然と招き入れんとした文の図太い無神経が、椛とっていよいよ我慢ならなかったのだ。純真さにつけこんで、にとりを巻き込んだことも椛の怒りに拍車をかけた。
そう、椛はことを妨害するべく山を下っている。成績不振の文にもう後がないことは確かだった。でなければ、ご立派な記者たる鴉天狗がたかだか猿の捕獲などに駆り出されるはずもない。文の弱まった立場にとどめを刺すためならば、腿の痛みなど無いも同然だった。
「へらへら」
「あっ、すみませんね。どうしてもあたっちゃう」
椛はへらへらしながら、へらへらと、へらへらを発音し続けた。もし身近な友だちが妙にへらへらし始めたら注意しておくといいだろう。その友だちはきっと、力強く足を引っ張るタイミングを今か今かと伺っていることに違いないのだ。へらへら。
「またへらへら……今日の椛ってばなんか変じゃないですか? へらへらとしかいわないし。ねえにとりさん?」
「……しらない。そんなの」
さて、にとりもにとりで拗ねに拗ねまくっているから大変だ。にとりは下山を始めてから殆ど言葉を発していなかった。それほどまでにとりを拗ねさせた原因は先ほどから椛の腿を攻撃し続けている筒にある。リュックから飛び出した長く重たい筒の正体は、にとり手製の猟銃だった。
――私たちは猿を捕獲します。それも〝猟友会〟として。
先日、文の口から告げられた言葉に、にとりは瞳を輝かせた。猟友会に含まれる〝友〟の字は、にとりがいちばんすきな漢字だったのだ。加えて〝猟〟の字も、そのとき、にとりの瞳の輝きを倍化させたのである。にとりが猟銃を造った経緯については思いつきという言葉以外で説明するのは難しい。しかし、ものをつくったからには実際に使わずにいられないのが河童の性分というものだ。けれど、猟銃を実際に使うというのは、そのまま何かの生命を奪うことである。にとりの頭のなかはいつだって、ものづくりと友だちのみによって満たされていた。にとりは悩んだ。猟銃の試し撃ち、数少ない友だち……文を撃つか、椛を撃つか。いやそんなことはできない、けれど、つくってしまった以上、猟銃は絶対に使わなければならない。自分に……? そんな深刻すぎる悩みを抱えてるときに振って降りたのが〝猿〟と〝猟友会〟だった。
――私たちは猿をホカク(聞いたことがない言葉)します。それも猟友会(猟銃を使う友だちの会!)として。
にとりの瞳は輝かないはずもなかった。それは捕獲という熟語を認識の外に追いやるには十分な喜びだったのだ。しかし、いざ荷造りをするという際に文から告げられたのは、にとりにとって信じられない裏切りの言葉だった。
――あ、だめですよ猟銃は。置いていってください。
それでもにとりは諦めきれずに、文の緩い抵抗を押し切って猟銃をリュックに詰めた。結果として捕獲の意味を辞書で引かされ、にとりは現在こうして唇を尖らせているのである。
「……なんで殺しちゃだめなのさ。猟友会なのに」
「なんでって、そんなの。私たちが猟友会で、妖怪だからですよ。カメラの前で妖怪が猿をバーンといちげき! 里に住むひとたちドン引きですよ。常駐してる中立の哨戒部隊はおろか、山はもう里に踏み入ることができなくなります。そんなの困ります。私が」
私が、の部分で椛はすかさずへらへらを発音して、にとりはますます拗ねまくった。ぱち、ぱちと蛾は爆ぜる。薄青の電灯がぽつり、ぽつりと辺りを照らす。草木からクビキリギスの鳴き声が響いていた。三人のなかで比較的あっけらかんとしている文だが、軽い足取りとは裏腹に、今回をしくじれば山からの追放、要は首切りという重荷を背負っていた。知ってか知らずか、椛は追求するように口を開いた。
「へらへら。……でも。もしも捕獲が遅れて、山から駆除のお達しがきたら、文さんどうするんですか。まさかそのときのために、にとりさんを連れてきたわけじゃないですよねへらへら」
「いや、そのときは私が撃ちますよ、バーンと! それですべて落着ですとも。おふたりに声をかけたのは、単に、それがいちばん心強いからですよ」
自身を首切り寸前まで追い詰めた要因のあっけらかんは確かな欠点ではあるが、欠点とはやはり裏を返せば美点となり得る。椛はほんの少しだけ自分が恥ずかしくなってやおらへらへらを引っ込めた。公衆の面前で何者かがひとつ生命を奪えば、公衆はいつまでもその顔を記憶し続けることだろう。
「なんでさ! わたしの発明品はわたしがいちばんうまく使えるんだぞ。わたしが使う! わたしの発明品だもん」
「まあまあ。私が使いたくなるのも当然じゃないですか。なんせにとりさんの発明品ですからね」
にとりは不満げに鼻を鳴らしたが、その顔といえばまんざらでもなさそうな感じでいて、少なくとも悪い気はしてないようだった。椛と文はちらと目を見合わせて一寸だけ笑った。椛はおもむろに、文に預けたリュックのひとつを取り返して、言う。
「捕獲道具のパーツ、どこかで組み立てないといけませんね。こんな遅くに山を下りるってことは、どこか宿でも取ってあるんですか?」
「あれ、言ってませんでしたか。お山が旅館をとってくれたそうで、里についたらまずそこに向かうつもりです。けっこーいいとこらしくて、なんでしたっけ。ホテルニューなんちゃらとかっていう」
「え! 旅館に泊まるの!」
旅館の一言は不満のすべてを吹き飛ばし、不貞腐れたにとりの口をすぐさま解かせた。長く助走を取った方がより遠くへ飛べるというのが誰の談であるかはわからないが、ともかくこれまで必要以上に沈黙を保ってきたその口は、解き放たれたようにして悠々と動きまくった。
「旅館っていったら露天のお風呂でしょ、卓球でしょ! 和室の変なスペースでしょ、ウノでしょ、ふだんはできない内緒話でしょ! それからねぇ――」
かくして、ようやっと一纏めに至った猟友会ではあるが、そもそも捕獲対象の猿というのはどういうものか。やけに重要視されている猿だが、そもそも猿の一匹が人里に下りて、それがなんだというのだろう。ことというほどのことでもないと、誰もがそう考えるに違いない。しかし、ことというのは得てしてしょうもないものなのである。その実像はいつだってドーナツの穴ほどにくだらない。問題はドーナツの主体が穴と輪のどちらにあるかで、そんな主体の争奪戦を、ひとは得てしてことと呼ぶのだ。
『馬』 ① 〜人里にて
朝食時。多々良小傘は最悪だった。年が明けてからこの春まで、一度として働いていなかった。覚醒したとは言い難い寝ぼけ眼で畳の上を這い回り、最後の食料に手をつける。ビニールに包まれたアジのひらきはべっとりと、またぬるぬると滑った。小傘の着ているTシャツには〝焼けば食える〟と印字されていたが、不幸にもガスはしばらく前に止まっていた。せめて表面だけでも洗い流そうと蛇口をひねる。水は一寸のあいだとぼとぼ流れて、そしてすぐに枯れてしまった。しょうがないを呟いて、色の悪いアジをそのままテーブルに運ぶ。薄い座布団に腰を下ろしてリモコンのスイッチを押す。テレビはパチンと点灯して、ワイドショーを流し始めた。
『現在人気テレビタレントとして活躍する彼女は幅広い分野の資格を保持しており――』
そう、多々良小傘はものぐさだった。水道とガスは止まっているのにテレビをつける電気があるのは、単に電気代の伝票がいちばん初めに目についたからである。食べ物にしても、なにも保存のきく果物や干物を取っておけば、腐ったアジを食べずとも済んだのだ。金もあるとは云えないがまったく無いというわけでもない。小傘の自覚としてはまったく無いが正しいが、それは小傘が忘れてるだけか、或いは畳の隙間に挟まっているかのどちらかである。今にしても、やっつけなければならないアジのことなどすっかり忘れてテレビをまじまじみつめている。
『――ここで速報が入りました。本日未明、またしても里にさ――』
かと思えば今度はここでテレビを消す。アジ食べないと、とでも言いたげにリモコンをわざとらしく遠くへ置いて、アジに向き直る。あまり間も良くなかったし、リモコンを置いた場所もきっと忘れる。資質はどうあれどうしてもだめな性分を持つ者はこの世の中にごまんとあって、小傘もそのうちのひとりだった。それから、得てしてそんな者ほど自分は標準のど真ん中にあると信じて疑わない。いただきますとごちそうさまでしたを欠かしたことのない多々良小傘なら、もちろん例に漏れずである。
小傘はアジを食べ終え家を出る。わずかな小銭でもって切れた食料の補充するべく通りへ向かうのだ。
「戸締りよし! 服よし! 財布よし!」
家の前で諸々の確認を済ませて歩き出すも、小傘の後ろ髪は跳ねに跳ねまくっていた。しかし、こんな小傘の美点といえば人当たりのよさだろう。良くも悪くも裏表のないその人柄は里に住むひとびとに好ましい印象を与えていた。通りに出れば、小傘ちゃん、小傘ちゃん、と声がかかって、跳ねた後ろ髪もすぐに元どおり、となることだろう。ゆくゆく、いずれ、おそらく、きっと。
雑多な路地から通りへ抜け、小傘は八百屋へと向かった。通りに出ると長屋の乱立する狭苦しい路地が嘘のように道は開けて、今日の空模様――小傘曰く〝いい天気!〟――を広大な空に映している。小傘の歩調といえば至ってのんびり、というよりはなんだかふわふわしたもので、一歩ごとに頭が上下するような始末だった。近辺に暮らしている者であれば、遠目で見てもその歩調のみで小傘を識別できるだろう。したがって、仕切りに声がかかった。小傘ちゃん、後ろ髪が跳ねてるよ。小傘ちゃん、後ろ髪。小傘ちゃん、小傘ちゃん……。小傘は指摘されるたびに〝あ! いけない!〟と笑顔を添えて礼をした。しかし礼を言ったのちも後ろ髪は跳ねていた。多々良小傘は礼が言える。それは裏表のない小傘の美点であったが、裏も表もないのなら前髪も後ろ髪も変わらない。鏡で見た前髪のみが小傘の認知のすべてであり、また戸締り服財布よしの問題なしが……とにかく小傘は礼を言うだけ言ったら、問題の後ろ髪を直すのを忘れるのである。あんまりだ。
跳ねた頭髪など取るに足らないないといったふうに取り留めもなく小傘はふわふわ歩き続ける。大抵の場合、本人にとって取るに足らないコトというのは、誰かにとっての大問題なのだ。例えばそう、今まさに〝小傘ちゃん〟を発音しようとしている、買い物上手のおばちゃんにとってはまさしくだった。
「小傘ちゃん! あんたちょいと、小傘ちゃん! ちょいと!」
小傘は一瞬ぎょっとしたが、すぐに笑顔になった。おばちゃんの声量とその圧、ついでにその買い物上手については、近辺に暮らしている者であれば誰もが知るところにあった。圧倒的な声量と壊滅的なその圧力でもって商売人やその他の大勢には恐れられているおばちゃんだったが、小傘はそんなおばちゃんが大好きだった。おばちゃんの言うことを聞くと、すべてが安く、最大無料で、手に入る。
「おばちゃん! おばちゃんの言うこと聞くよ。おばちゃんの言う通りにするよ!」
「あっ小傘ちゃんあんた、後ろ髪!」
ゆくゆくいずれおそらくきっとの後ろ髪は、かくして元通りと相なった。小傘の物語は、これで終わりだ。おそらく、きっと。
『犬』 ② 〜宝物庫にて
場所は命蓮寺。朝食を摂り終えた面々は広々とした宝物庫に集まり、慄然と震える寅丸星を中心に、その開口を待っていた。雲居一輪は腕を組み呆れたように寅丸を睨めつけているし、雲山は対照的に同情の目を送って、村紗水蜜は興味なさげに居合わせるだけ居合わせて、聖白蓮は困ったように寅丸の口切を待った。寅丸は俯き、視線を方々に彷徨わせていたが、ときおり雲山に助けを求めるようにその視線を向けた。雲山が諦めたように首を横にゆっくりと振ると、寅丸は震えた声をしぼりだすかのようにぽつり、と言葉をこぼす。「な、失くして……」寅丸の両手はゆっくりと頭を迎えに行く。
「失くして、なくしてしまいました……! すべてを……!」
今ではしっかりと抱え込まれた頭に、各々はため息をついた。ときに、その物のおかれた状況が極端、甚だしい、水準を超えてしまっている際に、ひとびとは弩という文字を用いてソレを説明する。例えば今なら何に弩を付けるべきだろうか? とにかく、この弩級の珍事は今回の話の中で語りきるのは難しいだろう。そのうちきっと、鼠がやってきてなんとかしてくれるに違いないのだ。
宝物庫の珍事を尻目にして、響子はこころと寝室に居た。朝食を摂ってすぐに眠るほどふたりはものぐさではないし、こころに至っては宝物庫で何が起こっているのか気になって仕方がなかった。しかし響子にとって宝物庫で何が起こっているかなどわかりきっていた。朝食のあと様子のおかしい寅丸が“話がある”と皆を宝物庫へ連れ立てば、そのあとのことなど火を見るよりも明らかだった。響子はこころに「いつものことだよ、それより……」と言って、皆に気づかれないようこっそりと寝室に連れ出した。響子の興味はこころの布団のわきにおいてある箱に向けられていた。
「さっきも聞いたけど。この、布かぶったデカい箱。これなに?」
訪ねるも、こころは恥ずかしそうに手をすり合わせてうつむくばかりだった。まだるっこしい、響子はそうも思ったが、それよりもこころの隠し事の正体が気になった。こころが道観から命蓮寺に来るとき、それはたいていの場合は避難だった。こころが道観の風水師と喧嘩したとき、道観の風水師が放火事件を起こし道観全体に石が飛んできてやまないとき、こころはいつも所在なさげに命蓮寺にやってきた。そんなとき、似たような境遇、同じように引き取られた経験を持つ響子はこころに共感と親しみを持って接していた。そして今回、こころは隠し事と共に寺にやってきた。となれば、隠し事の正体を探らないわけにもいかない、というのが響子の思いやりでもあった。「めくっちゃうよ、布」こころは慌てて止めに入るが、響子の手は止まらない。響子は赤い厚手の布を掴んで、ひと思いにひっぱった。
「……うわ」
そこには猿がいた。箱は檻で、檻の中、猿の頭には短い毛に器用にもリボンが巻かれていて、どうやらそれはこころが巻いたらしかった。証拠に、秘密を探られて(汗)を出していたこころだったが、あらわになった猿がこころをみつけ、キィ、と手を伸ばすとこころの(汗)は一瞬で(照!)に変わった。いかにも溺愛、メロメロといったふうに(照!照!)を浮かべつづける。「……さる」響子はあっけにとられていたが、ふいに我に返った。
「……どこで貰ったの、それ」
こころはギクッとして(汗)を浮かべる。忙しいやつ……響子は懐かしさに栓をして、努めてじとっとした目つきでこころを見つめた。「言えないようなところで貰ったって、そういうわけ?」こころは(汗!汗!)と主張して、視線を泳がせる。響子は以前ミスティアと行った金魚すくいを思い出す。たまたま最後の一匹になった金魚がポイから逃げ惑う際の動きが、ちょうど今のこころのソレを酷似していた。「うっ」途端に響子は頭を抱える。浴衣姿のミスティアと嫌な思い出とが連れ立って歩いてきたようだった。響子は、ねえ、なんか隠してるでしょ、と詰るミスティアの声を思い出して煩悶した。ふいと顔をあげるとこころは(…?)と無表情に響子を見つめている。こころの表情を読むのは極めて難しいが、響子にはそれが心配の表情であることはわかる。響子は気を取り直して立ち上がる。
「応えらんないなら。まあ、いいけど……」
こころはわかりやすく(嬉!)と浮かべて猿と顔を見合わせた。「餌、取ってくるから」響子が云うと、こころはがぜん(嬉!嬉!)とはしゃいで、猿とハイタッチする。響子が歩く廊下はこころの素直さのせいか、すこし肌寒いような感じがする。
「――だいたいあんたはねぇ、使いもしないのにどうして宝物庫の物をあっちにやったりこっちにやったりするの! 閉まっとけばいいでしょう、使わないんだから!」
「で、でも。あるでしょう? たまに取り出して眺めたくなる、といいますか……遊びたくなる! といいますかぁ……」
宝物庫の前を通りかかる。響子は腕を抱え、首をすぼめる。生きていると様々な状況に直面するし、そのたびには恥さえをもかくだろう。壇上でミスをしたとき、意図せずひとを傷つけたとき、誰かに憧れたとき……様々な理由で言葉の数は減っていく。しかし減った口数が恥を取り去ってくれるわけではない。閉じた唇はあくまで恥を遠ざける、或いは覆い隠すばかりだ。響子はかぶりを振って肌寒さを払い、冷蔵庫の戸を引いた。
寝室に戻り、響子は持ってきたミニトマトをこころに渡す。こころは見るからに喜んで、それを猿が伸ばす手に収めた。猿はやっときた! と言わんばかりにミニトマトにむしゃぶりつく。こころはそんな猿の姿に(照!)と浮かべて悶えた。「いちおう聞くけど」
「この……猿と。テレビでやってる猿って、同じ?」
ミニトマトを食べる猿にはしゃぎながらも、こころは一寸のあいだ首を傾げて逡巡し、それからゆっくりと首を横に振った。「そっか」響子もそれを疑うことはせずに、そのあとは、こころと一緒になって猿にミニトマトをやった。
『猟友会』 ② 〜ゴミ捨て場にて
「ここらへんにいるはずなのよね」
寝坊したスズメはひとつ鳴き枝を飛び立つ。誰もがそれぞれの朝を謳歌するなか、惰眠を貪る者もいる。それは朝寝坊のニワトリにしてもそうだし、夜更かしなフクロウにしてもそうだし、ゴミ捨て場で眠る天狗、犬、河童にしてもそうだった。「ほらやっぱり」姫海棠はたては腕を組んでため息をついた。
「これ映していいやつっスか?」
「だめよ」
ふいと風が吹いて木々がざわめく。すこし離れたところには水銀灯が立っていて、水銀灯は呆れかえったようにあかりを落とし、はたてや、山城たかね率いるカメラクルーたちと一緒になって、ぐちゃぐちゃの三匹を見下ろしている。三匹の内訳はもちろん天狗、犬、河童だ。「あれ」文の横で伸びているにとりが目を覚ます。上体を起こすと、背中にはがそごそと、雑然たるビニール袋の気配がした。椛も少し遅れてむくりと起き上がる。「わぁ……」振り向くと、ゴミ袋が当然のように山積されていた。「こら。いつまで寝てんのよ」はたてが伸びっぱなしの文を蹴りつける。「う、うぅ……」うめき声をあげながら文が目を覚ますと、ふいと風がやみ、木々は静まり返り、沈黙と肌寒さとが三匹の肌を撫でた。
低いコンクリートの塀のゴミ捨て場、三匹は捨て子の様相でゴミ袋に塗れていた。髪はぼさぼさ、服はしわくちゃ、目の下には、不足した睡眠に隈がよっている。三匹はどうして夜から投棄されたゴミのようだった。「さむ……」青空のもと、また風が吹く。同じ動物のように、習性を思わせるそぶりで、各々はおもむろに肘をだいた。
話は昨晩、三匹が旅館にチェックインするところまで遡る。
通りゃんせ 通りゃんせ
ここはどこの 細道じゃ
天神さまの 細道じゃ
ちっと通して 下しゃんせ
御用のないもの 通しゃせぬ
この子の七つの お祝いに
お札を納めに まいります
行きはよいよい 帰りはこわい
こわいながらも
通りゃんせ 通りゃんせ
「いやあ。たまにはいいもんですね、歌も。おかげであっという間に到着しました」
三人は森を抜け里のはずれに位置する旅館に至るまでを激こわ童謡『通りゃんせ』で荷物の重さをやり過ごし、やっとの思いで旅館にたどり着く。「おわー! どうしましょう! みてくださいよ、この立派な門構え!」文は剰った感動のままに自らの頭を両掌で押さえつけながら謡う。
「ほんとほんと。この逆さまの天守閣が入口っていうのも、なんか豪勢なかんじ!」
はしゃぐにとりの云う通り、逆さまの天守閣が出迎える天上の城、ホテルニュー輝針城はまさしくグランドホテルのソレだった。ホテルまでの長旅で疲れ果てた三匹にとって、入口の照明の華やかさは今日の終点にふさわしかった。「でも。なんていうんでしょう、こういうの。なんか……ヘンなホテルみたいですよね」訝し気な椛の口調に、ふたりは首を傾げた。たしかに、入口付近の電柱に括られた巨大な看板のネオンは猥雑な印象を放っている感じもする。言われてみるとなんだかいかがわしい感じがする。ふたりはせっかくの気分に水を差されたような気分になったが、結局のところは「たしかに」と腕を組んでは唸りながら頷いた。「でも。まずは……」椛はそのままの口ぶりで言葉を続ける。
「まずはチェックインしませんか。せっかく取ってもらった宿ですし、何より荷物が重たくて……ちょっと眠たいし……明日はテレビのインタビューもあるし……はやくお風呂に入って眠りたいし……もうぜんぜん動きたくないし……」
にとりは椛の語り口に落胆した。椛のその平時より心ばかり横柄な語り口は椛特有の不機嫌、眠たくなっちゃったときのサインだった。こうなると椛はぜんぜん動いてくれない! にとりはホテルに備え付けられている卓球やカラオケの可能性が限りなくゼロに近づいたことに心底がっかりした。そしてそのまま、胸ポケットで冷たくなったウノに突き動かされるがまま口を開く。
「い、いやだ! せっかくみんなでホテル……旅館にきたのに、なにもしないで、ただお風呂に入って寝るだけなんて! ……そんなんだったら、わたしはもう捕獲道具とかは組み立てない」
「困りましたね。でも、椛の言う通り明日はインタビューもあるし、私の腕もパンパンですし……はやくお風呂に入って眠るのには賛成……」
文がそこまで言うと、にとりは「そんなんだったら、わたしはもう捕獲道具とかは組み立てない」と拗ねまくった。文と椛は「うーん」と腕を組み、にとりの納得が得られるくらいの折衷案がないかと模索する。「とりあえずチェックインしてから考えませんか」椛が言うも、にとりはふいと顔を背けるばかりだ。「まあまあ、そんなに拗ねないでくださいよ」文は冗談めかしてにとりの腕を引こうと掴んだ。「さ、触るなよ!」にとりは本気で嫌がって文の腕を振り払った。ひとに触られるのがどうしても無理な河童というのはどこにでもいて、それは仕方のないことで、仕方のないことはたくさんあって……とにかくふたりはどうにか河童の機嫌をとり、チェックインだけは済ませることができた。今回わかってほしいのは、仕方のないことはたくさんある、ということである。
チェックインさえ済ませてしまえばにとりの機嫌はたちどころに好転した。入口、受付奥のおみやげコーナー、そのわきに温泉の男湯女湯の暖簾、そばの壁沿い、ぽつねんと体重計、一回百円、マッサージチェア……急上昇するにとりのテンションは先ほどまでの拗ねまくりをすっかり忘れ、荷下ろしを済ませたころには「温泉だろ! はやくしないと、まにあわなくなる!」などとはちきれんばかりだった。
お風呂上り、にとりと椛は腕がパンパンな文を残し、先に部屋へと戻っていた。「みろよ。エアー・コンディショナー!」にとりは広い畳のうえ、指をさして椛に喋るともなくしゃべり続ける。「へえ……」お風呂に入ってぼうっとしている椛は応えるともなくこたえて、にとりの話を聞くともなく聞き流し続ける。「わたしが造った。わたしだけがつかえる……」今度あれに、暖房機能もつけようと思っている。今度は開発予定のエアコンの基本スペックをぶつぶつと唱えながら、捕獲道具を黙々組み立て始める。本来ぶつぶつやりながらの作業に黙々という形容はふさわしくないかもしれない。しかし椛にとってにとりの言葉は理解不能の呪文であり、ともすれば虫の声と同義で、それは風の音が静寂を際立たせるのとおんなじにして、椛の脳内にもたげる眠気をほどよく刺激していた。「えらいですね、にとりさんは。結局、やるんだから……」うとうと呟けど、にとりは「液φ6.4・ガスφ9.5、配管長10m、10畳冷やす……エアコンの性能は室外機で決まる……」と呪文をやりながら組み立てを遂行し続ける。にとりはたのしいみんなの時間のために、文が帰ってくるまでに組み立てを終わらせる気でいた。椛はたのしいみんなの時間が始まる前に、文が帰ってくるまでには眠ってしまおうと思っていた。けれど、それでも目を閉じずににとりの作業を見つめ続けるのは、結局のところ椛の美点の弊害といえるだろう。今回の件に協力してしまったのもそうだ。椛はことの展望に一抹の不安を感じて、せっせと捕獲道具を組み立てるにとりから目をそらす。
視線を逃したさき、椛の視界はふいに、ソレに占有される。支配、と呼んでもいいかもしれない。ソレは空間だった。窓際、低いテーブルを低い椅子が挟んでいる。椛は凡百の旅館客よろしく、例の空間に心を一瞬にして奪われた。「足りない馬力をカバーする……室外機と室外機を接続した、スーパー室外機……」にとりの言葉も耳に入らない。椛はうっすらとした嫌な予感に包まれながらも、その空間から目を離せなかった。ふいに、部屋の戸ががちゃり、と音を立てて開く。
「戻りましたよ、私が。いやあ、いいもんですね温泉も。パンパンだった腕がもうこんなに……それからぁ……」
えへへ、と笑う文が、その手元で何やらがさごそと音を立てる。椛はハッとして文の方へ向き直った。
「買ってきちゃいました、これ。ロビーで……えへへ」
文は手元のビニール袋からがさごそとソレを取り出した。基本的に文に興味のないにとりは、そこでやっとなにかを察知したようにしてピクリと作業の手を止め、文の方へ向き直る。椛は文の手に握られたソレに愕然とする。「あ、文さん。あなたは――」
「――な、なんてものを買ってくる。わかってるんですか……明日はインタビュー、いわば仕事、仕事なのに……」
「射命丸。わたしはときどき、おまえがすごくまともなやつにみえるときがある。それがいま」
文は恥ずかしそうに片手で頭をかいて、えへへへ、と発音する。文がビニール袋から取り出し、ふたりを感嘆させたソレは、悪魔の水……缶ビールだった。「ひとり二本くらいで……パッと飲んで、パッと寝ちゃえば、すこしくらい……」そして文はまた、えへへと笑った。たのしいみんなの時間を待ち望んでいたにとりはもとより、先ほど謎空間に魅了された椛にも文の凶行を諫めることは不可能だった。三人はひとり二本をかんたんに飲み干し、そしてかんたんに我を失った。途端に三人の夜は加速する。例の空間で語らう三人は缶ビールが切れるなりロビーへ急行し、にべなくワンケースを購入せしめる。「観光地は歩いて回らないと」誰が言い出したかそのまま旅館を飛び出し、散策しながら空の白むまでワンケースを堪能した。歯止めの効かない、狂った夜……その結果が、この朝、この現在である。
「こら! シャキッとしなさい! このダメ妖怪ども!」
青空の下、姫海棠はたてが怒号を飛ばす。三匹は寝覚めの悪さと肌寒さ、それから理外の怒号に「こわ……」と肘を抱いて涙ぐむ。ダメ人間という言葉は人として備えているべき最低限の人格や良識が欠けているひとを指すし、この場合のダメ妖怪もまるっきり同じ意味である。ともかくあと数刻の猶予もなくカメラは回る。おこらないで……ぐあいわるい……はきそう……三匹は各々好き勝手に弱音を吐き続ける。
「これ、映していいやつっスか?」
「だめだってば……」
姫海棠はたてはこみ上げる頭痛を堪えるように、ため息を吐くのだった。
『鳥』 ② 〜自室にて
ソファは軋む。ミスティアはケータイを見るともなく眺め、テレビは聞きもしないのにしゃべりまくる。心を許せる同居人が安心だったとして、ミスティは現在その安心を失っている。これが生活を手に入れる以前の、土中の蝉のような精神性であったなら、疼痛のような孤独感に身動ぎさえできなかっただろう。しかしミスティアは生活のなかにいる。自分の空腹を満たすこと、食器の清潔を保つこと。ほかにも数々の生活の同義語がミスティアのなかで反復する。足りないのは響子だけだった。
『先週のこと、たしかにわたしが悪かったとは思うけど。』
増えるどころか減った文面にミスティアはため息をつく。携帯をソファの脇に放って、ミスティアは部屋を見渡す。なんとなく色彩のかけたリビングで、真っ赤なベッドだけが鮮やかだった。その赤色はなんだかシミのようで、みればみるほど滲んで、広がっていくような感じがする。そうして、もう幾度となく思い返した場面がまた再生される。
ねえ、なんか隠してるでしょ。なんて! 自分はどうして響子を追い詰めるような言い方ばかりしてしまうのだろう。自分のつめたい声色と、響子の困窮したような、あの、弱弱しい表情……。ミスティアは脱力感に苛まれる。その場面を回想するとどうして感情は複雑に、混ざったあとの姿でミスティアの胸中に湧いて出た。元の姿がわからないこともミスティアの脱力、無力感を助長させていた。
とっさに、ミスティアは縋るようにケータイに手を伸ばす。とにかく謝ってしまおう、文字であろうと言葉であろうと、伝えることに変わりはない。とにかく伝えなくては。ソファについた手をずらして、ケータイに手をかける。『現場のはたてさーん』
ミスティアはハッとした。その瞬間に、一瞬前のベッドの赤色のことなんて夢のように薄れて、手のひらに触れるソファの感触が急に繊細に感じられた。ミスティアには伸ばしかけた手が何を掴もうとしていたかさえ曖昧になって、視線はテレビに釘付けになった。テレビに目を奪われるのもそう悪いことではない。むしろ現実感が薄れるほどの逡巡を終わらせるのにはうってつけかもしれない。とにかく、今のミスティアを生活に引き戻したのはテレビの声だった。テレビはまた、聞きもしないのにしゃべりまくる……。
『えー、こちら現場のはたてです。我々は予定よりもすこし遅れましたが現在、無事に猟友会の方たちと合流することに成功しました。みてください、この、ボロボロの三人組……』
画面には髪がぼさぼさの河童、目に隈がよった天狗、衣服がよれよれの犬が映し出される。河童はカメラに向かって両手を振りすくなくとも愛嬌ではないナニカをふりまき、天狗はどうしたらいいかわからなさそうに片手でピースを作ってへらへらとして、犬は自分はいま恥ずかしいです、と恥ずかしさを表明するように自分の顔を両手で覆っていた。「なに……?」なぜか浴衣姿の猟友会の面々にミスティアは唖然とする。
『さっそくこの、渡された紙を参考に話を伺いっていきたいと思います。……えー、まずは天狗以外を映さないことが大前提……そのあとは天狗に台本を……チッ……いったんスタジオにお返しします』
返されても困る、といわんばかりの変な雰囲気が流れ、ミスティアはがぜん釘付けになってしまう。沈黙するスタジオは「いったんブイ」の声で画面は瞬時に切り替わり、猿に関連したニュースが流れ始める。人里に住むM子さん(年齢不詳)のテロップとともに顔にモザイクのかかった人物が映し出され、猿に遭わされた被害についてを話し始める。『(今朝)起きたらこんなふうになってて……』M子さんがそういうと、今度は無残に破壊された檻が移される。『はい。この檻に(でっかいブタ)入ってたんですけど……みんな逃げちゃってぇ……』そのあと黒い画面に切り替わり『増加する猿の被害……』が太字で浮かび上がってくる。そしてまたM子さんのインタビューに戻り『困りますね……はやく捕まってほしいです』でもってVTRは終わり、スタジオに戻る。こういった声も届いていますから、となんとはないコメントが行き交ったのち、ようやくまた『では準備も整ったようですので……現場のはたてさーん』とはじめに戻る。「なんなの……」困惑しつつも目が離せない。
『はたてです。では今から猟友会の“天狗のお三方”に話を伺っていこうと思います。まず山から降りてきた動物を捕まえること数十年……捕獲のプロフェッショナル、アヤさんにお聞きします。どうでしょう、捕まりますか。猿は』『ええ、ええ。捕まるでしょうね。まあ、山から降りてきてこういうふうに里を荒らす、脅かす……そういった動物が捕まらない、捕まらなかったということはその……今まで一度もない。なかったことでしたからね。』『捕まえてきたと?』『ええ。まあ、捕まえてきた……捕まえてきましたね。』『……はい。心強いコメントでした』
『続いて捕獲道具を造り続けて数十年……捕獲技師のカワシロ先生にお聞きします。今回はなにか秘密兵器があるということですが?』『ああ! あるよ! 秘密兵器! これはねえ、今回猿が降りたって聞いた瞬間ばちーん! ときてさぁ。そしたらもう止まんないよ、なんていうんだろ。パズルのピースっていうか、車輪とレールっていうかさぁ』『それは、そのリュックの猟銃ではなく?』『ああ、これはね! これも、わたしが考えたんだけども、今回はもみじが』『秘密兵器の詳細を伺ってもよろしいでしょうか?』『もちろん! 秘密兵器だから、秘密!』『……わかりました』
『最後に、動物心理学者のモミジ・イヌバシリ教授にお聞きします。今回降りてきた猿ですが、動物が里に降りる、降りてしまう心理というのはどういったものなのでしょう?』『わかりかねます』『……ありがとうございます』
『えー、今回は猟友会のなかでもそれぞれの分野から精鋭が集まったようです。あー……“このメンバーであれば今日中の捕獲は確実。山の威信をかけて成し遂げてくれるでしょう”……チッ……以上、現場のはたてでした』
そしてカメラはパンして“秘密兵器”にズームをかけた。秘密兵器は赤い厚布で覆われていたが、布の長さが足らず、下の方がはみだしていた。どうやらそれは檻らしく、檻の底には、なにやらトマトのようなものが仕掛けられている。「秘密兵器……」ミスティアは呆然としたまま呟く。カーテンから差し込む陽はソファに座るミスティアの腿あたりを切断せんと照らしていた。時刻は正午に差し掛かる。ワイドショーには今、不思議な魔力が宿っていた。
『猟友会』 ③ ~撮影後
インタビューを終えた文たちは近くのちょっとした広場に移動してはたてたちの休憩に合わせ昼食をとっていた。三人は東屋のベンチに並んで座り、出演料代わりにもらったお弁当を有難く頂いていた。カメラクルーの山童たちは何グループかに分かれて各々ブルーシートを敷いてにぎやかにぶちかましている。弁当に早々にお弁当を摂り終えたにとりといえば、撮影機材一式が置かれたブルーシートの上で、山童製のカメラに興味津々といった風に釘付けになっていた。
「あんたたちも大変ね」
並んで座るふたりにはたてが近づいて、缶のお茶を差し出した。「あ、どうも……」文は二本受け取って、そのうちの一本を椛に回す。椛はプルタブを開けながら「そちらこそ」と口を切る。
「リポーターなんてやらされて。ごたごたのど真ん中じゃないですか」
ほんとよ! と言って笑うので、ふたりも同調するように控えめに笑った。「意外と元気そうですね」椛は文に耳打ちする。テレビで見る限り常時不機嫌なはたてを人知れず心配していた文だが、それを誰かに話した記憶はなかった。もしかすると、例の空間で喋ってしまっていたかもしれない。頬でもかきたい気分になったが、生憎文の両手は弁当と割り箸で埋まっていた。
「くだらないわ! 上の考えることっていつもそう。見くびりすぎなのよ。猿一匹捕まえたところで、何が変わるっていうんでしょうね。……まあでも、これで誰かの役に立つっていうなら悪くないわ」
実際、はたてのソレは誰かのお茶の間を照らしていることに違いない。あっけらかんと語るその口調に、椛は白狼天狗としての自分をすこしだけ重ねて「たしかに」と笑った。「なんのはなしさ!」カメラに飽きたか、にとりは元気よく駆け寄ってきて会話に割り込んだ。「あのカメラはだめだ!」断言して、それより、と話し続ける。
「それよりさ。わたしたちはこのあとどうすればいい? はたてさんの話だと、猿は西に向かってるらしいけど。西ってのも、漠然としてるっていうか。茫洋としちゃうっていうか。椛が実際に動物心理学者で、射命丸が捕獲のプロフェッショナルならよかったんだけど。本物のプロはわたしだけだし……」
ねえ? と、にとりは文と椛に同意を求める。要するににとりは秘密兵器の設置場所についてどうするかを話したいらしい。ふたりは腕を組んで「うーん」と考え始める。はたてははたてでなにか案があるようだったが、しばらくの付き合いになるにとりが未だに自分をはたて“さん”と呼ぶのがなんとなくショックで言い出せずに、それはそれで腕を組み悩んでいた。「そうですねぇ」と、はじめに口を開いたのは文だった。
「……今までの話をまとめると、猿は里で作物を荒らして、動物の檻をこわして。そしてとにかく西へ向かっている……。柵や檻みたいな囲いを破壊するのが好きなようですが、それだったら西のみならず、見つけ次第いろんな方角で壊して回るはずですよね。でも、そういう話は届いていない。つまり、おそらく猿は西へ向かう“ついで”で、道すがらの柵や檻を壊していると考えられます。はたてさん、今まで壊された囲いの数は?」
「五千件。五千と二百九十七件のお宅の囲いが破壊されたと報告を受けてるわ……さすが、首がかかってるだけのことはあるじゃない。猿は最初に現れた地点から西の方角にある囲いはすべて破壊している。にもかかわらず、他の方角で囲いが壊されたという話はゼロ……ということは、よ!」
察しの良い文ははたての言わんとせんことを察して、察しの普通な椛も猿が次に現れる箇所の予測が立つことを理解し、察しが悪いとかではないが集中力のないにとりはまた機材のほうに戻って「この肩紐はいい!」と山童を称揚していた。親切な山童が「カメラストラップってんだよ」と教えるも、にとりは耳に入ってない様子で「でもこのカメラはだめだ!」と吐き捨て、文たちの方へ走って戻ってくる。「いまはなんのはなし!」元気よく割り込むと、親切な椛はにとりにあらましを説明する。
「ええと。猿は西へ向かう道中にある柵や檻をかならずを破壊するから、次に現れる箇所の予測がついて、なんなら次に壊されるであろう柵や檻の前ににとりさんの“秘密兵器”を置いておけば、猿はおのずとあらわれて、秘密兵器にひっかかる……みたいなはなし……で、合ってますか?」
はたて無言で深く頷き、文も同じようにした。椛はほっとして胸をなでおろして、それから自慢げに、そういうことです! と、にとりに胸を張った。ちょうど弁当を食べ終えた文はぱん、ぱんと手を払って立ち上がる。
「それじゃあ、向かいますか。西へ!」
やる気に満ちた口調で叫んではみたが、椛はまだ弁当を食べているし、カメラクルーたちの準備もまだだし、にとりもにとりで、なぜ秘密兵器が猿をひっかけるものだとばれたのか不思議で仕方なく、誰も文の調子に合わせられる者はいなかった。はたてはにとりに渡そうと思っていたお茶をそういえば、と取り出して、にとりに、はい、と差し出した。
「あ! ええと、どうも! ありがとうございます……」
ぎこちない距離感を間近で確かめながら、文はおとなしく席に着いた。ちょっとした広場に設置されたちょっとした日時計は正午を指していた。ふいと風が吹き、広場の囲いの低木や並木が俄かに揺れる。ブルーシート上、撮影機材の横に置かれた秘密兵器は布をかぶり、虎視眈々と陽の目を待っていた。……ともあれ、三人は間もなく出発する。はたて等カメラクルーと同行し、向かうのだ。
西へと。
「あー。出発前になんなんだけど……文、ちょっと来て」
はたてはビデオカメラを取り出した。
一旦終わり。
『犬』 ③ ~人里にて
人混みのなか、布をかぶった箱が揺れる。正午を過ぎて、通りは中繁盛といった具合に往来があって、空はひどくそれらしい空模様だった。響子は寺の紛失事件、そのごたごたから逃れるべく、こころを連れて里まで出て来ていた。寺では現在、物失くしのプロが引き寄せた失くし物のプロが寺中を物色しているに違いない。あのまま寺に居ては、寝室に置かれたこころの“箱”も見つかって、紛失事件は更なる混迷を極めたことだろう。皆と一緒に昼食を囲まないことが世のため人のためになることだってある。歩きながら、響子は手持無沙汰にこころの持つ箱を眺めていた。
響子はもちろん箱の中身を知っている。こころの持つ箱の中身はリボンを付けた猿で、猿といえば例のワイドショーだった。そそくさと寺を出る前にもみかけたが、山から猟友会なんてものも派遣されていたようだった。こころは箱の中身は件の猿ではないというが、響子にはこころの持つ箱とワイドショーがまるで無関係であるとは到底思えなかった。しかし、それはそれとして、響子が今現在しげしげとこころの持つ箱を眺めているのにはほかの理由があった。こころの歩調にあわせてゆらゆらと揺れる箱……正体は檻で、檻には猿が入っている。檻といえば鉄製で、鉄といえば、とにかく重い……重たくはないのだろうか? こころは何の感情も浮かべてはいないが、もしかすると、これは自分の助力を待っているのではないだろうか。
響子は寺を出て久しいが、体力には自信があった。寺に居たころ、風呂を沸かすための薪はすべて響子が割っていたし、今回にしても、実家のようなものとはいえ、泊めてもらう最低限の礼として二日分の薪を割って出てきたところだ。ミスティアとバンドだって組んでいたし、あれもなかなか、体力がいる。
響子はこころの胸中をどうにか推察しようと思考をめぐらす。はたしてこころは響子の、そういった体力自慢な面を知っているのかいないのか。知らずに、箱の重さに耐え忍び黙っているのか。或いは、知りながら、いつ響子が助力を申し出てくれるのかを待っているのか。響子は考える。いや、知らないはずがない! 響子は思い出す。バンド時代、こころは響子たちのライブに足しげく通ってくれていた。『ゴーゴー!響子♡ ゴーゴー!ミスティア♡』のうちわを自作して、無表情に演奏を眺めてくれていたのだ。それは響子たちが前人未到の『来たれお正月!108日連続カウントダウンライブ』を敢行した際も同じだった。こころは108日間欠かすことなく様々なうちわを持参し無表情にライブを見届けてくれていた。今日の薪割もみてたし……こころが響子の体力を知らないなんてことはあり得なかった。響子は愕然とする。ということは、こころはやはり、重たい檻を持ちながら、重たくない? 代わろうか? を待っていることになる! 響子は焦燥にかられる。こころは寺を出てから今までの道中、ずっとその言葉を今や今やと待ち遠しく思っていたに違いない。もう手遅れなのではないだろうか! 響子は絶望した。かけるべき温かな言葉はとっくに冷め切り、もはや腐って使い物になろうはずもない。響子は呆然と、こころの無表情を眺望する……ああ! 遅すぎたのだ! なにもかも……。
響子の視線に気づいたこころはしばらく(?)を浮かべて、然るのちそれは(照)に変わった。理由もなくじっと見つめられて照れない者はいない。こころは(照!)と浮かべて、響子の顔をぺちぺちと叩いた。響子は戦慄した。こころはやはり怒っているに違いない! そうでなければ、ひとの顔を二度も叩く理由がみあたらない……憔悴する心とは裏腹に、響子の顔に表情はない。響子は努めて、自身の感情を気取られまいと表情を御していた。理由はいくつかあるが、響子がいちばんに恐ろしいのは恥をかくことだった。もしこれまでの逡巡すべてが甚だしい勘違いで、馬鹿馬鹿しい早計で、恥ずかしい杞憂だったとしたら……。気付けばまた(?)に戻っているこころをみて、焦って極めて冷静に言葉を吐いた。
「ああ、なんでもないよ。なんかみつけた? 食べたいやつ」
聞かれると、こころは遠くを指さした。通りの突き当りの店を指しているらしい。看板には西洋料理店、と書いてあるようだった。つまるところそれはレストランで、こころは嬉しそうに(スパゲッティ!)を浮かべている。不意に響子はいつかの朝食を思い出して、そのまま固まってしまう。不意に足を止める響子に、こころは(涙)、(涙涙涙)とわかりやすく駄々をこねる。「ああいや」我に返った響子はなんとか取り繕おうと言葉を紡ぐ。
「まあ、いいけど……」
そういって、響子は店に向かって歩き始める。それがわかると、こころはまた(嬉!)と追従する。揺れる箱を、おまえにもわけてやる、とでも言いたげに指で二度つつく。そんなこころを眺めながら、響子は一先ず安心した。突き当りまで歩き、いよいよ入店、その段になって、響子は向こうの人だかりに気づく。人だかりは大きなカメラを中心に形成されていて、中心ではリポーターらしき人物が『猿』がどうであるとかを喋っている。人だかりはきっと野次馬だろう。響子はまた気が気でなくなった。こころが上機嫌で運ぶ箱……幸いこころは野次馬にも、大きなカメラにも気がついていないようだ。響子はそそくさとレストランに入店した。
こころはスパゲッティに舌鼓を打ちつつ、何度もこっそりと箱の布をめくり、具材のミニトマトをそのなかへ運んだ。その際、布と箱のあいだからするりと紙が落ち、響子はなんとなく焦ってそれを拾った。紙にはこう書かれていた。
『このヒジョーに重要な猿は、粗忽者の布都、異常者の青娥はもちろんのこと、食いしん坊の芳香や真っ正直の屠自古にも預けられない。特に屠自古にこれがバレては何を言われるかわからない。とゆーわけで、今回この猿はお前に預けることにする。そのときが来るまで丁重に扱うように! P.S.誰にもバレないよう管理するコト! 豊聡耳神子より。』
それから響子は気が気でなくなった。読んだことを気取られまいと努めて平然とパスタを巻き取り口に運んでも味がしなかった。こっそりとポケットにしまった手紙が妙につめたく感じられ、妙な汗までかきはじめる次第だった。響子は必死に頭のなかで安心を探す――
ねえ、なんか隠してるでしょ。
――けれども、響子の頭に浮かぶのはそんな声ばかりだった。その声は何度も、なんども響子の頭のなかを反射して、増幅していく……からん、と音が鳴り、響子はハッとした。響子は自分が落としたフォークをかがんで拾って、疑問符を浮かべるこころに「ああ、なんでもないよ」と平然を吐き繕った。こころは安心した様子でミニトマトを突き刺し、布を捲る。「キィ!」声がするや否や「ああいや!」と響子は立ち上がり、大声でまわりに弁明した。
「なんでも、なんでもありません!」
響子の懊悩は続く。
『馬』 ② ~人里にて
「現場のはたてです。現在我々は猟友会の方たちが割り出した“次に猿が現れる”と思われる地点に到着しました。すごい数の野次馬が、我々を取り囲んでいます。野次馬といっても尻尾などはついておらず、その大多数は里に住む人たちのようで……チッ……いったんスタジオに返します」
昼下がりの里で、多々良小傘は人だかりの中、おばちゃんの横で小ぢんまりとしていた。いいかい小傘ちゃん、とおばちゃんは耳打ちをする。そうして小傘はおばちゃんから再三再四聞いた今回の仕事の説明をまた受ける。おばちゃんは同じ話を何度もするし、小傘は聞いた話をすぐに忘れる。ふたりはとにかくウマが合った。
「これはね、えらい人からの頼まれごとなんだ。今からあそこにいる三人のやることなすこと全部にケチをつけるのさ。いいかい。躊躇っちゃだめだよ。あの三人はとんでもない悪いやつって思いなね。同情はなし! わかったかい?」
ともかくおばちゃんの説明曰く、今回の仕事は偉い人から頼まれたことで、おばちゃんの言うようにカメラの前で猟友会の悪口をいえば、とにかくお金がもらえるらしい。
「わ、わかった……!」
小傘はいままさに、野次馬たちの最前列で猿の捕獲を見物していた。小傘の後ろでは野次馬たちやいのやいのと不安げな声をあげている。その原因はまさに小傘の眼前にあった。そこには大勢のカメラクルーに囲まれた、大きな布をかぶった箱があった。これはなに……? 小傘は気圧される。「えー。現場のはたてです。まずはみなさまにさきほどの発言について謝罪申し上げます。まず野次馬というのは所謂ところの馬ではなく……」そんな小傘をみておばちゃんは仕方ないねと小声でつぶやき、腕をまくった。「みてな、小傘ちゃん」こうやるんだよと、呟いて、おばちゃんは声を張り上げた。
「どうでもいいだろそんなことはァ!!! 大事なのはそれだろ、その、秘密兵器!!! さっさと見せなァ!!!」
とんでもない大音声に、一瞬、世界のすべてが静止する。「……そ、そうだ」束の間、空気は一変する。「そうだそうだ! はやくみせろ!」「そうだ! みせろ!」「わーわー!」野次馬たちはいっぺんに加熱して騒ぎ始める。どうだい、とおばちゃんはウィンクして、小傘は当惑した。どうしてこれでお金がもらえるのだろう。そんな疑問が小傘の頭のなかでもたげる。しかし、よくよく考えてみればこれまでおばちゃんが嘘をついたことがないことを思い出す。途端に小傘のやる気に火が付いた。ようし、わちきだって……!「えー、ではいよいよ、秘密兵器の登場です」リポーターの声に合わせて、秘密兵器の禁が解かれた。それは巨大な檻だった。檻の底にはなにやらトマトが仕掛けられており、野次馬たちは唖然とした。「えー。アヤさん。この秘密兵器なのですが、これが猿を捕獲するトラップということはわかるのですが、この、トマトというのは……?」そしてアヤさん、と呼ばれた猟友会のひとりが『トマトの柵を荒らしていたから、猿の好物はトマトに違いない』といった内容の、ずさんな推理を披露した。
「ふぅざけるなよこのバカ!!! 異常者か!!! 猿の好物はバナナだろうがァ!!!」
キレまくりのおばちゃんに合わせて、小傘は「わちきは魚が好き!」と叫んだ。すると、小傘の後方の野次馬たちもそれに続けた。「俺はうどん!」「野菜は嫌いだ!」「僕はトマトいけます!」小傘は得心のいった面持ちでおばちゃんの肩をぽんぽんと叩き、振り向いたおばちゃんにウィンクした。ナイスだよ……! おばちゃんに褒められて、小傘はますます図に乗った。「えー。続いて、カワシロ先生。今回この秘密兵器ですが、具体的にどういった仕掛けなのでしょうか」呼びかけられた背の低い猟友会のひとりは勇んで檻のなかに飛び込み『通常トマトを取ったら仕掛けが作動し、扉が閉じるが、今回のトラップのすごいところは取ったタイミングではなく、齧ったタイミングに作動するところである』と、檻の中から実際に身振り手振りで実演して見せた。
「なぁにをしてるこのチビはァ!!! 犯罪者か!!! 自分が捕まってどうする!!!」
おばちゃんが叫ぶと、檻に囚われたあのチビは両手で柵を掴んでひどくしょんぼりとした。おばちゃんに遅れまいと、小傘は「むかし住んでたところはなかったよ、屋根!」と叫んだ。すると、小傘の後方の野次馬たちもそれに続いた。「うちは築七十年だって!」「わんわん!(ぼくは犬小屋)」「おれなんか栃木だよ!」小傘は振り向いてハイタッチを始める。いぇーい三回でくる、くると回転し、最後はハイターッチとおばちゃんに求めた。ナイスだよ……! おばちゃんとハイタッチして、小傘は鼻高々だった。「……動物心理学者のモミジ・イヌバシリ教授に伺います。可能でしょうか、捕獲は」呼びかけられた最後の猟友会のひとりは『わかりかねます』と返答した。
「こんのやろうこのとんちきめが!!! 正直者か!!! 犬走椛か!!!!!!!!」
おばちゃんが正直者の代名詞を叫ぶと件の正直者は両手で顔を覆って、まるで自分はここに居ないと言い聞かせるように首を横に振りまくった。おばちゃんに負けじと小傘は「がんばれー!」と叫んだ。すると、小傘の広報の野次馬たちもそれに続いた。「いいじゃん、犬走椛!」「やまいちばんのがんばりもの!」「今月のMVP!」小傘はモミジ・イヌバシリ教授にかけよって肩を叩いた。野次馬たちも一緒になって励ましに行ったし、おばちゃんだってそうした。ナイスだよ……! おばちゃんに撫でられて、小傘は有頂天になった。
ぱち、ぱち、ぱち。
混迷を極める現場に、拍手の音が響いた。それは一匹の猿で、猿は拍手を続けながら、猟友会のあのチビが囚われている檻まで近づく。ぱち、ぱち、ぱち、と打ちながら、猿は檻ににじり寄る。拍手はまるでその檻を『素晴らしい発明だ』と称揚しているようにもみえた。囚われのあのチビは思わず会釈をする。そして猿はあのチビから齧りかけのトマトを受け取るような滑らかさで奪い、そのまま、トマトを齧り齧りに去っていた。
途端に、場の空気は沈下した。からっ風がぴゅうと吹いて、その場全体が、まるで狐に抓まれたようだった。檻の中のあのチビを含め、猟友会の三人は唖然としたのち、事の大きさに愕然として頭をかかえた。それは誰がどうみても揺らぐことのない大失態であった。モミジ・イヌバシリ教授のそばにいた小傘は思わずその頭を撫でる。し、しかたないよ、慰めるように言葉を紡ごうとするのは野次馬たちも一緒だった。ただ、ひとりを除いては。「……やっぱり」一瞬震えたその声に、誰もが同じ方を向いた。
「やーっぱり!!! しょうもないねェ猟友会ってのはさ! たかだか猿一匹捕まえられないじゃないか! ありえるのかい、こんなことが! あんたら山から派遣されてんだろう、あの“お山”から!!! あんたたちがそんなんなら、お山ってのもたいしたことないねえ! 聞けば里に常駐してる哨戒部隊も“お山”の差し金らしいじゃないか! 不安だねぇ私は! いっそ守矢の神様んところに全部任せたらどうなんだい! あんたたちのお山なんかより、ずっと安心だよ!」
場は凍り付いていた。そのなかで、小傘は困惑していた。小傘の記憶にあるおばちゃんは、厳しいけれど、こうも辛辣な物言いをするひとじゃなかった。おばちゃんは厳しいけれどやさしくて、いつも小傘の足りなさをいろんなやさしさで埋めてくれていた。食べるものがなくてひもじいとき、おばちゃんはいつも「食べていきな」と小傘にご馳走してくれた。近所の子供たちにいじめられて悲しいとき、おばちゃんはいつも「おいで小傘ちゃん」と小傘を慰めてくれた。働き先でポカをやらかしてクビになりそうなとき、おばちゃんはいつも「いいから、いいから」と一緒に謝りに行ってくれた。おばちゃんは厳しいけれど、こんなひどいことを言うひとじゃなかった。「それに、なんだい。この秘密兵器ってのは……」お、おばちゃん。もう用をなさない秘密兵器ににじり寄るおばちゃんの裾を、小傘は掴もうとした。けれど、おばちゃんは止まらない。
「……こんなおもちゃで、猿なんか捕まえられるかい!」
そういって、おばちゃんは檻を蹴りつけて破壊した。「あー!」囚われていた猟友会のひとりはあまりの事態に泣き出し、檻の中でへたり込んでしまう。猟友会のほかのふたりにしても狼狽して、すぐには動き出せなかった。野次馬たちもおばちゃんの凶行にたじろいで、誰もなにも言えなかった。
「お、おばちゃん、どうしちゃったの……? ねえ……?」
小傘はすこし怯えながら、振り絞るように声をかけた。おばちゃんは小傘の頬を両手をやさしく包み、怯える瞳をみつめて、声を絞りだすようにして言った。
「お金のためなんだよ、小傘ちゃん……安心して、おばちゃんに任せておきなさい……ね?」
そう語るおばちゃんの声は、小傘にとって、やさしいおばちゃんのままだった。けれどその瞳は、小傘がみたこともないほど悲しそうだった。「だ、だめ……!」小傘は思わずおばちゃんの手を掴み、駆け出した。「ちょ、ちょいと! 小傘ちゃん!」当惑するおばちゃんの声を無視して、おばちゃんの手を引いたまま、小傘はその場から出来るだけはやく離れようと逃げ出した。「う、撃て射命丸! 椛! だれかあのおばちゃん、撃ち殺してよぉ!」遠くで泣き叫ぶ声が響く……こんなのは違う、こんなのは間違ってる。殺したいほどにくまれるなんて……小傘の胸中には様々な感情が渦を巻いて暴れていた。何が違うのか、なにが間違ってるのか、いったい何が、おばちゃんにこうまでさせたのか。小傘はおばちゃんの手を引きながら、おばちゃんの言葉を反芻する。お金のため。おばちゃんはひどく悲しい目をして、そう言った。時刻は正午をまわり、太陽は厚い雲に紛れていった。
『鳥』 ③ ~自室にて
ミスティアはあっけにとられたままでいた。テレビが、ワイドショーがなにか、もう物凄いことになっている。『秘密兵器が破壊され、猟友会が泣き出し、事態は混迷を極めています』リポーターの声とともにカメラは破壊された秘密兵器から切り替わり、今度はぺたん座りで泣きじゃくるカワシロ先生を慰めるふたりが映し出される。あまりの悲痛さにミスティアは画面から目を逸らそうとするも、どうしてか目を離せなかった。なんというドキュメンタリーだろうか。ミスティアは幼いころのことを思い出す。あれはたしか、縁日で友達とはぐれたときのこと……ミスティアの思考とは裏腹に、テレビは止め処なくしゃべり続ける。
『えー。渡された紙を読みます。“ともかく猟友会の不備を徹底的に挙げ連ね、山とは無関係の素人であったことを表明せよ”……チッ……現場は引き続き猿の行方を』
プツン、と音が鳴り、画面は暗転する。ミスティアはリモコンをテーブルの上に放り投げて、ため息交じりに天井を仰ぐ。テレビのない部屋は途端に静まり返り、その静寂はミスティアに孤独であることを耳打ちするかのように響き渡った。
「……バカみたい」
ひとは悪意に触れたとき、それが自分と無関係であろうとなかろうと嫌な記憶や想念が引きずり出される。それはひとではないミスティアにしてもおんなじで、ミスティアは見上げた天井にあらゆる嫌悪を透明にして浮かべていた。軽い耳鳴りがした。一方的に騒ぎ立てて、ひとたび拒絶したら、今度は二度と喋らない。なんてやなやつ、ミスティアは睨みつけるように視線を落としてテーブルの上を一瞥する。テーブルの上、部屋の薄明りの中、リモコンはぽつねんとただそこにあった。ほかのボタンよりも大きな『電源』の赤色は悪びれるようにそこにあって、それを押さない自分を責めるかのようでもあった。嫌気がさして、ミスティアは後頭部をソファにつけたまま、ずるずると横たわる。横たわると、こつん、と側頭部にケータイがあたった。ミスティアはため息をつき、あきらめたようにケータイを開く。メールを開き、受信ボックスが空であることを確認する。そのまま何度か指がすべり、どういうわけかミスティアはその文面を開いてしまう。
『先週のこと、たしかにわたしが悪かったとは思うけど。』
『先週のこと、たしかにわたしが悪かったとは思うけどⅼ』
『先週のこと、たしかにわたしが悪かったⅼ』
『先週のこと、たしかにⅼ』
『ⅼ』
そのまま点滅する『ⅼ』をしばし眺めて、それから結局、ミスティアはケータイを閉じた。「はぁ……」ごとり、と床にケータイを落として、ミスティアはまたため息を吐く。ミスティアの腿を切断せんと照らしていた陽差しはもうどこかへ隠れて、部屋の中はお昼未満明け方以上の薄明るさに満ちていた。なんだかお腹が空いた気がする、シャワーを浴びたいような……嫌気を天井に揺蕩わせたまま、気付かぬうちにミスティアの瞼は落ちた。そのままゆっくりと時が流れ、そのうち、部屋の薄明るさのなかに橙色が紛れ込んで、紛れ込んだ橙は時間とともに、部屋全体を侵食していく。気付けば、部屋には烈しい夕凪が横たわっていた。
猟友会 ④~帰路
森は夕陽で真っ赤に染まって、木々はその赤色に焼かれるように身もだえている。夕刻、お役御免な猟友会の三人はとぼとぼと帰路を辿っていた。誰も喋らないかわりに足音ばかりが大きく響いた。三人の靴の裏を滑る山砂は踏みにじられるべくそこにあって、当然のように三人の靴を汚し続ける。文の手にはリュックが提げられていて、リュックからは長い筒が飛び出している。それはにとり手製の猟銃だった。猟銃は文の歩調に合わせて揺れ、銃口は西日を反射しててらてらと光っている。ゆらりと揺れても、今度は誰の脛をかすめることもなく空を切り続ける。文はリュックを持ち直して、今朝よりも増したその重量感に殊更口の端を強く結んだ。文の後方の椛のさらに後ろで、にとりはぽつりと口を開く。
「でもさあ、どうして猿も降りてきちゃったんだろ。捕まるか、そうでなきゃ撃ち殺される……わかんないもんだね、なんか哀れだよ。そうなったら、さっきみたいに大勢に囲まれてさ。猟銃なんか向けられたら、きっと、ぜったい怯えるよ。わたし、猟銃を作ったとき考えたんだけど。これでふたりのうちどっちを撃ち殺そうかって。何回も、なんかいも考えたんだけど……結局、どっちも撃てなかった。あたりまえだよ。だって、友達がいなくなっちゃうのって、いやだもん。だからいま、もしかするとあの猿にも友達がいて……みたいなこと、考えたんだ」
友人の剣呑な想像と感傷的な結論に、文はふと思い返す。昼食のあと、はたてに呼び出された文はふたりのいないところである映像を撮影していた。それは文が猟銃を構えてるだけの数秒間の映像で、はたて曰くそれは『まだ未完成』の映像だった。文はそのとき、もちろんこの映像が何に使われるのか仔細を尋ねた。どうやら今日中に捕獲或いは駆除が遂行されない場合、どこかから“替え玉の遺体”が提供され、最後にその写真を挿入することで映像は完成し、明日テレビにて駆除の決定的瞬間として放送されることが決まっている、という話らしかった。文が気がかりなのはどこかの替え玉についてだった。
「なんてさ。わたしだって、ほんとはやだよ。誰かが傷ついたり、傷つけたりするの。あーあ。作んなきゃよかった、銃なんて……」
文の悩みはもう銃を使うか使わないかではなく、どちらの猿が死ぬか生きるかということに推移していた。腐っても天狗、本気になれば猿の一匹なんてわけはない。それでも今回カメラの前で『山から派遣された安全で安心な猟友会』をやらなければならなくなったのは、どうしたって自分の責任だった。もう手段を選べる時間は残されていない。あとはどのようにケリをつけるか、それだけだった。
「仕方ないですよ、こうなっては。突如現れた猿に日常生活を脅かされたみなさま、心中お察しいたします。そして野生動物を守りたい。その人たちの気持ちも尊重したい。そして猿も猿なりに、なんていうのはどっかのリポーターの仕事です。私たちは妖怪です。妖怪だから、できることをする。それだけのことですよ」
文の言葉が決意の表明であるのと同時に、自身への慰めであることがにとりにもわかった。にとりは黙って頷いて、椛のあとに続いた。椛も椛で俯いていたが、そのうち顔をあげて文に尋ねた。
「本当にやるんですか。だって、その。意味わかんないです。猿を撃ち殺させて、猟友会は有用だけど銃はあぶないってニュースにして、猟友会を銃と文さんごと処分して、あたらしい安全な猟友会を作って、それをまたニュースにする……なんか回りくどすぎるし、本当に意味があるのか。甚だ疑問です」
「決まってたことですから」
要するに、今回の捕獲作戦でお山が欲しかったものは実績だった。猿を即日捕獲できる実績ある猟友会を手に入れ、里に派遣されている中立の哨戒部隊のパイを守矢から奪うことが目的なのだ。本来なら銃やらの“ちから”に頼らず猿を捕獲し、殺傷力のない安全で安心な猟友会ならなお良かったが、捕獲ができないにせよ駆除という形で障害を取り払えるならそれでもいい。捕獲にせよ駆除にせよ里にとって益のある実績を立てれば猟友会は注目を得るし、注目さえ得れば誰もが数日間は猟友会のニュースを追うだろう。ケチのついた殺傷力などそのときに取り払えばいいだけの話である。実行者がその後どうなるかはわからない、見せしめとして哨戒部隊長に処刑されるという噂もあれば、河童の地下工場で最低の工場長のもと生涯こき使われるという噂もあった。文の毅然とした口ぶりに、椛とにとりは目を逸らさずにはいられなかった。
「だから、おふたりはここまでです。あとは私、ひとりでやれます」
文の言葉に、椛とにとりは立ち尽くすほかなかった。椛にも、にとりにも立場があって、本来お山側に位置する文に肩入れすること自体が、望外に危険なことだった。このまま文についていけば、ふたりとも、哨戒部隊長に処刑されるかもしれないし、河童の地下工場で最低の工場長のもと生涯こき使われるかもしれない。ふたりは互いの胸のうちで反響するしかたないを噛みしめる事以外できなかった。
「……それじゃあにとりさん、この鞄はお返しします」
リュックから猟銃を抜き取り、文は去っていく。ふたりは小さくなる文の背中をしばらく見つめていたが、そのうちにとりは堪え切れなくなって目を逸らし、そのまま歩き始める。「……それじゃあ、わたしも帰るよ」にとりの言葉に、俯いたまま相槌を打って、椛も歩きだす。そうして三人は、たのしかった旅館ではなく、それぞれの帰路に向けて歩き始めた。
文は西へ沈む夕陽を眺めては、口笛など吹いてやろうかという気分だった。東から西へ、この数千年間ただの一度を除いて、そのサイクルは破綻せずに続いてきたのだ。どうせ明日はやってくる。望む望まないにかかわらずやってくるのなら、迎えに行ってやろうというものである。そんなやぶれかぶれな気持ちで、猟銃を沈む橙に向けて構える。するとどうして眩しくて、文は思わず目頭を抑えるのだった。
夕陽をみていたのはにとりも同じだった。にとりは沈みゆく夕暮れの真っ赤にあの夏のことを思い出していた。湖畔で遊び、はしゃぎまわったあの日々。そして誓い……。「わたしたちは、なにがあってもずっと友だち……」呟くと、すぐに涙が込み上げてくる。泣いてはいけない、誓いを破ったのは誰でもない、最後まで付き合ってやることのできなかった自分なのだから。ひとりごちると、涙はもう溢れだして止められなかった。「誓い合ったのに。あの夏の、真っ赤な空の下に。う、うぅ……」空はまるであの夏の思い出を嘲るように、焼き尽くすかのように、刻一刻と赤く染まった。こんな残酷な夕景があるだろうか? 隣を歩く椛は思わずにとりに声をかけてしまった。「も、もみじ……行っちゃったんじゃないの……」
「にとりさん、どうも……私たち、やっぱり帰り道が一緒なんです。だって、まだ浴衣だし……返さなくちゃいけないし……ホテルに」
なんということだろうか。ふたりはインタビューを受けているあいだも、捕獲道具を説明しているあいだも、カメラの前ではずっと浴衣だったのである。それはもちろん、ふたりの遥か前方で寂しげに歩く射命丸文にしても同じことだ。三人は前日、浴衣を着たままホテルのロビーでワンケースを買い、そのままホテルの外をほっつきまわり、酔いつぶれていた。そして起きたのは姫海堂はたてに発見されたゴミ捨て場、ということはつまり、三人に着替える時間など与えられていなかったのである! なんということだろうか、まさに灯台下暗し。この事実にいったい誰が気づけたというのだろう。
「じゃ、じゃあ!」
「ええ、走りましょう!」
ふたりは沈みゆく夕陽に向かって駆け出した。しょぼくれた友達に追いつくために、来たる明日に追いつくため、走った!
「射命丸!」
「文さん!」
驚いて振り向く文にふたりは叫ぶ。このままじゃ終われない! 文がなにより驚いたのはふたりの着るその浴衣だった。驚いて、文は自分の衣服をあらためる……「あああっ……!」そのとき文に電流走る――! 「わ、私も浴衣っ……! 浴衣のままっ……!」文に追いついたふたりは息を切らし「そのとおりだ/そのとおりです」を切れ切れ口にする。
「で、でも。いいんですか、おふたりは。このまま一緒にいたら、おふたりまで、哨戒部隊長に処刑される/河童の地下工場で最低の工場長のもと生涯こき使われる、かもしれないのに……!」
「いいんですよ! それに、安心してください、里の哨戒部隊長は私です!」
「ああ! その、最低の工場長っていうのも、たぶんわたしさ!」
ふたりの心強い言葉に、文は感涙してしまう。
「わ、わたし……ほんとはこれから、不安でたまらなくって……!」
「ほんとは……ふたりがいなくなっちゃったら、どうしようって、おもってて……!」
うわーっと泣きついてくる文をにとりは「さ、触るなァ!」と本気で嫌がって振り払う。振り払われた文は椛の胸に軟着陸しておいおいと泣きじゃくる。
「な、泣くなよ射命丸。まだ上手くいくって、決まったわけじゃないんだから」
「大丈夫ですよ、文さん。処刑はしませんし、もし寮を追い出されても、暫くは私の家に居させてあげますから」
かくして友情の危機を乗り越え再結成した三人組は一緒に旅館に帰ることにした。まずはお風呂に入りたいし、作戦も立て直さなくてはならない。「まずは夕日に向かってゴーだろ!」にとりが駆け出すので、ふたりも遅れて走り出す。「あっ、すみませんね」リュックに詰めなおした猟銃が椛の脛をいじめた。前回は歩いていたのに対して今回は走っているから威力は速さと重さと友情パワーが相乗して何万倍にも膨れ上がった。「ぐ、ぐうう……」椛は声にならない声をあげる。
「捨てちゃえ、そんなの!」
前方から嬉しそうににとりは叫んだ。
『犬』 ④ ~帰路
こころは歩きながら、両手で軽々と箱を顔の前まで持ち上げ、捲った布を頭にかけ、視界不良など気にも留めずになかの猿となにやら交わしてはしゃいでいる。対照的に響子はくたくただった。その原因はひとえに猿にあるといえる。
話は遡り、レストランで一皿目を食べ終えた頃合いにそれは起こった。「猿が出たぞ!」店の中か、或いは外か。とにかく誰かのその一声で騒動が起きた。食事中にもかかわらず席を立ち猿を一目見ようと駆け出す者、何が起きたか騒動を逃れるべく店のなかに駆け込んでくる者。レストランの空気は一瞬にして猿一色に染まり、そのレストランど真ん中の座席で、響子は慄然と頭を抱えた。響子の心を知ってか知らずか、こころは嬉しそうに猿に注文したミニトマト盛りをやりつづける。捲られた布からときたま飛び出る毛むくじゃらの細腕に響子は心臓が飛び出るような想いだった。響子は例の手紙をポケットの中でぐちゃぐちゃに丸め、やおら立ち上がり、退店するべく、ミニトマトをやりつづけるこころの腕に手を伸ばしかけた。そのとき、レストランのドアがぐわん、と開いて、カメラクルーが飛び込んでくる。一寸遅れてマイクを持った人物が入店してきた。
「現場のはたてです。猿はどうやらこのレストランに逃げ込んだようです、えー……“使い物にならない素人に代わり、私自身が猟友会として行方の調査を”……チッ……いったんスタジオに返します」
それはテレビでよくみるリポーター姫海棠はたてそのものだった。偽物じゃないか? 一瞬疑ってみた響子だったが、となりで(テレビのひと!)と大喜びするこころをみれば、たちまちその疑念は焦燥に化けた。
「あー、ごめんなさい。いまカメラまわってないんで! いきなり失礼しました。取材とか大丈夫でしたか? あ、オーケー? ありがとうございます。じゃあさっそくお尋ねしたいんですけど。あ、大声だしまーす。えー店内で猿を見た、或いは見ていないってひと、手をあげてもらえますかー」
そして店内の誰もが手をあげる。「あ、ごめんなさい。見てないってひとだけでお願いしまーす」今度は誰も手を下ろさない。響子は慌てて片手を振り上げた。「わ、私も! 私も見てません!」もちろん、レストランのなかに居た者なら、猿が逃げ込んでいないことなど明らかだった。しかし、この場にふたりだけ、猿を見てない、と言い切れない者がいる。ご存じ嘘つき響子と正直こころのふたりである。響子はこの状況に微動だにしないこころの片手を、挙げてないほうの片手で必死につかんで上へ上へ持ち上げようとする。しかしこころの瞳は“テレビのひと”こと姫海棠はたてリポーターに釘付けだった。憧れに瞳を輝かせているあいだは誰しもが無敵で、響子は無力だった。響子の努力空しく、上がらないこころの手はあえなくはたてに発見され、はたては「おっとこれは特ダネの予感」とふたりの席まで近づいてきた。「まわしていいですか? カメラ」響子は全力で首を横に振って、こころは(驚嘆!驚嘆!驚嘆!)と興奮気味に首を縦に振りまくった。
「じゃあまわしますねー。さん、にぃ、いち……。えー、現場のはたてです。猿が逃げ込んだ、とされるレストランでたったいま、目撃者の方を発見しました。ではさっそくお尋ねします。いますか? 猿は」
響子は大慌てで腕を伸ばし、こころの口をふさいだ。しかし最近は括弧内だけの感情表現がマイブームのこころはお構いなしにはたての問いに応じた。
(ここにいます!!!!!!!!!!)
絶句、響子は絶句した。そのとき響子は呼吸が止まるような思いでこころを眺めることしかできなかった。こころはきらきらと輝く瞳でリポーターを見つめ、そのリポートに全身全霊を持って応じてしまっていた。響子には座席に置いてある箱、その中身のリボンをつけた猿と里で話題沸騰のあの猿にどんな繋がりがあるかは知らない。けれど、ポケットのなかで無残に丸まったあの紙、あの手紙には『ヒジョーに重要な猿』の文言と共に『豊聡耳神子より』と差出人の名前までしっかりと綴られていたのである。豊聡耳神子のことは響子も知っていた。まるでテーブルの煎餅をぱくつくみたいにマツリゴトをつまみ食いしている仙人の名は、昨今テレビでもよく聞く名前だった。その仙人が“ヒジョーに重要”と云うならこころの箱も非常に重要なのだろう。このまま中身がばれて、中身がばれたのが仙人にバレれば、身内のこころに代わって、居合わせた自分がなにかひどいめに遭うに違いない……きっと仙人の不思議なちからで、里の哨戒部隊長に処刑/河童の地下工場で最低の工場長に死ぬまでこき使われたり、するに違いないのだ……! 終わった……響子は頭を抱えた。
「へえ、いますか。猿は」
しかしリポーターの反応は響子の予想とは大きく外れていた。
「えー、やはり猿はこの店内にいるようです。じゃあ今度は隣の方にお尋ねします。どこですか、猿は」
リポーターはどうやらこころの回答を可能な限り響子にとって有難い方向に解釈してくれたらしかった。しかも今度は目撃者のこころではなく、何故か見てない方に挙手してた自分に質問してくれている。しめた!! 響子は可能な限り遠くの地名を思い浮かべ叫んだ。
そして所変わって間欠泉地下センターである。ごうごうと唸る熱気のなかで、カメラに囲まれた響子はこれまでかいたこともない、未知の汗をかいていた。
「現場のはたてです。親切な目撃者のお二人に案内していただき、現在我々は間欠泉地下センターまで来ています。ではさっそくお尋ねします。ここに猿がいる、とのことでしたが?」
マイクはこころに向けられた。響子は何を勘違いしたか、それを向けられたのが自分でないことに一安心してほっと息をついた。茹だるような熱気のなか、こころは瞳を輝かせて全身全霊でリポーターの問いに応じる。
(ここにいます!!!!!!!!!!)
絶句、響子は絶句した。そのとき響子はこころが両手で提げる箱を思わず二度見して、まだ何も解決したわけではないことを瞬く間に思い出した。それどころか、こころは二度目になる“猿はここに居る! 宣言”をしてしまっていたのだ。自分はなにをほっとしていたのだろう。とんでもない、救えない大馬鹿だ! 響子は自分を卑下しながら最悪の未来を想定する。聴衆の前で哨戒部隊長が構える大刀が自分の首に振り下ろされる瞬間/最低の工場長に胡瓜で頬をしばきまわされながら説教される、そんな未来を……! 終わった……っ! 響子は頭を抱えた。
「へえ、やはりいますか。猿は」
おや……? リポーターがおかしい。もしかするとこれは……!
「えー、やっぱり猿はこの間欠泉地下センターにいるようです。じゃあ今度は隣の方にお尋ねします。どこですか、猿は」
ラッキー!!! リポーターはどうやら物凄いおたんちんか弩級のエンターティナーだった。だからやっぱり次は目撃者のこころではなく未知の汗をかきまくり挙動不審な自分に質問してくれている。ここで決める! 響子は可能な限り嘘を疑われない範囲のなかで最も遠い地名を思い浮かべ、叫んだ。
しかし嘘というのは悲しいもので、それは大概その場しのぎ以上の効力を持たなかった。そして嘘は次の嘘を招く。響子の吐いた嘘も同様で、響子は地下センターからロープウェイへ、ロープウェイから廃洋館へ、廃洋館からマヨヒガへ、翻って、やっぱり人里へと……地下センターから逃げた猿はロープウェイを使ったに違いない、ロープウェイを下りた猿は廃洋館に隠れたに違いない、我々が迷子になっているから猿も迷子に違いない、もう夕方だから猿ももといたところに帰っているに違いない……響子は都度とんでもねえ理屈を組み上げてリポーターに嘘を吐いた。人里に戻ってきた響子は頭のなかで次の理屈を組み立てながら、リポーターの次の質問を今や今やと待っていたが、それはリポーターの「休憩入るので」の一声でお蔵入りと相成った。行く先々で猿はここにいると主張する正直者と、弩級の敏腕リポーターと、芋蔓式泥縄発掘術の響子……何が間違っているのか、その判断は今となっては難しい。
そして、現在である。
記憶さえも霞むような真っ赤な夕凪の中。こころは歩きながら、両手で軽々と箱を顔の前まで持ち上げ、憧れのリポーターと施設見学/索道体験/肝試し/迷子を堪能した喜びを猿に聞かせ分かち合っている。対照的に響子はくたくただった。箱の中身はバレずに済んだ。その安心感でいっせいに沸き上がった疲労感が響子の頭を冷やし、自分がやらかした失態、数々の嘘をその頭の中に反復させていた。それは後悔だった。
響子はこれまで嘘をついたことはなかった。聞かれたことに対して誤魔化したり押し黙ったりすることはあっても、あからさまに嘘を吐いてその場をしのいだことなどなかったのだ。響子は烈しい後悔に苛まれていた。それも、あろうことかカメラの前で嘘をつく響子の姿は各家庭のテレビにてオン・ジ・エアーされてしまった。響子の人となりを知らない者なら、テレビのなかの響子の言葉が嘘かどうか判断できないだろう。もしかすると本当の証言をしていると肯定的な見方をしてくれる者も、なかには居たかもしれない。けれど響子が思い浮かべるテレビはただひとつだった。それはあの部屋、淡いピンクのカーテン、黄緑色のラグマット、そして深紅のベッド……ミスティアはソファに座り、呆れかえったようなあの目で、テレビのなかの自分を冷ややかに見つめているに違いない……。イメージは恥ずかしさでかき乱れ、子供の落書きとミスティアの姿が反復して、気付けばまた例のシーンが再生しはじめる。
ねえ、「ねえ、なんか隠してるでしょ」
「別に。なにも隠しやしないよ」それより……
響子は叫びだしたくなった。あの会話、ミスティアの、呆れかえったような、あのつめたい目……。当たり障りの無い言葉でその場をやり過ごすのと、甚だしい嘘でその場をしのぐことに、何の違いがあるだろうか。響子は思わずその場で頭を抱えた。
気付くと響子の前にはこころが(汗)を浮かべ立っていた。その手には例の箱が抱えられている。こころのそれは紛れもなく心配で、こころの持つ箱は直面すべき問題だった。響子はハッと気を持ち直して、こころと、こころの持つ箱についての今後を考え始める。
「なんでもない。ちょっとつかれたかもだけど。それよりさ……その、箱なんだけど」
こころは一瞬ギクッとして(汗)を浮かべて鳴らない下手な口笛を吹き始める。響子としてはこころは紛れもなく友人で、友人の抱える問題を放っておくわけにはいかななった。様々巡って、里に帰ってきてから、この帰路のなかでさえも破壊された囲い、猿の被害は散見された。被害者や野次馬と思しきひとびとが徒党を組んでどこかへ向かっていく様子もあった。それはまさに騒動で、里は山から下りた猿によって確かに混乱しているらしかった。
「その箱……檻の中身……猿のことなんだけど」
こころはたちまち(汗汗汗)と数を増やして、そっぽに向けた口笛で下手なりの『魔王』を奏で始める。こころが箱を持っていることで今後どうなるかはわからない。しかしまったく心配しないことなどできるはずもなかった。響子にとって、こころは紛れもなく友人で、かけがえのない思い出だって、いくつかある。ライブに通ってくれていたこころの姿、『ゴーゴー!響子♡ ゴーゴー!ミスティア♡』の、あのうちわ……かけがえのない思い出たちに紛れて、またあのシーンが明滅を始める。眉をしかめそうになる響子だったが、こころに気取られまいと必死でそれを抑え込んだ。いま向き合うべきは友人の抱える問題で、忌まわしくて恥ずかしくて甚だしい自分の失態などではない。響子は努めて平然と言葉を続けた。
「まあいいけど……って、言ってやれたらいいんだけど」
止まらない追及にこころは括弧も魔王も引っ込めて、俯いて、箱を抱える手にギュっと力を込めた。それはまるで隠し事を守りたがる子供ような手つきで、響子はたちまち居た堪れなくなる。――ねえ、なんか隠してるでしょ。ねえ、ねえ、ねえ……「あーもううるさい!!!!!」
突然こころが叫んだ。「うるさい! うるさすぎるぞ!! おまえは!!!」こころは立てつづけに怒鳴った。こころはおまけに(怒)をたくさん浮かべて、わたしは怒っています、をこれ以上ないほどわかりやすく表明している。響子はあっけにとられて、なんだか開いた口がふさがらなかった。「もう、いいだろ!!! わたしはいま怒ってて、とても説明できる状態じゃない!!」わからないのか! と怒鳴りながら、今度は(怒)を引っ掴んでは響子に向けて投げつける。響子は唖然としながら投げつけられる(怒)をただただ浴び、立ち尽くす。ひとしきり投げたのち、こころはふいと踵を返してずかずかと歩き始めた。
「……帰ったら話す。帰るまでは話さない」
遠くで夕鳴きの屋台がチャルメラを吹いた。無意識でキャッチしていた手元の(怒)がぐいっと響子を引っ張った。慌てて響子が手を離すと(怒)は響子の手元を離れ、こころのもとへすーっと帰っていく。そのさまを呆然と眺めていた響子だったが、ふいに(怒)は止まって(……)と変化し、それから(かえるぞ!)となって、最終的に(はやくこい!)と推移した。なんという一方的なコミュニケーションだろうか。そして(怒!怒!)と変化した感情はこころのもとへ帰っていく。器用なのか、不器用なのか、わからないが。開いた口の塞がらない響子はしばし固まっていたが、すぐにいろいろな感情を一息に吐いて、それから、こころの足跡を辿るのだった。
カラスが数羽の群れになって夕景を滑っていく。(怒)をふりまきながらぷんすかと歩くこころの十五歩手前を響子は歩く。とにかくこころは帰ったら話すし、帰るまでは話さない。その歩調のはやさにはたしかに怒りが感じられたし、付き纏う(怒)には説得力があった。こうなればそれはもう絶対で、響子がいかに言葉を積んだところでこころは口を利かないのだろう。風は無い、夕暮れは凪いでいる。およそ十五歩の距離などは、寺につけば問題にさえならないだろう。響子はもう諦めて、とりとめもなくこころの足音をただただ辿った。記憶さえも霞むような真っ赤な夕凪の中を、ふたりは等間隔で歩き続けた。
『馬』 ③~公園にて
東の空にはすこしダークブルーが滲んでいる。公園のグラウンドに設置された巨大で背の高い照明はあと数刻もしないうちに点灯することだろう。
「ここでね、よく野球するんだ。目の色が違うから、助っ人ガイコクジン……なんだって」
「……そうかい」
相槌を打ちながら、おばちゃんは買ってきたたい焼きを袋から取り出して、ベンチに座る小傘にそのひとつを渡す。それを渡したあと、おばちゃんはよっこいしょをやって、小傘の隣に腰を落ち着けた。
「小傘ちゃん、悪かったよ。おばちゃんちょっとやりすぎた……はいこれも、あったかいから」
「……うん、いただきます」
そういって、小傘はおばちゃんからおしるこも受け取る。一口頬張って、一口飲み込む。たいやきは甘いし、おしるこも甘い。それにどっちもあたたかい。泣きつかれた小傘は不思議な気持ちに包まれた。
あの悲しい捕獲劇のあと、この公園まで走った小傘だったが、それからどうしたらいいかはわからず、結局、着くなり小傘は泣き出してしまった。それから数刻のあいだ、おばちゃんは諫めるでもなく、ただ小傘のそばで、小傘が泣き止むまで一緒にいてくれた。甘いたいやきも温かいおしるこも、小傘にはおばちゃんのやさしさだった。おばちゃんはこんなにやさしい。なのに……小傘はまた泣きそうになる。おばちゃんはバツの悪そうに空を見上げながら、小傘の背中をぽんぽんと強く叩いた。小傘はまた泣いてしまうのをなんとか堪えて、おばちゃんの方を見た。おばちゃんは小傘の視線に気付いているのかいないのか、そっぽを向いてたいやきを片手に咀嚼している。
「ねえ、ねえ……おばちゃん。言ってたよね? お金のためだ、って……」
「……お金って、そんなの。難しくって、いってもわからないでしょう?」
うん……。小傘は俯いて、またたい焼きを一口齧る。難しい話はわからないかもしれないが、それでも、そう語るおばちゃんの瞳はやっぱりかなしそうだった。小傘はたい焼きを齧りながら考える。おしるこも飲む。甘いものは頭にいいと聞いたことがあった。思い出すなり、小傘は一口、もうひとくちと、たいやきを頬張った。小傘は頭の中で、無残に破壊された秘密兵器とカワシロ先生の涙について考える。お金のためなら、しょうがないことなのかな……。小傘はもやもやと、思いつめた表情のまま、考えともつかない考えを真剣になって巡らせた。
おばちゃんもおばちゃんで、そんな小傘をみるのはつらかった。小傘をみると、おばちゃんはいつも嫁いでしまった娘のことを思い出した。今にしても、つらそうな小傘に娘の姿を重ねて、嫁ぎ先で困っていないか、帰りたいと泣いてはしないかと心を痛めていた。
小傘ちゃん……おばちゃんね、娘がいるの。小傘ちゃんはいつもみたいに、わたしおばちゃんよりも年上なんだー! なんて、否定するかもしれないけど。小傘ちゃんと、おんなじくらいの女の子で……。などと、今にも話し出してしまいたいおばちゃんだったが、それをなんとか堪え、おしること一緒に気持ちを押し流した。そんなことを話したら、やさしい小傘のことだから、また、余計に気を使われてしまうかもしれない。それに、小傘はいつもひとりだった。いろんな事情のある子なのかもしれない、おばちゃんは常々小傘が心配で、目が離せなかった。そんな小傘に、これ以上心配をかけるようなことは言えない、言うもんじゃないと、おばちゃんはたいやきをあぐあぐと口いっぱいに頬張った。
それから静かな時間が流れる。どこか遠くでチャルメラがなって、向こうの薄暗い路地には台所の明かりが窓から漏れている。そんなときは決まってカレーの匂いが漂った。郷愁はふたりの肩を黙ったままそっと冷やして、ゆるやかな風となって路地の方へと吹き抜けていった。夕空には薄青が差し込んで、その青にうっすらと月が顔をだしていた。すこし冷えてきた。このまま真剣な表情で唸らせていたら、この子は風邪でも引いてしまうかもしれない。
「帰ろうか、ね。小傘ちゃん……」
小傘は応えない。さっきよりも俯いて、表情はみえないが、どうやらたい焼きを必死に咀嚼しているようだ。「ほんと、悪いことしちゃったねぇ……」口には出さずに、おばちゃんは小傘のリスみたいな頬を眺めながら反省した。しかし眺めていると様子がおかしい。小傘のリスみたいな頬はさらに膨らみ、小傘が頷くたび、またひとつ、もうひとつと膨らんでいった。「ありゃ! そんなにがっついて!」おばちゃんは小傘の片手のおしるこをひったくって、小傘の口元にむりやり押し付ける。「飲みなんせ、あんた飲みなんせ!」小傘はおばちゃんの押し付けるおしるこを無視して、咀嚼をはやめた。「ゆっくり食べるんだよ!」おばちゃんの忠言は公園に響き渡るが、小傘は咀嚼の速度をさらにあげて、よりいっそうあぐあぐとした。どうやらどうしても早くたいやきを飲み下したいようだった。おばちゃんは「あーあー……」と困ったように笑いながら、押し付けるおしるこを諦めて、小傘の嚥下を待つことにした。と思えば「んー! んー!」と小傘はおばちゃんの肩を叩く。言わんこっちゃない! おばちゃんはあばれる小傘の手を掴んで、その手におしるこをしっかりと握らせた。そして小傘は大わらわにおしるこを流し込んだ。ごくごくごく、と勢いよく喉が鳴って、小傘は案の定大きく息をつく。「はぁぁ~~~……ぁぁぁあああ!!」突如大音声をあげる小傘におばちゃんは当惑する。おばちゃんは面食らいながら、どしたの小傘ちゃん、と尋ねようとするも、それはまたしても小傘のそれに遮られる。「ひ、ひ、ひ」今度はなんだ! おばちゃんは身構えた。
「ひ、ひ、ひ……ひらめいた! おばちゃん、わかっちゃったよ……わかっちゃったんだ、わちき!」
あっけにとられるおばちゃんに向けて、小傘は続ける。
「まずね、考えたの! そもそも、なんで、どうして猟友会をいじめたらお金がもらえるのかなって。それと、悪いのはなにかなって。どっちもよくわかんないけど、原因はきっと猿! これは間違いない……自信があるから、絶対!」
ま、まあ。とおばちゃんは丸い目のまま相槌を打つ。しかし小傘はおばちゃんの相槌などないも同然といったふうにしゃべり続けている。
「猿が原因でしょ? そしたら猟友会がでてきて、猟友会のひとたちにいじわるなことをいったら、お金がもらえるんでしょ? だったら……猿を捕まえればもっといっぱいお金がもらえるはず! じゃじゃーん! どうどう? 名案? 名案でしょ? ねえ、おばちゃん! だからさ、一緒に、あの猿を捕まえようよ!」
それは短絡的で、理屈になっていない、いかにも小傘の考えそうなことだった。けれど、おばちゃんは小傘が大好きだった。里で、いつも元気で放っておけない小傘を里のみんなが大好きだった。おばちゃんにしたって、そんな小傘は可愛くって仕方がなかった。――おばちゃんはお金持ちの家に嫁いだ娘が心配で仕方なかった。嫁いだ先でお金のことに困ったり、恥をかいてやしないかと不安で仕方がなかった。ちょっとの仕送りでもしてやれればよかったが、けれど、そんな余裕もなく。心配だ、という理由だけで便りなど送っては、それが娘に恥をかかせることになるかもしれない。なにか、なにかできることはないものか……そんなときに里の掲示板でみかけたのが例の求人だった。『テレビカメラの前で野次を飛ばすだけ!』簡潔すぎる説明と簡単すぎる内容に不安を覚えないおばちゃんではなかったが、それでも、これがすこしでも娘のためになるなら、そう思うと、おばちゃんは止まれなかった。――おばちゃんは小傘の屈託のない笑顔を眺め、諦めたように笑った。
「そうだね。今回はおばちゃん、小傘ちゃんの言う通りにしてみることにするよ」「あー!!!!」
言ってる途中で、小傘はまた声をあげる。「猿いた! 猿いたよ!」驚いて、小傘の指さす方をみやると、薄暗くてわからないが、たしかに猿の影のようなものが、公園のフェンス越しに見えた。「行こう、おばちゃん!」
「走って追って、ふたりで一緒に捕まえよう!」
小傘は駆けだした。同時に、猿の影もささっと動き出す。どうやら本当に猿らしい。おばちゃんは、よっこいしょ、と重たい腰を上げ、小傘の後を追って走り出す。
「小傘ちゃーん! 止まるんじゃないよー! おばちゃんがどんなに遅れても、止まらずに、猿をひったててやるんだ!」
小傘は聞こえてもいない様子で猛然と走った。公園を出て、路地を爆走する小傘の背中は西日で滲んで、おばちゃんの始まりかけの老眼では眩しいし、厳しかった。けれど、おばちゃんも止まらない。西へ、西へと逃げてゆく影は沈みゆく太陽を追う。小傘はその影を追って、おばちゃんはその小傘の背を追った。この物語も終盤に差し掛かっている。
そして、小傘の話は、これで終わりだ。
「あんたたち! あの猿はわたしたちがいただくよ! そしたら賞金、わかってんだろうねー!」「わかってんだろうなー!」
まだ終わらないらしい。
不意の大音声にカメラクルーはあっけにとられる。誰も来なさそうな人里の路地にブルーシートを敷いて休憩中だった一同の横を、なにかがすごい勢いで通り過ぎていった。伝令係から渡された次の原稿をリポーターである姫海棠はたてに渡そうとしていたところだった山童は、呆然としたまま、なかば機械的に「……えっと、これ、次の原稿で」と説明しかける。しかしその言葉は背中に走った強い衝撃に遮られた。「なにぼーっとしてんの、追うわよ!」はたてはそのまま、クルーの手に宙ぶらりんの原稿をひったくって、破り捨てるがはやいか駆け出していた。「あんたたちも! 捨てなさい、そんなもの!」違うブルーシートで編集作業に取り掛かろうとしていたクルーたちも、大慌てで作業を放りだしては駆けだした。「カメラまわして!」その声で、残りのクルーたちも全員カメラを抱えながらに走り出す。
「やっぱそうよね、リポートって! ……そうでなくっちゃ!」
姫海棠はたての瞳には溌剌とした光が宿っていた。
かくして多々良小傘とおばちゃん、そしてワイドショーの一行は逃げる猿を追いかけ、走り出した。太陽は今にも沈んでしまいそうだが、まだ確かにそこで有り難い橙の光を放っている。そことはどこか。無論、西である。今度こそ、小傘の話はこれで終わりだ。
『鳥』 ④ ~自室にて
薄暗い部屋のなか、ミスティアは空腹感に目を覚ました。どうやらすこし眠ってしまっていたようだ。薄ら闇のなか、ソファに寝転んだまま床に手を伸ばして、ぺた、ぺたと物色する。そうしていると見知った冷たさが指に触れた。ミスティアはその感触にうんざりしながらも指をぴんと反らして、その表面を撫でるようにしてなんとか引き寄せ、手のひらに掴んだ。それはもちろんケータイだった。ミスティアはこのケータイに今日一日どれだけ失望させられただろうか。それでも、湿った失望の予感のなかから希望は淡く浮上して、ミスティアにケータイを開かせる。パカ、と乾いた音は空しく響いた。開いた画面の明るさとその眩しさは時刻以外を伝えることはなく、ミスティアは起きて早々苛立ちを感じながら、ソファの端にケータイを放り投げては大きくため息をついた。ぼんやりと、パスタを切らしていることを思い出す。再度ため息は大きく響いた。
「ほんと、バカみたい……」
苛立ちの矛先はテーブルの上に向いた。テレビのリモコンは、ミスティア寝て起きるまでのあいだ、ずっとぽつねんと立ち尽くしているかのようにそこにあって、それ自体がすべて計算かのように、再度ミスティアに電源ボタンを押させてみせた。ミスティアは憤懣やるかたない気持ちでふん、とソファに座りなおして、むすっとした頬を肩肘をついて押しつぶし、焦らすように暗転しているブラウン管を睨みつけた。『――場のはたてです』
『現場のはたてです! お伝えします、事態は急変しました! 野次馬の方たちがこの数刻行方をくらましていた猿を発見し、捕獲に奔走している模様です。我々は出遅れましたが、いまその最後尾にて、たしかに猿の尻尾を捉えています! みえますでしょうか、あれが、今日一日我々を翻弄した、にっくき猿めの尻尾です!』
ミスティアはじっとりと画面を睨みながらも、その表情とは裏腹に、すでにテレビに心を奪われ始めた。なんと簡単な心だろうか、ミスティアは自分を恥じながらも、八つ当たりのような視線を逸らすことはせず、黙って揺れる画面を眺めた。カメラは大きく揺れていて、ブレまくりで、何が映っているのかさえわからない。それは機材の問題かもしれなかった。とにかく、ミスティアはますます苛々した。世界はどうしてこうも、なにかをひとつ伝えるために、要領の得ないことばかりをするのだろうか。テレビ画面の横、部屋の隅っこにはミスティアのギターと響子のベースが仲睦まじげに立てかけられている。
『思えば、私たちは大切なことを見失っていたのかもしれません。リポートとは渡された原稿を読むことでも、追えと言われて猿を追うことでもありません。……まずはみなさまに、今まで謝罪してきたすべてに謝罪します。申し訳ございません。そして、そのうえで、今の謝罪を含めたすべての謝罪を撤回させていただきます。そしてリポートとは、自身の興味を満たすべく自身の興味の赴くままその真相を追及し解明し暴き立て騒ぎ立てることであるとここに表明します』
『ではお騒がせいたします……現場のはたてです! さあ! ご覧になれますでしょうか、あのにっくき猿めの尻尾をば! 我々はこれより、今日一日駆けずり回された私怨、そして事の結末を私利私欲の赴くがままに激写します! スタジオには返しません、絶対絶対、この結末は私が最初に報じます! もう返さないから! 誰ひとり! その画面から! 目を逸らすな!』
リポーターが叫ぶと、カメラのブレはたちまち収まり、その輪郭が見えてくる。前方には大勢の走る野次馬たちと、さらに奥の方、小さな影が鮮明に映し出された。ミスティアの肩肘に少しの力が込められる。画面のなか、次第にカメラはその小さな影にフォーカスして、ズームしていく。「……ばれ、がんばれ」それはミスティアの口から発せられた。ミスティア自身も気づかないほど、ちいさな声だったが、それでも当人は声に気づく。自分はいったい何を応援しているのだろう。また苛立ちは胸のなかに立ち返って、ミスティアをやきもきとさせる。
『前方の野次馬二名はどうやら“賞金”目当てに猿を追っている模様です! 果たして賞金とは一体、いつどこで誰が何のために懸けたものなのでしょうか! それは本当に懸かっているのかどうかすら定かではありません! そして、この猿は! 一貫して西へと向かっています! この先に! 一体なにがあるのでしょうか!』
そして、画面は小さな影を完全に捉えた。それは誰がどうみても猿だった。猿はその四本足で懸命に地を蹴り猛進していた。「がんばれ、がんばれ……!」気付けばミスティアはまたしてもそれを口にした。それは苛立ちだったはずだが、ひとつ呟くごとに少しずつ姿を変えていくようでいて、ミスティアはその正体に引き寄せられるように、言葉を繰り返した。「がんばれ、がんばれ……るな……げるな」言葉の方も、だんだんとより正しい姿に近づいていく。画面はもう完全に猿の弩アップを映し続けている。ときたま振り向いた猿の必死の形相といえば、それは世界の誰にも捉えることはできないような迫力で、ともすれば猿はこのまま誰にも捕まらず、逃げ果せてしまうかもしれなかった。
「……逃げるな、逃げるな!」
ミスティアは居ても立ってもいられずに部屋を飛び出した。真っ暗な部屋の中で、取り残されたテレビは光と音と情報を吐き出し続ける。この暗い部屋を照らすこと、静かな部屋を僅かでも彩ること、すべての暮らしがすこしでも意味と寄り添えるよう、テレビはいつまでも流れ続けた。
『横のクルーから速報です! 猿、この猿は! 命蓮寺方面に向かっているようです! ……はあ!? 返せって? スタジオに? 絶対? 返さなきゃ死ぬって、そんなの……チッ……いっかいだけ返しまーす!』
そこまでを映したのち、テレビは明かりを落とし沈黙した。
テレビの話もこれで終わりだ。
『猟友会』 ⑤ ~ホテルニュー輝針城玄関前にて
なんと綺麗な星空だろうか。青から藍色になりつつある春の空、欠けた月は星々を吹き飛ばすかのように輝いて、三人の頭上にあった。「いいですか? 何事にも節度ってもんがあるんですよ」浴衣姿の射命丸文は空いた片手でなにか上機嫌に手振りをしながら、ふたりに向けて喋っている。
「だいたいねぇ。やりすぎなんですよ、猿も、山も。わかりますか? 五千件のお宅の囲いが破壊されてるんです、逃げてるんですよ、大事な家畜が。捕まえるべきは一匹の猿じゃなくて逃げた家畜たちでしょう、どう考えても!」
まともなことを喋っている文だが、空いていない方のお手手には例のキチガイ水が握りこまれている。それは話を聞くにとりにしても同じで、にとりは組んだ腕の片方に缶ビールを握りこんでいた。にとりは缶ビールを握ったままその人差し指をピンと立てて、椛の視線を誘導する。「わたし、ちょっと考えたんだけどね。この山と、似てるものはないかって」椛は両手で缶ビールを握りこんだまま、にとりの立てる人差し指に夢中になってしまう。「この、山とかけまして、温泉と説く……」椛はたちまち合点のいった表情をして、その心は! と口にした。
「どちらもつかれる(浸かれる/疲れる)でしょう」
椛はパアっと笑顔を咲かせて、文と顔を見合わせた。見合わせたまま、文はやおら頷いては拍手を打ち始める。同時に、椛も文のソレよりも細かく何度も拍手を打った。にとりはまんざらでもなさそうに腕を組んだまま、照れ臭そうに称揚を噛みしめた。
旅館に戻り、温泉に浸かった三人は例のごとくそれをおっぱじめてしまっていた。しばしにとりの“ちょっと考えたんだけどね”に放心していた椛だったが、缶ビールに一口つけると気を持ち直してにとりに尋ねた。
「それで、なんのはなしでしたっけ?」
「山はさいてーってはなし!」
言ったあと、にとりは椛に向けて“ああ、言っちゃった!”の顔を作る。すると、椛も“あっ! 言っちゃいましたね!”の顔を作って、ふたりはその顔を見合わせては大爆笑して手をはたきはじめる。ふたりの世界が始まってしまう予感をいち早く察知していた文はもう新しい話相手をみつけて、勝手にしゃべり続けていた。
「猿の一匹を取り逃せば処刑である、ですとか。死ぬまで地下工場に軟禁である、ですとか。極端なんですよ、ないんですよ節度が。我々を見習っていただきたいものです……節度があればなんでもできる。節度があれば、この夜のうち猿だってつかまえられる……ねえ?」
ねえ? と問いかけた先にあるのは巨木だ。文は木に向かって話していた。無論返事はない。にとりと椛はふたりの世界の中で、言っちゃいけないことのライン上を反復横跳びしてはしゃいでいる。三人がまた三匹へと魂のステージを降ったのには理由がある。しかしもう理由は説明しない。もういいだろう。とにかく三匹はこの夜のうちに猿を捕まえてしまおうと決めていた。猿の行方はわからなかったが、失せ物は探すよりも待つ方が見つかるものだ、と誰かの名案が飛び出して、三匹はホテルの玄関前で飲み明かすことに決めたのだった。ホテル近辺は林で囲まれていたし、動物の気配だって結構するし、宵の口に呑む酒はうまいし、猿もきっと来てくれるに違いないのである。
突如として浴衣姿の三匹の前を小さな影が横切った。――ほら!――けれども三匹はこともあろうに各々笑いあったり喋りまくったりしていたから、それを見逃してしまう。小さな影はお気づきの通り猿で、猿が通れば、次に来るのはそれを追うもの達だ。「待ーてー!」どこで拾ったか虫取り網を構えた多々良小傘がホテルの前を横切っていく。「待ーーてーー!」多々良小傘が奏でる緩やかなドップラー効果に、文はピクリと反応した。「あれ。いまなにか……」振り向けど、そこにあるのは笑いまくるにとりと椛の世界のみだ。文は気を取り直して巨木へと向き直る。それでですね……口を開きかけた文だが、それは小傘の後続によって遮られる。
「小傘ちゃん!!!! 止まるんじゃないよォ!!! いま増援を呼ぶからねぇ!!!!」
遅れるどころかこのまま行けば堂々三位のダークホースな健脚おばちゃんの大音声に、三匹は否応なしにハッとする。「いまなんか聞こえた?」しかしハッとするのみに留まり、事の自覚には至らなかった。残念だ。瞬間、ぴぃぃぃぃぃぃと指笛が響き渡る。それは通り過ぎていったおばちゃんの指笛で、里まで届くような芯の通った音色だった。三人は狐に抓まれたような顔をしてきょとん、と見合わせた。そして静寂が辺りを包む。にとりは何かに気がついたか、気がついていないのか、とにかくハッとして、おもむろに口を開く。「……ヘンな鳥!」無念だ。三人は手を叩いて笑いあった。
しかし、おばちゃんの指笛がもたらしたのは三匹のバカな勘違いだけではない。それは地響きだった。三匹は各々笑いを引っ込めて、周囲を見渡す。低く響きわたるその音はホテルの東側からすごい速さで接近しているようだ。それは足音だった。無数の足音が、木々さえなぎ倒すような勢いで迫った。
「う、うわああああああ!」
それとはまったく関係なしに、にとりは近くの茂みから飛び出してきたでっかいブタに吹っ飛ばされた。そのまま半回転して、服の襟がブタの尻尾に引っかかる。でっかいブタはお構いなしににとりを引きずったまま猛スピードで爆走する。そして無数の足音はようやく場面に追いついてくる。「指笛はこっちからだ!」「あのブタを追え!」「追いつくぞ!」それはかの捕獲劇で小傘やおばちゃんと共に野次を飛ばした三人だった。三人はいつも仲良く小傘を助けた。「わんわん!」犬もいる。ところでこの三人と一匹の足の数は合わせて十本、走っているから速度をかけてニ十本、そこに友情パワーが加わると数えきれない数になる。まさしく無数の足音は土埃を撒きながら、ホテルニュー輝針城玄関前を駆け抜けていった。
「射命丸、椛ぃ! このブタを撃て! 撃ち殺せ! いますぐ撃って、わたしをたすけろ!」
唖然とする文と椛はまたまた顔を見合わせる。にとりの悲鳴が遠く離れて行く。「みました?」文がいうと、椛は合点のいった面持ちをして、確かめるように何度も頷いた。「でっかい、でっかいブタ……!」何が面白いのかはわからないが、ふたりはげらげらと笑い始めた。こういうのは酔っ払いで合ってるのだろうか。甚だ疑問である。また、ドタバタと足音がなる。それははたて率いる中継隊で、先頭のカメラを抱えた山童が馬鹿笑いの二人に気がついてそれを白眼視する。それまでは先の面々に追いつこうと走っていた山童はふいと足を向け、ゆっくりとカメラを動かす。馬鹿笑いの猟友会を映してしまおうというのだ。いいぞ、やってしまえ! 誰もがそう思ったが、一寸遅れてやってきた姫海棠はたての手のひらがレンズを覆った。はたてはぜえはあ、と息を切らせながら、ふたりを睨みつけている。文と椛は見知った顔の登場に思わず笑いを引っ込めて、またまた何かを確認しあうように、視線を、互いの顔と息絶え絶えのはたてを交互する。先に口を切ったのは文だった。「これはみえてますか?」椛は今にも笑い出しそうになりながら「みえてます、みえてます……!」と文に応える。はたては怒りで爆発しそうになった。クルーの一人がはたてにバケツを手渡す。
「あんたたちも、早く走れ!」
はたてはバケツいっぱいの水をぶっかけて、クルーたちと猿のあとを追う。ホテルニュー輝針城玄関前に取り残さたふたりも我に返り、ようやく走り出した。
「う、うわああああああああ!!!」
にとりの悲鳴が響く。でっかいブタはおばちゃんを追い抜き、小傘を追い抜いて、ものすごい速さで猿に迫った。でっかいブタに気がついた猿は腕一本で後転して、流暢にブタの背にまたがってみせる。猿を背にしてもブタは意に介さず暴走を続ける。「ま、待ってよー! 乗り物なんて卑怯だよー!」言いながらも、小傘は必死に食らいついた。小傘のすぐ後ろでおばちゃんが叫ぶ。
「小傘ちゃん、気を付けるんだよ! その先は階段だから!」
「か、か、階段!?」
驚愕したのはにとりだった。にとりは引き回されながら引っかかった襟を外そうと四苦八苦するも、でっかいブタの尻尾はくるんと丸まって、しっかりとにとりの襟を巻き込み固定していた。にとりはあまりの事態に愕然とした。ブタがこの速度で階段を駆けあがったらきっと体が弾け飛んでしまうのではないか。にとりの恐怖とは裏腹に、またがった猿はブタの腹を足で挟むように叩いて加速を促している。「や、やめろ!」懇願に猿は振り向いて、にとりの顔をじっと見つめた。「や、やめろよ……」猿はふいと前方に向き直って首を傾げて、またブタの腹を足で叩いた。ブタは加速した。「う、うわああああああああああ!!!!!」悲鳴と共に、猿と豚と河童は大階段へと突入した。一寸の間を置かずに小傘も階段を駆け上がり、おばちゃんも続いた。「おばちゃんに続け!」「ああ!」野次馬たちも間髪入れずに叫ぶ。「わんわん!」犬も吠える。そしてカメラクルーその後方から、怒涛の追い上げをみせるものがいた。
「わ、わ、忘れてました! 自分にもう、あとがないって!」
くああ、であるとかくおお、であるとか、うめき声をあげながら、射命丸文は運動不足に軋む体を前へ前へと運んだ。クルーを追い抜き、野次馬を追い抜いて、文はおばちゃんと肩を並べた。「やるじゃないか! 猟友会の!」すこし距離を置いて、犬走椛は幾分余裕そうな足取りで文の後ろを走っていた。結局、クビを免れるためには文自身がカメラの前で猿を捕獲するしかない。哨戒で体力に自信のある椛ならブタに追いつくことも可能だったかもしれないが、今出来るのは、そばで応援することだけだった。
「ご覧ください! 猿、ブタ、河童。続いて虫取り網を持った女の子、猟友会の秘密兵器を破壊したおばちゃん、そして野次馬の方々が凄まじい勢いで命蓮寺へ続く大階段を駆け上っていきます! 我々も必死に食らいついておりますが、すべてをこのカメラで捉えるのは難しいでしょう! しかしながら、そのうえで、カメラは、私は! すべてを捉え、この状況を皆様に正確に届けることを約束します!」
ブタは爆走し、猿は逃げる。河童は階段を引き摺られながら昇っていく。小傘は虫取り網を振り回しながらそれを追い、おばちゃんは射命丸文に抜かれまいとペースを速め、文も張り合うかのように脚を動かす。野次馬たちも負けじと走り、犬も夢中になって駆け上がる。クルーたちはカメラを振り乱しながらぴったりと追従して、はたてもクルーから奪ったカメラで状況を激写している。階段上でデッドヒートする逃走劇はじきに終わる。爆走するブタ、鞭打つ猿、引き摺られる河童の奥に、うっすらと命蓮寺の巨大な門がみえてきた。遠景、石段の手前に立ち尽くす者がいた。「私も……私だって!」ミスティアローレライだった。ミスティアは逃げる猿と追う全員を石段の下から睥睨し、すぐに追いつく、と言わんばかりに力を込めて石段を駆け上がった。
小傘は逃げる猿の速さに泣きそうになっていた。もし猿を捕まえられなかったら、おばちゃんがまた悲しむかもしれない。しかし泣いていたって猿には追い付かない。小傘は涙を堪えながら、それでも走った。
おばちゃんは文と張り合いながら、そんな小傘のいじましい背中に胸がいっぱいだった。もう猿が捕まらなかったとしても、おばちゃんは満足だった。これが終わればきっと娘に便りを書こうと決めていた。ただ残したくないのは後悔と、小傘の泣き顔だった。そのためには猟友会に道を譲るわけにはいかない。おばちゃんは軋むボディに鞭を打ち走った。小傘に追いつき、励ましてやるために。ただ走った。
文は必死だった。ここで猿を逃がせば自分以外にもきっとその累は及ぶ。どこかにいるという替え玉の猿や、後ろでリポートし続けるはたてのこと。しかし文はもう自分の心配が第一で、なりふり構っていられなかった。クビなのだ。猿を捕まえられなければ、もうみんなと対等に笑いあうことさえもできなくなる。自分の問題にケリをつけるのは自分でなければならない。振り向くと、椛は頑張りましょう、とほほ笑んだ。文はやにわに脚を動かした。
はたてはクルーや野次馬たちに揉まれながら、カメラを抱えながら懸命に走った。数刻前までの忸怩たる思いは完全に消えうせて、胸中にあった自分を振り回した猿への私怨と嘘ばかり読ませる山への不満はとっくに爆発して、すべてはリポートのための原動力になっていた。テレビ局に配属されたばかりの、あのキラキラとした気持ちがはたての中を駆け巡っている。もう何があってもカメラとマイクは手放さない、すべてを思うがまま、お茶の間の円卓の上に暴き立て挙げ連ねてやる。はたては決心のまま石段を駆け上がった。
ミスティアはそれらすべてに追いつくべく走った。伝えたいことがあるのに自室に籠って、画面を見ているだけの時間はもうたくさんだった。何かを伝えたいのなら走ればよかった。いつか画面に映るかもしれない受信メールや堂々の捕獲劇を眺めたって救われない。響子がどこにいるのかなんて、ミスティアには初めからわかっていたのだ。ミスティアは走った。猿に、ブタに、河童に、野次馬に、カメラに追いつくため、眺めるだけだったすべての今日に追いつくために、猛然と走った。
独走を続ける猿は振り向いて、自分を追う全員をたしかめるように眺めまわして、また前へと向き直る。猿は口をいの字に広げて、急かすようにまたブタを蹴り上げる。命蓮寺の巨大な門が見えてくる。捕まるわけにはいかなかった。矢庭にブタの腹を蹴ってまたスピードを速める。向かうは命蓮寺、その蓮池に。
「ひ、ひえええ」
河童は体が弾け飛びそうだった。
『猿』 ~命蓮寺境内、蓮池にて
時を同じくして夕食を摂る者たちがいる。陽の暮れた今なら蛍光灯は本領を発揮して、リビングをまさに明るく照らしていた。
そんな食卓を六つの椅子が囲んでいる。それぞれに腰を落ち着ける六人は各々に箸を動かして、またまたおかずを取り合っていた。「すくないんだけど、私のミートボール」言いながら、封獣ぬえは不満げに箸を突き刺して、少なくなったミートボールを心ばかり独占する。「帰ってこないやつが悪い、戦いなんだ。飯ってのは」村紗水蜜はお玉を用いて、スープジャーからカレーをよそいまくった。「落ち着いて食べなさいよ、子供じゃないんだから」悠然とエビフライを貪りながら、雲居一輪は次のエビフライに箸を伸ばす。「あら、あら」聖白蓮は例の温和な笑みでそれらを見守り、誰の邪魔を入れることなく、滑らかな所作でもって三角食べを行使し続けている。そんななか、寅丸星は押し黙って、隣の席から絶え間なく浴びせられる小言に震えながら、遠慮がちに福神漬けを咀嚼していた。
「たまに呼ばれたと思ったら、これだ! どういうつもりだ? 全部みつけてくださいっていうのは。なんだ全部とは。全部失くすな! そんな量の失くし物をまとめて解決させようとするな! 小分けにして呼べ、もっと云うなら小分けで失くせ、願わくば小分けなドジであれ。……怒られてるときはおかわりするな!」
「ううう、ごめんなさい……」
寅丸は米を「やめろ」よそいながら「よそうな!」謝罪を繰言にする。こういった団欒にはテレビの音はつきもので、慌ただしい団欒のなか、雲山はため息をつきながらリモコンを弄った。チャンネルとチャンネルの間にただの雑音と心地良い雑音を隔てる壁があり、雲山は命蓮寺の中ではいっとう心地良い方の雑音を拾うのがうまい、と自負していた。まとまりのない団欒も、その雑音さえあればなんとはなしに調和して、のどかな暮らしの一部になる。雲山はピコピコとリモコンを押して、チャンネルからチャンネルへと跨いでいく。そしてビタっとはまった。揺れるカメラの右上に『突撃リポート! 捕獲劇、ついに幕が……?』のテロップ。それはお昼からぶち抜きで報道されつづけたワイドショーの終幕だった。
『ご覧になれますでしょうか、あろうことが猿はでっかいブタに跨り、流暢に乗りこなしている模様です! 誰か引き摺られています! 聞こえますでしょうか、この悲鳴が! どうやらブタの尻尾に襟がひっかかって、そのまま石段をずるずると、がたがたと引き回されている模様です!』
目減りしたおかずにぶー垂れる鵺と悪びれる寅丸、叱り続けるナズーリンと三角食べの聖白蓮……初めに気がついたのは村紗だった。
「あれ、この階段……」
呟けど命蓮寺の団欒は続く。画面のなか、カメラはリポーターの歩調に合わせて激しく上下して、リポーターは息も切れ切れにリポートし続ける。『このまま行くと、暴走するブタは猿とともに命蓮寺に……「貸して!」あっちょっとカメラ!』しかしふいにカメラはぐわんと半回転する。誰かがカメラを奪ったようだ。カメラはしばらくのあいだ激しく動いて、奪い取った者の衣服や肩を映した。次第に焦点が合わさって、誰かの口元がどアップで映し出される。そしてどアップになった口元が開く。『ねえ! みてるよね、響子!』テレビから聞こえたその名前に、その場の誰もが箸を止めた。そして否応なくテレビ画面を注視する。
『響子! 私、考えたんだけど! ずっと、考えたんだけど! やっぱり変だと思った! 私が謝るのって、違うなって思った! だから行くから! いるんだよね命蓮寺に! 私行くから、そこで待ってて! 会ったらちゃんと、謝って!』
それは大好きだよ、響子! と続いて、お茶の間を凍り付かせる。リポーターはなんとかカメラを取り返して大変失礼しましたなどと謝罪を述べているが遅かった。ぬえと一輪はあっけにとられて箸の上からおかずを落としたし、寅丸と村紗は何が起きたかわからないの顔でぽかんとして、雲山とナズーリンはとんでもないドキュメンタリーに赤面する顔の目以外を両手で覆って隠していた。門の方からけたたましい破壊音が響く。聖白蓮は箸を止め、あら、あら、と云った。
そして境内、寺の一番奥にある蓮池の裏側に響子とこころは居た。居間で放送された赤面モノはつゆ知らず、響子は檻の中の猿にこころとふたりで餌をやっていた。ふたりは日暮れ、命蓮寺に帰ってきたはいいが夕食時のナズーリンに“箱”が見つかったら面倒だと考え、食べてきたから、でもって夕食を回避していたのだ。かといって、宝物庫も寝室も隠れるには距離が近すぎる気がして、ふたりはできるだけリビングから離れた蓮池のその裏側に屈みこみ、抱えた秘密を明かしあっていたというわけだ。
「結局どういうわけさ。この猿ちゃんは」
帰ったら話す、そう言ったからにはこころは懸命に説明に励んだ。猿にトマトをやりながら、響子に対して(説明)(猿)(悲)(嬉)(涙)(涙涙涙)と説明を重ねている。「わかんないって」響子が笑うと、こころは(怒怒怒)を浮かべてみせる。「まあいいけどさ」そういって、響子はポケットから冷蔵庫からくすねてきたトマトを取り出した。ミニじゃなく、でっかい方のトマトだった。たちまち(驚!)と反応するこころに、響子は言われるまでもなくトマトを渡す。こころは檻にトマトを近づけるが、でっかいトマトは檻の隙間に通らなかった。開けてやりな、と響子が言うと、こころはせわしなく鍵を取り出し、興奮気味に檻に鍵を差し込んだ。その瞬間、檻から猿が飛び出した。
「猿はあそこだ!!! あんたたち!!! 捕まえなァ!!!」
響子とこころは突然の大音声に思わずすくみあがった。「あっ……」そのすきに、檻から飛び出した猿はこころの持つトマトのわきをすり抜けていく。縁側の方からおびただしい足音がなって、途端に迫る。響子が焦って立ち上がると、そこには見知らぬ大群が必死の形相でなにかを追いかけている姿があった。響子は面食らってその場に立ち尽くした。
先頭にはブタがいて、ブタの上には猿が居た。ブタは境内を爆走し、そして縁側に飛び乗って廊下を爆走しながら響子の方へと迫った。「ひ、ひえええ」引き回されっぱなしの河童もいる。そして大勢はブタの後を追って命蓮寺の廊下にけたたましい足音を響かせた。
「待て! 待ってよ! まってくれないと、おばちゃんが、おばちゃんが困っちゃうんだよー!」
「クビが、クビがかかってるんです! 私が捕まえないとダメなんです! だから!」
「知ったこっちゃないよアンタ! どうせアンタの行いが招いた結果だろう!! 私と小傘ちゃんの邪魔をするんじゃないよ!!」
目に涙を浮かべながら虫取り網を振り回している多々良小傘の姿があった。もうあとがない必死な射命丸文の姿があった。射命丸文の服を引っ掴み手柄を譲らんとするおばちゃんの姿があった。ブタは爆走し、猿は逃げる。それを一緒くたになって大勢がひしめくから、廊下はさながら百鬼夜行の一枚絵のようであった。
「みなさん、池がありますよ! あそこに猿を誘導して、囲い込んで捕まえましょう!」
「仕掛けるぞお前ら!」「合点だ!」「わんわん!」
「我々は現在命蓮寺の縁側沿いを爆走しております、ご覧ください! あっけにとられて何がなんやらわからない、と言いたげ食卓の方々、その表情を!」
友人を助けるためか的確に指示を飛ばす犬走椛の姿があった。一致団結して陣を組む野次馬たちの姿があった。団欒を意外な形で突撃リポートするはたての姿もあった。けれど、響子が金縛りのごとくその場を動けないのは、その中に紛れるただひとりのせいだった。「う、うわああああああ!!!」縁側の切れ目まで走って、段差を下りるのに失敗したブタはにとりとともに吹き飛んでいく。猿は鋭敏にブタから飛び降りて、蓮池の方に走り出す。
「響子! やっと、やっと見つけた、やっと会えた! 待っててね、今行くから! そこからもう、一歩も動くな!」
器用に方向転換した猿を追って、誰もが縁側から駆け降りていく。響子の足は地面にピッタリと固定されてしまう。その足元から一匹が蓮池の正面へと飛び出して行く。野次馬たちはブタよろしく段差を下りるのに失敗して転げ飛んだ。猿は蓮池の向こうにもう一匹の猿をみつけ、途端に加速する。「飛びますか、あの猿は!」椛が叫んだ。蓮池の端に急接近して、猿は今にも飛び跳ねそうでいた!「さ、させるかーーー!」小傘は走って、思いっきり振りかぶった網を猿めがけて振り下ろす。しかし網は惜しくも空を切って、蓮池の石囲いをこつん、と鳴らす。「小傘ちゃん!」おばちゃんが叫ぶも、猿はもう跳躍してしまっていた。「いやなんです! クビだけは!」勢いで崩れこんだ小傘の上を射命丸文が飛んだ。文は池に落ちるのを覚悟で猿を捕まえるべく跳んだのだ。しかし、猿は空中で飛び込んできた文の頭を振り向きもせずに足蹴にして、また跳んだ。「響子!」そしてミスティアは崩れこむ小傘を背を跳ねつけ、あとは蓮池に落下するだけの文を踏み台にしてさらに跳ぶ。「あんたたちも跳びなさい!」はたてはその瞬間を撮り逃すまいとカメラクルーをけしかける。
猿は跳んだ。ミスティアも跳んだ。踏まれた小傘はぐええと膝をつき、後ろでは石囲いつんのめったクルーたちが押し合ったりへし合ったりしている。空中で踏み台にされた文はぐええを発音する間もなくあとコンマ何秒をかけずに池に落下するだろう。廊下の曲がり角では困り顔の聖白蓮を筆頭に命蓮寺の面々がその瞬間を物珍し気に眺めていた。響子は驚きながらも大ジャンプのミスティアの落下地点にて大慌てで両手を広げている。
「あらら」
聖白蓮の一声で世界は速度を取り戻し、文は勢いよく池に落下した。押し合いへし合いのクルーたちも次々と池に落ちていく。響子めがけて勢いよく飛んだミスティアは見事に響子の胸へ衝突し、ふたりはそのまま勢いよく転げ飛んで行く。猿はそんな面々を尻目に、リボンを付けた猿の手を引いて塀に飛び乗って、二匹はそのまま山の端に光る月の方へと消えていく。姫海棠はたては呆然とそのカメラを構えていたが、やがておもむろに口を切った。
「……な、なんということでしょうか! またもや、またもや猿を! 取り逃しました!」
カメラの先、池に落ちたクルーたちとずぶぬれの文を、土埃だらけのにとりが指をさして爆笑していた。「ひー、ず、ずぶ濡れ! おもしろすぎる、ひえー!」 ともかく無事だったにとりに椛は安堵の息をついてから、一緒になって笑い始めた。「ぐ、ぐわああああ!」転がる響子とミスティアの勢いはこころの足元まで転がりこんで、やっと止まった。仰向けになった響子にミスティアが覆いかぶさるような形で、ふたりはそのまま見つめ合った。「……ねえ、テレビみてた?」やおら口を開いたふたりは同じ言葉を口にする。え! 映ってたの! と互いに素っ頓狂をやるふたりには目もくれず、こころは足元のからっぽになった檻の前に突っ伏して(涙涙涙涙涙)と号泣していた。からっぽの檻の脇、手のついていないトマトを拾い上げながら村紗は突っ伏したこころの傍にしゃがみ込む。「……お前も、そろそろ帰れ!」そういってげんこをぶたれたこころはますます泣いて(嫌無理涙涙涙!)と駄々をこねるから、遠くで見ていた命蓮寺の全員が、仕方ないといったふうにこころのもとに駆け寄ってくる。ミスティアは響子に覆いかぶさったまま響子に尋ねる。「ねえ。みんなが来ちゃう前にさ。私に言わなきゃいけないこと、あるんじゃない?……あっ、ちょっと!」響子はミスティアをどかして「帰ったら話すよ」と言って笑いながら逃げ出した。雲居一輪はなんだかよくわからないが逃すまいと、すれ違う響子の袖を掴んだ。
「ご覧ください! このずぶ濡れのクルーたちと、泣きじゃくる野次馬の方を!」
そんなやり取りとは別に蓮池の前では猿を取り逃した小傘とおばちゃんが抱き合いながら泣いていた。
「ううぅ。猿逃がしちゃったよう、ごめんね、ごめんねおばちゃん……!」
「いいんだよ、小傘ちゃん! いらないよ、くだらないバイト代なんて! 小傘ちゃんから、もう充分もらったんだから!」
くだらないバイト代とはどういうことでしょうか! リポートを続けるはたてを尻目に、椛は秘密兵器を壊した張本人を見つけ今にも襲い掛かりそうなにとりを精一杯押さえつけていた。蓮池のなか機材の故障に慌てふためくカメラクルーたちに紛れて、文もこっそり涙ぐんでいたが、ずぶ濡れが幸いして、誰にも気付かれることはなかった。そうして、しばらくの間命蓮寺の境内は騒がしさに包まれていたが、そのうちにやってきた突然の雷鳴と土砂降りの通り雨で各々は散り散りになって帰っていった。
猟友会の三人は今度こそ浴衣を着替えるべくホテルへと、響子とミスティアは自分たちの家へと、こころはやってきた為政者に連れられて道観へ、小傘とおばちゃんは自宅のある人里へと。……はたて率いる報道隊はお山に叱られるために威勢よく局までを歩き果せた。しかし山も山で大混乱だった。読まされた原稿、くだらないバイト代、偽物の猟友会等々。はたてが電波に乗せた数々の言葉たちは局内外で波紋を呼んで、ひとまずはたてや文の処遇に取り合えるほどの暇はなさそうだった。
猿がどうして里に下りたのか、もう一匹の猿は何時何処で誰が如何して捕まえたのか、猿たちがあれからどこへ行ったのか。すべては時とともに聴衆の関心が薄れるにつれ、話題にさえあがらなくなっていった。しかし混乱に責任というのは付き物で、後日の突撃取材で豊聡耳神子との癒着を剔抉されたお山は、守矢もろともを巻き込んでの謝罪説明をする羽目になった。今はまだ確かではないが、くだらないバイト代は口封じという形でおばちゃんに手渡されることだろう。ともかくとして、猿の騒動は無事終結した。あの夜の雨があがって以来、里は連日のカンカン照りで、誰もが陽射しの下で懸命に暮らしていた。
射命丸文は白昼の里を駆け回っていた。猟友会が解体された直後、はたてが口走った数々の衝撃に山は震えて、その影響で文の処遇は曖昧になっていた。文は息を切らして走り回る。いつお山が思い出したかのように「お前クビ」と言ってくるかわからない。そうなる前の今のうちに大ネタを掴み、なんとか手柄を立てなければ。そういえば向こうの路地に育てていた事件があったような気がする。文は踵を返して路地へと向かった。
「あれ? 文さんじゃないですか。どうしたんですか、慌てて」
途中でばったりと出くわしたのは犬走椛だった。椛は哨戒の最中のようで、正装をして大刀をヤンキーの釘バットのように構えて辺りを無自覚に威圧しまくっていた。いろんな仕事がある。椛はこれで哨戒部隊長としての務めを果たしているのだろう。
「ああ、いや? なんでもありませんけど」
しかし文は威圧感のある椛の出で立ちにこれ以上なく狼狽した。走っているのを捕まった人間が「なんでもない」と口走ったら、そんなの十中八九嘘だし、それは人間ではなく鴉天狗に場合も同じことがいえる。運動後の汗とは種類の違う汗をかきまくる文を見咎め、椛は「なんか、怪しいですね」と大刀をちらつかせる。「記事を書こうかなって。だから急いで帰ろうかなって、思ってたんです」縮こまりながら文が言うと、椛はしばしの逡巡のあと「……まあ、いいでしょう」と解放した。文は、へへへ、ありがとうございます、でもってその場を離れようとそそくさを開始する。
「椛、そいつに騙されるな!」
しかし不意に現れた河城にとりがそれを止めた。「にとりさん、どういうことですか!」文の肝は快晴のもと冷えに冷えまくった。工場から抜けてきたのか、にとりは汚れたつなぎを着て、持ってきたスパナで文の顔をビシッと指して話し始めた。
「椛、覚えてるかな。そいつがわたしたちの家財を少しずつ盗んで売り払ってたこと。実はいま、工場の若いやつらと喋ってたんだけど、聞くとどうやら、そいつの家からも少しずつ家財が消えてたらしいんだ。わたし、おかしいなって思って。ヘンだなって思って、里に出てきて聞き込みをした。そしたらどうだ! 里のみんなの家財も、少しずつ消えてたそうなんだよ!」
文はすわ逃げ出した。
「あっ、こら! 待ってください文さん!」
「さんなんて付けなくていい! かならず捕まえて、ふたりでするぞ! 処刑!」
煌々と照り付ける太陽のもと、文は走った。にとりと椛はどこまでも追って、それは日が暮れるまで続くだろう。
時を同じくして昼食を摂るふたりがいる。それはプチ家出から戻った響子と連れ戻したミスティアのふたりだった。開いた窓から風が吹き込んでカーテンが揺れる。響子はキッチンからパスタの乗った皿を二枚運んで、テーブルの上に乗せ、それからソファに座るミスティアの隣に腰かけた。ミスティアは無言で、すすす、と距離を取ってしまいにはソファから立ち上がり、わざわざ対面に移動して腰を下ろした。響子は頭を抱えたくなった。あの日、ふたりで家に帰ってきてからというものミスティアは口を利かなかった。正確には響子の“隠し事”を聞いてから、ミスティアはまるで押し黙ってしまったのだ。
あの日以降壊れて付かなくなったテレビ画面と、押し黙って何も言わないミスティアとが響子の視界を支配した。響子の脳内を後悔が支配する。やはりあんなこと、言うべきではなかった! 響子がミスティアに告白した“隠し事”はここで書くにはあまりにも恥ずかしい内容なので割愛するが、とにかくミスティアにはとんでもない衝撃を与えたようだった。それを聞いたときミスティアは赤面して、返答に窮して、それからというものずっと同じように押し黙っていた。
ミスティアはソファに座る響子とその向こうにある真っ赤なベッドをみて、また赤面して俯いた。あの日連れ帰った響子から聞き出した“隠し事”は未だにミスティアにたしかなダメージを与え続けていた。まさかあんなことを言われるなんて! ミスティアは響子に告げられた“あんなこと”を思い出すとまた顔が熱くなるのを感じた。また風が吹いて、カーテンが揺れる。風はときに静寂を際立たせるし、いまにしたってそうだった。
「まあ、食べようよ。冷めちゃうし」
気まずいような恥ずかしいような沈黙を破るのは響子のなんでもなさそうな声だった。ミスティアはハッとして顔をあげる。しかしそうすると、また響子とあのベッドが両方視界に飛び込んでくるから、ミスティアは慌てて俯いた。
「その。もしかしてだけど……気にしてる? こないだの、あの……」
言い淀む響子に、ミスティアは無言のままこくり、と頷いた。すると響子はあからさまに動揺して、またしどろもどろに言葉を紡いだ。それは、いや、であるとか、あのその、であるとか、言葉ともつかない言葉が吐き出され続けたが、次第に落ち着いて、諦めたようにゆっくりと口を開いた。
「あれは、その……食べ終わってから話すのは、どう?」
ミスティアはまたこくり、と頷いた。そうして二人は手を合わせて、いただきますを小声で重ねた。あの日の響子の隠し事は言うなれば問いかけであり、それ以降、まるであの日とは真逆に、押し黙るミスティアの返事を響子が待っていた次第である。しかしそれも今日までだ。恐らく響子とミスティアのあいだに横たわるなんらかは食事のあと、なんらかの形でもって進展するのだろう。
カーテンは風に靡いて、部屋には真昼間の光量が溌剌と満ちていた。広いワンルーム、フローリングに敷かれた円形のラグマットは暖かな黄緑色をして、淡いピンクのカーテンとの調和を為している。しかし部屋の隅で重々しい存在感を放つ深紅のベッドがなんとも恥ずかしい感じの二人であった。
「あのベッド売ろうよ。質屋に」
パスタを食べながら、ミスティアは何度も頷いた。
同時刻、昼食を摂り終えた円卓を囲むのは小傘とおばちゃんだった。畳は荒れている、おばちゃんの部屋だった。おばちゃんは低いテーブルの上に置かれた白紙を前に、むむむと唸っている。小傘はおばちゃんの背中を叩いて、おばちゃんの目の前に筆をバンと置いた。
「おばちゃん、今日こそは完成させようね! じゃないとお金、腐っちゃうよ」
「お金は腐りゃしないよ! でもねえ……」
おばちゃんは白紙と、その横で束になる紙幣を見比べてため息を吐いた。おばちゃんと小傘にはあの日のくだらないバイトの口止め料として、多額の賄賂が贈られていた。口止めもなにも、テレビでオンジエア―されるのをわかって野次を飛ばしていた二人には後ろ暗いところもない。二人は大喜びでそれを受け取り、その使い道を考えた。大半は小傘が滞納した水道代や光熱費に消えたが、残りのお金は嫁いでしまったおばちゃんの娘宛のお便りに包んで贈ろうという話になった。それは事情を知った小傘の提案だったし、おばちゃんは喜んでそうすることにした。しかし、あれから幾日が立つ今でも、そのお便りが郵送されることはなかった。
「恥ずかしいってなんなのさ! 娘さん喜ぶよ、おばちゃんからお便りきたら、絶対! お金まで包むんだもん、そんなの貰ったら、娘じゃないわたしだって嬉しいよ。だから、絶対喜ぶ!」
「そりゃあ、そうだろうけどねぇ……」
おばちゃんはどうしても恥ずかしかった。もしかするとあの一部始終はテレビで見られてしまっているかもしれないし、見られていなかったとしても、今更手紙なんて、何を書けばいいかわからなかったのだ。そんな具合で筆を執れどどうしたって文面には照れが滲んだ。来る日も来る日も出来上がった手紙を破って、小傘はそれを拾い集める。そのうちに貰った賄賂は手紙代に掻き消えてしまうかもしれない。
「じゃあもう、わたしが書くから!」
「ああ、待ちなよ! そんな急かすもんじゃないよ、まったく……」
ひび割れた窓から隙間風や陽射しが舞い込んで、狭い畳には笑顔が満ちていた。二人の声は窓から響いて、それを聞きつけた犬が鳴き、また、その鳴き声を聞きつけた誰かしらを笑顔に変えた。畳の上、白紙を前に、おばちゃんと小傘の奮闘はいつまでも続いた。
和やかなことばかりではない。
命蓮寺の宝物庫にて、一堂に会する皆に対し、ナズーリンは神妙な面持ちで切り出した。
「この通り。紛失したお宝はすべて宝物庫に戻ってきた。この私が、今しがた取り戻してきたんだが」
雲山は大喜びして鳴らない拍手を叩きまくってナズーリンの働きを称揚した。しかし失くし物のプロたる寅丸はもちろん、他の面々も怪訝な面持ちでナズーリンの次の言葉を待った。ナズーリンの神妙な口ぶりから、それがめでたしめでたし、と結ばれる話でないことを理解していたのだ。
「問題はこのお宝がどこで見つかったか、だ……わかるか、村紗」
「しらないよ、興味ないし」
私も、私も知りません、見当もつかない! と寅丸が同調する。失くした本人が見当もつかないなんて、そんな馬鹿な話があるだろうか。封獣ぬえは迷惑そうに腕を組んで寅丸を睨みつける。「ほんとに、本当に知らないんですよう!」寅丸は必死になって弁解する。「まあまあ」場を諫めたのは雲居一輪だった。雲山も決めつけるのはよくない、とでも言わんばかりに腕を組んで一輪の言葉を待った。
「続きがあるんでしょう? まずは聞きましょうよ」
天晴だ! 雲山は一輪の意見を大きな拍手でもって称揚する。村紗はため息を吐きながら首を横に振って呆れてみせた。ナズーリンはひとつ頷いて話を再開する。
「ふむ。この反応をみるに、この場に犯人はいないようだな」
ナズーリンの言葉に、寅丸はほっと胸をなでおろす。それで済ませればいいものを、ほら、本当に知らなかった、とアピールするかのようにぬえに向かって胸を張るから、つまらなくなったぬえはまた大きな声で茶々をいれた。「犯人ってなにさ!」ナズーリンは聖が頷いたのを確認して、また話し始めた。
「ぬえも本当に知らないようだし……よく聞け。このお宝たちは、里の質屋に並んでたんだ。聖と相談してすべて買い戻してきたが、質屋にあったということは、質入れしたものがいるということだ。しかし……正直、この場に犯人が居てくれた方が簡単だった。ご主人の知能では一人で質入れなんぞはできないだろうし、一輪も、雲山も、村紗もぬえも、反応からして今の今まで本当に知らなかったとみえる……となると、これは命蓮寺の中だけでは済まない、正式な事件として届け出なければならない。家財すべてを盗んで売り飛ばすなんて重罪だ。犯人は少なくとも里の哨戒部隊長に処刑/河童の地下工場で最低の工場長に死ぬまでこき使われる、ことは間違いないだろう。……どうする、届け出は」
「出すに決まってます!/出すべきよ!/出せばいいじゃん/出さない意味ない」
そして聖は困り顔のまま言った。
「出しましょう」
満場一致で届け出を出すことに決まった。あと数日もしないうちに、犯人は幻想郷中を広域手配されることだろう。南無三。
そして道観にて、可愛い猿を失ってからというもの、こころは日々を(涙)で過ごした。それは次第に(涙涙涙)と推移し、しまいには(;;)と新しい表現技法を確立させていた。今日も真昼間からこころは今に突っ伏して( ;;)と泣き濡れている。見かねた豊聡耳神子が声をかけようとするも、あんたのせいでしょ、と言わんばかりに屠自古がそれを阻止した。肘で打たれた激痛に屈みこむ神子をよそに、屠自古は涙に暮れるこころを心配そうに眺めて息をついた。霍青娥もそうしたし、芳香も同じようにした。
「ポストになんか入っておる!!!!」
元気いっぱいに叫んだのは道観いちばんの粗忽者、物部布都だった。屠自古は焦って駆け出した。粗忽者の布都に宅配物を預けてはどうなるかわからない、屠自古は玄関先で布都からそれをふんだくって、部屋に戻った。「なんでしたか?」戻ってきた屠自古に霍青娥が尋ねる。
「いや、わかんないんだけど……なんか、トマトと……リボン?」
こころはがばっ、と起き上がって屠自古が手にするそれを見やった。たちまち、こころは( ^^)と浮かべて、屠自古からそれをふんだくりまじまじと眺めた。こころはリボンの巻かれたトマトを眺め"(-""-)"と浮かべ!(^^)!と浮かべたのち( ;∀;)と結局は泣いた。「わかりにくいぞ」芳香は困った顔をして呟いた。
かくして日々は続いていく。
あの猿たちがどこへ行ったのかは誰にもわからない。しかし、朝起きてから眠りにつくまでのそのあいだ、自覚の有無に問わず、誰もが猿のあとを追った。猿はいまでも西へ、西へと逃げてゆく。誰もが営むそれぞれの日々は、東から太陽が昇って、西へ沈むのと同じようにして、いつまでも、どこまでも繰り返されてゆくのである。
『猿』 完。
登場人物のほとんどは与太者でちょっと極端な性格でありながら、純粋さというか純朴さが可愛らしく(小傘などが顕著ですが)、悪徳や悪癖が在る者ですら何らかの純粋性を持っていて、そこから生じるそれぞれの毛色の違う熱が猿を追いかけるという一本の筋にまとまるような物語の運びが美しく思えました。
なぜだか得体の知れない感動すら覚えました。ラストの日常が描かれているシーンでほんのりと目頭が熱くなったくらいです。それぞれの生活に戻るというか、収まるべき場所があって彼女らの生活が続いていくんだろうなという安堵と祝福の気持ちが沸いてきて、読んでよかったなと思えました。
頑張って読んだご褒美がちゃんとある良いSSだと思います
この騒動に関わった人妖がみんないきいきしているように感じられました。
よかったです。
どいつもこいつも腹に一物あるやつらばかりなのに最後はみんなして寺にダッシュで乗り込んでいくところが意味わからなくて最高でした
猿も結局捕まってない