わたしになぜこんな力が? 河城にとりは狼狽した。
それは夜半のことだった。いつもの工作のさなか、行き詰ったにとりは納屋の工具のことを思い出した。夜風でも浴びて一息つこう。立ち上がって外に出る。雨の降りそぼる夜だった。かさの増した川が枝葉を押し流している。にとりは玉砂利を踏みしめ歩く。しばらく納屋の手入れを怠っていたせいか、雨に濡れ、ススキに囲まれた建付けの悪い立方体は、なんだか鬱蒼としていた。濡れたススキをかき分けて戸の前までたどり着く。するとどうしたことだろうか。納屋のなかから声がする。それもひとりの声じゃない、三人、いやそれ以上の人数で、なにやら話し込んでいる様子だった。にとりは不審に思った。声がするのはもちろんだが、そんなに広い納屋ではない。久しく整頓をした記憶もない。複数人が立ち会って話し込むのはおよそ不可能だろう。しかしなんにせよ、自分の宝物庫に闖入者がいる。となれば黙っていられない。にとりはやにわに戸をあけ放った。
「いやだからさ、お前の鳴き方はポップスなんだよね。それも古臭い、90年代そこらのさ。レトロフューチャーのつもりなのかもしれないけど、それにしたってあざとすぎるんじゃないかと思う。正直ついていけないね」
「いや別にね。わかってるよ、おれは。わかっててやってるわけ、そういうのぜんぶ。お前の言うこともわかってるし、聞いたやつらがどういう反応するかもぜんぶわかってるから。だからここまでの流れは想定通りで、重要なのはこっからで――」
「まあ、ぼくが思うに君らのはなしは全部言い訳で、自分がやらない理由を並びたてているだけで、本当に大事なことってそうじゃなくて、要はやるかやらないかで――」
それはカエルだった。そこではおびただしい数のカエルたちがセンス合戦を繰り広げていた。ここはサ店……いや、自分の納屋で違いない。製作途中で放り投げたクリミナルギアの数々がそれを証明している。「あ、にとりじゃん」その一声で、無数の目玉がにとりを捉える。瞬間、幼いころの記憶がにとりの脳内を占拠した。「おい! 大勢の前で指されて動けなくなったことあったよなあ!」「何度もあったよなあ!」「それで泣いたこともあったよなあ!」「恥ずかしかったよなあ!」「死んだほうがましだ!」大音声でトラウマが叫びトラウマをけしかけてくる。にとりはたまらず卒倒した。
今がいつなのか、ここはどこなのか。にとりの意識は判然としないままでいた。足元に風が吹いている。ススキが揺れる音がする。雨は止んだようだった。じっとりと濡れた袖の感触がにとりの意識を微かに手繰った。言い知れぬ不快感に、にとりは目を閉じたまま顔をしかめる。うっすらと目を開くと未完成のクリミナルギアが転がっている。にとりは納屋にいることを確かめて起き上がる。一通り見回すとカエルたちは消えていた。夢だったのだろうか。にとりは忌々しげに息をつく。カエルが喋るわけがないし、ましてやそれが近頃の幻聴の原因だとは思いたくもない。先刻の記憶を一蹴してにとりは戸の方へ向き直った。そして熊。戸口に巨大な熊である。にとりは怯えた。
「いや、心配しましたよ。起きないんじゃないかと思って」
熊は野太い声でにとりに語り掛けた。熊の口元で半壊したアユは「たすけて」と濁った眼で命乞いをしている。にとりは怯えた。愕然として、呆然として、世界が急に遠くなって、色彩の失われていくような感覚に襲われた。
「あれ、その反応……もしかして伝わってますか? ぼくの言葉……」
ねえ、にとりさん。と熊は問いかける。にとりは呆然自失としながらも、熊は自分の名前を読んでいること、そして動物が喋っていることを脳裏から遠い彼方で理解した。喋るのか、動物は。喋るのか、動物が。本当だろうか。あたまが、おかしくなったのではないか。頭のなかで渦を巻く濃い靄に名前を付けるならば混乱だった。この状況はにとりの持つ現実の許容量を超えている。にとりは脳を守るために脳に命令を下した。卒倒せよ、と。
にとりは額にあたる冷たさに目を覚ます。背中にあたる感触は固くはない、どうやら布団のうえだった。ともすれば額の冷たさは濡れタオルで、つまり誰かに看病されているということらしい。にとりは薄らとした覚醒のなかでにわかに焦燥を感じた。喋るカエル、喋る熊、命乞いをする半壊したアユ……。今度はどんな異常現象が自身を待ち受けているのか気が気でなく、できればこのまま布団の暖かさを永遠に感じていたいと思った。しかし現実は非常である。
「目が覚めましたか、にとりさん」
「お前も動物かよ!」
にとりは飛び起きて、錯乱のまま、友人の射命丸文の胸倉を掴んだ――しかも、両手で!――掴まれた側の文としてはたまったのもではない。久々に様子でも見に行くかと到着したら、その友人は納屋の中で卒倒していたから、これは事だと慣れない看病をしてみたら、こうだ。
「動物が、動物が喋りまくる! うぅ、うぅぅ……お前もだ! お前もきっと、動物に違いないからそうやって喋って! ううぅ……」
文から見ればにとりの錯乱具合は哀れなもので、今にも泣きだしそうな河童にかける言葉さえ見当たらないほどだった。そもそも、文にしてみればにとりの言葉はすべて意味不明言葉であり、動物が喋るわけないし、動物が喋ったとしても私は動物じゃないし、例えば人間には我々は動物であって動物でなし、的な道徳的観念が搭載されているけれども、そもそも私は人間じゃないし、天狗だし、天狗は動物じゃないし、仮に天狗が動物だったとしても人間ごときが備えているような道徳観念は当然備わっているし、ただもしかすると河童にはそういう道徳観が欠如しているのかもしれないな、と文は思っていた。
少々の苛立ちはさておき、にとりの部屋だった。埃をかぶった箪笥、一人の腕の長さ分だけスペースが確保されている丸テーブル。そして荒れた畳。その畳は文にとっても馴染みがあるし、匂いだって、すべて楽しかったあの頃と変わらない。そんなにとりが卒倒していて、看病したはいいが錯乱していて、兎にも角にも弱っている。見舞いの経験は殆どないが、それでも、文はとりわけて情緒的に看病に徹した。
小康とでもいうのだろうか。文の看病が甲斐あってにとりは正気を取り戻した。とにかくわかったのはにとりの言葉によると「わたしには動物の声が聞こえるらしい」ということだった。
はじめは懐疑的だった文も、試しに、と連れてきた椛の言葉を解するところから、にとりの言は真実であることを悟った。椛は仔細を知ると激怒して帰っていった。
陽が落ちて町は夕暮れた。カラスは沈む橙の輪郭をなぞるような軌道で空を去っていく。普段であれば心象に染み入る夕景だったのかもしれないが、ふたりの頭上、屋根鳴きのカラスが、カァ、と鳴くと風情もへったくれもなくなった。曰く「あいつはアホ。太陽をすごくおいしいスープと思っとる」とのことだった。そして「誰も太陽には追いつけない……」と呟き、そのカラスも去っていった。夕景のしじまに残されたふたりは縁側、なにを話すともなくカラスの軌道を眺め続けた。
思えば、カエルの声がけたたましい夜は何度かあった気がする。思えば、ときどき魚を獲りにやってくる熊に怯え、震えて眠った夜もあった。それがいつしか話し声の幻聴に変わった。自分はどこかおかしいのではないか、そう思いながら過ごした。お上にせっつかれ、冷蔵庫の管理も上手くいかず食材を腐らせ、なんとなく始めた自家栽培のトマトも気づけば枯れていた。そんな日々にトドメを指したのが今回の出来事だ。
わたしになぜこんな力が? 河城にとりは狼狽した。狼狽して、呆然として、茫洋として、眠るときは瞼の裏側が宇宙になったかのようだった。しかし文の慰めに意味がなかったかといえばそうではない。文自身の献身もあるが、なによりにとりには椛がうれしかった。わざわざ自分を慰めるために馬鹿にされる、落としどころに使われるのをわかってなお来てくれたことが、にとりにはなによりもの慰めだった。枕に頬をつけると、なんだか懐かしい畳の匂いがした。
動物の声が聞こえるのも悪いことじゃない。鳥の噂話は来る天候から美味しい八百屋まで教えてくれるし、ネコはどこまでいっても自分の餌のことしか考えない。犬は縄張り意識と飛鼠症に疾患しているし、なによりひとが大好きだ。そんなのどかさがにとりの日常に色どりを与えていた。
ただ、ひとから理解を得られないのはつらかった。にとりはいつも人里の職人たちと工程に必要な材料を取引したり、嫌々ではあるが会合から連なる酒宴にも参加する。そんなときはもちろん河童であることを隠さなければならない。そのうえで、今度は動物の声が聞こえることも隠さなければならなくなった。酒宴の席、窓の外でネコが窓をひっかけばにとりはいの一番に反応してしまった。なんかうまそうなもの食っとる、ええなあ、とそれが聴覚に届くと、にとりはその場の誰かの発言と勘違いして「あっ、どうぞ」と勧めてしまう。その際の自分に向けられた表情といったら、にとりは思い出すだけで顔から火が出るようだった。
幾日が経ち、気がつけばにとりは作業場を納屋向かいの川辺にある東屋へと移していた。そもそもひと嫌いな性質のにとりだったが、動物というのは思うよりずっと親しみやすい。気が向いたら気が向いたときだけ関わりあって、それ以外では極めて無頓着であるというのは、なんだか自身の性質と同じような気がして安心できた。
「なあにとり。今日は何も持ってきてないのかよう。おいらお腹ぺこぺこだよ」
「気のせいだってば。お前らには満腹中枢がないからそう思うんだ」
机に齧りついて手作業をするにとりに対し、シャケが川から顔をだしてにとりに文句を言う。いつかの熊の口元のことを忘れられず、にとりは自然とシャケにはやさしかった。
「おいらまたエビが食べたいなあ。獲ってきておくれよう」
「お前が思ってるほど簡単じゃないんだ。高いから、だめ」
若干の嘘であしらうと、シャケは、ちぇっ、と言って去っていった。にとりは一度エビを買ってやったことがあるが、里で売られているエビは意外にも活きがよく、ありていにいえば死にかけだった。本心といえば、息も絶え絶え、もうろうとしてうわ言を吐くエビが怖かったのだ。しかし、あのシャケといえば群れをどうしてか外れてしまって食うに困っているという。シャケ一匹の喰いぶちを満たす仕掛けを作るのは初めてだから、にとりは手元のごちゃごちゃを見てため息を吐いた。けれど、川のせせらぎはいつ聞いても心地いいもので、ため息は青空のもと、川の流れに交じって下流へと穏やかに流れていった。
作業と四苦八苦を続けていると、ふいに川から、ざぶん、と飛沫があがる。それは、ざぶん、ざぶんとある程度連続して、ちょうど先ほどシャケがいた地点で止まった。にとりは心得て、近づいてきたそれに横目で「おう」と挨拶をする。それは巨大な熊だった。熊は相変わらずにアユを咥えて、咥えられた崩壊寸前のアユは「たすけて」とうわ言を繰り返していた。
「そろそろ逃がしてやりなよ」
「いいんすよ、咥えられて喜んでるんス。わかるんすよね、ぼく……」
熊の口ぶりといえばのんびりとしたもので、いかにも穏やかそうに喋り方だった。しかし咥えられたアユがにとりをちぐはぐな気持ちにさせる。このアユは一体いつ死ぬのだろう? にとりは熊と話すとき、もたげる疑問をうやむやにして接した。今日も世界には死の予感が溢れている。「困ってるやつがいるんすよ」出し抜けに宣う熊ににとりはいろいろな言葉を押し殺して応える。「友達か?」熊はこくりと頷く。友達を助けたいやつの口元では助かりたいやつが「たすけて」を繰言にする。
「そいつ、ゴリラなんすけど」
にとりは面食らって作業の手を止める。鮭一匹の食い扶持も満たせないのに、ゴリラの世話などできるはずがない! しかしまだ助力を求められたわけではない。もしかするとただ話を聞いてもらいたいだけかもしれない。にとりは心を取り直し、再度、その手を動かし始める。「それで、にとりさんに助けてもらいたいんすよ」にとりの作業の手は止まった。「あいつ、暴力に飢えてるんす」にとりは愕然とした。「誰でもいいから、粉々にしたいらしいんす」にとりは心臓が止まりそうになった。「まあ、わかりますけどね。ぼくも若干、そういう気持ちありますし……」卒倒だ! にとりは卒倒した。
にとりが卒倒したのち椛がすぐさま駆け付け、にとりを介抱した。椛は巡回の際に玄武の川に立ち寄ることにしていたのだ。近ごろ卒倒癖のついたにとりを心配して、文とふたりで協議した結果だった。幸い一命を取り留めたにとりは自身が聞いた最悪を椛に語って聞かせた。最中に熊からの補足情報もあり、まとめるとこうだ。
ゴリラは自身がゴリラである自覚に満ち、とにかく力を振るいたい。しかし平和な昨今に於いて腕力の使いみちなどは限られる。野生動物たるゴリラは野生動物としてのポリシーを強く抱えているがために、できれば人助けや慈善事業ではなく、なんらかの破壊がいい、とのことである。なんたる無頼か。ゴリラは無類の無政府主義者であった。動物には食事、排泄、睡眠の欲求が基本スペックとして備え付けれらているが、ゴリラは隠された最後の基本欲求【破壊】の持ち主だったのだ。これはにとりだけの手に負える話ではない。話を聞くが早いか椛は文のもとへ急行した。
椛から話を聞いた文はこれは自身の手に負える話ではないと判断し、なんならそんな化け物の存在を認めたくないので、話の真偽を確かめるべく、椛を連れてにとりのもとへ急行した。そして文は愕然とする。化け物の存在はなんと真実だったのだ。三人は輪になって震えた。恐怖によりそうする以外にはできなかった。そして恐ろしい夜が明け、絶望の朝がやってくる……。
かくして物語が始まった。
『ゴリラハンター河城にとり』
ゴリラの生涯は退屈だった。通常ゴリラの色覚といえばお前らと共通した色を見ることができるが、そのゴリラは色が見えなかった。流れる川、木々の新緑、焼けるような夕景……ゴリラにとってすべてはモノクロだった。理由は判然としていた。繰り返しにはなるが、ゴリラは退屈だったのだ。
そして、ゴリラはあらゆる音に対しても興味を示さなかった。通常ゴリラの聴覚といえばお前らと共通した音を聞くことができるが、そのゴリラは音が聞こえなかった。流れる川、吹き抜ける風、せせらぐ木々……どんな音色もゴリラの退屈を晴らすには足りなかった。
しかし、深く雪の積もった夜のことだ。高い木に登っていたゴリラは戯れに、本当に何の気なしに枝を掴む手を離した。立ちどころに落下して、地面にたたきつけられる。衝撃で頭がぐらついた。頭から地面に衝突したようだ。雪ごときではゴリラの体重を緩衝することは叶わない。けれど痛みは感じなかった。ゴリラは未だ退屈だった。雪から体を起こすと、雪に見覚えのないシミができていた。落下の衝撃でひしゃげたゴリラの鼻がじくり、と痛んだ。ゴリラは困惑した。この感覚はなんだ。鼻を指で確かめるようにつまむと、またじくりと痛んだ。そして噴き出した血が雪に飛散する。血が、雪の上を赤黒いシミとなって、じわりじわりと広がっていく。ゴリラは驚嘆した。それは初めて見る赤色だった。これが血の色か! ゴリラは嬉々として自分の鼻を殴打した。血が雪を汚していく、モノクロの世界に赤色が広がっていく! ゴリラは止まらなかった。うれしくて、さっきまで自分が登っていた木をなぎ倒した。幹のひしゃげる音、枝葉は散り散りに舞い踊った。これが暴力、暴力が、自分を世界に引き戻してくれた! ゴリラはその夜、山ひとつを腕力のみで削り取り、生まれて初めて触る世界の感触に狂喜した。
すべてが一変した朝に、ゴリラは友人にこの感動を全身で伝えた。すると、友人は落ち着き払ってこう語った。
「あぶねーやつ。お前はビョーキです。助けが必要だから、今からそこを一歩も動くな」
ゴリラの視界からたちまち色と音が消えうせた。つらい抑うつ状態が再来して、ゴリラは世界から隔絶されたのだった。
そして現在である。
ゴリラは友人に云われたとおり、指定された範囲から出ないように生活をしていた。住処である巨木は自身を閉じ込める結界のように感じられた。腹は空かなかった。食べても味がしなかった。一本の枝葉に丸々と実った果実を引きちぎり、ゴリラはそれを食べることもなく放り投げた。地面で果実がシミになって、ゴリラはほんの少しだけ脳に刺激を感じる。こんな日々がいつまで続く! ゴリラは頭を抱えて呻吟した。とりあえずもうひとつ……ゴリラはまた、枝葉に生った果実を引きちぎろうと手を伸ばした。すると次の瞬間、果実が爆ぜた。
ゴリラは本能的に危機を察知し、巨木から飛び退いた。烈しい破裂音と同時に、ゴリラが先ほどまでしがみついていた幹が抉り取られていた。銃撃だ、銃撃を受けている。ゴリラはいつのまにか頬に跳ね返っていた水を舐めとって、その弾丸が水であることを理解した。そして瞬時に着弾位置から逆算して発射位置を割り出す。ゴリラは振り向いて脅威をその目で確かめた。
ゴリラはあっけにとられた。そこにいたのは巨大な首長竜、ネッシーだった。ネッシーは二つのつぶらな瞳でゴリラを捉え、背中の砲台から今にも第二射を発射しようとしている。一瞬の忘我、唖然の極致でゴリラはまた理解する。友人の語った言葉の意味……「助け」とはこれのことか!
発射された水の塊がゴリラへと向かってくる。ゴリラは狂喜乱舞した、自分はまた世界と繋がれたのだ。ゴリラは瞬時に飛び退いて、そのまま巨木の枝を掴んだ。ネッシーの背中の砲台はけたたましく駆動して、ゴリラを捉えようとする。ゴリラは枝から枝へと素早く移動し、ネッシーの瞳を睨めつけた。その瞳はどこまでもつぶらで、砲台が捉えきれない自身の動きをどこまででも追ってきた。ゴリラはネッシーの瞳と砲台の動きの連動にどこかちぐはぐな印象を感じたが、考える間もなく、水の塊が凄まじい速度で飛んでくる。ゴリラは巨木を幹の真ん中から引きちぎり、思いっきり放り投げた。
驚異的なパワーで投擲された巨木は水の弾丸をいともたやすく破壊し、そのままネッシーの顔面に凄まじい破列音と共に突き刺さった。
そして、静寂が訪れる。ネッシーの顔面に突き刺さった巨木はごとり、と音を立て落下する。完全に破壊されたネッシーの顔面があらわになり、そこにあったはずのつぶらな瞳は見当たらず、代わりに、ひしゃげた表皮の奥に見たこともないような内臓が覗いていた。これは生物ではない。ゴリラの理解力はすぐさまネッシーが機械であることを看破した。ひしゃげた装甲版から除く回路と配線は完全に破壊されており、背中の砲台はもはや動く気配もなかった。ゴリラはネッシーの首めがけて飛び、しがみついてまじまじと回路を観察した。そして、ゴリラはその驚異的な理解力をもってセンサーを仕組みを体得した。
ゴリラは体得したセンサーを駆使して索敵を開始する。友人の寄越した「助け」がこんなもので終わるはずがないと本能的に理解していたのだ。妙な電波が飛んでいる……ゴリラは電波の発生元を辿り、視線を動かす。そして、遠くの木の裏に潜んでいる何者かの熱を発見し、ゴリラは瞬時に駆け出した。障害となる木々をなぎ倒し、最後の一本をなぎ払うと、そこに潜んでいたのは一体の河童だった。河童は怯えた顔をして、なにかリモコンのボタンを連打している。ネッシーを動かしていたのはこいつだ! ゴリラは次なる破壊の予感に舌なめずりをした。
「あ、あ、あ、あのっ。これは違くって……。わた、わたし、その。……趣味なんだけど! 木の裏でリモコンのボタンを連打するの! だから、ええと、その。わたしはぜんぜん悪くないというか、破壊の対象としてみるのはへん、っていうか……」
「っていうか、そう! そうだよ! わたし、動物の言葉がわかって、動物と話せるから、その。友達の熊から、ゴリラを助けて欲しいって言われてきてて……だから、さ。どうかな! 話し合う、っていうのは! いったんさ、いったん!」
この河童は何を言っているのだろう。ゴリラは困惑した。ゴリラは言葉がわからなかった。ゴリラは生まれついての暴力ネイティブであり、第一言語として暴力を獲得して以来、表現には困らなかった。友人の熊に破壊の感動を伝えた際も、言葉など不要だった。ゴリラは反駁する。そもそも動物なら誰しも、初めに覚えるのは暴力のはずだ。でなければ、言葉も話せない赤ん坊はどうやって空腹や怒りを母親に伝えるというのだろう。この河童にしても、腹が減ったら暴れてそれを伝えてきたはずだ。それを後になって獲得した言語で「話し合い」などと宣う。なんとじれったい、まどろっこしいことだろうか。そんなものを用いずとも、我々には共通の言語、暴力があるではないか!
ゴリラは怯える河童に怒張した双腕を振り下ろす。怯えた河童は「ひっ」と短い悲鳴をもらした。
「これが俺の言語、言語としての暴力だ!」
ゴリラが流ちょうに啖呵を切って、双腕を振りぬいた。衝撃と共に土煙が吹きあがる。土煙が晴れれば粉微塵になった河童の姿がみられる……ゴリラはにやりと笑った。束の間、ゴリラの表情から笑みが消える。土煙が晴れ、そこにあったのは粉微塵の河童ではなく、怯える河童をかばうように盾を構える天狗の姿だった。「危ないところでしたね」天狗はそう言って、片手で盾をかまえたまま、大きな刀をゴリラに向けた。河童は「サンキュー、椛。もうダメかと思ったよ」などと宣いながらそそくさと逃げていく。
「お前が次の俺の相手か。だが、そんな細腕で何ができるというのだ」
「なにか話しているようですが、私はにとりさんと違ってあなたの言葉はわかりません。だから……これで話をつけましょう!」
天狗は勢いよくゴリラに向かって斬りかかる。しかしゴリラにとって天狗の斬撃など子供がおもちゃの剣を振り回しているようなものだ。ゴリラは天狗の刀を片手で受け止め、そのまま刀を天狗から力任せに取り上げた。
「あっ、ちょっと! ちょっと待ってください、高かったんです! 高かったから、本当に! 支給品なんです、失くしちゃうと罰則で謹慎になっちゃうし、また買いなおさないと謹慎解いてもらえないんです!」
ゴリラは言葉がわからなかったが、天狗がこれを失くすと困るのは本能的に理解できた。凄まじい理解力だ。ゴリラは天狗の「やめて!」を無視して、そのまま刀を口に放り込んだ。「あー!」ショックを受ける天狗をよそに、ゴリラは刀を咀嚼し、飲み込んだ。ゴリラは胃の中でまじまじと刀の成分を観察し、驚異的な理解力でもって刀の仕組みを体得した。
ゴリラは体得した刀を駆使して自分の腕を変形させ、天狗に見せつける。その形はまさしく天狗の大刀であったが、天狗は「そんなものみせられても、謹慎は解けてくれませんよぅ……」としょぼくれて帰っていった。ゴリラはあたりの木を変形した腕で何本か切断して、満足げに笑った。
「今までの暮らしはいったいなんだ! 木の上で退屈を散らすために果実をちぎっては投げ、ちぎっては投げ……馬鹿馬鹿しいにもほどがある! 今だ、今この瞬間だけが俺の世界なんだ!」
ゴリラは笑いながら腕を振り回し、木々を蹂躙した。倒木、舞う土煙、ひしゃげる枝葉、舞い狂う紅葉……そういえば季節は秋だった――瞬間、太刀風。ゴリラの変形した片腕が宙に舞う。虚を突かれたゴリラは自身の腕の切断面からぼとぼとと滴り落ちる血液に狼狽した。
「ふたりが戦っている間、あなたを観察していましたよ」
ゴリラは声の方向に向き直る。難を逃れた楓の枝、高下駄を履いた鴉天狗が団扇を構えて見下ろしていた。ゴリラは腕を失くした激痛に呻きながら、鴉天狗を睨みつける。
「あなたはその凄まじいパワーと驚異的な理解力でふたりを易々と退けました……しかし不意をつかれたらこの通り。理解する間もなくあなたの腕は飛び、パワーを振るうすべもなくなりました。つまり、あなたは対象を観察できなければ無力に等しい……自慢じゃありませんが、私は見られないというのが得意でして……」
ゴリラの視界からふいと鴉天狗が消失する。ゴリラはすぐさまセンサーを駆使してあたりを見回すが、鴉天狗は忽然と姿を消した。にわかに、辺りの風が強まってくる。森林と脳内が一体となってざわめく。なにが起きている、いったいなにが……ひときわ強く風が吹いた。片腕を飛ばされたゴリラはひるんで、思わず防御姿勢をとる。しかしどこ吹く風で吹き荒れて、烈風のひとつがゴリラのもう片腕を奪った。「ぐあああああっ」激痛に叫ぶゴリラの前に鴉天狗が現れる。「何が起こっているかわからないでしょう。ふふん、これは“速さ”と云います。もっとも、言葉のわからないあなたには理解できないでしょうがね」余裕そうな笑みを浮かべて鴉天狗はまた消える。鴉天狗のいう通り、ゴリラは何が起こっているのかを理解できていない。鴉天狗は言葉通り、目にも留まらぬ速さで飛び回りゴリラを蹂躙した。
吹きすさぶ風の中で(WAG ~2004)片足が失われ、そしてもう片足も飛ばされる。ゴリラは理解できなかった。自分の身になにが起こっているのか、なんで鴉天狗はこうも残酷に四肢を順番に奪っていくのか、もっといい方法はなかったのだろうか……しかし失われた血液の分、不思議なほど頭の芯は冷えていた。ゴリラは冷静に思い返す。鴉天狗は自分の視界から“消え”て、ふいに“現れ”た。その瞬間を頭のなかで何度も、何度も観察する……。
やおら風が弱まった。鴉天狗はトドメをさすべく、横たわるゴリラの前に降り立った。鴉天狗は四肢を失ったゴリラをみて猛省した。なぜ自分はこうも残酷に四肢を順番に奪ってしまったのだろうか、もっといい方法があったのではなかろうか。刹那の逡巡を経て、鴉天狗はトドメをさすのが先決と判断した。そして、鴉天狗は団扇を振り上げる……。
ゴリラはそれが振り下ろされる瞬間まで、あの場面を何度も再生していた。鴉天狗はふいに消えて、現れる……ふいに消えて、現れる。ふいに……“消え”る。ゴリラは驚異的な理解力で物が消失する仕組みを体得した。ゴリラは鴉天狗の前からふいと消失する。「あれっ?」鴉天狗はふいに消えたゴリラに驚ききょろきょろと辺りを見回す。ゴリラはそれを裏のチャンネルから観察し、自身が正しく消失していることを確かめた。
「応用だ……」
ゴリラはまたあの場面を再生する。あの鴉天狗はふいに消えて現れる。ふいに消えて……“現れ”る。ゴリラは現れた四肢を眺めて満足げに笑った。そして、ゴリラは鴉天狗の前に姿を現した。鴉天狗は急に現れたゴリラと、再生している四肢を見てあっけにとられた。「何が起こっているか……わからないか? 教えるのか? 俺が、お前にか?」鴉天狗はさらに唖然とする。鴉天狗はゴリラの言葉を“理解”してしまったのだ。「こういう感じか? お前らの言葉は。正常なのか? お前の耳は……」ゴリラは体に目いっぱいの暴力を溜めた。両腕はゴリラの溜めた暴力でパンパンに膨張して、今にもすべてを破壊してしまいそうだ。この両腕、その矛先が自分に向いている。鴉天狗は初めて恐怖した。
「この技は俺も初めて使う……この腕が地面に振り下ろされたあとの世界がどうなるか。俺にわからないことはお前にもわからないだろう。ただひとつだけ教えてやる……これが暴力だ!」
ゴリラは暴力を世界にたたきつけた! 鴉天狗は衝撃を逃れるために果てしない距離を取った。「逃げたか……」鴉天狗が取り残したのはゴリラと世界の崩壊だった。山から一斉に動物たちが逃げ出す。地鳴りが響き、地面は割れてゆく。刻一刻と迫る崩壊のなかで、ゴリラは満足していた。この数刻のなかで世界ひとつ分の破壊を堪能したのだ。ゴリラはこのまま崩壊の渦に飲み込まれることもやぶさかではなかった。しかし、ふいに崩壊は止まる。ゴリラはセンサーを使うまでもなく、それを見つける。地割れを食い止めていたのは友人の熊だった。
「まあ、わかりますけどね。ぼくも若干、そういう気持ちありますし……」
だけど、と熊は続ける。「だけど、ぼくは君を助けたくてこの人たちを頼ったんスよ。ほら……」云うと、熊の背中から河童がひょっこりと顔を出した。「わ、悪かったよ! さっきは殺そうとして……でもほら! これ! これ、持ってきたから!」河童はゴリラに向かってある物を放り投げた。ゴリラはそれをキャッチして、訝し気に眺めまわした。「ほらにとりさん、説明が必要ですよ」熊に促され、にとりはええと……と、言葉を紡ぎ始める。
「それはぷちぷちっていう梱包材なんだけど、その。潰して遊ぶもので、潰して遊ぶと楽しくて……破壊がしたいって言ってたから、作ってみたんだ。この熊がいつも咥えてるアユから着想を得て、なんとそのプチプチは無限につぶせる……なんど壊しても、無限に破壊を楽しめるんだけど……」
ゴリラは渡されたぷちぷちを破壊してみる。ぷちぷちはその名の通り、小気味良くぷちぷちと潰れ、その感触はどうして新鮮だった。一寸すると、ぷちぷちが再生して、ゴリラはまたそれを破壊する。「ど、どうかな?」ゴリラは応えない。応えないまま、ぷちぷちを破壊し、再生されたぷちぷちを破壊し続ける。
「満足したみたいですね」
「そ、それじゃあ!」
我々の勝利です。熊とにとりはハイタッチする。しかしにとりはまた不安そうに顔をしかめた。「で、でも。この崩壊はどうやって止めたらいいんだ! お前がずっと、そうやって食い止めててくれるならいいんだけど……」
「それは私に任せてください」
それはアユの声だった。崩壊寸前のアユは熊に咥えられたまま輝き始める。この光はいったいなんだろうか。その場の誰もが輝きに目を奪われた。ぷちぷちに夢中だったゴリラでさえも、眩い光に視線を向ける。アユはその視線に応えるようにつぶやいた。
「これは、いのちの輝き……」
これが、いのち……。誰もが理解した。理解力のない私でさえも理解せざるを得なかった。これが、いのちなのだと。
「今回のあなたたちの頑張りを、わたしはずっと見ていました。臆病な河童、勇敢な白狼天狗、残酷な鴉天狗……そして、友人想いの熊よ……。残念ながら、この崩壊を止めることはできませんが、あなたたちに、もう一度チャンスを与えます。今度はこうなる前に、しっかりと考え、やみくもに攻撃を始めないことです……。それでは……」
アユがそういうと今度は世界全体が輝き始める。やり直すチャンスとはどういうことだろうか。考える間もなく、眩い光は世界を満ちていった……。
――。
――――。
――――――。
「なあにとり。今日は何も持ってきてないのかよう。おいらお腹ぺこぺこだよ」
「気のせいだってば。お前らには満腹中枢がないからそう思うんだ」
机に齧りついて手作業をするにとりに対し、シャケが川から顔をだしてにとりに文句を言う。いつかの熊の口元のことを忘れられず、にとりは自然とシャケにはやさしかった。
「おいらまたエビが食べたいなあ。獲ってきておくれよう」
「お前が思ってるほど簡単じゃないんだ。高いから、だめ」
若干の嘘であしらうと、シャケは、ちぇっ、と言って去っていった。にとりは一度エビを買ってやったことがあるが、里で売られているエビは意外にも活きがよく、ありていにいえば死にかけだった。本心といえば、息も絶え絶え、もうろうとしてうわ言を吐くエビが怖かったのだ。しかし、あのシャケといえば群れをどうしてか外れてしまって食うに困っているという。シャケ一匹の喰いぶちを満たす仕掛けを作るのは初めてだから、にとりは手元のごちゃごちゃを見てため息を吐いた。けれど、川のせせらぎはいつ聞いても心地いいもので、ため息は青空のもと、川の流れに交じって下流へと穏やかに流れていった。
作業と四苦八苦を続けていると、ふいに川から、ざぶん、と飛沫があがる。それは、ざぶん、ざぶんとある程度連続して、ちょうど先ほどシャケがいた地点で止まった。にとりは心得て、近づいてきたそれに横目で「おう」と挨拶をする。それは巨大な熊だった。熊は相変わらずにアユを咥えて、咥えられた崩壊寸前のアユは「たすけて」とうわ言を繰り返していた。
「そろそろ逃がしてやりなよ」
「いいんすよ、咥えられて喜んでるんス。わかるんすよね、ぼく……」
熊の口ぶりといえばのんびりとしたもので、いかにも穏やかそうに喋り方だった。しかし咥えられたアユがにとりをちぐはぐな気持ちにさせる。このアユは一体いつ死ぬのだろう? にとりは熊と話すとき、もたげる疑問をうやむやにして接した。今日も世界には死の予感が溢れている。「困ってるやつがいるんすよ」出し抜けに宣う熊ににとりはいろいろな言葉を押し殺して応える。「友達か?」熊はこくりと頷く。友達を助けたいやつの口元では助かりたいやつが「たすけて」を繰言にする。
「そいつ、ゴリラなんすけど」
にとりは面食らって作業の手を止める。鮭一匹の食い扶持も満たせないのに、ゴリラの世話などできるはずがない! しかしまだ助力を求められたわけではない。もしかするとただ話を聞いてもらいたいだけかもしれない。にとりは心を取り直し、再度、その手を動かし始める。「それで、にとりさんに助けてもらいたいんすよ」にとりの作業の手は止まった。「あいつ、暴力に飢えてるんす」にとりは愕然とした。「誰でもいいから、粉々にしたいらしいんす」にとりは心臓が止まりそうになった。「まあ、わかりますけどね。ぼくも若干、そういう気持ちありますし……」卒倒だ! にとりは卒倒した――
――ここだ。ここですべてがおかしくなったのだ。その瞬間、世界中の誰もがそう思った。「やめましょう! 卒倒するの!」にとりはすぐさま意識を取り戻し「や、やめとく! 卒倒はもうやめる!」と起き上がった。そして熊は言う。
「実はぼく、このアユをいつ逃がしてあげようか。タイミングを失っていたんですよ」
「ああ! 逃がしてやるといい。わたしが応急処置してやるから、はやく放してさしあげろ」
にとりはアユに簡単な応急処置を施して川に帰した。それから、熊とふたりでゴリラのもとに向かった。
住処である巨木の上で、ゴリラは憂鬱そうに頭を抱えていた。力を振るう先のないゴリラは覇気をなくし、抑うつ状態が続いた結果、暴力的なまでの自殺願望に取りつかれていたのだ。こんな状態のゴリラを攻撃してはどんなことになるかわからない。にとりはゴリラと、ゴリラの抱える問題と、情緒的に向き合おうことを決めた。
思えば、普段から存分に力を振るえなかったのはにとりも一緒だった。普段は山からの無理難題の発注を受けて、里の生産している材料のために河童であることを偽り、酒宴にまで参加する……。里の技術者たちのレベルの低い話を聞いてると苛々して、自分はもっとできる、こいつらの里にネッシー号をけしかけてみたらどうなるのだろう……そんな邪な心が育まれていた。持っている力を使えないのがどれほどつらいことなのか、にとりにもそれがわかった。それを一瞬でも、ゴリラの弱みにかこつけて発進させてやろうと考えていた自分をにとりは恥じた。
にとりは破壊衝動をもつ動物全員に発明した無限ぷちぷちを配った。要するに自分自身の機嫌は自分で取らなければいけないし、そのために必要なのはストレス発散、その方法だけだった。にとりはランニングを始めてみることにした。
千葉市で。
千葉市で血走る。
『ゴリラハンター河城にとり』 完。
それは夜半のことだった。いつもの工作のさなか、行き詰ったにとりは納屋の工具のことを思い出した。夜風でも浴びて一息つこう。立ち上がって外に出る。雨の降りそぼる夜だった。かさの増した川が枝葉を押し流している。にとりは玉砂利を踏みしめ歩く。しばらく納屋の手入れを怠っていたせいか、雨に濡れ、ススキに囲まれた建付けの悪い立方体は、なんだか鬱蒼としていた。濡れたススキをかき分けて戸の前までたどり着く。するとどうしたことだろうか。納屋のなかから声がする。それもひとりの声じゃない、三人、いやそれ以上の人数で、なにやら話し込んでいる様子だった。にとりは不審に思った。声がするのはもちろんだが、そんなに広い納屋ではない。久しく整頓をした記憶もない。複数人が立ち会って話し込むのはおよそ不可能だろう。しかしなんにせよ、自分の宝物庫に闖入者がいる。となれば黙っていられない。にとりはやにわに戸をあけ放った。
「いやだからさ、お前の鳴き方はポップスなんだよね。それも古臭い、90年代そこらのさ。レトロフューチャーのつもりなのかもしれないけど、それにしたってあざとすぎるんじゃないかと思う。正直ついていけないね」
「いや別にね。わかってるよ、おれは。わかっててやってるわけ、そういうのぜんぶ。お前の言うこともわかってるし、聞いたやつらがどういう反応するかもぜんぶわかってるから。だからここまでの流れは想定通りで、重要なのはこっからで――」
「まあ、ぼくが思うに君らのはなしは全部言い訳で、自分がやらない理由を並びたてているだけで、本当に大事なことってそうじゃなくて、要はやるかやらないかで――」
それはカエルだった。そこではおびただしい数のカエルたちがセンス合戦を繰り広げていた。ここはサ店……いや、自分の納屋で違いない。製作途中で放り投げたクリミナルギアの数々がそれを証明している。「あ、にとりじゃん」その一声で、無数の目玉がにとりを捉える。瞬間、幼いころの記憶がにとりの脳内を占拠した。「おい! 大勢の前で指されて動けなくなったことあったよなあ!」「何度もあったよなあ!」「それで泣いたこともあったよなあ!」「恥ずかしかったよなあ!」「死んだほうがましだ!」大音声でトラウマが叫びトラウマをけしかけてくる。にとりはたまらず卒倒した。
今がいつなのか、ここはどこなのか。にとりの意識は判然としないままでいた。足元に風が吹いている。ススキが揺れる音がする。雨は止んだようだった。じっとりと濡れた袖の感触がにとりの意識を微かに手繰った。言い知れぬ不快感に、にとりは目を閉じたまま顔をしかめる。うっすらと目を開くと未完成のクリミナルギアが転がっている。にとりは納屋にいることを確かめて起き上がる。一通り見回すとカエルたちは消えていた。夢だったのだろうか。にとりは忌々しげに息をつく。カエルが喋るわけがないし、ましてやそれが近頃の幻聴の原因だとは思いたくもない。先刻の記憶を一蹴してにとりは戸の方へ向き直った。そして熊。戸口に巨大な熊である。にとりは怯えた。
「いや、心配しましたよ。起きないんじゃないかと思って」
熊は野太い声でにとりに語り掛けた。熊の口元で半壊したアユは「たすけて」と濁った眼で命乞いをしている。にとりは怯えた。愕然として、呆然として、世界が急に遠くなって、色彩の失われていくような感覚に襲われた。
「あれ、その反応……もしかして伝わってますか? ぼくの言葉……」
ねえ、にとりさん。と熊は問いかける。にとりは呆然自失としながらも、熊は自分の名前を読んでいること、そして動物が喋っていることを脳裏から遠い彼方で理解した。喋るのか、動物は。喋るのか、動物が。本当だろうか。あたまが、おかしくなったのではないか。頭のなかで渦を巻く濃い靄に名前を付けるならば混乱だった。この状況はにとりの持つ現実の許容量を超えている。にとりは脳を守るために脳に命令を下した。卒倒せよ、と。
にとりは額にあたる冷たさに目を覚ます。背中にあたる感触は固くはない、どうやら布団のうえだった。ともすれば額の冷たさは濡れタオルで、つまり誰かに看病されているということらしい。にとりは薄らとした覚醒のなかでにわかに焦燥を感じた。喋るカエル、喋る熊、命乞いをする半壊したアユ……。今度はどんな異常現象が自身を待ち受けているのか気が気でなく、できればこのまま布団の暖かさを永遠に感じていたいと思った。しかし現実は非常である。
「目が覚めましたか、にとりさん」
「お前も動物かよ!」
にとりは飛び起きて、錯乱のまま、友人の射命丸文の胸倉を掴んだ――しかも、両手で!――掴まれた側の文としてはたまったのもではない。久々に様子でも見に行くかと到着したら、その友人は納屋の中で卒倒していたから、これは事だと慣れない看病をしてみたら、こうだ。
「動物が、動物が喋りまくる! うぅ、うぅぅ……お前もだ! お前もきっと、動物に違いないからそうやって喋って! ううぅ……」
文から見ればにとりの錯乱具合は哀れなもので、今にも泣きだしそうな河童にかける言葉さえ見当たらないほどだった。そもそも、文にしてみればにとりの言葉はすべて意味不明言葉であり、動物が喋るわけないし、動物が喋ったとしても私は動物じゃないし、例えば人間には我々は動物であって動物でなし、的な道徳的観念が搭載されているけれども、そもそも私は人間じゃないし、天狗だし、天狗は動物じゃないし、仮に天狗が動物だったとしても人間ごときが備えているような道徳観念は当然備わっているし、ただもしかすると河童にはそういう道徳観が欠如しているのかもしれないな、と文は思っていた。
少々の苛立ちはさておき、にとりの部屋だった。埃をかぶった箪笥、一人の腕の長さ分だけスペースが確保されている丸テーブル。そして荒れた畳。その畳は文にとっても馴染みがあるし、匂いだって、すべて楽しかったあの頃と変わらない。そんなにとりが卒倒していて、看病したはいいが錯乱していて、兎にも角にも弱っている。見舞いの経験は殆どないが、それでも、文はとりわけて情緒的に看病に徹した。
小康とでもいうのだろうか。文の看病が甲斐あってにとりは正気を取り戻した。とにかくわかったのはにとりの言葉によると「わたしには動物の声が聞こえるらしい」ということだった。
はじめは懐疑的だった文も、試しに、と連れてきた椛の言葉を解するところから、にとりの言は真実であることを悟った。椛は仔細を知ると激怒して帰っていった。
陽が落ちて町は夕暮れた。カラスは沈む橙の輪郭をなぞるような軌道で空を去っていく。普段であれば心象に染み入る夕景だったのかもしれないが、ふたりの頭上、屋根鳴きのカラスが、カァ、と鳴くと風情もへったくれもなくなった。曰く「あいつはアホ。太陽をすごくおいしいスープと思っとる」とのことだった。そして「誰も太陽には追いつけない……」と呟き、そのカラスも去っていった。夕景のしじまに残されたふたりは縁側、なにを話すともなくカラスの軌道を眺め続けた。
思えば、カエルの声がけたたましい夜は何度かあった気がする。思えば、ときどき魚を獲りにやってくる熊に怯え、震えて眠った夜もあった。それがいつしか話し声の幻聴に変わった。自分はどこかおかしいのではないか、そう思いながら過ごした。お上にせっつかれ、冷蔵庫の管理も上手くいかず食材を腐らせ、なんとなく始めた自家栽培のトマトも気づけば枯れていた。そんな日々にトドメを指したのが今回の出来事だ。
わたしになぜこんな力が? 河城にとりは狼狽した。狼狽して、呆然として、茫洋として、眠るときは瞼の裏側が宇宙になったかのようだった。しかし文の慰めに意味がなかったかといえばそうではない。文自身の献身もあるが、なによりにとりには椛がうれしかった。わざわざ自分を慰めるために馬鹿にされる、落としどころに使われるのをわかってなお来てくれたことが、にとりにはなによりもの慰めだった。枕に頬をつけると、なんだか懐かしい畳の匂いがした。
動物の声が聞こえるのも悪いことじゃない。鳥の噂話は来る天候から美味しい八百屋まで教えてくれるし、ネコはどこまでいっても自分の餌のことしか考えない。犬は縄張り意識と飛鼠症に疾患しているし、なによりひとが大好きだ。そんなのどかさがにとりの日常に色どりを与えていた。
ただ、ひとから理解を得られないのはつらかった。にとりはいつも人里の職人たちと工程に必要な材料を取引したり、嫌々ではあるが会合から連なる酒宴にも参加する。そんなときはもちろん河童であることを隠さなければならない。そのうえで、今度は動物の声が聞こえることも隠さなければならなくなった。酒宴の席、窓の外でネコが窓をひっかけばにとりはいの一番に反応してしまった。なんかうまそうなもの食っとる、ええなあ、とそれが聴覚に届くと、にとりはその場の誰かの発言と勘違いして「あっ、どうぞ」と勧めてしまう。その際の自分に向けられた表情といったら、にとりは思い出すだけで顔から火が出るようだった。
幾日が経ち、気がつけばにとりは作業場を納屋向かいの川辺にある東屋へと移していた。そもそもひと嫌いな性質のにとりだったが、動物というのは思うよりずっと親しみやすい。気が向いたら気が向いたときだけ関わりあって、それ以外では極めて無頓着であるというのは、なんだか自身の性質と同じような気がして安心できた。
「なあにとり。今日は何も持ってきてないのかよう。おいらお腹ぺこぺこだよ」
「気のせいだってば。お前らには満腹中枢がないからそう思うんだ」
机に齧りついて手作業をするにとりに対し、シャケが川から顔をだしてにとりに文句を言う。いつかの熊の口元のことを忘れられず、にとりは自然とシャケにはやさしかった。
「おいらまたエビが食べたいなあ。獲ってきておくれよう」
「お前が思ってるほど簡単じゃないんだ。高いから、だめ」
若干の嘘であしらうと、シャケは、ちぇっ、と言って去っていった。にとりは一度エビを買ってやったことがあるが、里で売られているエビは意外にも活きがよく、ありていにいえば死にかけだった。本心といえば、息も絶え絶え、もうろうとしてうわ言を吐くエビが怖かったのだ。しかし、あのシャケといえば群れをどうしてか外れてしまって食うに困っているという。シャケ一匹の喰いぶちを満たす仕掛けを作るのは初めてだから、にとりは手元のごちゃごちゃを見てため息を吐いた。けれど、川のせせらぎはいつ聞いても心地いいもので、ため息は青空のもと、川の流れに交じって下流へと穏やかに流れていった。
作業と四苦八苦を続けていると、ふいに川から、ざぶん、と飛沫があがる。それは、ざぶん、ざぶんとある程度連続して、ちょうど先ほどシャケがいた地点で止まった。にとりは心得て、近づいてきたそれに横目で「おう」と挨拶をする。それは巨大な熊だった。熊は相変わらずにアユを咥えて、咥えられた崩壊寸前のアユは「たすけて」とうわ言を繰り返していた。
「そろそろ逃がしてやりなよ」
「いいんすよ、咥えられて喜んでるんス。わかるんすよね、ぼく……」
熊の口ぶりといえばのんびりとしたもので、いかにも穏やかそうに喋り方だった。しかし咥えられたアユがにとりをちぐはぐな気持ちにさせる。このアユは一体いつ死ぬのだろう? にとりは熊と話すとき、もたげる疑問をうやむやにして接した。今日も世界には死の予感が溢れている。「困ってるやつがいるんすよ」出し抜けに宣う熊ににとりはいろいろな言葉を押し殺して応える。「友達か?」熊はこくりと頷く。友達を助けたいやつの口元では助かりたいやつが「たすけて」を繰言にする。
「そいつ、ゴリラなんすけど」
にとりは面食らって作業の手を止める。鮭一匹の食い扶持も満たせないのに、ゴリラの世話などできるはずがない! しかしまだ助力を求められたわけではない。もしかするとただ話を聞いてもらいたいだけかもしれない。にとりは心を取り直し、再度、その手を動かし始める。「それで、にとりさんに助けてもらいたいんすよ」にとりの作業の手は止まった。「あいつ、暴力に飢えてるんす」にとりは愕然とした。「誰でもいいから、粉々にしたいらしいんす」にとりは心臓が止まりそうになった。「まあ、わかりますけどね。ぼくも若干、そういう気持ちありますし……」卒倒だ! にとりは卒倒した。
にとりが卒倒したのち椛がすぐさま駆け付け、にとりを介抱した。椛は巡回の際に玄武の川に立ち寄ることにしていたのだ。近ごろ卒倒癖のついたにとりを心配して、文とふたりで協議した結果だった。幸い一命を取り留めたにとりは自身が聞いた最悪を椛に語って聞かせた。最中に熊からの補足情報もあり、まとめるとこうだ。
ゴリラは自身がゴリラである自覚に満ち、とにかく力を振るいたい。しかし平和な昨今に於いて腕力の使いみちなどは限られる。野生動物たるゴリラは野生動物としてのポリシーを強く抱えているがために、できれば人助けや慈善事業ではなく、なんらかの破壊がいい、とのことである。なんたる無頼か。ゴリラは無類の無政府主義者であった。動物には食事、排泄、睡眠の欲求が基本スペックとして備え付けれらているが、ゴリラは隠された最後の基本欲求【破壊】の持ち主だったのだ。これはにとりだけの手に負える話ではない。話を聞くが早いか椛は文のもとへ急行した。
椛から話を聞いた文はこれは自身の手に負える話ではないと判断し、なんならそんな化け物の存在を認めたくないので、話の真偽を確かめるべく、椛を連れてにとりのもとへ急行した。そして文は愕然とする。化け物の存在はなんと真実だったのだ。三人は輪になって震えた。恐怖によりそうする以外にはできなかった。そして恐ろしい夜が明け、絶望の朝がやってくる……。
かくして物語が始まった。
『ゴリラハンター河城にとり』
ゴリラの生涯は退屈だった。通常ゴリラの色覚といえばお前らと共通した色を見ることができるが、そのゴリラは色が見えなかった。流れる川、木々の新緑、焼けるような夕景……ゴリラにとってすべてはモノクロだった。理由は判然としていた。繰り返しにはなるが、ゴリラは退屈だったのだ。
そして、ゴリラはあらゆる音に対しても興味を示さなかった。通常ゴリラの聴覚といえばお前らと共通した音を聞くことができるが、そのゴリラは音が聞こえなかった。流れる川、吹き抜ける風、せせらぐ木々……どんな音色もゴリラの退屈を晴らすには足りなかった。
しかし、深く雪の積もった夜のことだ。高い木に登っていたゴリラは戯れに、本当に何の気なしに枝を掴む手を離した。立ちどころに落下して、地面にたたきつけられる。衝撃で頭がぐらついた。頭から地面に衝突したようだ。雪ごときではゴリラの体重を緩衝することは叶わない。けれど痛みは感じなかった。ゴリラは未だ退屈だった。雪から体を起こすと、雪に見覚えのないシミができていた。落下の衝撃でひしゃげたゴリラの鼻がじくり、と痛んだ。ゴリラは困惑した。この感覚はなんだ。鼻を指で確かめるようにつまむと、またじくりと痛んだ。そして噴き出した血が雪に飛散する。血が、雪の上を赤黒いシミとなって、じわりじわりと広がっていく。ゴリラは驚嘆した。それは初めて見る赤色だった。これが血の色か! ゴリラは嬉々として自分の鼻を殴打した。血が雪を汚していく、モノクロの世界に赤色が広がっていく! ゴリラは止まらなかった。うれしくて、さっきまで自分が登っていた木をなぎ倒した。幹のひしゃげる音、枝葉は散り散りに舞い踊った。これが暴力、暴力が、自分を世界に引き戻してくれた! ゴリラはその夜、山ひとつを腕力のみで削り取り、生まれて初めて触る世界の感触に狂喜した。
すべてが一変した朝に、ゴリラは友人にこの感動を全身で伝えた。すると、友人は落ち着き払ってこう語った。
「あぶねーやつ。お前はビョーキです。助けが必要だから、今からそこを一歩も動くな」
ゴリラの視界からたちまち色と音が消えうせた。つらい抑うつ状態が再来して、ゴリラは世界から隔絶されたのだった。
そして現在である。
ゴリラは友人に云われたとおり、指定された範囲から出ないように生活をしていた。住処である巨木は自身を閉じ込める結界のように感じられた。腹は空かなかった。食べても味がしなかった。一本の枝葉に丸々と実った果実を引きちぎり、ゴリラはそれを食べることもなく放り投げた。地面で果実がシミになって、ゴリラはほんの少しだけ脳に刺激を感じる。こんな日々がいつまで続く! ゴリラは頭を抱えて呻吟した。とりあえずもうひとつ……ゴリラはまた、枝葉に生った果実を引きちぎろうと手を伸ばした。すると次の瞬間、果実が爆ぜた。
ゴリラは本能的に危機を察知し、巨木から飛び退いた。烈しい破裂音と同時に、ゴリラが先ほどまでしがみついていた幹が抉り取られていた。銃撃だ、銃撃を受けている。ゴリラはいつのまにか頬に跳ね返っていた水を舐めとって、その弾丸が水であることを理解した。そして瞬時に着弾位置から逆算して発射位置を割り出す。ゴリラは振り向いて脅威をその目で確かめた。
ゴリラはあっけにとられた。そこにいたのは巨大な首長竜、ネッシーだった。ネッシーは二つのつぶらな瞳でゴリラを捉え、背中の砲台から今にも第二射を発射しようとしている。一瞬の忘我、唖然の極致でゴリラはまた理解する。友人の語った言葉の意味……「助け」とはこれのことか!
発射された水の塊がゴリラへと向かってくる。ゴリラは狂喜乱舞した、自分はまた世界と繋がれたのだ。ゴリラは瞬時に飛び退いて、そのまま巨木の枝を掴んだ。ネッシーの背中の砲台はけたたましく駆動して、ゴリラを捉えようとする。ゴリラは枝から枝へと素早く移動し、ネッシーの瞳を睨めつけた。その瞳はどこまでもつぶらで、砲台が捉えきれない自身の動きをどこまででも追ってきた。ゴリラはネッシーの瞳と砲台の動きの連動にどこかちぐはぐな印象を感じたが、考える間もなく、水の塊が凄まじい速度で飛んでくる。ゴリラは巨木を幹の真ん中から引きちぎり、思いっきり放り投げた。
驚異的なパワーで投擲された巨木は水の弾丸をいともたやすく破壊し、そのままネッシーの顔面に凄まじい破列音と共に突き刺さった。
そして、静寂が訪れる。ネッシーの顔面に突き刺さった巨木はごとり、と音を立て落下する。完全に破壊されたネッシーの顔面があらわになり、そこにあったはずのつぶらな瞳は見当たらず、代わりに、ひしゃげた表皮の奥に見たこともないような内臓が覗いていた。これは生物ではない。ゴリラの理解力はすぐさまネッシーが機械であることを看破した。ひしゃげた装甲版から除く回路と配線は完全に破壊されており、背中の砲台はもはや動く気配もなかった。ゴリラはネッシーの首めがけて飛び、しがみついてまじまじと回路を観察した。そして、ゴリラはその驚異的な理解力をもってセンサーを仕組みを体得した。
ゴリラは体得したセンサーを駆使して索敵を開始する。友人の寄越した「助け」がこんなもので終わるはずがないと本能的に理解していたのだ。妙な電波が飛んでいる……ゴリラは電波の発生元を辿り、視線を動かす。そして、遠くの木の裏に潜んでいる何者かの熱を発見し、ゴリラは瞬時に駆け出した。障害となる木々をなぎ倒し、最後の一本をなぎ払うと、そこに潜んでいたのは一体の河童だった。河童は怯えた顔をして、なにかリモコンのボタンを連打している。ネッシーを動かしていたのはこいつだ! ゴリラは次なる破壊の予感に舌なめずりをした。
「あ、あ、あ、あのっ。これは違くって……。わた、わたし、その。……趣味なんだけど! 木の裏でリモコンのボタンを連打するの! だから、ええと、その。わたしはぜんぜん悪くないというか、破壊の対象としてみるのはへん、っていうか……」
「っていうか、そう! そうだよ! わたし、動物の言葉がわかって、動物と話せるから、その。友達の熊から、ゴリラを助けて欲しいって言われてきてて……だから、さ。どうかな! 話し合う、っていうのは! いったんさ、いったん!」
この河童は何を言っているのだろう。ゴリラは困惑した。ゴリラは言葉がわからなかった。ゴリラは生まれついての暴力ネイティブであり、第一言語として暴力を獲得して以来、表現には困らなかった。友人の熊に破壊の感動を伝えた際も、言葉など不要だった。ゴリラは反駁する。そもそも動物なら誰しも、初めに覚えるのは暴力のはずだ。でなければ、言葉も話せない赤ん坊はどうやって空腹や怒りを母親に伝えるというのだろう。この河童にしても、腹が減ったら暴れてそれを伝えてきたはずだ。それを後になって獲得した言語で「話し合い」などと宣う。なんとじれったい、まどろっこしいことだろうか。そんなものを用いずとも、我々には共通の言語、暴力があるではないか!
ゴリラは怯える河童に怒張した双腕を振り下ろす。怯えた河童は「ひっ」と短い悲鳴をもらした。
「これが俺の言語、言語としての暴力だ!」
ゴリラが流ちょうに啖呵を切って、双腕を振りぬいた。衝撃と共に土煙が吹きあがる。土煙が晴れれば粉微塵になった河童の姿がみられる……ゴリラはにやりと笑った。束の間、ゴリラの表情から笑みが消える。土煙が晴れ、そこにあったのは粉微塵の河童ではなく、怯える河童をかばうように盾を構える天狗の姿だった。「危ないところでしたね」天狗はそう言って、片手で盾をかまえたまま、大きな刀をゴリラに向けた。河童は「サンキュー、椛。もうダメかと思ったよ」などと宣いながらそそくさと逃げていく。
「お前が次の俺の相手か。だが、そんな細腕で何ができるというのだ」
「なにか話しているようですが、私はにとりさんと違ってあなたの言葉はわかりません。だから……これで話をつけましょう!」
天狗は勢いよくゴリラに向かって斬りかかる。しかしゴリラにとって天狗の斬撃など子供がおもちゃの剣を振り回しているようなものだ。ゴリラは天狗の刀を片手で受け止め、そのまま刀を天狗から力任せに取り上げた。
「あっ、ちょっと! ちょっと待ってください、高かったんです! 高かったから、本当に! 支給品なんです、失くしちゃうと罰則で謹慎になっちゃうし、また買いなおさないと謹慎解いてもらえないんです!」
ゴリラは言葉がわからなかったが、天狗がこれを失くすと困るのは本能的に理解できた。凄まじい理解力だ。ゴリラは天狗の「やめて!」を無視して、そのまま刀を口に放り込んだ。「あー!」ショックを受ける天狗をよそに、ゴリラは刀を咀嚼し、飲み込んだ。ゴリラは胃の中でまじまじと刀の成分を観察し、驚異的な理解力でもって刀の仕組みを体得した。
ゴリラは体得した刀を駆使して自分の腕を変形させ、天狗に見せつける。その形はまさしく天狗の大刀であったが、天狗は「そんなものみせられても、謹慎は解けてくれませんよぅ……」としょぼくれて帰っていった。ゴリラはあたりの木を変形した腕で何本か切断して、満足げに笑った。
「今までの暮らしはいったいなんだ! 木の上で退屈を散らすために果実をちぎっては投げ、ちぎっては投げ……馬鹿馬鹿しいにもほどがある! 今だ、今この瞬間だけが俺の世界なんだ!」
ゴリラは笑いながら腕を振り回し、木々を蹂躙した。倒木、舞う土煙、ひしゃげる枝葉、舞い狂う紅葉……そういえば季節は秋だった――瞬間、太刀風。ゴリラの変形した片腕が宙に舞う。虚を突かれたゴリラは自身の腕の切断面からぼとぼとと滴り落ちる血液に狼狽した。
「ふたりが戦っている間、あなたを観察していましたよ」
ゴリラは声の方向に向き直る。難を逃れた楓の枝、高下駄を履いた鴉天狗が団扇を構えて見下ろしていた。ゴリラは腕を失くした激痛に呻きながら、鴉天狗を睨みつける。
「あなたはその凄まじいパワーと驚異的な理解力でふたりを易々と退けました……しかし不意をつかれたらこの通り。理解する間もなくあなたの腕は飛び、パワーを振るうすべもなくなりました。つまり、あなたは対象を観察できなければ無力に等しい……自慢じゃありませんが、私は見られないというのが得意でして……」
ゴリラの視界からふいと鴉天狗が消失する。ゴリラはすぐさまセンサーを駆使してあたりを見回すが、鴉天狗は忽然と姿を消した。にわかに、辺りの風が強まってくる。森林と脳内が一体となってざわめく。なにが起きている、いったいなにが……ひときわ強く風が吹いた。片腕を飛ばされたゴリラはひるんで、思わず防御姿勢をとる。しかしどこ吹く風で吹き荒れて、烈風のひとつがゴリラのもう片腕を奪った。「ぐあああああっ」激痛に叫ぶゴリラの前に鴉天狗が現れる。「何が起こっているかわからないでしょう。ふふん、これは“速さ”と云います。もっとも、言葉のわからないあなたには理解できないでしょうがね」余裕そうな笑みを浮かべて鴉天狗はまた消える。鴉天狗のいう通り、ゴリラは何が起こっているのかを理解できていない。鴉天狗は言葉通り、目にも留まらぬ速さで飛び回りゴリラを蹂躙した。
吹きすさぶ風の中で(WAG ~2004)片足が失われ、そしてもう片足も飛ばされる。ゴリラは理解できなかった。自分の身になにが起こっているのか、なんで鴉天狗はこうも残酷に四肢を順番に奪っていくのか、もっといい方法はなかったのだろうか……しかし失われた血液の分、不思議なほど頭の芯は冷えていた。ゴリラは冷静に思い返す。鴉天狗は自分の視界から“消え”て、ふいに“現れ”た。その瞬間を頭のなかで何度も、何度も観察する……。
やおら風が弱まった。鴉天狗はトドメをさすべく、横たわるゴリラの前に降り立った。鴉天狗は四肢を失ったゴリラをみて猛省した。なぜ自分はこうも残酷に四肢を順番に奪ってしまったのだろうか、もっといい方法があったのではなかろうか。刹那の逡巡を経て、鴉天狗はトドメをさすのが先決と判断した。そして、鴉天狗は団扇を振り上げる……。
ゴリラはそれが振り下ろされる瞬間まで、あの場面を何度も再生していた。鴉天狗はふいに消えて、現れる……ふいに消えて、現れる。ふいに……“消え”る。ゴリラは驚異的な理解力で物が消失する仕組みを体得した。ゴリラは鴉天狗の前からふいと消失する。「あれっ?」鴉天狗はふいに消えたゴリラに驚ききょろきょろと辺りを見回す。ゴリラはそれを裏のチャンネルから観察し、自身が正しく消失していることを確かめた。
「応用だ……」
ゴリラはまたあの場面を再生する。あの鴉天狗はふいに消えて現れる。ふいに消えて……“現れ”る。ゴリラは現れた四肢を眺めて満足げに笑った。そして、ゴリラは鴉天狗の前に姿を現した。鴉天狗は急に現れたゴリラと、再生している四肢を見てあっけにとられた。「何が起こっているか……わからないか? 教えるのか? 俺が、お前にか?」鴉天狗はさらに唖然とする。鴉天狗はゴリラの言葉を“理解”してしまったのだ。「こういう感じか? お前らの言葉は。正常なのか? お前の耳は……」ゴリラは体に目いっぱいの暴力を溜めた。両腕はゴリラの溜めた暴力でパンパンに膨張して、今にもすべてを破壊してしまいそうだ。この両腕、その矛先が自分に向いている。鴉天狗は初めて恐怖した。
「この技は俺も初めて使う……この腕が地面に振り下ろされたあとの世界がどうなるか。俺にわからないことはお前にもわからないだろう。ただひとつだけ教えてやる……これが暴力だ!」
ゴリラは暴力を世界にたたきつけた! 鴉天狗は衝撃を逃れるために果てしない距離を取った。「逃げたか……」鴉天狗が取り残したのはゴリラと世界の崩壊だった。山から一斉に動物たちが逃げ出す。地鳴りが響き、地面は割れてゆく。刻一刻と迫る崩壊のなかで、ゴリラは満足していた。この数刻のなかで世界ひとつ分の破壊を堪能したのだ。ゴリラはこのまま崩壊の渦に飲み込まれることもやぶさかではなかった。しかし、ふいに崩壊は止まる。ゴリラはセンサーを使うまでもなく、それを見つける。地割れを食い止めていたのは友人の熊だった。
「まあ、わかりますけどね。ぼくも若干、そういう気持ちありますし……」
だけど、と熊は続ける。「だけど、ぼくは君を助けたくてこの人たちを頼ったんスよ。ほら……」云うと、熊の背中から河童がひょっこりと顔を出した。「わ、悪かったよ! さっきは殺そうとして……でもほら! これ! これ、持ってきたから!」河童はゴリラに向かってある物を放り投げた。ゴリラはそれをキャッチして、訝し気に眺めまわした。「ほらにとりさん、説明が必要ですよ」熊に促され、にとりはええと……と、言葉を紡ぎ始める。
「それはぷちぷちっていう梱包材なんだけど、その。潰して遊ぶもので、潰して遊ぶと楽しくて……破壊がしたいって言ってたから、作ってみたんだ。この熊がいつも咥えてるアユから着想を得て、なんとそのプチプチは無限につぶせる……なんど壊しても、無限に破壊を楽しめるんだけど……」
ゴリラは渡されたぷちぷちを破壊してみる。ぷちぷちはその名の通り、小気味良くぷちぷちと潰れ、その感触はどうして新鮮だった。一寸すると、ぷちぷちが再生して、ゴリラはまたそれを破壊する。「ど、どうかな?」ゴリラは応えない。応えないまま、ぷちぷちを破壊し、再生されたぷちぷちを破壊し続ける。
「満足したみたいですね」
「そ、それじゃあ!」
我々の勝利です。熊とにとりはハイタッチする。しかしにとりはまた不安そうに顔をしかめた。「で、でも。この崩壊はどうやって止めたらいいんだ! お前がずっと、そうやって食い止めててくれるならいいんだけど……」
「それは私に任せてください」
それはアユの声だった。崩壊寸前のアユは熊に咥えられたまま輝き始める。この光はいったいなんだろうか。その場の誰もが輝きに目を奪われた。ぷちぷちに夢中だったゴリラでさえも、眩い光に視線を向ける。アユはその視線に応えるようにつぶやいた。
「これは、いのちの輝き……」
これが、いのち……。誰もが理解した。理解力のない私でさえも理解せざるを得なかった。これが、いのちなのだと。
「今回のあなたたちの頑張りを、わたしはずっと見ていました。臆病な河童、勇敢な白狼天狗、残酷な鴉天狗……そして、友人想いの熊よ……。残念ながら、この崩壊を止めることはできませんが、あなたたちに、もう一度チャンスを与えます。今度はこうなる前に、しっかりと考え、やみくもに攻撃を始めないことです……。それでは……」
アユがそういうと今度は世界全体が輝き始める。やり直すチャンスとはどういうことだろうか。考える間もなく、眩い光は世界を満ちていった……。
――。
――――。
――――――。
「なあにとり。今日は何も持ってきてないのかよう。おいらお腹ぺこぺこだよ」
「気のせいだってば。お前らには満腹中枢がないからそう思うんだ」
机に齧りついて手作業をするにとりに対し、シャケが川から顔をだしてにとりに文句を言う。いつかの熊の口元のことを忘れられず、にとりは自然とシャケにはやさしかった。
「おいらまたエビが食べたいなあ。獲ってきておくれよう」
「お前が思ってるほど簡単じゃないんだ。高いから、だめ」
若干の嘘であしらうと、シャケは、ちぇっ、と言って去っていった。にとりは一度エビを買ってやったことがあるが、里で売られているエビは意外にも活きがよく、ありていにいえば死にかけだった。本心といえば、息も絶え絶え、もうろうとしてうわ言を吐くエビが怖かったのだ。しかし、あのシャケといえば群れをどうしてか外れてしまって食うに困っているという。シャケ一匹の喰いぶちを満たす仕掛けを作るのは初めてだから、にとりは手元のごちゃごちゃを見てため息を吐いた。けれど、川のせせらぎはいつ聞いても心地いいもので、ため息は青空のもと、川の流れに交じって下流へと穏やかに流れていった。
作業と四苦八苦を続けていると、ふいに川から、ざぶん、と飛沫があがる。それは、ざぶん、ざぶんとある程度連続して、ちょうど先ほどシャケがいた地点で止まった。にとりは心得て、近づいてきたそれに横目で「おう」と挨拶をする。それは巨大な熊だった。熊は相変わらずにアユを咥えて、咥えられた崩壊寸前のアユは「たすけて」とうわ言を繰り返していた。
「そろそろ逃がしてやりなよ」
「いいんすよ、咥えられて喜んでるんス。わかるんすよね、ぼく……」
熊の口ぶりといえばのんびりとしたもので、いかにも穏やかそうに喋り方だった。しかし咥えられたアユがにとりをちぐはぐな気持ちにさせる。このアユは一体いつ死ぬのだろう? にとりは熊と話すとき、もたげる疑問をうやむやにして接した。今日も世界には死の予感が溢れている。「困ってるやつがいるんすよ」出し抜けに宣う熊ににとりはいろいろな言葉を押し殺して応える。「友達か?」熊はこくりと頷く。友達を助けたいやつの口元では助かりたいやつが「たすけて」を繰言にする。
「そいつ、ゴリラなんすけど」
にとりは面食らって作業の手を止める。鮭一匹の食い扶持も満たせないのに、ゴリラの世話などできるはずがない! しかしまだ助力を求められたわけではない。もしかするとただ話を聞いてもらいたいだけかもしれない。にとりは心を取り直し、再度、その手を動かし始める。「それで、にとりさんに助けてもらいたいんすよ」にとりの作業の手は止まった。「あいつ、暴力に飢えてるんす」にとりは愕然とした。「誰でもいいから、粉々にしたいらしいんす」にとりは心臓が止まりそうになった。「まあ、わかりますけどね。ぼくも若干、そういう気持ちありますし……」卒倒だ! にとりは卒倒した――
――ここだ。ここですべてがおかしくなったのだ。その瞬間、世界中の誰もがそう思った。「やめましょう! 卒倒するの!」にとりはすぐさま意識を取り戻し「や、やめとく! 卒倒はもうやめる!」と起き上がった。そして熊は言う。
「実はぼく、このアユをいつ逃がしてあげようか。タイミングを失っていたんですよ」
「ああ! 逃がしてやるといい。わたしが応急処置してやるから、はやく放してさしあげろ」
にとりはアユに簡単な応急処置を施して川に帰した。それから、熊とふたりでゴリラのもとに向かった。
住処である巨木の上で、ゴリラは憂鬱そうに頭を抱えていた。力を振るう先のないゴリラは覇気をなくし、抑うつ状態が続いた結果、暴力的なまでの自殺願望に取りつかれていたのだ。こんな状態のゴリラを攻撃してはどんなことになるかわからない。にとりはゴリラと、ゴリラの抱える問題と、情緒的に向き合おうことを決めた。
思えば、普段から存分に力を振るえなかったのはにとりも一緒だった。普段は山からの無理難題の発注を受けて、里の生産している材料のために河童であることを偽り、酒宴にまで参加する……。里の技術者たちのレベルの低い話を聞いてると苛々して、自分はもっとできる、こいつらの里にネッシー号をけしかけてみたらどうなるのだろう……そんな邪な心が育まれていた。持っている力を使えないのがどれほどつらいことなのか、にとりにもそれがわかった。それを一瞬でも、ゴリラの弱みにかこつけて発進させてやろうと考えていた自分をにとりは恥じた。
にとりは破壊衝動をもつ動物全員に発明した無限ぷちぷちを配った。要するに自分自身の機嫌は自分で取らなければいけないし、そのために必要なのはストレス発散、その方法だけだった。にとりはランニングを始めてみることにした。
千葉市で。
千葉市で血走る。
『ゴリラハンター河城にとり』 完。
中盤 アユが神…
終盤 しょーもな。
面白かったです。
急に撃たれても落ち着いて射手の方向を探そうとするゴリラに熟練を感じました