◇アリス・マーガトロイド
ページをめくる音だけが時折響き、書棚に吸い込まれて消えていく図書館。アリス・マーガトロイドは、読書にとってまさに理想的といえるこの環境にあって、全くと言っていいほど読書に集中できていなかった。さっきからページをめくっているのは、対面に座る同業者にして友人、パチュリー・ノーレッジだけ。整った顔立ちは俯いて手元の本に向けられ、宝石のような紫の瞳は文字を追って穏やかに動いている。......アリスはいつの間にかまた自分の目がパチュリーを舐めるように観察していたことに気づき、思わず赤面した。実際には彼女の人形のような肌にそれと分かるほど赤みがさしていたわけでもないのだが、少なくとも心の中では真っ赤だった。焦りから、もう無意識に何度も確認して大丈夫だと分かっているはずなのに、アリスは視線が気づかれていないだろうか、とそれとなく覗き込むようにしてパチュリーの様子を窺う。一方、本日何度目になろうかという確認を決行された当のパチュリーはといえば、さっきと変わった様子など微塵も見えずまるで時間が止まったかのように同じ姿勢で本を持って座っていた。ふっと動きが生じたかと思えば、ほんの最小限の動きでページをめくり、また同じ姿勢に戻るだけ。アリスは心配が杞憂に終わったことに安堵しながらも、同時に深くため息をついた。
(小悪魔がちょっと口走ったことでこんなに心を乱されるなんて......ほぼ確実に悪戯に決まってる、のに)
アリスの悩みの発端は、30分ほど前の出来事。紅茶を運んできた小悪魔の、何気ないひとことだった。
「アリスさん、パチュリー様、紅茶のおかわりとお茶菓子はいかがでしょうか?」
「あら、ありがとう小悪魔。それじゃあいただくわ。パチュリーは......パチュリー?」
アリスが呼びかける声に、パチュリーは返事をしない。アリスは訝しむ。単に「いらない」という意思表示にしてはあまりにも反応がないのだ。表情も、体も全く動かない。かと思えばページをめくるためにわずかに指を動かし、そしてまた動かなくなる。無視にしたって徹底しすぎている、と驚き呆れるアリスの隣で、紅茶を注ぎながら小悪魔は事もなげに言った。
「ああ、パチュリー様ったらアリスさんがいらっしゃっているというのにまた集中しすぎてるんですね」
「集中って、いくらなんでも集中しすぎじゃない?」
「パチュリー様は本当に気になる本を読まれていると周りの声が全く耳に入らなくなるんです。寝ているのに近いかも......いえ、睡眠状態なんかよりよほど反応がないですね。一度実験を試みたお嬢様が、何をしても反応しないパチュリー様にしびれを切らして耳元で全力で叫んで、そのときはじめて反応してスペルカードを開けたことがあるくらいですから。本を読むのに支障がなければ、基本的に何をしても無駄なんです」
「......それは、なんともパチュリーらしい話ね」
アリスは少しひきつった声でそう相槌を打つ。パチュリーの読書家ぶりはよく知っていたつもりだが、よもやここまでとは。とんでもないエピソードに少しだけ引いてしまうアリスだったが、小悪魔の次の言葉に思わず引っかかってしまう。
「ええ、声どころかボディタッチだって同じです。本を読むという動作さえ遂行できる状態なら、肩を叩かれようが頭を触られようがお構いなしなんですよ。私なんて一度、太ももを揉み揉み......あ、おほん。あー、ともかくパチュリー様はこの調子だとまだまだ集中して読書をなさるご様子ですし、もし何か御用でしたら私までお声がけくださいね」
「......あ、ありがとう」
不自然なほど返事に詰まってしまった。アリスにとっては幸いなことに、小悪魔は特に気にする様子もなくアリスたちのテーブルを離れていく。あとに残されたのは、まるで何もなかったかのように―小悪魔の話を信じるなら、本人にとっては本当に何もなかったのだ―読書を続けるパチュリーと、それからすっかり読書の手が止まってしまったアリスのふたりだけ。
(何を動揺しているの、私は)
アリスは自分に言い聞かせるように冷静さを取り戻そうとした。しかし、小悪魔が言い放った「ボディタッチ」という言葉がどうにも頭を離れない。思わずパチュリーを見つめてしまう。出不精のくせにけして不健康ではない、すべすべで真っ白な肌。ほんの少しふっくらとした、柔らかそうな頬。本人は頓着しないから小悪魔が手入れしているのだろうか、艶のある紫の長い髪。そして何より、知性と気難しさとを同時に感じさせる整った美貌。
アリスはそこまでじっとパチュリーを見つめて、ようやく自分の思考がとんでもないことになっているのに気付いた。これではまるで、どこぞの烏天狗の盗撮記事みたいだ。
「......パチュリー?」
もう一度声をかけてみる。やはり反応はない。聞こえていて無視をしているのではなく、本当に本以外何も認識していないかのようだった。
「集中、してるのね」
席を立ちあがってみる。パチュリーはこちらに一瞬さえも意識を向けない。きっとアリスが立ち上がったことにも気づいていない。アリスはなんとなく止まれなくなる気がして、慌てて腰を下ろした。
アリスは動揺している中でも大体のことを把握してはいた。要するに小悪魔といえど彼女もまた「悪魔」なのだ。「悪魔」とはとかく魂の契約ばかりが取りざたされる種族であるけれど、彼らが日常的に欲するのはひとの戸惑いや絶望、驚きといった動揺の感情。それがそのままエネルギーにもなるし、なにより悪魔はそういう状態のひとを見て楽しむのが大好き、とされている。わざわざ「ボディタッチ」だなんて単語まで言い、わざとらしく言外に「今のパチュリーは読書に支障がなければ何をされても無反応」ということを伝えて去っていった小悪魔の行動も、この性質と一緒にして考えるとつまりアリスの感情を食べるためなのは明白だった。小悪魔の気配は遠くに歩いていったきりのように感じられるが、あるいはどこかに隠れていてもうすでにこの戸惑いも美味しくいただかれているかもしれない。それは、なんとなく癪だ。アリスの中の冷静な部分がそう訴える。
と、なるとアリスがすべきことはただただパチュリーを放っておいて平常心を取り戻し、読みかけの本にもう一度取り組むことだけだった。......そう結論付けて本を開いたアリスは、しかしその後も悶々とし続け、話は冒頭に戻る。アリスはここにきて、いよいよ我慢や辛抱を維持するのが難しくなってきていた。
(......そもそも、小悪魔が見てるとは限らないわよね)
悩み始めてから通算4度目となる起立。アリスは立ったまま周りを観察した。小悪魔らしき人影も、魔力を使っての監視も、少なくとも感知できる範囲にはない。やろうと思えばもっと詳しく調べることも、あるいは簡易的な結界を張ることもできただろうに、アリスはそのどちらも選択せず、ただ突き動かされるようにテーブルを回りこむ。......隣に立ってもなお、パチュリーは微動だにしなかった。
「これは、実験よ。レミリアがしたのと同じ」
誰に言い訳をしているのかさえもよく分からない。アリスの手は、ついにゆっくりとパチュリーの頭へ伸びていた。
◇小悪魔
小悪魔といえど「悪魔」の端くれ。アリスが秘めている―小悪魔からすればほとんど隠せていないに等しい―パチュリーへの愛に気づいてからというもの、小悪魔の関心事は専らどうやってアリスの美味しい感情を堪能するかだけだった。パチュリーの「集中」を利用することはすぐに思いついた。愛する主人とその客人でさえ美食のためなら利用することを辞さない姿勢こそ悪魔の鑑である。
「ふふ、新鮮な『動揺』......アリスさんにも、こんな一面があるんですねぇ」
小悪魔が特に好きなのは、強者の感情だった。普段確固たる「我」を持ち、そう簡単には崩れないような実力者が思わぬところで見せる「動揺」こそ最高の甘露。とはいえ主人であるパチュリー様をそこまで持っていくのは性格からしてもほぼ不可能だし、その盟友であるレミリアお嬢様はなかなかいい反応をしてくれたりもするけどあんまりやりすぎると何があるか分からないし、普段よく来る白黒はまったく未熟で美食にはなり得ないし......と一丁前にグルメを気取っていた小悪魔にとって、アリスはまさにちょうど良い、理想の「食材」だったのだ。ちょっと揺さぶっただけでこれだけひとりで悩んでくれるとは、悪魔冥利に尽きるといった感じでもある。
「......お、いよいよ行動、ですか」
小悪魔はアリスの行動を図書館の隅にあてがわれている自室から観察していた。魔法ではない、「こういうこと」のためにだけ発動する悪魔としての力を利用した方法のため、冷静でないアリスが観察されていることに気づく可能性はごく低い。今回の一連の仕掛けは完全に小悪魔の勝ちと言えた。
「ふむふむ、まずは頭なでなでから。王道ですね」
アリスがパチュリーの帽子の後ろ、後頭部あたりの髪に恐る恐る手を当てる。それでもパチュリーが微動だにしないのを見て、さらに恐る恐る髪に指を通す。小悪魔が日頃から勝手に丹精込めて手入れしている絹糸のような紫髪が、アリスの指の間を滑った。
アリスは、はじめ緊張したようにぎこちなかった手つきを徐々に滑らかにしていく。かなりしっかりと触っても、パチュリーは一切動じない。後ろを気にする様子さえない。本を読むという動作には干渉しないからだろう、と小悪魔は主人の奇特な精神構造を妄想した。契約のためパチュリーの「観察」をすることはできないが、きっとそうだ。
アリスは小悪魔に見られていることに気づかず、だんだんとエスカレートしていく。さんざん手櫛を楽しんだあと、しばし葛藤するように動きを止めて、それから少しずつパチュリーの後頭部に顔を近づける。ボリュームのあるパチュリーの髪に、アリスはたっぷり時間をかけて近づいたあと、最終的には顔を埋めた。
「おぉ~、なかなかこれは......」
アリスの思いがけず大胆な行動に、小悪魔は思わず感嘆の声を漏らしてしまう。しかし考えてみれば無理もない。小悪魔がけしかけた段階で、アリスはすでに相当の想いをため込んでいたのだ。一度堤防が決壊すれば歯止めが効かなくなるのも当然と言えた。
小悪魔はそのまま観察を続ける。不幸なのか幸せなのか、一概にどちらとは言いづらいが、とりあえずアリスはそれに気づくことの終ぞないままパチュリーへのボディタッチを堪能するのであった。
◇アリス・マーガトロイド
アリスはもう数十分ほど「実験」を続けていた。結論から言うなら、パチュリーは一度も反応していない。アリスが未だ「実験」を続けていられるのが何よりの証左と言えた。
(本当に、読書家にしたってここまでとはね)
アリスは小悪魔の言ったことをしっかりと覚えており、目線を邪魔する可能性のある顔、本の保持やページをめくることに支障があるかもしれない腕には触れていない。逆に言えばそれ以外のところは、あまり品のない言い方をするならまさに触り放題であった。
アリスのお気に入りはやはりなんと言っても髪だった。上質な生地のようにも、手で掬い上げた清流のようにも感じられる極上の手触りには中毒性がある。それに、アリスの手の動きに合わせて形を変えるそのしっとりと輝く紫色は、図書館内の明かりの微妙な変化で次々に表情を変えるのだ。アリスはすっかりこの感触に病みつきになってしまっていた。なんとかしてもう少し太らせないといくら魔女とはいえまずいのではないだろうか、と思った薄い背中や、髪をかき分けた先に現れる真っ白でほっそりとしたうなじなども相当によかったが、やっぱり髪の毛に手櫛を通すのが何にも代えがたい楽しみをアリスに与えていた。
(......いや)
いや、とアリスはそこまで回想してから内心で一人ごちる。唯一、まだ一か所だけ、試せるはずなのに試していない場所がある。
『私なんて一度、太ももを揉み揉み......あ、おほん。』
小悪魔がわざとらしく言いかけて咳払いで誤魔化したその台詞を、アリスは脳内でリピートした。そこまでやれば一線を越えるような気がして、そして何よりこの状況を見ているかもしれない小悪魔に完全に誘導されているような行動をとるのが悔しくて、これまでの数十分間意図的に無視し続けてきたその場所。アリスは視線を落とし、ゆったりとした薄紫のローブに包まれたパチュリーの太ももをちらりと見た。ローブの上からではそのシルエットが分からない。何よりもその事実がアリスを太ももへ駆り立てつつあった。確かめたい。
パチュリーは、背中で分かったように極度に不健康なやせ方をしている。とはいえ、顔だちを見ているとむしろどちらかといえばふっくらした印象を受けるのも事実だ。それに、胸だって結構あるほうだと―少なくともアリスよりはあるようだと―噂に聞く。と、なると太ももはどうなのか。
(......これは確認。確認だから)
もしもむちっとした感触が手に伝わってきたなら、ぜひ堪能したい。不安になるほど細かったなら、それはそれで愛らしい。アリスは自然、手を下へ伸ばしていた。いっそ小悪魔に踊らされようという気にすらなった。だいいち見られているのだったらもう既に取り返しがつかないレベルで踊らされているのだったが、アリスは今ようやく「小悪魔が何するものぞ」と決心をした。
アリスの手が、ついにパチュリーの太ももへと降り立つ。パチュリーは依然として、アリスなどいないかのように、黙々と本を読んでいた。静まり返った図書館に、ぺら、とページをめくる音が響く。次に、それよりも小さな衣擦れの音。アリスはそこにあるパチュリーの太ももに、満を持して指を這わせ、そっと力を込めた。
瞬間、図書館の扉が大きな音と共に開く。
「よーっす、パチュリー! また本を借りに来た、ぜ......」
果たして飛び込んできたのは普通の魔法使い、霧雨魔理沙その人であった。了承の言葉は決して待たないものの、本を持ち去るときにはなんだかんだいつも律儀に「本を借りていく」との宣言をしに来る彼女は、この日も同じように箒を飛ばして一直線、パチュリーの座る机のもとへ。だが、幻想郷最速に迫るという彼女の箒は、机付近で一気に減速し、そして止まった。
「......あ、アリス、だよな? 何、して......」
「............」
魔理沙の戸惑いと恐れが混じったような目は、パチュリーの隣に立ち、普段より色っぽい目でパチュリーを見つめ、その太ももにぴったりと指を這わせて、まさに今からその手で太ももを揉みしだかんとするアリスに向けられていた。アリスはあまりの事態に黙り込んで固まってしまう。それが最も悪手であるということに気づいて彼女が口を開いた時には、もう手遅れだった。
「......魔理沙、違うの」
「そっ、そ、そういうのは......もっと隠れてやるもんだろうがーっ!!」
「魔理沙?! ちがっ、聞いて!! 待って!」
見て分かるほど耳の先まで真っ赤に染めた魔理沙は箒を180度回転させ、全速力でつい先ほど開いた図書館の扉を駆け抜けていく。アリスはその事態のまずさに慌てて、こちらも全速力で魔理沙を追った。だが、スピード勝負は魔理沙の得意分野だ。この日のアリスの追跡は結局徒労に終わることになる。
幸いにして魔理沙は誰にもこのことを話さなかった―思い出すだけで赤面してしまうのに、どうして人に話せようか―ので、都会派魔法使いのスキャンダルは新聞に載ることも、人里に知れることもなかった。だがアリスはその後2週間、なかなか誤解の解けない魔理沙に犯罪者を見るような目で見られたそうな。
◇パチュリー・ノーレッジ
アリスが魔理沙を追って図書館を飛び出してから小一時間後。パチュリーはついに分厚い本を読み終え、数時間ぶりに動いた。ぱたん、と本を閉じ、余韻を転がすように表紙に目を落とす。面白い本だった。少々文章が乱れているのは気になったが、語られる内容は示唆に富んでいたし、乱れているからこその鮮やかな文章表現に舌を巻くこともあった。パチュリーはしばらくそうして、今しがた読んだ本の内容を思い返していた。
それが終わるとパチュリーは机に本を置き、小悪魔を呼びつける。どことなく不愉快そうな表情のパチュリーと対照的に、小悪魔はご機嫌な顔で現れた。
「はいはいっ、御用でしょうかパチュリー様っ」
「御用でしょうか、じゃないわよ。まあいいわ、顔、出しなさい」
「へっ? ......あ、え、あの、もしかして今ですか?」
「今よ。ほら、早く」
小悪魔は主人の思いがけぬ命令にきょとんとし、それから狼狽える。パチュリーがこう言ったら、それは「点滴」の合図だったから。
小悪魔は、あくまで「小悪魔」だ。司書として召喚され、例外はあれど基本的には真面目に働くようになってからというもの、彼女は目に見えて弱体化した。何しろ悪魔の本懐であるところの「悪徳」をほとんどやっていないのである。アリスに仕掛けたような悪戯も、せいぜいおやつどまりといったところ。そのため小悪魔は、ほとんど毎日パチュリーから魔力の「点滴」を受け、その存在を維持していた。小悪魔にとっても、敬愛する主人の魔力を注ぎ込まれる多幸感はこたえられないものだった。
だが、よりにもよって今はタイミングが最悪だ、と小悪魔は思う。ついさっきアリスに悪戯を仕掛けた小悪魔は、例えるなら「夕食の前におやつを目一杯食べてしまった子供」だったから。今はそれなりに力が満ちている状態なのである。
「ああもう、まどろっこしいわね」
「おぉぅあ!?」
パチュリーが不機嫌な表情で指をくいっと動かす。すると小悪魔のネクタイがまるで引っ掴まれたようにしてパチュリーの方へ引っ張られ、小悪魔の顔はパチュリーの前へと引きずり出された。
「ぱ、パチュリー様......んむぅっ!?」
パチュリーは勢いそのままに小悪魔の唇を奪う。ちなみに、パチュリーによる「点滴」は別に粘膜接触を必要としない。というか本当は体を触れ合わせる必要さえないものだ。今回パチュリーほどの魔女がわざわざ粘膜接触などという魔力の受け渡しの最も原始的な方法を取ったのには、きちんと理由があった。
「んぅーっ! .....ぷぁっ、んあぁっ!」
パチュリーに唇を奪われた小悪魔が涙目で喘ぐ。パチュリーのテクニックは確かであった。そうでなくても、ただでさえお腹が満たされていたところに大量の魔力を一気に流し込まれたのだ。粘膜接触で渡した魔力は、最も効率的に受け手のものへと変換される。小悪魔は一気に気が狂いそうなほどの快楽を流し込まれたのだった。
「ぷぁ......これは、お仕置きよ。小悪魔、アリスに嘘を教えるのはやめなさい」
「っ、嘘って、なんの......」
ようやく長いキスを終え、涎の橋を袖で断ち切ってパチュリーは端的にそう言う。小悪魔は大きく息を吸い込みながら、回らない頭で何とか返事をした。
「私は読書に集中してるからといって感覚を無くしたりしないわ」
「......えっ」
パチュリーから明かされる衝撃の事実に、魔力の供給過多でトロンとしていた小悪魔の目も思わず大きく見開かれる。慌てる小悪魔を、パチュリーは不思議そうに見つめる。
「ちょ、ちょっと待ってくださいよ。それじゃあ、私やアリスさんがあんなことやこんなことをしたのも」
「ああ。全部しっかり覚えてるわよ。小悪魔が1時間以上太ももを揉んできたのもね」
「いや、いや、そんな、いやいやいや......」
小悪魔の焦りっぷりを見てか、皮肉っぽく、ほんの少しだけ口元を歪めて意地悪にそう言うパチュリー。小悪魔は柄にもなくすっかり狼狽しながら、それでも意地で当然のことを訊く。
「じゃ、じゃあなんでこれっぽちも反応しなかったんですかっ」
「別に、嫌じゃないし邪魔でもなかったからよ。やめてほしければ、やめさせるもの」
即答。どこかズレたその言葉は、まさしく魔女の回答であった。邪魔だから、と加齢を捨て、面倒だから、と食事を捨てる、魔女の思考。小悪魔はそれがこんなところにまで現れると思わず絶句してしまう。あまりの衝撃に、一拍遅れで我慢していた快楽の波が眠気と共に襲い掛かってきた。
薄れゆく意識の中で、小悪魔はアリスに同情していた。難儀な魔女のことを好きになってしまったあまりに、きっとあの魔法使いはこれから苦労することになるだろう。それはそれで、楽しめそうではあるけれど。
そんなイメージを最後に眠りに落ちた小悪魔を、パチュリーは魔法でふわりと抱き上げるように支える。最後まで小悪魔の戸惑いを解さないパチュリーは、普段通りの表情で小悪魔を寝所まで運ぶのだった。
ページをめくる音だけが時折響き、書棚に吸い込まれて消えていく図書館。アリス・マーガトロイドは、読書にとってまさに理想的といえるこの環境にあって、全くと言っていいほど読書に集中できていなかった。さっきからページをめくっているのは、対面に座る同業者にして友人、パチュリー・ノーレッジだけ。整った顔立ちは俯いて手元の本に向けられ、宝石のような紫の瞳は文字を追って穏やかに動いている。......アリスはいつの間にかまた自分の目がパチュリーを舐めるように観察していたことに気づき、思わず赤面した。実際には彼女の人形のような肌にそれと分かるほど赤みがさしていたわけでもないのだが、少なくとも心の中では真っ赤だった。焦りから、もう無意識に何度も確認して大丈夫だと分かっているはずなのに、アリスは視線が気づかれていないだろうか、とそれとなく覗き込むようにしてパチュリーの様子を窺う。一方、本日何度目になろうかという確認を決行された当のパチュリーはといえば、さっきと変わった様子など微塵も見えずまるで時間が止まったかのように同じ姿勢で本を持って座っていた。ふっと動きが生じたかと思えば、ほんの最小限の動きでページをめくり、また同じ姿勢に戻るだけ。アリスは心配が杞憂に終わったことに安堵しながらも、同時に深くため息をついた。
(小悪魔がちょっと口走ったことでこんなに心を乱されるなんて......ほぼ確実に悪戯に決まってる、のに)
アリスの悩みの発端は、30分ほど前の出来事。紅茶を運んできた小悪魔の、何気ないひとことだった。
「アリスさん、パチュリー様、紅茶のおかわりとお茶菓子はいかがでしょうか?」
「あら、ありがとう小悪魔。それじゃあいただくわ。パチュリーは......パチュリー?」
アリスが呼びかける声に、パチュリーは返事をしない。アリスは訝しむ。単に「いらない」という意思表示にしてはあまりにも反応がないのだ。表情も、体も全く動かない。かと思えばページをめくるためにわずかに指を動かし、そしてまた動かなくなる。無視にしたって徹底しすぎている、と驚き呆れるアリスの隣で、紅茶を注ぎながら小悪魔は事もなげに言った。
「ああ、パチュリー様ったらアリスさんがいらっしゃっているというのにまた集中しすぎてるんですね」
「集中って、いくらなんでも集中しすぎじゃない?」
「パチュリー様は本当に気になる本を読まれていると周りの声が全く耳に入らなくなるんです。寝ているのに近いかも......いえ、睡眠状態なんかよりよほど反応がないですね。一度実験を試みたお嬢様が、何をしても反応しないパチュリー様にしびれを切らして耳元で全力で叫んで、そのときはじめて反応してスペルカードを開けたことがあるくらいですから。本を読むのに支障がなければ、基本的に何をしても無駄なんです」
「......それは、なんともパチュリーらしい話ね」
アリスは少しひきつった声でそう相槌を打つ。パチュリーの読書家ぶりはよく知っていたつもりだが、よもやここまでとは。とんでもないエピソードに少しだけ引いてしまうアリスだったが、小悪魔の次の言葉に思わず引っかかってしまう。
「ええ、声どころかボディタッチだって同じです。本を読むという動作さえ遂行できる状態なら、肩を叩かれようが頭を触られようがお構いなしなんですよ。私なんて一度、太ももを揉み揉み......あ、おほん。あー、ともかくパチュリー様はこの調子だとまだまだ集中して読書をなさるご様子ですし、もし何か御用でしたら私までお声がけくださいね」
「......あ、ありがとう」
不自然なほど返事に詰まってしまった。アリスにとっては幸いなことに、小悪魔は特に気にする様子もなくアリスたちのテーブルを離れていく。あとに残されたのは、まるで何もなかったかのように―小悪魔の話を信じるなら、本人にとっては本当に何もなかったのだ―読書を続けるパチュリーと、それからすっかり読書の手が止まってしまったアリスのふたりだけ。
(何を動揺しているの、私は)
アリスは自分に言い聞かせるように冷静さを取り戻そうとした。しかし、小悪魔が言い放った「ボディタッチ」という言葉がどうにも頭を離れない。思わずパチュリーを見つめてしまう。出不精のくせにけして不健康ではない、すべすべで真っ白な肌。ほんの少しふっくらとした、柔らかそうな頬。本人は頓着しないから小悪魔が手入れしているのだろうか、艶のある紫の長い髪。そして何より、知性と気難しさとを同時に感じさせる整った美貌。
アリスはそこまでじっとパチュリーを見つめて、ようやく自分の思考がとんでもないことになっているのに気付いた。これではまるで、どこぞの烏天狗の盗撮記事みたいだ。
「......パチュリー?」
もう一度声をかけてみる。やはり反応はない。聞こえていて無視をしているのではなく、本当に本以外何も認識していないかのようだった。
「集中、してるのね」
席を立ちあがってみる。パチュリーはこちらに一瞬さえも意識を向けない。きっとアリスが立ち上がったことにも気づいていない。アリスはなんとなく止まれなくなる気がして、慌てて腰を下ろした。
アリスは動揺している中でも大体のことを把握してはいた。要するに小悪魔といえど彼女もまた「悪魔」なのだ。「悪魔」とはとかく魂の契約ばかりが取りざたされる種族であるけれど、彼らが日常的に欲するのはひとの戸惑いや絶望、驚きといった動揺の感情。それがそのままエネルギーにもなるし、なにより悪魔はそういう状態のひとを見て楽しむのが大好き、とされている。わざわざ「ボディタッチ」だなんて単語まで言い、わざとらしく言外に「今のパチュリーは読書に支障がなければ何をされても無反応」ということを伝えて去っていった小悪魔の行動も、この性質と一緒にして考えるとつまりアリスの感情を食べるためなのは明白だった。小悪魔の気配は遠くに歩いていったきりのように感じられるが、あるいはどこかに隠れていてもうすでにこの戸惑いも美味しくいただかれているかもしれない。それは、なんとなく癪だ。アリスの中の冷静な部分がそう訴える。
と、なるとアリスがすべきことはただただパチュリーを放っておいて平常心を取り戻し、読みかけの本にもう一度取り組むことだけだった。......そう結論付けて本を開いたアリスは、しかしその後も悶々とし続け、話は冒頭に戻る。アリスはここにきて、いよいよ我慢や辛抱を維持するのが難しくなってきていた。
(......そもそも、小悪魔が見てるとは限らないわよね)
悩み始めてから通算4度目となる起立。アリスは立ったまま周りを観察した。小悪魔らしき人影も、魔力を使っての監視も、少なくとも感知できる範囲にはない。やろうと思えばもっと詳しく調べることも、あるいは簡易的な結界を張ることもできただろうに、アリスはそのどちらも選択せず、ただ突き動かされるようにテーブルを回りこむ。......隣に立ってもなお、パチュリーは微動だにしなかった。
「これは、実験よ。レミリアがしたのと同じ」
誰に言い訳をしているのかさえもよく分からない。アリスの手は、ついにゆっくりとパチュリーの頭へ伸びていた。
◇小悪魔
小悪魔といえど「悪魔」の端くれ。アリスが秘めている―小悪魔からすればほとんど隠せていないに等しい―パチュリーへの愛に気づいてからというもの、小悪魔の関心事は専らどうやってアリスの美味しい感情を堪能するかだけだった。パチュリーの「集中」を利用することはすぐに思いついた。愛する主人とその客人でさえ美食のためなら利用することを辞さない姿勢こそ悪魔の鑑である。
「ふふ、新鮮な『動揺』......アリスさんにも、こんな一面があるんですねぇ」
小悪魔が特に好きなのは、強者の感情だった。普段確固たる「我」を持ち、そう簡単には崩れないような実力者が思わぬところで見せる「動揺」こそ最高の甘露。とはいえ主人であるパチュリー様をそこまで持っていくのは性格からしてもほぼ不可能だし、その盟友であるレミリアお嬢様はなかなかいい反応をしてくれたりもするけどあんまりやりすぎると何があるか分からないし、普段よく来る白黒はまったく未熟で美食にはなり得ないし......と一丁前にグルメを気取っていた小悪魔にとって、アリスはまさにちょうど良い、理想の「食材」だったのだ。ちょっと揺さぶっただけでこれだけひとりで悩んでくれるとは、悪魔冥利に尽きるといった感じでもある。
「......お、いよいよ行動、ですか」
小悪魔はアリスの行動を図書館の隅にあてがわれている自室から観察していた。魔法ではない、「こういうこと」のためにだけ発動する悪魔としての力を利用した方法のため、冷静でないアリスが観察されていることに気づく可能性はごく低い。今回の一連の仕掛けは完全に小悪魔の勝ちと言えた。
「ふむふむ、まずは頭なでなでから。王道ですね」
アリスがパチュリーの帽子の後ろ、後頭部あたりの髪に恐る恐る手を当てる。それでもパチュリーが微動だにしないのを見て、さらに恐る恐る髪に指を通す。小悪魔が日頃から勝手に丹精込めて手入れしている絹糸のような紫髪が、アリスの指の間を滑った。
アリスは、はじめ緊張したようにぎこちなかった手つきを徐々に滑らかにしていく。かなりしっかりと触っても、パチュリーは一切動じない。後ろを気にする様子さえない。本を読むという動作には干渉しないからだろう、と小悪魔は主人の奇特な精神構造を妄想した。契約のためパチュリーの「観察」をすることはできないが、きっとそうだ。
アリスは小悪魔に見られていることに気づかず、だんだんとエスカレートしていく。さんざん手櫛を楽しんだあと、しばし葛藤するように動きを止めて、それから少しずつパチュリーの後頭部に顔を近づける。ボリュームのあるパチュリーの髪に、アリスはたっぷり時間をかけて近づいたあと、最終的には顔を埋めた。
「おぉ~、なかなかこれは......」
アリスの思いがけず大胆な行動に、小悪魔は思わず感嘆の声を漏らしてしまう。しかし考えてみれば無理もない。小悪魔がけしかけた段階で、アリスはすでに相当の想いをため込んでいたのだ。一度堤防が決壊すれば歯止めが効かなくなるのも当然と言えた。
小悪魔はそのまま観察を続ける。不幸なのか幸せなのか、一概にどちらとは言いづらいが、とりあえずアリスはそれに気づくことの終ぞないままパチュリーへのボディタッチを堪能するのであった。
◇アリス・マーガトロイド
アリスはもう数十分ほど「実験」を続けていた。結論から言うなら、パチュリーは一度も反応していない。アリスが未だ「実験」を続けていられるのが何よりの証左と言えた。
(本当に、読書家にしたってここまでとはね)
アリスは小悪魔の言ったことをしっかりと覚えており、目線を邪魔する可能性のある顔、本の保持やページをめくることに支障があるかもしれない腕には触れていない。逆に言えばそれ以外のところは、あまり品のない言い方をするならまさに触り放題であった。
アリスのお気に入りはやはりなんと言っても髪だった。上質な生地のようにも、手で掬い上げた清流のようにも感じられる極上の手触りには中毒性がある。それに、アリスの手の動きに合わせて形を変えるそのしっとりと輝く紫色は、図書館内の明かりの微妙な変化で次々に表情を変えるのだ。アリスはすっかりこの感触に病みつきになってしまっていた。なんとかしてもう少し太らせないといくら魔女とはいえまずいのではないだろうか、と思った薄い背中や、髪をかき分けた先に現れる真っ白でほっそりとしたうなじなども相当によかったが、やっぱり髪の毛に手櫛を通すのが何にも代えがたい楽しみをアリスに与えていた。
(......いや)
いや、とアリスはそこまで回想してから内心で一人ごちる。唯一、まだ一か所だけ、試せるはずなのに試していない場所がある。
『私なんて一度、太ももを揉み揉み......あ、おほん。』
小悪魔がわざとらしく言いかけて咳払いで誤魔化したその台詞を、アリスは脳内でリピートした。そこまでやれば一線を越えるような気がして、そして何よりこの状況を見ているかもしれない小悪魔に完全に誘導されているような行動をとるのが悔しくて、これまでの数十分間意図的に無視し続けてきたその場所。アリスは視線を落とし、ゆったりとした薄紫のローブに包まれたパチュリーの太ももをちらりと見た。ローブの上からではそのシルエットが分からない。何よりもその事実がアリスを太ももへ駆り立てつつあった。確かめたい。
パチュリーは、背中で分かったように極度に不健康なやせ方をしている。とはいえ、顔だちを見ているとむしろどちらかといえばふっくらした印象を受けるのも事実だ。それに、胸だって結構あるほうだと―少なくともアリスよりはあるようだと―噂に聞く。と、なると太ももはどうなのか。
(......これは確認。確認だから)
もしもむちっとした感触が手に伝わってきたなら、ぜひ堪能したい。不安になるほど細かったなら、それはそれで愛らしい。アリスは自然、手を下へ伸ばしていた。いっそ小悪魔に踊らされようという気にすらなった。だいいち見られているのだったらもう既に取り返しがつかないレベルで踊らされているのだったが、アリスは今ようやく「小悪魔が何するものぞ」と決心をした。
アリスの手が、ついにパチュリーの太ももへと降り立つ。パチュリーは依然として、アリスなどいないかのように、黙々と本を読んでいた。静まり返った図書館に、ぺら、とページをめくる音が響く。次に、それよりも小さな衣擦れの音。アリスはそこにあるパチュリーの太ももに、満を持して指を這わせ、そっと力を込めた。
瞬間、図書館の扉が大きな音と共に開く。
「よーっす、パチュリー! また本を借りに来た、ぜ......」
果たして飛び込んできたのは普通の魔法使い、霧雨魔理沙その人であった。了承の言葉は決して待たないものの、本を持ち去るときにはなんだかんだいつも律儀に「本を借りていく」との宣言をしに来る彼女は、この日も同じように箒を飛ばして一直線、パチュリーの座る机のもとへ。だが、幻想郷最速に迫るという彼女の箒は、机付近で一気に減速し、そして止まった。
「......あ、アリス、だよな? 何、して......」
「............」
魔理沙の戸惑いと恐れが混じったような目は、パチュリーの隣に立ち、普段より色っぽい目でパチュリーを見つめ、その太ももにぴったりと指を這わせて、まさに今からその手で太ももを揉みしだかんとするアリスに向けられていた。アリスはあまりの事態に黙り込んで固まってしまう。それが最も悪手であるということに気づいて彼女が口を開いた時には、もう手遅れだった。
「......魔理沙、違うの」
「そっ、そ、そういうのは......もっと隠れてやるもんだろうがーっ!!」
「魔理沙?! ちがっ、聞いて!! 待って!」
見て分かるほど耳の先まで真っ赤に染めた魔理沙は箒を180度回転させ、全速力でつい先ほど開いた図書館の扉を駆け抜けていく。アリスはその事態のまずさに慌てて、こちらも全速力で魔理沙を追った。だが、スピード勝負は魔理沙の得意分野だ。この日のアリスの追跡は結局徒労に終わることになる。
幸いにして魔理沙は誰にもこのことを話さなかった―思い出すだけで赤面してしまうのに、どうして人に話せようか―ので、都会派魔法使いのスキャンダルは新聞に載ることも、人里に知れることもなかった。だがアリスはその後2週間、なかなか誤解の解けない魔理沙に犯罪者を見るような目で見られたそうな。
◇パチュリー・ノーレッジ
アリスが魔理沙を追って図書館を飛び出してから小一時間後。パチュリーはついに分厚い本を読み終え、数時間ぶりに動いた。ぱたん、と本を閉じ、余韻を転がすように表紙に目を落とす。面白い本だった。少々文章が乱れているのは気になったが、語られる内容は示唆に富んでいたし、乱れているからこその鮮やかな文章表現に舌を巻くこともあった。パチュリーはしばらくそうして、今しがた読んだ本の内容を思い返していた。
それが終わるとパチュリーは机に本を置き、小悪魔を呼びつける。どことなく不愉快そうな表情のパチュリーと対照的に、小悪魔はご機嫌な顔で現れた。
「はいはいっ、御用でしょうかパチュリー様っ」
「御用でしょうか、じゃないわよ。まあいいわ、顔、出しなさい」
「へっ? ......あ、え、あの、もしかして今ですか?」
「今よ。ほら、早く」
小悪魔は主人の思いがけぬ命令にきょとんとし、それから狼狽える。パチュリーがこう言ったら、それは「点滴」の合図だったから。
小悪魔は、あくまで「小悪魔」だ。司書として召喚され、例外はあれど基本的には真面目に働くようになってからというもの、彼女は目に見えて弱体化した。何しろ悪魔の本懐であるところの「悪徳」をほとんどやっていないのである。アリスに仕掛けたような悪戯も、せいぜいおやつどまりといったところ。そのため小悪魔は、ほとんど毎日パチュリーから魔力の「点滴」を受け、その存在を維持していた。小悪魔にとっても、敬愛する主人の魔力を注ぎ込まれる多幸感はこたえられないものだった。
だが、よりにもよって今はタイミングが最悪だ、と小悪魔は思う。ついさっきアリスに悪戯を仕掛けた小悪魔は、例えるなら「夕食の前におやつを目一杯食べてしまった子供」だったから。今はそれなりに力が満ちている状態なのである。
「ああもう、まどろっこしいわね」
「おぉぅあ!?」
パチュリーが不機嫌な表情で指をくいっと動かす。すると小悪魔のネクタイがまるで引っ掴まれたようにしてパチュリーの方へ引っ張られ、小悪魔の顔はパチュリーの前へと引きずり出された。
「ぱ、パチュリー様......んむぅっ!?」
パチュリーは勢いそのままに小悪魔の唇を奪う。ちなみに、パチュリーによる「点滴」は別に粘膜接触を必要としない。というか本当は体を触れ合わせる必要さえないものだ。今回パチュリーほどの魔女がわざわざ粘膜接触などという魔力の受け渡しの最も原始的な方法を取ったのには、きちんと理由があった。
「んぅーっ! .....ぷぁっ、んあぁっ!」
パチュリーに唇を奪われた小悪魔が涙目で喘ぐ。パチュリーのテクニックは確かであった。そうでなくても、ただでさえお腹が満たされていたところに大量の魔力を一気に流し込まれたのだ。粘膜接触で渡した魔力は、最も効率的に受け手のものへと変換される。小悪魔は一気に気が狂いそうなほどの快楽を流し込まれたのだった。
「ぷぁ......これは、お仕置きよ。小悪魔、アリスに嘘を教えるのはやめなさい」
「っ、嘘って、なんの......」
ようやく長いキスを終え、涎の橋を袖で断ち切ってパチュリーは端的にそう言う。小悪魔は大きく息を吸い込みながら、回らない頭で何とか返事をした。
「私は読書に集中してるからといって感覚を無くしたりしないわ」
「......えっ」
パチュリーから明かされる衝撃の事実に、魔力の供給過多でトロンとしていた小悪魔の目も思わず大きく見開かれる。慌てる小悪魔を、パチュリーは不思議そうに見つめる。
「ちょ、ちょっと待ってくださいよ。それじゃあ、私やアリスさんがあんなことやこんなことをしたのも」
「ああ。全部しっかり覚えてるわよ。小悪魔が1時間以上太ももを揉んできたのもね」
「いや、いや、そんな、いやいやいや......」
小悪魔の焦りっぷりを見てか、皮肉っぽく、ほんの少しだけ口元を歪めて意地悪にそう言うパチュリー。小悪魔は柄にもなくすっかり狼狽しながら、それでも意地で当然のことを訊く。
「じゃ、じゃあなんでこれっぽちも反応しなかったんですかっ」
「別に、嫌じゃないし邪魔でもなかったからよ。やめてほしければ、やめさせるもの」
即答。どこかズレたその言葉は、まさしく魔女の回答であった。邪魔だから、と加齢を捨て、面倒だから、と食事を捨てる、魔女の思考。小悪魔はそれがこんなところにまで現れると思わず絶句してしまう。あまりの衝撃に、一拍遅れで我慢していた快楽の波が眠気と共に襲い掛かってきた。
薄れゆく意識の中で、小悪魔はアリスに同情していた。難儀な魔女のことを好きになってしまったあまりに、きっとあの魔法使いはこれから苦労することになるだろう。それはそれで、楽しめそうではあるけれど。
そんなイメージを最後に眠りに落ちた小悪魔を、パチュリーは魔法でふわりと抱き上げるように支える。最後まで小悪魔の戸惑いを解さないパチュリーは、普段通りの表情で小悪魔を寝所まで運ぶのだった。
されるがままになってるパチュリーがとてもよかったです