Coolier - 新生・東方創想話

耳鳴りと、海。

2025/01/09 22:31:06
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耳鳴り。それは原初に還る。
振り返れば聞こえるはずの、私の声。
聞こえなくなった時、やっとあなたに逢える。

『耳鳴りと、海。』

 淡く光る水の中で目覚めた。夢の名残を指先でなぞって追いかけてみると、戯れる光の悲しみが花びらみたいに私の手の上で揺れる。微睡みが覆い隠してしまったノスタルジアに不意に胸が苦しくなって、私は水中で宙返りした。一つ、二つ。ほらね、きっと、元通り。

 服を着替えて水面まで浮かび上がった。新しい肌着はまだ、私の世界に似合わない。もう一度潜って、また水面まで。繰り返すと変に素敵ないい気分になった。まるで遠い恋を探しているみたいだと、私は不意に思いつく。甘い恋なんて知らずに生きてきたのにな。エンデュミオンはきっと、私を見てはくれないから。

 集めた透明な砂をふわりと投げ上げると、虹のように光りながら散ってしまう。淡い碧色の暗闇で、私の手を離れたそれはもう戻らない。白いため息をもの憂い水底に零して、私ひとりが残されていた。
 宙返り、宙返り、宙返り。遠い場所を夢見ては、その余韻を数えているだけ。留まって動けない言葉を「私は」と口に出してみても、何一つだって変われはしない。いつだって気付くのは少しだけ遅すぎるのだ。適切な情動もモンタージュめいた感傷も、私がうまく言葉にできないことに。
(ねえ霊夢、私結界の外に出てみたいの。博麗神社の巫女さんに、私はいつかそう言った。「どうして?消えてしまうかもしれないのに。」「私ね、海を見てみたいの。」「ふうん……。」)

 浮かぶ。真空を夢見て、フラクタルみたいな感情で、ナルキッソスに口づけを。これだって、持って回った意味のない言葉たち。タイム・パラドクシア。ただ空を見上げていられたらいいのに。「ねえ、私に空を見せてよ」退屈な朝に思いつくのは、いつもつまらないことばかりだ。
「どこか遠くに行きたいな」と、私はやっぱりこんないつかの朝、影狼ちゃんに言ったのだ。遠いんだ、透明な空に全部が置き去りにされたみたいでと言ったら、鈴奈庵の本の読みすぎだよって笑われた。何かが欠けている気がするのは、ずっと消えない耳鳴りのせい。この場所に私がいることの、永遠みたいな耳鳴りのせいだ。
(私は目を閉じる。遠いざわめきが水面を覆う霧の中で静かに反響する。私の体温を少しだけ連れ去っては消えていく……。)

 気が付くと私の手の中に風に吹かれて来たその絵葉書があったから、たぶん私は少しだけ眠っていたのだと思う。少し濡れてしまった、でもまだ新しそうなその絵葉書に宛名はなくて、見たことのない文字が何行か書かれて並んでいた。私はそれを裏返して、描かれた絵を見た。忘れられたカンヴァスの、夢のような色彩。それは、海――夕日に溶け合う、海。

 私は、海を見たことがない。遠いあの朝、私はどうしようもないくらい哀しく海が見たくなって、住み慣れたあの川瀬を離れて河口を目指したのだ。美しい朝。永遠のようだったあの朝。私は出会った魚たちと、どこまでもどこまでも泳いでいった。まるで空を飛んでいるみたいだとかそんな子供っぽい感情も、あの日だけは全部本当だと思えた。それは本当に、何よりも美しい朝だったのだ。だけれどいつまでも消えてくれない思い出の、行き着くところはいつも同じだ。私は動けなくなって、汚染された水面で、酷く現実的な月の光が私の最後の呼吸を遠く取り返していくのを感じていた。私は目を閉じて夢を見た。懐かしいあの川で、私を慕ってくれていた小さな子どもたちの夢。私の頬には、たぶん涙が落ちていたのだと思う。そこだけがやけに冷たく感じられたから。
 体がどこかへ運ばれていくような感じがして、次に私が目を開けた時、そこはこの湖で霧は優しく私の吐息を包んでいた。境界の向こう側の月は真珠のようにぼんやりと光っていた。この場所の空も綺麗だったらいいなと私は思った。

 その時始まった耳鳴りが、今も消えずに残っている。

 冬の日差しが私の上で白熱していく。私はこの場所にいて、今日も水底の石を拾い集める。霧が晴れた水面に見えるのは、青い空だけだ。
 つまらないジャズを聞きたい気分だった。いつか魔法使いが落として行った、砂糖でできた星屑を噛む。恋色の味は私の中を溢れて、もう戻れなくなってしまえたらいい。

 昼過ぎにフランちゃんが遊びに来た。約束していた通り、私は湖で集めた翠色の石を彼女にあげた。彼女は水の中でも消えない銀色の薪の欠片を私にくれた。「私も水の中を泳げたらな」と、日傘の下で淋しそうに彼女は言った。
 結局私たちは、届かない場所に手を伸ばすのだろう。どれだけ近くても、どれだけ遠くても、届かないものはきっとあるのだ。

 退屈な一日は変わらずに過ぎて、曇った空の向こうで今日が終わる。溢れることもなく暮れていく、これもたぶん、私の一部なのだと思う。抱き上げたって抱えきれない、愛しい日常の匂いだ。
 穏やかな赤色を浮かべる水面で、開いた読みかけの本の中にも、やっぱり退屈な日々が映っている。美しいまま虚空に溶け合っていく。風に乗って遠くから音楽が聞こえてきた。たどり着けない場所も、変わらない日々も、全部を愛せるような気がした。

 月の光を散り敷いた銀砂に集めて、泡の中で読み終えた本をそっと閉じる。小鈴ちゃんにまたお礼の手紙を書いて、今度はお店から、詩集か何かそんなふうな本を持ってきてもらおう。ふと思いついて、私はすっかり乾いた絵葉書を本のページにそっと挟み込んだ。この海の絵を、次に見つけるのは誰だろう。小鈴ちゃんか、それとも私の会ったこともない誰かだろうか。

Elle est retrouvée.
Quoi? - L'Éternité.
C'est la mer allée
Avec le soleil.

 書かれた言葉はやっぱり見知らぬ文字たちで、でも私はどこかでそれを知っていたような気がした。


消えない耳鳴りは、もう良いの。
私はちゃんと、ここにいられるから。
わかさぎ姫を等身大で書いてみました。
絵葉書の詩は、ランボー『永遠』の冒頭です(私は日本語訳で読んだだけなのですが…笑)。
小林 冴
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コメント



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1.90奇声を発する程度の能力削除
面白かったです
2.100ありがてぇ…!キンッキンに冷えてやがるッ!削除
書き方がとてもうまいと思った。
こういうナレーション風を書いてみたいと思った。
これからも頑張って下さ
3.100南条削除
面白かったです
フランと仲いいの斬新でした
4.100のくた削除
フランの登場と台詞が良いアクセントでした
5.100名前が無い程度の能力削除
ノスタルジックな憧憬と、現状への小さな満足があるような気がします。良かったです。
6.80夏後冬前削除
読んでて心地の良い言の葉の群れでした
7.90ローファル削除
わかさぎ姫の日常がしっとりした雰囲気の文章で描かれていて素敵でした。
面白かったです。