一.
輝夜は耳に痛みを感じて目を覚ました。何があったのかと耳に触れようと手を伸ばしたら、今度は布団から出した手が痛んだ。
体の問題ではなく、布団の外の環境に問題があるらしい。見えない針が空中にあってそれが刺してくるような、尋常じゃない寒さが布団外の世界を覆っている。部屋は暗く、外も同様だろう。輝夜は、蘇った羿がとうとう残り一個の太陽までも射落としてしまったのかと思った。世界の終わりかもしれない。しかし輝夜にとっては世界が終わるかどうかよりも安眠を冷気に妨害されたことの腹立たしさの方が重大だったので、布団を思いきり深く被って二度寝をした。
一度目に起きたときに暗かったのは単に今の季節が冬の始まりで日の出が遅かっただけというのが結論で、まどろんできた頃に空は白み始めた。しかし気温は戻らず、それどころかより一層不可視の針は鋭さを増していた。輝夜は今度は永琳を疑った。前の異変で偽物の月を浮かべ、月の都に対して地上を密室にしたように、太陽を偽物にした。偽物にするにしたって光らせるだけじゃなくて熱量もコピーしてほしい。というか太陽を敵に回すってあなた何したのよ。今回は私には身に覚えがないわよ。
夢の延長線でそんなことを考えていたら、襖の向こうをイナバが横切って、その影を見た衝撃で目が覚めた。信じがたいが布団の外側もハビタブルゾーンに収まっているらしい。イナバの生存事例を見て輝夜はまだなお半信半疑だったが、布団の中で座して死を待つよりは(蓬莱人は死なないからこれは一種のジョークめいた表現ではある)、外で生き延びる半分の賭けをした方がよいだろうと布団から飛び出た。いつもならよく言えば優雅に、悪く言えば怠惰に這い出るようにして布団から離脱するのだが、この気温では布団から出て着替えるまでを迅速にしないと寒さになます切りにされてしまう。
イナバに用意してもらって布団の横に畳んでいた服だけではあまりにも不足していた。これは昨日の時点で今朝の事態を予見できなかった自分の責任と、輝夜は自分で箪笥の引き出しを開けて上着を取り出しては羽織るのを数度繰り返した。
虹が手足をつけて歩いているかのような外観になったところでようやく体感温度が適温に達し、襖を開けて外の様子を見ることができるようになった。
外は白銀に染められていた。その様子を一目見た輝夜は重ね着した服の重力が消えたかのような軽い足取りで小走りに廊下を走り、永琳に外の変化を報告しに行った。
「外が白くなった」
「地上だと冬になると雪が降るんですよ、姫様」
永琳は初めて雪を見た子供に教えるかのようにしたり顔でそう言った。彼女は試験管を振って、気温が下がると物が溶けづらくなるのがよくないと心の中で不満を表明している。
「忘れてたのよ。冬なんて千年ぶりだし。本当に雪で染まるのはびっくりだわ」
「確かに雪で新鮮な驚きができるのは今のうちですね。数日もすれば雪かきが面倒になってそれどころでは」
「未来なんて永遠にあるものを気にしていてもしょうがないでしょ。今を楽しまなきゃ」
「そうですね。よくよく考えると雪かきは『私たち』には関係のないことでした」
永琳の毒気のある答え方に、輝夜は一割だけ呆れた。
「永琳はもうちょっと部下を大事に使うってことを覚えた方がいいわね。ところで今既に問題になってることが一個あって」
「なんでしょう?」
輝夜ははっきりと物をいう方ではあるが、性格のおっとりとした上品さからか、はたまた大抵の状況に適応できるからか、文句を言うことは少ない。そんな輝夜が珍しく直訴をしそうとあって、永琳も手に持っていたものを試験管立てに入れて椅子を回し、聞く姿勢をとった。
「寒くない?」
輝夜は五重くらいになった服の袖を(手首から先を服の中に避難させてるので本当に袖しか見えない)振った。
「確かにこれは予想外でしたねえ」
月の頭脳も幻想郷の冬の気温がどのくらいかということを失念していた。山岳の神が海を知らず熱帯の神が雪を知らぬように、永琳も月の安定した気候によって育まれた常識に囚われていたのだった。とはいえ正確には全くの無策でもなかった。永遠亭にかけていた術を解いた夏の時点で永遠というゆりかごを失ったのだから対策は必要だろうと思っていたし、秋分を過ぎた頃には倉庫の肥やしになっていた火鉢を各部屋に配置はした。冬といっても秋との比較で気温差は摂氏五度くらいだろうと高をくくっていたら実際には十度下がったというだけのことだ。
イナバが一羽、また廊下を走った。イナバの大半ら永遠亭の外側の出身だから冬を知っているはずだった。間違いなく二人の冬対策があまりにも不完全だったことには気がついていただろうが、それについて一切の進言をしなかったのは。
「わざとなんでしょうね」
「たまにはピエロ役になるのも悪くはないんじゃない?」
永琳はため息をついて、輝夜は苦笑いした。冬に二人を埋めてクーデターをしようというくらいの悪意が見えていたら怒るところだったが、これは悪意よりもだいぶ無邪気ないたずらという範囲だ。それにイナバとて馬鹿ではない(なにせ小賢しさなら幻想郷では随一のてゐという兎に統率されている)から、二人が冬の寒さ程度でくたばる存在ではないということは首謀者達も分かっていることだろう。
「この程度で娯楽になるのなら確かに悪くはないですが、いくら兎が多少寒さに強いといっても氷点下の中暖房が火鉢だけという状況にもっていくのは自爆でしょう。いっそこのまま暖房なしで冬を越して愚かな選択をしたということを教育させてやるのも一つの手ですね」
「怒ってる?」
「いいえ。楽しそうなので私も同じようなことをしてみたいなと」
永琳は歪んだ笑みを浮かべた。輝夜にはそれが怒りに基づくものなのかサディスティックな快楽に基づくものなのかどちらかは分かりかねたが、いずれにせよろくなものではない。
「私は寒いのはお断りね。それに、仮に私たちがよかったとしてもじゃあそれでいい、という状況にはもはやなくなったでしょう」
「と、言いますと」
「ここは診療所でもあるのよ。普通の人間以上に体が弱い病人が来てなんなら入院する場所が暖房なしってのはいくらなんでも問題よ」
永琳とて外道ではないので、診療所と入院部屋部分に暖房があるかないかでいえばあるのだが。しかしそれを反論しても、今ある暖房は元々の甘すぎる予測に基づく強さでしかないだろうというさらなる反論には言い返せないのだった。
「では屋敷全体を暖房するとしましょうか……。姫様、お時間あります?」
「今から朝ご飯を食べるから、その後からお昼ご飯の間までならあるけれど……。私が必要なことなの?」
「ええ。姫様のお力が要りますね」
輝夜の能力は端的には時間操作であり、時間を操るということは空間を操作することと同義。永遠亭には空き部屋がいくつかあるが、この空間を輝夜の能力でなんやかんやいじくると部屋内の空気がなんやかんやされて、なんやかんやエアコンとほぼ同原理で暖房になる。輝夜の能力と永琳の頭脳が融合した蓬莱の薬並の超技術だ。
一方紅魔館は豆炭を使った。明らかに豆炭を燃やして熱を得た方が簡便なので当然である。永遠亭もこの三日後にはいそいそとイナバ達を豆炭買いに派遣することになるのだが、それはまた別の話。
二.
暖房仕事はそれなりに体を動かすものだったので、輝夜は重ねに重ねた上着のうち二枚は脱いだ。朝よりは気温が上がったし暖房も効き始めたからその分の調整という意味もある。しかし、それでもまだ夏と比べたら上に三枚くらいは着ていて、一、二枚色が減ってもまだ割と虹なのだった。
小さくなった虹が、脱いだ上着を片付けるために縁側を歩いていると、向こうから玉兎が歩いてきた。手を胸の位置で組んで、小刻みに振動しながら前進するその姿はブリキの玩具を思わせる。
「被害者三人目」
「うう……。姫様、寒いですねえ……。って、被害者ってどういうことです? この天気って誰かがわざとそうしたと?」
寒さにブリキ人形と化したこの玉兎、鈴仙・優曇華院・イナバも半年前に天気(というよりは天体だが)をどうこうした身内故、そういう発想になる。
「いや、冬自体は地上の普通の天気らしいけれど、こうなることを分かっていて私たちにわざと黙っていたのがいたでしょって話」
「はあ……。……」
鈴仙が黙って思考を、やはり振動しながら処理していると、三度
イナバが鈴仙の後方から走ってきて、彼女が高さ九段くらいある跳び箱であるかのように、彼女と、その少し前にいた輝夜を飛び越えて駆け抜けていった。
「……あー、あんたたちか!!」
犯人の姿を見たことと踏まれて脳のスイッチが入ったことで、鈴仙はようやくことの真相に辿り着いた。鈴仙ははっきり言って愚かだ。しかし、永琳だのてゐだのという動き回る悪知恵を複数名抱える永遠亭において、愚かさとは美徳なのではないかとも輝夜は思うのだ。鈴仙はてゐのことを永琳のペットと思っている節があるが、輝夜から見れば鈴仙の方がよほどペットもといマスコットにふさわしい。
「兎というのはいたずらものね。それも愛嬌なんでしょうけれど」
「いやいや。誠実な兎だっているんですよ」
「どこに」
「ほらここに」
「……」
輝夜は沈黙した。鈴仙の忠誠を疑うつもりは毛頭ないのだが、なんとなく黙っている方が面白いと思ったのだ。輝夜の性格は兎に近い所がある。
「いやいやいやいや」
「まあ、鈴仙が誠実なのかどうかはさておき」
「それはさておかないでほしいです」
鈴仙はふくれっ面になったがやっぱり輝夜は無視した。
「鈴仙って普通の兎っぽくないところあるわよね。兎ってもっと寒さに強くなかった?」
「まあ私は玉兎ですし」
「玉兎も。なんせ宇宙でも活動するでしょ?」
「あー。まあ、宇宙でも活動するってのはそうなんですが、そんなに寒くもないんですよ」
「宇宙って寒いんじゃなかったっけ。確か山って登れば登るほど気温が下がったわよね?」
輝夜は実際に登山をしたことがあるわけではなく(今のところ嵐山より高い山に登ったことはない)、これは永琳からの受け売りだ。永琳はよくこの手の話をする。話している本人からすれば科学的正しさの啓蒙なのだが、聞き手の輝夜の方は変なことを言ってると思いつつ、しかし永琳の言なので何かしらの意味があるのだろうという受け止め方になることが大半だった。
「空の気温は上に行けば行くほど下がるとは言われますが、それは山が存在するくらいの範囲だけのことで、天と呼ばれる領域になるとそう極端な寒さではないんですよ(無論これは常識の向こう側の世界の話で、現実世界の天は極端に寒い)。あと流石に生身で行くことはなくてそれ用の装備があるんですが」
「ああなるほど。それを身につければ寒くないのね」
「ですです。羽衣とかそうなんですけれど、あの見た目で防寒性能高いんですよ」
「私も宇宙服は持っているけれど、あれは旧式なんだっけ?」
輝夜はヘルメットの前面が黒い以外は全身白の、外の世界の典型的な宇宙服とほぼ同じ見た目の宇宙服を持っていた。
「アンティークとしての価値は凄いというか、普通地上にはないものなのでどうやって手に入れたのかつくづく謎なんですけれどねえ。まあ実用という意味では旧式で、性能そのままに重さが無限に減ったわけです。無限を通り越してマイナスですね。つまり、手がかじかむような寒さでは任務に支障が出るし、人を背負っているみたいな重さでも任務に支障が出る。仕事の効率に関わるところだけは人道的なんですよ、今の月の都は」
鈴仙による月の都評には未だ棘がある。彼の地が全くもって褒められたものではないということには輝夜も同意していたが、それにしても、例えば永琳が月のことをもう滅んだ王朝か遠い国かのように教科書的に話すのとは対称的だと思う。
「やっぱり兎っぽくない……のかしらね」
月の都について語る鈴仙は、輝夜には兎よりもむしろ捨てられたか家出したかした犬に見えた。もしかしたら兎も捨てられれば同じ性格になるのかもしれないが、野犬は見たことがあっても捨て兎は見たことがなかった。
「ああそうだ。てゐは見てないかしら」
「こたつ部屋に籠もってたと思いますけれど……。何か用事が」
てゐは内緒でこたつを配備して一人勝ち逃げを図っていたらしいと、輝夜はここで知った。別に驚くべきことではない。
「午後にね」
少し嘘。午後の用事のためにてゐが必要なのは事実だが、てゐと何かするのではなく、こっそり抜け出すための口裏合わせにてゐが必要なのだった。この役割は永琳以外なら誰でもよく(永琳に叱られないためのアリバイ作りなので)、つまり鈴仙に頼んでもいいといえばいいのだが、今までのやりとりでも鈴仙はあまりこの役には向いていないように輝夜には思えた。兎の方が小賢しくて適しているし、輝夜も兎の方が扱いに慣れている。
三.
てゐとの口裏合わせも終えて輝夜が部屋で待っていると、天井の板が二枚下向きに開いて、銀色の長髪が垂れ下がってきた。
「その登場の仕方ってさ、忍者みたいよね。今度誰かに『あの人誰なんです?』って聞かれたら忍者の末裔って答えていい?」
「よくねえよ。私はしがない焼き鳥屋で通ってるんだ」
天井の蓋を開けた主は降りてきて、銀の頭頂から赤のモンペまでの全身が着地した。
「通ってたかしら。……濡れてないわね。今雪は止んでるの?」
「ぼちぼちだな。濡れてないのは乾かしたからだ」
「乾かしたって、あんたの服の乾燥方法は」
「燃やせば乾く」
「どこで燃やしたの」
聞かぬとも分かる。侵入者、もとい来客、もとい妹紅の侵入経路は永遠亭の外周部→永遠亭の天井で、永遠亭の外には、塀の下含めて雪をしのげる場所はないから、侵入してから燃やしたに違いない。分かるが分からない。こいつには常識というものがないのかしら。
「別にいいだろ。どうせお前の屋敷は完全防火なんだから」
「建材まで火鼠の皮衣にした記憶はないわよ。あれは現代だと色々と規制が厳しいの」
「じゃなくて不変の術が」
「もう解いたわよ」
「あー。まあ、そういうこともある、よなあ」
妹紅の目が川鵜に追い立てられた小魚並みに泳いだ。
「それより今日は『四日』だからな。やるんだろ?」
妹紅のいう四日とは、太陰暦、つまり月の満ち欠け基準での四日だ。幻想郷はとうの昔に太陽暦を採用しているし、永遠亭もまた太陽暦で活動はしているが、満月の日に例月祭を開催する都合、諸々の予定は太陽ではなく月基準になりがちだ。そして月の満ち欠けにおいて四日目以降の数日は、例えば三日目の月が「三日月」と呼ばれるような特定の名前がないように、割につまらない日ということで輝夜も暇なのだった。だから妹紅と殺し合いをするときは月に名前のないこの日に入れていた。
ただ、今日の輝夜は殺し合いの気分ではなかった。
「そうねえ……。いや、やめておくわ」
「もう殺し合いに飽きたのかよ。そんなんでこれから先どうするんだよ」
「永遠にある未来の心配をしてもしょうがないでしょ」
輝夜は、他の不死者は一々未来の心配をしたがるのがよくないと思っている。
「大事なのは今よ。初雪の里の様子が気になるじゃない」
「別に大したものでもないと思うけれどな。どこかの誰かさんと違って、大半の人間にとって初雪は『順当に来たか』っていうせいぜい竹の節くらいの厚さの節目でしかねえんだよ」
「それでいいのよ。例えば動物園ってさ」
「動物園?」
「そういえば幻想郷に動物園はなかったわね。動物園っていうのは動物が暮らしているのを観察する施設、というかアトラクションなんだけれど」
昔の月の都には動物園があった。多分今はない。それは、地球上で生存競争している動物を上空から冷笑的に眺めることを趣旨とした催しで、輝夜は「動物園」と呼称しているが、外の世界の語彙で例えるならばどちらかというとサファリパークに近い。
「動物は客に特別な姿を見せようとは微塵も思っていなくてただ一生という線分上のルーティンで生きているだけ。でもそれを眺めてる側は非日常として動物園を楽しんでいるのよ。つまり日常の物見遊山を特別なものとして眺めることは娯楽として成立する」
「私から一つ忠告するなら、里の人間を動物扱いはめっちゃ失礼だからな? ってことだな」
「Homo sapiensも動物か、せいぜいその延長でしかないわ。人間の延長の私たちがおおむね人間の範囲内でしかないように」
「そのホモなんとかってのはなんなんだ」
「『人間』という名前につけられた特殊性を解いて他の動物と同じ枠組みに落とす呪言、って永琳が言ってた」
「永琳が言ってたなら確実だな。ただやっぱり人間を動物扱いするのはやめとけよ。里の人間には獣とも妖怪とも違うんだっていうアイデンティティがあるんだ」
妹紅の友人には獣でも妖怪でもある人間がいたが、だからこそ里の人間の基盤が「動物でも妖怪でもない」にあるということは強く感じていた。
「そのくらいの分別はあるわよ。私を世間知らずのお姫様だと思ってる?」
「思ってるが?」
なんだかんだ、妹紅は悪い気はしていないのだった。親の悲願は果たせそうにないが、少なくとも輝夜という箱入り娘を外に連れ出すことができる数少ない存在として、自分の父親含めたかつての五人の貴公子や帝からは優越した地位にいる。それに自分の役回りは輝夜にとっても特別なはずで、自分も輝夜をどうにかするのを続けることで千年は自己を保つことができる自信がある。こうした感情が輝夜を愛しているからだとは妹紅は頑なに認めたがらないしむしろ積極的に否定すらするが、「好き」という単語意外のあらゆる単語を用いて「好き」を表現することができるのだった。
四.
竹の葉の上にはカイコの繭を扁平にしたような形の雪が乗っていた。ちょうど二人が外に出た頃に雪は止んでいた。昼下がりの上がった気温もあって雪は更に増えるのではなく溶けていく段階になっていたから、繭の形の雪も表面が少し溶けて、それが日光に反射して薄黄色を透明にしたような色に光っていた。
「冬になると木の葉が落ちるという話を聞いていたけれど、竹の葉は落ちないのね」
「竹が落葉するのは春の終わりから夏の初めなんだよ」
「あらそうなの。記憶と違ってたわね」
「竹が変わってるんだよな。他の木はだいたい冬に禿げる。禿げて枯れ木みたいになる」
トサッという音が遠くで聞こえた。どこかの竹の葉から雪が落ちたらしい。
「あんたは葉のついていない木を枯れ木だと思うのね」
「お前は違うのか?」
「私は『まだ花が咲いていない木』だと思う」
「それは優曇華の木がそうだからじゃないのか」
優曇華の木、あるいは蓬莱の玉の枝。輝夜が五人の貴公子に要求した難題の一つ。虹色の玉が枝の先についている、先端の分岐がやたらと多い魔法の杖みたいな外見だが、正体は伝説の木本植物である。なので一度本物を手に入れさえすれば枝分けして増やすことも一応できる。栽培難易度は高いなんてものではなく、枝分けした瞬間に諸々の処置をしないと一瞬で枯れるので、枯れるまでの須臾の時間を永遠に引き伸ばせる輝夜の能力があっての枝分けなのだが。
「かもね。優曇華の盆栽はあっけなく開花したわね。今年一番の驚きよ」
永遠亭の術を解いた後、永琳に何か趣味を見つけたらと提案された輝夜は優曇華の盆栽を趣味とすることにした(後々考えると、永琳という無趣味の権化みたいなのが、実は元々趣味があった輝夜にそれを提案するのはいささか奇妙なことではあった)。優曇華の花は開花まで三千年かかるという触れ込みだった。仏教経典にもそう書かれている。しかし盆栽の優曇華は三千年どころか三ヶ月も経たず開花した。偽装表示を疑いすらしたが、そういえば優曇華の偽装表示は千年前に通過したと、逆に車持皇子のおかげでこれは仕様と納得することができた。
「本当にあれは驚いたよなあ」
妹紅も開花した優曇華の盆栽を見て、もうちょっと段階を踏めよと輝夜と二人で盆栽に突っ込みを入れた。優曇華が開花したことによって、それまで今年一番の驚きだった「自分達を負かすことのできる存在がこの世界に八人くらいいる」は二位に転落したのだった。哀れ永夜抄自機達。
「とはいえまだ一ヶ月以上あるからな。また逆転するかもしれない」
「そんな一年に何回も大事件が起きたらそのうち息切れしそうね」
そう言いながら輝夜は屋敷内ではできないような大笑いをした。笑っていると上の竹の葉から落ちてきた、半分水になった雪が髪にあたったが、それもなんだかおかしくてまた笑った。
輝夜が雪に打たれたのは竹林の終わりの方だった。二人の目の前の視界は開けていた。茶色の道と、その両脇のこれまた茶色の、刈り取られて根の直上数センチだけになった田んぼ、そしてそのところどころにちぎれ雲のような形で張り付いた雪が広がっていた。
五.
里は往来で賑わっていた。これには「いつも通りに」、と付け加えるべきで、妹紅の言う通り初雪だから特別な行事が催されるということも逆に何かが中止されるということもない。雪に弱く冬が来たら家に閉じこもることしかできない、そういう人種はとうの昔に淘汰された。
一方で雪が降ったこと特有の、というのもあり、例えば材木屋では店先に焚き木を積んでいて、その山は見せびらかす目的にしては低すぎるし、上の方が歪に欠けていた。相当売れていることがうかがえる。木はまだみずみずしい明るい色つやを残していて、切られて店頭に並んだのはそれほど前のことではなさそうだ。台車に薪を積んで少し顔をゆがませながらそれを引いている村人もいた。雪が降ってから暖の用意をするのは私たちだけじゃないじゃないと、輝夜は少し得意げになった。
「同じ中心街でも、月の都とは全然違うわね」
「文化からしてまず別物だろうしな」
「例えばここの建物の屋根ってだいたいは単純なハの字の形だけれど、月の都の建物の屋根は四隅がこう斜め上に上がっている形になっててね。あれはなんでだったのかしら」
「私に聞かれても知らねえよ。話聞く限りだと下向きから上向きに変わる根本のところに雪が溜まりそうだな」
「月の都には雪が降らないからそれは大丈夫よ。あと月の都の建物は全体的に赤かったわね」
二人が歩く道の両脇の建物はだいたいは木の茶色か漆喰の白かのどちらかだ。地上の人間に建材を上から塗装して使うという発想はあまりない。
「紅い建物ならここにもあるぜ。里じゃなくて南に進んだところの湖のほとりに」
「ああ、あの吸血鬼の。行ったことあるの?」
「一度招かれてな。あそこの主人、自分の従者に私の肝を食わせたがってたからその関係だったのかもしれない。結局諦めたのか、ただお茶を飲んで帰っただけだったけれど。そういうお前は、あれと面識があるのに招かれたことがないんだな。可哀想に」
妹紅は意地の悪い顔になった。
「どこかの誰かさんと違って私の顔も肝も安くはないからね」
「私の肝だって安くねえよ。あと顔は使っても減らないのにお前が渋りすぎ」
「顔については、それもそうね。だからこうして里に顔を出してるんじゃない。私が聞きたかったのはぶっちゃけあの館どうなのってことなんだけれど」
「広すぎるね。廊下から部屋に入って椅子につくまでそれなりに歩かないといけないし、天井だって身長の四倍か五倍くらいあるんだ。そんなにあったって上の方使わないだろ」
「私に言われても困るわよ。でもまああんたにとっては、部屋の数が三つ以上になったら多すぎるって感覚なんでしょうね」
「お前は一々一言多いんだよ」
妹紅は不満は表明するものの訂正はしない。悲しむべきことに衣食住に関して一定以上の贅沢ができない性格に育ってしまったというのは事実なのだ。
「図星ではあるでしょ? だって私の家に来るときも『建物に入ってからが遠すぎる』ってときどき言ってるもの」
「ああそうだな。永遠亭とだいたい同じだった。違いは床が畳か絨毯かだけだ」
「あと壁の色。あ、ちょっと待って」
輝夜は駄菓子屋を見つけて入っていった。妹紅が外から見える場所に並べられている菓子を眺めて待っていると(目立つところに置いている菓子は彩りが鮮やかすぎてよくないと思っている。なぜかとは言わないが、色彩豊かな粒の集合を見ていると苛立たしさを覚えるのだった)、輝夜は金平糖の袋を買って出てきた。
「何の話をしてたんだっけ」
「紅魔館とお前の屋敷の話」
「ああ壁の色からしてあの館は向こう側だけれど私のところは地上寄りって話」
「私からすればどっちも浮き世離れした豪邸だよ。……真面目な話、月の街と地上の街だとどっちが好きだ?」
「……え、なんて?」
輝夜は自分の周りに群がった子供と軽く談笑しながら金平糖を配るのに集中してて、途中から妹紅の話を聞いてなかった。なので妹紅はもう一度同じやりとりをする羽目になった。
「地上の方がいい、って言ってもらいたいのかもしれないけれどどっちもどっちよ。便利さなら月の方が確実に上だし」
焚き木を積んだ台車が一台、目的地の家について荷下ろしを始めていた。月ならば、木などという重くて点火に一々手間がかかるものを暖房や煮炊きの燃料にはしない。そもそも向こうは雪が降るほどの低温にはならない。
ただ仮に、もし質問が「住むとしたらどちらにするか?」だったら、「私が今ここにいることが答えじゃないの」と澄ました顔で、自信たっぷりに答えたことだろう……。
「……おーい」
輝夜は、また妹紅の発言を聞き逃した。まず考えることに集中し、それをしながら半ば上の空で子供らに金平糖を配ることもしているので、他のことは平等に有象無象の意識外の出来事になる。
これが二度目ということもあり、妹紅も「仕方ねえな」という気持ちになって会話は一度中断された。
ただ、この「仕方ねえな」という感情はあくまで会話の中断に対してのものであり、その原因になっている「輝夜が子供達に金平糖を配っている」という状況に対しては全く「仕方ねえな」とは思っていなかった。
子供らがどうして輝夜のもとに群がるのか。その理由は聞けていないが、輝夜が里では見ないお姫様姿であることの物珍しさ、それがお菓子を持っているということとは無縁ではないだろう。しかし、それらは必要条件であって十分条件ではない。絶世の美女が菓子を持って道を歩いていたとして、それだけで菓子を貰いに行こうとはならないのは明らかだ。結局、輝夜には人を群がらせる魅力があるのだ。自分はそれに嫉妬しているのだろうか?
あるいは自分の相手をしていてしかるべき輝夜が他人と話していることへの嫉妬か。
いずれにせよ妹紅は全く面白くない気分で、いかにも癪に障っているという顔で輝夜から四歩くらい離れた場所を歩いていた。
一方の輝夜も実のところ少し面白くなかった。決して子供が嫌いなのではない。むしろ子供は好きな方だ。菓子が取られていることへの不満でもない。なんならこの金平糖は、こうして里の人に物を配るイベントが発生するのではないかという予感から、まさにそのために買ったものだった。しかしなんだか面白くなく、その面白くなさには既視感があった。
輝夜は一度動物園に行ったことがある。妹紅との話の種に出した、月の都式の動物園だ。航空機で鳥の群れを次々に追い越しながら動物の群れを探す。確かそのときはガゼルという名前の動物だったか。「この動物は草食性です」というガイドの話を聞き、草食動物用の合成食料をハッチから投下する。航空機には光学迷彩があるが、投下したエサには当然迷彩は施されていないから、ガゼルには突然食べ物が空から降ってきたように見えてしばし距離をとって警戒する。が、五分か十分くらい辛抱強く観察していると投下地点に戻ってきて地面に顔を突っ込んでエサを食べ始める。
同行していた他の客はその姿の非文明さを見て爆笑していた(月の都にも動物はいるが、月では動物であっても皿から食べ物を食べる)が、輝夜にはその感覚が分からなかった。食べ物を皿から食べるか地面から食べるかなんて、食べ物を与える側の裁量次第でしかない。天地創造の神がその開闢において「皿あれ」と一言言わなかっただけのことだ。仮に自分が同じ立場だったら迷うことなく地面から餌を食べていただろう。むしろ同じ視座に立てずただ上から眺めているだけという状況に空虚さを覚えていた(一応誤解ないように補足すると、ガゼルに混じって餌を食べたかったという意味ではない)。
妹紅と自分を里に連れ出すための方便として、娯楽の一例に動物園を位置づけはしたが、輝夜にとって動物園は娯楽とは言い難いものだった。その理由を文明が非文明を上から見下している感が気に食わなかったからだと今日まで思っていたがどうも違うらしい。子供達は実に文明的に、丁寧に金平糖の一粒を手にとって自分にお礼を言って感情豊かにそれを頬張っているが、やはり輝夜の視点ではこれは動物園での餌やり体験なのである。自分は主観的体験を客観的に眺めることを娯楽にできる性分ではない、というのが真相のようだ。それが娯楽になると連れに熱弁していた人がどこかにいた気もするが。
さておき、自分が里に馴染み里を心から楽しむためには致命的に何かが欠けているのである。輝夜はその欠けたものを埋める何かを求めて金平糖を配り終えた後も妹紅に話しかけることなく(その妹紅は私から少し離れていた。なんでだろ)、里を観察していた。
六.
庇が大きく張り出た店が輝夜の目に留まった。その店だけ目立つのだ。他の建物がだいたいは茶色か白の壁に黒い屋根瓦で九割方完結しているのに、この店は庇の部分が緑と白を交互に並べた布地で、これが伝統的な家屋にそのままついているから継ぎ接ぎのような凄まじい違和感がある。芸術としては零点だが、それで目に付くのだから広告効果は高いと言わざるを得ない。
八百屋、あるいは果物屋のようだった。庇のすぐ下には彩りのいい果物が並べられている。この日は蜜柑をさらに黄色くしたような果実が、浅い籠に入れられていた。
「これは何かしら?」
「柚子だな」
妹紅の答えは正しいのだろうが、一方で答えになっていないと輝夜は思った。結局疑問の「これ」が「柚子」に置き換わっただけだ。
「皮を削って鍋とかうどんとかの薬味に使うと美味しいよ」
店のおばあさんの答えは、柚子を売ろうという意図を隠そうともしていないものだったが、輝夜にとってはその方が求めているものだった。
「蜜柑みたいな見た目してるけれど中身を食べるものじゃないのかしら」
「蜜柑みたいに食べるには酸っぱいねえ。横に蜜柑も置いているよ。あとオレンジっていうのを今年から取り扱うようになったんだけれど、これはまだ少し早いから一月くらい寝かせた方がいいねえ」
輝夜はおばあさんに言われて蜜柑も置いてあることに気が付いた。落ち着いた橙色の球体が確かにあるが、柚子の目を焼くような薄黄色に比べるとどうにも地味だ。
「でも柚子もいいよ。冬至にはお風呂に柚子を浮かべたりするんだ」
幻想郷の普通の人は柚子の食べ方も冬至の柚子湯文化も知っている。輝夜のようなのは珍客ではあるが、おばあさんは特に邪険にもせず、柚子か他の柑橘、できれば両方を買えと勧め続けていた。長年この仕事をしていて外来人相手に商売したことも一度や二度ではない。幻想郷文化に馴染んでいない人向けの商売というのが無意識にできる。ある程度の年数以上里で店を構えている人は須らくこの技術を身につけている。
輝夜も、このおばあさんの、しわがれてはいるが妙に通る声が最後の一押しになって柚子を買った。買って満足したので妹紅に告げて帰路についた。
「あのおばあさん、なんというか憎いことするよな」
「どこが? おしゃべりで親切な人にしか見えなかったんだけれど」
輝夜は無垢で、無垢とはある種の無知だった。
「憎いというか商売上手というか。それ、そんなに長持ちする果物じゃないんだよ。冬至までには間違いなく腐るから、冬至に浮かべるにはもう一度買いにいかないといけない。二度来店させるために冬至の話をしたんだろうよ」
「ああ、生物
だからそのままにしてたら腐るわよね」
輝夜の発言に妹紅はぎょっとした。まるで無機物だけの世界で千年くらい生きてきた人のような発言で――そしてある意味でそれは正しかった。
「なんでそんな暢気なんだよ。お前うっかり腐らせた食べ物がいかに処分に困る代物なのか知らないだろ」
「私の能力を忘れてて? そもそも腐らせないから大丈夫よ」
「ああ、まあ、そうなんだろうな」
妹紅はふと「風情がねえな」と呟いて、それは輝夜の耳に届いた。幻想郷、否、この世でも屈指の文化人を前にして風情がないとは片腹痛いわねと思ったが、しかしその一方で、この「風情」こそが、自分を動物園の客から共に同じ生活を楽しむ存在にする上で欠けているものなのではないかという納得もあった。
文化とはその土地の気候、植生、歴史、経済、その他ありとあらゆるものが基盤となってその上に存在するものだ。天上人には天上人の文化があるように、天下の人々には天下の文化がある。天下文化の一つは物を腐らせること、というのは(妹紅のあからさまな拒絶反応を見るに)流石に違うのだろうが、物が朽ちていくことを仕方のないこととして良しとするような、消極的肯定は文化としてあるようだ。
二人は竹林に戻った。雪はほとんど溶けていて、地面の上に少し伸びている雪と葉に残る湿り気だけが、少し前に降水があったということを示している。
「雪は朽ちたわね」
「雪が朽ちたとは妙な言い回しだな。雪は溶けるものだろ」
雪は水になったが、竹は細長い楕円の葉を変わらずつけていた。
「分解されて地面に吸収されていったんでしょ? 朽ちた、でも間違いじゃないじゃない」
「その言い回しは永琳仕込みだな」
「正解」
輝夜は掌の中で柚子を回した。冬至までとっておこうと思い買ったもののもうそういう気分ではない。どうしたものかという焦燥と、初めて幻想郷の里を見た高揚感が、普段なら絶対にしない発想に輝夜を導いた。
「蜜柑みたいに食べるものじゃないって店のおばあさんは言ってたけれど、実は意外といけるとかないかしら」
「あー、いけると思うぜ」
「む、その言い方は怪しい」
「いや全然。悪くはないんだよ悪くは。他の食べ方をした方が美味いからそのままかじるのは十倍損するってだけで」
「やり直しが無限にできる私達にとって経験における損なんてものはないのよ。その真面目な感じだと本当に大丈夫そうね……」
お祭りテンションで浮かれていた輝夜は、妹紅は自分を陥れる目的なら能力が倍増するという事実を忘れていた。もっとも柚子の硬い皮をこじ開けたときに飛んできた一滴の果汁の時点で危機感を覚えてはした。が、そこからなお戻るに戻れないからと突っ切ったこともまたお祭りテンション。
「……!!!!」
皮の内側の白い綿部分がいくらか混じってそれの味は苦味なのだが、そんなこと些事というくらいの強烈な酸味が輝夜を襲った。妹紅は隣で爆笑している。口をアスタリスクにした輝夜は妹紅をポカポカと殴るのだった。
七.
「おかえりー。どうだった?」
因幡てゐ、永遠亭で唯一輝夜にタメ口をきける存在が、帰宅直後の輝夜の部屋に入ってきた。
「楽しかったわよ。最後酷い目にあったけれど……」
輝夜は濃い緑茶を、それでうがいをするかのようにして飲んでいた。
「だから拾い食いしちゃ駄目って行く前に言ったでしょ」
「言ってなかったわよ。というか拾い食いじゃない……。拾い食いみたいなものねえ」
上位存在から見れば――そんなものがいればだが――さっきの自分の姿は、昔動物園で餌やりをした、あの鹿みたいな動物とそう変わらなかったんじゃないかと輝夜は思った。あのとき撒いたのは普通の餌のはずたが、仮に普通の餌に見える変な餌を撒いたとしても少なくとも口に含みはしたはずだ。自分はようやくガゼルの視点に立つことができた。輝夜はそれが嬉しくなった。もっとも同時に、自分はガゼルのように餌を食べたかったわけじゃないんだけれどなあとも、行動の全てが自分の意思だったにも関わらず思ったのだが。
「まあ姫様が体調崩しても優曇華が毒を盛ったってことにしておくよ」
「ごまかしでさらに騒ぎを大きくしようとするんじゃありません」
「冗談よ冗談。ところでお土産は?」
輝夜が永遠亭内では入手不可能な物を持っていたら怪しまれる。そのため手に入れた物はてゐに持たせて、永遠亭内で振る舞うときにはてゐが入手したものということにする、ということも口裏合わせに含まれていた。いくらかはてゐに中抜きされるだろうが、それは手伝ってもらったことの報酬として正当だと輝夜は思っていた(図々しい話だがてゐの側も)。
「今日はお土産なしになったわ。代わりにお菓子作ってあげるから」
このフォローは大事だ。てゐは基本損得でしか動かないので、契約が自分にとって無益と判断した瞬間あっけなく反故にしかねない。
「仕方ないね。団子は他でも散々食べてるからそれ以外ね」
ただてゐの考える損得とは物質的なものには限定されない。これも本当にお菓子が貰えるかどうかはともかく(てゐは、輝夜が台所に立ってるのを見たことがないから懐疑的に見ている)、相応の誠意を見せてるから良しということなのだった。
「ああそれと、近いうちにまた出かけるからよろしくね」
「今度はいつ」
「冬至の頃ね」
「うげー。忙しい時じゃん」
輝夜は自分の性格が兎寄りなこともあり、てゐがどういう価値観で動く兎なのかを知っている。だから手駒として扱えるし、ときどきこうしてもて遊ぶようなこともするのだった。
それから数週間後、冬至に際して輝夜はまたこっそりと永遠亭を抜け出し、妹紅と二人であの果物屋に柚子を買いに行き、柚子はてゐの手柄としてその日の夜の浴槽に浮かべられることになるのだが、それはまた別の話である。
輝夜は耳に痛みを感じて目を覚ました。何があったのかと耳に触れようと手を伸ばしたら、今度は布団から出した手が痛んだ。
体の問題ではなく、布団の外の環境に問題があるらしい。見えない針が空中にあってそれが刺してくるような、尋常じゃない寒さが布団外の世界を覆っている。部屋は暗く、外も同様だろう。輝夜は、蘇った羿がとうとう残り一個の太陽までも射落としてしまったのかと思った。世界の終わりかもしれない。しかし輝夜にとっては世界が終わるかどうかよりも安眠を冷気に妨害されたことの腹立たしさの方が重大だったので、布団を思いきり深く被って二度寝をした。
一度目に起きたときに暗かったのは単に今の季節が冬の始まりで日の出が遅かっただけというのが結論で、まどろんできた頃に空は白み始めた。しかし気温は戻らず、それどころかより一層不可視の針は鋭さを増していた。輝夜は今度は永琳を疑った。前の異変で偽物の月を浮かべ、月の都に対して地上を密室にしたように、太陽を偽物にした。偽物にするにしたって光らせるだけじゃなくて熱量もコピーしてほしい。というか太陽を敵に回すってあなた何したのよ。今回は私には身に覚えがないわよ。
夢の延長線でそんなことを考えていたら、襖の向こうをイナバが横切って、その影を見た衝撃で目が覚めた。信じがたいが布団の外側もハビタブルゾーンに収まっているらしい。イナバの生存事例を見て輝夜はまだなお半信半疑だったが、布団の中で座して死を待つよりは(蓬莱人は死なないからこれは一種のジョークめいた表現ではある)、外で生き延びる半分の賭けをした方がよいだろうと布団から飛び出た。いつもならよく言えば優雅に、悪く言えば怠惰に這い出るようにして布団から離脱するのだが、この気温では布団から出て着替えるまでを迅速にしないと寒さになます切りにされてしまう。
イナバに用意してもらって布団の横に畳んでいた服だけではあまりにも不足していた。これは昨日の時点で今朝の事態を予見できなかった自分の責任と、輝夜は自分で箪笥の引き出しを開けて上着を取り出しては羽織るのを数度繰り返した。
虹が手足をつけて歩いているかのような外観になったところでようやく体感温度が適温に達し、襖を開けて外の様子を見ることができるようになった。
外は白銀に染められていた。その様子を一目見た輝夜は重ね着した服の重力が消えたかのような軽い足取りで小走りに廊下を走り、永琳に外の変化を報告しに行った。
「外が白くなった」
「地上だと冬になると雪が降るんですよ、姫様」
永琳は初めて雪を見た子供に教えるかのようにしたり顔でそう言った。彼女は試験管を振って、気温が下がると物が溶けづらくなるのがよくないと心の中で不満を表明している。
「忘れてたのよ。冬なんて千年ぶりだし。本当に雪で染まるのはびっくりだわ」
「確かに雪で新鮮な驚きができるのは今のうちですね。数日もすれば雪かきが面倒になってそれどころでは」
「未来なんて永遠にあるものを気にしていてもしょうがないでしょ。今を楽しまなきゃ」
「そうですね。よくよく考えると雪かきは『私たち』には関係のないことでした」
永琳の毒気のある答え方に、輝夜は一割だけ呆れた。
「永琳はもうちょっと部下を大事に使うってことを覚えた方がいいわね。ところで今既に問題になってることが一個あって」
「なんでしょう?」
輝夜ははっきりと物をいう方ではあるが、性格のおっとりとした上品さからか、はたまた大抵の状況に適応できるからか、文句を言うことは少ない。そんな輝夜が珍しく直訴をしそうとあって、永琳も手に持っていたものを試験管立てに入れて椅子を回し、聞く姿勢をとった。
「寒くない?」
輝夜は五重くらいになった服の袖を(手首から先を服の中に避難させてるので本当に袖しか見えない)振った。
「確かにこれは予想外でしたねえ」
月の頭脳も幻想郷の冬の気温がどのくらいかということを失念していた。山岳の神が海を知らず熱帯の神が雪を知らぬように、永琳も月の安定した気候によって育まれた常識に囚われていたのだった。とはいえ正確には全くの無策でもなかった。永遠亭にかけていた術を解いた夏の時点で永遠というゆりかごを失ったのだから対策は必要だろうと思っていたし、秋分を過ぎた頃には倉庫の肥やしになっていた火鉢を各部屋に配置はした。冬といっても秋との比較で気温差は摂氏五度くらいだろうと高をくくっていたら実際には十度下がったというだけのことだ。
イナバが一羽、また廊下を走った。イナバの大半ら永遠亭の外側の出身だから冬を知っているはずだった。間違いなく二人の冬対策があまりにも不完全だったことには気がついていただろうが、それについて一切の進言をしなかったのは。
「わざとなんでしょうね」
「たまにはピエロ役になるのも悪くはないんじゃない?」
永琳はため息をついて、輝夜は苦笑いした。冬に二人を埋めてクーデターをしようというくらいの悪意が見えていたら怒るところだったが、これは悪意よりもだいぶ無邪気ないたずらという範囲だ。それにイナバとて馬鹿ではない(なにせ小賢しさなら幻想郷では随一のてゐという兎に統率されている)から、二人が冬の寒さ程度でくたばる存在ではないということは首謀者達も分かっていることだろう。
「この程度で娯楽になるのなら確かに悪くはないですが、いくら兎が多少寒さに強いといっても氷点下の中暖房が火鉢だけという状況にもっていくのは自爆でしょう。いっそこのまま暖房なしで冬を越して愚かな選択をしたということを教育させてやるのも一つの手ですね」
「怒ってる?」
「いいえ。楽しそうなので私も同じようなことをしてみたいなと」
永琳は歪んだ笑みを浮かべた。輝夜にはそれが怒りに基づくものなのかサディスティックな快楽に基づくものなのかどちらかは分かりかねたが、いずれにせよろくなものではない。
「私は寒いのはお断りね。それに、仮に私たちがよかったとしてもじゃあそれでいい、という状況にはもはやなくなったでしょう」
「と、言いますと」
「ここは診療所でもあるのよ。普通の人間以上に体が弱い病人が来てなんなら入院する場所が暖房なしってのはいくらなんでも問題よ」
永琳とて外道ではないので、診療所と入院部屋部分に暖房があるかないかでいえばあるのだが。しかしそれを反論しても、今ある暖房は元々の甘すぎる予測に基づく強さでしかないだろうというさらなる反論には言い返せないのだった。
「では屋敷全体を暖房するとしましょうか……。姫様、お時間あります?」
「今から朝ご飯を食べるから、その後からお昼ご飯の間までならあるけれど……。私が必要なことなの?」
「ええ。姫様のお力が要りますね」
輝夜の能力は端的には時間操作であり、時間を操るということは空間を操作することと同義。永遠亭には空き部屋がいくつかあるが、この空間を輝夜の能力でなんやかんやいじくると部屋内の空気がなんやかんやされて、なんやかんやエアコンとほぼ同原理で暖房になる。輝夜の能力と永琳の頭脳が融合した蓬莱の薬並の超技術だ。
一方紅魔館は豆炭を使った。明らかに豆炭を燃やして熱を得た方が簡便なので当然である。永遠亭もこの三日後にはいそいそとイナバ達を豆炭買いに派遣することになるのだが、それはまた別の話。
二.
暖房仕事はそれなりに体を動かすものだったので、輝夜は重ねに重ねた上着のうち二枚は脱いだ。朝よりは気温が上がったし暖房も効き始めたからその分の調整という意味もある。しかし、それでもまだ夏と比べたら上に三枚くらいは着ていて、一、二枚色が減ってもまだ割と虹なのだった。
小さくなった虹が、脱いだ上着を片付けるために縁側を歩いていると、向こうから玉兎が歩いてきた。手を胸の位置で組んで、小刻みに振動しながら前進するその姿はブリキの玩具を思わせる。
「被害者三人目」
「うう……。姫様、寒いですねえ……。って、被害者ってどういうことです? この天気って誰かがわざとそうしたと?」
寒さにブリキ人形と化したこの玉兎、鈴仙・優曇華院・イナバも半年前に天気(というよりは天体だが)をどうこうした身内故、そういう発想になる。
「いや、冬自体は地上の普通の天気らしいけれど、こうなることを分かっていて私たちにわざと黙っていたのがいたでしょって話」
「はあ……。……」
鈴仙が黙って思考を、やはり振動しながら処理していると、三度
イナバが鈴仙の後方から走ってきて、彼女が高さ九段くらいある跳び箱であるかのように、彼女と、その少し前にいた輝夜を飛び越えて駆け抜けていった。
「……あー、あんたたちか!!」
犯人の姿を見たことと踏まれて脳のスイッチが入ったことで、鈴仙はようやくことの真相に辿り着いた。鈴仙ははっきり言って愚かだ。しかし、永琳だのてゐだのという動き回る悪知恵を複数名抱える永遠亭において、愚かさとは美徳なのではないかとも輝夜は思うのだ。鈴仙はてゐのことを永琳のペットと思っている節があるが、輝夜から見れば鈴仙の方がよほどペットもといマスコットにふさわしい。
「兎というのはいたずらものね。それも愛嬌なんでしょうけれど」
「いやいや。誠実な兎だっているんですよ」
「どこに」
「ほらここに」
「……」
輝夜は沈黙した。鈴仙の忠誠を疑うつもりは毛頭ないのだが、なんとなく黙っている方が面白いと思ったのだ。輝夜の性格は兎に近い所がある。
「いやいやいやいや」
「まあ、鈴仙が誠実なのかどうかはさておき」
「それはさておかないでほしいです」
鈴仙はふくれっ面になったがやっぱり輝夜は無視した。
「鈴仙って普通の兎っぽくないところあるわよね。兎ってもっと寒さに強くなかった?」
「まあ私は玉兎ですし」
「玉兎も。なんせ宇宙でも活動するでしょ?」
「あー。まあ、宇宙でも活動するってのはそうなんですが、そんなに寒くもないんですよ」
「宇宙って寒いんじゃなかったっけ。確か山って登れば登るほど気温が下がったわよね?」
輝夜は実際に登山をしたことがあるわけではなく(今のところ嵐山より高い山に登ったことはない)、これは永琳からの受け売りだ。永琳はよくこの手の話をする。話している本人からすれば科学的正しさの啓蒙なのだが、聞き手の輝夜の方は変なことを言ってると思いつつ、しかし永琳の言なので何かしらの意味があるのだろうという受け止め方になることが大半だった。
「空の気温は上に行けば行くほど下がるとは言われますが、それは山が存在するくらいの範囲だけのことで、天と呼ばれる領域になるとそう極端な寒さではないんですよ(無論これは常識の向こう側の世界の話で、現実世界の天は極端に寒い)。あと流石に生身で行くことはなくてそれ用の装備があるんですが」
「ああなるほど。それを身につければ寒くないのね」
「ですです。羽衣とかそうなんですけれど、あの見た目で防寒性能高いんですよ」
「私も宇宙服は持っているけれど、あれは旧式なんだっけ?」
輝夜はヘルメットの前面が黒い以外は全身白の、外の世界の典型的な宇宙服とほぼ同じ見た目の宇宙服を持っていた。
「アンティークとしての価値は凄いというか、普通地上にはないものなのでどうやって手に入れたのかつくづく謎なんですけれどねえ。まあ実用という意味では旧式で、性能そのままに重さが無限に減ったわけです。無限を通り越してマイナスですね。つまり、手がかじかむような寒さでは任務に支障が出るし、人を背負っているみたいな重さでも任務に支障が出る。仕事の効率に関わるところだけは人道的なんですよ、今の月の都は」
鈴仙による月の都評には未だ棘がある。彼の地が全くもって褒められたものではないということには輝夜も同意していたが、それにしても、例えば永琳が月のことをもう滅んだ王朝か遠い国かのように教科書的に話すのとは対称的だと思う。
「やっぱり兎っぽくない……のかしらね」
月の都について語る鈴仙は、輝夜には兎よりもむしろ捨てられたか家出したかした犬に見えた。もしかしたら兎も捨てられれば同じ性格になるのかもしれないが、野犬は見たことがあっても捨て兎は見たことがなかった。
「ああそうだ。てゐは見てないかしら」
「こたつ部屋に籠もってたと思いますけれど……。何か用事が」
てゐは内緒でこたつを配備して一人勝ち逃げを図っていたらしいと、輝夜はここで知った。別に驚くべきことではない。
「午後にね」
少し嘘。午後の用事のためにてゐが必要なのは事実だが、てゐと何かするのではなく、こっそり抜け出すための口裏合わせにてゐが必要なのだった。この役割は永琳以外なら誰でもよく(永琳に叱られないためのアリバイ作りなので)、つまり鈴仙に頼んでもいいといえばいいのだが、今までのやりとりでも鈴仙はあまりこの役には向いていないように輝夜には思えた。兎の方が小賢しくて適しているし、輝夜も兎の方が扱いに慣れている。
三.
てゐとの口裏合わせも終えて輝夜が部屋で待っていると、天井の板が二枚下向きに開いて、銀色の長髪が垂れ下がってきた。
「その登場の仕方ってさ、忍者みたいよね。今度誰かに『あの人誰なんです?』って聞かれたら忍者の末裔って答えていい?」
「よくねえよ。私はしがない焼き鳥屋で通ってるんだ」
天井の蓋を開けた主は降りてきて、銀の頭頂から赤のモンペまでの全身が着地した。
「通ってたかしら。……濡れてないわね。今雪は止んでるの?」
「ぼちぼちだな。濡れてないのは乾かしたからだ」
「乾かしたって、あんたの服の乾燥方法は」
「燃やせば乾く」
「どこで燃やしたの」
聞かぬとも分かる。侵入者、もとい来客、もとい妹紅の侵入経路は永遠亭の外周部→永遠亭の天井で、永遠亭の外には、塀の下含めて雪をしのげる場所はないから、侵入してから燃やしたに違いない。分かるが分からない。こいつには常識というものがないのかしら。
「別にいいだろ。どうせお前の屋敷は完全防火なんだから」
「建材まで火鼠の皮衣にした記憶はないわよ。あれは現代だと色々と規制が厳しいの」
「じゃなくて不変の術が」
「もう解いたわよ」
「あー。まあ、そういうこともある、よなあ」
妹紅の目が川鵜に追い立てられた小魚並みに泳いだ。
「それより今日は『四日』だからな。やるんだろ?」
妹紅のいう四日とは、太陰暦、つまり月の満ち欠け基準での四日だ。幻想郷はとうの昔に太陽暦を採用しているし、永遠亭もまた太陽暦で活動はしているが、満月の日に例月祭を開催する都合、諸々の予定は太陽ではなく月基準になりがちだ。そして月の満ち欠けにおいて四日目以降の数日は、例えば三日目の月が「三日月」と呼ばれるような特定の名前がないように、割につまらない日ということで輝夜も暇なのだった。だから妹紅と殺し合いをするときは月に名前のないこの日に入れていた。
ただ、今日の輝夜は殺し合いの気分ではなかった。
「そうねえ……。いや、やめておくわ」
「もう殺し合いに飽きたのかよ。そんなんでこれから先どうするんだよ」
「永遠にある未来の心配をしてもしょうがないでしょ」
輝夜は、他の不死者は一々未来の心配をしたがるのがよくないと思っている。
「大事なのは今よ。初雪の里の様子が気になるじゃない」
「別に大したものでもないと思うけれどな。どこかの誰かさんと違って、大半の人間にとって初雪は『順当に来たか』っていうせいぜい竹の節くらいの厚さの節目でしかねえんだよ」
「それでいいのよ。例えば動物園ってさ」
「動物園?」
「そういえば幻想郷に動物園はなかったわね。動物園っていうのは動物が暮らしているのを観察する施設、というかアトラクションなんだけれど」
昔の月の都には動物園があった。多分今はない。それは、地球上で生存競争している動物を上空から冷笑的に眺めることを趣旨とした催しで、輝夜は「動物園」と呼称しているが、外の世界の語彙で例えるならばどちらかというとサファリパークに近い。
「動物は客に特別な姿を見せようとは微塵も思っていなくてただ一生という線分上のルーティンで生きているだけ。でもそれを眺めてる側は非日常として動物園を楽しんでいるのよ。つまり日常の物見遊山を特別なものとして眺めることは娯楽として成立する」
「私から一つ忠告するなら、里の人間を動物扱いはめっちゃ失礼だからな? ってことだな」
「Homo sapiensも動物か、せいぜいその延長でしかないわ。人間の延長の私たちがおおむね人間の範囲内でしかないように」
「そのホモなんとかってのはなんなんだ」
「『人間』という名前につけられた特殊性を解いて他の動物と同じ枠組みに落とす呪言、って永琳が言ってた」
「永琳が言ってたなら確実だな。ただやっぱり人間を動物扱いするのはやめとけよ。里の人間には獣とも妖怪とも違うんだっていうアイデンティティがあるんだ」
妹紅の友人には獣でも妖怪でもある人間がいたが、だからこそ里の人間の基盤が「動物でも妖怪でもない」にあるということは強く感じていた。
「そのくらいの分別はあるわよ。私を世間知らずのお姫様だと思ってる?」
「思ってるが?」
なんだかんだ、妹紅は悪い気はしていないのだった。親の悲願は果たせそうにないが、少なくとも輝夜という箱入り娘を外に連れ出すことができる数少ない存在として、自分の父親含めたかつての五人の貴公子や帝からは優越した地位にいる。それに自分の役回りは輝夜にとっても特別なはずで、自分も輝夜をどうにかするのを続けることで千年は自己を保つことができる自信がある。こうした感情が輝夜を愛しているからだとは妹紅は頑なに認めたがらないしむしろ積極的に否定すらするが、「好き」という単語意外のあらゆる単語を用いて「好き」を表現することができるのだった。
四.
竹の葉の上にはカイコの繭を扁平にしたような形の雪が乗っていた。ちょうど二人が外に出た頃に雪は止んでいた。昼下がりの上がった気温もあって雪は更に増えるのではなく溶けていく段階になっていたから、繭の形の雪も表面が少し溶けて、それが日光に反射して薄黄色を透明にしたような色に光っていた。
「冬になると木の葉が落ちるという話を聞いていたけれど、竹の葉は落ちないのね」
「竹が落葉するのは春の終わりから夏の初めなんだよ」
「あらそうなの。記憶と違ってたわね」
「竹が変わってるんだよな。他の木はだいたい冬に禿げる。禿げて枯れ木みたいになる」
トサッという音が遠くで聞こえた。どこかの竹の葉から雪が落ちたらしい。
「あんたは葉のついていない木を枯れ木だと思うのね」
「お前は違うのか?」
「私は『まだ花が咲いていない木』だと思う」
「それは優曇華の木がそうだからじゃないのか」
優曇華の木、あるいは蓬莱の玉の枝。輝夜が五人の貴公子に要求した難題の一つ。虹色の玉が枝の先についている、先端の分岐がやたらと多い魔法の杖みたいな外見だが、正体は伝説の木本植物である。なので一度本物を手に入れさえすれば枝分けして増やすことも一応できる。栽培難易度は高いなんてものではなく、枝分けした瞬間に諸々の処置をしないと一瞬で枯れるので、枯れるまでの須臾の時間を永遠に引き伸ばせる輝夜の能力があっての枝分けなのだが。
「かもね。優曇華の盆栽はあっけなく開花したわね。今年一番の驚きよ」
永遠亭の術を解いた後、永琳に何か趣味を見つけたらと提案された輝夜は優曇華の盆栽を趣味とすることにした(後々考えると、永琳という無趣味の権化みたいなのが、実は元々趣味があった輝夜にそれを提案するのはいささか奇妙なことではあった)。優曇華の花は開花まで三千年かかるという触れ込みだった。仏教経典にもそう書かれている。しかし盆栽の優曇華は三千年どころか三ヶ月も経たず開花した。偽装表示を疑いすらしたが、そういえば優曇華の偽装表示は千年前に通過したと、逆に車持皇子のおかげでこれは仕様と納得することができた。
「本当にあれは驚いたよなあ」
妹紅も開花した優曇華の盆栽を見て、もうちょっと段階を踏めよと輝夜と二人で盆栽に突っ込みを入れた。優曇華が開花したことによって、それまで今年一番の驚きだった「自分達を負かすことのできる存在がこの世界に八人くらいいる」は二位に転落したのだった。哀れ永夜抄自機達。
「とはいえまだ一ヶ月以上あるからな。また逆転するかもしれない」
「そんな一年に何回も大事件が起きたらそのうち息切れしそうね」
そう言いながら輝夜は屋敷内ではできないような大笑いをした。笑っていると上の竹の葉から落ちてきた、半分水になった雪が髪にあたったが、それもなんだかおかしくてまた笑った。
輝夜が雪に打たれたのは竹林の終わりの方だった。二人の目の前の視界は開けていた。茶色の道と、その両脇のこれまた茶色の、刈り取られて根の直上数センチだけになった田んぼ、そしてそのところどころにちぎれ雲のような形で張り付いた雪が広がっていた。
五.
里は往来で賑わっていた。これには「いつも通りに」、と付け加えるべきで、妹紅の言う通り初雪だから特別な行事が催されるということも逆に何かが中止されるということもない。雪に弱く冬が来たら家に閉じこもることしかできない、そういう人種はとうの昔に淘汰された。
一方で雪が降ったこと特有の、というのもあり、例えば材木屋では店先に焚き木を積んでいて、その山は見せびらかす目的にしては低すぎるし、上の方が歪に欠けていた。相当売れていることがうかがえる。木はまだみずみずしい明るい色つやを残していて、切られて店頭に並んだのはそれほど前のことではなさそうだ。台車に薪を積んで少し顔をゆがませながらそれを引いている村人もいた。雪が降ってから暖の用意をするのは私たちだけじゃないじゃないと、輝夜は少し得意げになった。
「同じ中心街でも、月の都とは全然違うわね」
「文化からしてまず別物だろうしな」
「例えばここの建物の屋根ってだいたいは単純なハの字の形だけれど、月の都の建物の屋根は四隅がこう斜め上に上がっている形になっててね。あれはなんでだったのかしら」
「私に聞かれても知らねえよ。話聞く限りだと下向きから上向きに変わる根本のところに雪が溜まりそうだな」
「月の都には雪が降らないからそれは大丈夫よ。あと月の都の建物は全体的に赤かったわね」
二人が歩く道の両脇の建物はだいたいは木の茶色か漆喰の白かのどちらかだ。地上の人間に建材を上から塗装して使うという発想はあまりない。
「紅い建物ならここにもあるぜ。里じゃなくて南に進んだところの湖のほとりに」
「ああ、あの吸血鬼の。行ったことあるの?」
「一度招かれてな。あそこの主人、自分の従者に私の肝を食わせたがってたからその関係だったのかもしれない。結局諦めたのか、ただお茶を飲んで帰っただけだったけれど。そういうお前は、あれと面識があるのに招かれたことがないんだな。可哀想に」
妹紅は意地の悪い顔になった。
「どこかの誰かさんと違って私の顔も肝も安くはないからね」
「私の肝だって安くねえよ。あと顔は使っても減らないのにお前が渋りすぎ」
「顔については、それもそうね。だからこうして里に顔を出してるんじゃない。私が聞きたかったのはぶっちゃけあの館どうなのってことなんだけれど」
「広すぎるね。廊下から部屋に入って椅子につくまでそれなりに歩かないといけないし、天井だって身長の四倍か五倍くらいあるんだ。そんなにあったって上の方使わないだろ」
「私に言われても困るわよ。でもまああんたにとっては、部屋の数が三つ以上になったら多すぎるって感覚なんでしょうね」
「お前は一々一言多いんだよ」
妹紅は不満は表明するものの訂正はしない。悲しむべきことに衣食住に関して一定以上の贅沢ができない性格に育ってしまったというのは事実なのだ。
「図星ではあるでしょ? だって私の家に来るときも『建物に入ってからが遠すぎる』ってときどき言ってるもの」
「ああそうだな。永遠亭とだいたい同じだった。違いは床が畳か絨毯かだけだ」
「あと壁の色。あ、ちょっと待って」
輝夜は駄菓子屋を見つけて入っていった。妹紅が外から見える場所に並べられている菓子を眺めて待っていると(目立つところに置いている菓子は彩りが鮮やかすぎてよくないと思っている。なぜかとは言わないが、色彩豊かな粒の集合を見ていると苛立たしさを覚えるのだった)、輝夜は金平糖の袋を買って出てきた。
「何の話をしてたんだっけ」
「紅魔館とお前の屋敷の話」
「ああ壁の色からしてあの館は向こう側だけれど私のところは地上寄りって話」
「私からすればどっちも浮き世離れした豪邸だよ。……真面目な話、月の街と地上の街だとどっちが好きだ?」
「……え、なんて?」
輝夜は自分の周りに群がった子供と軽く談笑しながら金平糖を配るのに集中してて、途中から妹紅の話を聞いてなかった。なので妹紅はもう一度同じやりとりをする羽目になった。
「地上の方がいい、って言ってもらいたいのかもしれないけれどどっちもどっちよ。便利さなら月の方が確実に上だし」
焚き木を積んだ台車が一台、目的地の家について荷下ろしを始めていた。月ならば、木などという重くて点火に一々手間がかかるものを暖房や煮炊きの燃料にはしない。そもそも向こうは雪が降るほどの低温にはならない。
ただ仮に、もし質問が「住むとしたらどちらにするか?」だったら、「私が今ここにいることが答えじゃないの」と澄ました顔で、自信たっぷりに答えたことだろう……。
「……おーい」
輝夜は、また妹紅の発言を聞き逃した。まず考えることに集中し、それをしながら半ば上の空で子供らに金平糖を配ることもしているので、他のことは平等に有象無象の意識外の出来事になる。
これが二度目ということもあり、妹紅も「仕方ねえな」という気持ちになって会話は一度中断された。
ただ、この「仕方ねえな」という感情はあくまで会話の中断に対してのものであり、その原因になっている「輝夜が子供達に金平糖を配っている」という状況に対しては全く「仕方ねえな」とは思っていなかった。
子供らがどうして輝夜のもとに群がるのか。その理由は聞けていないが、輝夜が里では見ないお姫様姿であることの物珍しさ、それがお菓子を持っているということとは無縁ではないだろう。しかし、それらは必要条件であって十分条件ではない。絶世の美女が菓子を持って道を歩いていたとして、それだけで菓子を貰いに行こうとはならないのは明らかだ。結局、輝夜には人を群がらせる魅力があるのだ。自分はそれに嫉妬しているのだろうか?
あるいは自分の相手をしていてしかるべき輝夜が他人と話していることへの嫉妬か。
いずれにせよ妹紅は全く面白くない気分で、いかにも癪に障っているという顔で輝夜から四歩くらい離れた場所を歩いていた。
一方の輝夜も実のところ少し面白くなかった。決して子供が嫌いなのではない。むしろ子供は好きな方だ。菓子が取られていることへの不満でもない。なんならこの金平糖は、こうして里の人に物を配るイベントが発生するのではないかという予感から、まさにそのために買ったものだった。しかしなんだか面白くなく、その面白くなさには既視感があった。
輝夜は一度動物園に行ったことがある。妹紅との話の種に出した、月の都式の動物園だ。航空機で鳥の群れを次々に追い越しながら動物の群れを探す。確かそのときはガゼルという名前の動物だったか。「この動物は草食性です」というガイドの話を聞き、草食動物用の合成食料をハッチから投下する。航空機には光学迷彩があるが、投下したエサには当然迷彩は施されていないから、ガゼルには突然食べ物が空から降ってきたように見えてしばし距離をとって警戒する。が、五分か十分くらい辛抱強く観察していると投下地点に戻ってきて地面に顔を突っ込んでエサを食べ始める。
同行していた他の客はその姿の非文明さを見て爆笑していた(月の都にも動物はいるが、月では動物であっても皿から食べ物を食べる)が、輝夜にはその感覚が分からなかった。食べ物を皿から食べるか地面から食べるかなんて、食べ物を与える側の裁量次第でしかない。天地創造の神がその開闢において「皿あれ」と一言言わなかっただけのことだ。仮に自分が同じ立場だったら迷うことなく地面から餌を食べていただろう。むしろ同じ視座に立てずただ上から眺めているだけという状況に空虚さを覚えていた(一応誤解ないように補足すると、ガゼルに混じって餌を食べたかったという意味ではない)。
妹紅と自分を里に連れ出すための方便として、娯楽の一例に動物園を位置づけはしたが、輝夜にとって動物園は娯楽とは言い難いものだった。その理由を文明が非文明を上から見下している感が気に食わなかったからだと今日まで思っていたがどうも違うらしい。子供達は実に文明的に、丁寧に金平糖の一粒を手にとって自分にお礼を言って感情豊かにそれを頬張っているが、やはり輝夜の視点ではこれは動物園での餌やり体験なのである。自分は主観的体験を客観的に眺めることを娯楽にできる性分ではない、というのが真相のようだ。それが娯楽になると連れに熱弁していた人がどこかにいた気もするが。
さておき、自分が里に馴染み里を心から楽しむためには致命的に何かが欠けているのである。輝夜はその欠けたものを埋める何かを求めて金平糖を配り終えた後も妹紅に話しかけることなく(その妹紅は私から少し離れていた。なんでだろ)、里を観察していた。
六.
庇が大きく張り出た店が輝夜の目に留まった。その店だけ目立つのだ。他の建物がだいたいは茶色か白の壁に黒い屋根瓦で九割方完結しているのに、この店は庇の部分が緑と白を交互に並べた布地で、これが伝統的な家屋にそのままついているから継ぎ接ぎのような凄まじい違和感がある。芸術としては零点だが、それで目に付くのだから広告効果は高いと言わざるを得ない。
八百屋、あるいは果物屋のようだった。庇のすぐ下には彩りのいい果物が並べられている。この日は蜜柑をさらに黄色くしたような果実が、浅い籠に入れられていた。
「これは何かしら?」
「柚子だな」
妹紅の答えは正しいのだろうが、一方で答えになっていないと輝夜は思った。結局疑問の「これ」が「柚子」に置き換わっただけだ。
「皮を削って鍋とかうどんとかの薬味に使うと美味しいよ」
店のおばあさんの答えは、柚子を売ろうという意図を隠そうともしていないものだったが、輝夜にとってはその方が求めているものだった。
「蜜柑みたいな見た目してるけれど中身を食べるものじゃないのかしら」
「蜜柑みたいに食べるには酸っぱいねえ。横に蜜柑も置いているよ。あとオレンジっていうのを今年から取り扱うようになったんだけれど、これはまだ少し早いから一月くらい寝かせた方がいいねえ」
輝夜はおばあさんに言われて蜜柑も置いてあることに気が付いた。落ち着いた橙色の球体が確かにあるが、柚子の目を焼くような薄黄色に比べるとどうにも地味だ。
「でも柚子もいいよ。冬至にはお風呂に柚子を浮かべたりするんだ」
幻想郷の普通の人は柚子の食べ方も冬至の柚子湯文化も知っている。輝夜のようなのは珍客ではあるが、おばあさんは特に邪険にもせず、柚子か他の柑橘、できれば両方を買えと勧め続けていた。長年この仕事をしていて外来人相手に商売したことも一度や二度ではない。幻想郷文化に馴染んでいない人向けの商売というのが無意識にできる。ある程度の年数以上里で店を構えている人は須らくこの技術を身につけている。
輝夜も、このおばあさんの、しわがれてはいるが妙に通る声が最後の一押しになって柚子を買った。買って満足したので妹紅に告げて帰路についた。
「あのおばあさん、なんというか憎いことするよな」
「どこが? おしゃべりで親切な人にしか見えなかったんだけれど」
輝夜は無垢で、無垢とはある種の無知だった。
「憎いというか商売上手というか。それ、そんなに長持ちする果物じゃないんだよ。冬至までには間違いなく腐るから、冬至に浮かべるにはもう一度買いにいかないといけない。二度来店させるために冬至の話をしたんだろうよ」
「ああ、生物
だからそのままにしてたら腐るわよね」
輝夜の発言に妹紅はぎょっとした。まるで無機物だけの世界で千年くらい生きてきた人のような発言で――そしてある意味でそれは正しかった。
「なんでそんな暢気なんだよ。お前うっかり腐らせた食べ物がいかに処分に困る代物なのか知らないだろ」
「私の能力を忘れてて? そもそも腐らせないから大丈夫よ」
「ああ、まあ、そうなんだろうな」
妹紅はふと「風情がねえな」と呟いて、それは輝夜の耳に届いた。幻想郷、否、この世でも屈指の文化人を前にして風情がないとは片腹痛いわねと思ったが、しかしその一方で、この「風情」こそが、自分を動物園の客から共に同じ生活を楽しむ存在にする上で欠けているものなのではないかという納得もあった。
文化とはその土地の気候、植生、歴史、経済、その他ありとあらゆるものが基盤となってその上に存在するものだ。天上人には天上人の文化があるように、天下の人々には天下の文化がある。天下文化の一つは物を腐らせること、というのは(妹紅のあからさまな拒絶反応を見るに)流石に違うのだろうが、物が朽ちていくことを仕方のないこととして良しとするような、消極的肯定は文化としてあるようだ。
二人は竹林に戻った。雪はほとんど溶けていて、地面の上に少し伸びている雪と葉に残る湿り気だけが、少し前に降水があったということを示している。
「雪は朽ちたわね」
「雪が朽ちたとは妙な言い回しだな。雪は溶けるものだろ」
雪は水になったが、竹は細長い楕円の葉を変わらずつけていた。
「分解されて地面に吸収されていったんでしょ? 朽ちた、でも間違いじゃないじゃない」
「その言い回しは永琳仕込みだな」
「正解」
輝夜は掌の中で柚子を回した。冬至までとっておこうと思い買ったもののもうそういう気分ではない。どうしたものかという焦燥と、初めて幻想郷の里を見た高揚感が、普段なら絶対にしない発想に輝夜を導いた。
「蜜柑みたいに食べるものじゃないって店のおばあさんは言ってたけれど、実は意外といけるとかないかしら」
「あー、いけると思うぜ」
「む、その言い方は怪しい」
「いや全然。悪くはないんだよ悪くは。他の食べ方をした方が美味いからそのままかじるのは十倍損するってだけで」
「やり直しが無限にできる私達にとって経験における損なんてものはないのよ。その真面目な感じだと本当に大丈夫そうね……」
お祭りテンションで浮かれていた輝夜は、妹紅は自分を陥れる目的なら能力が倍増するという事実を忘れていた。もっとも柚子の硬い皮をこじ開けたときに飛んできた一滴の果汁の時点で危機感を覚えてはした。が、そこからなお戻るに戻れないからと突っ切ったこともまたお祭りテンション。
「……!!!!」
皮の内側の白い綿部分がいくらか混じってそれの味は苦味なのだが、そんなこと些事というくらいの強烈な酸味が輝夜を襲った。妹紅は隣で爆笑している。口をアスタリスクにした輝夜は妹紅をポカポカと殴るのだった。
七.
「おかえりー。どうだった?」
因幡てゐ、永遠亭で唯一輝夜にタメ口をきける存在が、帰宅直後の輝夜の部屋に入ってきた。
「楽しかったわよ。最後酷い目にあったけれど……」
輝夜は濃い緑茶を、それでうがいをするかのようにして飲んでいた。
「だから拾い食いしちゃ駄目って行く前に言ったでしょ」
「言ってなかったわよ。というか拾い食いじゃない……。拾い食いみたいなものねえ」
上位存在から見れば――そんなものがいればだが――さっきの自分の姿は、昔動物園で餌やりをした、あの鹿みたいな動物とそう変わらなかったんじゃないかと輝夜は思った。あのとき撒いたのは普通の餌のはずたが、仮に普通の餌に見える変な餌を撒いたとしても少なくとも口に含みはしたはずだ。自分はようやくガゼルの視点に立つことができた。輝夜はそれが嬉しくなった。もっとも同時に、自分はガゼルのように餌を食べたかったわけじゃないんだけれどなあとも、行動の全てが自分の意思だったにも関わらず思ったのだが。
「まあ姫様が体調崩しても優曇華が毒を盛ったってことにしておくよ」
「ごまかしでさらに騒ぎを大きくしようとするんじゃありません」
「冗談よ冗談。ところでお土産は?」
輝夜が永遠亭内では入手不可能な物を持っていたら怪しまれる。そのため手に入れた物はてゐに持たせて、永遠亭内で振る舞うときにはてゐが入手したものということにする、ということも口裏合わせに含まれていた。いくらかはてゐに中抜きされるだろうが、それは手伝ってもらったことの報酬として正当だと輝夜は思っていた(図々しい話だがてゐの側も)。
「今日はお土産なしになったわ。代わりにお菓子作ってあげるから」
このフォローは大事だ。てゐは基本損得でしか動かないので、契約が自分にとって無益と判断した瞬間あっけなく反故にしかねない。
「仕方ないね。団子は他でも散々食べてるからそれ以外ね」
ただてゐの考える損得とは物質的なものには限定されない。これも本当にお菓子が貰えるかどうかはともかく(てゐは、輝夜が台所に立ってるのを見たことがないから懐疑的に見ている)、相応の誠意を見せてるから良しということなのだった。
「ああそれと、近いうちにまた出かけるからよろしくね」
「今度はいつ」
「冬至の頃ね」
「うげー。忙しい時じゃん」
輝夜は自分の性格が兎寄りなこともあり、てゐがどういう価値観で動く兎なのかを知っている。だから手駒として扱えるし、ときどきこうしてもて遊ぶようなこともするのだった。
それから数週間後、冬至に際して輝夜はまたこっそりと永遠亭を抜け出し、妹紅と二人であの果物屋に柚子を買いに行き、柚子はてゐの手柄としてその日の夜の浴槽に浮かべられることになるのだが、それはまた別の話である。
ところどころの小ネタも面白かったです
初雪デートのさ中でもひとり動物園に思いを馳せる輝夜が自由でよかったです
面白かったです。