気が付くと、僕はくらやみの中にいた。
ここはいったいどこだろう。何も見えないし、聞こえない。
驚いて思わず漏れた声は、自分の声なのになぜかくぐもっている。耳を澄ませても虫の声一つ聞こえないし、目を凝らしても周りの輪郭は浮き上がってこない。
突然視覚と聴覚を封じられたことで、得も言われぬ焦りや恐怖が押し寄せる。ここは里の外。最近はあまり聞かないけど、凶暴な妖怪に襲われることもあるのだ。
でも、僕は好奇心旺盛な探検家。ケーケンソク的に、変なことが起きた時にパニックを起こしちゃいけないことは知っている。そう、一度落ち着かないと。
一応、今はそのほかには何も起こっていないようだから、一旦、こうなった経緯を思い出そう。
―――
――
―
あれは…そう。僕はいつものように、里の外に探検に出ていたんだ。大人たちは危ないから里の外に出るなって言うけれど、ずっと里で過ごすなんて、つまらないから。だから僕は、毎日のように里を抜け出して遊びまわっていた。
今日も普段と同じように里を出て、今日はどんな未知が起こるかな、どんな面白い妖怪と出会えるかな、と考えながら、森を探索していた。
そして獣道を歩いていると、目線の先に、黒い塊が浮遊しているのを見つけたのだ。
まるで霧のようでぼんやりとしたその塊は、僕の目線よりも少し高い所に浮いていたが、だんだんと高度を下げてきて、やがて地面に触れた。
木の陰に隠れて覗き見ていると、どうやらそれは、少しずつ拡がっているみたいに見える。
好奇心と警戒がせめぎあう。
あの塊は何だろう。中には何かあるのかな。それとも、“誰か”がいるのかな。僕が葛藤している間も、霧のような「くらやみ」は周りの空気を暗く染めていく。
最終的に勝鬨を上げたのは、好奇心。
だんだんと大きくなるそれに、近づいてみよう。ただし、触れてしまうと何が起こるかわからないので、近づきすぎないように。いつでも逃げられるように。
一歩ずつ、一歩ずつ。
僕は得体の知れないそれに警戒しながらも、その正体を知ろうと足を踏み出す。
拡がる。拡がる。
歩みを進めるのに並行して、「くらやみ」は僕の視界を占有しようと拡がる速度を速める。
……ふと、違和感。足元に目をやると、「くらやみ」の拡がる速度は思った以上に速かったようで、僕の足先は「くらやみ」に突っ込んでいた。
まずい、と思って正面に視線を戻した時には、既に僕の視界は黒く塗り潰されていた。
―――
――
―
どこからか女の子の声が聞こえる 気がする。
そのほかの音は一切聞こえないというのに。
その声はまるで鈴を転がしたように、しゃらん、しゃらんと響き、僕の脳に直接染み入ってくるようだった。誰の声か――は解らないけど、とにかく、きれいな声だな。
僕はその声に惹かれて、声の聞こえる方へ、手を伸ばしながらゆっくり近づこうとする。
彷徨う。彷徨う。
纏わりつく「くらやみ」のせいか、妙に足が重い。
しかし、この空間で認識できるものはあの声をおいて他にないのだ。届いているか分からないくぐもった言葉で声の主を呼びながら、光を求めて必死に闇をかき分ける。
……どれだけ進んだだろう。一向に声の源に近づいている気がしない。
本当なら、とっくに周りの木にぶつかったり、茂みに突っ込んだりしていてもおかしくない程度には歩みを進めたはず。もしかして、僕が進んでいると思っていただけで、本当は一歩も動けていない、とか?
もしこの予想が当たっていたとしたら、僕はこの空間から出られるのかな。
先ほどまで響いていたはずの声も、いつの間にか聴こえなくなっている。
とにかく、このままではいけない。僕は尚も足を上げ、次の一歩を踏み出そうとして……その行動がとれないことに気づいた。
いや、足を上げることはできる。しかし、その足が地面に着かない。地面を踏んだ感触がしない。僕の足は……足が……。
――足が、無い?
それは寒さでかじかんで、感覚が無くなるようなそれとは違った。それでいて、怪我をしたなら感じているはずの痛みもない。
まるで、最初からそんな部位なんかなかったかのように。それまで足が感じていたものを思い起こせない。
鳥が翼に触れられた時の感覚を、人間には想像できないように、僕は「足」というもの自体を、想像することすらできなかった。
僕は足元を見やる。しかしそこは「くらやみ」の中だから、当然何も見えない。目の前まで近づければ、何か感じられないかな。温度でも、空気の動きでも、なんでも。
試しに腕を上げ、手を頬に当てようと動かす。
しかし指が当たるはずの場所に、予想した感覚は得られなかった。
そこでぼくは、感覚を失ったのが足だけではないことに気づいた。直前までは感じていた指の感覚までもが無い。というか、手指そのものが、無い。
そして、先ほどから手足に纏わりついている「くらやみ」は、指の先から、手首や足首を伝って、少しずつ、少しずつ、拡がってきている。
――そうか。この「くらやみ」のせいなんだ。
ぼくの手足は、「くらやみ」に、段々と飲み込まれているのだ。まるで紙に墨汁を垂らしたかのように、それはボクの体に染みこんでくる。
――あれ。ボクは今、「怖い」と感じているはずなのに。すぐにでもこの「くらやみ」の中から逃げないといけないのに。少しずつ体が無くなってしまって、最後にはボクそのものが「くらやみ」に飲まれてしまうかもわからないのに。
――こわくない。……いや。
――「こわい」って、どんな感情だったっけ。
――感情…「カンジョウ」って、なんだっけ。
ボクの頭の中は、濃い霧がかかったようで、めのまえにあるはずの、当たり前にしっているはずの感覚やことばでさえもが、おおい隠され、失われていく。
おぼろげになった生存ほんのうは、もはやボクにうごく気力をあたえてはくれない。
飲まれていく。のまれていく。
ボクをむしばむ「闇」は、すでに「ボク」のおくふかくまで入り込み、「ボク」を喰らっていく。
五感は……わからない。もうないのかもしれない。
きもちは…「きもち」が、わからない。
かんじない。なにも、かんじない。
――「ボク」って、なんだっけ。
――「やみ」って、なんだっけ。
……そうだ。ひとつだけ、もうあるのかもわからない「こころ」に、のこっていた。
――ああ、きれいだったな。
そうして、「わたし」のいしきは、「くらやみ」にとけていく。
「ごちそーさまでした」
ここはいったいどこだろう。何も見えないし、聞こえない。
驚いて思わず漏れた声は、自分の声なのになぜかくぐもっている。耳を澄ませても虫の声一つ聞こえないし、目を凝らしても周りの輪郭は浮き上がってこない。
突然視覚と聴覚を封じられたことで、得も言われぬ焦りや恐怖が押し寄せる。ここは里の外。最近はあまり聞かないけど、凶暴な妖怪に襲われることもあるのだ。
でも、僕は好奇心旺盛な探検家。ケーケンソク的に、変なことが起きた時にパニックを起こしちゃいけないことは知っている。そう、一度落ち着かないと。
一応、今はそのほかには何も起こっていないようだから、一旦、こうなった経緯を思い出そう。
―――
――
―
あれは…そう。僕はいつものように、里の外に探検に出ていたんだ。大人たちは危ないから里の外に出るなって言うけれど、ずっと里で過ごすなんて、つまらないから。だから僕は、毎日のように里を抜け出して遊びまわっていた。
今日も普段と同じように里を出て、今日はどんな未知が起こるかな、どんな面白い妖怪と出会えるかな、と考えながら、森を探索していた。
そして獣道を歩いていると、目線の先に、黒い塊が浮遊しているのを見つけたのだ。
まるで霧のようでぼんやりとしたその塊は、僕の目線よりも少し高い所に浮いていたが、だんだんと高度を下げてきて、やがて地面に触れた。
木の陰に隠れて覗き見ていると、どうやらそれは、少しずつ拡がっているみたいに見える。
好奇心と警戒がせめぎあう。
あの塊は何だろう。中には何かあるのかな。それとも、“誰か”がいるのかな。僕が葛藤している間も、霧のような「くらやみ」は周りの空気を暗く染めていく。
最終的に勝鬨を上げたのは、好奇心。
だんだんと大きくなるそれに、近づいてみよう。ただし、触れてしまうと何が起こるかわからないので、近づきすぎないように。いつでも逃げられるように。
一歩ずつ、一歩ずつ。
僕は得体の知れないそれに警戒しながらも、その正体を知ろうと足を踏み出す。
拡がる。拡がる。
歩みを進めるのに並行して、「くらやみ」は僕の視界を占有しようと拡がる速度を速める。
……ふと、違和感。足元に目をやると、「くらやみ」の拡がる速度は思った以上に速かったようで、僕の足先は「くらやみ」に突っ込んでいた。
まずい、と思って正面に視線を戻した時には、既に僕の視界は黒く塗り潰されていた。
―――
――
―
どこからか女の子の声が聞こえる 気がする。
そのほかの音は一切聞こえないというのに。
その声はまるで鈴を転がしたように、しゃらん、しゃらんと響き、僕の脳に直接染み入ってくるようだった。誰の声か――は解らないけど、とにかく、きれいな声だな。
僕はその声に惹かれて、声の聞こえる方へ、手を伸ばしながらゆっくり近づこうとする。
彷徨う。彷徨う。
纏わりつく「くらやみ」のせいか、妙に足が重い。
しかし、この空間で認識できるものはあの声をおいて他にないのだ。届いているか分からないくぐもった言葉で声の主を呼びながら、光を求めて必死に闇をかき分ける。
……どれだけ進んだだろう。一向に声の源に近づいている気がしない。
本当なら、とっくに周りの木にぶつかったり、茂みに突っ込んだりしていてもおかしくない程度には歩みを進めたはず。もしかして、僕が進んでいると思っていただけで、本当は一歩も動けていない、とか?
もしこの予想が当たっていたとしたら、僕はこの空間から出られるのかな。
先ほどまで響いていたはずの声も、いつの間にか聴こえなくなっている。
とにかく、このままではいけない。僕は尚も足を上げ、次の一歩を踏み出そうとして……その行動がとれないことに気づいた。
いや、足を上げることはできる。しかし、その足が地面に着かない。地面を踏んだ感触がしない。僕の足は……足が……。
――足が、無い?
それは寒さでかじかんで、感覚が無くなるようなそれとは違った。それでいて、怪我をしたなら感じているはずの痛みもない。
まるで、最初からそんな部位なんかなかったかのように。それまで足が感じていたものを思い起こせない。
鳥が翼に触れられた時の感覚を、人間には想像できないように、僕は「足」というもの自体を、想像することすらできなかった。
僕は足元を見やる。しかしそこは「くらやみ」の中だから、当然何も見えない。目の前まで近づければ、何か感じられないかな。温度でも、空気の動きでも、なんでも。
試しに腕を上げ、手を頬に当てようと動かす。
しかし指が当たるはずの場所に、予想した感覚は得られなかった。
そこでぼくは、感覚を失ったのが足だけではないことに気づいた。直前までは感じていた指の感覚までもが無い。というか、手指そのものが、無い。
そして、先ほどから手足に纏わりついている「くらやみ」は、指の先から、手首や足首を伝って、少しずつ、少しずつ、拡がってきている。
――そうか。この「くらやみ」のせいなんだ。
ぼくの手足は、「くらやみ」に、段々と飲み込まれているのだ。まるで紙に墨汁を垂らしたかのように、それはボクの体に染みこんでくる。
――あれ。ボクは今、「怖い」と感じているはずなのに。すぐにでもこの「くらやみ」の中から逃げないといけないのに。少しずつ体が無くなってしまって、最後にはボクそのものが「くらやみ」に飲まれてしまうかもわからないのに。
――こわくない。……いや。
――「こわい」って、どんな感情だったっけ。
――感情…「カンジョウ」って、なんだっけ。
ボクの頭の中は、濃い霧がかかったようで、めのまえにあるはずの、当たり前にしっているはずの感覚やことばでさえもが、おおい隠され、失われていく。
おぼろげになった生存ほんのうは、もはやボクにうごく気力をあたえてはくれない。
飲まれていく。のまれていく。
ボクをむしばむ「闇」は、すでに「ボク」のおくふかくまで入り込み、「ボク」を喰らっていく。
五感は……わからない。もうないのかもしれない。
きもちは…「きもち」が、わからない。
かんじない。なにも、かんじない。
――「ボク」って、なんだっけ。
――「やみ」って、なんだっけ。
……そうだ。ひとつだけ、もうあるのかもわからない「こころ」に、のこっていた。
――ああ、きれいだったな。
そうして、「わたし」のいしきは、「くらやみ」にとけていく。
「ごちそーさまでした」