Coolier - 新生・東方創想話

狼々月下

2024/12/31 16:42:59
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 血のにおいは良いにおいだ。血のにおいを辿る先には獲物がある。食い物がある。つまり、明日の命がある。だから、血のにおいは希望のにおいだ。ただしそれが「自分の」血のにおいでない限りは、の話だが。

(くそっ、しくじったぜ……鬼傑組も既に地上まで勢力を拡大してたのか……ごふっ、獺霊どもめ、見た目はちんまいくせに爪だけは凶暴でやがる……)

 そして、まさに今、狼霊の嗅覚を鋭く刺激し続けているのは他ならぬ自分自身の血のにおいだった。コラージュされた記憶の断片。驪駒早鬼から与えられた地上選抜斥候隊員としての任務と名誉。畜生界と地上世界を繋ぐ長い長い長い秘密回廊。知らぬはずなのにどこ懐かしい陽射しのあたたかさ……それと、生命のにおい。
 油断がなかったといえば嘘になる。
 畜生界の空は常薄暗く、空気は荒涼たる血と争いのにおいで満ち満ちている。そこにあるのは闘争の世界。闘争の日々。張り詰めた時間が、ここにきて解けた。

「地上進出は我ら勁牙組の新たな未来だ。その鏑矢たるおまえたちの任務は極めて重要だぞ。期待している!」

 リーダーの力強い激励。胸の奥から込み上げる熱いもの。仲間の狼たちの羨望と称賛の瞳。
 油断がなかったといえば嘘になる。
 地上の美しさに目を奪われた。元よりここから来たのだと、もはや思い出せない生前の記憶のせいなのだろうか? 狼霊にはわからぬことだ。
 しかし、震えた。心の底から。同時に思った。自分は選ばれし存在なのだと。この美しさを再び目にする機会を得られる魂。畜生界広しと言えど滅多にない幸運者だと。
 いや、それも違う。幸運などではない。努力の成果だ。勁牙組に尽くしてきたこれまでの苦労、文字通り命懸けの闘争を生き残ってきたセンスと集中力……つまり、仲間たちへの貢献! 群れの忠誠! それが認められたからこそ、この危険で重要な斥候任務を任されたのだ。

(血が止まらねえ……俺は死ぬのか? 一度死んで畜生界に堕ちた俺が、また死ねば、次はどうなる? ちくしょう、驪駒様……)

 油断があった。確かに。
 接近する獺霊たちの存在に気がつけなかった。現地の泥を纏ってにおいを消す彼らの巧妙な戦術、それもあろう。だが鬼傑組の獺霊といえば、凶暴な狼霊たちから逃げ惑う以外に能の無い餌食だったはず……だが、もはやそれも過去の話のようだ。鬼傑組組長は誰よりも賢しく、また誰よりも負けず嫌いだと、狼霊は早鬼から聞いたことがある。まさにその通りだった。
 
(くそっ、ちくしょうっ、定時報告の時刻……とっくに過ぎてるか。誰かが不審に思って助けを……はっ、ははっ、なにを期待してる、俺は……こんな早々にヘマを踏むような間抜けを誰が助けに来る? 輝かしき弱肉強食の掟だ。弱者は餌食、仲間じゃねえ……)

 血に濡れた毛並みを地上の冬の過酷な風が容赦なく撫で付けていく。その度に体から命が奪われていく。このままいけば失血死を待たずに力尽きるかもしれない。いや、その前に血のにおいを嗅ぎつけた地上の畜生に食い殺される可能性の方がよほど高いか。

(来ねえよ、助けなんて来ねえ……俺は死ぬ、独り、寂しく、また……また……? あぁ、ちくしょうめ)

 四つ脚は震え、牙の隙間から血反吐混じりの唾液がこぼれて止まらない、それでも、狼霊は歩みを止めない。じっとしていても死ぬ以外ないのだから。つまり……ある意味で、当然のこと。彼は生き残る気だった。または単に死ぬのが恐ろしかっただけかもしれないが、どちらでも同じこと。第一に彼はそんな自分の臆病さと生への執着など欠片ほども自覚してはいなかった。戦士だからだ。真の戦士は死への恐怖を抱いても、それをおくびにも出さぬものだ……少なくとも、勁牙組の構成員たちはそのように考えている。

(驪駒様、驪駒様っ、俺ぁまだ死にませんっ……まだなんにもお役に立っていません……きっと使命を果たします……群れに迎えてくれた、仲間たちのために……)

 しかし如何な強靭な魂を持とうが、肉体の限界というものは確かにあった。というより、ここらがこの狼霊の魂の強靭さにおける限界値。畜生界の住人は存在に魂が先んじる。それは「意思の持ちよう」などという生半可なものではなくって、獅子が強靭なる肉体を生まれながら持つように、どうしようもなく定められた部分もある。
 つまり狼霊の魂の強度は、まさに狼の肉体一匹分。
 掠れる視界。堂々巡りの思考が頭の中に響く。足取りは老犬さながらで、血反吐さえも溢れなくなった。
 よろめき彷徨う一頭の血まみれの黒い毛むくじゃら。
 だが。

(……このにおい)

 夢に揺蕩うようだった狼霊の両瞳に、突如、金色の生命力が蘇る。鼻をひくつかせ、無有病者の足取りが急激に統制されたものとなる。

(……このにおい! 間違いねえ! 狼のにおいだ、仲間のにおいだっ!)

 駆け出した彼の視界の中、周囲の森深い景色が風のようにすっ飛んでいく。いつしか当たりの景色は常緑樹林から、深い竹林に変わっていた。彼はそんなこと気がついてさえいない。頭にあるのはますます強くなるにおいのことだけだ。しかし……新入りの三頭からの情報によれば、地上には山犬はいても野生の狼は他にいないという。山犬と狼は同じものなのではないか……野生の、などと含みをつける理由はなんなのか……などというのんびりした思考は当然、彼の中にはない。あるのはただただ剥き出しの生存本能、すなわち、仲間を求める生得的な衝動だけ。群れへ帰ろうとする強烈な帰巣本能だけだった。

「助かっ……」

 けれど。

「えっ……?」

 竹藪から飛び出してから気がついた。何かが致命的に間違っていることに。

「うそ、あなた……まさか」

 そこにいたのは仲間でも同胞でもなく、血染めのドレスに身を包んだ人間の女だった。いや違う。たしかに女からは狼の……つまり「同朋」のにおいがする。けれども確かに人間の女のようにも見える。
 ただ狼霊は己の目による視力よりは、どちらかといえば、いや圧倒的に、嗅覚の方に信頼を置いていた。だとしたらやはりこの女は……狼なのか? だがしかし……。
 狼霊の意識は混乱とパニックの掌に包まれていた。がむしゃらに逃げ出そうとして足がもつれ、無様にその場に倒れ込む。戦士にあるまじきみっともない姿。体力が限界を超えた証。ぜい、はあ、と荒い呼吸が、だらりと垂れた舌の付け根から鳴っている。

(驪駒様、すみません、すみません、俺ぁここまでです、最後の最期までなんのお役にも立てず……ちくしょう、ちくしょう……)

 むしろ、ここまで走りついたことが奇跡だったのかもしれない。
 狼霊は薄まっていく意識の中で、血染めドレスの女の見開かれた瞳を垣間見て――


 ○


「粗暴な狼霊よ、おまえらはなんだって驪駒早鬼なんぞに従ってるのかね?」

 いつぞやの三組長会合の折。
 あの忌々しい埴輪兵団をどうするか、というトップシークレットを早鬼たちが話し合っている間、狼霊は研ぎ澄まされた意識でもって仲間たちともに会議室の廊下を守っていた……が、高飛車な大鷲霊の一匹がずけずけとそんなことを尋ねてきて、辟易した唸り声を漏らした。
 これが平和的な談合の場でなければ彼は、たちまち相手の喉笛を噛みちぎったことだろう。しかし埴輪兵団は手強く、いかな勁牙組の戦力と言えど単独では刃が立たない……狼霊にだってそれくらいの損得勘定は効いた。しかし一方で大鷲の不躾な物言いを看過することままならなかった。言うに事欠いて「驪駒早鬼なんぞ」とは!

「食うことと寝ることしかしない貴様らの頭目を見てからものを言えよ、チキンステーキ共め!」

 しかし大鷲霊は率直な罵倒に欠片ほども怯みはしない。むしろ待ってましたと言わんばかりにそのくちばしをパカリと開くと、クィークィーと不快な笑い声をあげる。

「馬鹿だな、そこがいいのじゃないか」
「なに?」

 面食らう狼霊に、大鷲霊はいっそう丁寧な口調で言葉を継いでいく。

「剛欲同盟の理念は自由さ! 大空を舞う猛禽霊こそ畜生界で最も自由な種族! 饕餮様はけして我らに『行って死んでこい』などとお命じにはならない。片やどうだ、おまえらは。明けても暮れても驪駒早鬼の号令に犬のように従っては闘うことばっかりで」
「何が言いたい?」
「いやね、純粋に気になっているのだよ……せっかくの生の後の生だというのに、なんだっておまえらは相も変わらず鎖に縛られた生き方を望むのかとね。どんな時でも犬畜生同士で身を寄せ合ってばかりで、少しは一匹で自由を謳歌したいとは思わないのかね?」
「驪駒様は畜生界でいちばんに優れたリーダーだ。それに付き従うことが俺達の喜びだ。間抜けな頭を担ぐチキン同盟にはわかるわけねえよ」
「強さだって饕餮様の方が……うぉほん、いや、今はよそう。気になるのはそこさ。なぜそうも『従う』のが好きなのかとね、私は不思議でならない。リーダーに従う。群れに従う。奴隷のように。けして自分のあたまでは考えない。いや……考えられないのかね? なあ、鬼傑の」

 突然に話題を振られ、我関せずの日和見主義を決め込んでいた獺霊がびくりを震えた。たまたま近くにいたせいで巻き込まれた現実がいかにも恨めしいって調子で。おまけにじろりと狼霊にまで睨まれて、その小さい体躯がいっそうに縮こまる。

「いやぁ私は……」
「そっちの親分は部下を平気で使い捨てると聞くじゃないか。どうして大人しくそれに従うんだね。やはり恐怖で逆らえないのかね」
「吉弔様はそんなお方じゃありません……あ、あなたたちのところのボスよりずっとお優しいお方です……」
「へえ。それは、どういう?」
「き、吉弔様は……見下される痛みを知っているから……い、い、今みたいに……」
「ふん……」
「おいチキンステーキ、貴様は結局なんのつもりなんだ? そんなに喉笛噛みちぎられたいか? それとも本当にステーキにしてやろうか?」
「違う、違う、粗暴な犬め……好奇心だよ! 我らは知識に対しても剛欲なのさ。つまり、おまえらの組織には自由がない。なのにどうしてそれを堪えられるのか……」

 ばさりと大きな翼を広がる。滔々と語りを続けようとする大鷲霊。だが、

「そもそも自由だからなんだってんだ?」
「なに……」
「自由なんか与えられたら、そんなもん、暇じゃねえか。くだらねえ自由なんかのために群れから離れれば、それこそ生きる手立てを失う。なんの得がある? 貴様の話はまずそっから意味不明なんだよ」
「馬鹿な、おまえ、粗暴にも限度があるだろ!?」
「群れに入れねえ畜生は落ちこぼれだ。てめえは『あぶれ者』ですと吹聴してなにをそんなに得意げなんだか、ちっともわからねえ」
「い、いや……しかし……っは! 馬鹿もそこまで来ると勲章ものだな!」
「知るかチキンステーキ。いずれにせよこんな同盟関係は今回限りだ。次に戦場で会った時は貴様、覚えておけよ。驪駒様を侮辱した罪、軽くはねえ」
「ちっ、翼なき者はこれだから……」
「貴様らの頭だって羊じゃねえか」
「あのお方は特別だ! 愚か者が!」

 結局、狼霊は悪くない気分だった。暴力ならともかく舌戦では、大鷲霊の小賢しさは一筋縄では行かない。しかし今回は自分の「勝ち」のようだと、狼霊は直感でもって理解した。
 むしろ「翼」を出しそうになっているのは今や向こうの方で、他の大鷲霊たちに取り押さえられているのを、狼霊は愉悦と共に眺める側に立っている。
 一方で……扉一枚を挟んだ先、会議室の議論はまさに白熱の渦中にあるらしい。議題は霊長園に差し向ける人間の候補を誰にするか、であるらしく、巫女がどうの魔法使いがどうの剣士がどうの、ああだのこうだの、やいのやいの……。

(めんどくせえ。全員まとめて送り込みゃいいじゃねえか)

 ぐるると不服げに喉を鳴らす、と、先ほどの獺霊が遠慮がちに小さな口を開いた。

「吉弔様は、自由のために戦うんだって、仰っていました」
「んあ、それ、俺に言ってんのか?」
「……自由。なぜそれを守りたいのか、私たちにはよくわかりません」
「おい」
「でもみんな、吉弔様が好きだから、吉弔様のために、戦うんです」
「……」
「つ、次にお会いする時は、ま、また、敵同士ですね……よろしく……」

 殺し合うってのになにがよろしくだ。
 呆れかえるほどの日和見連中だと狼霊が脱力しかけた……その時。彼に油断がなかったと言えば嘘になるのだろう。チカリ、チカリッ、廊下に灯るケチな照明が唐突に瞬く。畜生界に満ちる常薄暗闇がたちまちのうち侵食を始める。
 
「な、なんだ!? 敵か!? 埴輪兵団かっ!」

 だが、連中の襲撃につきものなあの不快な土くれのにおいが無い。ジジジッと不快げな音を立てて灯りがさらに明滅し、完全に消える。
 だが視界は理解への一助でしかなく、元より狼は闇の中の狩を本分とする種族だ。狼霊は耳をピンと立て、控えているはずの仲間たちと陣形を組むためにあたりを見回した。警護のために狼霊の仲間が一個小隊控えているはずだった。
 それなのに。
 廊下には誰もいない。
 大鷲も獺もいない。
 皆、忽然と消えていた。

「ちくしょうなにが……はっ! 驪駒様っ!」

 咄嗟に主の身を案じ、扉の向こうへ飛び込む。瞬間、無力な一匹の狼霊を出迎えるにおい。それは血のにおい。死のにおい。満ちる血のにおい。血のにおい。溢れるほどに。

「がっふ!?」

 胸のあたりに焼けるような痛みが走り、狼霊が姿勢を崩す。なんということはない。血のにおいは自分のにおいだった。自らの毛深い肉の裂け目から、後から後から真っ赤な血潮がこぼれ、あふれ、流れ続けていた。

(な、なんだ、埴輪の新兵器か……他の組織が裏切ったのか……? 驪駒様はご無事なのか……? なぜ、誰もいないんだ……!?)

 考えても理解は追いつかず、さりとて身動きも取れないまま命だけが垂れ流されていく状況、考えないわけにもゆかなかった。
 だがいくら頭を絞ったところでわかるのは、ただ、自分が致命的な攻撃を受けたことと、仲間が誰もいないこと……そこから導き出される一つの恐ろしい想像ばかり。

(ひょっとして俺は……見捨てられたのか……?)

 なぜ、と問うても仕方がない。答えるものが誰もいないから。
 しかし実際のところそれは突飛な妄想だった。勇ましき勁牙組の仲間がたちまち仲間を見捨てて逃げるはずがなかった。だがこのほんの一分足らずのうちに何もかもが進行してしまった。世界がひっくり返ってしまった。状況と情報と悶絶するほどの痛みだけが現実だった。考える余裕などありはしなかった。
 よたよたと狼霊が立ちあがろうとして、血の滑りに足を取られる。べしゃりと間抜けな音が立ち、喉から悲痛な悲鳴が漏れ出た。
 気がつけば彼は叫んでいた。

「誰か! お、おい! 俺はまだここにいるぞ! やられちまって身動きが取れねえんだっ! 誰か助けてくれっ!」

 もぬけの殻の会議室に吠え声だけがこだまする。ぞっと冷たいものが忍び寄ったのは、単に多くの血を失ったためではなかった。

(いいや、おまえは見捨てられたんだ)

 そう告げた声は、果たして、誰のものだったのか。狼霊自身のものだったのか。それとも。

「ま、待ってくれ! 俺を置いていかないでくれっ! だ、誰か! 驪駒様っ! 大鷲でも獺でもいい! 俺をっ!」

 残響が恐ろしいほどの静寂を克明に浮かびがらせる。輝ける金の瞳が恐怖の色に染まり、血混じりの泡が口角から跳ねて飛ぶ。

「おおっ、俺をっ! 俺を独りにしないでくれ! 独りは嫌だっ! もう、独りはっ……!」

 闇が狭い会議室に押し広がってゆく。
 否、そこはもう畜生界の雑然とした会議室などではなかった。そこは、今やそこは……。
 ……。

 
 ◯


「はっ……」

 かたかたかた、という奇妙な音が彼の意識を現実に引き戻した。身じろぎをして身を起こすと、花のにおいのする布切れがはらり落つ。
 そう、においだ。
 彼ら狼霊はにおいで世界を把握する。その点で今、彼が咄嗟に警戒心を呼び覚まさなかったのは道理なことだった。
 いいにおいがしたから。血のにおいではなく、先の花のにおいも違う。それは……あたたかく、ほっと心の落ち着くようなにおい。仲間のにおい。ホームのにおいだった。
 ではここは勁牙組のどこかセーフハウスなのか?

(違う……それにしちゃここは……)

 ここは、いいにおいだけで満ち溢れすぎていた。勁牙組のアジトには絶えず血と吐瀉物と暴力、つまり粗野と野蛮のにおいが満ちている。
 だがここにはそれが無い。
 
(いや、そもそもここは地上だろ、勁牙組の施設があるわけねえだろうが)

 あるいは「誰かが」彼を畜生界に連れ戻して、治療してくれたのか? 獺霊にやられ、負傷した彼を?

(そうだ、負傷……ちくしょう、あの獺共マジに次は敵同士だからって!)

 切り裂かれたはずの懐を見やると、白い包帯が巻かれていた。滲んだ血の量はごく少ない。少なすぎる。誰かによって定期的に交換されているのだ。
 しかし「誰か」とはいったい? もし勁牙組の仲間ならにおいでそれとわかるはず。闇医者のツテも多少は「嗅ぎ」知っている。
 しかし周囲に満ちるおだやかなにおいはそのどれでもなかった。そのまま眠ってしまいそうなほどおだやかだ。意識を乱す唯一のものは、あの「かたかたかた」という物音だけ。彼はまだ温もりの残る毛布を名残惜しげに一瞥したものの、最終的には、物音のする方へ忍び脚で向かった。

(油断するな……地上は敵地だ。味方なんているはずねえ。『また』死にたくなきゃぼさっとするな。俺はまだ驪駒様のお役に立つことを何もできてねえ。群れへの忠誠を示せてねえ!)

 そう自らを鼓舞し、廊下を進む。においの広がり方からしてそう広い施設でもなさそうだった。四つ脚の狼霊には少し位置の高い窓の、正方形に切り取られた夜空。そこに輝く星の光。やはりここは地上なのだ。などと思う間に物音の元凶たる部屋に辿り着いていた。
 そこは――キッチンだった。
 畜生界には珍しい設備だ。畜生は生肉でも気にせず喰らうし、なにより、彼らは火が嫌いだったから。

(……やっぱりここの主は仲間なんかじゃないな。俺達は火なんて使わねえ)

 そして物音の正体は、なんということはない、火にかかったままのケトルが沸き立つ音だった。吹き出される白い煙が天井近くで渦を巻き、憎き剛欲同盟の頭領にも似たシルエットを形作っている。だがそんなものはまやかしだ。狼霊はもうケトルのたてる「かたかたかた」を意識からすっぱり排除していた。
 代わりに意識にのぼるは、微かな足音。においのゆらぎ。
 誰かがこの施設に近づいてきている。
 無論、この施設の主だろう。先にも増して狼霊は警戒心を強くする。

(どうする、奴は敵なのか? もし敵なら話は早え。殺して、喰らう。それだけだ……)

 彼はその先を考えるのを止めた。考えるだけ無駄だからだ。

(そうとも。敵に決まってるさ)

 敵とは、仲間ではない全てのもの。そして仲間とは、共に狩りをする家族たち。そして家族とは彼にとって、勁牙組だけだ。
 だがこの施設は勁牙組とは無関係だと、たった今結論付けたばかり。であれば後は単純なロジック。
 これから遭う者はすべて……敵なのだ。
 彼は玄関扉の影に潜み、いよいよ近い足音に耳を澄ます。やはり狼のにおいがした。だが人のにおいもする。しかし足音は確かに一人分。

(関係ねえ。喉笛を噛み潰せば同じこと)

 それは自らに言い聞かせるようなマントラ。
 足音が扉一枚挟んだ向こう側で止まる。
 沈黙。
 それが引き裂かれる。
 
「ダメよ。そんな敵意まみれの臭いを垂れ流しちゃ」

 バレている! 狼霊は息を呑んだ。

「まあ、怯える気持ちはわかるけどね」

 反射的に「怯えてなどいない」と反駁仕掛けるのをこらえる程度にはまだ、狼霊にも理性があった。というより彼は「本来なら」理性的な方だった。冷静さを失えば狩りは絶対にうまく運ばない。その点で勁牙組の実力主義はけして「筋肉至上主義」ではなかった。リーダーの驪駒早鬼からして、そうだ。強さこそが正義……そして強さとは複合的な能力だ。
 しかし今、狼霊はその「強さ」の一部分を失いかけている。だが最も悪いことは、彼自身がそれを自覚できていないことだった。

「わかるでしょう。あなた、ひどい怪我をしていた。だから手当した。私が。なのにその返礼がこの殺意に満ちた気配って、ひどくない?」
「……」
「ねー、なんとか言ったらどうなの? わかってるんでしょ。私は……そう、私は狼よ。あなたと同じ。そしてここは私のセーフハウス。自分の家に混じったゲストの臭いくらいすぐわかるわ。それがペンキを塗り替えたばっかりのドア裏に潜んでることだって」
「……俺は、貴様のような奴を知らねえ。そして知らねえ奴は仲間じゃねえ。だってのに……仲間じゃねえ奴が俺を助けた? ありえねえ。なにか裏があるに決まってる」
「やっと声が聞けた……ふん、そりゃまあ、随分と疑り深いのね」
「俺を食いものにしようってのか! それとも勁牙組から――」
「ああ、もう!」

 ドアの向こうのにおいがゆらぎ、狼霊が慌てて飛び退く。乱暴に開かれた世界から入り込んでくる冷気にぞくりと身が冷えた。女がまとった血染めのドレスがぶわりと膨らみ、鮮やかだった。
 
「寒いのよ。あんたが通せんぼしてるせいで」

 女が心外げにため息を吐き出す。滑らかな漆黒の長髪が夜風に踊る。後ろ手に扉が閉められると、ぱさり、舞踊は鳴り止んだ。その間ずっと狼霊はたじろぐことしかできなかった。
 瞳のせいだ。
 女の瞳の色。
 敵意だけじゃない。そこには――彼の知らない色合いがあった。女の口元が柔らかく、崩れる。

「ま、元気そうね」
「ぐ、ぐるる、貴様は誰だ!」
「なに、まだ怯えてるの? こんな素敵な私の姿を見ても、まだ!」
「だからこそだ! そんな血染めのドレスを……」
「血染め? なにが……あ、え、これ? あっははは! これのこと? やだぁ。これ、そういうデザインよ。血だったら、血のにおいがするでしょうに」
「でざいん……」

 赤く染まったドレス。それはただの赤染の模様。彼女の言う通りだった。本当に血で染まった痕ならにおいでそうとわかったはずだ。狼霊にとって、視覚情報のみを頼りにするなどありえない実態だ。ようやく彼は己がひどく混乱していることを自覚し始めた。

(い、いや、無理もない……俺はさっきまで生死の境を彷徨っていたんだ……危険に敏感になるのは、おかしなことじゃねえ)

 それは実際筋の通った説明だったし、筋が通っていたからこそ、彼はそれ以上は考えようとしなかった。
 それに――突然のピィイーッという甲高い音によって彼の意識は夜空の彼方まで飛び上がってしまったから。

「な、なんだ!? 敵襲か!?」
「あーーっ! お湯沸かしっぱなしだったのよっ!」
「おゆ……」
「ちょっとどいて!」

 それこそ弾き飛ばされそうな剣幕に狼霊が慌てて立ち退いた。「キッチン」にだばだばと駆けていく背中。それを呆然と見送る。
 毒気は抜かれてしまっていた。完全に。ともかくも、「ここに敵はいない」と納得した狼霊は、気まずげに、身をすくめた。


 ○


 しっちゃかめっちゃかになったらしい。
 この家の主、狼霊を助けた主が、めちゃくちゃになった「キッチン」の掃除を終えるのを、彼はぼんやりと尾っぽを振りながら待っていた。
 できることは何もなかった。自慢の長い尻尾をふさふさと、慌ただしく駆け回る家主の後ろ姿。何もかもが非現実的で、しかし驚くほどに現実的な呑気さでもって世界が進む。ただそのおかげで、時間という特効薬のおかげで、事態を冷静に観察する余裕がようやく彼に戻りつつあった。

(あいつ……俺達みたいな耳と尻尾があるな。人間ってあんなだったか? いや、驪駒様のような高位の動物霊なのか……? しかし馬ではないだろう。おそらくは――)

 視線に気がついた家主が顔を上げ、小首を傾げて微笑んだ。

「どうしたの? お腹でもすいた?」
「おまえ……雌犬なのか?」
「はぁ!?」

 途端に笑顔が消え、殺意が満ちる。わけがわからないながら狼霊も飛び退き、姿勢を低くして闘争に身構えた。

「うおお!? やはり敵か!」
「違うわよ! でもそんな呼び方やめて。デリカシーって言葉を知らない!?」
「知らん。何だその言葉は!」
「何だって……ああもう。いいわ。いや、よくない。とにかく雌犬なんて呼び方は二度としないで」
「しかしおまえは――」
「しないで! したら追い出すから!」
「う、うむ」
「でも、そうね、まだ名乗ってないこっちも悪かった……ってことにしたげる。私は影狼。ちゃんとそういう名前がある。それで……あなたの名前は?」
「名前? 名前だって?」

 影狼の言葉に今度は狼霊が首を傾げた。なぜそんなことを聞くのか理解できない、と言いたげに。実際のところ、彼はそう言いたかった。だがしかし、彼は学習してもいた。この影狼という人物は予想外の突発的な感情の爆発を見せる――彼の言動のせいだったが――ゆえに、なるべく刺激しない言葉選びが重要だと。

「見ればわかるだろうが、俺は名を授かるほど強くない」
「名前がないってこと? まあさっきからぺらぺら喋ってるあたり、ただの野生生物じゃないってのはわかるけど」
「当然だ。一緒にするな」
「それで……何者なの? あなたは」
「俺は……驪駒様のコマだ。仲間たちに尽くすコマだ。仲間のために生き、群れのために死ぬのが俺の存在意義だ。それ以上でもそれ以下でもない」
「コマって、双六とかのコマのこと?」
「ああ。そしてコマの一つ一つに名前はいらない。見分ける必要もないだろ」
「あ、そう。じゃあ……」

 キッチンの上で影狼はなんだかガチャガチャやりながら、ふと、言葉を切った。狼霊には影狼の手元が見えない。キッチンは彼の使うのには少し背が高すぎた。べつに飛んで見たって良かったが、体力も戻りきっていない今、無駄に霊力を使うのも憚られる。
 そして。
 振り返った影狼の顔に浮かんだ、にやりとした笑み。

「じゃあ、コマ」

 妙に嫌な気配がして狼霊が後ずさる。この影狼という輩、先ほど見せていた苛立ちはどこへ行ったのだろう? 彼には影狼の態度の豹変が恐ろしかった。驪駒たち畜生界の重鎮なら、一度ついた怒りの炎は数日経ってもなお消えぬものだ。地上の連中はそうではないのだろうか?

「な、なんだと?」
「呼ぶのに不便でしょう。だから、コマって呼ぶことにする。嫌だった?」
「べつに嫌とかそういう問題ではないが……」
「じゃあ決まりね、コマ。それよりほら、ご飯」
「おっ」

 狼霊――影狼によってコマと名付けられた彼の反論は、たちまち広がる良い香りに押し流された。影狼は、ただ水浸しになったキッチンを掃除していたわけではなかったのだ。
 無論それだって普段のコマならとっくに「嗅ぎ」抜いていただろう。だが今は、影狼の一挙手一投足への注意のせいでそれどころではない。

「嫌いな食材とか……まあ、ないでしょ?」

 差し出された皿に盛られた、湯気のたつ粥のような料理。ぐぅ、と情けない腹の音がなる。

「そ、そんなものをいつの間に」
「いつでも食べられるようにね、作っておいたのよ。今はただ温めただけ。怪我を治すにはまず栄養をつけなくっちゃ」
「俺はこんな飯程度では買収されんぞ!? この身に満ちる驪駒様への忠誠心は――」
「買収? なにわけわかんないこと言ってるのよ。ほら、さっさと食べる! 怪我人の仕事は怪我を治すこと!」
「ぐるる……なぜだ?」

 それは純粋な疑念だった。また、至極当然な疑問でもあった。

「なぜって?」
「なぜ俺を助ける。俺は手負いだった。なぜ俺を餌食にしない?」

 それこそ畜生界の絶対的ルール。弱者は死に、強者はなお富む。しかし強者もまたさらなる強者の餌食となる。その無限の連鎖こそ畜生界の絶対的掟。弱肉強食の理。
 そしてそこには、仲間以外を助けるという戦術など存在しない。ありえるとすれば、助けるふりをして更なるものを騙し取る時だけだ。
 もちろん影狼はコマの仲間ではない。であれば影狼は詐欺師の仲間か? しかしそういうにおいでもなかった。においといえば、皿に盛られた粥のにおいがずっとコマの食欲を刺激し続けていた。

「あとで金をよこせと言ってもなにもないぞ!」
「私、そんなケチに見える? いいから食いなってば」

 どちらにしても、それ以上の「待て」は効かなかった。事実、コマの肉体はかなりの霊力を失っている。動物霊は食らったものを霊力として蓄え、その霊的な肉体を再構成し続ける。当然の帰結として、怪我と空腹で霊力が枯渇すれば肉体は消滅せざるを得ない。
 それはつまり、極めてありふれた現象と同等の意味を持つ末路。
 死。
 だからこそ、死を恐れる極めて畜生的な本能に尻を蹴飛ばされて、コマは無我夢中に食事へとがっついた。行儀もへったくれもなかった。惜しみなく喰らうこと。それこそ畜生流の最高の賛美だった。
 凄まじい勢いで無くなっていく皿の内容物に、最適なタイミングで影狼がおかわりを追加する。その食いっぷりに彼女は少々目を丸くしながらも、わずかに改まって、どこか独りごちるように口を開いた。

「まあ、食べながら聞いてくれていいんだけどさ」

 実際、コマの方は喰らうので精一杯だった。影狼の言葉は遮られること無く続く。

「どうしてコマを助けたかって話ね。私、あなたがニホンオオカミだと思ったのよ」
「んぐぁ……なんだと?」
「食べてていいよ。で、ニホンオオカミ。けどあなたは毛並みも黒いし、資料で見たよりもずっとがっしりしてる。たぶんハイイロオオカミか……それともシンリンオオカミかしら」

 顔を上げたコマの口元からぼろぼろと肉の切れ端がこぼれる。細かくカットされた干し肉だ。影狼の料理には少しもケチケチするという態度がなく、具材はたっぷりだった。
 コマの犬目が怪訝そうに細まる。

「俺達はみな同じものだ。同じ狼だ」
「そう。それは、確かにそうなの。所詮は人間が勝手に分類しただけの名前に過ぎないのかもしれない。それでも根拠がないわけじゃない。一定の道理はある……ううん、私は同じだと思っていない。それが全てなのかもしれない」
「何が言いたい? さっぱりわからん」
「なぜ幻想郷にはニホンオオカミがいないんだろう……ここは、忘れられた者の理想郷ではないの?」
「あー、なんだかわからんが要するに……俺は『狼違い』で助けられたということか」
「気を悪くした?」
「というより、理解できん……やはり貴様、俺を騙そうとしているんじゃないか!?」
「はぁ。さっさと食べちゃって。お皿、洗わないといけないんだから」
「人間霊のような奴だな。皿などいちいち洗わずとも――」
「私は嫌なのよ」

 またしても、だ。にべもなく立ち上がった影狼は今、冷たくて触れがたいにおいを強固に漂わせていた。先程までの機嫌の良さはどこへ行ったのか? ぶちまけられた熱湯がたちまち凍えていくように、全てはコマの気が付かぬほどあっという間の変化だった。
 どこか奥の部屋へ引っ込んでしまった影狼を呼び止める気にもならず、コマは味のしない飯にがっつくと、からになった皿を鼻先でそっと見えやすい位置に押し出した。


 ◯


 雪に閉ざされた森はゾッとするほどに静謐で、枯れ木の枝の隙間を堂々縫って差し込む日差し、煌めく雪面に目を細める暇もなく、襲いくるのは命を奪う零下の空気。
 
(ここは……どこだ……?)

 そこを、一匹の狼が彷徨っていた。後ろに長く続く足跡は山の起伏に呑まれて果てが見えない。
 拭いきれぬ疲労感がその歩調には表れていた。もう何日も歩き通しというふうだった。世界には彼の他になにも動く者が無い。

(俺は……誰だ……? 仲間はどこだ……? なぜ、俺は独りなんだ……!?)

 状況はわからない。だが本能的な「おじけ」が彼の心臓を掴んだ。
 孤独。考えたくも無い状況。群れで生活し群れで狩りをするのが基本の狼にとって、孤独とはニアリイコールで死を意味する。
 早鐘を打つ鼓動に追われて彼は駆け出す。雪面に残る足跡ごとの間隔が長くなる。だがどこまで行っても純白の枯れた迷宮は変わり映えのしない銀景色を後から後から繰り出して途絶えることがない。

(俺は置いていかれたのか……? 見捨てられたのか!? なぜ? なぜ!)

 どっと重く苦いものが腹の底から込み上げてきて、それが口をつき、遠吠えとなった。
 あぉーーん。
 あぉーーーん。
 力強く、虚しい残響がわずかに彼の心を慰めた。きっと自分はたまたま仲間とはぐれてしまっただけだ。きっと遠吠えに答えてくれるはずだ。きっと、きっと。

「あぉーーーーん! あぉーーーーん!!」

 吠えている間は心が安らぐ。歩くより走る方が胸を慰めるのと同じくらい、それは生きるための行動だという実感があった。しかしもちろん、初めの数回で返答が無かった以上、以降の遠吠えに費やすエネルギーの費用対効果は極めて下がる。生きるための行動なら、どこかで遠吠えをやめて餌食となる間抜けな兎でも探しにいかねばならない。
 それでも。

「あぉーーーーーーん!」

 狼は遠吠えをやめられなかった。自分の絶叫が途絶えたらまたあの静寂が戻ってきてしまうから。それが恐ろしかったから。
 もっとも勇猛果敢な狼の胸中には、自分こそは勇猛果敢だと信じている彼の胸の中には、そんな怯えに浸った意識など、浮かぶそばから沈められてしまうのだけど。
 そして、

「おはよう?」

 ぱっと銀景色が失せる。
 薄明るい朝の陽射しが朦朧と差し込むそこは、枯れ枝の不規則な連続よりもずっともっとのっぺりとした、ただのキッチンだった。
 それと呆れたような目で狼を……コマを見下ろす者がひとつ。影狼だった。
 
「一晩中ここで寝てたの? 信じらんない」
「お、うお……お、俺たちは寝付けばそこが寝床だろうが」
「ただでさえ体力落ちてるのに、風邪ひくよ? 鼻も真っ赤だし」
「ぐるる……」
「ほら向こうの部屋行って。暖炉に火をいれたから、あったかいよ」
「火だと……貴様は狼の動物霊ではないのか? なぜ火を恐れない?」
「動物霊? 私はワーウルフよ。狼女。言ってなかったっけ?」
「ヴェアヴォルフ……神話の存在ではないか!?」
「そんな大したものじゃないってば。ワーウルフってもいろいろね。まあ他のは見たことないけど……ああいや、ワーハクタクならいるか」
「俺は……いまだに貴様の強さを測りかねる……」
「別に強さなんてどうでもいいじゃない」
「ど、どうでもいいだと!? 強さこそ我らの輝かしき――」
「あーいいからいいから。火ったって暖炉に近寄りすぎなきゃ平気よ。ほら、ほーらー!」

 もしも人間がその光景を目にしたら「散歩から帰りたがらない飼い犬と、それを無理やり引きずる飼い主」に見えたかもしれない。だが実際に彼女たちを目撃したのは、窓から覗く朝陽と、垂れ込める朝の底冷えする空気だけだった。
 しかしその冷え切った空気さえ、暖炉の灯った居間へと入った瞬間嘘のように消え去った。

「おお……なんだ、なんだこれは! 暖かい! 暖かいぞ!?」
「だから言ったのに」
「なぜあの火は燃え移らないんだ!?」
「暖炉は煉瓦でできてるから」
「なぜ煉瓦だと燃えない?」
「それは……煉瓦だから? なぜなんて知らないわ。大切なのは、適切な使い方を知っているかどうかよ」

 コマは最初こそ燃える炎におっかなびっくりだったが、程なくして影狼の言う通りだと理解したらしく、暖炉のそばで丸くなったまま動かなくなった。呆れたため息がそこに重なった。

「もう適応してるし。大したもんね」 
「ぐる……し、しかたあるまい……」
「べつに責めてんじゃないわよ。気に入ってくれたなら、まあ、よかった。自慢の我が家だから」
「……ここには一匹で住んでいるのか?」
「まあね」
「他に仲間は居ないのか」
「……まあね。友達はいるけど」
「それは仲間とは違うのか?」
「難しい問題ね。仲間と言えば仲間よ。それも、とても大切な」

 しかし違うと言えば違うと、そこまでは影狼は口にしなかった。コマも流石に触れなかった。デリカシーではなく、また影狼の感情が急に切り替わるのが面倒だったからだが。

(しかし本当に、暖かい……)

 暖炉の中で薪の爆ぜる音がぱちぱちと愉しげな音を立てている。揺らめく炎のダンスは可憐で胸をときめかせることはあっても、恐ろしさなんて微塵もなかった。むしろ、この素晴らしいものをどうして今まで遠ざけていたのだろうと、コマはあっという間にプロメテウスの信徒に鞍替えを果たしていた。

「……昨日、言ったでしょ。私はニホンオオカミだって」
「ああ」
「私の仲間、ということであれば、ニホンオオカミがそれだわ」
「そもそもニホンとはなんだ。狼は狼だろう」
「ニホンってのは……そこから? ニホンってのは、ええと、この幻想郷がある列島が日本列島よ」
「なに? 地上とは幻想郷のことではないのか? 聞いていないぞ。幻想郷以外にも地上があるのか!」
「はあ……? あんたいったいどこから来たわけ? 生身の獣じゃないのはわかってたけど、幻想郷の狼じゃないの……?」
「俺は畜生界から来た」
「チクショウ……え?」

 今度は影狼が首をひねる番だった。ここにニ匹の狼はようやく互いの出自を理解し合う機会を得たが……そのためには、堂々巡りのコマの説明、複数回にわたる影狼の整理、そしてあくびの出るような暖炉のほの暖かさ……その全てが奇跡的に協調しあわなかった退屈な時間の流れを経なければならなかった。
 その果てで、

「ようするに」

 もう何度目かもわからぬ言葉のあと、影狼の疲れの滲む声音が続く。

「コマは一度死んでいて、畜生界っていう死後の世界に生まれ変わった」
「ああ」
「畜生界ってのはそういう動物の霊が延々と争い合っていて、今は三つの組織が治めてる。コマはそのうちの勁牙組ってとこの一員で、地上を侵略しに来た」
「ああ」
「そういうこと、言っちゃっていいの?」
「いずれ明らかになることだ」
「大したコンプライアンスだねえ……」

 関心と呆れの美しい混声嘆息を一つ漏らしてから、影狼はあらたまって問いかけた。

「じゃあ次。コマ君」
「なぜ俺が小難しい貴様の事情を理解せねばならんのだ!」
「なによ! タダメシ食らったんだからそれくらいの姿勢を見せなさい!」
「食わせたのはそっちだろうが!」
「暖炉消すわよ」

 その一言に黒い狼のシルエットがすくみ上がる。外の冬の寒気を思い出したのだ。もちろん、つい昨日までは当然のものとして堪えてきたはずだ。しかし一度知った快楽は容易に報酬系を蝕むもの。コマはもう暖炉の側から離れられない。

「……あー、ここは幻想郷で、地上だ」
「うん」
「しかし地上には幻想郷以外もある。それはニホンと言う。そしてニホンに暮らす狼をニホンオオカミと呼ぶ。影狼はそのニホンオオカミだ……これでいいか!」
「ちょっと違うけど、まあいいでしょう。畜生に"もの"を教えるのも大変ね」
「貴様も狼だろうが!」
「まあね……でもさ、コマだって畜生界に生まれ変わる前はどこか地上で暮らす狼だったんでしょう。幻想郷以外にも地上があるって、そんなに理解しがたいこと?」
「なに……」
「狼は世界中に分布している。あなたもきっとそのうちのどこかで生きていたのよ。それはユーラシアのひろいひろい凍土かもしれない。北アメリカの無限に続く大荒野かもしれない。まあそんな人間が決めた土地の名前、知るわけ無いでしょうけど――コマ?」

 少し、暗くなる。コマの表情が。ピンと伸びる影狼の耳。嫌な雰囲気だった。

「畜生界に生まれ変わる、前……」
「あっ、べつに無理に思い出さなくたっていいのよ。そういうことじゃないの。ただ……仲間の話をしてたから。仲間。私にとってそれは……友達は、あいつらは、仲間だけど……例えるなら、会ったこともない家族。会ったこともないんだから友達より仲が良いはずないでしょう。会って気が合う保証なんかどこにもない。それでも……」
「畜生界に生まれ変わる時は皆、独りなんだ。家族の顔なんざ知らねえ」
「私も知らない」
「そうなのか」
「そう、ニホンオオカミっていうのはね、もうこの世界のどこにもいないの。みな、死んでしまったから」
「畜生界には当然、いるだろうな」
「でもそれは……あんた見てわかったわ。畜生界に暮らしてるような連中はどうせ、自分がなんの種だったかなんて気にしないでしょ」
「狼は狼で、鷲は鷲で、獺は獺で群れるものだが」
「かわうそ……? まあそれは、青は青、赤は赤で混じり合うというようなものでしょう。群青、藍色、紺色、その細々とした違いは問題にならないんじゃない?」
「さあ……皆、必死になってるだけだ。生き残るために、少しでも有利になるように、もがいているだけだ……そのためには、群れなくっちゃならない。独りになれば死ぬだけだろう」
「些末な違いなんて埋もれて消える、か」
「気になるなら畜生界に来てみればいい」
「それ、さっさと死ねってこと? ごめんだわ。私、けっこう、この世界が気に入ってるから……」

 ふらりと立ち上がった影狼は一つ伸びをすると、名残惜しげに暖炉を一瞥して、上着を羽織った。そのままフードを降ろすと狼耳が隠れ、もう人間の女性と見分けがつかなくなる。もっとも、コマのように鼻の聞くものであれば「一嗅」瞭然だろうけれど。

「出かけるのか」

 暖炉の前で丸まっていた黒犬が億劫げに頭をもたげた。先ほどよぎった暗い影はもうどこにもない。彼自身、すっかり忘れていた。そんなものだった。

「買い出しよ。一人分の蓄えしか無かったんだから」
「あ……おお」
「番犬、任せていいわね?」
「なっ!?」
「そんくらいしてよ。もう歩き回れるくらいなんでしょう?」
「べつに、まあ、俺は構わんが……」

 実際、暖炉のほの橙色の灯りは抗いがたい。
 それにしてもこの影狼という女は、自分が留守のうちにこの家を乗っ取るかもしれぬ――とは考えないのか? などと、コマでさえ呆れるほどだったが、影狼はもう扉に手をかけている。

「食べたいものとかある?」
「腹に入れば何でも同じだ」
「野蛮ねえ。いつも何食べてるわけ?」
「肉だ」
「何の肉よ」
「知らん」
「……呆れた。何か適当に見繕っとくわ。お肉でも何でも、ちゃんと調理した方が美味しいのよ」
「まあ確かに昨日の粥は美味かったが」
「あんな有り合わせじゃなくって! もっとちゃんとしたもの作ってあげるから」
「昨日のあれより美味いのか!?」
「当然! せいぜい楽しみにしてなさい! ふふん、それじゃ、大人しくしててよね」

 開かれた扉からは若干の寒風が吹き込んだが、屋内に満ちた生暖かな空気を押し返すほどではなく、また、ぱたりと音を立てて扉が閉まる。

「いったい何を食わされるんだ……」

 コマは概ね呆気に取られていたものの、僅かその言葉には、期待の色が隠しきれずに漏れ出ていた。


 ○



(退屈だ……)

 奇妙な感覚が流れてゆく。

(怪我はもうほとんど痛まねえ。だのに俺は……何をしてるんだ?)

 客観的に言えばコマは、燃ゆる暖炉の前に丸まったまま、のんびりと、漫然と、ゆるり柔らかな時間の流れを見送っている。ただのそれだけ。いつ襲いくるかもわからない敵のにおいに怯えることもなく、毅然と行進する仲間たちに慌てて歩調を合わせる必要もなかった。
 平和。
 それはコマの知らない概念。言葉としては知っている。「平和」とは「都合の良い狩場」のことだ。それでも確かに彼は初めての平和を、その心の中に謳歌していた。

(俺は、あの影狼とかいう奴に一宿一飯の借りがある……借りを返さねえ奴はロクデナシだ……しかし驪駒様にも大いなる借りがある……にしてもあたたかい、仲間たちの誰もきっとこんな贅沢は知らないだろうさ……)

 愉悦感の萌芽。微睡む意識。薪の爆ぜる音。ぱち、ぱち、ぱち。
 本来ならありえないことだった。無防備なまま眠りにつくなど。しかしこの家には影狼のにおいが薄く鮮やかなヴェールのように纏わっている。ずっと維持され続けた縄張りの証明だ。それは紛れもなく影狼の強さに由来するはずだった。だからコマも警戒心を高める必要は無く、一時的な留守を守るだけで良かった。
 そのはずだった。

「……っ!」

 コマの両耳がピンと立ち上がり、遅れて彼の全身も暖炉の軛から外れる。怪我を感じさせない素早い足取りでもって「におい」の元へ駆け寄った。

(影狼じゃねえ……いやこのにおい、まさか……いや、間違いねえ!)

 においを発する者は玄関扉の近くをうろついていた。コマの真っ黒な尾がふさふさと揺れる。彼はこのにおいを知っている。当然、知っていた。それは他ならぬ、勁牙組の狼霊のにおいだった。

「おい、おい!」

 コマは扉を開けてやりたかったが、相変わらずドアノブは彼の「手」の届かないところにあった。いや仮に飛び上がったとして、つるりと丸いあのドアノブを開く方法がわからなかった。
 そうこう悩んでいる間、ついに向こうからも声が返った。

「おお、生きていたか! おまえ斥候部隊の一員だな? 定時報告が上がらないから、においを辿って来たんだが」
「そうだ、そうだ! まさか来てくれるとは!」
「地上の連中に捕虜にされたのか!?」
「いやちがう、俺は……」

 状況を説明しようとして、はたとコマの言葉が途切れる。
 今に至る過程を説明しようと思えば当然、自分が間抜けにも獺霊の奇襲を受けたこと、情けなく影狼に救われたこと、それらを洗いざらい話さねばならなかった。そんなものはまるで恥晒しだ。しかし何も説明しなければかえって怪しまれるだろう。
 ぐるる、と窮した喉が鳴る。

「と、とにかく捕虜にされたわけじゃねえ。現地人をだな……逆に俺が、保護してやってるんだ!」
「保護? 何故そんな真似をする?」
「そ、それは……それはだな、獺……そう、そうだ! 獺霊に襲われていたからだ! 当然、奴らの影響を斥けることも我々の任務だからな」

 でまかせだった。コマはこの時、初めて「嘘」をついた。群れの中に入り混じり、勁牙組の敵を蹂躙するだけの日々には、不要だったはずの能力。
 しかし咄嗟の割に躊躇いはなかった。自らの生存のため少しでも有利立ち回ろうとする、彼の思考のフレームワークにはその習性がぬぐい難くこびりついている。つまり何よりも自己の生命を脅かす事態とは、仲間に無能がバレることなのだから……。

「そうか、それはうまいことやったな。つまりこの家は、おまえの戦利品ということか」
「え!? あ、まあ、そうなる……のか?」
「現地人はどこだ? ようはおまえの奴隷だろう。俺もちょうど補給が欲しい頃合いだ」
「いやだめだ! そりゃ……あー、今あいつは物資調達に向かわせている」
「そうか。しかしとにかく中に入れてくれよ。地上ってのは寒いよなあ。畜生界じゃ暑苦しかった毛皮がこっちじゃありがたいぜ……」
「お、おお……」

 断ることはできなかった。しかし扉が開かない。つるりとした真鍮製のドアノブには自慢の爪も、牙も、役に立たなかった。かといって強く噛みついて跡でも残れば、それはそれで影狼に喧しく言われる気がした。

(いや待て、おかしいぞ。なにかおかしい……そうだ! なぜ俺があんな奴の機嫌を気にするんだ? 別に俺は……ぐっ)

 ずきり、獺霊に傷つけられた土手っ腹が痛む。真っ白だった包帯に赤い血が滲む。霊体の流す血は霊子の結晶体。適切な処置さえあれば、その治りは生身よりもずっと早い。もっともコマはそんな仔細までは理解していない。ただ「俺たちは頑丈なんだ」程度の認識だ。
 あるいは、だからこそ、一度塞がった傷がまた開くなど初めてのことだった。ドアノブ相手に無茶に飛び跳ねたせいかもしれない。他にどんな理由があるだろう?

「おい、どうしたよ兄弟。早くしてくれってば」
「待てってば……いやダメだ! やっぱりダメだ、入るのは!」
「なに?」
「考えてもみてくれよ、兄弟。現地人の奴は鬼傑の連中に襲われて、すっげえ怯えてるんだ。そこにまた新しいのが来たら……」
「戦力が増えた方が安心じゃないか?」
「いや、だからな! だから、俺たちが集まれば当然、獺霊どもも警戒してくるはずだ。もしかしたら襲撃してくるかもしれねえし、ここが戦場になるかもしれねえ。そういう意味で言ったんだ、俺は……」
「別に構わねえだろ」
「え?」
「いや、だからよ、おまえの言い分はわかるが、それでそいつが巻き込まれて死んだって構わねえだろ。それが掟だ」
「あっ……」

 掟。無秩序なる畜生界を規定するただ一つの輝かしき掟。
 弱肉強食。
 そいつが死んで困るなら、そいつが強くあればいい。死者は弱者で、弱者はすべからく死を得るべし。あの世では、それがすべて。あの世界では、それが掟。
 コマは戸惑った。兄弟分にどう反論するかを、ではない。自分がまさに黄金の掟に反論しようとしていること。その事実そのものが彼を困惑させた。
 それでも思考は止まらないし、むしろ彼が畜生界に生まれ変わって以来初めてと言っていいほどにその思考回路は、火花を散らさんばかりの駆動を見せていた。

「確かに! 確かに畜生界じゃそうだ。でもここは俺たちにとってホームの外、だろ? 現地人は貴重な情報源だ。それをどうするかは驪駒様が……そうだ! なあ、驪駒様に報告を入れてくれよ。俺はここを見張ってないといけねえから、兄弟、なあ、手柄は折半でいい。いや、危険を冒して帰還するんだ、当然そっちの手柄が大きくっていい!」
「い、いや、折半で構わねえよ。もとより俺は何の成果も得られてなかったし、へへ、ありがたい話だぜ。持つべきものは有能な兄弟だよな」
「ああ! ああ! そうだな、俺も助かった。本当に」
「だが定時報告は忘れるなよ。また驪駒様にどやされるぞ」
「いやすまねえ、本当に。交戦続きでそれどころじゃあなかったんだ。あの鬼傑組の連中のせいで……」
「わかるぜ兄弟! まったく忌々しい鬼傑組のチビども! ビビリのくせにでしゃばりやがって、どうせあの龍だか亀だかわからん女に脅されてんだろうが、いい迷惑だぜ。ついさっきだって……」

 途切れない言葉。じっとりとした焦燥感。遅ればせながらコマも気がつく。さっきあのまま送り出せばよかったものの、保身のために余計なひと言を口走ってしまったのだと。
 
(ちくしょうこいつ、いつまで居やがる気だよ……)

 長話を聞かされることの是非はともかく、問題はこの状況。影狼はいつ買い出しから戻ってくるともわからない。その時にこの狼霊が居座っていたらどうなるか?
 ぞっとコマは毛を逆立てた。狼霊は影狼を「脆弱で哀れな」現地人と思っているだろう。少なくとも、しっちゃかめっちゃかな事態になる事だけは確かだった。

「な、なあ兄弟。さっきも言った通り、あまり群れて行動すると鬼傑組の連中に嗅ぎつけられる……すまねえが、もうそろそろ……」
「おお、そうだったな」
「ほっ……」
「ところでだがその現地人、勁牙組の新入りにするってことで驪駒様に伝えていいんだよな?」
「えっ!?」

 気の抜けた瞬間コマに投げかけられた、予想外の一言。素っ頓狂な声が上がるのを慌てて隠す。

「待て待て待て、俺ぁそんな事言ってないぞ!」
「しかし保護してやってるんだろう。それに鬼傑組に目をつけられてんだったら尚更、正式に組に迎えてやった方が都合いいぜ」
「いや死んでもいないのに畜生界に連れてくのはだな」
「慧ノ子ちゃんみたいに地上部隊にしたらいいのさ」
「それは……確かに、そうだが」
「っと、長居はまずいって話だったっけ。じゃあそいつ、ちゃんと保護しとけよ。たぶん驪駒様直々に足を運んでいただくことになるんだ、鬼傑組に捕られましたじゃ済まないぜ」
「当たり前だ!」

 そこまで言ってようやくに狼霊は去っていった。実際、コマの会った中でも一二を争うほどのお喋りな狼に違いなかった。

(あいつ、うるさいからって地上に送られたんじゃねえのか?)

 たちまち驚くほどの静寂が戻った。コマはどっと疲労の滲むため息を吐き出すと、とぼとぼと暖炉の前に帰還する。もう火はだいぶ小さくなっていた。もちろん彼は火の世話などできない。今にも窒息しそうな炎のか細い呼吸を眺めながら、ぶるっと身を震わせた。

(にしても……影狼を勁牙組にする、だって? 当然そんなことを承知するわけ……)

 ぱちん、一際に大きな音を立てて薪の最後の一片が傾く。室内にはまだ余熱が残されているが、この冬日ではその潰えるのも時間の問題だろう。

(いや、しかしあいつは、なんだったか……ニホンオオカミ? 仲間はもうこの地上にいないと……あいつはこの地上で独りきり……群れからはぐれた狼の末路なんて……迎え入れてやるのも悪くは……ちくしょう、にしても……さみぃな……)

 使い慣れない頭をフル回転させたせいか、頭の中は熱を持ったようにじわじわと重い。目を開けているのさえままならない。

(静かだ……)

 外では雪がちらつき始めていた。畜生界では見られない自然の過酷な側面の一つ。けれどもこの狼霊といえば、喜び飛び出し駆け回るより、薄桃色の微睡みの中に沈んでくばかり。
 

 ◯


「呆れた」

 幼い子供が手酷い悪戯をしてる瞬間をまさに目の当たりにした母親のように影狼は、ため息を一つこぼした。その間、牙の隙間からぜえはあと喘ぎを漏らしながらコマは、反論する気力もなく彼女をぼうっと見つめていた。

「火が消えた暖炉の前でずーっと寝息かいてるんだもの。いくら毛皮があるったって、そりゃ風邪も引くわよ。今日は特に冷え込んたし、だいいち昨日だってあんな寒い台所で寝てたしさぁ……しかも怪我の治らないうちに!」
「あたま、いてえ……がんがん、ひびく……」
「自業自得! はぁ……ほんと、こんな大変だなんて思ってもみなかった。もう番犬はいいから、大人しく寝てること。いいわね! きちんと毛布をかけるのよ!」

 そう言って立ち上がる影狼を、狼霊の情けない声が呼び止める。

「待て、おい、どこに行く……食料は昨日、調達したんじゃないのか……」
「バカねー。仕事よ、仕事……」
「狩りか」
「なわけない。人間の郷でね、まあ大した仕事じゃあないけど」
「じゃあ……おまえは、毎日ほとんど家に居ないんじゃないか……」
「そりゃ……私はね、文化的な狼なのよ。文化的な暮らしには、人間のお金が必要なの。文句ある?」
「いや……」

 コマはそれきり牙だらけの口を閉ざした。納得したのではなく、単に反論するのが気怠るかったからだが。
 そして影狼が家を出ていき、シンとした寒気と孤独がたちまち彼を迎える。その寒々しい気配ときたら、この家の最後の一人の住人のようでさえあった。新参のコマを歓迎するように、あるいは永遠の伴侶であるはずの影狼の不在の哀しみを分かち合おうとするみたいに、ぴたりとコマの寝床に張り付いたまま離れようとしない。
 ぜえ、ぜえ、と喘ぐ吐息が闇の重みにいっそう荒くなっていく。勁牙組の歴戦の猛者にとってそんなことは、孤独が恐ろしいなどとは、普段の冷静なコマであれば断じて認めようとしなかっただろう。しかし今は、無駄に抗うだけ自分の命が縮まるだけだという直感が、かえって彼の恐怖心を柔らかなものにした。
 それともう一つ、粗暴なだけの彼に努めて現実を直視させる存在があった。

(影狼は……あいつは、毎日この闇と眠るのか……)

 ぞくりと怖気が走る。無論、コマは狼である。狼にとって、日々とは必ず仲間と共に過ぎるもの。勇猛さは素晴らしい仲間と足並み揃える確かさによってのみ、打ち立てられる。
 畜生界においてもそれは変わらない。群れることを嫌う猛禽の同盟の脆弱さ。また逆に、群れの中に埋没して憚らないのは弱々しき鬼傑組の連中。その中にあってなお、仲間と共に戦うことを至上の喜びとする勁牙組だけが……少なくともコマはそう信じている。しかし影狼は?

「ニホンオオカミっていうのはね、もうこの世界のどこにもいないの。みな、死んでしまったから」

 その憐憫の本質を掴むことはきっと、コマには叶わない。誰しもが他者の感情を「本質」のところで嗅ぎ取るなど……それは頭のおかしくなるような体験だ。それに、コマのいた群れの中では、他者の感情を深いところで理解するなんてそんな面倒をする必要はなかった。驪駒早鬼が右を向けと命じればそれに従う。驪駒早鬼が死ねと命じればそれに従う。歓喜と栄光の中で。
 しかし、だからこそだったのかもしれない。
 コマは孤独から極めて離れて暮らしてきたからこそ、かえってその対照となる概念をよく知っていた。それこそが孤独なるもの。恐るべきもの。影狼の住処はあたたかさと趣味の良さで形作られてこそいるものの、拭いきれない孤独のにおいがへばりついている。コマはそれに押しつぶされそうだった。無論それは、絶え間ない頭痛と弱りきった肉体のため。万全の状態ならば……事実、昨日はこんな風には感じなかったのだから。

(だが、それが、ずっと続いたら……どうだ)

 いっそ眠りに落ちてしまいたかった。こんな風にぐるぐるとくだらないことを頭の中で考えるのは明らかに自分の性分には合わないとコマは理解している。
 それでも身動きは取れないし、周りに仲間がいないせいか、それとも酷すぎる頭痛と吐き気のせいなのか、一向に寝付ける気配がない。さりとて心を空っぽにするといっそうに病苦が勢いを増してしまう。まざまざと。
 だからしかたなく、コマは想像した。想像などと! 彼のおよそ行動指針に存在してこなかった行為、それでも、彼は想像してしまった。他にできることもなかったし、一度転がり出した考えを止めるだけの力もなかった。そうして脳裏に描き出されるのは、一匹の狼女の姿。このよく手入れされた家を、日々、たゆまず、手入れし続けてはいつか来るはずの同朋を待ち続ける影狼の姿。壁にかかったリースを、背を伸ばして飾りつける後ろ姿。暖炉の炎に照らされた彼女の、一つだけ長い長い黒い影。なぜそんなものを想像するのか……もっとずっと有意義なことがあるはずなのに。例えば鬼傑組の戦闘員がどこから襲ってくるだろうか、とか。地上でのことを驪駒早鬼にどう報告すればいいだろうか、とか。
 
(気が狂いそうだ……)

 コマは、影狼が作ってくれるはずだった昨晩の夕餉を食べ損ねたことを思い出した。伏せった彼の朝食はまたしても粥だった。これでは自慢の牙も浮かばれない。その側では影狼が「はにーとーすと」なるものを急ぎ詰め込みながら支度をしていた。その表情はどんなだったか。はちみつの甘ったるいにおいだけがコマの記憶に残されている。

(来ればいい……勁牙組に……きっといるだろうさ、その……ニホンオオカミとやらも……いなければ、探して貰えばいい……驪駒様は……寛大な……)

 夢想というよりそれは、この場にいない誰かに語りかけるようでもあった。事実、そうだったのかもしれない。コマにはわからない。知識がないからだ。彼の蓄えた経験といえば生き物の殺し方と、いかに仲間たちと協調して過ごすかだけだったから。それでなんら問題なかったはずだ。群れの中にいる限りは。

「……誰だ……」

 かろうじて鼻が効いた。コマの声は弱々しいながらも確かに響き、もたげようとした頭がぽすりと毛布の上に戻った。
 影狼が帰ってきたのか? 否。彼女のにおいではない。来訪者? それとも、敵か?
 身構えることも逃げ出すこともできない。においのもとはいつの間にかもう家の中に入り込んでいる。鍵はどうした? コマにはわからない。あちこちの部屋を見て回ってるようだが、やがてコマの寝かされている部屋に足音が向いた。

「待て、入ってくるんじゃあ……」
「うるさい」

 せめてもの抵抗も軽々と跳ね除けられ、扉が音を立てて開く。見下す瞳と目があった。コマの知らない瞳だった。血のように真っ赤な髪が目に痛かった。

「また赤いのか……」
「おまえが影狼のペット?」
「ペットじゃ……ねえ……」
「なんだっていいさ。本当に喋る犬なんだ。人の姿は取れないのか?」
「貴様は……」

 コマの問いを無視し、その人物はどかりと側の椅子に腰を下ろした。冷たい瞳だった。よりはっきりと言えば、そこには明らかに敵意が込められていた。

「貴様からは……敵意のにおいがするな……」
「そりゃあ、そう。非番だってのに頼まれてね。ペットの面倒をさ……やんなっちゃうよね。いくら親しき中にもでしょう? まあいいけど。友達だもんね? そういうもんだよね」

 彼女は自分の話に相手がついてきているかなど欠片ほども気にしていないようだった。ぼうっと天井を眺める狼霊を、侮蔑の入り混じった瞳が睨め付けていた。

「あんたは、私の友達に面倒をかけようとしてる」
「なに……」
「いいんだよ、あいつには。もう私たちがいるじゃない。だのにそういう瞳をするんだよね。冷めた瞳さ。時折、こっちがいい感じに酔っ払ってる時ほどそうなのさ。自分の魂はどこか別の星から来たんだとでも言いたげに、つまんなそうに……ああ、そう。寂しそうに、目を逸らす」

 コマは早々に来訪者との対話を続ける気を失くした。まず間違いなくこいつは頭がおかしい。そうに決まってる。
 億劫げに瞳を閉ざそうとして、それを目にした。黒い毛並みが熱のせいだけでなく逆立つ。宙を浮遊する生首が天井から、机の上から、可愛らしい影狼お手製リースの隣から、コマを見下ろしていた。明らかに彼を怯えさせるために姿を現した幽鬼の群れだ。そのどれもこれもが赤い女と同じ顔をしていた。

「おまえは普通の畜生よりは力を蓄えてるみたいだけど、この場で捻り殺したって構わないんだ」
「ぐる……」
「未練がましいよね、影狼も」
「俺を殺すのか……」
「殺すより、拉致して湖にでも放り込むのがいいかね。そしたらあの子がうまいこと、処理してくれるさ。証拠も残らない。犬の方から逃げ出したんだと、影狼もきっと納得する。そしたら、そうしたら……」
「俺はニホンオオカミではないぞ」
「……!」

 その時確かに、赤い女の瞳が驚きに見開かれた。犬畜生の中に想像していなかった知恵を感じて、それから少し、口角を吊り上げた。
 コマにはその意図の全てがわからない。わかるのは、相手がその気になれば抵抗する手立てなど無いということだけだ。
 しかし恐怖はなかった。胸の底にはむしろ熱いものがわだかまっていた。驪駒や仲間たちのことを思う時と同じ感覚だった。たった今発した言葉さえ、深い考えに裏打ちされたものなどではけっしてなくて、胸の熱さに押し出されるまま出てきたものに過ぎなかった。

「……私はね、思うの。この世で最も辛いことは、大切な人の力に自分がなれないと理解してしまうことだって」
「影狼は、言っていた……友達はいるが、それは仲間とはまた異なるものだと……」

 それは嘘だった。より正しくは、コマの記憶力の限界だった。実際のところ影狼は友達と仲間をそうまで厳格に区別してはいなかったのだが、赤い女は見るからに気を悪くして机を蹴り付けた。がたんどたんとどこか間抜けな物音が響き、狼霊が身を竦める。

「あんたのこと知ってるよ。この頃、三途の川の向こうから畜生の軍勢が図々しくも幻想郷を食い物にしようとしに来てるってね。郷の妖怪たちにゃあ公然の秘密なのよ、そんなことは。おまえはその手先だね。大ボスという風体には見えないね」
「そうだ、俺は斥候に過ぎない……」
「ヤマイヌの妖怪がその傘下に組み込まれたって話も、聞いてるよ」
「三頭のことか」
「ああっちくしょう! やっぱりだ!」

 剥き出しの敵意。コマにはその由来がわからない。が、すぐに彼女の方からそれを晒した。別に隠すつもりもないらしかった。

「影狼をあの世に連れて行かせたりなんか、しない」
「そんな……ことは……影狼は、この世界が気に入ってると言っていたがな……」
「あんたには! あんたみたいな、どこの犬とも知れぬやつにわかるわけ……あの子の孤独をわかってあげられるわけ、ない! ケダモノめ!」

 そんなことを言われてもコマは返す言葉がなかった。相手の考えは明らかに暴走していたし、なにより――頭痛がひどい。容赦のない大声は獺霊の鈎爪にだって負けないくらい鋭く脳裏を痛めつける。
 コマはただ、もう、この客人に帰って欲しい一心で、ぜえはあと舌をだらりとしたまま喘ぎ続けることしかできない。あるいは最初からそうして黙りきっていれば、こうはならなかったのかもしれないが、それを判断するだけの知性も働かなかった。
 だからもし、この赤い女が延々居座り続けたらいよいよもってコマは発狂していたかも知れない。だがそうはならなかった。唐突に彼女は浮ついた笑みを見せると、憐れむようにコマを見た。

「だけど無駄さ。あの子はね、あんたみたいな連中に与したりしないんだよ」
「だから、そう言って――」
「あの子は世界で一番の、孤高で、誇り高い狼女なんだから」
「……」
「ちぇ。ほらよ」

 舌打ちとともに差し出されたのは、くしゃくしゃになった紙袋だった。赤い女は身を屈めてコマの四肢を見て取ってから、またため息をして袋の中に片手を突っ込んだ。

「薬」
「なに……」
「他人のペットの面倒見るなんてごめんだ。薬代は後で影狼に請求する。さっさと飲んで寝ろ。犬らしく」

 それっきり告げるともう自分の役目は済んだ、せいせいしたとばかり、客人はさっさと出ていってしまった。
 あとに残されたコマはぼんやりした頭で随分と考えたが、やがて全身の痛みに耐えかねて、薬とも毒ともわからぬ包みを飲み込んだ。
 苦い味がした。とても、とても。


 ○


 熱はほどなく下がり、コマはもう大人しくなっていた。憑き物が落ちたように穏やかな狼霊が一匹、朝は影狼に分け与えられた食事を貪り、日中は雪に埋もれた竹林を当てども無く歩き回るだけ。時折、平和ボケした兎を見かけることもあったが、同時に底知れない殺気のにおいを嗅いで、以降は兎を見ても見なかったことにしている。そして日が落ちてからは、あの暖炉の前で眠りに落ちる。
 それは波のない川の流れ。しかし確実に抗いがたい流れでもあった。コマはもう、畜生界で暮らしていた頃に自分がどれだけ気を張っていたのか、思い出せなくなりつつあった。

「じゃあ、お留守番よろしく。番犬君」
「今日もまた仕事か。よくもまあ飽きないな。おまえは妖怪なのだろう。人間など……その群れに入り混じる必要があるのか? 獲物くらい、自分で取ればいいだろうに」

 どれだけの日々が過ぎたのか。実際にはほんの数日のこと。冷たい空気の中、影狼は竹林を出かけていく。コマはそれを見送る。まさしく番犬のように。なぜ自分がそんなことをしているのか……暖炉の温もりが思考を乱す。影狼が困ったように微笑んだ。

「私は狼だけど、狼じゃない。狼女なの。それは人でもないから」
「それがどう――」
「自分がなにをしたいのかは、自分が何者なのかは、一生懸命考えてなきゃだめなのよ」
「おい、意味がわからんぞ。力があるなら自由に生きればいいだろう……」
「私にとっての自由はこれなのよ」

 それはちっともコマを納得させる答えではなかった。何かまだ言いかけている番狼の頭をそっと撫でると、彼女はもう、行ってしまう。コマはまた独りで残される。すごすごと暖炉の方へまた戻って、せめて炎の温もりを感じようとうずくまった。
 怪我の調子はすこぶる良い。風邪も長引きはしなかった。体は健康そのもの。だが気分は晴れない。靄がかったようにおぼつかない。しかしコマにはその原因がちっともわからなかった。ただただ苛立ちだけが募っていった。
 そして、もしも。もしも何事もなかったらそのまま彼は、今日という一日をまた穏やかに過ごしたのだろう。日が暮れてから影狼を出迎え、かといって別に何かをするわけでもない。彼女が自分の分(だとコマは思っている。彼女の他の固有関係を知らないからだ)の編み物を編んでいるさまを、やはり暖炉の温もりにしがみつきながら、まどろむ瞳で見つめるだけだったろう。
 けれど、そうはならなかった。ぞっと胸の底から慄くような気配を感じて、彼は慌てて玄関に殺到し、飛び上がって扉を開けた。四足歩行の住人でも開けやすいよう、影狼がノブに紐をつけてくれたのだ。がらん、ころん、ドアベルが荒く鳴り響き、大地の色を映したみたいな二つの瞳がコマの方を振り向いた。

「ん、出迎えご苦労」
「驪駒様! なぜ、ここに――」

 漆黒の翼、伊達っぽいテンガロンハットを目深に被った彼女は紛れもなく、コマという狼霊の上司にあたる動物霊。畜生界を三分する勁牙組を統べる長、驪駒早鬼に違いなかった。
 困惑しながらもコマは即座に居住まいを正し、敬愛する「群れのリーダー」に向かい合う。それは敬意からくる行動というより、どこまでも狼の本能的な仕草だった。規律と服従こそ本能の第一ページ目に記された戒律ふたつ。驪駒はそれに悦するでもなく、無碍にするでもなく、意味ありげに頷くと、たった今部下の飛び出してきた趣味のいい家を一瞥して、ちょっと肩をすくめてみせた。

「これがおまえの戦利品か?」
「え、あ、そ、そうであります!」
「報告は受けているよ。保護した現地人とやらはどこだ?」

 あのお喋りな「兄弟」は忠犬らしい殊勝さで頼まれた任務を果たしたらしい。当然、コマの話した通りのことが伝わっているのだろう。その場を切り抜けるためだけに捻り出した、コマの咄嗟の嘘が。

「現地人は……その……」

 しどろもどろになりながらコマは逡巡した。嘘を突き通すのか、否か。相手が調子のいい「兄弟」であればともかく、今や目の前にいるのは敬服すべきリーダーなのだから、事情は全く違う。否、実際には以前のでまかせ報告だって最終的には驪駒の耳に届く内容だったのだから、その点で言えば変わりはしないはず。
 しかしコマの頭がそこまで冴え回ることはなかった。目の前の相手にどう相対するかが重要なのだ。目の前の危機に!
 が、どちらにせよ同じことだった。

「面倒な腹の探り合いは趣味じゃない」
「えっ」
「いや……くっくっ……正直言って、私は驚いてるんだよ。これは飼い犬に手を噛まれるってやつかな? いや、いや、憤慨してるんじゃないのさ。おまえたちにも少しは頭のまわる奴がいた方が、私も殺し合いに集中できる……そう思ってたくらいだからな」
「あの、驪駒様……?」
「正直に答えろ。保護されてたのはおまえなんだろう、どうせ」
「いっ……」

 鋭い鉤爪を胸元に押し当てられた感覚。ひゅっとコマの息が細まる。

「そうだな。感心はしたが、上司と部下のタテマエってのもある……なあ、あまり私を舐めるなよ?」
「いえ、俺、わ、私は、そのようなことは……」
「いいや。地上の連中の厄介さは私自身、よく知っている。それを単独のおまえがどうやって丸め込めたんだ? 不可能とまでは言ってやらないが、直接足を運んだのはその真偽を確かめるためだ」
「そ、それは、ですが、報告の通りでございます! 鬼傑組に襲われていたところを私が助けて……」
「ありえない! ありえないんだよ、そんなのは。ある意味それが墓穴でさ。剛欲同盟って言っておけばまだありえたが……八千慧は抜かりのない奴でな。無闇に地上の連中を敵にまわすなと部下には厳命を下してるだろう。そしてあのチビどもは絶対に八千慧を裏切らない。だから、おまえの話は最初からありえなかったんだ」

 シンプルで、それゆえ切り替えしようのない理論。己の運命を悟ったコマはがくりと項垂れ、尾っぽと頭が力無く下がる。もはやこれ以上の嘘に意味はなかった。所詮は慣れない頭の使い方だったのだ。

「事実、その通りです……申し訳もございません……どのような処罰でも受ける覚悟は……」
「まあそう急くな。重要なのは、誉高き忠犬たるおまえたちが……いや……おまえが! どうして地上の誰かさんに与するような真似をしたのかってことだよ。私に嘘の報告をあげてまでね」
「は、はあ……」
「単に私利私欲のための暴走なら、確かに厳罰が必要だ。しかしどうにもね、おまえのような忠犬が……まさにおまえのような奴がだよ! 私利私欲に走るとは思えんね。当然私はおまえたちをよく知っている。もちろんおまえのことも知っている。なにせ地上先遣隊は他ならぬ私が選んだのだから!」
「驪駒様っ……」
「顔を上げろ。おまえたちの誰一匹とて、使い捨てのコマなんかじゃないんだ。おまえたちは私の大切な部下であり、友人であり、仲間であり、家族だ! だから教えておくれ。地上でおまえに何があったのか?」

 それは……驪駒早鬼の計算ずくの話術なのか? 意図されたカリスマの振る舞いなのか? かつての主の見様見真似だったのかもしれない。あるいは天然。自然体の言葉なのか。
 ともかくも、驪駒の言葉はたちまちに引き戻した。すでに畜生界の喧騒が遠く感じられていたコマの意識。彼の忠誠心。忠犬の心。
 そのことについて、どうしてこの狼霊が不審に思うだろう? そんな必要などない。毛頭なかった。コマは幸福だった。驪駒は明らかにコマのことを評価しようとしている。偉大なるリーダーが! そこに疑いを挟む余地などない。
 ゆえに、コマは話した。咄嗟のでまかせではなく、地上で体験した真実を全て。無論、そこには影狼のことも含まれていた。そんなふうに軽々に秘密を明かすことがどんな意味を持つのかも、コマは考えたりはしなかった。いやむしろ、話せば話すだけ驪駒は自分を認めてくれる……そう理解していた。

「だいたいの事情はわかった」

 鷹揚に頷く驪駒の、比類なき力感じさせる眼光は、束の間、コマではない何処かに向いていた。そのせいだろうか、このちっぽけな狼は妙に胸が騒ぐのを感じた。癒えたはずの傷が開くような、悪い予感。しかしそれも、驪駒が振り向く頃には消えている。この狼の粗暴な頭の中では、もとより、なんだって同じことなのだ。どんな考えも大した意味を持ったりしない。大切なのは、獲物を捕らえるためにいかに力を振るえるかだ。そして、いかに仲間のために働けるかだ。それだけなのだから……。

「して、おまえはどう思う?」
「はっ……どう、と仰いますと……」
「その影狼という狼女、勁牙組に引き入れるべきだろうかね?」

 否、消えてなどいなかった。なにかがいつもと違っていた。
 驪駒の問いは、重い鈍器の一撃めいた衝撃を伴って、コマを打ち据えていた。確かに。

(ちくしょう、なぜこんなにも息苦しい……)

 熱病がぶり返したみたいだった。しかし実際のところを言えば、コマは健康そのものだった。呆れ返るほどに。

「どうした? 今のはそんなに難しい質問だったかな」
「いえ、しかし……俺、私如きがそんなのは、そのようなことは……驪駒様が決めてくださったら」
「無論、そうするとも。最後に決めるのは私だ。それがリーダーというものだ。とはいえ、その影狼という輩のことは私よりおまえの方が知っているだろう。そうじゃないか?」
「……その通りです」
「どうしたんだ? おかしいな。なぜそんなに青ざめた顔をする。私はおまえの功績を評価してやりたいんだ。ほとんどの先遣隊員が空手で戻ってきたくらいだ。最大級の名誉を授けてやりたいんだよ」
「ええ、ですけど……」
「なぜ、口篭ってしまうんだ。そんなにも測りかねるのか? 影狼って狼女は。使えるとも、使えないとも、言い切れぬほど曖昧な存在なのか?」
「い、いいえ」
「実力はあるかな?」
「そりゃ……直接に手合わせしたわけではないですが、俺……私の感覚では、けしてズブの素人ってことはないかと。この縄張りをずっと守ってるんですから、そりゃ大したもんです」
「地上に満ちる妖怪とはそんなものさ。では最後のところだ。いちばん重要な問題だが、その影狼とやらは、仮に引き入れたとして……勁牙組に馴染めると思うかい?」
「それは……たぶん、できると思いますが。あの者は探しておりましたから」
「ほぉー。いったいなにを? なにを探しているんだ?」
「ええ、それは――」

 口ごもりながらコマは、その先を驪駒に告げるべきか逡巡の中で呻いた。影狼はニホンオオカミの仲間を探している。そしてきっと勁牙組にはその仲間がいるはずだ。であれば驪駒への答えは簡単だった。それゆえにひどく重々しい。だが、コマには自分のその吐き気にも似た感情の正体がわからない。わかるはずもなかった。彼はずっと群れの中で生きてきた。そこにこのような逡巡は無かった。見たこともない真っ黒い影が背中にぴったり張り付いているようだ。その影は、振り返ってもけして姿を捉えることができない。ただただ堪えがたいにおいを放っていることだけは、わかるのだが。

「どうした。なにを探しているのか、おまえは知ってるのだろう?」
「すみません、驪駒様……なんだか気分が」
「うむ、病み上がりと聞いているよ。無理は不要だ。おまえは十分に使命を果たしたのだから……影狼の求むるものはいったいなんなんだい? それだけ教えてくれたら、あとはゆっくり休むといい」
「驪駒様、驪駒様どうか、お願いします……おぁ、俺はどうも頭が変になっちまったみたいで」
「ああ、どうやらそのようだな」

 ため息を一つすると、細まった瞳が睥睨するようにコマを見た。少なくともコマにはそのように感じられた。上から凄まじい質量でもって押しつぶされるような威圧と恐怖を。
 彼女はすくりと立ち上がって、少しだけ、肩をすくめてみせた。

「地上は不思議なところだ」
「は、はあ」
「しかし畜生界の誰もがこの地上から落とされて来たわけだ。それこそが最大の不思議だけれど……おまえは自分の過去を覚えているか?」
「もちろん勁牙組の牙として――」
「そうじゃない。畜生界に来る前のことだ。つまり、生前のことを覚えているか? 自分の死に様を……おまえは?」
「覚えちゃいません……」
「うん、きっとそうなんだろう。この私ですら、あのお方以外の記憶はひどくおぼろだ。記憶が魂の中に刻まれたものなら、私よりも魂の強度に劣るおまえが詳らかな過去を覚えているわけないものな」
「驪駒様……?」
「おまえ、なにをそんなに怯えている」

 恐怖。その時にコマが抱いたのはいよいよ現実化した恐怖だった。饒舌すぎる驪駒の態度がそれを補強した。
 勁牙組の誰もが知っていること。自分たちのリーダーはけっして策を巡らせるようなタイプではないと(だからこそ、いいのだと)。しかし当然、彼らの誰でも理解していることがある。驪駒早鬼という畜生はけして頭が悪いわけではないのだと(だからこそ、素晴らしいリーダーなのだと!)。
 つまるところ、驪駒の知性は完全に闘争のために振り分けられている。そしてまたつまるところ、それはとどのつまるところ、敵を識別する知性なのだと。
 ぞくりとコマは震えを抑えきれなかった。驪駒の瞳は問うている。明らかにこう尋ねている。

――おまえは誰の味方なんだい?

 それは天然の仕草なのか、それとも計算ずくの誘導なのか? 無論、驪駒は「天然で」部下を追い詰めたりしない。彼女もまた吉弔八千慧と饕餮尤魔に並ぶ大組織の統率者なのだから。みすみす見逃したりなどしない。揺れる忠誠心を。おまけにコマは、それを隠せるほど賢くはなかった。しかしそれは幸いなことだ。隠してもきっと最後には追い詰められていたのだろうから。その時こそは、討ち取るべき敵として。

「俺は……わかりません、過去のことはわかりません、なにも覚えてないです」
「わからないことばかりだな、おまえの話は」
「すみません、どうかお許しを……」
「許す? なにも許す必要などないだろう。おまえは私の大切な部下であり、友人であり、仲間であり、家族だ。その罪を問うたりしないよ」

 コマの荒い呼吸。早鐘を打つ死んだ心。静寂の雪原。虚しく響く遠吠え。絶望的な飢えと、乾きと……孤独。
 驪駒の言葉が含む意味はこのあまり頭の回らない狼霊にだって明らかだった。それは同時に、彼にとってもっとも避けるべき可能性を示唆してもいた。

「コマ……だったっけ?」
「は、はい!?」
「さっきそう言っていたじゃないか。そう地上の狼女に名付けられたと。信頼を得ている証拠だな。故におまえは斥候として、その地上の狼女をスカウトしてこい。これは命令だ」
「は……」
「できるな、コマ?」
「はい」
「そうか! 話が早く済んで良かったよ。なにせ、せっかく地上まで出てきたんだ。私も翼を伸ばしたくってね……吉報を期待しているぞ!」

 首が外れそうになるくらいガクガクと首肯くコマを満足気に見やると、もう驪駒は踵を返すところだった。おそろしい死と殺意のにおいはたちまち失せ、振り返り見た彼女の表情は遠足を楽しみにする子どものように朗らかになっていた。


 ○


 影狼は夜に帰る。一雪降りそうな重々しい曇天に一匹、コマは気が気でなかったが、張り詰めた冷気は未だギリギリの均衡を保っているようだった。
 扉の音、それと、じんわり疲れの滲むにおいに顔を上げ、彼は後ろめた気な足取りで暖炉の聖域を飛び出した。飛び出してから、雪の壁に突っ込んだみたいに急にその勢いが削がれる。彼の脳内で蘇ったのは驪駒早鬼とのやり取り。影狼を勁牙組にスカウトせよ、と……。

「ただいま~」

 たちまち扉の隙間から吹き込んでくる冷気とは裏腹に、頭巾を脱いだ影狼に充満した生の熱量……それが湯気になって見えるようだった。
 それこそ畜生界には存在しないもの。この世とは異なる理によって再構成されたコマたちの肉体は、ほとんど生前と変わらぬ機能を彼らに提供してくれこそするものの、ただ唯一、命の温かさだけは失せている。コマも、他の狼霊たちも、獺や大鷲も、もちろん驪駒早鬼や他の組長級たる動物霊だって……結局は、死者の列の一員だ。
 そんな影狼の微笑みを浮かべた横顔から、コマは卑屈げに瞳をそむけた。もとより隠し事を隠し通せるような賢い性分ではない。群れの中では隠し事をする必要など無かった。しかし今、特命を帯びているとは言えど、彼は群れの外にいる。今は息をするだけでもおぼつかない。

「どうしたの?」
「ああ、いや……いったいなんの仕事をしてるんだ、影狼は」
「まあいろいろよ。店番とか、お掃除とか、畑仕事とか。どっちかというと力仕事の方が自信あるんだけどねぇ、あんまり派手にやると妖怪ってバレちゃうし」
「それは楽しいのか?」
「まさかー。でも、家でじっとしてたって仕方ないし。あぁーもうお腹すいた! ちょっと休んだら夕飯の支度しないと!」

 ふらふらな足取りの少し後を、四つ足が追いかける。そのままソファに身を投げた影狼の側に、忠犬さながらでうずくまった。

「あんたがご飯の一つも作れたらねぇ。その手じゃお鍋も包丁も持てないんだから」
「畜生に調理の必要などない」
「あら、そう? いつも私のご飯をばくばく食ってるじゃないの。意地汚く」
「それは! しかたないだろう」
「どうして?」
「いや、それは」
「あっはは、わかるわかる! 私の料理って皆から評判いいのよね~。ただ食べたいもの作ってるだけなんだけど……お金が溜まったら小料理屋でも開こうかな? あんた、看板犬でもやる?」
「犬……」
「あー、でもやっぱりダメか。あんたずっとこっちにいるわけじゃないもんね? 地上を征服しにきた悪の組織の手先なんだから」
「そ、そうだとも。いずれこの地上世界全てが我ら勁牙組のものとなるのだ」
「ふうん。もしそうなったら、どうなるの?」
「どうって……当然、地上の住民のすべてが俺達に平伏することになるだろう」
「平伏って?」
「それは、だから……地上人は俺達のために飯を作り、家を建て、それから、あー、」
「暖炉に火を入れる?」
「ああ! それはいいな。きっと仲間たちも気に入る、こんなに素晴らしいものをどうして――」

 ぴくりとコマの耳が跳ねる。影狼のまどろみがかった瞳の色が、暖炉の炎に鮮やかなオレンジに揺らめいていた。

「今と変わらないわね、それじゃ」
「う、うむ、だからつまり、そういうことだ」
「結局はダラダラしたいだけなのね。みんな」
「別にそういう訳では無いが」
「でもそのために、他のなんとか組と戦争をしてるんでしょう。だからあんなに大怪我を負っていたんでしょう」
「奴らは鬼傑組の連中だ。奇襲しか手を持たない臆病者共だ」
「あなたこそ、それ、楽しいの?」
「いや、楽しいとかそういう問題ではない……弱肉強食の理は畜生界の黄金の掟だ。弱い者は食われるだけだ。故に強くあらねばならない。故に群れなければならない。独りになれば……餌食だ」
「べつに……他人の生き方にとやかく言う趣味はないけど。それでも……砂漠みたいな生き方ね」
「貴様は忘れてしまったのか? それこそが畜生の生き方だ。そうあるべきじゃないのか! 貴様は人間の考えに毒されすぎている。奴らはなにかにつけて自分だけが楽することばかり考える卑しい連中だ!」
「べつに、私は畜生でも人間でもない。半人半獣だからね……私は私なの。わからないだろうけど」

 そう呟く影狼の顔色はやはり眠気に侵されてはいたものの、確かに意志の光の宿った眼差しがあった。それはコマの背後を見つめていた。彼もまた振り向いたが、そこにあるのは炎に揺らめく自分の長い影だけで、後はぞっとするほど寒々しいレンガ造りの壁がそびえるだけだった。

「炎が……弱まってるんじゃないか?」

 背筋を凍らせるのは孤独のにおいだ。明らかにそのにおいは影狼に端を発していた。だというのに、コマを本当に震えさせたのは孤独のにおいそのものより、それだけの寒気に包まれながらも顔色一つ変えようとしない影狼の姿だった。
 孤独の先に待っているのはいつだって冷たい死の抱擁。群れからはぐれた狼のお定まりの末路。どこまでも続く雪に閉ざされた森の中、どこまでもどこまでもどこまでも虚しく響く自分の遠吠えが一つだけ……。
 その怯えのためにコマは、勁牙組へのスカウトを切り出せずにいた。「そんなに寂しいのなら勁牙組に来たらいい」と告げることがどうしてもできなかった。あれほど頼もしかった勁牙組の仲間たちの群れが、この一匹きりの狼女の前で、ひどくちっぽけなものに思えたせいだ。そしてコマの脳裏に最後残ったのは、驪駒の威光。居場所を与えてくれたことへの恩義と感謝。
 かくして恐怖と恐怖に挟まれて、閉ざされた黎明の薄暗い道に迷う子犬のように、コマはただじっと牙を噛み合わせて身動ぎできずにいた。

「本当はわかってるの」
「ぐる……」
「私が探しているのは、本当はね」

 また、暖炉の薪がぱちんと爆ぜる。やをら立ち上がった影狼の眼差しが鋭く窓の外を見やった。

「……聞こえる?」

 遅ればせながらコマもまた耳を立て、気がつく。外から聞こえてくる、狼の遠吠えに。

「提示連絡だ!」
「あんたの仲間の狼ってこと?」
「ああ。地上に派遣された仲間同士、ああして連絡を取り合っている……」
「コマはやらなくっていいわけ?」
「俺はここから移動できない。むやみに敵に居場所を知らせるわけにはいかない」
「なに、私のことを心配してくれてるの? 私そんなにやわに見える?」
「そういうわけじゃないが」
「それにこの竹林にはね、あの世の住人に勝るとも劣らないお隣さんがうろうろしてるのよ。地域の目ってやつね。畜生の本能が強いやつほど踏み入れられないわ、きっと」

 言いながらも立ち上がる影狼は一つ伸びをして、その後をまたコマが慌てて従いていく。それはきっと本能的な所作。仲間の後に続かなければ落ち着かない。しかし影狼の前には誰もいない。しかし、しかし、そんなことは気にもかけずに彼女は勝手知ったる我が家の中を進んでゆく。

「屋上、出たことある?」
「いや……」
「竹林の中だから眺めは良くないけど……まあ、特注のオーダー品なのよ。私の、そう、私の趣味のため」
「趣味?」
「そりゃあ、狼だもん」

 要領を得ないコマに向け、開かれた屋上の扉の冬の夜の凍えた空気がたちまちのうちにまとわりついた。バルコニーとも呼べない、手すりに囲まれた手狭なベランダのような空間。残っていた雪を蹴散らしながら、影狼の自慢げな瞳がコマを貫いた。

「いいでしょう」
「日光浴でもするのか……こんな夜に、しかも、曇り空だ」
「あら、コマはお日様の方が好き?」
「どういう意味だ?」
「……まだ、聞こえる。あんたの仲間の遠吠え」
「あいつ、知ってる奴だ。お調子者で、お喋りが長い」
「へえ、そういうのもいるんだ? みんなあんたみたいなのかと思ってた」
「大した違いじゃない。重要なのは、群れにどれくらい貢献できるかだ。お喋りも、寡黙なのも、どうでもいいことだ」
「そう」

 肩をすくめるようにした影狼に眼差され、コマが居心地悪そうに首を傾げる。彼女の大きな瞳がなにか期待するようにぱちくりと瞬いていた。

「な、なんだその目は……」
「なにって、定期連絡なんでしょう? どうぞ」
「は……」
「私はここで聞いてるから」
「ふざけるな! 連絡用の暗号は組織の最重要機密だ!」
「だったらどうせ、わかりはしないじゃない。それとも見られながらするのは恥ずかしい?」
「そういうわけではないが……」

 渋々だったがたしかに定時連絡はなさねばならない。なぜならそれは、斥候兵たちに与えられた義務の一つだからだ。そしてコマは随分とその義務を怠っている。それは良くないことだと彼は知っている。なぜなら、義務を果たせない狼は、やはり最後には仲間から見捨てられるのだから。
 
「あぉーーーーんっ」

 実に久しぶりの咆哮だった。故にコマは、身を震わす声量の出し方を思い出さなくてはならないくらいだった。

「あぉーーーーーーんっっ」

 しかし本能に染み付いた習性、そう簡単に消えることもない。次第に調子を取り戻しては、さらに曇天に向け吠える。あおん、あおん、あぉーん。定時連絡の受領返答だった。特に何か内容があるわけではない。ワレブジナリ、ブウンイノル。そのようなところだ。それでも、互いに共鳴する音叉が如くあぉんあぉんを吠えあっていると、不思議なほどコマの胸に勇気が湧いてきた。自分は孤独ではないという実感に包み込まれていった。暖炉に燃ゆる火よりもあかあかと、力が漲るようだった。

(そうだ、俺はなにをくだらんことを悩んでいたんだ。驪駒様のおっしゃる通りだったじゃないか。俺は務めを果たし、それは仲間たちのためだ。影狼のような人材を引き入れることができたなら、勁牙組の地上進出は鬼傑組や剛欲同盟に明らかに先んじられる。その未来は、仲間たちの未来は、まさに俺の身にかかっているのだ!)

 幾重にも重なった仲間たちの遠吠えが、漆黒の空にこだまし続けていた。姿こそ見えないけれど、コマは確かに仲間たちに見守られている実感を得た。

「もう、いいの?」
「ああ。皆、無事に務めを果たしているようだ」
「そう。それはなによりね」
「そうとも!」

 勇み足に家の中へと踵を返しながら、コマはついに押し留めていた誘いの言葉を出そうと決める。もうなにも迷う必要などない。それは自分のためでなく、仲間たちのためなのだから。

「影狼、一つ話があるんだが……」

 そう言いかけてから、影狼の足音が続かないことに気がついた。コマが何気なく振り返ると、ちょうど、竹の切れ葉と雲の切れ目から覗く満月の白い瞳と目が合った。
 真っ白い月だった。
 まさにこのマイクロサイズな屋上は、あの月を見るために拵えられたのだと、彼は遅ればせながら理解した。

「影狼……?」

 ざわざわと風が吹き抜けて竹のしなやかな体躯に歓喜の声を走らせる。あれだけ重苦しく垂れこめていた雲が嘘のように月光に引き裂かれていく。
 それを、影狼は身じろぎもせずに見据えたまま、長い黒い髪の旋風に絡めとられることさえ気にもかけずにいる。
 じっと、月を見つめている。

「ああ……よかった。今宵はもう遭えないかと思ってた」
「なんだ、影狼! 誰かそこにいるのか!? おい!」

 狼霊の吠える声が夜にかき消える。必死に鼻をひくつかせ、影狼が語りかけている何者かの存在を感じ取ろうとする。
 しかし何もない。竹林の青い土と雪の匂いがするばかりだった。
 
「私、今宵も皆を弔うわ。私を置いていってしまった薄情な皆を弔うわ。遭ったことも話したこともない皆を弔うわ。もう何処にもいない皆を弔うわ」
「影ろ……」

 月光に刺し貫かれた影狼の胸元に真紅の宝玉が輝いていた。それ以外、彼女の全部は影だった。筆舌に尽くしがたい動物的恐怖がコマを捉え、鷲掴みにした。この竹林に落とされた大小無数の影たちが歓声と共にこの狭い屋上へ殺到しているようだった。その全てが、影狼という一匹の狼女を包み込んでいくのだ。
 それは、その様は、姿の見えない忠実なる闇の侍女たちが、漆黒のドレスを主人に纏わせているかのような、いっそ息を呑むほど美しい精密さと愛情を伴いながら瞬きする間に進行していった。
 
「Ah……」

 そして、今。二匹の狼が月下に佇んでいた。一匹は漆黒の毛並みを夜風に靡かせながら、遥か天空の満月を愛憎入り混じる眼差しで睨め付けていた。もう一方はただただ怯えながらそれを見守っていた。
 すぅ、と。息を吸い込む音ひとつ。そして。

「                                」

 それは、遠吠えだった。
 それは、嘆きだった。
 それは、弔いの歌だった。
 それは、歓喜の咆哮だった。
 それは、愛の囁きだった。
 そしてそれは、
 そしてそれは、
 そしてそれは、
 そしてそれは、
 それは、それは、それは、それは、それは、それは!

 それは、ただ一瞬のことだった。束の間に見えた月光は夢に消え、曇天は悪役とばかり追い立てられたことがさも不服だと言わんばかりにその勢力を数倍にして盛り返していた。
 初めて世界を目にした赤子のような瞳をした一匹の子狼を、狼女の少し汗ばんだ表情が振り返り見た。

「ああ……ごめんね。それで、話って?」




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