epilogue
畜生界。
ここに朝はなく、夜もなく。また昼もなく、永遠の薄暗闇に閉ざされた陰鬱なる世界。闘争と弱肉強食の理だけが支配する世界。
しかしだからといって、そこには全く秩序が存在しない……というわけでもなかった。秩序をもたらすは拮抗であり、無論それは武力と暴力の拮抗に他ならない。
この場所もまたそうだった。薄汚れた大陸風の円卓。その上ですらりと長い二本の脚を組んだ漆黒の翼の畜生と、しゅるりと長い尻尾を揺らめかせている黄金髪の畜生が、いっそ穏やかささえ含んだ拮抗の中で睨み合っていた。
最初に口を開いたのは龍尾を持つ畜生……八千慧の方だった。
「まあ」
苦々しいというよりもむしろその声音は、家の子供が面倒を起こしてご近所様に謝りに行く親のようで、つまり面倒と憂鬱とがちょうど半分ずつの塩梅で入り混じっていた。実際、八千慧の置かれた状況はほとんどそのままと言ってよかった。
「今回の件は、さすがに、うちに落ち度があると認めるよ」
「うん」
「不用意な交戦は避けろと言ったんだけどね。恐怖が、怯えが! 先んじて攻撃をさせた。情けないわ、まったく」
「それはもう聞いた」
「あ、そう」
やきもきしたように肩をすくめてみせる八千慧が、どうにも煮えきらない言葉を続ける。
「私にどうしてほしいわけ?」
「べつに? 今日だっておまえが呼びつけるから来たんだ。私は、最初からどうとも思っちゃない」
露骨にほっとした雰囲気が満ちた。背の高い椅子の背もたれに甲羅を預けた彼女に、少しばかり砕けた笑みがよぎり、消える。
「そういうところは相変わらずだな。メンツに泥を塗られて平気でいるようじゃ、有象無象共に付け込まれるよ」
「そん時ゃ正面から打ちのめすさ」
「だからって」
「それに! 奇襲だろうがなんだろうが、やられたあいつが悪いんだよ。どんな事情もひとたび殺し合いになったら関係ない。常在戦場と言うだろ。むしろ、情けないくらいだよ。うちの連中が弱かったせいで、そっちに過失を負わせてしまった」
「あんたが言うんじゃなかったら、とんでもない皮肉としか聞こえないけどね」
ため息が一つ。頭痛を抑えるように顔を伏せた八千慧が、またおもむろに顔を上げ直した。
「それでも、落とし前は付けさせてよ。部下のケジメも付けられないとみなされちゃあ、私の方が困るんだから」
「うん?」
「件の、狼霊。うちの組から見舞わせる」
「そりゃ無理だな」
「なんだよ! それが一番私に効くって、あんたねえ、理解して嫌がらせしてんじゃないの?」
声を荒らげ、身を乗り出す八千慧に、早鬼はひらひらと手を振って答えた。
こんなことはもう慣れっこだと言うように。
「しかし、どこにいるかもわからない奴を、どうやって見舞うってんだ?」
「はあ?」
「見舞いと言うなら、あの後、あの馬鹿が迷惑をかけていた地上の妖怪んところに見舞ったよ。今泉なんたらっていう……迷惑料というか餌代というか、いろいろと持ってってはみたが、ちっとも受け取ってもらえなかった。私らよほど嫌われてるね」
「その、例の狼女?」
「うん」
「ああなるほど……あんたんとこの部下、居着いちゃったわけだ」
「いや、それも違う」
「は……」
「言っただろ? どこにいるかもわからないってさ」
「じゃあ」
八千慧の語気に、もう先程までの力は無かった。早鬼の珍しい飄々とした態度に毒気を抜かれたのかもしれない。
「その狼霊は足抜けしちゃったってこと?」
「足抜け? うん、まあ、そういう言い方もあるかもな」
「あるかもなって……気にしてないわけ?」
「近頃は、勁牙組も大きくなった。きっと大きくなりすぎたんだな。大きすぎる群れの中は、窮屈で、退屈で、狼の牙を抜いちまう」
「……それは、理解できる」
「一匹でも生き抜く力が、あいつらには必要だ」
「だからって、ねえ」
「それにあいつはきっと戻ってくるよ。狼とはそういう獣だ。みんな、仲間思いなのさ」
「あっそう……私だったら絶対に許さないけど……ともかくつまり、こういうこと?」
視線を上げた早鬼の瞳に、せせら笑うような八千慧の顔がくるりと丸く映り込む。
「可愛い子には旅をさせよ、と」
「べつに可愛くはないがな」
また、ため息が一つこぼれ、畜生界の乾いた薄暗闇の中に呑まれていった。
○
雪に閉ざされた森はゾッとするほどに静謐で、枯れ木の枝の隙間を堂々縫って差し込む日差し、煌めく雪面に目を細める暇もなく、襲いくるのは命を奪う零下の空気。
そこを、一匹の狼が力強く駆けていた。後ろに長く続く足跡は山の起伏に呑まれて果てが見えない。
ざくっ、ざくっ、ざくっ、ざくっ……。
拭いきれぬ高揚感がその歩調には表れていた。もう何日も歩き通しというふうだったのに、少しも疲れた様子がない。銀世界には彼の他になにも動くものは無く、彼は孤独の世界をひた走る。
ざくっ、ざくっ、ざくっ、ざくっ……。
ざくっ、ざくっ、ざくっ、ざくっ……。
どこへ向かっているのか。なにを目指しているのか。それを尋ねるものもまた、ここには皆無。もっとも実際に尋ねてみたとて、彼が答えられたかは別問題。
曙光が立ち上ってゆく。金色の世界が銀色の世界と入り乱れてゆく。狼の瞳は眩いばかりの黄金を捉えている。
あぉん、と。
力強い遠吠えが響いた。
オオカミの群れって基本的には家族(血縁者)っていうのを考えると、生前を覚えていない狼霊がこだわる群れとは何かはまた面白いかもしれないなんてふと。
畜生界組(上から下っ端まで)の矜恃のようなものも感じられて面白かったです
影狼がニホンオオカミ種としては孤独であるという問題が一切解決してないのに話としては綺麗に収まってるのなんでなんだろうなとずっと考えてます
著しく人生観の異なる二人がお互いを知ろうとする姿が素晴らしかったです
最後ひとりで歩んでいこうとするコマの心情も考えさせられると物がありました
仲間想いな草の根妖怪ネットワークの描写もよきでした。
一匹と一匹が関係しあって、でもこれよい雰囲気になって落ち着く……のではなく、最後は別れて違う道に行くんだろうなあ……という空気感が漂っていてよかったです。
ラストは、やっぱり違う道を行きつつ、影狼の孤独に共鳴して一匹でいることを選ぶコマの心情がよく、納得のいく筋書きでした。
全然予想通り策の通りってわけでもなさそうなのにいい感じの空気吸ってる驪駒が面白かったです(好みで言えば、最初からあの部下がそう行動すると予想して自由にさせていた……的発言があると尚刺さったかなと思いました)
しかし面白かったです。有難う御座いました。