地霊殿には多くの絵画ある。
人間の描いたもの。妖怪の描いたもの。あるいはそのどちらでもないもの。
人間を描いたもの。妖怪を描いたもの。あるいは、そのどちらでもないもの……。
「絵の中ではどんな英雄も、どんな放埒たる酒飲みも、愚者も、聖者も、静かなものよ」
古明地こいしは姉の言葉を覚えている。姉は芸術に精通している。姉は自分にはないセンスと教養を持っている。姉は巨人だった。身長の問題ではない、知識と知恵の巨人だ。少なくとも、あの混沌とした旧地獄世界をまとめ上げられるだけの手腕が姉にはある。そして――自分にそれはない。こいしは自覚している。
自覚しているから、地霊殿の薄暗い廊下にカツカツとブーツの踵を響かせながらこいしは、そこに飾られた絵画たちを一瞥もせずに通り過ぎていく。
その一枚一枚が、幻想郷の外の人間達が目にしたらひっくり返るような幻の品々ばかり――なのかもしれない。が、こいしはそれを判断する知識も、興味も、持ち合わせていない。
だから見向きもしない。教養はそれを持つものを素敵に彩る。だが同時に、それを持たぬものをとてもとても惨めにさせるものだから。
(私は用事を済ませるだけ。お姉ちゃんに頼まれたものを取ってくるだけ)
姉のことは好きだ。好きだ。好き……それは嫌いではないという意味において、とても真だった。
姉は芸術が好きだ。自分で文学作品を書いてみせるくらいには好きらしい。ホメロスも、シェイクスピアも、それ以外のこいしが到底覚えてられないような名だたる文学者たちの名作を空で何百人分も暗誦できる……。
(私は小説を読んでも楽しいって思わない。私は絵を見てもきれいって思うだけ。それだけ。べつに、それでいい)
カツ、カツ、カツ、カツ、カツ、カツ、カツ。
ブーツの音が極めて一定のペースを保ちながら鳴る。地底の人工太陽からもたらされる熱量、それを受けて輝く照明に照らし出されたエンタシス風の柱が落とす長い影を、踏み越える。踏み越える。また踏み越える。
もう眼の前には地霊殿地下倉庫の厳格に閉ざされた扉がある。照明の数も大分少なくなっている。それにしたって地下施設の地下倉庫とはナンセンスだが、実際に地下にある倉庫なので他に呼びようもなかった。
(自分のペットに頼めばよかったのに)
が、お燐は出払っていたし(基本的にいつも出払っている)、お空はなんだかんだで間欠泉センターの管理に忙しい……らしい。
立ってるものは親でも使え、という言葉があるが、地霊殿当主古明地さとりは厳粛にその適応対象を妹に押し広げたまでだった。
久しぶりだった。
姉から何かを頼まれるなんてことは。
だからこいしは……つい、うっかり、思わず、いつものようにするりと逃げ出して面倒事を袖にするチャンスを失った。
そしてここに立っている。
「お、おじゃまします……」
埃と、わずかに黴のにおいがした。それでもこの薄暗い空間がよく手入れされていることをこいしは知っている。姉が定期的に旧地獄の妖怪業者に大枚をはたいていることを知っている。知っているが、なぜそうまでするのかは理解できない。
はるか天井まで積み上がった本棚。骨董品を修めた木箱たち。布に隠された絵画の列。
こいしが指を鳴らすと、ぼやりと光を放つハート型の光がその指先に現れる。一定のリズムで螺旋軌道を描き続けるこいしの妖力。赤と青のコントラストに照らされる旧世代の遺物たち。
訝しげな表情を崩さずにこいしは、ただ彼らに貼り付けられたラベルを取り上げては誰何して、もとに戻すを繰り返す。
「ええと、イー、イー、イーの棚……あった」
数千冊とも数万冊とも思える蔵書の中からこいしは首尾よく一冊の本を見つけ出し、取り出す。こういう時、物理法則に必ずしも制限されない妖怪の身は便利だった。これが人間なら、20フィートはあろう脚立を持ってこなければならないところだった。
「じ・あーと・おぶ・らびん。えりひ・ぜりまん・ふろむ……あってる……たぶん」
姉の寄越したメモと何度も見比べ、問題ないことを確認し、こいしが頷く。内容に興味はない。たとえ本の題名が『しらゆきひめ』だろうが『熱の分子運動論から要求される静止液体中の懸濁粒子の運動について』だろうが、重要なのはメモの内容と同じかどうかでしかなかった。
そしてこんな埃っぽい空間にもう用は無かった。こいしはひらひら出口に向かう。
向かう……その最中。彼女の運動が空中でふと静止する。
「……?」
不思議なことは――いったいなぜ、来る時は気が付かなかったのだろう? ただ姉のおつかいで頭がいっぱいだったから? それとも逆に、用事が終わって気が抜けた?
なんにせよ。
赤と青の螺旋を描くハート型のエネルギーに照らされてなお金色な、一枚の絵画。丈は少し大柄な成人男性ほどで、大きいと言うほどではない。そもそもなぜこの一枚だけがむき出しで飾られていたのか……こいしには知る由もなかった。あるいは彼女のためだけにそこにあったのかもしれない。そういったことさえ起こりうる……ここでは。
いずれにせよ、なんにせよ。
彼女のまだ開かれている二つの瞳、それらは囚われたかのように「それ」から動かせなくなっている。その絵画から。金箔の敷き詰められたその男女の姿から。
金のローブを纏った男性が、やはり金のドレスを纏う女性を抱きしめ、その滑らかなる頬にキスを交わしている絵画から。
それがなんという絵画なのか……やはりこいしは芸術を介さないし、興味もないから、わかるはずもなかった。
本当に? もっとも素晴らしい芸術が遍く人の無意識の井戸から組み上げられたものなのだとすれば、それは……しかしどちらにせよ、知らない絵の題名などわかりようもない。
それでも。
「……きれい」
惚けた声がこぼれた。それを聞いたものは誰もいなかった。こいし自身、きっと無意識だったに違いない。いつものように。いつもと同じく。なにも変わることはなく。
だから彼女がどれくらいの時間そうしていたかも、やはり誰も知らない。
だから彼女がその絵からどのような感慨を得ていたのかも、やはり、誰も知らない。
観測者が不在となったシュレーディンガーの鉄の箱。その確率を収束させる者が誰もいなくなった時、猫は果たして不老不死となるのだろうか?
否、そうはならなかった。古明地こいしは無意識で、彼女という存在は無意識そのもので、しかし同時にまた彼女自身でもあったから。
ゆらぎがある。
こいしという少女はいつでも意識と無意識の狭間で揺れている。
彼女はふと、無意識の中に佇んでいる自分に気がついて、それを知覚し、観測して、正気に戻った。割合としては正気の方がよっぽどマイノリティだったが、ともかく彼女は、そのまま地下倉庫を後にした。
仰々しい音をあげて扉が閉まる。古明地こいしが去った後、倉庫にはまた誰にも観察されることのない優しい闇が舞い戻った。
◯
「ただいま」
地霊殿という施設は、どちらかといえば冷たい空気に満たされている。
たしかに旧灼熱地獄から込み上げてくる熱によって平均的な気温は高い。が、熱波に汗水流しながらも不気味な怖気に背筋が凍りつくような、そんな経験もありうるのだと、地霊殿を訪れた者は人間・妖怪を問わずことごとく知ることとなる。
その原因はひとえに地霊殿の支配人……古明地さとりその人に由来する。
「おかえりなさい。早かったわね」
だが、いつもそうだというわけではない。
地霊殿中枢、古明地さとりの書斎。少女は大好きな、心優しい姉の三つの瞳が見つめる前で、柔らかなソファにちょこりと腰を下ろし、頼まれたものを取り出した。
「ありがとう。阿きゅ……クリスQさんに貸し出す約束だったの。場所、すぐにわかった?」
「うん」
「そう。よかった」
ぺらぺらとページをめくる姉の横顔。こいしはぼんやりとそれを見つめる。
揺れるランプの明かり。金箔を貼り付けたような色合いに照らし出された書斎。
日焼けのしていない姉の、古明地さとりの、陶器みたいに真っ白い肌。長く整った睫毛。薄紅色の唇。
ぺら、ぺらり。紙と紙のこすれあう単調な響き。
見開かれた古明地こいしの翠の瞳。
「……ん、ごめんね。もう行っても大丈夫よ。とても助かった」
視線を戻したさとりの浮かべるやわらかな微笑。しかしこいしは動かない。身じろぎもせずに姉の微笑みを見つめ返している。
首を傾げたさとり。
「……こいし?」
短い沈黙。
そして。
「お姉ちゃん。キスしよ」
ほぼ同時、三つの瞳が見開かれた。
「え……?」
「キス、その……ちゅう、しない?」
「はえ?」
およそ地霊殿の総支配人らしからぬ声に、こいしが俯く。つばのひろい帽子を目深に被ると、アクセントにされたリボンの黄色が主張を強め、それ自体が一つの大きな瞳のようになる。
「いや……かな……」
「ああっ違うのよ! べつにいやってわけじゃ、ないけれど!」
「けれど……?」
「でもそんな、急に……いえ急にあなたがびっくりするような行動に出るのはね、私もわかってるし、それは困る時もあるけど、あなたの素敵なところで、あのね、こいし、だから私は……」
しどろもどろ、という言葉で完全に言い表すことのできる混乱ぶりの姉を、あくまでこいしはじいっと帽子の下から見つめるのみ。
そこに無意識の発露たる奔放さは無く、むしろ理性とわずかな怖気の色がさしていた。
「べつにいやならいいし……」
「っ……! ちがうの! いやじゃない! いやなわけないでしょう!?」
立ち上がる勢いで椅子が吹き飛び、ランプの炎がぶわりと揺れる。見開かれる、見開かれる、三つの真っ赤な少女の瞳。血走った瞳。それは単に突然の申し出に照れくさくなっているという以上に、いきなり目の前に普段から求めてやまないものが現れたというのにそれに気が付かず見逃しそうになったような、そのことに既のところで気がついたような、そんな必死さがあった。
「だいじょうぶ! しましょう! ちゅう! 昔はよくしてあげたものねっ」
「いいの?」
「家族がキスをするのは普通のことよ!?」
それはなんだか自分自身に言い聞かせている風でもあった。もちろんこいしは、自分から言い出した以上は否定するわけもなかった。そっと立ち上がり、ふわふわの絨毯を歩み進む。姉妹が対面し、互いの呼吸がかかるほどの距離になる。
「ほんとにいい?」
こいしは帽子を脱ぐと、優しい手つきで姉の書斎机に伏せた。その青白い顔色と比べると、姉の頬はほおずきみたいに赤くなっている。ごくりと喉が鳴り、かと思うと乾き気味の唇に気がついたさとりは慌てて書斎机をひっくり返すと、リップクリームを見つけ出してはごそごそやっていた。こいしは能面さながらの無表情でそれを見つめていた。
「お姉ちゃん?」
「んんっ」
「いい?」
「んっ」
「顔色、おかしいよ?」
「平気だから! ほらおいで!」
「目がこわい……」
「いいから!」
両腕を軽く広げてその時を待つ姉に気圧されながらもこいしは、息を吐き、自分の唇を姉のそれに重ねた。姉のようなリップクリームはつけず、かといって舌で咄嗟に潤すこともしなかったせいで、その表面は乾いていた。
それでもこいしは柔らかな自分たちの器官が確かに触れ合うのを感じた。あたたかだった。姉にそっと抱きしめられると、忘れていた――思い出したわけじゃない、それでも――穏やかな時間がするりと自分の中に入ってくるような浮遊感。
抱きしめて、キスをした。それだけのこと。それだけのことなのに、ただ言葉をかわすだけとは全く違う、こいしは慄いた。そして同時に、姉の頼りない背中に回した腕へと遠慮がちに力を込めた。一瞬だけ。埃っぽいながらもきめ細やかな花の香がして、それで……おしまい。
ほんの数秒にも満たない時間、つかの間、二人は離れる。こいしの――二つの――瞳が丸くなった。
「できてた? キス」
「できてたけど」
「やっぱり、けど?」
「べつに、ほっぺにちゅうすればよかったわ。なにもこんな……私ってば……」
「ふーん……」
唇と唇でキスをするのと、ほっぺにキスをするのと、なにが違うのだろう? こいしはもちろん知識では知っている。さっきからずっと、知識はある。キス。それが意味するところ。家族同士の愛情を示すだけではなく、恋人同士のキスもある。しかしなにが違うのかと問うてみると、わからない。キスはキスだ。それでも……ついさっき見たあの金色の絵画はそういえば、きっと恋人同士を描いているはずなのに――ほっぺにちゅう、だったな――そんなことをぼんやり思った。
どうも間違ったかもしれない。
(お姉ちゃんとのキス、優しくて暖かだった。でも、ちょっと、思ってたのと違うな)
違う。違うとは、なにが違うのか。なにと違うのか。こいしにはもうわかっていた。あの絵画だ。あの絵画を眼にした瞬間に感じた鮮烈なイメージ、衝動、不思議な高揚感と憧れ。どうもそれと、先程のキス、しっくりと来る様子がない。
であれば、求めねば。理由は無い。それが気になれば求める。あるとすればそれが理由だ。無意識なる意識の託宣に従い、こいしはそっと帽子を被り直す。
「こほん……まあ家族なんだから、姉妹なんだから、キスくらいいつでも――」
そして古明地さとりが顔を赤らめつつも視線を上げた時には、もう、妹の姿はどこにも見当たらなくなっていた。
◯
「ねえお燐。キスさせて」
火焔猫燐は困惑していた。ついさっきまでは地上の墓場を荒らしに荒らし、大量の戦果を抱えてご満悦の凱旋中だったはず。
しかし道を塞ぐ少女。見知った少女のシルエット。自らの主人、の妹――だからまあ主人のようなものだ、ほぼ――古明地こいし、様。
いやしかし、しかし、神出鬼没はやはり今に始まったことではない。だからそれは構わない。それでも。
火焔猫燐は困惑していた。誰だって困惑するに決まっていると彼女はやるせない諦念を込めて天を仰いだ。事実、彼女は常識人(猫)なきらいがあった。相対的には、だが。
「ええと、すみません。今ちょっと、そのぉ、本当に申し訳ないんですけどね、少し急いでまして……」
外れかけの扉をそっと押し開く時みたいな繊細さと丁寧さが籠もった哀願だった。半分はお得意の猫なで声だったが、半分はこの黒猫の本心だった。
「お燐……」
「こいし様……すみません、でもしかたないんですよ。旧灼熱地獄の火力調整に、ほら、このたっぷりの死体を運ばないとお空のやつが困るんですよ」
「お燐」
「は、はぁ」
「私にはキス、されたくないの?」
「にゃっ……」
黒猫がたじろぐ。こんな時に相手が主人であれば、古明地さとりであれば嘘も隠し事も通じない。イエスだろうがノーだろうがお見通し。だからある意味気が楽だ。しかし同じさとり妖怪であっても、姉妹であっても、こいしを相手にするのはまったく180度話が違う。それはもう天国と地獄。
今、こいしはほとんど無表情に近い。しかしこれが笑顔だろうと泣き顔だろうと、同じことだ。お燐は当然理解している。こいしの底は虚ろ、その意識は虚無に属し、無意識に殉じて天衣無縫の振る舞いを憚らない。
(落ち着け、落ち着けあたい……こいし様の考えを読むのは無理だ、無理だけど……それでも考えるしかない! マズったら死ぬってあたいの獣の勘が告げている……だからどうするのが最善か考えるんだ!)
やはりどうにもお燐は常識人(猫)なきらいがあった。相対的には。つまり、いきなり主人の妹がキスを迫ってくるのはおかしい、とか……きっとしくじれば死に至るほどの事情があるに違いないとか……そういう発想はおよそ常識的の範疇に入るもので、普段はよかろうが、今、彼女は考えれば考えるだけ泥沼に嵌りつつあった。しかしそんなことは知る由もなく、この黒猫は必死に頭を巡らせて、この無意識の寵児の突発的行動の意味を探ろうとする。
「こいし様……ええと……」
「うん」
「ええとぉー…………」
「うん……」
「あ! もしかして発情期ですか?」
無論(比較的)常識猫であることは、それは、単に狂気が足りない傾向にあるというだけで、理知的であるとか聡明であるとか――そのようなことはちっとも、無かったのだが。
「なに言ってるの?」
「んにゃ……いえその……」
「キス、させてほしいの。お燐、よくお姉ちゃんにキスされてるでしょ」
「えぇー……あ、猫の姿の時のこと仰ってます?」
「うん。だからそう言ってるじゃない」
「言ってたかな……いやまあいいですよ、わかりました! わかりましたよそういう……じゃあ人化を解きますからちょっと、お待ちを――」
「そのままでいい」
ずいと身を乗り出すこいしに、お燐がたじろいで後ずさる。
「え!? いやちょっ、待っ、待って」
今度こそ確かに畜生の勘が告げている。
喰われる、と。
お燐は今、はるか先祖が暮らしていた広大無辺の危険な砂漠の中にいた。そこで、獰猛な他の野生動物たちに目をつけられてアドレナリンのほとばしるあの感覚を思い出して――
「ちゅっ」
軽いキス。お燐の赤髪の合間からのぞく、文字通り猫の額ほどの領域に、こいしの唇が触れて、離れた。
「にゃ……」
「もっかい」
「にゃ!?」
再びのキス。額に触れたこいしの口元。黒猫は身を強張らせたまま動かない。そのままたっぷり3秒ほどが経ち、また、こいしが身を引いた。
彫像のように硬直したお燐に向けて、黒帽子の少女は軽く息を吐き出し、軽く……えずいた。
「お燐、くさい」
「あ……」
「死体の臭いがする」
「え、まあ、そりゃそうでしょう……」
「お姉ちゃんは猫吸いって言うけど、平気なわけ? 信じらんない」
「あのですねえ! さとり様のお部屋番の時はもちろん綺麗にしてから挑みますよ!? この頃はペットも増えてきてなかなか順番が回ってこないんですからねっ!」
「ふーん」
「乙女ですからねっ」
「乙女……」
どやっと胸を張るお燐に向け、また、こいしが双眸を向ける。なにか言わなくても良いことを言ったと黒猫が気がついても、既に時は巻き戻らない。
そもそも自分はいつ解放されるのだろう? お燐は猫車の方をちらと見やる。もう地の底が近いから気温は汗ばむほどで、あまりもたもたしているとせっかくの戦利品が発酵してしまう。どうせ燃やす死体なのだからべつに、お燐としては問題もないのだが、あまり臭うのを持っていくとそれこそ主人から嫌がられる。通り道の廊下に死臭がこびりつくと言って。
「ねえお燐、キスってなんのためにするんだろう」
「はあ」
「乙女は、キスを特別だと思うもの。でもどうしてなんだろう? どうして? お燐、わかる?」
「さあね……そんな人間みたいな習性のことなんかよう知りませんよ。あたいは根っからの猫ですからね! にゃーにゃーにゃー!」
「怒ってる?」
「怒っちゃいませんけどね」
「あ、もしかして発情期かな……」
「ちがいます! ガキじゃあるまいし……もういいですか? あたい、そんなに暇じゃないんですよ」
「お燐はいつも忙しないね……」
「こいし様こそ、今になって思春期ですか? 恋とか愛とかそんな話が聞きたいなら、そうだな、橋姫にでも伺ってみたらどうです? あいつは、嫉妬心といやあ恋人の下世話なあれやこれやで、まあそんな話も詳しいでしょうよ」
「パルスィ?」
「ちょうど来る途中、勇儀のやつと呑んでるのを見ましたよ。さ、あたいはもうそろそろ失礼しますね。こんなに急いで申し訳ないとは思いますよ、思いますが、また死体を運んでない時にぜひお話させてくださいね。それじゃあ、それじゃあ……」
そのまま黒猫は振り返りもせず猫車を押していく。車輪のまわるからからという乾いた音が遠ざかっていくのを、こいしは、ぼんやりと見つめていた。その表情には今、なんの感慨も浮かんではいない。
けれどもしばし後、思い出したかのように飛び上がるとそのまま、ふらふらと、旧地獄の方へと飛び去っていった。
◯
旧地獄街道、充満する酒のにおいと人いきれ。
旧灼熱地獄の蒸し暑さが足元から立ち上ってくる地霊殿周辺とはまた別種の、ナマの精気に満ちた熱気がここにはある。
道行く妖怪たち。目的を持つ者、ただゆく宛もなく飲み歩いている者、怪しげな呼び込み、一触即発の荒くれた集い、肉の焼ける香ばしい匂い、吐瀉物のすえた臭い、なんでもかんでも。
けして快適な空間ではない。それでもこいしはこの街が好きだった。少なくとも意識のある時はそう思っている。
地元のようなものだから、というだけでなく、自分とは関係なしに強かに生きている存在の蠢く気配が好きだった。その誰も彼もがこいしとすれ違うのに気が付かないとしても――どうせ、彼女自身さえ気がついてはいないのだから。
「……それでよ……ひっく……あいつら畜生界から進出してきたヤクザ組織だっていうじゃない。いくらここが何でも受け入れるとはいえ、あんな畜生共の縄張りにされちゃあ――」
「わかったわかったよ、若いのにはよく言いつけておくし、あん時ゃ、地霊殿も動いてくれただろ」
「私もヤマメもひどい目にあったんだから……」
「お前らだって毟る気まんまんだったんじゃないか? よく言うわ」
「ふん……ひっく……ここも変わったわ……喧騒は相変わらずでも、昔は互いに敬意を持ってた……居場所は無くなる一方、ユートピアは何処にも無い……」
「思い出はいつでも美しく見えるもんで――あん?」
顔を赤くしてくだを巻いていた緑眼の妖怪、それを宥めていた一角の女――星熊勇儀が顔を上げる。さすがに古強者だった。ぼうっとそこに立って話の隙間を待っていたこいしがびくりと勇儀の視線に「気が付き」、顔を上げた。
怪訝に細まっていた勇儀の目元がたちまち和らぐ。靭やかなれども力強い右手が伸びて、黒帽子をぽんと撫でた。
「視線を感じるとは思ったよ。話題に出してたもんだからてっきり奴らが……ああいや、こいしちゃんどうしたんだい? 珍しいじゃないか、こんな飲み屋に来るなんて」
「うん。パルスィに、ちょっと」
「こいつに? へえ、珍しい……でもダメだな。ちょっと呑ませすぎた」
「酔ってないわよ! ……ひっく、水、ちょっと、水!」
「ほれ」
既に用意してあったグラスの中身を飲み下すと、そのままパルスィが勢いよく立ち上がる。
「おといれ!」
止める間も無く店の奥に消えていく橋姫。ため息とともに額を押さえる勇儀。きょとんとしたままそれを見つめるこいし。
「ま、座んなよ」
こいしはそれに従った。「呑む?」という問いかけに首を横に振り、すでに冷たくなっていた茹で枝豆を一つ、取る。食べるために取ったわけではなかった。ただその、遺伝子の二重らせんによって生み出された鮮やかな緑を興味深げに眺めていた。
「なにか頼もうか?」
「ううん」
「パルがどうかしたのかい? それともお姉さんのお遣いかな?」
「キス」
「え?」
「キスについて、聞こうと思って」
勇儀はつかの間ぎょっとした様子だったが、それ以上のことはなかった。軽く頷き、酒を飲む。いつも通り。
「……ふむ。なんだかわからないが、酒のつまみには悪くなさそうな話じゃないか。どうせあいつ、しばらく戻ってこないだろ。ちょっとお姐さんに聞かせてくれないかい……」
「べつにいいけど」
といっても大した話があるわけではなかった。ざっと顛末を話す間、勇儀は追加注文の鳥ハツをもぐもぐやったり、何杯目かもわからぬ盃を傾けたりしていたが、その瞳がこいしから離れることはなかった。
七味の香。立ち昇る煙。かつては鳥の命だった煙。喧騒は尽きず、鬼の予言通り橋姫は未だ戻らない。
「なるほどねぇ。ま思春期の悩みってわけでもないんだな」
「私たちに思春期とかあるのかな」
「さあ? しかし永遠の思春期を生きる思春期の妖怪だってきっといるだろうな。妖怪ってのはある意味、一つの精神の状態が強固に具現化したものだって……そんなふうに考えることもできる」
「鬼もそうなの?」
「鬼こそ、そうさ。鬼こそ人の心の中にあるどうしようもない精神と深い関係性を持つ……けれどこいしちゃんは、珍しい方だね。元は心を読むさとりだったんだろう。でも今は全く別種の力を持っている。それは……そんなことになったら妖怪は普通、消滅しちまうものさ。在り方の拠り所を失ってね」
「死んじゃうってこと?」
「そう。しかしこいしちゃんは生きている。それはさとり妖怪が特別に精神の根源に繋がっているから、かもしれない。心とはもとより変化するものだろ。こいしちゃんは、こいしちゃんが特別なのは、心の有り様と同じく変化に耐えうることなのかもな」
「むずかしいんだね」
「鬼は結構に勤勉な種族なのさ。喧嘩の方が好きなだけでね」
こいしはべつに、そんな話に興味はなかった。自分が何者なのかなんてどうでもいい。それよりも、この感情だ。あの絵画に侵食された衝動だ。
キス。
なぜ人はキスをするのだろう。渦巻くのは疑問? 興味? 得体のしれない衝動がずっとある。ずっとそこにある。
気になる。姉とキスをした時と、お燐にキスをした時で、いったいなにが違ったのだろう?
キスっていったいなんなんだろう?
そもそもなぜ自分はこんなことが気になるのだろう……?
「好奇心ね」
薄冷たい声は、いつの間にか戻っていたパルスィのそれだ。両頬はまだ赤みを帯びてはいるものの、濡れた前髪、顔を洗ってきたのだろう。目元の化粧が微かに崩れ、黒い涙みたいになっている。
「世の連中はあなたを何も考えてない妖怪だと思ってるようだけど……ひっく……無意識は無思慮とも無感動とも違うわ、ぜんぜん違う。むしろ、むしろね、意識なんてものは後付の発明品に過ぎない。こいし。そうよ、私ね、前々からあなたに興味あったわ……ひっく……嫉妬心もまた意識とは独立したモジュールが生み出す無意識の海の住人だものね!」
「おい大丈夫かよ?」
「うっさいわね! 誰のせいよ!」
「自分だろ……」
「好奇心って私のこと?」
「そう。好奇心は一つの強烈な無意識の有り様だから、今に始まったことでもないんじゃない……そうやって突然に一つのことが気になって、脇目も振らずに答えを探し求める癖」
「どうだろう……おぼえてないから」
「で……ひっく……何の話をしてたわけ?」
「なんだよ聞いてたんじゃないのか? だから割って入ってきたんだろ」
「なにが? 好奇心だって言ったのは、雰囲気よ。衝動は似てるの。嫉妬心ともね。さとり妖怪ほどじゃないけど、私もそういうのは見て取れる方なの」
「私の心が読めるの? お姉ちゃんでも……私でもわからないのに」
「読めるわけないでしょう。でも読めないからこそわかるの、きっと、あんたはそういう……ひっく……べつにいいや。私もハツね、塩で。ん、待って、熱燗も追加で」
「もうやめとけよ」
「いいのよ! いいの……ひっく……誰かの大切な悩みを聞くならお酒は必要だわ……それは、リスペクトよ。当然よ。こいし、あなたも大切な仲間なのよ。こんな掃き溜めの街で……」
「ほら、水」
「あぁっ!」
ガボガボとまた水を喉へ流し込んでから、パルスィはこいしの隣の席にを乱暴に引き出して腰を下ろすと、据えた翠緑の瞳を細めた。
「愛よ」
「……?」
「こいし。あなたが追い求めているのはキッスじゃないわ。なぜ人は口づけを交わすのだと思う……」
それがわからないからここに居るのだが、剣幕にこいしは二の句を継げない。
パルスィが更に身を乗り出す。尖った耳の先まで真っ赤になっているのは、紛れもなく、酔いのせいだった。
「愛よ。愛するが故にキッスをするの」
「愛……なぜ愛しているとキスをするの?」
「そりゃあ唇ってのは最も敏感な器官だからな。喧嘩で狙うと意外に効く」
「黙れバカ! いやでも……それはけっこう的を射てる。唇はとても敏感な器官。指先と同じように……触れる、という権能を行使するには最適な器官」
「えと、よくわかんないんだけど……」
「指先を絡め合うのはなぜ? 愛しているからよ。もっとも相手へと触れる『感触』を手にできるの、文字通りね。だから恋人たちは指と指をそっと結ぶ」
「なぜ、触れ合うの」
「なぜだと思う……こいしちゃん? ダメよ、なんでも教えを乞うばかりじゃ。いくら地霊殿のお嬢様だからってね。レディは、自らの意思と能力で……ひっく……切り開かなくてはダメなのよ、未来を!」
「おい、水」
「ん!」
グラスの氷水がたちまち消える。運ばれてきた熱燗さえもくいっと飲み干す。鳥ハツを喰らう。橋姫のこのような生命力に満ちた瞬間をこいしは、初めて目にする。勇儀の呆れた瞳がこいしの方へちらりと向いて、彼女の驚愕を肯定していた。
たぶんそれは、勇儀と二人でいたからなのだろう。二人きりで。こいしがパルスィと会うのは大抵は、他の旧地獄有力者の面々や、姉が一緒にいる。そういう時、橋姫は凛としたものだ。絶対にこんな……少なくともこれ程に剥き出しの荒々しさは見せないものだ。
こいしは浮き足立つような感じがした。姉は、さとりは、パルスィがこんな一面を持っていることを知っているのだろうか? まだ開かれたままの第三の瞳でもって、パルスィに限らず誰もが含みもつ裏の顔を知っているのか……そもそもこいしとて、それを知ることができたはずだ。
自分は知っていたのだろうか?
今のこいしには小首をかしげることしかできない。けれど、少なくとも、今はもう知っている。
「パルスィは……誰かを愛したことがあるの?」
「あぁ? あるわよ、もちろんあるわ。この旧地獄で私ほど……ひっく……私ほど、愛に造詣の深い妖怪もいないわよ。畢竟ね、愛とは、嫉妬心の苗床なのだわ。あんたら姉妹の力が意識と無意識を表裏で取り扱うように、私もまた愛憎を……ひっく……分けて考えたりしない。それは同じものなのよ」
「おいパル、こいしちゃん困ってるぞ」
「でもねえ! わかってるでしょう? あなたならわかるはずよ」
「わ、私なら?」
「愛と憎しみが裏表であるように、触れ合うこと、その源泉もまたその裏の感情に結びついている……それは」
「触れ合うことの、裏?」
「そう、それが、キスを求める心の裏側」
「う、うん……」
「まだ要領を得ない? 直感は働かない? 普段のあなたなら瞬時に答えただろうにね」
「そう、かな」
「でもいいわ。だって意識はそのためにあるんだもの。無意識が判断を下せないものを、解き明かすために……ひっく……だから逆に考えてみなさい。愛が無かったらどうなる。愛が無かったら、人はどうなる……愛が無かったらあなたはどうなる? もし、誰からも愛されなかったら……どうなるのよ?」
「どうなるって……それは……きっとそれは……さみしい。そんなのさみしいよ」
「それよ!」
これは……いったい自分はなにを聞かされてるんだろう? とんだ演説にぶち当たったと思った。困惑とも呆れともつかない感情……それは実際こいしには珍しいものだったが、とにかく、それでも……パルスィのすべての吐き出すものはまったくの酔いどれた音色には思えなかった。
愛。
そしてキス。
もはやその二つは重要ではなくなっていた。いや、はるかに重要なものに結びついていた。なぜそんなものに心を、意識を、揺さぶられたのか。それらが自分の大切な……とてもとても繊細な、細い糸で作られた仮初の人形のように崩れやすい、けれど靭やかなものに結びついている予感がした。
予感。
あと少しでそれに手が届きそうだったけれど、それは叶わなかった。パルスィの方がいよいよ、坂道を転げ落ちる雪玉が等比級数的にその勢いを増していくように、演説はそのクライマックスに到達しようとしていたから。
「あのね、人は、人はね、恋人にせよ、家族にせよ、その実態はなんのつながりもない、そう、あなたの、あなたの、その思った通りよ。孤独なのよ! 故に繋がろうとするの。キスをしたりして。でも重ねた唇は最後には離れる。残酷にも。結局は、相手と一体化できるのは自らのほん一部らけなのよ」
孤独? 果たしてそうなのだろうか。それが自分の感じたもの?
しかしこいしには口を挟めなかった。そんな雰囲気でもなかった。橋姫の緑の瞳から透明な炎が吹き出している感じがした。手を出せばこちらが火だるまになりそうな迫力だ。
「子供はコウノトリが運んでくるんじゃない。つまり……つまりね、ひと、人が遺伝子の媒介者であるよーに、我らは、私ら妖怪は、意思の媒介者であり……私は嫉妬心と橋姫という伝承を、勇儀は暴力と鬼による畏怖を、おえっ……あんたらは意識と無意識を……もちろん、それだけじゃ……に、人間が、が、それだけではないように」
「おいパル、マジに大丈夫かよ?」
勇儀の案ずる声に対し、パルスィの振り向く速度は電撃さながらだった。かと思うと緩慢に瞳を擦り、一本角の鬼に向けて挑発的な上目遣いを投げ渡す。
「なにが……ひく、うぇ、そういえばキスが見たいんだっけ……? あぁ……いいわ、いいでしょう……ひっく」
「お、おい」
「勇儀ぃ……」
もちろん。
もちろん勇儀にはそれを、しなだれかかってきた橋姫を払いのけることなど造作もなかったはずだ。腕力の差は圧倒的なのだから。人が腕についた羽虫を追い払うよりも簡単に、それができたはずだった。
こいしはまなじりを決したままそれを見つめていた。べつに、他人の絡まり合う様を眺める趣味があるわけでもない。それでも目が離せない。二人の唇が重なる様から目が離せない。パルスィの頬の高揚は酒のためだけではない。その細い腕がしゅるりと蛇のように勇儀の背に伸びて、いっそう自らの儚い体重を相手に委ね、彼女はもはや自分の両足で立つことを放棄している。
キス。
それも、熱烈な。
「ん……ぷは……んっ……」
求めるようなキス。受け入れるためのキス。勇儀の厚みのある唇も、パルスィの薄紅のそれも、どちらもが、酒に艶やかに濡れている。そして時折、その隙間から輝く果実のような真紅がのぞく。ちろりと。躍る炎の精のように。
こいしは……喉が渇くような感じがした。いつも通り誰に断るでもなくその場を消え去ろうとした。が、その直前に橋姫の薄目が開かれ、深緑の眼差しが少女を射抜く。無意識さえお見通しというように。
こいしにはもう、自分の長いスカートの裾をぎゅっと握りしめることしかできなかった。
(これも、キス……)
そういうものがある、というのは知識では知っていたけれど、まさにそういうことを実際に目の当たりにするのは……少なくともこんな間近でじっくりと目撃するのは、どうにも初めてのことだった。そのまま二人のキスは永遠に続くのじゃないかと、そんな気さえした。だが。
「んっ……んんっ!? ん゛っ゛!?」
穏やかな愛情に満ちていた勇儀の表情が歪む。こいしがギョッとする間もなく、衝撃、轟音。弾き飛ばされたパルスィが空の机と椅子の山にめり込むように埋もれる。勇儀は乱雑に酒瓶を取ると、その中身を一息に口内へと流し込んだ。
「いたぁ~~い……」
瓦礫の方から非難とも恍惚とも取れない声が上がり、少なくとも頑丈な橋姫が死んではいないことがこいしにもわかった。無論、勇儀は力の「扱い」に長けている。「半殺し」は繊細さを要する作業だ。素人は相手を「殺せない」場合より、勢い余って相手を「殺してしまう」可能性の方がずっと高い。
とはいえ、それにしても、勇儀の反応は性急で突発に思えた。が、すぐにこいしにもその理由がわかった。
「おえぇ~~……」
ぴちぴちゃと跳ね回る液状化した音は、吐瀉物のすえたにおいを伴って、こいしにさえも知覚された。言うまでもなく、泥酔した橋姫が臨界点を迎えた証明だ。
勇儀はそちらを一瞥もせず、さらなる一升瓶を口に流し込み続けている。しかも相当に度数の高いアルコールだ。怒りよりも、ひどく呆れたような感情が鬼の周囲を取り巻いている。第三の瞳を閉ざしたこいしにも、それくらいのことは理解できた。
「え、えと……失礼しましたっ……」
こいしの気配が消える。誰もそれに気がつかない。いつも通り、彼女がそこにいたことさえも皆の意識から失われる。
それでよかった。とはいえそのことをありがたいと思う意識さえ、もはや、こいしからは消えているのだが。
◯
「……私はなにを聞かされてるんだ?」
爽やかな草原の青があった。空の青があった。抜けるような風が通り過ぎて行き、そのすべてことごとくが、こいしの故郷には無いものだった。少なくとも彼女の記憶の故郷には、無いものだった。
そしてまた、傍らに自分と同じように腰掛ける相手も、故郷で得たどんな交友関係ともちがう存在だった。
わずかに傾斜のかかった気持ちの良い土手は、位置的には博麗神社の境内と言えないこともない。が、実際に参拝客がここに来ることは皆無だ。巫女も、わざわざこんななにもない場所には来ない。ここを見つけたのはこいしの手柄だ。ここを選んだのは単に友人の生活圏と近くて都合が良かったからにすぎない。他にもこいしだけが知っている世界の美しい場所がたくさんある。その一つに友人を――秦こころを招く時はいつも、甘酸っぱい緊張感が走るものだった。期待と、不安。けれど今日のこころは、景色よりもこいしの話に意識を、奪われていた。
「だからさぁ、キス……」
「いやそれはわかったけど。わかったけどな? 私はどんな感情を抱けばいいんだ。苦手なのわかってるだろう、私には。楽しい話をする相手には……不適当だ」
淡々とした口調とは裏腹にこころの頬は少し、赤い。キスという言葉に照れているわけではない。彼女はいつも、神社の裏で舞踊の稽古をつけているらしい。頬の上気は、練習の最中にこいしが訪ねてきたせいだ。追い出されるかとも思ったが、こいしと話しているのはちょうどいい休憩程度のものなのかもしれない。彼女は神秘的な舞踊をあっさりと止め、今、ぼうっと芝生に腰掛けている。その本心はこいしにはわからない。第三の目を閉ざした彼女にその権利は無い。
「べつに……適当とか不適当とか、そんな。私なんかのために付き合ってくれるだけで」
「アンニュイだな? 今日はそっちの気分なのか?」
「私の本性は暗い奴だよ」
「そうなんだ? どちらかといえばおまえ、ネアカだと思ってたけどな」
「意識を飛ばしてる間はね……」
無意識に身を委ねれば明るく振る舞うのは簡単だ。文字通り、それと意識する必要さえない。恥も外聞もない。恐れも不安もない。ただ恍惚だけがある。
こいしはその話題を続けたくなかった。自分のことはいい。自分のことが一番よくわからない。いや、結局はこれも自分を理解する道程の一里塚なのかもしれない……渦巻く疑問は無意識の辺縁に埋め、強引に軌道を修正する。
「お姉ちゃんとキスをした。よくわかんないけど、優しい感じだった。お燐にもキスをした。くさかったし、楽しくもなかった。それから勇儀とパルスィのキスを見た。ドキドキするみたいだった」
「さっきも聞いた……で、私はどんな表情をすればいいんだ? 難しい感情を押し付けてくるな」
「こころちゃんは、キス、したことある……?」
「あるわけないだろ」
にべもなかった。息が整ってきたからか、こころはすくりと立ち上がり、目に見えないそよ風のリズムに合わせて体を絹布のように揺らす。それは最初は、子供が意味もなく身を揺すっているような、別段見栄えのするような動きではなかった。けれど段々とこころは調子を掴み、徐々に、それでいて急速にその動きが「舞」に収斂していった。
「わたしは舞を踊るのが好きだ。それは私がそういう存在だからなのかもしれない。どうでもいいけどな」
「え?」
「じっとしてると落ち着かないんだよ」
「う、うん」
要領を得ないこいしの前でこころはステップを刻み、音楽もないのにたしかに心躍るような音律を感じさせる動きで、青空を背にしたまま踊っている。
「パルスィって妖怪は。おまえの衝動を好奇心だって言ったんだっけ?」
踊りながらこころは問いかける。その瞳は移ろいながらもたしかにこいしを映したままだ。自分のしたいことのために会話を放棄するとか、そういうことではないと――こいしにもわかった。そういうことをする相手でもないとわかっていた。
逆に言えばそれくらいのことしかわからない。自分は、そういう風に秦こころという相手を見ているのだ、ということしか。
しかしそれこそが、地上まで出てきてはこんな話を聞かせた――聞いてもらった――理由だったのだけれど。
「私は舞で世界を感じる」
「それは……うん。私は芸術はわからないけど、こころちゃんが私には見えないものを見るんだってことはわかるよ。お姉ちゃんが第三の瞳で世界を――」
「おまえだって無意識の妖怪なんだろ。だったら無意識で世界を捉えてるんじゃないのか」
「そんなことない、と思う」
「あるだろ」
断定的な口調。少しこいしの方が強張ったが、舞の美しさが放つ引力の方がよほど強かった。
「おまえは結構に『つよい』妖怪なんだから。妖怪の強さは、その存在がどれだけ純粋なものに依拠しているかって――誰だったかな、寺の誰かが言ってたよ」
「喧嘩の強さは関係ないでしょ」
「さあ? おまえは突っ切った存在なんだろうな。どうしてそう自信がないのか不思議だよ」
「わけわかんない……なにがいいたいわけ?」
「私にはおまえの考えてることなんてわからん。知るわけないだろ。でも……おまえはもっと自分の無意識を信頼したらどうだって話かな。私は自分のこと頭良くないと思うよ。でも、舞っている時の私の感覚だけは信頼することにしてる」
ぴたり、こころの舞が止まる。空気をまとって広がっていた髪が重力に捉えられ、ぱさりと項垂れた。空にかかった虹の橋が溶けて消えてしまうように。
同時に、きっと彼女のこういうところが落ち着くんだ――と、こいしはふと実感する。こころは感情というものをとても大切にしている。だからこそそれに振り回されたりしないらしい。少なくとも今は。初めて会った時は、そうでもなかった。こころは明らかに感情に振り回されていた。
(大人なんだ……こころちゃんは、私と違って。私、永遠に子供みたいだ。思春期にも、なってない……)
つまり秦こころという存在は成長しているのだ。素晴らしいことだった。羨ましいことだった。それもまた好奇心の発露。こいしは知りたかった。その秘密を。こころが自分の心の内側をどうやって受け入れたのか――それはこいしが一番苦手なことだったから。
そんな内面のうじうじなど伝わるはずもなく、こころはこころで言葉を紡ぐ。肉体こそ静止しているが、その言葉の調子はどことなく舞のようにリズミカルに響く。
「ようするに、最初におまえが感じたっていう感覚――それは無意識の直感だろ? 答えはそこにあるんじゃないのか。わざわざあちこちまわってキスしてまわらなくてもさ。ばかみたいだ」
「ばかって……直感、ええと、あの絵を見た時のこと思い出したらいいの?」
「だから知らないってば。それとも覚えてないのか? いつもみたいに」
「ううん、覚えてるけど」
こいしの二つの瞳は前を見ていない。過去を――と言ってもほんの二、三日前のことだが――壊れ物でも扱うみたいに、そっと見据えた。
思えばそんなことも久しぶりだった。無意識に身を委ねている間のことは記憶に残らない。必然、過去を振り返ることもしなくなった。意識が表に出ている瞬間もあるが、それは必要な時だけだ。例えば姉に頼まれて本を取りに行く時、とか。そしてその僅かな隙間、ごく僅かな心の間隙に、あの絵を目にした。
金のローブを纏った男性が、やはり金のドレスを纏う女性を抱きしめ、その滑らかなる頬に優しい接吻を交わしている絵画。
きれいだ、と思った。子どものような無邪気な連想ゲーム。きれいなものは、いいもの。いいものは、欲しくなる。だから――絵画に秘められた単純な事象の再現によってその感動を、こいしは、得ようとしたに過ぎなかった。愕然とする思いでこいしはこころを見上げたが、彼女は空にちぎれ飛ぶ雲の形を追いかけるのに忙しいらしい。
少しだけむっとした思いでこころの袖を引くと、彼女は悪びれもせずに首を傾げる。
「それで?」
「うん……」
愛。なぜキスをするのかという問に、パルスィはそう答えた。愛憎は裏表だとも。人は孤独で、だから相手と強く強く繋がろうとキスをするのだと。
しかしあの絵のことを思うと蘇る意識は、感情は、それともまた違っていた。孤独に怯えてキスをする、というのでもなかった。あの絵に描かれていた男女の様子は、もっと互いを心遣い合うような、そんな――
「私、ぴったりの言葉が思いつかない」
「まあ、言葉で言い表せないから絵にしたり、舞にしたりするんだろう」
「それでも……お姉ちゃんとキスした時は、違ったな。お姉ちゃんは優しくて、私にすごく気を使ってくれるけど……それは単に私がしたいって言ったからキスしただけ。そうしてくれただけ。与えてくれただけ。それだけなの。わがままな子供の気を引こうとするみたいなもの」
「ふうん」
「お燐は私のキスなんてどうでもいいみたいだった。むしろ私のこと怖がってるみたいだった。私は結局、一方的にキスをしただけ。ペットにするみたいに」
「ペットね……」
「パルスィたちのキスは……あれは……なんていうか、あれは違うと思う。違うけど……一番、近い感じもする。ちょっと、ぐっちょりしてたけど……」
渋々といった感じでこいしは認めた。こころはどうでも良さそうだったが、不意に思いついたようにその仮面が切り替わる。具体的にどういう感情なのかはこいしにはわからない――が、悪くないような気がした。無意識で、直感で、そうわかった。
「おもしろい」
「え?」
「これは、おもしろいという感情」
「キスが?」
「ちがう。けど、そうだ。私はけっこうあちこち駆け回ってみて、感情というものを学んだ気だったぞ。たとえ言葉と面で表現できなくとも、舞をそこに加えれば、私はきっと感情豊かなポーカーフェイスになれると思っていた……しかし!」
「う、うん」
「おまえは私の知らない感情を見つけたようだ。それでこそ、おまえは私の好敵手だ」
「ねえそういう話じゃ――」
「きっと素敵な感情なんだろうなぁ」
理解の方向性に食い違いがあるような気がしないではなかったが、少なくともこいしは、こころの最後の言葉には同意した。心から、その通りだと思った。
あれこそが自分の憧れる感覚――意識の一つの有り様なのだと、打ち震えた。
好敵手。こころのその言葉が適切なのかこいしには常々疑問ではあったけど、とにかく今は、こころにいっぱいの感謝をしたい気がした。今すぐにだって言葉にしたかった。
けれど、そうはしなかった。
代わりに彼女は少しだけ長く視線を泳がせてから――尋ねた。
「私たちも、キス、してみる?」
人間の描いたもの。妖怪の描いたもの。あるいはそのどちらでもないもの。
人間を描いたもの。妖怪を描いたもの。あるいは、そのどちらでもないもの……。
「絵の中ではどんな英雄も、どんな放埒たる酒飲みも、愚者も、聖者も、静かなものよ」
古明地こいしは姉の言葉を覚えている。姉は芸術に精通している。姉は自分にはないセンスと教養を持っている。姉は巨人だった。身長の問題ではない、知識と知恵の巨人だ。少なくとも、あの混沌とした旧地獄世界をまとめ上げられるだけの手腕が姉にはある。そして――自分にそれはない。こいしは自覚している。
自覚しているから、地霊殿の薄暗い廊下にカツカツとブーツの踵を響かせながらこいしは、そこに飾られた絵画たちを一瞥もせずに通り過ぎていく。
その一枚一枚が、幻想郷の外の人間達が目にしたらひっくり返るような幻の品々ばかり――なのかもしれない。が、こいしはそれを判断する知識も、興味も、持ち合わせていない。
だから見向きもしない。教養はそれを持つものを素敵に彩る。だが同時に、それを持たぬものをとてもとても惨めにさせるものだから。
(私は用事を済ませるだけ。お姉ちゃんに頼まれたものを取ってくるだけ)
姉のことは好きだ。好きだ。好き……それは嫌いではないという意味において、とても真だった。
姉は芸術が好きだ。自分で文学作品を書いてみせるくらいには好きらしい。ホメロスも、シェイクスピアも、それ以外のこいしが到底覚えてられないような名だたる文学者たちの名作を空で何百人分も暗誦できる……。
(私は小説を読んでも楽しいって思わない。私は絵を見てもきれいって思うだけ。それだけ。べつに、それでいい)
カツ、カツ、カツ、カツ、カツ、カツ、カツ。
ブーツの音が極めて一定のペースを保ちながら鳴る。地底の人工太陽からもたらされる熱量、それを受けて輝く照明に照らし出されたエンタシス風の柱が落とす長い影を、踏み越える。踏み越える。また踏み越える。
もう眼の前には地霊殿地下倉庫の厳格に閉ざされた扉がある。照明の数も大分少なくなっている。それにしたって地下施設の地下倉庫とはナンセンスだが、実際に地下にある倉庫なので他に呼びようもなかった。
(自分のペットに頼めばよかったのに)
が、お燐は出払っていたし(基本的にいつも出払っている)、お空はなんだかんだで間欠泉センターの管理に忙しい……らしい。
立ってるものは親でも使え、という言葉があるが、地霊殿当主古明地さとりは厳粛にその適応対象を妹に押し広げたまでだった。
久しぶりだった。
姉から何かを頼まれるなんてことは。
だからこいしは……つい、うっかり、思わず、いつものようにするりと逃げ出して面倒事を袖にするチャンスを失った。
そしてここに立っている。
「お、おじゃまします……」
埃と、わずかに黴のにおいがした。それでもこの薄暗い空間がよく手入れされていることをこいしは知っている。姉が定期的に旧地獄の妖怪業者に大枚をはたいていることを知っている。知っているが、なぜそうまでするのかは理解できない。
はるか天井まで積み上がった本棚。骨董品を修めた木箱たち。布に隠された絵画の列。
こいしが指を鳴らすと、ぼやりと光を放つハート型の光がその指先に現れる。一定のリズムで螺旋軌道を描き続けるこいしの妖力。赤と青のコントラストに照らされる旧世代の遺物たち。
訝しげな表情を崩さずにこいしは、ただ彼らに貼り付けられたラベルを取り上げては誰何して、もとに戻すを繰り返す。
「ええと、イー、イー、イーの棚……あった」
数千冊とも数万冊とも思える蔵書の中からこいしは首尾よく一冊の本を見つけ出し、取り出す。こういう時、物理法則に必ずしも制限されない妖怪の身は便利だった。これが人間なら、20フィートはあろう脚立を持ってこなければならないところだった。
「じ・あーと・おぶ・らびん。えりひ・ぜりまん・ふろむ……あってる……たぶん」
姉の寄越したメモと何度も見比べ、問題ないことを確認し、こいしが頷く。内容に興味はない。たとえ本の題名が『しらゆきひめ』だろうが『熱の分子運動論から要求される静止液体中の懸濁粒子の運動について』だろうが、重要なのはメモの内容と同じかどうかでしかなかった。
そしてこんな埃っぽい空間にもう用は無かった。こいしはひらひら出口に向かう。
向かう……その最中。彼女の運動が空中でふと静止する。
「……?」
不思議なことは――いったいなぜ、来る時は気が付かなかったのだろう? ただ姉のおつかいで頭がいっぱいだったから? それとも逆に、用事が終わって気が抜けた?
なんにせよ。
赤と青の螺旋を描くハート型のエネルギーに照らされてなお金色な、一枚の絵画。丈は少し大柄な成人男性ほどで、大きいと言うほどではない。そもそもなぜこの一枚だけがむき出しで飾られていたのか……こいしには知る由もなかった。あるいは彼女のためだけにそこにあったのかもしれない。そういったことさえ起こりうる……ここでは。
いずれにせよ、なんにせよ。
彼女のまだ開かれている二つの瞳、それらは囚われたかのように「それ」から動かせなくなっている。その絵画から。金箔の敷き詰められたその男女の姿から。
金のローブを纏った男性が、やはり金のドレスを纏う女性を抱きしめ、その滑らかなる頬にキスを交わしている絵画から。
それがなんという絵画なのか……やはりこいしは芸術を介さないし、興味もないから、わかるはずもなかった。
本当に? もっとも素晴らしい芸術が遍く人の無意識の井戸から組み上げられたものなのだとすれば、それは……しかしどちらにせよ、知らない絵の題名などわかりようもない。
それでも。
「……きれい」
惚けた声がこぼれた。それを聞いたものは誰もいなかった。こいし自身、きっと無意識だったに違いない。いつものように。いつもと同じく。なにも変わることはなく。
だから彼女がどれくらいの時間そうしていたかも、やはり誰も知らない。
だから彼女がその絵からどのような感慨を得ていたのかも、やはり、誰も知らない。
観測者が不在となったシュレーディンガーの鉄の箱。その確率を収束させる者が誰もいなくなった時、猫は果たして不老不死となるのだろうか?
否、そうはならなかった。古明地こいしは無意識で、彼女という存在は無意識そのもので、しかし同時にまた彼女自身でもあったから。
ゆらぎがある。
こいしという少女はいつでも意識と無意識の狭間で揺れている。
彼女はふと、無意識の中に佇んでいる自分に気がついて、それを知覚し、観測して、正気に戻った。割合としては正気の方がよっぽどマイノリティだったが、ともかく彼女は、そのまま地下倉庫を後にした。
仰々しい音をあげて扉が閉まる。古明地こいしが去った後、倉庫にはまた誰にも観察されることのない優しい闇が舞い戻った。
◯
「ただいま」
地霊殿という施設は、どちらかといえば冷たい空気に満たされている。
たしかに旧灼熱地獄から込み上げてくる熱によって平均的な気温は高い。が、熱波に汗水流しながらも不気味な怖気に背筋が凍りつくような、そんな経験もありうるのだと、地霊殿を訪れた者は人間・妖怪を問わずことごとく知ることとなる。
その原因はひとえに地霊殿の支配人……古明地さとりその人に由来する。
「おかえりなさい。早かったわね」
だが、いつもそうだというわけではない。
地霊殿中枢、古明地さとりの書斎。少女は大好きな、心優しい姉の三つの瞳が見つめる前で、柔らかなソファにちょこりと腰を下ろし、頼まれたものを取り出した。
「ありがとう。阿きゅ……クリスQさんに貸し出す約束だったの。場所、すぐにわかった?」
「うん」
「そう。よかった」
ぺらぺらとページをめくる姉の横顔。こいしはぼんやりとそれを見つめる。
揺れるランプの明かり。金箔を貼り付けたような色合いに照らし出された書斎。
日焼けのしていない姉の、古明地さとりの、陶器みたいに真っ白い肌。長く整った睫毛。薄紅色の唇。
ぺら、ぺらり。紙と紙のこすれあう単調な響き。
見開かれた古明地こいしの翠の瞳。
「……ん、ごめんね。もう行っても大丈夫よ。とても助かった」
視線を戻したさとりの浮かべるやわらかな微笑。しかしこいしは動かない。身じろぎもせずに姉の微笑みを見つめ返している。
首を傾げたさとり。
「……こいし?」
短い沈黙。
そして。
「お姉ちゃん。キスしよ」
ほぼ同時、三つの瞳が見開かれた。
「え……?」
「キス、その……ちゅう、しない?」
「はえ?」
およそ地霊殿の総支配人らしからぬ声に、こいしが俯く。つばのひろい帽子を目深に被ると、アクセントにされたリボンの黄色が主張を強め、それ自体が一つの大きな瞳のようになる。
「いや……かな……」
「ああっ違うのよ! べつにいやってわけじゃ、ないけれど!」
「けれど……?」
「でもそんな、急に……いえ急にあなたがびっくりするような行動に出るのはね、私もわかってるし、それは困る時もあるけど、あなたの素敵なところで、あのね、こいし、だから私は……」
しどろもどろ、という言葉で完全に言い表すことのできる混乱ぶりの姉を、あくまでこいしはじいっと帽子の下から見つめるのみ。
そこに無意識の発露たる奔放さは無く、むしろ理性とわずかな怖気の色がさしていた。
「べつにいやならいいし……」
「っ……! ちがうの! いやじゃない! いやなわけないでしょう!?」
立ち上がる勢いで椅子が吹き飛び、ランプの炎がぶわりと揺れる。見開かれる、見開かれる、三つの真っ赤な少女の瞳。血走った瞳。それは単に突然の申し出に照れくさくなっているという以上に、いきなり目の前に普段から求めてやまないものが現れたというのにそれに気が付かず見逃しそうになったような、そのことに既のところで気がついたような、そんな必死さがあった。
「だいじょうぶ! しましょう! ちゅう! 昔はよくしてあげたものねっ」
「いいの?」
「家族がキスをするのは普通のことよ!?」
それはなんだか自分自身に言い聞かせている風でもあった。もちろんこいしは、自分から言い出した以上は否定するわけもなかった。そっと立ち上がり、ふわふわの絨毯を歩み進む。姉妹が対面し、互いの呼吸がかかるほどの距離になる。
「ほんとにいい?」
こいしは帽子を脱ぐと、優しい手つきで姉の書斎机に伏せた。その青白い顔色と比べると、姉の頬はほおずきみたいに赤くなっている。ごくりと喉が鳴り、かと思うと乾き気味の唇に気がついたさとりは慌てて書斎机をひっくり返すと、リップクリームを見つけ出してはごそごそやっていた。こいしは能面さながらの無表情でそれを見つめていた。
「お姉ちゃん?」
「んんっ」
「いい?」
「んっ」
「顔色、おかしいよ?」
「平気だから! ほらおいで!」
「目がこわい……」
「いいから!」
両腕を軽く広げてその時を待つ姉に気圧されながらもこいしは、息を吐き、自分の唇を姉のそれに重ねた。姉のようなリップクリームはつけず、かといって舌で咄嗟に潤すこともしなかったせいで、その表面は乾いていた。
それでもこいしは柔らかな自分たちの器官が確かに触れ合うのを感じた。あたたかだった。姉にそっと抱きしめられると、忘れていた――思い出したわけじゃない、それでも――穏やかな時間がするりと自分の中に入ってくるような浮遊感。
抱きしめて、キスをした。それだけのこと。それだけのことなのに、ただ言葉をかわすだけとは全く違う、こいしは慄いた。そして同時に、姉の頼りない背中に回した腕へと遠慮がちに力を込めた。一瞬だけ。埃っぽいながらもきめ細やかな花の香がして、それで……おしまい。
ほんの数秒にも満たない時間、つかの間、二人は離れる。こいしの――二つの――瞳が丸くなった。
「できてた? キス」
「できてたけど」
「やっぱり、けど?」
「べつに、ほっぺにちゅうすればよかったわ。なにもこんな……私ってば……」
「ふーん……」
唇と唇でキスをするのと、ほっぺにキスをするのと、なにが違うのだろう? こいしはもちろん知識では知っている。さっきからずっと、知識はある。キス。それが意味するところ。家族同士の愛情を示すだけではなく、恋人同士のキスもある。しかしなにが違うのかと問うてみると、わからない。キスはキスだ。それでも……ついさっき見たあの金色の絵画はそういえば、きっと恋人同士を描いているはずなのに――ほっぺにちゅう、だったな――そんなことをぼんやり思った。
どうも間違ったかもしれない。
(お姉ちゃんとのキス、優しくて暖かだった。でも、ちょっと、思ってたのと違うな)
違う。違うとは、なにが違うのか。なにと違うのか。こいしにはもうわかっていた。あの絵画だ。あの絵画を眼にした瞬間に感じた鮮烈なイメージ、衝動、不思議な高揚感と憧れ。どうもそれと、先程のキス、しっくりと来る様子がない。
であれば、求めねば。理由は無い。それが気になれば求める。あるとすればそれが理由だ。無意識なる意識の託宣に従い、こいしはそっと帽子を被り直す。
「こほん……まあ家族なんだから、姉妹なんだから、キスくらいいつでも――」
そして古明地さとりが顔を赤らめつつも視線を上げた時には、もう、妹の姿はどこにも見当たらなくなっていた。
◯
「ねえお燐。キスさせて」
火焔猫燐は困惑していた。ついさっきまでは地上の墓場を荒らしに荒らし、大量の戦果を抱えてご満悦の凱旋中だったはず。
しかし道を塞ぐ少女。見知った少女のシルエット。自らの主人、の妹――だからまあ主人のようなものだ、ほぼ――古明地こいし、様。
いやしかし、しかし、神出鬼没はやはり今に始まったことではない。だからそれは構わない。それでも。
火焔猫燐は困惑していた。誰だって困惑するに決まっていると彼女はやるせない諦念を込めて天を仰いだ。事実、彼女は常識人(猫)なきらいがあった。相対的には、だが。
「ええと、すみません。今ちょっと、そのぉ、本当に申し訳ないんですけどね、少し急いでまして……」
外れかけの扉をそっと押し開く時みたいな繊細さと丁寧さが籠もった哀願だった。半分はお得意の猫なで声だったが、半分はこの黒猫の本心だった。
「お燐……」
「こいし様……すみません、でもしかたないんですよ。旧灼熱地獄の火力調整に、ほら、このたっぷりの死体を運ばないとお空のやつが困るんですよ」
「お燐」
「は、はぁ」
「私にはキス、されたくないの?」
「にゃっ……」
黒猫がたじろぐ。こんな時に相手が主人であれば、古明地さとりであれば嘘も隠し事も通じない。イエスだろうがノーだろうがお見通し。だからある意味気が楽だ。しかし同じさとり妖怪であっても、姉妹であっても、こいしを相手にするのはまったく180度話が違う。それはもう天国と地獄。
今、こいしはほとんど無表情に近い。しかしこれが笑顔だろうと泣き顔だろうと、同じことだ。お燐は当然理解している。こいしの底は虚ろ、その意識は虚無に属し、無意識に殉じて天衣無縫の振る舞いを憚らない。
(落ち着け、落ち着けあたい……こいし様の考えを読むのは無理だ、無理だけど……それでも考えるしかない! マズったら死ぬってあたいの獣の勘が告げている……だからどうするのが最善か考えるんだ!)
やはりどうにもお燐は常識人(猫)なきらいがあった。相対的には。つまり、いきなり主人の妹がキスを迫ってくるのはおかしい、とか……きっとしくじれば死に至るほどの事情があるに違いないとか……そういう発想はおよそ常識的の範疇に入るもので、普段はよかろうが、今、彼女は考えれば考えるだけ泥沼に嵌りつつあった。しかしそんなことは知る由もなく、この黒猫は必死に頭を巡らせて、この無意識の寵児の突発的行動の意味を探ろうとする。
「こいし様……ええと……」
「うん」
「ええとぉー…………」
「うん……」
「あ! もしかして発情期ですか?」
無論(比較的)常識猫であることは、それは、単に狂気が足りない傾向にあるというだけで、理知的であるとか聡明であるとか――そのようなことはちっとも、無かったのだが。
「なに言ってるの?」
「んにゃ……いえその……」
「キス、させてほしいの。お燐、よくお姉ちゃんにキスされてるでしょ」
「えぇー……あ、猫の姿の時のこと仰ってます?」
「うん。だからそう言ってるじゃない」
「言ってたかな……いやまあいいですよ、わかりました! わかりましたよそういう……じゃあ人化を解きますからちょっと、お待ちを――」
「そのままでいい」
ずいと身を乗り出すこいしに、お燐がたじろいで後ずさる。
「え!? いやちょっ、待っ、待って」
今度こそ確かに畜生の勘が告げている。
喰われる、と。
お燐は今、はるか先祖が暮らしていた広大無辺の危険な砂漠の中にいた。そこで、獰猛な他の野生動物たちに目をつけられてアドレナリンのほとばしるあの感覚を思い出して――
「ちゅっ」
軽いキス。お燐の赤髪の合間からのぞく、文字通り猫の額ほどの領域に、こいしの唇が触れて、離れた。
「にゃ……」
「もっかい」
「にゃ!?」
再びのキス。額に触れたこいしの口元。黒猫は身を強張らせたまま動かない。そのままたっぷり3秒ほどが経ち、また、こいしが身を引いた。
彫像のように硬直したお燐に向けて、黒帽子の少女は軽く息を吐き出し、軽く……えずいた。
「お燐、くさい」
「あ……」
「死体の臭いがする」
「え、まあ、そりゃそうでしょう……」
「お姉ちゃんは猫吸いって言うけど、平気なわけ? 信じらんない」
「あのですねえ! さとり様のお部屋番の時はもちろん綺麗にしてから挑みますよ!? この頃はペットも増えてきてなかなか順番が回ってこないんですからねっ!」
「ふーん」
「乙女ですからねっ」
「乙女……」
どやっと胸を張るお燐に向け、また、こいしが双眸を向ける。なにか言わなくても良いことを言ったと黒猫が気がついても、既に時は巻き戻らない。
そもそも自分はいつ解放されるのだろう? お燐は猫車の方をちらと見やる。もう地の底が近いから気温は汗ばむほどで、あまりもたもたしているとせっかくの戦利品が発酵してしまう。どうせ燃やす死体なのだからべつに、お燐としては問題もないのだが、あまり臭うのを持っていくとそれこそ主人から嫌がられる。通り道の廊下に死臭がこびりつくと言って。
「ねえお燐、キスってなんのためにするんだろう」
「はあ」
「乙女は、キスを特別だと思うもの。でもどうしてなんだろう? どうして? お燐、わかる?」
「さあね……そんな人間みたいな習性のことなんかよう知りませんよ。あたいは根っからの猫ですからね! にゃーにゃーにゃー!」
「怒ってる?」
「怒っちゃいませんけどね」
「あ、もしかして発情期かな……」
「ちがいます! ガキじゃあるまいし……もういいですか? あたい、そんなに暇じゃないんですよ」
「お燐はいつも忙しないね……」
「こいし様こそ、今になって思春期ですか? 恋とか愛とかそんな話が聞きたいなら、そうだな、橋姫にでも伺ってみたらどうです? あいつは、嫉妬心といやあ恋人の下世話なあれやこれやで、まあそんな話も詳しいでしょうよ」
「パルスィ?」
「ちょうど来る途中、勇儀のやつと呑んでるのを見ましたよ。さ、あたいはもうそろそろ失礼しますね。こんなに急いで申し訳ないとは思いますよ、思いますが、また死体を運んでない時にぜひお話させてくださいね。それじゃあ、それじゃあ……」
そのまま黒猫は振り返りもせず猫車を押していく。車輪のまわるからからという乾いた音が遠ざかっていくのを、こいしは、ぼんやりと見つめていた。その表情には今、なんの感慨も浮かんではいない。
けれどもしばし後、思い出したかのように飛び上がるとそのまま、ふらふらと、旧地獄の方へと飛び去っていった。
◯
旧地獄街道、充満する酒のにおいと人いきれ。
旧灼熱地獄の蒸し暑さが足元から立ち上ってくる地霊殿周辺とはまた別種の、ナマの精気に満ちた熱気がここにはある。
道行く妖怪たち。目的を持つ者、ただゆく宛もなく飲み歩いている者、怪しげな呼び込み、一触即発の荒くれた集い、肉の焼ける香ばしい匂い、吐瀉物のすえた臭い、なんでもかんでも。
けして快適な空間ではない。それでもこいしはこの街が好きだった。少なくとも意識のある時はそう思っている。
地元のようなものだから、というだけでなく、自分とは関係なしに強かに生きている存在の蠢く気配が好きだった。その誰も彼もがこいしとすれ違うのに気が付かないとしても――どうせ、彼女自身さえ気がついてはいないのだから。
「……それでよ……ひっく……あいつら畜生界から進出してきたヤクザ組織だっていうじゃない。いくらここが何でも受け入れるとはいえ、あんな畜生共の縄張りにされちゃあ――」
「わかったわかったよ、若いのにはよく言いつけておくし、あん時ゃ、地霊殿も動いてくれただろ」
「私もヤマメもひどい目にあったんだから……」
「お前らだって毟る気まんまんだったんじゃないか? よく言うわ」
「ふん……ひっく……ここも変わったわ……喧騒は相変わらずでも、昔は互いに敬意を持ってた……居場所は無くなる一方、ユートピアは何処にも無い……」
「思い出はいつでも美しく見えるもんで――あん?」
顔を赤くしてくだを巻いていた緑眼の妖怪、それを宥めていた一角の女――星熊勇儀が顔を上げる。さすがに古強者だった。ぼうっとそこに立って話の隙間を待っていたこいしがびくりと勇儀の視線に「気が付き」、顔を上げた。
怪訝に細まっていた勇儀の目元がたちまち和らぐ。靭やかなれども力強い右手が伸びて、黒帽子をぽんと撫でた。
「視線を感じるとは思ったよ。話題に出してたもんだからてっきり奴らが……ああいや、こいしちゃんどうしたんだい? 珍しいじゃないか、こんな飲み屋に来るなんて」
「うん。パルスィに、ちょっと」
「こいつに? へえ、珍しい……でもダメだな。ちょっと呑ませすぎた」
「酔ってないわよ! ……ひっく、水、ちょっと、水!」
「ほれ」
既に用意してあったグラスの中身を飲み下すと、そのままパルスィが勢いよく立ち上がる。
「おといれ!」
止める間も無く店の奥に消えていく橋姫。ため息とともに額を押さえる勇儀。きょとんとしたままそれを見つめるこいし。
「ま、座んなよ」
こいしはそれに従った。「呑む?」という問いかけに首を横に振り、すでに冷たくなっていた茹で枝豆を一つ、取る。食べるために取ったわけではなかった。ただその、遺伝子の二重らせんによって生み出された鮮やかな緑を興味深げに眺めていた。
「なにか頼もうか?」
「ううん」
「パルがどうかしたのかい? それともお姉さんのお遣いかな?」
「キス」
「え?」
「キスについて、聞こうと思って」
勇儀はつかの間ぎょっとした様子だったが、それ以上のことはなかった。軽く頷き、酒を飲む。いつも通り。
「……ふむ。なんだかわからないが、酒のつまみには悪くなさそうな話じゃないか。どうせあいつ、しばらく戻ってこないだろ。ちょっとお姐さんに聞かせてくれないかい……」
「べつにいいけど」
といっても大した話があるわけではなかった。ざっと顛末を話す間、勇儀は追加注文の鳥ハツをもぐもぐやったり、何杯目かもわからぬ盃を傾けたりしていたが、その瞳がこいしから離れることはなかった。
七味の香。立ち昇る煙。かつては鳥の命だった煙。喧騒は尽きず、鬼の予言通り橋姫は未だ戻らない。
「なるほどねぇ。ま思春期の悩みってわけでもないんだな」
「私たちに思春期とかあるのかな」
「さあ? しかし永遠の思春期を生きる思春期の妖怪だってきっといるだろうな。妖怪ってのはある意味、一つの精神の状態が強固に具現化したものだって……そんなふうに考えることもできる」
「鬼もそうなの?」
「鬼こそ、そうさ。鬼こそ人の心の中にあるどうしようもない精神と深い関係性を持つ……けれどこいしちゃんは、珍しい方だね。元は心を読むさとりだったんだろう。でも今は全く別種の力を持っている。それは……そんなことになったら妖怪は普通、消滅しちまうものさ。在り方の拠り所を失ってね」
「死んじゃうってこと?」
「そう。しかしこいしちゃんは生きている。それはさとり妖怪が特別に精神の根源に繋がっているから、かもしれない。心とはもとより変化するものだろ。こいしちゃんは、こいしちゃんが特別なのは、心の有り様と同じく変化に耐えうることなのかもな」
「むずかしいんだね」
「鬼は結構に勤勉な種族なのさ。喧嘩の方が好きなだけでね」
こいしはべつに、そんな話に興味はなかった。自分が何者なのかなんてどうでもいい。それよりも、この感情だ。あの絵画に侵食された衝動だ。
キス。
なぜ人はキスをするのだろう。渦巻くのは疑問? 興味? 得体のしれない衝動がずっとある。ずっとそこにある。
気になる。姉とキスをした時と、お燐にキスをした時で、いったいなにが違ったのだろう?
キスっていったいなんなんだろう?
そもそもなぜ自分はこんなことが気になるのだろう……?
「好奇心ね」
薄冷たい声は、いつの間にか戻っていたパルスィのそれだ。両頬はまだ赤みを帯びてはいるものの、濡れた前髪、顔を洗ってきたのだろう。目元の化粧が微かに崩れ、黒い涙みたいになっている。
「世の連中はあなたを何も考えてない妖怪だと思ってるようだけど……ひっく……無意識は無思慮とも無感動とも違うわ、ぜんぜん違う。むしろ、むしろね、意識なんてものは後付の発明品に過ぎない。こいし。そうよ、私ね、前々からあなたに興味あったわ……ひっく……嫉妬心もまた意識とは独立したモジュールが生み出す無意識の海の住人だものね!」
「おい大丈夫かよ?」
「うっさいわね! 誰のせいよ!」
「自分だろ……」
「好奇心って私のこと?」
「そう。好奇心は一つの強烈な無意識の有り様だから、今に始まったことでもないんじゃない……そうやって突然に一つのことが気になって、脇目も振らずに答えを探し求める癖」
「どうだろう……おぼえてないから」
「で……ひっく……何の話をしてたわけ?」
「なんだよ聞いてたんじゃないのか? だから割って入ってきたんだろ」
「なにが? 好奇心だって言ったのは、雰囲気よ。衝動は似てるの。嫉妬心ともね。さとり妖怪ほどじゃないけど、私もそういうのは見て取れる方なの」
「私の心が読めるの? お姉ちゃんでも……私でもわからないのに」
「読めるわけないでしょう。でも読めないからこそわかるの、きっと、あんたはそういう……ひっく……べつにいいや。私もハツね、塩で。ん、待って、熱燗も追加で」
「もうやめとけよ」
「いいのよ! いいの……ひっく……誰かの大切な悩みを聞くならお酒は必要だわ……それは、リスペクトよ。当然よ。こいし、あなたも大切な仲間なのよ。こんな掃き溜めの街で……」
「ほら、水」
「あぁっ!」
ガボガボとまた水を喉へ流し込んでから、パルスィはこいしの隣の席にを乱暴に引き出して腰を下ろすと、据えた翠緑の瞳を細めた。
「愛よ」
「……?」
「こいし。あなたが追い求めているのはキッスじゃないわ。なぜ人は口づけを交わすのだと思う……」
それがわからないからここに居るのだが、剣幕にこいしは二の句を継げない。
パルスィが更に身を乗り出す。尖った耳の先まで真っ赤になっているのは、紛れもなく、酔いのせいだった。
「愛よ。愛するが故にキッスをするの」
「愛……なぜ愛しているとキスをするの?」
「そりゃあ唇ってのは最も敏感な器官だからな。喧嘩で狙うと意外に効く」
「黙れバカ! いやでも……それはけっこう的を射てる。唇はとても敏感な器官。指先と同じように……触れる、という権能を行使するには最適な器官」
「えと、よくわかんないんだけど……」
「指先を絡め合うのはなぜ? 愛しているからよ。もっとも相手へと触れる『感触』を手にできるの、文字通りね。だから恋人たちは指と指をそっと結ぶ」
「なぜ、触れ合うの」
「なぜだと思う……こいしちゃん? ダメよ、なんでも教えを乞うばかりじゃ。いくら地霊殿のお嬢様だからってね。レディは、自らの意思と能力で……ひっく……切り開かなくてはダメなのよ、未来を!」
「おい、水」
「ん!」
グラスの氷水がたちまち消える。運ばれてきた熱燗さえもくいっと飲み干す。鳥ハツを喰らう。橋姫のこのような生命力に満ちた瞬間をこいしは、初めて目にする。勇儀の呆れた瞳がこいしの方へちらりと向いて、彼女の驚愕を肯定していた。
たぶんそれは、勇儀と二人でいたからなのだろう。二人きりで。こいしがパルスィと会うのは大抵は、他の旧地獄有力者の面々や、姉が一緒にいる。そういう時、橋姫は凛としたものだ。絶対にこんな……少なくともこれ程に剥き出しの荒々しさは見せないものだ。
こいしは浮き足立つような感じがした。姉は、さとりは、パルスィがこんな一面を持っていることを知っているのだろうか? まだ開かれたままの第三の瞳でもって、パルスィに限らず誰もが含みもつ裏の顔を知っているのか……そもそもこいしとて、それを知ることができたはずだ。
自分は知っていたのだろうか?
今のこいしには小首をかしげることしかできない。けれど、少なくとも、今はもう知っている。
「パルスィは……誰かを愛したことがあるの?」
「あぁ? あるわよ、もちろんあるわ。この旧地獄で私ほど……ひっく……私ほど、愛に造詣の深い妖怪もいないわよ。畢竟ね、愛とは、嫉妬心の苗床なのだわ。あんたら姉妹の力が意識と無意識を表裏で取り扱うように、私もまた愛憎を……ひっく……分けて考えたりしない。それは同じものなのよ」
「おいパル、こいしちゃん困ってるぞ」
「でもねえ! わかってるでしょう? あなたならわかるはずよ」
「わ、私なら?」
「愛と憎しみが裏表であるように、触れ合うこと、その源泉もまたその裏の感情に結びついている……それは」
「触れ合うことの、裏?」
「そう、それが、キスを求める心の裏側」
「う、うん……」
「まだ要領を得ない? 直感は働かない? 普段のあなたなら瞬時に答えただろうにね」
「そう、かな」
「でもいいわ。だって意識はそのためにあるんだもの。無意識が判断を下せないものを、解き明かすために……ひっく……だから逆に考えてみなさい。愛が無かったらどうなる。愛が無かったら、人はどうなる……愛が無かったらあなたはどうなる? もし、誰からも愛されなかったら……どうなるのよ?」
「どうなるって……それは……きっとそれは……さみしい。そんなのさみしいよ」
「それよ!」
これは……いったい自分はなにを聞かされてるんだろう? とんだ演説にぶち当たったと思った。困惑とも呆れともつかない感情……それは実際こいしには珍しいものだったが、とにかく、それでも……パルスィのすべての吐き出すものはまったくの酔いどれた音色には思えなかった。
愛。
そしてキス。
もはやその二つは重要ではなくなっていた。いや、はるかに重要なものに結びついていた。なぜそんなものに心を、意識を、揺さぶられたのか。それらが自分の大切な……とてもとても繊細な、細い糸で作られた仮初の人形のように崩れやすい、けれど靭やかなものに結びついている予感がした。
予感。
あと少しでそれに手が届きそうだったけれど、それは叶わなかった。パルスィの方がいよいよ、坂道を転げ落ちる雪玉が等比級数的にその勢いを増していくように、演説はそのクライマックスに到達しようとしていたから。
「あのね、人は、人はね、恋人にせよ、家族にせよ、その実態はなんのつながりもない、そう、あなたの、あなたの、その思った通りよ。孤独なのよ! 故に繋がろうとするの。キスをしたりして。でも重ねた唇は最後には離れる。残酷にも。結局は、相手と一体化できるのは自らのほん一部らけなのよ」
孤独? 果たしてそうなのだろうか。それが自分の感じたもの?
しかしこいしには口を挟めなかった。そんな雰囲気でもなかった。橋姫の緑の瞳から透明な炎が吹き出している感じがした。手を出せばこちらが火だるまになりそうな迫力だ。
「子供はコウノトリが運んでくるんじゃない。つまり……つまりね、ひと、人が遺伝子の媒介者であるよーに、我らは、私ら妖怪は、意思の媒介者であり……私は嫉妬心と橋姫という伝承を、勇儀は暴力と鬼による畏怖を、おえっ……あんたらは意識と無意識を……もちろん、それだけじゃ……に、人間が、が、それだけではないように」
「おいパル、マジに大丈夫かよ?」
勇儀の案ずる声に対し、パルスィの振り向く速度は電撃さながらだった。かと思うと緩慢に瞳を擦り、一本角の鬼に向けて挑発的な上目遣いを投げ渡す。
「なにが……ひく、うぇ、そういえばキスが見たいんだっけ……? あぁ……いいわ、いいでしょう……ひっく」
「お、おい」
「勇儀ぃ……」
もちろん。
もちろん勇儀にはそれを、しなだれかかってきた橋姫を払いのけることなど造作もなかったはずだ。腕力の差は圧倒的なのだから。人が腕についた羽虫を追い払うよりも簡単に、それができたはずだった。
こいしはまなじりを決したままそれを見つめていた。べつに、他人の絡まり合う様を眺める趣味があるわけでもない。それでも目が離せない。二人の唇が重なる様から目が離せない。パルスィの頬の高揚は酒のためだけではない。その細い腕がしゅるりと蛇のように勇儀の背に伸びて、いっそう自らの儚い体重を相手に委ね、彼女はもはや自分の両足で立つことを放棄している。
キス。
それも、熱烈な。
「ん……ぷは……んっ……」
求めるようなキス。受け入れるためのキス。勇儀の厚みのある唇も、パルスィの薄紅のそれも、どちらもが、酒に艶やかに濡れている。そして時折、その隙間から輝く果実のような真紅がのぞく。ちろりと。躍る炎の精のように。
こいしは……喉が渇くような感じがした。いつも通り誰に断るでもなくその場を消え去ろうとした。が、その直前に橋姫の薄目が開かれ、深緑の眼差しが少女を射抜く。無意識さえお見通しというように。
こいしにはもう、自分の長いスカートの裾をぎゅっと握りしめることしかできなかった。
(これも、キス……)
そういうものがある、というのは知識では知っていたけれど、まさにそういうことを実際に目の当たりにするのは……少なくともこんな間近でじっくりと目撃するのは、どうにも初めてのことだった。そのまま二人のキスは永遠に続くのじゃないかと、そんな気さえした。だが。
「んっ……んんっ!? ん゛っ゛!?」
穏やかな愛情に満ちていた勇儀の表情が歪む。こいしがギョッとする間もなく、衝撃、轟音。弾き飛ばされたパルスィが空の机と椅子の山にめり込むように埋もれる。勇儀は乱雑に酒瓶を取ると、その中身を一息に口内へと流し込んだ。
「いたぁ~~い……」
瓦礫の方から非難とも恍惚とも取れない声が上がり、少なくとも頑丈な橋姫が死んではいないことがこいしにもわかった。無論、勇儀は力の「扱い」に長けている。「半殺し」は繊細さを要する作業だ。素人は相手を「殺せない」場合より、勢い余って相手を「殺してしまう」可能性の方がずっと高い。
とはいえ、それにしても、勇儀の反応は性急で突発に思えた。が、すぐにこいしにもその理由がわかった。
「おえぇ~~……」
ぴちぴちゃと跳ね回る液状化した音は、吐瀉物のすえたにおいを伴って、こいしにさえも知覚された。言うまでもなく、泥酔した橋姫が臨界点を迎えた証明だ。
勇儀はそちらを一瞥もせず、さらなる一升瓶を口に流し込み続けている。しかも相当に度数の高いアルコールだ。怒りよりも、ひどく呆れたような感情が鬼の周囲を取り巻いている。第三の瞳を閉ざしたこいしにも、それくらいのことは理解できた。
「え、えと……失礼しましたっ……」
こいしの気配が消える。誰もそれに気がつかない。いつも通り、彼女がそこにいたことさえも皆の意識から失われる。
それでよかった。とはいえそのことをありがたいと思う意識さえ、もはや、こいしからは消えているのだが。
◯
「……私はなにを聞かされてるんだ?」
爽やかな草原の青があった。空の青があった。抜けるような風が通り過ぎて行き、そのすべてことごとくが、こいしの故郷には無いものだった。少なくとも彼女の記憶の故郷には、無いものだった。
そしてまた、傍らに自分と同じように腰掛ける相手も、故郷で得たどんな交友関係ともちがう存在だった。
わずかに傾斜のかかった気持ちの良い土手は、位置的には博麗神社の境内と言えないこともない。が、実際に参拝客がここに来ることは皆無だ。巫女も、わざわざこんななにもない場所には来ない。ここを見つけたのはこいしの手柄だ。ここを選んだのは単に友人の生活圏と近くて都合が良かったからにすぎない。他にもこいしだけが知っている世界の美しい場所がたくさんある。その一つに友人を――秦こころを招く時はいつも、甘酸っぱい緊張感が走るものだった。期待と、不安。けれど今日のこころは、景色よりもこいしの話に意識を、奪われていた。
「だからさぁ、キス……」
「いやそれはわかったけど。わかったけどな? 私はどんな感情を抱けばいいんだ。苦手なのわかってるだろう、私には。楽しい話をする相手には……不適当だ」
淡々とした口調とは裏腹にこころの頬は少し、赤い。キスという言葉に照れているわけではない。彼女はいつも、神社の裏で舞踊の稽古をつけているらしい。頬の上気は、練習の最中にこいしが訪ねてきたせいだ。追い出されるかとも思ったが、こいしと話しているのはちょうどいい休憩程度のものなのかもしれない。彼女は神秘的な舞踊をあっさりと止め、今、ぼうっと芝生に腰掛けている。その本心はこいしにはわからない。第三の目を閉ざした彼女にその権利は無い。
「べつに……適当とか不適当とか、そんな。私なんかのために付き合ってくれるだけで」
「アンニュイだな? 今日はそっちの気分なのか?」
「私の本性は暗い奴だよ」
「そうなんだ? どちらかといえばおまえ、ネアカだと思ってたけどな」
「意識を飛ばしてる間はね……」
無意識に身を委ねれば明るく振る舞うのは簡単だ。文字通り、それと意識する必要さえない。恥も外聞もない。恐れも不安もない。ただ恍惚だけがある。
こいしはその話題を続けたくなかった。自分のことはいい。自分のことが一番よくわからない。いや、結局はこれも自分を理解する道程の一里塚なのかもしれない……渦巻く疑問は無意識の辺縁に埋め、強引に軌道を修正する。
「お姉ちゃんとキスをした。よくわかんないけど、優しい感じだった。お燐にもキスをした。くさかったし、楽しくもなかった。それから勇儀とパルスィのキスを見た。ドキドキするみたいだった」
「さっきも聞いた……で、私はどんな表情をすればいいんだ? 難しい感情を押し付けてくるな」
「こころちゃんは、キス、したことある……?」
「あるわけないだろ」
にべもなかった。息が整ってきたからか、こころはすくりと立ち上がり、目に見えないそよ風のリズムに合わせて体を絹布のように揺らす。それは最初は、子供が意味もなく身を揺すっているような、別段見栄えのするような動きではなかった。けれど段々とこころは調子を掴み、徐々に、それでいて急速にその動きが「舞」に収斂していった。
「わたしは舞を踊るのが好きだ。それは私がそういう存在だからなのかもしれない。どうでもいいけどな」
「え?」
「じっとしてると落ち着かないんだよ」
「う、うん」
要領を得ないこいしの前でこころはステップを刻み、音楽もないのにたしかに心躍るような音律を感じさせる動きで、青空を背にしたまま踊っている。
「パルスィって妖怪は。おまえの衝動を好奇心だって言ったんだっけ?」
踊りながらこころは問いかける。その瞳は移ろいながらもたしかにこいしを映したままだ。自分のしたいことのために会話を放棄するとか、そういうことではないと――こいしにもわかった。そういうことをする相手でもないとわかっていた。
逆に言えばそれくらいのことしかわからない。自分は、そういう風に秦こころという相手を見ているのだ、ということしか。
しかしそれこそが、地上まで出てきてはこんな話を聞かせた――聞いてもらった――理由だったのだけれど。
「私は舞で世界を感じる」
「それは……うん。私は芸術はわからないけど、こころちゃんが私には見えないものを見るんだってことはわかるよ。お姉ちゃんが第三の瞳で世界を――」
「おまえだって無意識の妖怪なんだろ。だったら無意識で世界を捉えてるんじゃないのか」
「そんなことない、と思う」
「あるだろ」
断定的な口調。少しこいしの方が強張ったが、舞の美しさが放つ引力の方がよほど強かった。
「おまえは結構に『つよい』妖怪なんだから。妖怪の強さは、その存在がどれだけ純粋なものに依拠しているかって――誰だったかな、寺の誰かが言ってたよ」
「喧嘩の強さは関係ないでしょ」
「さあ? おまえは突っ切った存在なんだろうな。どうしてそう自信がないのか不思議だよ」
「わけわかんない……なにがいいたいわけ?」
「私にはおまえの考えてることなんてわからん。知るわけないだろ。でも……おまえはもっと自分の無意識を信頼したらどうだって話かな。私は自分のこと頭良くないと思うよ。でも、舞っている時の私の感覚だけは信頼することにしてる」
ぴたり、こころの舞が止まる。空気をまとって広がっていた髪が重力に捉えられ、ぱさりと項垂れた。空にかかった虹の橋が溶けて消えてしまうように。
同時に、きっと彼女のこういうところが落ち着くんだ――と、こいしはふと実感する。こころは感情というものをとても大切にしている。だからこそそれに振り回されたりしないらしい。少なくとも今は。初めて会った時は、そうでもなかった。こころは明らかに感情に振り回されていた。
(大人なんだ……こころちゃんは、私と違って。私、永遠に子供みたいだ。思春期にも、なってない……)
つまり秦こころという存在は成長しているのだ。素晴らしいことだった。羨ましいことだった。それもまた好奇心の発露。こいしは知りたかった。その秘密を。こころが自分の心の内側をどうやって受け入れたのか――それはこいしが一番苦手なことだったから。
そんな内面のうじうじなど伝わるはずもなく、こころはこころで言葉を紡ぐ。肉体こそ静止しているが、その言葉の調子はどことなく舞のようにリズミカルに響く。
「ようするに、最初におまえが感じたっていう感覚――それは無意識の直感だろ? 答えはそこにあるんじゃないのか。わざわざあちこちまわってキスしてまわらなくてもさ。ばかみたいだ」
「ばかって……直感、ええと、あの絵を見た時のこと思い出したらいいの?」
「だから知らないってば。それとも覚えてないのか? いつもみたいに」
「ううん、覚えてるけど」
こいしの二つの瞳は前を見ていない。過去を――と言ってもほんの二、三日前のことだが――壊れ物でも扱うみたいに、そっと見据えた。
思えばそんなことも久しぶりだった。無意識に身を委ねている間のことは記憶に残らない。必然、過去を振り返ることもしなくなった。意識が表に出ている瞬間もあるが、それは必要な時だけだ。例えば姉に頼まれて本を取りに行く時、とか。そしてその僅かな隙間、ごく僅かな心の間隙に、あの絵を目にした。
金のローブを纏った男性が、やはり金のドレスを纏う女性を抱きしめ、その滑らかなる頬に優しい接吻を交わしている絵画。
きれいだ、と思った。子どものような無邪気な連想ゲーム。きれいなものは、いいもの。いいものは、欲しくなる。だから――絵画に秘められた単純な事象の再現によってその感動を、こいしは、得ようとしたに過ぎなかった。愕然とする思いでこいしはこころを見上げたが、彼女は空にちぎれ飛ぶ雲の形を追いかけるのに忙しいらしい。
少しだけむっとした思いでこころの袖を引くと、彼女は悪びれもせずに首を傾げる。
「それで?」
「うん……」
愛。なぜキスをするのかという問に、パルスィはそう答えた。愛憎は裏表だとも。人は孤独で、だから相手と強く強く繋がろうとキスをするのだと。
しかしあの絵のことを思うと蘇る意識は、感情は、それともまた違っていた。孤独に怯えてキスをする、というのでもなかった。あの絵に描かれていた男女の様子は、もっと互いを心遣い合うような、そんな――
「私、ぴったりの言葉が思いつかない」
「まあ、言葉で言い表せないから絵にしたり、舞にしたりするんだろう」
「それでも……お姉ちゃんとキスした時は、違ったな。お姉ちゃんは優しくて、私にすごく気を使ってくれるけど……それは単に私がしたいって言ったからキスしただけ。そうしてくれただけ。与えてくれただけ。それだけなの。わがままな子供の気を引こうとするみたいなもの」
「ふうん」
「お燐は私のキスなんてどうでもいいみたいだった。むしろ私のこと怖がってるみたいだった。私は結局、一方的にキスをしただけ。ペットにするみたいに」
「ペットね……」
「パルスィたちのキスは……あれは……なんていうか、あれは違うと思う。違うけど……一番、近い感じもする。ちょっと、ぐっちょりしてたけど……」
渋々といった感じでこいしは認めた。こころはどうでも良さそうだったが、不意に思いついたようにその仮面が切り替わる。具体的にどういう感情なのかはこいしにはわからない――が、悪くないような気がした。無意識で、直感で、そうわかった。
「おもしろい」
「え?」
「これは、おもしろいという感情」
「キスが?」
「ちがう。けど、そうだ。私はけっこうあちこち駆け回ってみて、感情というものを学んだ気だったぞ。たとえ言葉と面で表現できなくとも、舞をそこに加えれば、私はきっと感情豊かなポーカーフェイスになれると思っていた……しかし!」
「う、うん」
「おまえは私の知らない感情を見つけたようだ。それでこそ、おまえは私の好敵手だ」
「ねえそういう話じゃ――」
「きっと素敵な感情なんだろうなぁ」
理解の方向性に食い違いがあるような気がしないではなかったが、少なくともこいしは、こころの最後の言葉には同意した。心から、その通りだと思った。
あれこそが自分の憧れる感覚――意識の一つの有り様なのだと、打ち震えた。
好敵手。こころのその言葉が適切なのかこいしには常々疑問ではあったけど、とにかく今は、こころにいっぱいの感謝をしたい気がした。今すぐにだって言葉にしたかった。
けれど、そうはしなかった。
代わりに彼女は少しだけ長く視線を泳がせてから――尋ねた。
「私たちも、キス、してみる?」
最後にはこころと話をして、今すぐに自分の中の無意識と向き合うのは難しくても、絵画のキスに対して抱いた感情を素敵なものと感じられたのはこいしにとってきっと救いと成長の第一歩になったんだろうなとか、色々考えさせられました。
面白かったです。
パルスィの持論や、こいここの会話ももちろんですが、普通に序盤の描写も結構好き。おそらくポジジョンが被るせい?で出番が消えたお空に同情しつつ。
お見事でした。