沈む運命の船からは、まず真っ先に鼠達が逃げ出すという。
しかしその船の乗組員が鼠だった場合……果たしてどうなるのだろうか?
これは私たちが億万長者になるまでの、たった三日間の物語だ。
そして……私たちがすべてを失うまでの物語だ。
【Day1:一千万円相当の】
「ナズはさ」
べつに……なにかきっかけがあるわけじゃなかった。
言うなれば単なる気まぐれ。
ほんの日々の雑談。
村紗水蜜は手にしたシャボン玉の吹き具を退屈そうにくわえると、見事なシャボン玉を一つ作り出した。
ふわふわと青空の下を飛んでいく虹色のバブル。
「財宝を見つける能力なんでしょ」
「そりゃ御主人様の能力だよ」
にべもなく否定されても村紗は意に介さない。
しゃぼしゃぼと吹き具を液に浸しながら、宙に浮くシャボン玉を見つめてる。
「星のは、なんていうか、違うじゃん。あいつのは集める能力でしょ。磁石みたいなもんで」
「同じだろ」
「違う。言うなりゃあいつは鉱山だ。つまり宝の山には違いないけど、そこから動かないって意味で。掘り出せる黄金の量は決まってる。たしかに財宝は集まるには集まるけど、そこには一定のペースがある。まだるっこしいくらいのペースがある」
「君、飲み過ぎじゃない?」
「飲んでない」
「もう……行っていいかな。子鼠たちにご飯をあげないと」
「あんたなんで自分のために力を使わないの?」
「は……」
食い下がる村紗の真剣な瞳。いや、真剣というそれは……
「村紗」
「あん?」
「私知ってるよ。君が駒草太夫の賭場にこっそり入り浸ってるってこと」
「ギク……」
だいたい村紗も一輪も素行不良が多すぎるんだ。御主人様がその監視を私に命じるのも、無理はない。
まあ監視のことは言うまいが。
「で、どれくらい負けた?」
「負けてない!」
やれやれだ。こんなこと聖に知れたら大目玉だな。報告をあげるべきかどうかでまた御主人様の胃が痛くなる。
しかしこっちもこっちでまあ、懲りない懲りない。
「うぅ、最後に勝ちゃいいのさ。そうすりゃ負けはゼロだ!」
「だが種銭が尽きた」
「う……そうだよ! その通り! だからナズお願い! 私のために――」
「断る」
ようするに。これは気まぐれでも雑談でも無かったってわけだ。最初から村紗は私の能力が目当てで待ち伏せてたんだ。
はぁ。どうしてそんな頼みが通ると思ったんだろう? ま、それだけ負けが込んでるってことか。
にしても、いやはや、博打に負けて同門に金の無心とは……聖が聞いたら大目玉どころか泣き出すよ。ほんとに。
「じゃあね船長。三途の川でバイトでもして稼いだらいいよ」
「ナズぅ! 友達を見捨てるの!? 土下座してまで頼んでるのに!」
「そういう問題じゃない。そもそも私の力はそんな便利なもんじゃないよ」
「お願いします! ナズ様仏様毘沙門天様! 後でどんな言う事でも聞きますから!」
「知るか」
「お山の借金取りがさぁ! 三日以内に金を返せなかったら寺にまで来るってんだよぉ! このままじゃ私破滅だぁあ!」
「そりゃ絵に描いたような自業自得――」
パチン。シャボン玉が弾ける。
その時確かに私の元へ天啓が降りた。
振り返ると、べそをかいた彼女と目が合った。
「本当にどんな事でもするのか?」
「え、いやまあ、それは言葉のあややと言うか……」
「どうなんだ!」
「す、するよ! 脱げと言うなら脱ぐ! 密航船に乗せろと言うなら――」
「私はべつに君の裸なんか見たくないし高跳びも夜逃げも考えてない! 私の要求は一つ!」
「う、うん」
「聖の弟子として相応しい態度を取ること!」
「うん……?」
「あのねぇ! 曲がりなりにも君は聖の最古参の弟子の一人なんだぞ! だというのに酒は飲むわ、船は沈めるわ、博打は打つわ! ついに私にまで頭を下げるほど落ちぶれて!」
「自己肯定感低いね……?」
やかましい!
「君がそんな調子では、いくら聖が稀に見る聖人でも求心力は下がる一方だ」
「そ、それはまあ、ぐうの音も出ない正論だけど」
「だけど?」
「ナズがそんなに聖を想ってるとは知らなんだわ」
「そりゃ……聖のことも尊敬はしてるけど! それだけじゃない! 聖が求心力を失うってことは! 御主人様への信仰にも悪影響が出るんだ! 君らの! せいで! 御主人様は! この頃! 胃腸薬が! 手放せないんだよ!! わかるか!? 虎が胃腸薬なんて笑い話にもならない!!」
「すみません……」
「はぁ……はぁ……そういうわけだから、村紗。君の借金分は働いてやる」
「ほんと!?」
「その代わりだ! その代わり、博打は金輪際するな!」
「え……」
ただでさえ悪い船幽霊の顔色が青くなる。青を超えていっそ碧色だ。
「酒も飲むな」
「そんな!」
「約束できるなら、なんとか金を集めてみる」
「うぅ……でもまあ、酒と博打が無くっても私には――」
「あと言うまでもないが船も沈めるなよ」
「鬼! 悪魔!」
「ここじゃ鬼も悪魔も見飽きてるだろ……で、どうなんだ」
「……わかったよ。約束する」
「よろしい」
「足元見やがって……」
「なにか言ったかなぁ?」
ふてくされた村紗はシャボン液をまた吹き具にたっぷりとつけると、ぶくぶくと泡を吐き出す。
秋の陽につかの間煌めいたそれは、不意に吹いたつむじ風によってぱちんぱちんと弾けて消えた。
……思えば。
後になって思えば、これがすべての間違いだったんだ。
私はすっかり得意になっていた。御主人様のお役に立てるとはりきりすぎてしまっていた。
しかし結局はただ村紗の口車に乗せられただけ……いや。村紗ですらきっと予期していなかっただろう。
まさか、あんなことになるなんて。
◯
「で、なんで君も着いてくるんだい……」
ダウジングロッドの調整をしながら私は、もう何度目かもわからないため息をつく。
周囲にふわふわと浮かぶシャボン玉が鬱陶しい。
「だって寺に居たくないしぃ。ぶくぶくぶく」
「ないしぃ、じゃない! 気が散るだろう」
「それにナズがやっぱり無理だってなったら、急いで別の手段を考えなきゃならないもん」
「ふん! もう少し自分の立場を弁えてから口を開くんだね。バカにして」
「べつにバカにしてるわけじゃないよぉ。あ、お茶を淹れようか? お菓子を買ってくる?」
「素寒貧のくせに」
そう言いつつも私は、なぜだろう、これまでの鼠生にないほどはつらつとした気分に満ちていた。
ダウジングロッドを構える。不思議と今ならどんなものでも見つけられそうな気がする。
きっと御主人様のお役に立てると、そう予感しているからに違いない。妖怪の強さはひとえに思う心の強さなんだから。
「村紗。負け分はいくらだい」
「……それ、言わなきゃダメ?」
「私の能力はあくまで物探しだ。イメージは強ければ強いほど、具体的であればあるほどいい」
しばらく村紗は黙り込んでいたが、やがて観念して口を開いた。
「一千万……」
「ばっ――」
バカじゃないの!?
そんな言葉さえ出てこない。どこの世界に一千万もスッちまう仏弟子がいるんだ!
「わ、わかってるよ。あの日はちょっと熱くなりすぎた」
「そういう問題なのか……?」
「しょうがないでしょ!? 船乗りってのは博打を打つ生き物なのよ! 博打をしない船乗りは船乗りなんて言えないわ!」
「なのに弱いんだな」
「ゔ」
それがトドメとなったのか、以降村紗は口をきかなくなった。
ま、このほうが静かでいい。私は瞳を閉ざし、意識をロッドに集中する。
(一千万……一千万……うぅ、ひどい守銭奴みたいだ……しかし考えようによってはこれも失せ物のようなもの……なにより御主人様のため……! さあロッドよ。私に道を指し示せ……ロッドよ……ロッドよ……!)
瞬間、痺れるような手応えが来た。その感触が逃げ去らぬうちに私は文字通り飛び出していく。村紗も慌てて着いてきた。
「どこへ!?」
「さあね! しかし強烈な手応えだ! こんなのは御主人様の宝塔を見つけ出したとき以来だよ!」
「すご! 三日と言わず一日で返済できちゃうじゃん!」
ロッドを握りしめた両手にビリビリと宝の反応が流れ込んでくる。
すごい。これが私の力なのか? 自分でも空恐ろしくなってくる。なにかの間違いなんじゃないかって――しかしそう思う頃にはもう、反応は目と鼻の先だった。
「ここだ!」
飛び降りたそこは、人間の郷の外れの辺り。粗末でボロっちいマタギ小屋が一つ、私達の前で風に揺れている。
紅潮していた村紗の気色が、急速にまた船幽霊色に戻っていった。
「ここだ、って……いやただのボロ小屋じゃん。ここに一千万相当の宝があるっての?」
「う、うん……そのはずだけど」
事実、ダウジングロッドは痛いくらいの反応を示している。
だが村紗の瞳は明らかに懐疑と失望に染まりかかっていた。
「ほんとに~? ナズ、私を改心させようと一芝居打ったんじゃないの~?」
「し、失礼なやつだな! 自分から頼んできたくせに……」
「やっぱあの疫病神に借金するしか無いかなぁ。それだけは嫌だったんだけどなぁ……」
「おい! まだハズレと決まったわけじゃない! 村紗!」
村紗はもう興味を失った瞳で空を眺め、シャボンをぶくぶくやり始めてる。
というか、ああ……あれはパイプの代わりなのか。今更に気がついた。たぶん愛用のマドロスパイプは真っ先に抵当に流れたんだろう。アホなやつだ。
「ふん。私は私の能力を信じてる。曲がりなりにも毘沙門天様のお力なんだぞ……」
村紗のことは放っておいて私はマタギ小屋に近づいてゆく。
こうなりゃ金も村紗の改心もどうでもいい。意地とプライドの問題だ。
一歩踏み出す毎に反応はますます強い。
必ずある。必ずあるんだ。このつまらないマタギ小屋の中に、私たちの探すものが必ず!
息を呑み、私は、小屋の中を覆い隠すボロ切れの仕切りにそっと手をかけた。
そして――
「え……」
目があった。
小屋の中に居たのは涙目の、人間の少女だった。
フリーズする思考。
猿ぐつわをされている彼女は声が出せないらしい。沈黙を、村紗の呑気な声が引き裂いた。
「タヌキの死骸でもあった?」
少女は両手足を麻縄で縛られている。ロッドが最高潮の反応を見せ、思考回路がリスタートした。
誘拐だ。しかしあの狭い人間の郷で、いったい誰が――
「んんんーっ!」
「ちょ、ちょっと待って。すぐ戒めを解いてやるから」
「は? ナズあんたなに言ってんの? タヌキならタヌキ汁にして食べちゃおーよ」
こいつほんとに仏弟子なのかよ!?
とにかく急いで猿ぐつわを外すと、少女が弾かれたように叫んだ。
「逃げて! よ、妖怪が! 妖怪が来るの!」
私達のこと――じゃ、ないよな。
冷や汗が吹き出す。ちくしょう、どこのどいつだ? 妖怪が人間を攫ったのか? 神隠し気取りにも? 巫女に殺されたい自殺志願者め!
「村紗逃げろ! ここに居るとマズ――」
遅かった。
べきょ、と妙な音がして、村紗が転がっていくのが見えた。
外はもう日が暮れかけている。
長い影が私たちに落ちる。
「カ、カカカカカ、カ、カネ……」
血走った目。獰猛な牙からしたたり落ちる粘液質な唾液。
顔も名前も知ったこっちゃない。まあ、あまり社交的な妖怪には見えないな……。
「カネがイルんだ……カ、カカカカカ、カネ! カネ寄越せ! 負けチマッタ……負けチマッタヨォ! カネ寄越せヨォ!」
「おまえもか!? ああもう! 私は頭脳労働担当なのに!」
吐き捨てたって役に立たない。どうあれやるしかないんだ。ここで逃げたなんて知られたら、聖の弟子(とも違うんだけど)が誘拐の被害者を見捨てたなんて知られたら、御主人様のためどころか足を引っ張ることになる!
覚悟を決めたてロッドを構えた。
けれど。
「カッ――」
吹っ飛んでいく誘拐犯妖怪。その直前に聞こえたのは、重々しい鈍器が骨を打ち据える音。
どすりと地に突き刺さる鋼鉄の錨が、夕暮れ色に輝いていた。
額からこぼれた赤いものを拭い、船幽霊の舌打ち一つ。
「村紗……だ、大丈夫なのか?」
「あの程度じゃ気絶もしないっつーの。ったく、彼我の力量差くらい見分けてから喧嘩売りなさいよ」
そのままズカズカと妖怪の元まで行くと村紗は、そいつの胸ぐら掴み上げ、嵐のように罵声を浴びせた。
私は黙って被害者少女の目と耳を塞いだ。
……暫くしてようやく解放され、這々の体で逃げ去っていく毛むくじゃらな背中。
その姿を見ることは二度と無かった。
◯
「ナズはさぁ」
村紗水蜜のニコニコ顔は気色悪い。その日私は心底どうでもいい新たな知識を得た。
私たちはまだあのマタギ小屋に居る。べつに居心地が良かったわけじゃない。他に行く宛が無かったからだ。こんなものを抱えていては、寺に戻るに戻れない。
「ほんとーーーーーーに優秀な毘沙門天様のお弟子様だねぇ」
「やめてくれそれ。蕁麻疹で死ぬ」
「いやぁ……えへへへ……うふふふ……」
こんなもの、と言ってもあの縛られていた少女のことじゃない。
村紗が誘拐犯妖怪をぶっ飛ばしてから入れ替わりのタイミングで、いかにも裕福そうな人間の男女が現れた。彼女の両親。べつに続柄はなんだっていいが……あの子は、郷じゃけっこう名のしれた長者の娘だったらしい。そういえば寺に来てるのを見たことがある気もする。どうも人間の顔ってのは覚えにくくていけない。
「しかし……私自身、こうも上手くいくとは思わなかったな」
さて。
事の顛末はこうだ。あの誘拐犯妖怪は(どこかのアホと同じく)賭場で負けが込んで、後がなくなった。そしてどうやったんだか知らないが、郷の長者の娘っ子を誘拐。身代金を要求したらしい。
その額、一千万。
私たちにとって幸いだったのは、その両親が耳を揃えて身代金を持ってきてくれたこと。そして、彼らが律儀に博麗の巫女への通報を控えていたこと。
なによりも。
「これはどうぞ、どうぞ、娘を助けていただいたお礼でございます。他にお礼のしようもございません。どうぞ、お受け取りくださいませんでしょうか」
そうして頭を下げたあの老夫婦の申し出を、どうして村紗が断るだろう?
かくして。
私たちの間には一つの桐箱が鎮座している。中身は当然、現ナマだ。一千万円相当の。
「まあ、なにはともあれだ。これで君の放蕩三昧もおしまいだな」
「ナズ!」
這い寄る船長。はぁ。こんなことになるだろうとは思った。
「ダメだ。約束しただろ」
「わかってる! もちろんわかってるよ。約束は守る。守るけど」
「けどもヘチマもない」
「でもね、ナズ。考えてもみて。一千万よ。それがここにあるんだよ」
「だから?」
「博打で絶対に負けない方法、知ってる?」
「知るか」
「十分な元手で賭けることよ! いい? 博打ってのは確率の遊戯なの。期待値ってもんを知ってる? その賭けでどれくらいの金額が平均して戻ってくるかってことが、厳密な数理的モデルによって導き出せるんだよ!」
暑苦しくすり寄ってくる村紗を押し退ける。熱のこもった口調。さっきの守銭奴妖怪とまったく同じ気配がした。博打狂の気配だ。博打で身を持ち崩すやつの気配。
「そんなご立派な理論があるなら、なぜ君は負けたんだ」
「それよ! まさに、それなの。期待値はあくまで確率。上振れることもあるし、下振れることもある。いわゆるツキとか流れってやつね。そのツキっていう突風に煽られると、予期せぬ流れに押し流されると、期待値的には楽に稼げるはずの博打でも負けたりするの。私みたいに」
最後の「私みたいに」というところを強調して、村紗はまくしたてるように続ける。
こいつがこんなにお喋りなところ、初めてみたかもしれない。
「で結局なにが言いたいわけ」
「だから! 十分な元手で賭ければ絶対に負けないわけ! 太く短く賭けると流れに左右された博打になる! でも、上振れも下振れも全部飲み込むくらいの元手があれば! どうなると思う!」
「さあ……」
「負けない! 絶対に勝てる! それが確率という魔術なのよ! 試行回数バンザイ! 確率バンザイ!」
「でも君は、少なくとも一千万円分は試行したんだろ。そして負けたんだ」
「うぐ……」
村紗の周囲に満ちていた熱気が急速冷凍される。わかりやすい奴め。
「さ、寺に戻ろう。どうせ君はもう博打をやらない清廉潔白な仏弟子になるんだから、その話も関係なかったね」
「一億!」
……鬼気迫る、という言葉はきっとこういう顔のことを言うんだろう。
爛々と輝く紺碧の瞳。そいつが二つ、私をギロリと見上げてる。
ひやり……冷たい汗が背筋をつたった。
「一千万じゃ足りなかった! だから一億! それだけあれば絶対に勝てる! あの駒草太夫に一泡吹かせてやるのよ!」
「……君、ちょっとおかしいんじゃないのか」
「船乗りはね、一度売られた喧嘩は溺れたって忘れないの」
「つ、付き合いきれないな。ただでさえ仏弟子が博打なんて論外なのに、そのうえ私的な復讐に手を貸すだなんて……」
「負けて終われないでしょ!」
「は……」
「ナズ、私ちゃんと約束は守るよ。守るからこそ、こんなことを頼んでいるの。だってもう二度と博打をしないんだよ? 人間の寿命ならそれも数十年の我慢だけど、私たちはあと何百年、何千年生きる? その間もずっとずっと我慢し続けるんだよ。あなたとの約束を守るために」
「村紗……」
「その悠久の時間をずっと、最後に負けたままだって後悔しながら過ごせっていうの? そんなのできるわけない。お釈迦様でも成仏できないわ」
信じられないほど不謹慎な発言だが、ともかく、そうまで言われると村紗の言うことにも一理ある気がしてくる。
ずずいっと凄む村紗に私は、思わずたじろいでしまった。
「ナズ、あなただって今後一生チーズ禁止だって言われたら、どうする?」
「い、一生チーズ禁止……?」
「ナズだって思うはず。最後に思い残しがないよう食べられるだけ食べておこうって」
「それは……まあ、そうかもしれないけど……しかし一億って! 私たちの持ってるのは一千万だぞ! 十分の一じゃないか! どっちにしろ足りない!」
「だから!」
ビシッ、と村紗の細い指先が私を示す。
ごくりと喉が鳴るのがわかった。大いなるバカバカしい流れが渦を伴って近づいてくる……そんな予感がしたからだ。
「借金返済までまだ二日の猶予がある。その間にナズ、なんとか一億に増やしてほしいの!」
「えー!? いくらなんでも無理だから! 千円を一万円にするんじゃないんだぞ!? 私のことなんだと思ってるんだよ!?」
「たしかに普通なら無理だと思う。でも今、私たちの手元には一千万がある」
「だから?」
「お金ってのは元手があるのとないのとじゃ、それを増やす難易度がぜんぜん違うのよ。たしかに無から一億手に入れるのは至難の業かもしれない。でも一千万を元手に一億を稼ぐのは、実は意外と難しくないの。現にあの夜だって丁に賭けときゃ――こほん」
わざとらしい咳払いを挟んでから、村紗がにこりと微笑む。
それは悪魔の微笑みだった。いや、紅魔館の当主に微笑まれたときより余程恐ろしかった……。
「今のあなたならきっとできる」
「そ、そりゃ確かに今日はすごく調子が良かったけど……あんまり無茶言わないでくれ!」
「でも現に、たった一日で一千万稼いだじゃない」
「稼いだんじゃない。見つけたんだ。ぜんぜん違う。たまたま一千万円分の事件が落ちてたんだ。偶然だ。何日も見つからない可能性だってあった。いや、探しても見つからない可能性のほうがずっと高い!」
「じゃあ探してみてよ」
……なんだか語るに落ちた気がする。村紗ってこんなに頭の回転が速かったっけ? 恐るべきは博打打ちの執念。
「探してみてダメだったら、私も諦めるから」
「……まあ、探すだけなら」
「さすがナズ! 持つべきものは友達ね!」
「ふん。もう私は君と縁を切りたくて仕方ない気分で――」
ため息をついてロッドを取る。
その瞬間――。
またしても、稲妻のような感覚が私の両手を打ち据えたのだった。
【Day2:一億円分相当の】
私って本当にかわいそうな鼠だ。
確かにあの時ダウジングロッドに反応があった。あったけど、何もそれをバカ正直に伝える必要なんて無かったのに。
湿っぽい風の吹き込む縦穴を降りていく私と村紗。いっそロッドの反応が間違いだったらよかったのに。そんな願いも虚しく、下に向かえば向かうほどに宝の反応は強くなっていた。
間違いない。この先にある。少なくとも一億円分相当の宝。しかしいったい何が?
「ねえ、この縦穴ってあれだよね」
「……みたいだね」
「旧地獄に繋がってるやつ」
「はあ……」
旧地獄。
そうだ。ここは旧地獄に繋がる洞穴。聖復活を企図し、無限にも思える雌伏の時を過ごしたあの旧地獄。
私はあそこが嫌いだった。酒と賭博と暴力が満ちた世界。まあ、小鼠たちにはいい環境だったけど。あと……村紗にも。
「懐かしいなあ。お、見えてきた! 相変わらず賑やかだね~」
「ロッドの反応はそっちじゃない」
「えー、あそこの地底湖魚屋美味しいのに。ね、ちょっと寄って行こうよー。あっちの百足串屋も……」
「村紗! 君のためにやってるんだぞ! 観光したいなら私は帰る!」
「ご、ごめんってば。ちょっと懐かしかっただけ」
「……ふん。君はここにいた頃から酒と博打ばかりだったもんな」
「そんなの一輪もじゃん!」
「ま、少なくともその破戒僧コンビの片割れは明日が命日なんだ。我慢もするよ。ふふふ……」
「こ、こわ……命日って私もう死んでるから……」
「と、反応はこの先だ」
ロッドの指し示しているのは、崩れかけの廃屋敷だった。こんな場所ここじゃ珍しくもない。旧地獄に「旧」が着く前は鬼の高官でも棲んでたんだろうが……今はもう見る影もないな。
「またボロっちい所だなぁ。さっきのが無かったらやっぱり信じられないよ」
私だってそうだ。
確かに元は金持ち共が暮らしてだんだろう。しかし今はどう見ても、放置されてから何百年も経った廃墟。仮に金目の物が遺されていたとして……とっくに旧地獄の荒くれが持ち去った後のはず。
だがロッドの導きはこの場所で動かない。今まで見たことがないほど強烈に、最高峰の磁石のように、両手のロッドが惹きつけられている。
「行こう」
「私が前でいいよ。さっきのこともあるし」
村紗が先を進む。正直ありがたかった。そう思った瞬間、
「村紗!?」
村紗の姿が消えた。傾いた表門を彼女が潜った瞬間に。
「お、おい! 村紗どこだ!? 敵にやられたのか!?」
敵って誰だよと内心突っ込みつつも叫ばずにはいられない。なにしろ一億だ。ここに一億相当の何かがある。ロッドはただそれを見つけただけ。宝塔の時もそうだったけど、見つけた後にどれだけの困難があるかは私の力の管轄外なんだ。
「村紗! 返事してくれ! 村……」
「ナズ」
「村紗!? いったいどこに……きゃっ」
傾いた門の向こうには何も無かった、はずだ。その何も無い空間からにゅっと腕が伸びて、私を掴む。
村紗のだ。
そのまま門の向こうに引き摺り込まれた。
一瞬、夢を見てるのかと思った。
「ここは……廃墟だったよな!? さっきまで確かに!」
そこは明らかに整った屋敷の玄関だった。廃墟なんてとんでもない。廊下の向こうからはたくさんの妖怪の気配と、酒のにおい、それと僅かに……獣臭?
「結界術だね。外からは廃墟にしか見えないけど、中はまだ生きてたんだ。侵入までは拒んで無いから、見てくれほど豪華な結界でも無いな」
「そ、そうか。ぬえの力みたいなものかな」
「あいつが聞いたら怒るよ。私のはこんなもんじゃねーって」
「誰がこんなものではないと?」
瞬間、空気の温度が明らかに下がる。
身構える村紗に庇われてよく見えないが、いつの間にそいつはそこにいた。
肩のあたりで切り揃えられた金の髪。背中にしょった亀のような甲羅、ぬるりと長い龍のような尾……どこかで見覚えがある……気がするけど……誰だったかな。
しかし安全な輩じゃないことは確かだった。
「今日はもう満員よ。悪いけど、また明日の賭場にお越しくださいな」
「賭場?」
ぴくり。村紗の耳が反応する。まずい。
「そ、そうかい! そりゃあ残念だったね! さ! もう行こう村紗! 村紗……!」
動かない。腕を引いてもまるで巨岩を相手取ったよう。
船幽霊の口角がにやりと歪む。
嗚呼……私って本当に本当にかわいそうな鼠だ……。
「……? なによ、さっさと帰りなさい。私が満員と言ったら満員よ。それとも耳が聞こえないのか?」
「一千万」
取り出されたる桐箱。村紗はその中身をチラリと見せ、また閉じる。
相手の目の色が変わった。どう見たって悪い方に。
あーあ。私もう知ーらない。
「一千万あるんですけどね。ま、ちょっとした泡銭ってやつで」
「……なに?」
「でも、満員というなら仕方ない。ナズ、勇義んとこ行こう。どうせあそこも年中無休でしょ」
「待ちな」
亀甲龍尾の女がドスの効いた声を響かせる。それが両耳から入ってきた瞬間、両足が動かなくなった。
「おいカワウソ! ご新規様だよ! 席を空けな!」
「えーっ!? もうトーナメント表組んじゃいましたよ!」
「なら一番金払いの悪いやつを摘み出したらいいでしょう! 機転を効かせろ!」
「は、はいぃ! ただいま!」
それから奥の方で明らかな抵抗と暴力、それと無数の小動物の甲高い鳴き声が聞こえた気がしたが……多分、空耳だろうな。そう思うことにする。
それより、トーナメント表ってなんだ? 耳慣れない言葉だったが、とても聞き返す気にはなれない。
しかし村紗は上機嫌で推定ヤクザ女の後について行く。私も慌てて追いつく。
「お、おい村紗! 私は知らないからな!」
「なにが~?」
「その一千万! 今度失ったらもう協力してやらないからな!?」
「そんなことにはならないよ」
「博打狂は皆そう言うんだ!」
「違うそうじゃないって。根拠はちゃんとある」
「根拠ぉ? なんだそれは」
「ナズだよ」
「わ、私?」
「そ。ナズのダウジングはこの場所を指し示した。つまり探し物がここにあるってこと。逆にもし私が負けるとしたら、そういう流れなら、ロッドはここに導かなかったはず。だって私の望む物は無いんだもの」
「無茶苦茶だな……」
「そうかな? だいたい金なんてそこら中にある。でもその中からただ一つ、他のどんな場所でもなく、ナズの力はここを指し示した。それは、ここにある金が私たちの手に入れられる金だから。私が負けない流れだから。そうでしょ?」
「知るか! ていうかなんだよ流れって。ギャンブル狂いの世迷言だ! それに私だって自分の力を完全に制御できるわけじゃない! 宝塔を見つけた時だってあの店主にめちゃくちゃふっかけられたんだからな!?」
「でも、宝塔は手に入ったんでしょ」
「そ、それはまあ、そうだけど」
「大丈夫。ナズの力は本物だよ。私は信じてる。きっと勝てるさ」
ぽんと肩を叩かれ、もう私は何も言い返せなかった。いっそこのまま負けてしまえ。そう思った。
「会場はこちらです。ああちなみに、参加者はそちらのマドロス風のあなたで良いのかしら?」
「参加者?」
「私は博打はやらない!」
「ではそのように」
そして案内された賭場の会場は、予想通りの熱気と狂騒で溢れていた……が、どうにも様子がおかしい。
まず、所狭しと置かれた無数の四つ足机。てっきり丁半博打でもやるのかと思ってたが……あれはなんだ? 札遊戯でもするのだろうか。
次に、集まった博徒たちの様子。いや柄が悪い連中ばかりだし「らしい」と言えばそうなのだけど……なんだか妙に筋骨隆々な妖怪が多い気がする。狭い会場を陣取って腕立て伏せをやってる奴もいる。暑苦しい。
そして何より奇妙なのは、賭場につきもののあの声がないことだ。つまり、賭けの声。賽の目に金を張る声。勝利に吠える声。敗北に咽び泣く声。そういうもの一切が聞こえてこない。
「村紗、なんか変だよ。賭場という割に誰も賭けてない。これじゃ賭場というか……ジムだ」
「これから始まるんじゃない?」
「う、うん。しかし何をさせる気なんだろう? 力自慢ばかり集めて殴り合いでもさせようってのかな?」
それはほんの冗談のつもりだった。
だけど、すぐに私は思い知ることになる。
世の中には冗談みたいな考えを、本気でやってのける冗談みたいな連中がいるってことを……。
「あー、お集まりの皆様。本日はご足労いただき誠にありがとうございます」
キン、とノイズの混じった声が響く。私らを含め、その場にいた全員の視線と意識が壇上に向かった。
あいつだ。私たちを出迎えた、亀甲龍尾のツノ女。
「申し遅れましたが私、鬼傑組当代組長の吉弔八千慧と申します。以後お見知り置きを」
ああそうだ、あいつ畜生界のヤクザ! なんで旧地獄にいるのかは知らないけど、やっぱり碌でもないところに来てしまった。
それと……喋るたびにキンキン音がするのは多分、彼女の手にした妙な機械のせいか? 声を増幅する、ええと、マイクってやつ? 河童が似たようなのを売り出してたが、デザインは似ても似つかない。もっと乱暴で、野生的な……そんな感じ。
今すぐ逃げ出したかったけど、村紗は静かに壇上を見つめてる。
しかたなく私もそれに倣う。
その時、運悪くこちらを睥睨する吉弔八千慧と目があった。ぞくりと肝の底が冷える酷薄な視線……。
「さて前置きはこの辺りに。お待ちかねでしょうルールの説明をいたします」
(ねえ村紗、ルールってなんのルールだろ。大掛かりなギャンブルなのか?)
(それをこれから説明するんでしょ)
「……ルールは単純。生き残ること。最後まで勝ち残った者が勝者です」
(やっぱり殴り合いだよ! やめよう村紗!)
(う、うん。そう、かな……?)
「と、もう一つ言い忘れおりました。皆様の生命を守るため、武器や特殊な能力の使用は禁止とさせていただきます。判定員がそれらの使用を確認次第、即失格とさせていただきます。つまり頼れるものは己が拳のみ。純粋なる膂力と腕力の勝負でごさいます。どうかご理解のほど、よろしくお願い申し上げます」
会場がどよめく。
もはや疑いようはなかった。これから行われること。それは裏闘技場! どおりで筋肉自慢みたいな妖怪が集まってるわけだ。これから私たちは、賞金をかけて殴り合い殺し合いの裏トーナメントに参加させられるに違いない!
ああ、なんてことだろう。うかうかととんでもない場所に入り込んでしまった。このままじゃ村紗は……いや、私も……!
「では始めましょう! いや……始めよう! プレゼンテッド・バイ・鬼傑組! 第一回旧地獄大腕相撲大会を!」
……は?
「さあ戦え! 争え! 生え抜きの筋肉バカども! 弱肉強食こそ輝ける唯一の掟だ! レッツ! アームレスリング!」
「「「「うおおおおおおおおお!!!!」」」」
地が割れんばかりの歓声。村紗もちゃっかりそこに混じっている。
あれ? ついてけてないの私だけか?
「トーナメント表は以上の通り! さあさあ各自、対戦相手となる者と同じテーブルで対戦を開始しな!」
いつの間にかノリノリで叫んでる吉弔八千慧に追い立てられるように、会場の妖怪たちはめいめい移動を開始する。
それを唖然と眺めていると、村紗に腕を引っ張られた。
「ほらナズ行くよ。不戦勝なんて笑えないでしょ!」
「ちょ、ちょっと待て! なんで当然のように受け入れてるんだ! 腕相撲大会だって知ってたのか!?」
「知らなかったけど、まあなんでもいいじゃない。三点倒立の耐久時間比べとかじゃなくてよかったよ」
「なにわけのわからないこと……」
「それより問題は儲けの方ね。見て、あっちの連中。参加者じゃない。外ウマに乗ってるんだ。たぶんこの賭場の本命はそっち」
「あ……」
見ればどう見ても武闘派じゃない連中が鉛筆と紙切れを手にうんうん唸り、やがて決心した顔つきで壇上の大袋に金を放り込んでいく。
それぞれの袋には参加者の名前が記された紙が貼られ、その中には(元の記名を強引に消された上で)村紗の名前もあった。
「な、なるほど。優勝するのが誰かを当てるギャンブルなのか。勝ったら他の袋の中身が賭け金順に配当される、そういう仕組みだな……」
見れば村紗の袋は空っぽに近かった。
飛び入り参加というのもあるが、他のマッチョ連中に比べると確かに、見た目はあまり強そうじゃない。
「もちろんナズは私に賭けるんだよ」
「か、勝てるのか!? なんかすごく強そうだぞ!? どの参加者も!」
「勝つんだよ。見た目で舐められてるのもむしろ僥倖。ここに一千万も張れば一億なんてあっという間だね」
「あ、危なくないのか……?」
「ナズ」
村紗の紺碧の瞳が細まる。
その青白い腕は少女のか細さだが、もちろん私は知っている。村紗が並外れた怪力の持ち主であること。聖を別にすればたぶん、寺でもっとも腕力のある妖怪は村紗だろう。
鋼鉄の錨を片手で振り回すバカ力。他の参加者はまだそれを知らない。
「私は船乗りよ。船乗りにとって危険は腐れ縁の友人みたいなもん。だから大丈夫、信じて」
「もうおまえのことは信じられない!」
「じゃあ信じなくてもいいから。どうせ乗りかかった船でしょ」
「うぅ、とんでもない船に乗ってしまった……」
「あ、もちろん賭けるのを忘れないでよ! タダ働きなんて嫌だからね!」
まさにタダ同然で働かされてる私はしぶしぶ大袋に駆け寄って、いっそヤケクソになってこう叫んだ。
「村紗水蜜に一千万!」
◯
公平に言って、村紗は腕相撲大会を順調に勝ち進んでいた。
元々の怪力に加え、(見た目だけは)綺麗な顔をしてるから、怪力自慢の妖怪ほど油断する。その一瞬の隙にドカン。
壇上に掲げられたボードにはリアルタイムでオッズの推移が書き込まれていく。飛び回る小動物の霊が目を回してる。その表示曰く、現在の村紗のオッズは……500%。つまりこのまま勝てば五千万の収入がある。もちろんまだまだ脱落者は出るし、予想配当金額もさらに増えていくだろう。
一億。
バカみたいな話だったはずが、なんだかもう輪郭が見え始めていた。
私のロッドはこれを予期していたのか?
村紗は……勝ち残るのか?
「久しぶりだね、船幽霊」
どきり。
考えに耽っていたせいで心の扉が無防備だった。まだ大会は終わっちゃいない。そして……一番会いたくないやつの一人が次の対戦相手だった。
「誰だっけ?」
かぶりをふる村紗に、その相手はびきりと額に青筋を立てる。だのに顔は笑顔。それが余計怖い。私はひっそりと村紗の背に隠れて……すぐに後悔した。こいつから離れた方がよほど安全だった。
「はは……あっははは……いやあ薄情だなあ、村紗。私だよ。土蜘蛛のヤマメさ」
「げっ」
さすがに(アホの)村紗も思い出したらしい。青い顔がなお青ざめる。
「あんたには随分と博打の貸しがあったよねえ……だってのに……気がつきゃ地上にトンズラこいて逃げやがった!」
「そ、そうだっけなぁ……あはは……」
「そうだよ! よくまあおめおめと旧地獄に戻って来れたね!? しかし……ふう。ここであんたを殺したって金は返って来ない。なにより私は私に一財産を賭けている」
「賭けてるのは私だけど」
こほん、と咳払いをした緑眼の妖怪。
パルスィまでいるのか……私たちは同窓会に来たんじゃないんだぞ。
「村紗。あんたを負かしたら次はもう決勝だ。ここで大人しく敗退してくれるんなら、これまでのあんたの負け分はチャラにしてやるよ」
「いやぁ……まさか勝ち残ってきたの? ヤマメってそんなに強かったっけ?」
「試してみるかい?」
「……そりゃあ、当然。悪いが私も私に運命を賭けてる。八百長で敗退なんてゴメンだね」
まあ賭けてるのは私だけど。
流れ弾が怖かったので口には出さない。
ばちばちと火花が飛び散る中に、ふよふよとカワウソの動物霊が寄ってくる。
「ではでは~、位置について~」
間抜けな声に空気が弛緩する。村紗とヤマメを除いては。
二人はマジだった。もちろん村紗はずっとマジだ。私が耐えきれず視線を逸らすと、その先に緑眼が揺れていた。「やんなっちゃうよね、まったく」と、そんな声なき言葉が聞こえた気がした。
「はっけよーい……どん!」
行司なのかそうでないのか、とにかく、その時その瞬間からその場の熱がグッと高まる。
村紗の右手と、ヤマメの右手。掴み合った二人の腕はびくともしない。まるでそういう彫像みたいに微動だにしない。
騒がしくなるのはむしろ周囲の者たち。いつしか山のような垣根となったギャラリーが、酒瓶や賭け札を握りしめたまま口角泡を飛ばしている。
「行け蜘蛛女! 船幽霊なんかやっちまえ!」
「倒せえ! 倒せ、倒せ! あの蜘蛛女のせいで全財産賭けた馬がやられたんだ! ぶっとばせえ!」
ギャーギャー騒ぎが大きくなればなるほどに、村紗とヤマメはますます二人だけの勝負の世界に入っていく。
あるいはこのまま、永久に二人が組み合ったまま動かないんじゃないか?
しなやかに白い村紗の腕には事実、汗ひとつとして浮かばない。浮かばないのは幽霊だからだ。
一方でヤマメは徐々にその赤くなった顔に汗を滲ませ始める。その肩が微かに震えてる。
「い、いけるぞ村紗! ヤマメは押されてる! 勝てるぞ!」
思わず叫んでいた。こんなの私の柄じゃないとわかってても止められない。
ギリ……ギリギリギリギリ……拮抗していた天秤は徐々にだが確実に、村紗の方へと傾き始めていた。
大粒の汗がヤマメの頬をつたい、卓上に染み込んでいく。村紗の調子は変わらない。ゆっくり、ゆっくりと、しかし明らかに彼女の膂力は土蜘蛛に競り勝りつつあった。
「負けんじゃねえよ土蜘蛛お!」
「やれ! そのままやっちまえ!!」
「そうだ! 村紗やれ! 頑張れ! 負けるなぁ!」
気がつけば私は群衆に呑まれた一匹の鼠になっていた。胸の底から熱いものが込み上げてくる。
ヤマメは明らかに限界だ。蒸気のような吐息を吐き出しながら土俵際で踏ん張っているも同然だ。
勝てる。村紗なら勝てる。そして次は決勝戦。あと一勝すれば、おい、おい、本当に一億稼げちゃうよ!
「ふふ……バカね」
その時。
冷や水を浴びせられたみたいに冷静さが蘇った。村紗とヤマメを挟んだ対角線上、美しい緑の瞳が儚げに細まっていく……その瞬間を私は目にしてしまった。
なんだよ、あの余裕。
さっき橋姫はヤマメに賭けてると言った。だったら今は目を白黒させてなきゃいけない場面じゃないのか?
冷えた指先で後ろから首を絞められたみたいな、本能的な恐怖感。同時に私の目に飛び込んでくる受け入れがたい光景。
ぐらり。
始終安定していた村紗の背中が、揺らいだ。
「なっ……村紗!?」
にやりとヤマメの口元が歪む。死を待つだけだったはずの彼女の腕が再び甦り、村紗の腕を元の位置まで押し戻した。
いや、それだけじゃない。今度は村紗の方がジリジリと押し負けていた。明らかに様子がおかしい。
「うおおおお逆転だ! させ! させえ!」
「何してんだ船幽霊! 根性見せろおお!」
野次馬の叫び声も今は遠く感じる。
なんだ。なんなんだ? 村紗に何が起きてるんだ!?
「お、おい村紗! 様子が変だぞ! いったいどうした!? 村――」
「あー! そこの鼠妖怪! 選手に触っちゃダメですよ! 触ったら失格ですからね!?」
「う……」
カワウソ霊に咎められ、伸ばしかけていた手を慌てて引っ込める。
でも本当にどうしちゃったんだよ村紗。船幽霊が汗をかくなんて。顔を赤くするなんて。しかもその汗は、脂汗じゃないか!? そんな、まるで熱病にでも罹ったみたいな……熱病……?
「え……まさか、黒谷ヤマメ、おまえが――」
瞬間、ピシャリと鋭い声に遮られる。橋姫。水橋パルスィの敵意と愉悦に輝く瞳。
「ねえナズーリン。今のは旧知の仲に免じて聞かなかったことにしてあげるけど……八百長疑惑を吹っ掛けたら普通、殺されたって文句言えないのよ。私嫌だなぁ。あなたを殺したら一輪やぬえにも恨まれちゃう。そんなの……すごくすごく嫌」
「パルスィ、お、おま、おまえもか!? おまえたちずっとこうやって勝ち上がってきたんだな!?」
「ぜーんぜん何のことかわからない。あんたが思ってた以上に土蜘蛛は力持ちの妖怪なのよ。そ・れ・だ・け」
もはや疑いの余地は無かった。
黒谷ヤマメは何をしたのか? そう、私はすっかり忘れていた。こいつは土蜘蛛。土蜘蛛とは、疫病を操る妖怪だ。
なぜ村紗の旗色が急に悪くなったのか? おそらく何らかの疫病……べつにマラリアでもインフルエンザでもなんでもいいけど、とにかく村紗は病を押し付けられた。
でも……おかしい。最初に吉弔八千慧は言っていた。能力の使用は禁止だって。まさかヤマメたちを庇う理由もないだろうに。
「ちょっと行司! ちゃんと見張ってるんだろうね!? 能力を使ったら即退場だって最初に――」
「失礼なぁ! ちゃんとチェックしておりますとも! 妖力の気配が検知され次第、ただちに試合は中断いたしますよ!」
「妖力……」
違う。妖力じゃダメだ。確かに大半の妖怪は妖力を媒介にして超自然の異変を起こす。でも、全員がそうというわけじゃない。
例えば土蜘蛛……こいつの操るものは「感染症」。それはあくまで自然界に存在する普遍的な現象に過ぎない。妖力を媒介せずに細工ができるとまでは知らなかったけど、状況証拠はどう見ても黒だと言っている。
「くっ……もうやめろ土蜘蛛! 村紗を殺す気か!?」
叫ぶ私をヤマメは顧みない。そりゃそうだ。
代わりにパルスィのドスの効いた声が響く。氷獄の底から響いたみたいな冷たい声が。
「ねえカワウソちゃん。これって進行妨害じゃない? つまみ出してよ」
「え、えー。吉弔様ぁ! どうしましょう? あれ? 吉弔様どこですかぁ?」
そのままふらふらと漂っていくカワウソ霊は頼りにならない。
ああくそ、どうしよう。このままじゃ村紗は負ける。いやそれよりこのままじゃ命が危ない。もちろん村紗は幽霊で一度死んでるけど、ヤマメの疫病にそんな常識が通じるのか? もし幽霊すらも殺すほどの病だとしたら?
「パルスィお願いだ! こんなこと君からやめさせてくれ!」
「だからぁ、何のことかわからないっての。しつこいな」
「このっ……君らはそんなに金が欲しいのか!? こんなプライドを捨てた勝利を得てまで! 村紗の命を危険に晒してまで!」
「別にそんなじゃ……はっ……い、いい加減にしてよねッ!」
「それは私の科白だ!」
こうなったらもう実力行使より他にない。
別にいいさ。構うことはない。ここ旧地獄はそういう場所だ。
私はロッドを構える。
パルスィの周囲に魔性の気配が漂い始める。
だが。
「ナズ!」
鶴の一声が私たちの緊張を破った。
「む、村紗……」
「今さ、真剣勝負の途中……なんだよね……ちょっと、静かにしてくんないかな……!」
「村紗おまえ! 今度は顔が真っ青だ!」
「そりゃ……元からだよ……! フゥーッ……フゥーッ……けどねぇ、土蜘蛛……一つ教えといてあげるけど……フゥーッ……」
村紗もまた今やヤマメと同じく蒸気のような熱い吐息を切れ切れ吐き出し続けながら、それでも、疫病にうなされているとは思えない強靭な意思の篭った声を振り絞って叫んでる。
「船乗りは、病原菌じゃあ殺せない……船乗りが真に恐るる病……何か知ってるかい……!」
「え……」
瞬間、さっきまで優勢だったヤマメの気迫が目に見えて引き下がる。
わからないんだ。疫病の専門家である彼女にもわからない問い。病原菌じゃない病気……なんだ? 船乗りが真に恐れる病気?
ギャンブル依存症……じゃないよな……?
「そいつはビタミンC欠乏症候群……ふ、ふふっ……壊血病……! ウィルスでかかる病気なんざ……! 船乗りにゃ痛くも痒くもないんだよっ!」
それは。
身内贔屓を差し引いてなおその理屈は、正直言って、意味不明だった。
しかし兎も角もヤマメは、その手の甲が机上に打ち付けられるよりも前に彼女は――負けていた。村紗の気迫に。凄みに。
それからわずかに遅れて「ドン」と渇いた音がした。
静寂。
世界のすべての音が死に絶えてしまったかのような無音。
けれど。
次の瞬間に歓声が、爆発した。
「「「「「「うおおおおおおおおおおおおおおお!」」」」」」
それはまさしく地鳴りの如し。
浅い呼吸を繰り返していた村紗が、ふと我に返ったようにこっちを振り向く。
「ほら、信じてよかった」
私がなにか言い返す前に村紗は勢いよく立ち上がり、正にこの期を待っていたかのように力強く、強く、強く、めいっぱい力強く、右腕を、振り上げた。
「「「「「「ムーラーサ! ムーラーサ!」」」」」」
会場に響く村紗コールに欠片ほどの恥じらいも見せず、片足をどかりと机の上に叩きつけ、ただただ彼女は腕を天に突き上げ続ける。
「「「「「「ムーラーサ! ムーラーサ!」」」」」」
その影でヤマメは呆れたように息を吐き出すと、ひらりと軽く手を振った。それが村紗の疫病を解除する合図だったのか、それとも「付き合ってらんないわ」のジェスチャだったのか……私は知らない。
パルスィがヤマメの胸ぐらに掴みかかって「どーすんのよ! 私のへそくりぃい!」とかなんとか叫んでる。橋姫もへそくりを貯めるのか。収入源はなんなんだ。あまり考えないほうがいいような気がした。
「「「「「「ムーラーサ! ムーラーサ!」」」」」」
「「「「「「ムーラーサ! ムーラーサ!」」」」」」
「「「「「「ムーラーサ! ムーラーサ!」」」」」」
割れんばかりの村紗コールはいつに止むとも知れずに続く。続く。放っておいたら永遠に続くんじゃないかとさえ思える。村紗もそれを望んでいるんじゃないかと。
だけど。
「そこまで」
壇上から響く声。吉弔八千慧だ。
けして高圧的な声じゃない。乱暴でもないし、あくまで平静、ごくごく静かに発せられた声。そう聞こえる。
でも。
あれ程の熱狂に包まれていた会場が、今はもう水を打ったように静かになっている。
その様を満足気に見渡し、彼女は続ける。
「さて。準決勝の勝者は……船幽霊・村紗水蜜。おめでとう。そしてこれで、決勝戦のカードが決まったわ」
決勝戦!
そうだ、すっかり雰囲気に飲まれて忘れてたけど、今のはあくまで準決勝。まだ何も終わっちゃいない。
「村紗、やれるのか? 少し休憩を挟んでもらっても……」
「大丈夫。むしろすこぶる調子がいいわ。たぶんヤマメが押し付けた病と一緒に諸々持ってってくれたんだと思う」
「そ、そうだヤマメ! パルスィ! あいつらどこへ――」
慌てて彼女たちの姿を探すが、土蜘蛛も、橋姫も、既にどこにも見当たらなかった。
まあ半ば八百長に近いことをしてたわけだし、長居するだけ彼女らには損だろう。しかし逃げ足の早い二人だ。さすが旧地獄で生き残ってきただけのことはある。
「それよりオッズはどうなってる?」
「あ、うん。ええと……うおっ!?」
見間違えかと思ったけどそうじゃない。目をこすっても、瞬きを何度したところで、壇上に張り出された配当金の倍率は揺るぎなかった。
準決勝が始まる前までは、500%だった。でもヤマメが敗退し、そしてもう片方のカードでも誰か一人が敗退した。その分丸ごと上乗せされ……いや違う。次は決勝戦なんだから、その相手の分も既に入ってるはず。そのうえで今の配当金倍率は……
「ごせんぱーせんと……! 5000%だ! 元の賭け金の50倍だよ村紗!」
「じゃ、つまり」
「私たちへの配当は5億円!」
「あっはは。こりゃ目標額をオーバーしちゃうな」
「いやでも……ご、ごおくて……どーすんのさそんな大金!」
「どうするもこうするも、言ったでしょ? 期待値で殴るには元手が多けりゃ多いほどいいって。ふふ。五億背負って賭場に行ってご覧。駒草太夫もさすがに慌てるだろうな!」
「そりゃどんな奴でも慌てるだろーよ……」
「ところで……決勝戦の相手って、誰なの? ちっとも知らないんだけど」
言われてから気がつく。
それは……考えてみると変だった。さっきの村紗とヤマメの試合。あの熱狂。あの興奮。まさにその津波のような流れに呑まれて忘れてたけど、裏側ではもう一つの準決勝をしていたはずなんだ。
でも、その割にはなんの様子も伝わってこなかった。よっぽどのシケ試合だったのか?
などと考えていると、私たちの反対側の群衆が蠢き、聖者の奇跡のように道ができる。その最奥。まさに我こそは聖者でございとでも言いたげな、ボロ布を目深に被った人物が、ゆっくりとこちらに近づいてきていた。
「な、なんだあいつ……」
「決勝の相手、かな」
かつ、かつ、かつ、かつと卓の向こう端まで来ると、そいつは、ゆっくりとボロ布を脱ぎ捨てる。
群衆の視線が殺到するのは、私たちの視線が咄嗟に向かったのは、当然、その素顔。
だが。
「私は」
だが、素顔は結局伺い知れなかった。
つるのっぺりとした黄金色の仮面に阻まれて。
「私は希望仮面だ」
さざ波のようなひそひそ笑いが群衆の隙間を駆け抜けていく。
呆気にとられている私たちを他所に、自称・希望仮面は卓上へそっと肘をつく。
「さあ、決勝戦を始めよう。どうか退屈させないでくれよ」
少なくとも女だ。女の声だ。それと長い黒髪。スラリと高い長身。こんな奴旧地獄に居たかな……?
「ええと、その子供が作ったみたいな下手くそなお面は、脱がないの? 力はいらないんだけど……あ、そういう作戦?」
村紗の遠慮もへったくれも無い問いかけに観客が凍りつく。
(あいつ、言いやがった……)
そんな針の筵みたいな雰囲気の上で、自称・希望仮面は肩を震わせ、突如声を荒らげる。不審者だ。完全に不審者だ!
「な、なに!? 下手くそなお面だと!? これは太子様が……ごほごほっ……これはさる高名なお方が作りしありがたいお面なんだぞ! そして私こそは希望の面に祝福されし希望仮面! 正装である仮面を外すわけが無い!」
こっちを振り返った村紗の白けた瞳。まあ、気持ちはわかる。痛いほどわかる。せっかく決勝戦まで来て、これじゃなあ。
「ナズ、この人頭が」
「しっ! そっとしといてやりなよ」
「でもさぁ……」
「他人の心配をしてる場合かい?」
白けた雰囲気が、たったその一言によって引き締まった。
とにかく……とにかく油断しないことだ。過程はどうあれ村紗は決勝戦まで勝ち抜いた。このまま優勝を手にする権利は、その資格は、きっと十分すぎるほどにある!
あと怖いのは油断だけ。勝てる勝負を落とすこと。それさえなければきっと、きっと勝てる。
「村紗! 勝てよ! 絶対だぞ!」
「ええ!」
「五億だからな! わ、私にもちょっと、チーズとか買ってくれよ!?」
「当然! チーズと言わずナズの食べたいものなんでも買ってあげるから!」
「うん! 頑張れ! 頑張れ村紗! 頑張れよ!」
頑張れ。頑張れって、そう励ますしかできない自分がもどかしい。
いや、いや、元々の種銭は私が稼いだんだ。べつに遠慮する必要なんか無いはずだ。
それでも……今は村紗の背中が頼もしい。いつもと同じ村紗の背中が。
「ではでは~~、位置について~~~~」
カワウソ霊の気の抜けた声。
村紗と、ええと、希望仮面が、互いの右手を固く掴む。
「はっけよーい…………」
始まる。村紗の最後の勝負。
私は覚悟を決める。たとえこの勝負、勝ったとしても負けたとしても……最後まで見届けようと。村紗の勇姿を!
「「どん!」」
◯
天は長く、地は久し。天長地久。
天地の継続は永遠の所作であり、物事がいつまでも続いて、続いて、永遠無限に絶えることのないということの例え。
でも……人間って奴は矛盾した生き物で、それとはすっかり反対の言葉もたくさん生み出してきた。
例えば、諸行無常。
どんなものでもいつかは滅びるって考え。仏教思想の根本原理。
でもここがまた難しいところで……仏道はまた同時にこうも説く。万物は流転する、と。
全ては滅び去るのか? それとも全てはつながっていて、永遠に滅びることがないのか?
わからない。既にちっともわからない。
だがここでさらに話をややこしくするのが、少なくとも仏弟子の最終目標は解脱だってこと。うーん、やっぱりわからない。解脱は永遠なのか? それとも永遠から離脱してしまうのだから、それは諸行無常のうちなのか? この世は天長地久なのか? それとも一夜の幻に過ぎないのか?
もちろん聖に聞けば何らかの筋の通った答えが返ってくるのだろう。
でも……それは聖の考え方でしかない。聖は尊敬できる人物だけど、聖の言ってることがすべての正解じゃない……よね? いつだって答えは自分で見つけなきゃいけない。それが生きていくってことなんだから。
それで。
ええと。
だからつまり。
どうしてこんなことを考えてるんだっけ?
「あ……」
そうだ、思い出した。私たちは、私と村紗は、旧地獄の腕相撲大会に参加して……それで、ヤマメとの激戦を制して……それから?
それから、決勝戦が始まった。妙な仮面をした、希望仮面とかいうふざけた奴が相手で。
「え……?」
それで。
それで?
それで……カワウソ霊の行司がはっけよいして。
ドン。
「はぁ。最後まであっけなかったな」
ドンって。そう聞こえた。手の甲が机に叩きつけられる音。勝負が決した音。
……思考が現実に戻ってくる。私の目の前では、村紗が手の甲を机に付けたままぽかんと口を開けている。
たぶん、私も同じように口を開けている。
きっとその場の誰もが。
先程とはまったく別質の静寂。
「私の勝ちだ。つまらん」
その静寂をものともせずに希望仮面が村紗に背を向ける。
凍りついていた時が動き出す。急速に。
「な、なんだ今の」
「なにがあった!?」
「わかんない、でも一瞬で」
「船幽霊の負け……だよな!?」
「あの仮面野郎、これまでの勝負も全部一瞬だったんだ」
「信じらんねえ」
めいめい好き勝手にしゃべくりあう中、またしても吉弔八千慧の声が響く。
キイン、と甲高いノイズの音。
「あー、只今の勝負の決着を持ちまして、本大会の優勝者が決定しました。優勝者は……はぁ……希望仮面さんです。おめでとうございます。配当金と副賞を授与しますので、壇上へどうぞ」
最初のハイテンションなアナウンスが嘘のように他人行儀な早口。
まるでさっさと大会をお開きにしたいとでもいうような、抑揚のない淡々とした声が拡張されてよく響く。
「……壇上へどうぞ。どうぞ、希望仮面さん! 希望仮面さん!! ちょっと聞こえてんの!? ねえ! さっさと来ないか! くろっ……希望仮面!」
「うるせえ」
「あぁ!?」
突然にブチギレる吉弔八千慧に会場が後ずさる。しかりただ一人、希望仮面だけが壇上を鋭く(仮面越しなので推定)見据えて動かなかった。
「話が違うぞ、八千慧」
「やち……」
「強い奴と戦えると聞いたから、こんな旧地獄くんだりまで来てやったんだ。おまえのくだらん作戦にも乗ってやった。だが!」
「ちょ、あいつ何言って……」
「だがなぁ! ぜんぜん! 強い奴なんていないじゃないか!? あの船幽霊にはちょっと期待してたんだが、それも呆気ないもんだった! どうしてくれるんだ! 八千慧!!」
「カ、カワウソ共! あのバカ黙らせろ! はやく!」
凄まじい勢いでカワウソ霊たちが希望仮面に殺到するが、瞬き一つする間にそのすべてが弾き飛ばされていた。
一方その間も怯えて様子をうかがっていた会場の妖怪たちが、しかし徐々に、目の前で繰り広げられている光景の意味を理解し始める。
希望仮面。謎の最強アームレスラー。しかし優勝に喜び震えるでもなく、そいつは胴元たる吉弔八千慧と口喧嘩を初めた。あたかも……最初からお互い知り合いだったかのように。
おまけに「強い奴と戦えると聞いたから」だの「おまえのくだらん作戦にも乗ってやった」だの。
もはや隠しようもない事実。
「グルだったんだ……」
誰かがポツリと漏らしたその言葉が、全ての答えだった。
「ふざけんな!」
「優勝者と主催者がグルだったんだ!」
「八百長だ!」
「賞金を独り占めする気だったんだろ!」
「金返せ!」
当然に吹き荒れる罵詈雑言の嵐に、しかし吉弔八千慧もまた怯まない。怯むどころかさらにキンキンノイズを爆裂に響かせて、もはや隠す気もなく怒声を振りまく。
「やかましい! なにが八百長だって!? あんた達の誰も! あのバカ早鬼に勝てなかったのが悪いんでしょうが! 自分の弱さを棚に上げて言いがかりつけんじゃないわよ!」
「八千慧! 強者はどこだ! 約束を守れ!」
「金返せー!」「八百長! 八百長!」
なんだかもう滅茶苦茶だ。そんな中でも唯一わかるのは、これ以上ここに居てもろくな目に会わないってことだった。
未だに硬直してる村紗の肩をゆすり、なんとか魂を現世に呼び戻す。まだ逝くな村紗。幽霊が放心したら成仏だぞそれは!
「村紗! おい村紗! 逃げよう!」
「う、うん」
「なあしっかりしてくれ! 金は無くなったが、借金返済まではあと一日あるんだろ! 私も手伝ってやるから今は――」
瞬間、凄まじい閃光と爆音が頭上で響き渡った。
乱れ飛ぶ瓦礫、悲鳴、まるで太陽がすぐそこに落っこちてきたみたいな異常な事態。
「こ、今度はなによ!?」
吉弔の困惑に満ちた悲鳴に呼応するかのように、会場の頭上、降り注ぐ太陽のような火の玉の中からはつらつとした声が響いて渡る。
「そこのゴロツキ妖怪どもぉー! その場を動いちゃダメだよ! あなた達には不法求婚の権利が認められている! あ、いや、不法入魂のヨモギがかけられている! あー、うーん、なんだったかな……」
「ちょいちょい、不法入国の嫌疑」
「えへへ、ありがとお燐。ええと……そう! あなた達には不法入国と不法賭博行為の嫌疑がかけられている! さとり様の命によりあなた達を地霊殿に連行する! 動けば撃つ! 動かなかったら撃たない! 私やさしい!」
群衆の中から「地霊殿の八咫烏だ!」という悲鳴が聞こえた。地霊殿の八咫烏って……核融合の力を与えられたっていうあいつ……?
それがなんでこんなとこに、とか、動けないならどうしろっていうんだ、とか……もうそういう一つ一つの疑問に答えてくれる者は、そういう余裕と知恵を持ったやつは、おそらくこの場所には一人もいない。
私は私で放心状態の村紗をなんとか引っ張っていこうとして、こいつがまたビクともしなかった。
せめて、せめて時間が欲しい。皆が落ち着けるまでの時間が。
でも事態は一層ますますノンストップでカオスの縁まで突っ込んでいく流れの中にあるらしく、吉弔八千慧の引きつった表情、恐怖とパニックに震える妖怪たち、八咫烏とその肩に乗った黒猫、そして、そこへ向け飛び出していく希望仮面の黒い黒い黒い翼――
「見つけた! 貴様強者だろう! 戦え! さあ戦え! 私と殺し合おう! 死ぬまで殺し合おう!」
「うわなにあれキモっ!?」
「ちょ、お空、ストップ! ストップ! 撃っちゃダメだ! ああ、バカ――」
バカ。
たぶん、きっと、おそらく。
そのたった二文字のシンプルな言葉が、何よりも雄弁に私たちの置かれた状況を言い表していた。
ああ。
バカ……。
◯
……。
…………ええと。ここは天国じゃない、よね?
すぅ。
はぁ。
息を吸う。
吐き出す。
口の中に灰の味。
身を起こすと、灰にまみれた瓦礫がぼろぼろと足元に落ちていく。
辺りは見渡す限り瓦礫と灰の荒野。
まあ……天国って感じじゃないよな。これは。どちらかというと地獄に近い。まあ旧地獄だから間違ってはいないけど。
「うぅ、ジャリジャリする……」
ぺっぺと口内の異物を吐き出してから、ようやく遅れて現実感が取り戻され始める。
そうだ、こんなことしてる場合じゃない! 村紗は。村紗は無事なのか!?
「村紗!」
「生きてるよ」
直ぐ側の灰山から真っ白になった船幽霊が身を起こす。
とにかく……はぁ……肩の力が抜ける。とにかく生還した。あのしっちゃかめっちゃかの戦場から。
「……帰ろっか」
「……そうだね」
私たちはトボトボと灰色の地平線を目指す。向こうの中心市街に灯った光がぼんやりと、不知火のように薄明るく見えた。
ざく、ざく、ざく。
互いに何も言わない。
ざく、ざく、ざく、ざく、ざく、ざく。
何も言わずに歩き続ける。
ざく、ざく、ざく、ざく、ざく、ざく、ざく、ざく、ざく……どさっ。
気がつくと、また灰の味がした。
「ナズ!? 大丈夫!?」
「う、ごめん……なんかに躓いて……」
「ほら、掴まって」
「立てるよ一人で。それより村紗も気をつけなよ。妙な出っ張りがそこら中に散らばってるから……」
出っ張り。
村紗の紺碧の瞳がするすると足元にスライドしていく。
その出っ張りに。
「ナズ」
出っ張りを、拾い上げる。
おおよそ直方体の、しかし雲母のように薄く剥がれやすい要素で構成された、出っ張りを。
ぺらり。
村紗がその一枚を剥がして、旧地獄の薄暗い空に透かして見せた。
あの腕相撲大会会場に確かにたくさん存在し、そして私たちと同様最後の爆発で吹き飛ばされてきた、それは――
「お札だ」
まあ。
ある種の連中にとってすればやっぱりそこは、天国のような場所だったのかも知れない。
もっとも……私たちが去ったその場を訪れたところで、たぶん、たった一つの出っ張りさえ残されていないと思うけど。
【Day3:吹けよ風、呼べよ嵐】
一億。
九千九百九十九万九千九百九十九の次で、一億一よりひとつ前。
千の二乗で、百の四乗で、十の八乗。
そうやって定量的な理解をすることは簡単だけど……じゃあ、それが「多い」のか「少ない」のか。「大きい数」なのか「小さい数」なのか。それはとても難しい問題だ。
例えば命蓮寺という組織全体からすれば、一億程度は別に……重要じゃないとは言わないが、しかしその存続を決定的に左右するほどの額じゃない(聖がいくら清廉潔白だったとしても、事実としてお寺ってのは金持ちだ。御主人様もいるし)。
つまり……金銭とは、金銭の価値とは、とどのつまり誰がどう使うかに左右されるってこと。
命蓮寺という組織にとっては一億なんてその収益の一部に過ぎず、しかし私がチーズを買う分には一億は素晴らしい大金だ。
でもそんなのは基本、単なる夢想に過ぎない。暇つぶしの空想。考えたって実際に大金が降って湧いてくるわけじゃない。
だが、今。
目の前にその一億円がある。ちょっと灰まみれだけど、とにかく一億円がある。
「ナズ」
最初に一千万を管理していた小さな桐箱では入り切らなかったので、旧地獄で適当に調達した鞄に収めてある。
ちょっと見ただけでは私たちが持つそれは、妖怪の山に登山でも行くのかなって、そんな格好でしかない。
「村紗」
「ナズ……」
「む、村紗……」
私たちはダウジング用セーフハウス小屋の中で二人、一億円を挟んで向かい合っている。
歪んだ窓から差し込む朝陽。もう夜が明ける。短くも長い旧地獄での一日は、今はもう枕元の悪夢の一つとしか思えない。
「偶然じゃ、ないよね」
「さあ……どうだろう」
曖昧に答えると、突然に村紗のまなじりに力がこもる。
「偶然じゃない! これは、ナズ。あなたの力だよ! あなたのダウザーとしての才能が! 私たちを一億円に導いたんだ!」
「うん……自分でも信じられないけど……」
理論上はそうだ。
一昨日の一千万。昨日の一億。わらしべ長者じゃないんだ。鼠も歩けば棒に当たるって、そう何事もうまく行ったりはしない。
偶然を超えた運命。必然。私達の目の前にあるのは、たぶん、そういうもの。村紗が首肯く。
「ナズ。あなたには流れがある」
「流れ?」
「そう。私たちは今、流れの中にいる。あるいは追い風を受けて進んでいる。もしくはこう言いかえてもいい。私たちは『ツイてる』」
「ようするにただ運が良かったってことか。まあ私も同じ意見――」
「違う!」
狭い小屋に大声が響く。ドン、と村紗の両手が札束を叩きつけた。
「流れはただそこにある。運が良いとか悪いとかじゃない。人間や妖怪の思惑なんて気にせずただただひたすら流れは流れのままに流れてる」
「哲学的だな……」
「いや、これはすごく現実的な話。重要なのはね、ナズ。すこぶる重要なことは。流れを掴み、その流れに乗って進むこと……それこそが船乗りの腕の『よしあし』なんだよ。良い風が吹いたのは『たまたま』かもしれない。でも、その風を良いと理解し、良いと判断した自分自身を信じ、その良い風に乗って勢いをつけることは、技量だ。それこそ船乗りがもっともその真価を問われる瞬間なんだ。最良の船乗りはどんな流れも乗りこなす。逆に、流れに呑まれて死んじまう船乗りはヘボだ。例外はない」
「お、おまえ、目が怖いぞ」
「ナズ。ここにある一億は偶然の産物じゃない。あなたもそれは納得するはず」
「う、うん」
「そして私はこれを、あなたと私の能力の証明だと考えてる。私たちはツイてた。良い風に背を押された。素晴らしい流れに乗った。だがそうすると決めたのは私たちの意思だ。それは単に舞い上がるような上昇気流に流されるだけの怠惰なカラスとはぜんぜん違う。私たちはカモメだよ。海風を乗りこなし、大陸から大陸へと渡っていく。私たちは勇敢な旅人だ。勇気あるマドロスなんだ!」
「……ようするに」
ぐいっと村紗を押しのけ、ようやく息ができる。
今日の村紗は……いや、一昨日からの村紗は変だ。おかしい。気色悪いと言ってもいい。
でもそれは彼女が変わったのではなくて、私が村紗水蜜という存在を知らなかったのだろう。
結局、こいつはどこまで行っても船乗りだってことだ。仏弟子となってなお博打をして、酒を飲んで、生臭も平気で食うのは……例えどんなに聖の言葉が、教えが、人徳がこいつの中に「仏弟子」としての領域を育てたところで、ついにそれが船乗りとしての村紗水蜜を消滅させることなどできやしないってことだ。
彼女の心の半分は命蓮寺にある。でもきっともう半分は、未だ海のどこかを彷徨っている。それが船幽霊という……いや、それが船乗りというもののサガなんだろう。
「村紗、おまえは海を愛してるのか」
「は?」
突然の問いに間抜けた声があがる。恥ずかしいけど、もう出した手を引っ込められない。
「いや……ど、どうなんだ!?」
「どうって……どうだろう。海に繰り出していくのは好きだよ。でも同時に海は敵でもある。船乗りの日々は、海っていうバカでかい魔物との闘争の日々みたいなもんだからね。まあ仮に、仮にどこかの誰かが海を愛してたとしても、一つだけ確かなことは、海はそいつを愛したりしないってことだ。ただそこにあるだけ。奴が身じろぎすれば甲板を磨く新入りが死に、奴が起き抜けに『のび』をしたならベテランの船乗りが波間に食われる。そういうものだから」
「そうか……だから博打をしたり酒を飲んだりするのか? そんな過酷な世界にいるから?」
「……さあね」
「村紗、やっぱりこの一億を持って賭場に行くつもりなのか」
「……そりゃ、そうでしょ。そのためにナズにも付き合ってもらったんだから」
「いや私が付き合ったのはおまえの借金返済のためだぞ!?」
「そうだっけ?」
「そうだよ! もともと一千万稼いだら終わりのつもりだったんだぞ! なのに村紗の口車に乗せられてその十倍も……」
村紗水蜜の紺碧の瞳。それが私を見つめている。見つめているが、見つめていない。
彼女は今でもはるか遠い水平線を見つめているのだろうか。千変万化する波の轟を聞いているのだろうか。海という魔物に命を奪われてからずっと、ずっと。
「村紗……博打ってことは、この一億がさらに増える可能性もあるってことだよな」
「そりゃね」
「どうするつもりなんだ。聖に寄進でもする気か?」
「馬鹿言うなよ。どうやって説明する気なんだ。いくら私でも聖に面と向かって博打で稼いだ金渡すほどじゃないよ」
「じゃあ貯金でもするのか」
「貯金ねえ……」
「そもそもおまえ、なんのためにギャンブルをしてるんだ。生活に困ってるわけでもないのに」
「そりゃ……したいからしてんだよ。金のやり取りはおまけみたいなもんだ。私は別に奪い合うものが札束だろうと、どんぐりの山だろうと、指だろうと目だろうと互いの命だろうと、本質的にはなんでもいいのさ。しかしあまり価値のないものを賭けても身が入らない。あまり取り返しのつかないものだと打ち手がいない。その点で、金はチップにちょうどいいってこと。少なくとも勝てば酒代になる」
「無茶苦茶だ。狂ってる。そんなの破滅願望者としか思えない」
「……いいよ、ナズ。べつにそこまで理解してもらいたいなんて思ってない。ただあなたにはあと一日。今日が終わるまで、私のすることを見逃してもらいたい。ただそれだけ」
「もうここまで関わっちゃったら告げ口もできないよ。私も共犯……というか主犯だし。ただ約束は守れよな。明日から君は清廉潔白な仏弟子になるんだ。わかってるよな!?」
「もちろん! はぁー……ありがとう、ナズ。今まで知らなかったけど、あなたけっこういい奴ね」
「おまえはとんでもない奴だ。村紗水蜜」
「ふふ……さて、そろそろ行こうか。駒草太夫の賭博が開く時間だ」
そして、私たちはセーフハウスを後にする。賭場へと向かう。
でも……それは私自身の意思なのだろうか?
それともなにか大いなる、逆らいようのない流れにただただ流されているだけなのか?
村紗、おまえはどうなんだ?
おまえはちゃんとこの大波を乗りこなせているのか?
村紗……。
◯
駒草太夫の仕切る賭場には、昨日の旧地獄腕相撲大会と同質の据えた熱気に満ちてはいたが、一方でまったく別質の雰囲気が漂ってもいた。パリッとした、思わず居住まいを正したくなるような雰囲気が。
それはやはり、賭場の奥で煙管を吹かす駒草太夫という妖怪個人の放つ気質……オーラ。そういうもののせいなのだろう。
勝負の熱に浮かされた賭場の中、ただ彼女の座る地点だけが、まるで氷の彫像を配したみたいに温度が低い。
「へぇ。もう戻ってきたのかい、船幽霊」
駒草の切れ長な瞳がいっそうに細まり、私たちを睨めつける。
それだけで足がすくむ。見えない壁がそこにあるみたいに私は前に進めなくなる。
だが、
「村紗だ。村紗水蜜」
村紗は不可視のプレッシャーを意にも介さず、ずかずかと駒草太夫を見下ろせる位置までゆくと、どかりとそこに腰を下ろした。
「あんたと勝負しに来た」
それを受けて駒草は笑うでもなく、白けるでもなく、ただジッと手元の煙管を咥え、射殺すような眼光だけを村紗へと向け……それから、永遠にも感じられるゆったりとした仕草でもって、濃い紫煙を口元から吐き出した。
村紗は例の鞄をひっつかみ、誇示するようにその中身を開く。
野次馬からどよめきが漏れるが、駒草は視線を村紗から逸らさない。
「一億ある」
「ダメだ」
「は?」
「それはあんたの金じゃないだろ」
「なにを……」
「そっちのお嬢さんの金だ。違うかい」
水を向けられて思わず頷いてしまう。まあ連戦連敗の村紗が一億すぐに用意できるとは思わないよな……。
駒草が指を鳴らすと、部下の一人が紙と筆、それと墨を持ってくる。村紗の眉根がひそまった。
「なんだよこれ」
「借用書だ。船幽霊、あんたはそこのお嬢さんから一億を『借りて』打つんだ。一筆したためてもらうよ」
「あのー、わ、私は別に構わないけど――」
「ダメだ」
「ぴぃ……」
「ただでさえこの頃、博打関係のトラブルが多いって巫女やお山からせっつかれてんのさ。その殆どはうちと関わりのない、無届の賭場だがね。そういうところは無茶な賭け方をさせても気にしない。胴元の頭にあるのは自分の儲けだけさ。そうとも知らず破滅するまで賭けちまった連中が野に流れ、時に人間を襲う」
私は一昨日に遭遇した誘拐犯妖怪のことを思い出した。あいつもまたギャンブルの負けからとんでもないことをやらかしていた。
てっきりあいつは、駒草の賭場で負けたのかと思ってたが……おそらくあの旧地獄で見た鬼傑組の賭場のような、もっとえげつない連中に搾り取られたんだろう。
村紗もそういう事情を聞かされては断れない。いや、最初っから断る気も無かったかも知れない。どうせこいつには勝負のことしか見えてない。
筆を執りながら村紗は、しかしきっちり嫌味を言うことだけは忘れなかった。
「天下の駒草太夫ともあろうものが随分と小心なんだな」
しかし駒草もさしたるもので、涼しい顔でそれを受け流す。
「そう、私は小心者だよ。博徒ってのは小心すぎるくらいで丁度いいのさ。勇者は勝ち方も派手だが、負け方も派手だ。そして消えていく。あんたのように」
「ふん……」
「こないだの一千万くらいなら命蓮寺から搾り取るのも良かったが、一億ともなると私の責任も問われてくるんだよ。だからこういうことはきっちりやらないとね」
「残念だけどそれは杞憂だ。勝つのは私」
「ふふ……そいつぁサイの目次第だな……」
さらさらと筆の走る音だけが奏でられ、村紗が借用書を駒草に突きつける。
「書いた! これでいいか!」
「私じゃなくてそっちのお嬢さんに渡しとくれ」
「……ナズ!」
「あーはいはい」
押し付けられた紙切れをざっと一瞥する。蟻ん子の軍隊みたいに細かい字だ。読んでるだけで目が悪くなりそうだった。
「ええと……私[村紗水蜜]は現金[一億]円を[ナズーリン]様から借用いたします。返済期日及び利息の歩合はうんぬんかんぬん……」
「もういいでしょ!? さっさと始めよう、駒草太夫。勝負の熱が冷める前に」
「この程度で冷めちまう熱なら今すぐ帰ったほうがいい」
「減らず口を!」
バチバチと飛び散る火花。見世物のにおいを嗅ぎつけて他の博徒たちがわらわらと集まってくる。背が低い私はその群れに呑まれないので必死だった。
「丁半でいいんだね。あの晩にあんたが負けた丁半で」
「当然そのつもりだ」
そしてなんとか最前列に陣取った私は、ふと違和感に襲われる。
丁半博打とはその名が示す通り、二つのサイ(サイコロ)の出目が丁(偶数)か半(奇数)かを当てる賭博だ。もちろん確率は丁も半も二分の一。どちらが有利不利ということはない。
金の張り方はいろいろあるが、今回は村紗と駒草の一騎打ち。つまり勝ったほうが負けた方の賭け金をそのまま奪うことになる。
で。
問題は丁半博打という遊戯の特性……勝ち負けの確率はそれぞれ二分の一で、勝てば収支プラス100%、負ければマイナス100%になる。引き分けはない。
その期待値は……ゼロだ。
期待値がゼロということは、長く賭ければ賭けるほど、勝ちも負けも積もらずとんとんに落ち着いていくってことを意味してる。
……村紗、おまえ言ってることが違わないか? 期待値有利なギャンブルを潤沢な資金で勝ち切るって、そういう作戦じゃなかったのか?
「典! ツボとサイを!」
私の疑問は顧みられず世界は、時は、無常にも進み続ける。
駒草の声に合わせ、真っ白い衣装を纏った獣人が一人現れた。まるで最初からそこにいたかのように。
金髪の、狐のような耳と尻尾を携えた彼女がにこりと私たちに微笑む。
「どーも。ツボ振りの菅牧典と申します。ヨロシク」
「あ、あなたお山の管狐……またなんか企んでるの?」
「いやぁ私はただのバイトですよ。今回はなんの企みもなし。人手が足りないからねぇ。賭場も、このお話も……こーん」
「はぁ……」
とりあえずこいつは信用ならない。
村紗の助けにはなれないが、せめてイカサマが無いかしっかり見張っておこう。
もっとも彼女自身は、誰がツボを振るかなんて気にもとめていないようだが。おそらく駒草太夫ただ一人以外なら誰でもいいんだろう。天使だろうと悪魔だろうと鬼だろうと蛇だろうと、何人であれ、自分の勝負の邪魔はさせない……そんな気迫を隠すこともなく全身から放っていた。
「では、第一戦目だ。本来はサイを振ってから賭けるんだが、私らの場合コマ(※賭け額を示す札のこと)を揃える必要もない。最初に決めておこう。いくら賭けるんだね?」
村紗は口を開かず、ただ黙って鞄の中の札束を一つ掴むと、それを茣蓙の上に放り投げた。駒草太夫が微笑む。
「一千万か。あの夜おまえさんが負けた一千万」
「……そうだ」
「てっきり最初から一億勝負かと思ってたよ」
「風向きも読まずに船出するほど私はバカじゃない」
「ふふふ……」
「それより、受けるのか? 受けないのか!?」
駒草が再び指を鳴らす。部下たちが忙しなく動き、その背後に札束が積まれていく。一億など優に超す量の札束が。
「当然、受けるさ。お客様が心ゆくまで遊べるよう取り計らうのが私の仕事だからね」
「それではお二方、よろしいですね?」
典に向けて駒草が悠然と頷く。村紗もまた力強く首肯する。
「ではツボ、振らせていただきます」
典の細い指がツボを掴み、片方の手がその中へサイを放り込む。
ツボが茣蓙に伏せられる。
管狐は両目を閉じ、流麗な仕草でツボを伏せたまま素早く数度動かした。チリンチリンと中のサイの転がる音。
誰もなにも言わない。
ただ固唾をのんで典の手元を見守っている。
その手の動きが止まる。何人にも窺い知ることは出来ないが、今この瞬間、サイの出目が決まった。
典が顔を上げ、見開いた瞳で村紗と駒草を交互に見やる。
「どうぞ」
すかさず、村紗が叫んだ。
「丁!」
駒草がそれに呼応する。
「なら私は半だ」
典が頷く。
「では……勝負」
ツボが開かれる。
その場にあるであろう累計数百の瞳が、その視線が、一斉に同じ場所へと注がれる。村紗の顔もまたサイの方を向く。駒草だけが対面の村紗を睨めつけ続けている。
そして、サイの目は……黒丸が三つのものと、四つのもの……つまり。
「出目は半! シソウ(※4・3)の半!」
半。つまり……駒草の勝ちだ。
煙管の紫煙を吐き出しながら彼女は遠慮無しに村紗の札束を掴み、手元へと引き寄せる。
村紗はただその仕草をじっと見ている。まなじりを決したまま、微動だにせず。
「どうやら、私の勝ちみたいだね」
村紗は答えず、また札束を一つ鞄から放り投げた。
少なくとも……自棄になってる風じゃない。村紗はずっとこの調子。しかし平静というわけでもない。体の内側に燃えたってやまない熱い熱い何かを必死に閉じ込めている……余計に口を開くとたちまちそれが逃げていってしまう……そんな感じだった。
「二戦目も一千万勝負か。つまりあとこれを九回繰り返したら終わりだな」
村紗がやはり応えないのを見て、駒草が肩を竦める。その目が典に向い、管狐はまたツボとサイを構えた。
「ではツボ、振らせていただきます」
再び進行していく厳格な儀式的プロセス。
同じ夢を見させられているかのような酩酊感。
デジャブ。
典の手が静止する。
「丁!」
合図される前に村紗が宣言した。
「半だ」
駒草の宣言が続く。
「では……勝負」
ツボが開かれる。出目は
「出目は半! ゴロク(※5・6)の半!」
またしても駒草の宣言した半。
一千万の札束が容赦なく取り上げられ、彼女の背後に積まれた金の山に加わる。
村紗はその金の行く末をちらりとも見ない。
ただ、また、一千万の札束を場に出す。そうすることしかできぬ機械のように彼女は同じことを繰り返す。
駒草の側もそれを咎めたりはしない。
典が再びツボとサイを構える。
儀式が進行する。
村紗はただ「丁」と発し、駒草が「半」と応じる。
まるで阿吽の呼吸。二人がそうすることで何かしらの呪術が進行していると、あたかもそう錯覚するほどに同じ光景が繰り返される。
異なるのはただ、賽の目だけ。
「出目はイチニ(※1・2)! イチニの半!」
札束が消える。
村紗が金を出す。
サイが振られる。
「イチロク(※1・6)の半! 出目は半!」
金が消える。
村紗は次も頑なに丁を宣言し続ける。
またサイが振られる。出目は彼女に微笑まない。金が消える。
悪夢を見ているかのようだった。繰り返す悪夢に囚われているような錯覚。
これで……既に五連敗だ。つまり負け分は五千万。満杯だった鞄は既に半ばの内容を失い、みっともなくクタりとヘタってる。
いったい……何が起きてるんだ? イカサマか? あの鬼傑組の賭場のように、駒草と典がグルなのか?
しかし私の胸元のペンデュラムに反応はない。ずっと私はイカサマを「探してる」。もしその兆候があれば、私の探しているものが見つかれば、ペンデュラムは絶対に反応する。
だが、美しい青の宝石は先程からぴくりとも動かない。
イカサマは無い。
村紗はただ負けているんだ。ただただ五回連続の二者択一を外しただけ。それがこの場で起きていること。それが……現実。
「さて」
黙って金を出そうとする村紗。
その手を、ついに駒草が押し留めた。
「もういい加減にしたらどうだい、船幽霊」
ぴくりと村紗が顔を上げる。立ち昇っていく煙管の紫煙。
「何が言いたい」
「あんたに貸しつけてある廻銭、一千万。それだけ置いてもう帰ったらどうかって言ってんのさ」
「私の金をどう使おうが私の勝手だ」
稼いだのは私だけど。
とはいえ村紗は借用書まで切っている。今あの場にある金は間違いなく村紗の金だ。
駒草が深いため息を吐き出す。
典はただ次の指示を待って、その場に淑やかに正座したまま動かない。
「はぁ……仕方がないねえ。確かに船乗りってのは博打狂が多い。それはなぜか?」
問いかけられても村紗は答えを言わない。知っていて言わないのか、それとも彼女にさえわからないのか。
駒草の瞳がするりと動き、私の方を見る。
「お嬢さんにはわかるかい?」
私はだまってかぶりを振る。村紗にも答えられないものをどうして私が答えられよう。
駒草が煙管を吸い込み、天に向かって煙を吐き出す。
「それはね、船乗りが明日をも知れぬ身の上だからだ。波に飲まれて死ぬ。風に彷徨って死ぬ。壊血病で死ぬ。海賊に襲われて死ぬ。ただただ死ぬ。無意味に死ぬ。時に、船乗りの命は船板一枚よりなお軽くなる。まさにそうして海に命を取られたあんたなら、船幽霊のあんたなら、よく知ってることだろう?」
誰もがじっと押し黙って駒草の言葉を聞いている。
村紗は……どんな表情をしてるだろう? 私から見えるのは背中だけだ。真っ白い背中は何も語ってくれない。
「だからおまえさんたち船乗りは、明後日より明日に、明日より今日に生きちまう。それが船乗りのサガ。どうせあの世に金は持っていけない。なら命あるうちに使っちまえ。ふふ……おまえさんらは負けたがりなのさ。負けて金を失いたい。金を持ったまま死にたくないから。とどのつまりは破滅願望者……ふふふふ……」
同じだ。
それは私の抱いた村紗への印象と同じ。
破滅願望者。
だってそうとしか考えられない。駒草の言った通りだ。村紗は金を失いたがっているようにしか見えない。もちろん結果的に儲けが出ることだってあるだろう。でも……あらゆる博打は胴元が有利になるようにできている。つまり長く打てば打つほど……それこそ厳格な確率と期待値の魔術により、絶対に損をするのが博打打ちの運命だ。
そんなことがわからないほど村紗はバカじゃないはずだ。
つまりわかっていながらやってるんだ。
そうだとすると……やっぱり、破滅願望者としか思えない。
ドサリ。
重いものが投げ出される音が一つ、響いた。
村紗の残金五千万。それが茣蓙の上に投げ出された。鞄ごと。
「……最後の大勝負ってわけかい。本当に聞き分けのない奴だねぇ。典!」
呼ばれた典がまたツボとサイを構える。が、そこに割ってはいる声。村紗の声。
「まだだ」
「なに?」
「まだ賭け金が出揃ってない」
駒草が煙管を咥え、典に「待て」と手で示した。
私は……怖かった。
村紗の声は抑揚を完全に欠いた、死人の発する声のようだった。もちろん村紗は既に死んでるけど、彼女の声音は生者よりも感情の色に富んでいる。この三日間、私はそれをよくよく思い知った。
だけど今のは。
今のは生き物の出していい声じゃなかった。むしろ生者を死の底へ引きずり込もうとするかのような声。
じゃあ、引きずり込まれようとしてるのは……誰だ? 駒草太夫か? それとも――
「私たちが賭けるのは五千万じゃない。五億だ」
「ふぅーー……阿呆もここまで来るといっそ憐れになるね。そんな金がどこにある?」
「金はない」
「なら……」
「そっちは金でいい。だから、私の足りない四億と五千万円分。なんでもいい。あんたの望むものを賭ける。それで勝負をしよう。最後の大勝負を」
「……っち」
舌打ちが一つ。それは、駒草太夫が初めて見せた生の感情らしい感情。
彼女が煙管を構える。そこから吐き出される濃い紫色の煙が村紗に絡みつく。
無論、その場の誰もが知っていた。駒草太夫の能力。彼女の煙管は精神を操作する力を持つ。
単に……村紗が熱くなりすぎているのだと、そう判断したのだろう。呆れるほど見てきたはずの数多の敗残者たちと同じように。
だが。
「なっ……効いてないのかい!?」
村紗水蜜は動かなかった。
おそらく、あの揺るぎない紺碧の瞳でもって駒草太夫を見据えているのだろう。
村紗。
なぜだ?
なぜおまえはそうまでする?
私との約束を守るためじゃあないだろう? 最後の博打だからって、こんなのやりすぎだ。残る五千万を賭けるだけならまだしも、その十倍……いや、具体的に何倍とか何円とか、そんなのは重要なことじゃない。
狂ってる。そうとしか思えない。村紗は狂ってるんだ。
いや……そうなのか?
確かに客観的に見ればこれは狂気の沙汰だ。博打狂いの末期的症状。手の施しようもない、死に至る病。
でも、私の知っている村紗は……今までは知らなかった、でも、この三日間の間に見てきた村紗は……こんな狂気の身投げで破滅を望むような奴だったろうか?
駒草の頬をひと粒の汗がつたってゆく。その口元がわずかに、歪んだ。
「い……いいだろう。そこまで死にたいのなら、しかたない。どうせ博打狂いは手の施しようがない人種さ。このまま他所様に迷惑をかけるくらいなら、せめて私が看取ってやるのが駒草太夫の矜持じゃないか。なあ、船幽霊……」
「あなたの矜持はどうでもいい。具体的に私は何を賭けたらいい? 悪いけど臓器一式は持ち合わせがない。それ以外にしてくれると、助かるわ」
「ふふ……偉そうに……」
駒草太夫が煙管を吸い込む。さすがに向こうも百戦錬磨の博徒。冷や汗は先のが最初で最後だった。
震え一つ無い手で煙管を口からのけると、彼女は静かな声で答えた。
「ま……体だな。どうせ他に財産があるようにも見えない。体で払ってもらうより他にないだろ」
発した声がさらに彼女の平静さを呼び戻したらしい。
一旦は崩れかけた駒草の威圧感。それが今や完全に取り戻されている。恐ろしい奴……。
「この賭場の遥か地下。私の知り合いが頭をやってる鉱山がある。詳しくは語るまいが、村紗、あんたが負けたらそこで働いてもらう。力には自信あるんだろ? 船乗りから、出家者を経て、鉱夫へ。なんともまあ数奇な人生じゃないか。いや、もう死んでるんだったかな」
「私はそれで構わない」
「そうか。それは良かった。しかしどうにも安月給だからね、四億五千万も稼ぐとなると……典! 年に50万ずつ返済するとして、どれくらいかかるかな?」
すかさず管狐が答える。
「九百年です」
「そうか。ちょいとキリが悪いな。金利分も含めて一千年としようか。うん、格安だねこれは」
満足気に頷く駒草太夫を、その場の誰もが言葉を失ったまま見つめていた。
一千年。
軽々と見積もられたその年月は、奇しくも、私たちが聖復活のため地下に潜伏していた期間とほぼ同じだった。
だからわかる。
一千年という時間の重み。その気の遠くなるような長さ。
バカげてる。どう考えたってバカげてる話だ。
私にはもう我慢できなかった。
「お……おい! 村紗! おま、おまえ! おまえなあ! いい加減にしろよ!」
「ナズ?」
「何考えてるんだよ!? ま、負けたら千年だぞ!? 千年間も地下から出られないんだぞ!? いいのか!? そ、そんなのいいのかよ!?」
「そりゃ……よくないよ。もう地下はこりごり」
「じゃあどうしてっ」
「負けたらの話でしょ。あくまで負けたらの話。勝てば問題ない。勝てば、五億だ」
「なっ……なにが五億だよ!? これが例え十億でも百億でも百兆でもダメだろ! だいたい何が金なんだよ! いらないだろ金なんて! 駒草太夫の言う通りだ! 一千万を返して終わりにしよう! それで帰ろう! 帰ろうよ! 村紗!」
「ナズ……心配してくれてるの?」
「当たり前だろ!? わた、私は嫌だ! 一千年もおまえだけまた地下に閉じ込められるなんて嫌だ! せ、せっかく仲良くなったじゃないか! この三日間! こんなに村紗と話したの私初めてだった!」
それが何だっていうのか。だからどうしたっていうのか。
私にさえ私が何を言ってるのかよくわからない。
それでも叫ばずにはいられなかった。村紗の襟首を掴んで、ばつの悪そうな顔をするこいつに言葉を投げつけるくらいしか私にはできなかった。
「だいたい! だいたい、聖のことはどうするんだ! 一輪は、ぬえは! 御主人様になんて説明したらいい! あいつ博打に負けて千年ほど帰ってきませんって、そんなのでみんなが納得すると思うのか!? ぜ、ぜんぶ私にやらせる気か!? 嫌だからな! そんなの嫌だから!」
「げほっ、待って、ナズ待って……苦しい、苦しいってば」
「あ……」
力を込めすぎていた。
手を放すと、ゲホゲホと村紗が咳き込む。
それから彼女はゆっくりと息を吸い込み、吐き出すと、あの紺碧の瞳で私を見上げた。
「ナズ。私も悪いとは思ってる。ここまであなたを巻き込んでしまうなんて、予想してなかった」
「ん……」
「ええとね……まあ、いろいろ言うべきことはあるんだろうけど……」
数秒、彼女の瞳が虚空を彷徨う。
それからまた私の方を見つめ直した。
「さっきの駒草の問い、覚えてる?」
「え? あ、どうして船乗りが博打するかって話?」
「そう。そんなこと、駒草太夫に言われるまでもなく私はずっと考えてたよ。考えてたけど、答えは見つからなかった。見つからない中でそれでも、どんなに聖のことを尊敬していても、博打をするのを辞められなかった」
それは依存症だからだ。思わず茶化したくなるのを堪える。村紗は、村紗の言葉は、これまでとは違う彼女のなにか深い地点から引き出されたもののように聞こえる。
茶化したくなるのは、怖いからだ。私は逃げたかった。私は臆病な鼠だ。
でも今は……村紗水蜜の友達でもある。
「一つだけ確かなのは、私たちが賭けをするのは破滅願望なんかじゃないってこと」
「うん……」
「わかりかけてたんだ。一千万の負債を作った夜。私は、私を追い立てるものの正体を掴みかけていた。でもあの日はそこまでだった。金が尽きたから。海門までたどり着いたのに船は風に煽られ、沖に再び流されてしまったんだ」
「……だから私に頼ったんだな。負債分の一千万だけじゃなく、種銭が欲しかったから……いや違う。探してたんだな。村紗の探してるもの、その答え……それを私に探してもらいたかったんだな!? ダウザーである私に!」
「ん、まあ、そこまでは考えてなかったけど」
「なんだよ!?」
「でも確かに、ナズのおかげだ。ナズのおかげでここまでこれた。そしてほんのついさっき……私自身の全てを茣蓙の上に広げた瞬間ようやく……ようやくわかったんだ。いや、わかったというと正確じゃない。ようやく私は……納得できたんだ」
波の音がする。
波が岸壁を打ち砕く音がする。
村紗の言葉は続く。もう誰もそこに口を挟めない。私も、管狐も、駒草太夫でさえも、誰も。
「私たちが賭けをするのは生きるためだ」
波の音。ざぶん、ざぶん。
押し寄せてくる。押し寄せてくるのは海だ。
海。途方もない海。これが村紗のいつも見据えているもの……?
「海に挑むことは……それは、運を試すことなんだ。私たちはツボの中のサイ。海というツボの中でどんな目が出るのか……そうだ。私たちはいつでも賭けてる。自分の命を賭け続けてる。賭場も、海も、私たちにとっては同じこと。博打の流れは運の流れで、運の流れは海の流れだ。でも船乗りは死にたがりじゃない。その職業的使命として海の流れに打ち勝つことが義務であり、誇りであり、日常で、そして――だから……! 私たちは生きるために勝つ! 勝つってことは生きるってことだ。理不尽な海の暴威にさえ打ち勝つのが最も誇り高き船乗りという種族なんだ!」
村紗の言っていることは、正直、よくわからなかった。もとより伝えるための言葉ではないんだろう。
自分が納得するための言葉。
自分を納得させるための言葉。
それは自分を理解するための対話。
村紗が語りかけているのは私たちじゃない。村紗自身なんだ。
管狐が悲鳴をあげる。その足元を冷たい潮が洗っていた。
「ひ、駒草さんこれ……! これなんなんですか!」
「心象風景……船幽霊の内側がこっちを侵食し始めている……」
いつしか私たちは広大な海原に取り囲まれていた。
海原の中に頼りなく突き出た六畳ばかりの岩場の上で、ツボとサイと金の乗った茣蓙を囲んでいた。
野次馬たちの姿は見えない。代わりに、岩場の端に座礁した無惨な船の死骸がある。
それは……村紗という人間の最後に見た風景なのだろうか? それとも全然に関係ないただのイメージなのか。
波の音と風の音、潮のにおいの吹き荒れる中、ただただ村紗の言葉だけが続いていく。
「たしかに、私は負けた。抗いようのない流れに呑まれ呑まれてボロ切れみたいに命を落とした。そうだ! 私は負けた! だけど……だから……! だからもう、二度と負けたくない! だって負けたらゴミだ。船乗りは生きて戻ってこないとダメなんだ! だから私は勝つ! 勝って、勝ったら、そうしたら! 私は……!」
もしかしたら……村紗は受け入れられていないのかもしれない。自分の死を、じゃない。私らはもういい加減にそんな歳じゃない。ただ、自分が負けたことが受け入れられない……大いなる流れにただただ押し流されるだけだった、弱い人間としての村紗を、あいつ自身が受け入れられてないのかもしれない。
だから賭ける。自分の流れを知るために。自分を取り囲んでいる流れを見極めるために。
そして……そしてどうするんだ? いまさら過去の死が、かつての敗北が無かったことになるわけじゃない。
そもそも駒草太夫は海じゃない。駒草に勝っても海に勝ったことにはならない。
あるいは全然別なのか? 別の理由なのか? どうなんだ、村紗……?
しかし彼女は答えてくれない。だから結局……私にできるのは有り得そうな可能性をあれこれあげてみることだけ。
それでも。
それでも一つだけ、恐ろしい考えが急速に私の中で頭をもたげていた。
村紗が負けることじゃない。たしかに千年は長いが、あくまで幻想郷の中での話。こっちから会いに行くことだってできる。私たちは待てる。待っていればいつかはまた戻って来る。所詮は、その程度の話。
それよりも恐ろしいのは。
もっとも恐ろしかったのは……村紗が勝つこと。村紗が証明してしまうこと。
何をって……それはわからない。強さかも知れない。運勢かもしれない。私には思いも寄らないことなのかもしれない。
わからない。どこまで行っても他人は他人だ。覚でもあるまいし、心の内側までは覗けない。
でもとにかく村紗は何かを証明しようとしてる。何かを……じゃあ、その後は? 村紗が「それ」を証明できてしまったら、その時、いったいどうなる? 破滅を賭けてまで辞められないほどの強烈な、村紗水蜜の抱えた深遠な鬱憤が氷解してしまったら?
村紗……?
「駒草山如。勝負を再開しよう」
「……いいだろう、船幽霊。いや……村紗水蜜。その勝負受けて立つ。典!」
菅牧典がツボとサイを構える。とんでもないことに巻き込まれてしまった、とべそをかいた顔が訴えている。
それでも彼女は己の仕事を遂行した。この場で茶地な仕事など許されないという空気を、勘の良い管狐はきっと敏感に感じ取っていた。
「で、ではツボ……振らせていただきます!」
潮騒の叫びの中にサイの転がる音が響く。
だが村紗も、駒草も、ツボを一瞥しようとすらしない。まるで先に目を逸らしたほうが負けるとでも言うように、ただじっと、お互いを睨めつけ続けている。
典がサイを振り終える。運命が決する。あのツボの内側。そこは流れの終着点。この丁半の、この三日間の私と村紗の……いや、ともするとこの千年間の村紗が過ごしてきた流れのすべてが、あのツボの暗闇の中でサイの出目となり、後はただ、日の目を浴びる時を待つだけとなった。
ごくりと息を呑んだのは典か、それとも私なのか……。
「どうぞ!」
「丁だ!」
「半!」
村紗が賭けたのは丁だ。すでに五連敗を喫した丁。あくまでも丁。
でも……私は少し安心していた。考えてみれば村紗は今、流れに恵まれていない。そうだ。流れだ。もしもそんなものが本当にあるとして、村紗は既に五連敗……良い流れのハズがないだろう。
しかも五回連続で丁に拘り、その上での連敗だ。これはもう最悪。悪運の中にいると知りながら自らそこに嵌り続けるような行為じゃないか。典型的な破滅者のパターン。
村紗は勝てない。そんな予感がした。
そうとも勝てるわけがない。既に村紗は最悪の流れに呑まれかけている。ツキが無いんだ。きっとあのツボの中の出目は半だ。六回連続の半。そういう流れ。断ち切りようのない――
「あ」
瞬間、胸元に熱い反応が生じた。まばゆく青い輝きを放つ私のペンデュラム。私の探しものが見つかったことを示す宝玉の光。
流れ。
断ち切りようのない流れ。
それを……村紗が承知していないなんてこと、あるのか?
だって村紗は船乗りだ。船乗りとは流れを読み、流れを乗りこなす生き物だ。それをこんな、私でもわかる悪い流れに目を瞑って一千年の苦行を賭けて……そんなのおかしくないか?
逆だとしたら?
この流れこそが村紗の望んだものだとしたら?
そう、だって、村紗はさっき言ってたじゃないか。抗いようのない流れに呑まれてボロ切れみたいに命を落としたって。それって似ている。この状況に似ている。
村紗は流れに呑まれて負け続けている。かつての、海に命を奪われた村紗のように。
だが今、村紗はここにいる。荒れ狂う波と風の中、揺るぎなき意志を燃やして再びにその「最悪の流れ」と相対している。
わざとなのか?
村紗はわざと最悪の流れを……そしてそれに打ち勝つこと……過去を否定するかのように……それが村紗の望み……?
「ダメだ、村紗……」
そもそも。
そもそも村紗に流れは本当にないのか?
考えてみればこの三日間、村紗はずっと勝ち続けてないか?
もちろん誘拐犯妖怪に殴り飛ばされたり、ヤマメに病を押し付けられたり、希望仮面に一瞬で敗れたり、良いことばかりじゃなかった。それでも最後は手に入れてる。金を。
今だって、五連敗と言うと縁起でもないようだけど、仮にこの勝負で勝てば負け分は吹き飛ぶ。
流れ。
最後には望むものを手にする流れ……?
「ダメだよ、もう帰ろう。帰ろう、村紗……!」
そもそもで言えば、そもそも、おかしくないか? 五回連続の半。もちろんそれはあり得ることだ。そういうことはある。ただの確率だ。丁が出る確率も半が出る確率も純粋な五割。二分の一。揺るがない。例えこれまで一億回連続で半が出たとして、その過去は未来を左右しない。
しない、はずだ。
だが……そもそも。そもそもだ、そもそもからおかしかったんだ。一昨日から私の能力は絶好調だった。それは「私の」調子がいいんだと思ってた。
そうじゃないとしたら?
それは「誰の」調子がよかったんだ?
それは……ひょっとしたら「誰か」の流れ……大いなる流れに流された結果だったんじゃないのか?
村紗水蜜は今、どんな流れの中にいる……?
「村紗!」
私の言葉は届かない。波にかき消されて届かない。
そして――ようやく気がついた。原因は私なんだって。私が村紗の口車に乗ったことが全ての流れの始まり。それが全ての間違いだったんだと。
しかしもう遅い。なにもかもが遅すぎた。
きっと村紗は勝つだろう。勝ってしまうのだろう。その後にどうなるかなんてわかりっこない。でも――怖かった。ただただ怖かった。誰でもいいから助けてほしかった。
誰でもいい。
誰でもいいんだ。
だからお願い。どうか助けて。どうか……村紗を助けてやってくれ……どうか!
「では、勝――」
その時。
これまでにない強烈な反応が、胸元のペンデュラムから迸った。先程とは比較にならないほどの眩しい光。
典がツボに手をかける。
運命が決する。流れは底に至り、そして、
「その勝負待った!」
管狐の手が止まった。
私たちは駒草太夫の賭場に居た。海も、波も、風も、嵐のような流れも、今やどこにも見当たらなかった。
見開かれた駒草太夫と管狐の瞳。私の瞳が、闖入者を見上げた。
凛とした声が、静寂の賭場に響いた。
「駒草殿。無理難題とは承知の上で何卒お頼み申し上げます。この命蓮寺本尊・当代毘沙門天代理寅丸星の顔をたて、どうかこの勝負、無かったことにしていただきたい」
立っていたのは寅丸星――私の御主人様。
虎の目がちらと私を見つめ、わずかにその相好が崩れる。けれどすぐまた険しい顔色が戻る。
その中で唯一振り返らなかったのは、船幽霊、村紗水蜜。しかしついに弾かれたように立ち上がると、御主人様に掴みかかった。
「星!? なんだってここに……いやそんなことどうでもいい! なぜ止める!? 殺されたいのか!?」
「村紗。あなたの意見は聞いてない。この賭場の仕切りはあくまで駒草殿。彼女が認めてくれさえすれば、そのツボを開く必要は無くなる」
「巫山戯るなよ! 千年間! 千年間待ってようやく巡ってきた機会なんだ! それを! どうしてそれを止める! いや最初から星に止める権利なんか無い! 管狐! そのツボを開けろ! 今すぐに!」
震え上がった菅牧典がツボを開こうとするのを、駒草の右手が押し留めた。典がはっと我に返る。
「……毘沙門天様といえば我ら博徒のご本尊。拝む相手に拝まれちゃあ聞き入れないわけにもいきますまい」
にやりと笑った駒草がツボを滅茶苦茶にかき回す。からからと儚い音が響き、先程までこの場の全ての者の命運を握っていた賽の目は、ついに永遠にわからなくなった。
愕然として崩れ落ちる村紗。
御主人様が深々と頭を下げる。
「感謝……申し上げます」
「毘沙門天の御代理様、どうか頭をお上げください。ただ、しかし……一度卓上に出た金とは最早誰のものでもない天の取り分にございます。この場を丸く収めるためにも、胴元たる我々が責任を持って後程天にお返し申し上げる……ということを、どうかご承知いただけませんかね?」
「無論、構いません」
「ではこの場はこれにてお開きに。またのお越しをお待ちしております」
ゆるりと駒草太夫が立ち去り、管狐もまた逃げるように去っていく。野次馬たちもああだのこうだの言いながら、めいめい賭場を後にする。
そして残されたのは村紗と、御主人様。それと私だけ。
「村紗。顔を上げなさい」
スネた猫みたいになった村紗が御主人様から目を逸らし続ける。その目元は真っ赤だった。船幽霊なのに。
「村紗」
「……なに」
そして彼女が根負けして振り向いた瞬間、ぱん、と渇いた音が鳴った。
信じられないって顔の村紗。私も信じられなかった。今のは御主人様の……ビンタ?
「な、なにすん――」
「これで不問です」
「え……か、賭けのこと?」
「違います」
「じゃあなに」
「私の大切なナズーリンを誑かし、あまつさえ怖い目に合わせたことです」
御主人様の口調は淡々としているが、それがかえって恐ろしかった。
パンパンに詰まっていた村紗の殺気と気迫が徐々に萎んでいく。
御主人様がこんなに怒っているとこ、初めて見たな……。
「賭けのことは、最初から問いただすつもりはありません」
「そ、そうなの?」
「永遠亭の方々から聞きました。ギャンブル依存症は病気なのだそうです。そして、治療すれば治るのだそうです」
「え」
村紗の表情が凍りつく。御主人様の喜色満面な顔色。
「村紗。治療、がんばりましょうね。でもきっと大丈夫ですよ。あなたは強い船乗りなんですから」
「ちょ、ちょっとま、待って。待って!」
「待ちません」
「お願い星! せめて話を聞いて! 私が賭けをするのは生きるためで、だからその、つまり――」
「待ちません」
「た、助けて! 嫌だ! 助けてナズっ! ナズーリンっっ!」
その時私は、たぶん世界知らん顔選手権があったら優勝できそうなくらい完全な知らん顔をしていたと思う。
今やあらゆる流れは完全に消え去っていた。気がつけばこの三日間で稼いだお金も綺麗さっぱり無くなって……結局、私たちは全てを失った。
後に残ったのはただ、凪いだ世界。
清々しい気分だった。
【Day EX:エピローグ あるいは シャボン玉は弾ける瞬間虹の涙を流す】
「……なるほどね。それでこの頃、村紗の奴を見かけなかったんだ」
命蓮寺。
取り戻された日常はまたたくまに過ぎ去っていき、その有難みも今や目を凝らさないと見えないほどに薄れてしまった。
封獣ぬえは手にしたシャボン玉の吹き具を退屈そうにくわえると、見事なシャボン玉を一つ作り出す。
ふわふわと青空の下を飛んでいく虹色のバブルを、どこか既視感を抱きながら私は目だけで追いかけた。
「うん。ギャンブル依存症治療プログラムってのがあるみたいで、向こう半年は竹林から出られないんだってさ」
「ふーん。まあ半年で済んで良かったじゃん。下手すりゃ一千年も地下ぐらしだったんでしょ」
「まあ、ね」
あの後、駒草太夫の賭場から戻った後に生じたしっちゃかめっちゃかすってんてんな騒動について……聖のお説教とか、なんとかかんとか……そういうものについては、語るまい。ていうか語りたくない。
ぬえが吹き具をシャボン液にしゃぼしゃぼする音。流行ってるの? それ……。
「やっぱさぁ。元人間だよねぇ、村紗も。私にゃわかんないな。自分が死んだ時のこととか知らんし」
「一輪も聖も元人間だけど」
「だからよくわかんないよ、みんなのこと。もっと自由に気ままに生きたら良いのに」
それでいいのか。せめて聖のことは理解しようとするべきじゃないのか。
言いたいことはいろいろあったけど、めんどくさいので黙っておく。
ぶくぶくと空に放たれるシャボン玉。それが風に吹かれてパチンパチンと虹の涙を流しては消えていく。
諸行無常。
「にしても結局……村紗は最後までナズーリンに頼りきりだったわけか。こりゃ寺のパワーバランスも変わるね。村紗最下位。山彦以下」
それ元の私の位置どこだったんだ。怖いから聞けなかった。
「いやまあ、最後は私なにもしてないよ。御主人様が来てくれなかったらどうなってたか……」
「あれ? そうなの?」
不思議そうに首をかしげるぬえ。
「星が来たのはナズーリンの力でしょ?」
「え?」
そうなの?
今度は私も首をかしげる。二人で疑問符をもてあそんでから、ぬえが吹き具を寄越す。いや、いらないから。
「だって……そうでしょ? 星が賭場に自分から行く理由、無いじゃん」
「それは村紗に博打をやめさせるために……」
「いや、いや、だとしてもよ? 村紗がその日に賭場に行ってるかどうかなんて知るわけなくない? ましてあんたら三日間も留守にしてたんでしょ。それに星は寺の本尊なんだから、自分から出歩いたりしないよ」
「え……」
「最後の最後、土壇場で村紗のアホな企みに気がついたナズーリンが助けを求めたから……あんたの物探しの能力が発動して、星を呼び出した。そういうことじゃないの?」
「いやあり得ないだろ! じゃあなにか、私が御主人様を寺から賭場までワープさせたっていうのかい!? 無理だから! そういう能力じゃないからこれ!」
「ナズ」
にやり。封獣ぬえの口元が妖しく歪む。その雰囲気はさながら平安の大妖怪。手にシャボン液の容器を持ってさえなければ、だけど。
「あんたは自分が村紗の流れに巻き込まれたって思ってるみたいだけど……本当にそうなのかな? やっぱりそれは、ナズーリン自身の流れだったんじゃないの?」
「もう流れの話はしたくない……」
「だってさ。あんた最後に何もかも失ったって言ってたけど、そうじゃないでしょ」
「え?」
「はぁ……マジに気がついてないわけ? 欲がないと言うか善人というかお人好しというか間抜けというか……」
滅茶苦茶な罵倒をされつつ、ぬえがなにを言いたいのかわからない。
つん、と彼女の鋭い指先が私の額をつっついた。
「借用書。切らせたんでしょ? 村紗に」
「……あ!」
そうだ。たしかに村紗は私から一億を「借りて」打ったんだ。
どうせ返せる宛もないわけだし今まですっかり忘れてた。
やれやれとかぶりを振るぬえが、少しだけ、真面目な顔になる。
「依存症治療ってのが何してるかしらないけどさ、きっと村紗はまた博打をやるよ」
「……う、うん。だと思う」
「だからさ、ナズーリン。そん時は、あんたが止めるのよ。また口車に乗せられるんじゃなくて」
「私が?」
「そ。少なくとも一億円……いや、その時はきっと膨れ上がった利息で数十億円になってるだろう負債。それを返済し終えるまで、あいつに成仏なんてさせるんじゃないよ」
成仏。さらりと言ってのけた言葉が胸にずしりと重い。
やっぱりぬえもそう思うんだ。村紗は……もしもあのまま村紗が勝っていたら、あいつはきっと成仏してただろうって。
「な、なんか凄い悪役みたいだけど」
「だから! いざって時のとっておきさ。それまでしっかり保管しておきなよ」
「うん……でも、それでいいのかな? 村紗が望んでいるなら、私は別に」
つんつん、とまたしても指先に突っつかれる。
痛い。
「呑まれるなよ、あいつの流れに。自分の船は自分で舵を切るしか無い。そりゃ船乗りだろうとなかろうと変わらないよ。その点であいつは自意識過剰だし、あんたは卑屈すぎ」
「う……」
「ま、難しく考えることもないさ。友達が妙なことやろうとしたら止めてやる。普通のことだろ、それって」
「……う、うん。そうだな。そうかもしれない」
その時にふと、まだ一つだけシャボン玉が宙を漂っているのが見えた。
どこまでも高く、高く流されて、空の青と混ざって消えた。
しかしその船の乗組員が鼠だった場合……果たしてどうなるのだろうか?
これは私たちが億万長者になるまでの、たった三日間の物語だ。
そして……私たちがすべてを失うまでの物語だ。
【Day1:一千万円相当の】
「ナズはさ」
べつに……なにかきっかけがあるわけじゃなかった。
言うなれば単なる気まぐれ。
ほんの日々の雑談。
村紗水蜜は手にしたシャボン玉の吹き具を退屈そうにくわえると、見事なシャボン玉を一つ作り出した。
ふわふわと青空の下を飛んでいく虹色のバブル。
「財宝を見つける能力なんでしょ」
「そりゃ御主人様の能力だよ」
にべもなく否定されても村紗は意に介さない。
しゃぼしゃぼと吹き具を液に浸しながら、宙に浮くシャボン玉を見つめてる。
「星のは、なんていうか、違うじゃん。あいつのは集める能力でしょ。磁石みたいなもんで」
「同じだろ」
「違う。言うなりゃあいつは鉱山だ。つまり宝の山には違いないけど、そこから動かないって意味で。掘り出せる黄金の量は決まってる。たしかに財宝は集まるには集まるけど、そこには一定のペースがある。まだるっこしいくらいのペースがある」
「君、飲み過ぎじゃない?」
「飲んでない」
「もう……行っていいかな。子鼠たちにご飯をあげないと」
「あんたなんで自分のために力を使わないの?」
「は……」
食い下がる村紗の真剣な瞳。いや、真剣というそれは……
「村紗」
「あん?」
「私知ってるよ。君が駒草太夫の賭場にこっそり入り浸ってるってこと」
「ギク……」
だいたい村紗も一輪も素行不良が多すぎるんだ。御主人様がその監視を私に命じるのも、無理はない。
まあ監視のことは言うまいが。
「で、どれくらい負けた?」
「負けてない!」
やれやれだ。こんなこと聖に知れたら大目玉だな。報告をあげるべきかどうかでまた御主人様の胃が痛くなる。
しかしこっちもこっちでまあ、懲りない懲りない。
「うぅ、最後に勝ちゃいいのさ。そうすりゃ負けはゼロだ!」
「だが種銭が尽きた」
「う……そうだよ! その通り! だからナズお願い! 私のために――」
「断る」
ようするに。これは気まぐれでも雑談でも無かったってわけだ。最初から村紗は私の能力が目当てで待ち伏せてたんだ。
はぁ。どうしてそんな頼みが通ると思ったんだろう? ま、それだけ負けが込んでるってことか。
にしても、いやはや、博打に負けて同門に金の無心とは……聖が聞いたら大目玉どころか泣き出すよ。ほんとに。
「じゃあね船長。三途の川でバイトでもして稼いだらいいよ」
「ナズぅ! 友達を見捨てるの!? 土下座してまで頼んでるのに!」
「そういう問題じゃない。そもそも私の力はそんな便利なもんじゃないよ」
「お願いします! ナズ様仏様毘沙門天様! 後でどんな言う事でも聞きますから!」
「知るか」
「お山の借金取りがさぁ! 三日以内に金を返せなかったら寺にまで来るってんだよぉ! このままじゃ私破滅だぁあ!」
「そりゃ絵に描いたような自業自得――」
パチン。シャボン玉が弾ける。
その時確かに私の元へ天啓が降りた。
振り返ると、べそをかいた彼女と目が合った。
「本当にどんな事でもするのか?」
「え、いやまあ、それは言葉のあややと言うか……」
「どうなんだ!」
「す、するよ! 脱げと言うなら脱ぐ! 密航船に乗せろと言うなら――」
「私はべつに君の裸なんか見たくないし高跳びも夜逃げも考えてない! 私の要求は一つ!」
「う、うん」
「聖の弟子として相応しい態度を取ること!」
「うん……?」
「あのねぇ! 曲がりなりにも君は聖の最古参の弟子の一人なんだぞ! だというのに酒は飲むわ、船は沈めるわ、博打は打つわ! ついに私にまで頭を下げるほど落ちぶれて!」
「自己肯定感低いね……?」
やかましい!
「君がそんな調子では、いくら聖が稀に見る聖人でも求心力は下がる一方だ」
「そ、それはまあ、ぐうの音も出ない正論だけど」
「だけど?」
「ナズがそんなに聖を想ってるとは知らなんだわ」
「そりゃ……聖のことも尊敬はしてるけど! それだけじゃない! 聖が求心力を失うってことは! 御主人様への信仰にも悪影響が出るんだ! 君らの! せいで! 御主人様は! この頃! 胃腸薬が! 手放せないんだよ!! わかるか!? 虎が胃腸薬なんて笑い話にもならない!!」
「すみません……」
「はぁ……はぁ……そういうわけだから、村紗。君の借金分は働いてやる」
「ほんと!?」
「その代わりだ! その代わり、博打は金輪際するな!」
「え……」
ただでさえ悪い船幽霊の顔色が青くなる。青を超えていっそ碧色だ。
「酒も飲むな」
「そんな!」
「約束できるなら、なんとか金を集めてみる」
「うぅ……でもまあ、酒と博打が無くっても私には――」
「あと言うまでもないが船も沈めるなよ」
「鬼! 悪魔!」
「ここじゃ鬼も悪魔も見飽きてるだろ……で、どうなんだ」
「……わかったよ。約束する」
「よろしい」
「足元見やがって……」
「なにか言ったかなぁ?」
ふてくされた村紗はシャボン液をまた吹き具にたっぷりとつけると、ぶくぶくと泡を吐き出す。
秋の陽につかの間煌めいたそれは、不意に吹いたつむじ風によってぱちんぱちんと弾けて消えた。
……思えば。
後になって思えば、これがすべての間違いだったんだ。
私はすっかり得意になっていた。御主人様のお役に立てるとはりきりすぎてしまっていた。
しかし結局はただ村紗の口車に乗せられただけ……いや。村紗ですらきっと予期していなかっただろう。
まさか、あんなことになるなんて。
◯
「で、なんで君も着いてくるんだい……」
ダウジングロッドの調整をしながら私は、もう何度目かもわからないため息をつく。
周囲にふわふわと浮かぶシャボン玉が鬱陶しい。
「だって寺に居たくないしぃ。ぶくぶくぶく」
「ないしぃ、じゃない! 気が散るだろう」
「それにナズがやっぱり無理だってなったら、急いで別の手段を考えなきゃならないもん」
「ふん! もう少し自分の立場を弁えてから口を開くんだね。バカにして」
「べつにバカにしてるわけじゃないよぉ。あ、お茶を淹れようか? お菓子を買ってくる?」
「素寒貧のくせに」
そう言いつつも私は、なぜだろう、これまでの鼠生にないほどはつらつとした気分に満ちていた。
ダウジングロッドを構える。不思議と今ならどんなものでも見つけられそうな気がする。
きっと御主人様のお役に立てると、そう予感しているからに違いない。妖怪の強さはひとえに思う心の強さなんだから。
「村紗。負け分はいくらだい」
「……それ、言わなきゃダメ?」
「私の能力はあくまで物探しだ。イメージは強ければ強いほど、具体的であればあるほどいい」
しばらく村紗は黙り込んでいたが、やがて観念して口を開いた。
「一千万……」
「ばっ――」
バカじゃないの!?
そんな言葉さえ出てこない。どこの世界に一千万もスッちまう仏弟子がいるんだ!
「わ、わかってるよ。あの日はちょっと熱くなりすぎた」
「そういう問題なのか……?」
「しょうがないでしょ!? 船乗りってのは博打を打つ生き物なのよ! 博打をしない船乗りは船乗りなんて言えないわ!」
「なのに弱いんだな」
「ゔ」
それがトドメとなったのか、以降村紗は口をきかなくなった。
ま、このほうが静かでいい。私は瞳を閉ざし、意識をロッドに集中する。
(一千万……一千万……うぅ、ひどい守銭奴みたいだ……しかし考えようによってはこれも失せ物のようなもの……なにより御主人様のため……! さあロッドよ。私に道を指し示せ……ロッドよ……ロッドよ……!)
瞬間、痺れるような手応えが来た。その感触が逃げ去らぬうちに私は文字通り飛び出していく。村紗も慌てて着いてきた。
「どこへ!?」
「さあね! しかし強烈な手応えだ! こんなのは御主人様の宝塔を見つけ出したとき以来だよ!」
「すご! 三日と言わず一日で返済できちゃうじゃん!」
ロッドを握りしめた両手にビリビリと宝の反応が流れ込んでくる。
すごい。これが私の力なのか? 自分でも空恐ろしくなってくる。なにかの間違いなんじゃないかって――しかしそう思う頃にはもう、反応は目と鼻の先だった。
「ここだ!」
飛び降りたそこは、人間の郷の外れの辺り。粗末でボロっちいマタギ小屋が一つ、私達の前で風に揺れている。
紅潮していた村紗の気色が、急速にまた船幽霊色に戻っていった。
「ここだ、って……いやただのボロ小屋じゃん。ここに一千万相当の宝があるっての?」
「う、うん……そのはずだけど」
事実、ダウジングロッドは痛いくらいの反応を示している。
だが村紗の瞳は明らかに懐疑と失望に染まりかかっていた。
「ほんとに~? ナズ、私を改心させようと一芝居打ったんじゃないの~?」
「し、失礼なやつだな! 自分から頼んできたくせに……」
「やっぱあの疫病神に借金するしか無いかなぁ。それだけは嫌だったんだけどなぁ……」
「おい! まだハズレと決まったわけじゃない! 村紗!」
村紗はもう興味を失った瞳で空を眺め、シャボンをぶくぶくやり始めてる。
というか、ああ……あれはパイプの代わりなのか。今更に気がついた。たぶん愛用のマドロスパイプは真っ先に抵当に流れたんだろう。アホなやつだ。
「ふん。私は私の能力を信じてる。曲がりなりにも毘沙門天様のお力なんだぞ……」
村紗のことは放っておいて私はマタギ小屋に近づいてゆく。
こうなりゃ金も村紗の改心もどうでもいい。意地とプライドの問題だ。
一歩踏み出す毎に反応はますます強い。
必ずある。必ずあるんだ。このつまらないマタギ小屋の中に、私たちの探すものが必ず!
息を呑み、私は、小屋の中を覆い隠すボロ切れの仕切りにそっと手をかけた。
そして――
「え……」
目があった。
小屋の中に居たのは涙目の、人間の少女だった。
フリーズする思考。
猿ぐつわをされている彼女は声が出せないらしい。沈黙を、村紗の呑気な声が引き裂いた。
「タヌキの死骸でもあった?」
少女は両手足を麻縄で縛られている。ロッドが最高潮の反応を見せ、思考回路がリスタートした。
誘拐だ。しかしあの狭い人間の郷で、いったい誰が――
「んんんーっ!」
「ちょ、ちょっと待って。すぐ戒めを解いてやるから」
「は? ナズあんたなに言ってんの? タヌキならタヌキ汁にして食べちゃおーよ」
こいつほんとに仏弟子なのかよ!?
とにかく急いで猿ぐつわを外すと、少女が弾かれたように叫んだ。
「逃げて! よ、妖怪が! 妖怪が来るの!」
私達のこと――じゃ、ないよな。
冷や汗が吹き出す。ちくしょう、どこのどいつだ? 妖怪が人間を攫ったのか? 神隠し気取りにも? 巫女に殺されたい自殺志願者め!
「村紗逃げろ! ここに居るとマズ――」
遅かった。
べきょ、と妙な音がして、村紗が転がっていくのが見えた。
外はもう日が暮れかけている。
長い影が私たちに落ちる。
「カ、カカカカカ、カ、カネ……」
血走った目。獰猛な牙からしたたり落ちる粘液質な唾液。
顔も名前も知ったこっちゃない。まあ、あまり社交的な妖怪には見えないな……。
「カネがイルんだ……カ、カカカカカ、カネ! カネ寄越せ! 負けチマッタ……負けチマッタヨォ! カネ寄越せヨォ!」
「おまえもか!? ああもう! 私は頭脳労働担当なのに!」
吐き捨てたって役に立たない。どうあれやるしかないんだ。ここで逃げたなんて知られたら、聖の弟子(とも違うんだけど)が誘拐の被害者を見捨てたなんて知られたら、御主人様のためどころか足を引っ張ることになる!
覚悟を決めたてロッドを構えた。
けれど。
「カッ――」
吹っ飛んでいく誘拐犯妖怪。その直前に聞こえたのは、重々しい鈍器が骨を打ち据える音。
どすりと地に突き刺さる鋼鉄の錨が、夕暮れ色に輝いていた。
額からこぼれた赤いものを拭い、船幽霊の舌打ち一つ。
「村紗……だ、大丈夫なのか?」
「あの程度じゃ気絶もしないっつーの。ったく、彼我の力量差くらい見分けてから喧嘩売りなさいよ」
そのままズカズカと妖怪の元まで行くと村紗は、そいつの胸ぐら掴み上げ、嵐のように罵声を浴びせた。
私は黙って被害者少女の目と耳を塞いだ。
……暫くしてようやく解放され、這々の体で逃げ去っていく毛むくじゃらな背中。
その姿を見ることは二度と無かった。
◯
「ナズはさぁ」
村紗水蜜のニコニコ顔は気色悪い。その日私は心底どうでもいい新たな知識を得た。
私たちはまだあのマタギ小屋に居る。べつに居心地が良かったわけじゃない。他に行く宛が無かったからだ。こんなものを抱えていては、寺に戻るに戻れない。
「ほんとーーーーーーに優秀な毘沙門天様のお弟子様だねぇ」
「やめてくれそれ。蕁麻疹で死ぬ」
「いやぁ……えへへへ……うふふふ……」
こんなもの、と言ってもあの縛られていた少女のことじゃない。
村紗が誘拐犯妖怪をぶっ飛ばしてから入れ替わりのタイミングで、いかにも裕福そうな人間の男女が現れた。彼女の両親。べつに続柄はなんだっていいが……あの子は、郷じゃけっこう名のしれた長者の娘だったらしい。そういえば寺に来てるのを見たことがある気もする。どうも人間の顔ってのは覚えにくくていけない。
「しかし……私自身、こうも上手くいくとは思わなかったな」
さて。
事の顛末はこうだ。あの誘拐犯妖怪は(どこかのアホと同じく)賭場で負けが込んで、後がなくなった。そしてどうやったんだか知らないが、郷の長者の娘っ子を誘拐。身代金を要求したらしい。
その額、一千万。
私たちにとって幸いだったのは、その両親が耳を揃えて身代金を持ってきてくれたこと。そして、彼らが律儀に博麗の巫女への通報を控えていたこと。
なによりも。
「これはどうぞ、どうぞ、娘を助けていただいたお礼でございます。他にお礼のしようもございません。どうぞ、お受け取りくださいませんでしょうか」
そうして頭を下げたあの老夫婦の申し出を、どうして村紗が断るだろう?
かくして。
私たちの間には一つの桐箱が鎮座している。中身は当然、現ナマだ。一千万円相当の。
「まあ、なにはともあれだ。これで君の放蕩三昧もおしまいだな」
「ナズ!」
這い寄る船長。はぁ。こんなことになるだろうとは思った。
「ダメだ。約束しただろ」
「わかってる! もちろんわかってるよ。約束は守る。守るけど」
「けどもヘチマもない」
「でもね、ナズ。考えてもみて。一千万よ。それがここにあるんだよ」
「だから?」
「博打で絶対に負けない方法、知ってる?」
「知るか」
「十分な元手で賭けることよ! いい? 博打ってのは確率の遊戯なの。期待値ってもんを知ってる? その賭けでどれくらいの金額が平均して戻ってくるかってことが、厳密な数理的モデルによって導き出せるんだよ!」
暑苦しくすり寄ってくる村紗を押し退ける。熱のこもった口調。さっきの守銭奴妖怪とまったく同じ気配がした。博打狂の気配だ。博打で身を持ち崩すやつの気配。
「そんなご立派な理論があるなら、なぜ君は負けたんだ」
「それよ! まさに、それなの。期待値はあくまで確率。上振れることもあるし、下振れることもある。いわゆるツキとか流れってやつね。そのツキっていう突風に煽られると、予期せぬ流れに押し流されると、期待値的には楽に稼げるはずの博打でも負けたりするの。私みたいに」
最後の「私みたいに」というところを強調して、村紗はまくしたてるように続ける。
こいつがこんなにお喋りなところ、初めてみたかもしれない。
「で結局なにが言いたいわけ」
「だから! 十分な元手で賭ければ絶対に負けないわけ! 太く短く賭けると流れに左右された博打になる! でも、上振れも下振れも全部飲み込むくらいの元手があれば! どうなると思う!」
「さあ……」
「負けない! 絶対に勝てる! それが確率という魔術なのよ! 試行回数バンザイ! 確率バンザイ!」
「でも君は、少なくとも一千万円分は試行したんだろ。そして負けたんだ」
「うぐ……」
村紗の周囲に満ちていた熱気が急速冷凍される。わかりやすい奴め。
「さ、寺に戻ろう。どうせ君はもう博打をやらない清廉潔白な仏弟子になるんだから、その話も関係なかったね」
「一億!」
……鬼気迫る、という言葉はきっとこういう顔のことを言うんだろう。
爛々と輝く紺碧の瞳。そいつが二つ、私をギロリと見上げてる。
ひやり……冷たい汗が背筋をつたった。
「一千万じゃ足りなかった! だから一億! それだけあれば絶対に勝てる! あの駒草太夫に一泡吹かせてやるのよ!」
「……君、ちょっとおかしいんじゃないのか」
「船乗りはね、一度売られた喧嘩は溺れたって忘れないの」
「つ、付き合いきれないな。ただでさえ仏弟子が博打なんて論外なのに、そのうえ私的な復讐に手を貸すだなんて……」
「負けて終われないでしょ!」
「は……」
「ナズ、私ちゃんと約束は守るよ。守るからこそ、こんなことを頼んでいるの。だってもう二度と博打をしないんだよ? 人間の寿命ならそれも数十年の我慢だけど、私たちはあと何百年、何千年生きる? その間もずっとずっと我慢し続けるんだよ。あなたとの約束を守るために」
「村紗……」
「その悠久の時間をずっと、最後に負けたままだって後悔しながら過ごせっていうの? そんなのできるわけない。お釈迦様でも成仏できないわ」
信じられないほど不謹慎な発言だが、ともかく、そうまで言われると村紗の言うことにも一理ある気がしてくる。
ずずいっと凄む村紗に私は、思わずたじろいでしまった。
「ナズ、あなただって今後一生チーズ禁止だって言われたら、どうする?」
「い、一生チーズ禁止……?」
「ナズだって思うはず。最後に思い残しがないよう食べられるだけ食べておこうって」
「それは……まあ、そうかもしれないけど……しかし一億って! 私たちの持ってるのは一千万だぞ! 十分の一じゃないか! どっちにしろ足りない!」
「だから!」
ビシッ、と村紗の細い指先が私を示す。
ごくりと喉が鳴るのがわかった。大いなるバカバカしい流れが渦を伴って近づいてくる……そんな予感がしたからだ。
「借金返済までまだ二日の猶予がある。その間にナズ、なんとか一億に増やしてほしいの!」
「えー!? いくらなんでも無理だから! 千円を一万円にするんじゃないんだぞ!? 私のことなんだと思ってるんだよ!?」
「たしかに普通なら無理だと思う。でも今、私たちの手元には一千万がある」
「だから?」
「お金ってのは元手があるのとないのとじゃ、それを増やす難易度がぜんぜん違うのよ。たしかに無から一億手に入れるのは至難の業かもしれない。でも一千万を元手に一億を稼ぐのは、実は意外と難しくないの。現にあの夜だって丁に賭けときゃ――こほん」
わざとらしい咳払いを挟んでから、村紗がにこりと微笑む。
それは悪魔の微笑みだった。いや、紅魔館の当主に微笑まれたときより余程恐ろしかった……。
「今のあなたならきっとできる」
「そ、そりゃ確かに今日はすごく調子が良かったけど……あんまり無茶言わないでくれ!」
「でも現に、たった一日で一千万稼いだじゃない」
「稼いだんじゃない。見つけたんだ。ぜんぜん違う。たまたま一千万円分の事件が落ちてたんだ。偶然だ。何日も見つからない可能性だってあった。いや、探しても見つからない可能性のほうがずっと高い!」
「じゃあ探してみてよ」
……なんだか語るに落ちた気がする。村紗ってこんなに頭の回転が速かったっけ? 恐るべきは博打打ちの執念。
「探してみてダメだったら、私も諦めるから」
「……まあ、探すだけなら」
「さすがナズ! 持つべきものは友達ね!」
「ふん。もう私は君と縁を切りたくて仕方ない気分で――」
ため息をついてロッドを取る。
その瞬間――。
またしても、稲妻のような感覚が私の両手を打ち据えたのだった。
【Day2:一億円分相当の】
私って本当にかわいそうな鼠だ。
確かにあの時ダウジングロッドに反応があった。あったけど、何もそれをバカ正直に伝える必要なんて無かったのに。
湿っぽい風の吹き込む縦穴を降りていく私と村紗。いっそロッドの反応が間違いだったらよかったのに。そんな願いも虚しく、下に向かえば向かうほどに宝の反応は強くなっていた。
間違いない。この先にある。少なくとも一億円分相当の宝。しかしいったい何が?
「ねえ、この縦穴ってあれだよね」
「……みたいだね」
「旧地獄に繋がってるやつ」
「はあ……」
旧地獄。
そうだ。ここは旧地獄に繋がる洞穴。聖復活を企図し、無限にも思える雌伏の時を過ごしたあの旧地獄。
私はあそこが嫌いだった。酒と賭博と暴力が満ちた世界。まあ、小鼠たちにはいい環境だったけど。あと……村紗にも。
「懐かしいなあ。お、見えてきた! 相変わらず賑やかだね~」
「ロッドの反応はそっちじゃない」
「えー、あそこの地底湖魚屋美味しいのに。ね、ちょっと寄って行こうよー。あっちの百足串屋も……」
「村紗! 君のためにやってるんだぞ! 観光したいなら私は帰る!」
「ご、ごめんってば。ちょっと懐かしかっただけ」
「……ふん。君はここにいた頃から酒と博打ばかりだったもんな」
「そんなの一輪もじゃん!」
「ま、少なくともその破戒僧コンビの片割れは明日が命日なんだ。我慢もするよ。ふふふ……」
「こ、こわ……命日って私もう死んでるから……」
「と、反応はこの先だ」
ロッドの指し示しているのは、崩れかけの廃屋敷だった。こんな場所ここじゃ珍しくもない。旧地獄に「旧」が着く前は鬼の高官でも棲んでたんだろうが……今はもう見る影もないな。
「またボロっちい所だなぁ。さっきのが無かったらやっぱり信じられないよ」
私だってそうだ。
確かに元は金持ち共が暮らしてだんだろう。しかし今はどう見ても、放置されてから何百年も経った廃墟。仮に金目の物が遺されていたとして……とっくに旧地獄の荒くれが持ち去った後のはず。
だがロッドの導きはこの場所で動かない。今まで見たことがないほど強烈に、最高峰の磁石のように、両手のロッドが惹きつけられている。
「行こう」
「私が前でいいよ。さっきのこともあるし」
村紗が先を進む。正直ありがたかった。そう思った瞬間、
「村紗!?」
村紗の姿が消えた。傾いた表門を彼女が潜った瞬間に。
「お、おい! 村紗どこだ!? 敵にやられたのか!?」
敵って誰だよと内心突っ込みつつも叫ばずにはいられない。なにしろ一億だ。ここに一億相当の何かがある。ロッドはただそれを見つけただけ。宝塔の時もそうだったけど、見つけた後にどれだけの困難があるかは私の力の管轄外なんだ。
「村紗! 返事してくれ! 村……」
「ナズ」
「村紗!? いったいどこに……きゃっ」
傾いた門の向こうには何も無かった、はずだ。その何も無い空間からにゅっと腕が伸びて、私を掴む。
村紗のだ。
そのまま門の向こうに引き摺り込まれた。
一瞬、夢を見てるのかと思った。
「ここは……廃墟だったよな!? さっきまで確かに!」
そこは明らかに整った屋敷の玄関だった。廃墟なんてとんでもない。廊下の向こうからはたくさんの妖怪の気配と、酒のにおい、それと僅かに……獣臭?
「結界術だね。外からは廃墟にしか見えないけど、中はまだ生きてたんだ。侵入までは拒んで無いから、見てくれほど豪華な結界でも無いな」
「そ、そうか。ぬえの力みたいなものかな」
「あいつが聞いたら怒るよ。私のはこんなもんじゃねーって」
「誰がこんなものではないと?」
瞬間、空気の温度が明らかに下がる。
身構える村紗に庇われてよく見えないが、いつの間にそいつはそこにいた。
肩のあたりで切り揃えられた金の髪。背中にしょった亀のような甲羅、ぬるりと長い龍のような尾……どこかで見覚えがある……気がするけど……誰だったかな。
しかし安全な輩じゃないことは確かだった。
「今日はもう満員よ。悪いけど、また明日の賭場にお越しくださいな」
「賭場?」
ぴくり。村紗の耳が反応する。まずい。
「そ、そうかい! そりゃあ残念だったね! さ! もう行こう村紗! 村紗……!」
動かない。腕を引いてもまるで巨岩を相手取ったよう。
船幽霊の口角がにやりと歪む。
嗚呼……私って本当に本当にかわいそうな鼠だ……。
「……? なによ、さっさと帰りなさい。私が満員と言ったら満員よ。それとも耳が聞こえないのか?」
「一千万」
取り出されたる桐箱。村紗はその中身をチラリと見せ、また閉じる。
相手の目の色が変わった。どう見たって悪い方に。
あーあ。私もう知ーらない。
「一千万あるんですけどね。ま、ちょっとした泡銭ってやつで」
「……なに?」
「でも、満員というなら仕方ない。ナズ、勇義んとこ行こう。どうせあそこも年中無休でしょ」
「待ちな」
亀甲龍尾の女がドスの効いた声を響かせる。それが両耳から入ってきた瞬間、両足が動かなくなった。
「おいカワウソ! ご新規様だよ! 席を空けな!」
「えーっ!? もうトーナメント表組んじゃいましたよ!」
「なら一番金払いの悪いやつを摘み出したらいいでしょう! 機転を効かせろ!」
「は、はいぃ! ただいま!」
それから奥の方で明らかな抵抗と暴力、それと無数の小動物の甲高い鳴き声が聞こえた気がしたが……多分、空耳だろうな。そう思うことにする。
それより、トーナメント表ってなんだ? 耳慣れない言葉だったが、とても聞き返す気にはなれない。
しかし村紗は上機嫌で推定ヤクザ女の後について行く。私も慌てて追いつく。
「お、おい村紗! 私は知らないからな!」
「なにが~?」
「その一千万! 今度失ったらもう協力してやらないからな!?」
「そんなことにはならないよ」
「博打狂は皆そう言うんだ!」
「違うそうじゃないって。根拠はちゃんとある」
「根拠ぉ? なんだそれは」
「ナズだよ」
「わ、私?」
「そ。ナズのダウジングはこの場所を指し示した。つまり探し物がここにあるってこと。逆にもし私が負けるとしたら、そういう流れなら、ロッドはここに導かなかったはず。だって私の望む物は無いんだもの」
「無茶苦茶だな……」
「そうかな? だいたい金なんてそこら中にある。でもその中からただ一つ、他のどんな場所でもなく、ナズの力はここを指し示した。それは、ここにある金が私たちの手に入れられる金だから。私が負けない流れだから。そうでしょ?」
「知るか! ていうかなんだよ流れって。ギャンブル狂いの世迷言だ! それに私だって自分の力を完全に制御できるわけじゃない! 宝塔を見つけた時だってあの店主にめちゃくちゃふっかけられたんだからな!?」
「でも、宝塔は手に入ったんでしょ」
「そ、それはまあ、そうだけど」
「大丈夫。ナズの力は本物だよ。私は信じてる。きっと勝てるさ」
ぽんと肩を叩かれ、もう私は何も言い返せなかった。いっそこのまま負けてしまえ。そう思った。
「会場はこちらです。ああちなみに、参加者はそちらのマドロス風のあなたで良いのかしら?」
「参加者?」
「私は博打はやらない!」
「ではそのように」
そして案内された賭場の会場は、予想通りの熱気と狂騒で溢れていた……が、どうにも様子がおかしい。
まず、所狭しと置かれた無数の四つ足机。てっきり丁半博打でもやるのかと思ってたが……あれはなんだ? 札遊戯でもするのだろうか。
次に、集まった博徒たちの様子。いや柄が悪い連中ばかりだし「らしい」と言えばそうなのだけど……なんだか妙に筋骨隆々な妖怪が多い気がする。狭い会場を陣取って腕立て伏せをやってる奴もいる。暑苦しい。
そして何より奇妙なのは、賭場につきもののあの声がないことだ。つまり、賭けの声。賽の目に金を張る声。勝利に吠える声。敗北に咽び泣く声。そういうもの一切が聞こえてこない。
「村紗、なんか変だよ。賭場という割に誰も賭けてない。これじゃ賭場というか……ジムだ」
「これから始まるんじゃない?」
「う、うん。しかし何をさせる気なんだろう? 力自慢ばかり集めて殴り合いでもさせようってのかな?」
それはほんの冗談のつもりだった。
だけど、すぐに私は思い知ることになる。
世の中には冗談みたいな考えを、本気でやってのける冗談みたいな連中がいるってことを……。
「あー、お集まりの皆様。本日はご足労いただき誠にありがとうございます」
キン、とノイズの混じった声が響く。私らを含め、その場にいた全員の視線と意識が壇上に向かった。
あいつだ。私たちを出迎えた、亀甲龍尾のツノ女。
「申し遅れましたが私、鬼傑組当代組長の吉弔八千慧と申します。以後お見知り置きを」
ああそうだ、あいつ畜生界のヤクザ! なんで旧地獄にいるのかは知らないけど、やっぱり碌でもないところに来てしまった。
それと……喋るたびにキンキン音がするのは多分、彼女の手にした妙な機械のせいか? 声を増幅する、ええと、マイクってやつ? 河童が似たようなのを売り出してたが、デザインは似ても似つかない。もっと乱暴で、野生的な……そんな感じ。
今すぐ逃げ出したかったけど、村紗は静かに壇上を見つめてる。
しかたなく私もそれに倣う。
その時、運悪くこちらを睥睨する吉弔八千慧と目があった。ぞくりと肝の底が冷える酷薄な視線……。
「さて前置きはこの辺りに。お待ちかねでしょうルールの説明をいたします」
(ねえ村紗、ルールってなんのルールだろ。大掛かりなギャンブルなのか?)
(それをこれから説明するんでしょ)
「……ルールは単純。生き残ること。最後まで勝ち残った者が勝者です」
(やっぱり殴り合いだよ! やめよう村紗!)
(う、うん。そう、かな……?)
「と、もう一つ言い忘れおりました。皆様の生命を守るため、武器や特殊な能力の使用は禁止とさせていただきます。判定員がそれらの使用を確認次第、即失格とさせていただきます。つまり頼れるものは己が拳のみ。純粋なる膂力と腕力の勝負でごさいます。どうかご理解のほど、よろしくお願い申し上げます」
会場がどよめく。
もはや疑いようはなかった。これから行われること。それは裏闘技場! どおりで筋肉自慢みたいな妖怪が集まってるわけだ。これから私たちは、賞金をかけて殴り合い殺し合いの裏トーナメントに参加させられるに違いない!
ああ、なんてことだろう。うかうかととんでもない場所に入り込んでしまった。このままじゃ村紗は……いや、私も……!
「では始めましょう! いや……始めよう! プレゼンテッド・バイ・鬼傑組! 第一回旧地獄大腕相撲大会を!」
……は?
「さあ戦え! 争え! 生え抜きの筋肉バカども! 弱肉強食こそ輝ける唯一の掟だ! レッツ! アームレスリング!」
「「「「うおおおおおおおおお!!!!」」」」
地が割れんばかりの歓声。村紗もちゃっかりそこに混じっている。
あれ? ついてけてないの私だけか?
「トーナメント表は以上の通り! さあさあ各自、対戦相手となる者と同じテーブルで対戦を開始しな!」
いつの間にかノリノリで叫んでる吉弔八千慧に追い立てられるように、会場の妖怪たちはめいめい移動を開始する。
それを唖然と眺めていると、村紗に腕を引っ張られた。
「ほらナズ行くよ。不戦勝なんて笑えないでしょ!」
「ちょ、ちょっと待て! なんで当然のように受け入れてるんだ! 腕相撲大会だって知ってたのか!?」
「知らなかったけど、まあなんでもいいじゃない。三点倒立の耐久時間比べとかじゃなくてよかったよ」
「なにわけのわからないこと……」
「それより問題は儲けの方ね。見て、あっちの連中。参加者じゃない。外ウマに乗ってるんだ。たぶんこの賭場の本命はそっち」
「あ……」
見ればどう見ても武闘派じゃない連中が鉛筆と紙切れを手にうんうん唸り、やがて決心した顔つきで壇上の大袋に金を放り込んでいく。
それぞれの袋には参加者の名前が記された紙が貼られ、その中には(元の記名を強引に消された上で)村紗の名前もあった。
「な、なるほど。優勝するのが誰かを当てるギャンブルなのか。勝ったら他の袋の中身が賭け金順に配当される、そういう仕組みだな……」
見れば村紗の袋は空っぽに近かった。
飛び入り参加というのもあるが、他のマッチョ連中に比べると確かに、見た目はあまり強そうじゃない。
「もちろんナズは私に賭けるんだよ」
「か、勝てるのか!? なんかすごく強そうだぞ!? どの参加者も!」
「勝つんだよ。見た目で舐められてるのもむしろ僥倖。ここに一千万も張れば一億なんてあっという間だね」
「あ、危なくないのか……?」
「ナズ」
村紗の紺碧の瞳が細まる。
その青白い腕は少女のか細さだが、もちろん私は知っている。村紗が並外れた怪力の持ち主であること。聖を別にすればたぶん、寺でもっとも腕力のある妖怪は村紗だろう。
鋼鉄の錨を片手で振り回すバカ力。他の参加者はまだそれを知らない。
「私は船乗りよ。船乗りにとって危険は腐れ縁の友人みたいなもん。だから大丈夫、信じて」
「もうおまえのことは信じられない!」
「じゃあ信じなくてもいいから。どうせ乗りかかった船でしょ」
「うぅ、とんでもない船に乗ってしまった……」
「あ、もちろん賭けるのを忘れないでよ! タダ働きなんて嫌だからね!」
まさにタダ同然で働かされてる私はしぶしぶ大袋に駆け寄って、いっそヤケクソになってこう叫んだ。
「村紗水蜜に一千万!」
◯
公平に言って、村紗は腕相撲大会を順調に勝ち進んでいた。
元々の怪力に加え、(見た目だけは)綺麗な顔をしてるから、怪力自慢の妖怪ほど油断する。その一瞬の隙にドカン。
壇上に掲げられたボードにはリアルタイムでオッズの推移が書き込まれていく。飛び回る小動物の霊が目を回してる。その表示曰く、現在の村紗のオッズは……500%。つまりこのまま勝てば五千万の収入がある。もちろんまだまだ脱落者は出るし、予想配当金額もさらに増えていくだろう。
一億。
バカみたいな話だったはずが、なんだかもう輪郭が見え始めていた。
私のロッドはこれを予期していたのか?
村紗は……勝ち残るのか?
「久しぶりだね、船幽霊」
どきり。
考えに耽っていたせいで心の扉が無防備だった。まだ大会は終わっちゃいない。そして……一番会いたくないやつの一人が次の対戦相手だった。
「誰だっけ?」
かぶりをふる村紗に、その相手はびきりと額に青筋を立てる。だのに顔は笑顔。それが余計怖い。私はひっそりと村紗の背に隠れて……すぐに後悔した。こいつから離れた方がよほど安全だった。
「はは……あっははは……いやあ薄情だなあ、村紗。私だよ。土蜘蛛のヤマメさ」
「げっ」
さすがに(アホの)村紗も思い出したらしい。青い顔がなお青ざめる。
「あんたには随分と博打の貸しがあったよねえ……だってのに……気がつきゃ地上にトンズラこいて逃げやがった!」
「そ、そうだっけなぁ……あはは……」
「そうだよ! よくまあおめおめと旧地獄に戻って来れたね!? しかし……ふう。ここであんたを殺したって金は返って来ない。なにより私は私に一財産を賭けている」
「賭けてるのは私だけど」
こほん、と咳払いをした緑眼の妖怪。
パルスィまでいるのか……私たちは同窓会に来たんじゃないんだぞ。
「村紗。あんたを負かしたら次はもう決勝だ。ここで大人しく敗退してくれるんなら、これまでのあんたの負け分はチャラにしてやるよ」
「いやぁ……まさか勝ち残ってきたの? ヤマメってそんなに強かったっけ?」
「試してみるかい?」
「……そりゃあ、当然。悪いが私も私に運命を賭けてる。八百長で敗退なんてゴメンだね」
まあ賭けてるのは私だけど。
流れ弾が怖かったので口には出さない。
ばちばちと火花が飛び散る中に、ふよふよとカワウソの動物霊が寄ってくる。
「ではでは~、位置について~」
間抜けな声に空気が弛緩する。村紗とヤマメを除いては。
二人はマジだった。もちろん村紗はずっとマジだ。私が耐えきれず視線を逸らすと、その先に緑眼が揺れていた。「やんなっちゃうよね、まったく」と、そんな声なき言葉が聞こえた気がした。
「はっけよーい……どん!」
行司なのかそうでないのか、とにかく、その時その瞬間からその場の熱がグッと高まる。
村紗の右手と、ヤマメの右手。掴み合った二人の腕はびくともしない。まるでそういう彫像みたいに微動だにしない。
騒がしくなるのはむしろ周囲の者たち。いつしか山のような垣根となったギャラリーが、酒瓶や賭け札を握りしめたまま口角泡を飛ばしている。
「行け蜘蛛女! 船幽霊なんかやっちまえ!」
「倒せえ! 倒せ、倒せ! あの蜘蛛女のせいで全財産賭けた馬がやられたんだ! ぶっとばせえ!」
ギャーギャー騒ぎが大きくなればなるほどに、村紗とヤマメはますます二人だけの勝負の世界に入っていく。
あるいはこのまま、永久に二人が組み合ったまま動かないんじゃないか?
しなやかに白い村紗の腕には事実、汗ひとつとして浮かばない。浮かばないのは幽霊だからだ。
一方でヤマメは徐々にその赤くなった顔に汗を滲ませ始める。その肩が微かに震えてる。
「い、いけるぞ村紗! ヤマメは押されてる! 勝てるぞ!」
思わず叫んでいた。こんなの私の柄じゃないとわかってても止められない。
ギリ……ギリギリギリギリ……拮抗していた天秤は徐々にだが確実に、村紗の方へと傾き始めていた。
大粒の汗がヤマメの頬をつたい、卓上に染み込んでいく。村紗の調子は変わらない。ゆっくり、ゆっくりと、しかし明らかに彼女の膂力は土蜘蛛に競り勝りつつあった。
「負けんじゃねえよ土蜘蛛お!」
「やれ! そのままやっちまえ!!」
「そうだ! 村紗やれ! 頑張れ! 負けるなぁ!」
気がつけば私は群衆に呑まれた一匹の鼠になっていた。胸の底から熱いものが込み上げてくる。
ヤマメは明らかに限界だ。蒸気のような吐息を吐き出しながら土俵際で踏ん張っているも同然だ。
勝てる。村紗なら勝てる。そして次は決勝戦。あと一勝すれば、おい、おい、本当に一億稼げちゃうよ!
「ふふ……バカね」
その時。
冷や水を浴びせられたみたいに冷静さが蘇った。村紗とヤマメを挟んだ対角線上、美しい緑の瞳が儚げに細まっていく……その瞬間を私は目にしてしまった。
なんだよ、あの余裕。
さっき橋姫はヤマメに賭けてると言った。だったら今は目を白黒させてなきゃいけない場面じゃないのか?
冷えた指先で後ろから首を絞められたみたいな、本能的な恐怖感。同時に私の目に飛び込んでくる受け入れがたい光景。
ぐらり。
始終安定していた村紗の背中が、揺らいだ。
「なっ……村紗!?」
にやりとヤマメの口元が歪む。死を待つだけだったはずの彼女の腕が再び甦り、村紗の腕を元の位置まで押し戻した。
いや、それだけじゃない。今度は村紗の方がジリジリと押し負けていた。明らかに様子がおかしい。
「うおおおお逆転だ! させ! させえ!」
「何してんだ船幽霊! 根性見せろおお!」
野次馬の叫び声も今は遠く感じる。
なんだ。なんなんだ? 村紗に何が起きてるんだ!?
「お、おい村紗! 様子が変だぞ! いったいどうした!? 村――」
「あー! そこの鼠妖怪! 選手に触っちゃダメですよ! 触ったら失格ですからね!?」
「う……」
カワウソ霊に咎められ、伸ばしかけていた手を慌てて引っ込める。
でも本当にどうしちゃったんだよ村紗。船幽霊が汗をかくなんて。顔を赤くするなんて。しかもその汗は、脂汗じゃないか!? そんな、まるで熱病にでも罹ったみたいな……熱病……?
「え……まさか、黒谷ヤマメ、おまえが――」
瞬間、ピシャリと鋭い声に遮られる。橋姫。水橋パルスィの敵意と愉悦に輝く瞳。
「ねえナズーリン。今のは旧知の仲に免じて聞かなかったことにしてあげるけど……八百長疑惑を吹っ掛けたら普通、殺されたって文句言えないのよ。私嫌だなぁ。あなたを殺したら一輪やぬえにも恨まれちゃう。そんなの……すごくすごく嫌」
「パルスィ、お、おま、おまえもか!? おまえたちずっとこうやって勝ち上がってきたんだな!?」
「ぜーんぜん何のことかわからない。あんたが思ってた以上に土蜘蛛は力持ちの妖怪なのよ。そ・れ・だ・け」
もはや疑いの余地は無かった。
黒谷ヤマメは何をしたのか? そう、私はすっかり忘れていた。こいつは土蜘蛛。土蜘蛛とは、疫病を操る妖怪だ。
なぜ村紗の旗色が急に悪くなったのか? おそらく何らかの疫病……べつにマラリアでもインフルエンザでもなんでもいいけど、とにかく村紗は病を押し付けられた。
でも……おかしい。最初に吉弔八千慧は言っていた。能力の使用は禁止だって。まさかヤマメたちを庇う理由もないだろうに。
「ちょっと行司! ちゃんと見張ってるんだろうね!? 能力を使ったら即退場だって最初に――」
「失礼なぁ! ちゃんとチェックしておりますとも! 妖力の気配が検知され次第、ただちに試合は中断いたしますよ!」
「妖力……」
違う。妖力じゃダメだ。確かに大半の妖怪は妖力を媒介にして超自然の異変を起こす。でも、全員がそうというわけじゃない。
例えば土蜘蛛……こいつの操るものは「感染症」。それはあくまで自然界に存在する普遍的な現象に過ぎない。妖力を媒介せずに細工ができるとまでは知らなかったけど、状況証拠はどう見ても黒だと言っている。
「くっ……もうやめろ土蜘蛛! 村紗を殺す気か!?」
叫ぶ私をヤマメは顧みない。そりゃそうだ。
代わりにパルスィのドスの効いた声が響く。氷獄の底から響いたみたいな冷たい声が。
「ねえカワウソちゃん。これって進行妨害じゃない? つまみ出してよ」
「え、えー。吉弔様ぁ! どうしましょう? あれ? 吉弔様どこですかぁ?」
そのままふらふらと漂っていくカワウソ霊は頼りにならない。
ああくそ、どうしよう。このままじゃ村紗は負ける。いやそれよりこのままじゃ命が危ない。もちろん村紗は幽霊で一度死んでるけど、ヤマメの疫病にそんな常識が通じるのか? もし幽霊すらも殺すほどの病だとしたら?
「パルスィお願いだ! こんなこと君からやめさせてくれ!」
「だからぁ、何のことかわからないっての。しつこいな」
「このっ……君らはそんなに金が欲しいのか!? こんなプライドを捨てた勝利を得てまで! 村紗の命を危険に晒してまで!」
「別にそんなじゃ……はっ……い、いい加減にしてよねッ!」
「それは私の科白だ!」
こうなったらもう実力行使より他にない。
別にいいさ。構うことはない。ここ旧地獄はそういう場所だ。
私はロッドを構える。
パルスィの周囲に魔性の気配が漂い始める。
だが。
「ナズ!」
鶴の一声が私たちの緊張を破った。
「む、村紗……」
「今さ、真剣勝負の途中……なんだよね……ちょっと、静かにしてくんないかな……!」
「村紗おまえ! 今度は顔が真っ青だ!」
「そりゃ……元からだよ……! フゥーッ……フゥーッ……けどねぇ、土蜘蛛……一つ教えといてあげるけど……フゥーッ……」
村紗もまた今やヤマメと同じく蒸気のような熱い吐息を切れ切れ吐き出し続けながら、それでも、疫病にうなされているとは思えない強靭な意思の篭った声を振り絞って叫んでる。
「船乗りは、病原菌じゃあ殺せない……船乗りが真に恐るる病……何か知ってるかい……!」
「え……」
瞬間、さっきまで優勢だったヤマメの気迫が目に見えて引き下がる。
わからないんだ。疫病の専門家である彼女にもわからない問い。病原菌じゃない病気……なんだ? 船乗りが真に恐れる病気?
ギャンブル依存症……じゃないよな……?
「そいつはビタミンC欠乏症候群……ふ、ふふっ……壊血病……! ウィルスでかかる病気なんざ……! 船乗りにゃ痛くも痒くもないんだよっ!」
それは。
身内贔屓を差し引いてなおその理屈は、正直言って、意味不明だった。
しかし兎も角もヤマメは、その手の甲が机上に打ち付けられるよりも前に彼女は――負けていた。村紗の気迫に。凄みに。
それからわずかに遅れて「ドン」と渇いた音がした。
静寂。
世界のすべての音が死に絶えてしまったかのような無音。
けれど。
次の瞬間に歓声が、爆発した。
「「「「「「うおおおおおおおおおおおおおおお!」」」」」」
それはまさしく地鳴りの如し。
浅い呼吸を繰り返していた村紗が、ふと我に返ったようにこっちを振り向く。
「ほら、信じてよかった」
私がなにか言い返す前に村紗は勢いよく立ち上がり、正にこの期を待っていたかのように力強く、強く、強く、めいっぱい力強く、右腕を、振り上げた。
「「「「「「ムーラーサ! ムーラーサ!」」」」」」
会場に響く村紗コールに欠片ほどの恥じらいも見せず、片足をどかりと机の上に叩きつけ、ただただ彼女は腕を天に突き上げ続ける。
「「「「「「ムーラーサ! ムーラーサ!」」」」」」
その影でヤマメは呆れたように息を吐き出すと、ひらりと軽く手を振った。それが村紗の疫病を解除する合図だったのか、それとも「付き合ってらんないわ」のジェスチャだったのか……私は知らない。
パルスィがヤマメの胸ぐらに掴みかかって「どーすんのよ! 私のへそくりぃい!」とかなんとか叫んでる。橋姫もへそくりを貯めるのか。収入源はなんなんだ。あまり考えないほうがいいような気がした。
「「「「「「ムーラーサ! ムーラーサ!」」」」」」
「「「「「「ムーラーサ! ムーラーサ!」」」」」」
「「「「「「ムーラーサ! ムーラーサ!」」」」」」
割れんばかりの村紗コールはいつに止むとも知れずに続く。続く。放っておいたら永遠に続くんじゃないかとさえ思える。村紗もそれを望んでいるんじゃないかと。
だけど。
「そこまで」
壇上から響く声。吉弔八千慧だ。
けして高圧的な声じゃない。乱暴でもないし、あくまで平静、ごくごく静かに発せられた声。そう聞こえる。
でも。
あれ程の熱狂に包まれていた会場が、今はもう水を打ったように静かになっている。
その様を満足気に見渡し、彼女は続ける。
「さて。準決勝の勝者は……船幽霊・村紗水蜜。おめでとう。そしてこれで、決勝戦のカードが決まったわ」
決勝戦!
そうだ、すっかり雰囲気に飲まれて忘れてたけど、今のはあくまで準決勝。まだ何も終わっちゃいない。
「村紗、やれるのか? 少し休憩を挟んでもらっても……」
「大丈夫。むしろすこぶる調子がいいわ。たぶんヤマメが押し付けた病と一緒に諸々持ってってくれたんだと思う」
「そ、そうだヤマメ! パルスィ! あいつらどこへ――」
慌てて彼女たちの姿を探すが、土蜘蛛も、橋姫も、既にどこにも見当たらなかった。
まあ半ば八百長に近いことをしてたわけだし、長居するだけ彼女らには損だろう。しかし逃げ足の早い二人だ。さすが旧地獄で生き残ってきただけのことはある。
「それよりオッズはどうなってる?」
「あ、うん。ええと……うおっ!?」
見間違えかと思ったけどそうじゃない。目をこすっても、瞬きを何度したところで、壇上に張り出された配当金の倍率は揺るぎなかった。
準決勝が始まる前までは、500%だった。でもヤマメが敗退し、そしてもう片方のカードでも誰か一人が敗退した。その分丸ごと上乗せされ……いや違う。次は決勝戦なんだから、その相手の分も既に入ってるはず。そのうえで今の配当金倍率は……
「ごせんぱーせんと……! 5000%だ! 元の賭け金の50倍だよ村紗!」
「じゃ、つまり」
「私たちへの配当は5億円!」
「あっはは。こりゃ目標額をオーバーしちゃうな」
「いやでも……ご、ごおくて……どーすんのさそんな大金!」
「どうするもこうするも、言ったでしょ? 期待値で殴るには元手が多けりゃ多いほどいいって。ふふ。五億背負って賭場に行ってご覧。駒草太夫もさすがに慌てるだろうな!」
「そりゃどんな奴でも慌てるだろーよ……」
「ところで……決勝戦の相手って、誰なの? ちっとも知らないんだけど」
言われてから気がつく。
それは……考えてみると変だった。さっきの村紗とヤマメの試合。あの熱狂。あの興奮。まさにその津波のような流れに呑まれて忘れてたけど、裏側ではもう一つの準決勝をしていたはずなんだ。
でも、その割にはなんの様子も伝わってこなかった。よっぽどのシケ試合だったのか?
などと考えていると、私たちの反対側の群衆が蠢き、聖者の奇跡のように道ができる。その最奥。まさに我こそは聖者でございとでも言いたげな、ボロ布を目深に被った人物が、ゆっくりとこちらに近づいてきていた。
「な、なんだあいつ……」
「決勝の相手、かな」
かつ、かつ、かつ、かつと卓の向こう端まで来ると、そいつは、ゆっくりとボロ布を脱ぎ捨てる。
群衆の視線が殺到するのは、私たちの視線が咄嗟に向かったのは、当然、その素顔。
だが。
「私は」
だが、素顔は結局伺い知れなかった。
つるのっぺりとした黄金色の仮面に阻まれて。
「私は希望仮面だ」
さざ波のようなひそひそ笑いが群衆の隙間を駆け抜けていく。
呆気にとられている私たちを他所に、自称・希望仮面は卓上へそっと肘をつく。
「さあ、決勝戦を始めよう。どうか退屈させないでくれよ」
少なくとも女だ。女の声だ。それと長い黒髪。スラリと高い長身。こんな奴旧地獄に居たかな……?
「ええと、その子供が作ったみたいな下手くそなお面は、脱がないの? 力はいらないんだけど……あ、そういう作戦?」
村紗の遠慮もへったくれも無い問いかけに観客が凍りつく。
(あいつ、言いやがった……)
そんな針の筵みたいな雰囲気の上で、自称・希望仮面は肩を震わせ、突如声を荒らげる。不審者だ。完全に不審者だ!
「な、なに!? 下手くそなお面だと!? これは太子様が……ごほごほっ……これはさる高名なお方が作りしありがたいお面なんだぞ! そして私こそは希望の面に祝福されし希望仮面! 正装である仮面を外すわけが無い!」
こっちを振り返った村紗の白けた瞳。まあ、気持ちはわかる。痛いほどわかる。せっかく決勝戦まで来て、これじゃなあ。
「ナズ、この人頭が」
「しっ! そっとしといてやりなよ」
「でもさぁ……」
「他人の心配をしてる場合かい?」
白けた雰囲気が、たったその一言によって引き締まった。
とにかく……とにかく油断しないことだ。過程はどうあれ村紗は決勝戦まで勝ち抜いた。このまま優勝を手にする権利は、その資格は、きっと十分すぎるほどにある!
あと怖いのは油断だけ。勝てる勝負を落とすこと。それさえなければきっと、きっと勝てる。
「村紗! 勝てよ! 絶対だぞ!」
「ええ!」
「五億だからな! わ、私にもちょっと、チーズとか買ってくれよ!?」
「当然! チーズと言わずナズの食べたいものなんでも買ってあげるから!」
「うん! 頑張れ! 頑張れ村紗! 頑張れよ!」
頑張れ。頑張れって、そう励ますしかできない自分がもどかしい。
いや、いや、元々の種銭は私が稼いだんだ。べつに遠慮する必要なんか無いはずだ。
それでも……今は村紗の背中が頼もしい。いつもと同じ村紗の背中が。
「ではでは~~、位置について~~~~」
カワウソ霊の気の抜けた声。
村紗と、ええと、希望仮面が、互いの右手を固く掴む。
「はっけよーい…………」
始まる。村紗の最後の勝負。
私は覚悟を決める。たとえこの勝負、勝ったとしても負けたとしても……最後まで見届けようと。村紗の勇姿を!
「「どん!」」
◯
天は長く、地は久し。天長地久。
天地の継続は永遠の所作であり、物事がいつまでも続いて、続いて、永遠無限に絶えることのないということの例え。
でも……人間って奴は矛盾した生き物で、それとはすっかり反対の言葉もたくさん生み出してきた。
例えば、諸行無常。
どんなものでもいつかは滅びるって考え。仏教思想の根本原理。
でもここがまた難しいところで……仏道はまた同時にこうも説く。万物は流転する、と。
全ては滅び去るのか? それとも全てはつながっていて、永遠に滅びることがないのか?
わからない。既にちっともわからない。
だがここでさらに話をややこしくするのが、少なくとも仏弟子の最終目標は解脱だってこと。うーん、やっぱりわからない。解脱は永遠なのか? それとも永遠から離脱してしまうのだから、それは諸行無常のうちなのか? この世は天長地久なのか? それとも一夜の幻に過ぎないのか?
もちろん聖に聞けば何らかの筋の通った答えが返ってくるのだろう。
でも……それは聖の考え方でしかない。聖は尊敬できる人物だけど、聖の言ってることがすべての正解じゃない……よね? いつだって答えは自分で見つけなきゃいけない。それが生きていくってことなんだから。
それで。
ええと。
だからつまり。
どうしてこんなことを考えてるんだっけ?
「あ……」
そうだ、思い出した。私たちは、私と村紗は、旧地獄の腕相撲大会に参加して……それで、ヤマメとの激戦を制して……それから?
それから、決勝戦が始まった。妙な仮面をした、希望仮面とかいうふざけた奴が相手で。
「え……?」
それで。
それで?
それで……カワウソ霊の行司がはっけよいして。
ドン。
「はぁ。最後まであっけなかったな」
ドンって。そう聞こえた。手の甲が机に叩きつけられる音。勝負が決した音。
……思考が現実に戻ってくる。私の目の前では、村紗が手の甲を机に付けたままぽかんと口を開けている。
たぶん、私も同じように口を開けている。
きっとその場の誰もが。
先程とはまったく別質の静寂。
「私の勝ちだ。つまらん」
その静寂をものともせずに希望仮面が村紗に背を向ける。
凍りついていた時が動き出す。急速に。
「な、なんだ今の」
「なにがあった!?」
「わかんない、でも一瞬で」
「船幽霊の負け……だよな!?」
「あの仮面野郎、これまでの勝負も全部一瞬だったんだ」
「信じらんねえ」
めいめい好き勝手にしゃべくりあう中、またしても吉弔八千慧の声が響く。
キイン、と甲高いノイズの音。
「あー、只今の勝負の決着を持ちまして、本大会の優勝者が決定しました。優勝者は……はぁ……希望仮面さんです。おめでとうございます。配当金と副賞を授与しますので、壇上へどうぞ」
最初のハイテンションなアナウンスが嘘のように他人行儀な早口。
まるでさっさと大会をお開きにしたいとでもいうような、抑揚のない淡々とした声が拡張されてよく響く。
「……壇上へどうぞ。どうぞ、希望仮面さん! 希望仮面さん!! ちょっと聞こえてんの!? ねえ! さっさと来ないか! くろっ……希望仮面!」
「うるせえ」
「あぁ!?」
突然にブチギレる吉弔八千慧に会場が後ずさる。しかりただ一人、希望仮面だけが壇上を鋭く(仮面越しなので推定)見据えて動かなかった。
「話が違うぞ、八千慧」
「やち……」
「強い奴と戦えると聞いたから、こんな旧地獄くんだりまで来てやったんだ。おまえのくだらん作戦にも乗ってやった。だが!」
「ちょ、あいつ何言って……」
「だがなぁ! ぜんぜん! 強い奴なんていないじゃないか!? あの船幽霊にはちょっと期待してたんだが、それも呆気ないもんだった! どうしてくれるんだ! 八千慧!!」
「カ、カワウソ共! あのバカ黙らせろ! はやく!」
凄まじい勢いでカワウソ霊たちが希望仮面に殺到するが、瞬き一つする間にそのすべてが弾き飛ばされていた。
一方その間も怯えて様子をうかがっていた会場の妖怪たちが、しかし徐々に、目の前で繰り広げられている光景の意味を理解し始める。
希望仮面。謎の最強アームレスラー。しかし優勝に喜び震えるでもなく、そいつは胴元たる吉弔八千慧と口喧嘩を初めた。あたかも……最初からお互い知り合いだったかのように。
おまけに「強い奴と戦えると聞いたから」だの「おまえのくだらん作戦にも乗ってやった」だの。
もはや隠しようもない事実。
「グルだったんだ……」
誰かがポツリと漏らしたその言葉が、全ての答えだった。
「ふざけんな!」
「優勝者と主催者がグルだったんだ!」
「八百長だ!」
「賞金を独り占めする気だったんだろ!」
「金返せ!」
当然に吹き荒れる罵詈雑言の嵐に、しかし吉弔八千慧もまた怯まない。怯むどころかさらにキンキンノイズを爆裂に響かせて、もはや隠す気もなく怒声を振りまく。
「やかましい! なにが八百長だって!? あんた達の誰も! あのバカ早鬼に勝てなかったのが悪いんでしょうが! 自分の弱さを棚に上げて言いがかりつけんじゃないわよ!」
「八千慧! 強者はどこだ! 約束を守れ!」
「金返せー!」「八百長! 八百長!」
なんだかもう滅茶苦茶だ。そんな中でも唯一わかるのは、これ以上ここに居てもろくな目に会わないってことだった。
未だに硬直してる村紗の肩をゆすり、なんとか魂を現世に呼び戻す。まだ逝くな村紗。幽霊が放心したら成仏だぞそれは!
「村紗! おい村紗! 逃げよう!」
「う、うん」
「なあしっかりしてくれ! 金は無くなったが、借金返済まではあと一日あるんだろ! 私も手伝ってやるから今は――」
瞬間、凄まじい閃光と爆音が頭上で響き渡った。
乱れ飛ぶ瓦礫、悲鳴、まるで太陽がすぐそこに落っこちてきたみたいな異常な事態。
「こ、今度はなによ!?」
吉弔の困惑に満ちた悲鳴に呼応するかのように、会場の頭上、降り注ぐ太陽のような火の玉の中からはつらつとした声が響いて渡る。
「そこのゴロツキ妖怪どもぉー! その場を動いちゃダメだよ! あなた達には不法求婚の権利が認められている! あ、いや、不法入魂のヨモギがかけられている! あー、うーん、なんだったかな……」
「ちょいちょい、不法入国の嫌疑」
「えへへ、ありがとお燐。ええと……そう! あなた達には不法入国と不法賭博行為の嫌疑がかけられている! さとり様の命によりあなた達を地霊殿に連行する! 動けば撃つ! 動かなかったら撃たない! 私やさしい!」
群衆の中から「地霊殿の八咫烏だ!」という悲鳴が聞こえた。地霊殿の八咫烏って……核融合の力を与えられたっていうあいつ……?
それがなんでこんなとこに、とか、動けないならどうしろっていうんだ、とか……もうそういう一つ一つの疑問に答えてくれる者は、そういう余裕と知恵を持ったやつは、おそらくこの場所には一人もいない。
私は私で放心状態の村紗をなんとか引っ張っていこうとして、こいつがまたビクともしなかった。
せめて、せめて時間が欲しい。皆が落ち着けるまでの時間が。
でも事態は一層ますますノンストップでカオスの縁まで突っ込んでいく流れの中にあるらしく、吉弔八千慧の引きつった表情、恐怖とパニックに震える妖怪たち、八咫烏とその肩に乗った黒猫、そして、そこへ向け飛び出していく希望仮面の黒い黒い黒い翼――
「見つけた! 貴様強者だろう! 戦え! さあ戦え! 私と殺し合おう! 死ぬまで殺し合おう!」
「うわなにあれキモっ!?」
「ちょ、お空、ストップ! ストップ! 撃っちゃダメだ! ああ、バカ――」
バカ。
たぶん、きっと、おそらく。
そのたった二文字のシンプルな言葉が、何よりも雄弁に私たちの置かれた状況を言い表していた。
ああ。
バカ……。
◯
……。
…………ええと。ここは天国じゃない、よね?
すぅ。
はぁ。
息を吸う。
吐き出す。
口の中に灰の味。
身を起こすと、灰にまみれた瓦礫がぼろぼろと足元に落ちていく。
辺りは見渡す限り瓦礫と灰の荒野。
まあ……天国って感じじゃないよな。これは。どちらかというと地獄に近い。まあ旧地獄だから間違ってはいないけど。
「うぅ、ジャリジャリする……」
ぺっぺと口内の異物を吐き出してから、ようやく遅れて現実感が取り戻され始める。
そうだ、こんなことしてる場合じゃない! 村紗は。村紗は無事なのか!?
「村紗!」
「生きてるよ」
直ぐ側の灰山から真っ白になった船幽霊が身を起こす。
とにかく……はぁ……肩の力が抜ける。とにかく生還した。あのしっちゃかめっちゃかの戦場から。
「……帰ろっか」
「……そうだね」
私たちはトボトボと灰色の地平線を目指す。向こうの中心市街に灯った光がぼんやりと、不知火のように薄明るく見えた。
ざく、ざく、ざく。
互いに何も言わない。
ざく、ざく、ざく、ざく、ざく、ざく。
何も言わずに歩き続ける。
ざく、ざく、ざく、ざく、ざく、ざく、ざく、ざく、ざく……どさっ。
気がつくと、また灰の味がした。
「ナズ!? 大丈夫!?」
「う、ごめん……なんかに躓いて……」
「ほら、掴まって」
「立てるよ一人で。それより村紗も気をつけなよ。妙な出っ張りがそこら中に散らばってるから……」
出っ張り。
村紗の紺碧の瞳がするすると足元にスライドしていく。
その出っ張りに。
「ナズ」
出っ張りを、拾い上げる。
おおよそ直方体の、しかし雲母のように薄く剥がれやすい要素で構成された、出っ張りを。
ぺらり。
村紗がその一枚を剥がして、旧地獄の薄暗い空に透かして見せた。
あの腕相撲大会会場に確かにたくさん存在し、そして私たちと同様最後の爆発で吹き飛ばされてきた、それは――
「お札だ」
まあ。
ある種の連中にとってすればやっぱりそこは、天国のような場所だったのかも知れない。
もっとも……私たちが去ったその場を訪れたところで、たぶん、たった一つの出っ張りさえ残されていないと思うけど。
【Day3:吹けよ風、呼べよ嵐】
一億。
九千九百九十九万九千九百九十九の次で、一億一よりひとつ前。
千の二乗で、百の四乗で、十の八乗。
そうやって定量的な理解をすることは簡単だけど……じゃあ、それが「多い」のか「少ない」のか。「大きい数」なのか「小さい数」なのか。それはとても難しい問題だ。
例えば命蓮寺という組織全体からすれば、一億程度は別に……重要じゃないとは言わないが、しかしその存続を決定的に左右するほどの額じゃない(聖がいくら清廉潔白だったとしても、事実としてお寺ってのは金持ちだ。御主人様もいるし)。
つまり……金銭とは、金銭の価値とは、とどのつまり誰がどう使うかに左右されるってこと。
命蓮寺という組織にとっては一億なんてその収益の一部に過ぎず、しかし私がチーズを買う分には一億は素晴らしい大金だ。
でもそんなのは基本、単なる夢想に過ぎない。暇つぶしの空想。考えたって実際に大金が降って湧いてくるわけじゃない。
だが、今。
目の前にその一億円がある。ちょっと灰まみれだけど、とにかく一億円がある。
「ナズ」
最初に一千万を管理していた小さな桐箱では入り切らなかったので、旧地獄で適当に調達した鞄に収めてある。
ちょっと見ただけでは私たちが持つそれは、妖怪の山に登山でも行くのかなって、そんな格好でしかない。
「村紗」
「ナズ……」
「む、村紗……」
私たちはダウジング用セーフハウス小屋の中で二人、一億円を挟んで向かい合っている。
歪んだ窓から差し込む朝陽。もう夜が明ける。短くも長い旧地獄での一日は、今はもう枕元の悪夢の一つとしか思えない。
「偶然じゃ、ないよね」
「さあ……どうだろう」
曖昧に答えると、突然に村紗のまなじりに力がこもる。
「偶然じゃない! これは、ナズ。あなたの力だよ! あなたのダウザーとしての才能が! 私たちを一億円に導いたんだ!」
「うん……自分でも信じられないけど……」
理論上はそうだ。
一昨日の一千万。昨日の一億。わらしべ長者じゃないんだ。鼠も歩けば棒に当たるって、そう何事もうまく行ったりはしない。
偶然を超えた運命。必然。私達の目の前にあるのは、たぶん、そういうもの。村紗が首肯く。
「ナズ。あなたには流れがある」
「流れ?」
「そう。私たちは今、流れの中にいる。あるいは追い風を受けて進んでいる。もしくはこう言いかえてもいい。私たちは『ツイてる』」
「ようするにただ運が良かったってことか。まあ私も同じ意見――」
「違う!」
狭い小屋に大声が響く。ドン、と村紗の両手が札束を叩きつけた。
「流れはただそこにある。運が良いとか悪いとかじゃない。人間や妖怪の思惑なんて気にせずただただひたすら流れは流れのままに流れてる」
「哲学的だな……」
「いや、これはすごく現実的な話。重要なのはね、ナズ。すこぶる重要なことは。流れを掴み、その流れに乗って進むこと……それこそが船乗りの腕の『よしあし』なんだよ。良い風が吹いたのは『たまたま』かもしれない。でも、その風を良いと理解し、良いと判断した自分自身を信じ、その良い風に乗って勢いをつけることは、技量だ。それこそ船乗りがもっともその真価を問われる瞬間なんだ。最良の船乗りはどんな流れも乗りこなす。逆に、流れに呑まれて死んじまう船乗りはヘボだ。例外はない」
「お、おまえ、目が怖いぞ」
「ナズ。ここにある一億は偶然の産物じゃない。あなたもそれは納得するはず」
「う、うん」
「そして私はこれを、あなたと私の能力の証明だと考えてる。私たちはツイてた。良い風に背を押された。素晴らしい流れに乗った。だがそうすると決めたのは私たちの意思だ。それは単に舞い上がるような上昇気流に流されるだけの怠惰なカラスとはぜんぜん違う。私たちはカモメだよ。海風を乗りこなし、大陸から大陸へと渡っていく。私たちは勇敢な旅人だ。勇気あるマドロスなんだ!」
「……ようするに」
ぐいっと村紗を押しのけ、ようやく息ができる。
今日の村紗は……いや、一昨日からの村紗は変だ。おかしい。気色悪いと言ってもいい。
でもそれは彼女が変わったのではなくて、私が村紗水蜜という存在を知らなかったのだろう。
結局、こいつはどこまで行っても船乗りだってことだ。仏弟子となってなお博打をして、酒を飲んで、生臭も平気で食うのは……例えどんなに聖の言葉が、教えが、人徳がこいつの中に「仏弟子」としての領域を育てたところで、ついにそれが船乗りとしての村紗水蜜を消滅させることなどできやしないってことだ。
彼女の心の半分は命蓮寺にある。でもきっともう半分は、未だ海のどこかを彷徨っている。それが船幽霊という……いや、それが船乗りというもののサガなんだろう。
「村紗、おまえは海を愛してるのか」
「は?」
突然の問いに間抜けた声があがる。恥ずかしいけど、もう出した手を引っ込められない。
「いや……ど、どうなんだ!?」
「どうって……どうだろう。海に繰り出していくのは好きだよ。でも同時に海は敵でもある。船乗りの日々は、海っていうバカでかい魔物との闘争の日々みたいなもんだからね。まあ仮に、仮にどこかの誰かが海を愛してたとしても、一つだけ確かなことは、海はそいつを愛したりしないってことだ。ただそこにあるだけ。奴が身じろぎすれば甲板を磨く新入りが死に、奴が起き抜けに『のび』をしたならベテランの船乗りが波間に食われる。そういうものだから」
「そうか……だから博打をしたり酒を飲んだりするのか? そんな過酷な世界にいるから?」
「……さあね」
「村紗、やっぱりこの一億を持って賭場に行くつもりなのか」
「……そりゃ、そうでしょ。そのためにナズにも付き合ってもらったんだから」
「いや私が付き合ったのはおまえの借金返済のためだぞ!?」
「そうだっけ?」
「そうだよ! もともと一千万稼いだら終わりのつもりだったんだぞ! なのに村紗の口車に乗せられてその十倍も……」
村紗水蜜の紺碧の瞳。それが私を見つめている。見つめているが、見つめていない。
彼女は今でもはるか遠い水平線を見つめているのだろうか。千変万化する波の轟を聞いているのだろうか。海という魔物に命を奪われてからずっと、ずっと。
「村紗……博打ってことは、この一億がさらに増える可能性もあるってことだよな」
「そりゃね」
「どうするつもりなんだ。聖に寄進でもする気か?」
「馬鹿言うなよ。どうやって説明する気なんだ。いくら私でも聖に面と向かって博打で稼いだ金渡すほどじゃないよ」
「じゃあ貯金でもするのか」
「貯金ねえ……」
「そもそもおまえ、なんのためにギャンブルをしてるんだ。生活に困ってるわけでもないのに」
「そりゃ……したいからしてんだよ。金のやり取りはおまけみたいなもんだ。私は別に奪い合うものが札束だろうと、どんぐりの山だろうと、指だろうと目だろうと互いの命だろうと、本質的にはなんでもいいのさ。しかしあまり価値のないものを賭けても身が入らない。あまり取り返しのつかないものだと打ち手がいない。その点で、金はチップにちょうどいいってこと。少なくとも勝てば酒代になる」
「無茶苦茶だ。狂ってる。そんなの破滅願望者としか思えない」
「……いいよ、ナズ。べつにそこまで理解してもらいたいなんて思ってない。ただあなたにはあと一日。今日が終わるまで、私のすることを見逃してもらいたい。ただそれだけ」
「もうここまで関わっちゃったら告げ口もできないよ。私も共犯……というか主犯だし。ただ約束は守れよな。明日から君は清廉潔白な仏弟子になるんだ。わかってるよな!?」
「もちろん! はぁー……ありがとう、ナズ。今まで知らなかったけど、あなたけっこういい奴ね」
「おまえはとんでもない奴だ。村紗水蜜」
「ふふ……さて、そろそろ行こうか。駒草太夫の賭博が開く時間だ」
そして、私たちはセーフハウスを後にする。賭場へと向かう。
でも……それは私自身の意思なのだろうか?
それともなにか大いなる、逆らいようのない流れにただただ流されているだけなのか?
村紗、おまえはどうなんだ?
おまえはちゃんとこの大波を乗りこなせているのか?
村紗……。
◯
駒草太夫の仕切る賭場には、昨日の旧地獄腕相撲大会と同質の据えた熱気に満ちてはいたが、一方でまったく別質の雰囲気が漂ってもいた。パリッとした、思わず居住まいを正したくなるような雰囲気が。
それはやはり、賭場の奥で煙管を吹かす駒草太夫という妖怪個人の放つ気質……オーラ。そういうもののせいなのだろう。
勝負の熱に浮かされた賭場の中、ただ彼女の座る地点だけが、まるで氷の彫像を配したみたいに温度が低い。
「へぇ。もう戻ってきたのかい、船幽霊」
駒草の切れ長な瞳がいっそうに細まり、私たちを睨めつける。
それだけで足がすくむ。見えない壁がそこにあるみたいに私は前に進めなくなる。
だが、
「村紗だ。村紗水蜜」
村紗は不可視のプレッシャーを意にも介さず、ずかずかと駒草太夫を見下ろせる位置までゆくと、どかりとそこに腰を下ろした。
「あんたと勝負しに来た」
それを受けて駒草は笑うでもなく、白けるでもなく、ただジッと手元の煙管を咥え、射殺すような眼光だけを村紗へと向け……それから、永遠にも感じられるゆったりとした仕草でもって、濃い紫煙を口元から吐き出した。
村紗は例の鞄をひっつかみ、誇示するようにその中身を開く。
野次馬からどよめきが漏れるが、駒草は視線を村紗から逸らさない。
「一億ある」
「ダメだ」
「は?」
「それはあんたの金じゃないだろ」
「なにを……」
「そっちのお嬢さんの金だ。違うかい」
水を向けられて思わず頷いてしまう。まあ連戦連敗の村紗が一億すぐに用意できるとは思わないよな……。
駒草が指を鳴らすと、部下の一人が紙と筆、それと墨を持ってくる。村紗の眉根がひそまった。
「なんだよこれ」
「借用書だ。船幽霊、あんたはそこのお嬢さんから一億を『借りて』打つんだ。一筆したためてもらうよ」
「あのー、わ、私は別に構わないけど――」
「ダメだ」
「ぴぃ……」
「ただでさえこの頃、博打関係のトラブルが多いって巫女やお山からせっつかれてんのさ。その殆どはうちと関わりのない、無届の賭場だがね。そういうところは無茶な賭け方をさせても気にしない。胴元の頭にあるのは自分の儲けだけさ。そうとも知らず破滅するまで賭けちまった連中が野に流れ、時に人間を襲う」
私は一昨日に遭遇した誘拐犯妖怪のことを思い出した。あいつもまたギャンブルの負けからとんでもないことをやらかしていた。
てっきりあいつは、駒草の賭場で負けたのかと思ってたが……おそらくあの旧地獄で見た鬼傑組の賭場のような、もっとえげつない連中に搾り取られたんだろう。
村紗もそういう事情を聞かされては断れない。いや、最初っから断る気も無かったかも知れない。どうせこいつには勝負のことしか見えてない。
筆を執りながら村紗は、しかしきっちり嫌味を言うことだけは忘れなかった。
「天下の駒草太夫ともあろうものが随分と小心なんだな」
しかし駒草もさしたるもので、涼しい顔でそれを受け流す。
「そう、私は小心者だよ。博徒ってのは小心すぎるくらいで丁度いいのさ。勇者は勝ち方も派手だが、負け方も派手だ。そして消えていく。あんたのように」
「ふん……」
「こないだの一千万くらいなら命蓮寺から搾り取るのも良かったが、一億ともなると私の責任も問われてくるんだよ。だからこういうことはきっちりやらないとね」
「残念だけどそれは杞憂だ。勝つのは私」
「ふふ……そいつぁサイの目次第だな……」
さらさらと筆の走る音だけが奏でられ、村紗が借用書を駒草に突きつける。
「書いた! これでいいか!」
「私じゃなくてそっちのお嬢さんに渡しとくれ」
「……ナズ!」
「あーはいはい」
押し付けられた紙切れをざっと一瞥する。蟻ん子の軍隊みたいに細かい字だ。読んでるだけで目が悪くなりそうだった。
「ええと……私[村紗水蜜]は現金[一億]円を[ナズーリン]様から借用いたします。返済期日及び利息の歩合はうんぬんかんぬん……」
「もういいでしょ!? さっさと始めよう、駒草太夫。勝負の熱が冷める前に」
「この程度で冷めちまう熱なら今すぐ帰ったほうがいい」
「減らず口を!」
バチバチと飛び散る火花。見世物のにおいを嗅ぎつけて他の博徒たちがわらわらと集まってくる。背が低い私はその群れに呑まれないので必死だった。
「丁半でいいんだね。あの晩にあんたが負けた丁半で」
「当然そのつもりだ」
そしてなんとか最前列に陣取った私は、ふと違和感に襲われる。
丁半博打とはその名が示す通り、二つのサイ(サイコロ)の出目が丁(偶数)か半(奇数)かを当てる賭博だ。もちろん確率は丁も半も二分の一。どちらが有利不利ということはない。
金の張り方はいろいろあるが、今回は村紗と駒草の一騎打ち。つまり勝ったほうが負けた方の賭け金をそのまま奪うことになる。
で。
問題は丁半博打という遊戯の特性……勝ち負けの確率はそれぞれ二分の一で、勝てば収支プラス100%、負ければマイナス100%になる。引き分けはない。
その期待値は……ゼロだ。
期待値がゼロということは、長く賭ければ賭けるほど、勝ちも負けも積もらずとんとんに落ち着いていくってことを意味してる。
……村紗、おまえ言ってることが違わないか? 期待値有利なギャンブルを潤沢な資金で勝ち切るって、そういう作戦じゃなかったのか?
「典! ツボとサイを!」
私の疑問は顧みられず世界は、時は、無常にも進み続ける。
駒草の声に合わせ、真っ白い衣装を纏った獣人が一人現れた。まるで最初からそこにいたかのように。
金髪の、狐のような耳と尻尾を携えた彼女がにこりと私たちに微笑む。
「どーも。ツボ振りの菅牧典と申します。ヨロシク」
「あ、あなたお山の管狐……またなんか企んでるの?」
「いやぁ私はただのバイトですよ。今回はなんの企みもなし。人手が足りないからねぇ。賭場も、このお話も……こーん」
「はぁ……」
とりあえずこいつは信用ならない。
村紗の助けにはなれないが、せめてイカサマが無いかしっかり見張っておこう。
もっとも彼女自身は、誰がツボを振るかなんて気にもとめていないようだが。おそらく駒草太夫ただ一人以外なら誰でもいいんだろう。天使だろうと悪魔だろうと鬼だろうと蛇だろうと、何人であれ、自分の勝負の邪魔はさせない……そんな気迫を隠すこともなく全身から放っていた。
「では、第一戦目だ。本来はサイを振ってから賭けるんだが、私らの場合コマ(※賭け額を示す札のこと)を揃える必要もない。最初に決めておこう。いくら賭けるんだね?」
村紗は口を開かず、ただ黙って鞄の中の札束を一つ掴むと、それを茣蓙の上に放り投げた。駒草太夫が微笑む。
「一千万か。あの夜おまえさんが負けた一千万」
「……そうだ」
「てっきり最初から一億勝負かと思ってたよ」
「風向きも読まずに船出するほど私はバカじゃない」
「ふふふ……」
「それより、受けるのか? 受けないのか!?」
駒草が再び指を鳴らす。部下たちが忙しなく動き、その背後に札束が積まれていく。一億など優に超す量の札束が。
「当然、受けるさ。お客様が心ゆくまで遊べるよう取り計らうのが私の仕事だからね」
「それではお二方、よろしいですね?」
典に向けて駒草が悠然と頷く。村紗もまた力強く首肯する。
「ではツボ、振らせていただきます」
典の細い指がツボを掴み、片方の手がその中へサイを放り込む。
ツボが茣蓙に伏せられる。
管狐は両目を閉じ、流麗な仕草でツボを伏せたまま素早く数度動かした。チリンチリンと中のサイの転がる音。
誰もなにも言わない。
ただ固唾をのんで典の手元を見守っている。
その手の動きが止まる。何人にも窺い知ることは出来ないが、今この瞬間、サイの出目が決まった。
典が顔を上げ、見開いた瞳で村紗と駒草を交互に見やる。
「どうぞ」
すかさず、村紗が叫んだ。
「丁!」
駒草がそれに呼応する。
「なら私は半だ」
典が頷く。
「では……勝負」
ツボが開かれる。
その場にあるであろう累計数百の瞳が、その視線が、一斉に同じ場所へと注がれる。村紗の顔もまたサイの方を向く。駒草だけが対面の村紗を睨めつけ続けている。
そして、サイの目は……黒丸が三つのものと、四つのもの……つまり。
「出目は半! シソウ(※4・3)の半!」
半。つまり……駒草の勝ちだ。
煙管の紫煙を吐き出しながら彼女は遠慮無しに村紗の札束を掴み、手元へと引き寄せる。
村紗はただその仕草をじっと見ている。まなじりを決したまま、微動だにせず。
「どうやら、私の勝ちみたいだね」
村紗は答えず、また札束を一つ鞄から放り投げた。
少なくとも……自棄になってる風じゃない。村紗はずっとこの調子。しかし平静というわけでもない。体の内側に燃えたってやまない熱い熱い何かを必死に閉じ込めている……余計に口を開くとたちまちそれが逃げていってしまう……そんな感じだった。
「二戦目も一千万勝負か。つまりあとこれを九回繰り返したら終わりだな」
村紗がやはり応えないのを見て、駒草が肩を竦める。その目が典に向い、管狐はまたツボとサイを構えた。
「ではツボ、振らせていただきます」
再び進行していく厳格な儀式的プロセス。
同じ夢を見させられているかのような酩酊感。
デジャブ。
典の手が静止する。
「丁!」
合図される前に村紗が宣言した。
「半だ」
駒草の宣言が続く。
「では……勝負」
ツボが開かれる。出目は
「出目は半! ゴロク(※5・6)の半!」
またしても駒草の宣言した半。
一千万の札束が容赦なく取り上げられ、彼女の背後に積まれた金の山に加わる。
村紗はその金の行く末をちらりとも見ない。
ただ、また、一千万の札束を場に出す。そうすることしかできぬ機械のように彼女は同じことを繰り返す。
駒草の側もそれを咎めたりはしない。
典が再びツボとサイを構える。
儀式が進行する。
村紗はただ「丁」と発し、駒草が「半」と応じる。
まるで阿吽の呼吸。二人がそうすることで何かしらの呪術が進行していると、あたかもそう錯覚するほどに同じ光景が繰り返される。
異なるのはただ、賽の目だけ。
「出目はイチニ(※1・2)! イチニの半!」
札束が消える。
村紗が金を出す。
サイが振られる。
「イチロク(※1・6)の半! 出目は半!」
金が消える。
村紗は次も頑なに丁を宣言し続ける。
またサイが振られる。出目は彼女に微笑まない。金が消える。
悪夢を見ているかのようだった。繰り返す悪夢に囚われているような錯覚。
これで……既に五連敗だ。つまり負け分は五千万。満杯だった鞄は既に半ばの内容を失い、みっともなくクタりとヘタってる。
いったい……何が起きてるんだ? イカサマか? あの鬼傑組の賭場のように、駒草と典がグルなのか?
しかし私の胸元のペンデュラムに反応はない。ずっと私はイカサマを「探してる」。もしその兆候があれば、私の探しているものが見つかれば、ペンデュラムは絶対に反応する。
だが、美しい青の宝石は先程からぴくりとも動かない。
イカサマは無い。
村紗はただ負けているんだ。ただただ五回連続の二者択一を外しただけ。それがこの場で起きていること。それが……現実。
「さて」
黙って金を出そうとする村紗。
その手を、ついに駒草が押し留めた。
「もういい加減にしたらどうだい、船幽霊」
ぴくりと村紗が顔を上げる。立ち昇っていく煙管の紫煙。
「何が言いたい」
「あんたに貸しつけてある廻銭、一千万。それだけ置いてもう帰ったらどうかって言ってんのさ」
「私の金をどう使おうが私の勝手だ」
稼いだのは私だけど。
とはいえ村紗は借用書まで切っている。今あの場にある金は間違いなく村紗の金だ。
駒草が深いため息を吐き出す。
典はただ次の指示を待って、その場に淑やかに正座したまま動かない。
「はぁ……仕方がないねえ。確かに船乗りってのは博打狂が多い。それはなぜか?」
問いかけられても村紗は答えを言わない。知っていて言わないのか、それとも彼女にさえわからないのか。
駒草の瞳がするりと動き、私の方を見る。
「お嬢さんにはわかるかい?」
私はだまってかぶりを振る。村紗にも答えられないものをどうして私が答えられよう。
駒草が煙管を吸い込み、天に向かって煙を吐き出す。
「それはね、船乗りが明日をも知れぬ身の上だからだ。波に飲まれて死ぬ。風に彷徨って死ぬ。壊血病で死ぬ。海賊に襲われて死ぬ。ただただ死ぬ。無意味に死ぬ。時に、船乗りの命は船板一枚よりなお軽くなる。まさにそうして海に命を取られたあんたなら、船幽霊のあんたなら、よく知ってることだろう?」
誰もがじっと押し黙って駒草の言葉を聞いている。
村紗は……どんな表情をしてるだろう? 私から見えるのは背中だけだ。真っ白い背中は何も語ってくれない。
「だからおまえさんたち船乗りは、明後日より明日に、明日より今日に生きちまう。それが船乗りのサガ。どうせあの世に金は持っていけない。なら命あるうちに使っちまえ。ふふ……おまえさんらは負けたがりなのさ。負けて金を失いたい。金を持ったまま死にたくないから。とどのつまりは破滅願望者……ふふふふ……」
同じだ。
それは私の抱いた村紗への印象と同じ。
破滅願望者。
だってそうとしか考えられない。駒草の言った通りだ。村紗は金を失いたがっているようにしか見えない。もちろん結果的に儲けが出ることだってあるだろう。でも……あらゆる博打は胴元が有利になるようにできている。つまり長く打てば打つほど……それこそ厳格な確率と期待値の魔術により、絶対に損をするのが博打打ちの運命だ。
そんなことがわからないほど村紗はバカじゃないはずだ。
つまりわかっていながらやってるんだ。
そうだとすると……やっぱり、破滅願望者としか思えない。
ドサリ。
重いものが投げ出される音が一つ、響いた。
村紗の残金五千万。それが茣蓙の上に投げ出された。鞄ごと。
「……最後の大勝負ってわけかい。本当に聞き分けのない奴だねぇ。典!」
呼ばれた典がまたツボとサイを構える。が、そこに割ってはいる声。村紗の声。
「まだだ」
「なに?」
「まだ賭け金が出揃ってない」
駒草が煙管を咥え、典に「待て」と手で示した。
私は……怖かった。
村紗の声は抑揚を完全に欠いた、死人の発する声のようだった。もちろん村紗は既に死んでるけど、彼女の声音は生者よりも感情の色に富んでいる。この三日間、私はそれをよくよく思い知った。
だけど今のは。
今のは生き物の出していい声じゃなかった。むしろ生者を死の底へ引きずり込もうとするかのような声。
じゃあ、引きずり込まれようとしてるのは……誰だ? 駒草太夫か? それとも――
「私たちが賭けるのは五千万じゃない。五億だ」
「ふぅーー……阿呆もここまで来るといっそ憐れになるね。そんな金がどこにある?」
「金はない」
「なら……」
「そっちは金でいい。だから、私の足りない四億と五千万円分。なんでもいい。あんたの望むものを賭ける。それで勝負をしよう。最後の大勝負を」
「……っち」
舌打ちが一つ。それは、駒草太夫が初めて見せた生の感情らしい感情。
彼女が煙管を構える。そこから吐き出される濃い紫色の煙が村紗に絡みつく。
無論、その場の誰もが知っていた。駒草太夫の能力。彼女の煙管は精神を操作する力を持つ。
単に……村紗が熱くなりすぎているのだと、そう判断したのだろう。呆れるほど見てきたはずの数多の敗残者たちと同じように。
だが。
「なっ……効いてないのかい!?」
村紗水蜜は動かなかった。
おそらく、あの揺るぎない紺碧の瞳でもって駒草太夫を見据えているのだろう。
村紗。
なぜだ?
なぜおまえはそうまでする?
私との約束を守るためじゃあないだろう? 最後の博打だからって、こんなのやりすぎだ。残る五千万を賭けるだけならまだしも、その十倍……いや、具体的に何倍とか何円とか、そんなのは重要なことじゃない。
狂ってる。そうとしか思えない。村紗は狂ってるんだ。
いや……そうなのか?
確かに客観的に見ればこれは狂気の沙汰だ。博打狂いの末期的症状。手の施しようもない、死に至る病。
でも、私の知っている村紗は……今までは知らなかった、でも、この三日間の間に見てきた村紗は……こんな狂気の身投げで破滅を望むような奴だったろうか?
駒草の頬をひと粒の汗がつたってゆく。その口元がわずかに、歪んだ。
「い……いいだろう。そこまで死にたいのなら、しかたない。どうせ博打狂いは手の施しようがない人種さ。このまま他所様に迷惑をかけるくらいなら、せめて私が看取ってやるのが駒草太夫の矜持じゃないか。なあ、船幽霊……」
「あなたの矜持はどうでもいい。具体的に私は何を賭けたらいい? 悪いけど臓器一式は持ち合わせがない。それ以外にしてくれると、助かるわ」
「ふふ……偉そうに……」
駒草太夫が煙管を吸い込む。さすがに向こうも百戦錬磨の博徒。冷や汗は先のが最初で最後だった。
震え一つ無い手で煙管を口からのけると、彼女は静かな声で答えた。
「ま……体だな。どうせ他に財産があるようにも見えない。体で払ってもらうより他にないだろ」
発した声がさらに彼女の平静さを呼び戻したらしい。
一旦は崩れかけた駒草の威圧感。それが今や完全に取り戻されている。恐ろしい奴……。
「この賭場の遥か地下。私の知り合いが頭をやってる鉱山がある。詳しくは語るまいが、村紗、あんたが負けたらそこで働いてもらう。力には自信あるんだろ? 船乗りから、出家者を経て、鉱夫へ。なんともまあ数奇な人生じゃないか。いや、もう死んでるんだったかな」
「私はそれで構わない」
「そうか。それは良かった。しかしどうにも安月給だからね、四億五千万も稼ぐとなると……典! 年に50万ずつ返済するとして、どれくらいかかるかな?」
すかさず管狐が答える。
「九百年です」
「そうか。ちょいとキリが悪いな。金利分も含めて一千年としようか。うん、格安だねこれは」
満足気に頷く駒草太夫を、その場の誰もが言葉を失ったまま見つめていた。
一千年。
軽々と見積もられたその年月は、奇しくも、私たちが聖復活のため地下に潜伏していた期間とほぼ同じだった。
だからわかる。
一千年という時間の重み。その気の遠くなるような長さ。
バカげてる。どう考えたってバカげてる話だ。
私にはもう我慢できなかった。
「お……おい! 村紗! おま、おまえ! おまえなあ! いい加減にしろよ!」
「ナズ?」
「何考えてるんだよ!? ま、負けたら千年だぞ!? 千年間も地下から出られないんだぞ!? いいのか!? そ、そんなのいいのかよ!?」
「そりゃ……よくないよ。もう地下はこりごり」
「じゃあどうしてっ」
「負けたらの話でしょ。あくまで負けたらの話。勝てば問題ない。勝てば、五億だ」
「なっ……なにが五億だよ!? これが例え十億でも百億でも百兆でもダメだろ! だいたい何が金なんだよ! いらないだろ金なんて! 駒草太夫の言う通りだ! 一千万を返して終わりにしよう! それで帰ろう! 帰ろうよ! 村紗!」
「ナズ……心配してくれてるの?」
「当たり前だろ!? わた、私は嫌だ! 一千年もおまえだけまた地下に閉じ込められるなんて嫌だ! せ、せっかく仲良くなったじゃないか! この三日間! こんなに村紗と話したの私初めてだった!」
それが何だっていうのか。だからどうしたっていうのか。
私にさえ私が何を言ってるのかよくわからない。
それでも叫ばずにはいられなかった。村紗の襟首を掴んで、ばつの悪そうな顔をするこいつに言葉を投げつけるくらいしか私にはできなかった。
「だいたい! だいたい、聖のことはどうするんだ! 一輪は、ぬえは! 御主人様になんて説明したらいい! あいつ博打に負けて千年ほど帰ってきませんって、そんなのでみんなが納得すると思うのか!? ぜ、ぜんぶ私にやらせる気か!? 嫌だからな! そんなの嫌だから!」
「げほっ、待って、ナズ待って……苦しい、苦しいってば」
「あ……」
力を込めすぎていた。
手を放すと、ゲホゲホと村紗が咳き込む。
それから彼女はゆっくりと息を吸い込み、吐き出すと、あの紺碧の瞳で私を見上げた。
「ナズ。私も悪いとは思ってる。ここまであなたを巻き込んでしまうなんて、予想してなかった」
「ん……」
「ええとね……まあ、いろいろ言うべきことはあるんだろうけど……」
数秒、彼女の瞳が虚空を彷徨う。
それからまた私の方を見つめ直した。
「さっきの駒草の問い、覚えてる?」
「え? あ、どうして船乗りが博打するかって話?」
「そう。そんなこと、駒草太夫に言われるまでもなく私はずっと考えてたよ。考えてたけど、答えは見つからなかった。見つからない中でそれでも、どんなに聖のことを尊敬していても、博打をするのを辞められなかった」
それは依存症だからだ。思わず茶化したくなるのを堪える。村紗は、村紗の言葉は、これまでとは違う彼女のなにか深い地点から引き出されたもののように聞こえる。
茶化したくなるのは、怖いからだ。私は逃げたかった。私は臆病な鼠だ。
でも今は……村紗水蜜の友達でもある。
「一つだけ確かなのは、私たちが賭けをするのは破滅願望なんかじゃないってこと」
「うん……」
「わかりかけてたんだ。一千万の負債を作った夜。私は、私を追い立てるものの正体を掴みかけていた。でもあの日はそこまでだった。金が尽きたから。海門までたどり着いたのに船は風に煽られ、沖に再び流されてしまったんだ」
「……だから私に頼ったんだな。負債分の一千万だけじゃなく、種銭が欲しかったから……いや違う。探してたんだな。村紗の探してるもの、その答え……それを私に探してもらいたかったんだな!? ダウザーである私に!」
「ん、まあ、そこまでは考えてなかったけど」
「なんだよ!?」
「でも確かに、ナズのおかげだ。ナズのおかげでここまでこれた。そしてほんのついさっき……私自身の全てを茣蓙の上に広げた瞬間ようやく……ようやくわかったんだ。いや、わかったというと正確じゃない。ようやく私は……納得できたんだ」
波の音がする。
波が岸壁を打ち砕く音がする。
村紗の言葉は続く。もう誰もそこに口を挟めない。私も、管狐も、駒草太夫でさえも、誰も。
「私たちが賭けをするのは生きるためだ」
波の音。ざぶん、ざぶん。
押し寄せてくる。押し寄せてくるのは海だ。
海。途方もない海。これが村紗のいつも見据えているもの……?
「海に挑むことは……それは、運を試すことなんだ。私たちはツボの中のサイ。海というツボの中でどんな目が出るのか……そうだ。私たちはいつでも賭けてる。自分の命を賭け続けてる。賭場も、海も、私たちにとっては同じこと。博打の流れは運の流れで、運の流れは海の流れだ。でも船乗りは死にたがりじゃない。その職業的使命として海の流れに打ち勝つことが義務であり、誇りであり、日常で、そして――だから……! 私たちは生きるために勝つ! 勝つってことは生きるってことだ。理不尽な海の暴威にさえ打ち勝つのが最も誇り高き船乗りという種族なんだ!」
村紗の言っていることは、正直、よくわからなかった。もとより伝えるための言葉ではないんだろう。
自分が納得するための言葉。
自分を納得させるための言葉。
それは自分を理解するための対話。
村紗が語りかけているのは私たちじゃない。村紗自身なんだ。
管狐が悲鳴をあげる。その足元を冷たい潮が洗っていた。
「ひ、駒草さんこれ……! これなんなんですか!」
「心象風景……船幽霊の内側がこっちを侵食し始めている……」
いつしか私たちは広大な海原に取り囲まれていた。
海原の中に頼りなく突き出た六畳ばかりの岩場の上で、ツボとサイと金の乗った茣蓙を囲んでいた。
野次馬たちの姿は見えない。代わりに、岩場の端に座礁した無惨な船の死骸がある。
それは……村紗という人間の最後に見た風景なのだろうか? それとも全然に関係ないただのイメージなのか。
波の音と風の音、潮のにおいの吹き荒れる中、ただただ村紗の言葉だけが続いていく。
「たしかに、私は負けた。抗いようのない流れに呑まれ呑まれてボロ切れみたいに命を落とした。そうだ! 私は負けた! だけど……だから……! だからもう、二度と負けたくない! だって負けたらゴミだ。船乗りは生きて戻ってこないとダメなんだ! だから私は勝つ! 勝って、勝ったら、そうしたら! 私は……!」
もしかしたら……村紗は受け入れられていないのかもしれない。自分の死を、じゃない。私らはもういい加減にそんな歳じゃない。ただ、自分が負けたことが受け入れられない……大いなる流れにただただ押し流されるだけだった、弱い人間としての村紗を、あいつ自身が受け入れられてないのかもしれない。
だから賭ける。自分の流れを知るために。自分を取り囲んでいる流れを見極めるために。
そして……そしてどうするんだ? いまさら過去の死が、かつての敗北が無かったことになるわけじゃない。
そもそも駒草太夫は海じゃない。駒草に勝っても海に勝ったことにはならない。
あるいは全然別なのか? 別の理由なのか? どうなんだ、村紗……?
しかし彼女は答えてくれない。だから結局……私にできるのは有り得そうな可能性をあれこれあげてみることだけ。
それでも。
それでも一つだけ、恐ろしい考えが急速に私の中で頭をもたげていた。
村紗が負けることじゃない。たしかに千年は長いが、あくまで幻想郷の中での話。こっちから会いに行くことだってできる。私たちは待てる。待っていればいつかはまた戻って来る。所詮は、その程度の話。
それよりも恐ろしいのは。
もっとも恐ろしかったのは……村紗が勝つこと。村紗が証明してしまうこと。
何をって……それはわからない。強さかも知れない。運勢かもしれない。私には思いも寄らないことなのかもしれない。
わからない。どこまで行っても他人は他人だ。覚でもあるまいし、心の内側までは覗けない。
でもとにかく村紗は何かを証明しようとしてる。何かを……じゃあ、その後は? 村紗が「それ」を証明できてしまったら、その時、いったいどうなる? 破滅を賭けてまで辞められないほどの強烈な、村紗水蜜の抱えた深遠な鬱憤が氷解してしまったら?
村紗……?
「駒草山如。勝負を再開しよう」
「……いいだろう、船幽霊。いや……村紗水蜜。その勝負受けて立つ。典!」
菅牧典がツボとサイを構える。とんでもないことに巻き込まれてしまった、とべそをかいた顔が訴えている。
それでも彼女は己の仕事を遂行した。この場で茶地な仕事など許されないという空気を、勘の良い管狐はきっと敏感に感じ取っていた。
「で、ではツボ……振らせていただきます!」
潮騒の叫びの中にサイの転がる音が響く。
だが村紗も、駒草も、ツボを一瞥しようとすらしない。まるで先に目を逸らしたほうが負けるとでも言うように、ただじっと、お互いを睨めつけ続けている。
典がサイを振り終える。運命が決する。あのツボの内側。そこは流れの終着点。この丁半の、この三日間の私と村紗の……いや、ともするとこの千年間の村紗が過ごしてきた流れのすべてが、あのツボの暗闇の中でサイの出目となり、後はただ、日の目を浴びる時を待つだけとなった。
ごくりと息を呑んだのは典か、それとも私なのか……。
「どうぞ!」
「丁だ!」
「半!」
村紗が賭けたのは丁だ。すでに五連敗を喫した丁。あくまでも丁。
でも……私は少し安心していた。考えてみれば村紗は今、流れに恵まれていない。そうだ。流れだ。もしもそんなものが本当にあるとして、村紗は既に五連敗……良い流れのハズがないだろう。
しかも五回連続で丁に拘り、その上での連敗だ。これはもう最悪。悪運の中にいると知りながら自らそこに嵌り続けるような行為じゃないか。典型的な破滅者のパターン。
村紗は勝てない。そんな予感がした。
そうとも勝てるわけがない。既に村紗は最悪の流れに呑まれかけている。ツキが無いんだ。きっとあのツボの中の出目は半だ。六回連続の半。そういう流れ。断ち切りようのない――
「あ」
瞬間、胸元に熱い反応が生じた。まばゆく青い輝きを放つ私のペンデュラム。私の探しものが見つかったことを示す宝玉の光。
流れ。
断ち切りようのない流れ。
それを……村紗が承知していないなんてこと、あるのか?
だって村紗は船乗りだ。船乗りとは流れを読み、流れを乗りこなす生き物だ。それをこんな、私でもわかる悪い流れに目を瞑って一千年の苦行を賭けて……そんなのおかしくないか?
逆だとしたら?
この流れこそが村紗の望んだものだとしたら?
そう、だって、村紗はさっき言ってたじゃないか。抗いようのない流れに呑まれてボロ切れみたいに命を落としたって。それって似ている。この状況に似ている。
村紗は流れに呑まれて負け続けている。かつての、海に命を奪われた村紗のように。
だが今、村紗はここにいる。荒れ狂う波と風の中、揺るぎなき意志を燃やして再びにその「最悪の流れ」と相対している。
わざとなのか?
村紗はわざと最悪の流れを……そしてそれに打ち勝つこと……過去を否定するかのように……それが村紗の望み……?
「ダメだ、村紗……」
そもそも。
そもそも村紗に流れは本当にないのか?
考えてみればこの三日間、村紗はずっと勝ち続けてないか?
もちろん誘拐犯妖怪に殴り飛ばされたり、ヤマメに病を押し付けられたり、希望仮面に一瞬で敗れたり、良いことばかりじゃなかった。それでも最後は手に入れてる。金を。
今だって、五連敗と言うと縁起でもないようだけど、仮にこの勝負で勝てば負け分は吹き飛ぶ。
流れ。
最後には望むものを手にする流れ……?
「ダメだよ、もう帰ろう。帰ろう、村紗……!」
そもそもで言えば、そもそも、おかしくないか? 五回連続の半。もちろんそれはあり得ることだ。そういうことはある。ただの確率だ。丁が出る確率も半が出る確率も純粋な五割。二分の一。揺るがない。例えこれまで一億回連続で半が出たとして、その過去は未来を左右しない。
しない、はずだ。
だが……そもそも。そもそもだ、そもそもからおかしかったんだ。一昨日から私の能力は絶好調だった。それは「私の」調子がいいんだと思ってた。
そうじゃないとしたら?
それは「誰の」調子がよかったんだ?
それは……ひょっとしたら「誰か」の流れ……大いなる流れに流された結果だったんじゃないのか?
村紗水蜜は今、どんな流れの中にいる……?
「村紗!」
私の言葉は届かない。波にかき消されて届かない。
そして――ようやく気がついた。原因は私なんだって。私が村紗の口車に乗ったことが全ての流れの始まり。それが全ての間違いだったんだと。
しかしもう遅い。なにもかもが遅すぎた。
きっと村紗は勝つだろう。勝ってしまうのだろう。その後にどうなるかなんてわかりっこない。でも――怖かった。ただただ怖かった。誰でもいいから助けてほしかった。
誰でもいい。
誰でもいいんだ。
だからお願い。どうか助けて。どうか……村紗を助けてやってくれ……どうか!
「では、勝――」
その時。
これまでにない強烈な反応が、胸元のペンデュラムから迸った。先程とは比較にならないほどの眩しい光。
典がツボに手をかける。
運命が決する。流れは底に至り、そして、
「その勝負待った!」
管狐の手が止まった。
私たちは駒草太夫の賭場に居た。海も、波も、風も、嵐のような流れも、今やどこにも見当たらなかった。
見開かれた駒草太夫と管狐の瞳。私の瞳が、闖入者を見上げた。
凛とした声が、静寂の賭場に響いた。
「駒草殿。無理難題とは承知の上で何卒お頼み申し上げます。この命蓮寺本尊・当代毘沙門天代理寅丸星の顔をたて、どうかこの勝負、無かったことにしていただきたい」
立っていたのは寅丸星――私の御主人様。
虎の目がちらと私を見つめ、わずかにその相好が崩れる。けれどすぐまた険しい顔色が戻る。
その中で唯一振り返らなかったのは、船幽霊、村紗水蜜。しかしついに弾かれたように立ち上がると、御主人様に掴みかかった。
「星!? なんだってここに……いやそんなことどうでもいい! なぜ止める!? 殺されたいのか!?」
「村紗。あなたの意見は聞いてない。この賭場の仕切りはあくまで駒草殿。彼女が認めてくれさえすれば、そのツボを開く必要は無くなる」
「巫山戯るなよ! 千年間! 千年間待ってようやく巡ってきた機会なんだ! それを! どうしてそれを止める! いや最初から星に止める権利なんか無い! 管狐! そのツボを開けろ! 今すぐに!」
震え上がった菅牧典がツボを開こうとするのを、駒草の右手が押し留めた。典がはっと我に返る。
「……毘沙門天様といえば我ら博徒のご本尊。拝む相手に拝まれちゃあ聞き入れないわけにもいきますまい」
にやりと笑った駒草がツボを滅茶苦茶にかき回す。からからと儚い音が響き、先程までこの場の全ての者の命運を握っていた賽の目は、ついに永遠にわからなくなった。
愕然として崩れ落ちる村紗。
御主人様が深々と頭を下げる。
「感謝……申し上げます」
「毘沙門天の御代理様、どうか頭をお上げください。ただ、しかし……一度卓上に出た金とは最早誰のものでもない天の取り分にございます。この場を丸く収めるためにも、胴元たる我々が責任を持って後程天にお返し申し上げる……ということを、どうかご承知いただけませんかね?」
「無論、構いません」
「ではこの場はこれにてお開きに。またのお越しをお待ちしております」
ゆるりと駒草太夫が立ち去り、管狐もまた逃げるように去っていく。野次馬たちもああだのこうだの言いながら、めいめい賭場を後にする。
そして残されたのは村紗と、御主人様。それと私だけ。
「村紗。顔を上げなさい」
スネた猫みたいになった村紗が御主人様から目を逸らし続ける。その目元は真っ赤だった。船幽霊なのに。
「村紗」
「……なに」
そして彼女が根負けして振り向いた瞬間、ぱん、と渇いた音が鳴った。
信じられないって顔の村紗。私も信じられなかった。今のは御主人様の……ビンタ?
「な、なにすん――」
「これで不問です」
「え……か、賭けのこと?」
「違います」
「じゃあなに」
「私の大切なナズーリンを誑かし、あまつさえ怖い目に合わせたことです」
御主人様の口調は淡々としているが、それがかえって恐ろしかった。
パンパンに詰まっていた村紗の殺気と気迫が徐々に萎んでいく。
御主人様がこんなに怒っているとこ、初めて見たな……。
「賭けのことは、最初から問いただすつもりはありません」
「そ、そうなの?」
「永遠亭の方々から聞きました。ギャンブル依存症は病気なのだそうです。そして、治療すれば治るのだそうです」
「え」
村紗の表情が凍りつく。御主人様の喜色満面な顔色。
「村紗。治療、がんばりましょうね。でもきっと大丈夫ですよ。あなたは強い船乗りなんですから」
「ちょ、ちょっとま、待って。待って!」
「待ちません」
「お願い星! せめて話を聞いて! 私が賭けをするのは生きるためで、だからその、つまり――」
「待ちません」
「た、助けて! 嫌だ! 助けてナズっ! ナズーリンっっ!」
その時私は、たぶん世界知らん顔選手権があったら優勝できそうなくらい完全な知らん顔をしていたと思う。
今やあらゆる流れは完全に消え去っていた。気がつけばこの三日間で稼いだお金も綺麗さっぱり無くなって……結局、私たちは全てを失った。
後に残ったのはただ、凪いだ世界。
清々しい気分だった。
【Day EX:エピローグ あるいは シャボン玉は弾ける瞬間虹の涙を流す】
「……なるほどね。それでこの頃、村紗の奴を見かけなかったんだ」
命蓮寺。
取り戻された日常はまたたくまに過ぎ去っていき、その有難みも今や目を凝らさないと見えないほどに薄れてしまった。
封獣ぬえは手にしたシャボン玉の吹き具を退屈そうにくわえると、見事なシャボン玉を一つ作り出す。
ふわふわと青空の下を飛んでいく虹色のバブルを、どこか既視感を抱きながら私は目だけで追いかけた。
「うん。ギャンブル依存症治療プログラムってのがあるみたいで、向こう半年は竹林から出られないんだってさ」
「ふーん。まあ半年で済んで良かったじゃん。下手すりゃ一千年も地下ぐらしだったんでしょ」
「まあ、ね」
あの後、駒草太夫の賭場から戻った後に生じたしっちゃかめっちゃかすってんてんな騒動について……聖のお説教とか、なんとかかんとか……そういうものについては、語るまい。ていうか語りたくない。
ぬえが吹き具をシャボン液にしゃぼしゃぼする音。流行ってるの? それ……。
「やっぱさぁ。元人間だよねぇ、村紗も。私にゃわかんないな。自分が死んだ時のこととか知らんし」
「一輪も聖も元人間だけど」
「だからよくわかんないよ、みんなのこと。もっと自由に気ままに生きたら良いのに」
それでいいのか。せめて聖のことは理解しようとするべきじゃないのか。
言いたいことはいろいろあったけど、めんどくさいので黙っておく。
ぶくぶくと空に放たれるシャボン玉。それが風に吹かれてパチンパチンと虹の涙を流しては消えていく。
諸行無常。
「にしても結局……村紗は最後までナズーリンに頼りきりだったわけか。こりゃ寺のパワーバランスも変わるね。村紗最下位。山彦以下」
それ元の私の位置どこだったんだ。怖いから聞けなかった。
「いやまあ、最後は私なにもしてないよ。御主人様が来てくれなかったらどうなってたか……」
「あれ? そうなの?」
不思議そうに首をかしげるぬえ。
「星が来たのはナズーリンの力でしょ?」
「え?」
そうなの?
今度は私も首をかしげる。二人で疑問符をもてあそんでから、ぬえが吹き具を寄越す。いや、いらないから。
「だって……そうでしょ? 星が賭場に自分から行く理由、無いじゃん」
「それは村紗に博打をやめさせるために……」
「いや、いや、だとしてもよ? 村紗がその日に賭場に行ってるかどうかなんて知るわけなくない? ましてあんたら三日間も留守にしてたんでしょ。それに星は寺の本尊なんだから、自分から出歩いたりしないよ」
「え……」
「最後の最後、土壇場で村紗のアホな企みに気がついたナズーリンが助けを求めたから……あんたの物探しの能力が発動して、星を呼び出した。そういうことじゃないの?」
「いやあり得ないだろ! じゃあなにか、私が御主人様を寺から賭場までワープさせたっていうのかい!? 無理だから! そういう能力じゃないからこれ!」
「ナズ」
にやり。封獣ぬえの口元が妖しく歪む。その雰囲気はさながら平安の大妖怪。手にシャボン液の容器を持ってさえなければ、だけど。
「あんたは自分が村紗の流れに巻き込まれたって思ってるみたいだけど……本当にそうなのかな? やっぱりそれは、ナズーリン自身の流れだったんじゃないの?」
「もう流れの話はしたくない……」
「だってさ。あんた最後に何もかも失ったって言ってたけど、そうじゃないでしょ」
「え?」
「はぁ……マジに気がついてないわけ? 欲がないと言うか善人というかお人好しというか間抜けというか……」
滅茶苦茶な罵倒をされつつ、ぬえがなにを言いたいのかわからない。
つん、と彼女の鋭い指先が私の額をつっついた。
「借用書。切らせたんでしょ? 村紗に」
「……あ!」
そうだ。たしかに村紗は私から一億を「借りて」打ったんだ。
どうせ返せる宛もないわけだし今まですっかり忘れてた。
やれやれとかぶりを振るぬえが、少しだけ、真面目な顔になる。
「依存症治療ってのが何してるかしらないけどさ、きっと村紗はまた博打をやるよ」
「……う、うん。だと思う」
「だからさ、ナズーリン。そん時は、あんたが止めるのよ。また口車に乗せられるんじゃなくて」
「私が?」
「そ。少なくとも一億円……いや、その時はきっと膨れ上がった利息で数十億円になってるだろう負債。それを返済し終えるまで、あいつに成仏なんてさせるんじゃないよ」
成仏。さらりと言ってのけた言葉が胸にずしりと重い。
やっぱりぬえもそう思うんだ。村紗は……もしもあのまま村紗が勝っていたら、あいつはきっと成仏してただろうって。
「な、なんか凄い悪役みたいだけど」
「だから! いざって時のとっておきさ。それまでしっかり保管しておきなよ」
「うん……でも、それでいいのかな? 村紗が望んでいるなら、私は別に」
つんつん、とまたしても指先に突っつかれる。
痛い。
「呑まれるなよ、あいつの流れに。自分の船は自分で舵を切るしか無い。そりゃ船乗りだろうとなかろうと変わらないよ。その点であいつは自意識過剰だし、あんたは卑屈すぎ」
「う……」
「ま、難しく考えることもないさ。友達が妙なことやろうとしたら止めてやる。普通のことだろ、それって」
「……う、うん。そうだな。そうかもしれない」
その時にふと、まだ一つだけシャボン玉が宙を漂っているのが見えた。
どこまでも高く、高く流されて、空の青と混ざって消えた。
最初から最後までろくでもなかった村紗と終始流されてるナズーリンがよかったです
なんだかんだ仲もよさそうで何よりでした
でもやっぱり村紗の思考がろくでもなさ過ぎて笑いました
たまには混沌でやばやばな村紗水蜜もよいものだ。よかった
大変楽しませていただきました!
彼女の言動や散り際(?)も含めてまさにギャンブラーの鑑だったと思います!
いやー痺れるほど格好良かった!
あと、なにげに最後のぬえとナズの会話がとても良かったです!ぬえって美味しいポジションが似合うなぁ。