今夜は昨日より少しだけ肌寒い。
八橋はもう寝ているだろうか。
二人で同じ時間に布団に入るといつも寝つきのいいあの子の方が先に眠りにつく。
やはりというべきか、耳をすませると小さな寝息が一定のリズムで聞こえ始める。
ゆっくりと目を開けて横目で隣の布団を見やる。
予想通り今日も敷布団の中心に仰向けで姿勢よく横たわっていた。
掛布団はすっぽりと首が隠れるまでその身体を覆っている。
晩秋の月が窓越しに照らす寝顔も静穏そのもので、日中の活発さを考えるとまるで別人のようにさえ思えてくる。
それとも、琴は床上に置いて弾く楽器だから横になることに慣れているのだろうか。
さすがに関係ないか、と一人自問自答をする。
八橋と初めてここで寝た日のことが追想される。
私達は空に逆さのお城が現れた異変がきっかけでこの幻想郷に生を受けた。
そして姉妹の契りを交わしてからはずっと行動を共にしている。
道具だった頃の記憶はない。
ただ、自分が付喪神として元の楽器から生まれ変わった存在であるという事実。
それだけは目を覚まして鼻と口で呼吸をしたその瞬間からはっきりと理解している。
はじめのうちこそ自由に動ける身体を手に入れられたことに強い喜びを感じていた。
でも、自分達はこれから何をして、どのように生きていけばいいのか。
そもそもここはどんな世界なのか。
次々に湧き上がる不安に打ちひしがれていた折に、あの子と出会った。
境遇が同じで、しかも音楽を愛する者同士。
すぐに意気投合し、二人で一緒に生きていくことを決めた。
当然ながら私達に血のつながりは無い。
それでも、ただの友人関係ではない、もっと特別なそれを私は強く欲していた。
絶対に離れることがない。
私を一人にしない。
そんな特別な関係を。
気付けば、誘い文句を考えるよりも先に口が動いていた。
「私達、姉妹にならない?」と。
それから二人で生きていく中で、本当にいろんなことがあった。
契りを結んだ記念すべき日はせめて寝床を見つけようと、真夜中まであちこちを探し回った。
結局屋根のある住処は見つけられず、野宿をする羽目になった。
次の日は早々に無人の古屋を見つけることが出来、喜んだのも束の間。
あまりに老朽化が進んでいたからか壁を少し押しただけであっさりと倒壊。
朝から二人で埃まみれになってしまい、結局その日も人気のない川辺で夜を明かした。
そんなこんなで今のこの古びた小屋を見つけるまでに三日もかかってしまった。
その間中ずっと投宿が続き、十分な休息も食事も取れていなかったので体力も限界だった。
建屋の中に入るなり「後のことは明日考えよう」と一組しかない布団に二人で倒れ込んだっけ。
住居と同じでとても綺麗とは言えない有様だったけど。
全体はひどくへたり、角に空いた穴からは中の綿が飛び出ている。
大きさは二人で横になるとそれだけで窮屈になるぐらい狭い。
触り心地も、勿論頼りない。
でも、二人でそこに横になった途端。
畳一畳分ぐらいのその場所は、間違いなく私に安穏を与えた。
粗末な壁に隙間風が吹き込む穴の空いた窓。
でもそれらは、確実に私達と外界を隔てる役割を果たしていた。
疲労が背中から地の底に向かって吸い上げられ、代わりに温かな安心感が胸の奥から溢れてくる。
どちらから手を差し出したのかは覚えていない。
私達はお互いに相手の手を握り合い、目を閉じながら呟いた。
おやすみ、と。
***
翌日。
私は人里の茶屋で約束の相手が来るのを待っていた。
昨夜はあのまま布団に潜り込んでもなかなか寝付けなかった。
薄い桃色の和服を着た若い女性が注文を取りにやってくる。
連れが来るのでもう少し待って欲しい旨を伝えると、にこやかに表情を和らげた。
「かしこまりました!」
愛想のいい返事とともに、厨房の方へと引っ込んでいく。
彼女がやって来たのは、その三分後のことだった。
「おまたせー!」
オッドアイと紫色の傘が特徴的な唐笠お化けこと、多々良小傘。
息を切らせながらも嬉しそうに私の向かいに腰を下ろす。
今日のような会合は初めてではない。
きっかけは人里での演奏会に来てくれたことだった。
後に小傘が輝針城異変よりもずっと前からここで暮らしていることを知り、同じ付喪神として少なからず興味を持つようになった。
彼女と交流を持ったおかげで知ることが出来た情報もかなり多い。
鍛冶にベビーシッターと、まるで人間のように日々を忙しく過ごしていることもまた、私を驚かせた。
「ねえねえ、もう決めた?」
小傘はそう言いながら、メニューの書かれた木製のボードを何度もひっくり返す。
「私は決めてるから、ゆっくり選んでいいわよ」
「分かった、今日は抹茶のお団子でしょ」
「そうだけど、どうして分かったの?」
「だってここのお団子、三種類あるけど抹茶以外はもう全部食べてるもんね」
「……よく覚えてるわね」
「ふふん」
小傘はそう言いながら自慢げに腕を組む。
その顔つきには妖怪らしさが全くなく、むしろ幼ささえ感じてしまう。
私などよりずっと長く生きているはずなのに。
でも、そんな彼女だからこそ人間も自分の子どもを安心して預けられるのかもしれない。
初めて言葉を交わした日の事が頭を過る。
小傘は人間に対して敵対心を持っておらず、むしろ人の役に立てることが嬉しいと無邪気に話していた。
今でこそ私も八橋も人里に馴染んできているけど、元々は道具による下剋上を夢見ていた。
正直、今となっては何故あの時あそこまで後先を考えない行動をしたのかは自分でも分かっていない。
ただ、自分と同じ境遇の可愛い妹、家族が出来たことで強気になっていただけなのかもしれない。
異変は結局失敗に終わり、主犯二人のうち天邪鬼は早々に一人で逃げ出し行方不明。
もう一人の首謀者、針妙丸はただ騙されていただけだったからか、博麗の巫女に保護されたと聞いている。
私達はと言えば、人間一人すら倒せず二人一緒に打ち負かされた。
終わってみればただ服と身体がボロボロになっただけだったけど、後悔はしていない。
自分は一人じゃない、それだけでどんなことにも立ち向かえるような気がしたから。
「店員さーん!」
紫色の雲が魔力とともに渦を巻く中での激しい弾幕決闘。
自分でもかなりの自信作だったスペルカード。
光輝く五線譜と天から降り注ぐ音符弾が織りなす美しいハーモ二ー。
でも、紅白の巫女はそれを巧みに避けながら一気に距離を詰めてきた。
そこで最後に見た光景は、まるで猟犬のように私に殺到する十数発の光弾。
そんなことを思い出していると、小傘が私の分まで注文をしてくれていた。
「パフェパフェ~」
嬉しそうに肩を揺らすのでそれにつられて鮮やかな水色の髪もふわりと動く。
そのはしゃぐ姿につい頬を緩めてしまったのが自分でも分かった。
「急にたくさん注文が入ってくるから、私もお爺ちゃんも本当大変だったよ」
パフェを食べ終えた小傘は話の内容とは裏腹にご機嫌だ。
「お疲れ様、でもどうしてそんなに急に」
「口コミ、って言うのかな。よく分からないんだけど、前に仕事をくれたお客さんがお爺ちゃんの鍛冶屋を宣伝してくれたみたい」
「すごいじゃない。でも二人だけじゃ受けられる仕事にも限界があるわよね」
「まあね、でも仕事がある時に頑張らないとだし」
大変、とは言いつつも忙しいのが嫌なわけでもないのだろう。
前に会った時はベビーシッターの仕事で赤ちゃんに頬や髪を引っ張られてひどい目に遭ったと言っていたっけ。
でも、その顔は今日と同じでどこか愉快そうにしていたのを覚えている。
妖怪が人間と協力して仕事をする。
鍛冶屋の仕事だって、小傘の腕と信用のおかげで続いているに違いない。
関係が破綻することなくいられるのは、彼女のどこか人を安心させる雰囲気のおかげなのかもしれない。
考えを巡らせていると不意に話を振られた。
「ねえねえ、弁々は最近どんな感じ? ちょっと疲れてそうな感じするけど」
急に心中を読まれたような気がしてどきりとした。
ステージに上がる者として身だしなみにはいつも気を付けているつもりでいる。
勿論今日はオフの日だけど、いつ知り合いに出くわすか分からない以上気は抜けない。
観客は思った以上に、演奏中以外でも奏者をよく見ているのだから。
「……最近あんまり眠れてないから、当たってるわね。その、私そんなに疲れた顔してるかしら」
「ううん。でもさっき私が来た時に姿勢がちょっとだけ斜めに見えたから、もしかして寝不足なのかなって」
不覚。
反省せねばという気持ちがそのまま声に出ていた。
「……それは不覚だったわ」
「ねえ、もしかして弁々って横になって寝るの、苦手だったりする?」
気恥ずかしさもあって適当に話題を変えようとしていた矢先、小傘がさらに踏み込んでくる。
この唐笠妖怪は何故妙に勘が鋭いのか。
つい先ほどまでパフェではしゃいでいたとはとても思えない。
「貴女、もしかして悟り妖怪だったりしない?」
「えー違うよ、私の第三の目はこの傘に付いてるもん」
得意げにそう言いながら椅子に立て掛けた自分の半身を指差す。
「そういうことじゃないんだけど……いや、いいわ。その、恥ずかしいから絶対誰にも言わないでよ。
最近妹と別々の布団で寝るようになってからなかなか寝付けなくて……」
言い終わる時には私の視線は完全に下を向いていた。
茶褐色のテーブルの木目が目の前に広がる。
ああ、言ってしまった。
妹以外で信用できる数少ない相手だからといって、さすがに軽率すぎる。
これでは「私は姉のくせに妹と一緒じゃないと眠れない駄目なお姉ちゃんです」と言っているのと一緒だ。
羞恥心が自分の頬に熱を帯びさせているのが分かる。
そっと目線を上げると、小傘は確かに笑っていた。
でも、それは私が想像していたような笑い顔ではなかった。
何かに納得したようにうんうんと頷いている。
「多分それ、身体にまだ道具だった頃の癖が残ってるせいじゃないかな」
「どういうこと?」
「私も最初は横になって寝るの、なんだかしんどかったんだよね。なんというか、身体が拒否してるっていうか」
小傘が言うにはこういうことだった。
彼女は傘に宿った付喪神。
そして傘というのは言うまでもなく使う時は開いて縦に持つ。
使わないときは閉じた状態で玄関にでも立て掛けておくものだ。
誤って倒さない限り横にしておくことはまずない。
そのせいか彼女は直立していることに慣れてしまい、今の姿を得ても横になることに強い違和感を感じるのだとか。
そこまで聞いたところで、私ははっとした。
思ったままに彼女に問いかける。
「まさかいつも立って寝てるの?」
小傘が苦笑しながら頬を赤らめる。
「最初はそうしてたんだけど、途中で何回も倒れたり転んだりで目が覚めちゃったんだよね」
「じゃあ……狭いところに入って寝るとか?」
「それもやってみたんだけど、狭いのって怖いから余計に寝られなかったわ」
閉所恐怖症という言葉ぐらいは私も知っている。
ただそれにしても、人を驚かせる妖怪が怖がりというのもどうなのか。
「でも、今はちゃんと横になって眠れてるよ」
もしかしたら、自分の睡眠のヒントになるかもしれない。
少し勢い込んで訊ねた。
「どうやって寝てるの?」
小傘は隣の椅子を動かし、立て掛けていた自分の傘の柄を握って言った。
「こうして寝てるの。ほら、私って傘だから持ってもらうのが一番落ち着くんだよね」
「それ、試してみたけど眠れなかったのよね」
私にも布団の中で自分の半身を抱いて眠ろうとした経験はあった。
でも、ただ寝にくいだけで全然効果はなかった。
私の琵琶、結構大きいし。
やっぱり傘と琵琶は違うのか、と落胆していると小傘が首を傾げながら質問してきた。
そもそも自分の大事な楽器を布団に包んでしまうこと自体演奏家としてどうなのか、と言われそうな気もした。
「でも八橋ちゃんと一緒に寝てた頃は横になってても普通に眠れたんでしょ?」
「初めは本当に一文無しで布団も一つしかなかったからね」
小傘がこの先口にすることはなんとなく予想が付く。
勿論、その案自体は琵琶を抱いて眠るより先に思いついていた。
「じゃあ弁々にとっては、八橋ちゃんに触れていてもらうのが一番眠りやすいんじゃない?」
「……理屈で言うとそういうことになるのかもしれないわね」
「理屈って言うかそれしかないと思うよ。一緒に寝たい、って言えばいいじゃん」
ああ、やっぱり。
でも、そんなこと言えるわけない。
つい先日八橋に、「布団もちゃんと買えたし、いつか広いところに住めるようになったらちゃんと別々の部屋を作りましょうね」なんて言ったばかりなのに。
「それは……」
言葉に詰まっていると、小傘が悪戯を企む子どものように舌を出していた。
「恥ずかしいんだ」
「な、なによ。恥ずかしいに決まってるでしょ」
「あはは、弁々って見た目は大人っぽいのにそういうところは子どもなんだね」
「うるさいわね。大きなお世話よ」
ムキになって言い返す。
すると小傘はふっと頬を緩めて声のトーンを下げた。
そして、急にどこか遠くを見つめるように静かに言葉を紡ぐ。
「……私が八橋ちゃんだったら、嬉しいけどな」
どこか物憂げにすら見えるその瞳に思わず息を呑む。
次に話題を変えたのがどっちだったかは覚えていない。
ただ、この後はお互いに他愛のない話しかしなかった。
そして小傘と別れて帰路についてもなお、彼女の言葉と表情ははっきりと脳裏に焼き付いていた。
***
今日もいつもと同じ、眠れない夜がやってくる。
仰向けのまま双眸を開く。
傍に置いた琵琶の覆手が月明かりに照らされ、控えめながらその存在を主張していた。
何の気なしに、枕元のヘアゴムを手に取る。
最近は眠れない夜に髪をいじるのが癖になってしまっている。
ただくだらない意地を張っているだけなんだと思う。
睡眠不足は何をするにしてもろくな影響を与えない。
解消できる当てがあるならさっさとそれに縋るべきだというのは全くもって正論だ。
静かに自分の掛布団を下ろし、後ろ結びにした髪先に指で触れる。
この家には鏡がない。
身だしなみチェックを手探りでやるのにも、すっかり慣れてしまった。
そのまま布団の上に片手をつき、隣の布団にそっと視線を走らせる。
八橋は今日も穏やかな表情で眠りについている。
「ん……」
緩んだ口元から不意に吐息混じりの声が漏れ出す。
普段は寝言など言わないし寝相も大人しいから今日は珍しい。
起こしてしまったかと焦るも、幸い声がしたのはその一度きりだった。
昼間の小傘とのやり取りが回顧される。
思えば、二人一緒に寝ていた頃はこうして睡眠不足に悩まされたことはなかった。
勿論当時から、ここに至るまでの道のりは決して平坦なものではなかった。
最初の頃は毎日が文字通りサバイバルの生活。
新しい布団や服どころか日々の食糧を得るだけで精一杯の毎日。
人里で路上ライブをやっても足を止めてくれる人妖はほんの僅か。
投げ銭をくれる人はもっと少ない。
早朝は無縁塚で生活に使えそうな道具集め。
陽が登り人間達が外を出歩き始めたら往来でひたすらに音を奏でる。
そして日没後、妖怪が跋扈する時間帯になったら今度は情報収集。
生まれて間もない自分達に必要な物は衣食住だけではない。
それは情報だ。
誰が、どの組織が最も力を持っているのか。
タブーとされているのはどんな行為なのか。
自分達は今どんな状況に置かれているのか。
どれも自分達で実際に足を使い調べなければ、誰も教えてはくれない。
知らずに掟を破って、ごめんなさいでは済まされないのだから。
そうして朝から晩まで、動きっぱなし。
帰り着いても、ろくに食べる物もない。
でも、二人一緒に布団に倒れ込めば。
疲労と緊張がそうさせていただけだったのかもしれない。
でも、その場所にはいつだって確かな温かさがあった。
なにがあっても、自分は一人じゃない。
唯一無二の、愛しい家族がいる。
物思いにふけるのを止めてテーブルの上の置時計に視線をやる。
あと五分ほどで今日が終わろうとしていた。
いい加減にしておかないと明日が余計に辛くなるのは間違いない。
内心で溜息をつきながら再び身体を横たえようとしたその時。
ずっと体重をかけていた手を離そうとした途端、激しい痺れが走った。
反射的に声を出してしまう。
「んっ……」
悶絶するほどの痺れがくるまで同じポーズを続けていた自分の間抜けさに思わず歯噛みする。
ああ、気持ちが悪い。
引いて、早く引いて。
「ん……姉さんまだ起きてたの」
声のした方を向くと八橋が目をこすりながら上体を起こしていた。
ああ、やってしまった。
咄嗟に適当な言い訳を考えようとした。
でも、付喪神歴数カ月の私にこういう場面での適切な言葉は心当たりがない。
「姉さんの声がしたような気がするんだけど」
八橋は首を傾げながら乱れた髪先を手探りで直している。
とにかく何か言わないと。
「ごめん、多分寝ぼけたんだと思うわ」
「うっそお、姉さん髪綺麗に結んでるじゃん」
寝起きとは思えないほど明瞭な声と尤もな指摘。
自分の失言に気付いても最早遅い。
普段私はどんなに疲れていても髪は必ず解いた状態で床に就く。
そしてそれは同じ屋根の下で暮らす八橋もよく知っている。
「ねえ、起きてなにしてたの」
声に棘は感じない。
短い付き合いながら、八橋が熱しやすく冷めやすい性格をしているのはなんとなく分かっている。
ちょっと拗ねたかと思えば次の瞬間には愉快そうに大口を開けて笑う。
そんなにぎやかで、一緒にいて楽しい子。
でもそんな彼女も隠し事に対しては決していい顔をしない。
というか、初めて怒らせた原因はこれだった。
少し前に無理をし過ぎて体調を崩した時。
「辛いならすぐ言ってよ、頼ってよ」と瞳に涙を浮かべながら叱られたっけ。
そんな呑気なことを考えている場合ではないと思い直し、私は観念した。
「……眠れなかったの」
八橋は私の告白に特に表情を変えるでもなく、相変わらず寝起き眸をぼんやりさせていた。
肌着の首周りが乱れて鎖骨が見えそうになっている。
「……じゃあさ、なにかお話しようよ」
そう言いながら、自然な動きで私の布団に転がり込んできた。
動揺で思わず声が裏返りそうになる。
私の口から咄嗟に出た言葉は肯定でも否定でもなかった。
髪を解きながら心中を隠し、精一杯の虚勢を張る。
「……そう言えばこうして一緒に寝るの、久しぶりね」
「姉さんさ」
「なに?」
「その、あたしと一緒に寝るの嫌じゃない?」
「そんなことないわ、どうしたの」
「この前リリカに聞いたんだけど、普通の姉妹は一緒に寝たりしないんだって。
あたし姉さんと一緒に寝るの、好きなのに」
笑われちゃった、と口を尖らせる。
話しているうちに眼はぱっちり開いていた。
完全に目が覚めたようだ。
「そう、そうなのね」
如何にも今初めて知りました、という風を装う。
私とて先日ルナサと二人でお茶をしていなければきっと知らないままだった。
「壁を隔てているのに妹達が夜更かしはするわ五月蠅いわで全然眠れない」と零していたことを思い出す。
別にその時は「ああ、普通の兄弟姉妹は一緒に寝ないものなのね」と特に大きなショックは受けなかった。
でも普通、普通ってなんだろう。
「姉さんは普通ってなにかわかる?」
そんなことを思量しているとお互いの脚が掛布団の下で重なった。
両手を伸ばせば相手の背まで余裕で届く距離。
湿り気の残る茶色の髪。
湯浴み後のしっとりした匂いが鼻腔をくすぐる。
別々の布団で寝始めてから一カ月も経っていないのに、妹が急に大人になったような気がする。
ただ久しぶりで気恥ずかしいのか、これ以上は寄ってこなかった。
頬を紅く染めながら視線は下方、私の首元を見つめている。
意を決してその細く華奢な身体を両手でそっと抱き寄せる。
「いいじゃない、そんなこと」
私にだって分からないから。
ただ、今はそんなことよりも。
自分と一緒にいたいと言ってくれるこの最愛の妹を。
「……うん」
返事とともに八橋の両手が自身の背に添えられる。
頬が触れ合い、相手の体温がじわりと伝わってくる。
心地のいい、どこかふんわりした優しい熱さ。
「……もしかして、寂しかった?」
「……うん」
罪悪感がじくじくと浮かび上がるのが分かる。
ああ、私はなんて卑怯なのか。
この子はこんなにも素直ないい子なのに。
艶やかなショートヘアをゆっくりと撫で擦る。
すると応えるように、八橋は私の胸元に甘えてきた。
八橋、嘘つきな姉さんでごめんね。
でもせめて、貴女が夢の世界に落ちるその時まで、私がこの眠りを守るから。
楽器を扱うように慎重に、何度も頭を撫でた。
心地良い温かさの中、徐々に意識が朦朧としてくる。
どのくらいの時間そうしていただろうか。
八橋にはもう聞こえていなかったと思う。
私は一言だけ小声で囁いた。
「おやすみ、八橋」
***
翌朝、窓から差し込む陽光で目を覚ます。
外は快晴のようだ。
久しぶりの気持ちのいい朝。
八橋はまだ胸元で小さな寝息とともに眠りについていた。
二人で寝ていても相変わらず、不動のまま。
今日はライブの予定もないし、急いで起きる必要はない。
だから、たまにはいいわよね。
隣で眠る最愛の妹にその身を寄せ、掛布団を上げる。
ここが私の、やすらぎ。
願わくばこの先ずっと、八橋にとってもこの場所がそうあり続けますように―
八橋はもう寝ているだろうか。
二人で同じ時間に布団に入るといつも寝つきのいいあの子の方が先に眠りにつく。
やはりというべきか、耳をすませると小さな寝息が一定のリズムで聞こえ始める。
ゆっくりと目を開けて横目で隣の布団を見やる。
予想通り今日も敷布団の中心に仰向けで姿勢よく横たわっていた。
掛布団はすっぽりと首が隠れるまでその身体を覆っている。
晩秋の月が窓越しに照らす寝顔も静穏そのもので、日中の活発さを考えるとまるで別人のようにさえ思えてくる。
それとも、琴は床上に置いて弾く楽器だから横になることに慣れているのだろうか。
さすがに関係ないか、と一人自問自答をする。
八橋と初めてここで寝た日のことが追想される。
私達は空に逆さのお城が現れた異変がきっかけでこの幻想郷に生を受けた。
そして姉妹の契りを交わしてからはずっと行動を共にしている。
道具だった頃の記憶はない。
ただ、自分が付喪神として元の楽器から生まれ変わった存在であるという事実。
それだけは目を覚まして鼻と口で呼吸をしたその瞬間からはっきりと理解している。
はじめのうちこそ自由に動ける身体を手に入れられたことに強い喜びを感じていた。
でも、自分達はこれから何をして、どのように生きていけばいいのか。
そもそもここはどんな世界なのか。
次々に湧き上がる不安に打ちひしがれていた折に、あの子と出会った。
境遇が同じで、しかも音楽を愛する者同士。
すぐに意気投合し、二人で一緒に生きていくことを決めた。
当然ながら私達に血のつながりは無い。
それでも、ただの友人関係ではない、もっと特別なそれを私は強く欲していた。
絶対に離れることがない。
私を一人にしない。
そんな特別な関係を。
気付けば、誘い文句を考えるよりも先に口が動いていた。
「私達、姉妹にならない?」と。
それから二人で生きていく中で、本当にいろんなことがあった。
契りを結んだ記念すべき日はせめて寝床を見つけようと、真夜中まであちこちを探し回った。
結局屋根のある住処は見つけられず、野宿をする羽目になった。
次の日は早々に無人の古屋を見つけることが出来、喜んだのも束の間。
あまりに老朽化が進んでいたからか壁を少し押しただけであっさりと倒壊。
朝から二人で埃まみれになってしまい、結局その日も人気のない川辺で夜を明かした。
そんなこんなで今のこの古びた小屋を見つけるまでに三日もかかってしまった。
その間中ずっと投宿が続き、十分な休息も食事も取れていなかったので体力も限界だった。
建屋の中に入るなり「後のことは明日考えよう」と一組しかない布団に二人で倒れ込んだっけ。
住居と同じでとても綺麗とは言えない有様だったけど。
全体はひどくへたり、角に空いた穴からは中の綿が飛び出ている。
大きさは二人で横になるとそれだけで窮屈になるぐらい狭い。
触り心地も、勿論頼りない。
でも、二人でそこに横になった途端。
畳一畳分ぐらいのその場所は、間違いなく私に安穏を与えた。
粗末な壁に隙間風が吹き込む穴の空いた窓。
でもそれらは、確実に私達と外界を隔てる役割を果たしていた。
疲労が背中から地の底に向かって吸い上げられ、代わりに温かな安心感が胸の奥から溢れてくる。
どちらから手を差し出したのかは覚えていない。
私達はお互いに相手の手を握り合い、目を閉じながら呟いた。
おやすみ、と。
***
翌日。
私は人里の茶屋で約束の相手が来るのを待っていた。
昨夜はあのまま布団に潜り込んでもなかなか寝付けなかった。
薄い桃色の和服を着た若い女性が注文を取りにやってくる。
連れが来るのでもう少し待って欲しい旨を伝えると、にこやかに表情を和らげた。
「かしこまりました!」
愛想のいい返事とともに、厨房の方へと引っ込んでいく。
彼女がやって来たのは、その三分後のことだった。
「おまたせー!」
オッドアイと紫色の傘が特徴的な唐笠お化けこと、多々良小傘。
息を切らせながらも嬉しそうに私の向かいに腰を下ろす。
今日のような会合は初めてではない。
きっかけは人里での演奏会に来てくれたことだった。
後に小傘が輝針城異変よりもずっと前からここで暮らしていることを知り、同じ付喪神として少なからず興味を持つようになった。
彼女と交流を持ったおかげで知ることが出来た情報もかなり多い。
鍛冶にベビーシッターと、まるで人間のように日々を忙しく過ごしていることもまた、私を驚かせた。
「ねえねえ、もう決めた?」
小傘はそう言いながら、メニューの書かれた木製のボードを何度もひっくり返す。
「私は決めてるから、ゆっくり選んでいいわよ」
「分かった、今日は抹茶のお団子でしょ」
「そうだけど、どうして分かったの?」
「だってここのお団子、三種類あるけど抹茶以外はもう全部食べてるもんね」
「……よく覚えてるわね」
「ふふん」
小傘はそう言いながら自慢げに腕を組む。
その顔つきには妖怪らしさが全くなく、むしろ幼ささえ感じてしまう。
私などよりずっと長く生きているはずなのに。
でも、そんな彼女だからこそ人間も自分の子どもを安心して預けられるのかもしれない。
初めて言葉を交わした日の事が頭を過る。
小傘は人間に対して敵対心を持っておらず、むしろ人の役に立てることが嬉しいと無邪気に話していた。
今でこそ私も八橋も人里に馴染んできているけど、元々は道具による下剋上を夢見ていた。
正直、今となっては何故あの時あそこまで後先を考えない行動をしたのかは自分でも分かっていない。
ただ、自分と同じ境遇の可愛い妹、家族が出来たことで強気になっていただけなのかもしれない。
異変は結局失敗に終わり、主犯二人のうち天邪鬼は早々に一人で逃げ出し行方不明。
もう一人の首謀者、針妙丸はただ騙されていただけだったからか、博麗の巫女に保護されたと聞いている。
私達はと言えば、人間一人すら倒せず二人一緒に打ち負かされた。
終わってみればただ服と身体がボロボロになっただけだったけど、後悔はしていない。
自分は一人じゃない、それだけでどんなことにも立ち向かえるような気がしたから。
「店員さーん!」
紫色の雲が魔力とともに渦を巻く中での激しい弾幕決闘。
自分でもかなりの自信作だったスペルカード。
光輝く五線譜と天から降り注ぐ音符弾が織りなす美しいハーモ二ー。
でも、紅白の巫女はそれを巧みに避けながら一気に距離を詰めてきた。
そこで最後に見た光景は、まるで猟犬のように私に殺到する十数発の光弾。
そんなことを思い出していると、小傘が私の分まで注文をしてくれていた。
「パフェパフェ~」
嬉しそうに肩を揺らすのでそれにつられて鮮やかな水色の髪もふわりと動く。
そのはしゃぐ姿につい頬を緩めてしまったのが自分でも分かった。
「急にたくさん注文が入ってくるから、私もお爺ちゃんも本当大変だったよ」
パフェを食べ終えた小傘は話の内容とは裏腹にご機嫌だ。
「お疲れ様、でもどうしてそんなに急に」
「口コミ、って言うのかな。よく分からないんだけど、前に仕事をくれたお客さんがお爺ちゃんの鍛冶屋を宣伝してくれたみたい」
「すごいじゃない。でも二人だけじゃ受けられる仕事にも限界があるわよね」
「まあね、でも仕事がある時に頑張らないとだし」
大変、とは言いつつも忙しいのが嫌なわけでもないのだろう。
前に会った時はベビーシッターの仕事で赤ちゃんに頬や髪を引っ張られてひどい目に遭ったと言っていたっけ。
でも、その顔は今日と同じでどこか愉快そうにしていたのを覚えている。
妖怪が人間と協力して仕事をする。
鍛冶屋の仕事だって、小傘の腕と信用のおかげで続いているに違いない。
関係が破綻することなくいられるのは、彼女のどこか人を安心させる雰囲気のおかげなのかもしれない。
考えを巡らせていると不意に話を振られた。
「ねえねえ、弁々は最近どんな感じ? ちょっと疲れてそうな感じするけど」
急に心中を読まれたような気がしてどきりとした。
ステージに上がる者として身だしなみにはいつも気を付けているつもりでいる。
勿論今日はオフの日だけど、いつ知り合いに出くわすか分からない以上気は抜けない。
観客は思った以上に、演奏中以外でも奏者をよく見ているのだから。
「……最近あんまり眠れてないから、当たってるわね。その、私そんなに疲れた顔してるかしら」
「ううん。でもさっき私が来た時に姿勢がちょっとだけ斜めに見えたから、もしかして寝不足なのかなって」
不覚。
反省せねばという気持ちがそのまま声に出ていた。
「……それは不覚だったわ」
「ねえ、もしかして弁々って横になって寝るの、苦手だったりする?」
気恥ずかしさもあって適当に話題を変えようとしていた矢先、小傘がさらに踏み込んでくる。
この唐笠妖怪は何故妙に勘が鋭いのか。
つい先ほどまでパフェではしゃいでいたとはとても思えない。
「貴女、もしかして悟り妖怪だったりしない?」
「えー違うよ、私の第三の目はこの傘に付いてるもん」
得意げにそう言いながら椅子に立て掛けた自分の半身を指差す。
「そういうことじゃないんだけど……いや、いいわ。その、恥ずかしいから絶対誰にも言わないでよ。
最近妹と別々の布団で寝るようになってからなかなか寝付けなくて……」
言い終わる時には私の視線は完全に下を向いていた。
茶褐色のテーブルの木目が目の前に広がる。
ああ、言ってしまった。
妹以外で信用できる数少ない相手だからといって、さすがに軽率すぎる。
これでは「私は姉のくせに妹と一緒じゃないと眠れない駄目なお姉ちゃんです」と言っているのと一緒だ。
羞恥心が自分の頬に熱を帯びさせているのが分かる。
そっと目線を上げると、小傘は確かに笑っていた。
でも、それは私が想像していたような笑い顔ではなかった。
何かに納得したようにうんうんと頷いている。
「多分それ、身体にまだ道具だった頃の癖が残ってるせいじゃないかな」
「どういうこと?」
「私も最初は横になって寝るの、なんだかしんどかったんだよね。なんというか、身体が拒否してるっていうか」
小傘が言うにはこういうことだった。
彼女は傘に宿った付喪神。
そして傘というのは言うまでもなく使う時は開いて縦に持つ。
使わないときは閉じた状態で玄関にでも立て掛けておくものだ。
誤って倒さない限り横にしておくことはまずない。
そのせいか彼女は直立していることに慣れてしまい、今の姿を得ても横になることに強い違和感を感じるのだとか。
そこまで聞いたところで、私ははっとした。
思ったままに彼女に問いかける。
「まさかいつも立って寝てるの?」
小傘が苦笑しながら頬を赤らめる。
「最初はそうしてたんだけど、途中で何回も倒れたり転んだりで目が覚めちゃったんだよね」
「じゃあ……狭いところに入って寝るとか?」
「それもやってみたんだけど、狭いのって怖いから余計に寝られなかったわ」
閉所恐怖症という言葉ぐらいは私も知っている。
ただそれにしても、人を驚かせる妖怪が怖がりというのもどうなのか。
「でも、今はちゃんと横になって眠れてるよ」
もしかしたら、自分の睡眠のヒントになるかもしれない。
少し勢い込んで訊ねた。
「どうやって寝てるの?」
小傘は隣の椅子を動かし、立て掛けていた自分の傘の柄を握って言った。
「こうして寝てるの。ほら、私って傘だから持ってもらうのが一番落ち着くんだよね」
「それ、試してみたけど眠れなかったのよね」
私にも布団の中で自分の半身を抱いて眠ろうとした経験はあった。
でも、ただ寝にくいだけで全然効果はなかった。
私の琵琶、結構大きいし。
やっぱり傘と琵琶は違うのか、と落胆していると小傘が首を傾げながら質問してきた。
そもそも自分の大事な楽器を布団に包んでしまうこと自体演奏家としてどうなのか、と言われそうな気もした。
「でも八橋ちゃんと一緒に寝てた頃は横になってても普通に眠れたんでしょ?」
「初めは本当に一文無しで布団も一つしかなかったからね」
小傘がこの先口にすることはなんとなく予想が付く。
勿論、その案自体は琵琶を抱いて眠るより先に思いついていた。
「じゃあ弁々にとっては、八橋ちゃんに触れていてもらうのが一番眠りやすいんじゃない?」
「……理屈で言うとそういうことになるのかもしれないわね」
「理屈って言うかそれしかないと思うよ。一緒に寝たい、って言えばいいじゃん」
ああ、やっぱり。
でも、そんなこと言えるわけない。
つい先日八橋に、「布団もちゃんと買えたし、いつか広いところに住めるようになったらちゃんと別々の部屋を作りましょうね」なんて言ったばかりなのに。
「それは……」
言葉に詰まっていると、小傘が悪戯を企む子どものように舌を出していた。
「恥ずかしいんだ」
「な、なによ。恥ずかしいに決まってるでしょ」
「あはは、弁々って見た目は大人っぽいのにそういうところは子どもなんだね」
「うるさいわね。大きなお世話よ」
ムキになって言い返す。
すると小傘はふっと頬を緩めて声のトーンを下げた。
そして、急にどこか遠くを見つめるように静かに言葉を紡ぐ。
「……私が八橋ちゃんだったら、嬉しいけどな」
どこか物憂げにすら見えるその瞳に思わず息を呑む。
次に話題を変えたのがどっちだったかは覚えていない。
ただ、この後はお互いに他愛のない話しかしなかった。
そして小傘と別れて帰路についてもなお、彼女の言葉と表情ははっきりと脳裏に焼き付いていた。
***
今日もいつもと同じ、眠れない夜がやってくる。
仰向けのまま双眸を開く。
傍に置いた琵琶の覆手が月明かりに照らされ、控えめながらその存在を主張していた。
何の気なしに、枕元のヘアゴムを手に取る。
最近は眠れない夜に髪をいじるのが癖になってしまっている。
ただくだらない意地を張っているだけなんだと思う。
睡眠不足は何をするにしてもろくな影響を与えない。
解消できる当てがあるならさっさとそれに縋るべきだというのは全くもって正論だ。
静かに自分の掛布団を下ろし、後ろ結びにした髪先に指で触れる。
この家には鏡がない。
身だしなみチェックを手探りでやるのにも、すっかり慣れてしまった。
そのまま布団の上に片手をつき、隣の布団にそっと視線を走らせる。
八橋は今日も穏やかな表情で眠りについている。
「ん……」
緩んだ口元から不意に吐息混じりの声が漏れ出す。
普段は寝言など言わないし寝相も大人しいから今日は珍しい。
起こしてしまったかと焦るも、幸い声がしたのはその一度きりだった。
昼間の小傘とのやり取りが回顧される。
思えば、二人一緒に寝ていた頃はこうして睡眠不足に悩まされたことはなかった。
勿論当時から、ここに至るまでの道のりは決して平坦なものではなかった。
最初の頃は毎日が文字通りサバイバルの生活。
新しい布団や服どころか日々の食糧を得るだけで精一杯の毎日。
人里で路上ライブをやっても足を止めてくれる人妖はほんの僅か。
投げ銭をくれる人はもっと少ない。
早朝は無縁塚で生活に使えそうな道具集め。
陽が登り人間達が外を出歩き始めたら往来でひたすらに音を奏でる。
そして日没後、妖怪が跋扈する時間帯になったら今度は情報収集。
生まれて間もない自分達に必要な物は衣食住だけではない。
それは情報だ。
誰が、どの組織が最も力を持っているのか。
タブーとされているのはどんな行為なのか。
自分達は今どんな状況に置かれているのか。
どれも自分達で実際に足を使い調べなければ、誰も教えてはくれない。
知らずに掟を破って、ごめんなさいでは済まされないのだから。
そうして朝から晩まで、動きっぱなし。
帰り着いても、ろくに食べる物もない。
でも、二人一緒に布団に倒れ込めば。
疲労と緊張がそうさせていただけだったのかもしれない。
でも、その場所にはいつだって確かな温かさがあった。
なにがあっても、自分は一人じゃない。
唯一無二の、愛しい家族がいる。
物思いにふけるのを止めてテーブルの上の置時計に視線をやる。
あと五分ほどで今日が終わろうとしていた。
いい加減にしておかないと明日が余計に辛くなるのは間違いない。
内心で溜息をつきながら再び身体を横たえようとしたその時。
ずっと体重をかけていた手を離そうとした途端、激しい痺れが走った。
反射的に声を出してしまう。
「んっ……」
悶絶するほどの痺れがくるまで同じポーズを続けていた自分の間抜けさに思わず歯噛みする。
ああ、気持ちが悪い。
引いて、早く引いて。
「ん……姉さんまだ起きてたの」
声のした方を向くと八橋が目をこすりながら上体を起こしていた。
ああ、やってしまった。
咄嗟に適当な言い訳を考えようとした。
でも、付喪神歴数カ月の私にこういう場面での適切な言葉は心当たりがない。
「姉さんの声がしたような気がするんだけど」
八橋は首を傾げながら乱れた髪先を手探りで直している。
とにかく何か言わないと。
「ごめん、多分寝ぼけたんだと思うわ」
「うっそお、姉さん髪綺麗に結んでるじゃん」
寝起きとは思えないほど明瞭な声と尤もな指摘。
自分の失言に気付いても最早遅い。
普段私はどんなに疲れていても髪は必ず解いた状態で床に就く。
そしてそれは同じ屋根の下で暮らす八橋もよく知っている。
「ねえ、起きてなにしてたの」
声に棘は感じない。
短い付き合いながら、八橋が熱しやすく冷めやすい性格をしているのはなんとなく分かっている。
ちょっと拗ねたかと思えば次の瞬間には愉快そうに大口を開けて笑う。
そんなにぎやかで、一緒にいて楽しい子。
でもそんな彼女も隠し事に対しては決していい顔をしない。
というか、初めて怒らせた原因はこれだった。
少し前に無理をし過ぎて体調を崩した時。
「辛いならすぐ言ってよ、頼ってよ」と瞳に涙を浮かべながら叱られたっけ。
そんな呑気なことを考えている場合ではないと思い直し、私は観念した。
「……眠れなかったの」
八橋は私の告白に特に表情を変えるでもなく、相変わらず寝起き眸をぼんやりさせていた。
肌着の首周りが乱れて鎖骨が見えそうになっている。
「……じゃあさ、なにかお話しようよ」
そう言いながら、自然な動きで私の布団に転がり込んできた。
動揺で思わず声が裏返りそうになる。
私の口から咄嗟に出た言葉は肯定でも否定でもなかった。
髪を解きながら心中を隠し、精一杯の虚勢を張る。
「……そう言えばこうして一緒に寝るの、久しぶりね」
「姉さんさ」
「なに?」
「その、あたしと一緒に寝るの嫌じゃない?」
「そんなことないわ、どうしたの」
「この前リリカに聞いたんだけど、普通の姉妹は一緒に寝たりしないんだって。
あたし姉さんと一緒に寝るの、好きなのに」
笑われちゃった、と口を尖らせる。
話しているうちに眼はぱっちり開いていた。
完全に目が覚めたようだ。
「そう、そうなのね」
如何にも今初めて知りました、という風を装う。
私とて先日ルナサと二人でお茶をしていなければきっと知らないままだった。
「壁を隔てているのに妹達が夜更かしはするわ五月蠅いわで全然眠れない」と零していたことを思い出す。
別にその時は「ああ、普通の兄弟姉妹は一緒に寝ないものなのね」と特に大きなショックは受けなかった。
でも普通、普通ってなんだろう。
「姉さんは普通ってなにかわかる?」
そんなことを思量しているとお互いの脚が掛布団の下で重なった。
両手を伸ばせば相手の背まで余裕で届く距離。
湿り気の残る茶色の髪。
湯浴み後のしっとりした匂いが鼻腔をくすぐる。
別々の布団で寝始めてから一カ月も経っていないのに、妹が急に大人になったような気がする。
ただ久しぶりで気恥ずかしいのか、これ以上は寄ってこなかった。
頬を紅く染めながら視線は下方、私の首元を見つめている。
意を決してその細く華奢な身体を両手でそっと抱き寄せる。
「いいじゃない、そんなこと」
私にだって分からないから。
ただ、今はそんなことよりも。
自分と一緒にいたいと言ってくれるこの最愛の妹を。
「……うん」
返事とともに八橋の両手が自身の背に添えられる。
頬が触れ合い、相手の体温がじわりと伝わってくる。
心地のいい、どこかふんわりした優しい熱さ。
「……もしかして、寂しかった?」
「……うん」
罪悪感がじくじくと浮かび上がるのが分かる。
ああ、私はなんて卑怯なのか。
この子はこんなにも素直ないい子なのに。
艶やかなショートヘアをゆっくりと撫で擦る。
すると応えるように、八橋は私の胸元に甘えてきた。
八橋、嘘つきな姉さんでごめんね。
でもせめて、貴女が夢の世界に落ちるその時まで、私がこの眠りを守るから。
楽器を扱うように慎重に、何度も頭を撫でた。
心地良い温かさの中、徐々に意識が朦朧としてくる。
どのくらいの時間そうしていただろうか。
八橋にはもう聞こえていなかったと思う。
私は一言だけ小声で囁いた。
「おやすみ、八橋」
***
翌朝、窓から差し込む陽光で目を覚ます。
外は快晴のようだ。
久しぶりの気持ちのいい朝。
八橋はまだ胸元で小さな寝息とともに眠りについていた。
二人で寝ていても相変わらず、不動のまま。
今日はライブの予定もないし、急いで起きる必要はない。
だから、たまにはいいわよね。
隣で眠る最愛の妹にその身を寄せ、掛布団を上げる。
ここが私の、やすらぎ。
願わくばこの先ずっと、八橋にとってもこの場所がそうあり続けますように―
よくよく考えれば考える程、外で使うことを想定してる小傘や、生まれた時から家があるプリリバと違って、手入れと保管に滅茶苦茶気を付けないといけなさそうな琵琶と琴に家がないのやべえな……と。
解釈よりも関係性に舵を切ったところに作者様の色を見た気がしました。
仲良し九十九姉妹といい先輩してる小傘が三者三様とてもよかったです