浜辺に打ち上げられた彼女を見た者は、誰一人としていませんでした。たとえ目撃者があったとしても、それが女の漂着だと認識されたかどうか。泥の波が寄せるがごとくに移動しているようにしか見えなかったでしょう。彼女はぐずぐずと崩壊しつつあったからです。
一歩目で、ぬかるみを踏み抜いた足が履き物を取られてしまうように、足首から先が無くなりました。据わりの悪い首もぎくりとするほどのあっけなさで折れて、土に還りました。腕は剥がれかけたかさぶたの集合にすぎず、身をゆするたびに崩れ落ちていきます。なにもかも確かな状態とは言えませんでした。
彼女は夢の中で救いを求められて、外行き用の肉体を持たぬまま現実にやってきてしまったのです。泥をまとって、どうにか実体らしきものを作ってその地に上陸したものの、姿かたちを保つことも能わない。もっとも、彼女は不自由を感じてはいるけれど、不安には思っていませんでした。先行きは不透明でしたが、いつもこんなものなのです。
救いをもたらすには時間をかけなければいけないのだろう、と彼女は考えました。それから眠りにつきました。現実がままならないのであれば、眠りの中で作業をするしかなかったのです。
眠りの中で考え続けたのは、作られるものと作るものの関係についてです。肉体を持たぬ存在にとって思索と行動は等しい行いなので、彼女は考えた時点で既に実践を始めていました。
まず、想像の泥団子を作ります。ちょうどよい可塑性の粘土を想定して、丸く捏ねて成型する事を想像しました。捏ねるのはもちろん、想像の掌によってです。それは薄皮の一枚ですらなく、厚みをまったく持たずに無限の薄っぺらさを持つ、現実ならば存在しえない掌でした。
思考を弄んだ時にだけ存在する掌の上で、彼女は幾度も土を転がし続けます。第一段階の成果物は完璧な球形でしたが、同様の作業を繰り返すうちに、変化が生じるようになりました。
第一九七段階、球の形の崩れが確認されました。
第七八〇段階、形の崩れが誇張され始めます。その後も数十個に一個の割合で、球の形に顕著な変化が見られるようになりました。
第四〇〇三二七九二一二段階、誇張された崩れに一定の傾向が見いだされつつあります。ただ真球を作るための型でしかなかった彼女の掌は、指と関節を持つメカニズムになろうとしていました。
第一九二〇一九七〇〇七八〇六段階、作業が格段にやりやすくなりました。指先に指紋が形成されて、摩擦を生じるようになったのです。
第九七八四〇〇三二七九二一二段階、彼女は粘土の球に自分の掌の型を取りました。
つぎに掌が転写された粘土の塊を、指先の感覚だけで成形していきます。いとしいものを触るように、優しく、大胆に。手の造形に満足ゆけば次は腕、腕が出来上がれば肩、頭部、胸部へと、想像の粘土を継ぎ足していって、執拗な愛撫の中で彼女は彼女自身の似姿を造形していきました。
開口部の作業に関しては、彼女の芸術家的な衝動がよく現れているかもしれません。目に穴を開ける時は、乱雑に親指でほじくり回した後で、小指の爪を少し伸ばした部分で、繊細なまぶたを作りました。口の中から泥を掻き取った後は、そのぽかんと呆けたような穴に少し物足りなさを感じて、ちょっと迷った後で、舌を入れる接吻をしてやる事で、口腔や口唇の微妙な柔らかさを転写しました。
相手を造形するうち、彼女はいつしか自分のカタチをも取り戻していきました。少なくとも、これが自分のカタチであったのだろうというところに落ち着きつつあります。
やがて、彼女は目的に合った体を作り終えて、ついでに作った自らの似姿と絡み合いながら、ようやく起きる準備が整ったと思いました。
あとはなにか、目覚めるきっかけさえあれば――と思った時、彼女の複製品がなにごとかを彼女の耳元に囁きました。
さっきまで崩れかけた泥にすぎなかった女とその複製とが、波が引きずった痕の白い泡立ちの中に忽然と出現しました。魔法や手品といった通俗性に押しこめたくなるような、そんな唐突さがある現象でしたが、彼女が想像の世界の中、無限に近い主観的時間をかけてこの体を獲得した事を忘れてはなりません。
顕現した後も、彼女には障害がありました。それまで想像の肉の自由な世界に生きていた彼女にとって、現実の体は身を縛るものでしかなかったのです。寄せては返す波にもてあそばれて、口にたんまり入ってきた海水を反射的に嘔吐するなど、体の動かし方を思い出しながらのたうち回っているうちに、ふたたび波にさらわれてしまいます。
ぷかぷか、ざぶんと波をかぶりながら、なんとか水面に浮き上がった時には、彼女は陸地からひどく引き離されてしまっていました。
どうにか浮き上がって、浜辺に目を向けてみると、彼女の複製物が遠い地上で脚を内股にわななかせつつ、ようやっと立ち上がる事をおぼえはしたものの、かといってなにかができるわけでもなく、自らの主体を呆然と見送るしかないのが目に入ります。しかし、それすらも常に水面のうねりに邪魔され続ける、きれぎれのイメージにしかなりません。
彼女の体はどんどん陸地から引き離されて、ついには、水面の一点から動いているのか止まっているのか、孤独なのかこの海の一部になりかけているのか、わからなくなってくる漂流になってしまいました。やがて、つつみこむようにぬるい海は、ぼんやりしている間につつみこむようにぬるい肉壁となっていて、のんびりとした蠕動の末に、彼女を窮屈で生臭い場所に押しこめてしまいました。
どうやら鯨かなにかに呑まれたようです。
これはこれでゆき着くところのゆく末であろうと、彼女は観念して目を閉じました。ただひとつだけ気にかかるのは、岸辺に残してしまったおのれの複製品の事で、客体たるあの子が、あの後、ちゃんと主体たる自分と決別できたのか、という事ばかりが気にかかっていたのです。
それができないなら、あの子は今でも浜辺でぐずぐずとしているに違いない、できているなら、あの子は浜辺を離れて、誰かに行き合うでしょう。そしてこう言うのです――「あなたの着ているものと靴と、武器が欲しい」だなんて。
想像の内でほくそ笑んでいるうちにも、生臭い現実は彼女を肉嚢の中に圧迫し続けて、胃腸へと送り込み、なぜかそのまま生命の運動を終えてしまいます。膨大な血液を送り続け、また多くのものを感じてきたはずの心臓と脳は急速に硬変し、セラミック化していました。
どうやらこの鯨は、なにか呑みこんではいけないものを呑み込んでしまったのだろうなと、呑みこんではいけないそのものは思いました。
* * * * *
それにしても、肉体というのはいやなものだなと、海風に乗って岸壁まで届いてくるにおいを嗅ぎながら、八千慧はぼんやり思った。
「さすがのあんたでも、あんなものを食ったら腹壊すだろ」
八千慧とは別のやつが、八千慧とは別の相手をからかった。つまり早鬼が尤魔をからかったわけだが、その無邪気さがどこかむなしく響いたのは、漂着物の腐臭を運んでくる潮風のせいだけではないだろう。
「……労組のストは、別の場所で行われるみたいですよ」
「おまえあんなの見ながら別の事考えているのな」
湾港に漂着したのは、巨大な鯨の死骸だった。波に乗ってこの沿岸にやってくるまでの間に、時間をかけて、しっかり腐敗して、夜ごとに劣化しつつある強靭な皮膚の下に、たっぷりとガスを貯めこんでいる。その風船のような有り様にはもはや生前のしなやかな姿はなく、丸々と膨れ上がり柔軟さを失いかけている体表には、幾本もの肉割れが生じていた。
「鯨の爆発って見た事ある?」
「知識として聞いた事はあるけど、見るのは初めてだね」
「見なくたって、何が起こるのか想像すればじゅうぶんですよ、このにおい」
におい、むかつく、腐りきって、海からやってきたもののにおい。
「で、あんたとこの兵隊は、あれをどう処理するつもりなんだい……」
尤魔が八千慧に尋ねた。死骸の処理を請け負ったのが、彼女を頭とする鬼傑組だったからだ。
周囲は実にうるさい。一応封鎖線が張られてはいるがそれすら乗り越えるように報道陣が押し寄せていて、倉庫街の屋根にまで登って逐一の記録を取っている。ただの鯨の死なのに……。
「できれば外洋まで曳っぱっていければ、それがいいんですがね。しかしあの肉風船が形を保っていられるのは、腹腔内に溜まり続けるガス圧に表皮が耐えている間の、危ういバランスの上です。まずそんな余裕は無いでしょうね」
「この湾内で爆発させるしかないのかな」
「計画的に、意図をもって、計算づくでやる事はできます。少なくとも陸の方に腐った血と肉をばらまかないようには……まあ、どのみち汚れ仕事ですよ――あ、二人ともあちらを向いて――みんな笑顔で――にぃーっ」
フラッシュライトに思わず引きつりそうになる顔の筋肉だったが、奥歯を噛みしめながら報道カメラに対して笑顔を保った。
「……まあ、珍しく三勢力の長が顔を合わせてるんです。しかもこの地の福祉衛生のために汚れ仕事をやろうとしている。アピールしときましょう」
「……やくざ稼業も、今や媚びを売って人気を稼ぐのが第一か」
「気にしたところで仕方ありませんって。昔からそうでしたよ」
「それより急に光を焚かないで。びっくりするから」
三人して報道陣の囲みから歩み去りながら、早鬼が文句を申し立てた。それを聞いて、八千慧はクスクス笑う。
「なに、てっぽーかなんかで、ドタマを吹っ飛ばされるとでも思ったんですか? 私はあいにくと、狙撃の標的の隣に立っている度胸はありませんし、どのみち時期が時期ですもん」
「やっぱ、なにか相談事があったんだ」尤魔の声にはからかうようなものがあったが、すぐに調子を落とした。「……で、どう考えてるんだ?」
「……先の会戦の敗北によって、北部の軍閥や賊どもによる、この都市への介入も時間の問題になりました」
「みんなわかっている事だ」
「ですが、連中の考えは、極めてシンプルです。このメトロポリスの利権に手を突っ込みたい……少なくともこれまでのように、広域都市圏の端っこをちまちま収奪するだけでなく、その中枢にまで根を張って、その養分をすするおこぼれに預かりたい」
「なんだかこっちが悪口を言われているみたい」
「要するに、今までの私たちとなり替わりたいって話だからな」
「ここはいっそ、あっさり連中に手を突っ込む隙を与えた方がいい。この都市の公職を総辞職させる。これを講和条件とします」
「なるほど。こっちは痛くも痒くもない」
「だが連中が入り込めば、私たちの取り分は減る。ただでさえ戦に負けた後よ」
「まあ、完全に手を突っ込ませるつもりもありませんよ」
「しかしうまくいくものかしら、自分から勝手に素っ裸になっておいて、それでいて指一本触れさせない、みたいな話だなぁ。できるの?」
早鬼が珍しく慎重な姿勢を表明した。尤魔もそうした懸念に同意しながら、岸壁沿いでふと足を止めて、湾内にぷかぷか浮かんでいる鯨の膨れ上がった死骸と、それに接近して処理の準備にあたろうとしている、鬼傑組の組員たちを眺める。
「たしかにな。今までだって、この都市の首長も公職も、裏からどうとでもしてきた私たちだけど……そうした既得権益とは一旦手を切る必要に迫られちゃうわけだ」
「なにより彼らをすっぱり切った後も、表向きの首長はいるべきでしょ。こんなに軽々しく切られる首がいてくれるかどうか――あっ、ああ、やったわ!」
目の前で起きた現実の爆発の方が、この都市をめぐる先行き不透明な陰謀よりも興味を惹くものだった。爆発といっても、華々しく天衝くような噴火ではない。むしろ、横腹が大きく裂けて大量のガスと腐肉を噴出する様子は、溜め込まれていたどろどろが流出する、なにかぬるぬるした決壊だ。異様に濃く、黒々と見えた赤茶色の霧の向こうで、まだ暴れ足りないといった未練があるのか、何重にも折り重なった腐りかけの臓物が、次から次へと鯨の果てた腹から飛び出していく。
「何人かイかれちまったみたいね」
と早鬼がぼそっと呟いたのは、作業員として現場で働いていた八千慧の配下が巻き込まれたからだった。また、噴出した死骸の破片は湾港の岸壁の一区画にまで吹き飛んできていて、その方面を見つめて尤魔が言った。
「向こうのブロックは、封鎖した方がいいな」
「あのあたりは紡績倉庫ね」
別に被害を被ったわけでもなく、直接的にはなんの責任もない二人が、今まさにやらかした責任者である八千慧を差し置いて、好き勝手に言いあった。その時、野次馬をや報道を押し留めていた封鎖線が自然と破れて、彼らは被害のあった方へと殺到していく……それを見て、八千慧もすぐに当惑から我にかえった。それから彼女は無責任な二人の言を採用し発展させて、呼びつけた配下に耳打ちをした。
「……汚染されたブロックは即刻隔離してください。封鎖すべき範囲の把握や被害規模の見積もりなんかの確かな事は、大雑把にやってよろしい。とにかく、衛生の保全を最優先として、人を追い払いなさい。腐敗した血や肉、有毒ガス、病原菌、寄生虫などなど、とにかくあらゆる危険を理由として隔離する事。……ああ、それと。あの区画には紡績倉庫がありましたが、当然そこも汚染のおそれがあります。言いたいことはわかりますね」
続いて、なめらかに、いかにも正しい事を行うかのような口調で、八千慧は略奪を肯定した。
「湾港組合の長期ストで、ここらの倉庫の流通も見通しが立ちません。ですが、いまここに死蔵されている絹物だって、私たちが接収して、素早く巧みに市場内で動かせばお金になるんです――腐るものではないとはいえ、潮風に漬けさせておくのももったいないでしょう」
最後に、にっこり爽やかそうに笑ってあげる事で、行為の後ろめたさを取り払ってやった。
「相変わらず口の上手いことだね」
多重織りのガーゼハンカチを鼻にあて、数百メートル向こうから届いてくる腐臭を少しでも和らげようとしている、そんな尤魔が言った。
「私たちはあんたの目論見を聞いたぞ」
「そうですね。それで?」
邪魔をするような義理もないだろと言わんばかりに、八千慧はけろりとしていた。
「今は私たちも足を引っかけ合っている場合じゃないでしょう。それに商売は商売。労働組合にも資本家連中にも、損をさせないように上手くやらせますよ。連中だって、懸念しているのは善悪やイデオロギーなんかではなく、結局のところ損得の部分にすぎない」
「あんたはこの土地の申し子のようよ」
早鬼か尤魔か、どちらかが呆れたようにぼやくのだが、八千慧はそこまでは聞いていなかった。それより、計画通りにゆかなかった鯨の爆破処理の方が不思議だった。なぜ処理作業は失敗したのか――もちろん、なにもかもが不安定な状況だ。ガスを溜めこんで破裂寸前だった鯨の死骸は、いつ湾内で爆発してもおかしくなかった。だからこの失敗は、本来失敗とも呼べない。彼女は配下たちに危険を冒した作業をさせて、事故によってその報いを受けたにすぎないのだ。だが、なんだか違和感がある……
首を傾げていたその時、八千慧は海面に奇妙なものを見かけて、その一点を凝視する。鯨の裂けた腹から流れ出す腐った体液が、湾内に広がってきている(そうだ、水中の汚染にも留意しなきゃいけないな、とわずかに思った)。その水面を移動する人影があった。
「……なにあれ」
唖然とする八千慧の視線に気がついて、それを追うように頭をめぐらせた尤魔が、共通の感想を漏らした。
大きく裂けた皮を押しのけて、鯨の腹の中からふらふらと出てきた人影は、人のかたちを保つのも危うげに見えた。それだけは不思議と無事な長い髪を乱れさせながら、陽炎の向こうでゆらめき、まぼろしのように水面を渡り歩いている。ふらふらとしているが芯の通った歩み、融けかけた飴細工にも見える奇妙な姿勢の良さで、岸壁に近づきつつある。
「ねえ、なにあれ」
尋ねられた八千慧にしてみても、あれが爆発に巻き込まれた自分の配下の生き残りとも思えない。
「……ま、ともあれやるべき仕事が多いことだけはわかりますね」できるだけさっぱりしたふうでそう言うと、彼女は一同の興味の対象から背を向けて、早鬼や尤魔に向き直った。
「あれについても、こちらでとっ捕まえて調べておきますよ。まあ、ああいったものに興味を惹かれるのもわかりますけどね。今すぐどうこうわかるものでもないでしょう。じゃあ、こっちも忙しくなりそうなので、そろそろ」
言外に追い払われている事を察した二勢力の長だったが、かといって逆らう理由もなかった。
* * * * *
妙につるつる、そのくせなまぬるく、足の裏にひたひたと吸い付く足元でした。
死んだ鯨の腹から脱出した彼女は、自分が水面に足をつけて、沈みもせず歩んでいる事すらわかっていませんでした。胃酸を始めとした分泌物に長時間まみれたため、溶けたまぶたは半分塞がりかけて、眼球の表面には白濁した膜が張っていたのです。目の周り一つをとってもそんな調子なので、当然全身が満足な状態とはいえません。足指はとろけて一体化していますし、手指の股は水かきのようになっています。爛れた皮膚はふやけてぶよぶよの、見るだけでどきりとするくらい変質した白色になっている。そんな有り様でも、彼女は頑固にも、立って、歩き始めていて、それだけが、彼女を人の形をしたものと判断するに足る根拠でした。
白く濁った視界の向こうに見えるのは、うずくまるような倉庫街、妙に赤茶けて見える摩天楼、そうした人工物との境目すらわからない空……畜生界の空は青くありませんでした。
彼女がコンクリートの岸壁をよじ登る時、ざらざらの壁面に取っかかった爪が割れて、ふやけた腕の皮が応力に負けてぴしぴしと裂けました。それでも構わずに全身を地上に送り出し、その時に擦りむいた膝がずるずると血まみれになるのも気に留めず、転がるように固い地面の上に上陸します。
そのまま、大の字に寝転がって、この世界の曇り空を見つめ続ける。やがて、自分が何をしなければならないか、はたと思い当たったのです。
私は――、と彼女は言いかけて、声が出ない事に気がつきました。喉が酸と塩に焼けて、空気が漏れるようにひゅうひゅう痙攣するだけの、死んだ粘膜になり果てていたからです。
当然、聴覚も無事では済んでいません――しかし、いくらかは損傷がましな器官でした。少なくとも音は聞こえました。未だに水の中でもがいている時のような、不確かな音でしたが。
やがて細かいニュアンスと響きを剥ぎ取られた声、「……ゎーぁあーなーぁ、ぅみぉないぉ……」といったようにしか形容しようのない声が近づいてきて、ぼんやりと聞こえました。誰かが近づいてきているらしい、というのは、それ以前からなんとなくわかっていました。傷ついた皮膚はとても敏感で、近づいてくる足踏みや、がやがやした声、あるいは好奇な視線すら、刺さるように感じやすかった。
人々に取り囲まれて、安静を第一として丁重に運ばれたらしい事はわかりました。連れてこられたのは病院の治療室らしい、これからこの都市的な空間の、白を基調とした無菌的な場所に、うんざりするほど長い時間留め置かれるという予感だけがある……それくらいの事ならわかるとも言えるし、それ以上の事がさっぱりわからないとも言える、どちらにも捉えられる状態でした。
傷つきながらも自由に世界を彷徨できていた頃とは真逆の、傷は癒えてきているが不自由で世界との繋がりを失ってしまった日々の中で、やはり彼女にできる事は想像するだけです。
安静にする中で、どうやら顔面までぐずぐずに崩れているらしい(少し前に、失われた鼻梁に仮の詰め物をする手術が行われていました)事はわかっていたので、とりあえず自分の顔を回復しようと思った彼女は、己の顔を思い出そうとして、どうしてもできない事に気がつきました。
自分の顔を知らないまま、なぜ、なにがしかを創造できるなど、うぬぼれていたのだろう――とも思わされます。そこで、なんとか自分の顔を思い出そうとして、ぼんやり思い浮かんだのは他人の顔――想像の中で作り上げた、自分の複製物の顔です。理屈としては、複製物の顔は彼女の顔の似姿でもあるでしょう。しかし今となっては、それが彼女自身の顔でもある保証はありませんでした。
あれはもはや私の顔ではなく、あの子の顔なのでしょう、とも思いました。
なので、彼女が新たに造形した顔は、正確さよりも彼女の好みが反映されていたに違いありません。
* * * * *
このたび畜生界で起きた大規模な戦役の責任者たちは、このゴッサムの賢人さながらの人々が住むメガロポリスの、最も伝統と格式あるグランドホテルに集っていた。
伝統と格式とはいうものの、講和会議の議場となった会議室の建築様式は、一見すると優雅だがなにもかもが折衷的で、中途半端で、時にどきりとさせられる。調度にたびたび見受けられるアカンサスと唐草の二つの文様の下品で不気味な交配がその象徴のようで、とても由緒のあるもののようには思えなかった。
そんな席にずらりと揃ったのは、畜生界の名だたる勢力の長たちだ。彼らは今、一人の発言(というよりは弁明)を聞くために、皆々黙り込んでいた。
「ここに至るまでに、こんなに時間がかかってしまいました」と、八千慧はその席で言った。
(お前がさんざ遅滞戦術を繰り返していたくせに、よく言うよ)と尤魔は思う。
「もっと早くに、こうなるべきでした」
と言えば、早鬼が(お膳立てを整えるまで時間稼ぎを続けていたくせにね)と心中で反駁した。
だが、二人とも、別に声を上げて反論したりはしない。彼女たちとて共犯者だった。
八千慧はなめらかに、堂々と論じた(そして早鬼と尤魔は、心の中でいちいちそれにツッコミを入れていった)。
「そもそも、混乱の責任は誰に有るとも言えません(これは嘘。いったん双方の落ち度を見逃しあいましょう、という事の言い換えでしかない)。
「なぜなら、今回の戦争は、畜生界における都市と辺境のパワーバランスが変化した結果にすぎません(衝突は必然であり、自然の摂理でしかなかった、しょうがないことであったと詭弁を弄している)。これまで、この荒野において、私たち畜生どもは弱肉強食の競争社会を是とし続けていて、ために爪と牙による闘争が絶えなかった(これも正確ではない。本当は強いも弱いもなく、騙し合いと集合離散の連続だった。私だってあんたを裏切るかもしれんぜ)……そうして、野の闘争が激化する中で、それを忌避する流れも生まれた(だが、争いを厭うた連中が平和主義者だったのかはあやしいところだね。単に形勢不利で尻尾を巻いて逃げた事の言い訳だっただろうなぁ)。……畜生界の隅っこの、こんなさむざむしい漁村にすぎなかったここにも、難民が集い、やがて集落の規模は都市と言えるほどのものになって、港のありようは素朴な漁業から商工業を基とした経済へと、軸足が移ります(ここで細々と密漁を生業にしていたカワウソ霊たちを手勢にしたのは、他ならぬお前だものね……)。経済!――私たちは爪と牙に替わる、新たな武器と新たな闘争のフィールドをここに手に入れました(……いや、経済戦争じたいはそれ以前からあっただろ。都市には都市の経済があるように、辺境には辺境の経済もまた存在した事を、あんたは意図的に無視している)。ここはすべてが明らかで(嘘つけ)、開示され(嘘つけ)、平等です(嘘つけ!)」
八千慧は、ちょっと演説に間を空けて、そこに効果を求めた。
「……ですが、相互不信によって多少の手違いが起こりました(その多くをこちら側が起こした)。あなた方が求めたのは、この都市圏の経済力でしょう(ここだけは真実を言ったな)。この街はよく富んでしまった(ほんのわずかな一握りがね)。都市は貯めこまれている財が多すぎて、略奪に対して過敏になっており、しかも野を自由に生きる方々への誤解が大きすぎました(彼らだって、別に自由には生きていないよ。わかった上で言ってるだろうけど)。私たちとあなたたちの違いは、ここにたどり着くのが、早いか、遅いかの違いだったにもかかわらず、です(そう、私たちだって栄え始めたこの都市に目をつけて、襲い、略奪した側だ)。都市経営に参入したいのならば、私は歓迎しましょう(本音は?)。求められたからには与えるべきです(けち臭く、自分の権益を抱きしめようとしていた奴がよく言う)。ここではすべての経済競争を自由化していますからね(ここで、闘争ではなく競争と言い換えて、洗練さをにおわせるところがいやらしい)。
「ただし――」
(そう。ただし、がつくんだよ)
尤魔も、早鬼も、表情こそ変えなかったが、内心で同じぼやきをしている。
「……これまでのような武力対立は避けるべきです(そもそも、私たちって負けた側だしな。なんでこんなに偉そうに喋れるんだか)。私たちは変わるべきです(そして本質はなにも変えないべきだ)。これからの自由な競争社会では、できるだけクリーンにやっていきたいものですが(建て前は大事だもの)、やはり利害関係の衝突も起こるに違いない(本当にな)。そうした場合、ただの行政上の首長などではない、確かなまとめ役がいた方が良いと、私は考えます(負けた側がこんな提案をするのもおかしいけれど、むしろ負けた側だからこそ出せるのかもな)」
八千慧は、たたみかけるように提案を展開した。これまで、この都市を運営してきた公職は、最低限の実務官僚を除いて、すべて辞職させる事を約束する。その上で、新たな首長を決める。
首長をどう決定するのか。どんな存在が首長にふさわしいのか。
「私にはそれを決める権利がありません(お前らにもねえよ、とも言いたいだろう)……この土地の首長は、平等に、公平を期して決められるべきなのでしょう(この土地なりの平等さと公平さでな)。暴力で決めるなどもってのほかですからね(お前が言うな)」
八千慧は、権利を手放したように見えて、しっかりと決定権を掴んでいる。
「選挙を行います」
(やっと本題に入った)
ここまで全部、その言葉のためのおためごかしだと、共犯者二人は知っている。
講和会議にいったんの休憩が挟まれたのは、それぞれの陣営での協議が必要になったからだった。
「おのれらの連合のまとまりが強ければ強いほど、彼らは提案に乗るでしょう」
八千慧は言った。
「逆に、集団での意思決定もままならないような弱い結びつきならば、選挙という手法は拒絶するかもしれません。それはそれで少しずつ勢力を切り崩していけばいい」
そう言いながら、八千慧らの足は会議室だけでなくホテル本館の建物からも出ていて、敷地内の庭園を歩き始めていた。
「魂胆はわかるけど、うまくいくかはわからんねぇ」
「どのみち、今の状況は人質に近いよ」
尤魔や早鬼が言う通り、ホテルは会議場に設定されたその時から軍閥同盟の勢力下に置かれていて、庭先でもうろちょろと彼らの兵隊が行き来している有り様だった。
「……ま、負けた側だからなにも文句言えないんだけど」
「弱気になられても困りますよ」
「いや、弱気っちゅうかさ……」
とこぼした尤魔は、侵略者たちによってホテルの庭園が被った、無邪気な仕打ちを見ていた。池はごみ溜めか便所同然に扱われて、庭木や彫刻は遊びの射的の的や、酔った末に行われたと思しき内輪の喧嘩の斬撃の痕が残っていた。そのうちの一つの女神像(占領以前から、あざとく、悪趣味さを隠しきれていない古典ギリシャ彫刻のコピーだったが)は、首を括られて木に吊るされている。
「……あんたの言う拾い物の女神様も、あんな目に遭うかもしれないよ」
話題の女神様は、ホテルの別館の一棟で安静に扱われていた。他にいくつかある別館の中でも、特にこぢんまりとしてホテル裏の山の手にひっそりとあるその一棟は、もともと地獄のどこそこの大人物が、なにかの咎を得て逃亡し、この都市に潜伏した際に使用していたとかいう話だ。その大物とやらは心身を病んでもいたようで、この別館はホテルらしからぬ、病院じみて、清潔な設備と、静けさを要求された。その人が去ってからも、流れ着いてくる異界の要人や犯罪組織の大物どもの静養のために、たびたび使われている。
八千慧がこの場所に運び込んだ女神様とは、鯨の爆発とともにこの都市にやってきた、あの女だ――肉体的な性別すらあやしい、とろけかけたさなぎのような何物かでしかなかった女、それでも佇まいだけに威厳のようなものを感じさせて、これがなんらかの神格である事は間違いないと確信させるような女……
八千慧も、なにか直感するものがあったらしい。ちょうどこの都市を牛耳るための、新しい御輿を探すという思案のさなかにやってきた訪問者だったのが、この策謀家の意識を刺激してしまった。尤魔はそれを「憑りつかれたね」などと、なかば冗談、なかば真剣な調子でからかった。早鬼はというと、自分が抱いている懸念を、もっと即物的な言葉にした。
「……あんたの策も何もかも、その神様にかかっているわけじゃん。果たして私たちは、そこに全賭けしてしまっていいのかな?」
「今は、あまりそういう話をしないでください」
八千慧は別館の方角をあえて見ないようにしながら、二人に言った。
「まだ連中に手の内をさらすつもりはありません」
「私たちにはさらしてもよかったのかい」
尤魔は相変わらずからかう様子だったが、その後にやってくる、八千慧の答えをわかってもいた。
「別に裏切ってくれても構いませんが、今の私たちは決定的に不利というわけでもありませんよ。世論とは、こういうとき文明的な方になびきがちですからね」
ホテルに詰め込まれている人々は、畜生界を取り巻く勢力の長たちや、その配下の兵隊ばかりではない。報道の利用は今回の有事以前――それどころか都市を拓く前の畜生界で割拠していた頃から、八千慧が積極的に行ってきていた事だった。この講和会議に際しても、そうした報道機関を内外から熱心に招聘して、彼らの記者クラブの結成と報道協定の締結まで、彼女が折衝係となって主導している。
「……ま、私は試合に負けても勝負に勝てれば、それで構わないからな」
「そういう事です。あちらさんこそ、純粋な軍事力という自分たちの最大の武器を制限される羽目になる」
「なんやかんやと自分を励ましているようだけど、それでもナイフの刃は向こう側の方が長いのよ」
早鬼が呟くのと、ホテルの時計塔が時を告げるのが同時だ。会議再開の刻限だった。
* * * * *
相変わらず、目は見えないし耳も聞こえないまま。あたらしく作った顔も、馴染むまでは無表情の不気味な仮面にすぎないでしょう。それでも、わずかな聴覚に感じた時計の鐘の音の、ぼんやりした響きを聞き取っているだけというのも、なんだか怠惰な気がしました。
この丁重な、下にも置かれぬ扱いは、自分を利用するためだろうな、とも彼女は察しています。神様はそういう事にはなれっこだったからです(そう、彼女は神様でした)。悪い感情も、特に湧きはしませんでした。自分など、使いようで良くも悪くもなるという事は、彼女自身一番よく知っていたのです。
彼らが良い利用の仕方をしてくれれば、それでいいのだが……とは思います。しかし、それとて難しいのでしょう。それは土地のにおいでわかります。今だって、近くの建物のボイラー室で、なにかが焼かれていると思しき煙がただよってきます。むかむかとする、甘ったるいにおいでした。
それでも、この世界を心底から厭う事はできません。彼女には己の使命があったのですから。
「私はこの世界を救わなければいけない」
だが、どうやって?……その時、ぼやけた視界の端で、カーテンがゆらめくような気配が肌に感じられました。これまでも、時々この施設の職員らしき者がやってきて、肌を清められたりお尻を洗われたり、事務的に優しくされる事はありました。ですが、その人の気配はなんだか違ったのです。部屋の隅にひっそりとあって、なにをするでもなく、ただ棒立ちになっている――いつからそこにいたのか、いつまでそこにいるのか、いまだってどうしてそこにいるのか、わからないのです。
「だれ?」
かすれた声で――喉の爛れはようやく治りかけていました――尋ねると、その白ぼやけた影はびくりと震えて(彼女はそう見えたような気がしました)、ふらふらと部屋を横切って出ていきました。
なんだったのだろうと思う間もなく、だしぬけに、右耳に聞こえるものが明瞭になりました。外耳孔を塞いでいた血と体液と老廃物の塊が、ぼろりと取れ落ちたのです。
世界の解像度はより鮮明なものとなりましたが、それが彼女を喜ばせるものだったか、どうか。
* * * * *
別館の上階に通じるエレベーターは、動物園の檻のような鉄格子だ。八千慧はさっさとその中に足を踏み入れると、ついてきたあとの二人に言った。
「ともかく、こちらの提案は通りました。――表社会の連中にやらせるべき事は様々ですが、まずは選挙管理委員会の立ち上げからです。各勢力からも管理委員を推薦させましょう」
「私さ、そういう込み入った話聞くと、こう、いーってなるんだけど」
「こっちはそういう事務方に役立ちそうな人材なら、すでにリストアップ済み」
「こういうのを仕事ができるっつうんですよ早鬼」
「……絶対上手くいかないわ。不正やいかさまが横行しそう」
やがて上階へと垂直移動したエレベーターが止まり、がちゃがちゃ扉が開く。
「ですがこの選挙戦、彼らとて公平にやらなければいけないんですよ。彼らは侵略者で、外部からの支持や承認を欲している。それくらいは自覚しているでしょうし、そのためにはどんなにもお行儀よくなるか、逆に暴力で勝ち取るしかありません……もっとも、お行儀よくしなきゃいけないのは私たちも一緒。まずは女神様との対面からね」
言いながらフロアに出たとたん、明らかに空気が変わった。それは早鬼にも尤魔にもわかった。
「……私はもうある程度慣れましたが、それでも驚かされる事は多い」
と、エレベーターホールの脇に鎮座する、顔が七十二個ついている彫像に気がついて、八千慧が言う。外から差し込む光に照らされた廊下の先にも、似たような製作物――人の形をしているが、どれも過剰か不足が暴れ回っている――が、ごろごろと転がっていた。
「全部彼女が作ったもののようです」と八千慧はふたりに説明を続けるが、聞き手の方はあまり頭に入ってきていない。「ようですというのは、誰もその、造られる瞬間を目撃していないんですよね。みんな不気味がっちゃってて」
(でも、拒絶はされていないのか)
一瞬でもそうした負の気分をおぼえてしまったのが、単に自分の卑屈ゆえにさえ思えてくる。なんとも不思議な雰囲気だった。この感覚はおそらく神域に足を踏み入れた時のそれに近い――というより、そのものだろうという確信もあった。この場は彼女たちを拒絶していないが、受け入れてもいない。ただ、あなたたちと私は違うといった、凛とした原理原則だけが、この張りつめた階の中に静かに置かれているのを感じる。
「……私が悪いものに憑りつかれただなんだ、あんたらは好き放題言ってくれました。でも、これで意味がわかってくれたかと思います」
この場でもっとも冷静に響いていた八千慧の声だが、廊下を進んで最奥の一室に入り、自分たちの女神様と対面した時、それまでありもしなかった傷一つない無表情がその頭部に貼りついているのを認めた時にはさすがにぎくりとしたものだが、それでも当惑を顔に出す事はしなかった。
ベッドの上に横たわる存在は、首をわずかに傾げて、見舞客に対して尋ねる。それは八千慧も初めて聞く声で、闇の中の青銅の鈴の音のように、唇の動きの無いかすれた声だった。
「私はこの世界に救いを与えにやってきました。それで、あなたがたは私にどうして欲しいのです?」
いけない、と早鬼も尤魔も思った。八千慧は、この場面でも、自分たちに使ったような調子のいいおためごかしをかましてしまうだろう……。でも、この女には――この方には、そんなちっぽけな言い回しや話術、間違いなく通用しない。それについては、胸のあたりが締めつけられるような確信があった。たしかにこれは神様だ。……待てよ、今なんて言ったっけ? この世界に救いを与えにやってきたって……
八千慧もわかっていた。こいつに嘘は言えない。だったら、せいぜい本当ばかりを言ってやろう。本当を言ったところで、この女はどうせ利用される事なんか気にしやしない。神様とはそういうものだからだ。
「あなたには私たちのアイドルになっていただきたい」
神様の名前は埴安神袿姫という。
* * * * *
のちに杖刀偶磨弓と呼ばれる事になる彼女の複製品は、別館近くの山肌に身をひそめていました。そこからホテルの様子を眺めていて特に目につくのは、占領側の気を大きくした乱痴気騒ぎや、その場の勢いで行われる喧嘩といったものです。
しかし、そういった無法に抵抗しようとする心――少し前まで間違いなくあったはずの無秩序に対する敵愾心は、磨弓の心からは掻き消えていました。
それを塗り替えるように心を占有し始めた感情に、彼女は戸惑っています。
あの部屋にいた女――薄暗い一室の、清潔なベッドに横たわっていた女――「だれ?」と磨弓好みの声で問いかけてきた、磨弓好みの顔(本当は袿姫様好みでもあった顔)をした女――
ああして、すごすご立ち去るべきじゃなかったのかもしれない、彼女を奪って逃げれば良かったかもしれないとさえ思わされました。なぜなら、この世界は(あえてアナキスト的に言うならば“神もなく主人もなく”)、ただこうしてあるだけの世界でした。だから奪ってもよかった。
でも、磨弓は自分の神様、自分の主人に遭遇してしまったのです(ご存じの通り、正確には再会でしたが、最初の出会いとその次の再会とは、結局のところ一度目の遭遇か二度目の遭遇かという違いでしかありません――しかし二度目の方が常に奇跡的でしょう)。
彼女への執着に後ろ髪を引かれながらも、磨弓は無類の脚力で野の山をそのまま乗り越えて、戒厳下の市内をなんなく横断します。途中に検問などあれば、一人で襲撃を敢行し、破壊して押し通りました。そういう事ができる女でした。
もちろんそんな事をやらかして、ただですむはずもないのですが、この子もそこはわかっています。
これより前、磨弓が袿姫様と離れ離れになって、身一つでとぼとぼ荒野をさまよって(この子は肌の保護のために全身に泥を塗っている以外、相変わらず何一つ身につけず、全裸です)この都市にやってきた時から根城にしようと思い定めていたのは、このメトロポリスの真ん中に静かに横たわっている、十万平米にもおよぼうかという敷地でした。それは水堀を掘った中にぽつんと浮いている島か丘のようで、その水辺にするりと身をひそめて(都合二時間ほどその澱んだ水中にいたでしょうか。そうする事を求められれば、何日だってそこにいたでしょう。この子はおそろしく辛抱強かった)、さすがにもう良いだろうというところで、ゆるゆると島へと泳ぎつきました。
藪の斜面を手繰るように登ると、平たい場所にたどり着きました。そこから何歩か進むと、また急な傾斜が現れる。この段々構造が整地されたも結果らしい事は、島のぐるりを巡ろうとするだけでも察せられました。平らな回廊の幅は、ところどころ崩れていたり木々に遮られたりはするものの、だいたい均一だったからです。
やがて、島には隠れるように住民が住んでいる事にも気がつきました。つまり史書にいわく“全ての組織にこき使われている、完全なる奴隷”とか“力は弱いが手先が器用な生き物”などと記述されている、あの種です。
彼らは、磨弓の存在をおそれているようにも、無視しているようにも見えるやり方で受容しました。墳丘のてっぺんの水平面をこの子のための場所として明け渡して、自分たちはどこかへと消えてしまったのです。
あの人間霊たちはどこへ行ったのだろうと、磨弓は幾日かかけて島を探索して、どうやらこの島全体が古い遺跡らしいと結論をつけました。人間霊たちは遺跡の地下に設けられた石室や孔の中に、小さくなって暮らしていたのです。ひょっとすると、彼らはこの都市の原型を作った最初の人々であったかもしれず、畜生界の軍事勢力の南遷によって圧し潰され迫害された遺民なのかもしれません。
遺跡の名は今では霊長園と呼ばれています。
* * * * *
水堀の対岸にある島に向かって、八千慧は餌を投げ込む。人間霊用の餌だった。
「問題は都市の外の選挙区よ」
と言う尤魔もまた、同じように餌を放り込んで、岸辺に集った人間霊がおずおずとその餌を拾うのを面白がった。
「畜生界の外から越境してくる者が増えている。このぶんだと、行政からの正式な投票所入場券が発行される頃には、票数を水増しする目的の“自称・畜生界住民”ばかりになっていることだろうね」
「古典的な方法ですね。都市のような根拠地を持たぬ彼らが、こうした形で好き勝手する事は予想していました」
「住民投票という形式がまずかったんじゃないかな?」
「これくらい譲歩しなければ、選挙という方式だって受け入れられませんでしたよ」
「で、どう対策する?」
「……越境者を野放しにはさせません。早鬼が州境警備に派遣されるよう、手続きさせましょう。あいつはちまちました選挙活動なんかより、そっちの方がお好みでしょ」
「じゃ、そういう事にするか。だが今は正式な発議にかけなきゃ動かすものも動かせない。妨害はきっと起きるぜ」
「越境者たちが問題を起こしてくれればいい。現状の課題さえ明るみになれば、世論は過敏に反応してくれますよ」
もっと言えば、問題自体は本当に越境者が起こす必要はない。
その日の夜のうちに、都市郊外の集落と駅とが、越境者と推測される集団に襲撃されて、略奪を受けるという事件が起きた。
尤魔は、袿姫とよく顔を合わせるようにしている。この点は早鬼と真逆だ。辺境警備に派遣されたあの驪駒は、建て前だけでも上に置かなければいけない相手に、挨拶伺いすらしようとしなかった。
そうした粗忽で愚かな正直さとは真逆のものであったが、尤魔も、ある意味いっそう正直に袿姫と接していた。
「八千慧はどんなつもりだか知らないけど、私はあんたを利用しようとしているにすぎない」
そういった事を、冗談めかしつつもちょくちょく言い置いておいた。
「神様ならわかっているでしょ。あがめたてまつられる事だってビジネスの一種だって」
「あなたは饕餮ですね」
袿姫の返事はそれだけだった。それだけで、なにか尤魔の種族を巡る過去の信仰やその末路などを、見透かされてしまった気がした。
それからまとまった会話をしたのは、何日も後になる。選挙管理委員会は発足したばかりで日程すらも未だに決まっていなかったが、彼らも投票当日を目標として様々な対策や戦略を練っていくべきだった。だが、袿姫はあくまでお飾りに置かれていた。
「そういう扱いを悪くは思わないでよ」
「わかっています」
この頃はまだ、袿姫の視力は回復していなかった。ご機嫌伺いに会いに行ってやった尤魔は、半身起こしたベッドの上での探るような手つき、その指先がなでているタメルラン・チェスの駒を見やった。袿姫自身の権能によって生成されたらしい粘土製の駒と盤には、手工芸品的な誇張と形の崩れが確認できる。駒にはさほど細かい造形はなく、つるりとした円筒や柔らかい方柱に、切り欠きを加えたり、すっぱり切り取ったような面で平らに均したり、簡単な装飾を加えられて駒のバリエーションが区別されていた。
しかし盲人の悲しさなのか、二種の土質で色分けされた駒は、盤上でごちゃまぜに配置されてしまって、初期配置にもかかわらず敵味方もわからぬ乱戦の様相を呈していた。
「……遊びにつきあってやりたいけど、それじゃあ駒の配置がめちゃくちゃだよ」
「いいえ。これでいいのです」
尤魔がからかうと、袿姫はやさしげに、きっぱり答えた。
「私たちがやっているゲームは、こんな状況がふさわしい。ゲームの目的は敵味方をすべて呑みこんでしまう事ですから」
「……言いたいことがあるんだろうけど、こっちにはこっちの戦略と事情がある。この都市を富ませてくれている資本家連中や、反対に小うるさい労働者どもにも気を遣わなきゃならない。そうやってどこかを優遇すれば、別のどこかは反発したりもする。まあ、そういうものだよ」
「それはそれでいいのです。あちらや、こちらを立てて、冷遇されたところからは不満も出る。良いことです。不平不満も、あればいい。ただよくないのはそうしてしまうと、どこか一つの所属の色がつきすぎる事です。それでは貰える支持も貰えなくなってしまう」
今の状況では、都会的なるものと辺境的なるものの対抗という構図が、明確になりすぎてしまいます、と袿姫は言った。
「このままでは、彼らは、おそらく辺境・平原・砂漠の生活の中で形成された強固な社会的連帯――いわゆるアサビーヤを力として、この都市に打ち勝とうとするでしょう。それは選挙戦という文明的な形式になっても同じです……そういえば、彼らは畜生界の外から多くの増援を越境させて、票を水増ししようとしているとか」
「越境者の取り締まりは始めさせているよ」
「しかし、そうした行為を違法と決めつけるのも、都会側の身勝手というものかもしれませんよ。あなたがたは都市に定住して生きていくうちに、境界というものを重んじるようになった。定住地でシェアを奪い合うとは、そういう事です。ですが、彼らはあなたたちほどには土地境界線というものに執着していないかもしれない。もっと言うと、どこが畜生界と畜生界以外との境界なのかさえ把握していない可能性もある」
「……なにが言いたい?」
「ひとまず、越境者の取り締まりをやめさせて、委員会を招集して議事を執り行うべきです」
と袿姫は告げた。
「おそらく、今回の問題の発端は、土地というものに対する認識の相違でしょう。どういう結論となるにしても、まず双方の立場を理解しておくべきです」
無理をお言いなさる、と思いながら尤魔はその足で八千慧に会いに行って、発議を持ちかけた。提案を聞かされた少女は、一瞬びっくりした表情になりつつ、すぐに沈着の仮面をかぶり、やがて承諾した。
「……あの女は自らの意志を示す事で、私たちの勢力からも自立した存在であるとアピールしたいようですね」
「かもね。少なくとも連中への貸しにはなる――いや、本人は貸しを作ったとも思っていないかもしれないけど」皮肉っぽくそう言うと、尤魔は相手の顔色を窺った。「不満かい?」
「いいえ。私の望んだ彼女の姿でもあります。あの女にはあまりこちらに寄り添ってもらいたくもない。いっそ、彼女にはどの勢力の色も持たないで欲しいのです。それでこそ、ごちゃごちゃした勢力や組、族、党といったものどものるつぼとなったこの土地を包み込むのにふさわしい方です」
「……お前がそこを嫌がるとも思っていたんだ。彼女、私たちのシェアを保護しようなんて気、さらさらないぜ」
「わかっています。ですが勝てばどうとでもなる、まずは彼女を勝たせなければならない。そのために、あなたにはあの女のかたわらにいて、色々と相手してやって欲しい」
それは貧乏くじだ、と尤魔は直感したが、これからの事の処理で抗議はうやむやになった。早鬼は依然として境界付近の取り締まりに向かうべく進軍中だったが、これを慌てて呼び戻さなければならなくなったからだ。
袿姫は相変わらずグランドホテルの別館を静養地にしているが、やがてまぶたから鱗が落ちるように、酸に侵された角膜が剥がれて、視力が完全に回復した。それをきっかけに、彼女の居を他所に移そうという動きが起きた。
「……ま、そういう事で、色々と準備はさせているけど、もう少しはここにいる事になるだろうね」
「神殿建設、ということですか?」
「名目にするとそうなるよね」
「神様がひとびとにとって気に入らない好き勝手をしないよう、押しこめるための場所です」
「様々な解釈が許されるだろうな」
尤魔はのらりくらりとかわしたが、袿姫の洞察は間違っていなかった。
「まだ選挙も始まらないうちから……なんて、わがままを言いたくはありますが、仕方ありませんね」
尤魔が釈明している間に、袿姫は象棋の駒をぱちりと動かす。陶製のすべすべした駒は、石の盤に触れて堅い音を立てた。
「先頃の私の口出しが、あなたがたにとってあまりおもしろくないものだったのもわかっています。それがこのたびの判断のきっかけのひとつでは?」
「私に聞くなよ」
そうは言ったが、対戦している以上、袿姫が盤上で行う悪ふざけのような動き――尤魔がどれほど河界を越えてこようが、象棋における九宮の中で将帥を右往左往させるだけ――を、いやでも眺めなければならない。
「……この前の件だけど、八千慧のやつは面白がっていたよ」
それだけは伝えておいた。
「感謝もしてた。あんたが物言いをしてくれたおかげで、越境問題はとりあえず話し合いの場が設けられたからね。それでも結局、越境者の流入は止まらないかもしれないし、逆に取り締まりが行われるのかもしれないけれど……」
(早鬼なんか、どうせ取り締まらなきゃいけなくなるなら、さっさとやるべきよとぷりぷりしていた……)
「とにかく話は聞いてやった」
「それが大事なんです。別に、結局議事が決裂して、彼らに良いようにできなくても、いいんです。とにかく話だけは聞いてやる。それだけですべてが全然違ってくる」
「あんたの立場で物申したから双方納得して、協議の席についたんだ。口では簡単に言っても、なかなか起こせる事じゃない」
(いっそ、彼女にはどの勢力の色も持たないで欲しいのです。それでこそ、ごちゃごちゃした勢力や組、族、党といったものどものるつぼとなったこの土地を包み込むのにふさわしい……)
神様ならば、そういう事が可能なのかもしれない。
去り際、尤魔は選挙の公示が数日後に行われる事に決まったと、袿姫に伝えた。
* * * * *
街中に掲げられた袿姫様の選挙ポスターを発見するたび見上げたのは、もう何度目だったでしょう。夜中の雨は激しくなってきていて、地面に叩きつけた一滴が、跳ね返って膝元まで戻ってくるような勢いです。
霊長園を取り巻く、湖のようなお堀も、雨に降られてばしゃばしゃと水面に動揺を見せています。磨弓はそんな水の中に身を投じて、島の方へと泳いで戻っていきました。
明け方、雨がやんできた頃に、藪の中に分け入り、軸がまっすぐで、よじれのない矢竹を二十四本選んで伐り取りました。それらにくっつける矢羽根は、街中で目についたオオワシ霊を襲撃してむしりとってきた黒母衣を、夜中のうちに加工したものです。鏃には動物の骨を削ったものを使いまして、にかわと麻紐でもって矢竹の先にくくりつけます。
弓はもう作らせていました。人間霊たちは器用で、そうしたものを作る事には無類の才がありましたが、この時作らせたのは素朴な漆塗りの梓弓だったと伝わっております。
人間霊の強制連行が始まったのは、これよりも数日前からでした。磨弓はこの地に行き着いてから、朝から昼にかけてと夕から夜更けにかけての二度ほど、島をぐるりと巡回するのを日課としておりましたが、ある日、数刻前までは水辺の一角から感じられていた気配が、ごっそり消え去っている事に気がつきました。慎重に、注意深く状況を観察して推理してみると、どうやら水際の造作の崩れたところから侵入者が上陸してきて、そのまま略奪に遭ったようでした。
都市の必要と要請によって、ここに棲む人間霊が技術的な奴隷として徴収されていたらしい事が、磨弓にもなんとなく察せられました。
しかし、それを知ったとき、この子がなんとなく嫌な気分になったのは、別の集落に棲む人間霊たちが事件に対して無関心を装っていた事です。彼らもなんとなくこの土地に寄り集まっているものの、集落の一つが収奪されたり労役に駆り出されたところで、他の人間霊たちは諦めまじりの同情や、少し首をすくめるくらいの苦笑いしか見せる事ができず、我が身の幸運と連れ去られた者たちの不幸とを比べる事しかできなかったからです。
なにより、連れ去られた集落にも抵抗した痕跡はなく、略奪された当人たちすら、あきらめやこびへつらいとともに労役に徴収されていった、そういったことが容易に想像できてしまいました。最も腹が立つのはそこでした。
そんなわけで、この子は畜生界の体制に一矢報いてみようと思いました。ようするに、動機としては搾取する側に対してもされる側に対してもなんだかムカついたからにすぎず、本質的には八つ当たりです。
とはいうものの、この子のそんな決意も、さっそく変質しかけている事は認めなければなりません。
霊長園の外に出て都市の中で情報収集してみると、人間霊の連行は埴安神袿姫の神殿建設のために行われたものらしく、それが対立候補の攻撃材料になっていました。選挙戦はあらゆる涜職の横行の上に成り立っているらしく、表面では不正が管理されつつ、その裏ではもっと巧妙な手が見過ごされている、清廉な者を支えるために汚い金や利権が動き、秩序のために無法が行われているようでした……選挙戦は過熱しつつあって、畜生どもはルールの下での――なにかと不備の多いルールでしたが――闘争に熱狂し始めていました。つまりは、妙にシンメトリカルで、対立的で、公平性を強調し、ために不公平さが浮き彫りになっているのに、誰もがそれを無視している闘争です。磨弓はそうした事から目を背けようともしましたが、そのたびに袿姫様の顔が思い浮かんで、あのうつくしい女神様がそうした糞溜めの堆積した山の御輿に乗せられるのだろうかと思うと、なぜか暗い気分になるのでした。
弓と矢を手にしておいて、この子がまず忍び込んだのは、袿姫様が静養していたホテルの一室でした。裏手の山を越えて建物の陰へと忍び寄り、以前確認しておいた職員通用口を、そろそろと進んでいきます。
用心をしてたのがあっけなく思えるほど、潜入はおそろしく容易く、それというのも、ホテル別館の二階は袿姫様が造形した様々な種類のセラミックの彫像で埋め尽くされていて、世話を任されていた者もおそれて近づこうとしない有り様だったからです。
折りの悪いことに、部屋の主は不在でした。
誰もいないホテルの一室でぼんやりと立ちつくす磨弓は、ベッドのサイドボードに置かれたチェスの盤面を見つめます。これも選挙戦と似通った性質を有しています。シンメトリーで、恣意的なルールを持ち、単調なゲーム。
その盤からクイーンと前に立つクイーンズポーンの二駒をひとつまみのうちに取り去り、盗んで持ち去りました。
* * * * *
帰り路の中で降り始めた雨音と、エレベーターの檻ががちゃがちゃ閉じられる音の、どちらがうるさいだろうか。
「彼らが――既に権益を確保している資本家の方々が求めているのは、利益の保持だけではありません」尤魔の隣で、袿姫は言った。「本当のところ、彼らは何者が上に立ってまつりごとを行おうが、どうでもいいんですよ」
ホテル本館の大広間で行われた夜会――この都市の権益の幾割かを握っているお大尽かなにかの、祝賀パーティーだったらしい――に袿姫が非公式にふらりと現れたのは、選挙活動でも演説のためでもなかった。やった事も、ただこの都市でも特に富んだ人々と、いくつかの言葉を交わしただけだ。
「それでも付き合いやすい相手ではあって欲しい――実は商人と神様とは同格の存在なのです。そうしたことをこちらが理解しているかどうか、彼らはそこを値踏みしていました」
エレベーターから降りて、彫像が以前より数増しているホテルの廊下を歩きだした。造形される像は最近になるにつれて過剰や不足が影をひそめてきていて、南梁様式の優美な腕が蠱惑的とすらいえるなまめかしさで来客を誘っていた。
「既に富んでいる彼らにはなにかを与えなくてもいいのですよ。ただあなた方の事を知って、これからも覚えておいてあげますよ、と言って差し上げればいい」
「別にそういう、顔を売る社交を悪いというつもりはないけどね、あまり自分勝手に行動されて、富裕層に媚びを売られると後援会や選対が困るよ、奴らには奴らの戦略があるんだから」
「あなた方の組織のひとびとも、わたくしをバックアップしてくださる団体にはたくさん所属しておりますものね」
自室のベッドのサイドボードに置かれたチェス盤から駒が紛失しているのに、部屋に戻ってすぐ気がついた袿姫だったが、その事についてはあえて話さなかった。
「選挙対策委員会的には不都合があったんですね、どんな?」
「……選挙戦どうこうでうやむやになっているけど、近頃は湾港労働者のストライキが長引いていたんだ。んあぁ、別に金持ち連中と仲良くするなってわけじゃない。私だって資本家と労働者の対立なんていう構図を、真っ向から信じちゃいない。……ただなぁ、連中似た者同士なんだよ」
「彼らにもそれなりの利益をちらつかせろと」
「あんたならそれができるかもな」
「そもそもストライキの原因はなんです?」
「原因は色々と複雑な事情があるだろうけど、きっかけは私たちが戦争を起こしたからだね。端的に言っちゃうと、戦時の補給に関して民間企業の協力も要請したんだけど、その給料の支払いが滞った」
「あなたたちが悪いんじゃないですか」
袿姫は、それだけはちょっと面白みを感じたように、ふっと鼻で笑った。尤魔も苦笑いするほかない。
「こちらとしてもとんだ場外乱闘だよ。……ま、積もり積もったものが多かったんじゃない」
「準備をしておきましょう」
「なにの?」
「そうした方々の調停をするのが、私の――いや、選挙に勝利した後の私の仕事でしょう」
相手が気の早い話を展開させ始めたので、尤魔も苦笑いをそのままに口を尖らせた。
「まだ対立候補のいる事をやっているんだし、脇のあまい行動をやらかすのは禁物だぜ」
「直接の行動をする必要はないのです。あなたも言ったでしょう、鼻薬を嗅がせるのにも色々と方法があります。内容の具体性はないが、端々のふるまいだけでただ期待を持たせてやる、というのも手です。あなたのいいぐさを聞いていると、労組側もたっぷりと私の存在に興味を抱いて、欲望たっぷりの視線をやってきているようですし」
「……なんだかやらしい言い方だけど、裸踊りでも見せてやるつもりかい?」
「彼らがそれを求めるなら、して差し上げてもよいでしょう。でも求められているのは労使の調停でしょ?」
「すごいボケ殺しをされたような気がする」
尤魔はまたしても笑うしかなかったが、そのあとでなにか沈静した情動がやってきて、袿姫を慰めるように言った。
「……まあ、そうやっていろんな方々の気を惹いて、投票を促してくれるんなら、それでいいよ……しかし神様というのも楽なもんじゃない時代みたいだね?」
「最初からそうでしたよ、饕餮」
屋外で連打される雨の中でも、不思議とはっきり聞こえる声で袿姫は尤魔の名字を呼ばわった。
「私たちは彼らのような賢しいひとびとにとって、利用されるものでしかないのですよ……あなたがた蚩尤の氏族が涿鹿の野で一敗地にまみれて、己らの氏神を見捨てた時から、何も変わりませんものね」
早鬼にしてみれば、こんなものすべてがばかのような話の流れである。
「選挙なんて、勝つために味方を増やさなきゃいけない。味方が増えれば勝った後のパイの取り分が減る。ばかばかしい話よ」
ふたりきりのホテルのラウンジで、雨を眺めながらそうした言葉を八千慧に向かって吐き捨てるようにぶつけてやった。
「……あんたはそれでも取り分を減らさないよう、上手く立ち回るつもりかもしれないけどね。どうもあの女は虫が好かないわ……本当はあんたとサシで飲むのも胸が悪いのよ」
「私のためにまずい酒を飲んでくれてありがとうございます」
「からかうな」
と語気を強めて言いたいところなのに、なぜか、妙な苦笑いになってしまう。なにかの雰囲気に呑まれそうになってしまう……だが、これは別に八千慧に呑まれているわけではない、と内心で意地を張った。自分が呑まれかけているのは、埴安神袿姫にだ。八千慧は奇妙な後ろ盾を得ているにすぎない。
「あの女はあんたの手を離れるよ」
「良い事じゃないいですか。私たちは結局血なまぐさい暴力集団にすぎませんし、裏で色々援助できる事があったとしても、表立って動くとなにかと角が立ちます。あの神様には、お綺麗なままで更に広い支持を得てもらいますよ。……それでも、首輪はしっかりとつけているつもりですが」
「……詳しく」
「お綺麗なままであればこそ、彼女は自前の武力を持てません。なにか一人で変革を起こそうとしても、それを行使する力がない。かわりに私たちが暴力装置になってさしあげましょう。そういう事です」
それこそ、あの女――埴安神袿姫に対する侮りなのではないのか、と早鬼はこっそりと思った(そして、その懸念は最終的には間違っていなかった)。しかしそれらを口に出すまではせず、もっと現実的な問題を話した。早鬼には状況を一歩引いて眺める事ができる立場と聡明な直感があったはずなのに、結局は地上的な目先の問題にとらわれてしまった事になる。
本題は、境界を越えて流入してくる越境者たちについての報告だった。
「とにかく大変な事になってるわ。あれだって、あの女が肘を割り込ませてこなければ、もっと早くに動けていたはずなんだけど……」
ぶつくさ言っても今となってはしょうがない話なのだが、それでも愚痴を言ってやりたくなる。
「でしょうね。みんな勝つために味方を増やそうとしているってわけで」
「あの女も都市圏の得票は堅いでしょうけれど、奴らにまで選挙権を与えちゃったら、選挙結果だってどうなるか。わかったもんじゃないわ」
「ところが、今さっきあなたも言ったでしょう。味方が増えれば、彼らとて自分たちが手にするシェアは減っていくんです。すべて彼女の思うつぼです」
「え?」
「相手が勝手に、無思慮に人数ばかりを増やして膨れ上がっているからこそ、つけこむ隙も生まれるでしょう。彼女は、そうしたところをも取り込むつもりのようです」
実際のところ、越境者を合法な有権者として扱うのかという問題は、依然として置いた扱いにされていた。
(八千慧の話を聞くかぎり、別にどちらでもいいらしい)
と、ふたたび自分の組の兵隊を引き連れて辺境へと向かいながら、早鬼は八千慧の言葉を思い出していた。
「彼らは無思慮に数を増やそうとして、かえって統一された方針を持つ集団としての指向性はすでに失われかけている、というのが彼女の見立てなんでしょうね。私も間違ってはいないと思う。だからあなたには、ただ境界の取り締まりをしてもらうだけでなく、あちら側の情勢を見てきたり、できるならば分裂を促す工作をしていただきたい」
結局ばかばかしい政治に巻き込まれたわけだが、やる事は単純だった。ひたすら辺境の各勢力の様子を伺いながら交流し、折を見て宴会でも開いてみたりすればいいだけだ。
「たのしい宴会までお仕事の一つになっちゃうのはたまんないね」
と愚痴りはしたが、様々な内情が知れた。
「彼らの連帯は完全に失われている」
都市にいる八千慧に向けて送った覚え書きの中で、辺境の早鬼はそれを認めた。
「これはいつもの畜生どもの畜生的な行動だ。そもそも境界を越えてくる者も、あちらの陣営の要請によって加勢にやってきた向きはごくごく一部だったらしい。その他ほとんどは、勝手にやってきた無法者、ただ勝ち馬に乗りたいだけの連中。当然、そんな奴らを制御できるはずもない。そうした連中の関心は、たしかに他の候補者以上にあの女に向かっている。いまいましい話だけど」
なにもかもが手探りで、その都度都度の修正が多かった選挙期間だったが、もう数日で投票日という時になって、更に変更が起きた。今現在畜生界に存在するすべての者たちに合法な選挙権が与えられる事が、正式に承認された。
選挙権を得たひとびとの中には、霊長園の中で小さくまとまって暮らしていた人間霊たちも含まれている。
* * * * *
杖刀偶磨弓にも、その日の動物霊どもの行動が、昨日までのような単なる労役のための徴収や略奪でない事は理解できました。
ここ数週間、動物霊のやり方と磨弓の抵抗とは、見ようによってはのんきとすらいえる雰囲気も感じられつつ展開されていました(そして、このある種の牧歌的空気こそが、この時期の杖刀偶磨弓の奇妙な伝説を、いっそう神話的にさせてもいたでしょう)。
最初の頃は、一艘二艘ほどの舟艇に乗った動物霊どもが略奪にやってきて、磨弓の強弓から放たれる矢を受けて転覆しては、すごすご帰っていくだけでした。やがて動物霊側のやり口も巧妙になってきて、略奪行動を別々の地点から同時に行ってみたり、夜陰に乗じて急襲したり、いっそ空を飛び越えて、空挺的に占領しようとしたりまでしました――だが、どれも上手くいかなかった。すべては杖刀偶磨弓ただ一人の反抗によってです。
この子の抵抗は徹底的なものでした。二方面及び三方面からの侵攻を受けたなら、超長距離の精密な弓射を行い、軍船を沈没させてこれを阻みました。夜襲においては無尽蔵の体力でそれに応じました。空からの攻撃だって、なにほどのものでもありません。ただ弓矢で迎撃すればいいし、幸運にも着地に成功した連中は、地の利を活かしつつ腕力にものを言わせて、集結する間も与えないうちに各個に追い払ってやればいい。この子はただ一人そこにあるだけで、戦場の趨勢を左右できるような存在、生ける拠点でした。
しかし、この日は違いました。攻め手の巧妙さと計画性とが、それまでとは明らかに違うものだった……畜生界の勢力はこの霊長園をかつてない物量で包囲して、圧をかけたのです。
そもそも、これまで磨弓が行ってきた抵抗活動に、当の人間霊たちはそこまで感謝していたのかどうか。もちろん、弓矢を作ったり、広い霊長園の外周ぐるりを警戒したりするにあたっては、相応の手助けがあったでしょう。ですが、事がここまで大事になると、気が変わった人間霊たちもいたのではないか。むしろこの子が何かむきになって抵抗している様すら不気味に見えて、余計なお世話であって、自分たちはとんだ事に巻き込まれたと思っても、それはそれで正常な反応と言えるかもしれません。
包囲の開始は朝から始まり、昼には完成していました。もちろん、磨弓も水堀の外の動きには気がついていたし、今回の攻勢の相手がそれまでとは違う事を察していました――攻撃を行う事もちらと検討しましたが、それよりも状況が新しい段階に入った事の方が気にかかって、行動を起こす事は控えました。ともあれ、相手の出方を見てみようという気持ちの方が勝ったのです。
そして、昼下がりになる頃には、早くも動物霊たちの魂胆が判明していました。
「明日は投票日でぇーす!」
包囲の間を割って、ただ一人で向こう岸の突端に歩み出てきた女は、メガホン片手に、満面の笑みを貼りつかせて、こころよい響きのする声で人間霊たちに呼びかけました。
「みなさんの一票一票で、この畜生界を変えることができまーす! 人間霊のみなさーん、思うところがある気持ちはわかりますが、まずは理性的な手段で自分たちの立場を高めていくのはどうですかー? あなたがたにも選挙権があります! 畜生界の首長を決める選挙に行きましょー!」
* * * * *
「……じゃ、これで私のやりたい事は済みました。囲みを解いてやりなさい――あーっと、あんたたちもちゃんと明日の選挙に行きなさいよ?」
メガホンを景気よく放り捨てた吉弔八千慧は、自分たちの配下にもそう言ってやる。それから、それまで労役に徴用していた人間霊たちも霊長園に帰してやった。それで自分のやる事はおしまい。行政的なこまごました手続きは、表の仕事に従事する連中に進めさせればいい。あと半日ほどしか猶予がないが。
「まったく、人間霊まで楯突いてくるなんて、この街はいつから、そんなにどいつもこいつも浮ついていい場所になったんでしょうかね?」
八千慧はぼそりと呟きながら、彼らをそばで見ていた尤魔の「連れてこられた人間霊たちは袿姫に心服している」という見立てを思った。
神殿の建設は対抗勢力の批判を受けていったんは影をひそめたが、それでもペーパープランそのものはゆるゆると進行していた。その間、技術的な奴隷として徴用された人間霊と彼女とには、なんらかの交流が生まれていたらしい。
「どこまで票を上積みできるかわかんないけど、とにかく使えるものは使っていきな」
そんな尤魔の言葉を思い出すと、八千慧はふんと鼻で笑った。
「言われんでも使えるものは使いますし、なんとなれば、てめえの親だって質に入れてやりますよ」
ぼそりと呟きはしたが、撤収を始めた配下と、街並みの中にある選挙ポスターや投票所への案内看板を眺めながら歩いていると、なんだか浮つくようなものがあった。なにもかも欲望と打算にまみれた行動のはずなのに、なぜだかそれがきわめて純な志から出てきたもののように感じてしまう、恋にも似たあの瞬間があった。八千慧は誰にも見られないように、歩くふりをしながら軽やかにチャールストンのステップを二、三と踏むだけにして、街中を駆けだしたい衝動を抑えるために、軽く鼻歌をやるだけで我慢する事にした。
驪駒早鬼はいまだ辺境に留まって治安維持の任についていて、投票も現地で参加する事になっている。
(私たちみたいなならず者が治安維持とは変な話ね)
と、今の奇妙な立場には思うところはあったものの、かといって積極的に現状に対してたてつくつもりもなく、勝手にしろという心持ちで昼から酒を飲んでいた。
その手には投票所入場券がもてあそばれている。明日行われるこの最終決定が、あくまで有権者のあなたに委ねられている、という形式も、なんだか腹立たしい。それが、本当に、自分で望んだ決定なのかどうか、きわめてあやしいものだと思わされる。
「……言っちゃなんだけど、こういう時は都会的な理性より、辺境的な本能の方が聞くべき意見なこともあるわけじゃない」
そんなふうにこぼしたのは、そばに、その辺境的なる者がいたからだ。ここ最近はずっと、そうした者たちと交流しては宴会をやったり、そこでよその話ばかり聞いている。
「“汝の欲するところをなせ”よ」
相手はくっくと笑いながら言った。
「たとえ道から外れようと、無効票となってもさ、“それが汝の道にならん”ってやつでしょ」
この時期、三頭慧ノ子が越境者のひとりとして早鬼と出会い、やがてその幕下に入ったという話がある。これが正しければ、日白残無の布石――数年後に行われた地獄から畜生界への介入行動の布石はすでに張られていた可能性が発生するが、それをどう解釈すべきか。ともあれ彼女は(慧ノ子のみならず、孫美天、天火人ちやりといった連中もまた)越境者だったと言われている。
「無効票か」
と、早鬼は呟きながら、相手に酒をすすめる。
「それもいいかもね。……ねえ、それよりもっと聞きたい話がいっぱいあるね。幻想郷ってところにはさ……」
たとえ無効票になっても構わないから、投票用紙にはもっとこの世界を統べるに相応しい方の名前でも書いておいてやろう、と彼女は心に決めた。
決戦の前におとずれた奇妙に静かな夜に、饕餮尤魔は埴安神袿姫のもとへと招かれていた。
呼び出された、と言っていい。相手はいつもの部屋ではなく、本館のラウンジに腰かけて、このホテルの貯蔵室にある一番のワインを一人で勝手にあけて祝っていたのだ。
彼女たちの選挙事務所にあつらえられ会議室から、真夜中にもかかわらず変に浮ついたざわめきが漏れてきていいる。当然、これらの後援会の人員の多くは八千慧らが準備した者たちだったが、一応おもてむきは関係のないものとされていた。
「座りなさい」
いつになく強く命令されてそれに従うと、袿姫はきっぱりと言った。
「私はこの選挙に勝つでしょう」
それだけが言いたくて私を呼んだのかよと尤魔が言いたくなるほどに、その後は沈黙が続いた。
「……えらい自信だね」
ようやく、無難な言葉選びをした。
「私が勝つに決まっているからです」
即座に言葉が返ってくるのが、なんだか武道の組手でもさせられているような気分になった。
「まだわかんないよ」
「ですが、私が勝ちます。私は神様で、この世界を救いにやってきたのですから」
「その言葉を聞くのは二度目だけど」尤魔には尋ねたい事があった。「あんたが勝つのはいいけど、今後はどうやってこの世界を救おうと思っているんだい?」
言っている間にグラスがもうひとつ準備されて、そこに注がれた酒は尤魔のものになる。酔える液体を飲み下す間に、袿姫は静かに、よどみなく答えていた。
「方法を決定する権利は私にありません。あなたがたにもきっとないでしょう。たしかに私は神様ですが、救いを求める民衆のもとに積極的に降臨なさって、その場で救いの法などを与える事は事実上不可能でしょう。私自身がその力を持っていないわけではありません。ですが、私は客体にすぎません。救済の主体とは、実は救う側の私にはなく、救いを施されるべき彼らの方なのです。……でも、不思議なことに、彼らは私に救いを求めたにもかかわらず、それと同時に誰かに救われようなどとは思いもよらないのでした……私は呼びつけられたにもかかわらず、この世界の中では不要物らしくて、ここがどんなに闘争に満ちて活気に溢れたメトロポリスであっても、そんな世界は神様にとって無味乾燥です。私からしてみれば、あなたは今、荒れ果てて埃っぽいグランドホテルの廃墟の中で、砂の混じったワインをじゃりじゃり飲んでいるのと変わらない」
尤魔は喉がつかえそうになった。
「……ちょっと待ってよ。彼らって誰なのさ」
一瞬でまずくなったワインをなんとか飲み下して、喉の粘り気を飛ばすために一度咳きこんでから、尤魔はどうにか尋ねた。袿姫は、その様を微笑みながら眺めている。表情は慈しみに満ちているが、それだけとも言える。相手に対する親しみや心配からは明らかに一線が引かれている微笑みだった。
「だから言ったでしょう。それを決める権利は、本当のところ私にはないのですよ」
杖刀偶磨弓には、人間霊たちが投票所に向かうのを止める気はない。
もう数刻もして夜が明ければ、彼らは行政から各々に配布された投票所入場券を手に、街中の案内や知り合いに導かれて、投票所に向かい、埴安神袿姫に投票するだろう――他の候補者なんかには目もくれず。
磨弓は、境界に置かれた武人像のように、それをじっと見送る事しかできない。
彼ら人間霊たちはこれを――この選挙を、なにか自分たちの現状を良くするためのものだと思っているらしかった。おそらく、それも間違いではない。そういう方法で彼らを救えるのならば、それでもいい。ただ磨弓の性分に合ったやり方ではないだけだ。彼女は根っからのいくさびとだった。
自分が無用の存在になった気がしつつも、それでいい、とも思った。埴安神袿姫はきっとこの選挙に勝利するだろう(多少の贔屓目がありつつもそう思った)。そしてこの畜生界に善政を敷いて、巨大畜生組織の手綱を取っていく事だって、可能かもしれない。暴力は(少なくとも直接的な暴力は)今やお呼びではなかった。
自分はこの世界に不要だったのだろう、と思った。そう思うと決断も早い。どうせ整理すべき身辺もさほどにない。彼女は未だに素っ裸でこの世界をうろついているような有り様だ。
翌朝、投票所が開かれる時刻、磨弓は人間霊たちがぽつぽつと投票に向かい始めるのを見届けると、霊長園の奥へと姿を消した。
* * * * *
【祝】埴安神袿姫、畜生界の総選挙に圧勝【祝】
* * * * *
「おめでとうございます」
引きも切らない祝いの言葉が、一夜明けた昼過ぎにようやく落ち着いてきた頃、八千慧はようやく選挙事務所へと袿姫様への挨拶にやってきました。
「もっと早くにお祝いを述べたかったのですが、今までお忙しいと思ったのでね」
「これからはもっと忙しくなるでしょうしね」
相手のいたずらっぽい笑みを避けるように、八千慧はそっぽを向いて、別の人を探し始めます。なぜでしょう、それまで抱いていた心算を、しくじったかなという気がしてきて――自分は己らの軍事力を背景に、この女神様を片面ではお支えし、もう片面ではいいように操ろうとしていた。なのに、その第一段階がともかくも成就した今では、なにをばかな事を、と思えてしまうのです。
「……饕餮のやつは帰ったのですね」
それだけをようやく言いました。
「彼女を私の侍従長閣下にしようとは思いませんよ」
考えを見透かされているような気がして、八千慧はぎくりとしました。相手の態度も、どこかそっけなく見えて、何もかもがこの一夜のうちに替わってしまった事を感じさせてしまいます。
「……これから、あなたは表立ってこの畜生界をとりまとめていく。とはいえ、表の面を引いていくばかりでは、世間というものは動いてゆきません。時には裏の力や、暴力や、軍事力などで押す事も必要でしょう。その折には――」
そこでなぜか息が止まってしまって、どうぞ私の事もおぼえておいてくださいね、という最後の一言が出てきません。
「大丈夫ですよ」
八千慧が言葉を発せないままに、袿姫様が答えました。
「私は、この畜生界にある全ての勢力を保証します。なので、あなたがたはご心配なく」
(それが困るのよ)
と八千慧は思いました。もちろん、こうなる事はわかっていました。それでも、事さえ成せばやりようはあると信じて、ここまでやってきたのです。
(あんたには、私らだけを認めて欲しいの。誰も彼もなんて認めちゃいけない)
それが彼女の望みだったのですから。
八千慧の心を知ってか知らずか、袿姫様はにっこり笑って言いました。
「もちろん、あなたの懸念はわかっていますよ。あなたがたのシェアは一時的には減るでしょう。ですが市場競争を高めて、この土地を上手に経営する事ができれば、結局のところ全体が富み、あなたたちだって今以上に利益を得る事ができる」
「理屈としてはわかるんだけどね、理屈としては」
「今のところ、すべて絵に描いた餅にすぎないのは確かです。しかし選挙公約とはそういうものでしょう。たしかにあなたがたの力を借りなければいけない事もあるかもしれないし、あなたたち以外の力を借りる事もあるかもしれない」
「私たち以外の力?」
「この世界には、本来のありようを奪われている者たちが大勢います」
袿姫様が続けました。
「本来の技術や能力を発揮すれば、もっとこの土地や勢力を強くして、富ませる事のできる方々がね。……もちろん、あなた方だって、これからは暴力によって奪い合うばかりではいけませんよ。なにがしか、私のもとでありようを変えていただく必要は出てくるでしょう」
(嫌)
彼女の采配ひとつで自分がこねくり回されて変質させられてしまいそうな予感に、八千慧は本能的な嫌悪感を覚えました。
(だめだ)
とひとり思います。
(もう、既に、私はこの女を潜在的な敵として認定してしまっている)
* * * * *
数ヵ月前に講和会議の議場となっていたグランドホテルの会議室には、いま三勢力の長だけが集っている。
「わかっていた事だったよ」
と最初に言ったのは、早鬼だ。彼女は辺境の野から舞い戻ったばかりで、ほこりっぽい服で椅子を汚しながらふんぞり返っていた。
「絶対にあの女はあんたの思い通りにはならないのよ」
「痴話喧嘩みたいな話だね」
「茶化している場合じゃありませんよ侍従長閣下」
「侍従長閣下?」
「いえ……それはともかく、彼女には理解させてやる必要があります。この世界は理屈や絵に描いた餅で成立するようなものではないって事をね」
その後、彼女たち三勢力の長は、数日のうちに何やかやと理由をつけて下野し、散らばっていった。
彼女たちの意図は単純明快だった。どうせ袿姫の体制は、力による後ろ盾が無ければ、もろいものなのだ。そのやる事が気に入らないのなら、自分たちが野に下り、相手が音を上げるまで好き勝手な事をするべし。
「……思った以上に堪え性がなかったですね」
組閣すらままならず、がらんとした会議室の中に一人座りながら袿姫は呟いた。
「まあ、遅かれ早かれなのはわかっていましたが」
彼女たちが、自分たちの組織としての集団意識にある種の誇りを――無自覚な誇りを抱いている事は、袿姫もわかっていた。だからこそ、そこから変わる事を潜在的に恐れるだろう、という事も。
たしかに、袿姫はこの畜生界のすべてを変えるつもりだった。それは街並みや政治体制だけでなく、ここに住むすべてのひとびとをも変えていくだろう。それに対して、かねてからこの土地に存在した組、族、党らが反発する事もわかっていた。彼らのように独自の集団意識を持った者たちは、都市の権益を追い求めつつも、本当は都市的勢力になどなりたくなかったのだ。都市生活は、やがて彼らの紐帯をゆるやかに薄れさせていき、やがては新たな集団に征服されるだろうから。
結局、この世界の畜生組織どもは、そんな羽目になるのはまっぴらだったのだろう。
(では私のもとに残っている、この者たちはどうなのかしら)
と神様は思った。袿姫の周囲でおろおろしている人間霊たちは、一度は霊長園に戻ったものの、いつの間にかふたたび彼女の身の回りを取り巻くようになっている者たちだった。“全ての組織にこき使われている、完全なる奴隷”、“力は弱いが手先が器用な生き物”……
(彼らは変化を恐れないだろうか)と彼女は自問した。(恐れるでしょうね)と自答した。しかし、この不思議な生き物は、最後にはあきらめと困惑の入り混じる中で、変化を受け入れるだろうとも感じた。袿姫は、そんな彼らを、弱い生き物だとはちっとも思わない。ただ不思議な生き物と思った。
「……どうせ組閣もままならないのなら、神殿建設の事でも考えましょうか」
袿姫が立ち上がると、人間霊がぞろぞろとついてくる。それを引き連れながら、かねてから自分の神殿にふさわしいだろうと思っていた場所の下見に向かった。
霊長園へ。
* * * * *
道々、彼女に従うひとびとの数は増えていきました。霊長園のみならず、市内のそこここに人間霊はいて、動物霊に飼われたり、高い壁を設けた指定の居住区内に隔離されたりして、そこで労役を受けていたのです。
「この街を初めておのれの目で見ます」
誰に言うでもなく、しかし周囲にいる一人一人に語りかけるように袿姫様は呟きました。選挙戦の間、ホテルの奥に留め置かれて、外回りすらやらせてもらわなかった神様でした。
「今まで、地図や図面を眺めることで、この都市のありさまを想像していたのですがね。私は生来、そういう事が得意でした。私がこの畜生界にやってくる以前、もといた廃墟と青空の下で、ひとりぼっちでそれと同じような事ばかりやってきました」
思い出すように創造されていく言葉が、創造するように思い出されていきます。
「そこでずっと、造ったり、壊したり、時には自分自身さえ粘土のようにこね回していました。……誰しも、そのような時期があるものだとばかり思っていたのですけれど、私はまれな存在らしかった。少なくとも、ずっとそのような事ばかりやっているのは、変わり者らしいのですね。でも私はずっとそうしていた。退屈な神様でしょ?」
略奪を受けて荒れ果てた区画も、彼らは歩きました。情報操作によって巧みに隠蔽されていましたが、破壊を行ったのは鬼傑組でした。
「……あるとき、誰かが救いを求めてきました。誰が求めたのかはわかりません。私が求められたのかもわかりません。ただ、私がそうした事を察知した。だから私はこの世界にやってきた。それだけです」
水堀をわたって霊長園に上陸する頃には、彼女のもとには無数の人間霊がつき従っていました。遺跡と化した霊長園を、なぜか懐かしむように見上げて言います。
「私はここと同じような場所で……いや、ここでなにかを作っていました。廃墟と青空があったかつてのここで」
歩いて進むほどに墳丘の頂上にたどり着くと、縦孔が空いています。その井戸のように底の見えないぽっかりとした暗闇に、袿姫様はためらいもせず身を投げました。
穴の底の石室で待っていたのは、杖刀偶磨弓の体です。ですが、おかしな事に、この埴輪はすっかり苔むしてしまって、活動を停止していました。まるで何百年もそうしているように、手足を木の根に絡み取られていたのです。少なくとも昨日今日の間には、こうなるはずがありません。
「……私は、きっとあなたを救うためにこの世界にやってきた」
しかしこのうつろになった埴輪は、間違いなく磨弓です。袿姫様はその手の中に、見覚えのあるチェスの駒――自分の手元からなぜか紛失していたもの――が握られているのを、ちょっとあやしみます。
彼女は相手の穴のような眼窩をなぞり、ちょっとためらった後に口づけしました。手は相手の体を愛撫し、膝を太ももに割り込ませて、その輪郭をたしかなものだと確認しながら、じっくりと待ち続けました。
「……あなたの肉体はもともと私の肉体で、あなたの魂は私を守ってくれたのですね」
長い口づけの後、待ち続けていたものがやってきた後で、袿姫様はぽつりと呟きました。相手が、優しく、自分を包み込むように抱き返してくれたとき。
* * * * *
その後の事は誰もが知っているが、それでも多少の補足は必要だろう。
袿姫は磨弓をともない、畜生組織に対抗すべく独自の兵団を編成した。その際、この世界のために、ぶっきらぼうなほどに短く、シンプルな綱領を作成した。
前提
この土地に根付く犯罪的・反社会的・軍事的勢力は、欲望ばかり膨れ上がって、他者にたかって食い物にするくせに、その安全を保障しようともしない。これは本来土地に依存しなければならない集団として、非常に消極的なありかたである。ためにこれら各勢力は、公式声明の騒々しさに反して常に防御的な受け身の立場を取らざるを得ず、外線的作戦はほとんど行われない。
ゆえに、私たちは以下の方針をおおまかな枠組みとすればよい。
一つ、軍団は情報伝達とその統合を重視すること。
一つ、民と根拠地に拠って立ち連携すること。
一つ、常に他勢力より先んじて動くこと。
また、これらのごく短い原理原則に加えて、こうも付け足した。
私たちはこの世界に、救いと同時に混乱をも与えるべきだ。
袿姫の兵制は、非常に神様らしかった。制度を実情に擦り寄せたり適当にしていくのではなく、実情を無視して無理矢理制度にあてはめた。
「千人を一個軍団と規定して、軍団内はこれを五分割して二百人で一個大隊、二つに割って百人で一個中隊、また半分こして五十人で一個小隊、その中で十人一組を分隊としつつ、それを半分して伍からなる単位を指揮系統の最小単位として、そこに伍長を置く」
兵団の長には磨弓が立った。
その間にも市中市外の両面で行われている動乱からしてみると、袿姫の行動は一見のんびりとしている。マイペースとすら言えた。
また、彼女は霊長園の整備を人間霊たちに命じた。
「どうせもとよりあった計画でしょう。やりなさい」
そのようになった。
統制を離れた畜生組織たちは依然として好き勝手に暴れ回っていたが、それで袿姫の権威や神性が削られるという事はほとんどなかった。民衆にもこの神様が無力で(少なくとも当時はそう見えた)、混乱は彼女の無能のためではなく、そして乱暴を働いているのは自分勝手な畜生組織どもであるという事が、わかりやすすぎるほどにわかりやすかったからだ。誰もが、不思議と、彼女が悪くないという事を知っていた。
「しばらくはそれで良いでしょう」
袿姫は放っておいた。やがて畜生組織も歯ごたえのない状況に厭いてきた頃、整備された霊長園から忽然と埴輪兵団が出陣してきて、あっという間に各地の街道や駅を確保し、都市の安全を保証するどころか、辺境まで含めた畜生界全体に、たちまちのうちに兵力を浸透させ始めた。
埴安神袿姫による、畜生界全域を巻き込む軍事行動に対しての公式声明
「(前略)……私たちは、この土地でのたうち回る泥の中からやってきました……他の神様のように、不動の天上から神々しく降臨なさるという事はできなかった……ですが、それでいいのです……それこそが正しかった……(中略)……畜生界の暴力組織の皆さん、あなたがたが変化をおそれるからといって、この世界に停止を要求してはなりません……(後略)」
都市から叩き出され、風をくらって辺境の野に逃げ出した畜生組織たちを追いかけて、埴輪兵団はすかさず攻勢をかけた。なんとなれば三日三晩でも休まず追撃をかけられる彼らだった。
セラミック製の甲冑を纏い、同じくセラミック造りの埴輪の軍馬に跨った磨弓は、それに乗って右へ左へ、横一列になった騎兵部隊に対していちいち声をかけていった。
「なにも恐れる必要は無い――恐れる必要は無いわ! この世界はうるっさいけれど、私たちを歓迎している!」
そうした事を、声の限りに繰り返し叫んだ。
「奴らを切り刻めば、あんたらの耳元で何千もの楽器が鳴り響くかもしれないけれど、それはただの楽器よ。たとえ目を覚ますような悲鳴が聞こえても、すぐ夢見させてやりな。あいつら、雲の裂け目からタカラモノが落ちてくるのだけを夢見ていて、目が覚めてもまた眠っていたくなるような奴らだもん」
そんな野蛮な連中に現実を見せてやれ、と磨弓は言う。
「あいつらが持ち上げて、いい操り人形にしようとしたアイドル様は、絶対にあいつらの言いなりにはならない!」
次に矢合戦を――合戦とは名ばかりでほとんど一方的に矢の雨を降らせた後、やがて抜刀を命じた。刀までセラミック製だった。
にわか作りの防衛線などもろいもので、あっという間に蹂躙された。兵士が馬から降りて敵陣地をそのまま強力な自らの拠点に構築しなおすその間も、埴輪の馬が退却する敵を追いかけ続ける。
行動はすべて不気味なほどになめらかだった。
兵団の装備は古くさい技術と言われているものの、それは単に衝角付冑や小札甲、剣・弓・馬といった古びたハード面による、表面上の印象によってそう言われているにすぎない。彼らの真に最強の武器はソフト面にあり、それは最新鋭の統合戦術情報伝達システムとでも言うべきものだった。
「連中、そんなサイバーな装備使ってんの……」
「そうでなくては、この侵攻速度は説明がつかないのですよ」
野戦指揮所の中で、八千慧は早鬼の質問に答えながら、指揮所の真ん中に広げられた作戦領域の地図を指した。地図上にトレーシングペーパーを敷いて固定し、そこに刻一刻の状況が鉛筆書きされたり、軍隊符号や騎兵の駒が配置されたりしている。
「私たちは、前線が勝っているのか負けているのかすらわからないのよ。たぶん退却中なのだろうけど、退却命令が前線まで届いているのかすらも、私たちは知り得ない」
「戦争ってそういうもんじゃん」
「うちらにとっての戦争は、です」
数刻前に始まった埴輪兵団の攻勢が、完璧に同時多発的で、それでいて各方面の進退は柔軟そのもの、なにひとつ硬直していない機動が展開されているのを、八千慧は感じ取っていた。たしかに、彼らの装備は古くさいかもしれない。騎馬に乗り、弓矢を担いで、剣をたばさみながら突撃してくる古代の兵団かもしれない。しかしその用兵はおそろしく洗練されていた……。
「彼らはわかっているようなのですよ。どうやら、あの埴輪の兵団は一元化されたネットワークを構築して前線からの情報を集約し、そこから中央で判断された指令を、ふたたび前線の兵卒一人一人にフィードバックしている。あっちの動きが生身の手足だとすると、こっちの地図と鉛筆方式の作戦指揮は、ブルーにこんがらがったのろまな操り人形も同然なんですよ」
「私らは目隠しチェスを強いられているわけね……で、尤魔んとこの兵隊は?」
これ以上愚痴らせてもしょうがないので、早鬼は話題を変えた。
「その攻勢をくらってまんまと分断されてしまったので、それっきりですね。ですが連絡の手立ては模索しています。あの方面なら旧地獄との州境あたりに逼塞させられている線が強い。しかしあいつなら、たとえ敗走しても散らばった兵をよくまとめている事でしょう」
「……他人を信頼はしてるんだよなぁ」
一方通行の信頼だが。
「ですがそう……どうしましょ。別に、今すぐごめんなさいって頭を下げちゃえばいいんですよね。彼女の戦争目的は、あくまで自分の手から離れていった畜生勢力の鎮圧です。ここらで私たちが折れて講和を持ちかけるのも、一つではある……しかし、そうして時間稼ぎを行う間に、別の手を用意しておいてもいい」
「別の手とは?」
「外部勢力を呼び込んで戦局に介入させる」
「……なるほど」
八千慧の策謀は、早鬼にとってはべつに驚く事でもない。こいつはそういう事を考えつく奴だし、発想にしてみても、つい最近まで自分たちが取り締まっていた事の逆をやろうとしているにすぎなかったからだ。
やがて尤魔との連絡もついた。彼女は独自の判断で袿姫のもとに和議を出していて、今回の争いからは降りた。しかし考えている事は似たりよったりなようで、講和の仲介をしてやってもいいだとか、なにか力添えできる事があれば陰から協力できるだとか、そういった事を伝えてきていた。
「相変わらず立ち回りの上手いことね」
と早鬼がぼやくのを八千慧は完全に無視して、自分の考えを広げていた。
「……しかし、私たちの場合、呼び込む勢力はよくよく吟味して、方法も巧妙にしなければいけません」
八千慧はその後も、ぶつぶつと考えを口にした。誰を畜生界に呼び込んで、埴安神袿姫に対抗させるか……なまなかな存在ではだめだ。あの権能と競り合う事ができる者でなければならない。
「削いでおきたいのは軍事力です……今まで、私たちは力と数のルールによって戦ってきました。戦争だってそう、選挙だってそう、この土地のシェアの何割を奪い合うみたいな話だってそう、その根本には常に数と力の原則があった。あの女もそれに乗っかった。そうしたものをみんな、一旦はご破算にしましょう。それができる別のルールが必要です」
「……今までチェスで競っていたのに、急にあやとりで勝負しましょうなんて話じゃん。乗ってくれるかな、相手は」
「乗るでしょう。神様は変化を恐れない。御輿を用意されればどんなものにだって乗ります。連中は常にそうする事で生きながらえてきた存在です」
「別のルールねえ……」
早鬼には心当たりがあったが、少しもったいぶるような様子を見せた。
(太子様を、こんな畜生のみにくい闘争に巻き込んでしまって、いいのかどうか……)
当初、畜生組織たちが介入を求めようとした幻想郷勢力は、豊聡耳神子だったというのが現在では通説となっている(この人選について、誰の意向が強かったのかというと、当然ながら驪駒早鬼だろう)。しかし吉弔八千慧はこれに難色を示し(早鬼が推した神子が状況の主導権を握ってしまう事をおそれたと思われる)、結局はかつての古い知己(今では八雲藍という名でもっとも著名な化け狐)に介入行動の仲介を打診したが、これは先方にやんわりと断られてしまった。幻想郷側も畜生界の情勢を把握していて、これには手を出しかねる案件だと判断されていた。
ただし、と藍は八千慧たちへの返事に、但し書きをしておいた。
幻想郷全体としては畜生界の現状に介入することはできないが、同時に、博麗霊夢や霧雨魔理沙といった存在――今の幻想郷の根幹にあるはずなのに、各勢力から不思議と独立を保っている少女たち――が独自行動を起こすぶんには、自分たちはこれを押し留める事はできないだろう、と。
また、藍は(おそらくかつての彼女のように、かつての友人たちに対して)とある策を授けた――人道的にはどうかと思われるが、自らも式神を受けて使役される立場に喜んで甘んじている、彼女ならではの策といえる。
* * * * *
「はぁ」
彼女は、二日酔いでずきずき痛む頭を押さえながら、昨晩の酒飲みを経て廃墟のようになっている布団や友人と、外の青空を見比べました。また、めちゃくちゃな飲み方をしてしまった。最近どうしてか、いつもこうなのよね。そういった事を思った。でもどうしてでしょうか、それも悪い事ではないと思うのです。
布団から転げ落としてもすやすやとやっている友人はそのまま、体を引きずりながら後片付けをして、ついでに外に布団を干していると、東からの強い風が吹いた。
「……平和なのはいいんだけど、なにか事件でも起きて欲しい気分だわ」
(了)
一歩目で、ぬかるみを踏み抜いた足が履き物を取られてしまうように、足首から先が無くなりました。据わりの悪い首もぎくりとするほどのあっけなさで折れて、土に還りました。腕は剥がれかけたかさぶたの集合にすぎず、身をゆするたびに崩れ落ちていきます。なにもかも確かな状態とは言えませんでした。
彼女は夢の中で救いを求められて、外行き用の肉体を持たぬまま現実にやってきてしまったのです。泥をまとって、どうにか実体らしきものを作ってその地に上陸したものの、姿かたちを保つことも能わない。もっとも、彼女は不自由を感じてはいるけれど、不安には思っていませんでした。先行きは不透明でしたが、いつもこんなものなのです。
救いをもたらすには時間をかけなければいけないのだろう、と彼女は考えました。それから眠りにつきました。現実がままならないのであれば、眠りの中で作業をするしかなかったのです。
眠りの中で考え続けたのは、作られるものと作るものの関係についてです。肉体を持たぬ存在にとって思索と行動は等しい行いなので、彼女は考えた時点で既に実践を始めていました。
まず、想像の泥団子を作ります。ちょうどよい可塑性の粘土を想定して、丸く捏ねて成型する事を想像しました。捏ねるのはもちろん、想像の掌によってです。それは薄皮の一枚ですらなく、厚みをまったく持たずに無限の薄っぺらさを持つ、現実ならば存在しえない掌でした。
思考を弄んだ時にだけ存在する掌の上で、彼女は幾度も土を転がし続けます。第一段階の成果物は完璧な球形でしたが、同様の作業を繰り返すうちに、変化が生じるようになりました。
第一九七段階、球の形の崩れが確認されました。
第七八〇段階、形の崩れが誇張され始めます。その後も数十個に一個の割合で、球の形に顕著な変化が見られるようになりました。
第四〇〇三二七九二一二段階、誇張された崩れに一定の傾向が見いだされつつあります。ただ真球を作るための型でしかなかった彼女の掌は、指と関節を持つメカニズムになろうとしていました。
第一九二〇一九七〇〇七八〇六段階、作業が格段にやりやすくなりました。指先に指紋が形成されて、摩擦を生じるようになったのです。
第九七八四〇〇三二七九二一二段階、彼女は粘土の球に自分の掌の型を取りました。
つぎに掌が転写された粘土の塊を、指先の感覚だけで成形していきます。いとしいものを触るように、優しく、大胆に。手の造形に満足ゆけば次は腕、腕が出来上がれば肩、頭部、胸部へと、想像の粘土を継ぎ足していって、執拗な愛撫の中で彼女は彼女自身の似姿を造形していきました。
開口部の作業に関しては、彼女の芸術家的な衝動がよく現れているかもしれません。目に穴を開ける時は、乱雑に親指でほじくり回した後で、小指の爪を少し伸ばした部分で、繊細なまぶたを作りました。口の中から泥を掻き取った後は、そのぽかんと呆けたような穴に少し物足りなさを感じて、ちょっと迷った後で、舌を入れる接吻をしてやる事で、口腔や口唇の微妙な柔らかさを転写しました。
相手を造形するうち、彼女はいつしか自分のカタチをも取り戻していきました。少なくとも、これが自分のカタチであったのだろうというところに落ち着きつつあります。
やがて、彼女は目的に合った体を作り終えて、ついでに作った自らの似姿と絡み合いながら、ようやく起きる準備が整ったと思いました。
あとはなにか、目覚めるきっかけさえあれば――と思った時、彼女の複製品がなにごとかを彼女の耳元に囁きました。
さっきまで崩れかけた泥にすぎなかった女とその複製とが、波が引きずった痕の白い泡立ちの中に忽然と出現しました。魔法や手品といった通俗性に押しこめたくなるような、そんな唐突さがある現象でしたが、彼女が想像の世界の中、無限に近い主観的時間をかけてこの体を獲得した事を忘れてはなりません。
顕現した後も、彼女には障害がありました。それまで想像の肉の自由な世界に生きていた彼女にとって、現実の体は身を縛るものでしかなかったのです。寄せては返す波にもてあそばれて、口にたんまり入ってきた海水を反射的に嘔吐するなど、体の動かし方を思い出しながらのたうち回っているうちに、ふたたび波にさらわれてしまいます。
ぷかぷか、ざぶんと波をかぶりながら、なんとか水面に浮き上がった時には、彼女は陸地からひどく引き離されてしまっていました。
どうにか浮き上がって、浜辺に目を向けてみると、彼女の複製物が遠い地上で脚を内股にわななかせつつ、ようやっと立ち上がる事をおぼえはしたものの、かといってなにかができるわけでもなく、自らの主体を呆然と見送るしかないのが目に入ります。しかし、それすらも常に水面のうねりに邪魔され続ける、きれぎれのイメージにしかなりません。
彼女の体はどんどん陸地から引き離されて、ついには、水面の一点から動いているのか止まっているのか、孤独なのかこの海の一部になりかけているのか、わからなくなってくる漂流になってしまいました。やがて、つつみこむようにぬるい海は、ぼんやりしている間につつみこむようにぬるい肉壁となっていて、のんびりとした蠕動の末に、彼女を窮屈で生臭い場所に押しこめてしまいました。
どうやら鯨かなにかに呑まれたようです。
これはこれでゆき着くところのゆく末であろうと、彼女は観念して目を閉じました。ただひとつだけ気にかかるのは、岸辺に残してしまったおのれの複製品の事で、客体たるあの子が、あの後、ちゃんと主体たる自分と決別できたのか、という事ばかりが気にかかっていたのです。
それができないなら、あの子は今でも浜辺でぐずぐずとしているに違いない、できているなら、あの子は浜辺を離れて、誰かに行き合うでしょう。そしてこう言うのです――「あなたの着ているものと靴と、武器が欲しい」だなんて。
想像の内でほくそ笑んでいるうちにも、生臭い現実は彼女を肉嚢の中に圧迫し続けて、胃腸へと送り込み、なぜかそのまま生命の運動を終えてしまいます。膨大な血液を送り続け、また多くのものを感じてきたはずの心臓と脳は急速に硬変し、セラミック化していました。
どうやらこの鯨は、なにか呑みこんではいけないものを呑み込んでしまったのだろうなと、呑みこんではいけないそのものは思いました。
* * * * *
それにしても、肉体というのはいやなものだなと、海風に乗って岸壁まで届いてくるにおいを嗅ぎながら、八千慧はぼんやり思った。
「さすがのあんたでも、あんなものを食ったら腹壊すだろ」
八千慧とは別のやつが、八千慧とは別の相手をからかった。つまり早鬼が尤魔をからかったわけだが、その無邪気さがどこかむなしく響いたのは、漂着物の腐臭を運んでくる潮風のせいだけではないだろう。
「……労組のストは、別の場所で行われるみたいですよ」
「おまえあんなの見ながら別の事考えているのな」
湾港に漂着したのは、巨大な鯨の死骸だった。波に乗ってこの沿岸にやってくるまでの間に、時間をかけて、しっかり腐敗して、夜ごとに劣化しつつある強靭な皮膚の下に、たっぷりとガスを貯めこんでいる。その風船のような有り様にはもはや生前のしなやかな姿はなく、丸々と膨れ上がり柔軟さを失いかけている体表には、幾本もの肉割れが生じていた。
「鯨の爆発って見た事ある?」
「知識として聞いた事はあるけど、見るのは初めてだね」
「見なくたって、何が起こるのか想像すればじゅうぶんですよ、このにおい」
におい、むかつく、腐りきって、海からやってきたもののにおい。
「で、あんたとこの兵隊は、あれをどう処理するつもりなんだい……」
尤魔が八千慧に尋ねた。死骸の処理を請け負ったのが、彼女を頭とする鬼傑組だったからだ。
周囲は実にうるさい。一応封鎖線が張られてはいるがそれすら乗り越えるように報道陣が押し寄せていて、倉庫街の屋根にまで登って逐一の記録を取っている。ただの鯨の死なのに……。
「できれば外洋まで曳っぱっていければ、それがいいんですがね。しかしあの肉風船が形を保っていられるのは、腹腔内に溜まり続けるガス圧に表皮が耐えている間の、危ういバランスの上です。まずそんな余裕は無いでしょうね」
「この湾内で爆発させるしかないのかな」
「計画的に、意図をもって、計算づくでやる事はできます。少なくとも陸の方に腐った血と肉をばらまかないようには……まあ、どのみち汚れ仕事ですよ――あ、二人ともあちらを向いて――みんな笑顔で――にぃーっ」
フラッシュライトに思わず引きつりそうになる顔の筋肉だったが、奥歯を噛みしめながら報道カメラに対して笑顔を保った。
「……まあ、珍しく三勢力の長が顔を合わせてるんです。しかもこの地の福祉衛生のために汚れ仕事をやろうとしている。アピールしときましょう」
「……やくざ稼業も、今や媚びを売って人気を稼ぐのが第一か」
「気にしたところで仕方ありませんって。昔からそうでしたよ」
「それより急に光を焚かないで。びっくりするから」
三人して報道陣の囲みから歩み去りながら、早鬼が文句を申し立てた。それを聞いて、八千慧はクスクス笑う。
「なに、てっぽーかなんかで、ドタマを吹っ飛ばされるとでも思ったんですか? 私はあいにくと、狙撃の標的の隣に立っている度胸はありませんし、どのみち時期が時期ですもん」
「やっぱ、なにか相談事があったんだ」尤魔の声にはからかうようなものがあったが、すぐに調子を落とした。「……で、どう考えてるんだ?」
「……先の会戦の敗北によって、北部の軍閥や賊どもによる、この都市への介入も時間の問題になりました」
「みんなわかっている事だ」
「ですが、連中の考えは、極めてシンプルです。このメトロポリスの利権に手を突っ込みたい……少なくともこれまでのように、広域都市圏の端っこをちまちま収奪するだけでなく、その中枢にまで根を張って、その養分をすするおこぼれに預かりたい」
「なんだかこっちが悪口を言われているみたい」
「要するに、今までの私たちとなり替わりたいって話だからな」
「ここはいっそ、あっさり連中に手を突っ込む隙を与えた方がいい。この都市の公職を総辞職させる。これを講和条件とします」
「なるほど。こっちは痛くも痒くもない」
「だが連中が入り込めば、私たちの取り分は減る。ただでさえ戦に負けた後よ」
「まあ、完全に手を突っ込ませるつもりもありませんよ」
「しかしうまくいくものかしら、自分から勝手に素っ裸になっておいて、それでいて指一本触れさせない、みたいな話だなぁ。できるの?」
早鬼が珍しく慎重な姿勢を表明した。尤魔もそうした懸念に同意しながら、岸壁沿いでふと足を止めて、湾内にぷかぷか浮かんでいる鯨の膨れ上がった死骸と、それに接近して処理の準備にあたろうとしている、鬼傑組の組員たちを眺める。
「たしかにな。今までだって、この都市の首長も公職も、裏からどうとでもしてきた私たちだけど……そうした既得権益とは一旦手を切る必要に迫られちゃうわけだ」
「なにより彼らをすっぱり切った後も、表向きの首長はいるべきでしょ。こんなに軽々しく切られる首がいてくれるかどうか――あっ、ああ、やったわ!」
目の前で起きた現実の爆発の方が、この都市をめぐる先行き不透明な陰謀よりも興味を惹くものだった。爆発といっても、華々しく天衝くような噴火ではない。むしろ、横腹が大きく裂けて大量のガスと腐肉を噴出する様子は、溜め込まれていたどろどろが流出する、なにかぬるぬるした決壊だ。異様に濃く、黒々と見えた赤茶色の霧の向こうで、まだ暴れ足りないといった未練があるのか、何重にも折り重なった腐りかけの臓物が、次から次へと鯨の果てた腹から飛び出していく。
「何人かイかれちまったみたいね」
と早鬼がぼそっと呟いたのは、作業員として現場で働いていた八千慧の配下が巻き込まれたからだった。また、噴出した死骸の破片は湾港の岸壁の一区画にまで吹き飛んできていて、その方面を見つめて尤魔が言った。
「向こうのブロックは、封鎖した方がいいな」
「あのあたりは紡績倉庫ね」
別に被害を被ったわけでもなく、直接的にはなんの責任もない二人が、今まさにやらかした責任者である八千慧を差し置いて、好き勝手に言いあった。その時、野次馬をや報道を押し留めていた封鎖線が自然と破れて、彼らは被害のあった方へと殺到していく……それを見て、八千慧もすぐに当惑から我にかえった。それから彼女は無責任な二人の言を採用し発展させて、呼びつけた配下に耳打ちをした。
「……汚染されたブロックは即刻隔離してください。封鎖すべき範囲の把握や被害規模の見積もりなんかの確かな事は、大雑把にやってよろしい。とにかく、衛生の保全を最優先として、人を追い払いなさい。腐敗した血や肉、有毒ガス、病原菌、寄生虫などなど、とにかくあらゆる危険を理由として隔離する事。……ああ、それと。あの区画には紡績倉庫がありましたが、当然そこも汚染のおそれがあります。言いたいことはわかりますね」
続いて、なめらかに、いかにも正しい事を行うかのような口調で、八千慧は略奪を肯定した。
「湾港組合の長期ストで、ここらの倉庫の流通も見通しが立ちません。ですが、いまここに死蔵されている絹物だって、私たちが接収して、素早く巧みに市場内で動かせばお金になるんです――腐るものではないとはいえ、潮風に漬けさせておくのももったいないでしょう」
最後に、にっこり爽やかそうに笑ってあげる事で、行為の後ろめたさを取り払ってやった。
「相変わらず口の上手いことだね」
多重織りのガーゼハンカチを鼻にあて、数百メートル向こうから届いてくる腐臭を少しでも和らげようとしている、そんな尤魔が言った。
「私たちはあんたの目論見を聞いたぞ」
「そうですね。それで?」
邪魔をするような義理もないだろと言わんばかりに、八千慧はけろりとしていた。
「今は私たちも足を引っかけ合っている場合じゃないでしょう。それに商売は商売。労働組合にも資本家連中にも、損をさせないように上手くやらせますよ。連中だって、懸念しているのは善悪やイデオロギーなんかではなく、結局のところ損得の部分にすぎない」
「あんたはこの土地の申し子のようよ」
早鬼か尤魔か、どちらかが呆れたようにぼやくのだが、八千慧はそこまでは聞いていなかった。それより、計画通りにゆかなかった鯨の爆破処理の方が不思議だった。なぜ処理作業は失敗したのか――もちろん、なにもかもが不安定な状況だ。ガスを溜めこんで破裂寸前だった鯨の死骸は、いつ湾内で爆発してもおかしくなかった。だからこの失敗は、本来失敗とも呼べない。彼女は配下たちに危険を冒した作業をさせて、事故によってその報いを受けたにすぎないのだ。だが、なんだか違和感がある……
首を傾げていたその時、八千慧は海面に奇妙なものを見かけて、その一点を凝視する。鯨の裂けた腹から流れ出す腐った体液が、湾内に広がってきている(そうだ、水中の汚染にも留意しなきゃいけないな、とわずかに思った)。その水面を移動する人影があった。
「……なにあれ」
唖然とする八千慧の視線に気がついて、それを追うように頭をめぐらせた尤魔が、共通の感想を漏らした。
大きく裂けた皮を押しのけて、鯨の腹の中からふらふらと出てきた人影は、人のかたちを保つのも危うげに見えた。それだけは不思議と無事な長い髪を乱れさせながら、陽炎の向こうでゆらめき、まぼろしのように水面を渡り歩いている。ふらふらとしているが芯の通った歩み、融けかけた飴細工にも見える奇妙な姿勢の良さで、岸壁に近づきつつある。
「ねえ、なにあれ」
尋ねられた八千慧にしてみても、あれが爆発に巻き込まれた自分の配下の生き残りとも思えない。
「……ま、ともあれやるべき仕事が多いことだけはわかりますね」できるだけさっぱりしたふうでそう言うと、彼女は一同の興味の対象から背を向けて、早鬼や尤魔に向き直った。
「あれについても、こちらでとっ捕まえて調べておきますよ。まあ、ああいったものに興味を惹かれるのもわかりますけどね。今すぐどうこうわかるものでもないでしょう。じゃあ、こっちも忙しくなりそうなので、そろそろ」
言外に追い払われている事を察した二勢力の長だったが、かといって逆らう理由もなかった。
* * * * *
妙につるつる、そのくせなまぬるく、足の裏にひたひたと吸い付く足元でした。
死んだ鯨の腹から脱出した彼女は、自分が水面に足をつけて、沈みもせず歩んでいる事すらわかっていませんでした。胃酸を始めとした分泌物に長時間まみれたため、溶けたまぶたは半分塞がりかけて、眼球の表面には白濁した膜が張っていたのです。目の周り一つをとってもそんな調子なので、当然全身が満足な状態とはいえません。足指はとろけて一体化していますし、手指の股は水かきのようになっています。爛れた皮膚はふやけてぶよぶよの、見るだけでどきりとするくらい変質した白色になっている。そんな有り様でも、彼女は頑固にも、立って、歩き始めていて、それだけが、彼女を人の形をしたものと判断するに足る根拠でした。
白く濁った視界の向こうに見えるのは、うずくまるような倉庫街、妙に赤茶けて見える摩天楼、そうした人工物との境目すらわからない空……畜生界の空は青くありませんでした。
彼女がコンクリートの岸壁をよじ登る時、ざらざらの壁面に取っかかった爪が割れて、ふやけた腕の皮が応力に負けてぴしぴしと裂けました。それでも構わずに全身を地上に送り出し、その時に擦りむいた膝がずるずると血まみれになるのも気に留めず、転がるように固い地面の上に上陸します。
そのまま、大の字に寝転がって、この世界の曇り空を見つめ続ける。やがて、自分が何をしなければならないか、はたと思い当たったのです。
私は――、と彼女は言いかけて、声が出ない事に気がつきました。喉が酸と塩に焼けて、空気が漏れるようにひゅうひゅう痙攣するだけの、死んだ粘膜になり果てていたからです。
当然、聴覚も無事では済んでいません――しかし、いくらかは損傷がましな器官でした。少なくとも音は聞こえました。未だに水の中でもがいている時のような、不確かな音でしたが。
やがて細かいニュアンスと響きを剥ぎ取られた声、「……ゎーぁあーなーぁ、ぅみぉないぉ……」といったようにしか形容しようのない声が近づいてきて、ぼんやりと聞こえました。誰かが近づいてきているらしい、というのは、それ以前からなんとなくわかっていました。傷ついた皮膚はとても敏感で、近づいてくる足踏みや、がやがやした声、あるいは好奇な視線すら、刺さるように感じやすかった。
人々に取り囲まれて、安静を第一として丁重に運ばれたらしい事はわかりました。連れてこられたのは病院の治療室らしい、これからこの都市的な空間の、白を基調とした無菌的な場所に、うんざりするほど長い時間留め置かれるという予感だけがある……それくらいの事ならわかるとも言えるし、それ以上の事がさっぱりわからないとも言える、どちらにも捉えられる状態でした。
傷つきながらも自由に世界を彷徨できていた頃とは真逆の、傷は癒えてきているが不自由で世界との繋がりを失ってしまった日々の中で、やはり彼女にできる事は想像するだけです。
安静にする中で、どうやら顔面までぐずぐずに崩れているらしい(少し前に、失われた鼻梁に仮の詰め物をする手術が行われていました)事はわかっていたので、とりあえず自分の顔を回復しようと思った彼女は、己の顔を思い出そうとして、どうしてもできない事に気がつきました。
自分の顔を知らないまま、なぜ、なにがしかを創造できるなど、うぬぼれていたのだろう――とも思わされます。そこで、なんとか自分の顔を思い出そうとして、ぼんやり思い浮かんだのは他人の顔――想像の中で作り上げた、自分の複製物の顔です。理屈としては、複製物の顔は彼女の顔の似姿でもあるでしょう。しかし今となっては、それが彼女自身の顔でもある保証はありませんでした。
あれはもはや私の顔ではなく、あの子の顔なのでしょう、とも思いました。
なので、彼女が新たに造形した顔は、正確さよりも彼女の好みが反映されていたに違いありません。
* * * * *
このたび畜生界で起きた大規模な戦役の責任者たちは、このゴッサムの賢人さながらの人々が住むメガロポリスの、最も伝統と格式あるグランドホテルに集っていた。
伝統と格式とはいうものの、講和会議の議場となった会議室の建築様式は、一見すると優雅だがなにもかもが折衷的で、中途半端で、時にどきりとさせられる。調度にたびたび見受けられるアカンサスと唐草の二つの文様の下品で不気味な交配がその象徴のようで、とても由緒のあるもののようには思えなかった。
そんな席にずらりと揃ったのは、畜生界の名だたる勢力の長たちだ。彼らは今、一人の発言(というよりは弁明)を聞くために、皆々黙り込んでいた。
「ここに至るまでに、こんなに時間がかかってしまいました」と、八千慧はその席で言った。
(お前がさんざ遅滞戦術を繰り返していたくせに、よく言うよ)と尤魔は思う。
「もっと早くに、こうなるべきでした」
と言えば、早鬼が(お膳立てを整えるまで時間稼ぎを続けていたくせにね)と心中で反駁した。
だが、二人とも、別に声を上げて反論したりはしない。彼女たちとて共犯者だった。
八千慧はなめらかに、堂々と論じた(そして早鬼と尤魔は、心の中でいちいちそれにツッコミを入れていった)。
「そもそも、混乱の責任は誰に有るとも言えません(これは嘘。いったん双方の落ち度を見逃しあいましょう、という事の言い換えでしかない)。
「なぜなら、今回の戦争は、畜生界における都市と辺境のパワーバランスが変化した結果にすぎません(衝突は必然であり、自然の摂理でしかなかった、しょうがないことであったと詭弁を弄している)。これまで、この荒野において、私たち畜生どもは弱肉強食の競争社会を是とし続けていて、ために爪と牙による闘争が絶えなかった(これも正確ではない。本当は強いも弱いもなく、騙し合いと集合離散の連続だった。私だってあんたを裏切るかもしれんぜ)……そうして、野の闘争が激化する中で、それを忌避する流れも生まれた(だが、争いを厭うた連中が平和主義者だったのかはあやしいところだね。単に形勢不利で尻尾を巻いて逃げた事の言い訳だっただろうなぁ)。……畜生界の隅っこの、こんなさむざむしい漁村にすぎなかったここにも、難民が集い、やがて集落の規模は都市と言えるほどのものになって、港のありようは素朴な漁業から商工業を基とした経済へと、軸足が移ります(ここで細々と密漁を生業にしていたカワウソ霊たちを手勢にしたのは、他ならぬお前だものね……)。経済!――私たちは爪と牙に替わる、新たな武器と新たな闘争のフィールドをここに手に入れました(……いや、経済戦争じたいはそれ以前からあっただろ。都市には都市の経済があるように、辺境には辺境の経済もまた存在した事を、あんたは意図的に無視している)。ここはすべてが明らかで(嘘つけ)、開示され(嘘つけ)、平等です(嘘つけ!)」
八千慧は、ちょっと演説に間を空けて、そこに効果を求めた。
「……ですが、相互不信によって多少の手違いが起こりました(その多くをこちら側が起こした)。あなた方が求めたのは、この都市圏の経済力でしょう(ここだけは真実を言ったな)。この街はよく富んでしまった(ほんのわずかな一握りがね)。都市は貯めこまれている財が多すぎて、略奪に対して過敏になっており、しかも野を自由に生きる方々への誤解が大きすぎました(彼らだって、別に自由には生きていないよ。わかった上で言ってるだろうけど)。私たちとあなたたちの違いは、ここにたどり着くのが、早いか、遅いかの違いだったにもかかわらず、です(そう、私たちだって栄え始めたこの都市に目をつけて、襲い、略奪した側だ)。都市経営に参入したいのならば、私は歓迎しましょう(本音は?)。求められたからには与えるべきです(けち臭く、自分の権益を抱きしめようとしていた奴がよく言う)。ここではすべての経済競争を自由化していますからね(ここで、闘争ではなく競争と言い換えて、洗練さをにおわせるところがいやらしい)。
「ただし――」
(そう。ただし、がつくんだよ)
尤魔も、早鬼も、表情こそ変えなかったが、内心で同じぼやきをしている。
「……これまでのような武力対立は避けるべきです(そもそも、私たちって負けた側だしな。なんでこんなに偉そうに喋れるんだか)。私たちは変わるべきです(そして本質はなにも変えないべきだ)。これからの自由な競争社会では、できるだけクリーンにやっていきたいものですが(建て前は大事だもの)、やはり利害関係の衝突も起こるに違いない(本当にな)。そうした場合、ただの行政上の首長などではない、確かなまとめ役がいた方が良いと、私は考えます(負けた側がこんな提案をするのもおかしいけれど、むしろ負けた側だからこそ出せるのかもな)」
八千慧は、たたみかけるように提案を展開した。これまで、この都市を運営してきた公職は、最低限の実務官僚を除いて、すべて辞職させる事を約束する。その上で、新たな首長を決める。
首長をどう決定するのか。どんな存在が首長にふさわしいのか。
「私にはそれを決める権利がありません(お前らにもねえよ、とも言いたいだろう)……この土地の首長は、平等に、公平を期して決められるべきなのでしょう(この土地なりの平等さと公平さでな)。暴力で決めるなどもってのほかですからね(お前が言うな)」
八千慧は、権利を手放したように見えて、しっかりと決定権を掴んでいる。
「選挙を行います」
(やっと本題に入った)
ここまで全部、その言葉のためのおためごかしだと、共犯者二人は知っている。
講和会議にいったんの休憩が挟まれたのは、それぞれの陣営での協議が必要になったからだった。
「おのれらの連合のまとまりが強ければ強いほど、彼らは提案に乗るでしょう」
八千慧は言った。
「逆に、集団での意思決定もままならないような弱い結びつきならば、選挙という手法は拒絶するかもしれません。それはそれで少しずつ勢力を切り崩していけばいい」
そう言いながら、八千慧らの足は会議室だけでなくホテル本館の建物からも出ていて、敷地内の庭園を歩き始めていた。
「魂胆はわかるけど、うまくいくかはわからんねぇ」
「どのみち、今の状況は人質に近いよ」
尤魔や早鬼が言う通り、ホテルは会議場に設定されたその時から軍閥同盟の勢力下に置かれていて、庭先でもうろちょろと彼らの兵隊が行き来している有り様だった。
「……ま、負けた側だからなにも文句言えないんだけど」
「弱気になられても困りますよ」
「いや、弱気っちゅうかさ……」
とこぼした尤魔は、侵略者たちによってホテルの庭園が被った、無邪気な仕打ちを見ていた。池はごみ溜めか便所同然に扱われて、庭木や彫刻は遊びの射的の的や、酔った末に行われたと思しき内輪の喧嘩の斬撃の痕が残っていた。そのうちの一つの女神像(占領以前から、あざとく、悪趣味さを隠しきれていない古典ギリシャ彫刻のコピーだったが)は、首を括られて木に吊るされている。
「……あんたの言う拾い物の女神様も、あんな目に遭うかもしれないよ」
話題の女神様は、ホテルの別館の一棟で安静に扱われていた。他にいくつかある別館の中でも、特にこぢんまりとしてホテル裏の山の手にひっそりとあるその一棟は、もともと地獄のどこそこの大人物が、なにかの咎を得て逃亡し、この都市に潜伏した際に使用していたとかいう話だ。その大物とやらは心身を病んでもいたようで、この別館はホテルらしからぬ、病院じみて、清潔な設備と、静けさを要求された。その人が去ってからも、流れ着いてくる異界の要人や犯罪組織の大物どもの静養のために、たびたび使われている。
八千慧がこの場所に運び込んだ女神様とは、鯨の爆発とともにこの都市にやってきた、あの女だ――肉体的な性別すらあやしい、とろけかけたさなぎのような何物かでしかなかった女、それでも佇まいだけに威厳のようなものを感じさせて、これがなんらかの神格である事は間違いないと確信させるような女……
八千慧も、なにか直感するものがあったらしい。ちょうどこの都市を牛耳るための、新しい御輿を探すという思案のさなかにやってきた訪問者だったのが、この策謀家の意識を刺激してしまった。尤魔はそれを「憑りつかれたね」などと、なかば冗談、なかば真剣な調子でからかった。早鬼はというと、自分が抱いている懸念を、もっと即物的な言葉にした。
「……あんたの策も何もかも、その神様にかかっているわけじゃん。果たして私たちは、そこに全賭けしてしまっていいのかな?」
「今は、あまりそういう話をしないでください」
八千慧は別館の方角をあえて見ないようにしながら、二人に言った。
「まだ連中に手の内をさらすつもりはありません」
「私たちにはさらしてもよかったのかい」
尤魔は相変わらずからかう様子だったが、その後にやってくる、八千慧の答えをわかってもいた。
「別に裏切ってくれても構いませんが、今の私たちは決定的に不利というわけでもありませんよ。世論とは、こういうとき文明的な方になびきがちですからね」
ホテルに詰め込まれている人々は、畜生界を取り巻く勢力の長たちや、その配下の兵隊ばかりではない。報道の利用は今回の有事以前――それどころか都市を拓く前の畜生界で割拠していた頃から、八千慧が積極的に行ってきていた事だった。この講和会議に際しても、そうした報道機関を内外から熱心に招聘して、彼らの記者クラブの結成と報道協定の締結まで、彼女が折衝係となって主導している。
「……ま、私は試合に負けても勝負に勝てれば、それで構わないからな」
「そういう事です。あちらさんこそ、純粋な軍事力という自分たちの最大の武器を制限される羽目になる」
「なんやかんやと自分を励ましているようだけど、それでもナイフの刃は向こう側の方が長いのよ」
早鬼が呟くのと、ホテルの時計塔が時を告げるのが同時だ。会議再開の刻限だった。
* * * * *
相変わらず、目は見えないし耳も聞こえないまま。あたらしく作った顔も、馴染むまでは無表情の不気味な仮面にすぎないでしょう。それでも、わずかな聴覚に感じた時計の鐘の音の、ぼんやりした響きを聞き取っているだけというのも、なんだか怠惰な気がしました。
この丁重な、下にも置かれぬ扱いは、自分を利用するためだろうな、とも彼女は察しています。神様はそういう事にはなれっこだったからです(そう、彼女は神様でした)。悪い感情も、特に湧きはしませんでした。自分など、使いようで良くも悪くもなるという事は、彼女自身一番よく知っていたのです。
彼らが良い利用の仕方をしてくれれば、それでいいのだが……とは思います。しかし、それとて難しいのでしょう。それは土地のにおいでわかります。今だって、近くの建物のボイラー室で、なにかが焼かれていると思しき煙がただよってきます。むかむかとする、甘ったるいにおいでした。
それでも、この世界を心底から厭う事はできません。彼女には己の使命があったのですから。
「私はこの世界を救わなければいけない」
だが、どうやって?……その時、ぼやけた視界の端で、カーテンがゆらめくような気配が肌に感じられました。これまでも、時々この施設の職員らしき者がやってきて、肌を清められたりお尻を洗われたり、事務的に優しくされる事はありました。ですが、その人の気配はなんだか違ったのです。部屋の隅にひっそりとあって、なにをするでもなく、ただ棒立ちになっている――いつからそこにいたのか、いつまでそこにいるのか、いまだってどうしてそこにいるのか、わからないのです。
「だれ?」
かすれた声で――喉の爛れはようやく治りかけていました――尋ねると、その白ぼやけた影はびくりと震えて(彼女はそう見えたような気がしました)、ふらふらと部屋を横切って出ていきました。
なんだったのだろうと思う間もなく、だしぬけに、右耳に聞こえるものが明瞭になりました。外耳孔を塞いでいた血と体液と老廃物の塊が、ぼろりと取れ落ちたのです。
世界の解像度はより鮮明なものとなりましたが、それが彼女を喜ばせるものだったか、どうか。
* * * * *
別館の上階に通じるエレベーターは、動物園の檻のような鉄格子だ。八千慧はさっさとその中に足を踏み入れると、ついてきたあとの二人に言った。
「ともかく、こちらの提案は通りました。――表社会の連中にやらせるべき事は様々ですが、まずは選挙管理委員会の立ち上げからです。各勢力からも管理委員を推薦させましょう」
「私さ、そういう込み入った話聞くと、こう、いーってなるんだけど」
「こっちはそういう事務方に役立ちそうな人材なら、すでにリストアップ済み」
「こういうのを仕事ができるっつうんですよ早鬼」
「……絶対上手くいかないわ。不正やいかさまが横行しそう」
やがて上階へと垂直移動したエレベーターが止まり、がちゃがちゃ扉が開く。
「ですがこの選挙戦、彼らとて公平にやらなければいけないんですよ。彼らは侵略者で、外部からの支持や承認を欲している。それくらいは自覚しているでしょうし、そのためにはどんなにもお行儀よくなるか、逆に暴力で勝ち取るしかありません……もっとも、お行儀よくしなきゃいけないのは私たちも一緒。まずは女神様との対面からね」
言いながらフロアに出たとたん、明らかに空気が変わった。それは早鬼にも尤魔にもわかった。
「……私はもうある程度慣れましたが、それでも驚かされる事は多い」
と、エレベーターホールの脇に鎮座する、顔が七十二個ついている彫像に気がついて、八千慧が言う。外から差し込む光に照らされた廊下の先にも、似たような製作物――人の形をしているが、どれも過剰か不足が暴れ回っている――が、ごろごろと転がっていた。
「全部彼女が作ったもののようです」と八千慧はふたりに説明を続けるが、聞き手の方はあまり頭に入ってきていない。「ようですというのは、誰もその、造られる瞬間を目撃していないんですよね。みんな不気味がっちゃってて」
(でも、拒絶はされていないのか)
一瞬でもそうした負の気分をおぼえてしまったのが、単に自分の卑屈ゆえにさえ思えてくる。なんとも不思議な雰囲気だった。この感覚はおそらく神域に足を踏み入れた時のそれに近い――というより、そのものだろうという確信もあった。この場は彼女たちを拒絶していないが、受け入れてもいない。ただ、あなたたちと私は違うといった、凛とした原理原則だけが、この張りつめた階の中に静かに置かれているのを感じる。
「……私が悪いものに憑りつかれただなんだ、あんたらは好き放題言ってくれました。でも、これで意味がわかってくれたかと思います」
この場でもっとも冷静に響いていた八千慧の声だが、廊下を進んで最奥の一室に入り、自分たちの女神様と対面した時、それまでありもしなかった傷一つない無表情がその頭部に貼りついているのを認めた時にはさすがにぎくりとしたものだが、それでも当惑を顔に出す事はしなかった。
ベッドの上に横たわる存在は、首をわずかに傾げて、見舞客に対して尋ねる。それは八千慧も初めて聞く声で、闇の中の青銅の鈴の音のように、唇の動きの無いかすれた声だった。
「私はこの世界に救いを与えにやってきました。それで、あなたがたは私にどうして欲しいのです?」
いけない、と早鬼も尤魔も思った。八千慧は、この場面でも、自分たちに使ったような調子のいいおためごかしをかましてしまうだろう……。でも、この女には――この方には、そんなちっぽけな言い回しや話術、間違いなく通用しない。それについては、胸のあたりが締めつけられるような確信があった。たしかにこれは神様だ。……待てよ、今なんて言ったっけ? この世界に救いを与えにやってきたって……
八千慧もわかっていた。こいつに嘘は言えない。だったら、せいぜい本当ばかりを言ってやろう。本当を言ったところで、この女はどうせ利用される事なんか気にしやしない。神様とはそういうものだからだ。
「あなたには私たちのアイドルになっていただきたい」
神様の名前は埴安神袿姫という。
* * * * *
のちに杖刀偶磨弓と呼ばれる事になる彼女の複製品は、別館近くの山肌に身をひそめていました。そこからホテルの様子を眺めていて特に目につくのは、占領側の気を大きくした乱痴気騒ぎや、その場の勢いで行われる喧嘩といったものです。
しかし、そういった無法に抵抗しようとする心――少し前まで間違いなくあったはずの無秩序に対する敵愾心は、磨弓の心からは掻き消えていました。
それを塗り替えるように心を占有し始めた感情に、彼女は戸惑っています。
あの部屋にいた女――薄暗い一室の、清潔なベッドに横たわっていた女――「だれ?」と磨弓好みの声で問いかけてきた、磨弓好みの顔(本当は袿姫様好みでもあった顔)をした女――
ああして、すごすご立ち去るべきじゃなかったのかもしれない、彼女を奪って逃げれば良かったかもしれないとさえ思わされました。なぜなら、この世界は(あえてアナキスト的に言うならば“神もなく主人もなく”)、ただこうしてあるだけの世界でした。だから奪ってもよかった。
でも、磨弓は自分の神様、自分の主人に遭遇してしまったのです(ご存じの通り、正確には再会でしたが、最初の出会いとその次の再会とは、結局のところ一度目の遭遇か二度目の遭遇かという違いでしかありません――しかし二度目の方が常に奇跡的でしょう)。
彼女への執着に後ろ髪を引かれながらも、磨弓は無類の脚力で野の山をそのまま乗り越えて、戒厳下の市内をなんなく横断します。途中に検問などあれば、一人で襲撃を敢行し、破壊して押し通りました。そういう事ができる女でした。
もちろんそんな事をやらかして、ただですむはずもないのですが、この子もそこはわかっています。
これより前、磨弓が袿姫様と離れ離れになって、身一つでとぼとぼ荒野をさまよって(この子は肌の保護のために全身に泥を塗っている以外、相変わらず何一つ身につけず、全裸です)この都市にやってきた時から根城にしようと思い定めていたのは、このメトロポリスの真ん中に静かに横たわっている、十万平米にもおよぼうかという敷地でした。それは水堀を掘った中にぽつんと浮いている島か丘のようで、その水辺にするりと身をひそめて(都合二時間ほどその澱んだ水中にいたでしょうか。そうする事を求められれば、何日だってそこにいたでしょう。この子はおそろしく辛抱強かった)、さすがにもう良いだろうというところで、ゆるゆると島へと泳ぎつきました。
藪の斜面を手繰るように登ると、平たい場所にたどり着きました。そこから何歩か進むと、また急な傾斜が現れる。この段々構造が整地されたも結果らしい事は、島のぐるりを巡ろうとするだけでも察せられました。平らな回廊の幅は、ところどころ崩れていたり木々に遮られたりはするものの、だいたい均一だったからです。
やがて、島には隠れるように住民が住んでいる事にも気がつきました。つまり史書にいわく“全ての組織にこき使われている、完全なる奴隷”とか“力は弱いが手先が器用な生き物”などと記述されている、あの種です。
彼らは、磨弓の存在をおそれているようにも、無視しているようにも見えるやり方で受容しました。墳丘のてっぺんの水平面をこの子のための場所として明け渡して、自分たちはどこかへと消えてしまったのです。
あの人間霊たちはどこへ行ったのだろうと、磨弓は幾日かかけて島を探索して、どうやらこの島全体が古い遺跡らしいと結論をつけました。人間霊たちは遺跡の地下に設けられた石室や孔の中に、小さくなって暮らしていたのです。ひょっとすると、彼らはこの都市の原型を作った最初の人々であったかもしれず、畜生界の軍事勢力の南遷によって圧し潰され迫害された遺民なのかもしれません。
遺跡の名は今では霊長園と呼ばれています。
* * * * *
水堀の対岸にある島に向かって、八千慧は餌を投げ込む。人間霊用の餌だった。
「問題は都市の外の選挙区よ」
と言う尤魔もまた、同じように餌を放り込んで、岸辺に集った人間霊がおずおずとその餌を拾うのを面白がった。
「畜生界の外から越境してくる者が増えている。このぶんだと、行政からの正式な投票所入場券が発行される頃には、票数を水増しする目的の“自称・畜生界住民”ばかりになっていることだろうね」
「古典的な方法ですね。都市のような根拠地を持たぬ彼らが、こうした形で好き勝手する事は予想していました」
「住民投票という形式がまずかったんじゃないかな?」
「これくらい譲歩しなければ、選挙という方式だって受け入れられませんでしたよ」
「で、どう対策する?」
「……越境者を野放しにはさせません。早鬼が州境警備に派遣されるよう、手続きさせましょう。あいつはちまちました選挙活動なんかより、そっちの方がお好みでしょ」
「じゃ、そういう事にするか。だが今は正式な発議にかけなきゃ動かすものも動かせない。妨害はきっと起きるぜ」
「越境者たちが問題を起こしてくれればいい。現状の課題さえ明るみになれば、世論は過敏に反応してくれますよ」
もっと言えば、問題自体は本当に越境者が起こす必要はない。
その日の夜のうちに、都市郊外の集落と駅とが、越境者と推測される集団に襲撃されて、略奪を受けるという事件が起きた。
尤魔は、袿姫とよく顔を合わせるようにしている。この点は早鬼と真逆だ。辺境警備に派遣されたあの驪駒は、建て前だけでも上に置かなければいけない相手に、挨拶伺いすらしようとしなかった。
そうした粗忽で愚かな正直さとは真逆のものであったが、尤魔も、ある意味いっそう正直に袿姫と接していた。
「八千慧はどんなつもりだか知らないけど、私はあんたを利用しようとしているにすぎない」
そういった事を、冗談めかしつつもちょくちょく言い置いておいた。
「神様ならわかっているでしょ。あがめたてまつられる事だってビジネスの一種だって」
「あなたは饕餮ですね」
袿姫の返事はそれだけだった。それだけで、なにか尤魔の種族を巡る過去の信仰やその末路などを、見透かされてしまった気がした。
それからまとまった会話をしたのは、何日も後になる。選挙管理委員会は発足したばかりで日程すらも未だに決まっていなかったが、彼らも投票当日を目標として様々な対策や戦略を練っていくべきだった。だが、袿姫はあくまでお飾りに置かれていた。
「そういう扱いを悪くは思わないでよ」
「わかっています」
この頃はまだ、袿姫の視力は回復していなかった。ご機嫌伺いに会いに行ってやった尤魔は、半身起こしたベッドの上での探るような手つき、その指先がなでているタメルラン・チェスの駒を見やった。袿姫自身の権能によって生成されたらしい粘土製の駒と盤には、手工芸品的な誇張と形の崩れが確認できる。駒にはさほど細かい造形はなく、つるりとした円筒や柔らかい方柱に、切り欠きを加えたり、すっぱり切り取ったような面で平らに均したり、簡単な装飾を加えられて駒のバリエーションが区別されていた。
しかし盲人の悲しさなのか、二種の土質で色分けされた駒は、盤上でごちゃまぜに配置されてしまって、初期配置にもかかわらず敵味方もわからぬ乱戦の様相を呈していた。
「……遊びにつきあってやりたいけど、それじゃあ駒の配置がめちゃくちゃだよ」
「いいえ。これでいいのです」
尤魔がからかうと、袿姫はやさしげに、きっぱり答えた。
「私たちがやっているゲームは、こんな状況がふさわしい。ゲームの目的は敵味方をすべて呑みこんでしまう事ですから」
「……言いたいことがあるんだろうけど、こっちにはこっちの戦略と事情がある。この都市を富ませてくれている資本家連中や、反対に小うるさい労働者どもにも気を遣わなきゃならない。そうやってどこかを優遇すれば、別のどこかは反発したりもする。まあ、そういうものだよ」
「それはそれでいいのです。あちらや、こちらを立てて、冷遇されたところからは不満も出る。良いことです。不平不満も、あればいい。ただよくないのはそうしてしまうと、どこか一つの所属の色がつきすぎる事です。それでは貰える支持も貰えなくなってしまう」
今の状況では、都会的なるものと辺境的なるものの対抗という構図が、明確になりすぎてしまいます、と袿姫は言った。
「このままでは、彼らは、おそらく辺境・平原・砂漠の生活の中で形成された強固な社会的連帯――いわゆるアサビーヤを力として、この都市に打ち勝とうとするでしょう。それは選挙戦という文明的な形式になっても同じです……そういえば、彼らは畜生界の外から多くの増援を越境させて、票を水増ししようとしているとか」
「越境者の取り締まりは始めさせているよ」
「しかし、そうした行為を違法と決めつけるのも、都会側の身勝手というものかもしれませんよ。あなたがたは都市に定住して生きていくうちに、境界というものを重んじるようになった。定住地でシェアを奪い合うとは、そういう事です。ですが、彼らはあなたたちほどには土地境界線というものに執着していないかもしれない。もっと言うと、どこが畜生界と畜生界以外との境界なのかさえ把握していない可能性もある」
「……なにが言いたい?」
「ひとまず、越境者の取り締まりをやめさせて、委員会を招集して議事を執り行うべきです」
と袿姫は告げた。
「おそらく、今回の問題の発端は、土地というものに対する認識の相違でしょう。どういう結論となるにしても、まず双方の立場を理解しておくべきです」
無理をお言いなさる、と思いながら尤魔はその足で八千慧に会いに行って、発議を持ちかけた。提案を聞かされた少女は、一瞬びっくりした表情になりつつ、すぐに沈着の仮面をかぶり、やがて承諾した。
「……あの女は自らの意志を示す事で、私たちの勢力からも自立した存在であるとアピールしたいようですね」
「かもね。少なくとも連中への貸しにはなる――いや、本人は貸しを作ったとも思っていないかもしれないけど」皮肉っぽくそう言うと、尤魔は相手の顔色を窺った。「不満かい?」
「いいえ。私の望んだ彼女の姿でもあります。あの女にはあまりこちらに寄り添ってもらいたくもない。いっそ、彼女にはどの勢力の色も持たないで欲しいのです。それでこそ、ごちゃごちゃした勢力や組、族、党といったものどものるつぼとなったこの土地を包み込むのにふさわしい方です」
「……お前がそこを嫌がるとも思っていたんだ。彼女、私たちのシェアを保護しようなんて気、さらさらないぜ」
「わかっています。ですが勝てばどうとでもなる、まずは彼女を勝たせなければならない。そのために、あなたにはあの女のかたわらにいて、色々と相手してやって欲しい」
それは貧乏くじだ、と尤魔は直感したが、これからの事の処理で抗議はうやむやになった。早鬼は依然として境界付近の取り締まりに向かうべく進軍中だったが、これを慌てて呼び戻さなければならなくなったからだ。
袿姫は相変わらずグランドホテルの別館を静養地にしているが、やがてまぶたから鱗が落ちるように、酸に侵された角膜が剥がれて、視力が完全に回復した。それをきっかけに、彼女の居を他所に移そうという動きが起きた。
「……ま、そういう事で、色々と準備はさせているけど、もう少しはここにいる事になるだろうね」
「神殿建設、ということですか?」
「名目にするとそうなるよね」
「神様がひとびとにとって気に入らない好き勝手をしないよう、押しこめるための場所です」
「様々な解釈が許されるだろうな」
尤魔はのらりくらりとかわしたが、袿姫の洞察は間違っていなかった。
「まだ選挙も始まらないうちから……なんて、わがままを言いたくはありますが、仕方ありませんね」
尤魔が釈明している間に、袿姫は象棋の駒をぱちりと動かす。陶製のすべすべした駒は、石の盤に触れて堅い音を立てた。
「先頃の私の口出しが、あなたがたにとってあまりおもしろくないものだったのもわかっています。それがこのたびの判断のきっかけのひとつでは?」
「私に聞くなよ」
そうは言ったが、対戦している以上、袿姫が盤上で行う悪ふざけのような動き――尤魔がどれほど河界を越えてこようが、象棋における九宮の中で将帥を右往左往させるだけ――を、いやでも眺めなければならない。
「……この前の件だけど、八千慧のやつは面白がっていたよ」
それだけは伝えておいた。
「感謝もしてた。あんたが物言いをしてくれたおかげで、越境問題はとりあえず話し合いの場が設けられたからね。それでも結局、越境者の流入は止まらないかもしれないし、逆に取り締まりが行われるのかもしれないけれど……」
(早鬼なんか、どうせ取り締まらなきゃいけなくなるなら、さっさとやるべきよとぷりぷりしていた……)
「とにかく話は聞いてやった」
「それが大事なんです。別に、結局議事が決裂して、彼らに良いようにできなくても、いいんです。とにかく話だけは聞いてやる。それだけですべてが全然違ってくる」
「あんたの立場で物申したから双方納得して、協議の席についたんだ。口では簡単に言っても、なかなか起こせる事じゃない」
(いっそ、彼女にはどの勢力の色も持たないで欲しいのです。それでこそ、ごちゃごちゃした勢力や組、族、党といったものどものるつぼとなったこの土地を包み込むのにふさわしい……)
神様ならば、そういう事が可能なのかもしれない。
去り際、尤魔は選挙の公示が数日後に行われる事に決まったと、袿姫に伝えた。
* * * * *
街中に掲げられた袿姫様の選挙ポスターを発見するたび見上げたのは、もう何度目だったでしょう。夜中の雨は激しくなってきていて、地面に叩きつけた一滴が、跳ね返って膝元まで戻ってくるような勢いです。
霊長園を取り巻く、湖のようなお堀も、雨に降られてばしゃばしゃと水面に動揺を見せています。磨弓はそんな水の中に身を投じて、島の方へと泳いで戻っていきました。
明け方、雨がやんできた頃に、藪の中に分け入り、軸がまっすぐで、よじれのない矢竹を二十四本選んで伐り取りました。それらにくっつける矢羽根は、街中で目についたオオワシ霊を襲撃してむしりとってきた黒母衣を、夜中のうちに加工したものです。鏃には動物の骨を削ったものを使いまして、にかわと麻紐でもって矢竹の先にくくりつけます。
弓はもう作らせていました。人間霊たちは器用で、そうしたものを作る事には無類の才がありましたが、この時作らせたのは素朴な漆塗りの梓弓だったと伝わっております。
人間霊の強制連行が始まったのは、これよりも数日前からでした。磨弓はこの地に行き着いてから、朝から昼にかけてと夕から夜更けにかけての二度ほど、島をぐるりと巡回するのを日課としておりましたが、ある日、数刻前までは水辺の一角から感じられていた気配が、ごっそり消え去っている事に気がつきました。慎重に、注意深く状況を観察して推理してみると、どうやら水際の造作の崩れたところから侵入者が上陸してきて、そのまま略奪に遭ったようでした。
都市の必要と要請によって、ここに棲む人間霊が技術的な奴隷として徴収されていたらしい事が、磨弓にもなんとなく察せられました。
しかし、それを知ったとき、この子がなんとなく嫌な気分になったのは、別の集落に棲む人間霊たちが事件に対して無関心を装っていた事です。彼らもなんとなくこの土地に寄り集まっているものの、集落の一つが収奪されたり労役に駆り出されたところで、他の人間霊たちは諦めまじりの同情や、少し首をすくめるくらいの苦笑いしか見せる事ができず、我が身の幸運と連れ去られた者たちの不幸とを比べる事しかできなかったからです。
なにより、連れ去られた集落にも抵抗した痕跡はなく、略奪された当人たちすら、あきらめやこびへつらいとともに労役に徴収されていった、そういったことが容易に想像できてしまいました。最も腹が立つのはそこでした。
そんなわけで、この子は畜生界の体制に一矢報いてみようと思いました。ようするに、動機としては搾取する側に対してもされる側に対してもなんだかムカついたからにすぎず、本質的には八つ当たりです。
とはいうものの、この子のそんな決意も、さっそく変質しかけている事は認めなければなりません。
霊長園の外に出て都市の中で情報収集してみると、人間霊の連行は埴安神袿姫の神殿建設のために行われたものらしく、それが対立候補の攻撃材料になっていました。選挙戦はあらゆる涜職の横行の上に成り立っているらしく、表面では不正が管理されつつ、その裏ではもっと巧妙な手が見過ごされている、清廉な者を支えるために汚い金や利権が動き、秩序のために無法が行われているようでした……選挙戦は過熱しつつあって、畜生どもはルールの下での――なにかと不備の多いルールでしたが――闘争に熱狂し始めていました。つまりは、妙にシンメトリカルで、対立的で、公平性を強調し、ために不公平さが浮き彫りになっているのに、誰もがそれを無視している闘争です。磨弓はそうした事から目を背けようともしましたが、そのたびに袿姫様の顔が思い浮かんで、あのうつくしい女神様がそうした糞溜めの堆積した山の御輿に乗せられるのだろうかと思うと、なぜか暗い気分になるのでした。
弓と矢を手にしておいて、この子がまず忍び込んだのは、袿姫様が静養していたホテルの一室でした。裏手の山を越えて建物の陰へと忍び寄り、以前確認しておいた職員通用口を、そろそろと進んでいきます。
用心をしてたのがあっけなく思えるほど、潜入はおそろしく容易く、それというのも、ホテル別館の二階は袿姫様が造形した様々な種類のセラミックの彫像で埋め尽くされていて、世話を任されていた者もおそれて近づこうとしない有り様だったからです。
折りの悪いことに、部屋の主は不在でした。
誰もいないホテルの一室でぼんやりと立ちつくす磨弓は、ベッドのサイドボードに置かれたチェスの盤面を見つめます。これも選挙戦と似通った性質を有しています。シンメトリーで、恣意的なルールを持ち、単調なゲーム。
その盤からクイーンと前に立つクイーンズポーンの二駒をひとつまみのうちに取り去り、盗んで持ち去りました。
* * * * *
帰り路の中で降り始めた雨音と、エレベーターの檻ががちゃがちゃ閉じられる音の、どちらがうるさいだろうか。
「彼らが――既に権益を確保している資本家の方々が求めているのは、利益の保持だけではありません」尤魔の隣で、袿姫は言った。「本当のところ、彼らは何者が上に立ってまつりごとを行おうが、どうでもいいんですよ」
ホテル本館の大広間で行われた夜会――この都市の権益の幾割かを握っているお大尽かなにかの、祝賀パーティーだったらしい――に袿姫が非公式にふらりと現れたのは、選挙活動でも演説のためでもなかった。やった事も、ただこの都市でも特に富んだ人々と、いくつかの言葉を交わしただけだ。
「それでも付き合いやすい相手ではあって欲しい――実は商人と神様とは同格の存在なのです。そうしたことをこちらが理解しているかどうか、彼らはそこを値踏みしていました」
エレベーターから降りて、彫像が以前より数増しているホテルの廊下を歩きだした。造形される像は最近になるにつれて過剰や不足が影をひそめてきていて、南梁様式の優美な腕が蠱惑的とすらいえるなまめかしさで来客を誘っていた。
「既に富んでいる彼らにはなにかを与えなくてもいいのですよ。ただあなた方の事を知って、これからも覚えておいてあげますよ、と言って差し上げればいい」
「別にそういう、顔を売る社交を悪いというつもりはないけどね、あまり自分勝手に行動されて、富裕層に媚びを売られると後援会や選対が困るよ、奴らには奴らの戦略があるんだから」
「あなた方の組織のひとびとも、わたくしをバックアップしてくださる団体にはたくさん所属しておりますものね」
自室のベッドのサイドボードに置かれたチェス盤から駒が紛失しているのに、部屋に戻ってすぐ気がついた袿姫だったが、その事についてはあえて話さなかった。
「選挙対策委員会的には不都合があったんですね、どんな?」
「……選挙戦どうこうでうやむやになっているけど、近頃は湾港労働者のストライキが長引いていたんだ。んあぁ、別に金持ち連中と仲良くするなってわけじゃない。私だって資本家と労働者の対立なんていう構図を、真っ向から信じちゃいない。……ただなぁ、連中似た者同士なんだよ」
「彼らにもそれなりの利益をちらつかせろと」
「あんたならそれができるかもな」
「そもそもストライキの原因はなんです?」
「原因は色々と複雑な事情があるだろうけど、きっかけは私たちが戦争を起こしたからだね。端的に言っちゃうと、戦時の補給に関して民間企業の協力も要請したんだけど、その給料の支払いが滞った」
「あなたたちが悪いんじゃないですか」
袿姫は、それだけはちょっと面白みを感じたように、ふっと鼻で笑った。尤魔も苦笑いするほかない。
「こちらとしてもとんだ場外乱闘だよ。……ま、積もり積もったものが多かったんじゃない」
「準備をしておきましょう」
「なにの?」
「そうした方々の調停をするのが、私の――いや、選挙に勝利した後の私の仕事でしょう」
相手が気の早い話を展開させ始めたので、尤魔も苦笑いをそのままに口を尖らせた。
「まだ対立候補のいる事をやっているんだし、脇のあまい行動をやらかすのは禁物だぜ」
「直接の行動をする必要はないのです。あなたも言ったでしょう、鼻薬を嗅がせるのにも色々と方法があります。内容の具体性はないが、端々のふるまいだけでただ期待を持たせてやる、というのも手です。あなたのいいぐさを聞いていると、労組側もたっぷりと私の存在に興味を抱いて、欲望たっぷりの視線をやってきているようですし」
「……なんだかやらしい言い方だけど、裸踊りでも見せてやるつもりかい?」
「彼らがそれを求めるなら、して差し上げてもよいでしょう。でも求められているのは労使の調停でしょ?」
「すごいボケ殺しをされたような気がする」
尤魔はまたしても笑うしかなかったが、そのあとでなにか沈静した情動がやってきて、袿姫を慰めるように言った。
「……まあ、そうやっていろんな方々の気を惹いて、投票を促してくれるんなら、それでいいよ……しかし神様というのも楽なもんじゃない時代みたいだね?」
「最初からそうでしたよ、饕餮」
屋外で連打される雨の中でも、不思議とはっきり聞こえる声で袿姫は尤魔の名字を呼ばわった。
「私たちは彼らのような賢しいひとびとにとって、利用されるものでしかないのですよ……あなたがた蚩尤の氏族が涿鹿の野で一敗地にまみれて、己らの氏神を見捨てた時から、何も変わりませんものね」
早鬼にしてみれば、こんなものすべてがばかのような話の流れである。
「選挙なんて、勝つために味方を増やさなきゃいけない。味方が増えれば勝った後のパイの取り分が減る。ばかばかしい話よ」
ふたりきりのホテルのラウンジで、雨を眺めながらそうした言葉を八千慧に向かって吐き捨てるようにぶつけてやった。
「……あんたはそれでも取り分を減らさないよう、上手く立ち回るつもりかもしれないけどね。どうもあの女は虫が好かないわ……本当はあんたとサシで飲むのも胸が悪いのよ」
「私のためにまずい酒を飲んでくれてありがとうございます」
「からかうな」
と語気を強めて言いたいところなのに、なぜか、妙な苦笑いになってしまう。なにかの雰囲気に呑まれそうになってしまう……だが、これは別に八千慧に呑まれているわけではない、と内心で意地を張った。自分が呑まれかけているのは、埴安神袿姫にだ。八千慧は奇妙な後ろ盾を得ているにすぎない。
「あの女はあんたの手を離れるよ」
「良い事じゃないいですか。私たちは結局血なまぐさい暴力集団にすぎませんし、裏で色々援助できる事があったとしても、表立って動くとなにかと角が立ちます。あの神様には、お綺麗なままで更に広い支持を得てもらいますよ。……それでも、首輪はしっかりとつけているつもりですが」
「……詳しく」
「お綺麗なままであればこそ、彼女は自前の武力を持てません。なにか一人で変革を起こそうとしても、それを行使する力がない。かわりに私たちが暴力装置になってさしあげましょう。そういう事です」
それこそ、あの女――埴安神袿姫に対する侮りなのではないのか、と早鬼はこっそりと思った(そして、その懸念は最終的には間違っていなかった)。しかしそれらを口に出すまではせず、もっと現実的な問題を話した。早鬼には状況を一歩引いて眺める事ができる立場と聡明な直感があったはずなのに、結局は地上的な目先の問題にとらわれてしまった事になる。
本題は、境界を越えて流入してくる越境者たちについての報告だった。
「とにかく大変な事になってるわ。あれだって、あの女が肘を割り込ませてこなければ、もっと早くに動けていたはずなんだけど……」
ぶつくさ言っても今となってはしょうがない話なのだが、それでも愚痴を言ってやりたくなる。
「でしょうね。みんな勝つために味方を増やそうとしているってわけで」
「あの女も都市圏の得票は堅いでしょうけれど、奴らにまで選挙権を与えちゃったら、選挙結果だってどうなるか。わかったもんじゃないわ」
「ところが、今さっきあなたも言ったでしょう。味方が増えれば、彼らとて自分たちが手にするシェアは減っていくんです。すべて彼女の思うつぼです」
「え?」
「相手が勝手に、無思慮に人数ばかりを増やして膨れ上がっているからこそ、つけこむ隙も生まれるでしょう。彼女は、そうしたところをも取り込むつもりのようです」
実際のところ、越境者を合法な有権者として扱うのかという問題は、依然として置いた扱いにされていた。
(八千慧の話を聞くかぎり、別にどちらでもいいらしい)
と、ふたたび自分の組の兵隊を引き連れて辺境へと向かいながら、早鬼は八千慧の言葉を思い出していた。
「彼らは無思慮に数を増やそうとして、かえって統一された方針を持つ集団としての指向性はすでに失われかけている、というのが彼女の見立てなんでしょうね。私も間違ってはいないと思う。だからあなたには、ただ境界の取り締まりをしてもらうだけでなく、あちら側の情勢を見てきたり、できるならば分裂を促す工作をしていただきたい」
結局ばかばかしい政治に巻き込まれたわけだが、やる事は単純だった。ひたすら辺境の各勢力の様子を伺いながら交流し、折を見て宴会でも開いてみたりすればいいだけだ。
「たのしい宴会までお仕事の一つになっちゃうのはたまんないね」
と愚痴りはしたが、様々な内情が知れた。
「彼らの連帯は完全に失われている」
都市にいる八千慧に向けて送った覚え書きの中で、辺境の早鬼はそれを認めた。
「これはいつもの畜生どもの畜生的な行動だ。そもそも境界を越えてくる者も、あちらの陣営の要請によって加勢にやってきた向きはごくごく一部だったらしい。その他ほとんどは、勝手にやってきた無法者、ただ勝ち馬に乗りたいだけの連中。当然、そんな奴らを制御できるはずもない。そうした連中の関心は、たしかに他の候補者以上にあの女に向かっている。いまいましい話だけど」
なにもかもが手探りで、その都度都度の修正が多かった選挙期間だったが、もう数日で投票日という時になって、更に変更が起きた。今現在畜生界に存在するすべての者たちに合法な選挙権が与えられる事が、正式に承認された。
選挙権を得たひとびとの中には、霊長園の中で小さくまとまって暮らしていた人間霊たちも含まれている。
* * * * *
杖刀偶磨弓にも、その日の動物霊どもの行動が、昨日までのような単なる労役のための徴収や略奪でない事は理解できました。
ここ数週間、動物霊のやり方と磨弓の抵抗とは、見ようによってはのんきとすらいえる雰囲気も感じられつつ展開されていました(そして、このある種の牧歌的空気こそが、この時期の杖刀偶磨弓の奇妙な伝説を、いっそう神話的にさせてもいたでしょう)。
最初の頃は、一艘二艘ほどの舟艇に乗った動物霊どもが略奪にやってきて、磨弓の強弓から放たれる矢を受けて転覆しては、すごすご帰っていくだけでした。やがて動物霊側のやり口も巧妙になってきて、略奪行動を別々の地点から同時に行ってみたり、夜陰に乗じて急襲したり、いっそ空を飛び越えて、空挺的に占領しようとしたりまでしました――だが、どれも上手くいかなかった。すべては杖刀偶磨弓ただ一人の反抗によってです。
この子の抵抗は徹底的なものでした。二方面及び三方面からの侵攻を受けたなら、超長距離の精密な弓射を行い、軍船を沈没させてこれを阻みました。夜襲においては無尽蔵の体力でそれに応じました。空からの攻撃だって、なにほどのものでもありません。ただ弓矢で迎撃すればいいし、幸運にも着地に成功した連中は、地の利を活かしつつ腕力にものを言わせて、集結する間も与えないうちに各個に追い払ってやればいい。この子はただ一人そこにあるだけで、戦場の趨勢を左右できるような存在、生ける拠点でした。
しかし、この日は違いました。攻め手の巧妙さと計画性とが、それまでとは明らかに違うものだった……畜生界の勢力はこの霊長園をかつてない物量で包囲して、圧をかけたのです。
そもそも、これまで磨弓が行ってきた抵抗活動に、当の人間霊たちはそこまで感謝していたのかどうか。もちろん、弓矢を作ったり、広い霊長園の外周ぐるりを警戒したりするにあたっては、相応の手助けがあったでしょう。ですが、事がここまで大事になると、気が変わった人間霊たちもいたのではないか。むしろこの子が何かむきになって抵抗している様すら不気味に見えて、余計なお世話であって、自分たちはとんだ事に巻き込まれたと思っても、それはそれで正常な反応と言えるかもしれません。
包囲の開始は朝から始まり、昼には完成していました。もちろん、磨弓も水堀の外の動きには気がついていたし、今回の攻勢の相手がそれまでとは違う事を察していました――攻撃を行う事もちらと検討しましたが、それよりも状況が新しい段階に入った事の方が気にかかって、行動を起こす事は控えました。ともあれ、相手の出方を見てみようという気持ちの方が勝ったのです。
そして、昼下がりになる頃には、早くも動物霊たちの魂胆が判明していました。
「明日は投票日でぇーす!」
包囲の間を割って、ただ一人で向こう岸の突端に歩み出てきた女は、メガホン片手に、満面の笑みを貼りつかせて、こころよい響きのする声で人間霊たちに呼びかけました。
「みなさんの一票一票で、この畜生界を変えることができまーす! 人間霊のみなさーん、思うところがある気持ちはわかりますが、まずは理性的な手段で自分たちの立場を高めていくのはどうですかー? あなたがたにも選挙権があります! 畜生界の首長を決める選挙に行きましょー!」
* * * * *
「……じゃ、これで私のやりたい事は済みました。囲みを解いてやりなさい――あーっと、あんたたちもちゃんと明日の選挙に行きなさいよ?」
メガホンを景気よく放り捨てた吉弔八千慧は、自分たちの配下にもそう言ってやる。それから、それまで労役に徴用していた人間霊たちも霊長園に帰してやった。それで自分のやる事はおしまい。行政的なこまごました手続きは、表の仕事に従事する連中に進めさせればいい。あと半日ほどしか猶予がないが。
「まったく、人間霊まで楯突いてくるなんて、この街はいつから、そんなにどいつもこいつも浮ついていい場所になったんでしょうかね?」
八千慧はぼそりと呟きながら、彼らをそばで見ていた尤魔の「連れてこられた人間霊たちは袿姫に心服している」という見立てを思った。
神殿の建設は対抗勢力の批判を受けていったんは影をひそめたが、それでもペーパープランそのものはゆるゆると進行していた。その間、技術的な奴隷として徴用された人間霊と彼女とには、なんらかの交流が生まれていたらしい。
「どこまで票を上積みできるかわかんないけど、とにかく使えるものは使っていきな」
そんな尤魔の言葉を思い出すと、八千慧はふんと鼻で笑った。
「言われんでも使えるものは使いますし、なんとなれば、てめえの親だって質に入れてやりますよ」
ぼそりと呟きはしたが、撤収を始めた配下と、街並みの中にある選挙ポスターや投票所への案内看板を眺めながら歩いていると、なんだか浮つくようなものがあった。なにもかも欲望と打算にまみれた行動のはずなのに、なぜだかそれがきわめて純な志から出てきたもののように感じてしまう、恋にも似たあの瞬間があった。八千慧は誰にも見られないように、歩くふりをしながら軽やかにチャールストンのステップを二、三と踏むだけにして、街中を駆けだしたい衝動を抑えるために、軽く鼻歌をやるだけで我慢する事にした。
驪駒早鬼はいまだ辺境に留まって治安維持の任についていて、投票も現地で参加する事になっている。
(私たちみたいなならず者が治安維持とは変な話ね)
と、今の奇妙な立場には思うところはあったものの、かといって積極的に現状に対してたてつくつもりもなく、勝手にしろという心持ちで昼から酒を飲んでいた。
その手には投票所入場券がもてあそばれている。明日行われるこの最終決定が、あくまで有権者のあなたに委ねられている、という形式も、なんだか腹立たしい。それが、本当に、自分で望んだ決定なのかどうか、きわめてあやしいものだと思わされる。
「……言っちゃなんだけど、こういう時は都会的な理性より、辺境的な本能の方が聞くべき意見なこともあるわけじゃない」
そんなふうにこぼしたのは、そばに、その辺境的なる者がいたからだ。ここ最近はずっと、そうした者たちと交流しては宴会をやったり、そこでよその話ばかり聞いている。
「“汝の欲するところをなせ”よ」
相手はくっくと笑いながら言った。
「たとえ道から外れようと、無効票となってもさ、“それが汝の道にならん”ってやつでしょ」
この時期、三頭慧ノ子が越境者のひとりとして早鬼と出会い、やがてその幕下に入ったという話がある。これが正しければ、日白残無の布石――数年後に行われた地獄から畜生界への介入行動の布石はすでに張られていた可能性が発生するが、それをどう解釈すべきか。ともあれ彼女は(慧ノ子のみならず、孫美天、天火人ちやりといった連中もまた)越境者だったと言われている。
「無効票か」
と、早鬼は呟きながら、相手に酒をすすめる。
「それもいいかもね。……ねえ、それよりもっと聞きたい話がいっぱいあるね。幻想郷ってところにはさ……」
たとえ無効票になっても構わないから、投票用紙にはもっとこの世界を統べるに相応しい方の名前でも書いておいてやろう、と彼女は心に決めた。
決戦の前におとずれた奇妙に静かな夜に、饕餮尤魔は埴安神袿姫のもとへと招かれていた。
呼び出された、と言っていい。相手はいつもの部屋ではなく、本館のラウンジに腰かけて、このホテルの貯蔵室にある一番のワインを一人で勝手にあけて祝っていたのだ。
彼女たちの選挙事務所にあつらえられ会議室から、真夜中にもかかわらず変に浮ついたざわめきが漏れてきていいる。当然、これらの後援会の人員の多くは八千慧らが準備した者たちだったが、一応おもてむきは関係のないものとされていた。
「座りなさい」
いつになく強く命令されてそれに従うと、袿姫はきっぱりと言った。
「私はこの選挙に勝つでしょう」
それだけが言いたくて私を呼んだのかよと尤魔が言いたくなるほどに、その後は沈黙が続いた。
「……えらい自信だね」
ようやく、無難な言葉選びをした。
「私が勝つに決まっているからです」
即座に言葉が返ってくるのが、なんだか武道の組手でもさせられているような気分になった。
「まだわかんないよ」
「ですが、私が勝ちます。私は神様で、この世界を救いにやってきたのですから」
「その言葉を聞くのは二度目だけど」尤魔には尋ねたい事があった。「あんたが勝つのはいいけど、今後はどうやってこの世界を救おうと思っているんだい?」
言っている間にグラスがもうひとつ準備されて、そこに注がれた酒は尤魔のものになる。酔える液体を飲み下す間に、袿姫は静かに、よどみなく答えていた。
「方法を決定する権利は私にありません。あなたがたにもきっとないでしょう。たしかに私は神様ですが、救いを求める民衆のもとに積極的に降臨なさって、その場で救いの法などを与える事は事実上不可能でしょう。私自身がその力を持っていないわけではありません。ですが、私は客体にすぎません。救済の主体とは、実は救う側の私にはなく、救いを施されるべき彼らの方なのです。……でも、不思議なことに、彼らは私に救いを求めたにもかかわらず、それと同時に誰かに救われようなどとは思いもよらないのでした……私は呼びつけられたにもかかわらず、この世界の中では不要物らしくて、ここがどんなに闘争に満ちて活気に溢れたメトロポリスであっても、そんな世界は神様にとって無味乾燥です。私からしてみれば、あなたは今、荒れ果てて埃っぽいグランドホテルの廃墟の中で、砂の混じったワインをじゃりじゃり飲んでいるのと変わらない」
尤魔は喉がつかえそうになった。
「……ちょっと待ってよ。彼らって誰なのさ」
一瞬でまずくなったワインをなんとか飲み下して、喉の粘り気を飛ばすために一度咳きこんでから、尤魔はどうにか尋ねた。袿姫は、その様を微笑みながら眺めている。表情は慈しみに満ちているが、それだけとも言える。相手に対する親しみや心配からは明らかに一線が引かれている微笑みだった。
「だから言ったでしょう。それを決める権利は、本当のところ私にはないのですよ」
杖刀偶磨弓には、人間霊たちが投票所に向かうのを止める気はない。
もう数刻もして夜が明ければ、彼らは行政から各々に配布された投票所入場券を手に、街中の案内や知り合いに導かれて、投票所に向かい、埴安神袿姫に投票するだろう――他の候補者なんかには目もくれず。
磨弓は、境界に置かれた武人像のように、それをじっと見送る事しかできない。
彼ら人間霊たちはこれを――この選挙を、なにか自分たちの現状を良くするためのものだと思っているらしかった。おそらく、それも間違いではない。そういう方法で彼らを救えるのならば、それでもいい。ただ磨弓の性分に合ったやり方ではないだけだ。彼女は根っからのいくさびとだった。
自分が無用の存在になった気がしつつも、それでいい、とも思った。埴安神袿姫はきっとこの選挙に勝利するだろう(多少の贔屓目がありつつもそう思った)。そしてこの畜生界に善政を敷いて、巨大畜生組織の手綱を取っていく事だって、可能かもしれない。暴力は(少なくとも直接的な暴力は)今やお呼びではなかった。
自分はこの世界に不要だったのだろう、と思った。そう思うと決断も早い。どうせ整理すべき身辺もさほどにない。彼女は未だに素っ裸でこの世界をうろついているような有り様だ。
翌朝、投票所が開かれる時刻、磨弓は人間霊たちがぽつぽつと投票に向かい始めるのを見届けると、霊長園の奥へと姿を消した。
* * * * *
【祝】埴安神袿姫、畜生界の総選挙に圧勝【祝】
* * * * *
「おめでとうございます」
引きも切らない祝いの言葉が、一夜明けた昼過ぎにようやく落ち着いてきた頃、八千慧はようやく選挙事務所へと袿姫様への挨拶にやってきました。
「もっと早くにお祝いを述べたかったのですが、今までお忙しいと思ったのでね」
「これからはもっと忙しくなるでしょうしね」
相手のいたずらっぽい笑みを避けるように、八千慧はそっぽを向いて、別の人を探し始めます。なぜでしょう、それまで抱いていた心算を、しくじったかなという気がしてきて――自分は己らの軍事力を背景に、この女神様を片面ではお支えし、もう片面ではいいように操ろうとしていた。なのに、その第一段階がともかくも成就した今では、なにをばかな事を、と思えてしまうのです。
「……饕餮のやつは帰ったのですね」
それだけをようやく言いました。
「彼女を私の侍従長閣下にしようとは思いませんよ」
考えを見透かされているような気がして、八千慧はぎくりとしました。相手の態度も、どこかそっけなく見えて、何もかもがこの一夜のうちに替わってしまった事を感じさせてしまいます。
「……これから、あなたは表立ってこの畜生界をとりまとめていく。とはいえ、表の面を引いていくばかりでは、世間というものは動いてゆきません。時には裏の力や、暴力や、軍事力などで押す事も必要でしょう。その折には――」
そこでなぜか息が止まってしまって、どうぞ私の事もおぼえておいてくださいね、という最後の一言が出てきません。
「大丈夫ですよ」
八千慧が言葉を発せないままに、袿姫様が答えました。
「私は、この畜生界にある全ての勢力を保証します。なので、あなたがたはご心配なく」
(それが困るのよ)
と八千慧は思いました。もちろん、こうなる事はわかっていました。それでも、事さえ成せばやりようはあると信じて、ここまでやってきたのです。
(あんたには、私らだけを認めて欲しいの。誰も彼もなんて認めちゃいけない)
それが彼女の望みだったのですから。
八千慧の心を知ってか知らずか、袿姫様はにっこり笑って言いました。
「もちろん、あなたの懸念はわかっていますよ。あなたがたのシェアは一時的には減るでしょう。ですが市場競争を高めて、この土地を上手に経営する事ができれば、結局のところ全体が富み、あなたたちだって今以上に利益を得る事ができる」
「理屈としてはわかるんだけどね、理屈としては」
「今のところ、すべて絵に描いた餅にすぎないのは確かです。しかし選挙公約とはそういうものでしょう。たしかにあなたがたの力を借りなければいけない事もあるかもしれないし、あなたたち以外の力を借りる事もあるかもしれない」
「私たち以外の力?」
「この世界には、本来のありようを奪われている者たちが大勢います」
袿姫様が続けました。
「本来の技術や能力を発揮すれば、もっとこの土地や勢力を強くして、富ませる事のできる方々がね。……もちろん、あなた方だって、これからは暴力によって奪い合うばかりではいけませんよ。なにがしか、私のもとでありようを変えていただく必要は出てくるでしょう」
(嫌)
彼女の采配ひとつで自分がこねくり回されて変質させられてしまいそうな予感に、八千慧は本能的な嫌悪感を覚えました。
(だめだ)
とひとり思います。
(もう、既に、私はこの女を潜在的な敵として認定してしまっている)
* * * * *
数ヵ月前に講和会議の議場となっていたグランドホテルの会議室には、いま三勢力の長だけが集っている。
「わかっていた事だったよ」
と最初に言ったのは、早鬼だ。彼女は辺境の野から舞い戻ったばかりで、ほこりっぽい服で椅子を汚しながらふんぞり返っていた。
「絶対にあの女はあんたの思い通りにはならないのよ」
「痴話喧嘩みたいな話だね」
「茶化している場合じゃありませんよ侍従長閣下」
「侍従長閣下?」
「いえ……それはともかく、彼女には理解させてやる必要があります。この世界は理屈や絵に描いた餅で成立するようなものではないって事をね」
その後、彼女たち三勢力の長は、数日のうちに何やかやと理由をつけて下野し、散らばっていった。
彼女たちの意図は単純明快だった。どうせ袿姫の体制は、力による後ろ盾が無ければ、もろいものなのだ。そのやる事が気に入らないのなら、自分たちが野に下り、相手が音を上げるまで好き勝手な事をするべし。
「……思った以上に堪え性がなかったですね」
組閣すらままならず、がらんとした会議室の中に一人座りながら袿姫は呟いた。
「まあ、遅かれ早かれなのはわかっていましたが」
彼女たちが、自分たちの組織としての集団意識にある種の誇りを――無自覚な誇りを抱いている事は、袿姫もわかっていた。だからこそ、そこから変わる事を潜在的に恐れるだろう、という事も。
たしかに、袿姫はこの畜生界のすべてを変えるつもりだった。それは街並みや政治体制だけでなく、ここに住むすべてのひとびとをも変えていくだろう。それに対して、かねてからこの土地に存在した組、族、党らが反発する事もわかっていた。彼らのように独自の集団意識を持った者たちは、都市の権益を追い求めつつも、本当は都市的勢力になどなりたくなかったのだ。都市生活は、やがて彼らの紐帯をゆるやかに薄れさせていき、やがては新たな集団に征服されるだろうから。
結局、この世界の畜生組織どもは、そんな羽目になるのはまっぴらだったのだろう。
(では私のもとに残っている、この者たちはどうなのかしら)
と神様は思った。袿姫の周囲でおろおろしている人間霊たちは、一度は霊長園に戻ったものの、いつの間にかふたたび彼女の身の回りを取り巻くようになっている者たちだった。“全ての組織にこき使われている、完全なる奴隷”、“力は弱いが手先が器用な生き物”……
(彼らは変化を恐れないだろうか)と彼女は自問した。(恐れるでしょうね)と自答した。しかし、この不思議な生き物は、最後にはあきらめと困惑の入り混じる中で、変化を受け入れるだろうとも感じた。袿姫は、そんな彼らを、弱い生き物だとはちっとも思わない。ただ不思議な生き物と思った。
「……どうせ組閣もままならないのなら、神殿建設の事でも考えましょうか」
袿姫が立ち上がると、人間霊がぞろぞろとついてくる。それを引き連れながら、かねてから自分の神殿にふさわしいだろうと思っていた場所の下見に向かった。
霊長園へ。
* * * * *
道々、彼女に従うひとびとの数は増えていきました。霊長園のみならず、市内のそこここに人間霊はいて、動物霊に飼われたり、高い壁を設けた指定の居住区内に隔離されたりして、そこで労役を受けていたのです。
「この街を初めておのれの目で見ます」
誰に言うでもなく、しかし周囲にいる一人一人に語りかけるように袿姫様は呟きました。選挙戦の間、ホテルの奥に留め置かれて、外回りすらやらせてもらわなかった神様でした。
「今まで、地図や図面を眺めることで、この都市のありさまを想像していたのですがね。私は生来、そういう事が得意でした。私がこの畜生界にやってくる以前、もといた廃墟と青空の下で、ひとりぼっちでそれと同じような事ばかりやってきました」
思い出すように創造されていく言葉が、創造するように思い出されていきます。
「そこでずっと、造ったり、壊したり、時には自分自身さえ粘土のようにこね回していました。……誰しも、そのような時期があるものだとばかり思っていたのですけれど、私はまれな存在らしかった。少なくとも、ずっとそのような事ばかりやっているのは、変わり者らしいのですね。でも私はずっとそうしていた。退屈な神様でしょ?」
略奪を受けて荒れ果てた区画も、彼らは歩きました。情報操作によって巧みに隠蔽されていましたが、破壊を行ったのは鬼傑組でした。
「……あるとき、誰かが救いを求めてきました。誰が求めたのかはわかりません。私が求められたのかもわかりません。ただ、私がそうした事を察知した。だから私はこの世界にやってきた。それだけです」
水堀をわたって霊長園に上陸する頃には、彼女のもとには無数の人間霊がつき従っていました。遺跡と化した霊長園を、なぜか懐かしむように見上げて言います。
「私はここと同じような場所で……いや、ここでなにかを作っていました。廃墟と青空があったかつてのここで」
歩いて進むほどに墳丘の頂上にたどり着くと、縦孔が空いています。その井戸のように底の見えないぽっかりとした暗闇に、袿姫様はためらいもせず身を投げました。
穴の底の石室で待っていたのは、杖刀偶磨弓の体です。ですが、おかしな事に、この埴輪はすっかり苔むしてしまって、活動を停止していました。まるで何百年もそうしているように、手足を木の根に絡み取られていたのです。少なくとも昨日今日の間には、こうなるはずがありません。
「……私は、きっとあなたを救うためにこの世界にやってきた」
しかしこのうつろになった埴輪は、間違いなく磨弓です。袿姫様はその手の中に、見覚えのあるチェスの駒――自分の手元からなぜか紛失していたもの――が握られているのを、ちょっとあやしみます。
彼女は相手の穴のような眼窩をなぞり、ちょっとためらった後に口づけしました。手は相手の体を愛撫し、膝を太ももに割り込ませて、その輪郭をたしかなものだと確認しながら、じっくりと待ち続けました。
「……あなたの肉体はもともと私の肉体で、あなたの魂は私を守ってくれたのですね」
長い口づけの後、待ち続けていたものがやってきた後で、袿姫様はぽつりと呟きました。相手が、優しく、自分を包み込むように抱き返してくれたとき。
* * * * *
その後の事は誰もが知っているが、それでも多少の補足は必要だろう。
袿姫は磨弓をともない、畜生組織に対抗すべく独自の兵団を編成した。その際、この世界のために、ぶっきらぼうなほどに短く、シンプルな綱領を作成した。
前提
この土地に根付く犯罪的・反社会的・軍事的勢力は、欲望ばかり膨れ上がって、他者にたかって食い物にするくせに、その安全を保障しようともしない。これは本来土地に依存しなければならない集団として、非常に消極的なありかたである。ためにこれら各勢力は、公式声明の騒々しさに反して常に防御的な受け身の立場を取らざるを得ず、外線的作戦はほとんど行われない。
ゆえに、私たちは以下の方針をおおまかな枠組みとすればよい。
一つ、軍団は情報伝達とその統合を重視すること。
一つ、民と根拠地に拠って立ち連携すること。
一つ、常に他勢力より先んじて動くこと。
また、これらのごく短い原理原則に加えて、こうも付け足した。
私たちはこの世界に、救いと同時に混乱をも与えるべきだ。
袿姫の兵制は、非常に神様らしかった。制度を実情に擦り寄せたり適当にしていくのではなく、実情を無視して無理矢理制度にあてはめた。
「千人を一個軍団と規定して、軍団内はこれを五分割して二百人で一個大隊、二つに割って百人で一個中隊、また半分こして五十人で一個小隊、その中で十人一組を分隊としつつ、それを半分して伍からなる単位を指揮系統の最小単位として、そこに伍長を置く」
兵団の長には磨弓が立った。
その間にも市中市外の両面で行われている動乱からしてみると、袿姫の行動は一見のんびりとしている。マイペースとすら言えた。
また、彼女は霊長園の整備を人間霊たちに命じた。
「どうせもとよりあった計画でしょう。やりなさい」
そのようになった。
統制を離れた畜生組織たちは依然として好き勝手に暴れ回っていたが、それで袿姫の権威や神性が削られるという事はほとんどなかった。民衆にもこの神様が無力で(少なくとも当時はそう見えた)、混乱は彼女の無能のためではなく、そして乱暴を働いているのは自分勝手な畜生組織どもであるという事が、わかりやすすぎるほどにわかりやすかったからだ。誰もが、不思議と、彼女が悪くないという事を知っていた。
「しばらくはそれで良いでしょう」
袿姫は放っておいた。やがて畜生組織も歯ごたえのない状況に厭いてきた頃、整備された霊長園から忽然と埴輪兵団が出陣してきて、あっという間に各地の街道や駅を確保し、都市の安全を保証するどころか、辺境まで含めた畜生界全体に、たちまちのうちに兵力を浸透させ始めた。
埴安神袿姫による、畜生界全域を巻き込む軍事行動に対しての公式声明
「(前略)……私たちは、この土地でのたうち回る泥の中からやってきました……他の神様のように、不動の天上から神々しく降臨なさるという事はできなかった……ですが、それでいいのです……それこそが正しかった……(中略)……畜生界の暴力組織の皆さん、あなたがたが変化をおそれるからといって、この世界に停止を要求してはなりません……(後略)」
都市から叩き出され、風をくらって辺境の野に逃げ出した畜生組織たちを追いかけて、埴輪兵団はすかさず攻勢をかけた。なんとなれば三日三晩でも休まず追撃をかけられる彼らだった。
セラミック製の甲冑を纏い、同じくセラミック造りの埴輪の軍馬に跨った磨弓は、それに乗って右へ左へ、横一列になった騎兵部隊に対していちいち声をかけていった。
「なにも恐れる必要は無い――恐れる必要は無いわ! この世界はうるっさいけれど、私たちを歓迎している!」
そうした事を、声の限りに繰り返し叫んだ。
「奴らを切り刻めば、あんたらの耳元で何千もの楽器が鳴り響くかもしれないけれど、それはただの楽器よ。たとえ目を覚ますような悲鳴が聞こえても、すぐ夢見させてやりな。あいつら、雲の裂け目からタカラモノが落ちてくるのだけを夢見ていて、目が覚めてもまた眠っていたくなるような奴らだもん」
そんな野蛮な連中に現実を見せてやれ、と磨弓は言う。
「あいつらが持ち上げて、いい操り人形にしようとしたアイドル様は、絶対にあいつらの言いなりにはならない!」
次に矢合戦を――合戦とは名ばかりでほとんど一方的に矢の雨を降らせた後、やがて抜刀を命じた。刀までセラミック製だった。
にわか作りの防衛線などもろいもので、あっという間に蹂躙された。兵士が馬から降りて敵陣地をそのまま強力な自らの拠点に構築しなおすその間も、埴輪の馬が退却する敵を追いかけ続ける。
行動はすべて不気味なほどになめらかだった。
兵団の装備は古くさい技術と言われているものの、それは単に衝角付冑や小札甲、剣・弓・馬といった古びたハード面による、表面上の印象によってそう言われているにすぎない。彼らの真に最強の武器はソフト面にあり、それは最新鋭の統合戦術情報伝達システムとでも言うべきものだった。
「連中、そんなサイバーな装備使ってんの……」
「そうでなくては、この侵攻速度は説明がつかないのですよ」
野戦指揮所の中で、八千慧は早鬼の質問に答えながら、指揮所の真ん中に広げられた作戦領域の地図を指した。地図上にトレーシングペーパーを敷いて固定し、そこに刻一刻の状況が鉛筆書きされたり、軍隊符号や騎兵の駒が配置されたりしている。
「私たちは、前線が勝っているのか負けているのかすらわからないのよ。たぶん退却中なのだろうけど、退却命令が前線まで届いているのかすらも、私たちは知り得ない」
「戦争ってそういうもんじゃん」
「うちらにとっての戦争は、です」
数刻前に始まった埴輪兵団の攻勢が、完璧に同時多発的で、それでいて各方面の進退は柔軟そのもの、なにひとつ硬直していない機動が展開されているのを、八千慧は感じ取っていた。たしかに、彼らの装備は古くさいかもしれない。騎馬に乗り、弓矢を担いで、剣をたばさみながら突撃してくる古代の兵団かもしれない。しかしその用兵はおそろしく洗練されていた……。
「彼らはわかっているようなのですよ。どうやら、あの埴輪の兵団は一元化されたネットワークを構築して前線からの情報を集約し、そこから中央で判断された指令を、ふたたび前線の兵卒一人一人にフィードバックしている。あっちの動きが生身の手足だとすると、こっちの地図と鉛筆方式の作戦指揮は、ブルーにこんがらがったのろまな操り人形も同然なんですよ」
「私らは目隠しチェスを強いられているわけね……で、尤魔んとこの兵隊は?」
これ以上愚痴らせてもしょうがないので、早鬼は話題を変えた。
「その攻勢をくらってまんまと分断されてしまったので、それっきりですね。ですが連絡の手立ては模索しています。あの方面なら旧地獄との州境あたりに逼塞させられている線が強い。しかしあいつなら、たとえ敗走しても散らばった兵をよくまとめている事でしょう」
「……他人を信頼はしてるんだよなぁ」
一方通行の信頼だが。
「ですがそう……どうしましょ。別に、今すぐごめんなさいって頭を下げちゃえばいいんですよね。彼女の戦争目的は、あくまで自分の手から離れていった畜生勢力の鎮圧です。ここらで私たちが折れて講和を持ちかけるのも、一つではある……しかし、そうして時間稼ぎを行う間に、別の手を用意しておいてもいい」
「別の手とは?」
「外部勢力を呼び込んで戦局に介入させる」
「……なるほど」
八千慧の策謀は、早鬼にとってはべつに驚く事でもない。こいつはそういう事を考えつく奴だし、発想にしてみても、つい最近まで自分たちが取り締まっていた事の逆をやろうとしているにすぎなかったからだ。
やがて尤魔との連絡もついた。彼女は独自の判断で袿姫のもとに和議を出していて、今回の争いからは降りた。しかし考えている事は似たりよったりなようで、講和の仲介をしてやってもいいだとか、なにか力添えできる事があれば陰から協力できるだとか、そういった事を伝えてきていた。
「相変わらず立ち回りの上手いことね」
と早鬼がぼやくのを八千慧は完全に無視して、自分の考えを広げていた。
「……しかし、私たちの場合、呼び込む勢力はよくよく吟味して、方法も巧妙にしなければいけません」
八千慧はその後も、ぶつぶつと考えを口にした。誰を畜生界に呼び込んで、埴安神袿姫に対抗させるか……なまなかな存在ではだめだ。あの権能と競り合う事ができる者でなければならない。
「削いでおきたいのは軍事力です……今まで、私たちは力と数のルールによって戦ってきました。戦争だってそう、選挙だってそう、この土地のシェアの何割を奪い合うみたいな話だってそう、その根本には常に数と力の原則があった。あの女もそれに乗っかった。そうしたものをみんな、一旦はご破算にしましょう。それができる別のルールが必要です」
「……今までチェスで競っていたのに、急にあやとりで勝負しましょうなんて話じゃん。乗ってくれるかな、相手は」
「乗るでしょう。神様は変化を恐れない。御輿を用意されればどんなものにだって乗ります。連中は常にそうする事で生きながらえてきた存在です」
「別のルールねえ……」
早鬼には心当たりがあったが、少しもったいぶるような様子を見せた。
(太子様を、こんな畜生のみにくい闘争に巻き込んでしまって、いいのかどうか……)
当初、畜生組織たちが介入を求めようとした幻想郷勢力は、豊聡耳神子だったというのが現在では通説となっている(この人選について、誰の意向が強かったのかというと、当然ながら驪駒早鬼だろう)。しかし吉弔八千慧はこれに難色を示し(早鬼が推した神子が状況の主導権を握ってしまう事をおそれたと思われる)、結局はかつての古い知己(今では八雲藍という名でもっとも著名な化け狐)に介入行動の仲介を打診したが、これは先方にやんわりと断られてしまった。幻想郷側も畜生界の情勢を把握していて、これには手を出しかねる案件だと判断されていた。
ただし、と藍は八千慧たちへの返事に、但し書きをしておいた。
幻想郷全体としては畜生界の現状に介入することはできないが、同時に、博麗霊夢や霧雨魔理沙といった存在――今の幻想郷の根幹にあるはずなのに、各勢力から不思議と独立を保っている少女たち――が独自行動を起こすぶんには、自分たちはこれを押し留める事はできないだろう、と。
また、藍は(おそらくかつての彼女のように、かつての友人たちに対して)とある策を授けた――人道的にはどうかと思われるが、自らも式神を受けて使役される立場に喜んで甘んじている、彼女ならではの策といえる。
* * * * *
「はぁ」
彼女は、二日酔いでずきずき痛む頭を押さえながら、昨晩の酒飲みを経て廃墟のようになっている布団や友人と、外の青空を見比べました。また、めちゃくちゃな飲み方をしてしまった。最近どうしてか、いつもこうなのよね。そういった事を思った。でもどうしてでしょうか、それも悪い事ではないと思うのです。
布団から転げ落としてもすやすやとやっている友人はそのまま、体を引きずりながら後片付けをして、ついでに外に布団を干していると、東からの強い風が吹いた。
「……平和なのはいいんだけど、なにか事件でも起きて欲しい気分だわ」
(了)