Coolier - 新生・東方創想話

夢の残り香

2024/11/19 00:50:41
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地獄には鬼と亡者がひしめくという。
しかしこの世をば生き地獄と呼ぶならば、地に蠢く我らなんぞや?



 一匹の死出虫が腐肉のにおいを嗅ぎつけて、朱色に照り映える兜の飾りに舞い降りた。よく熟成された屍肉のにおいである。その時点で死出虫の原始的な本能は「快」のパタンに分類されるスパークによって彩られた……が、彼(または彼女)は知っていた。本当の御馳走が屍肉ではないことを。
 すなわち、よい屍肉にはたっぷりの栄養分を蓄えた無尽蔵の蛆虫が集っているものだ。実際、死出虫の敏感な触覚は屍肉のにおいに入り交じる、大好物の蛆の存在を確かに感じ取っていた。
 そしてついに死出虫がとんっと兜から飛び降りると、その細々しくも頑健な六本脚が、既に屍肉を貪っていた蛆虫たちのやわらかな肉にめり込んだ。快のパタンはいよいよ激しく迸り、たまらず死出虫は足元の餌へと喰らいつく。万力にも似た強靭な顎が開かれては交差し、その度に、自らがいつか蝿になることも知らなかった蛆の何匹かが餌食となっていく。
 しかし……これまで隣り合って晩餐を貪っていた兄弟姉妹が喰い殺されたことなど彼らはちっとも意に介さず(あるいはその知覚すらしていないかもしれない)、どこまでも、どこまでも、足元の腐肉を食い荒らすのに夢中になっている。
 実際、夢の中だった。
 蛆の生とはただ自らが産み付けられた腐肉を本能の命ずるままに喰らい尽くすことであって、その微睡みはついに蛹の外皮を脱ぎ去る瞬間まで連綿に続く。それは極楽の夢見心地だ。自分が喰われる側になることなど想像だにしないだろう。いや、彼らは「想像」などしない。ついに蝿の王となるその時まで、彼らの永遠の春夢は続く。
 だが、その蛆をひたすらに腹へと放り込んでいた死出虫の方は、もう少し世界を具体的なものとして知覚していた。実際、蛆の世界は「餌」と「自分」しか無かったが(ともすると「自分」さえ無かったかもしれない)、死出虫はそこに加え「敵」という厄介なものが存在すると知っていた。
 例えば不自然な空気の揺らぎ。あるいは大地の振動。そのような現象は概ね良くないものだと知っていた。そういうものが「敵」の兆候となる。「敵」は良くないものだ。逃げなければならないものだ。例え目の前にたっぷりの御馳走の山があったとしても、逃げなければならない。絶対に。なぜか? 逃げなければならないからだ。死出虫にはそれで十分だった。「なぜ」などと呑気に問うていた同朋はきっと(彼には知る由もないが)遥かな適者生存の幻に絡め取られて滅び去った後だろう。
 だからこそ。死出虫はその鋭敏な触覚が捉えた不自然な空気の揺らぎを見逃したりはしなかった。最悪にして最大の本能的警鐘が鳴り響く中、彼はそのつるりとした鞘翅をパッと開く。後翅を忙しなく羽ばたかせ、たちまち雲一つ無い青空に舞い上がっていく。腐肉と蛆虫のにおいが遠ざかっていくのがわかる。だが同時に危険も遠ざかっていく。その時に死出虫の本能を満たしていたのは概ね「快」のパタンだった。だがそんなこともすぐに彼は忘れてしまう。どうせ餌場はいくらでもあった。本当に、いくらでもあったのだから。

「ちっ……死出虫かよ。ビビらせやがってさ」

 悪態をつき、少女の瞳が青空から蛆の湧いた死体に戻る。
 あの昆虫……鮮やかな黒と黄の毒々しい色合にはじめこそ毒虫かと思えたが、なんてことはない、腐肉と蛆を喰らう卑しい死出虫に過ぎなかった。少女は本能的な警戒と緊張を解き、改めて彼女の「御馳走」に目を走らせる。抜け目なく。

「さてさてお手並み拝借……おお! この刀まだ新品だなぁ。あんた抜く暇も無く殺されたのか? ああ、この矢が死因かな。一発で心臓をぶち抜いてら。運が無え奴は何してもダメだな」

 ぶつぶつと独言を吐き出しながらも少女は慣れた手つきでもって死体から刀剣や装飾品を剥ぎ取っていく。その度に、死体に纏わりついていた蛆がぼろぼろと粉雪のように飛び散ったが、彼女がそれを意に介す様子はない。もはや慣れっこだったのだろう。死は珍しくない。死体も珍しくない。それに蛆虫は貴重なタンパク源になる。今は味見をする気にはならないが。
 あらかた金目の物を集め終えると、今度は少女の瞳が隣の死体へ移る。さらにまた隣の死体へ。隣の隣の隣の死体へ。折り重なった死体の山。しかし闇雲に探すわけではない。まず装備の軽い足軽兵はダメだ。農民から無理やり取り立てられた手合だ。なまくらの長槍など運ぶ労力だけ損だった。
 それより先のような立派な甲冑を着けているのが良い。しかしそこもまた難しさで、あまり立派なのは討ち取られた時点であらかた金目の物を持ち去られてしまう。なにより「同業者」を惹きつける。それが良くない。力をつけて自主独立を貫く惣村の中には、徒党を組んで追い剥ぎをしている連中もいるという。その点で孤立無援の少女は完全なスカベンジャだった。今もウゾウゾと死体の眼孔の内側の柔らかな肉を食み続けている蛆虫たちと、そう変わるところもなかった。武力もなく、後ろだてもなく、今を生きるために死体に群がるだけの弱者。もし運悪く惣村の追い剥ぎ衆に出くわせばその末路は目に見えている。その点においても、死出虫にただ貪られるだけの蛆虫たちとよく似ていた。
 それでも、やるしかない。彼女には他の選択肢など無い。死体の山に蠢く少女の便りない影。それを見下ろす蒼穹は遥か高く、照りつける直射日光は彼女の枯れ枝めいた肉体から容赦なく体力を奪っていく。そして……茶ばんだ汗が痩せこけた頬をつたう頃になって、ついに彼女は音を上げた。

「あーダメだダメだぜんっぜんダメ! さっきの刀のおとっつぁんだけかよ!? てめえらどうせ落ち武者だろバーカ! 死ね! 死んじまえ! 地獄堕ちろてめえら! ぺっ!」

 癇癪は「不快」の本能的衝動。ボロボロの草履を履いた片足が持ち上がり、半ば白骨化した死体へと狙いを定める。そんなことをして何になるわけでもない。むしろ汚れた蛆の白い返り血を浴びるだけだと――頭では理解しているが、彼女にはそんなことどうでもよかった。胸に渦巻いた怒りと苛立ちだけが全てだった。それこそが真実で、それこそが正義。衝動に身を委ねること。本能――人の心に巣食う悪鬼に身を委ねること――目の前の死体の山だって、きっと、そうして生み出されたのだから。

「恨めるもんなら恨んでみろ!」

 ……その時不意に、一陣の風が吹いた。それだって少女を止めるほどではなかった。死出虫と人間は違う。それでも、少女が踏み潰さんとしていた男の頭部が突風によって僅かに傾いた。ぼろり――食い荒らされて空洞となった両瞳が、自らの最後の尊厳さえ踏み砕こうとしていた相手を見上げる。その振動でこぼれ落ちた蛆虫の一塊。それはまるで白い涙。死体の恨みの涙のようにも、見えた。「ひっ」と、子供の喉が引き攣る音がした。ちょうど、その時だった。

「そこな娘! なにをしておる!」

 鋭い声が一つ響いた。瞬間、先程まで少女の脳裏に渦巻いていた怒りも癇癪もなにもかも、嵐に拭い去られてしまった。恐怖と生存本能という嵐に。まさにあの死出虫を御馳走の山から引き剥がした感情に。

「やば!」

 こんな場所で自分を呼び止める大人だ。今や焼け落ちて離散したおらが村の、あの日当たりの良い往来ではないのだ。
 きっと惣村の追い剥ぎ衆に決まっていた。こんな小娘が見つかれば散々慰み者にされた挙げ句、良くて都に売り飛ばされ、そうでなきゃ――ともかく、逃げなくては。だがあいにくと少女には死出虫のように丈夫な鞘翅も、薄く美しい後翅も無かった。あるのは枯れ枝のような両足だけ。遮二無二に駆け出そうとして――そういえばまだ片足を振り上げたままだったことに気がつく。だが時すでに遅し。たたらを踏む要領で体幹を失った少女は、無様にも前方へとつんのめった。死体と蛆虫の山がある方向へ。

「ひっ、いやっ」

 それでも少女は姿勢を回復させようと虚しい抵抗を続けたが――人の重心は極めて頭に寄っている。一度バランスを失えば後は、容易く崩れ落ちていくのみ。
 せめて支えを得ようと振り回された少女の手が空を切る。蛆の湧いた侍の死体のあたたかな抱擁。悲鳴を上げようにも、視界いっぱいにぴちぴちと飛び跳ねる蛆が眼孔から鼻から耳から入り込もうとしてくるところを、どうして口まで開けられるだろう? せめてもの抵抗でまぶたを降ろすと、むしろ彼らの蠢く物音がいっそう大きく聞こえ始めた。
 どうすればいい? どうしようもない。だが幸いにも少女の脳みそは多種多様の生得的防壁に守られていた。そこには、本当の本当にどうしようもなくなった時の最後の手段も当然搭載されていた。
 即ち――彼女は意識を失った。可及的速やかに。


 ◯


「あぎゃああああああああああああああっ!!!!」

 自分の悲鳴で目を覚ました、少女は、反射的に全身を掻き毟って群がる蛆虫を取り除こうとした。そうしてから、蛆に這いずり回られる不快感よりむしろ、久方ぶりの心地よい清潔感が体を満たしていることに気がついた。
 蛆虫の跳ね回る音はもう聞こえない。死臭は相変わらず漂っているが、死者の抱擁を受けたあの瞬間ほどの強烈さではもう、ない。

「……あれ」

 鴉の鳴く声に釣られ、黄昏に燃える空を見上げる。衣擦れの音。自分の服ではなかった。少し少女には大きすぎる。それでも、シラミの湧いた前のボロキレよりは百万倍もマシだった。
 ざく、ざく、ざく。
 平静さを取り戻した少女の耳が、単調で奇妙な物音を捉える。元凶はすぐにわかった。向こう山に沈む夕日に見下されながら、長い長い影が、惚れ惚れするほど規則正しい動作を続けている。
 ざく、ざく。
 ざく、ざく、ざく、ざく、ざく、ざく。ざく、ざく。

「なにしてんだ、おまえ」

 尋ねてから彼女はしまったと思った。密かに逃げ出せばよかったのだ。しかしもう遅かった。
 長い影の主は顔を上げたらしい。その仔細は逆光のためによく見えないが、旅僧の被る網代笠と、そこから溢れた長い長い髪が、逢魔が時の少し肌寒い風に揺れていた。

「死者を弔っておる」
「は? 埋めてんのか? 死体を?」
「そうじゃ」
「なぜ」
「なぜ?」

 僧は不思議げに首を傾げる。その様が妙にまだるっこしく、少女の胸をむかつかせる。

「死者を弔うのが儂の生業じゃからな」

 とにかくこんな得体のしれぬ僧相手に話を続けるほど少女は、警戒心が無い方ではないつもりだった。
 それでも……それでもあまりにふざけたことを抜かすので、どうしても言葉が出てしまった。ひと度そうすると後はもう数珠つなぎのようにするすると罵声が出ていった。

「ははっ。ねえお坊さん、この辺りにこんな死体の山がどれだけあると思ってんの? その全部を埋めてまわるつもり? 半分も片付かないうちにあんたも死体になっちまうし、たぶん、その間に死体はもっともっと増えてるね」
「……お主の言うことは正しい。儂が死者を一人弔う間、戦乱の世は数百の生者を殺してしまう。おまけに人々はその殺した数を誇りさえするのじゃから、虚しいことよ。まさに虚無の時代よの」
「私あんたのこと嫌いだな。あんたの話し方は聞いてるだけで気分が悪くなる」
「そうか」
「この辺りにはもう、お坊さんを養えるだけの村は残っていないはずだけど、どっから来たの?」
「儂は日白と申す旅の僧じゃ」
「あんたが私を助けてくれたわけ?」
「然り」
「ふうん……」

 少女がそのまま黙りこくると、僧・日白はまた死者を葬る仕事を再開した。
 ざく、ざく、ざく、ざく、ざく、ざく、ざく、ざく、ざく、ざく、ざく、ざく。
 ざく、ざく、ざく、ざく、ざく、ざく、ざく、ざく、ざく、ざく、ざく、ざく。
 ざく、ざく、ざく、ざく、ざく、ざく、ざく、ざく、ざく、ざく、ざく、ざく。
 日はいよいよ沈みかけ、夜がもうそこまで来ていた。屍肉を狙う狼が動き出す頃だ。しかし死体の山はまだ半ばも残っている。日白は手を休める様子を見せない。

「……はあ。旅僧なんてイカればっかなんだよな」

 嘆息した少女はやにわに駆け出すと、まだ蛆の蠢く死体をなんとか引きずっては、日白の掘った穴に落としていく。その度に我が子らの揺籃を奪われた蝿の親たちが激しく飛び回って抗議したが、繁殖力の他に何も持たぬ彼らにできることは何もなかった。
 どさりと重い音がして、かつては勇猛な武士だったかも知れぬ男がまた暗い穴へと滑り落ちていく。

「ゆめだ。私、ゆめってんだ。とにかく急いで終わらせよう。私、肉付き悪いからさ。飢えた山狼に喰われるならお坊さんの方だよ」

 そしてまた新たな死体を引きずってくる少女を、ゆめを、この奇妙な長髪の僧はやや放心したように見つめていたが、やがて穴を大きくする手を止めた。

「往こう」
「え? もういいのかよ?」
「夜闇は危険じゃ。お主のような子供にはな」
「自分は大丈夫みたいな言い方だけど?」
「儂はいつ涅槃に入るとも構わぬと、覚悟を既に決めておる」
「……どういう意味?」
「往こう。夜の帳の降りきらぬうちに」

 そこから少し離れた場所で日白は火を起こし、野営地を拵えた。小さな小さな火。山狼の群れに襲われてもこれでは、先の死体の山にいた頃とそう変わりないだろう。ゆめはそう思ったが、ゆらゆらと踊る炎の明るさが本能的な安心感を呼び覚ましたのも事実であった。それに、このように人と共に夜を明かすのも実に久しぶりのこと。微睡が彼女をとらえるまでそう時間は要らなかった。
 それでも彼女は、なけなしの自制心で眠りに落ちるのを拒もうとする。この風変わりな僧は危険そうには見えないが、単に猫を被っているだけかもしれぬ。迂闊に眠ればそれが最期となる可能性だってあった。自分の身は、自分のたった一つ残った命だけは、ついに自分で守り切るしかないのだから。
 両親が流行病で死に、兄たちも戦に取られ帰って来ない。頼りになるのは自分だけだと、ゆめは齢が二桁になる前から知っていた。それは今も変わらない。むしろより確かな世界への理解となって深くに沈んだまま、もはや引き上げることも叶わない。相手が僧侶だろうと、たとえお釈迦様だったとて、きっと変わりはしない。

「眠らぬのか。童は眠るのが仕事じゃろう」
「さっきたっぷり寝たし、もう童じゃないし」
「……ああ、腹が減っておるのか。すまぬ、すまぬ」
「はぁ? 人の話を聞けよ、勝手に納得すんじゃ……」

 抗議の声は、差し出された日白の掌の上、小ぶりなどんぐりほどの紅い実に注意を奪われて尻すぼみとなった。

「枸杞の実を乾燥させたもので、枸杞子という。儂はもう滅多に食事など摂らぬが、こればかりは好物でな。長旅を続ける秘訣よ」
「捨てきれてないじゃん、煩悩」
「それがため、修行の旅を続けておる」
「後から金よこせって言われてもなんもないからね」
「釈迦牟尼尊はその尊き前世にて、飢えた虎に我が身を差し出したという。未だ悟りの端くれにさえ至らぬ儂ごときが、飢えた少女に与えることのなにを躊躇う必要があるじゃろうか」
「なんだそれ。悟るために私にくれるの? バカにしてるな」
「ふうむ……」
「ま、もらえるもんはもらうけど」
「おおっ」

 電光石火の早業で掠め取った枸杞子を素早く口に放り込むと、肋の浮かぶ程に枯れきっていた肉体にたちまち熱の入るのが、ゆめにはわかった。実の味の方は奇妙な甘酸っぱさで美味とまでは言えなかったが、そんなことどうでもよくなるほどの「快」の本能的な閃光が彼女の脳裏で爆ぜ狂った。
 日白はどこか呆気に取られた顔でゆめを眺めていたが、やがてもう一掴みの枸杞子と、竹の水筒を寄越す。

「せめてよく噛んで食べるのじゃぞ。その程度でもな、空きっ腹に詰め込めば胃がひきつけを起こすぞ」

 言うまでもなく、そんな繊細な気遣いはゆめには不可能だった。久方ぶりの食事。久方ぶりの栄養。これまで膜が張ったようだった世界に彩りが戻る。焚き火の炎が踊る演舞の、その刹那の美しさまでがありありと瞳に映って輝いている。がぶがぶと水を飲み下すとますます世界は潤った。ゆめは、いかに自分が死の淵を彷徨う存在だったかを知った。
 
「あ」
「あ?」
「……ありがとう」
「ん」
「か、返せって言われてももうないからな!? 全部私の腹の中だから! 恐れ入ったか!?」
「くっくっ……そう怯えるでない。第一、明日の正午にはもう人郷に着く予定じゃ。荷物になるだけの糧食は、もう食べきってしまって構わんよ」
「人郷……?」

 ゆめの表情が暗くなる。もっともただでさえ暗がりで、日白にその変化が見えたのかはわからないが。

「それって私の村のこと? 行っても無駄だよ。とっくに戦に巻き込まれてなんもかんも焼き払われた。そうでなきゃ、私だってこんな山ん中で死体漁ったりするもんか」
「……そうではない。あの向こうの山の麓に、この戦を指揮するための砦があると聞いた。明日はそこへ往く」
「砦って……そんなとこ行ってどうすんのさ」
「この戦を止めてもらう」
「は……」

 ぱちん、と焚き火から乾いた音が上がった。ゆめがじっと見つめる中、日白は深い夜の闇の奥を眼差したまま身じろぎひとつしない。

「お、え、いや、止めてもらうって、それ正気で言ってるの?」
「うむ」
「バカか!? そんなもん殺されに行くだけだ! 止めてくれろで止めるならこんなことになってない! そんなの、そんな、それこそ童だってわかってることだろ!」
「それでも、行って話をしなければなにも変わらぬ。今この時にも罪のない人々が戦火に呑まれて死んでおる。儂は御仏の道を志すものとして、これ以上それを見て見ぬふりはできん」
「はぁー……私は嫌だぞ! 死にたいなら一人で死ね!」
「無論、ゆめ。お主まで伴って往くつもりはない。適当なところでお主はお主の道に向かうが良かろう。最後まで目をかけてやれぬのは心苦しいことじゃが」
「んな……」

 ざわざわと夜の優しい風が二人を撫でつけていく。ゆめは瞳を閉ざし、草枕にその黒髪を預けた。

「お坊さん。あんたみたいな大人と会うのは初めてだ」
「儂は凡百の輩に過ぎんよ」
「あのね、べつに褒めてないから。あんたは寝ないの?」
「朝、お主が起きたら見張りを代わっておくれ」
「……あっそ。じゃあもういいよ。おやすみ」

 小さな炎のあたたかさがとても心地良い。今度こそ強烈な眠気がゆめの意識に手を伸ばし、彼女はもう逆らわなかった。この日白という僧が嘘をついているとは思えない。嘘をつくならもっとマシな嘘を付くだろう。
 満腹、あたたかい炎、眠い、眠い、まどろみの底に沈んでいく……。


 ◯


 ゆめの覚えている限り、父は碌な男ではなかった。
 畑仕事は雑だったし、村の者たちといつも諍いばかり起こしていた。理由は知らない。ただ、父の体はいつも酒臭かった。毎日毎日酔っ払って癇癪を起こしては、妻やゆめを、ゆめの兄達を、平気で殴り飛ばす奴だった。
 こいつはきっと苦しんで死ぬだろう。
 誰もが冷たい目で彼を見ていたが、その死に際に苦しみはほとんどなかった。流行病にかかり、その日のうちにぽっくり。紅い夕陽が暮れる中、兄たちが父の遺骸を埋めるのを眺めながら、ゆめは虚しさをもて余すことしかできなかった。
 ざく、ざく、ざく、ざく、ざく。
 
「でも、これできっと良くなる。おっかあやあんちゃんたちは、おっとうとはちがうもん」

 そんなことはなかった。
 戦に取られた兄たちは二度と帰っては来なかった。これまで一家全員でこなしてきた畑仕事を、母とゆめの二人だけでしなければならなくなった。
 母も倒れた。ただえさえ体力が落ちていたところ、夫と同じ流行病にとらえられた。

「おっかあ、おっかあ! 私なんとか薬を持ってくるよ! 落武者から剥ぎ取った刀をさ、刀を村長が買ってくれるって言うから、そしたら、おっかあの薬をくれるって言うから! だ、だから!」
「ゆめ……」
「おっかあ!」
「本当に……虚しい、あぁ、虚しい……私はなんのために産まれてきたのかねえ……」

 そして、母も死んだ。ゆめは一人きりになった。程なく戦火が村ごと焼き尽くしてしまった。
 それでもゆめは生きている。今はまだ。

「お坊さん」

 曇天、重く。沈んだ丘の上から見下ろす先、わずかに小さく砦のさまが見えた。所々から白い煙が上がっているからよくわかる。人の生活する徴。ゆめと、日白は、まっすぐその煙を目指すだけでよかった。

「なんのために人は産まれてくるんだ」
「あらゆる生命は輪廻の輪の中に囚われておる。今生での生は必ず前世での因果と結ばれておる」
「誰が決めたんだ。どうしてそんなふうになってるんだ」
「誰が決めたわけでもない。そのようになっておるから、なっておる」
「じゃあ、私やあんたが生きてるのに意味なんてないってことかよ」
「そう。意味などない。誰も意味など与えてはくれぬ。それは自ら生の中にもがき、苦しみ、その果てに見つけるしかない」
「おっかあはもがく間も無く死んだぞ。私たちを産み育てて、苦しむだけ苦しんで、死んだぞ。それはおっかあが悪かったって言うのか!」
「良い悪いではない。もとよりこの世は等しく苦しみで満ちている。生は老いと病と死の入り口じゃ」
「……昨日も思ったけどさ、あんたの話を聞いてると気が滅入るよ」
「そうか。しかしそれでも儂は生を尊いと思う。この世に満ちる苦しみを少しでも減じたいと願っておる。だからこそ、この戦は止めねばならぬ」

 夢のような話だとゆめは思った。きっとこの日白というお坊様は頭がどうにかなってしまってるんだ。頭が良くなりすぎると、人はかえってバカになるらしい。誰から聞いたか思い出せないが、そんな話を聞いたこともあった。
 きっと日白はその類だ。
 二人はもう言葉を交わさなかった。山道を上っては下る負担のせいもあったろう。ゆめはすぐに汗だくになったが、日白はよほど鍛えているのか、汗ひとつ流す気配がない。一向に崩れぬ予兆のないその横顔の美しさは、なんだか人間味さえ欠いているようだった。
 そして、ついに砦の煙が風に流される様まではっきり見えるようになった頃、日白の足が止まる。

「ここらで別れよう、ゆめよ。お主の言う通り、ここからは死地への道じゃ。これを持っておゆき」

 差し出された巾着袋の中にはしわしわになった赤い実たちが覗いていた。昨日それを口にした時の、腹の底で燃える生命の迸る感覚がゆめの中で蘇る。
 おずおずと伸ばされる手。痩せ細った手。けれどまだ生きている手。それが巾着袋を受け取りかけて、ぴたりと凍りつく。かと思うと、さっと引っ込んでいた。

「私も往く」
「なに?」
「どうせ、これっぽっち貰ったって私、長くは生きられない。わかってんだ。追い剥ぎに捕まるか、狼に喰われるか、そうでなきゃ空き腹抱えて野垂れ死に。だったらあんたと一緒に行くほうがまだ良い」
「しかし儂はきっと殺されると、そう言ったのはお主じゃろう」
「殺されないかもしれない。どっちだっておんなじだ。でもこのまま一人になったら絶対に死ぬ。私、死ぬのはいやだ。おっかあみたいに、自分が産まれてきたことを虚しい虚しいって思いながら死ぬなんて……そんなのいやだ」
「……そうか。では、往こうか」

 この時、少なくともゆめはゆめ自身の心の動きに従った。そうすることが正しいと思ったから、というよりは、荒野に独り放逐されるのが恐ろしかっただけだ。
 けれど。
 ゆめはすぐに自分の決断を後悔することになった。

「坊主に用なんかねえよ! 失せろ!」

 たどり着いた砦の城門。
 陽の光に鋭く輝く無数の矢じりが突き出して、来訪者をいつでも針山にする体勢を取っている。当然辺りの木々はすっかり刈り取られていて、身を隠せる場所は皆無だ。
 日白がさらに一歩進み出ると、ヒンという甲高い音、タンッという浅い衝撃の音が連続して響き、ゆめの背筋を凍り付かせる。

「いっ……」

 日白の足元に突き刺さった矢。あと少しずれていればこの旅僧の命を容易く奪っていただろう。それを一瞥し、しかし日白は怯むでもなく声を張り上げる。

「拙僧は敵ではない。どうか話を聞いてはくれぬか!」
「説法ならそこら辺に転がってる死体にでもくれてやりな! それ以上近づけばその命無いものと思え!」

 タンッ、タンタンッ。文字通り矢継ぎ早に打ち込まれる拒絶の意思表明に、ゆめは日白の腕を引っ掴む。これ以上は無理だ。次の矢が二人の胸を貫かない保証はどこにもないし、むしろそうするだけの理由が砦の者たちには十分にある。
 またあのヒンという素っ気ない音がして、今度はドスッと深い音になる。なにかが突き刺さった衝撃に揺らぐ日白の影。踏ん張ろうとしても力が入らないのかそのままぐらりと崩れ落ちていく。土の上に広がっていく赤い赤い流れ。
 ……そんな風になるのではと、ゆめの脳裏にまざまざと描かれる未来の情景がある。すぐにでも来るだろう現実の足音だ。
 少女の小さな両手は震えていた。

「や、やっぱり話なんか通じる相手じゃないって! もう戻ろう! 逃げよう!」

 背を向けたところでいよいよ狙い撃ちにされるだけだろうが、本能的恐怖にそんな説明は通じない。人間が動物の端くれである以上、それは生存に絶対に必要な感情……のはずだった。
 日白は動かない。ゆめがどれほど強く腕を引いても、石像のようにそこから退こうとしない。

「ゆめ、待っておくれ。もう少し」
「こんなの本当に無駄死にじゃないか! ていうか自殺だ! 仏道で自殺は御法度じゃないのかよ!」
「よく知っておるのぉ。お主は頭が良い」

 ゆめの手をするりと振り解き、日白がまた一歩進む。その白い頬を矢の切先がかすめ飛んで、赤い帯を引いた。狙って外した一撃か、それとも殺すつもりだったのか。目の前を過ぎ去っていく死の一撃にゆめはいよいよ言葉を失った。

「死者の持ち物をお返ししたい! この辺りの合戦で弔った死者のものじゃ!」
「なに?」
「其方らの友のものでは無いか!?」
「坊主が死者を辱めたのか? 貴様を射殺してからゆっくり回収するという手もあるがな!」
「……ふむ、そのような手は考えていなかった」

 終わりだ。ゆめの目元に涙が滲む。このまま自分たちは矢の雨に降られて死ぬんだ。こんなことなら日白に言われた通り枸杞子をもらえるだけもらって別れたらよかった。なんて情けない、バカな選択を自分はしたんだろう!
 悔やめども時は巻き戻らない。きりきりと城門の上で弓を引き絞る音さえ、ゆめにははっきり聞こえる気がした。
 とくんとくんとくんとくん……心臓だけが早鐘を打つ中で、がたん、となにかが外れる音がした。

「……よかろう」
「えっ!?」
「だが、そこで待て! 妙なそぶりを見せれば即座に斬って捨てる。そう思え!」

 木の軋む耳障りな音を上げながら、城門がゆっくりと開いていく。だが平和的に招かれたわけではないらしい。砦の中から武装した男たちが出てくると、たちまち日白とゆめを取り囲む。四人いるうちの三人はいかにも荒くれ者という出立ちで、敵意と不信感に満ちた視線を旅僧に向けて憚らない。先の宣告通り、疑わしい動きがあれば彼らは直ちに日白を殺すつもりなのだろう。
 その中でも一際に凶暴そうな男が歩み出て、日白に迫る。

「見せてみよ」

 僧は言われるがまま、背負っていたズタ袋を開く。背の低いゆめには袋の中は伺えない。が、一瞥した男の表情がわずかに歪んだような気がして、肝が冷えた。

「これだけか?」

 袋を引ったくりながら男がすごむと、日白はゆったりとした動作でもって、腰のあたりに下げていた長い袋を手に取った。
 おそらくそれは旅の杖を入れるもの。村に訪れたべつの旅僧がそういうものを持っていたのを、前にゆめは見たことがあった。その僧は翌日、全ての服と持ち物を剥ぎ取られて野晒しになって死んでいたが。
 日白も同じ末路を辿るのか? そうなったら自分も巻き添えだ。

「なんだ、それは。いやまさか……」

 それは杖ではなかった。現れたのは一振りの刀だった。美しい鞘に収まった刀。しかもゆめには、その刀に見覚えがあった。蛆虫の山にたかられていた死体。黄と黒の毒々しい死出虫に取りつかれていた死体。刀のおとっつぁんのもの。
 とはいえこの状況は……そんなものを晒すのは非常にまずいのでは?
 ゆめの懸念通り、検分していた男の眉根が露骨にひそまった。

「やはりそうか貴様! 坊主が刀を手にするなどと! 刀とは我らの魂なるぞ! 忌々しい糞坊主め、この場で斬って捨ててくれる!」
「バカかよあんた!? 逃げよう! もう逃げるしかないよ!」
「際を超えたか」

 そんなもんとっくに超えてるだろ!
 叫ぶ代わりにゆめは日白の腕を引く。その視界の端では、猛る武士が刀の柄へと手を伸ばす。それら一瞬一瞬の動作がゆめには妙にゆっくりと見えた。髭面の口元がくわっと開き、黄ばんだ唾がほとばしる。引き抜かれた刀身のきらりと綺麗な銀色の輝き。必死に逃げ去ろうと試みるも両足がもつれたようにうまく動かない。
 刀が振りかざされる。ダメだ、これでは間に合わない。

「待てっ」

 死ぬ。日白はこのまま斬り殺される。なにかしないと。助けないと。だがゆめにできることはなにもない。殺される。死ぬ。おっとうのように、おっかあのように、日白は死んでしまう。二度と話をすることもできなくなる……

「待ってえ!」

 両目を固く結んでゆめは、恐ろしい現実が少しでも遠のくことを願った。願っても叫んでも無駄だとわかっていた。おっかあは幸福な夢を望んでいた。だけどおっかあは虚しさの中で死んでいった。幸福は夢の中にしか無い。いつだって。だから彼女は目をつむる。あくまで固く、固く、現実から逃げ延びようとするかのごとく。

「……?」

 妙に、静かだった。人が切られた時にどんな音がするのかゆめは知らなかったが、こんなにも静かなはずがない。
 恐る恐るまぶたを上げる。きっと血溜まりがあるだろうと思った。そうではなかった。最後に目にした光景、振りかざされた刀、まなじりを決したままの日白の横顔。すべてがそのままだ。時が止まってしまったのかとさえ思ったけれど、武士の両肩は荒い呼吸に上下している。
 いったいなにが?
 徐々に冷静さを取り戻していくゆめの脳内、この束の間の記憶の中でふと、聞き慣れない男の声があったことを思い出す。「待てっ」と、そう叫ぶ声。それが武士の凶行を押し留めたのか?

「まあ、待て。その二人の身柄は俺が預かる」

 聞き間違いではなかった。若いながらも鋭さを秘めた男の声に、刀を振り上げたまま武士は物申したげな顔色でもって振り返った。

「いやしかしですね、若」
「父上と兄上がご不在の今、この場の指揮官は俺だ。それに逆らうのか?」
「なんですと……」

 若と呼ばれた男の出で立ちは、確かに他の武士たちよりもどこか気品のようなものが漂っている。だがそれだけだ。相変わらず生殺与奪権はゆめたちの手元にない。「多少はマシ」の範疇でしかない。
 緊迫した雰囲気にゆめは息も苦しかった。まだ成長過程にある脳みその中で、必死にこれからの展開をシミュレートする。

(状況はわかんない。でもまだ死んじゃいない。とにかくあの二人が諍いを起こすようならその隙に駆け出す……おそらく矢の雨が振ってくるだろうからその後は……)

 だが。

「くっくっ……なんて……ふふ、頼むよ志之助おじさん、父上には俺から良いように伝えておくからさ」
「ちぇっ……まったく仕方ねえですね……若の気まぐれにも困ったもんだ」

 刀が、退く。えっ、とゆめが顔を上げると、若い武士が軽く微笑んだ。
 助けてくれたのか?

「あ、あの、ありがっ」
「おっと、この阿呆どもの両手は縛っておけよ。いつでも首を刎ねられるようにな」

 すかさず先の武士をあわせた取り巻き衆三名が呼応した。日白も、ゆめも、抵抗など出来るはずがなかった。


 ◯


「まあ、狭いところだがくつろいでくれ。その縄はまだ解いてやれないが」

 砦の奥の高台、若と呼ばれていた武士によって日白とゆめは、おそらく彼の屋敷だろう場所に通された。
 無論屋敷と言っても砦用の仮の建物である。本領はもっと別のところにあるのだろう……とはいえ、明らかに戦闘には役に立たないだろう小物などもそこかしこに配されて趣味が良い。百姓育ちのゆめには肩身の狭い感じがして落ち着かなかった。忙しなく視線をあちこちに揺らしていると、「父上のご趣味だ。俺はわからん」と、若武士が肩をすくめた。
 なんと応えたものだろうとゆめが悶々していると、隣の日白が深々と頭を下げるのが目につき、彼女も慌ててそれにならった。両腕を後ろで縛られているから、頭だけ下げるとそのまま倒れ込みそうになる。しかし日白はちっともその動作を苦にしている様子がない。

「無礼なる訪問、まこと申し訳ない。しかし儂のような風来坊主には他に手立てがなくてな」
「無礼、礼か。そんなものもはやこの世界にありはしない。殺すか、殺されるか。まさに下剋上の世だ」
「下剋上って?」

 ゆめは何気なく問いかけてから慌てて口を噤んだ、が、若武士は意に介さなかった。

「身分の低い者が上の者を殺し、その地位を奪うことさ。当然、全ての領主が案じているのはそれだよ。このような田舎でも、天下にその勇を轟かせるような大名たちでも、同じこと。いつ家臣に寝首をかかれてもおかしくない……実に狂った世の中だ。仁義も誉れもありはしない。いや、おまえに誉れを説いてもわからぬか」

 自嘲するような、苦々しげな笑み。
 しかし彼の言う通りで、下剋上だとかなんだとか、ゆめにはべつだん異常なこととも思えなかった。ずっと貧しさと苦痛の日々だけに生きてきたから。もしもそこから逃げ出せるのならば、自分だけが助かる蜘蛛の糸が天から降りてきたとしたら――きっと人はなんだってやるだろう。
 ただ、彼女には力がなかった。蜘蛛の糸をよじ登るだけの力が。だから死体からものを剥ぎ取る程度の道に甘んじるしかなかった。けれど……もしもか弱い少女ではなく、兄たちのように腕っぷしの強い屈強な男子だったら? 自分も下剋上をして上り詰めようと思っただろうか? ゆめは自問自答し、心のなかで首を縦に振る。きっとそうに違いない。蛆の湧いた死体を漁り、狼や追い剥ぎに怯えながら日々を過ごすよりは、仕える相手を殺してでも成り上がるほうがずっとずっといいじゃないか?
 日白は真っ直ぐな瞳で若武士を見つめている。ゆめは不思議な背徳感を抱いた。今、自分の考えてることを知ったらこのお坊さんはどう思うだろう? 眉をひそめて追い出そうとするのか? それとも?

「坊主、あんたの話は後で聞いてやるから、先にこっちの質問に答えてもらおう。まさか嫌とは言うまいな?」
「無論」
「うむ。では教えてくれ。その刀、いったいどこで手に入れた?」

 刀。
 三者の間に据えられた一振りの刀。あの蛆虫だらけのお侍の死骸が携えていた刀だ。
 日白はいったいいつの間にこの刀を回収したのだろう? 存外、抜け目のない性分なのか? しかし白日の下に差し出してしまったのだ。もう戻ってはこない。

「その刀は、ここより二つ山を超えた先の戦跡で弔った武士の身につけていたものじゃ」
「ではこの刀の持ち主は死んでいたのだな。まさか坊主と小娘の二人で襲って奪ったということもあるまい。信じよう。その死体はどんな様子だった?」
「あ、えと、その刀を持っていたおやっさ……お侍様は、心臓に矢を受けて亡くなっていました。他に傷らしい傷もなかっ……ひいっ」

 ぎろりと鋭い視線がゆめを捉える。武人の殺気にたじろぐゆめの前に、そっと日白が身を被せる。両腕を後ろで縛られているというのに器用な身のこなしだった。
 一方で響くのは、歯の食いしばられる耳障りな音。鞘を握りしめる武士の手は震えていた。

「そうか……やはり、そうか。この刀、俺の兄上のものだ」
「えっ……」
「父上が戦で留守にしている隙に乗じてこの頃、二つ山を越えた先で追い剥ぎの惣村衆が狼藉を重ねていてな。兄上はその討伐に赴き……そして……戻られなかった。兄上は戦嫌いだったからな……きっと平和的な解決を目指す半ばで裏切られたに違いない……そうに違いない! だがやはり、そうか、そうなのか。もう既に……」

 刀を握りしめる腕が、しなやかに鍛え上げられた腕が、肩が、この若い武人の全身が慟哭していた。その頬がするりと濡れて、ゆめは息を呑む。

(泣いてる……?)

 男が泣くところを見たのは初めてだった。ゆめの呆然と見つめる先で、彼は恥じらったり泣き止んだりするどころかひっしと刀を抱きかかえるように蹲り、いよいよ堪えきれなくなったのか声をあげて泣き叫び始めた。

「兄上……兄上ぇえ! なぜ俺をお伴に連れて行ってくれなかったのですか! なぜ俺を置いていってしまわれたのですか! 自分だけ先に、なぜ! それもこのような、こんな、誉もなにもない虚しき最期をっ……うわあああああああっ……!」

 その様は、そばにゆめたちのいるのを忘れてしまったかのような騒ぎだった。日白は両瞳を閉ざし、身じろぎさえしない。ゆめはただこの旅僧の影に隠れるので精一杯だった。乱心して斬りかかられないだろうかと、兄を殺したのは貴様たちだろうと難癖をつけられないかと、とにかく気が気ではなかった。
 そうはならなかった。
 それからひとしきり泣き喚き終えると若武士は、まるで何事もなかったかのように顔を上げた。目元は泣きらして鬼灯のように赤く、髪は乱れきっている。それでも確かに瞳の奥には正気の光が輝いていて、とにもかくにも、ゆめは胸を撫でおろすことができた。

「ふふふ……恥ずかしいところを見せたかな」

 日白が静かに首を横に振り、やはりゆめが慌てて真似をする。

「親族の死、愛別離苦とははるか釈迦牟尼の時代より変わらぬ悲劇。それを悼むことを目の当たりにしながら、どうして恥ずかしいなどと謗ることができようか」
「ほお。糞坊主の割にはまともなことを言うじゃないか。生まれ変わりだの、輪廻転生だの、解脱だの……意味不明なものを説きながら俺達を薙刀でもって殺しにかかる……僧とはそういうものと思っていたがな」
「ふむ。富と地位とを求めいたずらに戦にふける者たちがいることも、事実。衆生の救済を志すよりも己の解脱にのみ走るものがいることも、やはり事実。擁護するつもりは毛頭ないが、とは言え少なくとも、輪廻と転生はこの世の理じゃろう」
「どうかな? 俺はそうは思わない。だってそうだろう? このご時世、毎日毎日いったいどれだけの人間が殺されてると思う? その全てが輪廻の渦にのまれるというのか? 地獄があっという間に満杯になってしまうだろうぜ」
「地獄とはおそらく絶望的に広いものなのじゃろう」
「どうでもいいことさ。俺達も、俺達が守るべき民草も、皆等しく地獄のさなかの肥溜めにいる。今この時もだ! 兄上は俺と違って心清らかで、信心深かった。だがたった一発の矢で絶命したのだろう。神も仏もありはしない。いや仮にそんなものがあったとして、なんの役にもたちはしないのだ」
「信じぬ者に救いは訪れぬ」
「途端に抹香臭くなったな? はっ! 救いだって? そんなものがあるもんか! そんなのは夢物語だよ! やはり糞坊主の吐き出す言葉は変わらん。虫唾が走るな! しかし――次男坊だが俺も男だ。少なくとも話は聞くと口にした。それを反故にしたりはせんよ」

 この坊さんはいったいなに考えてるんだ……? ゆめはもう緊張と恐怖で頭がどうにかなりそうだった。相手は刀を携えた武士の頭領で、砦の中にはその家臣も大勢いる。だったら普通、相手の気を逆撫でしないよう話すべきじゃないのか?
 しかし日白は欠片も怯まず、臆さず、結局はゆめの一番恐れていた言葉を口にした。

「無理とは承知でお頼み申す。どうかお父上と話をさせてはもらえんじゃろか」

 もうどうにでもなれ。このイカれ坊主! ぐるると内心で唸り声をあげるゆめの見つめる先で、若武士の瞳が見開かれる。

「父上と……? 望みがあるなら俺が聞く。第一父上は当分戻らん」
「儂の望みは、この戦を止めてもらうこと。それはおそらくお主のお父上でなくては叶えられない大事であろう」
「なに? 今のは俺の聞き間違いか? はっ……それとも貴様、本気なのか?」
「うむ」
「……仮に。仮にその願いを聞き届け、父上が戦を止めたとて、わかっているだろう? なにも変わらんぞ。この世を覆う戦火は小揺るぎともしない。仮に京の帝を弑し奉ったところで変わらん」
「だとしても、見て見ぬふりはできん」
「偽善者め。そうやって全ての戦場を回って歩くつもりか?」
「無論、そうする」
「バカバカしい……では俺たちはその手始めというわけか? 舐めた話だ。しかし、いいんだな? 貴様死ぬぞ?」
「誰もが目前の死を恐れ、手前の利のみを追い求めた結果が今の末法の世じゃろうて」
「……実を言えば父上は、俺達兄弟からしてもなにを考えているかわからぬところがあるお人でな」

 脈絡の無い返答。その口元に浮かんでいるのは怒りではない。失望とも違う。なんとも言えぬ意地の悪い笑みだった。

「父上はきっと頭が良すぎるのだ。だが俺が思うにこの場に父上がいれば、ただちに貴様を斬って捨てたに違いない。賭けてもいいぞ」
「……」
「まあ、俺は父上とはちがうが」
「……ふむ」
「どうした坊主、言うことはなしか? 構わんよ。一つ良いことを思いついた」

 嫌な予感にゆめの肌が泡だった。果たしてその予感は的中することになる。

「賭けをしようじゃないか。言葉通りにさ。もし俺の想像通り父上が貴様を斬り捨てたなら、賭けは俺の勝ちだ。しかしそうならなければ、俺の負けだ」
「儂は僧じゃ。賭け事はできん」
「勘違いしているようだな? おまえは単なる賭け金だ。おまえの命を使った余興なんだよこれは。あくまで世界は俺の思う通りにつまらぬ、くだらない、虚しきものなのか? それとも……それとも、だ……ふふふ、面白かろう? 楽しくなってきたぞ。糞坊主の命の使い道にしては上出来だと思わんか?」

 なにがどう楽しみなのか、ゆめにはちっともわからなかった。わからなかったが、とにかく自分たちが生きながらえたことだけは理解できた。
 ゆらり立ち上がる若武士の口角はいっそうに吊り上がり、歪んだ笑い声が漏れ出している。

「俺は沙羅だ。妙な名前で覚えやすかろう」
「ふむ、沙羅双樹とな」
「さすが知識は豊富か? 父上は平家の物語がお好きでな。書き起こさせたものを飽きるほど読み返しておられる。兄上も俺もその教養高さは受け継げんかったが」
「お主、沙羅双樹がどのような木か知っておるのか?」
「さあ。綺麗な花だとは聞いているがね」
「……儂は日白と申す旅の僧じゃ」
「わ、私はゆめだ……です」
「ふん、妙な組み合わせよな。イカれ坊主に小娘か……誰ぞ戒めを解いてやれ! 俺は寝る! 今日は兄上の弔いだ!」

 それでようやく、今度こそゆめの気が抜けた。だが……まだ終わってはいなかった。くたりと崩れ落ちるゆめを、沙羅の鋭い目が捉える。

「小娘、おまえは俺と来い」
「え、わ、私ですか……なんでしょういったい……」

 どうにもまた嫌な予感が首をもたげたが、逆えるわけもなしだ。賭けだのなんだの、全ては強者の気まぐれにすぎない。次の瞬間にでも気が変わって自分たちは殺されるかもしれないのだから。
 よろよろと立ち上がった耳元で「いざという時は大声を上げよ」と日白が耳打ちする。そもそも誰のおかげで「いざ」に怯えないといけないんだ? そう皮肉の一つもいいたくなるのを飲み込み、ゆめは沙羅の後に続いた。
 ひやりと冷える廊下に二人分の足音が響く。沙羅は大股でまた足取りも小気味よく、ゆめはついていくだけで必死だった。

「あのっ」
「今のうちに脱いでおけ」
「え」
「服だ」

 ぎょっと身が強張る。服を脱げ、と。そういうことだろうか? ゆめがおっかなびっくり見上げた先で、沙羅は「ああ」と頷く。

「まだ縛ったままか。愚図な奴だ。ほら……さっさとしろ」

 銀の短刀が戒めを切り落とす。ここは廊下の突き当り。隙間からひゅるひゅる外の冷たい空気が入り込んでくる。日白に報せるべく大声を上げるべきか、どうか? けれどここで騒ぎを起こせば何もかも水の泡だ。本当に沙羅たちは日白を殺すに違いない。
 それにどうせ……今更じゃないか? ゆめは思い直した。生きるために死体を漁るのも、お侍殿を悦ばせるために服を脱いで見せるのも、その先をするのも、べつに変わりはしない。むしろマシじゃないか。蛆虫まみれの死骸に抱擁されるよりは、ずっとずっと……。

「うぅ……ど、どうか優しくしてください……」
「なにを言ってる? もう手は自由だろ。自分でやれ」
「ええっ!? 自分で、ですか……?」
「当然だろう、さっきからなにうだうだ言ってる? 臭いから汚れを落としてこいと言ってるんだ!」
「は……」
「ん、まあ砦の武士衆も似たりよったりだが、仮にも女子がそのようにひどい臭いを漂わせているもんじゃない。風体も垢だらけの泥まみれで、声を聞くまでは男かと思ったわ。この裏に井戸があるから、そこの水を使うのを許す。わかったらさっさとしてこい! 俺は寝る!」

 そう言い捨てて沙羅はまた廊下を戻っていき、ゆめは独り取り残される。

「私……そんなに臭いの……?」

 ぷうん、と一匹の蝿が飛び来ては、ゆめの髪にぴとりと止まった。そしてまたすぐ、何処かへと飛び去っていった。


 ◯


 夢を見ているようだ。小鳥の囀り、風にそよぐ木々の歌。いやそんなものはどうでもいい。
 明日にも飢餓に倒れるかもしれない恐怖。いつ追い剥ぎに襲われるかもわからない緊張。未来への不安。悪い予感と息苦しさ。
 それらはいつでもゆめの傍らにあった。苦悩と恐怖は幼馴染よりも身近で、兄たちよりもずっと頑なにゆめの側に寄り添ったまま消えてくれなかった。それから離れられるのはきっと死ぬ時だろうと、ゆめは幼いながらに理解していた。
 そうではなかった。
 あくまで招かれざる逆という厄介な立場は変わらぬものの、若き武士のまとめ役である沙羅は、ゆめと日白を概ね丁重に(単に彼の言う「賭け」のためだとしても)扱っていた。そしてあの無茶苦茶な来訪から気がつけば、一週間が過ぎ去っていた。

「ゆめ、皆の洗濯は済んだのか」
「うん」

 草履が砂利を踏み締める音に顔を上げたゆめは、青空の下に翻る褌やらなにやらの隊列を指さして見せた。

「悪いな。このようなことを任せて」
「べつに。これまでの人生でいちばん楽な仕事だし」
「そうか」
「まあ、女中の人とかがいないのは、びっくりしたけどな。お侍様の生活ってもっと裕福なのかと思ってた」
「そんな余裕などない。男衆を戦に駆り出している以上、女手には田畑を耕させねばなるまい。我が家は所詮、広大な所領を持つ大名方にへつらうしか無い田舎領主よ。生き延びたければ賢くなければならん。放蕩などもってのほかだ。しかし……いずれにせよ俺は、父上のようにはできないだろう。あの人ほど頭のキレる武人など、天下にそうはいまい……俺にはとても……」

 沙羅は父親のこととなると饒舌になる。それをさせるものが単なる親子の情……だけではないことくらい、ゆめにもわかった。
 尊敬と畏怖の入り混じった不安定な瞳が陽射しの下で揺れている。
 ゆめは妙な気分だった。沙羅は領主の息子であり、ゆめの家の収穫を取り上げ、兄たちの命も取り上げ、そのくせなにも与えてくれなかった忌々しい相手のはず。
 だが実際に目の前にしてみると、ただの不安げな、一人の若い男にしか見えなかった。ちょうど兄たちが生きていれば、沙羅くらいの年頃のはずだった。
 
「ねえ。沙羅殿はお坊さんといつも、なにを話してるの? なんだか難しそうなことを喋ってる声が聞こえてくるけど」

 ゆめは何気なく尋ねたつもりだった。しかし沙羅の目元がさっと引き攣り、しまったかと思っても遅かった。そしてきっと怒り心頭のまま日白への暴言を吐き散らすのだろう……そう身構えたけれど、彼は押し黙ったまま、わずかに呻くように呟いただけだ。

「……例えば、世の虚しさについて、だな」
「うわぁ、あの人が得意そうな話題……気が滅入らない?」
「滅入るよ。滅入るとも。しかしあの坊主が諸国を周遊して来たのは事実のようだ。こう見えても俺は勤勉なんでな」
「勤勉ね……あなたはお坊さんのこと嫌ってるのかと思ってたけど」
「いずれは俺も一国一城の主となる。好き嫌いで政治はできん」
「ふうーん……」

 二人の間を風が吹き抜け、真白き褌の列がまた勢いよく翻る。
 日白は日中はいない。ゆめが炊事洗濯の手伝いを任されているように、砦の拡張工事を手伝っているらしい。はじめは大丈夫だろうかとも思ったが、存外、力仕事には慣れてるいるらしい。もともとあっちこっちの野晒し死体を埋めてまわってるような人間だ。なかなかどうして、人は見かけによらぬものだった。
 それにしても戦の道具である砦を広げることは良いのだろうか? それともタダ飯タダ宿を受け取るよりはマシということなのか? ゆめには日白の考えはよくわからなかった。日白はどこか人間離れした雰囲気がある。沙羅と話している方が気がまだ気が楽だ。

「ゆめ、おまえこそなぜあんな坊主と旅をしているんだ?」
「べつに旅してたわけじゃないけどね。なんか成り行きで」
「そうか。ではあやつが殺されても気には病むまいな」
「んっ……」
「言ったはずだ。父上はあの坊主を生かしておかぬだろう。俺にはわかる。あの坊主は父上がもっとも嫌う性分を持っている。賭けは俺の勝ちだ。賽の目が出るのを待つまでもない」
「……そんなこと、私に言われても」
「あの坊主を殺すとなれば、従者たるおまえも殺さざるを得ないだろうよ」
「えっ!?」

 予期していた反応を見られて満足したのか、沙羅はその口元に野生的な獰猛さを覗かせた。
 ゆめの両腕を鳥肌と共に怖気が走る。先程までの弛緩した空気は消え去っていた。

「当然、そうなるさ。まさか思いもよらなかったか? 自分とは関係ない問題と思っていたのか? 小娘の命など歯牙にもかけられないとでも?」
「……お侍ってどうしてそう殺すのが好きなわけ」
「ちがうな。生きてる人間が疎ましいんだよ。生きてる人間だけがこちらを殺そうと歯向かってくる。しかし……ゆめ、この俺が助け舟を出してやろうか?」
「な、なにが」
「おまえを俺の女中に使ってやろう。そうすればあの坊主との縁も切れ、殺される理由もなくなる」
「このままここで働けってこと……」
「ああ。それにおまえ、はじめは醜女と思ったがな、きちんと整えると中々じゃないか。ふふ……兄上が亡くなられた以上、家督を継ぐのは必然に俺だ。ゆくゆくは目をかけてやってもいい。どうだ、悪い話じゃ――」

 ぱちん。
 間の抜けた音が沙羅の言葉を叩き落とした。泡立つ肌をおさえながらも、ゆめは、にわかに顔を真赤にさせて、吠える。

「ふざけんな! さんざん私たちから米取り上げて、次は体と心まで取り上げようってのか! そんならお坊様と共に殺された方がなんぼかマシだ!」
「ふん……なら今斬って捨ててやろうか?」

 沙羅が柄に手を伸ばす。ゆめは怯まなかった。自分でも不思議なくらいにするすると言葉が喉奥から出ていく。胸の底で爆発する熱いもの。それに押し出されるように、前へ、踏み出す。

「なんだよ意気地なし! 女に叩かれてそんなに痛かったのか!? 百姓の小娘に歯向かわれたのが! 刀を抜かなきゃなにもできないのかよ!」
「なにっ」
「あっ……」

 だがその熱いものは、灯った瞬間と同じようにまた急速に冷めていく。たちまち我に帰ってゆめは――慄いた。今にも刀を抜きそうになっている沙羅のために、ではない。今、確かに自分の内側から外へと出ていったもの。まったく予期せずに喉奥から覗き出でたもののために、慄いていた。
 それは鬼だ。ゆめはまだ若々しい直感でもって、そう理解する。今、自分の喉奥から鬼が這い出ようとしていた。そしてそれは――ふと見た先で目を丸くしている沙羅も、同じこと。自分たちはほんの他愛もない会話を交わしていたはずなのに、ふとした拍子から先に彼の中の鬼が覗き、すかさずゆめの抱える鬼を呼び出したのだ。
 ゆめが慄いたのはまさにその理のため。憎しみと怨嗟がたちまち降って湧き、自分たちの間にあった無色透明の関係性を粉々にしようとしていた……。

「ひっ」

 喉を引きつらせて、ゆめはまろび逃げ出そうとする。だが急に身を捻ったのがわるかった。無様にもつれる両足。上がる悲鳴。天と地が瞬く間もなくひっくり返り、土と血の味が口いっぱいに広がっていく。鬼は消え、残された彼女の頭は真っ白になった。あとはもう溺れるようにじたばたともがくだけ。

「うわあああっごめんなさいごめんなさい! 殺さないでください殺さないでくださいぃ!」
「はぁ? おまえさっきと……もういい。阿呆め」

 近づいてくる影。沙羅の影。ゆめはいよいよ縮こまったが、それは、彼の差し出した右手でしかなかった。
 鍛え上げられた若武士の膂力である。「ひょい」の拍子で掴んだゆめを土の上から引き戻した。

「あ、えと……ありがとうございます……?」
「なんなんだその上がり調子な語尾は……」
「怒らないの?」
「たしかにおまえの言う通りだよ。刀とは俺達の魂だ。凡百の輩はともかく、俺はそう信じている。こんな下らぬ理由で抜いていてはな、あっという間になまくらさ」
「下らなくて悪かったね」
「それに、女にぶたれる経験も初めてじゃない」
「あ……そう」

 遠くのお山で霞むような雷鳴が鳴る。曇天、雲行きが怪しくなりつつあった。雨が降るなら干したものを取り込まないと。ゆめには天候の行き先が気が気じゃなかったが、沙羅はその場から動こうとしなかった。どころかその瞳は遠い過去へと向いてるようだった。こうなったらしかたない、いよいよとなったら飛び出して回収しよう……と彼女は心に決める。

「あいつは、姫は、父上の盟友の娘だった。俺も、姫も、まだ童だったが、兄上と三人よく野山を駆け回って遊んだもんだ」
「ふうん……」

 自分の幼い頃(少なくとも、今より幼い頃)のことを思い出して、ゆめは気が重くなった。やはり恵まれた産まれなら、子供時代も恵まれているのだろう……すねたように口をとがらせ、それでも律儀に耳を傾ける。

「力では俺たち兄弟が当然勝る。だが先頭を往くのはいつも姫だった。どんな暗闇も、獣の遠吠えだって、恐れはしなかった……なにより小気味の良い奴で、俺や兄上がほんの少し誤魔化しをやっただけで酷く怒るのだ。誰しも心に鬼を飼っていると。その鬼は初めのうちは小さく弱い。しかし嘘をついたり、盗みをしたり、そうやって幼き時から餌を与え続ければ、やがてはぶくぶくと肥太り……童でなくなる頃には心の内を鬼に食い尽くされてしまうのだとか」
「鬼、ね」

 奇しくもそれは、先程ゆめが直感したものと同じだった。心の内側に巣食うもの。人の心の柔らかな部分を餌にするもの。やがては人の心を穴だらけにしてしまうもの。
 まさにそれは鬼と言い表す他に無い。それを誰もが備えているという。一旦は退いた鳥肌がまた戻ってきた。ゆめの吐き出す息は苦い。

「もっとあれは父親の受け売りだったのだろう。あれの父親もまた高潔な人物だったと聞く。だから死んだ」
「死……」
「返り血に汚れた新興大名に恭順するを良しとせず、古の同盟を守るために戦った……などと言えば聞こえはいいがな。ようするに時流を読み損ねたのだ。その点で父上は最善を尽くした。俺たちの命は俺たちだけのものではない。家臣たちや、さらには田畑を耕す小作人共の存亡に関わることだ。結局、姫の父親は己の高潔さに殉ずるため大勢の命を巻き添えにしたのさ」
「それ、お姫様はどうなったの……?」
「やはり、ふふ、知りたいか? 父上の軍勢が屋敷に踏み込んだときにはすでに、一族郎党血溜まりの中に果てていたという。もはやこれまでと悟り自刃したのか……しかし屍の山には、産まれたばかりの赤子も含まれていたというが……誰が赤子の息の根を止めたのだろうな? それに、あやつはけして自害など受け入れるたちではなかったが……恐ろしい話よな、いやはや」
「そう……」
「ま、どうあれ虚しい話さ。いくら清貧に努め己が鬼を飼い慣らしたとて、なんの意味もない。むしろそれは、世に蔓延る他の悪鬼共に抗する力を自ら弱めるということだ。そうだろう?」

 ゆめには即座に否定することも肯定することもできなかった。ただどちらかといえば……もっとも沙羅には、ゆめの答えなどどうでもよかったらしい。タガが外れたように声を上げて笑うと、もうその場を後にしようとするところだった。

「まあ見ていろよ、ゆめ! あの日白という坊主も同じ穴のムジナさ! 奴は己の内の鬼に抗うので手一杯のようだ。おまえ、身の振り方を決めておけよ。父上は明日にでも戻られるかもしれんのだからな!」

 そして一人残され、ゆめはふと、頬に冷たいものの当たるのを感じた。
 そうだ、洗濯物を取り込まないと。彼女の意識は驚くほど素早く切り替わり、束の間脳裏によぎった血溜まりの中の姫君の躯は、強まる雨音に洗い流されて消えた。


 ◯


 きっとみんな頭がおかしいんだ。
 ぐるぐるとまわるような不快な渦の中、ゆめは、自分の思考がある一つの点にまとまっていくのを感じていた。
 みんな、頭がおかしい。おかしくなっている。人を殺してもなんとも思わないから。人が死んでもなんとも思わないから。私も頭がおかしい。死体から金品を剥ぎ取って生きながらえてきた。おっとう、おっかあ、それに兄さんたち、みんな死んで、私だけが生きてる。私は頭がおかしくなっても平気だった。蛆虫の沸き立つ足元。黄色と黒のあの死出虫がまた飛んできて、私の瞳に止まる……。
 あっと思ってもゆめは声が出せなかった。
 死出虫の顎がくわっと開いて目玉に迫る。
 足元から這い上がってくる蛆虫の列。
 彼女は死体の山に横たわっていた。前にもそんなことがあった気がする。ただその時は、まだゆめは生きていた。今は死者の群れの中だ。
 噛みつかれた瞳がぶちゅっと音を立てて内側を吐露する。頭蓋骨の内側が晒される。けれどその小さな頭の中は空っぽで――暗い空洞の底の方に、一匹、醜い鬼がうずくまっているばかりだった。
 けれども食い破られた瞳の穴の向こうから白い光が差し込んで、鬼が苦しげな声をあげる……。

「ああっ……うわああっ……!」
「ゆめ、しっかりせい! ゆめ!」
「あっ」

 世界が一枚の風呂敷に包まれて、そのまま口を結ばれたみたいに音が消える。世界が消える。そしてまた生まれくる。まだ朝ぼらけの仄暗い、外の光。薄っぽく瑞々しい空気がゆめの鼻をくすぐる。単調で荒い呼吸の音。自分自身の吐息の音。額の汗を拭われると、少し楽になった。徐々に輪郭の整う視界の中で、日白の長い黒髪が美しく見えた。

「無事か? 随分とうなされておったぞ。それに幾らか熱もある。ま、急に生活が落ち着いたからな、これまでの無理が祟ったのじゃろう」
「私……まだ生きてる……?」
「まだ夢と現が混じっておるな。水は飲めるか?」
「うん……」
「焦ると咽せるぞ」

 水を得て更にまた楽になった。が、意識がはっきりしてきた代償か、きりきりと不快な頭痛が響き始める。あの悪夢の原因はこれだろうか? 自分の頭の中に潜む醜悪な鬼の姿を、ゆめは確かに覚えていた。

「沙羅は?」
「なにやら出払っておるようじゃが」
「お父さんが……領主様が戻ってきたのかな」
「かもしれぬ」
「そう……じゃあ、逃げよう。逃げないと……あう」

 立ちあがろうとしても力が入らない。潤いの恩寵も束の間で、また周囲の世界がぐるぐると回り始める。

「まだ動くのは無理じゃ。安静にしておれ」
「でも! 沙羅がいない絶好の機会なのに! 逃げるなら今しかない!」
「なぜ逃げ出す必要がある?」
「なぜって……あんた殺されるよ!? 私、わかる。領主様はきっとあんたを許さない。きっと殺してしまう!」
「だとしても、」
「鬼に喰われるんだよ!? この砦に来る時にあんたを止めたのは、単に馬鹿げてるって思って、殺されるのが怖かったからだけど、今のはちがう! 沙羅は鬼を飼ってる。でもそれはまだ小さくて……だけど、あの人のお父さんの中にはきっと、もっと大きく育った鬼が巣食ってるに違いないんだ! お坊さんにもわかってるでしょう!?」

 声を荒らげるほどに意識の糸がほつれていく。もうゆめには息をするのさえ苦しかった。
 が、さすがに落ち着き払った日白の方も、少女の剣幕には気圧されたらしい。雰囲気でそうとわかった。はたしてその瞳はどんな色をしているのだろう? 熱のせいか視界がひどく歪んでいる。整って見えた輪郭もたちまち水面越しの淡いゆらめき。息を吐き出す。熱い息を吐き出した。

「ありがとう、ゆめ。しかし仮にこの場から逃げたとして、儂にいったいなにができようか? また旅すがら野晒しの死者を弔い、経を読んでやるのを繰り返したとて、なにが変わろうか? いや変わりはすまい。であれば、例え蜘蛛の糸のように細い希望であったとしても、」
「べつにあんたが頑張らなくたっていいだろ! なんでそんな、この世界のろくでもないのはあんた一人のせいじゃないのに!」
「あまり叫ぶと病に障る」
「私は、あんたに死んで欲しくない。少なくとも助けてもらった。でもそれだけじゃない。お坊さんは、あんたは……あなたは、強いと思う。沙羅たちみたいな腕っぷしの話じゃない。それは」
「儂は何程のものでもない。所詮、儂のしていることは海原に石を投げ入れてそれを埋め立てようとするが如き、虚しき行為なのかもしれぬ」

 かもしれぬ、とは言うものの日白には半ば確信があるのだろう。ゆめにさえ、その言葉の通りだと思えた。この僧が承知していないはずはなかった。
 虚しい行為だ。
 なんの意味もない行為だ。
 だってそうだろう? 問わないまでもゆめは――吐き気が催してくる――叫び出したい。無理矢理にでもこの場から逃れることを承知させたらどれほどいいだろう? しかしそのようなことはできない。ゆめには力がないからだ。ゆめは無力で良かったと思った。力があれば、きっとそうしていただろうから。

「そう思うなら……やめたらいいのに……」
「その末が今の世じゃろうて」
「もう手遅れなんだよ、きっと」
「……お主のような童にさえそう言わしめる情けなき世を見ながらに、どうして知らぬふりができようか?」

 語調はあくまで淡々として、息遣いは落ち着いている。けれどもそれは、珍しく日白が見せた感情らしい感情だった。ただ、ゆめには――具体的にどのような感情なのかまでは、わからなかったけれど。

「もう寝るのがよかろう。これでは治るものも治らぬ」
「……うん」
「おやすみ、ゆめよ」

 日白は去り、ゆめは取り残される。彼女はけれど、眠りに落ちることはなかった。世界の輪郭は不確かだったが、意識だけは妙にはっきりとしている。それと荒れ狂う頭痛の中で、きれぎれに苦しげな息を吐き吸いしながらも、闇の床から目をそらさなかった。
 ゆめには……自分の気持がわかってきていた。自分の気持ちなどと、そんなものを意識したのは初めてのことだったかもしれない。世界は村を囲む山の内側、あのせせらぐ川の此方側までで、明日なにをするか決めるのはおっかあで、自分の将来はやはりおっかあのようになるか、さもなくば飢饉に見舞われて都(本当にそんなものがあるのかすら、彼女にはわからないが)の方へ売られるかだ。
 でも今は、ちがう。おっかあはいない。兄たちもいない。ゆめは自分ひとりの力で生きていかなければならない。いや、実はずっとそうだった。家族を喪ってから野山の死体漁りをするようになった時点で……いや、あるいはもっとずっと最初から、そうなのかもしれない。

(お坊さんが……日白が死ぬの、いやだ)

 いやだ。それがゆめの本心だった。良い、とか、悪い、とかではない。ただいやだと思った。
 それは単に、日白が生きていた方が自分の今後に都合がいいからなのだろうか? 日白は知識を持つ大人だ。ゆめの知るどんな大人よりきっと頭が良い。そしてどういうわけかゆめを気にかけている。そんな大人と巡り会えることはまたとない機会だ。きっと一生に一度、あるかないかの幸運だ。だから死なせたくないのか? いや、そうではない。先ほどゆめ自身が口にした通り、助けてもらったから死なせたくないと、そういう単純な恩の返し返されではない。

(日白は頭が良い)

 頭の内側から錐で刺されるような痛みに脂汗を流しながらも、ゆめは必死に記憶を掘り起こす。
 日白は頭が良い。だからこそ、自分から死の道に突き進もうとしている。止めなくては。なんとしたって止めなくては。そんなのはあんまりな結末だ。日白はただ……そう、ただの……。

「なあ、ゆめ。人間あんまし頭が良いとな、かえってバカになっちまうのよ」

 記憶のぬか床から掘り起こした一片の、薄汚れた黄昏時。
 おっとうの声だった。酒のにおいがした。ゆめの大嫌いなにおい。だって酒のにおいが強い時は決まって殴られるから。でも、それだけじゃない。沈みゆく日の赤色を受けてなお淀んだ灰色の瞳を自分に向ける、おっとうの表情。

「出来の良い頭ほど余計なこと考えちまったり、どーしようもねえこと気にしすぎたりする。だから俺ぁ酒に酔ったくらいでちょうど良いのさ。難しいことはなーんもわがんねえ。それがいちばん良いんだ。それが幸せに生きるコツなんだぜ、ゆめ」

 おっとうは幸せだったのか?
 「あの人、昔はあんなじゃなかった」とおっかあから聞いたことがある。ゆめはその「昔」を知らない。もう二度とそれを知ることはできないのだと、あの日、あの灰色の瞳に見つめられて理解した。小刻みに震える手が伸びて、殴られると身構えたけれど、それは優しくゆめの頭を撫でるだけだった。
 昔のおっとうは不幸だったのだろうか。酒があの人を幸福にしてくれたのだろうか。
 ひょっとしたら……何かがおっとうを変えてしまったのだろうか。
 鬼が、あの人の心を食い荒らしてしまったのだろうか。

(さみしい……)

 目元が熱かった。拭う体力さえゆめには残っていない。
 それでも、頭の中で問うことだけはできる。
 なぜ自分はおっとうとおっかあの間に産まれてきたんだろう。
 なぜ自分は兄たちのように男児に産まれてこなかったんだろう。
 なぜ自分はまだ生きているのだろう。
 なぜ、なぜ、なぜ。

「虚しい、あぁ、虚しい……私はなんのために産まれてきたのかねえ……」

 おっかあの末期の声がゆめの中に残響している。ずっとずっと響き続けている。日白はそれを前世との因果だと言う。そうなのだろうか。そうなのかもしれない。でも……そうだったら、なんだというんだろう。知ることさえできない前世の因果など無いも同じだ。
 そんなもの、すべて、夢と同じ。
 はっきりとしていたはずの意識は、今度は急速に熱の幻に落ちていき、気がつけばゆめは眠ってしまった。夢を見ることはなかった。泥のような眠りだった。どれほど眠っていたのかさえ判然としない。ともするとまる三日は経っているかもしれない。それはほとんど死んだようなものだったかもしれないが、実際に死を得るその瞬間までは、誰も現からは逃れられやしない。
 だからまたその意識は、唐突に現実の世界へと引き戻される。

「……が……だとよ」
「ようやく……らを殺……」
「……だろ……」

 なにかが起こる気配。胸騒ぎ。目覚めたゆめを掴んだのはそんな予兆。騒々しい砦の武人たちがばたばたと行き交っては、城門の方へと駆けていく。
 まさか敵襲? 当然ここは戦砦なのだから、そういうこともあるはずだ。ゆめの胸を死者の如く冷たい手が掴む。不安の魔の手が。
 だがそういう風でもなかった。おっかなびっくり立ち上がると、もう熱も頭痛も引いていた。梅雨中閉め切っていた納屋に初夏の風をはじめて通した瞬間のような開放感。服は新しいものになっていた。誰が着替えさせてくれたのだろう?

「日白! 日白、どこ!?」

 快復の心地よさは、けれど、恐ろしい予兆にたちまち塗りつぶされていく。戦ではないにしても……砦の内が騒がしいことは事実である。まさかもう沙羅の父親が戻ってきたのか? だとしたら……怯えた子猫のように俊敏に、ゆめは動いた。さして広くもない砦だ。騒ぎの元凶はすぐにわかった。裸足のまま駆けていくと、人だかりの中に日白の姿もあった。少なくとも首と胴はまだ繋がっているらしい。どっと息がまたできるようになった。

「おお、ゆめ。もう体調は良いのか」

 相変わらずどこかとぼけたような調子に恨み言の一つも言ってやりたくなるが、それより好奇心が勝る。小柄なゆめには人の壁の向こうがよく見えない。でもどうせ碌なことではあるまい。
 果たしてその通りだった。

「追い剥ぎをしていた惣村衆を、沙羅殿が捕えたらしい」
「えっ」
「丁度今から、沙羅殿に話をしようと思っておったところじゃ」
「話すって……ちょっと、ちょっと待ってよ!」

 武士たちの中をかき分けて進んでいく日白を、ゆめが慌てて追いかける。追い剥ぎをしていた惣村衆というのは、ゆめにも心当たりがあった。あの「刀のおとっつぁん」……沙羅の兄の隊を襲ったのが、そうだろう。
 人の壁を抜けると、城門の前の広けた土の上で、十数名の男たちが縛られたまま座らされていた。皆一様に口をつぐんで落ち着いている。無論、彼らの未来は疑う余地もない。背後で抜刀したまま待機している武人たち。厳しい監視の目が、怒りと苛立ち、憎悪によって追い立てられた視線が、わずかに愉悦の色をもって罪人たちを見下ろしている。沙羅の姿もその中にあった。配下と何事か話していたところ、日白たちに気がついて顔を上げた。

「……ゆめか。顔色は良さそうだな」
「この人たち……」
「そうさ。俺の兄上を殺したクズ共だ。兄上だけじゃない、迷い込んだ他国の落ち武者だろうとなんだろうと見かけては殺して回った悪鬼共よ。このような不届き者を放置したままでは俺達の沽券に関わる。この数日は本当に手を焼かされたよ、ふふ……」
「でも――」
「ゆめ、お主は下がっておれ」

 日白に遮られるまま、ゆめは口を閉ざした。なにか言うべきだと思ったから口を開いたけれど、彼女の少ない語彙と知識では、彼らにかける言葉を見つけることはできなかった。
 いや、知識の問題ではない。むしろ……ゆめにはよくわかっていた。自分も農民の娘だ。刀を携える沙羅たち、仏の教えを説いて回る日白、彼らは所詮ゆめとは別の世界の人間。今もっともゆめに近しい存在なのは、ついに捕えられて戒めを受けている、ただ死を待つ以外の未来を奪われている、彼らだった。

(私たちだって、ああなっていたかもしれないんだ)

 天下に蔓延る飢饉と戦乱、流行り病と絶望の渦。
 ゆめたちの村が惣村にならなかったのは、単に自主独立を守れるほどの力が無かっただけだ。
 ゆめたちの村が追い剥ぎに走らなかったのは、単にそうするより早く戦火に焼かれてしまったからだ。
 現にゆめは死体から漁った金品で食いつないでいた。ともすると離散した村の衆の中には、どこか規模の大きい惣村に合流した者もいるかもしれない。
 いや……今目の前に縛られている者達の中には、ともすると、自分の兄たちが入っていたかもしれないのだ。生きてさえいれば。

(そっか。これが私たちの世界なんだな)

 妙に、不思議なほど滑らかに、するりと腑に落ちる感覚があった。ゆめの瞳に仄輝く色合い。同情と憐憫、諦観と虚無の奇妙に入り混じった光。

(日白が相対してるのも、これなんだ。あの人の頑固さ、聞き分けのない子供みたいな感じ……こんなものがあの人には見えているから、だから、何もかもが許せないんだ)

 直ぐ側に立つ旅僧のことが、ゆめにはなんだかひどく哀れに思えた。日白は僧ではあるが、ある意味で沙羅たちよりも戦っていた。この世界そのものと。しかしそれは絶望的な戦いだ。ゆめにだってわかってはいた……頭では。しかし今、その無謀さが急速に形を伴う実感となって心を包み込む。この巨大な恐ろしいものに比べれば、日白もゆめも変わりはしない。赤子みたいなものではないか?
 この、巨大な、恐ろしい、情け容赦のない、悪鬼羅刹のひしめく世界。
 奪い合うこと。金を、米を、命を奪い合うこと。しかし兎が作物を喰らい、狐が兎を喰らい、狼が狐を喰らい殺すのと同じように、どうあれ人が人を殺すのも止めようがないことではないか? 神様仏様が殺生を禁じているからといって、それにどれほどの意味があるのだろうか?

「待たれよ! 沙羅殿!」
「文句をつけてくると思ったよ、おまえさんだけは」
「殺し、殺され、また殺し、その果てに何処へと行き着くおつもりか?」
「ふん……父上が仰っていたよそういえば。御仏の道は死後の輪廻を説く。だから坊主という生き物は現世に目を向けるのが下手くそだとな。まったくその通りだぜ。俺たちは今を生きるのに必死なのさ。果てだと? 果てか……果てのことなど誰が気にするものか!」

 声を張り上げる日白と、虚無的な笑みを浮かべる沙羅。それをゆめは、どこか余所余所しい気分で眺めていた。
 この場で争われているのはなにか? 捕えられた者達の命なのか? それとも別のなにかだろうか?
 戒めを受けた男たちは黙したまま顔を上げない。この議論が自分たちの命の趨勢を決めると理解していないはずもないだろうに……彼らの頭を占めるものはなんだろう? きっと村に残してきた家族のことに違いない。ゆめにはわかる。もとより彼らは、家族のために別の誰かを殺すことを選んだ者たちなのだから。
 いつか、どこかで、最初の一人を手にかけた時点で――タガが外れた。いつかこうなること、理解していたはずだ。否……それも怪しいものだった。沙羅の言葉の通り、誰も彼もが現世の今を生きるのに必死に走っているだけなのかもしれない……その果てになにがあろうとも、なかろうとも。
 ゆめの見つめる先では、人々の諍いと哀絶など素知らぬ様子の一匹の蝶が、しゃらしゃらと青色を輝かせながら翔んでいた。

「いずれにせよ――こいつらは殺しすぎた。なあ糞坊主、俺じゃなくてこいつらに教えを説くべきじゃないのか? 人を殺すのは罪だとさ! 第一、この場で殺しておかなきゃこいつらはさらに野に死体を積み重ねるだろうよ」
「そうではない。わかっておるだろう。これはお主の道の問題じゃ、沙羅よ」
「なに……」
「お主が望むのは人の道か? あるいは修羅道に身を委ねるのか? 他の皆もどうか聞いてはくれぬか! 儂はしがない、なんの力もない旅の僧に過ぎん。殺しを止めよと言うのではない。そんな説法になんの意味もないこと、儂とて理解しておる……しかし、誰もが憎しみに身を委ねることを辞めようとしなければ、その行く末は必ず――」
「黙れ。くだらん。いつまでも夢物語ばかりを!」
「沙羅殿、この世の虚しさを押し広げているのは衆生ひとりひとりの心のあり方なのじゃぞ」
「くどいな! その話は俺ではなく父上にすればよい。そして無様に殺されてしまえ! 俺はその瞬間を見るためにおまえを生かしてやってるに過ぎん。賭けのことを、忘れてはいないな? おまえの首が胴と生き別れになった後もまだその戯言を吐き出せるのか……それを見届ける日も近いぞ」
「お主は、お主の父と同じではない。そう言っておったではないか」
「はっ……それはそうさ。俺は父上のようにはなれぬ。父上の聡明な頭の出来を受け継げなかったからな。だったらなおのこと、我が一族と我が家臣たちの明日の命のために、修羅の鬼を宿さねばならないだろうよ」

 それだけ言ってから、ふと沙羅は口元を歪めた。ぞくり、と……ゆめの背筋を不気味なものが這い上がっていく。
 たしかに沙羅は、ゆめの交わした短い時間の中で分かる程度には、人を殺すのだってなんとも思っていない、そういう男かもしれない。そういう産まれなのだから当然だ。人を殺すことは武士の生業であり、当然、ゆめだってそんなことくらい承知している。
 だがこんな風な笑い方をするのは、そんなことは……猛々しき武士だからどうこう、というのともまた違う、爪と牙を持ちながらも大人しい山狼と思っていたものが、突如としてその薄皮を脱ぎ捨ててその空っぽの正体を現したような――

「一つ、糞坊主の言葉を聞いて良いことを思いついたぞ」

 しかしゆめにできることはない。沈黙の中、沙羅の宣言が滔々と響く。

「貴様らクズ共の中で一人だけ、ただ一人だけ……特別に命を助けてやる」

 さすがにざわめきが起こった。虜囚の何人かが信じられないという顔で沙羅を見上げていた。だが別の何人かは一層ひどく顔色を悪くした。実際、それが気まぐれの慈悲などではないことは明らかだったのだから。なにか特別の悪意が秘められていることは、明らかだったのだから。

「さて……誰を助けてやろうか?」

 遅ればせながらゆめも理解する。沙羅の思惑。なぜ急にこんな事を言いだしたのか……そして先程に感じたあの嫌な気配の正体を。
 沙羅の瞳は揺るぎなく日白に向けられている。意趣返しなのだ、これは。日白に貶められた自らの支配力を取り戻すための、意趣返し。
 虜囚たちはざわめき、動揺こそしていたが、ついぞなにか明確な言葉を発することはなかった。
 一方で沙羅の配下たちは、主君(の倅)の思惑を測りかねて困惑している様子だ。
 そして……見上げたゆめの視界に映る日白は、その表情は、降り注ぐ光のまばゆい一条にかき消されて伺えない。

「くっくっ……どうした? 助けてやると言ってるのだぞ。もっと喜ぶなりなんなりしてみたらどうだ? それとも俺の言葉の意味を理解できなかったか? 浅学の追い剥ぎ共め……どうした! 生き残りたいものは名乗り出よ! 家族に会いたくないのか? 妻や子どもたちの顔を見たくはないのか? 言っておくが俺は容赦はせんぞ。この場で名乗り出なければ無論、その雁首叩き落とされるものと思え!」

 鬼だ。
 ゆめは慄かずにはいられない。先の日白の言葉は――沙羅がその心に巣食う鬼に呑まれぬようにと、そう思って発したはずだ。しかし結果はこれだった。戒めとなるどころか沙羅は、いよいよその身を鬼に任せることを選んだ。いや、最初から彼はそうと決めて生きてきたはずだ。ずっと。

「さあ、俺の気は変わりやすいぞ。それとも恐怖で言葉も忘れたか?」

 未だ場を支配する沈黙。それがいつまで保つのだろう? どうあれ虜囚となった惣村衆たちに未来はない。このまま黙っていれば沙羅の言葉通りになる。全員殺される。かといって生き延びようとすれば、それこそ沙羅の思惑通り。つまり……唯一の生存の権利を巡って、人々が争いあう未来。
 沙羅は日白に見せつけたいのだろう。「ほら見てみろよ、これが人間というやつの姿なのさ」と。しかも彼の追撃は終わらなかった。

「誰も何も言わぬのでは決めようがないな……そうだ、日白よ、こういうのはどうだ? 助ける者はおまえが選ぶんだ。おまえがこいつと決めた者の命を助けてやるよ。もっともおまえさえ拒むようでは、しかたがない。皆殺しにする他にないだろうが」
「答える必要ないよ日白! もうよそう。私もう耐えらんない! どうしてあんたがそこまで、こんな!」

 叫びながらもゆめにはわかっていた。日白は自分の忠告に素直に肯くような人物ではないと。

(ああくそ、ちくしょう……それでも、それが、この人の道なんだろう。わかってるよ、わかってんだよ)

 それは人を救うための道なのか? 理不尽から目をそらさない道なのか? それともまったく別のなにかなのか?
 もはやそれ以上は、ゆめには預かり知らぬところである。
 ただ……ゆるりとした足取りで進み出ていく日白を、他の者達と同じように見守ることしかできなかった。それで全てだった。否、他の者達は、つまり沙羅の部下たちは、ただ好奇の光に瞳を輝かせているだけだ。その中にあってしかしゆめは、己の心の内にゆっくりとだが着実に……一つの覚悟が生じつつあるのを覚えていた。

「すまぬ、皆の衆。儂の言葉に力のないばかり、たった一人の命を守ることしかできぬ。しかし」

 声を掛ける日白に、惣村衆の罪人たちが顔を上げる。

「なんです、お坊様」
「あの沙羅という若者は、少なくとも嘘はつかぬ男じゃ」
「……だから、おら達に選べと言うんですか? お坊様」

 白髪の多い、しかし日焼けした肌には確かな生命力を宿した老人が、代表して声を上げた。おそらく村長か、そうでなければ追い剥ぎ活動の中心的人物だったのだろう。自分の村の村長とは似ても似つかない断固とした声の静かな響き。ゆめには、その違いの理由がなんとなくわかる気がした。
 とどのつまり、あの老人は選んだのだろう。生き残るため鬼に身を明け渡すことを。
 ゆめの村長はそれができなかった。世界は飢饉と戦乱の折り重なった布地そのもの。その上にあって、自分らの村という僅かな染みなどあっという間に消えてしまうだろうことは――自分たちに未来がないことは、きっと村長にもわかっていたはずだ。生き残るには無能で横暴な領主(つまり、沙羅の父親だが)にいつまでも媚びへつらうのではなく、武器を手にとって力をつける他ないと……わかっていたはずなのだ。そのためには武装を整える金がいる。さらにそのためには……きっと行き着く考えは同じところ。追い剥ぎでもなんでもして金品を集めるしかない。力を蓄えるしかない。横車が未来への道を塞いでいるなら、遮二無二押し退ける他に無い。
 しかしその決断はなされなかった。いつかは、いつかはそうしようと思っていたのかもしれない。だが、ゆめの兄たちのような男手は戦に取られるまま取られ、気がつけばもう、引き返せる地点はとっくに過ぎていた。陽は沈みかけていた。暮れるまでに家に帰れないとわかった童は、その時ようやく自分が初めから死という大いなる者の掌にいると理解する。

(村長さんは自分の鬼を解き放たなかった。だから私たちは喰われちまった。他の鬼たちに。日白……あんたならどうした。もしあんたが私の村長と会っていたら、私たちの村のザマを見ていたら、どうした……あの人はどうした……みんなはどうした……? おっかあは、おっとうはどうした……私はどうした?)

 ゆめにだって理解できる。日白の言葉は正しい。正しくて、無力だ。なんという無力なんだろう? いっそ哀れなほどだ。この細い身なりの旅僧はなんの力も持ち合わせてはいなかった。
 あるいは、だからこそ――ゆめの心に宿る強い気持ち。

(この人を見捨てたらダメだ)

 わかっているはずだ。皆、わかってやっているはずなのだ。たとえそれが言葉として心の内に昇らなくたって、わかっている。当然、日白は心でも言葉でもわかっているのだろう。自分の為そうとしていることの虚しさ、果てしのなさに。それは目を背けたくなる現実のはずだ。目を覆いたくなる地獄の様。
 それでも日白は揺るぎなき眼で前を見ている。なぜだか知らない。ゆめは日白のことをあまりにも知らない。けれども知っている。こんなにバカ正直な人はざらにいない。そして、こんな人を見捨ててしまえば、誰も彼もが日白を見捨ててしまえば……きっと残るのは、虚しさだけだ。
 しかしともかく、ゆめは惨劇に身構えた。きっとこれから生ずるはずの、きっと血生臭く、きっと胸の底から込み上げてくるような、けれどどこにでもありふれた、つまらない退屈な惨劇に備えた。
 惣村衆が生き残るために出来る唯一のこと。日白に自らを選ばせること。ゆめは彼らに同情はしなかった。彼らとて大勢の人を殺している。生き残るために。
 生き残るため。
 なぜそうまでもするのだろう。人を殺してまで。死体を漁ってまで。
 いったいなぜ?

「よく見ておけよ、ゆめ。これが人間の本性なのさ」

 顔を上げたゆめの視線の先、沙羅がそう微笑んだような気がした。

「お坊様や」

 老いた男が顔を上げる。その瞳は……ゆめは祖父母の顔を知らないが、なんだか、孫を相手にするかのような穏やかさをさえ湛えていた。
 日白がゆっくりとうなずく。老人もまたそれに呼応し、続けた。

「もしも一人、ただ一人だけ死なずにすむと言うんでしたら、それはもう決まっとります」

 沙羅の眉根が僅かに引きつった。
 老人以外の者は何も言わない。否、たった一人だけ、その言葉に声を荒らげた。
 若い男だった。沙羅とそう変わらないくらいだろうか。顔中に散らばったでこぼこしたニキビ跡が余計に若々しさを彩っている。彼は、縛られていなければそのまま村長に駆け寄りそうな剣幕だった。

「待ってください俺は!」
「黙っとれ」
「俺は皆と死にます!」
「黙っておれ! お坊様、おら達の中に文句をつけるものはおらん。今死なずに済むんなら、あの馬鹿助だ」
「いやです、そんな――」

 ゆめも、沙羅とて、事情が呑み込めずにいる。しかし惣村衆の他の者達はすっかり承知済みというようにやはり、押し黙ったままである。
 だが日白は心得たというように歩み出ると、若者を戒める縄に手をかけた。

「あ、おい!」

 止めようとした部下を、沙羅が手で制する。忌々しげに唇を噛みながらも、だが。

「おい糞坊主、その蛮人を解き放ってよいのか? おまえに噛みついてくるかもしれんぞ」
「あまり人の心を弄ぼうとするのはやめなされよ。少なくとも、沙羅殿、お主は人の上に立つ者なのじゃから」
「知ったようなことを……」

 戒めを解かれた若者はしばし呆けたように立ち尽くしていた。その二つの細い瞳が沙羅たちを睨めつけもした。だが……日白がその耳元になにごとか告げると、彼は拳を震わせながら城門へと駆け出した。沙羅の配下たちが不快げにその背中と、主とを、交互に見やる。

「追いかけて、構いませんね? 正直言ってこいつら捕えただけじゃあ足りませんよ。あいつ追いかけた先で、村ごと一網打尽にすりゃあ……」
「よせ」
「はっ、ですがね……」
「くだらん。興ざめだ! 俺は寝る!」
「はぁ……残りはどうしますかい、若」
「殺せ!」

 途端、空気が引き締まった。
 武人たちが一斉に刀を抜き、俎上の罪人たちを取り巻く包囲網を詰めていく。
 さしもの日白も、もう大人しく引き下がるしかなかった。そうして自分の前に立った日白を、ゆめがぐいと押しのける。

「子供が見るものではない」
「見るよ」
「ゆめ」
「ずっと知っていた気がする。ずっと。これが世界なんだって。私は……きっと知ってた。目を逸らすよりは、見届けていたい」

 ゆめの揺るぎない瞳を目にした日白は、もう、それ以上口を挟まなかった。
 二人のことなど露とも気にせずに全ての事態は進行していく。つわものどもの手にする刃が空の白さをちらりと映す。
 最期に、あの老人が日白へ向けて顔を上げた。笑顔だった。寺の住職に悪戯を見られた子どものような笑顔であった。

「すまんなぁ、お坊様。嫌な思いをさせちまって……しかし、あの馬鹿助は初子が産まれたばかりでな。汚れ仕事は儂ら老いぼれに任せたらいいと、あれほど――」

 しゃぱりと鮮血が飛び散り、重いものが落ちる。次いで、重心を失ったもう半分も――地に伏せた。
 そんなことが起こった。たくさん、あちこちで、飽きるほどに、ずっと。
 ずっと、ずっと、ずっと。
 けれどもその最後の瞬間、最後の一人がいなくなるまで、ゆめは瞬き一つしなかった。ただの一度も、けっして。


 ◯


 霧の深い朝。服の隙間にまで入り込んでくる冷たい空気。
 ゆめが身震い一つをすると、そのまま全身に鳥肌が立った。

(これじゃ洗濯物も干せないや)

 そう思い、起きてからずっと縁側でぼうっとしていた。日白はまだ目を覚まさない。いつも陽の明ける前には動き始めているというのに、今日に限って。

(やっぱり昨日のことがこたえてるんだ。あの妖怪みたいなお坊さんでも、そうなんだな……)

 その割にゆめはいつもどおりの自分を感じていた。死体は飽きるほど見てきた。でも、実際に人が斬り殺されるのを見たのは初めてだったはず。なのにその時に感じたのは恐怖や慄きより、むしろ、納得するような――

「ゆめか?」
「沙羅……」

 霧の中から現れた若者が、縁側の隣に腰を下ろす。鍛錬でもしていたのか少し汗臭い感じがした。生命の気配だった。ゆめは別に振り返るでもなく、霧の白い白い世界に見入っていた。
 深い霧は物音すら遮断する。鳥の声も、虫の声も聞こえない。砦に詰めているはずの武人たちの息遣いさえも。聞こえるのは自分の鼓動、それと、空気のゆっくり混じり合う音だけ。
 ゆめはそのままずっと静謐な世界に浸っていても構わなかった。だが、沙羅がそれを破った。

「おまえ、俺が怖くないのか?」
「なに?」
「俺は……そのだな、普通は恐れるものだろうが」
「どうして」
「とぼけてるのか、おまえは……」

 実際、沙羅の言いたいことくらいゆめには理解できている。昨日、彼の命によって人々が死んでゆくのを見せつけられた。いやそうでなくとも、沙羅はこの地の領主の跡継ぎであり、一人の勇猛な武人でもあるのだから、たかだか農民の娘(今やそれですらないが)であるゆめは、平伏して然るべきはず。
 ゆめ自身、不思議だった。沙羅も、日白も、本当ならずっと縁の交わらぬ相手、交わらぬ身分。それが今、当たり前のように同じ場所で寝起きし、食事をして、彼らの衣服を自分が洗ってやっている。
 気が付けばそうなっていた。しかしあの蛆湧く戦場跡で日白と会ってからまだ一月も経ってはいないことに、ゆめは息を漏らす。まさに夢を見ていたような、おぼつかない輪郭の日々……。

「領主様の子供じゃなかったら、あんたは、同じように人を殺したの」
「は?」
「べつに……恐れるものだろって聞かれたから」
「ふん。別の家に産まれたならそれは、そんなものはもはや俺ではあるまい」
「まあ、そっか」
「当然だ」
「私が沙羅の立場だったら同じようにした、と思う」

 押し黙る相手を気にせず、ゆめは言葉を継ぐ。その瞳は霧の奥底を見つめたまま。

「べつになにか偉そうなことが言いたいわけじゃないんだ。私、日白みたいに頭が良いわけじゃない。ただの農民の娘だもん。でも……」
「……どうした。勿体ぶるな」
「いや、だからなにが言いたいわけでもないんだって。ただ、まあ日白くらい頭が良くっても、沙羅たちのように力が強くても……変わらないんだなって」
「俺が糞坊主や百姓と同じだと言いたいのか?」
「そうじゃない。いや、そうなのかな?」
「知るか」
「それでも、苦しみからは逃げられないみたいだ」
「それは……当然だ」
「それだけだよ」
「だから怖くないと? 俺もまた苦しみの渦に囚われている以上は、恐るるに足らぬというわけか。はっ」
「虚しくならないの?」
「愚か者め。そんな余裕などないわ」

 ゆるり沙羅が立ち上がる。空気の質が変わる。ゆめが顔を上げた先で、意地の悪い笑みが返った。

「便りがあった。父上が戻られるぞ」
「えっ」
「あの坊主の命日も近い」

 ぼうっとしていたゆめの意識が急速に整う。
 ざらりとした不安感と、同時に去来する不可解ないらだち。この期に及んでどっちつかずな沙羅の態度がゆめには気に食わなかった。
 そう思った矢先、口笛を吹くように軽い言の葉が踊る。

「今日は霧が深いな」
「あ、うん……」
「俺達は父上をお迎えする準備をしなければ。きっとお疲れであろう。兵たちもだ。飯を炊かなければな。うんとたくさんの。大仕事になるだろう」
「もちろん、手伝うけど」
「いらん。俺達の家のことは俺達でやる。女だの坊主だのがしゃしゃり出てくるんじゃない」
「はぁ? なんだよ急に――」

 しかしゆめの反駁は空振る。もう沙羅は霧の奥へと足を踏み出している。その背中が白い靄の中に霞んで消えていく。

「あまりうろちょろとするなよ! もし迷子になどなっても、こう霧が深くては人探しもできやせんからな!」

 その声の残響すらも消える。しばし呆然としていたゆめだったが、ふと我に返って沙羅の言葉を頭の中で反芻してみた。
 逃げろ、と。そう言いたいのだろうか? この霧に乗じて定まった死の運命から逃れてしまえと?
 あるいは思い過ごしかもしれない。本当にただの警告なのかも。どうあれ他人の心の奥を覗く術などありはしない。
 むしろゆめは、なぜ自分が先にその手を思いつかなかったのだろうと、そちらのほうが不思議だった。それほどにこの霧は深い。この世を覆う真っ白い反物のような遥かなる霧の層。

(昨日の私なら、危険を冒したって逃げ出したかもしれない)

 しかし霧の中に走り去るのではなくゆめは、そのまま屋内に踵を返した。向かうは屋敷の奥、使われていない厩があるとゆめは知っていた。いつもそこで日白が坐禅を組んでいることも、知っていた。起きていればきっとそこにいるだろう。果たして、そのやせ細った僧はそこで瞳を閉じていた。か細く静かな呼吸に合わせてわずかに肩が上下していなければ、即身仏とさえ見紛うほどの静謐な佇まい。が、ゆめの立てた物音に薄目が開かれる。彼女は申し訳なさ混じりの微笑みを返し、隣の空箱に腰を下ろした。

「沙羅の父親が戻ってくるってよ」
「そうか」

 日白は驚きもしなかったし、慄きもしなかった。ただその日の天気を聞いた時より穏やかに、ゆめに微笑み返した。

「最初に言っておくけど……」
「ん」
「私はあんたと一緒にいることに決めたから」
「ふむ」

 霧は厩の中にまで入り込んでくる。ともすると自分たちが外にいるのか中にいるのかわからなくなる。生きているのか死んでいるのかわからなくなる。ゆめの夢見心地な心持ちはけれど、どうにも途絶えきらない肌寒さの鋭い感触によってちくちくと遮られ続けている。

「お主は不思議な子じゃの」
「普通だと思うけど」
「もし普通というものが、ある局面に際してもっとも多くの人々がそれをすることを基準とするならば、儂らの普通とは命を守ろうとここを逃げ出すことではないか」
「ここで逃げ延びたっておんなじだ」
「なぜ、そう思う」

 ゆめは少しだけ黙ってから、また口を開いた。悩んでいたのはただ、どう言葉にすればいいかわからなかったからだ。その考えそのものは、はじめっから胸の底にあったのかもしれない。気がついていなかっただけで。

「私のおっかあは、虚しい虚しいと嘆きながら死んだ」
「そう言っておったな」
「私はあんなふうになるのは嫌だ。あんな惨めになるのは嫌だ。死体を漁ってでも生き残ったのは、惨めになりたくなかったからだ。惨めなのは、きっと一番惨めなのは……自分が産まれてきたことを受け入れられないまま死ぬことだ。そんなの……あんまりに、虚しいよ」
「ならば儂についてくるべきではなかろう」
「ううん、日白は戦っているから」
「なに……?」
「私は死にたくないわけじゃない。どうせ長生きできる身分じゃない。だからさ、死ぬのなら戦って死ぬ。日白のように。私もそうしたい」
「お主は……」

 その瞬間、そのわずか束の間の時、たしかに日白の顔色によぎったものは、その両の瞳を震わせたものは、紛れもなく――畏怖の念だった。矢の雨の歓迎も、沙羅の父が帰るという報せにも、怖れの色などおくびにも出さなかったこの日白という……この風変わりな男は、このひょろ長い長身の風来坊は……たしかに、ゆめというただの少女の言葉に気圧されていた。
 が、それを捉えることはゆめにはできなかった。そもそも、この豊富な知識と経験を持つ大の男が自分のような少女に慄くなど、考えにも上らぬことだったから。

(この子の中には、なにか恐るべき鬼の気配が眠っておる……いや、もうそれは目覚めようとしておるではないか?)

 更に言えば他ならぬ日白の言葉と考えがそれをさせたのだ。二人のどちらも気が付かぬうちに。

「日白、領主様は戦をやめてくれるかな?」
「どうあれ、お頼み申し上げる他にない」
「もし奇跡が起きて、みんなが戦をやめてくれたら、どうなるんだろう」
「それは」
「変な感じがするんだ。私、昨日から頭の中が変にすっきりとしてる。どうかしてるよな。おかしくなっちまったのかな。私は」
「いや……」
「それでさ、思うんだよ……きっと戦が止まって、平和な世界になっても……きっと、また戦が起こるんじゃないかって」
「そうかもしれぬ。きっと儂らの世界は最初からそのように創られたのじゃろう」
「それでも戦うんだな、日白は……」
「いや、儂はついに戦に立ち向かうことはできぬ器じゃ。全ては自らを慰めるための虚しきことなのかもしれぬと、この頃はそんな考えも打ち消せぬ。しかしそれでも、それでも……見据える他にあるまい。世界の虚しさが見えてしまった以上、こうするより他に無いじゃろうて」
「そっか。おっとうが言ったんだ……頭が良すぎるとバカになるって……」
「……」
「一度でいいから、酒飲みのだめだめになる前のおっとうと話してみたかったな。前は想像もつかなかったけど、今は……もしかしたら日白みたいな感じだったんじゃないかって……なんだかそんな気がするよ」
「ゆめ」
「ゆめって名前も、おっとうがつけてくれたんだよ」

 日白の瞳にはもう怖れの色は無かった。
 代わりに、自分にはない尊いものを見つめるかのような慈愛と期待の入り混じったものを、ゆめに僅かばかり眼差した。しかしそれもすぐに引き戻され、厩は静寂になった。


 ◯


 全ては粛々と進んでいた。
 凱旋した沙羅の父親の軍勢は、手傷を負ってはいたものの、上機嫌であった。
 もちろんその細かい所作の意味を、ゆめは知らない。彼らは彼らの言葉を持つ。彼らは彼らの歴史と伝統を持つ。ゆめの暮らした小さな村と、この砦と、この砦で暮らしている者たちがもともと住んでいた村々と、それらにどれほどの違いがあったわけでもない(実際ゆめの兄たちはこの領主のために戦に赴き、そこで死んだ)。しかし家の壁を一枚挟めばそこは夜の世界があったり、御山の世界があったりする。給仕係としてあちらへこちらへと駆け回りながらもゆめは、武勇を語る男たちを不思議な目で眺めていた。

(あいつらもおんなじ人間なんだろ。私とどれほどにおんなじなんだ?)

 実際に薄皮一つ剥けばそこにあるものはおんなじだ。ゆめは知っている。たくさんの死体を見てきたし、たった今も、凱旋の影――負傷者達の包帯を変えてやるために、狭い看病小屋に戻ってきたところだった。
 彼らは英雄のはずだが、あまり顧みられているとは言えなかった。膿んだ怪我と血の臭い、垂れ流された糞尿と吐瀉物の臭い。それは完全な死体の臭いともまた違う、生き物が徐々に死に向かっていく過程で放つ異常な臭気。死さえ恐れないはずの武人たちも、なぜか彼らに近づこうとしない。ここまで連れて返ってきたやっただけ温情なものだと言いたげに、自分たちは酒を浴びるように飲み、狼の遠吠えもたじろぐほどの大声を張り上げる。だから結局、病床の面倒を見ているのはゆめと日白だけだった。やはり壁を一枚挟んだそこは別の世界のように、ゆめには思えた。薄ら寒さと虚しさと、痛みを訴えるうめき声だけがあった。

「ゆめ、大丈夫か? お主の方が倒れてしまうぞ」
「うん……」
「少し外の空気を吸おう。さあ、ほら」
「ありがとう……」

 もう夜も更けて、あの重々しい霧の気配もすっかり消えていた。
 月光が二人と、眼下の広場で宴に興じる武士たちを、別け隔てなく照らし出している。今頃彼らはいかに殺したかを仲間たちに喧伝しているのだろう――だからどうともゆめは思わなかった。日白に拾われてからのほんの僅かな時間の中で、自分はすっかり変わってしまった……そう思う一方、もともと自分はこんなものなのかもしれない、という気もした。どんなちっぽけな人の中にもそれ相応の鬼が眠っているものだ。

「日白は、余興だってさ。沙羅が言ってたよ。イカれた坊主がどうしても余興を披露したいとか、なんとか。そうみんなには伝えたみたい」
「べつに間違ってはいなかろう」
「だね。でもいいのかな……どうせ領主様の怒りを買うのはわかりきってるんだ。沙羅は立場を悪くするだけなんじゃないか」
「正しき道に殉ずればこそと、そう思っておった。しかし……否が応でも人は独りで生くるにあらずか。迷惑をかけてしまうな」
「弱気だな。矢を撃たれても怯まなかったのを見た時はさ、私だって頭おかしいって思ったよ……なのに、自分が殺されるかもしれないって時に人の心配かよ」
「結局儂なぞ、己の罪の意識にさえ耐えきれなかった臆病者だということじゃ」

 月光に引き伸ばされた日白の長く黒黒とした影を、ゆめはぼんやり振り返り見た。情けない姿だった。しかしだからといって軽蔑するとか、それによって見下すような気分にもならなかった。ただ、そんなものなのだなと思った。日白は大人で、沙羅だってゆめには年長者の部類に入る。とはいえそれだけのこと……彼らとて自分と同じように考えるのだと、同じように身悶えするような思考の吐息を続ける他にないのだと、やはりそうまで言葉にならないまでも、ゆめは理解していた。もしも人の成長がその体格と連動していたならゆめの身の丈は、砦に来た時と比べてきっと見違えるようだったろう。無論、彼女は相変わらず小さいままだったが。

「……宴もたけなわという雰囲気じゃ。そろそろ行こうか」

 連れ立って向かう宴会場は抜身の生命力に満ちていた。酒のにおい、食べ物のにおい、それとここでも吐瀉物はそこかしこに吐き出されっぱなしだったものの、半死人の吐き出す血と膿に汚れたそれとは全く違っていた。屈強な強者たちはさらに何人かの小さなグループに分かれて、ゆるりと酒を飲み続ける者、臍を出して眠りこける者、札遊びに興じる者などめいめいである。しかし誰も、このもの珍しい少女と僧侶という二人組に声をかけたりはしなかった。好奇の瞳を向けることはあっても……。

「沙羅殿はいったい儂らをどう紹介したのやら」

 日白に想いを代弁されたゆめが顎を引く。刀を持ち、人を殺すことを生業とする屈強な男達の中を進むのは、さすがに応えた。今まで砦に残っていたのは留守を任されるような古参の……とどのつまり、年配の者たちだったのだと思い知らされた。
 酒に顔をあからめた男共が爆ぜるように笑い合うたび、少女の肩がびくりと震える。その度に彼女はぎりりと唇を噛み締め、前を向いた。日白はあえて庇いはしなかった。その理由はゆめにもわかる。どうせ、これから相対するのはこの荒くれ者共の親玉なのだ。

「……父上、あの者が件の坊主です」

 聞き知った声がゆめの疲弊した注意力をまとめ上げた。宴会場の端、明らかに温度の低い空間から、二人の男がゆめと日白を睨め付けている。
 片方は沙羅だろう。酒のために少し顔が赤らんではいるものの、相変わらずの虚勢的な気配を張り付けている。

(あれが、領主様か。もっと大狸みたいな奴かと思ってた)

 言われるまでもなくそうとわかった。どことなく沙羅と同じ面影を宿す男の周りには、空になった徳利がいくつも転がっている。だというのに男の気配は少しも酔いにやられた様子がない。一方でそれを誇示しようとするでもない。
 月光を映さない黒い瞳がゆめを見据えた。

「あの童は?」
「あいつ……あの娘は、坊主が連れておりました近村の孤児です。身内をこの間の流行病で亡くしたとかで、ここで面倒を」
「近村とはどこのことだ? なにをもって近いと言っている? おまえにしかわからぬ言葉を使うなと、そう教えただろう」
「申し訳ありません、父上。しかし詳細な場所となると……」
「阿呆か。場所などどうでもよい。それは俺の領の村なのか? それとも敵方の村なのか? 重要なのは、そこだ」
「そ、それは、我々の所領のはずです。おそらくは」
「ではあの娘子も俺のものというわけだ」
「はっ……」
「娘、来い。ちとまだ乳臭いようだが、顔立ちは田舎娘にしては悪くない。寄って見せてみろ」

 氷の槍で貫かれたような感触。日白が庇おうとするのを、けれどゆめは退けて、ただ微笑を返す。

「取って喰われるわけじゃない」

 言葉とは裏腹に、怖気は震えとなってきた。いくら戦いの中に死ぬんだと吠えてみたところで、人の心はそう容易く鍛え上げられたりはしない。
 なんだってこんなところに自分はいるのだろう、なんだってこんな目に合っているのだろう? そんな考えがよぎらないはずがなかった。人間は生きるようにできているのだから、危険から遠ざかろうとするようにできているのだから……ゆめが人である以上は当然の本能だった。
 それでも、足を進めた。戦うとはそういうことだ。なぜ産まれてきたのかと問う母の声、虚しさを嘆く母の声が彼女の脳裏に残響する。

(死ぬのは嫌じゃない。でも、おっかあみたいに死ぬのは嫌だ。そんな惨めは嫌だ。嫌だ、嫌だ、嫌だ!)

 恐怖に逃げ出すことは目の前の領主から逃げ出すということだけではない。とどのつまり、世界のどうしようもない摂理から逃げ出すことに他ならない。
 それは……日白や沙羅の姿から学んだ知恵ではあるものの、この短期間に感じ取った鋭敏さはゆめのセンスでもあった。今も彼女は、自らの内で鬼が頭を擡げようとするのを感じ取っていた。だがその鬼は、殺せよ奪えよと叫ぶのではなく……むしろ怯え惑う矮小な存在である。矮小だからこそ、殺せよ奪えよと叫ぶのだ。そんなものに皆は身を任せて憚らない。それがゆめには不思議だった。そんなもののために……。

「領主様」
「どうした、小娘」
「私の両親は流行病で死にました。でもそれは、食うもの着るものなんもかんもあんたたちが取り上げていっちまったからです」
「ほお」
「お、おいゆめ、おまえなにを……」
「兄様たちは戦に取られて帰ってきませんでした。なんの便りもないまま! それでもあんたたちに米を納めるために、おっかあと私は必死に働いた! それすら奪い取って行かれたんだ!」
「ゆめ貴様! 面倒を見てやった恩をっ」
「沙羅、おまえは黙っていろ。して小娘よ、俺にいったいどうしろというのか? これまで納めさせた分の米を返せと?」
「そんなことできないし、したってなんにもならないのわかってるだろ」
「では土下座でもして欲しいのか?」
「もっといらないよ。それより教えてくれ。どうして私たちは死に、あんたは生きてる」
「それは貴様らの耕す土地が俺のものだからだ。貸し与えられた土地の代価に俺は米を取る。納得できぬか?」
「あんたに貸し付けられた覚えは無い」
「俺もいちいち貸し与えた覚えは無い。しかし貴様の祖父の祖父がきっと俺の祖父あたりから借り受けたのだろう。そしておまえの祖父の父は、その父が借り受けた土地を耕して作ったものを食って育った。おまえの祖父もまたそうした。おまえの父も……どうせ、そうしたことだろう。そしておまえもそうしたのだ。であれば、おまえは俺から土地を貸し付けられたに相違あるまい。命を貸し付けてやったに相違あるまい。ならばな」
「父上、こいつにそのようなことを説明したって納得などしませんよ」

 苦々しく吐き捨てた沙羅とは異なり、領主はそう苛立っているようでもなかった。むしろこの童に世の理を教えるのを楽しんでいるようにも見えた。その酷薄さがますますゆめの怖気を呼び起こす。

(この人は、わかってやってるんだ……)

 それがきっと沙羅とは違う点。この男は理解している。なぜゆめとその家族が苦悩の中に生まれ、なぜ自らがそれを率いる立場にいるのか。そういうことを当然に知っている。知っていて、その上に立っている。

「この世の全ての命はほどきようのない因果の縄に絡め取られている。小娘、その瞳、理知の輝きを感じるぞ。貧農の娘などに産まれたのは勿体も無きこと。しかしそれもまた因果の結び目よな」
「なぜなんだ!? あんた頭が良いんだろう! 他の人よりたくさんのものが見えてるんじゃないのか!? そのうえ私のおっとうと違って、たくさんの土地と力を持ってた! ならなぜっ……」

 血を吐き出すほどの勢いで叫んで、ゆめはその両目を剥くくらいの剣幕で詰め寄って、そんな燃えるようなものが自分の内側にあるとは思いもよらなかった。鬼の姿は矮小なものだったはず。いや、そうではないのだと彼女はふと、理解する。心の底に鬼など居はしない。いつだってそれは全部そのまま、自分自身でしかないのだから。
 ゆめは自分が一つの火の玉になるのを感じた。そのまま燃え尽きたって良いとさえ、思えた。けれども肩に手がかかり、我に返る。振り返るまもなくゆめは後ろに引き戻された。

「ゆめ、もうよい。ありがとう。ここからは儂の仕事じゃろう。とられては、困るな」

 日白が微笑みを――というよりそれは、微笑でさえなかった。束の間ではあるものの確かに日白の口元は愉しげな色に吊り上がっていた。その意味がゆめには解せない。躍り出るようだった。何かを目にした沙羅の瞳がぎょっと見開かれた。

「儂はしがない旅の僧の日白と申す。諸国を周遊して十の国が滅ぶのを目にし、百の村が焼かれるのに立会い、万の衆生が死ぬ様を見過ごし、数多に数え切れぬ躯を弔う旅の果てにこの地へと来た」
「貴様が沙羅の言う糞坊主か! 思っていたよりもずっと俺の嫌いな風体ではないか」
「貴君に問いたい。貴君は何が故にこの戦乱の世の続くを良しとするものか」
「愚問だな。戦乱と混沌は俺の意思など歯牙にもかけぬよ」
「遍く八荒の国々の君主尽くがそのように考えるからこそこの戦の火が尽きぬのではないか」
「だからどうしたと? 貴様の言うことなどとうに承知しているとも……だが、なぜ俺たちがそれを始める必要がある? 俺たち以外の者がそうすればよいではないか」

 ゆめは見た。領主の巨躯がゆるり立ち上がるのを。その手に握られている刃が引き抜かれるのを。
 やはり、こうなるのだ。そのために自分たちはこの場に留まっていたのだ。しかし日白は怯まなかった。ゆめは立ち尽くす他なかった。周囲の部下たちの喧騒はまるで自分の主の状況が見えてないかのように変わらずの調子で賑やかに、けれど徐々に薄まりゆく行灯の炎のように、続いていた。

「それでも」
「それでも?」
「それでも、誰かが始めなければならぬ。さもなくば滅び去るを免れるを能わずなりや。お主らも滅びさる。どんな栄華も、富も、すべてが」
「そして貴様らはお定まりの終末を説くのか? 弥勒の目覚める五十六億と七千万年後まで糞下らぬ経典を崇め奉れと? やはり貴様も同じよな、日白某よ。その理想論は正しい。きっと正しいのだろう。正しいが故に誰にも顧みられることはない。それでもなおなお諸国津々浦々を周遊し、見事すべての国々から武器を捨てさせて見せたなら、さあれば、俺が天下を取るだけだ。誰もがそのように考えるだろうよ」
「しかしその行き着くは鬼哭啾々の果てじゃ」
「阿呆め。元より人の活くる道是尽くは羅刹の世界よ! その点でまだ手ずから武器を取った僧兵共の方が道理というものを弁えている。血塗られた明日にこそ束の間の安寧よあれとな!」
「狂気の沙汰だとなぜ気が付かぬのか?」
「狂気か! 狂わなば如何にして生きんと欲するや? もとより生とは穢れの道よ。喰らい、糞をし、殺し、犯し、そしてその果てに漸く生きているのではないか! 地獄には鬼と亡者がひしめくという。しかしこの世をば生き地獄と呼ぶならば、地に蠢く我らなんぞや? 即ち悪鬼なり!」
「然れど!」
「もうよい! 俺も昔は仏とやらを信じていたよ。だが……いいや、全ては虚しい。沙羅双樹の花の色だ。何も変わらぬ。俺が死のうと何も変わらぬ。同じことよ。貴様が死ねど何も変わらぬ。なればこそこの場で斬って捨ててやろう。望まぬ生に埋没するよりは骸となりて土に抱かれる方が心地良いと思うたからこそ俺に目通りを望んだのであろう!」

 踏み込み構える領主の影にゆめは鋭敏に戦いて、日白の旅袈裟に手を伸ばす。逃げはしない。あくまで戦う。そう決めたものの、ここからはもう戦いですらない。いやあるいは、ここからは、殺すものと生き延びようとするものによる別種の戦いに転じるのだ。
 ならば今ここから退くのだって逃げることじゃない。
 合理化か、本能なのか――しかし、いずれにせよ、ゆめの捏ねくった浅知恵などは、鍛え上げられた武人の抜刀の素早さに届くはずもなかった。
 ほとばしる鮮血の紅色。
 月光のさめざめとした青。
 若い武士の黒髪が月光に踊る。

「沙羅!?」
「なんの驚きもない結末だったな! そして賭けは俺の勝ちだ! さあ往け! 何処へともなり往け! 馬を使え! 俺の馬を!」

 割って入ったのは沙羅だった。一太刀を喰らいはしたものの、自身も刀を抜いて受け流している。致命傷ではない。少なくとも今は、まだ。
 ゆめが袖を引くと、日白は憑き物が落ちたように身を震わせた。その表情は月光の下であってなお蒼白で、よろめき、尻もちさえつきそうになるのを、ゆめがなんとか支えてやらねばならなかった。
 その間も響く領主の低い笑い声。だが目元に笑みの色は欠片ほども見えない。

「何故とは聞かん。だが厄介な拾い物をしたな、沙羅?」
「父上は私を愛してはいなかったのですか? 母上を憎んでいたのですか!? なぜ私たちにこのような名を与えたのですか!」
「あの坊主から聞かされたか? しかし遅いか早いかの違いにすぎん。おまえは悪鬼にはなれぬ器と思っておったよ。おまえは俺にはなれぬと」
「そのお言葉! あんまりでございましょうぞ!」
「おまえたちは俺の弱さばかりを受け継いだ」
「私は父上のようにあろうとしてきました! 必死に! 戦嫌いの兄上の分まで父上をお支えしようと私は! ずっと! ずっと俺は!」
「きっとそうなのだろう。そこだけは……まったくもって馬鹿な息子を持った」
「父上!」

 刃がぶつかり合う音が幾度か響いた。その結末をゆめが見届けることは無かった。宴の熱さえもいい加減にこの騒動を覆い隠せなくなっていた。
 ざわめきが野火のように広まっていった。走り抜ける日白とゆめを指して誰かが「曲者だ!」と叫び、誰かはまたべつのことを叫び、めいめい混沌を伝播させていった。その際でゆめたちはようやく厩にたどり着き、力強い生命力を宿した黒馬の丸々とした瞳に見定められた。

「この馬……鞍と鐙が……日白、馬乗れるか!?」
「あ、ああ」
「しっかりしてよ!」

 日白に続いてなんとかゆめも馬の背によじ登ると、素晴らしい駿馬は瞬く間に城門を目指し地を蹴った。
 砦の混乱は拡散し、それを咎められる者はいない。折しもの驟雨がそこに重なった。ゆめは最後に沙羅たちの相争っているはずの方に目を向けては見たものの、暗雲に月光を失った夜の闇の向こうはもう霞むほどさえ見通せなかった。
 それでも馬は力強く走る。どこへ向かうのか、日白は手綱を握っているはずだがこの闇では碌に道などわからないだろう。とどのつまり、馬の畜生的直感が切り開く未来を受け入れることしかできないのだ。次の瞬間にも崖の上に飛び出し、三者めいめいおっ死ぬかも知れぬ。
 どからっどからっという蹄の音、鞍から尻に伝わってくる勇躍の振動、吹き付ける雨と風、墨を溶かし込んだみたいなま黒き夜、夜、夜。
 その中にあってゆめの頼れるのは、前で手綱を握る日白の大きな背だけだった。ひょろながい枯れ枝のようだと思っていた彼の背さえ、確かに両腕を回してしがみついていると、温もりがあった。ただし、それは、実にか細い。

「ゆめ……」

 天狗の旋風のように鋭い空気の流れが言葉を吹き飛ばしていく。それでも、身をひっつけているせいか、ゆめには日白の言葉がわかった。その震えも。

「儂は己の死を厭うつもりはなかった……涅槃に入る覚悟は定まっていた……」

 ゆめは口を結ぶ。なにか声を返したところで自分は日白の後ろについている。きっと声は届かない。

「死するとわかっていたから、恐れは無かった……しかし……生き延びるなどとは……まだ死ぬことはできぬとわかって、急に怖気に憑かれた。お主に引かれんと足すら動かなくなった……」

 どからっどからっどからっ。馬はその足を片時も止めない。ただ駆けられる自由が喜ばしくてしかたないとでも言うように。

「儂は……結局、死に場所を求めていただけなのじゃろうか……たくさんの救えぬ命を見捨ててきた……せめてそれらに報いようと、そうしようと試みて死ねばこの罪、果たして雪がれんべしと、ゆめ、ゆめ、儂の正体はそんなものじゃ……浅薄で、矮小な、違う、儂はただ……」

 言葉をかけてやりたかった。どれほどにゆめは言葉をかけてやりたいと思ったことか。

(でも、日白。今に前から前から吹き付ける雨風を一身に受けてくれてるのは、あんたじゃないか……!)

 それでも無言の夜だった。馬は走り、人は押し黙り、ゆめは自らさえぞっとするほどの落ち着きの中、自分たちの不確かな行末を見据えていた。


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