エピローグ
旅をした。
私たちはたくさんの国々をまわり、たくさんの人々と出会い、たくさんの生と死に立ち合った。そういう旅をした。
いまだ、戦乱の炎は尽きる気配を見せない。
今生の残酷さは日増しに強く影を濃くしているように見える。ナンバン火器はますます普及し、弓の訓練さえ受けていない農民が熟練の武士を殺すような戦さえ起きていると……いったい世界はどこへ向かおうというのだろう。一つだけ間違いのないことは、人はきっと最後の一人になるまで争いを止めないってことだけだ。
「日白、大丈夫か。水くらい飲めよ」
私の故郷、あの沙羅という若い武士の一族が治めていた一帯がどうなったのか? それは杳として知れない。でも、その名を天下に聞かぬということは……そういうことなのだろう。この世の理はちっとも変わらぬくせに、世相の移ろいと諸国大名の栄枯盛衰は目を見張るのも間に合わない速さなのだから。
「ほら、枸杞子を……せめてなにか口に入れないと、あんただって人間なんだから」
沙羅たちの砦を離れたあの日から、いったいどれくらいの時間が経ったのだろう。振り返ると日々はいつも同じだけの嵩を見せる。それでも確かに日白は老いた。あの日から日白を取り巻く時の流れだけ早まったみたいに。
私は髪が伸びたのと……あと、少しだけ大きくなった。本当に少しだけ。うん、まあ、おっかあも小さかったからな。別に気にしてない。ほんとに。人間の良し悪しは背じゃ決まらないんだ。大切なものはたくさん学んだ。日白から。そして、世界から。
「ゆめ……」
「喋るなよ。うん、どこか川を探そう。とにかく問題はその熱だな。流行病は熱が一番辛いんだ。手拭いを濡らしてあてがったらさ、そしたら、ちょっと気分も落ち着くよ。昔、そんなふうに看病してくれたよな。覚えてるか……」
「ありがとう」
「バカだな、いいんだよ」
こんなことなら前の町で奮発して薬を買いだめて置けばよかった。もちろんそんな金ないけど。いや、どうせ金があったところで日白は承知しなかったろうな。托鉢に応じてくださるのはどうしてか、豊かな人たちより貧しい人たちが多い。彼らさえ薬なんて買えないだろうにどうして自分が、とかなんとか、きっと駄々を捏ねるに違いな――
「日白?」
振り返るともうそこに日白はいなかった。あるのはただ骸だけ。修行を積んだ仏僧が死ぬ時は極彩色の光の条がさして止まないという話もあるけど、まあ、実態はこんなものだ。
「そっか。逝ったのか」
悲しくはなかった。ずっと覚悟はできていたから。それはやっぱり、多分、あの日。あの砦で死に損ねた時に、日白の心には繕いようのないヒビが入っていたんだ。本当はその日のうちに死んだってきっとおかしくはなかったんだろう。心が死を認めると、人の肉体は恐るべき速さで朽ちていく。私たちはそんな実例も、見飽きるほどに見てきたから。
でも、そうならなかったのはきっと、私のため。私の面倒を見るため。私に世界を教えるため。
私の。
「考えたことあったか……数え切れないくらいの骸を弔ってきた。その一つに自分がなることを……」
もちろん日白なら考えていたはずだ。私はといえば、もういい加減に穴掘りも慣れたものだった。一人分の穴を掘るのなんてもののうちにも入らない。
そうして持ち上げた日白の遺骸はびっくりするくらい軽くて、土をかけて埋めると、もう、日白という人が生きていた証はどこにも無くなった。
結局……日白はなにを成したのだろう。私たちが救えた人の数は、巨大な戦火の大うねりの前じゃ呆れるほどに少なくて、それもほんの一瞬手を差し伸べただけだ。燃える家から助け出したところで、世界そのものが燃え盛っているのだから。
そんな日白の生涯は、傍目から見たら虚しいものなのかもしれない。事実、そうなのかもしれない。本人はどう思っていたんだろう? それはもう永久にわからなくなった。
それでも。
それでも、だ。
それでも私は生きている。間違いなく。そして私は日白のことを忘れない。
いや……誰のことも忘れたりしない。旅の中で出会ってきたただの一人でさえ、死すべくして死んだ人はいなかった。彼らは救われるべきだった。なぜ私たちは救われない? それが因果の結び目だからか?
「くそくらえだ」
日白はついになにも残さずに死んだ。誰もがなにも遺せずに死んだ。虚しく、ただ虚しく。私の母のように。
でも、彼らは皆私の中にある。今もある。ずっとあり続ける。私は忘れてやるつもりなんかない。私には……その才能がある。もうずっと気がついていたことだ。日白にできなかった道を進む、それも、因果なのか?
「ねえ日白、あんたが生きてる間は気づかないふりをしようって、そう決めてたんだ。あんたは、自分の鬼をついに最後まで封じ込め続けたな。己を鬼にちぎり与え、肥え太らせる者たちをずっと憎んでいたものな。それこそがこの戦火を延焼させているのだと、知ってたからな」
そのために日白は救いを求める旅僧となり、そのために日白は人並みに死んでいった。
それはきっと正しいのだろう。でも、あの砦の領主が言っていたように、正しいが故に顧みられることはなかった。
いや、それも違う。力ある者に顧みられなければ叶わない夢ならば、それは……。
「安心しろ、日白。あんたの夢は、あんたの残した夢は、私が引き継ぐよ」
ずっと考えていたことがある。
なぜ皆、己の中の荒々しいものを鬼として恐れたり、溺れたり、するのだろうと。
それもまた自分の一部なら、きっと受け入れることが最良の道。そういう道があるんじゃないかって。日白が歩めなかった道。私の道。そこは本来なら掠りもしなかった因果の果て。でも、今、たくさんの見捨ててきた命が私の背を押しているのがわかる。
私には力がある。どうしてだかわからないけど。ならもう見て見ぬ振りはできない。日白がそうしたように。
「なあ見てよ日白。私はもう、ゆめというただの童じゃないよ。私はあんたの残した夢だ……そう、そうだ、もうゆめという女の子はどこにもいない。日白、往こう。一緒に往こう。往こう、往こう、ゆめ。儂らはなにも残していかない。後には虚無のひとかけら。儂は残無ぞ。日白残無ぞ。ふふ……なんて、そんなのもきっと悪くはないさ」
さて。
地獄には鬼と亡者がひしめくという。
しかしこの世をば生き地獄と呼ぶならば、地に蠢く我らなんぞや?
ある者はそれを悪鬼と言った。私はそうは思わない。畢竟ただただ我らは人だ。未来多き人間だ。この世が果たして地獄なら、そんな世界は切り捨ててやる。こっちの方から願い下げ。
だから往こう。皆往こう。
空っぽの明日へ。
人として死んで、多分地獄には落ちないだろう日白と、自己の内面の鬼を受け入れて、これが過去話であるがゆえに必然的に鬼となって地獄に落ちることが確定しているゆめもとい残無とがもう交わることがないのだろうというラストも美しかったです