故に周書に曰わく、「虎の為に翼を傅くるなかれ。將に飛びて邑に入り、人を択りて之を食らわんとす」と。
勢は虎狼の心を養いて、暴乱の事を成す者なり。此れ天下の大患なり。勢の治乱に於けるや、本未だ位有らざるなり。而るに語に、専ら勢の以て天下を治むるに足るを言う者は、則ち其の智の至る所の者浅し。
『韓非子』第四十 難勢より
「寅丸星を監視せよ」と毘沙門天に命じられたとき、ナズーリンは素直に「はいよろこんで」と頷けなかった。
聞けば白蓮なる素性不明の尼僧が、厚かましくも自分の住まう寺に毘沙門天のお出ましを願い出たという。毘沙門天が多忙を理由に断れば、そこで引き下がればいいものを、今度は自らの弟子である妖怪を『山で最も信頼の厚い妖怪だから』と毘沙門天の代理に推薦してきたのであった。
「えー? そんなの断っちゃえばいいじゃないですか」とナズーリンは思ったのだが、毘沙門天は白蓮の信心を幾許かは認めているらしかった。そこまで熱心に希望するのであれば、代理くらいなら許してやってもよいと、その妖怪を事実上の弟子として認めた。
しかし毘沙門天もただ慈悲深いだけの神ではない。白蓮の推薦する妖怪が、真実毘沙門天の代理足り得るか、見極めてこい。面倒な役回りがナズーリンに回ってきたのであった。
(困っちゃうなー。でも、毘沙門天様が行けっていうなら行くしかないかー)
気は進まないが、ナズーリンとて毘沙門天第一の使いを自負する、信心深き毘沙門天の信者である。ナズーリンは渋々と神聖な毘沙門天の膝下から、奈良の深山の小さな寺へと赴いたのであった。
寅丸星。名前からして虎の妖怪であり、毘沙門天からもそう報告を受けているが、それこそナズーリンが監視役を渋った理由である。
(鼠が虎に勝てるわけないじゃん!)
ナズーリンは背筋をぶるっと震わせる。毘沙門天は大陸の生まれであり、ナズーリンもまた大陸で生まれ育ったため、虎という残忍で獰猛な獣のことはよく知っていた。極東の島国である秋津島に虎は生息していないはずだが、度重なる交易や絹の道を通じて虎の絵姿や伝承も伝えられたのであろうか、いつしか虎の妖怪がこの国にも住まうようになったらしい。
(やだなー、パクッと一口で丸呑みされちゃったらどうしよう。いや、さすがにそこまで獣性を制御しきれないヤツを毘沙門天様がお認めになるわけないか。頼むからおとなしいヤツでいてくれよー。それか私に言いくるめられる程度に馬鹿っぽいヤツであってくれー)
ナズーリンが寺へ上がると、中には頭巾ですっぽり頭を覆い隠した袈裟姿の若い娘がいた。陰からのぞく金色の目は、意外にも穏やかで大人しい。
「貴方が例のお使いですか」
娘はナズーリンの姿を認めるなり、すっと頭巾を外した。虎模様のような、黒色がところどころに入り混じった金色の髪が露わになる。
(虎……?)
ナズーリンは内心首をかしげる。髪の色、目の色だけを見ればそれっぽいが、彼女が人間の姿を取っているせいか、どうにも虎らしい猛々しさを感じられないのである。
娘は丁寧に頭を下げた。つられてナズーリンも挨拶に入る。
「初めまして。寅丸星と申します」
「初めまして。毘沙門天が使い、ナズーリンです」
「本来なら聖も挨拶をするべきなのでしょうけど、ごめんなさいね。多忙ゆえ、いまは不在です」
「聖……白蓮尼僧のことですか?」
「ええ。私たちは皆、敬意を込めて聖と呼びます」
「はあ。尊き毘沙門天様の使いを恐れ多くも呼び出した張本人がいないのはどうかとも思いますが、それはさておき」
と、ナズーリンは目を光らせる。
「寅丸星様、私は今日から貴方の使いです。貴方の下働きです。本物の部下だと思って御用を何なりとお申し付けてくださって構いませんし、私に敬語は不要です。特に私は探し物を大の得意としておりますから、きっと貴方のお役に立てるでしょう。寛大なる毘沙門天様のご厚意、遠慮なく受け取ってくださいますね」
と、ナズーリンは毘沙門天から預かってきた宝塔を星の前に差し出した。
「それは……」
「毘沙門天様の法力が込められた、霊験あらたかなる宝塔です。もちろん本物ですよ。毘沙門天様はこちらを、貴方を弟子として認める証にお預けくださるとのお達しです」
「毘沙門天様の法力ですか」
星はおそるおそるといった手つきで、宝塔を自分の目の高さまで持ち上げる。宝塔は清浄な光を淡く放ち続けている。並の妖怪なら恐れをなして逃げ出す代物だが、さすがに法力を身につけた僧侶は微動だにしない。
「扱いにはくれぐれもご注意を。千の宝と万の財を生み出すことも夢ではない、まさしく宝物(ほうもつ)と呼ぶに相応しいものです。毘沙門天様のご威光を示す品物があれば、貴方も少しは神様らしい風格を纏えるでしょう」
「それはもちろん。何から何までお気遣いをくださって、毘沙門天様には感謝しかありません。私も聖に代わって忙しい身ですから、お手伝いが増えるのも助かるわ。……でも、貴方が来たのは本当にご厚意だけかしら?」
「ま、お察しの通りですよ」
勘は悪くないようだ。ナズーリンは皮肉っぽい笑みを浮かべた。
「私は貴方の使いであると同時に、貴方の監視役です。貴方が本当に白蓮……聖白蓮の推薦通り、そして毘沙門天様のお見立て通り、代理を務めるに相応しいか、このナズーリンが貴方の一挙手一投足を見守ります。もちろん毘沙門天様からは定期的に貴方の素行を報告するようにと仰せつかっています。まあ、せいぜい我が主、毘沙門天様のお顔に泥を塗らないよう励むことですね」
「やっぱり」
寅丸星は大して驚くそぶりも見せずうなずいた。
「毘沙門天様ともあろう神様が、そんな簡単に妖怪の私を認めてくださるとは最初から思っていなかったわ。私は一度も毘沙門天様にお会いしたことがないんだもの。ねえ、ナズーリンといったかしら? 私は毘沙門天様に挨拶させてもらえないの?」
「貴方にその資格があるかどうか、見極めるために私がいるのです。星様、あまり思い上がらない方がよろしい。尊き毘沙門天様は、木端妖怪には文字通り雲の上のお方ですからね」
「……そう」
さて、初手の挨拶はこのぐらいでいいだろう。ナズーリンは満足げに微笑む。
ナズーリンが敬愛してやまない毘沙門天の代理が務まる妖怪など、この世にいるわけがない。ナズーリンは最初から星のことも、聖たちのことも疑ってかかっていたし、見下していた。初めに鼻っ柱をくじいておけば、星は毘沙門天の威光に萎縮して満足に勤めを果たせなくなるかもしれない。そうなればナズーリンは願ったり叶ったり、窮屈なお役目から解放されて毘沙門天の元へ戻れるという算段だ。
(虎の妖怪ったって、見た感じ若そうな小娘だし、大したことないっしょ。ふふん、こっちは小さくとも賢将よ、負けやしないわ)
星はしばらくの間、黙ってナズーリンの顔を見つめていたが、不意に口元を緩めた。
「なら安心したわ」
「は?」
ナズーリンが呆気に取られると、星は晴れ晴れとした笑みを向けた。
「私はともかく、聖は毘沙門天様に確かにお会いしたとおっしゃっていた。なら毘沙門天様は、聖のことは、ご自身で対面されるくらいにはお認めになっているのね? それがわかれば私は充分。聖は私たちの長……というのも変な言い方だけど、この寺の妖怪たちは皆、聖を慕っている者の集まりだから。よかったわ、毘沙門天様が私たちの聖を認めてくださる寛大なお方で」
ナズーリンは思わず「む、む」と言葉を詰まらせた。
星は自分を勘定に入れていないのか、はたまた自分たちの長さえ認められれば下も自ずと認められたものと考えているのか。ナズーリンの容赦ない品定めの眼差しを、ちっとも意に介していないのである。
何やら間髪入れずに意趣返しをされたようで居心地の悪いナズーリンに向かって「長旅で疲れているかもしれないけど」と告げ、星は立ち上がる。
「お寺を案内しましょう。いまのところ、主な修行僧は私を入れて四人。貴方もこのお寺で暮らす以上、嫌でも顔を合わせるでしょうからね、紹介するわ」
「お言葉ですが」
ナズーリンは星の空気に流される前にかろうじて声を上げた。
「私はあくまで毘沙門天様を一筋に信仰する身、仏なぞに手を合わせるつもりは一切ございません。貴方たちと同じ屋根の下にいようが、間違っても私を修行僧のひとりに数えてくださいますな」
「それはもちろん。信仰は個人の大切な領分ですもの。貴方にも無理に三宝に帰依してくれと頼むつもりはありませんよ」
星のあっけらかんとした物言いに、ナズーリンはほっと胸を撫で下ろす。強制的に出家させられる心配はないようだ。
(何さ、この虎娘。虫一匹殺さないような大人しそうな顔しといて、意外としたたかじゃん)
ナズーリンは星の後ろについて行きながら、上背のある背中を恨めしげに眺めつつ、
(でもやっぱ、あんま虎っぽくないんだよな。本物の虎はもっと風格があったんだけどな。こいつに毘沙門天様みたいな威厳が出せるかどうか怪しいもんだわ)
と、性懲りもなく粗探しをするのであった。
◇
それからナズーリンの寺生活が始まった。ナズーリンは星の言う通り、星を監視する中で他の僧侶たちとも関わることになった。
まず、聖と慕われる白蓮――彼女が毘沙門天と面識があったのは、彼女の弟が毘沙門天を厚く信仰していたかららしい――確かに温厚で優しげで、まるで何百年も歳月を重ねたような貫禄のある尼僧だが、どことなく胡散臭い。しかしその身に宿した法力は確かなものらしく、寺の外にも妖怪人間を問わず多くの信奉者がおり、寺の中では言わずもがな尊敬の的なので、賢明なナズーリンは迂闊に彼女への疑心を露わにしないよう心掛けていたが。
そして修行僧には妖怪になった人間の娘が二人と、元から妖怪であった入道が一人。それぞれ舟幽霊のムラサ、入道使いの一輪、見越し入道の雲山である。彼女たちは事前に『ナズーリンは星の監視役である』と聞いていたためか、必要以上にナズーリンと接触しようとはせず、むしろナズーリンの監視から星を守るようなそぶりすらあった。とはいえ普段の態度はいたって穏便なもので、彼女たちはナズーリンを見かければ気さくに挨拶をし、「たまには一緒に修行しない?」と誘ってくるのであった。
ナズーリンは「私は仏は信じてないよ」の一点張りでそれらの誘いを突っぱね、星の見張りに専念していた。聖たちの正確な宗派は不明だが、密教と修験道の混じった肉体鍛錬重視の教えを実践しているらしく、健全な肉体を鍛えて豊かな精神を養うべし、という方針なのか、彼女たちは寺の内に篭って読経に勤しむよりも早朝から寺中の掃除に駆け回ったり深山に入ったり、とかく毎日忙しない。肉体派でないナズーリンは仏に帰依していなくて本当によかったと心から思った。
もっとも、掃除と炊事と洗濯だけはナズーリンにも等しく担当が回ってくる。星曰く、いくら毘沙門天の使いといえども『下働き』は来賓扱いはしないとのことだ。ナズーリンは自分の心にもない謙遜を少し後悔した。
監視を続けていれば、星があまり虎らしくないと感じた理由もわかってきた。
彼女はいわゆる妖獣――長生きした獣が妖怪化したものではない。大陸の虎を知らない秋津島の人々が、虎とはどんな恐ろしい生き物なのかと畏れを膨らませた結果、生まれ落ちたのが寅丸星という妖怪らしい。らしい、というのは、本人ですら自分の出自を聖から聞いただけではっきりと覚えていなかったからだ。
「私が出会ったときには、いつ消えてもおかしくないほど曖昧な存在だったんですよ」
と、聖は語る。妖怪としての自我をしかと持たず、消えかけていた星に名前と寺を守る役割を与えて存在を安定させたのが聖だったらしい。いわば命の恩人だ。星がずっと「聖様、聖様」と親の後を追う子供のように聖を慕っているのはそのためか、とナズーリンは納得した。
「役目を与えたいまとなっては見違えるほど生き生きとして。私としても安心しています」
「人間のくせに妖怪を助けるなんて、聖は変わってるねー」
ナズーリンは遠慮なく告げる。自分は仏教信者でも聖の弟子でもないと思っているので、聖に対しても砕けた口調で話すのだ。初めに星に目撃されたときはものすごい顔で詰め寄られたものだが、当の聖が「それで構いません」と言ったため、そのままとなっている。
「私は妖怪ですよ。妖怪僧侶」
「でも周りの人間はそう思ってないでしょ? 妖怪退治を引き受けてくれるありがたい聖様って」
「妖怪退治も本当に請け負っていますよ。星とムラサがそうでした」
「妖怪は妖怪に対して『退治する』って言わないんじゃないかなー」
「貴方が私を人間と見做したいならそう思っていても構わないんですよ、ナズーリン。人間と妖怪の境界はとても曖昧です。私のように人間が妖怪になるだけでなく、もしかしたら妖怪が人間になる……なんてことも、あり得ないとは言い切れませんからね」
「はへー」
ナズーリンは(私が人間になるなんてゴメンだけどね)と思いながらぼんやりうなずく。
見上げれば金の真砂をまぶした地に紫雲が立ち込めるような不思議なあわいの長い髪、実年齢に似つかわしくない、息を呑む若々しい面差し。老いを拒絶した姿は神仙の果実を食らった仙人かと錯覚するよう。見た目だけで判断するなら聖はどう考えたって、自認通り人間ではない。
ただ、人間も妖怪も皆平等であると発言する聖からは、なんと形容するべきか、どこか人間くささが滲む。妖怪はナズーリンがそうであるように往々にして人間を見下している。強い者は弱い者と同列に語られるのを好まない。ならば聖の平等主義は、聖が元は人間であったことに由来するのではとナズーリンは睨んでいる。
(ま、一輪とムラサ? も元人間らしいし。どうもこのお寺って妖怪まみれの割には人間の出入りが多いのよねー)
そう考えると、この寺で純粋な妖怪といえるのは星と雲山くらいかもしれない。雲山に関しては、あまりに厳めしい顔つきと拳の重さから、強い者から逃げたがる性のナズーリンが一輪諸共避けているのでほとんど言及すべき点はないが、仮の主人である星はどうか。
「ナズーリン、こんなところにいたの」
そのとき、ちょうど見計らったかのように星が聖とナズーリンの元を尋ねてきた。初めて会ったときこそ袈裟に身を包んでいた彼女だが、いまは偶像の毘沙門天を模した異国情緒のある神様らしい風貌となっている。
「聖、お昼過ぎからの法会について相談を」
「そうね。ナズーリン、貴方はどう?」
「私は法会になど出ませんよ」
「仕方ないわね」
星はため息をつく。
「なら廊下の掃除をしてきてちょうだい」
「はいはい、私は下働きですからね」
「あの、聖。毎度のことですみませんが、領巾の……背中を確認してもらってもいいですか? どうにも自分では見えないと落ち着かなくて」
「ええ、いらっしゃい。いつも綺麗に着付けられていますけどね」
部屋を後にする前に、ナズーリンは星と聖を振り返る。星は法会など来客の対応の前に、決まって聖に衣装の確認を求めに行く。星は手先は器用な方なのか、ナズーリンや他の修行僧の手助けを一切借りずにいつもひとりで着付けを終えるのだが、最後の確認だけは聖にやってもらわなければ気が済まないらしい。
聖の前でだけ、星の顔つきはほんのわずかに幼くなる。歳の離れた姉を見上げるような、あるいは母を見上げるような、そんな眼差しだ。
聖はいつも星の眼差しをまっすぐに受け止めて、着物の袷や帯の締め具合を確認し、背中を向けるように促す。しわもよれもないことをしっかり確かめて、最後に聖は星の背中を軽く叩く。
「ええ、問題ありません。すっかり毘沙門天様らしい格好をしていますよ」
「本当ですか?」
「はい。あとはもう少し顎を引いて、口元も凛々しく引き締めて……そう、今日も立派ですよ、星」
「……ありがとうございます、聖」
聖は満面の笑みを見せ、星は少しはにかむ。これももはや見慣れた光景となったが、ナズーリンは未だに身体がむず痒くなる感覚を覚える。足早にふたりの元を離れた。
確かに、きちんと衣装を整えた星は毘沙門天らしい見た目である。立ち居振る舞いも、悔しいがナズーリンがケチをつける隙はほとんどない。星の仕事ぶりは及第点、いや、はっきり言えば優秀そのものだった。
それでも本物の毘沙門天を知るナズーリンは「ぜんっぜん違う!」と叫びたくなる。毘沙門天は破邪の神で、いつも悪なるものを睨みつけるために厳しい顔をしている、とは人間の勝手な想像で、本当の毘沙門天はもっと表情豊かだ。衣装もあんなヒラヒラゴテゴテしたものだけではない。
しかしそんな見てくれの話は瑣末なことだ。なら何がナズーリンを落ち着かなくさせるのか――おそらくは星と聖、ふたりの間に交わされる眼差しに、確かな信頼が宿っているのが伝わってくるからだろう。
別に、星が聖を一番に慕っているからって、毘沙門天を蔑ろにしているとは思わない。聖への敬愛も、毘沙門天への信心も、紛れもない本物だろう。そして聖が星を見つめる慈愛に満ちた眼差しは、なるほど、それほど信頼している愛弟子だからこそ毘沙門天の代理という大層な役目を任せたのだな、と納得させられる。
ナズーリンは聖を特に尊敬はしない。立派な僧侶なのはわかるが、聖の慈母のような、善人然とした態度に、どこか胡散臭さを覚える。それがこの寺の中で自分しかいないのは理解していた。元は人間だった妖怪僧侶が、果たして誠の善人たり得るか。善人らしき人物に瑕を探さずにいられない心は、我ながら自分の器が小さく見える。君子を僻む小人に思えてくる。
だからふたりの信頼関係から目を逸らしたいのか。ナズーリンは燻った気持ちを拭うように、いつもより力強く雑巾掛けをした。
◇
寅丸星を監視する日々は続く。悔しいがナズーリンが躍起になって粗探しをしても、小鼠たちを走らせても、星にこれといった落ち度は見つからず、あってもナズーリンの言いがかりとしか言えないようなものだった。そのため、ナズーリンは定期的に毘沙門天へ星の態度を報告する際、いつも『まあ、妖怪にしてはうまくやっているようですよ』と当たり障りのない内容しか述べられないのであった。
ある日、ナズーリンは星が不在の部屋に忍び入ったことがあった。
聖の弟子たちは皆、肉体を鍛える修行を好むが、星は屋内に篭ってひたすら経典を誦じたり、書物を読み耽ったりしていることが多い。部屋の中には経典を納められた箱がいつくも積み上がっており、机の上にも読みかけと思わしきものが広げられていた。
ナズーリンはさっと目を通して、一番上に広がっている巻物が経典ではないと気づいた。巻頭を確かめて、
(あ、なーんだ、韓非子か)
と、星が開きっぱなしだった箇所の隅にしるしを挟み、するすると巻物を広げる。身分のある人間たちは漢籍を好んで読むが、星もまた聖の影響で読むのだろうか。流麗な書体で綴られた書物には、ところどころ星自身の筆跡と思われる書き込みがあって、朱線が引かれたり、備忘録と思わしきものが細かな字で文字の隙間に並んでいたり、相当読み込んでいることが伺える。
ナズーリンはしるしをつけた箇所へ戻る。難勢と題された、勢と賢、いわば権勢と賢智の優劣を論ずる項目だ。ある人物が慎子の例を引き合いに勢の優を語る場面から始まる。
『賢人にして不肖に詘するは、則ち権軽く位卑ければなり。不肖にして能く賢を服するは、即ち権重く位尊ければなり。……吾れ此れを以て勢位の恃むに足りて、賢智の慕うに足らざることを知るなり』
(ま、言わんとするところはわかるのよねー。賢将としては賢智を軽んじられるのはちょっと引っかかるけど)
ナズーリンも、自分が他者に優位に振る舞えるのは毘沙門天の威光あってこそだと理解している。毘沙門天に対する恩義はあまりに大きく、改めて感服と尊敬の念が募るのである。
読み進めれば、また別の人物が否を突きつけ、賢が勢に勝るという主張が展開される。
『人の情性、賢者寡なくして不肖者衆し。而して威勢の利を以て、世を乱すの不肖の人を済くれば、則ち是れ勢を以て天下を乱る者は多く、勢を以て天下を治むる者は寡なからん』
(まあそれもそう)と思いながら読み進めれば、初めにしるしをつけた箇所まで戻ってきた。星によって朱線を太く引かれた箇所が、否応でも目を引いた。
『故に周書に曰わく、虎の為に翼を傅くるなかれ。將に飛びて邑に入り、人を択りて之を食らわんとすと』
――虎。
心なしか、虎の文字だけ朱の墨が多く滲んで太く膨張しているように見える。文字の隙間には星の手書きらしき備忘録があり、『周書に、武王が殷の人々に苛まれる夢を見て、殷を攻める計画が漏れたのではないかと周旦公に助言を求めた話がある。周旦公は武王を宥めつつ三徳(仏教の三徳とは違うようだ)の心構えを説き、虎の為に翼を傅くるなと諭した。不驕不吝を心掛ければ王に敵はなしと』と書かれていた。
(虎の為に、翼を傅くるなかれ)
ナズーリンはその文句を口の中で転がし、翼を持った虎の姿を想像してみた。地を這う獰猛な虎が、更なる獲物を求める術を得てしまったら――ぶるっと背筋が寒くなった。
『夫の不肖の人を勢に乗ぜしむるは、是れ虎の為に翼を傅くるなり』
『勢は虎狼の心を養いて、暴乱の事を成す者なり。此れ天下の大患なり。勢の治乱に於けるや、本未だ位有らざるなり。而るに語に、専ら勢の以て天下を治むるに足るを言う者は、則ち其の智の至る所の者浅し』
その後は筆者(韓非子)と思わしき人物の総論が続くが、星が主に読み込んでいるのはこの辺りまでのようだ。
(うーむ)
ナズーリンは腕を組み考え込む。
虎の為に翼を作るな、とは、ただでさえ強力で勢いづいている者を、さらに増長させる真似をするなという戒めらしい。
いまでもナズーリンは星をあまり虎っぽくないと思っている。獣のような獰猛さも強靭さもなく、身体を鍛えるのを好まず、僧侶なので一切の肉を口にせず、ただ粛々と日々の勤行や毘沙門天の勤めに励むのを是としているような姿は、まさに賢を尊び勢を遠ざけているようで、ナズーリンは毎日目を光らせているが、星から獣性を感じ取ったことは一度もない。
しかし星が自戒の意を込めてこの箇所に朱線を引いたのは明らかだ。なら星は自らの獣性を自覚しているのだろうか?
「何をしているの?」
そのとき、背後に星が現れた。星はナズーリンが巻物に目を落としているのを見て苦笑し、
「盗み読みとは関心しませんね」
「置きっぱなしにしておくのが悪いんですよ。誰かに見られて困るものならきちんと箱の中にでもしまって隠しておくのがよろしい」
「確かにそうね。監視の鼠がいると知りながら片付けなかった私が悪い」
星はナズーリンの嫌味をさらっとかわして、「聞いたわよ」と机の上の巻物を片付けながら言う。その声には珍しく部下を咎める色が滲んでいた。
「貴方、ムラサのお経をかじったんですって?」
「私じゃありません。私のしもべの小鼠が粗相をしたのです」
「しもべの粗相なら、どのみち貴方の不手際ではないの? 貴方は無理にお経を読まなくてもいいけど、ここは修行の場、御仏の尊い教えを記した経典に手を出すのは罰当たりですよ」
「それこそそちらの不始末というものです」
ナズーリンはなんとなく語気を強めた。しもべがときどき悪さをするのは知っていたし、別に素直に「申し訳ありません」と言ってもいいはずなのだが、どうも星に対して平身低頭の姿勢ばかりでは侮られるような気がしてならないのだ。ナズーリンは気づいていないが、あるいは先ほど読んだ『虎の為に翼を』という文句が引っかかっていたのかもしれない。
「鼠は歯が頑丈で、定期的に何かを齧らないと落ち着かないんです。そこにちょうどいいものがあった。それだけのことですよ。ただ、人間は鼠を毛嫌いしますからね。元は人間だったムラサが拒絶反応を示すのも無理はないことです」
「私が問題にしているのは信心よ。信心に人間か妖怪かなんて関係ないわ」
「どうでしょう? 信心より鼠の害を問題にしているように思えますよ。貴方は私をいつまでも警戒しているようですし……ま、毘沙門天様の代理としては正しい行動ですが。それはそれとして、人間は臆病なんですよ。いつか経典が食い荒らされるのを妖怪鼠の仕業に仕立て上げても驚きはしません。見たこともない大陸の獣に怯えて貴方という妖怪を生んだようにね」
「そうね、ちょうど目の前にいるかのように思い浮かべられるわ、寺に害をなすその妖怪鼠が」
星はため息をついて、「ムラサには謝っておきなさいね」と言う。そのまま下がらせてもらえるのかと思いきや、星はまだ話を続けた。
「ナズーリン、私が妖怪に見える?」
「妖怪以外のなんだって言うんです? まさか貴方まで実は元人間でした、なんて言いませんよね?」
その答えはしばしの沈黙だった。単なる冗談のつもりだったナズーリンは(えっ?)と焦る。まさか星まで聖や一輪やムラサの同類なのか?
ナズーリンの動揺が見てとれたのか、星はくすくす笑った。
「それは私にもわからない」
「はい?」
「貴方も知ってのとおり、私は人間の恐れから生まれた虎です。大陸では、欲と罪の深い人間が虎になる伝説があるそうだけど、私の正体がそうかまではわからないのよ。臆病な人間たちが想起した虎には、どんな想像が含まれていたのか。……残忍で凶暴な野生の人喰い虎? それとも罪深き人間の成れの果て? どちらにせよ、恐ろしいことに変わりはなさそうだけど」
何がなんだかわからず置いてきぼりなナズーリンをよそに、星は淡々と話をまとめる。
「まあ、私は自分が人間だと思ったことはないし、側からもそう見えないんだったら、妖怪だと言い切っていいんでしょうね」
「はあ」
なんか勝手に自己完結されたな、と脱力する。このままでは面白くないのでナズーリンも少しだけ食い下がることにした。
「でも星様はあんまり虎っぽく見えませんよ。初めてお会いしたときからずっと」
「それはいい意味で? 悪い意味で?」
「さあ、どちらでしょう? 星様に虎狼の心があるか否かでしょうね」
ナズーリンがわざとらしく星がしまった韓非子に目を向ければ、星はふっと口元を緩めて「賢と勢との相い容れざること、亦た明らかなり」とつぶやいて、
「『夫れ隠栝の法を棄て、度量の数を去れば、奚仲をして車を為らしむるも、一輪をも成すこと能わず』……結局は法の力に如くものはないと思わない?」
「おや、韓非子と同じ結論ですか。貴方は智の方が尊いとおっしゃると思っていましたが」
「私は三宝と毘沙門天に帰依する身だもの」
広げた書物をすっかりしまい終えた星は、「今度からは勝手に部屋に入らないでね」と釘を刺して、ナズーリンより先に部屋を出ていった。
その後はどんなにナズーリンが隙を窺い、星が不在の間に侵入を狙ったり小鼠を忍ばせたりしても、星の部屋から書物が出てくることはなかった。さすがに『隠したいものは隠せ』と言った手前、隠している書物まで漁る真似はできない。毎日大量の経典や漢籍を読んでいるようなのに、ずいぶん徹底している。
ナズーリンはあの日、偶然見かけた書が韓非子の『虎の為に翼を』であったのが幸運だったのか否か、と考えた。
◇
その日は静かな夜だった。
鼠は夜行性だが、寺の早朝に起きて早くに寝るという生活に慣れてしまったせいか、ナズーリンも夜は大人しく眠っている。とはいえ、長年の監視の慣習や耳のいい鼠の特性から、夜のしじまに響くどんなに小さな物音にも敏感に反応してしまうため、眠りはどちらかといえば浅い方だ。
誰かが起き上がって抜け出す気配がした。それが星のものなのはすぐに気がついた。
すかさずナズーリンは小鼠を起こして寺の内を密かに探るよう命ずる。報告によれば、他に誰かが起きた気配はなく、まだ誰も気づいていないとのことだ。
ナズーリンは夜の暗がりをものともせず、慣れた忍び足で星の足取りを辿る。外の井戸へ向かったようだ。もしや単に喉が渇いただけか、とも思ったのだが、苦しそうにえづくのを必死に抑えているのが微かに聞こえる。
「星様?」
ナズーリンは迷わず声をかけた。夜中に起き出してなんの目論見だ、と警戒したのだが――意外にも星は口元を布で押さえ、井戸の目の前で蹲っているのだった。
ナズーリンの呼びかけに気づいた星が振り返る。夜の暗闇の中で様子はわかりにくいが、いつもより青ざめた顔をしている気がした。かすかに饐えたにおいが鼻をつく。
「ごめんなさい、起こしちゃったかしら」
「えーと……水、いります?」
「大丈夫よ、ここにあるから」
星は微笑みを作って傍らにある桶を指差した。となると、夜中に突如体調を崩したと見てよさそうだ。いつも健康な姿しか見せない星には珍しいことだった。
「私はいいから戻りなさい。貴方の他に、誰か起きてた?」
「いえ、私だけです」
「ならこのことは誰にも言わないで」
星はまっすぐにナズーリンを見つめてきた。空の星明かりがちかっと光って、一瞬だけ見えた星の目は真剣そのものだった。
「誰にもよ。他の誰にも」
「……聖にも?」
「当たり前でしょう。わかったなら早く戻りなさい。私ももうすぐ自分の部屋に戻るから」
星の有無を言わせぬ物言いにナズーリンはたじろぐ。このままここにいても星は動かないだろうし、介抱もさせないだろう。ナズーリンはすごすご自分の寝床に戻った。
(私はともかく、みんなにまでそんなに弱みを見せたくないものかなあ)
誰にもと釘を刺されてしまった以上、告げ口はよした方がいいだろう。
それにしても、とナズーリンは布団の中で寝返りをうちながら思う。星が調子悪そうにしているのを初めて見た。どんなにナズーリンが嫌味を言っても、監視を強化しても、それとなく毘沙門天の威光を笠に脅してみても、いつも太々しいほど堂々と振る舞っていて、決して隙を見せなかったものを。それとなく原因を頭の中で探るが、一向に思い至らない。
やがて、星が自室に戻った気配がした。他に動き出す気配は何もない。ナズーリンはとろとろと眠りについた。
星の不調の原因を、ナズーリンは早くも翌日に知ることとなる。
「たまに、水底から呻き声が聞こえてくるような気がするのよ。水のある場所でもない場所でも。いつも幻聴なんだけどね」
日々の勤めも終わり、来客もなく、比較的暇な午後の時間帯、ムラサと星がふたりで話していた。どちらもこちらに気づいていない様子だったので、ナズーリンはそのまま聞き耳を立てた。
ムラサの声は自嘲に濡れていた。
「かつて私が沈めた人たちが、助けてくれ、助けてくれって、必死にもがきながら私の方に手を伸ばしてくるの。私が黙って水嵩を増してやれば、その声は遠く沈んでゆくけど、あの悲痛で怨念に満ちた声がいつまでも耳にこびりついて離れない……無数に伸びてくる手が、私をつかんで諸共に溺れさせようとしてくるんじゃないかって」
「……」
「そういう夢を、いまでもときどき見るのよ。まさか星までそうだったなんて思わなかったけど」
ナズーリンは耳に神経を集中させた。星は慎重に、注意深く言葉を選んで答えたようだった。
「忘れたくても忘れられないものよ、罪障や宿業というのは。いいえ、たぶん一生忘れない方がいいんでしょうね。――血が迸る肉の味を覚えている。骨を噛み砕く感触を覚えている。それでも満たされない飢餓の苦しみを覚えている。思い出すだけで鳩尾のあたりが気持ち悪くなってくるわ。もうあんな思いを味わうのは嫌」
やはりそうか、とナズーリンは納得する。昨夜、星は確かに嘔吐していたのだ。
「もういまの私は虎には戻れないだろうし、戻りたくない」
「そっか。私は……どうかな。また誰かのことを溺れさせたくなるかも、って言ったらどうする?」
「みんなでムラサを止めるわよ。特に雲山は力持ちだから、貴方を押さえることも溺れた人を助けることも簡単にできるでしょうね」
「それは心強いなー」
ムラサの声が、心なしか先ほどより明るくなったようだった。
「聞いてくれてありがとね。どうもこういうのは一輪には打ち明けにくくってね」
「あら、どうして?」
「だって、雲山はともかく一輪は何かの罪を犯したわけじゃないでしょう」
「そうかな。生きてきて一切の罪を持たないままでいられる人間や妖怪がいるかしら」
「そういう抽象的な話じゃなくってさ。その点、星はほら? 同病相憐れむってやつ」
「失礼しちゃうわね」
「だけど星の話も聞いてあげたでしょ?」
「……それは、そうね」
ナズーリンは不意に、星は本当に自分が聞き耳を立てていることに気づいていないのだろうかと落ち着かなくなる。知っていたら気の置けないムラサ相手にも口を噤んでいたのでは? それとも、敢えてナズーリンにも聞かせるつもりで話しているのだろうか?
「ムラサ、私が虎に見える?」
「本物の虎は見たことないけど、絵巻の虎にはちょっと似てると思うよ」
「虎は恐ろしい獣だと思う?」
「……そりゃあ、いい印象はあまりないよ。あんたに向かって言いにくいけど」
「それでいいのよ。私も虎が恐れられる獣だっていうのはわかってるから。強くて恐ろしい虎が、さらに力を持って手の付けられない化け物になったら、みんな困るでしょうね?」
「それこそみんなで止めるわよ。でも大丈夫、あんたはお役目もお勤めもいつもよくやってるって。あんたのおかげでお寺の切り盛りが前よりずっと楽になったって、聖様もいつも言ってるんだよ」
「……そう、聖が」
ナズーリンは星が緩く微笑む姿が目に浮かぶようだった。
「私が恐ろしい虎に戻らずにいられるのは、仏の道を示してくれた聖のおかげよ。私だって、いつも聖に感謝しているわ」
そこまで聞いてから、ナズーリンはそっとその場を後にした。いつもより少し時期は早いが、毘沙門天に星や寺の様子を報告に行こうと思った。毎度のことだから星に挨拶をしておく必要もあるまい。
(毘沙門天様は仏教だけの神様じゃないわ)
と、財宝神としての毘沙門天を慕うナズーリンは思うものの、当の毘沙門天は自分の信仰が広まるならどこの宗教に引き寄せられても構わないと考えているようなので、ナズーリンには口出しができない。気づけば寺に寄越されてから数年が経つが、ナズーリンは仏教徒になるつもりは一切ない。
久々に帰ってきた毘沙門天の住まいはやはり絢爛豪華、財宝に溢れていて安心する。寺の調度も極彩色で豪華といえば豪華なのだが、いかんせん護摩や芥子のにおいが煙たくてしかたない。
仰ぎみれば、毘沙門天は相変わらず威風堂々と立派に佇み、声ははきはきとしながら身体の奥深くまで響く抑揚があり、ナズーリンは早いところ厄介なお役目から解き放たれて毘沙門天の元へ戻りたいものだと思う。
「寅丸星は」
ナズーリンはいつものように、事細かに星が毘沙門天の代理としてどのように振る舞っているか、よくよく毘沙門天に言い聞かせようとして、ふと途中で星が深夜に井戸の前に蹲っていたことや、ムラサとの穏やかでない会話などを思い出す。
これも毘沙門天に告げ口してしまおうか。星の仕事ぶりは渋々認めているものの、心はいつだって毘沙門天の元にある。星たちが仏への信仰を手放せないように、ナズーリンにだって譲れない信心があるのだ。
ところが、いざその話題を切り出そうとしたところで、ナズーリンの脳裏に『誰にも言わないで』と告げた深夜の星の目が蘇る。
(ああっ!)
そのとき、初めてナズーリンは思い至る。あのときはてっきり聖たちに心配をかけたくない一心から出たものかと思っていたが(ムラサにだって、夜中に嘔吐したことは一言も告げなかったではないか)、思い返せば、単なる念押しにしては妙に力が入っていた。あの『誰にも』は、毘沙門天に告げ口するなという釘刺しの意味でもあったのだ。珍しく弱っている姿を見せたかと思えば、とんでもない、星はあのときも自らの立場やナズーリンの役目を忘れていなかったのだ。気丈というか、したたかというか……。
(あの小娘ー!!)
そんな口約束、放っておけばいい。うっちゃればいいのだが、ナズーリンは言葉に詰まってうまく話せない。星は特別な言霊で他者を操るわけでもないし、誰かを魅了する魔術を持っているわけでもないのだが、あの意志の強い金の目でまっすぐに見つめられ、言葉をかけられると、不思議と相手は言葉を失い押し黙ってしまう。まるで、神か仏の威光をその身に宿しているかのように。
結局は「まあ、ただの妖怪にしてはよくやっているようです。とはいえ油断はいけませんからね、これからも厳しく監視に励む所存です」と、いつもの当たり障りのない報告に終わってしまうのだった。
◇
「どうして毘沙門天様は護法の神様なんぞになってしまったのでしょうね」
ある日、ナズーリンは星に語気荒く直接問いかけてみた。星は少し考えてから、
「聖徳太子がきっかけではないかしら。その昔、太子は仏敵の物部守屋を討伐すべく、さる山に至り戦勝を祈願しました。そこで太子の御前に顕現なされたのが、戦の神としても知られる毘沙門天様です。見事に勝利を果たした太子は毘沙門天様を厚く信仰し、その山は信ずべき貴ぶべき山と呼ばれ、そう、この信貴山の名付け親こそ聖徳太子でした。その後太子が仏教を広めたのは言うまでもありません。国の政と仏教が深く結びつく中で、毘沙門天様もまた仏教の中で護国と護法の神として崇められるようになりました。信貴山は聖徳太子と仏教と毘沙門天様と、それらを信仰する聖の弟様、聖、そして私たちを繋ぐ重要な地です。……まあ、毘沙門天様の弟子である貴方にはここまで説明しなくてもよかったかしら?」
「えーえー、私はあいにく太子も大師も興味がありませんのでね、そんなことどうだっていいんですよ」
ナズーリンは苛立たしげに尻尾を畳に叩きつける。
「毘沙門天様が戦の神とされているのはこの際いいですよ、私が初めてお会いしたときにはもうそのような性格を備えていらっしゃいましたから。ですがね、星様、大陸の毘沙門天様は、大元はクベーラとも呼ばれた財宝神ですよ、財宝神。貴方に初めにお預けした宝塔が財宝を生み出す力を持っていること、お忘れではないでしょうね? その力こそが毘沙門天様の真の神徳です。どうも貴方を始めとしたお寺の妖怪たちは、そのありがたいご神徳に対する理解が浅いようにお見受けしますよ」
熱っぽいナズーリンの語りに対して、星は相変わらず平然としている。
「そうかしら。一柱の神様が複数の神徳を持つのは珍しくないでしょう」
「では貴方は毘沙門天様を財宝神として崇めていますか?」
「護法の神様として仰ぐのはそんなにいけないこと?」
「毘沙門天様が納得なさっていても私は納得いきません」
ナズーリンは強く食い下がるも、星は首をかしげるばかりである。
(この人もしかしてとは思ってたけど、まさか、ね)
単なる監視役とはいえもう数年の付き合い、星たちの価値観はある程度把握してきた。
ナズーリンは星が財宝をありがたがる姿を一度も目にしたことがない。それを裏付けるように、星は首をかしげたまま、
「申し訳ないけど、私にはむしろ貴方のこだわりの方が理解できないわ。どうしてそんなに財宝が好きなの?」
率直で純粋な問いかけに、ナズーリンは顔が引き攣るのを感じた。
普段、ナズーリンが発する皮肉と嫌味の攻撃には、星は相手の意図をしっかり理解した上で、言葉尻を捉えてひっくり返すような当意即妙な返しを間髪入れずに放ってくる。しかしいまのやり取りには普段の手ごたえがまるでない。星はわざとすっとぼけているのでも意地悪く構えているのでもなく、本当に財宝の価値が理解できないようだ。まるで人形を相手に問答しているかのようで、不気味さすら覚える。
「まさかとは思いますがね、貴方が生まれて数十年と経たない妖怪だから財宝の価値が理解できない、なんて言いませんよね?」
「そうねえ、そうかもしれないけど、まったくわからないわけでもないのよ? 財宝は浄土を煌びやかに飾り立てるものだから。御仏のおわす地は美しい方がいいに決まっているわ」
仏教が絡んでようやく話が成立してくるところが星らしい。星の価値観の根本に仏教があるのはもう諦めた方がよさそうだ。
「でも財宝で飾られる浄土って、西方極楽浄土のことなのよね。最近、浄土思想が巷を席巻しているようだけど、私たちとしてはどうもあの思想はねえ、素直に受け入れがたいというか」
「えっ、浄土ってひとつじゃないんです?」
「仏様の数だけありますよ。もちろんすべての仏様が持っているわけではないけど」
「へえ。なら東方にも浄土があるんですかね」
「東方は薬師様の浄瑠璃浄土ね。でも私たちの目指す浄土はやはり大日如来の密厳浄土です」
「みつ……? どこですかそれは」
「それはね」
星は改めてナズーリンに向き直り、口角を少しだけ持ち上げてナズーリンの目をじっと見た。
「この世です」
「……はい?」
「わざわざ死後に浄土を求めなくても、この世は浄土になり得ます」
「え、あの……え?」
「もちろん何もしないで浄土に行けるほど甘くはないわ。貴方もここに来て長いのだから、少しは仏様の世界を理解してもいい頃ね」
賢将の誇りはどこへやら、ナズーリンはもう何がなんだかわからない。ただ、星の滔々とした語りは聖の弟子、一人前の僧侶らしく堂々としていて、思わず聞き入ってしまうものがある。
「ナズーリン、貴方は財宝がたくさんあれば幸せだと思う?」
「それは、もちろん」
「貴方はそういう信仰なのね。なら宗教は、信仰は、幸せになるための手段だと貴方もわかっているわね?」
「は、はい」
「私たちが修行をするのは死んでから幸せになるためではないの。この世の真理を解き明かし、大日如来の宇宙と一体になれれば、穢土も浄土に変わり得る。この世で幸せになるために日々のお勤めに励んでいるのよ」
ナズーリンは頭がくらくらしてきた。真理ってなんだ、宇宙ってなんだ、こんな穢れまみれのこの世が浄土になり得るだって?
もう話についていけそうにない。そう判断したナズーリンは、せめて本物の毘沙門天の弟子らしい振る舞いは忘れないようにしようと思って、
「浄土でも真理でもお好きに目指せばよろしいが、いいですか、毘沙門天様が初めは財宝神であったことはくれぐれもお忘れなく。貴方は確かに財宝神としての毘沙門天を託されたのだから」
と、宝塔を示して釘を刺した。
「貴方も相当に信心深いのね。まあ、いいでしょう。私にはあまり財宝のありがたみはわからないけど、それもまた正しい道のひとつ」
ようやく落とし所が見えてきたか――と思いきや、きらりと星の目が光る。強い意志が宿るとき、星の目は黄金よりも輝き琥珀よりも透き通る。
「ナズーリン、貴方も知っているわね。信仰はときに命より重い。仏教の昔話には尊い教えを得んがために、あるいは菩薩道を実践するために、自らの身を投げ出した話が珍しくない。――私もまた、信仰のためなら、惜しくない命です」
ナズーリンは目を剥いた。この人は真面目な顔をして何を言い出すのだろう? ナズーリンがさんざん毘沙門天様に恥じぬ振る舞いをせよと圧力をかけすぎて自棄を起こしたのか?
いや、違う。星はハッタリをかますことはあっても嘘はつかない。本気でそう思っているとナズーリンに、その後ろに控える毘沙門天に訴えているのだ。
ナズーリンは逃げ出したくなりながらも、最後の意地で踏ん張った。
「しゅ、しゅ、出家の身で自害したらじょ、成仏できないんじゃなかったんですか?」
「ええ。何もいますぐに死にそうだとか死ぬとか思っているわけではありません。ただ、今日の貴方はやけに張り切っているというか、貴方もなかなか強固な信仰を持っているようなのがわかったので、私も覚悟を見せた方がいいと思ったまでよ」
「その信仰は、毘沙門天様にも向けられているもので間違いありませんね?」
「私は三宝を敬い、毘沙門天様に帰依し、聖と理想を共にするひとりの僧侶です。毘沙門天様にお目通りが叶うなら私の信心の深さがわかっていただけるでしょうけど、まあお忙しい毘沙門天様を煩わせるわけにはいきませんから、本来の弟子である貴方から伝えておいてちょうだい」
そこまで言われては、さすがのナズーリンも引き下がるしかなかった。
ただただ、星に圧倒されて終わった。まるで蛇に睨まれた蛙だが、彼女から感じた威厳は、獰猛な獣が獲物の小動物を威嚇するときのそれではなかった。あくまで穏やかに、厳かに、堂々と。虎の妖怪としてではなく、毘沙門天の代理としての風格を見せ切ったのだった。
ナズーリンは今回の件をどう毘沙門天に告げ口してやろうかと考えたが、信仰の為に命を賭す覚悟だと聞けば、毘沙門天はかえって天晴れな心意気だと喜びそうだ。
(本当にもう、どうなっちゃってるのよ! こんなはずじゃなかったのに!)
ナズーリンは歯噛みする。いかに聖や山の妖怪たちからの信頼が厚いといっても、所詮はただの妖怪、おまけにナズーリンは探し物が大の得意ときている。すぐさま星に何がしかの粗を見つけられるはずだった。
ところが星はあまりに優秀すぎる。野蛮な獣性を抑え込み、妖怪の身でありながら神仏への信仰は厚く、ケチのつけようがない。気がつけばこの寺にやってきて何年が経つだろうか。
(私はいつまでこんなところにいなくちゃならないのかしら)
辟易したナズーリンの願いは、意外な形で叶えられることになる。
――聖白蓮は妖怪の味方をする悪僧である。
正体を暴いた人間たちによって聖が魔界の地に封印され、聖の弟子たちも命蓮の宝物諸共地底に封印される中、ナズーリンまで地底に追いやられることになってしまったのだ。地上にはただ、毘沙門天の代理として最後まで正体が割れなかった、星ひとりが残った。後から事の次第を知る者がいたら「なんと優秀な妖怪よ」と鼻で笑ったかもしれない。
◇
帰りたい。
いますぐに帰りたい。
奥歯をガチガチ鳴らしながらナズーリンは小鼠たちと抱き合う。
一輪と雲山、ムラサとともに堕とされた地底のなんと暗く、冷たく、恐ろしいことか。
遠くから聞こえてくるおぞましい叫びの正体は何者だろう。ぐつぐつと煮え立つ音は? 怒声に混じる啜り泣きは? 鼻をつく異臭は?
――ここは地獄の入り口だろうか。
いますぐ帰りたい。世界で一番安心できる毘沙門天の温かな膝下で丸くなって眠りたい。
(ああ、やっぱり毘沙門天様のご命令なんか聞くんじゃなかった! 適当な言い訳を繕ってさっさと逃げていればよかった!)
頭を抱えて叫び出したい気持ちになったが、すぐそばに一輪たちがいてはそれもできない。星とも離れてしまい、これではもはや監視役としての使命も果たせない。
なんの因果で、ただ自分の主人に相応しいか否かを品定めしようとしただけで、地の底まで突き落とされなければならないのだ。星がここにいたら、これもまた前世の業だと説くのだろうか?
「ねえ、ムラサ」
一輪の固い声が響く。ムラサはあまりの出来事に呆然とし、声もなく涙を流していたようだった。
「この船、本当にもう動かせないの?」
一輪が指差した方向を、ムラサは涙を拭ってゆるゆると追いかける。そこに打ち捨てられたように佇んでいるのは、聖がかつてムラサに与えた船だった。命蓮の宝物とともにこの船も地底に封じられたらしい。
ムラサはもつれる足で船に歩みより、震える手つきで船の点検をする。やがて、悔しそうに首を横に振った。
「無理。念入りに封印が施されて、私の力が注げないの。弟様の遺品は、私には扱えないし……」
「そっか。動かせるなら、みんなで逃げられると思ったのに」
「逃げるって、どうやって? ここから地上までどれくらいの距離があるの? 仮に船が動いても私がそこまで舵を取れるかわからないよ? ああ、やだ。暗いのは嫌。またあの水底に閉じ込められたみたい……」
「ああもう、まーたそうやって泣く。『浅みこそ袖はひつらめ』っていうけどさ、あんたは誰かを沈める前にいつか自分の涙で溺れるわよ」
「私の涙が川になったら、いの一番に一輪を沈めてやろうか」
「はいはい、それだけの軽口が叩けるなら思ったより元気そうね」
その言葉でムラサの涙が引っ込んだようだ。こんな状況でも、まだ一輪は諦め切っていないらしかった。傍らに佇む雲山も、いつもの力強い手で一輪を守るように構えている。
「……せめて、星がいてくれたらな」
一輪はため息まじりにつぶやく。
「あの子が持ってる宝塔の法力なら、この船だって動かせるだろうし、そしたら聖様だっていますぐに助けに行けるのに」
ナズーリンははっと思い出す。そういえば毘沙門天から預かった宝塔は星に渡したっきりだった。
(回収しておくんだった。あれは毘沙門天様のものなのに)
もはや一輪たちの会話は耳に入ってこない。宝塔さえあれば、並大抵の妖怪や人間には不可能なことも実現できる。
星はひとり、宝塔を手に何を考えているだろう? あるいは、いままで魅力を感じたことのない財宝の力で、地上に味方を増やそうとするだろうか……。
(ああっ! 私の馬鹿馬鹿馬鹿!)
そのとき、ナズーリンの脳裏にあの韓非子の言葉が蘇る。
『虎の為に翼を傅くるなかれ』――力のある者を、さらに増長させるようなことをしてはいけない。いままでは自分が目を光らせていた、聖たちがそばにいた、でもいまの星はひとりきり、誰も諌める者はいない、戒めるものはない。
そんなときに、手に届く場所に力があったらどうする? 偽物の毘沙門天が地上で暴れても、ナズーリンはもう何もできない。
「私が虎に翼を与えてしまった!」
突然叫んだナズーリンに、驚いた一輪たちが振り返る。
「ちょっと、どうしたのナズーリン」
「宝塔を地上に置いてくるんじゃなかった!」
「そ、そりゃあ、ここにあったら役に立ったかもしれないけど……」
「違う!」
ナズーリンは軽い錯乱状態にあった。
「あれは毘沙門天様の神聖なお力なのに、私利私欲のために使わせちゃいけないのに! ああどうしよう、ごめんなさい毘沙門天様、私はあの小娘を放置しすぎた! 私がしっかりしていれば悪用される危機なんて訪れなかったのに! もうやだ! 仏教徒と心中なんかしたくない! 帰りたい、毘沙門天様のところに帰りたい!」
堰を切ったように涙が溢れた。みっともなく取り乱した姿を晒しているのに、体面を取り繕う余裕すらなかった。最後に毘沙門天に会ったのはいつだったか。封印される前に、かろうじて小鼠の一匹を使いに寄越したから事態は伝わっているだろうが、果たして毘沙門天といえどもこの危機に介入できるだろうか。
一輪たちはしばし無言でナズーリンを見守っていたが、やがて一輪がナズーリンの肩に手を置いた。
「帰りたいのは私たちも一緒。落ち着きなさいよ、いつものあんたらしくない」
「なんで一輪はそんなに落ち着いていられるんだよ! こんな真っ暗な地の底に落とされて!」
「落ち着いてはいないけど、簡単なことよ」
ナズーリンがきっと顔を上げると、一輪はまっすぐに天を――正しくは、天上の光が射すはずの頭上を見上げていた。
「いまがどん底だと思ったなら、それより下に行くことはないんだから、あとは死に物狂いで這い上がればいいだけ」
一輪は何事かを雲山に囁くと、雲の身体に飛び乗って、
「ちょ、ちょっと一輪、どこ行くの?」
「周りを見てくるだけよ、ムラサ。それからね、ナズーリン、あんたの心配事は杞憂よ。あんたは星の何を見てきたの? 星はたとえ翼を作られたって、その力を悪用するような奴じゃない。むしろ、自暴自棄になってあの宝塔を『なんの役にも立たないじゃないか』って捨てたりしないか、そっちを心配しておくことね!」
一輪は颯爽と言い捨てて、雲山とともにどこかへ行った。寺にいた頃は彼女とはあまり話さなかったが、一輪が何かにつけて星を呼び出しては息抜きをさせたり話を聞いたりしていたのは知っている。先ほどの言葉からも星への信頼を確かに感じ取れたし、ナズーリンよりもずっと星の性格を理解しているようだった。
「……やっぱ落ち着いてるじゃん」
「一輪はいつも雲ばっか見上げてるようなヤツだから」
呆然としているナズーリンに、ムラサが語りかける。ナズーリンの焦燥ぶりや一輪の快活さに押されて、彼女の涙はすっかり乾いたらしかった。
「ああいう性格はありがたいけど、たまについていけないよね。人間時代に妖怪退治して、聖様に出会って出家して、自分まで妖怪になっちゃって、なんかもー向かうところ敵なしっていうか……」
「そりゃあんなおっかない顔した入道がいつもそばにいたら嫌でも自信つくでしょ」
「ま、それもそうね」
ムラサは苦笑する。
「思えばあんたとこんな風に話したことなかったかもね」
「私は仏教徒じゃないし星様の監視役だし」
「だけど残念ながらいまは毘沙門天様も星もいない。探し物が得意なあんたでも地上への出口を見つけるのは厳しそうだし、あんたが嫌だといっても、私たちは協力してここから出る方法を探さなきゃならないのよ」
「……」
「呉越同舟といきましょう。お前ひとりが毘沙門天様の元にのうのうと帰れると思うなよ」
この舟幽霊、怖いこと言うじゃん。何か恨みを買う真似をしただろうかと考えて、経典の件を思い出して俯いた。
かと思えばムラサはけろっと笑って、
「さっ、冗談はこのくらいにして。仲良くしましょう? そりゃあ地上にいた頃は、あんたが星につらく当たらないか心配して、私の方もあんたを避けてたのは認めるけどさ」
「わかったよ」
落ち着いてくると、取り乱したのが恥ずかしくなって、ナズーリンは言葉少なになる。おかげで普段よりは素直に他者の言葉に頷くのだった。
「いまになって思うと、地上にいた頃、あんなに穏やかに暮らしていたのが嘘みたい。でも、本当はこんな日々もいつか終わるんだろうって思ってたの」
ナズーリンは(おや?)と首をかしげる。ムラサにとっての聖は自分を自由にしてくれた恩人だと聞いていたが、それでも聖の人間の陰で妖怪を助けるやり方には危機感を抱いていたのか。
「何せ、この世はもうすぐ末法に入るんだもの。もう数十年と残ってないんじゃないかしら」
(また仏教の話かい!)
ナズーリンはがくっとうなだれそうになるが、考えてみれば彼女たちから仏教の話を奪う方が酷なのだ。もはや気にするまいとナズーリンは腹をくくった。
「仏様の教えは確かにあるはずなのに、修行することも悟ることもできなくなってしまう……まさにこの世の終わり。だから、よくないことが起きても不思議ではないの」
「じゃあムラサたちが修行をしてきた意味ってなんなの?」
「末法はいつか終わるのよ。五十六億と七千万年の後に、弥勒様が救ってくださるから」
「……ムラサも私も、そのとき生きてる?」
「さあ? でも、遠い未来にはどうにかなるってこと。だから、末法が明けるそのときまで教えを絶やさないようにするの。そのために私たちは修行をする、これで納得した?」
よくわからないが、ナズーリンはムラサも案外、一輪と同じで元は楽観主義なんじゃないかと思った。
「ねえ、あんたから見た星って、やっぱり毘沙門天様の代わりには相応しくなかった?」
「……ううん」
不意にムラサは話題を変える。ナズーリンは首を振った。いまなら誰に聞かれるでもない、言ってもいいだろうと思った。
「充分やってたと思う。だけど、私にとって唯一無二の神様はふたりも要らないのよ」
「あんたって本当に毘沙門天様が好きなのねえ」
「……それでも、星様の仕事に文句をつける隙なんてなかった」
聖が人間たちに責め立てられたあのときだって、信仰に命を賭けるというなら、星は身を挺して聖を庇うと思っていた。けれど実際には星は黙っていた。星が聖を切り捨てたおかげで、毘沙門天の威光は保たれたままとなった。どんな心境であったか、ナズーリンには推し量る術もない。
「もう降参って感じよ。最初はあのひとが虎の妖怪だって聞いて随分警戒したけど、あのひとってちっとも獣っぽいところを持ってないからさ」
「え? うっそだー! ナズーリンにはそう見えてたの?」
ムラサが声を上げるものだから、ナズーリンは目を丸くする。
「え? だってすごく大人しいし、冷静だし……」
「そんなのあんたを警戒してたからに決まってるでしょ。敵の前では警戒を解かないなんて、いかにも獣っぽい仕草じゃない」
ナズーリンは不意を突かれた。確かに星はナズーリンの前では一瞬たりとも気を抜かないようにしていたが、その行動が星と親しいムラサにはそう映るのか。
「星、がんばってたんだよ。自分が不始末をやらかしたら、信じて任せてくれた聖に申し訳ないからって。自分がしくじれば寺の終わりだ、くらいの気持ちだったんじゃないかしら。ま、それにナズーリンが一切気づいてなかったんなら、星はうまくやってたってことね」
茶目っけたっぷりに笑われて、ナズーリンはいたたまれなくなる。毘沙門天の代理に相応しいか否か、そればかりを嫁をいびる姑みたいに厳しく監視して、星個人のことは何も見ていなかったのだと思い知らされる。探し物が得意だと大口を叩いておきながら、何も見つけられなかった。
ムラサは目線を下に落とす。
「星には本当、嫌な役割をたくさん背負わせちゃったなあ……かといって、私や一輪や雲山じゃ、毘沙門天様の代理なんて初めから任せてもらえなかっただろうし。だからそのぶん、私たちは星の不安を少しでも軽くしようと思ったんだ。あんたは立派に役目を果たしてるから大丈夫だよって」
「……私だって、何も認めてなかったわけじゃないよ。でも、本人に向かって直接褒めたりして、増長されたら困ると思って」
「虎に翼を作らないようにしていたのね。戒めを保つ役も必要よね」
「……ちょっとくらいは伝えてもよかったかなって、いまは思うよ」
「じゃあ地上に戻ったら言ってあげよう。星、喜ぶよ」
「私より聖に褒められる方が嬉しいんじゃないの?」
「そこはまあ、あんたが毘沙門天様をめちゃくちゃ崇めてるのと似たようなもんだから」
ムラサに笑われて、ナズーリンは(似たたようなもん、ね)とぼんやり考える。思えば星にもナズーリンにも譲れない信心があって、何かとぶつかり合う羽目になったのだろうか。それがいっそう星の警戒心を強め、ナズーリンの意地を悪化させ、両者に断絶を作る原因となったのだろう。同じ神を仰ぎながら倶に天を戴けないのも変な話だが。
ムラサから星がひた隠しにしていた素顔を聞いても、ナズーリンは星を理解できるかなんてわからない。きっと星は財宝の価値を一生理解しそうにないし、正直あまりわかり合いたいとも思っていない。
ただ、もう少しナズーリンが監視役というしがらみに囚われず、星や寺の皆と歩み寄っていたら、もっと別の未来を見つけられていたのかもしれない――そう考えもする。
「ムラサ」
「何?」
「うちの小鼠が前に経典を駄目にしちゃったの、ごめんね」
いつか『ムラサに謝っておきなさい』と星に諭されたのを思い出して口にすれば、ムラサはぽかんとして、
「今更気にするとこがそれなの!?」
と、笑った。腹を抱えて「ほんと今更すぎるよ、あれいまも残ってるかわかんないし確かめようもないのに」と言って、
「いいよ、もう。次から気をつけてくれれば」
「次って」
「地上に帰ったらもっぺん星に怒られておいで」
一輪に感化されたのであろうか、ムラサももう落ち込むのはやめて、これからどうするか、先のことを考えている。ナズーリンも少しずつムラサに親しみを覚え始めていたので、どうにか共同戦線は張れそうだと思った。
人知れず笑みが溢れたところで、ふと考える。
ひとりになった星は、まだ不安に苛まれたままだろうか。あんなに聖を一途に慕っていたのに、もう背中を押してくれる人はいない。信頼と慈愛に満ちた眼差しを注いでもらうことはない。
星はナズーリンを恨むだろうか? 否、彼女はただ己の至らなさを責めるだけだろう。いつもいつも強く己を律して、ゆえにナズーリンとの間に一線を引き、地底と地上に分たれたいまとなっては、もはやナズーリンが何を思おうと、星には届かない。
それでもナズーリンは思う。もし地獄にも仏が現れるというなら、地上の彼女も救ってやればいいのに、と。
◇
翼があればどこへでも行けるって?
ひとりきりになった私はこんなにも無力なのに?
賢智は未だ衆を服するに足らず……いくら賢しくとも、権勢がなければ役に立たない……かつて受け入れにくいと思った言葉だけれど、それもまた一理あるのかもしれない。
それでも私は権勢を尊ぶ気にはなれない。
元は人喰い虎だった私に、翼を与えないでほしかった。
生まれすら人間の空想の産物という曖昧模糊で頼りない身の上、そのくせ殺生の罪業は深く、我が身を辿れば辿るほど、虎という獣の野卑な恐ろしさに慄くばかり。
力をつけるのが怖いから、体術もあまりやりたくなかった。その代わりに智慧を武器にしようと思って、たくさんの経典や書物を読んだ。智慧で満たされれば、私の不安は和らぐと思った。
いつも不安だったから、聖に背中を押してもらうことで確かめてもらっていた。私に翼が生えていないかどうか。私は私が信じられなかったんだ。ナズーリンという監視を掻い潜るために、自分の縄で自分自身を戒め続ける毎日だった。
でも、いまとなってはこうも思う。みんなが、聖が私を信じてくれるんだから、私もみんなが信じてくれる私自身を信じてもよかったんじゃないか、って。
結局のところ、私に必要だったのは権勢ではなく、賢智では足りなく、韓非子の言うそれとは違うけど、やはり法の力だったんじゃないだろうか。
御仏よ、毘沙門天様よ、これが私が皆の信頼に背いた報いでしょうか?
……よろしい。
私ひとりで切り抜けてみせよと思し召しなら、やってみせよう。
いつのまにか、あれほど私を苛んでいた不安はなくなっていた。
いまはただ、虎視眈々と、機を伺うのみ。いつかみんなを助け出すその機会を。
みんなが言ってくれた、貴方なら大丈夫、間違った力の使い方をしない、その言葉を信じて、やってみよう。
毘沙門天様、こちらの宝塔はまだしばらくお借りします。できれば、聖やナズーリンがいなくなったいまも、私のことを弟子だと認めたままでいてください。
この力はいつか必要になるのです。返し切れない恩を返すために、一度は大切な人たちを見捨ててしまった罪を償うために。
そのときは、私は力の使い方を間違えない。
だから、そのときは。
虎に翼を。
勢は虎狼の心を養いて、暴乱の事を成す者なり。此れ天下の大患なり。勢の治乱に於けるや、本未だ位有らざるなり。而るに語に、専ら勢の以て天下を治むるに足るを言う者は、則ち其の智の至る所の者浅し。
『韓非子』第四十 難勢より
「寅丸星を監視せよ」と毘沙門天に命じられたとき、ナズーリンは素直に「はいよろこんで」と頷けなかった。
聞けば白蓮なる素性不明の尼僧が、厚かましくも自分の住まう寺に毘沙門天のお出ましを願い出たという。毘沙門天が多忙を理由に断れば、そこで引き下がればいいものを、今度は自らの弟子である妖怪を『山で最も信頼の厚い妖怪だから』と毘沙門天の代理に推薦してきたのであった。
「えー? そんなの断っちゃえばいいじゃないですか」とナズーリンは思ったのだが、毘沙門天は白蓮の信心を幾許かは認めているらしかった。そこまで熱心に希望するのであれば、代理くらいなら許してやってもよいと、その妖怪を事実上の弟子として認めた。
しかし毘沙門天もただ慈悲深いだけの神ではない。白蓮の推薦する妖怪が、真実毘沙門天の代理足り得るか、見極めてこい。面倒な役回りがナズーリンに回ってきたのであった。
(困っちゃうなー。でも、毘沙門天様が行けっていうなら行くしかないかー)
気は進まないが、ナズーリンとて毘沙門天第一の使いを自負する、信心深き毘沙門天の信者である。ナズーリンは渋々と神聖な毘沙門天の膝下から、奈良の深山の小さな寺へと赴いたのであった。
寅丸星。名前からして虎の妖怪であり、毘沙門天からもそう報告を受けているが、それこそナズーリンが監視役を渋った理由である。
(鼠が虎に勝てるわけないじゃん!)
ナズーリンは背筋をぶるっと震わせる。毘沙門天は大陸の生まれであり、ナズーリンもまた大陸で生まれ育ったため、虎という残忍で獰猛な獣のことはよく知っていた。極東の島国である秋津島に虎は生息していないはずだが、度重なる交易や絹の道を通じて虎の絵姿や伝承も伝えられたのであろうか、いつしか虎の妖怪がこの国にも住まうようになったらしい。
(やだなー、パクッと一口で丸呑みされちゃったらどうしよう。いや、さすがにそこまで獣性を制御しきれないヤツを毘沙門天様がお認めになるわけないか。頼むからおとなしいヤツでいてくれよー。それか私に言いくるめられる程度に馬鹿っぽいヤツであってくれー)
ナズーリンが寺へ上がると、中には頭巾ですっぽり頭を覆い隠した袈裟姿の若い娘がいた。陰からのぞく金色の目は、意外にも穏やかで大人しい。
「貴方が例のお使いですか」
娘はナズーリンの姿を認めるなり、すっと頭巾を外した。虎模様のような、黒色がところどころに入り混じった金色の髪が露わになる。
(虎……?)
ナズーリンは内心首をかしげる。髪の色、目の色だけを見ればそれっぽいが、彼女が人間の姿を取っているせいか、どうにも虎らしい猛々しさを感じられないのである。
娘は丁寧に頭を下げた。つられてナズーリンも挨拶に入る。
「初めまして。寅丸星と申します」
「初めまして。毘沙門天が使い、ナズーリンです」
「本来なら聖も挨拶をするべきなのでしょうけど、ごめんなさいね。多忙ゆえ、いまは不在です」
「聖……白蓮尼僧のことですか?」
「ええ。私たちは皆、敬意を込めて聖と呼びます」
「はあ。尊き毘沙門天様の使いを恐れ多くも呼び出した張本人がいないのはどうかとも思いますが、それはさておき」
と、ナズーリンは目を光らせる。
「寅丸星様、私は今日から貴方の使いです。貴方の下働きです。本物の部下だと思って御用を何なりとお申し付けてくださって構いませんし、私に敬語は不要です。特に私は探し物を大の得意としておりますから、きっと貴方のお役に立てるでしょう。寛大なる毘沙門天様のご厚意、遠慮なく受け取ってくださいますね」
と、ナズーリンは毘沙門天から預かってきた宝塔を星の前に差し出した。
「それは……」
「毘沙門天様の法力が込められた、霊験あらたかなる宝塔です。もちろん本物ですよ。毘沙門天様はこちらを、貴方を弟子として認める証にお預けくださるとのお達しです」
「毘沙門天様の法力ですか」
星はおそるおそるといった手つきで、宝塔を自分の目の高さまで持ち上げる。宝塔は清浄な光を淡く放ち続けている。並の妖怪なら恐れをなして逃げ出す代物だが、さすがに法力を身につけた僧侶は微動だにしない。
「扱いにはくれぐれもご注意を。千の宝と万の財を生み出すことも夢ではない、まさしく宝物(ほうもつ)と呼ぶに相応しいものです。毘沙門天様のご威光を示す品物があれば、貴方も少しは神様らしい風格を纏えるでしょう」
「それはもちろん。何から何までお気遣いをくださって、毘沙門天様には感謝しかありません。私も聖に代わって忙しい身ですから、お手伝いが増えるのも助かるわ。……でも、貴方が来たのは本当にご厚意だけかしら?」
「ま、お察しの通りですよ」
勘は悪くないようだ。ナズーリンは皮肉っぽい笑みを浮かべた。
「私は貴方の使いであると同時に、貴方の監視役です。貴方が本当に白蓮……聖白蓮の推薦通り、そして毘沙門天様のお見立て通り、代理を務めるに相応しいか、このナズーリンが貴方の一挙手一投足を見守ります。もちろん毘沙門天様からは定期的に貴方の素行を報告するようにと仰せつかっています。まあ、せいぜい我が主、毘沙門天様のお顔に泥を塗らないよう励むことですね」
「やっぱり」
寅丸星は大して驚くそぶりも見せずうなずいた。
「毘沙門天様ともあろう神様が、そんな簡単に妖怪の私を認めてくださるとは最初から思っていなかったわ。私は一度も毘沙門天様にお会いしたことがないんだもの。ねえ、ナズーリンといったかしら? 私は毘沙門天様に挨拶させてもらえないの?」
「貴方にその資格があるかどうか、見極めるために私がいるのです。星様、あまり思い上がらない方がよろしい。尊き毘沙門天様は、木端妖怪には文字通り雲の上のお方ですからね」
「……そう」
さて、初手の挨拶はこのぐらいでいいだろう。ナズーリンは満足げに微笑む。
ナズーリンが敬愛してやまない毘沙門天の代理が務まる妖怪など、この世にいるわけがない。ナズーリンは最初から星のことも、聖たちのことも疑ってかかっていたし、見下していた。初めに鼻っ柱をくじいておけば、星は毘沙門天の威光に萎縮して満足に勤めを果たせなくなるかもしれない。そうなればナズーリンは願ったり叶ったり、窮屈なお役目から解放されて毘沙門天の元へ戻れるという算段だ。
(虎の妖怪ったって、見た感じ若そうな小娘だし、大したことないっしょ。ふふん、こっちは小さくとも賢将よ、負けやしないわ)
星はしばらくの間、黙ってナズーリンの顔を見つめていたが、不意に口元を緩めた。
「なら安心したわ」
「は?」
ナズーリンが呆気に取られると、星は晴れ晴れとした笑みを向けた。
「私はともかく、聖は毘沙門天様に確かにお会いしたとおっしゃっていた。なら毘沙門天様は、聖のことは、ご自身で対面されるくらいにはお認めになっているのね? それがわかれば私は充分。聖は私たちの長……というのも変な言い方だけど、この寺の妖怪たちは皆、聖を慕っている者の集まりだから。よかったわ、毘沙門天様が私たちの聖を認めてくださる寛大なお方で」
ナズーリンは思わず「む、む」と言葉を詰まらせた。
星は自分を勘定に入れていないのか、はたまた自分たちの長さえ認められれば下も自ずと認められたものと考えているのか。ナズーリンの容赦ない品定めの眼差しを、ちっとも意に介していないのである。
何やら間髪入れずに意趣返しをされたようで居心地の悪いナズーリンに向かって「長旅で疲れているかもしれないけど」と告げ、星は立ち上がる。
「お寺を案内しましょう。いまのところ、主な修行僧は私を入れて四人。貴方もこのお寺で暮らす以上、嫌でも顔を合わせるでしょうからね、紹介するわ」
「お言葉ですが」
ナズーリンは星の空気に流される前にかろうじて声を上げた。
「私はあくまで毘沙門天様を一筋に信仰する身、仏なぞに手を合わせるつもりは一切ございません。貴方たちと同じ屋根の下にいようが、間違っても私を修行僧のひとりに数えてくださいますな」
「それはもちろん。信仰は個人の大切な領分ですもの。貴方にも無理に三宝に帰依してくれと頼むつもりはありませんよ」
星のあっけらかんとした物言いに、ナズーリンはほっと胸を撫で下ろす。強制的に出家させられる心配はないようだ。
(何さ、この虎娘。虫一匹殺さないような大人しそうな顔しといて、意外としたたかじゃん)
ナズーリンは星の後ろについて行きながら、上背のある背中を恨めしげに眺めつつ、
(でもやっぱ、あんま虎っぽくないんだよな。本物の虎はもっと風格があったんだけどな。こいつに毘沙門天様みたいな威厳が出せるかどうか怪しいもんだわ)
と、性懲りもなく粗探しをするのであった。
◇
それからナズーリンの寺生活が始まった。ナズーリンは星の言う通り、星を監視する中で他の僧侶たちとも関わることになった。
まず、聖と慕われる白蓮――彼女が毘沙門天と面識があったのは、彼女の弟が毘沙門天を厚く信仰していたかららしい――確かに温厚で優しげで、まるで何百年も歳月を重ねたような貫禄のある尼僧だが、どことなく胡散臭い。しかしその身に宿した法力は確かなものらしく、寺の外にも妖怪人間を問わず多くの信奉者がおり、寺の中では言わずもがな尊敬の的なので、賢明なナズーリンは迂闊に彼女への疑心を露わにしないよう心掛けていたが。
そして修行僧には妖怪になった人間の娘が二人と、元から妖怪であった入道が一人。それぞれ舟幽霊のムラサ、入道使いの一輪、見越し入道の雲山である。彼女たちは事前に『ナズーリンは星の監視役である』と聞いていたためか、必要以上にナズーリンと接触しようとはせず、むしろナズーリンの監視から星を守るようなそぶりすらあった。とはいえ普段の態度はいたって穏便なもので、彼女たちはナズーリンを見かければ気さくに挨拶をし、「たまには一緒に修行しない?」と誘ってくるのであった。
ナズーリンは「私は仏は信じてないよ」の一点張りでそれらの誘いを突っぱね、星の見張りに専念していた。聖たちの正確な宗派は不明だが、密教と修験道の混じった肉体鍛錬重視の教えを実践しているらしく、健全な肉体を鍛えて豊かな精神を養うべし、という方針なのか、彼女たちは寺の内に篭って読経に勤しむよりも早朝から寺中の掃除に駆け回ったり深山に入ったり、とかく毎日忙しない。肉体派でないナズーリンは仏に帰依していなくて本当によかったと心から思った。
もっとも、掃除と炊事と洗濯だけはナズーリンにも等しく担当が回ってくる。星曰く、いくら毘沙門天の使いといえども『下働き』は来賓扱いはしないとのことだ。ナズーリンは自分の心にもない謙遜を少し後悔した。
監視を続けていれば、星があまり虎らしくないと感じた理由もわかってきた。
彼女はいわゆる妖獣――長生きした獣が妖怪化したものではない。大陸の虎を知らない秋津島の人々が、虎とはどんな恐ろしい生き物なのかと畏れを膨らませた結果、生まれ落ちたのが寅丸星という妖怪らしい。らしい、というのは、本人ですら自分の出自を聖から聞いただけではっきりと覚えていなかったからだ。
「私が出会ったときには、いつ消えてもおかしくないほど曖昧な存在だったんですよ」
と、聖は語る。妖怪としての自我をしかと持たず、消えかけていた星に名前と寺を守る役割を与えて存在を安定させたのが聖だったらしい。いわば命の恩人だ。星がずっと「聖様、聖様」と親の後を追う子供のように聖を慕っているのはそのためか、とナズーリンは納得した。
「役目を与えたいまとなっては見違えるほど生き生きとして。私としても安心しています」
「人間のくせに妖怪を助けるなんて、聖は変わってるねー」
ナズーリンは遠慮なく告げる。自分は仏教信者でも聖の弟子でもないと思っているので、聖に対しても砕けた口調で話すのだ。初めに星に目撃されたときはものすごい顔で詰め寄られたものだが、当の聖が「それで構いません」と言ったため、そのままとなっている。
「私は妖怪ですよ。妖怪僧侶」
「でも周りの人間はそう思ってないでしょ? 妖怪退治を引き受けてくれるありがたい聖様って」
「妖怪退治も本当に請け負っていますよ。星とムラサがそうでした」
「妖怪は妖怪に対して『退治する』って言わないんじゃないかなー」
「貴方が私を人間と見做したいならそう思っていても構わないんですよ、ナズーリン。人間と妖怪の境界はとても曖昧です。私のように人間が妖怪になるだけでなく、もしかしたら妖怪が人間になる……なんてことも、あり得ないとは言い切れませんからね」
「はへー」
ナズーリンは(私が人間になるなんてゴメンだけどね)と思いながらぼんやりうなずく。
見上げれば金の真砂をまぶした地に紫雲が立ち込めるような不思議なあわいの長い髪、実年齢に似つかわしくない、息を呑む若々しい面差し。老いを拒絶した姿は神仙の果実を食らった仙人かと錯覚するよう。見た目だけで判断するなら聖はどう考えたって、自認通り人間ではない。
ただ、人間も妖怪も皆平等であると発言する聖からは、なんと形容するべきか、どこか人間くささが滲む。妖怪はナズーリンがそうであるように往々にして人間を見下している。強い者は弱い者と同列に語られるのを好まない。ならば聖の平等主義は、聖が元は人間であったことに由来するのではとナズーリンは睨んでいる。
(ま、一輪とムラサ? も元人間らしいし。どうもこのお寺って妖怪まみれの割には人間の出入りが多いのよねー)
そう考えると、この寺で純粋な妖怪といえるのは星と雲山くらいかもしれない。雲山に関しては、あまりに厳めしい顔つきと拳の重さから、強い者から逃げたがる性のナズーリンが一輪諸共避けているのでほとんど言及すべき点はないが、仮の主人である星はどうか。
「ナズーリン、こんなところにいたの」
そのとき、ちょうど見計らったかのように星が聖とナズーリンの元を尋ねてきた。初めて会ったときこそ袈裟に身を包んでいた彼女だが、いまは偶像の毘沙門天を模した異国情緒のある神様らしい風貌となっている。
「聖、お昼過ぎからの法会について相談を」
「そうね。ナズーリン、貴方はどう?」
「私は法会になど出ませんよ」
「仕方ないわね」
星はため息をつく。
「なら廊下の掃除をしてきてちょうだい」
「はいはい、私は下働きですからね」
「あの、聖。毎度のことですみませんが、領巾の……背中を確認してもらってもいいですか? どうにも自分では見えないと落ち着かなくて」
「ええ、いらっしゃい。いつも綺麗に着付けられていますけどね」
部屋を後にする前に、ナズーリンは星と聖を振り返る。星は法会など来客の対応の前に、決まって聖に衣装の確認を求めに行く。星は手先は器用な方なのか、ナズーリンや他の修行僧の手助けを一切借りずにいつもひとりで着付けを終えるのだが、最後の確認だけは聖にやってもらわなければ気が済まないらしい。
聖の前でだけ、星の顔つきはほんのわずかに幼くなる。歳の離れた姉を見上げるような、あるいは母を見上げるような、そんな眼差しだ。
聖はいつも星の眼差しをまっすぐに受け止めて、着物の袷や帯の締め具合を確認し、背中を向けるように促す。しわもよれもないことをしっかり確かめて、最後に聖は星の背中を軽く叩く。
「ええ、問題ありません。すっかり毘沙門天様らしい格好をしていますよ」
「本当ですか?」
「はい。あとはもう少し顎を引いて、口元も凛々しく引き締めて……そう、今日も立派ですよ、星」
「……ありがとうございます、聖」
聖は満面の笑みを見せ、星は少しはにかむ。これももはや見慣れた光景となったが、ナズーリンは未だに身体がむず痒くなる感覚を覚える。足早にふたりの元を離れた。
確かに、きちんと衣装を整えた星は毘沙門天らしい見た目である。立ち居振る舞いも、悔しいがナズーリンがケチをつける隙はほとんどない。星の仕事ぶりは及第点、いや、はっきり言えば優秀そのものだった。
それでも本物の毘沙門天を知るナズーリンは「ぜんっぜん違う!」と叫びたくなる。毘沙門天は破邪の神で、いつも悪なるものを睨みつけるために厳しい顔をしている、とは人間の勝手な想像で、本当の毘沙門天はもっと表情豊かだ。衣装もあんなヒラヒラゴテゴテしたものだけではない。
しかしそんな見てくれの話は瑣末なことだ。なら何がナズーリンを落ち着かなくさせるのか――おそらくは星と聖、ふたりの間に交わされる眼差しに、確かな信頼が宿っているのが伝わってくるからだろう。
別に、星が聖を一番に慕っているからって、毘沙門天を蔑ろにしているとは思わない。聖への敬愛も、毘沙門天への信心も、紛れもない本物だろう。そして聖が星を見つめる慈愛に満ちた眼差しは、なるほど、それほど信頼している愛弟子だからこそ毘沙門天の代理という大層な役目を任せたのだな、と納得させられる。
ナズーリンは聖を特に尊敬はしない。立派な僧侶なのはわかるが、聖の慈母のような、善人然とした態度に、どこか胡散臭さを覚える。それがこの寺の中で自分しかいないのは理解していた。元は人間だった妖怪僧侶が、果たして誠の善人たり得るか。善人らしき人物に瑕を探さずにいられない心は、我ながら自分の器が小さく見える。君子を僻む小人に思えてくる。
だからふたりの信頼関係から目を逸らしたいのか。ナズーリンは燻った気持ちを拭うように、いつもより力強く雑巾掛けをした。
◇
寅丸星を監視する日々は続く。悔しいがナズーリンが躍起になって粗探しをしても、小鼠たちを走らせても、星にこれといった落ち度は見つからず、あってもナズーリンの言いがかりとしか言えないようなものだった。そのため、ナズーリンは定期的に毘沙門天へ星の態度を報告する際、いつも『まあ、妖怪にしてはうまくやっているようですよ』と当たり障りのない内容しか述べられないのであった。
ある日、ナズーリンは星が不在の部屋に忍び入ったことがあった。
聖の弟子たちは皆、肉体を鍛える修行を好むが、星は屋内に篭ってひたすら経典を誦じたり、書物を読み耽ったりしていることが多い。部屋の中には経典を納められた箱がいつくも積み上がっており、机の上にも読みかけと思わしきものが広げられていた。
ナズーリンはさっと目を通して、一番上に広がっている巻物が経典ではないと気づいた。巻頭を確かめて、
(あ、なーんだ、韓非子か)
と、星が開きっぱなしだった箇所の隅にしるしを挟み、するすると巻物を広げる。身分のある人間たちは漢籍を好んで読むが、星もまた聖の影響で読むのだろうか。流麗な書体で綴られた書物には、ところどころ星自身の筆跡と思われる書き込みがあって、朱線が引かれたり、備忘録と思わしきものが細かな字で文字の隙間に並んでいたり、相当読み込んでいることが伺える。
ナズーリンはしるしをつけた箇所へ戻る。難勢と題された、勢と賢、いわば権勢と賢智の優劣を論ずる項目だ。ある人物が慎子の例を引き合いに勢の優を語る場面から始まる。
『賢人にして不肖に詘するは、則ち権軽く位卑ければなり。不肖にして能く賢を服するは、即ち権重く位尊ければなり。……吾れ此れを以て勢位の恃むに足りて、賢智の慕うに足らざることを知るなり』
(ま、言わんとするところはわかるのよねー。賢将としては賢智を軽んじられるのはちょっと引っかかるけど)
ナズーリンも、自分が他者に優位に振る舞えるのは毘沙門天の威光あってこそだと理解している。毘沙門天に対する恩義はあまりに大きく、改めて感服と尊敬の念が募るのである。
読み進めれば、また別の人物が否を突きつけ、賢が勢に勝るという主張が展開される。
『人の情性、賢者寡なくして不肖者衆し。而して威勢の利を以て、世を乱すの不肖の人を済くれば、則ち是れ勢を以て天下を乱る者は多く、勢を以て天下を治むる者は寡なからん』
(まあそれもそう)と思いながら読み進めれば、初めにしるしをつけた箇所まで戻ってきた。星によって朱線を太く引かれた箇所が、否応でも目を引いた。
『故に周書に曰わく、虎の為に翼を傅くるなかれ。將に飛びて邑に入り、人を択りて之を食らわんとすと』
――虎。
心なしか、虎の文字だけ朱の墨が多く滲んで太く膨張しているように見える。文字の隙間には星の手書きらしき備忘録があり、『周書に、武王が殷の人々に苛まれる夢を見て、殷を攻める計画が漏れたのではないかと周旦公に助言を求めた話がある。周旦公は武王を宥めつつ三徳(仏教の三徳とは違うようだ)の心構えを説き、虎の為に翼を傅くるなと諭した。不驕不吝を心掛ければ王に敵はなしと』と書かれていた。
(虎の為に、翼を傅くるなかれ)
ナズーリンはその文句を口の中で転がし、翼を持った虎の姿を想像してみた。地を這う獰猛な虎が、更なる獲物を求める術を得てしまったら――ぶるっと背筋が寒くなった。
『夫の不肖の人を勢に乗ぜしむるは、是れ虎の為に翼を傅くるなり』
『勢は虎狼の心を養いて、暴乱の事を成す者なり。此れ天下の大患なり。勢の治乱に於けるや、本未だ位有らざるなり。而るに語に、専ら勢の以て天下を治むるに足るを言う者は、則ち其の智の至る所の者浅し』
その後は筆者(韓非子)と思わしき人物の総論が続くが、星が主に読み込んでいるのはこの辺りまでのようだ。
(うーむ)
ナズーリンは腕を組み考え込む。
虎の為に翼を作るな、とは、ただでさえ強力で勢いづいている者を、さらに増長させる真似をするなという戒めらしい。
いまでもナズーリンは星をあまり虎っぽくないと思っている。獣のような獰猛さも強靭さもなく、身体を鍛えるのを好まず、僧侶なので一切の肉を口にせず、ただ粛々と日々の勤行や毘沙門天の勤めに励むのを是としているような姿は、まさに賢を尊び勢を遠ざけているようで、ナズーリンは毎日目を光らせているが、星から獣性を感じ取ったことは一度もない。
しかし星が自戒の意を込めてこの箇所に朱線を引いたのは明らかだ。なら星は自らの獣性を自覚しているのだろうか?
「何をしているの?」
そのとき、背後に星が現れた。星はナズーリンが巻物に目を落としているのを見て苦笑し、
「盗み読みとは関心しませんね」
「置きっぱなしにしておくのが悪いんですよ。誰かに見られて困るものならきちんと箱の中にでもしまって隠しておくのがよろしい」
「確かにそうね。監視の鼠がいると知りながら片付けなかった私が悪い」
星はナズーリンの嫌味をさらっとかわして、「聞いたわよ」と机の上の巻物を片付けながら言う。その声には珍しく部下を咎める色が滲んでいた。
「貴方、ムラサのお経をかじったんですって?」
「私じゃありません。私のしもべの小鼠が粗相をしたのです」
「しもべの粗相なら、どのみち貴方の不手際ではないの? 貴方は無理にお経を読まなくてもいいけど、ここは修行の場、御仏の尊い教えを記した経典に手を出すのは罰当たりですよ」
「それこそそちらの不始末というものです」
ナズーリンはなんとなく語気を強めた。しもべがときどき悪さをするのは知っていたし、別に素直に「申し訳ありません」と言ってもいいはずなのだが、どうも星に対して平身低頭の姿勢ばかりでは侮られるような気がしてならないのだ。ナズーリンは気づいていないが、あるいは先ほど読んだ『虎の為に翼を』という文句が引っかかっていたのかもしれない。
「鼠は歯が頑丈で、定期的に何かを齧らないと落ち着かないんです。そこにちょうどいいものがあった。それだけのことですよ。ただ、人間は鼠を毛嫌いしますからね。元は人間だったムラサが拒絶反応を示すのも無理はないことです」
「私が問題にしているのは信心よ。信心に人間か妖怪かなんて関係ないわ」
「どうでしょう? 信心より鼠の害を問題にしているように思えますよ。貴方は私をいつまでも警戒しているようですし……ま、毘沙門天様の代理としては正しい行動ですが。それはそれとして、人間は臆病なんですよ。いつか経典が食い荒らされるのを妖怪鼠の仕業に仕立て上げても驚きはしません。見たこともない大陸の獣に怯えて貴方という妖怪を生んだようにね」
「そうね、ちょうど目の前にいるかのように思い浮かべられるわ、寺に害をなすその妖怪鼠が」
星はため息をついて、「ムラサには謝っておきなさいね」と言う。そのまま下がらせてもらえるのかと思いきや、星はまだ話を続けた。
「ナズーリン、私が妖怪に見える?」
「妖怪以外のなんだって言うんです? まさか貴方まで実は元人間でした、なんて言いませんよね?」
その答えはしばしの沈黙だった。単なる冗談のつもりだったナズーリンは(えっ?)と焦る。まさか星まで聖や一輪やムラサの同類なのか?
ナズーリンの動揺が見てとれたのか、星はくすくす笑った。
「それは私にもわからない」
「はい?」
「貴方も知ってのとおり、私は人間の恐れから生まれた虎です。大陸では、欲と罪の深い人間が虎になる伝説があるそうだけど、私の正体がそうかまではわからないのよ。臆病な人間たちが想起した虎には、どんな想像が含まれていたのか。……残忍で凶暴な野生の人喰い虎? それとも罪深き人間の成れの果て? どちらにせよ、恐ろしいことに変わりはなさそうだけど」
何がなんだかわからず置いてきぼりなナズーリンをよそに、星は淡々と話をまとめる。
「まあ、私は自分が人間だと思ったことはないし、側からもそう見えないんだったら、妖怪だと言い切っていいんでしょうね」
「はあ」
なんか勝手に自己完結されたな、と脱力する。このままでは面白くないのでナズーリンも少しだけ食い下がることにした。
「でも星様はあんまり虎っぽく見えませんよ。初めてお会いしたときからずっと」
「それはいい意味で? 悪い意味で?」
「さあ、どちらでしょう? 星様に虎狼の心があるか否かでしょうね」
ナズーリンがわざとらしく星がしまった韓非子に目を向ければ、星はふっと口元を緩めて「賢と勢との相い容れざること、亦た明らかなり」とつぶやいて、
「『夫れ隠栝の法を棄て、度量の数を去れば、奚仲をして車を為らしむるも、一輪をも成すこと能わず』……結局は法の力に如くものはないと思わない?」
「おや、韓非子と同じ結論ですか。貴方は智の方が尊いとおっしゃると思っていましたが」
「私は三宝と毘沙門天に帰依する身だもの」
広げた書物をすっかりしまい終えた星は、「今度からは勝手に部屋に入らないでね」と釘を刺して、ナズーリンより先に部屋を出ていった。
その後はどんなにナズーリンが隙を窺い、星が不在の間に侵入を狙ったり小鼠を忍ばせたりしても、星の部屋から書物が出てくることはなかった。さすがに『隠したいものは隠せ』と言った手前、隠している書物まで漁る真似はできない。毎日大量の経典や漢籍を読んでいるようなのに、ずいぶん徹底している。
ナズーリンはあの日、偶然見かけた書が韓非子の『虎の為に翼を』であったのが幸運だったのか否か、と考えた。
◇
その日は静かな夜だった。
鼠は夜行性だが、寺の早朝に起きて早くに寝るという生活に慣れてしまったせいか、ナズーリンも夜は大人しく眠っている。とはいえ、長年の監視の慣習や耳のいい鼠の特性から、夜のしじまに響くどんなに小さな物音にも敏感に反応してしまうため、眠りはどちらかといえば浅い方だ。
誰かが起き上がって抜け出す気配がした。それが星のものなのはすぐに気がついた。
すかさずナズーリンは小鼠を起こして寺の内を密かに探るよう命ずる。報告によれば、他に誰かが起きた気配はなく、まだ誰も気づいていないとのことだ。
ナズーリンは夜の暗がりをものともせず、慣れた忍び足で星の足取りを辿る。外の井戸へ向かったようだ。もしや単に喉が渇いただけか、とも思ったのだが、苦しそうにえづくのを必死に抑えているのが微かに聞こえる。
「星様?」
ナズーリンは迷わず声をかけた。夜中に起き出してなんの目論見だ、と警戒したのだが――意外にも星は口元を布で押さえ、井戸の目の前で蹲っているのだった。
ナズーリンの呼びかけに気づいた星が振り返る。夜の暗闇の中で様子はわかりにくいが、いつもより青ざめた顔をしている気がした。かすかに饐えたにおいが鼻をつく。
「ごめんなさい、起こしちゃったかしら」
「えーと……水、いります?」
「大丈夫よ、ここにあるから」
星は微笑みを作って傍らにある桶を指差した。となると、夜中に突如体調を崩したと見てよさそうだ。いつも健康な姿しか見せない星には珍しいことだった。
「私はいいから戻りなさい。貴方の他に、誰か起きてた?」
「いえ、私だけです」
「ならこのことは誰にも言わないで」
星はまっすぐにナズーリンを見つめてきた。空の星明かりがちかっと光って、一瞬だけ見えた星の目は真剣そのものだった。
「誰にもよ。他の誰にも」
「……聖にも?」
「当たり前でしょう。わかったなら早く戻りなさい。私ももうすぐ自分の部屋に戻るから」
星の有無を言わせぬ物言いにナズーリンはたじろぐ。このままここにいても星は動かないだろうし、介抱もさせないだろう。ナズーリンはすごすご自分の寝床に戻った。
(私はともかく、みんなにまでそんなに弱みを見せたくないものかなあ)
誰にもと釘を刺されてしまった以上、告げ口はよした方がいいだろう。
それにしても、とナズーリンは布団の中で寝返りをうちながら思う。星が調子悪そうにしているのを初めて見た。どんなにナズーリンが嫌味を言っても、監視を強化しても、それとなく毘沙門天の威光を笠に脅してみても、いつも太々しいほど堂々と振る舞っていて、決して隙を見せなかったものを。それとなく原因を頭の中で探るが、一向に思い至らない。
やがて、星が自室に戻った気配がした。他に動き出す気配は何もない。ナズーリンはとろとろと眠りについた。
星の不調の原因を、ナズーリンは早くも翌日に知ることとなる。
「たまに、水底から呻き声が聞こえてくるような気がするのよ。水のある場所でもない場所でも。いつも幻聴なんだけどね」
日々の勤めも終わり、来客もなく、比較的暇な午後の時間帯、ムラサと星がふたりで話していた。どちらもこちらに気づいていない様子だったので、ナズーリンはそのまま聞き耳を立てた。
ムラサの声は自嘲に濡れていた。
「かつて私が沈めた人たちが、助けてくれ、助けてくれって、必死にもがきながら私の方に手を伸ばしてくるの。私が黙って水嵩を増してやれば、その声は遠く沈んでゆくけど、あの悲痛で怨念に満ちた声がいつまでも耳にこびりついて離れない……無数に伸びてくる手が、私をつかんで諸共に溺れさせようとしてくるんじゃないかって」
「……」
「そういう夢を、いまでもときどき見るのよ。まさか星までそうだったなんて思わなかったけど」
ナズーリンは耳に神経を集中させた。星は慎重に、注意深く言葉を選んで答えたようだった。
「忘れたくても忘れられないものよ、罪障や宿業というのは。いいえ、たぶん一生忘れない方がいいんでしょうね。――血が迸る肉の味を覚えている。骨を噛み砕く感触を覚えている。それでも満たされない飢餓の苦しみを覚えている。思い出すだけで鳩尾のあたりが気持ち悪くなってくるわ。もうあんな思いを味わうのは嫌」
やはりそうか、とナズーリンは納得する。昨夜、星は確かに嘔吐していたのだ。
「もういまの私は虎には戻れないだろうし、戻りたくない」
「そっか。私は……どうかな。また誰かのことを溺れさせたくなるかも、って言ったらどうする?」
「みんなでムラサを止めるわよ。特に雲山は力持ちだから、貴方を押さえることも溺れた人を助けることも簡単にできるでしょうね」
「それは心強いなー」
ムラサの声が、心なしか先ほどより明るくなったようだった。
「聞いてくれてありがとね。どうもこういうのは一輪には打ち明けにくくってね」
「あら、どうして?」
「だって、雲山はともかく一輪は何かの罪を犯したわけじゃないでしょう」
「そうかな。生きてきて一切の罪を持たないままでいられる人間や妖怪がいるかしら」
「そういう抽象的な話じゃなくってさ。その点、星はほら? 同病相憐れむってやつ」
「失礼しちゃうわね」
「だけど星の話も聞いてあげたでしょ?」
「……それは、そうね」
ナズーリンは不意に、星は本当に自分が聞き耳を立てていることに気づいていないのだろうかと落ち着かなくなる。知っていたら気の置けないムラサ相手にも口を噤んでいたのでは? それとも、敢えてナズーリンにも聞かせるつもりで話しているのだろうか?
「ムラサ、私が虎に見える?」
「本物の虎は見たことないけど、絵巻の虎にはちょっと似てると思うよ」
「虎は恐ろしい獣だと思う?」
「……そりゃあ、いい印象はあまりないよ。あんたに向かって言いにくいけど」
「それでいいのよ。私も虎が恐れられる獣だっていうのはわかってるから。強くて恐ろしい虎が、さらに力を持って手の付けられない化け物になったら、みんな困るでしょうね?」
「それこそみんなで止めるわよ。でも大丈夫、あんたはお役目もお勤めもいつもよくやってるって。あんたのおかげでお寺の切り盛りが前よりずっと楽になったって、聖様もいつも言ってるんだよ」
「……そう、聖が」
ナズーリンは星が緩く微笑む姿が目に浮かぶようだった。
「私が恐ろしい虎に戻らずにいられるのは、仏の道を示してくれた聖のおかげよ。私だって、いつも聖に感謝しているわ」
そこまで聞いてから、ナズーリンはそっとその場を後にした。いつもより少し時期は早いが、毘沙門天に星や寺の様子を報告に行こうと思った。毎度のことだから星に挨拶をしておく必要もあるまい。
(毘沙門天様は仏教だけの神様じゃないわ)
と、財宝神としての毘沙門天を慕うナズーリンは思うものの、当の毘沙門天は自分の信仰が広まるならどこの宗教に引き寄せられても構わないと考えているようなので、ナズーリンには口出しができない。気づけば寺に寄越されてから数年が経つが、ナズーリンは仏教徒になるつもりは一切ない。
久々に帰ってきた毘沙門天の住まいはやはり絢爛豪華、財宝に溢れていて安心する。寺の調度も極彩色で豪華といえば豪華なのだが、いかんせん護摩や芥子のにおいが煙たくてしかたない。
仰ぎみれば、毘沙門天は相変わらず威風堂々と立派に佇み、声ははきはきとしながら身体の奥深くまで響く抑揚があり、ナズーリンは早いところ厄介なお役目から解き放たれて毘沙門天の元へ戻りたいものだと思う。
「寅丸星は」
ナズーリンはいつものように、事細かに星が毘沙門天の代理としてどのように振る舞っているか、よくよく毘沙門天に言い聞かせようとして、ふと途中で星が深夜に井戸の前に蹲っていたことや、ムラサとの穏やかでない会話などを思い出す。
これも毘沙門天に告げ口してしまおうか。星の仕事ぶりは渋々認めているものの、心はいつだって毘沙門天の元にある。星たちが仏への信仰を手放せないように、ナズーリンにだって譲れない信心があるのだ。
ところが、いざその話題を切り出そうとしたところで、ナズーリンの脳裏に『誰にも言わないで』と告げた深夜の星の目が蘇る。
(ああっ!)
そのとき、初めてナズーリンは思い至る。あのときはてっきり聖たちに心配をかけたくない一心から出たものかと思っていたが(ムラサにだって、夜中に嘔吐したことは一言も告げなかったではないか)、思い返せば、単なる念押しにしては妙に力が入っていた。あの『誰にも』は、毘沙門天に告げ口するなという釘刺しの意味でもあったのだ。珍しく弱っている姿を見せたかと思えば、とんでもない、星はあのときも自らの立場やナズーリンの役目を忘れていなかったのだ。気丈というか、したたかというか……。
(あの小娘ー!!)
そんな口約束、放っておけばいい。うっちゃればいいのだが、ナズーリンは言葉に詰まってうまく話せない。星は特別な言霊で他者を操るわけでもないし、誰かを魅了する魔術を持っているわけでもないのだが、あの意志の強い金の目でまっすぐに見つめられ、言葉をかけられると、不思議と相手は言葉を失い押し黙ってしまう。まるで、神か仏の威光をその身に宿しているかのように。
結局は「まあ、ただの妖怪にしてはよくやっているようです。とはいえ油断はいけませんからね、これからも厳しく監視に励む所存です」と、いつもの当たり障りのない報告に終わってしまうのだった。
◇
「どうして毘沙門天様は護法の神様なんぞになってしまったのでしょうね」
ある日、ナズーリンは星に語気荒く直接問いかけてみた。星は少し考えてから、
「聖徳太子がきっかけではないかしら。その昔、太子は仏敵の物部守屋を討伐すべく、さる山に至り戦勝を祈願しました。そこで太子の御前に顕現なされたのが、戦の神としても知られる毘沙門天様です。見事に勝利を果たした太子は毘沙門天様を厚く信仰し、その山は信ずべき貴ぶべき山と呼ばれ、そう、この信貴山の名付け親こそ聖徳太子でした。その後太子が仏教を広めたのは言うまでもありません。国の政と仏教が深く結びつく中で、毘沙門天様もまた仏教の中で護国と護法の神として崇められるようになりました。信貴山は聖徳太子と仏教と毘沙門天様と、それらを信仰する聖の弟様、聖、そして私たちを繋ぐ重要な地です。……まあ、毘沙門天様の弟子である貴方にはここまで説明しなくてもよかったかしら?」
「えーえー、私はあいにく太子も大師も興味がありませんのでね、そんなことどうだっていいんですよ」
ナズーリンは苛立たしげに尻尾を畳に叩きつける。
「毘沙門天様が戦の神とされているのはこの際いいですよ、私が初めてお会いしたときにはもうそのような性格を備えていらっしゃいましたから。ですがね、星様、大陸の毘沙門天様は、大元はクベーラとも呼ばれた財宝神ですよ、財宝神。貴方に初めにお預けした宝塔が財宝を生み出す力を持っていること、お忘れではないでしょうね? その力こそが毘沙門天様の真の神徳です。どうも貴方を始めとしたお寺の妖怪たちは、そのありがたいご神徳に対する理解が浅いようにお見受けしますよ」
熱っぽいナズーリンの語りに対して、星は相変わらず平然としている。
「そうかしら。一柱の神様が複数の神徳を持つのは珍しくないでしょう」
「では貴方は毘沙門天様を財宝神として崇めていますか?」
「護法の神様として仰ぐのはそんなにいけないこと?」
「毘沙門天様が納得なさっていても私は納得いきません」
ナズーリンは強く食い下がるも、星は首をかしげるばかりである。
(この人もしかしてとは思ってたけど、まさか、ね)
単なる監視役とはいえもう数年の付き合い、星たちの価値観はある程度把握してきた。
ナズーリンは星が財宝をありがたがる姿を一度も目にしたことがない。それを裏付けるように、星は首をかしげたまま、
「申し訳ないけど、私にはむしろ貴方のこだわりの方が理解できないわ。どうしてそんなに財宝が好きなの?」
率直で純粋な問いかけに、ナズーリンは顔が引き攣るのを感じた。
普段、ナズーリンが発する皮肉と嫌味の攻撃には、星は相手の意図をしっかり理解した上で、言葉尻を捉えてひっくり返すような当意即妙な返しを間髪入れずに放ってくる。しかしいまのやり取りには普段の手ごたえがまるでない。星はわざとすっとぼけているのでも意地悪く構えているのでもなく、本当に財宝の価値が理解できないようだ。まるで人形を相手に問答しているかのようで、不気味さすら覚える。
「まさかとは思いますがね、貴方が生まれて数十年と経たない妖怪だから財宝の価値が理解できない、なんて言いませんよね?」
「そうねえ、そうかもしれないけど、まったくわからないわけでもないのよ? 財宝は浄土を煌びやかに飾り立てるものだから。御仏のおわす地は美しい方がいいに決まっているわ」
仏教が絡んでようやく話が成立してくるところが星らしい。星の価値観の根本に仏教があるのはもう諦めた方がよさそうだ。
「でも財宝で飾られる浄土って、西方極楽浄土のことなのよね。最近、浄土思想が巷を席巻しているようだけど、私たちとしてはどうもあの思想はねえ、素直に受け入れがたいというか」
「えっ、浄土ってひとつじゃないんです?」
「仏様の数だけありますよ。もちろんすべての仏様が持っているわけではないけど」
「へえ。なら東方にも浄土があるんですかね」
「東方は薬師様の浄瑠璃浄土ね。でも私たちの目指す浄土はやはり大日如来の密厳浄土です」
「みつ……? どこですかそれは」
「それはね」
星は改めてナズーリンに向き直り、口角を少しだけ持ち上げてナズーリンの目をじっと見た。
「この世です」
「……はい?」
「わざわざ死後に浄土を求めなくても、この世は浄土になり得ます」
「え、あの……え?」
「もちろん何もしないで浄土に行けるほど甘くはないわ。貴方もここに来て長いのだから、少しは仏様の世界を理解してもいい頃ね」
賢将の誇りはどこへやら、ナズーリンはもう何がなんだかわからない。ただ、星の滔々とした語りは聖の弟子、一人前の僧侶らしく堂々としていて、思わず聞き入ってしまうものがある。
「ナズーリン、貴方は財宝がたくさんあれば幸せだと思う?」
「それは、もちろん」
「貴方はそういう信仰なのね。なら宗教は、信仰は、幸せになるための手段だと貴方もわかっているわね?」
「は、はい」
「私たちが修行をするのは死んでから幸せになるためではないの。この世の真理を解き明かし、大日如来の宇宙と一体になれれば、穢土も浄土に変わり得る。この世で幸せになるために日々のお勤めに励んでいるのよ」
ナズーリンは頭がくらくらしてきた。真理ってなんだ、宇宙ってなんだ、こんな穢れまみれのこの世が浄土になり得るだって?
もう話についていけそうにない。そう判断したナズーリンは、せめて本物の毘沙門天の弟子らしい振る舞いは忘れないようにしようと思って、
「浄土でも真理でもお好きに目指せばよろしいが、いいですか、毘沙門天様が初めは財宝神であったことはくれぐれもお忘れなく。貴方は確かに財宝神としての毘沙門天を託されたのだから」
と、宝塔を示して釘を刺した。
「貴方も相当に信心深いのね。まあ、いいでしょう。私にはあまり財宝のありがたみはわからないけど、それもまた正しい道のひとつ」
ようやく落とし所が見えてきたか――と思いきや、きらりと星の目が光る。強い意志が宿るとき、星の目は黄金よりも輝き琥珀よりも透き通る。
「ナズーリン、貴方も知っているわね。信仰はときに命より重い。仏教の昔話には尊い教えを得んがために、あるいは菩薩道を実践するために、自らの身を投げ出した話が珍しくない。――私もまた、信仰のためなら、惜しくない命です」
ナズーリンは目を剥いた。この人は真面目な顔をして何を言い出すのだろう? ナズーリンがさんざん毘沙門天様に恥じぬ振る舞いをせよと圧力をかけすぎて自棄を起こしたのか?
いや、違う。星はハッタリをかますことはあっても嘘はつかない。本気でそう思っているとナズーリンに、その後ろに控える毘沙門天に訴えているのだ。
ナズーリンは逃げ出したくなりながらも、最後の意地で踏ん張った。
「しゅ、しゅ、出家の身で自害したらじょ、成仏できないんじゃなかったんですか?」
「ええ。何もいますぐに死にそうだとか死ぬとか思っているわけではありません。ただ、今日の貴方はやけに張り切っているというか、貴方もなかなか強固な信仰を持っているようなのがわかったので、私も覚悟を見せた方がいいと思ったまでよ」
「その信仰は、毘沙門天様にも向けられているもので間違いありませんね?」
「私は三宝を敬い、毘沙門天様に帰依し、聖と理想を共にするひとりの僧侶です。毘沙門天様にお目通りが叶うなら私の信心の深さがわかっていただけるでしょうけど、まあお忙しい毘沙門天様を煩わせるわけにはいきませんから、本来の弟子である貴方から伝えておいてちょうだい」
そこまで言われては、さすがのナズーリンも引き下がるしかなかった。
ただただ、星に圧倒されて終わった。まるで蛇に睨まれた蛙だが、彼女から感じた威厳は、獰猛な獣が獲物の小動物を威嚇するときのそれではなかった。あくまで穏やかに、厳かに、堂々と。虎の妖怪としてではなく、毘沙門天の代理としての風格を見せ切ったのだった。
ナズーリンは今回の件をどう毘沙門天に告げ口してやろうかと考えたが、信仰の為に命を賭す覚悟だと聞けば、毘沙門天はかえって天晴れな心意気だと喜びそうだ。
(本当にもう、どうなっちゃってるのよ! こんなはずじゃなかったのに!)
ナズーリンは歯噛みする。いかに聖や山の妖怪たちからの信頼が厚いといっても、所詮はただの妖怪、おまけにナズーリンは探し物が大の得意ときている。すぐさま星に何がしかの粗を見つけられるはずだった。
ところが星はあまりに優秀すぎる。野蛮な獣性を抑え込み、妖怪の身でありながら神仏への信仰は厚く、ケチのつけようがない。気がつけばこの寺にやってきて何年が経つだろうか。
(私はいつまでこんなところにいなくちゃならないのかしら)
辟易したナズーリンの願いは、意外な形で叶えられることになる。
――聖白蓮は妖怪の味方をする悪僧である。
正体を暴いた人間たちによって聖が魔界の地に封印され、聖の弟子たちも命蓮の宝物諸共地底に封印される中、ナズーリンまで地底に追いやられることになってしまったのだ。地上にはただ、毘沙門天の代理として最後まで正体が割れなかった、星ひとりが残った。後から事の次第を知る者がいたら「なんと優秀な妖怪よ」と鼻で笑ったかもしれない。
◇
帰りたい。
いますぐに帰りたい。
奥歯をガチガチ鳴らしながらナズーリンは小鼠たちと抱き合う。
一輪と雲山、ムラサとともに堕とされた地底のなんと暗く、冷たく、恐ろしいことか。
遠くから聞こえてくるおぞましい叫びの正体は何者だろう。ぐつぐつと煮え立つ音は? 怒声に混じる啜り泣きは? 鼻をつく異臭は?
――ここは地獄の入り口だろうか。
いますぐ帰りたい。世界で一番安心できる毘沙門天の温かな膝下で丸くなって眠りたい。
(ああ、やっぱり毘沙門天様のご命令なんか聞くんじゃなかった! 適当な言い訳を繕ってさっさと逃げていればよかった!)
頭を抱えて叫び出したい気持ちになったが、すぐそばに一輪たちがいてはそれもできない。星とも離れてしまい、これではもはや監視役としての使命も果たせない。
なんの因果で、ただ自分の主人に相応しいか否かを品定めしようとしただけで、地の底まで突き落とされなければならないのだ。星がここにいたら、これもまた前世の業だと説くのだろうか?
「ねえ、ムラサ」
一輪の固い声が響く。ムラサはあまりの出来事に呆然とし、声もなく涙を流していたようだった。
「この船、本当にもう動かせないの?」
一輪が指差した方向を、ムラサは涙を拭ってゆるゆると追いかける。そこに打ち捨てられたように佇んでいるのは、聖がかつてムラサに与えた船だった。命蓮の宝物とともにこの船も地底に封じられたらしい。
ムラサはもつれる足で船に歩みより、震える手つきで船の点検をする。やがて、悔しそうに首を横に振った。
「無理。念入りに封印が施されて、私の力が注げないの。弟様の遺品は、私には扱えないし……」
「そっか。動かせるなら、みんなで逃げられると思ったのに」
「逃げるって、どうやって? ここから地上までどれくらいの距離があるの? 仮に船が動いても私がそこまで舵を取れるかわからないよ? ああ、やだ。暗いのは嫌。またあの水底に閉じ込められたみたい……」
「ああもう、まーたそうやって泣く。『浅みこそ袖はひつらめ』っていうけどさ、あんたは誰かを沈める前にいつか自分の涙で溺れるわよ」
「私の涙が川になったら、いの一番に一輪を沈めてやろうか」
「はいはい、それだけの軽口が叩けるなら思ったより元気そうね」
その言葉でムラサの涙が引っ込んだようだ。こんな状況でも、まだ一輪は諦め切っていないらしかった。傍らに佇む雲山も、いつもの力強い手で一輪を守るように構えている。
「……せめて、星がいてくれたらな」
一輪はため息まじりにつぶやく。
「あの子が持ってる宝塔の法力なら、この船だって動かせるだろうし、そしたら聖様だっていますぐに助けに行けるのに」
ナズーリンははっと思い出す。そういえば毘沙門天から預かった宝塔は星に渡したっきりだった。
(回収しておくんだった。あれは毘沙門天様のものなのに)
もはや一輪たちの会話は耳に入ってこない。宝塔さえあれば、並大抵の妖怪や人間には不可能なことも実現できる。
星はひとり、宝塔を手に何を考えているだろう? あるいは、いままで魅力を感じたことのない財宝の力で、地上に味方を増やそうとするだろうか……。
(ああっ! 私の馬鹿馬鹿馬鹿!)
そのとき、ナズーリンの脳裏にあの韓非子の言葉が蘇る。
『虎の為に翼を傅くるなかれ』――力のある者を、さらに増長させるようなことをしてはいけない。いままでは自分が目を光らせていた、聖たちがそばにいた、でもいまの星はひとりきり、誰も諌める者はいない、戒めるものはない。
そんなときに、手に届く場所に力があったらどうする? 偽物の毘沙門天が地上で暴れても、ナズーリンはもう何もできない。
「私が虎に翼を与えてしまった!」
突然叫んだナズーリンに、驚いた一輪たちが振り返る。
「ちょっと、どうしたのナズーリン」
「宝塔を地上に置いてくるんじゃなかった!」
「そ、そりゃあ、ここにあったら役に立ったかもしれないけど……」
「違う!」
ナズーリンは軽い錯乱状態にあった。
「あれは毘沙門天様の神聖なお力なのに、私利私欲のために使わせちゃいけないのに! ああどうしよう、ごめんなさい毘沙門天様、私はあの小娘を放置しすぎた! 私がしっかりしていれば悪用される危機なんて訪れなかったのに! もうやだ! 仏教徒と心中なんかしたくない! 帰りたい、毘沙門天様のところに帰りたい!」
堰を切ったように涙が溢れた。みっともなく取り乱した姿を晒しているのに、体面を取り繕う余裕すらなかった。最後に毘沙門天に会ったのはいつだったか。封印される前に、かろうじて小鼠の一匹を使いに寄越したから事態は伝わっているだろうが、果たして毘沙門天といえどもこの危機に介入できるだろうか。
一輪たちはしばし無言でナズーリンを見守っていたが、やがて一輪がナズーリンの肩に手を置いた。
「帰りたいのは私たちも一緒。落ち着きなさいよ、いつものあんたらしくない」
「なんで一輪はそんなに落ち着いていられるんだよ! こんな真っ暗な地の底に落とされて!」
「落ち着いてはいないけど、簡単なことよ」
ナズーリンがきっと顔を上げると、一輪はまっすぐに天を――正しくは、天上の光が射すはずの頭上を見上げていた。
「いまがどん底だと思ったなら、それより下に行くことはないんだから、あとは死に物狂いで這い上がればいいだけ」
一輪は何事かを雲山に囁くと、雲の身体に飛び乗って、
「ちょ、ちょっと一輪、どこ行くの?」
「周りを見てくるだけよ、ムラサ。それからね、ナズーリン、あんたの心配事は杞憂よ。あんたは星の何を見てきたの? 星はたとえ翼を作られたって、その力を悪用するような奴じゃない。むしろ、自暴自棄になってあの宝塔を『なんの役にも立たないじゃないか』って捨てたりしないか、そっちを心配しておくことね!」
一輪は颯爽と言い捨てて、雲山とともにどこかへ行った。寺にいた頃は彼女とはあまり話さなかったが、一輪が何かにつけて星を呼び出しては息抜きをさせたり話を聞いたりしていたのは知っている。先ほどの言葉からも星への信頼を確かに感じ取れたし、ナズーリンよりもずっと星の性格を理解しているようだった。
「……やっぱ落ち着いてるじゃん」
「一輪はいつも雲ばっか見上げてるようなヤツだから」
呆然としているナズーリンに、ムラサが語りかける。ナズーリンの焦燥ぶりや一輪の快活さに押されて、彼女の涙はすっかり乾いたらしかった。
「ああいう性格はありがたいけど、たまについていけないよね。人間時代に妖怪退治して、聖様に出会って出家して、自分まで妖怪になっちゃって、なんかもー向かうところ敵なしっていうか……」
「そりゃあんなおっかない顔した入道がいつもそばにいたら嫌でも自信つくでしょ」
「ま、それもそうね」
ムラサは苦笑する。
「思えばあんたとこんな風に話したことなかったかもね」
「私は仏教徒じゃないし星様の監視役だし」
「だけど残念ながらいまは毘沙門天様も星もいない。探し物が得意なあんたでも地上への出口を見つけるのは厳しそうだし、あんたが嫌だといっても、私たちは協力してここから出る方法を探さなきゃならないのよ」
「……」
「呉越同舟といきましょう。お前ひとりが毘沙門天様の元にのうのうと帰れると思うなよ」
この舟幽霊、怖いこと言うじゃん。何か恨みを買う真似をしただろうかと考えて、経典の件を思い出して俯いた。
かと思えばムラサはけろっと笑って、
「さっ、冗談はこのくらいにして。仲良くしましょう? そりゃあ地上にいた頃は、あんたが星につらく当たらないか心配して、私の方もあんたを避けてたのは認めるけどさ」
「わかったよ」
落ち着いてくると、取り乱したのが恥ずかしくなって、ナズーリンは言葉少なになる。おかげで普段よりは素直に他者の言葉に頷くのだった。
「いまになって思うと、地上にいた頃、あんなに穏やかに暮らしていたのが嘘みたい。でも、本当はこんな日々もいつか終わるんだろうって思ってたの」
ナズーリンは(おや?)と首をかしげる。ムラサにとっての聖は自分を自由にしてくれた恩人だと聞いていたが、それでも聖の人間の陰で妖怪を助けるやり方には危機感を抱いていたのか。
「何せ、この世はもうすぐ末法に入るんだもの。もう数十年と残ってないんじゃないかしら」
(また仏教の話かい!)
ナズーリンはがくっとうなだれそうになるが、考えてみれば彼女たちから仏教の話を奪う方が酷なのだ。もはや気にするまいとナズーリンは腹をくくった。
「仏様の教えは確かにあるはずなのに、修行することも悟ることもできなくなってしまう……まさにこの世の終わり。だから、よくないことが起きても不思議ではないの」
「じゃあムラサたちが修行をしてきた意味ってなんなの?」
「末法はいつか終わるのよ。五十六億と七千万年の後に、弥勒様が救ってくださるから」
「……ムラサも私も、そのとき生きてる?」
「さあ? でも、遠い未来にはどうにかなるってこと。だから、末法が明けるそのときまで教えを絶やさないようにするの。そのために私たちは修行をする、これで納得した?」
よくわからないが、ナズーリンはムラサも案外、一輪と同じで元は楽観主義なんじゃないかと思った。
「ねえ、あんたから見た星って、やっぱり毘沙門天様の代わりには相応しくなかった?」
「……ううん」
不意にムラサは話題を変える。ナズーリンは首を振った。いまなら誰に聞かれるでもない、言ってもいいだろうと思った。
「充分やってたと思う。だけど、私にとって唯一無二の神様はふたりも要らないのよ」
「あんたって本当に毘沙門天様が好きなのねえ」
「……それでも、星様の仕事に文句をつける隙なんてなかった」
聖が人間たちに責め立てられたあのときだって、信仰に命を賭けるというなら、星は身を挺して聖を庇うと思っていた。けれど実際には星は黙っていた。星が聖を切り捨てたおかげで、毘沙門天の威光は保たれたままとなった。どんな心境であったか、ナズーリンには推し量る術もない。
「もう降参って感じよ。最初はあのひとが虎の妖怪だって聞いて随分警戒したけど、あのひとってちっとも獣っぽいところを持ってないからさ」
「え? うっそだー! ナズーリンにはそう見えてたの?」
ムラサが声を上げるものだから、ナズーリンは目を丸くする。
「え? だってすごく大人しいし、冷静だし……」
「そんなのあんたを警戒してたからに決まってるでしょ。敵の前では警戒を解かないなんて、いかにも獣っぽい仕草じゃない」
ナズーリンは不意を突かれた。確かに星はナズーリンの前では一瞬たりとも気を抜かないようにしていたが、その行動が星と親しいムラサにはそう映るのか。
「星、がんばってたんだよ。自分が不始末をやらかしたら、信じて任せてくれた聖に申し訳ないからって。自分がしくじれば寺の終わりだ、くらいの気持ちだったんじゃないかしら。ま、それにナズーリンが一切気づいてなかったんなら、星はうまくやってたってことね」
茶目っけたっぷりに笑われて、ナズーリンはいたたまれなくなる。毘沙門天の代理に相応しいか否か、そればかりを嫁をいびる姑みたいに厳しく監視して、星個人のことは何も見ていなかったのだと思い知らされる。探し物が得意だと大口を叩いておきながら、何も見つけられなかった。
ムラサは目線を下に落とす。
「星には本当、嫌な役割をたくさん背負わせちゃったなあ……かといって、私や一輪や雲山じゃ、毘沙門天様の代理なんて初めから任せてもらえなかっただろうし。だからそのぶん、私たちは星の不安を少しでも軽くしようと思ったんだ。あんたは立派に役目を果たしてるから大丈夫だよって」
「……私だって、何も認めてなかったわけじゃないよ。でも、本人に向かって直接褒めたりして、増長されたら困ると思って」
「虎に翼を作らないようにしていたのね。戒めを保つ役も必要よね」
「……ちょっとくらいは伝えてもよかったかなって、いまは思うよ」
「じゃあ地上に戻ったら言ってあげよう。星、喜ぶよ」
「私より聖に褒められる方が嬉しいんじゃないの?」
「そこはまあ、あんたが毘沙門天様をめちゃくちゃ崇めてるのと似たようなもんだから」
ムラサに笑われて、ナズーリンは(似たたようなもん、ね)とぼんやり考える。思えば星にもナズーリンにも譲れない信心があって、何かとぶつかり合う羽目になったのだろうか。それがいっそう星の警戒心を強め、ナズーリンの意地を悪化させ、両者に断絶を作る原因となったのだろう。同じ神を仰ぎながら倶に天を戴けないのも変な話だが。
ムラサから星がひた隠しにしていた素顔を聞いても、ナズーリンは星を理解できるかなんてわからない。きっと星は財宝の価値を一生理解しそうにないし、正直あまりわかり合いたいとも思っていない。
ただ、もう少しナズーリンが監視役というしがらみに囚われず、星や寺の皆と歩み寄っていたら、もっと別の未来を見つけられていたのかもしれない――そう考えもする。
「ムラサ」
「何?」
「うちの小鼠が前に経典を駄目にしちゃったの、ごめんね」
いつか『ムラサに謝っておきなさい』と星に諭されたのを思い出して口にすれば、ムラサはぽかんとして、
「今更気にするとこがそれなの!?」
と、笑った。腹を抱えて「ほんと今更すぎるよ、あれいまも残ってるかわかんないし確かめようもないのに」と言って、
「いいよ、もう。次から気をつけてくれれば」
「次って」
「地上に帰ったらもっぺん星に怒られておいで」
一輪に感化されたのであろうか、ムラサももう落ち込むのはやめて、これからどうするか、先のことを考えている。ナズーリンも少しずつムラサに親しみを覚え始めていたので、どうにか共同戦線は張れそうだと思った。
人知れず笑みが溢れたところで、ふと考える。
ひとりになった星は、まだ不安に苛まれたままだろうか。あんなに聖を一途に慕っていたのに、もう背中を押してくれる人はいない。信頼と慈愛に満ちた眼差しを注いでもらうことはない。
星はナズーリンを恨むだろうか? 否、彼女はただ己の至らなさを責めるだけだろう。いつもいつも強く己を律して、ゆえにナズーリンとの間に一線を引き、地底と地上に分たれたいまとなっては、もはやナズーリンが何を思おうと、星には届かない。
それでもナズーリンは思う。もし地獄にも仏が現れるというなら、地上の彼女も救ってやればいいのに、と。
◇
翼があればどこへでも行けるって?
ひとりきりになった私はこんなにも無力なのに?
賢智は未だ衆を服するに足らず……いくら賢しくとも、権勢がなければ役に立たない……かつて受け入れにくいと思った言葉だけれど、それもまた一理あるのかもしれない。
それでも私は権勢を尊ぶ気にはなれない。
元は人喰い虎だった私に、翼を与えないでほしかった。
生まれすら人間の空想の産物という曖昧模糊で頼りない身の上、そのくせ殺生の罪業は深く、我が身を辿れば辿るほど、虎という獣の野卑な恐ろしさに慄くばかり。
力をつけるのが怖いから、体術もあまりやりたくなかった。その代わりに智慧を武器にしようと思って、たくさんの経典や書物を読んだ。智慧で満たされれば、私の不安は和らぐと思った。
いつも不安だったから、聖に背中を押してもらうことで確かめてもらっていた。私に翼が生えていないかどうか。私は私が信じられなかったんだ。ナズーリンという監視を掻い潜るために、自分の縄で自分自身を戒め続ける毎日だった。
でも、いまとなってはこうも思う。みんなが、聖が私を信じてくれるんだから、私もみんなが信じてくれる私自身を信じてもよかったんじゃないか、って。
結局のところ、私に必要だったのは権勢ではなく、賢智では足りなく、韓非子の言うそれとは違うけど、やはり法の力だったんじゃないだろうか。
御仏よ、毘沙門天様よ、これが私が皆の信頼に背いた報いでしょうか?
……よろしい。
私ひとりで切り抜けてみせよと思し召しなら、やってみせよう。
いつのまにか、あれほど私を苛んでいた不安はなくなっていた。
いまはただ、虎視眈々と、機を伺うのみ。いつかみんなを助け出すその機会を。
みんなが言ってくれた、貴方なら大丈夫、間違った力の使い方をしない、その言葉を信じて、やってみよう。
毘沙門天様、こちらの宝塔はまだしばらくお借りします。できれば、聖やナズーリンがいなくなったいまも、私のことを弟子だと認めたままでいてください。
この力はいつか必要になるのです。返し切れない恩を返すために、一度は大切な人たちを見捨ててしまった罪を償うために。
そのときは、私は力の使い方を間違えない。
だから、そのときは。
虎に翼を。
ここから1000年くらい再会できないのが一般人の時間感覚からすれば凄いかわいそうなんですが、全員自らが信ずるものを信じ続けられたことが、星蓮船原作も含めてやっぱりエモいですね
ナズーリンは自分の主のために、星達は聖のために自分の役目を果たそうと必死で、
最初はどこか牽制し合う関係だったのが地底に落とされた時にすぐに協力しようとしていたのが
打算や成り行きではなく本当の意味で数年の間にお互いを認め合っていたんだろうなと思えてその点が特に好きです。
ナズーリン視点で語られる初期の寅丸というあまり見ない話でしたが、ここまで重厚な話になるのかと驚きました
寅丸をなかなか認めようとしないナズーリンがそれっぽくてよかったです
素晴らしかったです