第一話:https://coolier.net/sosowa/ssw_l/246/1724997572
◇◇◇
「異形の強さは『畏れ』によって決まる」
ルーミア……さんはそれだけ言うと、また手元のペラペラの干し肉を齧り始める。「説明は以上」と。この人(ではないけど)ずっとこの調子だ。
ずっと。あの古城から逃げ延びてからずっとこの調子。
とにかく逃げろと急かすルーミアさんに追いたてられて私たちは、昨日からずっとどこともしれぬ森の中を進んでいる……あるいは単に彷徨っている。
目的地はあるんだろうか? それもやっぱり、ルーミアさんは教えてくれない。
「畏れ、って……なんなの?」
隣で眠っているフランドールを起こさないよう自然と声のトーンを落としてしまうけど、フクロウの声、虫たちのざわめき、古城の牢獄の中と違って外の世界は音に満ちている。というのにその中で爆睡を決め込めるフランもフランだ。樹冠を日除けにして昼中ずっと歩き通しだったから、無理もないけど。
安らかな寝息。ゆっくりと上下する胸元。
私の宝物。私の大切な妹。美しい頬をそっと撫でる。古城でつけられた傷跡はもう一つとして見当たらない。私が異端審問官達と殺し合ってる間、存分に食べ放題を満喫したらしい。
それでも。傷がついたという「事実」は消えない。ただ見えなくなるだけ。仮にフラン自身が忘れたとしても私は忘れない。絶対に絶対に忘れない。人間が、世界が、運命が私たちにした理不尽を忘れない。
「おふぉれはおふぉれふぁよ」
それにしても……喋るか食べるかどっちかにして欲しい。こっちまで空腹が刺激される。ただでさえもうずっと――いや、考えない考えない。
「ルーミアさん、ほんとに私に教える気ある?」
「んぐ……ごくん……え、教える気? ないけど?」
「なっ……」
「だって理解してなんとかできるもんでもないし。畏れってのはよーするに、自分が外からどう見られてるかってこと。努力じゃどうにもならないでしょ。今すぐに国一つ滅ぼすってんなら別だけど」
「それで強くなれるならやってやる」
「あーそう。ま止めやしないよ。またあの脂ぎった異端審問官みたいなのが千人も万人も来るだろうけど。それでよければ」
「ぐぬ……」
「それよりレミィはもっと知るべきことがあるね」
「その呼び方止めて!」
「えー? かわいいじゃない。レミィ」
もう好きにさせておこうと決める。
身長は私よりふたまわりも大きくて、腰に届くほどの長い金髪、ガーネットみたいな緋色の瞳……ルーミアさんって見た目だけは本当に美人なのに、中身は私より子供っぽい。まあ、異形の見た目なんて当てにならないけど。
「……それでなんなの? 知るべきことって」
「大人に聞いてばかりじゃなくて、ちょっとは自分で考えたら~」
誰が大人だ! そう叫びたくなるのをなんとか堪えた。
わかってる。この人は私より強い。
というか……私は弱い。あの異端審問官、名前は忘れたけどとにかくあの嫌な奴、あんなのにさえ私は勝てない。ルーミアさんが助けてくれなければ、私はあの場で死んでいた。
感謝してないわけじゃない。ただ感謝と尊敬は別の感情なんだと、私は学んだ。
そうだ。感謝……してないわけがない。
ルーミアさんが居なければ本当は、まだ私とフランドールはあの古城に囚われていたはず。私は私の宝物が傷つけられるのを惨めに眺めているしかできなかったはず。そしてきっと今日もまた、鞭で打たれる痛みの中で泣いていた。指を、耳を、意味もなく身を焼かれたりする苦しみの中で嘔吐するしかできなかった。
復讐してやるっていくら目だけギラギラさせても、そんなのは結局絵空事だった。
つくづく……私は弱い。運命の女神に翻弄されるがまま。世界の不条理に流されるがまま。
そんな私が知るべきこと。いったい、なに?
「体術とか……?」
苦し紛れの答えだった。なのにあっさり返る肯定の声。
「じゃあそういうことで」
「そんな無責任な!」
「無責任~? ほんとは責任とかないんだけどね……しかたないなぁ」
ルーミアさんのまなじりが少し、下がる。にやりと歪む口元。嫌な予感がして咄嗟にミセリコルデ(※十字架型の短剣)を手元に寄せた。
予感、的中。
鉤爪の一撃が目の前に迫る。さっきまで彼女の手にそんなものついてなかった。夜の闇の中でなお赤黒い、結晶化した血液のような鉤爪。
ギャインと耳障りな金属音。ミセリコルデの刀身で受けなきゃ顔ごと切り裂かれてた。
「なんのつもり……」
「たしかに今のレミィの生存確率をあげるにはこれが一番手っ取り早いかも」
「どういう……」
「稽古をつけてあげるってのよ。殺す気でいくから死ぬ気でおいで!」
本気だ。ルーミアさんの目に初めて「本気」の色が見えた。くそっ、これじゃ古城で拷問受けてるのとおんなじだ。
鉤爪を振り払って飛び退き、距離を取る。星あかりにほの照らされるルーミアさんのすらりとした長身。挑発のジェスチャー。折り曲がった指先の、長い爪同士がぶつかり合ってチリチリと鳴る。
「逃げてばかりじゃ稽古にならないね」
「犬死なんてイヤ」
「あなた殺したって死なないでしょ?」
図星……。
私とフランドールは殺されても死なない。いや、死なないわけじゃない。どんな異形も心の臓腑を貫かれれば死ぬって……古城の奴らは言っていた。だからそこだけは残してやると。そうすれば私たちは死なない……らしい。
事実、あの異端審問官のリーダーは狙い過たず心臓を狙ってきた。
死なない体。
異形の体。
べつに人間に憧れたりしない。ただ……私たちはなんなんだ? 私はなんなんだ? 異形とは皆こうなのか? ルーミアさんは教えてくれない。しかし、死ぬ気で来いと言う。今わかるのはそれだけ。今できるのは、それだけだ。
「いい目になった。さっきよりは、少しだけ」
右手に握りしめたミセリコルデから熱い力が流れ込んでくるのがわかる。
否。そうじゃない。
私が流し込んでいるんだ。これはただの金属の塊。私が従えている。私の武器として。私の一部として従えている。
これは力だ。私が掴んだ最初の力。そしてこれからは奪われるよりも先に、運命の手に捕まるよりもずっとずっと先に、私は私の力を広げていくんだ!
ルーミアさんだって同じこと。私は頭を下げて教えを請う気なんてさらさらない。この人から奪い取る。生き残るための方法、力、全てを。
それが今私の知るべきこと。今私のやるべきことだ。すべては、フランドールを守るために。
「いい目にはなった……でも足りないね。ぜんぜんちっとも足りてない。眼力だけじゃ蟲も死なない。そんなんじゃ光(あいつら)どころか闇(わたし)も殺れない」
口笛が響く。瞬間。ルーミアさんの姿が消える。かき消える。
えって思う間もなく脇腹に衝撃。浮遊感。
蹴られた? なぜ消えたの? 目は離してなかった。追いきれなかった? 違うありあえない、速すぎて捉えられなかったとかそういう次元じゃない。
地面に叩きつけられた感触と、遅れてやってくる鈍い痛み。気がつけば私は星々に見下ろされている。
ミルキーウェイが奇妙な形に欠けている。雲もないのに星の見えない真っ暗な一角がある。もしかして目をやられた……? そう思ってから理解が追いつく。
私は間抜けだ。
「あっ」
私を見下ろしていたのは星たちだけじゃなかった。ルーミアさんがそこにいた。相変わらず大人っぽいというより、いたずらを披露する子どものように、ルーミアさんがにまりと笑う。
結局……一太刀浴びせるどころか剣の一振りするまもなく、私は倒された。
「見えなかったでしょ? これが私の権能。闇の異形としての権能。ちょっと高級な目隠しみたいなもの」
「権能……」
「まずは私の一勝。あっけないあっけない」
自慢げ。腹の底がぐつぐつするのがわかる。
「稽古って教える側が勝つの、当たり前だと思う……」
「ナマは一撃入れられるようになってから言いな~」
一撃……簡単に言ってくれる。見えもしない相手に一撃を入れるにはどうしたらいいんだろう? 奪い取るって、この人を超えるって、さっき心に決めたことなのに、なんだか急に途方もないことのように思えたきた。
遠慮も容赦もなく蹴り飛ばされた脇腹がじわじわ痛みを増してくる。普通こういうのって手加減してくれるんじゃないの?
「とはいえ」
ルーミアさんの瞳が細まる。
「あなたは弱すぎる」
「……そんなの知ってる」
「そうじゃない。産まれたての異形なんてそんなもん。異形の平均値はせいぜい灰色熊に毛が生えた程度なんだから」
灰色熊って既に毛むくじゃらだ。ともかく……私が弱いって? 今更だ。でもそうじゃないという。
いい加減にわかることを言ってくれって口を開いたその瞬間、口内に塩気の味がひろがった。血の塊を飲み込んだみたいな。舌の上でざらつく感触。何か突っ込まれた……!?
「ふぁ、ふぁにふぉれ!?」
「肉」
「ひふ」
「そ。肉」
たしかに、肉だった。さっきルーミアさんが齧ってた干し肉。塩っ辛い。
「レミィ。気がついてないと思った?」
「ふぁひ」
「昨日からあなた達にあげた分……あるよね? 干し肉。私の大切な保存食。でもレミィ、食べてないでしょ」
噛みしめるたびにしょっぱさが満ちる。しょっぱさが満ちるたびに活力が満ちる。
飲み下す。
体の奥底に小さく、けれど確かに炎が灯った。
ぼやけていた世界が一段クリアになった気がした。
「妹ちゃんに全部あげてる。そうだよね?」
「……だったらなに」
「たしかに異形は、飢えたらかといって人間のように死ぬことはない。私たちを形成する根源的なエネルギーは『畏れ』であって、パンによって生きてるわけじゃない」
「だったら」
「でもね。ちゃんと食べなきゃ大きくなれないよ」
「……」
「なにもかも与えることが優しさじゃない。そう思ってんなら大したお門違い」
「そうじゃない! しかたないのよ……しかたないでしょ!? フランは……あの子は特別だから!」
「特別?」
こんなことルーミアさんには話したくはなかった。誰にだって話したくなかった。
でも出かかった言葉はもう止まらない。まるでずっと、ずっと、外に出る瞬間を待ち望んでいたかのように。古城に幽閉された私たちのように。気がつけば私は叫んでいた。
「あの子は体が弱いんだよ! 理由なんて知らない。でもずっと前からそう。異形は飢えても死なないって言うけど、あの子は違う。前に何日も食事を与えられなかったことがあった。あの子の体はボロボロになって、塩みたいなものになって崩れかけた! 私の一部を与えて凌がなきゃならなかった。今だってずっと眠ってる。そうしなきゃ保たないから。肉体が維持できないから!」
「それは……そうなのか。あまり聞かない例だなぁ。エネルギーの変換効率が悪い? あるいはもしかして、あの羽は……」
「だから理由なんて知らないって。とにかく私は我慢しても死なない。だからその分を妹にあげる……当然でしょ? まさか止めろなんて言わないでしょうね!?」
言ったら殺す。目だけで私はそう伝えた……つもりだったけど、ルーミアさんは遠慮とか配慮って言葉を知らないみたいだった。
「いやぁダメでしょ」
「っ……」
「ていうかわかってるよね? 物理的な存在として影響力を発揮するためには……強くなるためには、喰らうしかない。血肉は血肉によってしか形作れない。異形としての力は『畏れ』によって強まるけれど、生命としての力強さは血肉を喰らうことでしか得られないんだって」
「じゃあどうしろって言うの! フランを見殺しにしろって言うの!? それじゃ意味ない! 私だけ強くなったってそんなの無意味なの! あの子を守るために強くなりたいんだ。私一人で生き残ったってなんの意味もない!」
たとえ。
たとえこの世界の全てが私の前に跪いたって。この世界の全ての富が私の手の中にあったって。そこにフランドールがいなければ塵芥の山と同じだ。
私は私の宝物があるからこそこの世界を見限らずに済んでいる。それなくして私は私を受け入れられない。そうできるほど、私は私を愛せない。
ほんとうに、どうしろと言うんだろう。
ルーミアさんが悪いわけじゃない。いわば世界の理。強く、強く、今よりもっと強くならないとフランドールを守れない。けれど私が強くなろうとすれば、あの子は命を維持できなくなる。そのどうしようもない妥協点があの古城の日々。私たちは檻の中にいたけれど、たとえそこから出てもやっぱり私たちは檻の中にいるらしい。
不条理という檻。
どうしろっていうのよ。
ほんとに。
「……強くなりたい」
世界がにじむ。
くやしい。
私が最初から強ければよかったのに。
フランドールを守りながら、同時にあの子にたくさんのご飯を分け与えられるくらい、強く強く産まれてくれば良かったのに。
ルーミアさんの姿もにじむ。
冷たい指先が、私の額をそっと撫でた。
「なったらいい。強く強く」
「でもっ」
「レミィが思ってるほど世界は息苦しくないよ。フランドールちゃんは、言うなればちょっと大食いなだけ。でしょ? そんなのどうとでもなるじゃん」
「私にはできなかった!」
「子供なんてそんなもんなのさ。いいから大人に任せておきなよ。きっとすぐにわかる。今見えてる問題なんて、ほんとは大したことないって……」
誰が大人だ。
そう言い返したくても言葉が言葉にならなかった。
それより久々にものを口にしたせいだろうか、なんだか無性に眠い。
いやダメだ、ダメだ! 私がフランドールを見守ってないといけないのに。この子が安心して眠れるように……私が……!
「大丈夫。私がしっかり守ってるよ。妹ちゃんも、レミィも。約束する」
髪を撫でられる。絡み合う私たちの器官……の、端っこ。さっき横っ腹を蹴り飛ばされた相手とは思えない……でも気持ちいい。
ダメだとはわかってるんだ。まだルーミアさんのこと信用できると決まったわけじゃない。私もフランドールも眠ったら、またあの古城に囚われた時の二の舞だ……前も、こうして素朴に誰かを信じて……頼って……私たちは……
「おやすみ」
闇に、抱きしめられた。
そんな気がした。
◆◆◆
「おやすみ」
そう闇の異形が……ルーミアが囁いたころにはもう、レミリアは穏やかな寝息をたて始めていた。
緊張の糸が切れたのだろう。自分が妹を守るという責務。自分だけが妹を守れるというプレッシャー。そこにあってルーミアの言葉は、束の間とはいえ確かにレミリアの孤独な心を抱きしめた。
そのことがルーミアの胸を締め付けている。
(嘘吐きだな、私)
か細い星の光の中でなお白く透き通ったレミリアの手を、ルーミアはそっと握る。少女はわずかに気持ち良さげに微笑むだけで、その意識が闇より深い場所から戻ってくる気配は無い。穏やかに眠る少女。幼き少女。そこに宿るあどけなさは驚くほどに年相応だった。
「生意気言っても子供は子供か」
もちろんレミリアは異形の少女で、その外見は必ずしも生きてきた時間の長さと等しくない。事実ルーミアは気の遠くなく昔から生きてきたが、その容姿は二十代かそこらの娘に相違なかった。
それでもルーミアにはわかる。
(こいつらは、まだほんのガキンチョだ)
根拠はない。単なる直感。だが直感が「これまで生きてきた経験」の総和から導き出されるある種の演繹的推察であるならば、悠久の暇つぶしを続けるルーミアの直感にはきっと一定の確からしさが宿っていた。
レミリアの安らかな寝息をどこか遠くに聞きながら、彼女はぼんやりと自分の記憶を振り返る。
(あったのか? 私にもこんな時期が。過酷な運命と現実の前で右往左往するしか無い、惨めで情けない時期が?)
あったはずだと言い切ることは、彼女にはできない。やはり異形とはそういうものだから。産まれ落ちた時点で全知全能……そんな存在もありうる。定命者(モータル)の変化は常に線的だが、不死者(イモータル)の世界観はどちらかというと点的だ。ある日突然に強くなったり、突然に死んだり。線と点。けして一つにはなることはない。
だが、重なりはする。
イモータルとモータル、人間と異形、相互に影響を与えあう二つの世界。異形たちが人やその他の生命の「畏れ」から産まれてきた以上、そこから力を得る以上、彼らの思慮思念から逃れることはけして出来ない。
(特にこの数千年、人の思念はますます濃い。こんな人間くさい異形が産まれてくるのも時代の流れか……)
柄にもなくセンチメンタルな思考に自嘲をこぼし、闇の異形は夜空を見上げた。そこに散らばる星々の瞬きを見上げた。
(それでも。時代が変わっても、あいつらが敵なのは変わらない。変わらない……はず)
星の光。完璧で美しい母なる闇をまだらに汚す無粋な光。自由気ままな不死者の一人たるルーミアが、唯一心より憎むもの。
光。
けれどルーミアは星を嫌いになれなかった。
彼女は理解していたから。
闇が悠然と夜に鎮座するように、光もまた黙々と世界を照らし続けているだけなのだと。とどのつまり、光と闇は裏表なのだと。結局ルーミアの憎しみはいつも光そのものより、光の力を我が物顔に振りかざす連中に向いているだけだと。
「それでも。レミィ、あなたならきっと光に勝てる。闇のほうが素敵な存在なんだと証明できる。ねえ、やってみせてよ。私に夢を見せてよ、お嬢ちゃん……」
答えはない。寝返りの一つさえうたずにレミリアは昏々と休息を甘受し続ける。
そもそもそれがどこまで本心なのか、闇にはよくわからなかった。
自分が本当に望むものがなんなのか、いったいなぜ彼女たちを助けたのか……ただの闇にはもはやわからなかった。
そんなことを単純に言ってのけるにはもう、彼女は、複雑な存在になりすぎていたから。
長く生きすぎていたから。
(あーあ。いつの間に大人になってたのか。私……)
もちろん不死者たる異形に「子供」「大人」の区分は無い。
だというのにそんなことを思い浮かべてしまう程度には、なかなかどうして、闇もまた人間くさい方だった。
彼女はやれやれと息を吐きだし、それから、ゆっくりと顔を上げる。
眠るレミリアではなく、フランドールでもなく、ただ闇だけが横たわる木々と藪の向こうにその緋色の瞳を向ける。
僅かだが鋭い殺意を込めて。
夜風が慄き、闇の中の森林が戦の予感にざわめいた。
「……そんなとこでコソコソしてないでさ、いい加減にでてきたら? チビたちはもう寝付いたよ」
その呼びかけに応じて木々の隙間から影が飛び出す。
二足歩行の、下半身は人間のように見えるが、上半身は毛むくじゃらのイヌ科的特徴を備えた異形。それがぐるると低く唸り、ルーミアを睨んだ。
「気がついていたのか?」
「そんな獣臭を垂れ流されたら誰だって気がつく」
言いながら彼女は見積もる。彼我の力量差。そう難しい問題ではなかった。闇色のため息がひとつ。
「人狼(ルーガルー)ね。縄張りに踏み込んだ感じはしなかったけど。マーキングも確認したのに」
「縄張りに引き篭もるような人狼はクズだぜ。みみっちい。人間と同じさ」
「……御用件は? こんな夜中に上稞でレディに言いよるなんて、あまりお行儀は良くないね」
「コブ付きでなきゃ俺の雌にしてやってもよかったがな」
「明日の朝食は犬鍋にしようか」
「戯言は震える手は隠して抜かしたらどうだ? 雌犬(レディ)」
「ふん……」
手の震えは事実だったし、ルーミアには隠す気もなかった。隠しても無意味だったから。弱者が強者の気配に敏感なように、強者もまた獲物のにおいを嗅ぎこぼしたりはしない。そういうものだ。
人狼。
狼への畏れ。狂犬病への畏れ。内なる野生と獰猛さへの畏れ。変身への畏れ。狂気への畏れ。
たくさんの畏れの結節点である「人狼」という異形は比較的ポピュラーで、だからこそ、あまり強い方ではない。例えば鍋にたくさんのスープがあっても、寄ってたかってよそったら一人あたりの取り分は少なくなる。それと同じ。
だがルーミアの目の前で獰猛に牙を剥く異形は、明らかに彼女の知る人狼の質を超えていた。無論、名の知れた一部の人狼ならそういうこともありうる。例えばアルカディアの王リュカオーン。父なるゼウスの呪いを受けた彼は、人狼からさらに確立された「個」としての畏れによって強大な権能を持つ。
しかしルーミアの眼前の狼男は、そうした「名のある」異形とも違っていた。ようするに、どう見ても格式高い謂れを持つような輩ではない。
では、通常の人狼の領分にとどまらぬこの威圧感の理由は?
その理由を……ルーミアは知っている。知っていればこそ、そうでないと思いたかったが。
「宝石羽の異形を探してる。で、匿ってる闇の妖怪ってのはおまえだろ」
息を吸い込む。
ルーミアは知っていた。そもそも知っていたから戻ってきたのだ。あの古城に。
……あの時、最初にレミリアたちを(成り行きで)助けた後、我関せずと飛び出したルーミアの瞳に飛び込んできた光景。
地平線を染める亡者の火。
考えまいと思うより先に、あの時の彼女は理解してしまった。その火の正体を。
それはワイルドハントの篝火。
亡者たちの狩人集団。
彼らをそれ以上に表現することは難しいが、ルーミアは前に極東の島国に滞在していた際、似たような異形の話を聞いたことがあった。
曰く、百鬼夜行。魑魅魍魎のお得な詰め合わせ集団。
ワイルドハントとはつまり、天国に拒否された王が率いる死霊たちの百鬼夜行である。
そしてこの人狼も、おそらくワイルドハント旅団の一員なのだろう。身の丈に合わぬ力の気配もそれが為。ワイルドハントそのものへの畏れが彼の力に上乗せさせれているらしい。
「なるほどね……あんな古城になんだってワイルドハントが来るのか、それだけがわからなかったけど……ようやく理解できたわ」
「知ってるなら話が速え。そうさ、俺らは泣く子も自ら死を選ぶワイルドハント旅団よ! さっさと宝石羽を寄越しな」
宝石羽。間違いなくレミリアの妹、フランドールのことだろう。
なぜ彼女がワイルドハントに狙われているのかは不明だが、はいどうぞと引き渡す気はルーミアには無かった。もちろんそれは、同時に自らをいたずらに窮地に追い込むことも意味している。彼女らしくない意思決定。
(ここでフランドールちゃんを渡したら、レミィも失うことになる。あいつは貴重な人材だ。光を喰いうる才能がある。手放してたまるか)
ルーミアは自分にそう言い聞かせる。それが本心かどうか……今はそんなこと、どうだっていい。
「反抗的な目だ。やはり殺すか?」
「待ってよ。ノーとは言ってない。宝石羽を差し出したとして、私への見返りはないわけ?」
「生き残らしてやるよ」
「足りないな。あの子は……大変な苦労をして手に入れたんだもの。殺されたって惜しくない」
嘘だ。苦労など微々たるものだ。ほんのしくじりと成り行きで拾ったに過ぎない。
だが向こうが高値を見積もってるなら、あえて値引いてやる必要もない。むしろ最大限ふっかけてやる――ルーミアのまなじりに力がこもる。
「なら遠慮なく死んでくれや」
「……まあ聞けってば畜生さん。たしかに私はあなたに勝てない。でも、殺される前に宝石羽のあの子を台無しにすることくらいは、できる」
もちろんそんなことをする気はない。フランドールを人質になど取れば、そんなことが知られたなら、やはりレミリアは二度とルーミアを信用しなくなるだろう(そして往々にしてそのような企みはバレるものだ)。
「ちっ……はぁーー面倒くせえ。なんだよ金でも欲しいのか?」
「そんなものいらない」
「俺がブチギレる前にさっさと答えろ。どんな施しが欲しいんだ? え?」
そりゃてめえの命だよ。
本心を呑み込み、ルーミアは答える。慎重に、されど淀みなきように。
「ねえ……あの子を手土産に、私をワイルドハントに加えてくれるっていうのはどう?」
人狼の表情が歪む。予想外の要求。
一方で闇は手応えを掴む。ひょっとするとワイルドハント旅団は「来る者拒まず」のようなルールがあるのかもしれない。集団型の異形にとってルールとは命そのものだ。基本的に「個」が強大すぎる異形をまとめるには、厳格なルールと権威が不可欠なのだから。
とはいえ、真相はわからない。単なる偶然かも知れない。
が、少なくとも人狼はまだ動いて来ない。故に運命の女神はまだそこに留まってるとルーミアは目算する。事実彼女が生き残ってるのは、人狼がなまじ知性を持ち合わせていたが故だ。交渉もへったくれもなく本能のまま突っ込んでこられる方が余程怖ろしかった。そうならなかったのは運が良いから。流れがあるから。そう解釈する。ペシミスティックじゃどうにもならない。
「どう?」
「それは……無理だ」
「どして?」
「旅団に加われるのは我が王によって『祝福』された者だけだ」
「そんなの後でいいじゃない。ここでその王様に確認して、仲間に入れてくれるって約束してくれたら、私は喜んで宝石羽を差し出すよ。それもできないの?」
「でき――」
言葉が途切れ、舌打ちが一つ鳴る。それはどちらのものだったのか。
ともかく人狼は遅ればせながら気がついたらしい。眼の前の闇の異形には、本気で仲間に加わる気など端っからないのだと。
それでもああだのこうだの言っていたのは、ひとえに情報のため。
(これでわかった。少なくともこいつは、本隊とリアルタイムで意思疎通できたりしない)
今すぐに「王」に確認して欲しいというルーミアの要求に難色を示した、それが根拠。
増援は来ない。少なくとも今すぐには。
それは最低限の条件だった。ワイルドハント旅団の本隊など、どう足掻いてもルーミアの手には負えない。合流されてしまえば完全なる「詰み」。だが、こちらの情報が本隊にバレていないのなら――まだ目はある。ペシミスティックを拭って捨てる。
「てめえ……やっぱり最初から殺しとくべきだったな? 小賢しい真似を」
「老獪と言って欲しいなぁ」
「彼我の力量差も測れないやつは、よくて老いぼれだぜ」
ルーミアは否定しない。ようやく引き出せたのは「まだ詰みではない」という情報だけだ。
それでも。
(それでもやるしかない……なぜ?)
地を蹴り、同時にルーミアは闇の権能を振るう。人狼の視界から自らの情報を見えなくする。突然に敵が消えた困惑に人狼が唸り声を漏らす。
(なんで私、こんなマジになっちゃってるんだろ?)
敵はワイルドハント旅団だ。異形の徳用詰め合わせセット。得物を地の果てまで追いかける狩人の群れ。
そうまでして守る価値があるのだろうか? レミリアとフランドールの二人は?
もちろん光は嫌いだ。でもずっと受け入れてきた。今になって何故その考えを翻したのだろう?
先程後回しにしようと決めたばかりなのにルーミアは――人狼の背後を取る――考えまいとするほど疑問は強く湧き出て――日暮れ時の闇を凝縮させた彼女の鉤爪――それでも唯一わかるのは――人狼が身を捻る――ここで二人を見捨てたらきっと――獰猛に牙を剥く異形。その瞳が確かにルーミアを捉えている。
(……見えないはずじゃ?)
白く染まる彼女の思考。
「臭いでなぁ! バレバレなんだよ!」
「ぐっ――」
「ヒャアッ!」
鉤爪を振り落ろそうと無防備になっていたところ、振り向きざまの腕をモロに食らった。
側の大木に叩きつけられ、ルーミアが無様に血反吐を吐き出す。人狼は追撃の手を緩めない。その進路上に凝縮する黒い物体。
「んだこりゃ!? 影、いや目眩ましじゃねえ、質量があんのか!」
「ゲホッ……ちきしょう、相性最悪かよ」
人狼は文字通り狼の異形。もとより闇に生き、闇を伴として狩りをする彼らにとって、「見えない」ことは大きな問題にはならないらしい。闇の異形としての最大のアドバンテージは呆気なく失われた。
時間稼ぎで投げつけた闇の結晶体も頑健な鉤爪によって切り裂かれ、霧散する。
おまけに健脚。ルーミアが体勢を立て直すより人狼が追いつくのが早い。
二撃目――
「かはっ――」
先とは反対方向に、ゴム毬のように容易く蹴り飛ばされる闇の異形の肢体。
人狼の瞳が細まる。
「致命打を入れたつもりだったが」
「軽いんだよ、クソガキ……」
「あぁ、わかったぜ。さっきの闇の結晶で咄嗟に防御したな? なるほど老獪だぜ。その機転の速さ、負けなれてなきゃ無理だ」
「べらべらよく喋るね……」
よろよろとルーミアが立ち上がると、跳び上がった人狼が既にそこまで迫っている。
鼻血を拭う間もなく降り注ぐ追撃――ルーミアは凝固させた闇を盾にしてなんとか凌ぐ。だが凌ぎきれない。もとよりルーミアの得意とする戦術は闇を使った奇襲と一撃離脱戦法だ。こんな猛獣とまともに殴り合うことなど想定していないし、また、そうしないようにするのが彼女の生き方だったから。
ただ自由に。気ままに。喰らいたい時に喰らい、眠りたい時に眠るだけの生活。至上の生活。満ち足りた日々。
(しくったよ、やっぱり。あんな姉妹に関わったのが運の尽き)
次々と繰り出される乱打に気が遠くなる。痛みと衝撃で思考が定まらない、それでも、
「うおっ!?」
「ナイトバード」。鳥の形に固定した闇を特攻させての爆撃を放つ奥の手。
人間や野生動物相手であれば、闇の中をほぼ視認不可能なまま飛来する攻撃は致命的にもなるが――
「で、終わりか?」
残忍なる狼の笑み。ルーミアの舌打ち。
とどのつまり異形としての「格」が違うのだ。ワイルドハントの名を聞けば子供でも震え上がる。それは強大な「畏れ」の力。
いくらルーミアが老獪さと経験で立ち回ったところで、それは暴風雨の前で木造小屋を必死に改装するような涙ぐましい行為。
不条理。
けれどルーミアは知っていたはずだった。世界が不条理であることなど、とっくに受け入れていたはずだ。駄々をこねる子供ではないのだから。
(あー、そっか。そうなのか)
狼の爪に胸を貫かれながら、彼女はふと、他人事のように思う。
(納得してなかったのか、私も。いつだって闇は光にかき消されるばかりで。どこかのバカが「ヒカリアレ」なんて言ったばっかりに。ずっとずっと納得してなかったんだなぁ)
ガーネットの瞳から急速に失われていく生気。
人狼がルーミアから腕を引き抜くと、闇色の血がどぽりと溢れ、そのまま夜闇に溶け出していく。
(不条理だもんな、そんなの)
放り捨てられた闇の異形が転がる。その直ぐ側ではまだ幼い異形の少女が昏々と眠り込んでいる。
(わかるよ。レミィ。あなたもよっぽど疲れてたんだねぇ)
彼女ら二人を、人狼は歯牙にもかけない。あくまで目的は宝石羽――フランドールなのだろう。
しかし肝心のフランドールが見つからず、犬耳の異形は苛立たしげに辺りの暗がりを探っている。
それはルーミアの最後の抵抗。フランドールを「見えなくした」。いくら鼻が効くと言っても彼はフランドールのにおいを知らない。何より周囲にはルーミアの撒き散らした血の臭いが充満している。探しものにはさぞ都合が悪いだろう。
とはいえそれも、ルーミアがついに力尽きるまでの効力だ。単なる嫌がらせ以上の効果は無い。
「はぁ……しくった……な……」
人狼は、ワイルドハント旅団はフランドールをどうするつもりなのか?
残されたレミリアはどうなるのか? 残された彼女はどうするか?
短い付き合いではあるが、ルーミアには想像に難くなかった。きっと決死の思いで妹を助けに行くのだろう。だが、その結末は。
「私……嘘吐き……だ……」
しっかり二人を守ってると、そう約束したのをルーミアは忘れていなかった。
なんでもすぐに忘れてしまう彼女には珍しく。
べつに……記憶力が悪いわけではない。ただ重要ではないから。喰らうことと眠ること以外、この世界に重要と思えることが無かったから。
大切だと思うことは、ちゃんと覚えている。
虚ろな緋色の瞳。
そこに映るのは、眠る少女の像。
神に祝福された短剣を真紅に染めてみせた少女の姿。
緋色の瞳が細まってゆく。
(夢を……私に夢を見せてよ。ねぇ、レミィ)
それは、それは丁度……人狼が目当ての物を見つけ出した瞬間のことだった。
森の中で多様に折り重なった臭いの中、わずかに異なるそれを探し当てたのはひとえに彼の執念――あるいは、ワイルドハントの王への畏れ。
既に時間を使いすぎていた。しかしこの宝石羽を持ち帰れば覚えもめでたいに違いない。
そんな夢想に花開かせた、その瞬間のことだった。
「……は?」
彼の背後で爆発する異形の闘気。
咄嗟に理解が追いつかないのは、しかし無理もないことである。なにせ彼の背後には価値のない異形の子供と、自らがとどめを刺した雑魚しかいないはずだったから。
しかし一方で、その闘気に彼は確かに覚えがあった。紛れもなく、先程殺したばかりの異形と同じ気質の気配。
闇の異形の気配。
「おい。おいおいおいおいおい。こりゃどういうわけだ? おまえさっきぶち殺したよな? なぜくたばってねえ?」
人狼の振り返った先に立っていたのは、果たして、金色の髪を夜風に靡かせる闇の異形そのものだった。
服の胸元には丸く穿たれた痕が残っている。だというのに、傷はもう塞がっていた。
爛々と輝くガーネットの瞳。その眼光にワイルドハントの斥候がたじろいだ。
「なんだ! なにをした!? てめえさっきとは別人――」
吠え声をあげる人狼は、しかしさすがにワイルドハント旅団の王によって「祝福」を授かっただけのことはあった。
目聡く見出す、ルーミアの手に閃く見覚えのない武器。真紅のミセリコルデを。
「それか? さては魔装具だな。そんなものを隠し持ってやがったか」
「いや……」
質屋が品定めをする時のように、あるいは子供が新しい玩具を眺めるように、ルーミアは自身も不思議であることを隠そうともせず瞳を走らせてから、ミセリコルデを掲げて見せた。
「これはただの量産品だよ。野生の異端審問官から掻っ払った種も仕掛けもない短剣」
「バカな」
無論、それは真実である。ルーミアの……レミリアのミセリコルデは、その物自体に特別な謂れはない。司教格の装備故に多少は高級かもしれないが、その程度。
ただあの瞬間、ルーミアが末期の息を引き取ろうとした瞬間、彼女は手を伸ばした。十字架を模した真紅の短剣に。なぜそうしたのか? 根拠はない。単なる直感。
しかしともかく、その直感が彼女を救った。
短剣の柄を手にした瞬間に逆流した力の奔流。それは聖なるエンハンスメントを上書きするほどの、闇の力。
あの瞬間、消えかけていたルーミアの魂に火が灯った。だけでなく、新鮮な空気と燃料をたっぷり補給された焔のように、新月の夜半よりも瑞々しい生の実感が彼女の中に渦を巻いた。
ミセリコルデに込められたレミリアの力の切れ端が、ルーミアの瞳の輝きを再びに蘇らせたのである。
「なんだかよくわからねえが……」
そういうことを人狼は知らない。知る由もないし、ルーミアもわざわざ聞かせてやるつもりもない。
「それでもまだ俺には及ばねえようだ」
ハッタリでは無かった。それほどにルーミア達の間には元々の力量差があった。
事実、彼女はあっさりとそれを肯定する。
「うん、自分の弱っちさに涙が出るよ。これだけやっておまえ『ごとき』と互角なんてさ」
「弱い犬程よくほざく!」
狼の唸り声を耳障りに思いながらも、闇の異形は短剣を構える。
これでようやくスタートライン。不条理の向こう側は勝利ではない。それでようやく「恵まれた奴ら」と等価の地点に立つだけだ。
そこから先の明暗を分けるものは、センスと集中力と執念。そしてなによりも。
「試してみようと思うんだ。私の運命ってやつを」
再び、異形なる者達が激突する――
◇◇◇
眠りすぎた!
目覚めて同時に冷や汗が出た。
まず、朝って最悪だ。私とフランドールは生まれつき日光に弱かった。木漏れ日が提供するのはいつだって最悪の火傷痕。何度か実際に炙られたこともあるから、間違いない。
「あつうっ……く、ない?」
落ち着いて見回すと私たちは、きちんと樹冠の下で眠りこけていたらしい。薄暗く湿った空気。直ぐ側ではフランがまだ寝息を立てている。
それでようやく蘇ってきた。昨日の記憶。
「私、ルーミアさんに稽古をつけてもらって、その後寝ちゃって……ルーミアさんは!?」
だから眠りすぎるのはダメなのに。
危機に対処できなくなる。私はいつだってフランドールより先に起きて、あの子に降りかかる災禍を把握する責務があるのに。
辺りを見回してもルーミアさんはどこにもいなかった。嫌な予感がした。
「ルーミアさん! ルーミアさんどこ!?」
約束したのに。私たちのことちゃんと守ってくれるって。
ううん知ってる、約束なんて無意味な徒労。世界は不条理にできている。奪い合いと殺し合いが基本の原則。誰も約束なんて守るわけない。信じた私がバカなんだ。
きっとルーミアさんは、ルーミアは、私たちを置いて逃げたんだ。あいつの言ってた、ええと……わいるどはんと? とかいう連中に寝返ったんだ。
「ルーミアさん! ルーミア! 返事しなさいよ! ねえ!」
きっとすぐにでも私たちを追い詰める敵がやってくる。今するべきことは、フランドールを叩き起こして逃げること。少しでも遠くへ、遠くへ。
そうすべきだと、わかってるのに。
「ルーミアさ……」
わかっているのに私は彼女を探すのを止められない。
いったいどうして?
だけど意外にも、私の捨て鉢は実を結んだ。思いもよらぬ方向に。
「なによ、これ……」
茂みを抜けた私の目に飛び込んできたのは、破壊の痕跡。
めちゃくちゃになぎ倒された木々、切り刻まれた大地。竜巻でも通ったのかと思うような、というかそうとしか考えられないような、カタストロフィの祭りの後。
でもそれは竜巻じゃなかった。というかもっと怖ろしいもの。
破壊の傷跡に混じって点々と、あるいはべったりと撒き散らされた赤黒い滲み。流血の証明。間違いなく戦闘のあった現場。
「いったい誰が」
うわ言を吐き出したのは、きっと現実から目を背けたかったから。
誰が、なんて決まってる。まさか通りすがりの二匹の猛獣が争ってそのままいずこへ消えたなんて、そんなわけはない。
ルーミアさんだ。あの人が戦ったんだ。
でも、なぜ。
――私がしっかり守ってるよ。妹ちゃんも、レミィも。約束する。
なぜ、昨夜の言葉がリフレインするの。
なぜ、胸の奥がこんなにもざわつくの。
なぜ……なぜよ。約束なんて守られるわけないのに。なぜ、
「あ」
朝日が昇り始めていた。穢らわしくて美しい太陽の光が、森の中の少し開けた草原を徐々に明るく照らし始めていた。
その中央に倒れている、二つの人影。
片方は胴の上と下を腰元から真っ二つにされて死んでいた。信じられないという驚愕と恐怖の表情のまま永遠に凍りついた――あれは、狼男?
それよりもう一つの、血と土と泥に汚れてなお美しい金色の髪の、あの人は。
「ルーミアさんっ!」
生きている? 死んでいる? わからない。ただ……強まる日光の中、その肢体から灰色の煙が立ち上り始めてる。
たぶん私と同じなんだ。ルーミアさんは闇の異形。光の中では生きられない体質。このままじゃ、きっと……
「バカ!」
気がつけば飛び出していた。瞬間に全身を貫く光の洗礼。文字通り焼けるような痛み。
それでも遮二無二に駆ける。眩しくてなにも見えやしない。ただまっすぐ、まっすぐに走る。走って、掴む。ルーミアさんの体を。
「ああああああっ……!」
熱い、熱い、熱い、痛い、熱い、痛い。
それでも走る。炎の中に放り込まれたよう。皮膚の焼けただれていく感触。それでも、走る。
走って……突然に熱さが消えた。痛みはまだじくじくとしがみついているけど、それも徐々に収まっていく。
私は木陰の中に戻ってきていた。たぶん時間にすればほんの数秒のこと。体感ではおそろしく長く感じられたけど、現実はそんなもの。
おそらく早朝なのが幸いした。これが正午の全力の太陽だったら二人とも蒸発してそれっきりだったろう。
しかし、ともかくも。
「ルーミアさん!? 大丈夫!?」
放さなかった。掴んだもの、私の掴んだ運命。太陽に焼き焦がされたって手放さなかった。
ルーミアさんは気だるげに目を開く。良かった、生きてた……。
「あぁ……おはよ、レミィ……」
「いったいなにが」
「これ……返すよ。少し、寝る……」
「返すって、これ私の剣? ていうか寝るって、ちょっと! ルーミアさん!? あの死体はなんなの!? 他に敵は残ってるの!?」
「しばらくは、大丈夫……たぶん……」
「たぶんって――ほんとに寝てるし」
わけがわからなかった。
わかるのは、ただ、ルーミアさんが命がけで私たちを守ってくれたってこと。それだけ。
「あれ?」
それともう一つ。
いつの間にか使われていたらしい短剣を鞘にしまおうとして、ふと違和感に襲われた。
「刃が紅くない……」
元がどんな色だったのか知らないけど、今は錆びついたような鈍い色だ。
不思議に思っているとまた、私の中から力が流れ込んでいく感触がした。途端、鮮やかな真紅に染まる刀身。正直どういう原理なのかちっともわからないけど、ルーミアさんはこれを「属性の隷属」とかなんとか言ってた気がする。
それが消えていたのは何故なんだろう? ルーミアさんの力に更に上書きされたのかな? そういう感じでもなかったけど。
なんというか……まるで中の水を飲み干された空っぽの水筒……私の注ぎ込んだ力を、誰かが使い果たしてしまったみたいな……
「――様、お姉様! やっと見つけた! どこ行ってたの!?」
考えが、森の向こうから聞こえてきた声に遮られる。
息を切らした私の妹。私の大切なフランドール……を、置き去りにしてしまったな。明らかに不満げな顔に少し、ばつが悪い。
「ご、ごめんね。すぐ戻るつもりだったんだけど。起こしちゃ悪いと思って」
「まあいいけどさ。お姉様が私を見捨てるわけないってわかってるし!」
「フラン……」
「それよりその背負われてる人……ルーミアさんだっけ? 怪我してるの?」
「ええ、私たちを守ってくれたみたい」
「守る……?」
信じられないと言いたげにフランドールの瞳が丸くなる。
もちろん私だって信じられない。私たちはなんの価値もない惨めな異形の端くれ。虐げられる理由はいくらでも思い当たる。でも、守られる理由は何一つ浮かばない。
それでも……受け入れられないことでも……ルーミアさんは私たちを守ってくれた。あの真っ二つにされた人狼がその証拠。いや、昨日だってあの異端審問官たちから私を守ってくれた。
理解できないこと。
もしかしたら途方もない陰謀の伏線なのかもしれない。
だったとしても。
「フラン。私はルーミアさんを……信用できる人だと思う」
「しんよう? お姉様、それってどういう意味?」
「私たちの味方になってくれる人、ってこと」
「みかた、ってなに?」
「それは、ええと……仲間ってこと。危ない時に助け合ったり、お腹が空いたらご飯を分け合ったりする、そういう関係……だと思う」
「それって家族のこと?」
家族。そうなのだろうか。違うだろうな、と直感が否定する。私はルーミアさんを信用したいと思う。でも家族とは違う。私の家族はフランドールだけだし、ルーミアさんも私を家族とは思わないだろう。
でも、フランドールの気持ちは理解できる。
私たちはずっと二人ぼっちだった。味方は互いだけだった。信用できるのは互いだけだった。守ってくれるのは互いだけだった。
それが当たり前だと思ってたし、永遠に変わらない世界の理なんだって信じてた。信じるしかなかった。だって、事実そうだったんだから。
だから当然、仲間とは家族のことだった。他のどんなものも余分に意味したりしなかった。
「フラン」
フランドールが不思議そうに首を傾げる。
じっくり言葉を考えてから、私は、また口を開く。
「素敵な朝ね」
「……そうだね。朝なんてずっと大嫌いだったけど。今日は、少なくっても、儀式に連れて行かれることはないもんね」
背中でルーミアさんが身じろぎをする。
元の身長差があるから、背負ってるというよりむしろ、私が抱きしめられてるみたいだった。
<幕間>
「あーあ。こりゃダメだね。真っ二つにやられちまってるよ。南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏」
無惨に転がった死体を杖(あるいは槍)の先端で突っつきながら、緑髪の悪霊――魅魔は奇怪なマントラを口にする。
その様子に、ワイルドハントの王は露骨なまでに眉根をひそめた。
「なんだ、その呪文は」
「死者の魂が無事ヴァルハラへ辿り着けるように、っておまじない」
「ヴァルハラだと……我らワイルドハントは天国に拒絶された亡者たちの群れ。この者の魂もまた我に還った。ヴァルキュリエになど渡さぬ」
「んじゃ、彼がいつ誰に殺されたのかも王様の魂に聞けばわかるのかい」
「……」
「異形の死骸は腐敗しないが、装備の劣化具合、血の塊具合から……ま、死後三日ってとこかね。大したもんだよ。部下の一人が殺されて三日も放ったらかしなんて」
王は反論の言葉を見つけられなかった。
魅魔は薄く笑う。「だいじょぶだいじょぶわかってるって」とでも言いたげに。
……そう、そもそもが異常事態なのだ。ワイルドハント旅団にこうもあからさまに歯向かうものが(魅魔を別にして)存在するなどとは。
確かに斥候を分散させたのは王の失策だった。彼はそれを認める。油断があった。彼が王となるずっと以前から、ワイルドハント旅団はもう何千年と狩る側から転げ落ちてこなかった。不条理を振りかぶるより、自らが不条理の使徒となって恐怖の夜を駆け抜ける側だったのだから。
大岩のごとき巨体が地獄のようなため息を吐き出す。
「標的は素人ではない。死骸こそ残されていたが、足跡は丁寧に消されている。おそらくは、我らと同じ生業のもの。狩人だ。それも手練れのな」
「だろうね。お株を奪われて血が騒ぐ?」
「くだらぬ。我らの存在意義とはただ獲物を追い詰めること。ただ獲物を狩ること。ただ獲物を殺すこと。そこに愉悦も快楽もありはしない」
「あるのは故郷ブリテン島玉座への郷愁だけ……はぁ。かわいそうなワイルドハントの王様!」
「貴様……」
「でも王様はラッキーだわ。この私に巡り会えたんだから。うふふ……」
「魅魔よ。宝石羽を手に入れさえすれば、我の呪いは本当に解けるのだろうな? 其方の狼藉を許すのも全てはそのため。我を謀ることは死よりも怖ろしい永劫の――」
「疑り深いなぁ。私たち友達でしょ? 友達の言うことは信じなくっちゃ」
……もう王は怒鳴る気力も失ったのか、へらへらと笑う魅魔を視界から外す。
そして二人のやり取りを顔を青くして見守っていた部下たちに向け、命じた。
「同胞の仇を討て。彼奴らの向かった先は、おそらく、アナベラル市。ゆけ!」
鋭い命令を受けてワイルドハントの異形達が、その姿が、陽炎のようにかき消える。
魅魔の口笛が一つ。
「アナベラル市? 決め打ったね。根拠は?」
「標的は獣のような連中だが、獣ではない。あの古城からの迅速な離脱。当然我々の接近を捉えていたものと考えるのが、妥当だ」
「ふむ」
「であればただ闇雲に逃げ回りここに至ったのではなく、何らかの目的があって移動していると見る。それが当然であろう」
「ふーむふむ」
「……そしてあの古城とこの場所、二点を結ぶ直線から想定しうる標的の移動範囲は限定される。『素人の』其方でもそれくらいはわかろう」
「いやぁちっとも。さすがはワイルドハントの王様。でもアナベラル市ってのはどこから――いや、ああ……確かあそこは……そうか。それは少し、面倒になるな」
魅魔がゆるりと頷く。それは彼女が初めて見せた生の感情だった。
しかしワイルドハントの王は背を向けていたため、それを窺い知ることはできなかった。
◇◇◇
「異形の強さは『畏れ』によって決まる」
ルーミア……さんはそれだけ言うと、また手元のペラペラの干し肉を齧り始める。「説明は以上」と。この人(ではないけど)ずっとこの調子だ。
ずっと。あの古城から逃げ延びてからずっとこの調子。
とにかく逃げろと急かすルーミアさんに追いたてられて私たちは、昨日からずっとどこともしれぬ森の中を進んでいる……あるいは単に彷徨っている。
目的地はあるんだろうか? それもやっぱり、ルーミアさんは教えてくれない。
「畏れ、って……なんなの?」
隣で眠っているフランドールを起こさないよう自然と声のトーンを落としてしまうけど、フクロウの声、虫たちのざわめき、古城の牢獄の中と違って外の世界は音に満ちている。というのにその中で爆睡を決め込めるフランもフランだ。樹冠を日除けにして昼中ずっと歩き通しだったから、無理もないけど。
安らかな寝息。ゆっくりと上下する胸元。
私の宝物。私の大切な妹。美しい頬をそっと撫でる。古城でつけられた傷跡はもう一つとして見当たらない。私が異端審問官達と殺し合ってる間、存分に食べ放題を満喫したらしい。
それでも。傷がついたという「事実」は消えない。ただ見えなくなるだけ。仮にフラン自身が忘れたとしても私は忘れない。絶対に絶対に忘れない。人間が、世界が、運命が私たちにした理不尽を忘れない。
「おふぉれはおふぉれふぁよ」
それにしても……喋るか食べるかどっちかにして欲しい。こっちまで空腹が刺激される。ただでさえもうずっと――いや、考えない考えない。
「ルーミアさん、ほんとに私に教える気ある?」
「んぐ……ごくん……え、教える気? ないけど?」
「なっ……」
「だって理解してなんとかできるもんでもないし。畏れってのはよーするに、自分が外からどう見られてるかってこと。努力じゃどうにもならないでしょ。今すぐに国一つ滅ぼすってんなら別だけど」
「それで強くなれるならやってやる」
「あーそう。ま止めやしないよ。またあの脂ぎった異端審問官みたいなのが千人も万人も来るだろうけど。それでよければ」
「ぐぬ……」
「それよりレミィはもっと知るべきことがあるね」
「その呼び方止めて!」
「えー? かわいいじゃない。レミィ」
もう好きにさせておこうと決める。
身長は私よりふたまわりも大きくて、腰に届くほどの長い金髪、ガーネットみたいな緋色の瞳……ルーミアさんって見た目だけは本当に美人なのに、中身は私より子供っぽい。まあ、異形の見た目なんて当てにならないけど。
「……それでなんなの? 知るべきことって」
「大人に聞いてばかりじゃなくて、ちょっとは自分で考えたら~」
誰が大人だ! そう叫びたくなるのをなんとか堪えた。
わかってる。この人は私より強い。
というか……私は弱い。あの異端審問官、名前は忘れたけどとにかくあの嫌な奴、あんなのにさえ私は勝てない。ルーミアさんが助けてくれなければ、私はあの場で死んでいた。
感謝してないわけじゃない。ただ感謝と尊敬は別の感情なんだと、私は学んだ。
そうだ。感謝……してないわけがない。
ルーミアさんが居なければ本当は、まだ私とフランドールはあの古城に囚われていたはず。私は私の宝物が傷つけられるのを惨めに眺めているしかできなかったはず。そしてきっと今日もまた、鞭で打たれる痛みの中で泣いていた。指を、耳を、意味もなく身を焼かれたりする苦しみの中で嘔吐するしかできなかった。
復讐してやるっていくら目だけギラギラさせても、そんなのは結局絵空事だった。
つくづく……私は弱い。運命の女神に翻弄されるがまま。世界の不条理に流されるがまま。
そんな私が知るべきこと。いったい、なに?
「体術とか……?」
苦し紛れの答えだった。なのにあっさり返る肯定の声。
「じゃあそういうことで」
「そんな無責任な!」
「無責任~? ほんとは責任とかないんだけどね……しかたないなぁ」
ルーミアさんのまなじりが少し、下がる。にやりと歪む口元。嫌な予感がして咄嗟にミセリコルデ(※十字架型の短剣)を手元に寄せた。
予感、的中。
鉤爪の一撃が目の前に迫る。さっきまで彼女の手にそんなものついてなかった。夜の闇の中でなお赤黒い、結晶化した血液のような鉤爪。
ギャインと耳障りな金属音。ミセリコルデの刀身で受けなきゃ顔ごと切り裂かれてた。
「なんのつもり……」
「たしかに今のレミィの生存確率をあげるにはこれが一番手っ取り早いかも」
「どういう……」
「稽古をつけてあげるってのよ。殺す気でいくから死ぬ気でおいで!」
本気だ。ルーミアさんの目に初めて「本気」の色が見えた。くそっ、これじゃ古城で拷問受けてるのとおんなじだ。
鉤爪を振り払って飛び退き、距離を取る。星あかりにほの照らされるルーミアさんのすらりとした長身。挑発のジェスチャー。折り曲がった指先の、長い爪同士がぶつかり合ってチリチリと鳴る。
「逃げてばかりじゃ稽古にならないね」
「犬死なんてイヤ」
「あなた殺したって死なないでしょ?」
図星……。
私とフランドールは殺されても死なない。いや、死なないわけじゃない。どんな異形も心の臓腑を貫かれれば死ぬって……古城の奴らは言っていた。だからそこだけは残してやると。そうすれば私たちは死なない……らしい。
事実、あの異端審問官のリーダーは狙い過たず心臓を狙ってきた。
死なない体。
異形の体。
べつに人間に憧れたりしない。ただ……私たちはなんなんだ? 私はなんなんだ? 異形とは皆こうなのか? ルーミアさんは教えてくれない。しかし、死ぬ気で来いと言う。今わかるのはそれだけ。今できるのは、それだけだ。
「いい目になった。さっきよりは、少しだけ」
右手に握りしめたミセリコルデから熱い力が流れ込んでくるのがわかる。
否。そうじゃない。
私が流し込んでいるんだ。これはただの金属の塊。私が従えている。私の武器として。私の一部として従えている。
これは力だ。私が掴んだ最初の力。そしてこれからは奪われるよりも先に、運命の手に捕まるよりもずっとずっと先に、私は私の力を広げていくんだ!
ルーミアさんだって同じこと。私は頭を下げて教えを請う気なんてさらさらない。この人から奪い取る。生き残るための方法、力、全てを。
それが今私の知るべきこと。今私のやるべきことだ。すべては、フランドールを守るために。
「いい目にはなった……でも足りないね。ぜんぜんちっとも足りてない。眼力だけじゃ蟲も死なない。そんなんじゃ光(あいつら)どころか闇(わたし)も殺れない」
口笛が響く。瞬間。ルーミアさんの姿が消える。かき消える。
えって思う間もなく脇腹に衝撃。浮遊感。
蹴られた? なぜ消えたの? 目は離してなかった。追いきれなかった? 違うありあえない、速すぎて捉えられなかったとかそういう次元じゃない。
地面に叩きつけられた感触と、遅れてやってくる鈍い痛み。気がつけば私は星々に見下ろされている。
ミルキーウェイが奇妙な形に欠けている。雲もないのに星の見えない真っ暗な一角がある。もしかして目をやられた……? そう思ってから理解が追いつく。
私は間抜けだ。
「あっ」
私を見下ろしていたのは星たちだけじゃなかった。ルーミアさんがそこにいた。相変わらず大人っぽいというより、いたずらを披露する子どものように、ルーミアさんがにまりと笑う。
結局……一太刀浴びせるどころか剣の一振りするまもなく、私は倒された。
「見えなかったでしょ? これが私の権能。闇の異形としての権能。ちょっと高級な目隠しみたいなもの」
「権能……」
「まずは私の一勝。あっけないあっけない」
自慢げ。腹の底がぐつぐつするのがわかる。
「稽古って教える側が勝つの、当たり前だと思う……」
「ナマは一撃入れられるようになってから言いな~」
一撃……簡単に言ってくれる。見えもしない相手に一撃を入れるにはどうしたらいいんだろう? 奪い取るって、この人を超えるって、さっき心に決めたことなのに、なんだか急に途方もないことのように思えたきた。
遠慮も容赦もなく蹴り飛ばされた脇腹がじわじわ痛みを増してくる。普通こういうのって手加減してくれるんじゃないの?
「とはいえ」
ルーミアさんの瞳が細まる。
「あなたは弱すぎる」
「……そんなの知ってる」
「そうじゃない。産まれたての異形なんてそんなもん。異形の平均値はせいぜい灰色熊に毛が生えた程度なんだから」
灰色熊って既に毛むくじゃらだ。ともかく……私が弱いって? 今更だ。でもそうじゃないという。
いい加減にわかることを言ってくれって口を開いたその瞬間、口内に塩気の味がひろがった。血の塊を飲み込んだみたいな。舌の上でざらつく感触。何か突っ込まれた……!?
「ふぁ、ふぁにふぉれ!?」
「肉」
「ひふ」
「そ。肉」
たしかに、肉だった。さっきルーミアさんが齧ってた干し肉。塩っ辛い。
「レミィ。気がついてないと思った?」
「ふぁひ」
「昨日からあなた達にあげた分……あるよね? 干し肉。私の大切な保存食。でもレミィ、食べてないでしょ」
噛みしめるたびにしょっぱさが満ちる。しょっぱさが満ちるたびに活力が満ちる。
飲み下す。
体の奥底に小さく、けれど確かに炎が灯った。
ぼやけていた世界が一段クリアになった気がした。
「妹ちゃんに全部あげてる。そうだよね?」
「……だったらなに」
「たしかに異形は、飢えたらかといって人間のように死ぬことはない。私たちを形成する根源的なエネルギーは『畏れ』であって、パンによって生きてるわけじゃない」
「だったら」
「でもね。ちゃんと食べなきゃ大きくなれないよ」
「……」
「なにもかも与えることが優しさじゃない。そう思ってんなら大したお門違い」
「そうじゃない! しかたないのよ……しかたないでしょ!? フランは……あの子は特別だから!」
「特別?」
こんなことルーミアさんには話したくはなかった。誰にだって話したくなかった。
でも出かかった言葉はもう止まらない。まるでずっと、ずっと、外に出る瞬間を待ち望んでいたかのように。古城に幽閉された私たちのように。気がつけば私は叫んでいた。
「あの子は体が弱いんだよ! 理由なんて知らない。でもずっと前からそう。異形は飢えても死なないって言うけど、あの子は違う。前に何日も食事を与えられなかったことがあった。あの子の体はボロボロになって、塩みたいなものになって崩れかけた! 私の一部を与えて凌がなきゃならなかった。今だってずっと眠ってる。そうしなきゃ保たないから。肉体が維持できないから!」
「それは……そうなのか。あまり聞かない例だなぁ。エネルギーの変換効率が悪い? あるいはもしかして、あの羽は……」
「だから理由なんて知らないって。とにかく私は我慢しても死なない。だからその分を妹にあげる……当然でしょ? まさか止めろなんて言わないでしょうね!?」
言ったら殺す。目だけで私はそう伝えた……つもりだったけど、ルーミアさんは遠慮とか配慮って言葉を知らないみたいだった。
「いやぁダメでしょ」
「っ……」
「ていうかわかってるよね? 物理的な存在として影響力を発揮するためには……強くなるためには、喰らうしかない。血肉は血肉によってしか形作れない。異形としての力は『畏れ』によって強まるけれど、生命としての力強さは血肉を喰らうことでしか得られないんだって」
「じゃあどうしろって言うの! フランを見殺しにしろって言うの!? それじゃ意味ない! 私だけ強くなったってそんなの無意味なの! あの子を守るために強くなりたいんだ。私一人で生き残ったってなんの意味もない!」
たとえ。
たとえこの世界の全てが私の前に跪いたって。この世界の全ての富が私の手の中にあったって。そこにフランドールがいなければ塵芥の山と同じだ。
私は私の宝物があるからこそこの世界を見限らずに済んでいる。それなくして私は私を受け入れられない。そうできるほど、私は私を愛せない。
ほんとうに、どうしろと言うんだろう。
ルーミアさんが悪いわけじゃない。いわば世界の理。強く、強く、今よりもっと強くならないとフランドールを守れない。けれど私が強くなろうとすれば、あの子は命を維持できなくなる。そのどうしようもない妥協点があの古城の日々。私たちは檻の中にいたけれど、たとえそこから出てもやっぱり私たちは檻の中にいるらしい。
不条理という檻。
どうしろっていうのよ。
ほんとに。
「……強くなりたい」
世界がにじむ。
くやしい。
私が最初から強ければよかったのに。
フランドールを守りながら、同時にあの子にたくさんのご飯を分け与えられるくらい、強く強く産まれてくれば良かったのに。
ルーミアさんの姿もにじむ。
冷たい指先が、私の額をそっと撫でた。
「なったらいい。強く強く」
「でもっ」
「レミィが思ってるほど世界は息苦しくないよ。フランドールちゃんは、言うなればちょっと大食いなだけ。でしょ? そんなのどうとでもなるじゃん」
「私にはできなかった!」
「子供なんてそんなもんなのさ。いいから大人に任せておきなよ。きっとすぐにわかる。今見えてる問題なんて、ほんとは大したことないって……」
誰が大人だ。
そう言い返したくても言葉が言葉にならなかった。
それより久々にものを口にしたせいだろうか、なんだか無性に眠い。
いやダメだ、ダメだ! 私がフランドールを見守ってないといけないのに。この子が安心して眠れるように……私が……!
「大丈夫。私がしっかり守ってるよ。妹ちゃんも、レミィも。約束する」
髪を撫でられる。絡み合う私たちの器官……の、端っこ。さっき横っ腹を蹴り飛ばされた相手とは思えない……でも気持ちいい。
ダメだとはわかってるんだ。まだルーミアさんのこと信用できると決まったわけじゃない。私もフランドールも眠ったら、またあの古城に囚われた時の二の舞だ……前も、こうして素朴に誰かを信じて……頼って……私たちは……
「おやすみ」
闇に、抱きしめられた。
そんな気がした。
◆◆◆
「おやすみ」
そう闇の異形が……ルーミアが囁いたころにはもう、レミリアは穏やかな寝息をたて始めていた。
緊張の糸が切れたのだろう。自分が妹を守るという責務。自分だけが妹を守れるというプレッシャー。そこにあってルーミアの言葉は、束の間とはいえ確かにレミリアの孤独な心を抱きしめた。
そのことがルーミアの胸を締め付けている。
(嘘吐きだな、私)
か細い星の光の中でなお白く透き通ったレミリアの手を、ルーミアはそっと握る。少女はわずかに気持ち良さげに微笑むだけで、その意識が闇より深い場所から戻ってくる気配は無い。穏やかに眠る少女。幼き少女。そこに宿るあどけなさは驚くほどに年相応だった。
「生意気言っても子供は子供か」
もちろんレミリアは異形の少女で、その外見は必ずしも生きてきた時間の長さと等しくない。事実ルーミアは気の遠くなく昔から生きてきたが、その容姿は二十代かそこらの娘に相違なかった。
それでもルーミアにはわかる。
(こいつらは、まだほんのガキンチョだ)
根拠はない。単なる直感。だが直感が「これまで生きてきた経験」の総和から導き出されるある種の演繹的推察であるならば、悠久の暇つぶしを続けるルーミアの直感にはきっと一定の確からしさが宿っていた。
レミリアの安らかな寝息をどこか遠くに聞きながら、彼女はぼんやりと自分の記憶を振り返る。
(あったのか? 私にもこんな時期が。過酷な運命と現実の前で右往左往するしか無い、惨めで情けない時期が?)
あったはずだと言い切ることは、彼女にはできない。やはり異形とはそういうものだから。産まれ落ちた時点で全知全能……そんな存在もありうる。定命者(モータル)の変化は常に線的だが、不死者(イモータル)の世界観はどちらかというと点的だ。ある日突然に強くなったり、突然に死んだり。線と点。けして一つにはなることはない。
だが、重なりはする。
イモータルとモータル、人間と異形、相互に影響を与えあう二つの世界。異形たちが人やその他の生命の「畏れ」から産まれてきた以上、そこから力を得る以上、彼らの思慮思念から逃れることはけして出来ない。
(特にこの数千年、人の思念はますます濃い。こんな人間くさい異形が産まれてくるのも時代の流れか……)
柄にもなくセンチメンタルな思考に自嘲をこぼし、闇の異形は夜空を見上げた。そこに散らばる星々の瞬きを見上げた。
(それでも。時代が変わっても、あいつらが敵なのは変わらない。変わらない……はず)
星の光。完璧で美しい母なる闇をまだらに汚す無粋な光。自由気ままな不死者の一人たるルーミアが、唯一心より憎むもの。
光。
けれどルーミアは星を嫌いになれなかった。
彼女は理解していたから。
闇が悠然と夜に鎮座するように、光もまた黙々と世界を照らし続けているだけなのだと。とどのつまり、光と闇は裏表なのだと。結局ルーミアの憎しみはいつも光そのものより、光の力を我が物顔に振りかざす連中に向いているだけだと。
「それでも。レミィ、あなたならきっと光に勝てる。闇のほうが素敵な存在なんだと証明できる。ねえ、やってみせてよ。私に夢を見せてよ、お嬢ちゃん……」
答えはない。寝返りの一つさえうたずにレミリアは昏々と休息を甘受し続ける。
そもそもそれがどこまで本心なのか、闇にはよくわからなかった。
自分が本当に望むものがなんなのか、いったいなぜ彼女たちを助けたのか……ただの闇にはもはやわからなかった。
そんなことを単純に言ってのけるにはもう、彼女は、複雑な存在になりすぎていたから。
長く生きすぎていたから。
(あーあ。いつの間に大人になってたのか。私……)
もちろん不死者たる異形に「子供」「大人」の区分は無い。
だというのにそんなことを思い浮かべてしまう程度には、なかなかどうして、闇もまた人間くさい方だった。
彼女はやれやれと息を吐きだし、それから、ゆっくりと顔を上げる。
眠るレミリアではなく、フランドールでもなく、ただ闇だけが横たわる木々と藪の向こうにその緋色の瞳を向ける。
僅かだが鋭い殺意を込めて。
夜風が慄き、闇の中の森林が戦の予感にざわめいた。
「……そんなとこでコソコソしてないでさ、いい加減にでてきたら? チビたちはもう寝付いたよ」
その呼びかけに応じて木々の隙間から影が飛び出す。
二足歩行の、下半身は人間のように見えるが、上半身は毛むくじゃらのイヌ科的特徴を備えた異形。それがぐるると低く唸り、ルーミアを睨んだ。
「気がついていたのか?」
「そんな獣臭を垂れ流されたら誰だって気がつく」
言いながら彼女は見積もる。彼我の力量差。そう難しい問題ではなかった。闇色のため息がひとつ。
「人狼(ルーガルー)ね。縄張りに踏み込んだ感じはしなかったけど。マーキングも確認したのに」
「縄張りに引き篭もるような人狼はクズだぜ。みみっちい。人間と同じさ」
「……御用件は? こんな夜中に上稞でレディに言いよるなんて、あまりお行儀は良くないね」
「コブ付きでなきゃ俺の雌にしてやってもよかったがな」
「明日の朝食は犬鍋にしようか」
「戯言は震える手は隠して抜かしたらどうだ? 雌犬(レディ)」
「ふん……」
手の震えは事実だったし、ルーミアには隠す気もなかった。隠しても無意味だったから。弱者が強者の気配に敏感なように、強者もまた獲物のにおいを嗅ぎこぼしたりはしない。そういうものだ。
人狼。
狼への畏れ。狂犬病への畏れ。内なる野生と獰猛さへの畏れ。変身への畏れ。狂気への畏れ。
たくさんの畏れの結節点である「人狼」という異形は比較的ポピュラーで、だからこそ、あまり強い方ではない。例えば鍋にたくさんのスープがあっても、寄ってたかってよそったら一人あたりの取り分は少なくなる。それと同じ。
だがルーミアの目の前で獰猛に牙を剥く異形は、明らかに彼女の知る人狼の質を超えていた。無論、名の知れた一部の人狼ならそういうこともありうる。例えばアルカディアの王リュカオーン。父なるゼウスの呪いを受けた彼は、人狼からさらに確立された「個」としての畏れによって強大な権能を持つ。
しかしルーミアの眼前の狼男は、そうした「名のある」異形とも違っていた。ようするに、どう見ても格式高い謂れを持つような輩ではない。
では、通常の人狼の領分にとどまらぬこの威圧感の理由は?
その理由を……ルーミアは知っている。知っていればこそ、そうでないと思いたかったが。
「宝石羽の異形を探してる。で、匿ってる闇の妖怪ってのはおまえだろ」
息を吸い込む。
ルーミアは知っていた。そもそも知っていたから戻ってきたのだ。あの古城に。
……あの時、最初にレミリアたちを(成り行きで)助けた後、我関せずと飛び出したルーミアの瞳に飛び込んできた光景。
地平線を染める亡者の火。
考えまいと思うより先に、あの時の彼女は理解してしまった。その火の正体を。
それはワイルドハントの篝火。
亡者たちの狩人集団。
彼らをそれ以上に表現することは難しいが、ルーミアは前に極東の島国に滞在していた際、似たような異形の話を聞いたことがあった。
曰く、百鬼夜行。魑魅魍魎のお得な詰め合わせ集団。
ワイルドハントとはつまり、天国に拒否された王が率いる死霊たちの百鬼夜行である。
そしてこの人狼も、おそらくワイルドハント旅団の一員なのだろう。身の丈に合わぬ力の気配もそれが為。ワイルドハントそのものへの畏れが彼の力に上乗せさせれているらしい。
「なるほどね……あんな古城になんだってワイルドハントが来るのか、それだけがわからなかったけど……ようやく理解できたわ」
「知ってるなら話が速え。そうさ、俺らは泣く子も自ら死を選ぶワイルドハント旅団よ! さっさと宝石羽を寄越しな」
宝石羽。間違いなくレミリアの妹、フランドールのことだろう。
なぜ彼女がワイルドハントに狙われているのかは不明だが、はいどうぞと引き渡す気はルーミアには無かった。もちろんそれは、同時に自らをいたずらに窮地に追い込むことも意味している。彼女らしくない意思決定。
(ここでフランドールちゃんを渡したら、レミィも失うことになる。あいつは貴重な人材だ。光を喰いうる才能がある。手放してたまるか)
ルーミアは自分にそう言い聞かせる。それが本心かどうか……今はそんなこと、どうだっていい。
「反抗的な目だ。やはり殺すか?」
「待ってよ。ノーとは言ってない。宝石羽を差し出したとして、私への見返りはないわけ?」
「生き残らしてやるよ」
「足りないな。あの子は……大変な苦労をして手に入れたんだもの。殺されたって惜しくない」
嘘だ。苦労など微々たるものだ。ほんのしくじりと成り行きで拾ったに過ぎない。
だが向こうが高値を見積もってるなら、あえて値引いてやる必要もない。むしろ最大限ふっかけてやる――ルーミアのまなじりに力がこもる。
「なら遠慮なく死んでくれや」
「……まあ聞けってば畜生さん。たしかに私はあなたに勝てない。でも、殺される前に宝石羽のあの子を台無しにすることくらいは、できる」
もちろんそんなことをする気はない。フランドールを人質になど取れば、そんなことが知られたなら、やはりレミリアは二度とルーミアを信用しなくなるだろう(そして往々にしてそのような企みはバレるものだ)。
「ちっ……はぁーー面倒くせえ。なんだよ金でも欲しいのか?」
「そんなものいらない」
「俺がブチギレる前にさっさと答えろ。どんな施しが欲しいんだ? え?」
そりゃてめえの命だよ。
本心を呑み込み、ルーミアは答える。慎重に、されど淀みなきように。
「ねえ……あの子を手土産に、私をワイルドハントに加えてくれるっていうのはどう?」
人狼の表情が歪む。予想外の要求。
一方で闇は手応えを掴む。ひょっとするとワイルドハント旅団は「来る者拒まず」のようなルールがあるのかもしれない。集団型の異形にとってルールとは命そのものだ。基本的に「個」が強大すぎる異形をまとめるには、厳格なルールと権威が不可欠なのだから。
とはいえ、真相はわからない。単なる偶然かも知れない。
が、少なくとも人狼はまだ動いて来ない。故に運命の女神はまだそこに留まってるとルーミアは目算する。事実彼女が生き残ってるのは、人狼がなまじ知性を持ち合わせていたが故だ。交渉もへったくれもなく本能のまま突っ込んでこられる方が余程怖ろしかった。そうならなかったのは運が良いから。流れがあるから。そう解釈する。ペシミスティックじゃどうにもならない。
「どう?」
「それは……無理だ」
「どして?」
「旅団に加われるのは我が王によって『祝福』された者だけだ」
「そんなの後でいいじゃない。ここでその王様に確認して、仲間に入れてくれるって約束してくれたら、私は喜んで宝石羽を差し出すよ。それもできないの?」
「でき――」
言葉が途切れ、舌打ちが一つ鳴る。それはどちらのものだったのか。
ともかく人狼は遅ればせながら気がついたらしい。眼の前の闇の異形には、本気で仲間に加わる気など端っからないのだと。
それでもああだのこうだの言っていたのは、ひとえに情報のため。
(これでわかった。少なくともこいつは、本隊とリアルタイムで意思疎通できたりしない)
今すぐに「王」に確認して欲しいというルーミアの要求に難色を示した、それが根拠。
増援は来ない。少なくとも今すぐには。
それは最低限の条件だった。ワイルドハント旅団の本隊など、どう足掻いてもルーミアの手には負えない。合流されてしまえば完全なる「詰み」。だが、こちらの情報が本隊にバレていないのなら――まだ目はある。ペシミスティックを拭って捨てる。
「てめえ……やっぱり最初から殺しとくべきだったな? 小賢しい真似を」
「老獪と言って欲しいなぁ」
「彼我の力量差も測れないやつは、よくて老いぼれだぜ」
ルーミアは否定しない。ようやく引き出せたのは「まだ詰みではない」という情報だけだ。
それでも。
(それでもやるしかない……なぜ?)
地を蹴り、同時にルーミアは闇の権能を振るう。人狼の視界から自らの情報を見えなくする。突然に敵が消えた困惑に人狼が唸り声を漏らす。
(なんで私、こんなマジになっちゃってるんだろ?)
敵はワイルドハント旅団だ。異形の徳用詰め合わせセット。得物を地の果てまで追いかける狩人の群れ。
そうまでして守る価値があるのだろうか? レミリアとフランドールの二人は?
もちろん光は嫌いだ。でもずっと受け入れてきた。今になって何故その考えを翻したのだろう?
先程後回しにしようと決めたばかりなのにルーミアは――人狼の背後を取る――考えまいとするほど疑問は強く湧き出て――日暮れ時の闇を凝縮させた彼女の鉤爪――それでも唯一わかるのは――人狼が身を捻る――ここで二人を見捨てたらきっと――獰猛に牙を剥く異形。その瞳が確かにルーミアを捉えている。
(……見えないはずじゃ?)
白く染まる彼女の思考。
「臭いでなぁ! バレバレなんだよ!」
「ぐっ――」
「ヒャアッ!」
鉤爪を振り落ろそうと無防備になっていたところ、振り向きざまの腕をモロに食らった。
側の大木に叩きつけられ、ルーミアが無様に血反吐を吐き出す。人狼は追撃の手を緩めない。その進路上に凝縮する黒い物体。
「んだこりゃ!? 影、いや目眩ましじゃねえ、質量があんのか!」
「ゲホッ……ちきしょう、相性最悪かよ」
人狼は文字通り狼の異形。もとより闇に生き、闇を伴として狩りをする彼らにとって、「見えない」ことは大きな問題にはならないらしい。闇の異形としての最大のアドバンテージは呆気なく失われた。
時間稼ぎで投げつけた闇の結晶体も頑健な鉤爪によって切り裂かれ、霧散する。
おまけに健脚。ルーミアが体勢を立て直すより人狼が追いつくのが早い。
二撃目――
「かはっ――」
先とは反対方向に、ゴム毬のように容易く蹴り飛ばされる闇の異形の肢体。
人狼の瞳が細まる。
「致命打を入れたつもりだったが」
「軽いんだよ、クソガキ……」
「あぁ、わかったぜ。さっきの闇の結晶で咄嗟に防御したな? なるほど老獪だぜ。その機転の速さ、負けなれてなきゃ無理だ」
「べらべらよく喋るね……」
よろよろとルーミアが立ち上がると、跳び上がった人狼が既にそこまで迫っている。
鼻血を拭う間もなく降り注ぐ追撃――ルーミアは凝固させた闇を盾にしてなんとか凌ぐ。だが凌ぎきれない。もとよりルーミアの得意とする戦術は闇を使った奇襲と一撃離脱戦法だ。こんな猛獣とまともに殴り合うことなど想定していないし、また、そうしないようにするのが彼女の生き方だったから。
ただ自由に。気ままに。喰らいたい時に喰らい、眠りたい時に眠るだけの生活。至上の生活。満ち足りた日々。
(しくったよ、やっぱり。あんな姉妹に関わったのが運の尽き)
次々と繰り出される乱打に気が遠くなる。痛みと衝撃で思考が定まらない、それでも、
「うおっ!?」
「ナイトバード」。鳥の形に固定した闇を特攻させての爆撃を放つ奥の手。
人間や野生動物相手であれば、闇の中をほぼ視認不可能なまま飛来する攻撃は致命的にもなるが――
「で、終わりか?」
残忍なる狼の笑み。ルーミアの舌打ち。
とどのつまり異形としての「格」が違うのだ。ワイルドハントの名を聞けば子供でも震え上がる。それは強大な「畏れ」の力。
いくらルーミアが老獪さと経験で立ち回ったところで、それは暴風雨の前で木造小屋を必死に改装するような涙ぐましい行為。
不条理。
けれどルーミアは知っていたはずだった。世界が不条理であることなど、とっくに受け入れていたはずだ。駄々をこねる子供ではないのだから。
(あー、そっか。そうなのか)
狼の爪に胸を貫かれながら、彼女はふと、他人事のように思う。
(納得してなかったのか、私も。いつだって闇は光にかき消されるばかりで。どこかのバカが「ヒカリアレ」なんて言ったばっかりに。ずっとずっと納得してなかったんだなぁ)
ガーネットの瞳から急速に失われていく生気。
人狼がルーミアから腕を引き抜くと、闇色の血がどぽりと溢れ、そのまま夜闇に溶け出していく。
(不条理だもんな、そんなの)
放り捨てられた闇の異形が転がる。その直ぐ側ではまだ幼い異形の少女が昏々と眠り込んでいる。
(わかるよ。レミィ。あなたもよっぽど疲れてたんだねぇ)
彼女ら二人を、人狼は歯牙にもかけない。あくまで目的は宝石羽――フランドールなのだろう。
しかし肝心のフランドールが見つからず、犬耳の異形は苛立たしげに辺りの暗がりを探っている。
それはルーミアの最後の抵抗。フランドールを「見えなくした」。いくら鼻が効くと言っても彼はフランドールのにおいを知らない。何より周囲にはルーミアの撒き散らした血の臭いが充満している。探しものにはさぞ都合が悪いだろう。
とはいえそれも、ルーミアがついに力尽きるまでの効力だ。単なる嫌がらせ以上の効果は無い。
「はぁ……しくった……な……」
人狼は、ワイルドハント旅団はフランドールをどうするつもりなのか?
残されたレミリアはどうなるのか? 残された彼女はどうするか?
短い付き合いではあるが、ルーミアには想像に難くなかった。きっと決死の思いで妹を助けに行くのだろう。だが、その結末は。
「私……嘘吐き……だ……」
しっかり二人を守ってると、そう約束したのをルーミアは忘れていなかった。
なんでもすぐに忘れてしまう彼女には珍しく。
べつに……記憶力が悪いわけではない。ただ重要ではないから。喰らうことと眠ること以外、この世界に重要と思えることが無かったから。
大切だと思うことは、ちゃんと覚えている。
虚ろな緋色の瞳。
そこに映るのは、眠る少女の像。
神に祝福された短剣を真紅に染めてみせた少女の姿。
緋色の瞳が細まってゆく。
(夢を……私に夢を見せてよ。ねぇ、レミィ)
それは、それは丁度……人狼が目当ての物を見つけ出した瞬間のことだった。
森の中で多様に折り重なった臭いの中、わずかに異なるそれを探し当てたのはひとえに彼の執念――あるいは、ワイルドハントの王への畏れ。
既に時間を使いすぎていた。しかしこの宝石羽を持ち帰れば覚えもめでたいに違いない。
そんな夢想に花開かせた、その瞬間のことだった。
「……は?」
彼の背後で爆発する異形の闘気。
咄嗟に理解が追いつかないのは、しかし無理もないことである。なにせ彼の背後には価値のない異形の子供と、自らがとどめを刺した雑魚しかいないはずだったから。
しかし一方で、その闘気に彼は確かに覚えがあった。紛れもなく、先程殺したばかりの異形と同じ気質の気配。
闇の異形の気配。
「おい。おいおいおいおいおい。こりゃどういうわけだ? おまえさっきぶち殺したよな? なぜくたばってねえ?」
人狼の振り返った先に立っていたのは、果たして、金色の髪を夜風に靡かせる闇の異形そのものだった。
服の胸元には丸く穿たれた痕が残っている。だというのに、傷はもう塞がっていた。
爛々と輝くガーネットの瞳。その眼光にワイルドハントの斥候がたじろいだ。
「なんだ! なにをした!? てめえさっきとは別人――」
吠え声をあげる人狼は、しかしさすがにワイルドハント旅団の王によって「祝福」を授かっただけのことはあった。
目聡く見出す、ルーミアの手に閃く見覚えのない武器。真紅のミセリコルデを。
「それか? さては魔装具だな。そんなものを隠し持ってやがったか」
「いや……」
質屋が品定めをする時のように、あるいは子供が新しい玩具を眺めるように、ルーミアは自身も不思議であることを隠そうともせず瞳を走らせてから、ミセリコルデを掲げて見せた。
「これはただの量産品だよ。野生の異端審問官から掻っ払った種も仕掛けもない短剣」
「バカな」
無論、それは真実である。ルーミアの……レミリアのミセリコルデは、その物自体に特別な謂れはない。司教格の装備故に多少は高級かもしれないが、その程度。
ただあの瞬間、ルーミアが末期の息を引き取ろうとした瞬間、彼女は手を伸ばした。十字架を模した真紅の短剣に。なぜそうしたのか? 根拠はない。単なる直感。
しかしともかく、その直感が彼女を救った。
短剣の柄を手にした瞬間に逆流した力の奔流。それは聖なるエンハンスメントを上書きするほどの、闇の力。
あの瞬間、消えかけていたルーミアの魂に火が灯った。だけでなく、新鮮な空気と燃料をたっぷり補給された焔のように、新月の夜半よりも瑞々しい生の実感が彼女の中に渦を巻いた。
ミセリコルデに込められたレミリアの力の切れ端が、ルーミアの瞳の輝きを再びに蘇らせたのである。
「なんだかよくわからねえが……」
そういうことを人狼は知らない。知る由もないし、ルーミアもわざわざ聞かせてやるつもりもない。
「それでもまだ俺には及ばねえようだ」
ハッタリでは無かった。それほどにルーミア達の間には元々の力量差があった。
事実、彼女はあっさりとそれを肯定する。
「うん、自分の弱っちさに涙が出るよ。これだけやっておまえ『ごとき』と互角なんてさ」
「弱い犬程よくほざく!」
狼の唸り声を耳障りに思いながらも、闇の異形は短剣を構える。
これでようやくスタートライン。不条理の向こう側は勝利ではない。それでようやく「恵まれた奴ら」と等価の地点に立つだけだ。
そこから先の明暗を分けるものは、センスと集中力と執念。そしてなによりも。
「試してみようと思うんだ。私の運命ってやつを」
再び、異形なる者達が激突する――
◇◇◇
眠りすぎた!
目覚めて同時に冷や汗が出た。
まず、朝って最悪だ。私とフランドールは生まれつき日光に弱かった。木漏れ日が提供するのはいつだって最悪の火傷痕。何度か実際に炙られたこともあるから、間違いない。
「あつうっ……く、ない?」
落ち着いて見回すと私たちは、きちんと樹冠の下で眠りこけていたらしい。薄暗く湿った空気。直ぐ側ではフランがまだ寝息を立てている。
それでようやく蘇ってきた。昨日の記憶。
「私、ルーミアさんに稽古をつけてもらって、その後寝ちゃって……ルーミアさんは!?」
だから眠りすぎるのはダメなのに。
危機に対処できなくなる。私はいつだってフランドールより先に起きて、あの子に降りかかる災禍を把握する責務があるのに。
辺りを見回してもルーミアさんはどこにもいなかった。嫌な予感がした。
「ルーミアさん! ルーミアさんどこ!?」
約束したのに。私たちのことちゃんと守ってくれるって。
ううん知ってる、約束なんて無意味な徒労。世界は不条理にできている。奪い合いと殺し合いが基本の原則。誰も約束なんて守るわけない。信じた私がバカなんだ。
きっとルーミアさんは、ルーミアは、私たちを置いて逃げたんだ。あいつの言ってた、ええと……わいるどはんと? とかいう連中に寝返ったんだ。
「ルーミアさん! ルーミア! 返事しなさいよ! ねえ!」
きっとすぐにでも私たちを追い詰める敵がやってくる。今するべきことは、フランドールを叩き起こして逃げること。少しでも遠くへ、遠くへ。
そうすべきだと、わかってるのに。
「ルーミアさ……」
わかっているのに私は彼女を探すのを止められない。
いったいどうして?
だけど意外にも、私の捨て鉢は実を結んだ。思いもよらぬ方向に。
「なによ、これ……」
茂みを抜けた私の目に飛び込んできたのは、破壊の痕跡。
めちゃくちゃになぎ倒された木々、切り刻まれた大地。竜巻でも通ったのかと思うような、というかそうとしか考えられないような、カタストロフィの祭りの後。
でもそれは竜巻じゃなかった。というかもっと怖ろしいもの。
破壊の傷跡に混じって点々と、あるいはべったりと撒き散らされた赤黒い滲み。流血の証明。間違いなく戦闘のあった現場。
「いったい誰が」
うわ言を吐き出したのは、きっと現実から目を背けたかったから。
誰が、なんて決まってる。まさか通りすがりの二匹の猛獣が争ってそのままいずこへ消えたなんて、そんなわけはない。
ルーミアさんだ。あの人が戦ったんだ。
でも、なぜ。
――私がしっかり守ってるよ。妹ちゃんも、レミィも。約束する。
なぜ、昨夜の言葉がリフレインするの。
なぜ、胸の奥がこんなにもざわつくの。
なぜ……なぜよ。約束なんて守られるわけないのに。なぜ、
「あ」
朝日が昇り始めていた。穢らわしくて美しい太陽の光が、森の中の少し開けた草原を徐々に明るく照らし始めていた。
その中央に倒れている、二つの人影。
片方は胴の上と下を腰元から真っ二つにされて死んでいた。信じられないという驚愕と恐怖の表情のまま永遠に凍りついた――あれは、狼男?
それよりもう一つの、血と土と泥に汚れてなお美しい金色の髪の、あの人は。
「ルーミアさんっ!」
生きている? 死んでいる? わからない。ただ……強まる日光の中、その肢体から灰色の煙が立ち上り始めてる。
たぶん私と同じなんだ。ルーミアさんは闇の異形。光の中では生きられない体質。このままじゃ、きっと……
「バカ!」
気がつけば飛び出していた。瞬間に全身を貫く光の洗礼。文字通り焼けるような痛み。
それでも遮二無二に駆ける。眩しくてなにも見えやしない。ただまっすぐ、まっすぐに走る。走って、掴む。ルーミアさんの体を。
「ああああああっ……!」
熱い、熱い、熱い、痛い、熱い、痛い。
それでも走る。炎の中に放り込まれたよう。皮膚の焼けただれていく感触。それでも、走る。
走って……突然に熱さが消えた。痛みはまだじくじくとしがみついているけど、それも徐々に収まっていく。
私は木陰の中に戻ってきていた。たぶん時間にすればほんの数秒のこと。体感ではおそろしく長く感じられたけど、現実はそんなもの。
おそらく早朝なのが幸いした。これが正午の全力の太陽だったら二人とも蒸発してそれっきりだったろう。
しかし、ともかくも。
「ルーミアさん!? 大丈夫!?」
放さなかった。掴んだもの、私の掴んだ運命。太陽に焼き焦がされたって手放さなかった。
ルーミアさんは気だるげに目を開く。良かった、生きてた……。
「あぁ……おはよ、レミィ……」
「いったいなにが」
「これ……返すよ。少し、寝る……」
「返すって、これ私の剣? ていうか寝るって、ちょっと! ルーミアさん!? あの死体はなんなの!? 他に敵は残ってるの!?」
「しばらくは、大丈夫……たぶん……」
「たぶんって――ほんとに寝てるし」
わけがわからなかった。
わかるのは、ただ、ルーミアさんが命がけで私たちを守ってくれたってこと。それだけ。
「あれ?」
それともう一つ。
いつの間にか使われていたらしい短剣を鞘にしまおうとして、ふと違和感に襲われた。
「刃が紅くない……」
元がどんな色だったのか知らないけど、今は錆びついたような鈍い色だ。
不思議に思っているとまた、私の中から力が流れ込んでいく感触がした。途端、鮮やかな真紅に染まる刀身。正直どういう原理なのかちっともわからないけど、ルーミアさんはこれを「属性の隷属」とかなんとか言ってた気がする。
それが消えていたのは何故なんだろう? ルーミアさんの力に更に上書きされたのかな? そういう感じでもなかったけど。
なんというか……まるで中の水を飲み干された空っぽの水筒……私の注ぎ込んだ力を、誰かが使い果たしてしまったみたいな……
「――様、お姉様! やっと見つけた! どこ行ってたの!?」
考えが、森の向こうから聞こえてきた声に遮られる。
息を切らした私の妹。私の大切なフランドール……を、置き去りにしてしまったな。明らかに不満げな顔に少し、ばつが悪い。
「ご、ごめんね。すぐ戻るつもりだったんだけど。起こしちゃ悪いと思って」
「まあいいけどさ。お姉様が私を見捨てるわけないってわかってるし!」
「フラン……」
「それよりその背負われてる人……ルーミアさんだっけ? 怪我してるの?」
「ええ、私たちを守ってくれたみたい」
「守る……?」
信じられないと言いたげにフランドールの瞳が丸くなる。
もちろん私だって信じられない。私たちはなんの価値もない惨めな異形の端くれ。虐げられる理由はいくらでも思い当たる。でも、守られる理由は何一つ浮かばない。
それでも……受け入れられないことでも……ルーミアさんは私たちを守ってくれた。あの真っ二つにされた人狼がその証拠。いや、昨日だってあの異端審問官たちから私を守ってくれた。
理解できないこと。
もしかしたら途方もない陰謀の伏線なのかもしれない。
だったとしても。
「フラン。私はルーミアさんを……信用できる人だと思う」
「しんよう? お姉様、それってどういう意味?」
「私たちの味方になってくれる人、ってこと」
「みかた、ってなに?」
「それは、ええと……仲間ってこと。危ない時に助け合ったり、お腹が空いたらご飯を分け合ったりする、そういう関係……だと思う」
「それって家族のこと?」
家族。そうなのだろうか。違うだろうな、と直感が否定する。私はルーミアさんを信用したいと思う。でも家族とは違う。私の家族はフランドールだけだし、ルーミアさんも私を家族とは思わないだろう。
でも、フランドールの気持ちは理解できる。
私たちはずっと二人ぼっちだった。味方は互いだけだった。信用できるのは互いだけだった。守ってくれるのは互いだけだった。
それが当たり前だと思ってたし、永遠に変わらない世界の理なんだって信じてた。信じるしかなかった。だって、事実そうだったんだから。
だから当然、仲間とは家族のことだった。他のどんなものも余分に意味したりしなかった。
「フラン」
フランドールが不思議そうに首を傾げる。
じっくり言葉を考えてから、私は、また口を開く。
「素敵な朝ね」
「……そうだね。朝なんてずっと大嫌いだったけど。今日は、少なくっても、儀式に連れて行かれることはないもんね」
背中でルーミアさんが身じろぎをする。
元の身長差があるから、背負ってるというよりむしろ、私が抱きしめられてるみたいだった。
<幕間>
「あーあ。こりゃダメだね。真っ二つにやられちまってるよ。南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏」
無惨に転がった死体を杖(あるいは槍)の先端で突っつきながら、緑髪の悪霊――魅魔は奇怪なマントラを口にする。
その様子に、ワイルドハントの王は露骨なまでに眉根をひそめた。
「なんだ、その呪文は」
「死者の魂が無事ヴァルハラへ辿り着けるように、っておまじない」
「ヴァルハラだと……我らワイルドハントは天国に拒絶された亡者たちの群れ。この者の魂もまた我に還った。ヴァルキュリエになど渡さぬ」
「んじゃ、彼がいつ誰に殺されたのかも王様の魂に聞けばわかるのかい」
「……」
「異形の死骸は腐敗しないが、装備の劣化具合、血の塊具合から……ま、死後三日ってとこかね。大したもんだよ。部下の一人が殺されて三日も放ったらかしなんて」
王は反論の言葉を見つけられなかった。
魅魔は薄く笑う。「だいじょぶだいじょぶわかってるって」とでも言いたげに。
……そう、そもそもが異常事態なのだ。ワイルドハント旅団にこうもあからさまに歯向かうものが(魅魔を別にして)存在するなどとは。
確かに斥候を分散させたのは王の失策だった。彼はそれを認める。油断があった。彼が王となるずっと以前から、ワイルドハント旅団はもう何千年と狩る側から転げ落ちてこなかった。不条理を振りかぶるより、自らが不条理の使徒となって恐怖の夜を駆け抜ける側だったのだから。
大岩のごとき巨体が地獄のようなため息を吐き出す。
「標的は素人ではない。死骸こそ残されていたが、足跡は丁寧に消されている。おそらくは、我らと同じ生業のもの。狩人だ。それも手練れのな」
「だろうね。お株を奪われて血が騒ぐ?」
「くだらぬ。我らの存在意義とはただ獲物を追い詰めること。ただ獲物を狩ること。ただ獲物を殺すこと。そこに愉悦も快楽もありはしない」
「あるのは故郷ブリテン島玉座への郷愁だけ……はぁ。かわいそうなワイルドハントの王様!」
「貴様……」
「でも王様はラッキーだわ。この私に巡り会えたんだから。うふふ……」
「魅魔よ。宝石羽を手に入れさえすれば、我の呪いは本当に解けるのだろうな? 其方の狼藉を許すのも全てはそのため。我を謀ることは死よりも怖ろしい永劫の――」
「疑り深いなぁ。私たち友達でしょ? 友達の言うことは信じなくっちゃ」
……もう王は怒鳴る気力も失ったのか、へらへらと笑う魅魔を視界から外す。
そして二人のやり取りを顔を青くして見守っていた部下たちに向け、命じた。
「同胞の仇を討て。彼奴らの向かった先は、おそらく、アナベラル市。ゆけ!」
鋭い命令を受けてワイルドハントの異形達が、その姿が、陽炎のようにかき消える。
魅魔の口笛が一つ。
「アナベラル市? 決め打ったね。根拠は?」
「標的は獣のような連中だが、獣ではない。あの古城からの迅速な離脱。当然我々の接近を捉えていたものと考えるのが、妥当だ」
「ふむ」
「であればただ闇雲に逃げ回りここに至ったのではなく、何らかの目的があって移動していると見る。それが当然であろう」
「ふーむふむ」
「……そしてあの古城とこの場所、二点を結ぶ直線から想定しうる標的の移動範囲は限定される。『素人の』其方でもそれくらいはわかろう」
「いやぁちっとも。さすがはワイルドハントの王様。でもアナベラル市ってのはどこから――いや、ああ……確かあそこは……そうか。それは少し、面倒になるな」
魅魔がゆるりと頷く。それは彼女が初めて見せた生の感情だった。
しかしワイルドハントの王は背を向けていたため、それを窺い知ることはできなかった。
ルーミアが無敵というわけでもなく、ギリギリ生き残るバランスが読んでいて楽しかったです