◆◆◆
――しくった。
闇は思った。
丸い大きな窓から差し込んだ、紅い月の鮮やかな光。照らしだされる石造りの室内には、まだ新しい真紅の水溜まりが徐々に広がりつつある。
――ほんの、夜食程度のつもりだったのに……。
闇は深いため息を付いた。
その口元は、その鋭い爪は、その夜の海のように黒いドレスは、水たまりと同じ赤色で汚れている。
長い金の髪をたくわえた頭を気怠げにかいても、時は巻き戻らない。
しばらく考えてから闇は、改めて、ぼやく。
「しくったなぁ」
それから闇は、ガーネットを嵌め込んだような二つの瞳を部屋の奥へと向けた。
血を垂れ流しながら倒れ伏す無数の人間――だったものは、すべて闇によってその息の根を止められた後。それらのうち「おいしそうなやつ」は既に品定め済みだ。闇の興味の対象はそれらではない。
人間あらため死体の山の中央でうずくまるように震えている、二つの人影。どちらも見てくれは幼い少女のようである。しかし彼女たちが単なる子供ではないことは明らかだった。
片や、蝙蝠のような翼を背中から生やした少女。そしてもう片方に至っては、およそ翼とさえ言い難い奇妙な「宝石の枝」のようなものが背から伸びている。
異形。
人ならざる者たち。
初めは人間たちによる一方的な蔑称だったが、恐怖を糧とする闇たちは、今や自らをそう称して憚らない。
「あなたたちもそう思うでしょ?」
闇が一歩踏み出すと、蝙蝠翼の少女が宝石枝の少女を庇うように身を寄せた。食いしばった口元から除く獰猛な牙の連なりが、どうあれ彼女が人ならざるものだと示している。
面倒くさげに両手を上げて敵意が無いとアピールする闇。
「私は敵じゃないよ」
「……」
「現に、あなたたちをイジメてた連中を片付けたでしょ? だけど不用心だよねぇ。悪魔崇拝をするのに護衛の一人もつけておかないなんて。もし異端審問官(インクィジター)に踏み込まれたらどうしてたんだろ? でもそんなことも思いつかないから悪魔崇拝なんか始めんだろーね。だいたい悪魔が人間を助けるとかさ、頭ん中どんだけお花畑なのって話。取って食われて終わりじゃない」
「……」
「かわいげないねぇ」
闇は記憶を蘇らせる。自分はただ腹を空かしていただけなんだ、と。
事実、闇もう何日もまともな食事にありついていない。確かにはるか昔は野山を駆け回る野ウサギや野ネズミを食べていたものだが、いつの間に地上に増えた「人間」という食糧――その愚鈍さと栄養価の高さは、闇の元来持っていた狩人としての能力をすっかり麻痺させてしまったらしい。
初めは良かった。彼らは他のどの動物より闇を恐れた。闇の全盛期。懐かしき黄金時代。
しかしここ数千年、夜の闇の畏怖と権勢の弱体化は留まるところを知らない。理由は明白。組織化された対異形勢力の登場。闇の思い出せる限りでも、アケメネス朝不死隊、ローマ帝国レギオー、エトセトラエトセトラ。ようやく滅び去ったと思っても間断なく次が現れる。
特に。
ここ数百年勢力を伸ばし続けている「教会」は最低の部類だった。なにより闇の大嫌いな「光」の勢力に隷属している。今や狩り場にしていた村々にも法儀式済み装備で武装した異端審問官が平然と彷徨くようになって久しい。
かくして。
空腹を抱えふらふらと飛んでいた闇は、ようやくこの城を見つけて忍び込んだわけである。私兵を雇う余裕のある貴族たちの城は、一般的には危険な狩り場だ。しかしこの城はどういうわけか人里から外れた丘の上にそびえていた。
して、その理由がこれだ。
――悪魔崇拝者(サタニスト)の隠れ集会場。なるほどこんなお誂えの場所、よく見つけたもんだわ。元はなんかの戦で使われた城塞か? のわりには手入れされてるから、教会に面従腹背する地方領主にスポンサードされてるってとこかな。
実は先程の死体の山の中に、会合に参加していた貴族たちが数名混じっていた。しかし人間がネズミの顔を見分けられないように、闇にとってはどうでもいいことだった。
どうでもいいことだったはずだ。
闇にとって人間はただの餌食。予定では彼らを腹一杯になるまで喰らい、残りは干し肉にして当分の食料とする。それからこの城をしばらく寝床にしつつ、また気が向いたら他所へと向かうはずだった。
自由気ままな日々。
闇は闇として産まれてから何十年、何百年、何千年……数え切れないくらいの時間、そうして生きてきた。それこそ生きるということだった。
だが。
こんな面倒に見舞われたのは初めて――ではないかもしれないが(闇は物事をすぐ忘れる方だった)、とにかくだいぶ久方ぶりだったのは、間違いない。
闇はあらためて少女たちを見やる。
例の異形の翼はともかく、人形のように整った顔立ちは息を呑むほど精巧な造形。対して身にまとった衣服は、およそ衣服と呼ぶのも厳しいようなボロ布だった。ところどころに返り血や、血ではない何らかの液体が染み込んでいる。だが闇は特にそれらには言及しなかった。どうでもよかったからだ。人間は基本的に異形の餌でしかないが、弱い異形は時に人間の歯牙にかかることもある。それだけのことだろう。特にサタニストのようなロクデナシ連中にはありがちなことに思えた。
「あなたたち、名前は?」
「……」
「いつからここにいるわけ? あの人間たちに連れてこられたの? それともほんとに魔界から呼び出されたとか?」
「……」
「魔界なんてあるのか知らないけどさ」
「……」
「だめだこりゃ」
またため息を一つつき、闇は踵を返す。
世に満ち夜に蠢く異形とは概して自由なる存在だ。闇もそうだし、例えば人狼、ヴェアヴォルフ。首なし騎士デュラハーン。飛龍ワイバーンに、亡者の狩人ワイルドハント……彼らは理由も予兆もなくやってきては自由気ままにその力をふるい、無辜の(時には罪深き)人間共の肉を引き裂き、臓腑を引きずり出し、返り血の中で高笑いをする。
だが同時に彼らは孤高なる存在だった。痛くない腹を探り合いたがるのは人間だけの習性だ。
より換言すれば、馴れ合いはしない主義だった。理由は単純。めんどくさいから。それだけ。
異形たちは基本的に話が通じないし、また聞く気もない(闇もそうだ)。だというのに体力と膂力はどんな猛獣よりも強大で、対立し合えば互いに無事では済まない。
だから、異形たちは互いの縄張りをとても尊重する。敬意によってではなく、めんどくさいから。ただただめんどくさいから。
故に。闇は「めんどくさいから」城を出ていくことに決めた。おまけにこの異形は子供だ。子供はめんどうくささの極地だと闇は知っている。行動に予測がつかないし、下手に手を出すと人間たちの潜在能力を過剰に刺激する。この二匹の子供の裏になにが潜んでいるともしれない。おまけに情報を得ようにもさっきから口を開こうとさえしない。
「動いた分の肉は貰ったから。残りはお好きに」
ひらひらと後ろ手を振り、闇は窓の縁へと飛び乗る。後はもう「とん」と爪先に力を込めるだけ。それでおさらばだ。後は野となれ山となれ。
おそらく異形の少女の二人組は、残された肉を食らってしばらく生き残るだろう。だがその後、近くに狩り場となるような集落はない。
あるいはひょっとすると別の異形が目をつけ、この城を新たな縄張りに加えようとするかも知れない。頭の弱い悪魔崇拝者を捕らえる罠として。たしかに彼らは不干渉主義だが、そのディテールには「むら」がある。相手を殺してしまえば干渉もクソもない、と考える野蛮な連中も実のところ少なくない。
――だから?
無論、そんなこと闇には関係ない。
むしろ闇はせっかくの晩餐を邪魔された被害者だ。文句の一つもつけたやりたい気持ちでいっぱいだ。うん、たしかにそうだと闇は自らの考えに頷く。であればもう悩むこともない。
「じゃあね」
「とん」と爪先に力を込める。
紅い月の光のさなかへ闇の姿はあっさりとかき消えた。
◇◇◇
私は宝物をもって産まれてきた。
だから、それ以外のありとあらゆる世界が私に牙を剥き、私の身と心を弄ぼうとしたところで、耐えることができた。
私は知っていたから。
運命の女神は残酷だけど、たしかに一度、ただの一度かもしれないけどそれでも、私に向けて微笑んだんだって。それは数奇なる運命。この世にはたった一度さえ女神に顧みられること無く悲劇と喜劇の中で散っていく存在が履いて捨てるほどにいると、私は知っている。
「……もう、大丈夫」
腕の中で震える私の宝物。女神からのただ一度きりの贈り物。私の妹、フランドールがおっかなびっくり顔をあげる。
静まり返った石造りの室内を精査するように、彼女の大きな瞳が右から左にゆっくり動く。
そしてここにはもう(死体の他に)誰もいないことを理解したのか、強張っていた肩から力が抜ける。
「お姉様がやったの……」
「そうよ」
嘘をついた。
私はただフランドールを抱きしめて、凍りついていただけだ。いつも通り惨めに、間抜けに、あのナンセンスでサディスティック趣味たっぷりの「儀式」から少しでもこの子を守ろうとして。
それから起きたことを、身を強張らせて耐えていた彼女は知らない。フランドールは「殻」を持っているから。そこに閉じこもればもうなにも見えず、なにも聞こえなくなる。
故に、紅い月光の差し込む窓から現れた、金色の髪に黒ドレスの異形女のことも彼女は知らない。慌てふためく人間たちのことも。異形が鉤爪を振るうたび崩れ落ちていく命だったもの、飛び散る紅い色、ほおずきみたいに紅い景色も。
けれどフランドールが私を疑うことはない。彼女が殻にこもっている間は私があの子の目で、私があのこの耳になる。だからこの話はそれでおしまい。人間たちを殺したのは私。それがフランドールにとっての「事実」になった。
「そっか……もう痛いのはないんだ……」
「ええ、そうよ」
「よかったぁ……」
緊張が解けたせいか、フランドールのお腹がくうぅとかわいい音をたてる。
私はいつもどおり最大限の笑顔を向けて、妹の頭をそっとなでてやった。目を細める私の宝物。心地よさそうに。
「さ、ご飯にしましょう。といってもいつものような残飯じゃなく、新鮮なお肉の食べ放題よ!」
「すごい! ええと、じゃあ、はんぶんこね! あそこの鞭女の死体から左は、私の! もう半分は、お姉様の!」
「好きだなけ食べていい。あなたはまだ成長途中なんだから」
「それはお姉様もでしょ。たった5歳しか違わないのに」
「いいのよ、フラン。実は私、少しつまみ食いしたの」
「……ほんとに?」
「ええ。私があなたに嘘をついたことがある?」
「ない!」
即答。フランドールが私を疑うことはない。ただでさえ私たちは弱くて、惨めで、世界は過酷に牙を剥き続ける。
だからせめてこの子にできうる限りの幸福を。止められる不幸は私で止める。それが私の正義。それが私のもって産まれた運命。
だから私は妹に嘘をついたことなんて一度もない。ただの、一度も。
「ふん。さんざん私たちを弄んでさ。お姉様にかかればあんたたちなんてこうだったのよ。あんたたちなんて。あんたたちなんて! あんたたちなんてあんたたちなんてあんたたちなんてあんたたちなんて!!」
「フラン。食べ物を粗末にしちゃダメよ」
フランドールに蹴りつけられた死体からぐしゃりぐしゃりと間抜けな音がなる。
鞭女の整った顔からぶつりと目玉が飛び出す。鋏男の細い腕がばきりと奇妙に捻じくれる。
殻にこもっていてなおフランドールは、奴らにされた仕打ちを忘れることはないだろう。
あの痛み。
あの惨めさ。
私たちの肉体は、血液さえ飲めば傷などすぐに癒える。鞭打たれた傷なら半日で。焼けた鉄を押し付けられた跡なら一晩で。切断された両手の指も一週間で完治する。
けれど心に刻まれた痛みを忘れることはない。
「余計なことしやがって……」
忘れられるわけない。忘れるつもりもなかった。
私はいい。私のことはどうでもいい。でも、私の宝物を傷つけたことは許せない。今は無理でも、例え今は人間に虐げられることしかできなくても、いずれ精算させてやる。そう思って生きてきた。それだけを糧に私は歯を食いしばって耐えてきたのに。それなのに!
あのクソ異形女! 余計なことしやがって! 私が殺すはずだったのに! こいつら全部自分が母親の股ぐらから産まれてきたことを完膚なきまで後悔するほどに痛めつけてから、今まで妹にしやがった分の一兆倍の苦しみを与えてからぶっ殺す予定だったのに! それを!
「……お姉様? どうしたの? すごく怖い顔をしてる」
「なんでもない。ただ少し……疲れたのかも」
「きっとそうだよ! こいつら全員殺すのに力を使いすぎたんだわ! やっぱりご飯ははんぶんこにしましょ! お姉様もたくさん食べて! ね!」
「……ありがとう。フランは優しいわね」
「ううん! べつに優しくなんてない。お姉様だけよ! 私お姉様だいすき! だいすきな人には元気になってほしいの!」
「私もあなたを愛してるわ、フラン」
「うん!」
闇に紅く輝く満月のように尊い私の宝物。満面の笑みを浮かべるフランドール。
私にはこれだけでいい。この子がいればそれだけでいい。妹が笑っていてくれるなら、私は――
「フラン」
「なあにお姉様?」
物音。下の階から。さっきの異形か? いや、足音は複数ある。人間だ。
「それじゃあ私の分は、残しておいてね」
「うん! でも……どこへ行くの? どうしてそんなに怖い顔をしてるの?」
「……殺し損ねがいたみたい。でもたった一人よ。すぐ片付けちゃうから、いい子で待っていられるかしら?」
「私も行く! ううん私がやる! やらせてよお姉様!」
「……ダメよ」
本来なら言うまでもないことだ。これが本当にただの殺し損ねならともかく、無数の足音は澱みなく階下の部屋を捜索してまわってる。正体はわからないけど、明らかに友好的な勢力じゃない(そもそも私たち異形に友好的な人間なんているのか?)。
だというのに。
「どうして!? お願いよ! 私だって人間くらい殺せるわ! 新鮮な血肉も食らって力がみなぎってるの! だからお姉様、私にやらせて!」
「フラン……」
いつからだろう。この頃のフランドールにはこういうことが増えていた。姉の私がやると言っているのに、どういうわけか自分がやると主張して聞かない。
日替わりの「儀式」を自分が引き受けるとか、一皿しか与えられなかった血液を自分が我慢するとか……。
きっとそういう年頃なのだろう。背伸びしたくなるお年頃。自分はもっと優れた存在なのだと家族に……私に見せつけたいのかしら? それは可愛らしいけれど、今はダメだ。今だけは。
「フラン、聞いて」
「は、はい……」
「あなたを愛してる」
「わ、私もお姉様のことは大好きだよ」
「あなたはなにもしなくていいの。なにもしなくて大丈夫。愛するあなたのためになにかをするのが、私にとっていちばんの幸せなのよ」
「でも……」
「フラン。フランドール。あなたの優しさはわかってる。でもあなたは私より体も弱いし、これまでの傷もその分多く残ってる。今は回復に努めなきゃ。ね?」
「……」
「お返事は?」
「…………うん」
「じゃあ、行ってくる。すぐ戻るから」
「すぐね! すぐ戻ってきてよ!」
「ええ」
私たちは小指を重ねて約束を誓う。互いの愛と真実を誓い合う。
そして私は闇色の風となった。黴臭さの満ちる廊下を駆け抜け、恐怖と苦痛の象徴だった一階への階段を駆け下りる。
果たして、人間共はそこにいた。血染めのような真紅のローブに身を包んだ連中が……十かそこら。思っていたより数が多い。この城で私たちを捕らえていた連中の仲間かと思っていたけど、どうも様子が違った。拷問部屋の扉を蹴破り中を物色しては、その凄惨な光景に驚きの声ひとつもあげず次の部屋に向かう。そんなことを繰り返している。
「見つかったか?」
「ダメですね。ここもハズレです。もぬけの殻ですよ。死体以外は」
「どんなだ?」
「うちで出すのよりはマシなやつです」
「ふむ、しかし急げよ。奴らの取引に巻き込まれる前に『品物』を見つけねばならん」
「だからあの男は情報源として生かしておこうと。司教様が勢いあまって殺してしまうから」
「奴は悪魔憑きであった。その味方をするのか?」
「い、いえ……しかしこのままでは埒があきません。やはり隊を分けて二階に向かわせるべきなのでは?」
二階、という言葉に胸が高鳴る。二階はダメだ。二階にはフランドールがいる。
まさかこいつらの狙いは……私たち? 品物。取引。理解できない言葉がぐるぐる回る。
いずれにせよ、こいつらは敵だ。私の宝物に害を為す敵だ。敵だ!
目の前が紅く紅く染まる。気がついた時にはもう私は物陰から飛び出していた。
「む……」
手応えはあった。命を奪う手応え。でも、切り裂かれた頸動脈から血飛沫を撒き散らし倒れていったのは、話していた二人のうちの弱そうな方だった。リーダーらしき方を狙ったはずなのに。
外した? いや違う。盾にしたんだ。あの人間、仲間を躊躇なく盾にした。
わけがわからないという顔をしたまま崩れていく仲間を一瞥した男は、それから黄ばんだ瞳でギョロリと私の方を睨んだ。
「……だから隊を分けなかったのだよ。下賤なる異形はいつだって闇よりの奇襲を好む。戦力の分散は愚の骨頂だからな」
その声音に憐憫とか仲間を殺された怒りとかの感情は微塵も無かった。ぞくりと背筋が冷える。こいつ本当に人間なの?
「ふむ、しかし出るものが出たな? おまえたちは援護に回れ。この異形は検邪聖省直轄司教区司教たる私、セバスチャン・ミカエリスが相手をしよう。騎士道精神に則ってな」
騎士道精神? なのに司教? 矛盾した言葉には狂気の色すら感じる。けれどそのセバスチャンなんたらが腰に下げたミセリコルデ(十字架型の短刀)を引き抜いた瞬間、空気の質が変わった。私を取り囲むように広がる人間たち。まるで十字架そのものを手にしているみたいに、セバスなんたらの両手が祈りの形に組まれる。
「灰は灰に」
「「「灰は灰に」」」
「塵は塵に」
「「「塵は塵に」」」
耳障りな唱和。今すぐその口黙らせてやりたいけど、打って出る隙が見つからない。狂気の色をたたえながらも男の瞳は揺るがず私に向けられている。
「そして闇から来たる異形は再び闇に」
「「「然り(エイメン)!」」」
「よって今より検邪聖省直轄司教区司教セバスチャン・ミカエリスの名の下に異端審問を開始する。かくあれかし(エイメン)」
「長い……」
「悪魔にはわかるまい! 信仰の偉大さ! 己の罪深さもな!」
そして、動く。私も敵も。短剣ミセリコルデの刃が燭台の炎に照り映える。
速い。
頭を逸らすのが間に合ったのは、本当に文字通りの間一髪。さっきまで私の瞳のあった場所を短剣の切先が貫いていく。
認めるしかない。この人間……おそらく強い!
「どうした異形よ! 我が剣技に逃げ惑うことしかできぬか!? そうだろう! 家督は兄貴に譲ったが剣の腕は私が常に優れていた! 信仰の道に進んだのも私自身の意志! そして今や世に成した正義の数さえも私が圧倒的に勝っている! これぞ勇壮たる騎士道精神と敬虔なる信仰心の新たな地平! 兄貴など私の足元にも及ばぬ凡愚である確かな証明!」
「あんた狂ってるわ!」
「笑止! 悪魔は常に真実の逆を口にする!」
めちゃくちゃだった。こいつ完全にイカれてる。次々に繰り出される慈悲(ミセリコルデ)の刺突から逃れるべく私は後ろへ跳んだ。けれど、
「審判執行!」
「うそっ!?」
「審判執行!」
「ちょっ、まっ……」
「審判執行!」
「このっ……!」
取り囲んでいた人間たちがめいめいに武器を振るう。メイス、モーニングスター、鉄鎌に幅広剣になんでもあり。
追い立てられて輪の中央に戻ると、再び短剣の突きの雨に襲われる。
「なによ! こんなのぜんぜん騎士道精神じゃないわ!」
「異形相手には団体戦術もみとめられるのだよ! 我々人間はか弱いからな!」
「どこが!?」
ダメだ。狂人の戯言を馬鹿正直に信じたのが間違いだった。悪魔が人間に騙されるなんて馬鹿の極みだ。
だけどくそっ、ここで私が負けたら、こんな奴に私の大切な妹を殺させることになる。
動けよ私の体。動けよ私の両脚!
「っ……」
だのに……ああ、いくら憎悪を燃やしたところで踏ん張りが効かない。ぐらりと世界が横倒しになる。
わかってた。もうずっと私の体は限界なんだって。
そしておそらくこいつらは、戦闘のプロ。最悪だ。奇襲に失敗した時点でもう勝ち目なんてなかったんだ。
こんなことなら……あーあ、こんなことならフランドールの言う通り、あの死体の半分だけでも食っておくんだった。そうすればこいつと刺し違えるくらいはできただろうか。フランドールの逃げる時間を稼げただろうか。
いいや……あの子が私を疑うことはない。例え刺し違えたところで、あの子は律儀に私を待ち続けるのだろう。そして残りの人間たちに捕らえられて、それで終わり。
鈍化する時間の中、セバなんたらの口元が獰猛に歪むのが見える。
それは狂気の笑み。狂気の瞳。見覚えのある顔。この城で私たちを捕らえていた鞭女、鋏男達と同じ顔。
だから人間は嫌いだ。どいつもこいつも狂ってる。私たちの方がよっぽどずっと遥かにマシだ……。
「喜ぶがいい。これまで私が異端と看破し処断した愚かなる悪魔崇拝者の数は九百九十九体……そして貴様が記念すべき千体目だ。浄化されよ異端なる異形! かくあれかし!」
そして、世界は闇に閉ざされた。
◆◆◆
世界は闇に閉ざされた。
その時になにが起きたのか、検邪聖省直轄司教区司教セバスチャン・ミカエリスは瞬時には理解できなかった。
(これは……!? 確かに私は悪魔の心の臓腑に一撃を突き立てたはず!)
だが彼を取り囲むのは闇だけだ。ただひたすらに真っ暗い闇。人間の持つ動物的恐怖感を鋭敏に呼び覚ます漆黒の闇。
それでもあと数秒も猶予があれば、彼の狂気に浸された脳みそは状況を咀嚼し、理解し、次の一手を打ったことだろう。
そうはならなかった。
無論、そうさせないための闇なのだから。
「動くな、人間」
鋭い声が響く。
それは闇の声。闇そのものの声。闇に潜む異形の発する声。
日に焼けていない白く細い指先。そこから鋭利に伸びる紅い爪が、哀れな異端審問官の首筋に突き立てられている。もっとも彼にとっては死角に位置する角度のため、なにか鋭いものが触れていることしか認識できなかっただろうが。
「なんだ、貴様は……」
ホールズアップ。取り落とされたミセリコルデがからんからんと歌い舞う。
「さてなんでしょう」
「異端か!」
「もちろん」
「私を人質に取ったつもりか!? 愚かなり! 我ら異端審問官の絶対使命は個の命に優越する! 私が死んでも我が同胞が必ず貴様らに審判を……」
「へー? けっこうそーいう感じなんだ。いわゆる……」
不敵に釣り上がった闇の口元がふと、困惑に歪む。答えを求めるようにふらふらと彷徨う瞳。
「いわゆる……あー、なんて言うんだっけ? 霧深い、じゃなくて……切り辛い、でもなくて……」
「義理硬い?」
堪えかねて口を挟んだのは、しばし呆気に取られて闇たちを眺めていたレミリアだった。すぐに余計な連中に干渉をしたと気がつき呻くが、闇の方はパッと表情を明るくする。闇なりに。
「そうそれだ! ありがとうお嬢ちゃん」
「……知らない」
全力で目を逸らすレミリアだが、闇はもう少女の方を向いていない。欠けた語彙が補完されたことに満足気にうなずくのみ。
「で……あなた、けっこう義理堅い性格なんだねぇ」
「と、当然だ! 我らは父なる神に選ばれし異端審問官! その使命はたとえ自らの生命灰に成り果てても貴様ら異形をこの世から抹消し……」
「我ら?」
またセバス某の言葉を遮り、闇がわざとらしく首をかしげる。しかしその仕草を目にしているのはレミリアだけだ。背後を取られたままのセバ某には当然、見えていない。
闇はそれに気がついていないのか、わかってて無視しているのか、なおバカにするように肩をすくめて続ける。
「我らって言うけど、もうあなたの他に誰もいないみたいよ? それとも最近の文法じゃあ一人きりでも『我ら』を使うの?」
「な、なにを馬鹿な……」
言いかけて彼は気がつく。いつの間にか周囲の暗黒は消えている。消えているのだ。彼の部下たちと共に。
「なっ!? お、お前たちどこへ行った!? 私を見捨てて逃げたのか!? この検邪聖省直轄司教区司教セバスチャン・ミカエリスを!? 死後四辻に埋められる暴挙であるぞ!」
「人望ないんだねぇ」
実際、その哀れな審問官司教が取り乱し青ざめたのは無理もなかった。神の教えを強固に内面化した審問官たちがこの程度のことで逃げ出すなど、考え難いことだった。
しかし、では、自ら逃げたのでなければ? まさかあの暗闇が満ちた一瞬のうちに一掃されたというのか? この闇の異形によって? 完全に武装した十名の精鋭たる審問官たちが? それこそ、ありえないことだった。
事実ありえなかった。
セバスチャンの部下たちは実のところ、依然変わらずそこにいた。ただ身動きができない。上官を盾にされているからだ。それでも勘の聡いものが口を開きかけたが、即座に闇は人差し指を立て、自分の口元にそっと添える。
『黙ってろ』
言外の威圧感。それは無理からぬこと。たしかにセバスチャンの言葉通り、彼らは「いざとなれば」上官の死も躊躇わず異形を処断するだろう。
しかし「いざ」とはどこから始まる? 今この瞬間がそうなのか? だがセバスチャン司教殿はまだ息をしているし、首と胴も繋がっている。あるいはその狂気的執念によって今も逆転の一手を狙っているのでは? 今動いても邪魔をするだけなのでは? そう考える「こともできる」。
むしろ下手に動けば「みすみす上官を見殺しにし、己の功を優先した者」と見られかねない。ともすると教会に仇為す異端と見做されるかもしれない。おまけに司教の実家は貴族だという。貴族から個人的な恨みを買うなど最悪だ。
なまじ集団であることも悪く働く。これが一人なら遮二無二になって抵抗したかもしれない。だが周囲にはまだ一ダースほどの優秀な仲間がいる。わざわざ自分が動かなくてもいいのでは……?
そして結局は自縄自縛。人の心は低きに易きに流れるものだから。当然、闇はそれを把握している。
また一方でセバスチャン司教殿も動けない。彼には頼みのその部下たちが見えていない。それこそが闇の権能。「見えない」というただそれだけの力。言ってしまえば変則的な目隠しに過ぎない。
が。
闇は何千年、ともすれば何万年と「狩る側」だった。大切なのは「孤独」を創ること。社会性生物は群れればこそ脅威だが、単体ではあらゆる刺激に脆弱となる。
そう、たとえチャチな力でも、それをどのように使えば最も効率的に獲物を追い詰められるのか……言うなれば闇は、徐々に「勘」を取り戻しつつあった。
「私さぁ、お肉は食べる前に加工するタイプなんだよね」
残るはもう「詰め」だけだ。
三流の狩人は段取りでしくじり、二流の狩人は「詰め」でしくじる。だが一流の狩人が「詰め」に臨む時、それは絶対の確証をもって獲物の運命を決する瞬間だけである。
「知ってる? どうしたら人間の肉がおいしくなるか」
「し、しらん! 化け物め! 忌々しい異形め!」
「恐怖だよ」
ぞくり。
側で見ていたレミリアさえ寒気を感じずにはいられない。
彼女には理解できてしまったから。
(壊すつもりだ……こいつ、今からあの人間を壊すつもりなんだ……)
心という物質は柔軟性に富む。故に、勢い任せに叩きつけても壊すことはできない。鞭女や鋏男がいくら乱暴に痛めつけたところで、ついにレミリアの心を壊せなかったように。
だからもしそれを成そうとするなら、むしろじっくり、ゆっくり、気が滅入るほどのまだるっこしさで力を加えるのが一番良い。
当然、闇はそれを把握している。
いつだって闇は捕食者なのだから。
「ね、恐怖によって人の肉は生きながらじっくり、じっくーり熟成されてくの。だから私は捉えた獲物をすぐには殺さない。少なくとも一ヶ月、時間をかけて恐怖を刷り込むことにしているの」
「い、一ヶ月……?」
セバスチャン・ミカエリスの声が震える。それは彼が初めて見せた怖気だった。
「そう。毎朝おはようを言う度に皮を剥いて、毎晩おやすみを囁く毎に一枚ずつ爪を剥ぐの。そして食事のたびに先の欠けたフォークとスプーンであなたの目玉をつんっつんって整えて……ね? わくわくするでしょ? おいしいお肉になれちゃいそうでしょ? あ、爪は二十枚しかないって思うかもだけど、心配しないで。最後の一枚を剥ぐ頃には、最初の一枚がまた伸びてくるから」
「ばっ、化け物が何を言おうと無駄だ! 我ら異端審問官はどのような痛みにも屈しな――」
「するよ」
断言。絶対的な断言。今この瞬間において自分こそが神なのだと思い知らせるための、いっそあたたかな断言。
「耐えられると思うのは、それが幻想の痛みだから。本当の痛みじゃないから。頭の中ではどんな痛みでも耐えられるの。でも本物の痛みはもっとずっと刺激的よ。ほら、よく見ていて……」
闇は爪を伸ばし、そっと眼球に近づけていく。
人間が目を閉ざそうとするも、残りの指を器用に使って闇が無理やり開かせる。その手一つが簡易的な拷問器具のように、がっしりと、犠牲者の目元にへばりついている。
「ひっ、ひぃいっ!」
「安心して。最初はとても痛いけど、これから一ヶ月間毎朝毎晩続くんだからきっと慣れるよ。ほら歯を食いしばって! いくよー」
「待ってくれ! もうやめろ! わかった! もう十分だろうッ!」
無視。爪が眼球に迫る。
「もうお前たちには手を出さない! 上層部にかけあって見逃させる! それが望みだったんだろう!? 叶えてやる! 私にはその権限がある!」
なおも、無視。いよいよ爪の先は眼球表面に触れる寸前となった。
「と、特別だ! こんな計らいは後にも先にもないぞ! 特別におまえたちを助けてやる! 金もやる! 逃げ延びるだけの金を用意させる! だから――」
ぱかり。
紅い口が開かれる。悪魔の口元が。
「使命なんでしょ?」
「あ……」
「頑張って耐えなきゃ」
瞬間、その場にいた全ての者が、人の心の壊れる音を聞いた。
「あぁああああああああああああっ! 頼む許してくれ俺が悪かった頼むから拷問だけはやめてくれ! それだけは! せめてひと思いに殺してくれどうか――」
鮮血。振り抜かれた真紅の指先。ぐらりと倒れていく司教だったもの。かつて千に迫る無辜の人間を拷問し、虐殺し、なおも犠牲者を求めた狂人の躯。
闇はその死体を一顧だにせず、残る異端審問官たちを睥睨するように見回した。
「さてと。これで皆さんの頭目は死んじゃったわけだけど。どうする? 次は誰がこうなりたい?」
口調こそ疑問形を取ってはいるが、それは実質的な宣告だった。
『とっと失せろ。さもなきゃ――』
たっぷりの冒涜的デモンストレーションと(少なくとも)尊敬すべき上官の惨めな死に様。
一歩、誰かの後ずさる音が響く。それが蟻の一穴。たしかに彼らは「いざとなれば」上官の死も躊躇わず異形を処断する、狂気の異端審問官たちなのかもしれない。笑いながら女子供を拷問にかけ、自らの親さえ躊躇なく処刑する、イカれた神罰の代行者なのかもしれない。
だが。
そうである以前に彼らは人間だった。例えまばゆい松明を携え、法儀式済みの聖武具で身を固めようとも――人は闇には敵わない。むしろそうと知っているがゆえに彼らは武装し、徒党を組み、神に祈るのだから。
「ひぃっ」
人間はか弱い。
一人去り、また一人去る。後はもう堰を切ったよう。まるで逃げるための出口が先着順で急がねば締め出されるとでも言うように、彼らは我も我もとまろび逃げ出し、ものの数十秒とかからずその場には静寂が取り戻された。
あとに残ったのは二人分の死体と、背の高い闇と、背の低い闇の子供だけ。
「はぁー……思ったより粘られたわ……」
最後の人間が完全に消え去ったのを確認してから、闇はがくりと肩を落とす。
あからさまに疲労の滲んだ顔色。
(ま、よくやった方か。今の私でフル武装の異端審問官一ダースも退けたんなら……)
それが本音。闇の帳の一枚奥は、存外にそんなものだった。
たしかに闇は狩人である。しかし狩人の死因は他ならぬ獲物による傷が大半なのも、また事実。
殺せて一人。それが限界。最初から闇はそう見積もっていた。結果こそ理想的に終わったものの、始終はずっと綱渡り。もし乱戦になれば即時撤退すると堅く心に決めていたほどに。
「それもこれも、お嬢ちゃんが遮二無二飛び出してくから――」
ぼやきながら振り向いた闇の、ガーネットの両目が丸くなる。
レミリアの構えたミセリコルデの切先が自分に向いていると気がついて。この異形の少女の瞳に確かな敵意がギラついてることに気がついて。
「……なにしてんの?」
「あんたは……私の復讐を台無しにした……!」
「危ないよ、それ。司教の持ってたやつでしょ? 法儀式済みの武器なんて握ったら手が焼け爛れるだけじゃ済まない。今もすっごく痛むんじゃない?」
法儀式とは、「光」の勢力により武具に「祝福」を与えるプロセス。一種のエンハンスメント技術とも言える。
それが対異形戦術において有効なのは、換言すればいつだって「闇」は「光」に祓われる関係性だからだ。
つまりレミリアは今、自身を焼き焦がす光そのものを握りしめている。じゅくじゅくと痛々しい泡音。彼女の右手から立ち昇る黄金色の蒸気。
「……なら。あんたにも良く効くってことだわ」
「そうだね」
うんうんと闇はうなずく。
「でも、あなたに私は殺せないと思うな」
「やってみなきゃわからない」
「わかるよ。だってあなた弱いもの」
「……ッ」
「そのうえ恩知らず。可愛げゼロ」
「誰も! 助けてくれなんて頼んでない! 復讐するって……受けたもの全部奴らに突き返してやるって、それだけを思って生きてきたのに! どうしてくれるの!? 私が今まで抱えてきた憎しみはどこへ向けたらいいのよ!?」
「くだんな」
「殺してやる!」
ミセリコルデを振りかざして飛びかかるレミリアを、しかし、闇は呆気なく投げ飛ばす。何らかの権能を使う必要すら無く、単純な体術によって。
ごちん、と痛そうな音をたてて少女が石畳に叩きつけられた。
「なんで……」
闇の冷たい瞳に見下されながら、よろよろと立ち上がったレミリアが呻く。
「なんでなの……なんで、私は弱いの……!」
闇は知っている。異形の強さは「畏れ」の強さだ。つまり弱い異形は「畏れられていない」。
だがそれは少女の瑕疵ではない。異形の弱体化は世界的な現象だ。少なくともこの大陸においては。
原因は様々。定住生活の一般化。対異形戦術の洗練。「教会」という光の勢力の台頭。じき、異形が人間に追いやられる時代が来るだろう。
とどのつまり少女が弱い理由は「運が悪かったから」。そういう運命だったから。
闇は口をつぐむ。それを言ってもしかたないし、どうせ納得もしないだろう。筋違いの恨みを買うだけだ。
(潮時かな、そろそろ。もうじきに「あいつら」が来る)
あのセ某を殺してからどれくらい経ったろう? どうも闇は時間の管理というものが苦手だったが、あまり猶予がないことは確かに思えた。
もとよりただの気まぐれ。「しくった」の延長線。向こうに救われる気がないのなら、あえて救ってやる必要もない。
そう思いかけた時だった。
再びに闇の、ガーネットの両目が見開かれた。
「ちょっと……うそでしょ?」
その視線の先で。
悔し涙を滲ませる異形の少女。牙を剥き出し歯を食いしばる異形の少女。その手に握られたミセリコルデの祝福された白銀の刀身。それが徐々に、徐々に、鮮やかな真紅(スカーレット)に染まっていく。宵闇が青空を浸蝕するかの如く。這い寄るように、急速に。
ありえないことだった。
レミリアの(おそらくは無意識に)している行為、それは属性の上書き。あのミセリコルデは「光」によってエンハンスメントされていた。だのにそれを書き換えている。強引に。服従させている。醜悪で忌まわしい聖なる力を。美しく気高い別の力によって。
闇は感じる。抑えられない胸の高鳴り。いつだって「闇」は「光」に祓われる関係性のはず。だが今、眼の前で「闇」が「光」を呑み込んだのだ。このちっぽけな少女の手の中で。
「ねえ」
はっとレミリアが顔を上げる。その手には真紅の十字架。もう皮膚の焼けただれる音、骨の溶かされる煙は上がらない。むしろその怪我の痕は急速に再生しつつある。
「強くなりたい?」
突然の豹変に困惑する少女に向け、闇が微笑む。夜に浮かぶ三日月のように。それはけして優しさや慈愛の伴う笑みではない。
むしろ――仇敵を殺す手段を見つけた復讐鬼のように、残忍な。
(こいつなら届くかもしれない。私には出来なかったこと。「光」を殺せるかもしれない!)
差し伸べられる手。日焼けのない真っ白な手。
レミリアの瞳は困惑と懐疑、それと今少しばかりの憎悪に揺らいでいたが、やがて、ゆっくりと闇に歩み寄った。
「私は、ルーミア。あなたは?」
「レミリア……」
「そう。よろしくね、レミィ。真紅(スカーレット)のレミィ」
レミリアが手を取る。闇の――ルーミアの手を。
かくして二体の異形は同盟を結ぶ。契約を結ぶ。黴と血のにおいばかりが満つるさみしい古城のただ中で。
「さて……とりあえず逃げようか」
「え?」
「あいつらが来る。ロクデナシの連中が。この古城にいるのはまずい。とてもとてもまずいよ」
「ちょ、ちょっと待って。あいつらって? そもそも私は――」
答えはなく、そして、レミリアは早くも理解することとなった。この同盟の盟主は自分ではないのだと。
しかしルーミアとも違う。
それはきっと運命の女神そのもの。ようやく古城の牢獄から解き放たれても、世界は更に過酷な姿を見せただけだった。
「ルーミア、待って」
「ルーミアさん」
「ルーミア…………さん、まだ妹が二階にいる。私の帰りを待ってる」
「ならさっさと行く!」
そう、レミリアは理解する。
これから始まるのは生き残り(サバイバル)を賭けた逃避行。
残酷な運命の女神から逃れるための逃避行。
運命を変えるための逃避行なのだと。
<幕間>
「ひぃッ! し、知らない! だから俺はなにも知らッ――」
ぐしゃり。
かつて多くの命が囚われ、多くの命が奪われた古城の中に、また一つ生命の潰れる音が木霊する。
ただ命を奪うためだけに削り出されたような無骨な棍棒が持ち上がると、ペースト状になった人間の死体がずるりと赤い糸を引いた。
「はぁ。次……」
気怠いため息に呼応し、棍棒を構えた異形が「次」に向かう。
途端にあふれる命乞いの絶叫。
「ま、待ってくれ! そ、そもそもなにを答えたらいいんだ! なにも聞かれてないのに答えられるわけがない!」
すでにズタズタになった赤いローブ。根本からへし折られた法儀式済みの武装。恐怖と絶望に青ざめた顔色。泡を飛ばす口元。血走った眼。
それらを順繰り交互に眺めながら先のため息の主は「はて」と首をかしげ、ふわりと長い緑髪が揺れる。
「聞いてない?」
がくがくと首肯するザマを見て、彼女はぽんと手を打った。通りで埒が明かぬわけだと。
それから「まいったまいった」とでも聞こえてきそうな表情で振り返る。すぐ背後に控えた、威容なる異形を。
「ちょっと王様ぁ。こいつらに伝えてないわけ?」
王様、と。そう呼ばれた異形の丈はゆうに十フィート(約3メートル強)は超すだろうか。
確かに指導者らしい漆黒の鎧兜のために顔色は伺えないが、兜の奥に光る金色の眼光はただ苛立ちばかりを宿している。
「矮小な人間如きが詳らかに知る必要などない。この古城で起きた仔細を知らせよと、それのみ伝えれば十分であろう」
地獄の底から漏れ出たような冷たい声。
助命を求めていた人間はたちまち凍りつき、だけでなく周囲の他の異形たちも震え上がる。
が、その中でただ一人。緑髪の異形だけは意に介さず肩を竦め、むしろやれやれと首を振る。
「はぁ~~。これだから差別主義ってのは世界を縮めるんだわ。じゃあなに、ただ処刑してただけじゃない。バカじゃないの?」
「魅魔よ」
「ん?」
魅魔、と呼ばれた彼女がにこりと微笑む。そこに恐怖や怯懦の感情は欠片ほども見られない。
「王様」の瞳が一層苛立たしげに細まった。
「たしかに其方は我がワイルドハント旅団の構成員ではない。いわば同盟関係。頭を垂れて忠誠を誓え、とは言わん」
「当然さ」
「だが――」
「王様。あまりみみっちいこと言わないどくれよ。仮にもブリテン島の元支配者が、私なんぞと背比べをしたがる科白は聞きたくないね」
王は口を閉ざす。閉ざさざるを得ない。だが明らかにその巨体の周囲には、目視できるほど強烈な殺意が充満しはじめている。もしも力のない異形が近づけば、それだけで蒸発することだろう。当然、彼の臣下たちは信じられないものを見る目つきを魅魔と呼ばれた異形に向けた。
が。
彼女はその視線を歯牙にもかけず、尋問の続きを再開していた。
「私たちが探してるのは宝石羽の異形だよ。本来はこの古城に囚われているはずだったんだがね。あんたらが殺っちまったんじゃないのか? 異端審問官のあんたらが」
「宝石羽……? そ、そんな奴は知らない! 俺達はただ、古城の悪魔崇拝主義者が異形と取引をしていると聞いて――」
「はぁ~~~~~~」
「うわあぁああっ! そ、そいつは知らないが確かに私たちは異形と交戦した! 蝙蝠羽の子供の異形に仲間が一人殺られて、それとは別の闇を操る異形に司教様が殺された!」
「ふむ? だからあんたら、怯えて逃げ出してきたわけだ」
「そ、そうだ……てっきり取引の相手は奴らなのかと……」
「うん。しかしその実、取引の相手は泣く子も自ら命を断つという恐怖のワイルドハント旅団だったのさ。いやぁ運がないよあんたら。結果的には彼らの仕事の邪魔をしちまったんだから」
「うぅ……」
「だが、素晴らしい! とても有益な情報をありがとう。私はあくまで王様の個人的な友人だ。旅団の邪魔をされたからってどうこう言うつもりもないよ」
「ほ、ほんとうか!?」
予想外の希望の光に若い審問官の表情が明るくなる。
にこりと微笑む魅魔。
「もちろん。どうもその二人組の異形がくさいな。まさかあれの価値を……いや、偶然か……? どうせ殺せば同じ……しかし先に利用されたら面倒だな……」
「な、なあ! 役に立ったんだから助け――」
「うるさい」
いつの間にか魅魔の手に握られている、三日月の杖とも槍ともつかぬ得物。
その切っ先に貫かれた審問官が呆気なく絶命し、舌打ちが響いた。
「あたしゃ悪霊さ。ただ憎しみだけで此岸にへばりついてるロクデナシ。次から悪霊にものを頼むなんて馬鹿な真似は止すんだね」
即座に人肉を好む異形たちが死骸に群がり、かくしてセバスチャン・ミカエリスの率いていた異端審問官小隊は全滅した。人知れず。
「闇の異形……心当たりはあるのか? 魅魔よ」
「まっさかぁ。闇の異形なんて履いて捨てるほどいるわ。王様こそ部下からの連絡はないの?」
「我が軍勢に嫌疑をかけるか? 案ずるな。何人も我らワイルドハント旅団からは逃れられぬ。異形であってもそれは変わらん」
「とか言って逃げられてんだもんなぁ」
「魅魔。あくまで盟主は我であるぞ」
「水臭いこと言うねぇ。友達じゃないか、私たち。上とか下とか水臭いこと言うのやめましょ?」
「其方を友と認めた覚えはない」
「ちぇ」
そのやり取りを聞いている王の部下たちは、なぜ一介の悪霊ごときがこうも不尊な態度を取れるのか不思議でならない。王自身さえ不愉快でならない。
しかし――悪霊もまたそうでないと、誰に言い切れるだろうか?
「王様の頼もしい部下が戻るまで、月でも眺めてようかしら」
引き止める者は誰もなかった。
彼女が二階に向かう廊下へ消えると、ワイルドハントの王は苛立ちも隠さずに声を荒らげた。
「とっとと探し出せ! 我が再びブリテンの玉座に返り咲くために! そしてなによりも! これ以上あの悪霊に好き勝手させぬために! 宝石羽の異形を見つけ出し、その暁にはまず必ず奴めを殺すのだ!」
異論を呈する者は、やはり、誰もなかった。
――しくった。
闇は思った。
丸い大きな窓から差し込んだ、紅い月の鮮やかな光。照らしだされる石造りの室内には、まだ新しい真紅の水溜まりが徐々に広がりつつある。
――ほんの、夜食程度のつもりだったのに……。
闇は深いため息を付いた。
その口元は、その鋭い爪は、その夜の海のように黒いドレスは、水たまりと同じ赤色で汚れている。
長い金の髪をたくわえた頭を気怠げにかいても、時は巻き戻らない。
しばらく考えてから闇は、改めて、ぼやく。
「しくったなぁ」
それから闇は、ガーネットを嵌め込んだような二つの瞳を部屋の奥へと向けた。
血を垂れ流しながら倒れ伏す無数の人間――だったものは、すべて闇によってその息の根を止められた後。それらのうち「おいしそうなやつ」は既に品定め済みだ。闇の興味の対象はそれらではない。
人間あらため死体の山の中央でうずくまるように震えている、二つの人影。どちらも見てくれは幼い少女のようである。しかし彼女たちが単なる子供ではないことは明らかだった。
片や、蝙蝠のような翼を背中から生やした少女。そしてもう片方に至っては、およそ翼とさえ言い難い奇妙な「宝石の枝」のようなものが背から伸びている。
異形。
人ならざる者たち。
初めは人間たちによる一方的な蔑称だったが、恐怖を糧とする闇たちは、今や自らをそう称して憚らない。
「あなたたちもそう思うでしょ?」
闇が一歩踏み出すと、蝙蝠翼の少女が宝石枝の少女を庇うように身を寄せた。食いしばった口元から除く獰猛な牙の連なりが、どうあれ彼女が人ならざるものだと示している。
面倒くさげに両手を上げて敵意が無いとアピールする闇。
「私は敵じゃないよ」
「……」
「現に、あなたたちをイジメてた連中を片付けたでしょ? だけど不用心だよねぇ。悪魔崇拝をするのに護衛の一人もつけておかないなんて。もし異端審問官(インクィジター)に踏み込まれたらどうしてたんだろ? でもそんなことも思いつかないから悪魔崇拝なんか始めんだろーね。だいたい悪魔が人間を助けるとかさ、頭ん中どんだけお花畑なのって話。取って食われて終わりじゃない」
「……」
「かわいげないねぇ」
闇は記憶を蘇らせる。自分はただ腹を空かしていただけなんだ、と。
事実、闇もう何日もまともな食事にありついていない。確かにはるか昔は野山を駆け回る野ウサギや野ネズミを食べていたものだが、いつの間に地上に増えた「人間」という食糧――その愚鈍さと栄養価の高さは、闇の元来持っていた狩人としての能力をすっかり麻痺させてしまったらしい。
初めは良かった。彼らは他のどの動物より闇を恐れた。闇の全盛期。懐かしき黄金時代。
しかしここ数千年、夜の闇の畏怖と権勢の弱体化は留まるところを知らない。理由は明白。組織化された対異形勢力の登場。闇の思い出せる限りでも、アケメネス朝不死隊、ローマ帝国レギオー、エトセトラエトセトラ。ようやく滅び去ったと思っても間断なく次が現れる。
特に。
ここ数百年勢力を伸ばし続けている「教会」は最低の部類だった。なにより闇の大嫌いな「光」の勢力に隷属している。今や狩り場にしていた村々にも法儀式済み装備で武装した異端審問官が平然と彷徨くようになって久しい。
かくして。
空腹を抱えふらふらと飛んでいた闇は、ようやくこの城を見つけて忍び込んだわけである。私兵を雇う余裕のある貴族たちの城は、一般的には危険な狩り場だ。しかしこの城はどういうわけか人里から外れた丘の上にそびえていた。
して、その理由がこれだ。
――悪魔崇拝者(サタニスト)の隠れ集会場。なるほどこんなお誂えの場所、よく見つけたもんだわ。元はなんかの戦で使われた城塞か? のわりには手入れされてるから、教会に面従腹背する地方領主にスポンサードされてるってとこかな。
実は先程の死体の山の中に、会合に参加していた貴族たちが数名混じっていた。しかし人間がネズミの顔を見分けられないように、闇にとってはどうでもいいことだった。
どうでもいいことだったはずだ。
闇にとって人間はただの餌食。予定では彼らを腹一杯になるまで喰らい、残りは干し肉にして当分の食料とする。それからこの城をしばらく寝床にしつつ、また気が向いたら他所へと向かうはずだった。
自由気ままな日々。
闇は闇として産まれてから何十年、何百年、何千年……数え切れないくらいの時間、そうして生きてきた。それこそ生きるということだった。
だが。
こんな面倒に見舞われたのは初めて――ではないかもしれないが(闇は物事をすぐ忘れる方だった)、とにかくだいぶ久方ぶりだったのは、間違いない。
闇はあらためて少女たちを見やる。
例の異形の翼はともかく、人形のように整った顔立ちは息を呑むほど精巧な造形。対して身にまとった衣服は、およそ衣服と呼ぶのも厳しいようなボロ布だった。ところどころに返り血や、血ではない何らかの液体が染み込んでいる。だが闇は特にそれらには言及しなかった。どうでもよかったからだ。人間は基本的に異形の餌でしかないが、弱い異形は時に人間の歯牙にかかることもある。それだけのことだろう。特にサタニストのようなロクデナシ連中にはありがちなことに思えた。
「あなたたち、名前は?」
「……」
「いつからここにいるわけ? あの人間たちに連れてこられたの? それともほんとに魔界から呼び出されたとか?」
「……」
「魔界なんてあるのか知らないけどさ」
「……」
「だめだこりゃ」
またため息を一つつき、闇は踵を返す。
世に満ち夜に蠢く異形とは概して自由なる存在だ。闇もそうだし、例えば人狼、ヴェアヴォルフ。首なし騎士デュラハーン。飛龍ワイバーンに、亡者の狩人ワイルドハント……彼らは理由も予兆もなくやってきては自由気ままにその力をふるい、無辜の(時には罪深き)人間共の肉を引き裂き、臓腑を引きずり出し、返り血の中で高笑いをする。
だが同時に彼らは孤高なる存在だった。痛くない腹を探り合いたがるのは人間だけの習性だ。
より換言すれば、馴れ合いはしない主義だった。理由は単純。めんどくさいから。それだけ。
異形たちは基本的に話が通じないし、また聞く気もない(闇もそうだ)。だというのに体力と膂力はどんな猛獣よりも強大で、対立し合えば互いに無事では済まない。
だから、異形たちは互いの縄張りをとても尊重する。敬意によってではなく、めんどくさいから。ただただめんどくさいから。
故に。闇は「めんどくさいから」城を出ていくことに決めた。おまけにこの異形は子供だ。子供はめんどうくささの極地だと闇は知っている。行動に予測がつかないし、下手に手を出すと人間たちの潜在能力を過剰に刺激する。この二匹の子供の裏になにが潜んでいるともしれない。おまけに情報を得ようにもさっきから口を開こうとさえしない。
「動いた分の肉は貰ったから。残りはお好きに」
ひらひらと後ろ手を振り、闇は窓の縁へと飛び乗る。後はもう「とん」と爪先に力を込めるだけ。それでおさらばだ。後は野となれ山となれ。
おそらく異形の少女の二人組は、残された肉を食らってしばらく生き残るだろう。だがその後、近くに狩り場となるような集落はない。
あるいはひょっとすると別の異形が目をつけ、この城を新たな縄張りに加えようとするかも知れない。頭の弱い悪魔崇拝者を捕らえる罠として。たしかに彼らは不干渉主義だが、そのディテールには「むら」がある。相手を殺してしまえば干渉もクソもない、と考える野蛮な連中も実のところ少なくない。
――だから?
無論、そんなこと闇には関係ない。
むしろ闇はせっかくの晩餐を邪魔された被害者だ。文句の一つもつけたやりたい気持ちでいっぱいだ。うん、たしかにそうだと闇は自らの考えに頷く。であればもう悩むこともない。
「じゃあね」
「とん」と爪先に力を込める。
紅い月の光のさなかへ闇の姿はあっさりとかき消えた。
◇◇◇
私は宝物をもって産まれてきた。
だから、それ以外のありとあらゆる世界が私に牙を剥き、私の身と心を弄ぼうとしたところで、耐えることができた。
私は知っていたから。
運命の女神は残酷だけど、たしかに一度、ただの一度かもしれないけどそれでも、私に向けて微笑んだんだって。それは数奇なる運命。この世にはたった一度さえ女神に顧みられること無く悲劇と喜劇の中で散っていく存在が履いて捨てるほどにいると、私は知っている。
「……もう、大丈夫」
腕の中で震える私の宝物。女神からのただ一度きりの贈り物。私の妹、フランドールがおっかなびっくり顔をあげる。
静まり返った石造りの室内を精査するように、彼女の大きな瞳が右から左にゆっくり動く。
そしてここにはもう(死体の他に)誰もいないことを理解したのか、強張っていた肩から力が抜ける。
「お姉様がやったの……」
「そうよ」
嘘をついた。
私はただフランドールを抱きしめて、凍りついていただけだ。いつも通り惨めに、間抜けに、あのナンセンスでサディスティック趣味たっぷりの「儀式」から少しでもこの子を守ろうとして。
それから起きたことを、身を強張らせて耐えていた彼女は知らない。フランドールは「殻」を持っているから。そこに閉じこもればもうなにも見えず、なにも聞こえなくなる。
故に、紅い月光の差し込む窓から現れた、金色の髪に黒ドレスの異形女のことも彼女は知らない。慌てふためく人間たちのことも。異形が鉤爪を振るうたび崩れ落ちていく命だったもの、飛び散る紅い色、ほおずきみたいに紅い景色も。
けれどフランドールが私を疑うことはない。彼女が殻にこもっている間は私があの子の目で、私があのこの耳になる。だからこの話はそれでおしまい。人間たちを殺したのは私。それがフランドールにとっての「事実」になった。
「そっか……もう痛いのはないんだ……」
「ええ、そうよ」
「よかったぁ……」
緊張が解けたせいか、フランドールのお腹がくうぅとかわいい音をたてる。
私はいつもどおり最大限の笑顔を向けて、妹の頭をそっとなでてやった。目を細める私の宝物。心地よさそうに。
「さ、ご飯にしましょう。といってもいつものような残飯じゃなく、新鮮なお肉の食べ放題よ!」
「すごい! ええと、じゃあ、はんぶんこね! あそこの鞭女の死体から左は、私の! もう半分は、お姉様の!」
「好きだなけ食べていい。あなたはまだ成長途中なんだから」
「それはお姉様もでしょ。たった5歳しか違わないのに」
「いいのよ、フラン。実は私、少しつまみ食いしたの」
「……ほんとに?」
「ええ。私があなたに嘘をついたことがある?」
「ない!」
即答。フランドールが私を疑うことはない。ただでさえ私たちは弱くて、惨めで、世界は過酷に牙を剥き続ける。
だからせめてこの子にできうる限りの幸福を。止められる不幸は私で止める。それが私の正義。それが私のもって産まれた運命。
だから私は妹に嘘をついたことなんて一度もない。ただの、一度も。
「ふん。さんざん私たちを弄んでさ。お姉様にかかればあんたたちなんてこうだったのよ。あんたたちなんて。あんたたちなんて! あんたたちなんてあんたたちなんてあんたたちなんてあんたたちなんて!!」
「フラン。食べ物を粗末にしちゃダメよ」
フランドールに蹴りつけられた死体からぐしゃりぐしゃりと間抜けな音がなる。
鞭女の整った顔からぶつりと目玉が飛び出す。鋏男の細い腕がばきりと奇妙に捻じくれる。
殻にこもっていてなおフランドールは、奴らにされた仕打ちを忘れることはないだろう。
あの痛み。
あの惨めさ。
私たちの肉体は、血液さえ飲めば傷などすぐに癒える。鞭打たれた傷なら半日で。焼けた鉄を押し付けられた跡なら一晩で。切断された両手の指も一週間で完治する。
けれど心に刻まれた痛みを忘れることはない。
「余計なことしやがって……」
忘れられるわけない。忘れるつもりもなかった。
私はいい。私のことはどうでもいい。でも、私の宝物を傷つけたことは許せない。今は無理でも、例え今は人間に虐げられることしかできなくても、いずれ精算させてやる。そう思って生きてきた。それだけを糧に私は歯を食いしばって耐えてきたのに。それなのに!
あのクソ異形女! 余計なことしやがって! 私が殺すはずだったのに! こいつら全部自分が母親の股ぐらから産まれてきたことを完膚なきまで後悔するほどに痛めつけてから、今まで妹にしやがった分の一兆倍の苦しみを与えてからぶっ殺す予定だったのに! それを!
「……お姉様? どうしたの? すごく怖い顔をしてる」
「なんでもない。ただ少し……疲れたのかも」
「きっとそうだよ! こいつら全員殺すのに力を使いすぎたんだわ! やっぱりご飯ははんぶんこにしましょ! お姉様もたくさん食べて! ね!」
「……ありがとう。フランは優しいわね」
「ううん! べつに優しくなんてない。お姉様だけよ! 私お姉様だいすき! だいすきな人には元気になってほしいの!」
「私もあなたを愛してるわ、フラン」
「うん!」
闇に紅く輝く満月のように尊い私の宝物。満面の笑みを浮かべるフランドール。
私にはこれだけでいい。この子がいればそれだけでいい。妹が笑っていてくれるなら、私は――
「フラン」
「なあにお姉様?」
物音。下の階から。さっきの異形か? いや、足音は複数ある。人間だ。
「それじゃあ私の分は、残しておいてね」
「うん! でも……どこへ行くの? どうしてそんなに怖い顔をしてるの?」
「……殺し損ねがいたみたい。でもたった一人よ。すぐ片付けちゃうから、いい子で待っていられるかしら?」
「私も行く! ううん私がやる! やらせてよお姉様!」
「……ダメよ」
本来なら言うまでもないことだ。これが本当にただの殺し損ねならともかく、無数の足音は澱みなく階下の部屋を捜索してまわってる。正体はわからないけど、明らかに友好的な勢力じゃない(そもそも私たち異形に友好的な人間なんているのか?)。
だというのに。
「どうして!? お願いよ! 私だって人間くらい殺せるわ! 新鮮な血肉も食らって力がみなぎってるの! だからお姉様、私にやらせて!」
「フラン……」
いつからだろう。この頃のフランドールにはこういうことが増えていた。姉の私がやると言っているのに、どういうわけか自分がやると主張して聞かない。
日替わりの「儀式」を自分が引き受けるとか、一皿しか与えられなかった血液を自分が我慢するとか……。
きっとそういう年頃なのだろう。背伸びしたくなるお年頃。自分はもっと優れた存在なのだと家族に……私に見せつけたいのかしら? それは可愛らしいけれど、今はダメだ。今だけは。
「フラン、聞いて」
「は、はい……」
「あなたを愛してる」
「わ、私もお姉様のことは大好きだよ」
「あなたはなにもしなくていいの。なにもしなくて大丈夫。愛するあなたのためになにかをするのが、私にとっていちばんの幸せなのよ」
「でも……」
「フラン。フランドール。あなたの優しさはわかってる。でもあなたは私より体も弱いし、これまでの傷もその分多く残ってる。今は回復に努めなきゃ。ね?」
「……」
「お返事は?」
「…………うん」
「じゃあ、行ってくる。すぐ戻るから」
「すぐね! すぐ戻ってきてよ!」
「ええ」
私たちは小指を重ねて約束を誓う。互いの愛と真実を誓い合う。
そして私は闇色の風となった。黴臭さの満ちる廊下を駆け抜け、恐怖と苦痛の象徴だった一階への階段を駆け下りる。
果たして、人間共はそこにいた。血染めのような真紅のローブに身を包んだ連中が……十かそこら。思っていたより数が多い。この城で私たちを捕らえていた連中の仲間かと思っていたけど、どうも様子が違った。拷問部屋の扉を蹴破り中を物色しては、その凄惨な光景に驚きの声ひとつもあげず次の部屋に向かう。そんなことを繰り返している。
「見つかったか?」
「ダメですね。ここもハズレです。もぬけの殻ですよ。死体以外は」
「どんなだ?」
「うちで出すのよりはマシなやつです」
「ふむ、しかし急げよ。奴らの取引に巻き込まれる前に『品物』を見つけねばならん」
「だからあの男は情報源として生かしておこうと。司教様が勢いあまって殺してしまうから」
「奴は悪魔憑きであった。その味方をするのか?」
「い、いえ……しかしこのままでは埒があきません。やはり隊を分けて二階に向かわせるべきなのでは?」
二階、という言葉に胸が高鳴る。二階はダメだ。二階にはフランドールがいる。
まさかこいつらの狙いは……私たち? 品物。取引。理解できない言葉がぐるぐる回る。
いずれにせよ、こいつらは敵だ。私の宝物に害を為す敵だ。敵だ!
目の前が紅く紅く染まる。気がついた時にはもう私は物陰から飛び出していた。
「む……」
手応えはあった。命を奪う手応え。でも、切り裂かれた頸動脈から血飛沫を撒き散らし倒れていったのは、話していた二人のうちの弱そうな方だった。リーダーらしき方を狙ったはずなのに。
外した? いや違う。盾にしたんだ。あの人間、仲間を躊躇なく盾にした。
わけがわからないという顔をしたまま崩れていく仲間を一瞥した男は、それから黄ばんだ瞳でギョロリと私の方を睨んだ。
「……だから隊を分けなかったのだよ。下賤なる異形はいつだって闇よりの奇襲を好む。戦力の分散は愚の骨頂だからな」
その声音に憐憫とか仲間を殺された怒りとかの感情は微塵も無かった。ぞくりと背筋が冷える。こいつ本当に人間なの?
「ふむ、しかし出るものが出たな? おまえたちは援護に回れ。この異形は検邪聖省直轄司教区司教たる私、セバスチャン・ミカエリスが相手をしよう。騎士道精神に則ってな」
騎士道精神? なのに司教? 矛盾した言葉には狂気の色すら感じる。けれどそのセバスチャンなんたらが腰に下げたミセリコルデ(十字架型の短刀)を引き抜いた瞬間、空気の質が変わった。私を取り囲むように広がる人間たち。まるで十字架そのものを手にしているみたいに、セバスなんたらの両手が祈りの形に組まれる。
「灰は灰に」
「「「灰は灰に」」」
「塵は塵に」
「「「塵は塵に」」」
耳障りな唱和。今すぐその口黙らせてやりたいけど、打って出る隙が見つからない。狂気の色をたたえながらも男の瞳は揺るがず私に向けられている。
「そして闇から来たる異形は再び闇に」
「「「然り(エイメン)!」」」
「よって今より検邪聖省直轄司教区司教セバスチャン・ミカエリスの名の下に異端審問を開始する。かくあれかし(エイメン)」
「長い……」
「悪魔にはわかるまい! 信仰の偉大さ! 己の罪深さもな!」
そして、動く。私も敵も。短剣ミセリコルデの刃が燭台の炎に照り映える。
速い。
頭を逸らすのが間に合ったのは、本当に文字通りの間一髪。さっきまで私の瞳のあった場所を短剣の切先が貫いていく。
認めるしかない。この人間……おそらく強い!
「どうした異形よ! 我が剣技に逃げ惑うことしかできぬか!? そうだろう! 家督は兄貴に譲ったが剣の腕は私が常に優れていた! 信仰の道に進んだのも私自身の意志! そして今や世に成した正義の数さえも私が圧倒的に勝っている! これぞ勇壮たる騎士道精神と敬虔なる信仰心の新たな地平! 兄貴など私の足元にも及ばぬ凡愚である確かな証明!」
「あんた狂ってるわ!」
「笑止! 悪魔は常に真実の逆を口にする!」
めちゃくちゃだった。こいつ完全にイカれてる。次々に繰り出される慈悲(ミセリコルデ)の刺突から逃れるべく私は後ろへ跳んだ。けれど、
「審判執行!」
「うそっ!?」
「審判執行!」
「ちょっ、まっ……」
「審判執行!」
「このっ……!」
取り囲んでいた人間たちがめいめいに武器を振るう。メイス、モーニングスター、鉄鎌に幅広剣になんでもあり。
追い立てられて輪の中央に戻ると、再び短剣の突きの雨に襲われる。
「なによ! こんなのぜんぜん騎士道精神じゃないわ!」
「異形相手には団体戦術もみとめられるのだよ! 我々人間はか弱いからな!」
「どこが!?」
ダメだ。狂人の戯言を馬鹿正直に信じたのが間違いだった。悪魔が人間に騙されるなんて馬鹿の極みだ。
だけどくそっ、ここで私が負けたら、こんな奴に私の大切な妹を殺させることになる。
動けよ私の体。動けよ私の両脚!
「っ……」
だのに……ああ、いくら憎悪を燃やしたところで踏ん張りが効かない。ぐらりと世界が横倒しになる。
わかってた。もうずっと私の体は限界なんだって。
そしておそらくこいつらは、戦闘のプロ。最悪だ。奇襲に失敗した時点でもう勝ち目なんてなかったんだ。
こんなことなら……あーあ、こんなことならフランドールの言う通り、あの死体の半分だけでも食っておくんだった。そうすればこいつと刺し違えるくらいはできただろうか。フランドールの逃げる時間を稼げただろうか。
いいや……あの子が私を疑うことはない。例え刺し違えたところで、あの子は律儀に私を待ち続けるのだろう。そして残りの人間たちに捕らえられて、それで終わり。
鈍化する時間の中、セバなんたらの口元が獰猛に歪むのが見える。
それは狂気の笑み。狂気の瞳。見覚えのある顔。この城で私たちを捕らえていた鞭女、鋏男達と同じ顔。
だから人間は嫌いだ。どいつもこいつも狂ってる。私たちの方がよっぽどずっと遥かにマシだ……。
「喜ぶがいい。これまで私が異端と看破し処断した愚かなる悪魔崇拝者の数は九百九十九体……そして貴様が記念すべき千体目だ。浄化されよ異端なる異形! かくあれかし!」
そして、世界は闇に閉ざされた。
◆◆◆
世界は闇に閉ざされた。
その時になにが起きたのか、検邪聖省直轄司教区司教セバスチャン・ミカエリスは瞬時には理解できなかった。
(これは……!? 確かに私は悪魔の心の臓腑に一撃を突き立てたはず!)
だが彼を取り囲むのは闇だけだ。ただひたすらに真っ暗い闇。人間の持つ動物的恐怖感を鋭敏に呼び覚ます漆黒の闇。
それでもあと数秒も猶予があれば、彼の狂気に浸された脳みそは状況を咀嚼し、理解し、次の一手を打ったことだろう。
そうはならなかった。
無論、そうさせないための闇なのだから。
「動くな、人間」
鋭い声が響く。
それは闇の声。闇そのものの声。闇に潜む異形の発する声。
日に焼けていない白く細い指先。そこから鋭利に伸びる紅い爪が、哀れな異端審問官の首筋に突き立てられている。もっとも彼にとっては死角に位置する角度のため、なにか鋭いものが触れていることしか認識できなかっただろうが。
「なんだ、貴様は……」
ホールズアップ。取り落とされたミセリコルデがからんからんと歌い舞う。
「さてなんでしょう」
「異端か!」
「もちろん」
「私を人質に取ったつもりか!? 愚かなり! 我ら異端審問官の絶対使命は個の命に優越する! 私が死んでも我が同胞が必ず貴様らに審判を……」
「へー? けっこうそーいう感じなんだ。いわゆる……」
不敵に釣り上がった闇の口元がふと、困惑に歪む。答えを求めるようにふらふらと彷徨う瞳。
「いわゆる……あー、なんて言うんだっけ? 霧深い、じゃなくて……切り辛い、でもなくて……」
「義理硬い?」
堪えかねて口を挟んだのは、しばし呆気に取られて闇たちを眺めていたレミリアだった。すぐに余計な連中に干渉をしたと気がつき呻くが、闇の方はパッと表情を明るくする。闇なりに。
「そうそれだ! ありがとうお嬢ちゃん」
「……知らない」
全力で目を逸らすレミリアだが、闇はもう少女の方を向いていない。欠けた語彙が補完されたことに満足気にうなずくのみ。
「で……あなた、けっこう義理堅い性格なんだねぇ」
「と、当然だ! 我らは父なる神に選ばれし異端審問官! その使命はたとえ自らの生命灰に成り果てても貴様ら異形をこの世から抹消し……」
「我ら?」
またセバス某の言葉を遮り、闇がわざとらしく首をかしげる。しかしその仕草を目にしているのはレミリアだけだ。背後を取られたままのセバ某には当然、見えていない。
闇はそれに気がついていないのか、わかってて無視しているのか、なおバカにするように肩をすくめて続ける。
「我らって言うけど、もうあなたの他に誰もいないみたいよ? それとも最近の文法じゃあ一人きりでも『我ら』を使うの?」
「な、なにを馬鹿な……」
言いかけて彼は気がつく。いつの間にか周囲の暗黒は消えている。消えているのだ。彼の部下たちと共に。
「なっ!? お、お前たちどこへ行った!? 私を見捨てて逃げたのか!? この検邪聖省直轄司教区司教セバスチャン・ミカエリスを!? 死後四辻に埋められる暴挙であるぞ!」
「人望ないんだねぇ」
実際、その哀れな審問官司教が取り乱し青ざめたのは無理もなかった。神の教えを強固に内面化した審問官たちがこの程度のことで逃げ出すなど、考え難いことだった。
しかし、では、自ら逃げたのでなければ? まさかあの暗闇が満ちた一瞬のうちに一掃されたというのか? この闇の異形によって? 完全に武装した十名の精鋭たる審問官たちが? それこそ、ありえないことだった。
事実ありえなかった。
セバスチャンの部下たちは実のところ、依然変わらずそこにいた。ただ身動きができない。上官を盾にされているからだ。それでも勘の聡いものが口を開きかけたが、即座に闇は人差し指を立て、自分の口元にそっと添える。
『黙ってろ』
言外の威圧感。それは無理からぬこと。たしかにセバスチャンの言葉通り、彼らは「いざとなれば」上官の死も躊躇わず異形を処断するだろう。
しかし「いざ」とはどこから始まる? 今この瞬間がそうなのか? だがセバスチャン司教殿はまだ息をしているし、首と胴も繋がっている。あるいはその狂気的執念によって今も逆転の一手を狙っているのでは? 今動いても邪魔をするだけなのでは? そう考える「こともできる」。
むしろ下手に動けば「みすみす上官を見殺しにし、己の功を優先した者」と見られかねない。ともすると教会に仇為す異端と見做されるかもしれない。おまけに司教の実家は貴族だという。貴族から個人的な恨みを買うなど最悪だ。
なまじ集団であることも悪く働く。これが一人なら遮二無二になって抵抗したかもしれない。だが周囲にはまだ一ダースほどの優秀な仲間がいる。わざわざ自分が動かなくてもいいのでは……?
そして結局は自縄自縛。人の心は低きに易きに流れるものだから。当然、闇はそれを把握している。
また一方でセバスチャン司教殿も動けない。彼には頼みのその部下たちが見えていない。それこそが闇の権能。「見えない」というただそれだけの力。言ってしまえば変則的な目隠しに過ぎない。
が。
闇は何千年、ともすれば何万年と「狩る側」だった。大切なのは「孤独」を創ること。社会性生物は群れればこそ脅威だが、単体ではあらゆる刺激に脆弱となる。
そう、たとえチャチな力でも、それをどのように使えば最も効率的に獲物を追い詰められるのか……言うなれば闇は、徐々に「勘」を取り戻しつつあった。
「私さぁ、お肉は食べる前に加工するタイプなんだよね」
残るはもう「詰め」だけだ。
三流の狩人は段取りでしくじり、二流の狩人は「詰め」でしくじる。だが一流の狩人が「詰め」に臨む時、それは絶対の確証をもって獲物の運命を決する瞬間だけである。
「知ってる? どうしたら人間の肉がおいしくなるか」
「し、しらん! 化け物め! 忌々しい異形め!」
「恐怖だよ」
ぞくり。
側で見ていたレミリアさえ寒気を感じずにはいられない。
彼女には理解できてしまったから。
(壊すつもりだ……こいつ、今からあの人間を壊すつもりなんだ……)
心という物質は柔軟性に富む。故に、勢い任せに叩きつけても壊すことはできない。鞭女や鋏男がいくら乱暴に痛めつけたところで、ついにレミリアの心を壊せなかったように。
だからもしそれを成そうとするなら、むしろじっくり、ゆっくり、気が滅入るほどのまだるっこしさで力を加えるのが一番良い。
当然、闇はそれを把握している。
いつだって闇は捕食者なのだから。
「ね、恐怖によって人の肉は生きながらじっくり、じっくーり熟成されてくの。だから私は捉えた獲物をすぐには殺さない。少なくとも一ヶ月、時間をかけて恐怖を刷り込むことにしているの」
「い、一ヶ月……?」
セバスチャン・ミカエリスの声が震える。それは彼が初めて見せた怖気だった。
「そう。毎朝おはようを言う度に皮を剥いて、毎晩おやすみを囁く毎に一枚ずつ爪を剥ぐの。そして食事のたびに先の欠けたフォークとスプーンであなたの目玉をつんっつんって整えて……ね? わくわくするでしょ? おいしいお肉になれちゃいそうでしょ? あ、爪は二十枚しかないって思うかもだけど、心配しないで。最後の一枚を剥ぐ頃には、最初の一枚がまた伸びてくるから」
「ばっ、化け物が何を言おうと無駄だ! 我ら異端審問官はどのような痛みにも屈しな――」
「するよ」
断言。絶対的な断言。今この瞬間において自分こそが神なのだと思い知らせるための、いっそあたたかな断言。
「耐えられると思うのは、それが幻想の痛みだから。本当の痛みじゃないから。頭の中ではどんな痛みでも耐えられるの。でも本物の痛みはもっとずっと刺激的よ。ほら、よく見ていて……」
闇は爪を伸ばし、そっと眼球に近づけていく。
人間が目を閉ざそうとするも、残りの指を器用に使って闇が無理やり開かせる。その手一つが簡易的な拷問器具のように、がっしりと、犠牲者の目元にへばりついている。
「ひっ、ひぃいっ!」
「安心して。最初はとても痛いけど、これから一ヶ月間毎朝毎晩続くんだからきっと慣れるよ。ほら歯を食いしばって! いくよー」
「待ってくれ! もうやめろ! わかった! もう十分だろうッ!」
無視。爪が眼球に迫る。
「もうお前たちには手を出さない! 上層部にかけあって見逃させる! それが望みだったんだろう!? 叶えてやる! 私にはその権限がある!」
なおも、無視。いよいよ爪の先は眼球表面に触れる寸前となった。
「と、特別だ! こんな計らいは後にも先にもないぞ! 特別におまえたちを助けてやる! 金もやる! 逃げ延びるだけの金を用意させる! だから――」
ぱかり。
紅い口が開かれる。悪魔の口元が。
「使命なんでしょ?」
「あ……」
「頑張って耐えなきゃ」
瞬間、その場にいた全ての者が、人の心の壊れる音を聞いた。
「あぁああああああああああああっ! 頼む許してくれ俺が悪かった頼むから拷問だけはやめてくれ! それだけは! せめてひと思いに殺してくれどうか――」
鮮血。振り抜かれた真紅の指先。ぐらりと倒れていく司教だったもの。かつて千に迫る無辜の人間を拷問し、虐殺し、なおも犠牲者を求めた狂人の躯。
闇はその死体を一顧だにせず、残る異端審問官たちを睥睨するように見回した。
「さてと。これで皆さんの頭目は死んじゃったわけだけど。どうする? 次は誰がこうなりたい?」
口調こそ疑問形を取ってはいるが、それは実質的な宣告だった。
『とっと失せろ。さもなきゃ――』
たっぷりの冒涜的デモンストレーションと(少なくとも)尊敬すべき上官の惨めな死に様。
一歩、誰かの後ずさる音が響く。それが蟻の一穴。たしかに彼らは「いざとなれば」上官の死も躊躇わず異形を処断する、狂気の異端審問官たちなのかもしれない。笑いながら女子供を拷問にかけ、自らの親さえ躊躇なく処刑する、イカれた神罰の代行者なのかもしれない。
だが。
そうである以前に彼らは人間だった。例えまばゆい松明を携え、法儀式済みの聖武具で身を固めようとも――人は闇には敵わない。むしろそうと知っているがゆえに彼らは武装し、徒党を組み、神に祈るのだから。
「ひぃっ」
人間はか弱い。
一人去り、また一人去る。後はもう堰を切ったよう。まるで逃げるための出口が先着順で急がねば締め出されるとでも言うように、彼らは我も我もとまろび逃げ出し、ものの数十秒とかからずその場には静寂が取り戻された。
あとに残ったのは二人分の死体と、背の高い闇と、背の低い闇の子供だけ。
「はぁー……思ったより粘られたわ……」
最後の人間が完全に消え去ったのを確認してから、闇はがくりと肩を落とす。
あからさまに疲労の滲んだ顔色。
(ま、よくやった方か。今の私でフル武装の異端審問官一ダースも退けたんなら……)
それが本音。闇の帳の一枚奥は、存外にそんなものだった。
たしかに闇は狩人である。しかし狩人の死因は他ならぬ獲物による傷が大半なのも、また事実。
殺せて一人。それが限界。最初から闇はそう見積もっていた。結果こそ理想的に終わったものの、始終はずっと綱渡り。もし乱戦になれば即時撤退すると堅く心に決めていたほどに。
「それもこれも、お嬢ちゃんが遮二無二飛び出してくから――」
ぼやきながら振り向いた闇の、ガーネットの両目が丸くなる。
レミリアの構えたミセリコルデの切先が自分に向いていると気がついて。この異形の少女の瞳に確かな敵意がギラついてることに気がついて。
「……なにしてんの?」
「あんたは……私の復讐を台無しにした……!」
「危ないよ、それ。司教の持ってたやつでしょ? 法儀式済みの武器なんて握ったら手が焼け爛れるだけじゃ済まない。今もすっごく痛むんじゃない?」
法儀式とは、「光」の勢力により武具に「祝福」を与えるプロセス。一種のエンハンスメント技術とも言える。
それが対異形戦術において有効なのは、換言すればいつだって「闇」は「光」に祓われる関係性だからだ。
つまりレミリアは今、自身を焼き焦がす光そのものを握りしめている。じゅくじゅくと痛々しい泡音。彼女の右手から立ち昇る黄金色の蒸気。
「……なら。あんたにも良く効くってことだわ」
「そうだね」
うんうんと闇はうなずく。
「でも、あなたに私は殺せないと思うな」
「やってみなきゃわからない」
「わかるよ。だってあなた弱いもの」
「……ッ」
「そのうえ恩知らず。可愛げゼロ」
「誰も! 助けてくれなんて頼んでない! 復讐するって……受けたもの全部奴らに突き返してやるって、それだけを思って生きてきたのに! どうしてくれるの!? 私が今まで抱えてきた憎しみはどこへ向けたらいいのよ!?」
「くだんな」
「殺してやる!」
ミセリコルデを振りかざして飛びかかるレミリアを、しかし、闇は呆気なく投げ飛ばす。何らかの権能を使う必要すら無く、単純な体術によって。
ごちん、と痛そうな音をたてて少女が石畳に叩きつけられた。
「なんで……」
闇の冷たい瞳に見下されながら、よろよろと立ち上がったレミリアが呻く。
「なんでなの……なんで、私は弱いの……!」
闇は知っている。異形の強さは「畏れ」の強さだ。つまり弱い異形は「畏れられていない」。
だがそれは少女の瑕疵ではない。異形の弱体化は世界的な現象だ。少なくともこの大陸においては。
原因は様々。定住生活の一般化。対異形戦術の洗練。「教会」という光の勢力の台頭。じき、異形が人間に追いやられる時代が来るだろう。
とどのつまり少女が弱い理由は「運が悪かったから」。そういう運命だったから。
闇は口をつぐむ。それを言ってもしかたないし、どうせ納得もしないだろう。筋違いの恨みを買うだけだ。
(潮時かな、そろそろ。もうじきに「あいつら」が来る)
あのセ某を殺してからどれくらい経ったろう? どうも闇は時間の管理というものが苦手だったが、あまり猶予がないことは確かに思えた。
もとよりただの気まぐれ。「しくった」の延長線。向こうに救われる気がないのなら、あえて救ってやる必要もない。
そう思いかけた時だった。
再びに闇の、ガーネットの両目が見開かれた。
「ちょっと……うそでしょ?」
その視線の先で。
悔し涙を滲ませる異形の少女。牙を剥き出し歯を食いしばる異形の少女。その手に握られたミセリコルデの祝福された白銀の刀身。それが徐々に、徐々に、鮮やかな真紅(スカーレット)に染まっていく。宵闇が青空を浸蝕するかの如く。這い寄るように、急速に。
ありえないことだった。
レミリアの(おそらくは無意識に)している行為、それは属性の上書き。あのミセリコルデは「光」によってエンハンスメントされていた。だのにそれを書き換えている。強引に。服従させている。醜悪で忌まわしい聖なる力を。美しく気高い別の力によって。
闇は感じる。抑えられない胸の高鳴り。いつだって「闇」は「光」に祓われる関係性のはず。だが今、眼の前で「闇」が「光」を呑み込んだのだ。このちっぽけな少女の手の中で。
「ねえ」
はっとレミリアが顔を上げる。その手には真紅の十字架。もう皮膚の焼けただれる音、骨の溶かされる煙は上がらない。むしろその怪我の痕は急速に再生しつつある。
「強くなりたい?」
突然の豹変に困惑する少女に向け、闇が微笑む。夜に浮かぶ三日月のように。それはけして優しさや慈愛の伴う笑みではない。
むしろ――仇敵を殺す手段を見つけた復讐鬼のように、残忍な。
(こいつなら届くかもしれない。私には出来なかったこと。「光」を殺せるかもしれない!)
差し伸べられる手。日焼けのない真っ白な手。
レミリアの瞳は困惑と懐疑、それと今少しばかりの憎悪に揺らいでいたが、やがて、ゆっくりと闇に歩み寄った。
「私は、ルーミア。あなたは?」
「レミリア……」
「そう。よろしくね、レミィ。真紅(スカーレット)のレミィ」
レミリアが手を取る。闇の――ルーミアの手を。
かくして二体の異形は同盟を結ぶ。契約を結ぶ。黴と血のにおいばかりが満つるさみしい古城のただ中で。
「さて……とりあえず逃げようか」
「え?」
「あいつらが来る。ロクデナシの連中が。この古城にいるのはまずい。とてもとてもまずいよ」
「ちょ、ちょっと待って。あいつらって? そもそも私は――」
答えはなく、そして、レミリアは早くも理解することとなった。この同盟の盟主は自分ではないのだと。
しかしルーミアとも違う。
それはきっと運命の女神そのもの。ようやく古城の牢獄から解き放たれても、世界は更に過酷な姿を見せただけだった。
「ルーミア、待って」
「ルーミアさん」
「ルーミア…………さん、まだ妹が二階にいる。私の帰りを待ってる」
「ならさっさと行く!」
そう、レミリアは理解する。
これから始まるのは生き残り(サバイバル)を賭けた逃避行。
残酷な運命の女神から逃れるための逃避行。
運命を変えるための逃避行なのだと。
<幕間>
「ひぃッ! し、知らない! だから俺はなにも知らッ――」
ぐしゃり。
かつて多くの命が囚われ、多くの命が奪われた古城の中に、また一つ生命の潰れる音が木霊する。
ただ命を奪うためだけに削り出されたような無骨な棍棒が持ち上がると、ペースト状になった人間の死体がずるりと赤い糸を引いた。
「はぁ。次……」
気怠いため息に呼応し、棍棒を構えた異形が「次」に向かう。
途端にあふれる命乞いの絶叫。
「ま、待ってくれ! そ、そもそもなにを答えたらいいんだ! なにも聞かれてないのに答えられるわけがない!」
すでにズタズタになった赤いローブ。根本からへし折られた法儀式済みの武装。恐怖と絶望に青ざめた顔色。泡を飛ばす口元。血走った眼。
それらを順繰り交互に眺めながら先のため息の主は「はて」と首をかしげ、ふわりと長い緑髪が揺れる。
「聞いてない?」
がくがくと首肯するザマを見て、彼女はぽんと手を打った。通りで埒が明かぬわけだと。
それから「まいったまいった」とでも聞こえてきそうな表情で振り返る。すぐ背後に控えた、威容なる異形を。
「ちょっと王様ぁ。こいつらに伝えてないわけ?」
王様、と。そう呼ばれた異形の丈はゆうに十フィート(約3メートル強)は超すだろうか。
確かに指導者らしい漆黒の鎧兜のために顔色は伺えないが、兜の奥に光る金色の眼光はただ苛立ちばかりを宿している。
「矮小な人間如きが詳らかに知る必要などない。この古城で起きた仔細を知らせよと、それのみ伝えれば十分であろう」
地獄の底から漏れ出たような冷たい声。
助命を求めていた人間はたちまち凍りつき、だけでなく周囲の他の異形たちも震え上がる。
が、その中でただ一人。緑髪の異形だけは意に介さず肩を竦め、むしろやれやれと首を振る。
「はぁ~~。これだから差別主義ってのは世界を縮めるんだわ。じゃあなに、ただ処刑してただけじゃない。バカじゃないの?」
「魅魔よ」
「ん?」
魅魔、と呼ばれた彼女がにこりと微笑む。そこに恐怖や怯懦の感情は欠片ほども見られない。
「王様」の瞳が一層苛立たしげに細まった。
「たしかに其方は我がワイルドハント旅団の構成員ではない。いわば同盟関係。頭を垂れて忠誠を誓え、とは言わん」
「当然さ」
「だが――」
「王様。あまりみみっちいこと言わないどくれよ。仮にもブリテン島の元支配者が、私なんぞと背比べをしたがる科白は聞きたくないね」
王は口を閉ざす。閉ざさざるを得ない。だが明らかにその巨体の周囲には、目視できるほど強烈な殺意が充満しはじめている。もしも力のない異形が近づけば、それだけで蒸発することだろう。当然、彼の臣下たちは信じられないものを見る目つきを魅魔と呼ばれた異形に向けた。
が。
彼女はその視線を歯牙にもかけず、尋問の続きを再開していた。
「私たちが探してるのは宝石羽の異形だよ。本来はこの古城に囚われているはずだったんだがね。あんたらが殺っちまったんじゃないのか? 異端審問官のあんたらが」
「宝石羽……? そ、そんな奴は知らない! 俺達はただ、古城の悪魔崇拝主義者が異形と取引をしていると聞いて――」
「はぁ~~~~~~」
「うわあぁああっ! そ、そいつは知らないが確かに私たちは異形と交戦した! 蝙蝠羽の子供の異形に仲間が一人殺られて、それとは別の闇を操る異形に司教様が殺された!」
「ふむ? だからあんたら、怯えて逃げ出してきたわけだ」
「そ、そうだ……てっきり取引の相手は奴らなのかと……」
「うん。しかしその実、取引の相手は泣く子も自ら命を断つという恐怖のワイルドハント旅団だったのさ。いやぁ運がないよあんたら。結果的には彼らの仕事の邪魔をしちまったんだから」
「うぅ……」
「だが、素晴らしい! とても有益な情報をありがとう。私はあくまで王様の個人的な友人だ。旅団の邪魔をされたからってどうこう言うつもりもないよ」
「ほ、ほんとうか!?」
予想外の希望の光に若い審問官の表情が明るくなる。
にこりと微笑む魅魔。
「もちろん。どうもその二人組の異形がくさいな。まさかあれの価値を……いや、偶然か……? どうせ殺せば同じ……しかし先に利用されたら面倒だな……」
「な、なあ! 役に立ったんだから助け――」
「うるさい」
いつの間にか魅魔の手に握られている、三日月の杖とも槍ともつかぬ得物。
その切っ先に貫かれた審問官が呆気なく絶命し、舌打ちが響いた。
「あたしゃ悪霊さ。ただ憎しみだけで此岸にへばりついてるロクデナシ。次から悪霊にものを頼むなんて馬鹿な真似は止すんだね」
即座に人肉を好む異形たちが死骸に群がり、かくしてセバスチャン・ミカエリスの率いていた異端審問官小隊は全滅した。人知れず。
「闇の異形……心当たりはあるのか? 魅魔よ」
「まっさかぁ。闇の異形なんて履いて捨てるほどいるわ。王様こそ部下からの連絡はないの?」
「我が軍勢に嫌疑をかけるか? 案ずるな。何人も我らワイルドハント旅団からは逃れられぬ。異形であってもそれは変わらん」
「とか言って逃げられてんだもんなぁ」
「魅魔。あくまで盟主は我であるぞ」
「水臭いこと言うねぇ。友達じゃないか、私たち。上とか下とか水臭いこと言うのやめましょ?」
「其方を友と認めた覚えはない」
「ちぇ」
そのやり取りを聞いている王の部下たちは、なぜ一介の悪霊ごときがこうも不尊な態度を取れるのか不思議でならない。王自身さえ不愉快でならない。
しかし――悪霊もまたそうでないと、誰に言い切れるだろうか?
「王様の頼もしい部下が戻るまで、月でも眺めてようかしら」
引き止める者は誰もなかった。
彼女が二階に向かう廊下へ消えると、ワイルドハントの王は苛立ちも隠さずに声を荒らげた。
「とっとと探し出せ! 我が再びブリテンの玉座に返り咲くために! そしてなによりも! これ以上あの悪霊に好き勝手させぬために! 宝石羽の異形を見つけ出し、その暁にはまず必ず奴めを殺すのだ!」
異論を呈する者は、やはり、誰もなかった。
ルーミアの圧倒的ではないけど強者ムーブが良かったです
ルーミアが強いのにどこかひょうきんでよかったです
ここから盛り上がってほしいです