陽が昇りきる少し前に寝床を出た私たちは、朝食と身支度を済ませると、天子様のお召し物を抱えながら寝室をノックした。
「天子様。おはようございます」
返事を待たずに入室すると、天子様はベッドから身を起こしているところだった。その瞳はとろんとしていて張りがない。大方、私たちの声で目を覚ましたのだろう。
「ああ、おはよう。今日も早いのね」
「これでも私たちは遅いほうですよ。他の天人様なんて、もうお着替えを済ましています」
ふつうの天人様ならば、私たちが朝ご飯を食べ始めるころには身支度を終えている。そして日常を始めた頃、私たちはようやく天子様のお部屋に向かうのだ。
「もう、あなたたちも立派な従者ね」
私の手の下で天子様が微笑む。私は天子様の青空のような髪が好きだった。
「今日もお綺麗ですね」
言ってから、まずいと思った。同時に両手の髪が揺れて「ヨネは私の髪が大好きね」なんて天子様が口にするから、私の顔が見る見るうちに熱くなる。
「じっとしていてください。髪が絡まってしまいます」
「そんなこと別にいいのよ。好きなだけ櫛を入れていいから」
だけど、私はもう天子様を直視できなかった。透かす手はそのままに、もう一人の従者であるトクの姿を探す。
「ヨネ。よそ見しないで集中しな」トクは天子様の足下にしゃがみ込んでいた。
「今日はこのままお召し上がりになりますか」
「うん。そうしようかな」
ベッドに腰かける天子様はいつもより座高が高い。トクはそのまま折り畳み式の食膳を調整し始めた。私もまた、天子様の髪を解き続ける。
窓辺から朝の清々しい風が吹き込む。甘い桃の匂いが私を包み込む。
毎年、こんな夢を見る。今年も九月がやってきたのだ。
◇◇◇
この夢をいつから見始めたのか。私はもう、覚えていない。
ただ、よくある夢見のひとつに過ぎなかったはずの夢は、いつのまにか眠らずとも詳細に思い出せるようになり、今では夏の終わりを告げる風物詩のようになっている。お盆も終わり九月が近づくと、私は「天子様」の元で働くようになるのだ。
もっとも、この「天子様」が誰なのかはわからない。そもそも私は空色の髪色をした女性と交流を持ったことがない。それでも夢にしてはみょうに印象的な髪色だったので、女学校で家政を学んでいたころ、「蒼空みたいな髪の女性を知っている?」と家族に訊ねてみたことがある。もちろん結果はノーであった。当たり前だ。こんな片田舎にあそこまで奇抜な髪色の女性がいるはずない。それどころか、戦前の日本に髪を染める人間など居たのだろうか。
だからこれはきっと夢なのだろう。それでもあそこで獲得した五感のそれは、不思議な現実感を帯びていた。櫛を通す髪のさらさらとした感触や、円く空いた窓から吹き込むそよ風の心地よさ、そして青髪の少女が身じろぎする度に振りまく桃の甘い香り。思えばあの夢から初めて持ち帰った記憶は、あの桃の香りだったかもしれない。
ところが幸いなことに、私にはこの奇妙な経験を共有できる友人がいた。そのことを知ったのは夫の退職を翌年に控えた年だったから、私が五十五の時、高等女学校の同窓会でのことだった。
「ねえ、あなた。ヨネちゃんよね? 私、トク。覚えてるかしら?」
何をするでもなく同窓生を眺めていた私に声がかかる。声の方を見ると、ひとりの女性がいた。まだ会場に着いたばかりなのだろう。暖かそうな天然物のコートをクロークに預けている。
「あら、確か一緒の小学校だった」
「そう! 一緒に登下校していたトクよ」
実のところ、彼女に声をかけてもらうまで、トクのことは完全に忘れていた。それが背後に顔をやったその瞬間、幼少期に彼女と過ごした思い出が頭の中に流れ込んできたのだ。それからしばらく他愛もない世間話に花を咲かせていると、それは唐突にやってくる。
「お待たせいたしました。こちら、フルーツの盛り合わせです」
提供されたフルーツバスケットには、バナナにメロン、リンゴにブドウと色とりどりのフルーツが詰まっている。そんなバスケットの端に、瑞々しい桃がひっそりとたたずんでいた。
「あら」
「あっ」
その甘い香りを嗅いだ途端、天子様のあの青い髪が、ありありと脳裏に像を結ぶ。寒い時期に天子様を思い出したのはこの時が初めてだった。突然再生された夢の景色に心を奪われていると、トクが口を開いた。
「わたしさ、たまに不思議な夢を見るんだよね。ヨネちゃんと一緒に青い髪の女性に仕える夢」
「それ、私も見る」
それから私たちは天子様と彼女が現れる不思議な夢について、そこが同窓会の場であることを忘れて長々と話し込んだ。会場を後にして二次会のレストランに向かう間も、三次会の居酒屋へと移動する道中も、それから家路につく道すがら、二人は延々と夢について語り合った。ヨネがそうであったように、トクもまた青い髪の少女の正体が気になって仕方がないようだった。それで家族はおろか親戚から近所の人間、さらには同窓生や元同僚に至るまで片端から訪ねてみたものの、結果は芳しくなかったという。
心当たりのある場所はすべて外れた。もう当てなどない。諦めるしかないのか。そんな失意の底にあった最中の出会いだった。
「結局、天子様って誰なんだろうね」
「それにあの場所も。なんだか中華風の建築だったけど」
同じ記憶を持つ者に出会えた。同じ夢を見る人に出会えた。同じ境遇の仲間に出会えた。それでも、夢の仔細はわからなかった。結局のところ、答えはまだ見つかっていないのだ。
けれども二人は満足していた。
「また会って話しましょう。そうすればいつか思い出せるでしょう」
「そうね。年寄りらしく気長に気長にね」
それからというものの、二人は時間を見つけてはカフェなどに集まって、思い出話に花を咲かせあった。ときにはただのおしゃべり会になることもあったが、還暦を迎えた二人にとってはそれだけで満足だった。歓談に留まらず、二人だけで旅に出ることもあった。有名な日本中の観光地を周り、海の外にも足を伸ばし、学生時代の思い出の地を訪れ、そして懐かしき故郷の地にも。
そんな日々も今は昔。気が付けば、ヨネは一人きりになっていた。夫に先立たれたのが十年前。親友が虹の橋を渡ったのが五年前。幼い時分のヨネを知る者は、いつのまにか姿を消していた。
ただひとり、天子様を除いて。
天子様は今でも夢に現れていた。お盆を過ぎ九月が近づくと、毎晩のように彼女はやってくる。そうしてまた、わずかな恥じらいを含んだ笑みをヨネに投げかけるのだ。ヨネもまた、くすぐったい気持ちを胸に秘めて応える。そんな私にトクもまた、呆れた瞳を寄越すのだ。夢の中の私たちはいつまでも幼かった。夢を見る肉体が衰えても、夢の中の肉体はいつまでも若々しかった。もちろん天子様も老いることはなかった。八月の夢はいつも変わらずそこにあった。
それもきっと、あと数年。
九十五の夏、私は旅に出ることにした。夢のことを知るために、天子様に会うために。
実は、私にはひとつ思い当たることがあった。それは尋常小学校に入学して間もない頃の記憶。いつものようにトクと帰り道を歩いていた私は、鳴動する山を見た。ゴロゴロと唸る山から逃げるように走る私たちは、たしかに誰かと出会ったのだ。七十年近く昔のことであるから、その姿は朧気である。ただ、力強い存在感と安心感、そして仄かに香る甘い香りだけが、今でも記憶にこびりついている。そしてその印象は、その香りは、夢で仕える天子様に重なりあうのだった。
きっと、今回が最後になるだろう。同じ県下であるとはいえ、長距離移動は耐えがたい
きっと、無駄足に終わるだろう。トクを合わせて百二十年、それでも叶わなかったのだから。
きっと、天子様には会えないだろう。しょせん夢は夢なのだ、世界が違えば会うこともない。
それでも私は旅に出る。どうせ最後の旅なのだから、私はひとつ試してみたい。
トクと歩いた帰り道。通学路は丘陵地。燦燦と照る日輪を身に受けて、私は独り坂を往く。
季節は夏。最近の夏は雨が多い。山嶺には雷鳴が轟いている。その音に背を向けて駆けてみよう。
そうすればほら、あの桃の香りが――
「天子様。おはようございます」
返事を待たずに入室すると、天子様はベッドから身を起こしているところだった。その瞳はとろんとしていて張りがない。大方、私たちの声で目を覚ましたのだろう。
「ああ、おはよう。今日も早いのね」
「これでも私たちは遅いほうですよ。他の天人様なんて、もうお着替えを済ましています」
ふつうの天人様ならば、私たちが朝ご飯を食べ始めるころには身支度を終えている。そして日常を始めた頃、私たちはようやく天子様のお部屋に向かうのだ。
「もう、あなたたちも立派な従者ね」
私の手の下で天子様が微笑む。私は天子様の青空のような髪が好きだった。
「今日もお綺麗ですね」
言ってから、まずいと思った。同時に両手の髪が揺れて「ヨネは私の髪が大好きね」なんて天子様が口にするから、私の顔が見る見るうちに熱くなる。
「じっとしていてください。髪が絡まってしまいます」
「そんなこと別にいいのよ。好きなだけ櫛を入れていいから」
だけど、私はもう天子様を直視できなかった。透かす手はそのままに、もう一人の従者であるトクの姿を探す。
「ヨネ。よそ見しないで集中しな」トクは天子様の足下にしゃがみ込んでいた。
「今日はこのままお召し上がりになりますか」
「うん。そうしようかな」
ベッドに腰かける天子様はいつもより座高が高い。トクはそのまま折り畳み式の食膳を調整し始めた。私もまた、天子様の髪を解き続ける。
窓辺から朝の清々しい風が吹き込む。甘い桃の匂いが私を包み込む。
毎年、こんな夢を見る。今年も九月がやってきたのだ。
◇◇◇
この夢をいつから見始めたのか。私はもう、覚えていない。
ただ、よくある夢見のひとつに過ぎなかったはずの夢は、いつのまにか眠らずとも詳細に思い出せるようになり、今では夏の終わりを告げる風物詩のようになっている。お盆も終わり九月が近づくと、私は「天子様」の元で働くようになるのだ。
もっとも、この「天子様」が誰なのかはわからない。そもそも私は空色の髪色をした女性と交流を持ったことがない。それでも夢にしてはみょうに印象的な髪色だったので、女学校で家政を学んでいたころ、「蒼空みたいな髪の女性を知っている?」と家族に訊ねてみたことがある。もちろん結果はノーであった。当たり前だ。こんな片田舎にあそこまで奇抜な髪色の女性がいるはずない。それどころか、戦前の日本に髪を染める人間など居たのだろうか。
だからこれはきっと夢なのだろう。それでもあそこで獲得した五感のそれは、不思議な現実感を帯びていた。櫛を通す髪のさらさらとした感触や、円く空いた窓から吹き込むそよ風の心地よさ、そして青髪の少女が身じろぎする度に振りまく桃の甘い香り。思えばあの夢から初めて持ち帰った記憶は、あの桃の香りだったかもしれない。
ところが幸いなことに、私にはこの奇妙な経験を共有できる友人がいた。そのことを知ったのは夫の退職を翌年に控えた年だったから、私が五十五の時、高等女学校の同窓会でのことだった。
「ねえ、あなた。ヨネちゃんよね? 私、トク。覚えてるかしら?」
何をするでもなく同窓生を眺めていた私に声がかかる。声の方を見ると、ひとりの女性がいた。まだ会場に着いたばかりなのだろう。暖かそうな天然物のコートをクロークに預けている。
「あら、確か一緒の小学校だった」
「そう! 一緒に登下校していたトクよ」
実のところ、彼女に声をかけてもらうまで、トクのことは完全に忘れていた。それが背後に顔をやったその瞬間、幼少期に彼女と過ごした思い出が頭の中に流れ込んできたのだ。それからしばらく他愛もない世間話に花を咲かせていると、それは唐突にやってくる。
「お待たせいたしました。こちら、フルーツの盛り合わせです」
提供されたフルーツバスケットには、バナナにメロン、リンゴにブドウと色とりどりのフルーツが詰まっている。そんなバスケットの端に、瑞々しい桃がひっそりとたたずんでいた。
「あら」
「あっ」
その甘い香りを嗅いだ途端、天子様のあの青い髪が、ありありと脳裏に像を結ぶ。寒い時期に天子様を思い出したのはこの時が初めてだった。突然再生された夢の景色に心を奪われていると、トクが口を開いた。
「わたしさ、たまに不思議な夢を見るんだよね。ヨネちゃんと一緒に青い髪の女性に仕える夢」
「それ、私も見る」
それから私たちは天子様と彼女が現れる不思議な夢について、そこが同窓会の場であることを忘れて長々と話し込んだ。会場を後にして二次会のレストランに向かう間も、三次会の居酒屋へと移動する道中も、それから家路につく道すがら、二人は延々と夢について語り合った。ヨネがそうであったように、トクもまた青い髪の少女の正体が気になって仕方がないようだった。それで家族はおろか親戚から近所の人間、さらには同窓生や元同僚に至るまで片端から訪ねてみたものの、結果は芳しくなかったという。
心当たりのある場所はすべて外れた。もう当てなどない。諦めるしかないのか。そんな失意の底にあった最中の出会いだった。
「結局、天子様って誰なんだろうね」
「それにあの場所も。なんだか中華風の建築だったけど」
同じ記憶を持つ者に出会えた。同じ夢を見る人に出会えた。同じ境遇の仲間に出会えた。それでも、夢の仔細はわからなかった。結局のところ、答えはまだ見つかっていないのだ。
けれども二人は満足していた。
「また会って話しましょう。そうすればいつか思い出せるでしょう」
「そうね。年寄りらしく気長に気長にね」
それからというものの、二人は時間を見つけてはカフェなどに集まって、思い出話に花を咲かせあった。ときにはただのおしゃべり会になることもあったが、還暦を迎えた二人にとってはそれだけで満足だった。歓談に留まらず、二人だけで旅に出ることもあった。有名な日本中の観光地を周り、海の外にも足を伸ばし、学生時代の思い出の地を訪れ、そして懐かしき故郷の地にも。
そんな日々も今は昔。気が付けば、ヨネは一人きりになっていた。夫に先立たれたのが十年前。親友が虹の橋を渡ったのが五年前。幼い時分のヨネを知る者は、いつのまにか姿を消していた。
ただひとり、天子様を除いて。
天子様は今でも夢に現れていた。お盆を過ぎ九月が近づくと、毎晩のように彼女はやってくる。そうしてまた、わずかな恥じらいを含んだ笑みをヨネに投げかけるのだ。ヨネもまた、くすぐったい気持ちを胸に秘めて応える。そんな私にトクもまた、呆れた瞳を寄越すのだ。夢の中の私たちはいつまでも幼かった。夢を見る肉体が衰えても、夢の中の肉体はいつまでも若々しかった。もちろん天子様も老いることはなかった。八月の夢はいつも変わらずそこにあった。
それもきっと、あと数年。
九十五の夏、私は旅に出ることにした。夢のことを知るために、天子様に会うために。
実は、私にはひとつ思い当たることがあった。それは尋常小学校に入学して間もない頃の記憶。いつものようにトクと帰り道を歩いていた私は、鳴動する山を見た。ゴロゴロと唸る山から逃げるように走る私たちは、たしかに誰かと出会ったのだ。七十年近く昔のことであるから、その姿は朧気である。ただ、力強い存在感と安心感、そして仄かに香る甘い香りだけが、今でも記憶にこびりついている。そしてその印象は、その香りは、夢で仕える天子様に重なりあうのだった。
きっと、今回が最後になるだろう。同じ県下であるとはいえ、長距離移動は耐えがたい
きっと、無駄足に終わるだろう。トクを合わせて百二十年、それでも叶わなかったのだから。
きっと、天子様には会えないだろう。しょせん夢は夢なのだ、世界が違えば会うこともない。
それでも私は旅に出る。どうせ最後の旅なのだから、私はひとつ試してみたい。
トクと歩いた帰り道。通学路は丘陵地。燦燦と照る日輪を身に受けて、私は独り坂を往く。
季節は夏。最近の夏は雨が多い。山嶺には雷鳴が轟いている。その音に背を向けて駆けてみよう。
そうすればほら、あの桃の香りが――