Coolier - 新生・東方創想話

天と地と人と

2024/06/08 19:15:16
最終更新
サイズ
80.68KB
ページ数
1
閲覧数
956
評価数
7/9
POINT
790
Rate
16.30

分類タグ

 人間が成長していく様子というのは、作り物の磨弓にとっては新鮮に見えた。
 地上。人間の里。
 周囲の様子を磨弓は屋根の上から偵察していた。人目を容易に避けられる上、磨弓からは見晴らしが良い。高所から敵の様子をうかがうのは戦略の基本だと兵長である彼女はよく心得ていた。石英ガラス製スコープ搭載の瞳をもってすれば、視野の内に広がる里の様子全てが観察可能だ。自身の作戦と与えられた素晴らしき機能に、磨弓は得意満面である。
 彼女の目が捉えている小屋では、人間の子供らが各々の机に向かって書き取りをしたり、前方に向けて難し気な視線を送っていたり、突っ伏して寝についていたり、それを叩き起こしに大人が拳骨を繰り出したりといった個性にぎやかな風景が見えていた。あの小屋が寺子屋と呼ばれていることを磨弓は知る由もない。
 ただ、磨弓にも子供らが一種の読み物についてまとめていることは分かった。造形された目は板書された幼く拙い字をもハッキリ捉えている。
(ああいったものを学ぶことで、人は強くなるの? てっきり武に触れ、実際に稽古をすることで成長していくものだと思っていたのに)
 当初の予想を外した磨弓だったが、そのことに落胆はなかった。彼女の論理回路は他の仮説を思案することとその材料となる情報を集めるタスクをこなすことに夢中だった。
(やはり実際にこの目で見にきて正解だわ。人間の強さは、自分が想像できるものを超えてくる)
 ある日、磨弓は崇拝する袿姫に人間界の視察を進言した。
「わざわざ地上まで人間を見に? それはまあ構わないけれど……どうしてそんなことを?」
「人間のことを知りたいのです。この霊長園の者たちではなく、地上の強く美しい生身の人間を」
 霊長園が鬼傑組の策略により襲われたあの日の記憶は、磨弓のストレージに強く残っていた。
 あの日まで磨弓は自分と埴輪兵団のことを無敵だと信じていた。誰に殴られようと体は修復し、噛み砕かれようともその歩みは止まらず。戦いなど成立したことがなかった。彼女が行ってきたのは畜生どもを一方的に潰す蹂躙だけであった。戦うために作られた磨弓である。その経験は創造主への畏敬を強め、自らが美しい偶像であるという自負を作り上げた。
 それを叩き割ったのが、地上の人間たちである。
 無敗を誇る埴輪兵にとって凄まじい経験だった。無敵であったはずの兵団はいとも簡単に砕かれ、再生するはずの体は神力の鼓動を発することはなかった。
 初めての敗北で受けた傷を押して飛び出た磨弓が見たのは愚かな人間霊たちの合間を縫って飛んでいく侵入者であった。人間には迷いが無かった。霊の嵐の中を飛ぶことを楽しんでいるようでさえあった。畜生界の人間霊とはあまりに異なるその姿は、磨弓が見たこともない輝きがあった。
 夢のような現実であった。あの日、磨弓の世界はひっくり返った。
「どうすればあのように強い人間が生まれるかを知りたいのです。人間を知ることは我々にとって有益です」
「あのように、っていうのは巫女たちのことかしら。ふーん、なるほどね」
 いまいち磨弓の意図が分からぬ様子の袿姫だったが、磨弓と同じくあの日の記憶を思い出したのか腑に落ちたようだ。
 磨弓はあの人間の輝きの秘密を知りたかった。武人としての本能がそうさせていた。
 それだけではない。もし畜生界の人間霊たちがあのような強さを持つことができたのなら──あの輝きを持つ信仰を得られたら、今度こそ本当の無敵になれるかもしれない。
「楽しそうね磨弓。あなたがそんな顔を見せる作品だとは思ってなかったけど」
 ふふっと袿姫に笑いながら言われ、磨弓は慌てて訂正する。
「す、すみません! 決して浮かれてこのような提案をしたわけでは……」
「いいのよ。あなたがそんな風にしていると私も嬉しいわ。作品が自分の想像を超えることほどの喜びは、創作者にとって他にないもの」
 新しい事を始めた子供のような笑顔を見せながら袿姫は磨弓の発言を肯定したのであった。
 創造主からの肯定は畜生界のどんなものよりも磨弓の行動を押す原動力となった。地上への潜入作戦は速やかに実行され、今に至る。
 騒ぎを起こさぬようにと袿姫が作った人間の着物は、磨弓からしてみれば武装のものとは程遠く頼りないものであった。けれど主が自分の意思を肯定した証とも言える服である。セラミックの体をくすぐる肌ざわりでさえ磨弓には心地よく感じられた。
 期待には成果を返すのが兵士の常である、と磨弓は気を引き締めなおした。子供たちから視線をずらし、次なる情報を求めて改めて人里を見渡す。
 里の様子はのどかなものであった。串に刺さった玉を食べながら談笑する人間や、何やら賑やかそうに提灯を飾った小屋に入っていく人間はいずれも笑みを携えている。かたやビッシリと文字の書かれた紙を座りながら読む男は静かなものだ。磨弓はスコープ機能を使って詳細を覗くと、その内容は大きく見出しが入った報告のようであった。しかしそれにしては事実以上に書き手の推測とみえる記述が多くあり、磨弓にはなんの役に立つのかはなはだ疑問であった。
 強い戦士である生身の人間が多数住む地のはずである人里は、どこまでものどかであった。
(もしかして、生身だからといって全員が強いわけじゃないのかしら?)
 埴輪にも兵士ではないものがある。園を清掃するメイドハニワ、ナイフを刺して外れを引くと頭が吹っ飛ぶ玩具ハニワ、連絡相手に向かってロケットエンジンで飛んでいく伝書ハニワなどだ。強さとは違った、それぞれ違う役割を持っている。
 磨弓のような兵士はそれらが健やかに働けるよう警備するのも役目の一つだ。それと同じと思えば、人間たちが武力を持っていないのも納得だ。
 そして彼らが武力無しでこうして暮らせるということは、その平和を守る兵士がよほど優秀であるという証拠にもなる。
 しかし磨弓がどれだけ探そうと、里の中には見回りらしき人間も見当たらない。さきほどから一人たりとも、である。そもそも磨弓という間者の侵入を簡単に許している事態が埴輪兵団の兵長たる磨弓としては警備体制へ疑問だけでなく叱責さえ思い浮かんでしまうほどであった。
 人間への興味の高まりとともに疑問が尽きない磨弓だった。現地視察はとても重要ではあるが、それだけで全てが判るわけでもない。
(人間たちから話を聞ければいいんだろうけど……)
 通りすがりから「この里の警備はどうなっているのか」などと聞かれることはあまりに不審だという判断は人間に慣れていない磨弓にも分かることであった。すぐさま外敵だと敵に感づかれるような間の抜けた偵察を磨弓はさらさらするつもりはなかった。そして同時に明確な成果もなく帰るわけにも、いかなかったのだ。
 意地はあっても策はない。忸怩たる思いから磨弓はつい歯を噛み締めてしまう。
 せめて人間の兵士の一人でも見つけられたのならば動向を観察できる。繰り返し磨弓は里内を見渡したが、その視界にはただ変わらず穏やかな街並みしかなかった。
 人間に倣い、自らも休憩を取ろうかと屋根を降りようとした磨弓ははたと気付いた。
(そうか、人間に倣ってみればいいのか。すこし大胆な策にはなるが……)
 磨弓が見つめていたのは、さきほども目に入った人間が読む報告書紛いであった。
 屋根から路地裏へ飛び降り、軽く服の汚れを掃う。
 セラミックの体には少しの乱れはない。彼女が無機質で緊張を知らないからではない。袿姫の作った変装に彼女が絶対の信頼を置いていたからだ。不安要素がないと判断できたのなら、目的遂行のためにどこまでも躊躇いなく動ける。それが埴輪兵士の性分だ。
 迷いなく路地から歩き出て、人たちにまぎれるように道を歩く。目指すべきは報告書紛いを持つ男の居場所だ。
 人通りの多い場所を歩くことに危険がないわけでは決してない。妙なことはしないに限る。平静に、ただ歩くことを意識する。
 がしかし、なにやら随分と視線を感じる。通りすがった人たちのいくつか……いやそのほとんどが磨弓を見ていた。
(なにか、変なのかしら……?)
 服装に乱れはない。歩く仕草も、人間と大差があるようには思えない。道を歩く際のルールでもあるのだろうか? 隊列の中で規律を乱すものはひどく目立つものだ。
 とはいえ今から取り繕おうとしても仕方がない。迂闊な行動だったかもしれないと少し後悔しながらも、磨弓は歩みを止めることはなかった。
 幸いというべきか、男の居場所まではそう遠くなかった。
「すみません、そちらの紙はどこで手に入れたものでしょうか?」
 穏やかに磨弓が話しかけると、男は顔を上げ、そしてなにやら呆けたように磨弓の顔を見つめだした。
 聞かれたことが分からなかったのだろうか、それともやはり何か変な部分があるのだろうか。磨弓にはそうおかしな恰好はしていない自信があったが、焦りに浸食されつつあった。
「……あぁ、こいつは鈴奈庵で買ったんだよ。渡し橋のすぐ近くの貸本屋さ。場所は知ってるかね?」
 ずいぶん間があってから男は答えてくれた。
 かしほんや。磨弓にとっては初めて聞く言葉なので漢字こそわからなかったが、話しぶりから書物の店であることは間違いないと推測できた。知りたいことがあれば読み物から学べばいい。人間の子らと同じだ。人間の戦いについての本を読めば、得るものはたくさんあるだろう。
 店名であろう”すずなあん”の方は磨弓にも見覚えがあった。
「あの、三つの看板を掲げた場所ですよね?」
「そうさ。あそこではなんだか風変りなものも取り扱っていてね。こいつもその一種さ。なんでも天狗が書いたものだとか」
 屋根からの偵察は有益だったと言える。
 ”てんぐ”というまた知らぬ言葉が気になるところではあったが、磨弓は長く話をして正体が看破される危険の方を重視した。
「ありがとうございます。そちらに寄ってみることにします」
「いいや、いいさ。ところであんた……どこから来たんだい?」
 刹那、逃げ出すべきだと考えた磨弓だったが、なんとか踏みとどまる。ここで逃げ出すのが最も怪しい行動であった。しかし、磨弓には相手の意図が分からなかった。
 改めて男の顔を見てみれば、特に警戒心は見られなかった。
「あ、いやすまんね。見慣れない顔だったもので。ほら、あんたみたいな……よっぽど美人の顔なら忘れないだろうから」
「は、はぁ?」
 予想外の男の言葉に、思わず磨弓は間抜けな声が出てしまう。
 もしかすると、周囲の人間が自分を見ていたのも同じ理由なのではないか。
 敵前にしてこの態度。磨弓としては呆れるほかないだろう。やはり、どうにも人里という場所は危機感に欠けるらしい。気を張るだけ無駄だったのでは、と磨弓は自分自身の行動さえ馬鹿馬鹿しくなってきた。
 しかし、まあ。考えてみれば人間たちの考えも同意できる部分はあると磨弓の回路が導いた。同意できる、というか当然の話なのだ。なぜなら───
「ありがとうございます」
 なぜなら磨弓は、この世で最も素晴らしい神が作り上げた顔をしているのだから──!
 磨弓のしたり顔具合は有天頂だった。



「いらっしゃいませー!」
 暖簾をくぐり、敵地へ踏み込んだ磨弓を迎えたのは、頭に鈴の飾りがついている幼い少女の快活な声。
(店の名に合わせた飾り武装のようなものだろうか?)と思いながら、磨弓は埴輪を模した自らの杖刀を思い出す。芸術には遊び心が重要、というのが杖刀を制作した袿姫の矜持であった。似た趣向をこの人間も持っているのかもしれない。
 例の報告書もどきはというと、少女が座る席のすぐ隣の机に置かれていた。ただ、やはりこれが有益な情報になるとは思えない。
 だが磨弓の狙いはそんな紙切れにはなかった。
 店を見渡すと壁一面が書物で覆われている。等間隔で並べられた棚へも本がぎっしりと詰められており、文化に触れる機会がなかった磨弓にとっては圧巻ですらあった。彼女の狙い通りであった。あのような文字だらけの紙が売られている店ならば他の書物もあるだろうという予想が当たり、磨弓は得意満面である。
 ここならば、きっと人間について書かれたものもあるに違いない。磨弓は調査のために早速行動に移った。
「書物を購入したいのですが」
「購入!!」
 少女が声を上げながら即座に立ち上がり、磨弓は思わず身じろぐ。いきなり出鼻をくじかれた気分であった。
「ええもちろん、各種取り揃えていますよ~」
 磨弓の言葉がそんなに嬉しかったのか、少女はずいぶんとハツラツと元気いっぱいに話しかけてくる……磨弓の方が気後れしてしまうほど。その様子に気付いたのか、鈴の少女がハッとして恥ずかしそうにハハハと笑う。
「すいません。つい……どんな本をお探しでしたか?」
 なんだかやりにくくて、磨弓の笑顔は少しひきつっていた。だがこの店が情報源になることは違いない。気を取り直すように息を払う。
「戦いについて書かれた物はありますか?」
「軍記物ですか、それだったらこっちの棚に……」
 鈴の少女が並んだ棚の間に入っていくのを見て、磨弓もついていく。
 店内の書物はほとんどに年季が入っており、長く手に取られてきたものであると分かる。長年の務めを果たしてきた書物らに畏敬を感じてしまうのは、やはり自分も作られた芸術だからだろうか。畜生界の古い造形物といえば、畜生どもが作った無骨で矜持も感じられない建物しかない。先輩とも言える作品へこんな気持ちを抱くというのは思わぬ発見だった。
「この辺りですね」
 少女が案内した棚は特段に古いものが集まっているらしく、結んだ紐が黒く変色された本やすっかり黄色くなった巻物などまでが置かれていた。磨弓が一冊手に取って中身を見てみる。どうやら古い軍団の戦いを記したもののようだ。察するに他のものも似た傾向の内容であった。
 兵士としては興味深い内容であるし、人間の強さについても学べるだろう。しかし、今知りたいことと直接的に繋がっているものではないというのが磨弓の見立てだった。
「その、もっと今の時代について描かれたものがあれば嬉しいのですが。巫女や魔法使いのような……」
「霊夢さんたちの? であれば阿求の本がいいんだろうけど……どうかなぁ」
「あきゅう?」
「あぁいえ、お気になさらず。ちょっと専門的で、真面目な本でよければありますよ」
 資料としてそれ以上に素晴らしいことはないのではないかと磨弓はやや疑問であったが、それよりも気になっていたのは鈴の少女の口から当然のように巫女の名前が出てきたことだ。地上でも名が知れており、わざわざ記録されていることからも彼女が指折りの実力者であることは明白だった。
 磨弓は一層のこと、巫女らについて知りたくなってきた。
「こちらなんですけど……」
 すぐ隣の棚から鈴の少女がおずおずと本を差し出してくる。表紙に"稗田阿求 著"と記されているのを見て、先ほどの言葉が作者の名前だったのだと磨弓は遅れて理解した。
 その本は今を生きる人間について書かれたものだけあって他のものと比べるとずっと新しい装丁であり、一際若いその本に磨弓はどこか親近感を覚えていた。
「購入希望ということでしたが、これは貸出のみになっています」
「貸出?」
「里の人たちみんなに読んでもらおうとに、と頼まれて置いているものなので……正直あんまり人気はないですけど」
 最後にぼそりと付け足すように少女が言う。
 しばし磨弓は思い悩む。貸出となれば返却しに再度この店に来なければならないことになるが、何度も人里へ侵入をするリスクを冒したくはない。しかし……。
 結局磨弓はリスクを許容することにした。
「ではそちらの借用と……これをいただきます」
 磨弓は差し出された本に加え、"ぐんきもの"なる分野の棚から数冊を取り出して渡す。
「えぇ?! 一冊で銀十匁はかかりますよ」
「? 不足はしないと思いますが」
 通貨については、袿姫が作ったものが磨弓へ十分に渡されていた。
 磨弓が袖から取り出して金一両を手渡そうとすると鈴の少女は妙な声を上げ、驚いたような嬉しいような、なんだかゾクゾクした顔を見せていた。
「お、お買い上げありがとうございます……!」
 様子のおかしい少女を前に、もはや磨弓は苦笑いを隠せなくなっていた。人間は実に多様である。
 早く帰るべきかもしれない。鈴の少女のやかましさに当惑しきりの磨弓は普段の戦場で味わうものとはどこか違う危機感を覚えていた。
 ともかく本を持ち帰れば無事に侵入作戦は完了である。人間の兵士に出くわすこともなく、実に華麗に任務が遂行される。磨弓は内心、逸っていたのだ。
「すぐに風呂敷に包んで渡しますので……」
「いえ、不要ですよ」
 そう言いながら磨弓は物資保管庫、つまり自分の腹をガチャリと開けた。
 瞬間、鈴奈庵に少女の「ギャーーッ!」というどでかい奇声と、気絶して固まった体が床にぶつかる衝撃音が響いた。



 事の顛末は実にあわただしいモノだった。
 磨弓が腹を突然開けたことに驚いた少女が気絶。派手な悲鳴に奥から人が出てくる気配を感じた磨弓はすぐさま対価を投げ捨てて踵を返し撤退。そのまま里の外に出て急行軍で霊長園へ戻ってきた。
(……人里では立ち振る舞いには気を付けなくては)
 兵舎に戻った磨弓はすっかり落ち込みきっていた。気分が重いのは、懐に入った読み物だけが原因ではないだろう。
 成果はある。しかしあらぬ騒ぎを起こしてしまった。なにより、一部貸本というのが困りものだ。どうやって本を返したものか。磨弓は頭を悩ませた。
 察するに貴重品である貸本を法っておけば、取り返すためにまた巫女が侵攻してくる危険性も考えられた。
 磨弓自ら進言をしておいてのこれだ。とんだ失態である。いくら反省をしても足りぬ──ところではあるが。
「落ち込んでいても仕方がない、か」
 騒ぎにはなっているが、武力衝突があったわけではない。時間が経てば向こうも忘れる可能性も十分にある。本だって折を見て返せればいい。あの警備状況なら侵入もそう難しくない。
 今は、まず持ってきた情報に目を通すべきだ。磨弓はそう結論付けた。
 従順な兵士である埴輪は優先事項さえ決まれば切り替えが早い。作られた知能の融通とはそういうものだ。
 磨弓はすぐさま鈴奈庵で手に入れた本を全て腹から取り出し、内容の熟読を始めた。そうして文字に触れているうちに磨弓の中の暗い気持ちはどこかへ消え去り、輝かんばかりの情報に彼女は圧倒されていた。
 磨弓にとっての強さというのは不屈の体や強靭な武器、乱れぬ指揮のことだ。しかし、人間の軍記に描かれているのはそういった戦術的なことだけではない。武勇を湧き起こすために瓶を割る矜持、雑兵が生き延びるための心構えなどが書かれていた。
 中でも磨弓が興味を引かれているのは、甲陽軍鑑なる書物だった。
 武田家という軍の戦いとその極意をしたためたもので、磨弓はこの本をいたく気に入った。兵法にとどまらず、兵としての気概や統治するための法までも盛り込まれているところが驚きだったのだ。
 中でも、塚原卜伝なる剣豪の記述での一節が強く磨弓の印象に残った。
「右の太刀に一乃位、一ノ心、一太刀、かくのごとく太刀一つを三段に見合う。第一に天の時、第二に地の利天地を合わさる太刀、第三至極は一太刀(ひとつのたち)。是は人の和と工夫の所なり……」
 卜伝の技についての表記のようであった。まさしくこれが自分が当初求めていたものであると磨弓は思った。人間の強さの根源、その実例である。
 霊長園に来た人間たちもまた、美しい技を使っていたのを磨弓は振り返る。袿姫の作る幾何学の輝きとはまた違った、色鮮やかで煌びやかなものであった。一太刀なる技があの輝きに直結しているとは思えないが、人間を知る第一歩になるのではないか。磨弓は輝きの一端をつかんだような気分であった。
 自分もまたあのような強さを手に入れられるかもしれない。そんな夢想に磨弓がふけってどれほど経ったほどだろうか。
「成果は上々のようね、磨弓」
 兵舎の入り口から聞こえてきた声を向けば、袿姫が立っていた。その姿を見つけて磨弓はたちまち椅子から立ち上がって「失礼いたしました」と詫びを入れる。
「そんなに慌てなくてもいいのに、ちょっと座っていたくらいで」
「立場がありますから……しかし、なぜお分かりに?」
「そりゃあ。だって、あなたの横顔がとっても嬉しそうだったもの」
 クスクスと笑いながら言われると磨弓は少しくすぐったいような気分になって、つい頬を触って自分の顔を確かめてしまう。
「あら、何を見ていたのかと思えば本だなんて。人間の作った芸術ね」
 一際嬉しそうな声をあげ、袿姫は机へ駆け寄ってくる。磨弓は体をよけながらも驚きを感じていた。そこまで袿姫が興味を惹かれるとは意外だったのだ。
「人間の里で借りてきたものです」
「ふぅん。興味深いわ! 私にはこういうものは作れないから」
「そうなのですか!?」
 さらなる驚きが磨弓を襲う。彼女にとっては、袿姫に作れない芸術があるなど意外などという表現を通り越していた。
「えぇ。神の教えを人が知覚するために人が作ったのが文字だもの。読むことはできても、私が操ることはできないの。あまり触れる機会もなかったんだけど……面白いわね」
 袿姫の本を見る目は爛々と輝き、少し頁を読み進めただけでも何度も刺激を受けているようで少し驚いたように瞳を見開いたり感嘆の息を漏らしたりしていた。
 自分もこんな顔にしていたのだろうかと、今度は磨弓がクスクス笑ってしまう番だった。少し遅れてから袿姫がそれに気付き、ぶー垂れた顔を見せる。
「なによ、主人の顔見て笑って」
 そんなことを言われてしまったが、ますます磨弓は笑みを止められなかった。
「だって、袿姫様の顔がとっても嬉しそうでしたから」
「……ジョークが上手になったわねあなた」
 どうにも袿姫は複雑そうな顔だったが、軽くかぶりを振って息を吐くと今度は穏やかな笑みを見せる。
「磨弓は私に似ているかもしれないわね」
「私が、袿姫様に?」
「えぇ。興味があることに取り組むのって、とても楽しいでしょう? それって私と同じじゃない」
 そう言われると、恐れ多いような、なんだかこそばゆいような。磨弓はあぁとも、うぅとも言えない気持ちになっていた。
「さて。それなら退散した方がいいわよね。作業に水を差されるのは困るもの」
 ふわりと袿姫が振り返り出てこうとするので磨弓は慌てて
「あっいえ、決してそんなことは──」
「遠慮しないで。あなたがやりたいようにしてみなさい」
 出口で袿姫が磨弓の方へ向き直し、美しく青い髪がなびいた。
「応援してるわ」
 袿姫が見せたのは、埴輪兵団なら誰もが至上の喜びを感じるような微笑みだった。



 もはや、磨弓の士気は留まることを知らなかった。
 自分の全てが世界で最も正しいのだとさえ思える全能感。何をやっても上手くいくという無限の自信。この世で最も輝かしい祝福を受けた多幸感。磨弓の考えを言い表すにはどれも不足している。
 一晩で書物の内容をストレージへ記憶した磨弓はすぐさま人間の輝きを身につけるべく、一太刀の修練に入った。
 修練。本来、無機物にとっては無縁のものである。だから当然埴輪兵士が鍛えるための場などというものはない。だが人間霊の健やかな生活のために作られた運動場ならばある。磨弓はその一角を借りることにした。
 運動場は平らな床が壁と天井に覆われただけの無骨な施設で、人間霊が誰一人いないこともその味気無さを強めているようであった。
 ここに住む人間霊は、ひどく無気力なものだ。埴輪の世話を受け、埴輪によって身を守られ、埴輪によって心の安寧を保たれる。それだけで満たされてしまう彼らは自ら行動を始めることはない。活気が見られるのは、歌って踊れる偶像たちのライブの時くらいなものだ。
 偶像に全てを委ねて彼らは暮らしている。そのことを以前まではなんとも思っていなかった磨弓だが、今ではひどく惜しく感じる。彼らも人間であるのに。しかし、その影響で誰の邪魔もなく使える広い場があるのだ。今の磨弓のとってはありがたいと言える。
「ハッ!」
 息を吹き出して吸うとともに踏み込み、磨弓が袈裟斬りを放つ。セラミックスが砕き割れる音が場に響き渡った。
 磨弓の刀に割られたカカシ埴輪がカタカタと音を立てながら修復されていく。袿姫様が磨弓の訓練用に作り上げてくれたものだ。創造主からの恩寵に感激しきりの磨弓だが、それに見合う成果はまだ出せていなかった。
「……さっぱり分からない」
 刀の手応えは悪くない。しかしそれは普段磨弓が感じているものとなんら変わりないものだった。
 一太刀の描写にはとても惹かれるもののその中身はまるで理解できない、磨弓の正直なところであった。”位”と”時”というのはまだ分かる。なぜ続いて”心”が来て、至極が”和”と”工夫”になるのか。磨弓の回路は解を出すどころか、演算すらままならなかった。
 敵との位置、それに踏み込むタイミング以上に重要なことなどあるのだろうか。疑わしい気持ちが、ないわけではない。しかし磨弓は人間の強さを知ってしまっていた。
「巫女たちには、この言葉も理解できるのかしら」
 刀を振るいながら、磨弓はチラリと床に置かれた稗田阿求著に目を向ける。
 稗田阿求の書物もまた磨弓にはとても興味深いものであった。そこに書かれていたのは異変と呼ばれる事件を解決する人間の兵士、博麗霊夢や霧雨魔理沙らの活躍とその人となりだった。彼女たちはやはり人間の中でも一際強大な存在であり、幾度の戦いを乗り越えて人里を守ってきた素晴らしい兵士らしい。
 面白いのは兵士らが多様な強さを持っていること、そしてその敵はそれ以上に多様なことだ。
 埴輪兵団にも様々な兵種がある。されど、その強さの根源はみな袿姫の力ということに変わりはない。磨弓が戦ってきた動物霊にも様々な種類がある。しかし、力押し以外に能のない畜生どもということには変わりがない。地上の戦いはまったくそれと異なっている。
 人間、妖怪、亡霊、神、仙人──。数々の種族らの名に、磨弓は人間が放つ輝かしい弾幕を思い起こした。彼らの美しさは実に多くの戦いから得た創意工夫が成せたものなのではないか。
 すなわち。自分には経験も知識も足りないのだと磨弓は結論づけた。
 自らの力、袿姫の加護をを疑うわけではない。より一層、強く美しい偶像たるために人間の力は参考になる。
 パリン、とカカシ埴輪の割れる均一な音が鳴る。繰り返し、何度も。しかしその中の一度でさえ、磨弓の太刀筋の変化はなかった。
「……難しいわ」
 言葉に反し、磨弓に詰まるような気持ちは一切なかった。むしろ不敵な笑いさえ浮かべている。
 楽しい。袿姫の言葉の意味が、今の磨弓には強く理解できた。
 しかし行き詰っていることには変わりはない。このまま鍛錬を続ければなにか掴めるものだろうか。無機物の体にとって修練はまったく苦ではないが、無為に過ごすつもりはない。
 極意を理解するために鍛錬以前の知見が足りていないのでは。人里の様子を振り返りながら磨弓がそんなことを思っていた時、ジリリリ!とけたたましい音が運動場を埋めつくした。
 磨弓は生まれてから何度もこの音を聞いていた。
「……またか」
 侵入者警報。領地に侵入者が入ってきた証拠である。危機的状況であることをサイレンが知らせているのだが、磨弓はウンザリしたような表情にしかなれなかった。
「どうせオオカミか、そうでなければオオワシか……懲りない連中ね」
 動物霊たちの襲撃があるのはいつものことであった。先の戦いで霊長園の一部を奪い返した彼らだが、袿姫が住む区画を今でもしつこく狙い、小競り合いが続いている。畜生たちが息まいているのは構わないが、彼らだけでは埴輪兵に勝てるわけがない。兵長の磨弓が打って出る必要は微塵もなかった。
 しかし、今の磨弓にはどれだけつまらない戦いだろうとも経験が必要であった。磨弓としては気は乗らないが、好機ではある。
 フゥ、と息を吐いて刀を埴輪型の杖に納める。どうせやられることはないのだ。刀の練習に目一杯付き合ってもらえばいい。
 磨弓は自身の頭部についたリボンに触れ、通信モジュールを起動する。
「歩哨隊、状況は?」
 この日もまた、磨弓が行ったのはただの蹂躙であった。



「……まだ来るか」
 霊長園第三ゲートの前には袿姫に造形された幾何学が走る黒い地面が広がる。
 地に立つ磨弓が空を見上げる。侵略をせんと降り注ぐオオワシ霊の群れは、どれだけ撃ち落とそうとも留まることを知らなかった。どんよりとした赤い空を紫の霊光が覆う。
「弓兵隊、斉射!」
 磨弓が杖刀を振るうと埴輪たちが同時に弓を放つ。逆立つ雨のように、矢が天上へ立ち昇っていく。甲高い鳥類の奇声が畜生界の空に響いた。
 既に翼がボロボロになったオオワシ霊たちが大多数である。それでも彼らは引くことを知らない。所詮霊体のキズなど簡単に治るからでも、オオカミのように間抜けだからでもない。彼らの面子が撤退を許せないのだ。
 磨弓にしてみれば非常に面倒な話である。
 小競り合いの相手として、剛欲同盟は最も厄介であった。まともな指揮系統が存在しない分、潰すべき頭がない。その上どこの動物霊よりもしつこく、キリがない。
 そうとなれば取れる手は一つだ。
「徹底的に、叩き潰す!」
 杖刀を引き抜いてその刀身を露にし、磨弓は空へ飛び出した。陶の矢が掠ろうとも腹が砕かれようとも、がらんどうの身には関係なかった。何も意に介さず、最短の路を突っ切る。
 先陣を切るオオワシに磨弓が相対する。”位”と”時”を得た。それを逃さずに磨弓の刀が霊体を斬り払った。
 手応えは、ない。いつも通りのなぶり殺しだ。
「……っ」
 地上から磨弓が戻ってから、実に七度目の襲撃である。それでも磨弓はいまだ剣の極意を身に着けていなかった。
 磨弓は敵襲の直前に立ちふさがり、前に出てくるオオワシ霊をしらみつぶしにするように飛び掛かって剣を振るう。
「何度来ようと、同じだ!」
 繰り返し、何度も、何度もオオワシ霊たちにトドメを刺す。
 美しい太刀筋であることは間違いなかった。けれど刀を振るう度、無機質な軌道になんら変化はないことを磨弓はまざまざと理解させられていた。
 再び、飛び出していったオオワシの影を視界の端に捉え磨弓が動く。
「このっ!」
 渾身の一振りを放ち、そして、刀はオオワシ霊を掠めて空を切った。
 しまった、と磨弓が口にできる間も無い。攻め手から逃れたオオワシはぐんぐん突き進んでいく。まさに特攻だった。矢を躱し、まっすぐに地面の造形物へと向かっていく。
 自身の不覚に数瞬だけ呆然としている中、その脇をさらに別のオオワシらが飛び過ぎていった。
 ハッとするように磨弓が気を取り戻す。
「ッ、逃がすか!」
 磨弓は手のひらに数本の矢弾を作り出す。レンズにオオワシらを捉えるやいなや、左手を自らの胸に突っ込んで割り砕いた。その手を引き抜き、体の破片で再構築された弓が握られていた。
 矢弾を引き絞り、磨弓は素早く放つ。
 風を切るオオワシ霊らの背後から、空を切り裂くように進んだ矢弾が襲い掛かる。身を貫かれたオオワシ霊が体勢を崩し、墜落していく。
 それを目視し、磨弓が少しの安堵を覚えたその時であった。
 バリンッとセラミックスが割れる音が響く。
「……あ」
 二度見するように磨弓が地へ振り向く。矢に貫かれてヒビの入った造形物がそこにはあった。



「監視用ポールが二本もねぇ、ずいぶんはしゃいだのね」
「申し訳ございません……」
 袿姫の工房まで報告に来た磨弓はただ、謝る他なかった。霊長園を守るための兵長が逆に壊してしまうなど恥としか言えなかった。
「別に気に入ってもなかったから構わないわ。外観が無骨過ぎたしねぇ」
 袿姫は地べたに座ったまま磨弓へは振り向かず、粘土を捏ね続けていたがその声色は穏やかそのものだった。
 監視ポール含めた現行のセキュリティシステムは霊長園の一部が奪われてから、新たに防衛線を張るべく袿姫が急ごしらえで作ったものである。彼女にしては極めて珍しく、機能だけを求めた造形物だった。
「いくら壊されても万事良しというわけじゃないけれど……意外ね」
「……意外?」
 思わず磨弓が聞き返すと「えぇ」と袿姫が返しながら片手に乗せた粘土を掲げる。見事な埴輪像だ。
「なぜ動物霊は貴方を壊せず、人間にはそれができるか……分かる?」
 脈絡もなく話を始めるのは袿姫の悪癖だった。磨弓はすでにそれに慣れ切っていたが、元気に返事をする気にもなれずおずおずと返す。
「肉体を持っているから、でしょうか」
「40点。それじゃあ埴輪兵の本質が説明できたとは言えないわ」
 口ぶりとは裏腹に、磨弓を流し見している袿姫の顔は実に愉快そうだった。自分の作品について語るのが嫌いな創作者などいないのだ。
「要はね、宗教を持っているかそうじゃないかよ」
 袿姫は慣れた手つきで手遊びを見せながら空いた手で彫刻刀を掴む。埴輪の輪郭が丁寧に伸ばし削られ、整えられていく。
「貴方を支えるのは人間霊の信仰。体は入れ物に過ぎないわ。魂が傷つけられない限り、いくらでも体は再生できる。それは分かっているでしょう」
「はい、もちろんです」
 身をもって磨弓がよく知っていることだった。
「じゃあ、魂を傷つけるにはどうしたらいいと思う?」
「……別の宗教をぶつけるということですか」
「そ。地上には私以外の神がいくらでもいるでしょうね。生身の人間が貴方の天敵になるのは肉体を持っていること以上に宗教があるからよ。信じる力が人間の力になっているの。もちろん、いくら信仰があっても霊体じゃセラミックスは割れないだろうけど」
 信じるところが人の力になる。それはまさしく、袿姫らが畜生界の人間を動物霊から救ったことと同じであった。磨弓にもよくよく納得がいく話であった。
 しかし、この話と先ほどまでの話がどうつながるのか。磨弓にはイマイチ袿姫の伝えたいことが掴みかねていた。その様子を気取ったのか、袿姫は振り返る。青く美しい髪をたなびかせながら造形神は得意げな顔をして口を開いた。
「あなたが造形物を破壊できたのよ。まったく同じ信仰をぶつけてもこうはならないわ。ということは磨弓の中で何かが変わったのよ。魂のアップデートとでも言うのかしら、作品がそんな風に変化するなんて……面白いじゃない?」
 袿姫は実に楽し気な弁舌を肩をすくめながらのウィンクで締めた。その仕草に磨弓は半ば惚けてしまい、返事もどこか宙に浮いたような声色だった。
「私の魂が……?」
「そ。だから、意外よねぇ」
 噛み締めるように、袿姫は再び同じ言葉を呟いた。
「磨弓が自分で興味をもって地上に行った……それだけでも面白かったのに、それ以上のことが起きるなんて!」
 袿姫はもはや磨弓へ抱き着いてきそうな勢いで、磨弓はそれが恐ろしいような嬉しいような、今まで感じたことのない感情の渦に飲まれていた。
「し、しかし……私の失態があったのは事実で……」
「それはもちろんだけど、模索中に他のことに手がつかないなんて当然だもの。ねぇ、良ければ防衛を外れて調べものに専念したらどうかしら? 動物霊相手なら埴輪兵たちだけでも十分よ。あなたがしたいことに集中してもらいたいわ」
 いよいよ袿姫が磨弓の両の手を包み込むように握ってしまい、磨弓はあぁともうぅとも言えず固まってしまう。
「は、はい……ご配慮いただき、光栄です……」
 なんとか絞りだすような磨弓の返事は、強靭な埴輪兵団に似つかわしくないほどに締まりがなかった。

 ゆえに磨弓は忘れてしまったのだ。
 当初自身が持っていた、いくら刀に執着していたとはいえ自らがオオワシ霊に遅れを取るようなことがあるのだろうかという疑念を。



 袿姫の命に従い、磨弓は他の兵士たちへ警備を任せ人里へ向かうことにした。地上での時間ではすでに十日が経つ。本の貸出期間も迫っていたのでちょうどいい。
 そう。実に合理的な判断だ。畜生たちとの戦いに集中できぬ磨弓が防衛線を離れ、人間の調査に注力する。磨弓もその判断に異はなかった。しかし──。
(鈴奈庵の本は、どうするべきだろうか……)
 地上へ向かう間、磨弓を悩ませたのは地獄に吹きすさぶ赤い風などではなく懐の中にある借りた本であった。
 鈴奈庵での出来事を振り返り、思えば失敗続きの自分を磨弓は恨めしく思った。磨弓が人ではないことはすでに鈴奈庵側に知れてしまった。正面から店に入るわけにも無理がある。だが、返さなければ霊長園の危機になりかねない。
 そんな二択の狭間でうんうんと唸っていたせいなのか、磨弓が人里に到着したのは以前よりもずっと遅い時間になってしまった。
 西日が差し込み、辺りは暗がりが強くなってきていた。道行く人もすこし疎らに見える。外での活動に向く時間でないゆえ、人間たちは急速に移ったのではないかと磨弓は仮定していたが、実際はみな屋内にこもって家事や仕事に励んでいる時間であった。
 都合の悪いことに、人影がまばらになってくるとなると、偵察にも向かないのだ。
「どうするか……」
 できることが限られてくると、磨弓はいよいよ借り本に向き合わなければならなくなった。
 今回磨弓が換装した着物は以前とは異なるもので、借りた本も里に入る前に人間に倣って風呂敷に包んでいる。しかしいくら変装に力を入れようとも、顔を見られては終いである。おめおめと鈴奈庵へ再び赴くことなどできないと本人がよく分かっていた。
 なにより磨弓が気にしていたのは、鈴奈庵が貴重な情報源になり得たということだ。
 あの店には多くの書物があり、簡単に売買、借用ができる。人里も狭くないとはいえ、あれほどの場所は早々見つからないのではないかと磨弓は見立てていた。ゆえに、どうにかまた近付くことはできないかと未練がましくも思ってしまう。
(……いや、もう関わるわけにはいかないか)
 結局、磨弓の考えは「本を店の前に置いていく」という折衷案に落ち着いた。包んだ本ならば店の前にでも置いておけばそう汚れず、店には入らずそっと立ち去れば問題はない。
 ほどなくして磨弓は鈴奈庵がある通りにたどり着く。もとより場所も分かっていた分、あっけない道のりだった。
 磨弓はあえて鈴奈庵へ目を向けず、一切立ち止まらずゆっくり歩き続ける。顔をできるだけ無関心に見えるように固めながら進み、入口の戸とすれ違いざまでするりと本を落とした。
 さりげない所作を完璧にこなし、磨弓がすまし顔で立ち去ろうとしたときである。
「あの、返却なら店内ですぐ終わらせてくれますよ?」
 声のする方向へ磨弓が振り返ると、重ね着が目立つ少女が苦笑いをして立っていた。
 頭には霊長園の外れで見た花のような飾りをつけている。髪になにかしらモチーフをつけるのが人間の女子の習性なのだろうかなどと磨弓はぼんやり思い、不審に思われている状況に遅れて気付いてハッと意識がハッキリした。
「もしかして延滞させてしまったとか? 大した代金は追加されないから、持って行った方が良心も痛まないんじゃないでしょうか……」
「あ、いえそういうわけでは……」
 花の少女の言葉にどう返したものかと磨弓が悩んでいると「阿求?」という声と扉が開く音が聞こえた……背後、つまり店側から。それも磨弓には聞き覚えのある声であった。セラミックの体で冷や汗を流すことなどないが、磨弓はゆっくり首を回して一層動揺を深める。
「あっ!」
 入口から顔を出していた鈴の少女が驚いたような声をあげ、そしてすぐ喜色で表情を満たす。
「この間の妖怪さん!」
 追い打ちのような言葉に磨弓が失態と焦りに固まる。するとそこへさらに背中から衝撃が走る。
「ちょっとこんなところで……! もう!」
「えっ、あの、わっ!」
 阿求と呼ばれた少女は磨弓をはるかに凌ぐほどの焦り顔を見せ、必死の勢いで磨弓を押しやりながら店内へと入っていた。



 それからして、鈴奈庵内では騒がしい時間がやや過ぎていった。
「妖怪が里にいるのは御法度になってるの! そういうものだってことは、よく分かってるわよね小鈴!?」
「まぁ、その、つい口走ったというか」
「あのねぇ! なんだか最近霊夢さんに認められたかなんだかで優越感に浸っているようだけど、全ッ然心構えがなってないのよ!」
 二寸五分ほどの説教。
「どうやら私の訪問で迷惑をかけてしまったようで、申し訳ありません」
「いやいや! うちは妖怪も人間も歓迎の店ですから!」
 一寸の謝り合い。
「あの畜生界の!? じゃああの紅白がカチコミに来た現場にも?」
「えぇ、いましたが……」
「本当! それならまず貴方のことから聞きたいんですけれど! あの巫女ったら異変のこととなると何にも教えてくれなくて、直接聞ける機会が偶然来るなんて! こんな小さい貸本屋でも良い客持ってるじゃない!」
 半刻に及んだのではないかという聞き込み。
 セラミックの体には疲れなどないはずなのだが、磨弓は終始阿求という少女の輝かしいまでの活力に圧倒されていた。生身の人間とはとにかく凄まじいものであると磨弓は再認識した。戦場では一糸乱れず敵を討ち果たす兵長も姦しい少女の前ではたじたじである。
「それじゃあ、迷惑をかけないように帰ろうとしたところを私に捕まってしまったのですね」
「そのようになります……」
 慌ただしさがようやく落ち着き、磨弓は胸を撫で下ろす気分だった。事なきを得たことより、長い取材がようやく終わった安堵が大きかった。
 しかし、阿求が磨弓の出会いに喜んだように磨弓もこの出会いに感謝していた。
「しかし、まさか返しに来た本の作者にめぐり合うとは……」
 あの”阿求”である。まさに偶然であった。
「そっちの阿求のファンなんて人間でも珍しいのにねぇ。こんなことあるなんて」
 店員である鈴の少女こと小鈴は磨弓の気づかぬうちに眼鏡をかけていた。とっくに阿求と磨弓の問答に飽きて自分の読書にふけっていたらしい。
「そっちの?」
「あぁいや、その、え~っと」
 小鈴が何を言っているのか分からぬ磨弓だったが、その疑問は阿求の咳払いで流されていった。
「その話は置いておいて……縁起はどうでしたか? なかなか初めて歴史に触れる方の感想を聞ける機会はないのでぜひ聞きたいところなんですが」
「えぇ、とても素晴らしいものでした。ああも多様な生き方があるなんて、どれも興味深いものばかりでした」
「楽しんでもらえましたか。あれは資料としてだけじゃなく、読み物としても楽しめるように書いているつもりなので嬉しいです」
「普段は本当に人気ないもんねぇ。借りられてもろくに読まずに返却されるし、感想なんて私も初めて聞いたくらい」
 小鈴の野次で阿求の柔らかな笑みは害されたかのようにしかめ面に変わっていった。
「そりゃあなんでもかんでも面白おかしく書くわけには行かないもの。歴史書にとっては読まれないことより軽んじられる方が痛手よ。書けと言われたらいくらでも人気作を書いてやるわよ、でも資料は楽しんでくれる人が楽しめばいいの」
「あれほどの読み物に人気がない? 生身の人間は好みまで多様なのですね」
 磨弓は普通の感想を言ったつもりだったが、阿求はどこか不思議そうな顔をした。
「畜生界の人間霊は違うんですか? そりゃあ、霊にあればある程度性質は変わるものですけれど」
「そうですね……彼らはみな、私たちが与えるものを喜んで享受しますから。我々が良いと思ったものが不評ということはあり得ませんね」
 どう伝えるべきか情報処理を並行させながらゆっくり口を紡いだ磨弓だったが、言い終えてから思わず後悔する。阿求の目が先ほどの輝きを少し取り戻しかけていた。
 そこへ嘆きの声で磨弓に助け舟を出したのは小鈴だった。
「あーもう、勘弁してよもう。ここは貸本屋であんたの家じゃないんだから。せっかく来てもらったんです、どうですかまた新しく本の購入なんて……」
 金の価値が分からぬ磨弓には知る由もないが、彼女に向けられた小鈴の笑みは不自然に明るく丁寧だった。
「それは……遠慮させていただきます。まだ読み解けていないものがあって」
 磨弓の興味は一点に定まっていた。
「あぁ、ずいぶん大口で買ってもらいましたもんね。ちなみに今はどの本を?」
「甲陽軍鑑という書物なのですが」
「あぁ、あの甲州流の……それはまた、本当に勤勉家なのですね」
 感嘆の声を上げたのは阿求だった。
「こうしゅうりゅう? 何それ」
「四百年くらい前に流行った兵法よ。甲陽軍鑑はその祖となった軍学書なの。内容は武田氏……戦国時代の大名の話だから、記載されていることは更にもう五十年は古いものね。というか、あんたの店の商品でしょ」
「むぐ。勉強中なのよ、史料なんて読み始めたのは最近なんだから」
 成立背景をさらさらと述べてしまう阿求に、小鈴は苦々しい顔で半分悪態のような口調で返す。
 親し気に学問について語り合う二人の様子を垣間見ただけで、磨弓には人間霊と地上の人間の違いが明白に感じられた。どこか、微笑ましい光景であった。
「それで、どのあたりで読み詰まっていたんですか? 現物はここにはないけれど、信玄公は有名だもの。参考になるものはこの店にもたくさんありますよ」
 確かに武田の活躍劇には心躍らされたのだが、磨弓の知りたいところはそこではなかった。
「一太刀についてなのですが……」
「「卜伝!」」
 二人が思わずという具合に声を上げて磨弓は思わずビクリとする。
「そうだ、確かに卜伝のことが書いてあったわ。かの剣豪は武田とそこまで深い関係じゃないと思うんだけどねぇ……」
「あーやっぱり? 私が読んだ小説でも、一度当時の当主と会ったくらいの描写だったし」
「まぁ山本勘助を弟子にしたなんて話もあるけれど……怪しいところね」
「あっはっは、それは流石に弟子多すぎじゃない? 将軍の弟子もいたでしょ」
 識者二人で次々と話が進んでいったが、やがてただ一人磨弓だけが置いて行かれていることに気付いたか、小鈴も阿求も少しばつの悪い顔になり向き直る。先に詫びを入れたのは阿求だった。
「すみません。それで……一太刀でしたね。正直、調べるのは難しいですね。細かい資料はもう残ってないはずだし、私も覚えがない」
「そうなの? 体力と位置取りと気力が全部最適なときに敵を斬る!……みたいな技だと思っていたけど」
 小鈴の言はまさしく磨弓が想像していたことそのものだったが、阿求はこれに首を振る。
「それは多分、小説の創作ね。卜伝の技の記述は他の資料にも載っているけれど、具体的なところはなにも書かれていないしどれも同じような説明ばかり。えぇと、確か、細かくは覚えていないけど……」
「第一に天の時、第二に地の利天地を合わさる太刀、第三至極は一太刀。是は人の和と工夫の所なり、ですね」
 阿求がこめかみに手を当てて唸り始めたあたりで、磨弓が暗唱している一節をつぶやく。
「そうそう、流石ですね。天と地、そこに人の和。小鈴の読んだのはそこから連想した描写なんでしょうね。といっても、他の記録がない以上もう連想するしか手立てがないんだけど……」
「あーっと、ごめん。出来れば文字に起こしてほしいんだけど……?」
 今度は小鈴が置いて行かれる番であった。
 紙と筆を用意してもらい、磨弓がいかにも機械的な字で書き写しをしたためる。テーブルに置き、三人でそれを囲むようにして覗く。改めて見ると、技一つを十分に伝えきれるような文ではないなというのが磨弓の感想であった。
 どう読み解くべきか磨弓が思案にふけろうとしたところで「ねぇ阿求」という小鈴の声が遮る。磨弓が顔を上げると、二人はすでに何か思い当たったという表情をしていた。
「これってさぁ、どう見たって……」
「うーん、そうね。改めて見ると孟子の言葉そのものよね」
「孟子というと、信玄公も読んでいたというあの?」
 その言葉には磨弓も覚えがあった。甲陽軍鑑に信玄公が引用した書物として記述されていたのだ。
「ええ、そうです。小鈴、写しは?」
「もちろん、置いてるわよ」と短く返しながら小鈴は棚からさっと一冊の書物を取り出す。机に広げてもらう。文字の一つ一つは磨弓には見覚えのあるものであったが、羅列された文章全体を見るとさっぱり解読できないものであった。にもかかわらず、小鈴が指でなぞりながらそれをサラサラと読み出すので磨弓は少し動揺させられる。
「孟子曰く、天の時は地の利に如かず。地の利は人の和に如かず……天の与えた時期は地形の有利には及ばない。地形の有利は人心の一致には及ばない。そんな意味です」
 天、地、人。まさしく一太刀の記述そのままの言葉であった。磨弓の目が見開く。
「つまり、信玄公の知る兵法と卜伝の極意が繋がりがあると?」
 武田の兵法書に卜伝の記述があったのは信玄公に通じるものがあったから。
 ただの思いつきとも言える仮説である。それをまるっきり信じるほど三人は抜けてはいない。しかしそれ以上に、彼女らは知の繋がりを知ることの楽しさを知ってしまっていた。
 三人にとって、とても見過ごせる見解ではなかったのである。
「そう考えるなら、卜伝の言う天の時というのは自然に見合った時。地の利はそのままね、地形を使って有利を得るということ」
「天地合わさる太刀とは、その二つ両方を兼ね備えた攻め手……いかに適した戦場で攻勢に転じるかということですか」
「人の和、人心の一致は兵をまとめあげること……ってことなのかなぁ。なんだか技にしては壮大すぎるけど」
「いいえ、なんら不思議はないわ。だって甲陽軍鑑は兵法書なんだから」
 阿求の言葉は磨弓へ身を割らんばかりの衝撃を与えた。
 磨弓は一太刀のことを技の一つとしてしか捉えていなかった。それはあまりに狭い物の見方だったのかもしれない。一太刀はもはや戦術、いや戦略の域にも達している可能性があるのだ。
 わっと小鈴と阿求が声を上げる。
「すごい! ねぇ大発見じゃない?」
「伝説の剣豪の技が解明されなかったのも当然ね、技じゃないんだもの!」
「そうよね! 無手勝流の剣士なんだもの、戦法に詳しくて当然!」
 二人は手を繋ぎあい、きゃいきゃいと黄色い声を上げながら飛び跳ねるのではないかというほどの浮かれっぷりだった。知の喜びをこれほどまでなく享受している。
 美しいな、と磨弓は思った。
 知について歓談をし、謎に対して自ら知を手がかりに熟考を深め、新たな論を生み出して喜び合う。赤い畜生界の中では決して見られない光景だった。
 今三人が行ったのは鍛錬などではない。ただの戯れだ。しかし磨弓が鍛錬で得られなかったものを今、彼女は手にしていた。磨弓は幻想郷縁起の内容を思い出す。幻想郷で生まれた本当の戦いではない遊び。なぜそんなものが生まれたのか、なぜ人の子が文字から学ぶのか、その理由の一端を磨弓は理解できたような気がする。
「いやぁ、お客さんが来てくれて、本当に偶然! なんだかとっても楽しかったです」
 小鈴はまだ興奮冷め切らぬ様子で阿求と指を絡ませながら手を振っている。
「そんな、こちらこそ不詳な部分が解明できて……」
 心の底から磨弓は感謝を感じていた。本当に偶然、こんなに書が揃った場所で有識者に恵まれて、本当に────とまで考えてはたと磨弓は気付いて、その場を見渡した。
 幸運に恵まれた機運、相応しい場所、新たな縁。これはまさしく。
「これが、一太刀か……」


 三人の語りの場はいつの間にか日が赤くなるまで続いてしまった。
 磨弓は丁重に礼を述べ、鈴奈庵を後にした。新しく買った土産はなかったが、持ち帰るものは大きかった。
 この世と地獄のはざまの強風の中、磨弓は空を切り裂くように飛んでいく。薫陶された身にはそぐわないほど軽やかな飛行だった。
 自分の視野がまだまだ狭く、精進の必要性を磨弓は深く感じた。それも今まで彼女がしていたこととはまるで異なる修練が必要だ。一人では決して得られない進歩がそこにはあった。
(人間から得るものは、まだまだたくさんあるのだろうな)
 戻ったら何をするべきか。兵団を集めて訓練を行なってもいいし、人間のように書物を学ばせるのもいい。今改めて自分の太刀筋を見直すことも必要かもしれない。試してみたいことが磨弓の魂から溢れんばかりに思いついていた。
 磨弓は早く霊長園に戻りたかった。これからもっと強くなれる。人間の輝きを自分も手にすることができるかもしれない。期待が帰路を行く背中をどんどん押していく感覚であった。
(これでまた、前進できる)
 より完璧な兵団を作る。そのための教えを磨弓は人里で見つけてきたのだ。あの人間の輝きを自分のものとし、兵長として戦場を蹂躙するのだ。磨弓は決意を固めるように握り拳に力を込める。怖れのことはいつの間にか忘れていた。
 磨弓は再び飛んだ。立ち止まる時間が惜しいかのように早く、彼女の飛行は迷いのない美しい軌道を描いていた。
 地獄を超えて畜生界に入りしばらくした頃である。磨弓は廃虚群を縫うように速度を落として飛行していた。
 この周囲はかつての袿姫の領地であり美しい造形物に囲まれていたが、今は動物霊によりところどころ取り壊され見るも無残に荒れ果てている。
 野ざらしもいいところであった。動物霊たちは袿姫らを警戒し撤去も再利用も積極的には進めない。袿姫もさして急いて奪い返すほど重要視していない。誰からも用済みとされてしまった旧ビル街はビルと同じく造形された磨弓にとって心地いいものではなかった。
 だが、この一帯は緩衝地帯として軍略上重要であることも確かであった。帰路とはいえ哨戒もせず過ぎ去るのは兵長として気が引けた。
 そんな折であった。
「……?」
 地上のガレキの隙間からほのかに瞬いた光を磨弓の目は見逃さなかった。
 ついと磨弓は移動を止める。そのまま杖刀に手をかけることはしなかった。こちらが気付いたことを敵に悟られないためである。磨弓は通常の見回りのフリをしながら周囲を見回す。
(ごくわずかだが、間違いない。緑の霊気だった)
 緑の霊気となれば、間違いない。カワウソ霊である。
 眉を潜めたいのを磨弓はぐっと堪えた。カワウソ霊がここまで本拠地の近くにいるというのはそれだけ厄介な事態であった。
 野蛮で無謀なオオカミ霊や尊大で愚かなオオワシ霊とは違い、臆病で貧弱なカワウソ霊は滅多なことでは危険な行動を起こさない。今彼らがこの廃墟を進んでいるのは、それだけの危険を冒す価値がなにかあるということだ。
 磨弓は警戒せずにはいられなかった。以前霊長園を侵略したあの人間も、鬼傑組が招いたのだから。
 磨弓はしばし考える。今すぐ単独で強襲し、カワウソ霊を排除するべきだろうか。だが正確な居場所は分かりそうにもなく、周囲にどれほど鬼傑組の者が潜んでいるのかまったく把握ができない。しかし敵方も同じく、下手に手を出せば居場所が知れて磨弓を襲ってくることはない状況だ。通り過ぎるのは容易だろう。
(……この場で突出は避けるべきか)
 同じ失敗をするのは望ましくない。そのうえ、この場は明らかに隠れる場所の多いカワウソ霊に地の利があった。磨弓がすぐさま戦いを選ぶ理由はない。
 いかにも何も見つけられなかったかのように、磨弓は再び廃墟内を進んでいった。すでに彼女の論理思考は埴輪兵をいかに動かすかに切り替わっていた。
 磨弓にはカワウソ霊がどのような作戦を取ろうとしているのかおおよその検討はついていた。ここから霊長園に向かった先に何があるか、痛いほどに分かっていたのだ。



「敵の突破口は監視用ポールの欠けた第三ゲートだ」
 霊長園内部、大広間。壇上では周囲の地図が映し出された大きなスクリーンを背に磨弓が立っていた。その眼前には壮観にも無数の埴輪兵が一分のズレもなく立ち並んでいる。
「前回のオオワシ霊との交戦にて私自身が被害を出してしまった場所だが……鬼傑組が急に侵攻を進めてきたのはこれを聞きつけたからだろう。あの臆病なカワウソ霊らが攻めてくるとすれば間違いなくこの地点だ」
 磨弓の声は淡々と、そして強さのあるものだった。襲撃の知らせがあったというのにも関わらず埴輪兵らにも一切の動揺はない。彼らがそのような乱れのない美しさに誇りを持っているからである。
 情報源は、さしずめオオワシ霊だろうと磨弓は見ていた。偶然被害が出た個所を大袈裟に自分らの手柄として喧伝するオオワシの様子が目に浮かんでいた。
「狙いは当然霊長園奪還。単純な畜生ならただまっすぐ突撃してくるだけだが、相手はあの鬼傑組だ」
 別方面からも襲撃をかけ二正面状態に陥らせる挟み撃ち。新たな兵器や戦術を用いた電撃戦。本隊にこちらを誘導させてからの侵入。鬼傑組が選ぶことのできる搦め手はいくらでもある。
「……だが! 如何な策があろうが、本隊からの攻撃が主になるのは違いない。そこを徹底的に叩く」
 磨弓の取る手は驕り高ぶった以前のものではない。天の時、地の利、人の和。磨弓は一つも欠かす気はなかった。
「弓兵隊は壁上から上空からの奇襲を警戒。剣士隊は第三ゲート裏にて待機し、敵を発見した歩哨隊からの通信があり次第出陣して前線を形成。あくまで小競り合い程度を想定したように見える戦力だけを使え。その後、頃合いを見て撤退し第三ゲートまで敵をおびき出せ」
 スクリーン上では第三ゲート周囲のおおまかな地形が表示される。その上にカワウソ霊らを表す緑の矢印、埴輪兵を表す茶色の矢印がそれぞれ相対するように動き出す。茶色の矢印が反転し戻っていくと、緑の矢印はそれを追うがごとく伸びていき、そして細くなっていった。
「カワウソ霊たちは楽観的ですぐ調子に乗る。必ず深追いをしてくるはずだ、そこを第四ゲートから出陣した私と騎馬兵が叩く! 十分に引き付けてから剣と矢の援護を集中させ、奇襲をぶつけることで敵の動揺を誘い好機を作る。我々埴輪兵団の戮力協心をもって徹底的に蹂躙してやれ!」
 杖刀を掲げた兵長の言葉へ、埴輪兵たちは微塵もぶれることなく一斉に武器を掲げて応える。無声の兵団たちの鬨は勇ましさ以上に無機質な恐ろしさをはらんでいる。その冷たさは戦いが始まる前だというのに残酷ささえ感じ得るものであった。
「侵入作戦に備え重装隊は水場の警戒を怠るな! 敵を見つけ次第進路を塞いで膠着に持ち込んでやればいい。総員配置につけ、無敵の我々の前に侵略など無意味だと魂に刻んでやれ!!」
 磨弓の号令とともに埴輪兵らは一斉に列を成して動き出す。決してその動きに乱れはなく、巨大な流線が留まらず進んでいくのは一種の造形さえ感じさせる。
 生きる機能美がそこにはあった。磨弓はこのような光景が好きだった。作られた道具が理知整然と機能する。それだけで造形神の威光を感じられるのだ。この光景の中に加われることは磨弓にとって最大の誇りであり、喜びだった。
 磨弓は歩み出した。勝利に向けた一手のため、自らもまた兵団の役目に殉じるのである。
 リボンに手を当て、磨弓は通信モジュールを起動する。
 残存する監視用ポールは特に警報を出していないが、第三ゲートの歩哨隊から磨弓に報告が入る。不審な霊力を観測、つまり動物霊たちの反応である。まだ断定するべきではないが、鬼傑組は電撃戦を選んだのだろうと磨弓は当たりを付けた。
 行進を続けた磨弓はすでに外で待機していた騎馬兵埴輪の狭間を凛として歩く。そうして埴輪たちの先頭である霊長園の門のすぐ目の前、即座に外へ打って出ることができる位置にたどり着いた。
 戦いが始まる。その静寂が場を包んだ。
 外よりけたたましい叫び声が上がる。磨弓には見えずとも、カワウソ霊たちが荒野のそこらの岩陰から這い出てくる様子が手に取るように創造できた。
 第三ゲートから報告。剣士隊が作戦通りゲートより外へカワウソ霊の迎撃に向かった。
「敵は有効打を与えられる策を取ってくるはず。確認次第、被害が致命的に広がる前に撤退だ」
 通信により剣士隊へ磨弓が指示を出す。埴輪には造形された物質としての誇りはあれど生物としての余計な意地というものがない。指示はつつがなく受理される。
 喧騒はやがて悲鳴の混じったものに変わる。信仰どころか物理的な攻撃手段さえをろくに持たない動物霊が埴輪兵とまともにぶつかりあえば勝ち目はない。この事態は当然のことであった。
 だからこそ、何か手があるはずなのだ。歩哨隊からの戦況報告を磨弓は注意深く聞く。
 カワウソ霊、消滅。飛び出た剣士埴輪らが半包囲に遭う、しかし無傷、各個撃破。左翼側にて剣士埴輪の投擲、命中。右翼側、剣士埴輪破損、続いて二体破損、破損、破損。
「来たか! 歩哨隊は右翼側の詳しい状況を報告。剣士埴輪はもうしばし戦闘を継続し無策を装え、こちらの読みを悟られるな! 頃合いを見て右翼側から順に撤退!」
 磨弓の指示に対して歩哨隊の応答は即座に返ってきた。見慣れぬ動物霊による被害が甚大。明確な物理的損傷を与えている模様。
 報告の類似事例を磨弓はストレージから即座に割り出した。忘れようもない。この異常事態は霊長園を奪還されたあの日、つまり生身の敵による侵攻の例と酷似している。
「まさか、動物霊ではなく生身の動物か……? なるほど、新たな戦力を見つけたのか」
 考えてみればあらゆる点で磨弓には合点がいった。
 生身の人間による勝利は鬼傑組にとっても劇的なものだったはずだ。生身の配下を探すのは至極自然なことである。人間に倣ったのは磨弓だけではなかったのだ。
 だが磨弓には恐れる必要などなかった。生身だろうと畜生たちには信じる神がいない。侵攻のない攻撃では埴輪が再生を止めることはないのだ。
 歩哨隊からの続報が磨弓に届く。埴輪兵は手筈通りに撤退を始め、動物霊らはそれに追従しているとのことだ。
「第四ゲートを開け! 策においても武においても、我々が絶対的な上であることを見せつけてやれ!」
 騎馬兵隊たちが得物を掲げ、いななくように馬埴輪が足を持ち上げる。再び馬が足を地につけるとともにゲートが開いた。磨弓は先陣を切るように飛び去り、無数の騎馬がそれに続く。
 戦場の赤い空を磨弓が飛ぶ。カワウソ霊たちの戦列は見事に伸び切り、無様なほどに疎らであった。横合いから来た敵に畜生たちは目を見開くばかりで陣形を作り直すことすらできない。
 磨弓の杖刀が閃き、騎馬兵の突撃槍が突き刺し、慈悲のない体当たりで吹き飛ばす。数の利はなく、不意を突かれては非力なカワウソ霊たちになす術はなかった。
「徹底的に潰せ! 二度と逆らわせぬよう畜生たちを叩き潰せ!」
 カワウソ霊の戦線は滑稽なまでに混乱していた。埴輪兵の奇襲に気付き足を止めて無謀な反撃を繰り出す者、臆病者らしく逃げ出そうとするも振り返りざまに一突きに伏される者、周囲に指示を出すもまた別の者の指示の声にかき消されてしまい困惑をむざむざ広げる者。無秩序な動物霊らの動きは磨弓にとってひどく汚らわしくさえ感じられた。
 烏合の衆を兵長が自ら相手するまでもない。磨弓は唾棄するような表情で正面に向き直り、さらに進軍を再開しようとした。
「来たね親玉!」
 空からの声であった。磨弓は不意に顔を上げ、声の主を探すより先に何かが落ちてくるのが目に入った。
「ッ、総員防護体勢!」
 磨弓の指示は一足遅かった。周囲一帯へ雨あられのように棒が降り注ぎ、埴輪兵団を踏みつぶしていく。刀で弾けるようなものではなかった。磨弓は空に対し半身になり、右腕の影に体を隠すようにして構えた。棒が直撃し、衝撃が磨弓の体を襲う。片腕に亀裂が入ろうとも埴輪にとっては致命傷ではない。さらに棒が磨弓の腕を掠り、続いてまた当たり、今度は直撃する。磨弓の体があわや吹き飛ぶところであったが足を張って堪え抜く。
 地を砕くような音が途絶え、棒の転がる音が響く。磨弓は顔を上げる。その右腕はすでに粉砕されつくされ、容易に再生ができないことがありありと分かった。
 物理的な攻撃。それもかなりの物量である。想定を超える戦いになることを磨弓は覚悟をし、空に浮かぶ生身の敵を捉えた。
「げぇ、今の結構本気だったんだけどな……まだまだ耐えそうじゃん」
 敵の風貌から、その畜生が猿であることは磨弓にもすぐに分かった。頭には金の輪。服は黄、緑、青と鮮やかな構成をしており、筒が透明になった妙な棒を持っている。磨弓には見慣れぬ妖怪であった。
「思い上がりも甚だしい……それしきの力で埴輪兵団は倒れることはない」
 磨弓の腕はすでに半分が治りつつあった。力はうまく入らないが、攻撃を止める盾代わりにはなる。周囲の兵士たちも半壊以上の損害を受けているが、十分な時間さえあればいずれ修復される。不屈の埴輪兵の強さはこの再生力とその体を犠牲にした戦法にあった。
「そう? 確かにすぐ治るみたいだけど、私に何度も壊されて動けなくなれば倒れたと同じなんじゃない?」
 畜生等からすれば磨弓の一早い登場は想定外のはずであった。だが猿はカワウソ霊とは違って怯む様子はなく、ただ挑戦的な笑みで磨弓を見据えていた。
「……時間稼ぎが目的か。無駄なことを」
 磨弓と騎馬兵たちが足止めをされようと、カワウソ霊は待ち構えている弓兵に討たれるだけであった。
「そうかなぁ、どうも先輩たちは弾とか防ぐのが得意みたいだからねぇ」
 猿の言葉で己の見逃しに気付いた磨弓は思わず眉をしかめた。カワウソ霊たちが集まってバリアを張れば矢など効きはしないのだ。騎馬との連携がなければ今回の作戦は完全に裏目だ。
 だがカワウソ霊には攻め手がない。埴輪への唯一の対抗手段である猿を磨弓が抑えている今、鬼傑組に侵略などできようもない。
 磨弓の論理回路が動き出す。侵略ができないのならば、目的は別にあるはずだ。獣が欲しがる資源は霊長園の土地だけではない。つまり鬼傑組の目的は──。
「人間霊の誘拐が目的か……!」
 磨弓は自分がすべきことを理解した。時間をかけず、すぐにこの猿を調伏しなければならない。
 磨弓が事態を呑み込んだことを察したのか、猿はふふんと笑い、旋風のごとく棒をぶん回して体の左右へ捌いていき最後にはビシッと動きを止めて見得を切ってみせた。
「さぁ、なにより最高に楽しい役目よね! 一番楽しそうな奴相手に戦えるなんて! 我こそは鬼傑組遊撃隊員の孫美天、いざ尋常に勝負!」
 美天を名乗った猿は再び透明な棒を振るい、棍棒の弾幕を巻き起こした。
 振り降りる弾幕を前に、磨弓は果敢にも空へと一直線に飛び出した。決して躊躇ってはいけない時であった。兵団を守るために自らが飛び出て敵の新戦力を止めなくてはならない上、上空から棒を投げ続けられては地の利のままに押しつぶされる。恐怖が介在しない、埴輪兵士の雄姿が嵐の中を突き進む。
「騎馬兵は修復でき次第半数で第三ゲートへ! 残りは周囲のカワウソ霊の対処を、散られてはここが包囲されかねない!」
 期待できないながらも指示を飛ばし、磨弓自身は空へ昇った。
 高速の移動の最中、磨弓の目と思考は無差別に振りまかれた棍棒を冷静に見つめ、そして瞬時に判断を下す。避け切るのは不可能だ。
 磨弓にとっての最短の経路は一つだった。得物を片手に持ち替え、半身に構えて左腕を盾にするように突き出して、大雑把に見定めた密度の薄い場所へと突っ込んでいった。陶器と木が砕ける音が鳴り響く。棍棒が磨弓の左腕に激突するたびに亀裂が走り、破片が空を舞っていく。
 あの人間たちであれば、このような弾幕だって最小限の回避で避けることができるのだろう。磨弓には未だ及びつかない業である。だが、埴輪兵には埴輪兵なりの弾との向き合い方がある。磨弓にとっての最小限の回避がこの突撃であった。
「なっ、意外と強引!」
「お前こそ、粗暴な攻撃だ!」
 出し抜かれたとは思えないほどに磨弓の思考は冷静であった。侮りもしない、怖れもしない、敵をただ倒す埴輪兵としての性分。敵を見定めて観察して自分の機を伺う人間からの学び。磨弓はこの状況下においても自分の技量と状況を誤ることなく把握し、解を導く観察眼を身に着けていた。
 それは弾幕を避ける上でこの上なく重要な心の持ちようだった。
「……こっんの!」
 接近され続けることに耐えかねた美天が自ら空から下り、磨弓とのすれ違いざまに自らの棒を振るう。しかし磨弓は落ち着いて体をねじってそれを躱し、続いて距離を取りながら矢を放って反撃をする。美天の反応は決して遅れることはなかった。自らの攻撃の勢いを殺さず、棒を軸に逆上がりするようにして矢を避けた。
「っと、肉弾戦が好みで来たんじゃないの?」
「その得物相手に近づく理由はない」
 棒術に対抗するには磨弓の杖刀は短い。練度で負けることはなくとも、不利に対面する必要はない。負ける要素は徹底的に潰していく。人間から学んだ教えであった。
「ははーん、距離を取って空にいれば私の攻撃が当たらないって思ってるでしょ? 大間違い!」
 美天がバッと手をかざす。瞬間、正面に向けて棒状のエネルギー体が何本も空を高速で走った。
 ほぼ反射的に、磨弓は体を思い切り倒してそれを避ける。視界の端で美天が再び腕を振るっているのを捉え、磨弓は数瞬もその場に留まることなく飛んでいきすんでのところで美天の追撃を避けた。
 磨弓は翻って杖刀を構えなおす。美天の攻撃の徹底ぶりに警戒を強めざるを得なかった。重力を感じぬほどにまっすぐで、収斂された攻撃。オオワシ霊のごとく高速で避けることは難しく、磨弓とて捨て身で突っ込めば再生を上回る被害を受けるだろう。まさに埴輪封じにうってつけの技であった。
「じゃんじゃん打ってくから、あっけなくやられないでよ!」
 言葉通り、美天はさらに攻撃の手を加速させた。磨弓に向けてだけではなく、地上にいる埴輪兵たちに向けてもである。再生を半ば進めていた兵隊たちは再び無残に砕け散っていく。第三ゲートへの追撃は已然途絶えている。
 難しいな、と磨弓は率直に思った。
 勝つことが、ではない。完膚なきまでに勝つということが、である。被害は受けるとはいえ突撃すれば猿を切り伏せる自信が磨弓にはあった。だが今は捨て身で崩れた体の再生を待つ時間が惜しい。そうして間を取って踏み込まずにいるが、これもまた時間の浪費につながる。
 勝つことへの難しさなど以前の磨弓は毛ほどにも感じてこなかったが、考えてみると随分と繊細で精密な歩みが必要になるということは今の磨弓だから理解できることだった。
(まるで、あの人間たちのようだな……)
 兵団の矢を通り抜けたあの動きを磨弓は思い出していた。そして、あの美しさはこの困難を乗り越えたから生まれるものなのかもしれないと気付いて微笑んだ。
 磨弓は人間を知った。敗北から、観察から、話し合いから。それだけではかつて邂逅したあの美しさを得るにはまだ程遠いということは磨弓は重々に理解していた。けれど、そのことに気付いた磨弓は現状より先へ成長できる。
「騎馬兵! 残った者で周囲の敵の位置を教えろ!」
 目が残った騎馬兵が真下にまだ残っていたのだろう、報告はすぐに磨弓へ帰ってきた。周囲、猿以外の敵なし。
「通信してる余裕なんてあるの!」
 美天がこちらに手をかざそうとするのを磨弓が目で捉える。敵の姿と、勝機を見定めた。
 磨弓は避けるより先に、半壊した腕を弓に変えて狙いをつけた。当たる、と判断してもう片腕で瞬く間に矢を引き絞って放つ。
「えっ、わっ!」
 さきほどまで反撃をしてきていなかった磨弓に不意を突かれた美天は驚きながらも矢を棒で叩き落とす。が、その隙を磨弓は見逃さなかった。
 放物線を描くような軌道を描き、重力の加速を受けながら磨弓が美天へ迫る。猿が慌てふためく姿を石英ガラスの瞳が捉えた。天の時と地の利が合わさる。
 磨弓は鬨の声を上げて杖刀を振り下ろした────!

パキリ。

 それは、杖刀が脆くへし折れた音だった。
「え?」
 その声は美天のものであった。磨弓の杖刀は間違いなく美天の頭に直撃したが、想像していた痛みは美天にはまったく感じられなかった。覚悟を決めていたらとんでもなく間抜けなことが起きた、そういう驚きであった。
 磨弓は、声も上げることができずただ呆然としていた。
 何が起きたか分からない。今の感触は間違いなく杖刀が折れたものだ。しかしそんなことはあり得ない。油断なく、徹底的に、戦法を用いて磨弓は畜生に斬りかかった。そこで勝負はつくはずであった。
 あり得ないはずだと磨弓は目線だけ動かすが、見えたのは砕けた自分の得物だけだった。
 次の瞬間、磨弓の視界が消え去り乾いた破裂音が響いた。
 目の前で動きを止まった敵を獣が見逃すわけがなかった。美天の振るう棒は磨弓の頭を砕き、続いて腕を砕き、胴を、足を、再び再生しかけた頭を砕く。
 自身の部品が壊れて再生を繰り返し感覚の有無が切り替わっていく中、磨弓は自分が砕けながら落ちていることだけを理解した。上空から棍棒の雨が降り注ぐ。静かに、このまま避けることも防ぐこともできないと磨弓は冷静に知覚した。その他にできることなどなかった。体を弾幕が貫き、抵抗もなく磨弓の体は破片を散らし続けていった。
 地上へと磨弓の破片が塵のように落ちていった。痛みは決してなかった。しかし頭が再生してもなお磨弓は何かを考えることなどできなかった。今起きていることを受け入れることができず、ただ判断材料となる知覚情報を眺めていた。
「なーんだ、近づかないんじゃなくて近づいたら弱かったんだ。脆いんだねあんた、なんかガッカリ」
 降りてきた美天を磨弓は首だけで見上げる。その頭には傷一つついていなかった。
「そんな、だって……一太刀は……」
「なにそれ? あー、もうなんか予想より簡単に終わっちゃったなぁ。吉弔様には大役だって言われてたのに」
 美天はひどくつまらなそうにぶー垂れていた。瞬間、磨弓に怒りが沸き上がり再生した片腕と胴だけで殴りかかるが美天にあっけなく棒で防がれ、衝突を軸にした振り下ろしでセラミックの体が脆くも砕かれた。
 磨弓の体は四肢どころか顔も胴も粉砕され、形を保っていなかった。この状態では敵わない。磨弓の論理思考はしごく冷徹に解を導いた。
「まぁとにかく足止め役として、ちょっと悪いけどずっと叩かせてもらうからね」
 そうして磨弓は再生するたびに美天に体を砕かれた。何度も、何度も、抗おうという意思だけがもがいていた。嘆きの声も上げられない磨弓には身を守る術などなかった。できることはただ、自分の敗北を受け入れることだけだった。
 偶像の体は再生され、命が途絶えることは決してない。磨弓はただ繰り返し、勝って当然の畜生相手に負け続けた。
(なぜ、人間の技は本物のはずなのに……?)
 砕かれて途切れながらの意識で磨弓は必死に思考をめぐらせる。
 美天が強い敵だったのか。それは違うと磨弓には断言できた。肉体の所作、立ち振る舞い、あらゆる情報を見定めて判断した結果、能力が大きく自分を上回るわけではない。兵長として戦況を見たうえでの判断である。であればなぜ負けたのか。その命題に対し磨弓の思考はエラーを吐き出し続ける。
 負ける理由がない。負けるはずがない。袿姫の加護に加え人間の学びを得た自分は勝つはずなのだ。そんな磨弓の考えなど知る由もなく、美天は情なく得物を振るい続けた。
「本当、つまらないねぇ。こんな脆い体を殴っても手応えないし……んん?」
 美天が何かを気取ったような気配を磨弓は破片のまま感じ取った。どういうわけか、畜生の追撃がぱたりと止まった。磨弓が疑問に思うより先に磨弓の顔が再生し、その目で何が起きたのか補足した。
 小さな偶像のかけらが見たのは巨大な幾何学模様の光彩で覆われた広大な空であった。


「……ッ、手のひらの上でとどまってちゃいけないよね!」
 息をのんで固まっていた美天はそう言い残して磨弓を置いてどこかへ飛び去って行き、次の瞬間には空から降りたいくつもの光が地を突き刺していた。
 磨弓はその正体がなんなのか、よく知っていた。袿姫の信仰エネルギーである。
 純粋なエネルギーを放っているだけではない。袿姫は攻撃一つをとっても幾重にも彩りと造詣を重ねていた。降り注ぐ弾はさながら流星のようであった。荒んだ畜生界に袿姫の芸術が駆け巡っていた。
 その流れを乱すように、緑の閃光が弾ける。第三ゲートから飛び出すカワウソ霊たちだった。バリアを張りながら緩衝地帯方面へ逃げていくところだった。首根っこを掴まれた人間霊も見える。
 追いかけようにも磨弓の体はまるで動かず、ただ呆然とそれを眺めていた。
 半身が形どってきたことを感じ磨弓はゆっくり起き上がろうとした。が、いまだ直り切らない腕は崩れかけた体の重みにさえ耐えきれず磨弓はまた倒れた。
 いくらなんでも再生が遅すぎることに磨弓は気付くと同時に、論理回路がエラーの発生を止めた。
 空に広がる造形術は残酷なほどに美しかった。埴安神袿姫の作るものに不備を疑う余地などない。そのことが磨弓に気付きを与えた。
「……そうか」
 磨弓は自らが何をしたのか、理解してしまった。
 袿姫の力は素晴らしいものだ。これほど美しい空を作り出す主人のことを磨弓には疑いようもない。袿姫の力があれば畜生に遅れを取るなどありえないのだ。
 磨弓の敗北は論理的に破綻していた。しかし、磨弓の回路は導き出してしまった。その破綻の要因は自分だと。
 忠誠心がそのまま強さになる程度の能力。
 磨弓が何を信じて戦っていたのか、本人が一番知っていた。袿姫への忠誠以上の憧れが彼女を突き動かしていた。
 人間への信仰である。
「なんて、愚かな……」
 磨弓は自らの肩を抱いた。そうしなければ耐えられなかった。造形術に彩られた空は愚かな偶像には眩しすぎた。敗北した自らを覆い隠すようにうずくまり、震え、地に伏せた。人間を信仰する脆い偶像。いったい誰がそんなものを信仰し、誰が加護を与えようというのか。
 ふと、空に一つの影が浮かんだ。磨弓が見間違うはずもない、主の姿だった。瞬間、磨弓に衝動が走る。
 早く、見られる前にいなくならなければ。
 生身の生物の反射に等しい行動であった。杖刀を握り締め、磨弓は自らの胸を貫く。半端に再生された体は響きもしないグシャグシャな音を立てて簡単に崩れる。空っぽの磨弓の体は何も感じず、ただ機械的に傷口に集まった破片が再構成されていった。痛みも生まれない、ただ空虚な行動であった。
 磨弓はまた繰り返し自らを傷つけることをやめなかった。
 その行動は論理からも自らの機能からもかけ離れたものであった。無意味であるということは磨弓の論理回路が導き出していた。それでも、自身の魂の穴から溢れる汚泥のような感情の発露を抑えることができなかった。むしろ痛みがないことが失意の穴を広げるかのようであった。
 自分が何をしているのか、どうしたらこの衝動を止められるのか、何も理解できぬまま磨弓は躍起になって自傷を続けた。救いにも罰にもならない行為が磨弓の心を満たすことは絶対になかった。
 もはや磨弓は声さえ出すことができなかった。その喉から出る呻きはあまりにか細く、自傷の音にかき消されてしまう。単純な機能さえおかしくなっていた。自分は壊れてしまったのだと、磨弓は考えた。
 磨弓は知らなかったのだ。無敗の兵長が知るはずがなかった。ある神が人間に落ちて最初に得た感情、恥という感情のことを。



「磨弓、一体なにがあったの!」
 袿姫は磨弓のそばに降りながら問いたが、すぐに口をつぐんだ。加護を与えている袿姫本人が磨弓のエネルギーが低下していることに気付かぬはずはなかった。
 磨弓は杖刀を胸に刺し呆然と座っていた。主に無様な姿を見られ消えてしまいたいという磨弓の感情は強まったが、どうすることもできなかった。
「……埴輪兵がまともに動かないわけね。指令が止まっていたんだもの」
 そう袿姫に言われ、磨弓は顔を上げた。辺りを見てみると引き連れてきていた騎馬兵たちはとっくに再生を終えていたが、整列すらすることなくただキョロキョロと周りを見渡していた。
 埴輪兵団とは思えぬ、美しさの欠片もない無様で間抜けな統率だった。少しだけ間をおいて彼らが自分が出した最後の指示に従っているのだとようやく磨弓は気付き、わななく体を抑えられなかった。
 自らが機能を果たせない醜い道具になっているばかりか、埴輪兵団の美しさを脅かしていることに磨弓は耐えきれなかった。
「ひとまず体だけ直しておこうかしら。動力系で何か故障が起きているみたいだから、それは一旦戻ってからね……やっぱり私は戦うのは向いてないわね。加減してたら何人か人間霊も攫われちゃって。これ以上被害を出さないためにも貴方の修理は最優先」
 磨弓の様子に意も返さず、袿姫はテキパキと体の修繕を始めた。エプロンから取り出した鑿を使い粘土を磨弓の体のヒビへ器用に押し込み、背から伸ばした炎で磨弓の体を炙って直しながらも歌うように滑らかに話す。
「袿姫様……」
 磨弓は顔も上げず、絞りだすような声を出した。
「なぁに?」
「私を、廃棄してください」
 磨弓の言葉に袿姫は手を止める。磨弓も袿姫も、埴輪兵の進言の重みをよく知っていた。
「……何を言っているの?」
 袿姫が降りてきてから、磨弓はいまだ俯いたままであった。いやに流暢な口調で磨弓は続ける。
「……動力系など、壊れていません。袿姫様のシステムに不備はないのです。全ての問題は私にあります。私の思考、行動、忠誠。そのすべてが埴輪兵団に相応しくない。私は人間の輝きを追うあまり、人間を信仰したのです。だから力が弱まった。不良があるのは私の魂です」
 機械的に事実を述べることだけはいつでも簡単に行える。磨弓は埴輪としての自分に身を任せていた。
「私が不要なのです。私の余計な思いが、私の魂のせいで、埴輪兵団が敗北したのです」
 敗北。自らの論理回路から導いた確かな言葉を口に出した途端、磨弓はかつてない恐ろしさを感じた。今まで自分がどれほどのことをしたのかまるで分かっていなかったのだと思うほどの自己の存在への恐怖だった。
「勝つなんて、当たり前のことをできないのです。わ、たし……私は……なんのために……」
 それ以上、磨弓は喋ることができなかった。言葉が詰まるように出てこないなど、埴輪の磨弓にとって初めての経験だった。
 魂の発露はもう止まることはなかった。水のない嗚咽が磨弓を襲い、がらんどうの身が生ぬるい悲しみで満たされていく。もう立つことなどできるはずもなかった。責務を果たすことも背負うこともできない。磨弓はただ消えたいと願い、縋るように自分の身を掴んでいた。
 自分がいなくなることで埴輪兵団に勝利をもたらす。それが磨弓が唯一責務を果たす道だった。
「……けるな」
 ぽつりと、袿姫が言う。
「───ッふざけるなっ!!」
 袿姫の叫びに驚き、磨弓の震えが止まる。そうしておずおずと顔をあげた磨弓が捉えたのは、未だかつて見たこともないような怒気に満ちた袿姫だった。
 当惑に覆われた磨弓にも構わず袿姫はさらに言葉をぶつける。
「勝つ? そんな単純なことのためにっ、私があなたを作ったと思ってるの!!?」
 もはや体を震わす役は入れ替わっていた。
 袿姫は倒れ込む磨弓の肩をかちあげるように掴み、真正面からその顔に向き合った。土でドレスが汚れることなど微塵も気にせず、ただ磨弓の石英ガラスの瞳を叩き壊そうとせんばかりの目つきで睨みつけていた。
「磨弓! 貴方はね、ただの兵士じゃない。偶像なの! 美しく在り、人々の心を救い、崇拝の上に立つ!! それが貴方なの!」
 主の怒りをぶつけられているにも関わず、磨弓の魂に畏怖などは全くなかった。
 袿姫の深紅の瞳へ磨弓は魅入られていた。怒りだけではない、悲しみや落胆、そしてどこから感じ取れるかも分からない愛を湛えた目だった。その視線が磨弓の目を射止め、魂の底から、何かが湧き出てきているのを磨弓は感じていた。
「勝つためならもっと合理的な形があるわ! 銃でも大砲でも作ればいいのよ。けどねっ、銃の神はいない! 機能だけを果たす最適化されたものなどに神は決して宿らない。勝つだけなんて、たかがそれだけの価値しかありはしない!!」
「……!」
「貴方が自分から考えて、美しさを学ぼうと進言してきたのがどれほど嬉しかったか分かる? 貴方の魂が動き出し、完成した作品を超えることへの期待は? 私さえも知らない偶像の形が生まれていく楽しみが、分かる?」
 袿姫の震えが磨弓の肩を揺らす。
 なぜ袿姫が自分の言葉をどんな思いで受け止めていたのか、磨弓はまるで知らなかったのだ。あの美しい造形神が、唯一無二の主が、世が最良の形であれと願う神が、自分を肯定していたその事実に磨弓は体が熱くなることを感じた。
 いや、がらんどうの体は決して熱などを持たない。魂である。磨弓の魂が火照るように熱くなっていた。
「磨弓! 私は貴方が犯した間違いは忠誠が揺らいだなんて重いものなんかじゃない。新しい手法に目がくらんで、基本が疎かになったっていうだけの、ただそれだけのことよ! 美を求める研鑽の中のほんの日常、貴方が自分で動き出した証拠なの!」
「袿姫様……!」
「だからってね、許してあげたりなんかしないわ。貴方に失敗してもいいなんて甘いことは言わない、勝てなんて簡単なお願いなんかしない! 兵長がそんな簡単な役目だなんて思わないでよ!」
「袿姫様……私……!」
「美しく、偶像としてありなさい! 貴方の魂が間違っているなんて言わせない、あなたにだって! 私の作った一番の芸術の美しさを、他でもない貴方が証明してみなさい!!」
「私っ!」
 磨弓の体は地獄の窯で焼き上げられたように熱くなっていた。
「なんだかもう……もうっ! 我慢できませんっ!」
 はちきれんばかりの喜びとともに磨弓の体から制御できぬほどのエネルギーが溢れ出した。大量のエラーとそれを飲み込むほどの衝動が止められず、磨弓は疾く空へと飛び上がった。
 磨弓は自分の視界が輝かんばかりのように感じられた。
 なぜ磨弓が空へ飛んだのか、論理的な解などなかった。そんなもの考える気すら磨弓には起きなかった。ただ、先ほどの自傷への衝撃とは比べ物にならないほどの感情の波が襲い掛かっていた。
 使命を果たせねば、ではない。磨弓は心の底から袿姫からの使命を果たしたいと感じた。この溺れそうなほどの思いの抑え方は磨弓には分からなかった。
「これより追撃を開始する! 人間霊を一人として見捨てるな、人々を護る偶像としての誇りを掲げろ!」
 磨弓の命が出た直後、地上をウロウロと見回っていた騎馬兵は即座に空へ舞った。同時多発で起きた衝撃が場を震わすが、埴輪兵団の軌道は揺るがない。磨弓が流星のように空を切っていく姿に兵団らが次々と追従していく。
 別格の速さ。作り変えられたのかと見間違えるほど、兵団のスピードは先ほどまでとは別物であった。その中でも抜きんでて突出していたのが磨弓だった。
 あっという間に磨弓は緩衝地帯上空までたどり着く。依然として鬼傑組の姿は捕捉することはできなかった。すでに逃げ切ったとは考えにくい。臆病な奴らは必ずガレキの下に潜みながら撤退するはずだ、と磨弓は読んだ。
 隠れられたとすれば圧倒的に不利な地、そして人質を取られて下手に攻めに出られない時でもある。
 だが、だからこそ、磨弓は一切の迷いもなく言い放った。
「全軍、突撃体勢でそのまま追従!! 私が全員炙りだす!」
 磨弓は空中で全身を翻らせるようにして減速し、自身の弓を腹から引き抜いた。ありったけの信仰の矢弾を握って、弦をはちきれんばかりに引き絞る。狙いを定めたのは、カワウソ霊はとっくに通り過ぎたであろう手前のガレキの山。
 荒れ狂う地獄の風より激しい矢の嵐が放たれ、ガレキ目掛けて走っていく。
 バギィン!と荒々しい破壊音が次々と鳴り響き、辺り一面が音で飲み込まれた。矢弾が地に伏せたビルの残骸を貫いて粉砕していく。造形物の破片が破裂し、吹き上がるように舞う。苔威にはちょうどよい派手さだった。
 磨弓は耳あてに手をかけ、通信モジュールを切った。
「跡形もなく吹き飛ばす! 騎馬兵は巻き込まれぬよう後方で待機! 超広範囲斉射を行う!」
 磨弓は右手を胸の前で握りしめる。信仰システムの駆動を高め、拳にエネルギーを集める。無機質の体に脈が走るかのように、熱い鼓動が響いていく。堪えるように、矢を握る磨弓の手に力がこもる。
 信仰の高まりが最高潮になったことを感じ取り、磨弓は目を見開いて第二射を投じた。矢弾は先ほどより奥の方へ、先ほどより圧倒的な範囲へ広がっていく。着弾とともに再度残骸を砕け散らせる。が、その一部は緑の閃光によって逆に矢自体が弾け飛んだ。
 カワウソのバリアである。
「そこだっ、騎馬兵突っ込め!」
 再度磨弓が通信を接続し、杖刀で行先を示した。遅れてきた騎馬兵らが兵長を次々と追い越し、地へと突き進んでいく。
「ぴえぇ〜!」と可愛らしい悲鳴とともにカワウソ霊らが逃げ出すが、騎馬兵たちは追いかけることはなく真っすぐ飛び続けた。元より兵長の命は人質を見捨てないことだった。
 続々と騎馬兵が着地し、報告を上げる。人質救出せり。
 脅しを交えた陽動作戦。策は見事に実行され、不利な天地は見事ひっくり返っていた。即座に考え着いたにしては会心の出来であったと磨弓自身、自負があった。
「こらーっ! 何してくれてんのさー!」
 ガレキを派手に吹き飛ばしながら、地中から姿を現したのは美天だった。体を起こしながら半ば這いずるようにして近くの騎馬兵へ襲い掛かる。が、その進路は矢弾の雨に阻まれる。
 踏みとどまり、空を見上げた美天へ磨弓が飛び掛かった。
「いいっ?!」
 磨弓の杖刀を美天は両手で構えた棒で受ける。衝撃に負けじと踏ん張っていたところに磨弓は二の太刀、三の太刀を振るって襲いかかった。
「ちょちょちょ、わっ、ほっ!」
 焦り顔ながらも美天は追撃から身を守り続ける。野生の反射神経は大したものながら、今の磨弓相手には分が悪かった。
 磨弓は棒術相手に距離を取るどころか、逆にかなり前のめりに接近して斬りかかっていた。長物はごく短い間合いでは取り回しが遅れる。しかし、一度でも美天に下がられれば形勢が変わりかねない。
 それならば逃がさぬよう、より深く間合いへ踏み込んでいけばよい。今の自分なら、それができる。磨弓は自分の力を、袿姫の造形である己をなにより信じていた。しかしそれ以上に──。
 磨弓は楽しかった。夢のように輝いた笑みで磨弓は刀を振り続けた。
「もうっ、なんでそんな強くなってるわけ!」
「私が袿姫様の作品だからだ! 袿姫様が私を信じ、背を押してくれたのなら、どこまでも美しく、強くいなければならない!」
「どんな理屈よー!」
 信仰の美しさは獣に分かるはずがない。
 いや、磨弓自身も見誤っていたことであった。人間に魅入られて、その戦術にかまけていた。その結果が先ほどの惨敗だ。しかし、学びの喜び、憧れ、自分自身で踏み出した研鑽が誤っていたわけではない。
 霊長園の空で見たあの美しさを身に着けるにはまだほど遠いかもしれない。けれど、そのことに気付いた磨弓は高みを目指して踏み出して行ける。
「あぁ、もう!」
 たまらず美天が大きく飛び上がった。棒を背に回し、片腕を掲げる。弾幕を放つ前動作だ。
 そんな鈍い動きを今の磨弓が見逃すはずがなかった。刀をしまい、地を割れんばかりに蹴りだして磨弓は空へ昇っていった。自身の体と空との摩擦で塵を吹き出すのを感じるほどの速度のまま、磨弓は美天へ目掛けて全身をぶちかました。
 衝撃。美天は妙な声を上げながら、放り出されるように吹き飛ばされた。完全に無防備そのものな美天の姿をガラスの瞳が捉える。この時しかない、磨弓は杖刀の柄に手をかけた。
 人には人の技がある。だが磨弓は埴輪だ。ならば埴輪には埴輪の技がある。
 すなわち。
 天地を合わせ、兵の和で戦場を繋ぎ、袿姫の信で斬り伏せる。
 体が震え上がるような衝動が磨弓を走り、推進力を全開にして美天目掛けて水平へ飛んだ。目算で距離と到達時間を捉え、柄を握り締める。美天の半ば呆けたような驚く顔が見えた。
 この瞬間に磨弓は喜びを感じている。今まさに、袿姫の造形の美しさがこの空に解き放たれることへの歓喜のあまりに叫んでしまった。もう、彼女は待ちきれなかった。数瞬さえ、惜しい。
 二人の顔が逆さまに相対した。
 体をねじり切るごとく翻し、踏み込む要領で推進を抑え込み、全ての力を使って全身を振り抜き、磨弓は渾身の信を刀に込めて振り切った────!

 刀身の閃きは、磨弓のレンズに焼き付くように、眩しく光り輝いていた。



「こんにちは」
「あっ、どうもー! 毎度ごひいきに」
 小鈴の出迎えの声に磨弓は微笑みで応える。
 鈴奈庵は清掃中だったようであった。ハタキを降っていた小鈴だったが、客人が来たとあって少し慌てるようにササっとそれを隠す。
「構いませんよ、埃が舞おうと私には影響はないので」
「いやぁ、流石に客を迎える気構えというか……今日は何かお探しですか?」
「何か里で流行っている小説などを見繕っていただければ、と」
「えぇ? それはまた……」
 気構えはどこにいったのか、小鈴は隠しもせず意外そうな顔を見せた。磨弓はというと不快に思うどころか、また自分が人並外れたことをしてしまったのか不安がよぎっていた。
「少し興味があって……何か不都合が?」
「あぁいえいえ! ちょっと驚いただけで! すみません、そういうことであれば……アガサクリスQなんてどうでしょう」
 その後の小鈴の解説曰く、里に住んでいる匿名作家でありミステリーなるジャンルの作品を執筆しているということらしい。人里での事件を追い、謎を突き詰める探偵という姿が磨弓には人間らしい戦いの姿に思え喜んで借りることにした。
 人里で今まさに作られている作品であり、人気を博しているという点も磨弓には魅力的だった。
「今まで読んでいた本に比べると俗っぽいかなぁという気はしてしまいますけど……」
「ええ。それならなおのこと、その本を読みたいところです」
 以前袿姫が文字による芸術は自身にも及ばぬ領域だと話していたことが磨弓の心に残っていた。
 袿姫でも作れない、人間だけの芸術。人間の輝きを知るにはより一層人間に近く、人間らしいものを知ることが大事かもしれない。これは他の誰でもない、磨弓の選択だった。
「まぁ、色んな趣向に目を向けられるのが本の醍醐味ですからね。あっそうだ。Qの作品は貸出のみとなっていて、人気作なので貸出期間も短いので了承くださいね」
「分かりました、ではこちらに」
 磨弓は風呂敷とともに代金として銀を一匁だけカウンターに置く。
「毎度どうも〜......前も思いましたけど、磨弓さんって気前良いだけじゃなくて丁寧ですよねぇ。いつもお金ピカピカに磨いてあって」
「綺麗でしょう? 袿姫様が作られた物ですから」
「あぁ、芸術の神様が作ったのならそりゃあ……ん?」
「ん?」
「……えっと、作ったんですか、お金を……?」
「はい、その通りですが……」
「…………」
「…………」
 翌日、霊長園へ紅白の巫女がやってきて第三ゲートは木端微塵になるまでに破壊されることとなった。
「どうも、人間が作るものは理解し切れないわねぇ」
 ガレキの山にてゲートの修復作業中のことである。
「地上の人間はみなお金を大事にしてるから、綺麗なものを作って増やしてあげれば喜ぶものだと思ったのだけどねぇ。ここの動物霊たちだってお金があればみんな使うものでしょう? たくさん増えたのならみんながお金を使えて喜ばしいことじゃないのかしら」
 袿姫はぶつぶつと独り言を吐きながら手を振るっていたが、その速度はまるで緩まない。手早くガレキを再利用しながら加工し、炎を操りながら次々と部材を焼き上げていった。
「巫女の話もいまいち要領も得ませんでしたし……なんだったのでしょう」
 猫車でたくさんの破片を運ぶ磨弓の顔も袿姫と同じくいまいち得心がいかない様子であった。
 袿姫らを調伏しにきた巫女自身、経済について学を修めておらず納得がいくだけの説明などできるはずもなかったのだが、人の生活に疎い二人にそんな事情まで汲み取れるはずもなかった。
「腑には落ちないけれど、これ以上ここが壊されたらたまらないし大人しくお金を作るのは当分やめておきましょ……まったく、生身の人間相手となると埴輪兵じゃどうしようもないわね」
「それは……申し開きもありません」
「あっ、責めてるわけじゃないのよ。仕方がないことだしねぇ」
 別の信仰をぶつけられれば埴輪兵は脆いということは創造主の袿姫が一番よく知っていることであった。
「あぁ。むしろ貴方としては生身の人間が攻めて来てくれた方が嬉しいのかしら」
「……怒りますよ」
 磨弓としては手合わせしたい思いもあるが、分の悪い相手と戦うほど間抜けでもなく、しかし兵士として逃げ腰になったようなことは言えるはずもない。まともな返答などできようもなかった。
 じっとりとした磨弓の目を見て満足したのか、袿姫は喉を震わすように笑った。
「ねぇ磨弓」
 そう問いかけた袿姫の笑みは先ほどまでとはまた様子が変わり、ちょうど新しい創作を始めて軌道に乗り始めた頃に見せるそれと同じであった。
「これからはもっと地上へ行ってみない?」
 磨弓にとって魅力的な提案であることは言うまでもなかった。
「よろしいのですか? いや、けれど活動しようにも資金が……」
「だから、資金を稼ぐためにも地上に行くのよ。作るな、って言われちゃったら集めるしかないじゃない。私が色々作ってあなたがそれを売りに行けば問題はないでしょう? そうねぇ、地上の人間はどんなものなら喜ぶのかしら。文字を書くのが楽になる道具なんていいかもねぇ、版木を使おうにも一つ一つ彫っていくのは人間の手では大変だろうし……」
 いつからか作業を完全に止め、つらつらと話していく袿姫を見守り、磨弓はあえて黙っていた。こうなった時の袿姫は自分の考えに夢中になるあまり、人の話はあまり聞かなくなる。
 要するに、袿姫自身が人間の道具を作ってみたいのだと袿姫の表情が物語っていた。何かを企むような少しいたずらっぽい笑み。
「楽しそうですね、袿姫様」
 つい言葉がしまったと磨弓は口を噤んだが、袿姫はちっとも不快そうにもなく磨弓に向き直る。
「あら、お互い様でしょう?」
 こちらの目をまっすぐ見た主の言葉に磨弓は少しドギマギしてしまうが、少ししてから気付く。頬を触ると自分がどんな顔をしていたのかよく分かった。
 磨弓は私に似ているかもしれない。そんな袿姫の言葉を思い出して磨弓はうつむき気味にはにかんでしまった。
「まぁ何か作るのが楽しいのは否定しないけどね……一番の楽しみはね、やっぱり貴方よ磨弓」
 そう語りだす袿姫の背から出てくる炎は彼女の高揚を表すかのごとく、湧き上がるようにだんだんと大きくなっていた。
「貴方と一緒に、貴方を作り上げるの。私にも想像つかない、貴方だって分からない、そんな芸術よ! 楽しい上に分からないって、こんなに素晴らしいことなのね! ねぇ、そう思わない?」
 炎が辺りを包み込んで作りかかった部材が焦げるほどに焼き付いていく。まだ加工できていないガレキまでも強く焼き付けられていき半ば暴走しているようであった。はしゃぎまわるように火が跳ね回っていく。
「そうとなればここの作業も終わらせないとねぇ、早く工房に行きたいわ!」
 袿姫は磨弓の返事も待たず、跳ねるような足取りでガレキへと向かってまた彫刻刀を振るいだす。さっきよりもずっと、軽やかで急くような手取りであった。
 しばらく立ち尽くして、磨弓は袿姫の背を眺めていた。すでに袿姫はガレキの山へと顔を向けて没頭している。けれど、磨弓のレンズには炎よりも明るい笑顔が焼き付いていた。
「えぇ……とても夢のようですね、袿姫様」
本作はもともとは壊れた磨弓合同「訳あり割れ磨弓詰め合わせ」へ寄稿予定のものでした。しかし合同誌に渡すにはあまりにも長編になったためそそわへ……
「磨弓が壊れるとしたらどうやって壊れるだろうか?」という考えから始まり、「やはり人間への憧れで信仰がぶっ壊れるのが一番いいな」と思い書き出していたので当初は磨弓が自害しようとしてもできないまま生き恥晒して袿姫からも見捨てられるバットエンドの予定でした。
私としてはそういった話も大好物なのですが、二次創作としてどうかと思い、なによりもうひとひねりした方が面白いのでこの形になりました。

戯れで知について語っている人間を磨弓に見てほしいので小鈴と阿求が登場しています。原作でもぜひ色々刺激を受けてほしいですね。
ケスタ
簡易評価

点数のボタンをクリックしコメントなしで評価します。

コメント



0.100簡易評価
1.100ひょうすべ削除
面白かったです。
ドヤ顔磨弓ちゃん愛しい
2.100東ノ目削除
磨弓の信仰が人間信仰に上書きされ始めたあたりで「あーこれは袿姫様ブチギレですわ磨弓割られますわ」と懸念していたのですが本作の袿姫はむしろ磨弓の変化をかなり肯定的に捉えていて器がでっけえ……と思いました。面白かったです
3.90奇声を発する程度の能力削除
面白かったです
5.100名前が無い程度の能力削除
大義と心根が丁寧に存分に描かれ、白熱したバトルが楽しかったです。信仰に強さが依存している磨弓が、人の書を読んで弱くなるというのも面白く、そこからさらに袿姫の鼓舞によって強くなる展開はなんとも熱かったです。
7.100南条削除
面白かったです
磨弓の成長が丁寧に描かれていて読んでいてとても楽しかったです
少しずつ人間を学んでいこうとする姿勢に打たれました
8.100のくた削除
このまゆけーき大好きです
9.100名前が無い程度の能力削除
面白かったです。王道なストーリーを描き切れていたように思います。
戦いのための機能を学ぶはずだった磨弓が、人間との交流でそれ以外の良いモノを学び、しかし一見無駄かに思えたそれが実際には戦いにも活かされるものであった……という、一連の流れが綺麗でした。
戦いのための機能しか知らなかった/求めていなかった存在が、最後には小説を求める流れ……王道な筋書きながら、陳腐にはなっていなかったのが良かったです。あきゅすずの持つ知的好奇心と単なる戯れが丁度良くないまぜになっており、磨弓に染みわたるのが見ていて気持ち良かったです。
100%普通に磨弓ちゃんを愛している袿姫も良いものですね。ありがとう御座いました。