その日、小鈴は鈴奈庵の裏で大量の紙束を検分していた。
「多いですねぇ」
紙束を含む大量の反故紙を荷車に積んでやってきたのは、稗田家の下男だ。
「阿求様が古い書庫の整理を始めたようで」
捨てると判断したものがここに運ばれたことになる。
よほどに使い込んでいない限り、使い終えた紙は再利用される。程度の良いモノは再び普通紙として使われ、程度の悪いモノは包装紙や鼻紙に使われることとなる。
再利用する前の紙を検分するのが小鈴の家、鈴奈庵の副業でもあった。ここで分別された古紙がそれぞれの職人の元で漉き返されることとなるのだ。
昔からの副業ではあるが、分別を請負っているのは鈴奈庵だけではない。
ただ、この数年で鈴奈庵には特別な役割ができた。
稗田家御用達という看板。
古紙には手紙などを書き損じた反故紙も含まれている。非常に内輪なことが書かれている場合もあり、内容によっては始末に困る。
稗田家ともあれば、個人的とは言いがたい事情も存在する。
幻想郷縁起に関する覚え書きや下書き、あるいは幻想郷の重鎮たる八雲紫や巫女である博麗霊夢との書簡、それらの反故紙など。人に見られると少々困ったことになるモノもある。
燃やしてしまえという話もあるが、一枚や二枚ではない。それに、閉じられた世界である幻想郷において物資の再利用は非常に重要な課題なのだ。
そこで小鈴である。
九代目御阿礼の子、稗田阿求の信頼厚い本居小鈴というわけだ。
小鈴ならお馬鹿なことはしてもおかしなことはしない。とは阿求の弁である。
稗田と付き合いのあるほどの友好的な妖怪や巫女とも既に面識がある。さらに、妖怪に対しても悪しき偏見は持っていない。というより、ちょっと危ういほどの興味を既に持っている。
仮に反故紙をいくら盗み読みしたとしても、今以上にはなりようがないのだ。言ってしまえば半分身内のようなものである。そして何よりも、阿求は小鈴の良心も信頼している。古紙の状態を確認するときにわざわざ中身を熟読することはないだろうと。どこかの新聞天狗とは違うのだとは、これも阿求の弁である。
ただ、阿求にも誤算があった。
小鈴の好奇心と能力、そして妙な運である。
好奇心は猫を殺すという言葉があるが、まさに小鈴は自分を殺してしまった。
下男が帰った後、預かった反故紙を検分していた小鈴は見てしまったのだ。
「なにこれ……」
『稗田家霧雨家婚姻の件』
正式文書ではなく覚え書きのようなモノ。
普段なら読むこともない無関係な反故紙の間に挟まっていたそれを、たまたま目に留めてしまったのは小鈴の妙な運。
特に探したわけではない。探したわけではないが目に留まってしまったのだ。
そして目に留まったからには読んでしまうのが小鈴、というより書痴たる性。
稗田は当然知っているとして、霧雨と言えば里の大店「霧雨店」、あるいは霧雨魔理沙。どちらも同じと言えば同じだが、どちらも「あっちとは関係ない(ぜ)」と答えるであろう、色々と取り扱いに困る人たち。
「ふむん」
覚え書きの内容自体は至極短く簡単なもの。
『互いの家に生まれた子供が異性ならば結婚させよう』との約束である。
なるほど、格の稗田、財の霧雨が婚姻によって結ばれるならば更に強力な体制となるのは間違いない。両家共に損な話ではない。
もっとも、産まれたのは同性、稗田阿求と霧雨魔理沙である。そこで話は自然消滅したのだろう。いや、そもそも正式に約束していたのかどうかも定かではない。単に夢想していただけともとれる。
書いたのは恐らく阿求の親か、祖父母の代。阿求自身はこんなモノがあると知らずに捨ててしまったのだろう。勿論、魔理沙も知るまい。
それどころか書いた本人すら忘れている、あるいは既に亡くなっているかも知れない。
とはいえ……
「阿求と魔理沙さんかぁ」
割とお似合いではないだろうか。と小鈴は思ってしまった。
同性婚という意味ではない。
もしもどちらかが男であれば……
いや。
いや。
同性でも。
女同士でも。
それは、別に、構わないのでは。
可愛らしい阿求と、美しい魔理沙。
それぞれが里人の噂に上がることもあると小鈴は知っている。
御阿礼の子でなく、魔法使いでなく、ただの可愛らしい女の子として。
その二人ならば。
結婚は出来ないかも知れないが。
それでも。
もし。
もし、魔理沙でなく自分だったら?
「いやいや」
小鈴は首を振った。
ちょっとおかしな方向に気持ちが傾いた。
同性が結ばれる道理はない。
「でも……」
同性が、阿求と魔理沙が結ばれる道理はない。
それは、自分と阿求でも同じ事。
でも、二人はお似合いだと思った。
では、自分と阿求なら。
自分は魔理沙ではない。美しい金髪と笑顔の魔法使いではない。
「あれ」
何故か涙が出そうになった。
おかしいな、と小鈴は自分を笑った。
「うん」
一人呟いて、小鈴は古紙の検分を続けた。
婚姻の覚え書きを袂にしまい込みながら。
捨てられない、と思った。違う、他の誰にも見せたくない触らせたくない。
捨てたくない、と思った。違う、他の誰にも見せない触らせない。
なくなってしまえば良いと思った。
違う。そうじゃない。
最初からこんなものがなかったら良かったんだ、と思った。
せめて、自分が見つけなければ良かったと。
「うん」
知りたくなかったな、と小鈴は思った。
関係ない。自分には関係ない話。
この話があろうとなかろうと、自分と阿求の関係には全く何も関係ない話。
勿論、阿求と魔理沙の関係にも。
「うん」
自分が酷くみっともないことをしている、考えている。と小鈴は思った。
あり得ない話を勝手に想像して勝手に嫉妬している。
友達同士の関係を捏造して嫉妬している。
まったく、みっともない。
みっともない自分がいっそ滑稽で。
だけど笑えない。
やっぱり、涙が出そうになった。
天井を見上げる。
何故か天井がぼやけて見えた。
みっともない。
本当にみっともない。
自分が情けなくて、自分に謝った。
「ごめん」
涙が出ていた。
「これ覚えてる?」
脱いだ服の下に隠していたモノを差し出してから、寝物語にしても馬鹿なことを聞いてしまったと小鈴は頭を抱えた。
「うわ」
案の定、阿求は呆れ顔でこちらを見てくる。
「あんた、誰に向かって覚えてるって」
「だよね」
阿求は小鈴の差し出した古紙を手にとってまじまじと眺める。
『稗田家霧雨家婚姻の件』
「何年前の話よ。捨てたか漉き直したと思っていたわよ」
「いや、なんか、捨てられなくて」
「そういうのをマゾって言うの」
「なにそれ」
「苛められて喜ぶ変態さん」
「誰が変態だこら」
小鈴は阿求の首元を囓る真似。
その頭を抱きしめながら阿求は答える。
「誰と言われれば答えるけれど。女同士で同衾してる本居小鈴さん」
「だったら、女同士で同衾している稗田阿求さんはどうなんでしょうかね」
「私はちゃんと自認してるもの」
「私も自認してる」
「マゾって認めたね」
「そっちじゃない」
あの日、たまたま姿を見せた阿求は魔理沙を伴っていた。ちょっとした貸しを取り立てるために、荷物持ちとしてこき使っていたのだ。
とはいえ阿求の側に取り立てて悪意があるわけでもなく、魔理沙としても借りを素直に認めて素直に従って、さらには何を思ったか伊達男めいた仕草までこなしていた。さりげなく阿求をエスコートする位置に立ち、鈴奈庵の入り口で傅いてみせたものである。
これが小鈴を決壊させた。
阿求と魔理沙はお似合いだと思いこんでしまったところにその仕草である。
小鈴がぽろりとこぼした涙に二人は慌てた。
「違う、誤解だ」
魔理沙の第一声である。後から聞いたところ、魔理沙にとってはよくある話だったらしい。特にどこかの大図書室の主や人形使いとの付き合いの中で。
「そういう、相手構わずの女たらし仕草はやめなさい」とはやはり後から話を聞いた巫女の弁である。
それに対して「わかったよ、お前だけにするぜ」と答えて即座に「だからそれやめろっての」と殴られたらしい。
「まあ、今や二人とも立派なお嫁さんになったわけだけどさ」
片や風変わりな道具屋の嫁、片や平凡な村の鍛冶屋の嫁。二人は今でも良い友達ではあるらしい。
巫女と魔法使いにとって、同性への憧れやお付き合いは女の子なら誰もが通る甘酸っぱくも淡い想い出の一幕。とうに過ぎ去ったお話。
だけど、別の二人にとっては。
「まあ、私たちはそこで停滞したわけだけど」
「なに、小鈴、後悔してるの?」
「してない」
あの日、阿求は小鈴の想いを知った。
そしてそれを受け入れたいと思う自分に気付いた。
後は驚くほど流暢に話が進んだのだ。
今の関係に後悔はない。周囲に隠している関係ではあるが、それを後悔したことは一度もない。
あえて後悔を探すならば、こうやって一緒に居られる時間がもう短いこと。いや、それは後悔ではない。それはただ哀しいこと、寂しいこと。後悔とは違う。
そして哀しいことはもう一つ。
身体をいくら重ねても、ただそれだけで終わること。
前者は阿求の血筋として、後者は人間の摂理として致し方ないとはわかっている。
二人が妖怪ならば前後ともに解決するのだ。おそらくは。
妖怪ならば、長の年月を共に生き続けることができる。
妖怪ならば、妖力を持って子を為せぬ事もない。
悲しいかな二人は人間である。
片や御阿礼の子、片やあらゆる文字を読める程度の能力の持ち主であろうとも、二人は所詮人間である。
時間については割り切った。短い時間とは言え共に過ごすことが出来るならと。
ならばせめて、と小鈴は囁いた。
二人の子がいるのなら、自分は残る人生をその子を縁に生きていけただろうに。
「ねえ」
阿求が囁きを返した。
ならばせめて、と阿求は囁いた。
二人の証を未来に望もうと。未来に生まれる者に託そうと。
いずれ阿求は十代目として再び生まれる。例え記憶の欠落があったとしても、それは阿求なのだ、阿求でなければならない。阿求だと小鈴は信ずる。それで充分。
異性であれば小鈴の血筋の者と結ばれよう。子を為そう。
かつての稗田と霧雨のように、ただし今度は二人だけの密約で。そして本気で。
いつの日にか、十代目でなくとも、十一代目でも、十二代目でも。二人の血筋が異性として位置づけられたその時に。
「だから貴女は……良い男と子を為して。私の、いいえ、私たちのために」
口づけと共に告げる阿求の言葉を小鈴は飲み込んだ。
飲み込んだ言葉を己の血肉とした。
これにて約定は成った。
「うん」
ああ、自分は阿求の死後、どこかの男と結ばれるのだ。
それが誰であろうと、生まれた子供が、あるいはその子供が、あるいはさらにその子供が、どこかの時代の御阿礼の子と結ばれるのだ。
いずれ必ず訪れる未来は素敵だと、小鈴は陶酔する。
「うん」
ただ、そのために自分の夫役となる男に対しては、ほんの少し申し訳なさを感じた。
だからせめて、優しく尽くそうと思った。
小鈴は、心の中でまだ見ぬ未来の夫に謝った。
「ごめん」
涙は出なかった。
ひとりで悶々としている小鈴がかわいらしかったです