その日は何もかもが違っていた。
鳥の唄声に目を覚ました少女がぼんやりと首を傾げる。さらり、ゆれる菖蒲色の髪。眠気の宿る薄目を開いて伸び一つ。
顔を洗い、桐箪笥の引き出し一つを丸々あてがわれた花の髪飾りを取り出して、髪に添える。
あさぼらけの挨拶と共に襖が開かれ、使用人が朝食の支度ができたと告げる。
長い廊下は冬の長い夜の記憶を吸って、寒々と静けさに満ちている。結露の残るガラス窓の向こうで、牡丹の花が雪に埋もれている様を、少女はしばし足を止めて眺めていた。けれど、かおる朝食の誘惑に堪えられなかったのか、滅多な足音も立てずに居間へと急ぐ。
洋風趣味の居間で席に着いた少女の前に、ミルクと焼きたてのトーストが配される。焦げ目に垂れたバターの色合いが、いよいよ二度寝を諦めて昇り始めた陽光を受けて鮮やかだ。
「日々の糧に感謝を」
主賓の着席をみとめた使用人が、サニーサイドアップの皿を配膳する。贅沢なベーコンのカリッと絶妙な仕上がり、一枚。少女の器用に扱う箸先が、つやりと膜を張った黄身の中身をこぼれさせる。ベーコンがオレンジ色の奔流に飲まれていく。少女は決断的な箸捌きでもってそれを白身より引き剥がすと、トーストの上にもてなして、両の瞳を輝かせた。
くすくすと、微笑ましげに使用人たちがその様を眺める。頬を赤らめながら、それでも少女は己の欲求に忠実に、ベーコントッピングのバタートーストを平らげた。もちろん、残された目玉焼きも含めて。
朝餉が終われば次は、居間に満ちるのはコーヒーの白い湯気と緩やかなレコードの吐き出す音色。それがなんという曲なのか、どんな世界で誰によって奏でられたのか、使用人たちは知らない。少女がどこからか買い付け、毎朝自分で選ぶ一枚。
しかし不思議とそれは、千変万化の日々の中にあって明察にその日の気配を奏していると評判だった。
コーヒーは、ミルクも砂糖も使わない。
苦味に少女の顔がしかめられる。それでも八割がた喫み終えた頃、響くは玄関扉を叩く音。快活と未来に満ちた若い音。
「少し、早かった?」
事実、コーヒーの最後の二割を少女は慌てて飲み干していた。しかし友人の気まずげな表情に、少女は黙って首を振る。
残雪の道に二人分の足音。
ざく、ざく、ざく。いずこより漂い来る焚き火のにおいに少女が顔をあげると、その先でツグミのつがいが飛び去っていく。それを子供のように追いかける友人の背を見る。たちまち息を切らす彼女はインドア系。くすりと溢れた少女の笑いにつられ、友人もまた相好を崩した。
けれど。
やがて雪道も途絶え、少女の足取りは市場通りのひといきれに合流する。朝食を食べていないのか、魅力的な朝市の出店を遊星めいて飛び回る友人。それを眺めつつ少女は、一軒の軒先で歩みを止める。
春遠からじと見た古着屋が、少し早めに春物を売り出していた。立ち尽くす少女の後ろを人の流れが過ぎ去っていく。
悩んだ末、少女は春色の一着を購入することに決めたらしい。すっかり満腹の様子で戻ってきた友人が、きらきらした目でそれを見る。
いつしか日は高くなりつつあった。
名残惜しげな友人を連れて朝市を後にし、少女は貸本屋の埃っぽいにおいに出迎えられる。たちまち友人は素早い身のこなしでもって、勘定場の椅子に座り直した。どこで拾ってきたものなのか、最新式のキャッシュレジスター。
少女が何冊かの貸本を引き渡す。すでに用意されていた別の何冊かを、代わりに受け取る。
友人は返却物のチェックのため、自分の世界に入っていった。
ぼんやりとした面持ちで店内を歩いて回る少女。引き伸ばされた時間。その瞳が捉える、青い青い背表紙。
『MOANA』
手に取ってみた本の重みに少女がたたらを踏む。紺碧の水溜りが描かれた表紙。震える手で少女がページを開くと、やはり青い水溜りのイラスト。その次も、エメラルドブルー。蒼く、碧く、あおく。
「それ、写真集だよ」
びくりと縮こまる少女の背後で、友人がにこりと微笑む。
「カラー写真の本なんて、どこから……」
「たまたまね。日頃の行いがいいから」
「そう」
「タイトルの読みはも・あ・な。海を意味するマオリの言葉」
「マオリって、なに?」
「さあ。私がわかるのは、それがマオリの言葉で、どんな意味かってところまで。マオリが何かは、辞書にでも聞いて」
「私の知ってる海とはぜんぜん違うな」
「きっと色々あるんだよ、海にも」
「たくさんの生き物がいるんだって……ほら見て、このページ。こんな虹色の魚、鳥に食べられないのかな? こっちはなに、沢蟹に似てるね……でもこんなに大きなのは、いないよね。いいなぁ。どんなだろう。海かあ」
「でも、海なんてどこにでもあるみたいだよ?」
少し怒ったように口を尖らせる友人が、貸し出し分の本を手渡す。それを受け取るためには、少女はありふれたシーサイドビューの写真集を棚に戻さなくてはならなかった。それを借りて帰るには、少女の持ってきた袋には大きすぎた。
そして少女は貸本屋を後にする。太陽はもう天中を少し通り越している。ぐう、と腹の虫の抗議の音。
雪道を踏みしだく一人分の足取り。ざく、ざく、ざくざくざく。まだ春の訪れは遠い。
出迎える使用人たちに貸本と春服を預け、昼食はいらなことを手短に伝える。そのまま少女は落ち着かない足取りで自室へと急ぐ。腹の虫がまた鳴る。
深いため息を吐き出す。
筆と紙を手に取る。
しばし、思い悩む。その間だけは少女の顔色からわだかまりが消え去る。
それからふと思い出したように立ち上がると、レコードを蓄音機にあてがった。が、今度は朝のルーティーンのようにはいかなかった。少し音を食んでみては、首をかしげ、丁寧にレコードをしまい、次の一曲を流す。そんなことを繰り返しているうち、少女の額に汗が滲む。
ハンガリー舞曲、展覧会の絵、亜麻色の髪の乙女、韃靼人の踊り、タンホイザー、亡き王女のためのパヴァーヌ、色とりどりなピアノ協奏曲……。
少女の知っている曲を在らん限り、流れも気分も拘らず右から左に垂れ流したような混沌の演奏会だった。それを引き裂く、酔いどれた濁声の歌。
『月がぁ……出た出た……月がぁ出た……あヨイヨイ……』
どっと少女が脱力する。聞き覚えのある酔い声たちに背中を押されるようにして、彼女は机に戻る。筆を手に取り直す。一文字目を紙に置くと、あとはすらすらとその手が動き出す。
ため息。それをかき消す歌声。月を見るにはまだ早い時間帯。
そして、宵時の挨拶と共に襖が開かれ、使用人が夕食の支度ができたと告げる。
はっとして顔を上げた少女の目元は濡れていた。書き記した成果を慌てた手つきでまとめると、曖昧に首肯する。
「なんですか、この歌は……」
首をひねる使用人を適当に追い返し、少女もまた立ち上がった。
長い廊下は相変わらず静けさに満ちていて、黄昏時の紅の、淡い閃光が染めていた。牡丹の花は水を得た妖のように凛として、雪はもう溶けていた。
今度はもう、少女は足を止めなかった。既に夕餉の支度された居間に着くなり、腹の虫がまたぐうと目覚める。
「日々の糧に感謝を」
控えめによそわれた白米。小ぶりな川魚の煮付け。漆塗りの小椀に満たされた味噌汁。それら全てを、少女は、誰よりも早くに平らげた。
使用人たちが目をまんまるに見開く中、細く白い腕が空のお茶碗を持ち上げる。
「おかわりを、お願いします」
そして夕餉が終われば、またレコードの音が奏でられる。今度の選曲には少女は迷いはしなかった。静かなチェロの旋律が響く中、コーヒーの湯気が収まるのも待たず、少女は椅子に腰掛け船を漕ぐ。モアナだ。エメラルド色の寄せ打つ波間がどこまでも続く。彼女は潮の風を受ける。その傍には友人がいて、潮風に本が痛むと嘆いている。船旅は永遠に続く。遠く水平線にマオリのカヌーの船団が見える。浅黒い日焼けした腕が力強く振られ、少女もまた手を上げてそれに応える。波の音がする。チェロの音がする。少女が目を覚ますと、コーヒーはもう冷めていた。
しばし命の洗濯を挟み、外はもう真っ暗い闇。寝巻きに着替えながら少女は、先ほどしたためた仕事の成果に目を落とす。その眉根が微妙にしかめられるが、用紙をぐしゃりと握り潰そうとする手が、すんでのところで止められる。
小さなあくびがひとつ。
丁寧な手つきでもって、花の髪飾りが桐箪笥の特等席にしまわれる。少し伸びをして、少女は布団に潜り込んだ。冬にしてはあたたかな夜だった。
それから……こんな日は二度と来ないだろう。そう思う少女の情念も、やがては、優しい夜の闇に抱かれて消えた。
鳥の唄声に目を覚ました少女がぼんやりと首を傾げる。さらり、ゆれる菖蒲色の髪。眠気の宿る薄目を開いて伸び一つ。
顔を洗い、桐箪笥の引き出し一つを丸々あてがわれた花の髪飾りを取り出して、髪に添える。
あさぼらけの挨拶と共に襖が開かれ、使用人が朝食の支度ができたと告げる。
長い廊下は冬の長い夜の記憶を吸って、寒々と静けさに満ちている。結露の残るガラス窓の向こうで、牡丹の花が雪に埋もれている様を、少女はしばし足を止めて眺めていた。けれど、かおる朝食の誘惑に堪えられなかったのか、滅多な足音も立てずに居間へと急ぐ。
洋風趣味の居間で席に着いた少女の前に、ミルクと焼きたてのトーストが配される。焦げ目に垂れたバターの色合いが、いよいよ二度寝を諦めて昇り始めた陽光を受けて鮮やかだ。
「日々の糧に感謝を」
主賓の着席をみとめた使用人が、サニーサイドアップの皿を配膳する。贅沢なベーコンのカリッと絶妙な仕上がり、一枚。少女の器用に扱う箸先が、つやりと膜を張った黄身の中身をこぼれさせる。ベーコンがオレンジ色の奔流に飲まれていく。少女は決断的な箸捌きでもってそれを白身より引き剥がすと、トーストの上にもてなして、両の瞳を輝かせた。
くすくすと、微笑ましげに使用人たちがその様を眺める。頬を赤らめながら、それでも少女は己の欲求に忠実に、ベーコントッピングのバタートーストを平らげた。もちろん、残された目玉焼きも含めて。
朝餉が終われば次は、居間に満ちるのはコーヒーの白い湯気と緩やかなレコードの吐き出す音色。それがなんという曲なのか、どんな世界で誰によって奏でられたのか、使用人たちは知らない。少女がどこからか買い付け、毎朝自分で選ぶ一枚。
しかし不思議とそれは、千変万化の日々の中にあって明察にその日の気配を奏していると評判だった。
コーヒーは、ミルクも砂糖も使わない。
苦味に少女の顔がしかめられる。それでも八割がた喫み終えた頃、響くは玄関扉を叩く音。快活と未来に満ちた若い音。
「少し、早かった?」
事実、コーヒーの最後の二割を少女は慌てて飲み干していた。しかし友人の気まずげな表情に、少女は黙って首を振る。
残雪の道に二人分の足音。
ざく、ざく、ざく。いずこより漂い来る焚き火のにおいに少女が顔をあげると、その先でツグミのつがいが飛び去っていく。それを子供のように追いかける友人の背を見る。たちまち息を切らす彼女はインドア系。くすりと溢れた少女の笑いにつられ、友人もまた相好を崩した。
けれど。
やがて雪道も途絶え、少女の足取りは市場通りのひといきれに合流する。朝食を食べていないのか、魅力的な朝市の出店を遊星めいて飛び回る友人。それを眺めつつ少女は、一軒の軒先で歩みを止める。
春遠からじと見た古着屋が、少し早めに春物を売り出していた。立ち尽くす少女の後ろを人の流れが過ぎ去っていく。
悩んだ末、少女は春色の一着を購入することに決めたらしい。すっかり満腹の様子で戻ってきた友人が、きらきらした目でそれを見る。
いつしか日は高くなりつつあった。
名残惜しげな友人を連れて朝市を後にし、少女は貸本屋の埃っぽいにおいに出迎えられる。たちまち友人は素早い身のこなしでもって、勘定場の椅子に座り直した。どこで拾ってきたものなのか、最新式のキャッシュレジスター。
少女が何冊かの貸本を引き渡す。すでに用意されていた別の何冊かを、代わりに受け取る。
友人は返却物のチェックのため、自分の世界に入っていった。
ぼんやりとした面持ちで店内を歩いて回る少女。引き伸ばされた時間。その瞳が捉える、青い青い背表紙。
『MOANA』
手に取ってみた本の重みに少女がたたらを踏む。紺碧の水溜りが描かれた表紙。震える手で少女がページを開くと、やはり青い水溜りのイラスト。その次も、エメラルドブルー。蒼く、碧く、あおく。
「それ、写真集だよ」
びくりと縮こまる少女の背後で、友人がにこりと微笑む。
「カラー写真の本なんて、どこから……」
「たまたまね。日頃の行いがいいから」
「そう」
「タイトルの読みはも・あ・な。海を意味するマオリの言葉」
「マオリって、なに?」
「さあ。私がわかるのは、それがマオリの言葉で、どんな意味かってところまで。マオリが何かは、辞書にでも聞いて」
「私の知ってる海とはぜんぜん違うな」
「きっと色々あるんだよ、海にも」
「たくさんの生き物がいるんだって……ほら見て、このページ。こんな虹色の魚、鳥に食べられないのかな? こっちはなに、沢蟹に似てるね……でもこんなに大きなのは、いないよね。いいなぁ。どんなだろう。海かあ」
「でも、海なんてどこにでもあるみたいだよ?」
少し怒ったように口を尖らせる友人が、貸し出し分の本を手渡す。それを受け取るためには、少女はありふれたシーサイドビューの写真集を棚に戻さなくてはならなかった。それを借りて帰るには、少女の持ってきた袋には大きすぎた。
そして少女は貸本屋を後にする。太陽はもう天中を少し通り越している。ぐう、と腹の虫の抗議の音。
雪道を踏みしだく一人分の足取り。ざく、ざく、ざくざくざく。まだ春の訪れは遠い。
出迎える使用人たちに貸本と春服を預け、昼食はいらなことを手短に伝える。そのまま少女は落ち着かない足取りで自室へと急ぐ。腹の虫がまた鳴る。
深いため息を吐き出す。
筆と紙を手に取る。
しばし、思い悩む。その間だけは少女の顔色からわだかまりが消え去る。
それからふと思い出したように立ち上がると、レコードを蓄音機にあてがった。が、今度は朝のルーティーンのようにはいかなかった。少し音を食んでみては、首をかしげ、丁寧にレコードをしまい、次の一曲を流す。そんなことを繰り返しているうち、少女の額に汗が滲む。
ハンガリー舞曲、展覧会の絵、亜麻色の髪の乙女、韃靼人の踊り、タンホイザー、亡き王女のためのパヴァーヌ、色とりどりなピアノ協奏曲……。
少女の知っている曲を在らん限り、流れも気分も拘らず右から左に垂れ流したような混沌の演奏会だった。それを引き裂く、酔いどれた濁声の歌。
『月がぁ……出た出た……月がぁ出た……あヨイヨイ……』
どっと少女が脱力する。聞き覚えのある酔い声たちに背中を押されるようにして、彼女は机に戻る。筆を手に取り直す。一文字目を紙に置くと、あとはすらすらとその手が動き出す。
ため息。それをかき消す歌声。月を見るにはまだ早い時間帯。
そして、宵時の挨拶と共に襖が開かれ、使用人が夕食の支度ができたと告げる。
はっとして顔を上げた少女の目元は濡れていた。書き記した成果を慌てた手つきでまとめると、曖昧に首肯する。
「なんですか、この歌は……」
首をひねる使用人を適当に追い返し、少女もまた立ち上がった。
長い廊下は相変わらず静けさに満ちていて、黄昏時の紅の、淡い閃光が染めていた。牡丹の花は水を得た妖のように凛として、雪はもう溶けていた。
今度はもう、少女は足を止めなかった。既に夕餉の支度された居間に着くなり、腹の虫がまたぐうと目覚める。
「日々の糧に感謝を」
控えめによそわれた白米。小ぶりな川魚の煮付け。漆塗りの小椀に満たされた味噌汁。それら全てを、少女は、誰よりも早くに平らげた。
使用人たちが目をまんまるに見開く中、細く白い腕が空のお茶碗を持ち上げる。
「おかわりを、お願いします」
そして夕餉が終われば、またレコードの音が奏でられる。今度の選曲には少女は迷いはしなかった。静かなチェロの旋律が響く中、コーヒーの湯気が収まるのも待たず、少女は椅子に腰掛け船を漕ぐ。モアナだ。エメラルド色の寄せ打つ波間がどこまでも続く。彼女は潮の風を受ける。その傍には友人がいて、潮風に本が痛むと嘆いている。船旅は永遠に続く。遠く水平線にマオリのカヌーの船団が見える。浅黒い日焼けした腕が力強く振られ、少女もまた手を上げてそれに応える。波の音がする。チェロの音がする。少女が目を覚ますと、コーヒーはもう冷めていた。
しばし命の洗濯を挟み、外はもう真っ暗い闇。寝巻きに着替えながら少女は、先ほどしたためた仕事の成果に目を落とす。その眉根が微妙にしかめられるが、用紙をぐしゃりと握り潰そうとする手が、すんでのところで止められる。
小さなあくびがひとつ。
丁寧な手つきでもって、花の髪飾りが桐箪笥の特等席にしまわれる。少し伸びをして、少女は布団に潜り込んだ。冬にしてはあたたかな夜だった。
それから……こんな日は二度と来ないだろう。そう思う少女の情念も、やがては、優しい夜の闇に抱かれて消えた。
雰囲気を楽しめました。
何気ない日々の中に差し込まれた炭坑節がすべてを持って行ったようで笑いました