Player:霧雨魔理沙(霧雨魔梨沙)
三分四十八秒。
それが制限時間。道具屋の隅で埃かぶっていたジュークボックスにぎっしり詰みこまれたレトロな音源の、いちばん最初にあったトラックの時間。その音楽をスタートさせるや、道具屋を飛びだし、里を一巡りぶっ飛ばして、曲が終わる前に店に戻る。
それだけの遊び。もちろん、できるだけギリギリの時間に戻れるように経路を設計しているつもり。往来の人々に損害は与えたくないけれど、だからといって安全な道を選ぶ気にはなれない。
なんでって、遊びってそういうもんでしょ。常に追い込まれていて、流れるように変化する状況の中で、確かな事と不確かな事が入り混じっているのを、上手に処理していく。裏路地を抜け、運河を走り、地面に接するくらい低く急激なターンのたび、軸足にしたブーツのかかとが削れる。たまには痛い目にも遭うけど、ゲームの高揚がそれを忘れさせてくれる。
なにより空気が心地良い。この土地のこういう、澄みきった空気だけは、文句なしに自慢していいと思う。
里のはずれに至ると、外周をぐるりする間に、伸びあがるように高度を稼ぎ、その高さから降下する加速で、香霖堂の前に滑り込む。このラストスパートが効率的な方法なのかはわからない。ただ気分がいいだけだ。
店内に飛び込むと、音楽は終わっていた。
「遅かったわね」
と霊夢が言った。ジュークボックスの横にあった、ピンボールの筐体に前のめりに寄りかかっていて、こっちなんか見向きもしない。フリッパーで打ち返したボールがキノコバンパーにぶつかって弾ける音の方が大事そう。
「霖之助さん、ちょっと外に出てくるって」
「お前はお留守番か」
私は自分の帽子を、店内の入り口あたりにあった、西洋彫刻のミニチュアたちのどれかにかぶせる。三体のダビデ像の、ホワイトメタル製の軽薄な縮小版――ベルニーニ・ドナテッロ・ミケランジェロ……いずれに帽子をかぶせたかは、クイズにしとくよ。答えは教えないけどさ(ただ、このあとで帽子を取った時、裏布をどこか尖った場所に引っかけてしまって、嫌な音がした)。
「あんたの実家にでも顔出してんじゃないの」
「いやな話を聞いたな」
いやな話なので、霊夢の推測に対する私の所感は省く。
そのまま私が香霖がいつも腰かけている場所に座ろうとすると、あいつはまた話しかけてきた。
「座る前にお茶淹れてきてくれない?」
「はいはい」
ひと飛びしてきたあと喉が渇いている事に、言われてみて気がつく。別に文句を言い返したりはしない。あいつの茶の方がついでだ。
店の奥に侵入して湯を沸かしている間、壁によりかかって、アルゴリズムとパターンについて考えていた。ジャガード織機とウィリアム・モリス柄について。動作する織機のメカニズムと製作物の有機性とを頭の中に描くのは、暇つぶしにはもってこいだ。
そのうち湯が沸きあがろうかというところで、表の方から「ちりんちりん」というドアベルの――いや、ドアベルを模した声で、茶目っ気たっぷりに来店した少女の声。たぶん幽香の声。
幽香は妖怪だけど、かなり少女らしい少女だ。超マイペースで、お花好きで、語尾に(はぁと)……なによりお仕置きが大嫌い。これは大事なことだ。少女っていうものはお仕置きを受けるのが嫌いだからだ。逆に少年って奴らは、お仕置きを受けるのを求めている……ま、被虐嗜好の女の子だって当然いるんだろうけれど、それは、その子の中の少年がそうさせているだけだろうな……ごめん、テキトーなこと言った。
ただ、幽香が少女らしい少女だという事と、愛のない(愛があればいいのか? という話になると、またややこしい事になってくる気がするけど)懲罰を受けるのをめちゃくちゃ嫌っている事だけは、まず間違いないと思う。そういう女。
私が二人分のお茶を持って店の表に戻ると、霊夢はピンボールの前から外されてテーブルに肘ついていて、筐体に向かう幽香の背中に、ぶっきらぼうに言い放った。
「……言っとくけど、この店は妖怪なんかのたまり場じゃないからね」
「不良娘のたまり場でも無いはずだ……」
先細るような抗議の声を聞いて、私は振り返る。いつの間にか香霖も戻ってきていたのだ。その手元に刻み煙草の包みを認めて、私は言いたいことをちゃっちゃか言っていく。
「あれ……おかえり……どこ行ってたの……煙草を買いに出ていただけか」
「僕に何も言わせないつもりだね」
幽香も幽香で、そのそばで自分勝手に話を進めていた。
「いいじゃない。私がどこに現れたって」
と、ピンボールに向かいながら霊夢に話しかけて、ふふふと微笑んだ。
「それにあなたたちとつるむのも悪かない。一緒に魔界征伐に行った仲じゃない」
「……ありゃそんないかつい行動じゃないでしょ」
霊夢はそう言うものの、実態は観光旅行と強盗遠征の中間のような行為だったのは認めなければいけない。私たちは魔界に突入して、現地の人々とちょっと勇ましくやりあった――そして、略奪者らしく振る舞いもした。……略奪って、なんの話かって? 幽香がちょうどそれを説明してくれる。
「しかし奪うものはちゃっかり奪ってきた。すなわち技術と人材、要するに人質」
そう、人質。あの金髪。
……というふうに勝手に納得している私と比べて、霊夢は首を傾げていた。
「なんの話よ」
「あきれた。あの、魔界の小公女よ」
幽香は言いながら、ピンボール台から目を離そうともしない。
「利用価値のあるお嬢さんなんだから、屋根裏住まいにしてこき使うのはやめておいた方がいいわ」
「こき使ってたのは私だけじゃないもん。だいたい、すぐ魅魔のやつに取り上げられちゃったし」
霊夢がぶすっと言った。私はそれを聞いて笑っちゃう。
あれを小間使い程度に思っているのは、霊夢くらいのものだろう。
コイン一枚でさんざ粘った末に、幽香は店を出ていった。
「……霊夢も魔理沙も元気がいいのは良いことだと思うけど」
香霖がぼそりと言いながら、手にした本をポンと閉じた。数秒前に開いて、また閉じたばかりの本のくせに、その音にはなにか話題に区切りをつける力がある。
「無茶はしない方がいいと思う」
「お茶飲んだから帰るよ」
「うちは喫茶店じゃないんだよ……」
「知ってる。だからお金なんか払わない」
香霖堂の外に出てみると、なぜか霊夢までついてきて、私に向かって尋ねた。
「このあとの予定は?」
こいつがそんなことを他人に訊くのは、珍しい。私は薄灰色の曇り空を見上げながら、
「特に無いわ」
と答えた。こいつ、のんきだけど別に馬鹿じゃないんだよな。
「……無いから、明日の朝まで付き合えるよ」
「そこまで付き合わなくていい」
霊夢は苦笑いした。だけど、未来のことをいってしまうと、私たちの付き合いはそれ以上続く羽目になっちゃうんだよなぁ。
「で、霊夢はなにかしたい事があるんだ」
「そこよ。魅魔の居場所は知ってる? あんた、そんなのでもあいつの弟子なんでしょ」
「弟子になった覚えはありませーん」
「うそつけ」
霊夢の苦笑いは続いたが、それはやがてクスクス笑いに変わっていく。
「……話す気が無いのなら、無理矢理喋らせてやる」
言うと、あいつは一本指をぴんと立てて、それから相互に指し示した。
「決闘よ」
数分後、私は自分のとんがり帽子の横っ腹にあいた大穴に指を出し挿れして、なんとなくその裂け目を広げながら、霊夢の先を案内していた。森の中は昼間でも薄暗い。薄暗いが、ぼんやりとした冷ややかな輝きがあるのは、この森にある鉱物や植物が、自ずと発光しているからだった。
「……なあ、霊夢」
「まず私の質問に答えなさい」
「あい……」
「魅魔のやつ、あの人質を使って何をやらかす気よ」
私はまず、なにをどう、説明をつけてやろうかと考えた。人質の使いようなんていくらでもある。
「……魅魔様のやり口は古典的よ。人質として無理に拘束したりはしない。むしろ行うのは積極的な援助。自由に使える金をやって、後ろ盾になる。魔界にも恩を売る。それで社交界にも顔を出させて――」
「社交界ってなによ」
私は少し言いよどむふりをしたが、結局すぐ言った。
「……妖怪たちの社交界だ」
「黒い繋がりを隠す努力を、ちょっとはしなさい」
霊夢は呆れかえったが、別に咎めるつもりもなさそう。どうせ、わかっている事だったのだ。
「私だってそこまで魅魔様べったりじゃないから、よく知らないんだよ。……でも、やる事は想像できる。魔界から連れ帰ったお嬢さんを、お仕着せさせて、連れ回して、見せびらかす」
「あー、やだやだ。政治、社交、そういったもののためのお付き合い……お酒をまずくさせる、いちばん手っ取り早い方法よ」
「私もそれは思う」
だが、まずく感じない女だっている。……私だって、きっと霊夢ほどにはまずく感じていないんじゃないだろうか。
「魅魔も幽香も、なんか変よ」
「まあ、あいつらも近頃の騒動で名を上げたせいか、ここらでもいっぱしの有力者になっちゃったからな。色々あるんだろ」
私は知った口をきく。あの悪霊や妖怪たちの移ろいなど、そういうものだとはたしかに知っているが、それでも戸惑うところが無いでもない。
「こっちは万年、普通の魔法使いと妖怪神社の巫女さんなのに」
「どこが妖怪神社よ……。はぁ、あいつらの事情はわかんないわ」
わかんないとは言うが、霊夢だって本当はわかっているんだ。自分の知り合いたちが、無邪気であることができる季節を、なんだか過ぎ去りつつある事くらいは。
そんな感傷はさておき、今度は私が質問するターン。
「……それで霊夢。いつも乗っていた亀の爺さん、どうしたのよ」
さっきの決闘の時から、ずっと気になっていた事だった。
「あー、あれ。隠居させたわ。もう歳だしね」
「ほんとに? あいつに乗っていなきゃ空も飛べなかったのに」
「あんただって、実は箒無しでも飛べるんでしょ。知ってるんだからね――それで、私もやってみたら、できた」
私は思わず噴き出してしまって、ついでにこの、魔法の森の瘴気をいくらか吸い込んでむせ返る羽目になった。
「なに笑ってんのよ」
「だって、なにもかもがテキトーすぎるからさ」
でもそれが良い。個人的には、霊夢にはこんな調子であって欲しい。あまり真面目な顔をしていて欲しくはない。魅魔様や、幽香や、私なんかが胡乱な事に首を突っ込めるのも、こいつが元気に素直に単純に、妖怪をしばき倒していてくれるからなんだもの。
こみあげてきた胞子混じりの痰を、そのあたりの木の根元に吐き捨てた。
「……魅魔様に命じられて、私んちに住まわせてるんだ」
「そうでしょう。そうでなくてはならないわ」
すべてお見通しといった口調の霊夢。
「だから幽香はあんたに釘を刺しにきたのよ」
「でも、屋根裏住まいにしてこき使ってるってのも心外だぜ」
私は帽子をかぶり直して、言った。
「すっごいわがまま娘だもん。めそめそしている割に図々しい」
「自己紹介みたい」
「なんか言った?」
「イワヒバリの声でしょ。こんな森にもいるのねえ……」
見えすいたごまかしだったが、どうでもよかった。
「それより、あんたが家を空けているのに逃げたりしないの?」
「図々しいって言っただろ。我が物顔にしてやがる」
霊夢を案内して自宅に辿り着いたとき、魔界からやってきた少女は、節くれだった木の枝に紐を渡して、洗濯物を干している。よりによって私のズロースだった。
「お茶が……緑茶が欲しいわ」
「茶葉はそっちの戸棚だぜ」
「わかったわ。紅茶ね」
アリスのやつ、私たち二人の要望を無視して、自分の飲みたいものの準備を始めた。……うちのどこにも紅茶なんてものがあるはずないのに。どこから貰ってきたのやら。
あいつ、そのうち家主の私よりも物持ちになるぜ。
「そいで用事はなに? あんたが、人質である私の待遇改善に動いてくれている国際人道機関とかなら、話を聞いてやるけど……ほんと、ここはひどい家。散らかってるし、女の髪の生乾きのにおいがするし、出るのは三食みんな和食だし……」
「悪口か?」
思わず言ってしまう。
「なにより、最初の頃はミルクも無かったの。ミルクの無い紅茶は野蛮よ。……今度、ここの外にレンガを積んで、パン焼き窯でも作ろうかと思うの――それで焼き上げたパンを作って、薄切りに切り分けて、トースト。そのこんがりとした上っ面に、マーマレードをたっぷり盛ってやるの。かじる時は、ちょっと品が無いけれどカリカリと音を立てさせちゃって……言ってるそばから腹が立ってきた」
「腹は空かせるものだ」
私はささやかな茶々を入れる。
そこに霊夢が口を挟んだ。
「それにしても、あんたって魔界でも偉いお嬢さんだったのね。通りすがりに絡んできただけの、変な奴だとしか思わなかったわ」
「偉くもなんともないわ」
屈託を押し隠そうともせず、アリスは不機嫌に言った。気まぐれのように席を立って戸棚に向かうと、そこから洋酒の瓶を持ってきた。強い生の酒が、どぼどぼひっくり返すほどの勢いでティーカップに注がれていく。霊夢が私の方に、もの問いたげな視線を送ってきた。私に聞くな、話がややこしい。
アリスは酒をぐいと飲み下すと、恨めしそうに言った。
「……あの女、私の事なんか全然かえりみたりしていなかったのに」
やがて日も暮れるほどに、三人とも泥酔してしまった。
「いしかねぬゐに くちみほそ のせもたむるは をゑれよら」
「ひゃはは」
そんな調子だ。なにが面白いのかさっぱりわからない。
「とますわこきや あんろえめ おてなひけゆふ さえつへり」
アリスは完璧にくつろいでいた。左膝を椅子の上に立てて、スカートの陰にあるべき下着があられもなく見える様は、夢見るテレーズのよう。
「……あの世界は、あの女の作り物だからね。そりゃあ娘と言っちゃえばそうだけど、一個人の箱庭の中じゃ、愛情に濃淡も出てくるってものよ」
だからいじけているんだろうな。
アリスの魔界における立場がにわかに引き立てられたのは、人質として幻想郷に連れ去られた後の事だ。魅魔様がそうさせた。有能で、見込みのある娘だと。奪っていった口で売り込むのも滑稽な話だったけれど、とにかく、そういった事を聞いたあの女――神綺のやつは、この小娘の地位を正式な公女にまで引き上げて、私たちにも無碍にさせられないようにした。
この値の釣り上がりは商売のそれだ。彼女は商品。売り物にふさわしい、お人形さんのような顔と手足を持っている。……媚びるような愛嬌はまったく無いし、私は可愛くないと思うけれど、そういうところが可愛いと感じる連中も、いるには違いない。
アリスは相変わらず繰り言を続けている。
「……夢子さんって人がいたでしょ。あれが神綺の最高傑作。私はその他の有象無象……だったはずなのに、私が人質になったとたん、急に大切な存在になったみたい」
なんというか、気持ち悪いよな。そういうの。
「おぼえておきなさい。あの女は恐ろしい女よ」
存じ上げております。
……しかし私も神綺を恐ろしい女だと思っているが、アリスとはちょっと受け止め方が違う。あいつは本気でアリスを愛している。私は魅魔様に使われて外交役をやらされて、ちょくちょくと魔界とこっちを往来しているから、知っている。
言っとくけれど、あの小娘が対外的に大事な駒になったから、ママが慌てて愛しているような素振りを始めた、なんて意味じゃないよ。そんな政治的な、俗っぽい、欲得ずくの理由なら、私だってあの魔界の母を怖がったりはしない。やな話だけど、世の中そういうものだよなと思いながら、ひっそりと軽蔑するだけだ。――だが、あいつの娘たちへの愛情は本物だろう。不気味でしょうがない。神綺の、たくさんいる娘たちへの愛情は、全部本物なんだと思う。あの女は(たしかにあの女なんて呼びたくなる)それを証明できる。その時が近づいている。
私はぼんやり酔った頭で、家の戸口の方をちらりと窺った。目ざとい霊夢が不審を抱いたのか、首を傾げる。
(こいつは勘が良すぎる)
咄嗟に、フォンテーヌブロー派のように霊夢の胸元に手を伸ばして、その衣服越しの乳首をひねり上げた。羞恥と痛みによってあいつの酔いが一瞬でさめるのと掴みかかってくるのは同時だったが、その時にはもう、魔界からの団体旅行客たちが家の中になだれ込んできていた。
「どういうことなのよ!」
酔っ払いのねばついた唾が、そんな叫びとともに飛んできて、私の顔にもかかった。それをぬぐう事はできない。腰かけた椅子の背に、荒縄で後ろ手に縛りつけられていたからな。
霊夢も私と同様に拘束されていて、むっつり黙り込んでいた。この場で一番の当惑を見せているのは、旅装の女の子たちに抱えるように持ち上げられて、着々と身だしなみが整えてられていくアリス本人だ。
「これはどういうこと? 説明しなさいよ! あんたら怖気づいたわけ? あの悪霊さん、私たち魔界の力を借りて、この郷をどうこうするつもりだったんじゃないの?」
私はそっぽを向いて、黙り込んだままだ。
……でも、そうなんだよなぁ。たぶん魅魔様、そういうつもりなんじゃないかな、なんて思う。
だとしたら、えらい事なのよ。
「なんか答えなさいよ!」
「いろはにほへと」
「ふざけてんの?」
「……近頃は魔界とこっち、旅行客の往来が多いからな。それはともかく、これで手打ちよ。あんたを心底愛しているお母さんは、たとえ私たちと全面的に対立してでも、損得抜きであんたを取り戻すつもりなんだ……私自身は、そうまでして敵対するつもりはない。だからうちらのややこしい関係は、これでおしまい。何もなかったの。それだけ。これ以上の説明をあんたにするつもりはない」
そのうちに、救出部隊の離脱の準備は整ったようだった。アリスは泥酔した人質から、泥酔した旅行客へと見事に転身していて(なんか違いがあるのか?)、抱えるように連れ出されかけていた。
「じゃあね。お里に帰って、しばらくおとなしくしてな」
「なにがお里よ! 魔界はこっちなんかよりずっと栄えているのよ!」
相手側としても、今のアリスには黙ってもらいたかったのか、一人がテーブルの上にあった酒瓶を取り上げて、無理矢理、そのお人形さんのような口へ酒を注ぎ込む。ごぼごぼむせ返った次の瞬間には、噴水のようにほとんどを吐き出してしまって、飛沫がその場の全員に降りかかった。
でも、ようやくアリスもぐったりと力を失ったようだ。私は言う。
「……地元の居心地がいいのなら、そこで楽しく、快適に頑張ればいい。お別れね」
「おぼえてなさいよぉ」
「さあ、憶えている自信がないな」
「……代わりに私が、できるだけ憶えておいてやろうかしら」
この展開にはさすがに思うところがあったらしく、霊夢がぽつりと言ったが、こいつはきれいさっぱり忘れてしまうたちだからなぁ。
魔界からやってきた神綺の娘たちに、アリスが連れ去られて、家は静かになる。縛られて取り残された私と霊夢にとっては、ぼんやりするしかない時間がしばらく過ぎた。
やがて、私は唇に挟んでいた魔界行きの旅券――去り際、女の子の一人が口に咥えさせくれた――を、ぷっと吐き捨てた。彼女たちは逃げきるだろう。計画通りに事が進んだし、あの旅券だって私にとって必要になるものかもしれないけれど、今のところはなんだか腹立たしかった。あがけばあがくほど、縄の締まりがきつくなってきたからだ。
「……あいつら、結び目を塩水で濡らして行きやがったわ」
「信用されてないのね、あんた」
霊夢はのんきにごそごそと身をよじり始めたが、その動きは見る間に大きくなった。
「ありゃ。縄が解けた」
……相変わらずこいつはデタラメすぎる。なんの参考にもならん。
それでも手助けはしてくれるだろうと思って、ちょっと思わせぶりな視線を向けるが、霊夢のやつは立ち上がると大きくのびをして、そっぽを向いてしまった。
「あーあ、あんたと付き合ってるといつもひどい目に遭うわ。……あらためてお茶でも淹れようかな」
「たすけて……」
私はあっさり方針を変えて、憐れみたっぷりに霊夢にへりくだった。……情けないけど、こいつにはこれが一番効果あるんだよな。
霊夢は少し苦笑いしながら、なにか縄を断つものを探してくれるつもりのようで、あちらの物置にふらりと入っていきながら、私に聞こえるように言う。
「はぁ……まあいいけど。それより魔理沙、これを魅魔にはどう説明するつもりなのよ」
こいつも別に察しが悪いわけではないので、これが魅魔様の意向に逆らった行動だと、気がついているようだった。
「どうなっても知らないからね」
私だって、知ったものかよと言ってやりたい。
この件、私はほとんど使い走りの外交官役しかやっていなくて、悪巧みをしていたのは魅魔様と――そしてアリス自身だ。あいつは新たな自分の立場に戸惑いつつも、積極的に利用しようとして、政治的に、俗っぽく、欲得ずくで行動しようとしていた。あんなめそめそ屋だけど、あいつにはあいつの野心があったのかもね。……あるいは、自分の境遇に順応できず、ちょっとおかしくなっちゃってたのか。
ま、そんな事はどうでもいいか。
「……魅魔様も怒りはするだろうけど、すぐけろっとしちゃう方だからな。ほとぼりが冷めるまで身をひそめるよ」
「呆れるわ。相手の冷めやすさを信じて反逆するだなんて……都合よく忘れてくれたところで、あいつはいつか、なにかの拍子に思い出して、むかっ腹が立ってきて、あんたは時間差でぶん殴られるのよ」
なるほど。示唆に富む考察だ。その時は霊夢も一緒にぶん殴られてくれないかな。
「……あと、もうひとつ訊きたいんだけど」
霊夢は物置の奥を漁りながら、続けて尋ねた。
「あんた、単に成り行きまかせで魅魔のやつを出し抜いてみたかっただけ、っていう気持ちも、あったりする?」
賢い。
超賢いぜこいつは。
「……そうとも言うかもな!」
やがて、霊夢は錆びて古ぼけた手斧を手にして、私の目の前に戻ってきた。そして「私の好みの方法は、ややこしい結び目をほどくよりかは、断ち切る方なのよ」とかなんとか言いながら、有無を言わせない振りかぶり。
そりゃ、結果的には怪我ひとつしなかったけどさ。
なにもかもがデタラメなやつだ。
「うちは家具の修理とかしているわけじゃないんだよ」
「お茶と駄弁りとゲームと音楽以外に何があるのさこの道具屋……」
「充分すぎるほどに満喫していないかい……」
人里外れの道具屋に、霊夢の一撃によって背の部分が破壊された椅子を持ち込んで店主とかけあっていると、やがて相手が根負けしたように言った。
「……繕い物くらいならできるよ」
「ちょうどよかった! 帽子のこのあたりが、ちょいとみすぼらしい事になっていたの」
「わあでっかい穴」
壊れた椅子は店に放置してやった。
私について店にやってきた霊夢は、店内の、テーブル筐体のスペースインベーダーにかじりついている。黙々と画面上の侵略者を撃破していく、あいつ。
「お前ほんと、そういうゲーム上手いよな」
「褒めてくれたって、うちじゃ匿ってやらないからね」
「だいじょぶ。潜伏先は他にも考えてるから」
最悪、魔界への亡命って手もあり。でもアリスに向かってあんなお別れをしちゃった手前、その足でのこのこ再会する羽目になるのは、気が引けるんだよな……
「さっさと魅魔に取っ捕まって、お仕置きされてしまえ」
「あんまり痛いのは好きじゃないのよ」
「それでも顔は合わせなさい。まずは当人と話し合うのよ」
「……香霖、聞いたか?」
霊夢のやつが対話を持ちかけているぜ――と、からかおうとしたら、言った当人もなぜか戸惑っているらしい。インベーダーを一匹撃ち漏らして、膝で筐体を小突いた。
「僕は繕いもので忙しいんだ」
「あっそ。……でもさ、話し合ってどうにもならないことだって、あるでしょ?」
「じゃあ決闘をしなさい」
霊夢は私の問いかけに、そう答えた。表向きは対話を勧めても、彼女が心底見たいのはもちろんそちらの方だった。
「決闘、決闘か……ほんと好きだよね、霊夢は」
私は苦笑いした。
「でもさ、そんなお遊びをしたところで、なにが変わるっていうんだ?」
反語的問いかけ。
それから数分間、あいつは不機嫌そうに黙り込んでゲームに専念していたが、うまくいかない事が多くて、最後には地上を失陥した。
「帰るわ」
霊夢が神社へと帰っていく道に、堂々と肩を並べて私は歩いている。
「……匿ってやんないって言ったでしょ」
「あてにしている方向が、お前んちと偶然一緒なだけだ」
嘘はついていない。教授たちはとうに帰ってしまったけれど、あの遺構はまだ神社のすぐそばにあるからな。
霊夢もすぐに、その事に思い至ったらしい。
「……あー、あそこか。そういえばあんた、あの後もちょくちょくあそこに出入りしていたっけ」
「色々と仕掛けもあるのよ。逃げ込めば、たぶん三日はもつ」
「あっそ。準備がいいのね」
そりゃあねぇ……。
「霊夢も、なんかあったら逃げてくるといいぜ」
「なんかあったらって、なにがあるのよ」
「魅魔様が、博麗神社を滅ぼそうとしたりとかね」
「ふっ、なに言ってるのあんた――」
霊夢は鼻で笑いかけたけれど、すこし眉を寄せた。
「どういう事よ」
「出会った相手はみんな敵対者だ」
そういう可能性もあるってだけ。
……ただ、そんな思いつきが、ここんところずっと頭の中でぐるぐるし続けている私は、なにかおかしくなっているんだと思う。
そのまま霊夢が黙りこくったので、神社までの道のりはなにも会話がなかった。魅魔様が突然目の前にやってきて、私をぶん殴るというような事すら、ない。それでも、なにか、いやな、きりきりする予感だけはあって、直後の有り様を考えると、私はのこのこ罠に嵌りに行っていたんだと思う。だって夢幻遺跡に到着してみると、遺跡はもの見事に崩壊していて、入り口は完全に潰されていたんだもの。
(魅魔様はこっちの行動を先読みしている)
私が、その状況が意味しているものを悟って地面を蹴って逃げようとすると、霊夢が私の腕を引っ掴んだ。
「待ちなさいよ」
あいつは言った。
「匿ってあげるから」
Player:博麗霊夢(博麗靈夢)
魅魔のやつが神社におとないしてきたのは、その夜更けのこと。
「霊夢ぅ、開けてよぉ、入れてよぉ」
おどけた調子で縁の閉じきった雨戸をばんばんと叩いてくるので、さすがに起きるしかなくなって(あとで魔理沙に「お前よくこんな状況でぐっすり寝られたよな」と褒められた。照れるわ。)、外と同じくらいの勢いで内から雨戸をガンガンと蹴り返した。うっせえぞてめえいま何時だと思ってンのよ人間相手ならもうちょいまともな時間に来なさいよとかなんとか言っているうちに、ついうっかり、雨戸を蹴り飛ばしてしまった。
外にばたんと倒れた雨戸の下から、魅魔が這い出してくる。
「……魔理沙いる?」
「いるわ」
隠す必要ないでしょ。
「そう」
魅魔は別に怒りもせず、屋内に上がり込んだ。失礼すぎる。
「どこだい? 押し入れの中? 屋根裏? 縁の下?」
横・上・下と、魅魔の指がせわしなく振られた。
「霊夢の抜け殻の中……」
さっきまで私が居た形を保って空洞になっていた布団から、同衾していた魔理沙が這い出してきながら言った。私はなんとなく、その上に腰かけてやった。
「……そして霊夢の尻に敷かれた」
「仲良いねあんたらは」
「霊夢が機嫌良くいてくれる間だけはな」
魔理沙が嫌味っぽく言ってくれるけど、んなわけないでしょ。私いま、超絶不機嫌よ。
魅魔が口を開いた。
「ここに来るまで、大変だったわ。そのへんの野良をついでにのして、魔界に行って、戻って……幽香にも会ったな。だから、ここに来るまでに四人抜き」
「霊夢が五人目、私が六人目ってわけか……」
魔理沙が低く囁くようにぼやくと、その内臓が私のお尻の下で動くみたい。
「……あんたなに無駄に良い声出してんのよ?」
「霊夢に乗っかられているせいで、こんな声しか出ないの!」
ふうん。けっこう好みの声なのに。
「……それはそうと、魅魔はどういうつもりよ」
とにかく、押しかけてきたやつの相手はしなきゃいけなかった。
「魔理沙を引き渡してもらえれば、それでよろしいわ」
「本当? 本当ならそれでもいいんだけど……」
「おいふざけんなよ……」
腰の下で魔理沙が抗議するのが、なんだか私の芯を刺激するようで、ぞくぞくする。
「でも、あんたが博麗神社に復讐するつもりだって聞いたからね」
「誰に?」
「魔理沙に」
「じゃあ全部そいつの、でたらめよ」
魅魔は面白がっているみたいだった。
「だがそうか……復讐ねぇ。思いもしていなかったけれど、実際そうなるかも」
「はぁ?」
「あんたを困らせるのが復讐になるなら、これは復讐なのかもねって言ってるのさ」
「もう既に困っているわ。主に魔理沙のせいだけど」
「もっと困るんだ」
魅魔のやつ、そんなことを言いながら嬉しそうに、すうっと神社を出ていった。
意味深な、しゃらくさい事言いやがって。
こういう奴らがいるから、私はこの世界のすべてをぶちのめしてやりたくなるのよ。
蹴とばした雨戸は建てつけが悪くなっていたけれど、二、三回ほど下枠のあたりを蹴りつけて、なんだかいい感じにする(魔理沙には「壊すのも直すのも足って、足癖が悪すぎる」と言われた)。それから二人で一つの布団に横になって、寝つけないまま、ぼんやり天井を眺めていた。
「……魅魔様がやろうとしている事は、おそらく在野の妖怪たちの糾合だ」
魔理沙が、隣でぼそりと言った。
「山の方にいる、古風な妖怪さんたちに対抗しようとしているんだろう」
「お山ねぇ……ほとんど関わり無いから、よくわかんない」
別に、関わり無いならそれでいいとも思っていた。今だって、わざわざ首を突っ込むのも馬鹿馬鹿しい。
「あの山もさ、昔は色々あったらしいよ……私も偉そに言えるほどは詳しく知らないし、ほとんど又聞きだけど」
「そういう話を、妖怪たちとの社交の中で仕入れていたの?」
「みんな忘れっぽいし、自分に都合の良い話しかしやがらないけどね」
あんたそっくりよ、そういうの。
思わず笑ってしまいそうになったけれど、他の事の方が気になった。
「で、今、山でなにが起こっているのよ」
「率直に言うと、わからん。私も色々付き合いの手を伸ばしたけれど、あの樹海の向こうは謎だ」
こいつ、ワタクシは物知らずですと、偉そに言うじゃない。
「話にならないわ。それで、どうして私が今以上に困るのかしら」
「困らないわけがないだろ」
「でも復讐といえるほどは、困っちゃう気がしない。……だいたい、妖怪同士の諍いなんて、勝手にやってなさいよ。どうせ郷を崩壊させるほどじゃないでしょ、あんな雑魚どもが息巻いたって」
私が鼻を鳴らしたのを見て、魔理沙は笑った。
「果たしてそうかな」
「たとえ太古のおとぎ話のような力が奴らにあったとしても、私はぶちのめしてやるわ」
「つよい」
「当たり前でしょ。私は人間だもの」
人間が妖怪なんかに負けるわけがないでしょ。
「……妖怪といえば、幽香はどういう立場なのかしら。あんたに釘刺してたし」
「わからないけど、たぶん……あいつ、ああいう物騒な性格の割には、ややこしい事は嫌いだと思う。霊夢と同じタイプだな」
「どういう意味よ」
そっちの方がよほど健全だと思うわ。
「ともかくさ、わかんない事が多すぎる」
そう言いながら、魔理沙は布団の中で足を組み替えるように膝を立てた。引っ張られた布団から、私の足先がはみ出す。寒い。そこからしばらく布団の取り合いがあった後で、最終的に、どう考えても二人とも損をしているとしか思えない寝相になってしまった。
アホくさ。
「……わかんない事が多すぎんだよ」
魔理沙は、さっきと同じ事を言った。それがお気に入りの言葉になったのかしら、このオウム。
それにしても、このままちょっぴり寒々しい思いをしながら夜を明かすのか……なんて思っていると、外の方はもう朝の気配。
屋外の、境内の方で、物音がした。新聞配達さんみたい。
建てつけが悪くなった雨戸をふたたびぶち破った私たちは、配達にやってきた鴉天狗を、二人がかりで捕らえた。
「ぁ? ゃ?」
相手はあくび混じりにとぼけた声を上げて、それからちょいと抵抗したけど、魔理沙が縋るように取り押さえているところを、私が破れた雨戸でぶん殴ってやると、すぐ大人しくなった。
「……ちょうどよく、山の方の事情を知っていそうな奴が現れたじゃない」
「あまりに無法すぎる……」
とは言うけど、あんたの行動もめちゃくちゃだわ魔理沙。
「で、夜分遅くになんだこいつ」
「明け方早くの怪文書屋よ」
当時、私はそう認識していた。新聞屋さんだってわかったのはずいぶんあとの事。だって、こいつの書いているものなんて、どう考えても怪文書じゃない。
「とりあえず起こすか」
「血が出てるけど、勝手にこけたって事にしましょう」
私たちはそう言い合い、気を失っているそいつの膝を、思いきり蹴り上げた――ここを蹴とばされて目を覚まさないのは、死人か、目下死人に近づいているか、はなから感覚が無いやつだけ。
「……痛ったぁ」
勝手にこけたから痛いのよ。
「……急にうちから出てきて、悪かったよ。そしたらそっちがびっくりして、ずっこけたんだ」
魔理沙が図々しく言った。
「そうでしたっけ」
ブン屋(こう書いておけば、新ブン屋だろうが怪ブン書屋だろうが、間違いなくブン屋でしょ)は、頭からたらたらと血を流しながら言った。どうも意識が混乱しているらしい、かわいそうに。
手当てしてやりましょう、と言いながら私たちはブン屋を屋内に引きずり込んだ。
「あんた山からきたんでしょ」
「霊夢、治療が先だぜ」
「やりながら話を聞けばいいでしょ」
そう言いながら、寝所にある箪笥から、傷薬やらなんやらを取り出す。
「私、妖怪退治してんの」
「知っています。あなたは妖怪の山でも有名ですから」
「あんたは無名ね」
「つれないですね。こんなに新聞をばらまいて、名を売っているというのに」
「よそでどんなに有名だろうと、私が知らなければ無名と一緒よ」
やっぱり怪文書屋だわ。
「……そういえば、あんたの事、少しは知ってるかもな」
赤チンつきの脱脂綿をピンセットでつまんで振り回しながら、魔理沙がブン屋の基本情報を言い連ねた。名前、種族、職業、所在地、それに身長、スリーサイズ。
めちゃくちゃ知ってんじゃん。
「天狗の中じゃ変わり者だって聞くぜ」
「変わり者でなければ、山の外まで名は聞こえないでしょう。我々は――あー、ちょっと内向きの社会なんで」
自分がそうでない事を誇るように言うのね……なんて思いながら、私はちょっとだけ、ブン屋さんの気つけ用に(うそ。私もちょっぴり飲みたかった)おささを持ってきてやろうと気遣って、奥に引っ込んだ。
戻ると、魔理沙がブン屋に羽交い絞めにされて、人質に取られている。
「ありゃー、魔理沙……油断したわね」
「たしかに不覚だった」
魔理沙はあくまで現状を受け入れているように、虚無的に言った。
「私だって、ぶん殴られて蹴っ飛ばされたんです。これくらい当然の仕返しですよ」
「バレてたか」
ブン屋は不敵に微笑んで言うけれど、なんとなく、本気で対立するつもりはなさそう。
「あっそ。……このお酒と交換条件で魔理沙を解放ってことで、どう?」
「いいですよ」
「私は酒と等価かぁ……」
その減らず口、いつか身を亡ぼすと思うわ魔理沙。
「うええ、私たちのことがもう記事になってる」
ブン屋の新聞記事を読みながら、魔理沙はこぼした。こいつが言う私たちの事っていうのは、もちろん、昨日の魅魔やらアリスやらとのごたごたよ(運よく、私の名前は記事の中にはかけらも出ていなかった。まあ本当に関係ないんだけど)。
「なんかいやだなぁ……」
「といっても、こんな記事、山の中では、だぁれも興味を持ちませんがね」
ブン屋が新聞を奪い返しながら、つまらなさそうに言う。社会への不満って感じの言い方。
「みんな、外のことに興味なしなんですね。自分たちの内輪でなにもかも話を回して、自給自足できているような顔をしています」
ような顔ってことは、できてないんだ。
そんな調子で、こいつの不満たらたらな胸の内をもっとくすぐってみたいけれど、あまりやりすぎると今度はむっつり口を閉じてしまいそうな気もした。そもそも私、天狗たちの内情なんかに興味ないし。
「……ま、社会への愚痴ばかり言っていてもしょうがないわ」
「んだな」
魔理沙が女の子っぽくない、与太郎めいた相槌を打ってくれた。最近のこいつは、酔うとこんな感じ。あんたが男っぽいのも嫌いじゃないけど、あんまり男の子になってしまうのも良くないと思うわ。
そんな事を思っていると、ブン屋がぼそっと、言い訳めいた呟き。
「近頃は山も男社会なんでね……」
それで全部、説明がつくような顔をしているの。そんな事はあり得ないはずなのに。
「私も女性活動家になってやろうかって思うくらいですが……まあ、女子供と軽んじられているからこそ、こうした勝手な活動も目溢しされているので」
「ふうん。サフラジェットな話だ」
魔理沙が言う。急に知らない横文字を使わないで。
夜が明けきる前に、天狗はお山に帰っていった。門限でもあるのかしら。
私と魔理沙は奥の台所に引っ込んで、お茶漬けを作った。茶を沸かした釜がまだふつふつと熱気を立てているのを感じながら、私たちは冷や飯と塩辛い菜っ葉漬けに、番茶をぶっかけただけの朝食をすすり込んだ。
「……なにひとつわからん」
魔理沙がお茶漬け(隙間だらけの、まったく重みを感じさせない、熱い茶の中で軽やかに舞ってほとんど液体化している米粒)をさらさら飲み下してからそう言ったけれど、私はそれを鼻で笑ってやった。
「そりゃ、わかるわけがないでしょ。何も起こっていないんだからさ」
「でも魅魔様はなんか起こそうとしているぜ。霊夢を困らせようとしているかまではわかんないけど……」
「あいつは何も起こせやしないわ」
そう言って魅魔を嘲笑うつもりだったのに、不思議なことに自分が冷や水をかけられた気がする。
「あいつも昔はさ、この神社どころか全世界への復讐だなんて吹いてたけど、なんにもできなかった女じゃない。いっつもそうよ。結局、最後に照れが勝っちゃうんでしょうね」
「……懐かしい話を持ちだすなぁ」
すると魔理沙は、話の内容よりも古さについて思いを巡らせ始めた。そういえば、こいつも初めて出会った時はその頃だったっけ……なんて、私の方にも魔理沙が抱く懐かしさが浸透し始める。
「まあ、そうか。あんなもの、女子供のごっこ遊びでしかなかったもんな」
そんなもので世界を変えられるわけがないでしょと言わんばかりに、魔理沙が呟いた。よりによってこいつがそんな事を言うのを聞くと、鼻の奥にすっぱいものが滲み出てくる。
ほんとは否定して欲しかったのよ。
まるで七世紀のように、一週間が過ぎた……っていうのが、あの時期を説明するときの、魔理沙お気に入りの言い回しだったっけ。私たちはたまにはつるんだり、別の場所で別々の事をしていたけれど、その一週間はまったく没交渉。でも、そういうことがあっても当たり前よね。他人なんだもん。
「魔理沙は最近来てないよ」
ある日香霖堂に顔を出してみると、霖之助さんがそう言った。そういえば私もしばらく会っていなかった。
「……最近にも、基準が色々とあるんだけど?」
妖怪基準の最近だったらたまんないからね。
「ここ一週間、といったところかしら」
私が疑問を投げかけたら、思いもしていなかった方向から答えが反射してきた。幽香だった。店の隅っこにある、テーブル型筐体のブロック崩しゲームで遊んでいる。
「あの子、まだ魅魔に追っかけ回されてるんじゃないかしら」
「そりゃ結構なことね」
カワイソーなんて思いながら、私は言ったのよ。すると幽香が笑った。
「巫女さんがのんきなのも困りものよね……ま、いつも通りか。妖怪たちが何かを目論んだところで、無視して、見て見ぬふりしちゃえば、勝手に萎びていくもの。妖怪退治なんて、ほんとは必要ないものね。妖怪連中なんてその程度の存在よ。あなたは正しい」
「私とお話ししたいの?」
「どうかしら。あなたの意見を聞く気はないわ」
「……あんたらがどういう魂胆だろうと、そんな幼稚な煽りで」
と私が喋りかけたところで、幽香は言いとめた。
「私は、その“あんたら”の一味じゃないわ。個人的な独り言よ」
実態はどうあれ、そういう体で話したいようだった。
「……霖之助さん!」
「あいよ」
「コーラフロート!」
「私はクリームソーダ」
「内緒だけどうちは喫茶店じゃないんだ」
店主はぼやいたものの、結局注文そのものが出てきた。そんなのだから魔理沙なんかに舐めた口きかれんのよ、森近霖之助。
ともかく、二品が向かい合う形で、ブロック崩しの筐体の上に置かれて、それで話す準備は整った。私は自分の飲み物のコーラフロートにすぐ手をつけたんだけど、幽香はそれをのんびり見つめていて、自分のクリームソーダには手もつけず、ゆっくり、バニラアイスがメロンソーダを白く濁らせながら完全に融け去っていくのを待っていた。そういう飲み方が好きみたい。気持ち悪っ。
「……独り言を始めていい?」
と幽香が尋ねてきたのは、私がコーラの上のバニラアイスを、あらかた食べてしまったあとだった。
「独り言に許可なんて必要ないでしょうが」
私は言い返して、ずずずずずと音を立ててコーラを啜った。
「それじゃあ独り言を始め(ずずずずず)。話を聞きなさいよこの(ずずずずず)……」
ささやかで無邪気なサボタージュを阻まれたので、私はブロック崩しをやりながら話を聞く事にした。
「魅魔のやりたいことは、この土地における主導権を握る事よ」
「んなもん見りゃわかるわ」
まったく、誰もが世界を操りたいのよね。
「……しかしながら彼女には足りないものがある。すなわち、山に引っ込んでいる妖怪たちを率いるだけの、格式」
私は何も答えなかった。ディスプレイ上のボールの反射に集中し続けている。
「同じ妖怪といっても、あちらとこちらじゃ、羊歯と蘭くらいありようが違うわ。向こうは古典的な、昔ながらの、由緒のある妖怪……どうせ仮冒と僭称を繰り返したいいかげんなものでしょうに。それでも気位は高い。そいつらと対等なつもりになるなら、格式は超大事よ」
「あんたらには無いんだ」
「必要としていないと言ってちょうだい。私はああいうのはご勘弁よ……彼らの種族的紐帯は枷になることも少なくない。自分たちは恐らくこうなのだろうという、はなはだ頼りなく曖昧なものにすぎなかった同族意識が、こうであるべきだ、こうでなくてはならないという、厳格で教条主義的な定義を求めていく過程で、自分たちの存在を縛っていくものね」
「なにが言いたいのよ? あんたはどの立場でもの言ってるのよ?」
「私はただただ妖怪さんよ。それだけ」
ああそう、と私はぶっきらぼうに言い返すしかなかった。
「じゃあ勝手に妖怪さんを名乗っておきなさいな。私は人間さんよ。あんたらの定義問題なんかに、巻き込まないでちょうだい」
「ふむ」
幽香は少し考えこんだ。
「定義の話か……では私たち妖怪と対比するとき、あなたたち人間とはどういう存在になるかしら?」
「当たり前でしょ。妖怪を退治する存在よ」
「ぶっぶー!」
両手指を交差させ、腹の立つ表情とテンションで幽香は不正解を宣言して、続ける。
「あんたらなんかただの妖怪の糧よ」
幽香の一言を聞いて、私はブロック崩しの筐体を勢いよく蹴りつけてしまった。よくない衝撃だったんでしょう、プレイ中のゲーム画面が、ぶっつんと切れた。
「……そんな事を言うやつがいるのなら、私は順番にぶちのめしていくわ」
「その時、あなたが最初と最後に出会う敵は、きっと妖怪ではなく人間たちでしょうね。しかしまあ……腹が立ったでしょ?」
「ふん、欲しかった反応だった?」
「まあね。ムカついた?」
「ええ。超ムカついたわ」
「でしょうね。それで、みんな、そんなふうにムカついてるのよ。お前らはこうだって、押しつけるように決めつけられてはね」
「そういったご不満は、
ご自分で、
ご勝手に処理して欲しいわ」
「お前なんかこの世界にいなくていいって、そう言われて、みんなムカついてる」
「人の話聞きなさいよ。勝手にするがいいって言ってるの」
「あんたに言ってんのよ博麗の巫女」
「…………」
「そうやって、また消えていくつもり?」
「消えやしないわ」
「じゃあ、先の博麗の巫女や、更にそれ以前の巫女たちが、どんな女で、どんな人々だったか、知ってるの? みんな消えちまったわ」
「私は消えたりなんかしないって言ってんの」
「分の悪い賭けね。それで今まで負け続けているのに」
「ちゃらちゃらしゃらくさい事ばかり言いやがって」
と言って、私は立ち上がった。それでも幽香は柔らかな笑顔を維持している。
「そのムカつきは、私にぶつけられるべきものかしら?」
「あんたが煽ってるからそうなんでしょうよ」
「おかしいわ。私は独り言を喋っているだけ。なのに彼女は、どうしてこんなに怒るのかしら……」
私はこいつの胸倉を掴んで、店の外に引きずり出したかった。手も出かけた。それができなかったのは、幽香が、絶妙な間ですっと立ち上がったから。
「悔しかったら、あんたが全員ぶん殴ってでも、どうにかしてみなさいよ。……できなければ、博麗の巫女なんてものはこの世界から不要よ。そうなれないあんたらなんて、実を結ぼうとせず、見捨てられ、必要とされなくなって、あとはもうその場からいなくなってくれるのを、みんなから待たれているだけの存在」
私はまたしても手を出しそうになったけれど、またしてもそれがかなわなかった。机をぶっ叩くものすごい音が店内に響いて、私も幽香もそちらに顔を向けてしまった。
「……蚊だよ。耳元でぷんぷんうるさかったんだ」
絶対嘘だわ霖之助さん。
「逃げられちゃったけどね。ま、いいや。独り言を続けな、お嬢さん」
「独り言は勝手に終わらせられるから独り言っていうのよ、お兄さん」
そう言って悠々店から出ていこうとした幽香の顔面に、香霖堂の扉が内開きにめりこんだ。
あんたのそういう、間が良いのか悪いのかよくわからないところ大好きよ、魔理沙。
「いけね……どういう用事でここに顔出したのか、ド忘れしちゃった」
ひと騒ぎしたあとで、魔理沙がぽつりと呟いた。
店内の雰囲気は、ちょっと気まずい。霖之助さんは奥に引っ込んでお茶を用意していて、幽香は鼻の穴から紐をぷらつかせて、むっつりしている。
タンポンを鼻血止めに使うのは魔理沙のアイデアだった。アホか。
「いい気味だと思ってるでしょ」
「別に」
本当に思っていなかった。たしかに幽香には手ひどく侮辱されたけれど、時間をおいて、まあ言われてもしょうがないかって気分になってきていたし、こいつだって言いたくて言ったわけじゃないって、わかってるもん。
「私を煽り倒して、やる気にさせたかったんでしょ」
「まあね」
幽香が鼻の詰まった声で言った。
「個人的に、あなた自身の気持ちをちょっとつついてみたくなったのよ。少なくとも魅魔の目論見はそうだったんでしょ、魔理沙」
「よくわからんけどね」
魔理沙はえらそうに、はっきりしない答えをした。
「あんたが思っているほど、私はあいつとつるんじゃいないんで」
ついに魅魔の事をあいつ呼ばわりし始めた魔理沙。
「……でも、博麗の巫女の値をつり上げるつもりだったのはわかる。それも多分、最初っから――おっと、香霖の顔を見たら用事を思い出した」
霖之助さんが奥からお茶を持って戻ってきたのを見ると、魔理沙は話を中断して、スカートの中からごそごそ取り出したものを店主に投げつけた。
「それ、もっとパワーアップできるかなあ?」
霖之助さんは、受け取ったミニ八卦炉をまじまじと眺めて、答える。
「……君の経験値が充分に溜まっていて、なおかつ特定のマジックアイテムがあるなら」
「それならたんまり、店開きできるくらい。さいわいここ数年、怠惰でのんきな友人のおこぼれにあずかる事ができたんだ」
「待ちなさいよ、魔理沙」
私は話を引き戻さなきゃいけなかった。
「最初からって、どこの最初からよ」
「出会った時に決まっているでしょ」
幽香が話を引き継いだ。
「当代の博麗の巫女に実績を積ませる事で、その価値と格をつり上げる。すべては魅魔の迂遠で遠大な策謀よ。博麗の巫女の価値なんて、そういった事績でしか測る事ができないもんね――怖い顔しないでよ。私は、私人としての博麗霊夢の価値の話なんて、これっぽっちもしていないわ」
そう言いながら、血まみれのタンポンを鼻から引っこ抜いて、律儀に便所のサニタリーボックスに捨てると、今度こそ香霖堂から去ろうとする。
「……ま、迂遠で遠大というのも違うか。私たちの時間感覚は、人間どもとはちいっと違っているからね」
「待ちなさい。私を利用したいなら利用し尽くしなさいよ」
幽香の背中に声をかけて、呼び止めた。
「私さ、別に、利用されてるからってムカついてるわけじゃないのよ。そこは、利用してくれてありがとう、だわ――利用されない方がみじめだもん――それはそれとして、自分の価値を勝手に切り分けられて、あんたはこれだけと決めつけられて、それ以外をいらないものと扱われた事の方がムカつく」
「……それじゃあ私は、あなたをもっとムカつかせられる」
こちらを振り向きもせずに言う幽香の声は、すでに私を参照していないみたいだった。
「魅魔はあんたを見捨てたわ。……だって、どれだけ事件を起こして奮ってみても、博麗の巫女の値打ちは、ちっとも上がる気配がないんだもの。むしろその逆で、お山に住んでいる主流派の妖怪さんたちは、貴女を完全に軽んじている。綺麗なばかりの弾幕ごっこなんていうゲームに――ただの女子供の遊びなんぞにふけっている虚け者にしか見られていない」
幽香が出ていった後で、私たちも香霖堂を出た。
「利用されていた気分はどうだい?」
「べっつにぃ」
魔理沙が肩を並べて歩きながら尋ねてきたけど、自分でもびっくりした事に、さほどの感慨も湧いてこないのよね、これが。
「ま、楽しませてもらっていたわ」
「確かにな。私も楽しかったよ」
こいつは追憶のように言うけれど、私には過去形にさせる気は無かった。
「もっと楽しみたいわ。あいつらをぶちのめして」
「霊夢らしくてすごくいいと思う。……人生相談してやるより、暴れる楽しみを与えてやった方が、話が早そうなあたりとか」
と、少し言葉を選んで言った。発された言葉より、頭の中で慎重に選り分けられて排除された言葉の方が気になっちゃう。なにを言おうとしたのよ。
「……あいつら、体のいい御輿を探してただけなんだよ。博麗の巫女もそうだし、魔界の小公女だってそう、科学の世界からやってきた狂った教授なんてのもいたっけ」
「そういうのが気に食わないのよ。私じゃなくても、別に誰でも良いだなんて」
「言うなって……とにかく、魅魔も、幽香も、べつにこの土地の主流でもなんでもないって事だ。むしろよそ者、のけ者、じゃま者。その場からいなくなってくれるのを、みんなから待たれているだけの存在」
私は鼻で笑うようなため息しかつくことができなかった。悪口って、自分が言われてこたえる事を言うものなのよね。
「魅魔や幽香が“じゃない方”だとして、樹海の向こうにいる、主流の、古風な妖怪の方々って、そんなに強力な連中なのかしら」
幽香みたいな蘭と比べると、羊歯くらいありようが違う方々――
「そこな。私も個人的にちょっと調べてみたんだ」
魔理沙はどうやらここ一週間は魅魔のそばにいたわけではなく、むしろ対する側の懐に潜り込んでいたみたい。
「難しくはなかったよ。私たちの共通の友人の、あの新聞屋が、潜入する手引きをしてくれた」
「いつの間に友達になったのかしら」
きっと雨戸でぶん殴った瞬間からだわ。
「……まあ、そうだな。山の妖怪たちはありていに言って、自分たちの定義に縛られて、こちこちの、ぼやけた灰色、黴臭くて、蜘蛛の巣張って、泥まみれ。そんな連中」
「そんなダサい連中に、どうしてみんなそこまで必死なのよ」
「物事に遊びってもんが無いからだろうな。すべて必死で、切り捨てられまいとしている。だからみんなムカついてる。遊びを否定されて、今の霊夢がムカついてるみたいに」
「じゃあさ、私たちは遊びのつもりでいきましょ」
宣言のように魔理沙に告げた。
それはそうと、道は歩くほどに霧に包まれて、ひんやりしてきた。水辺が近いみたい。
Stage:幻想郷
紅いカーテンの長すぎる裾は床にたっぷりと接地していて、流血の洪水のように部屋の四隅に溢れている。紅いといえば、絨毯の床も深紅だ。毛足の加減のせいか、歩くたびにじゅくじゅくと汁気を含んでいるような、奇妙な感触がある。前後左右と足元がそんな状況ならば、天井が紅くないはずがない。血でも滴り落ちてきそうな天井だった。
そんな紅い応接室の中で、魅魔は自分だけが、妙に冷めている色使いをしている気がしていた。実際のところ、正面に座っている館の主人にしたところで、そこまでけばけばしく紅いばかりの装いではなかったにもかかわらず。
「……いったいこの土地に、なにがあったって言うの?」
「私に、私たちの――あー、いや。彼らの蹉跌と敗北の歴史を、全部ほじくり返して話せと?」
主人の問いかけにそう尋ね返す。あらかた用件を話し終えたあとで、質疑応答が行われていた。
「当たり前でしょ」
と言ったのは、主人ではなく、友人の魔女だった。それまで微熱持ちのようにソファにじっともたれかかり、人形とも変わらないような佇まいだった魔女は、今更もぞもぞと動き始めたのだ。
「恥も汚辱も聞いておかなきゃ、なにも始まらない。ね? レミィ」
「……私は聞きたくもないけど、彼女に聞かせてあげるつもりで話してちょうだい」
「失政、失策、失脚。そればかり」
魅魔はぶっきらぼうに言ってから、少し間をおいて言葉を継いだ。
「……ただ、やった事が間違っていたからこうなったとは言えないね。彼らが間違っていたと断言できるような、お気楽な思考を持てるなら、そこで話はおしまいなんだけど」
「間が悪かったのね」
女主人は、それだけぽつりと呟く。
私は今でも必要なことだったと思っているけれど、と魅魔は前置きしながら、話を続けた。
「……かつて、この郷を論理結界によって外界から隔離してしまおうという政策があった。それは実行されて、混乱を引き起こした。以降、結界は破綻こそしていないけれど、百年以上経った今現在の評価は、はなはだ難しいことになっている」
「興味深いわね。ある種の孤立主義かしら」
「ただの引き籠りとも、世界を拒絶したともいえる。……妖怪の立場が難しくなった時期でもあって、いわゆる時代の流れもあったんだろうね。お前らなんかいらないし、できれば早いところいなくなってくれないかなって、みんなから思われちゃって、なんかムカついて、気がついたらそうなった」
「きっついわね」
館の主人は、思わずくだけた調子で呟いてしまった。
「ちょっと同情しちゃうわ。こっちものんきに生きてきたけど、まあまあ色々あった身だし」
「それでも、あんたは運が良かった方でしょレミィ。ひとつ飛ばし前の世紀末と、それに続く大凋落の時代が訪れようとしたとき、なぜか人間の側から、勝手に吸血鬼の名前を高めてくれたんだから」
友人に言われた主人はすこし照れくさそうに肩をすくめたが、それでも屈託は無さそうだった。
「ま、おかげで痛快だった事もあるし、道化にされかけた事もあるわ。……でも、そんなの心の持ちようじゃない」
「では、今から御輿にされるのもやぶさかではないというわけだ」
魅魔が言ったが、主人はその言葉に答えようとはしなかった。
「……あなたたちは、この土地に結界を張った。それで?」
「みんながみんな、こんな施策に賛成したわけではない。むしろ反発の方が大きかった。今でも大きい」
「ふん、メリットもデメリットもわかりやすいからね。そうなるでしょうよ」
「……パチェは、この政策についてのメリットはどういう点だと思ってるの?」
「既存の世界と別の路線を歩むことができる」
「デメリットは?」
「既存の世界と別の路線を歩まざるをえない」
女主人は噴き出してしまった。
「……ふざけた答えだけど、そういうもんよレミィ。そんなムチャクチャをやるのなら、実行者は、今までの世界とはがらりと違ったグランドデザインを、この新世界の住民たちに提示してやらなきゃいけない。自分たちは愚かな旧世界とは違うってね。やっている事の正否なんてどうでもいい……重要なのは、共同幻想を見せられるか、それをやり通せるかやり通せないかって部分だけ」
魅魔はどんよりとした目をしながら頷いた。
「……当時、この郷を運営していた賢者たちはやり通せなかったわけだが、その原因は彼らの怯懦ばかりではなかったと思う。障害は大量にあった。まとめあげようとした相手は、派閥があり、種族で固まっていて、なにより存在意義の確保こそが第一義の妖怪たちだったからね。――それでも賢者たちは、断固としてこの政策をやり通そうとしたし、それら閥族の有力者たちの中にも、少しずつではあるが大結界の存在に賛成する陣営を形成できていた」
「その賢者たちが有していた権力は、どれくらいのものだったのかしら。……聞いていると、郷の諸勢力をまとめあげるどころか、つなぎ役にしかなれなかったようだけど」
「おっしゃる通り」
「賢者連とやらは、本当に単なる理論の提唱者でしかなかったわけね」
「しかしレミィ、まったく不可能な統治形態ってわけではないわ」
吸血鬼の館の女主人の嘆息に対して、友人の魔女は言った。魅魔も頷いた。
「――実際、賢者たちは、てんでばらばらな妖怪どもの首根っこを、うまいように掴めていた時期もあったんだ。やり口は典型的だが巧妙だったよ。直接的な権力の行使はせず、勢力の急所や要人にだけ影響力を保持しておくんだ。これなら種族的紐帯から生まれる、せこいプライドだって刺激せずに済む」
「……逆に言えば、そうしたプライドを刺激すれば、たちまちひっくり返される危険をはらむくらい危ない橋を渡っていたのね」
そう言った主人の興味が、直後にすっと別のものに移ったのを感じて、魅魔はその視線を辿る。いつの間にかキッチンワゴンが部屋の隅に運びこまれていて、のっぽの従者が柱のように立っていた。
饗されたのはサック酒。それに酒肴――鮮やかなピンク色をしたレバーパテを、薄切りの黒パンにたっぷり塗りつけたオープンサンド。それをもぐもぐやりながら女主人は尋ねた。
「……で、どうしてあんたらは失敗したの?」
「食糧政策の破綻」
五里霧中の彷徨の果てにその水辺にたどり着いた時、博麗霊夢と霧雨魔理沙は、地の果てにやってきたような心持ちになっていた。そこから向こうには、ぼんやりとした影しか見えない。だが、もし霧が晴れていれば、ここは単なる湖のほとりに過ぎないはずだった。
この水の向こうにあるものも、二人は知っている。人づてに聞いたことがあった。
「……アリスの紅茶のこと、覚えてるか?」
「なによ急に」
「正確には、紅茶に使っていたミルクだ。……あれは誰に貰ったものだろう。当然、しかるべき経路からやってきたものだ。――人質生活の中で、あいつは魔界からちびちび仕送りを受けていたけど、そういう品を自慢げに見せびらかす性格じゃない。ぶつくさ文句を言いながら、しぶしぶを装って、ありがたく使う事はあるだろうけどな」
「あんたら性根がそっくりさんだから、その分析自体はきっと正しいんでしょうよ。……それで? な・に・が・言いたいのよ?」
「紅茶用のミルクなんてものを融通できる奴らは限られている。少なくともこの土地では希少だ」
言うと同時に霧が晴れた。真っ赤な建造物が、霧に濡れて、色を濃くして佇んでいる。
「そういうことか……最近西の方から引っ越してきたあのお屋敷、吸血鬼が住んでるって聞いたことがあるわ」
「私も知ってる。湖の中の水城に棲み、人間の生血を絞る連中とは、さながら神州纐纈城だな」
「それとこのお濠よ。なんでも館の主がサメを飼っていて、渡ろうとすると食われるだなんて与太話を聞いた事がある」
「ドラッケンかよ」
魔理沙はひとしきり笑った後で、すんと真顔になって、言った。
「……魅魔は、今度はこの館の吸血鬼を御輿に担ごうとしている」
「まったくもって節操無しね。あいつこんな調子で、この郷じゅうのベルをがんがん鳴らしているんじゃない。山の向こうの古ぼけた妖怪さんたちが黙っちゃいないわ」
「その点はまったく問題ないんだ」
「そうなの?」
「山に潜入してみてわかった。彼らはもうなんの力も持っていない」
魅魔はじっと言葉を選び続けている。沈黙は、館の女主人のグラスを一度空っぽにさせるくらい長かった。
「……てっきり、食糧問題を解決した上で、この土地に引き籠ったものだと思ってたわ」
沈黙の時間をむりやり終わらせようと、魔女がぼそぼそ言った。魅魔も話を急かされた事にいらつきながらも、口をつけた酒精強化ワインの強さに痺れつつ、うんうんと頷く。
「もちろん色々な計算はあっただろう。見込み違いが同じくらいあったというだけの話だ」
「……私は、人間の里あたりがあんたらのための牧場になっているのだと思っていた」
と女主人が言ったのを、魅魔はかぶりを振って否定した。
「ところが不思議な話でね。大結界を真っ先に肯定し、賢者たちの有力な支持層になったのは、人里の人間たちだったんだ。彼らはごたごたした結界騒動の中で妖怪同士が競り合ってくれれば、自分たちは被害を受けない事を知っていたんだ」
そこで考え深げに言葉を切る。
「……近視眼的で場当たり主義的な立ち回りと言ってしまえばそれまでだが、終わってみると、一連の騒動と巧みに距離を置くことができていたのは人間どもだったと思う」
「きっと指導者に恵まれたのね」
「しかし、それでは食糧問題はどうするつもりだったのよ」
「結界の外から、こっそり、ちまちまと。あちらの世界(の、私たちを圧し潰しかねない膨大なリソース)から、問題にならない程度に一部を掠め取らせていただく。……えーえー、とぉっても不満でしょうよ。私だって、結界に反対していた奴らの気持ちも、わからんではないのよ」
館の主人が眉を顰めたのを見て、魅魔は言った。
「考えてみな。自信満々、自分たちの世界に引き籠ったくせに、実情は自給力もかつかつ、その日は満たされても誇りばっかり削られていく、卑屈な収奪の日々だ。……こんな事が続いたら、気持ちだって萎えるさ」
「レミィのように、そのへんのジレンマとうまく付き合えた者ばかりではないって事ね」
魔女が友人に言った。それから、今度は来客に言葉を向ける。
「でも、私も言いたいことはあるわ。中途半端。あんたらなにもかもが中途半端よ」
「その中途半端さのツケを払わされたってことなんだろう、けどね」
と言って、魅魔は視線を逸らしてみようとしたが、どこもかしこも部屋の紅色がついてくる。諦めたようにぼそぼそと話を続けた。
おかしくなったのは、大結界を敷いてから数十年経ってからだった――そう、ぶつくさとぼやいたけれど、実際のところ、食料供給のシステムは、不完全ながらも安定して、運用上のバグは都度都度洗い出され、バージョンアップのたびに洗練されてきていた。
だからまあ、なんだかんだで世の中回っていたって事なんだろう。同時に、妖怪たちの中で、大結界への理解も少しずつ深まってきていた……いや、どうだろう。理解というより、みんな状況に慣れてきたっていうのが正しいか。こんな調子だから、当然、完璧な政策ではありえなかった――手放しで褒め称える奴の方があやしいもんだ――し、良い面も悪い面もあったけれど、みんなそれを受け入れて、違う立場の連中、意見を異にする閥族も、表面上は手を組む姿勢を見せて、少しずつ良くしようとしてきた。
そのまま、このまま、もうちょっとの間、落ち着いた時期が続くんじゃないかっていう数十年が過ぎた。それが博麗大結界による平和だった。危うい平和、次の争乱のための休憩期間、結局のところは砂上の楼閣……なんとでも言いなさいよ。でも一時的には間違いなく平和だった。
むしろそれが良くなかったのかもな。だってさ、そういうシステムが本当の意味で完成されるのって、崩壊する瞬間じゃん。
たまんないよね。
……なにが悪かったかというと、そう。おっしゃる通りの中途半端さのせいだ。結界によって世界から独立して、大人になったような顔をしてみせていた私たちだったけど、実際は周縁の様々な世界に依存し、寄りかかりっぱなしだった。
あるときを境に、妖怪たち用の食糧の供給が滞りがちになった。お外では戦争が始まったらしい。こうした情報は、どんな結界で隔てられていても、水がしみいるようにこの郷にも浸透した。それに対しての反応はまちまちだった。人間たちなんかはのんきなもので、自分たちはそんな馬鹿馬鹿しい争い事に巻き込まれなくて良かったなんてね。
一方、妖怪たちは恐慌状態に陥っていた。戦乱からこっち、自分たちの食料になる人間たちが、ごっそりと減ってきていたんだ。
違う、違うんだって。別にあちらから取って来られる人間が、まったくいなくなってしまったわけじゃない。むしろ、この列島の人間たちは来たるべき決戦を想定して、都市から離れ、山間に避難し始めていた。だから私たちの領域は格好の狩場と化していたはずだった。
でも、結界の外に住んでいる人間は、もはや私たちなんかに恐怖の味や旨味を、これっぽっちも与えちゃくれなかった。……ああ、たしかに得体の知れないなにものかを恐れてはいたよ……でも、その相手は私たち妖怪じゃなかった。彼らはもっと具体的で確実に存在している脅威を、得体の知れないなにものかとして、慢性的に恐れていた。
あの戦争はこれまでとは決定的に何かが違った。
やがて、このままだと、来年の冬にはこちらもことごとく飢餓に陥るという試算まで出てくるに至って、山じゅうがおかしくなった。しかも、そんな慎重に扱われるべき情報が、なぜか下々の妖怪にまで漏洩した……こんな自分たちの首を絞める行為すら、権力闘争の道具の一つだったのかもな。あいつら、危機に瀕してもそんな鞘当てばかりしやがって――しかし話がそれた。
一部では妖怪たちの逃散が始まりかけていた頃、食糧統制と、それに冬眠政策が発動した――限られたリソースをやりくりするべく、冬を寝て越せる連中はほぼ強制的に眠らせようってわけ。
もちろん反発はあった。眠る者は起きているやつらに命を預けて、無防備をさらす事になるんだから。なんたって、どういうきっかけでも勢力間の抗争が起きかねない情勢下だった。今のうちに殺し合っておかなきゃ、やがてはそんな元気もなくなるところだった。
まあ、賢者たちも色々と対策を取っていたよ。まず、一つの勢力から一定割合以上の冬眠者を出さないように、ローテーションと管理体制を整備した。保証制度も敷いた。政治的パフォーマンスとして、賢者の一人が率先して冬眠についた。……仕組みを煩瑣にしたおかげで計画当初ほどの効果は見込めなくなったけれども、とりあえず政策は実行される事になった。
で、政変が起きた。いま述べたすべての懸念が、ハジけて、ぶっトんだ。
冬眠中の者が、同種族内の係争のあおりを食って虐殺された。そうした問題を避けるために、賢者たちはいささか強引な婚姻政策を進めたりして落ち着かせようとしていたけど、そんなものはなんの意味もなさなかった。むしろ無理に嫁がされた者が、率先して実家の肉親たちに手をかけすらした。……どうしてそんな惨事が起きたのかって、そりゃもう、そこのおうちの、のっぴきならない事情としか言いようがないよ。
一度そういうたがが外れてしまえば、二度目も、三度目も起こる。保証制度なんかは瞬時に意味をなさなくなった。
冬眠した賢者こそとんだ道化だった。目覚めてみると、全ての責任を背負いこまされて、あえなく失脚していたんだからな。
超ウける話だろ。
なに笑ってんだ。
賢者は、縁側から目線と同じ高さの青空を眺めていた。
「妖精たちの遊びか」
文字通り背中から知った声がしたが、無視する。もっとも、彼女がぼんやり眺めていたものが、宙に舞う妖精たちとそれらが放つきらびやかな光弾だったのは、たしかに正解だった。だから一層、無視してやりたくなった。
「――あんなもの単純な三角関数の応用だ」
声がそう続いて、声の主は、わざと体内の粘膜を刺激するように這いまわったあげく、背中から出てきた。
「相変わらず噂通りの生活らしいな。ガキどもの遊びを眺めて、ぼんやりしている」
「……たとえ表象の美しさであっても、見るべきところはあるわ」
喘ぎを噛み殺し、おぞけだつような官能に辟易しながら、賢者は友人に対して言い捨てた。
「なんの用?」
「実際主義者どもがついに天狗の中枢から一掃された。時間切れだな」
「ここ数十年、ずうっと隠居状態の私には知らない話ね。お茶でも飲んでく?」
すっとぼけて言うが早いか、式神が乾いたもてなしを盆に載せてやってきた。賢者はのろのろと立ち上がり、ふたつの座布団をぱんぱんとぶつけ合って部屋中に埃をまき散らしながら、相手にすすめた。
「……で、わざわざ出向いてきて、見当違いの勝利宣言ってわけ。暇そうね」
「私は別にどちら側にもついてない」
友人は鼻で笑った。
「というより、考え自体は今回失脚した連中寄りなんだぜ」
「あんたは機会主義的すぎるわ。ものごとの表舞台には立たず、裏でこそこそと」
「ははは、まいったな。心外な言われようだが特に否定する要素がない」
からっとした笑いを見せつけられて、言われた方は逆に、じっとりぶっすりとふくれるしかなかった。
友人はそのまま立ち上がり、勝手に、部屋の隅の書棚から書物をめくっては、ぱらぱらと流し読みし始めた。
「……だが、隠居して下野したあんたが、彼らの考え方をこっそりと醸成させていた部分はあるだろ。“妖怪の専門家、八雲紫氏”よ」
そう言って友人がページをめくる手を止めたのは、スクラップブックだった。新聞記事が貼られている。日付は第九十八季、弥生の二。見出しは『涸れ井戸から白骨死体が見つかる しかし、その正体は!?』。
「……こんなつまらん新聞に、だらしのない肩書きで寄稿しはじめたと思ったら、お前は人里に下りるようになって、私的に、妖怪についての研究会を主催し始めた。参加者は人間だけではなく妖怪たちも……妖怪が妖怪を研究するって、なんだ?」
「妖怪について研究するだけでなく、人間についても改めて考えるという事です。ただの食糧とみなすだけでなく、相互に理解し、そこから取れる知恵や情報はありがたくいただくべきよ」
ぷーっと、友人は嗤った。
「ぷーっ、ぷっぷっぷっぷっぷー。」
「嗤いすぎ」
「ああ、すまん。しかし面白かったんでな。ちょっと前まで、ただの食糧として見ていなかった連中に学びたいなんて、そりゃ筋が通らないぜ」
「あなたは違う相手を見ているようね。私は、人間って生き物を、そういう一面でのみ見ていた時期なんてこれっぽっちも無かった」
「そりゃ人道的だ」
友人はにこりともしなかった。紫はぼそぼそと言った。
「……あの戦争が終わって、食糧の供給はある程度回復しました。が、今でも結界の外に翻弄される体制であることは変わりない。人を知り、お外の情勢への理解を深めようとするのは、必要なことでしょ」
「理屈としてはね。しかし誤解を受けやすい考え方でもあった。博麗大結界を実行したのは私たち……しかもたかだか百年かそこら前の事だ。失脚したとはいえ、当時の指導者が、今度は開放的な方針に転換するなんて――私は意図が理解できるぜ。だが、そうもゆかない者がいる事を、お前がまず理解すべきだ。結界に振り回される妖怪たちの身にもなってみろ」
「別に結界を開放するつもりなんてないわ。博麗の巫女について考えていただけ」
「それがまずかったんだろ」
魅魔は、オープンサンドをもしゃもしゃと咀嚼しながら言った。
「戦後に出現した新派にとっては、かつての博麗の巫女がどういう存在であるかは、もはやどうだってよかったらしい……彼らは実際主義的当権派で、そのためにかえって事実のメカニズムについて関心がなかった。博麗の巫女は、この郷にとって重要な位置を占めていた時代があって、軽んじられていた時代も同じくらいある。それだけだ。その時その場の状況と、周囲の思惑とで、どうとでも価値は変動していた。だから今回も利用させてもらう。宗教権威とはそういうものだろう、と」
「こいつら相場師よ」
友人が警告する横で、紅い館の主人はうんざりとした表情になりながら尋ねた。
「……それで、その新派は、なにを目論んで巫女さんとやらの値を吊り上げようとしたのよ」
「かつての大時代! 偉大な人間さんの英雄と、強大な妖怪さんたちがどつき合う、神話時代への復古!」
言ったあとで自分でも馬鹿馬鹿しい物言いだと思い、魅魔はふっと鼻で笑ってしまう。館の主人とその友人は、ちっとも笑えないまま、顔を見合わせた。
「……笑える? レミィ」
「チョー笑えるわパチェ」
ちっとも笑っていない。
「……いささかロマン主義的すぎるけど、けっして夢見がちな結論ではない。むしろ極めて現実的だった……なぜなら妖怪自身がロマン主義的な存在で、夢見がちだということが現実だったからだ。結局、妖怪は人間との関係の中でしか自己を発見できない。その他の延命策は、どのみち先細りに至る手段だった」
「単純きわまりない結論ね」
「難しい年頃とはそういうものじゃないか。私たちは思春期だったんだよ」
魅魔がそこまで言った末に黙り込んだので、なにか薄皮が張ったばかりの感じやすい傷痕を撫でてしまったような、変な間があった。
「……でも、結局そんな時代は訪れなかったわけでしょ」
魔女が、あえて沈黙を破って言った。
「なにが起きたかはわかるわ。だって思春期なんて人それぞれ、やって来る時期も過ぎ去っていく時期も、考え方の深度や濃度も違うもの」
「そう。誰も彼もがその結論に至ったり、受け入れたりしたわけじゃなかった。だから博麗の巫女の復権は多数派に阻まれた……妨害の方法は簡単。どんなに騒がれようが、無視して、やり過ごす。それが妖怪たちの常道になったんだ。そりゃそうなるよね。まず妖怪と人間は、寿命が違う。無視してりゃあいつらはそのうちおっ死ぬ。時間切れ。こっちの勝ち」
「……そんなけち臭い戦い方してたら、あんたらの存在意義がさっぱり無くなって、ちょっとずつ力を失っていくんじゃないかしら?」
「ああ、そういう理屈の話をしちゃうんだ……で、だからなにさ?」
魅魔はそう言ってのけて、空虚に笑った。
「巫女は寿命で死んで、妖怪たちは生き残る。やがては結局、その事実だけが全てになっていくでしょうよ。……この土地の妖怪たちは、そんな手段によって常に人類に対して勝利を収めてきた」
「どんどんせこくなっていくわねあんたら」
「かつて天地を動かしたあの力がもう無いのさ……いや、はなからあったのかすらも怪しい」
「クソ世界だわ」
女主人は、彼女の数少ない日本語の語彙の中から、努力して言葉を選んだ末、それを発した。
「ここは非常に――えーと――クソ世界だわ。帰んな」
魅魔は、その答えがわかっていたように、ちいさく頷いて、立ち上がった。それでも応接室を出ていくまでの歩みはのろく、すこし後ろ髪を引かれるようでもある。主人は、そんな彼女にもう一言声をかけた。
「……ところで、あんたはいったい、どの立場で私に持ちかけ話をしたのよ」
「私はただの――博麗神社にちょっと古い因縁のある――そこらの悪霊でしかない。だけど、博麗の巫女を擁立しようとした連中の思想的欠陥は、局外者であればこそよくわかった。岡目八目よ」
「オカメ……?」
主人が首をかしげたものの、魅魔は構わず続けた。
「私は彼らのやり方を参考にしたけれど、馬鹿正直に妖怪と人間の対立をやるだけでは物足りないと思った。……たとえば、魔法と科学。たとえば、東洋と西洋。そういったものの対立まで、全部巻き込んで、揺さぶって、ムチャクチャしてやる。で、その中心には、なぜか常に博麗の巫女がいる。そっちの方が面白いと思った」
「私は西洋代表のつもりだったわけ」
「そういうアングルだったわ」
「なんだ、あなた相場師じゃなくて興行屋だったのね」
友人が考え深げに言った。
「ブッキングが叶わなかったのは、こちらとしても残念だわ。でも私たち、ここは隠居地のつもりでやってきたのよ。……ちりんちりん」
女主人が鈴の声真似をすると、従者はいつの間にか魅魔の隣にいた。
「お客様にお帰りいただきなさい――ご丁重に、歩いてく後ろの塵を払いながら」
のっぽの従者は命令に忠実だったが、しかし魅魔自身には虫けらほどの関心も持っていなかったようだ。魅魔が掃いて追い出されるように門前に出たかと思うと、もう見送りを放棄して、門番に立っている背の高い少女にちょっかいをかけ始めた。
「起きな、美鈴」
「起きてますよぉ」
「寝言で言うんじゃないよ」
魅魔は、放置された扱いを不快に思うでもなく、館の使用人二人のやりとりを耳に入れながら、霧の空から無数の紙切れがひらひら舞い落ちてくるのを、ぼんやり眺めていた。
門番とのくっつきそうな鼻先の間にゆっくり割って入った一枚を、従者はぐしゃりといらだたしげに握りつぶした。
「なんなのよこの――」
おしとやかな口から出かけた粗野な卑語が喉奥まで引っ込んだ理由が、くしゃくしゃの紙面から伝わった内容だったのは間違いない。
従者は忽然と消え去った。あとに残された魅魔は、自分と同じように目を丸くしている門番と、顔を見合わせた――が、相手の方は(少なくとも従者の消滅は)慣れっこというような照れ隠しの笑顔。
「……あ、苺あるんですよ。食べます? うちで作ったやつなんですけど」
人懐こく言って、ぱたぱたと奥に引っ込んでいった。持ち場放棄だ。
魅魔はため息をつきながら、なおもばらばらと降ってくる紙切れの一枚を手に取った。
紅魔館の主レミリア・スカーレット、幻想郷の現状変更を目論み、吸血鬼異変を発動させる。……という偽報が、幻想郷じゅうにばら撒かれた。
「私は知らないわ、ほんとに」
庭先に出た式神が腰をかがめたりのばしたり、地面や庭木のそこここに引っかかったビラを拾うのを縁側で見つめながら、紫は呟いた。
「わかってるよ。失脚した天狗どもの最後っ屁だろう」
隠岐奈は確信ありげに言った。
「あの湖に引っ越してきた吸血鬼のお嬢様は、担ぐ御輿として目をつけられていたからな」
「なんだか詳しいみたいだけど、その情報、せめて賢者の間だけでも共有してる?」
「するわけないだろ」隠岐奈はあっけらかんとしている。「全部、私的なところで情報を集めて、私的なところで情報を止めさせてもらっている」
「あんたときたら相変わらず……」
この話題をこれ以上続けると、口汚い罵り言葉が出てきてしまいそうな気がした。
「……まあいいわ。帰んないの? ちょっとした騒ぎになりかねないわよ」
「別にいらんだろ。どうせこの土地の愚図でのろまで腑抜けた妖怪どもは、またぞろ何も起きなかったふうを装って、無視を決め込むだけだろうからな」
隠岐奈も、そこだけはわずかに、生な感情を露出させた言いをした。
「……こんな世界、漬物石以下の存在価値しかないよ」
ところかわって。
霊夢と魔理沙は、自分たちの頭上にもひらひらしている紅魔館決起のビラの一つを手に取り、相変わらず湖のほとりで立ちつくしていた。
「……あんたいったいなにをしたの?」
「私は天狗さんたちに、自分の予測を教えただけだぜ。魅魔様がなにか……あの館の吸血鬼を利用して、なにかを起こすつもりがありそうだと……そしたら、これよ」
ふたたびビラを強調するように、ひらひらとそよがせる。赤・白・黒・濃緑色の色構成、ロシア構成主義風。
「どういうつもりでやったのかしら」
「知らん。……だが単なる在野の蜂起だとしても、それが天狗の一部まで噛んでいる騒動になったら、山の妖怪たちだって無視するわけにはいかないだろ。たぶんそういう事を狙った、怪文書」
「やっぱり怪ブン書屋だった」
へっへっへと、そこだけは愉快そうに霊夢が笑った。
「……で、これがどう面白くなるっていうのよ?」
「それなんだが、ここから先をひっかき回して、面白くさせられるのが、私たちしかいないみたいなんだ」
魔理沙がそう言って、霊夢がすごい顔をして、ふたりとも噴き出してしまう。
「なにそれ」
「私にも成り行きがよくわからないが、きっとゲームの順番が回ってきたんだな。それまで筐体にかじりついていた連中がようやくうんざりして、席をどいてくれた。たぶん、それだけなんだと思う」
「そんなもんかしら」
「そんなもんだろ」
「ま、なんでもいいわ。それじゃあ投入口にコインをぶちこんで、遊びましょ」
「待てって。重要なのはどう遊ぶか――」
魔理沙が考え始めるより前に、ひやりとしたものが首筋を撫ぜた。その冷感が比喩的な感覚でもなんでもなかったのを知ったのは、攻撃してきた妖精を、二人がかりで手早くぶちのめした後だ。
「氷の塊が飛んでくるより、冷気が伝わってくる方が早かったのね」
「やる気いっぱいなだけのバカで助かった……」
霊夢がその氷精を足蹴にして、膝頭を蹴り飛ばすと、たちまち足元の地面に冷気が流れて、霜柱が立った。
「……こんな雪ん娘、このあたりにいたかしら?」
「妖精の事なんていちいち気にしちゃいないよ――おい、起きろって。大丈夫か?」
魔理沙がしゃんと立たせた妖精は、くしゃくしゃの頭をぶるぶると振った。
「……なんであたいをぶん殴ったんだ?」
「そりゃ私たちが聞きたいよ!」
あまりの馬鹿馬鹿しさ加減に、霊夢と魔理沙は笑ってしまった。相手もなぜか笑った。
「ともかく、大事無いみたいで何よりだよ。――初めまして妖精さん。まずは丁重にご挨拶いたしまして」
魔理沙がおしとやかに礼を尽くすと、相手もそれを真似した。
「……ちょっと浮かれていたみたいね」
「そうね」
「なんで浮かれていたの?」
「浮かれるのに理由なんていらないわ。こちとら長いこと退屈してたのよ。……とはいえ、こんな土地でも、たまには退屈しのぎになる事件が起こるでしょ。それで、このへんの空気がぴりっとしたら、あたいたちは全身の髪の毛が逆立つの」
「髪の毛は全身には生えない」
霊夢がぼそりとつっこむ隣で、まだ、魔理沙は芝居がかった口調で続けた。
「……そりゃ面白いわ。しかし一人遊びとは寂しいわね。友達いないの?」
「いないわけがないでしょ! ちょっと呼びかけたら、いっぱい駆けつけてくれる」
「なるほど、友達がいっぱい……楽しそうねえ。私もあんたと友達になって浮かれたいところよ……しかし、こっちは遊んでいる暇が無いんだ」
「へえ。遊びが無いだなんて悲しい奴らなのね、あんたら」
妖精がそう言ったのを聞いて、魔理沙は霊夢に向かって視線を流した。
「――ま、それが妖精の楽しみ方の限界よね」
「あ?」
「お友達しか誘えない遊びっていうのは、結局そこまで止まりのものなのよ。一番面白くなる遊びをしたいなら、敵も、味方も、同じ箱にほうり込んで、思いっきり揺さぶってやるんだ。――私たちは、そんなもっと大きな遊びを起こそうとしているところ。どうしてって? そっちの方が楽しいから!」
そう言うと、魔理沙は相変わらず霧空から降り注いでくるビラの一枚を、宙からひったくって、妖精の鼻先につき出した。
「これは招待状だ! お友達を誘って、お友達のお友達も、お友達のお友達のお友達も、あなたにとってはお友達じゃない誰かにとってのお友達も、みーんな誘ってきてちょうだい!――集合場所はそこの館の、門の前」
と、湖の中の紅い館を指した、そこで、一旦声を落として、独白するように呟いた。
「……しかし、どう楽しくなるかという、もうちょっと具体的な謳い文句は必要だな。こちらとしても今後どうなるか、まったくわからんが」
「きっとだけど、暴れられて、いろんなものがぶん殴れるわ」
思案する魔理沙を押しのけて、霊夢が言った。
「浮かれた途端、こっちを襲ってくるんだものね。あんたら好きなんでしょ、そういうの」
「“The game is afoot”!」
友人が愉快そうに叫んで、笑って、やがて喘息の発作を起こして、吸入器の世話になる。紅魔館の主はそれを横目にしたあと、むっつりした表情で敷地内から回収された無数のビラに視線を移した。
「……で? 私にどうして欲しいわけ?」
「実を言うと、私とこの怪文書は一切関係ないんだ。それだけ言っておきたかった」
魅魔は腕に編み籠を提げて、そこにどっさり入っている苺を、むしゃむしゃ食べている。
「だから乗じるなって言いたいの? それとも乗ってくれと言いたいの?」
「関係ないと言っただろ。あとはあんたら次第なんだ。私の事なんか気にするな」
魅魔はそれだけを告げると、応接室から出ていった。
「……まあ、本音を言えば、この機に乗じて欲しいというのが気持ちでしょうね」
友人が、空咳を一つしたあとで言った。
「だからしないって言ってるでしょうが。私がここに移り住んだ理由は、綺麗な空気、お酒作りによく合う水、山と緑……」
「この土地を薦めてくれた魔界の旅行会社だって、その点はまったく嘘を言っていなかったでしょ。レミィ」
「それがなにさ、こんなの“O brave new world”とは言いかねる。bloody hellだわ」
「はっ、吸血鬼ならかえって喜びそうな言い回しじゃない」
「するわけないでしょ。全然ワクワクしないもの、こんなの」
と、本気でうんざりした様子で、ぶつくさぼやくのを見て、友人はぽつりと、力づけてやるように呟いた。
「……まあ聞きなさい私のお友達さん、新世界を探し求めるのに遅すぎるという事はないわ。“Come, my friends, 'T is not too late to seek a newer world”」
「……ワーズワスだっけ? それ」
「テニスンよ。無学な友人」
友人は親しげに笑って続ける。
「“We are not now that strength which in old days. Moved earth and heaven, that which we are, we are”」
「なにが言いたいのよ」
「あなたが現実から目を逸らしたがるのが、珍しかったから。しかもそれによって、かつて過ちを犯した――そして今回も犯しつつある、この土地の妖怪たちと、同じ轍を踏みかけている気がする。……だからさ」
ちょっとはしゃいでもいいんじゃない、と友人は言った。
「……やだ」
拒否には拒絶までのニュアンスはもはやなかったが、まだちょっと躊躇うものがあるようだった。
「この土地にはこの土地の流儀がある。郷に入っては郷に従えと言うじゃない」
「ところが、その体制が機能不全を起こして、あなたみたいなよそ者にまですがっているのよ。これで起たないのは、吸血鬼という貴種に泥を塗っている事にならない?」
また引き続き起きた、小さな咳の発作で、魔女はちょっと喋れなくなった。
「パチェ、私にもすべき事くらいわかっているわ。羽目を外した方がいいのもわかる」
「こほん……そうでしょうよ。むしろ、なにがあなたの心にまだ引っかかっているのか、私にはわかんないわ」
「たしかに我々は偉大で高邁な、夜の世界を統べる権利を持っている貴種だけれど、私自身はそこまで大げさな由縁もない。この古風な土地の者が、どこまでついてくるかしら」
友人はその言葉を聞いて、愉快でたまらないといったふうに叫んだ。
「そんな事で今まで悩ん――!」
ふたたび咳の発作。
「……ごほごほ。そんなしょーもない懸念が心の中につっかえていたなんて、私の知っているレミィらしくないわ」
「あなたが知らない私を見せられて、ちょっといい気分よパチェ」
レミリア・スカーレットはニヤリと友人に笑いかけ、立ち上がった。
「……しかし、そうね。あなたの言う通りだわ。この土地は少しつつけば全てが暴発しそう。みんなムカついてるんでしょ――おっと、パチェが咳きこみながら献策する必要はないわ。あなたがする意見は、どうせ一つでしょうよ。由緒正しい吸血鬼を称して、この郷で蜂起しろと」
「その通り。だからあなたは――」
「ええ、ツェペシュの幼き末裔を僭称するわ!」
予想以上の発想に、友人はよりいっそう咳きこんでしまった。その間、レミリアは部屋の中をうろうろと歩き回りながら、考えをまとめるように喋った。
「そんなに驚かないでよパチェ。世間というものは、変にせこい騙りより、大きな僭称の方が、ばれた後でも許容されやすいもの。……なので、私は胸をいっぱいに張って、吸血鬼史上もっとも偉大で高名な血統を背負うわ。私は、バサラブ朝はドラクレシュティ家の血を引く、すべての吸血鬼の頂点、異教徒と戦い抜いた偉大な英雄、ワラキア公ヴラド・ツェペシュの後裔よ!」
「……びっくりだわ!」
ようように息を整えて、パチュリー・ノーレッジは叫んだ。
同じ頃、魅魔は紅魔館の門前に立ち、苺のヘタを唇の上でしゃぶりつつ、壁面にナイフで留め置かれている門番を眺めていた。
「……さっきはありがと。この苺おいしいよ」
「そいつはよかったです……で、ものは相談なんですが」
「持ち場放棄の結果がその罰なら、私には助けようがない」
「とほほー……」
「私がしてやれる事は差し入れくらいだ。……ほれ、口開けな」
魅魔が籠の中からひとつ取った真っ赤な果実が、がっくりうなだれた門番の血色のいい唇に触れるかふれないかのうちに、従者が間に割って入ってきていた。
「……餌付けでもされてたの?」
「まずかったですかね」
「いや、別にいいんじゃないかしら」
とは言いながら、魅魔の手から苺の果実を上品に奪い、門番の口につけてやる従者。
「それを食べたら、外に出ている子たちを集めなさい」
またたく間に門番を解放した従者は、そう告げた。
「お嬢様がはしゃぐつもりのようなのでね」
と言ったのは、魅魔に対して発したのかもしれなかった。
「この屋敷の主人たちは、土地に詳しく、意見ができる者を必要としております。出たり、入ったりで忙しいけれど、またしても奥に戻ってくれないかしら?」
「どこまで力になれるかはわからないがな」
「少なくとも、もう急かして追い出すような事はしませんわ」
紅魔館の従者について、みたび門をくぐろうとした魅魔だったが、背中に快い鈴の音律が聞こえたので、ちらと振り返った。
門番が、緩やかに優雅に舞っていた。彼女の長い四肢がしなり、手先足先が震えるたび、美しい鈴の音が聞こえる――と、その足下に、またたく間に妖精たちが集ってきていた。門番が右手をかざせば右翼の陣は整然と進み、左手をうねらせれば左翼の子らが急派するだろう。本来なら勝手気ままであるはずの妖精たちが、そんなふうに統制の取れた動きができるとは、魅魔も知らなかった。
「だいたいねレミィ、野心ばかりおえらい方々が思っているほど、僭称なんて行為は気軽にできるもんじゃないのよ……最低限の辻褄合わせは必要だし、最終的には権力の承認だって」
「この際、最終段階に関しては考えない方向で、どうにかならないかしら?」
「やがては化けの皮を剝がされるわ」
「小細工を弄しようがしまいが、そんなもの遅かれ早かれでしょうが」
魅魔が応接室に戻ってみると、レミリアとパチュリーが謀議を進めていた。
「どんな高名だろうと、名乗りたいなら勝手に名乗ればいいさ。……この土地はそんなもんだ」
魅魔がその件に関して口添えしたのは、それだけだった。
「……とはいえ、多少の辻褄合わせが必要なのは確かだな」
「頑張ってねパチェ」
「……ふん、任せなさい。庶子、不義の子、私生児。そういったものを綴り合わせて、呪われた子を生み出してやる」
「あなた、友人に手心を加えようって気はないの?」
「ばっちりよレミィ。嘘の系図ならなんでもし放題。三人の親から一人の子を成したり、娘に孕ませたはずの子を母に産ませたり、男同士の交わりから女児を産み出す事も可能」
「なんか私が思ってたのと方向性違わない?」
楽しそうに図書館へと引っ込んでいった友人の背中に声をかけるレミリアだったが、そればかりに気を取られるわけにはいかなかった。
「……倫理観を置いてきぼりにしないようにね。ほんと頼むから――ああ咲夜、わかってるわ」
「サルーンにみんなを集めております」
「演説の一つもかまさなきゃ。……なにもかもが急だけど、みんな動揺してる?」
「それがさっぱり。むしろちょっと楽しそうです」
「ははあ、お気楽でいいわねぇ、妖精どもは」
「私もちょっと楽しんでおりますが」
「……しかし、この屋敷が息巻いているだけでは道化でしかないのよ。――そっちの力で、この土地の者を一部でも動かせられない?」
これは魅魔に尋ねた。
「できる限りの動きは演出しよう。これでも多少のあてはあるつもりだ」
まだ籠いっぱいにある苺を齧りながら魅魔は答えて、一度紅魔館を辞した。
レミリアがサルーンに向かうと、メイド妖精を始めとした使い魔たちが集合している。別に整然と居並んでいる様子もなく、いくつもの塊に集まって、ひそひそと話をしているような調子だ。
「おはよう! みんな!」
主人が言った時には、もう既に昼も押している時間だったのだが、この手の時間感覚の混乱は、昼と夜の者が混交するこの館では仕方のない事だった。
「……楽しげと聞いた割には、あんまり盛り上がってないみたいね」
「それはそれとしてすべてが急な事態なので」
従者がぼそりと口添えした。
「知恵は無くとも、お嬢様が無謀なやらかしをしようとしている少数派だという事は、ほんのり察しているようです」
「あんたもちょっと失礼よ……それはそれとして、妖精だもの。そういう雰囲気には敏感でしょうね――だけど、少数派であればあるほど、生き残って得られる名誉の分配は多くなる! 私はむしろ、この決起に加わる者が一匹でも多くあって欲しいとは、ちいっとも思わない!」
そう叫んだ声は、場の空気をいっぺんに支配した。そういう発声法を紅魔館の主は使って、召使たちのひそひそ話は完全に無くなった。
「もちろん名誉の分配は、金銭の分配ではない。食糧の分配でもない。そもそも衣食住をどうこうという話ですらない……名誉はただ名誉、それだけよ。それを価値無しと断じる輩もいるでしょう。
「でも私は名誉を貪る。名誉を貪ることがいやしい事なら、私はこの地上で最もいやしい存在になってやるわ。……あなたたちも、自分たちの名誉の取り分が減るなら、いっそ誰もここに馳せ参じない事を願ってやりなさい。
「なんなら、あなたたちがここから去っても構わない。それだけで私らの取り分が増えるわ。何度も言うように、今回の戦いで得られるのは名誉だけ。それ以上は望んで欲しくない。これだけ単純なら、損得勘定も簡単でしょ。私に命を預けて、共に死にたくない輩は、この場から去ってもいい。
「ああ、それにしても今日は清々しい日だわ。……なんてことのない、誰の祭日でもない、いつもの日常だったはずだけど。でも……今日から起こる異変を生き残った者は、これから毎年今日を思い出すたび、ちょっとは姿勢を正すつもりになれるんじゃないかしら。今日という日は、それほどのものよ。だから、決して忘れちゃだめだからね。
「もっとも、あんたたちの多くは妖精。教えた事もころっと忘れてしまうし、指示した事さえどこかへすっ飛んでしまうような手合い。今回の戦場の記憶なんてもの、自分の命一個と引き換えに無かった事になってしまうかもしれない……今回の戦場で傷を負っても、酒を飲んでは武勇伝として見せびらすような、そんな大層な痕は残らないかもしれない……。それでも、今日はきっと、あんたたちの価値を決める戦いの、始まりの日よ。
「……あんたたちは忘れる、妖精は特に忘れっぽい。確かにそう……それでも、ほんとうに忘れ去られる事だけは無いでしょう。今回私が起こす行動は、必ず、忘れっぽくない誰かが語り継いで、語り草にしてくれるもの。そうなればあんたらだって、この世界が終わるまでは永遠でしょ。
「たとえ少数派であっても、しあわせな少数派になるのよ。私たちは。
「そう、これは私たちの話。いやしい妖精も、お高くとまっている妖怪も、今日の思い出を持って、共有さえしていれば、なにがしかの繋がりを感じていられるでしょう……もっとも、安穏と腑抜けている事を良しとする連中だけは、この場に馳せ参じる事ができない我が身を恥じて、苦りきるでしょうけど。――私たちが好き勝手をした、吸血鬼異変の話を聞くたびにね!」
即興ではあったが、語り口の抑揚を巧みに操りきって、レミリアの演説は終わった。言葉の意味を使用人たちが理解できたのか、できなかったのか。それすらもわからないが、ともかく彼女の声ひとつで、染み渡るような感動がその場に浸透していた。
紅魔館の主は、サルーンの中を突っ切るように、居並ぶ使用人たちをかき分けるように練り歩いた。
「やりましょう、みんな。……ええ、今後ともよろしく」
と答えたのは、左右から召使たちが手を伸ばし、主人に触れたがったからだ。この幼くて可愛らしい主には、今やそれだけではない、なにかあやかりたいものが宿っていた。
「それにしても奇妙な事に相成ったわ……咲夜」
「御前に」
「かかしのように突っ立っているとはあんたらしくない。只今より戦時体制よ」
「ですね。……こら、あんたたち遊んでいないで」
咲夜はその場で、屋敷内のメイド妖精が全集合したついでを利用して、勤務体制を手早く編成しなおし始めた。その整然とした調子、日常業務のように非日常が組み上げられていくのを、なんだか気持ちの良いものとしてレミリアは眺めている。
「それにしても……」
「はい」
「勤務シフトが平時は一直で戦時は二直って、あんたら、今までずっと総員配置状態で仕事してたの?」
「なにか問題でも……?」
「ははっ、あんたの労働観念は一世紀以上遅れてるわ……」
「私だって休息の必要性は把握しております。でも、どうせ妖精たち(と美鈴)は、ちょっと目を離していれば、要領よくサボるのですし。戦時こそおおっぴらに休息が取れるという意識を刷り込んでおくのです――そうだわ、こんな時ですもの。彼らへの食事も特別良いものを作ってあげましょう」
「一世紀古いどころかスパルタ式だったわ」
などと言っているところへ、門の外に配置されていた妖精が駆け込んできて、なぜか野の妖精たちが続々と集まってきているという報告をもたらしてきた。
「……あの悪霊さんの手回しかしら?」
とも思ったが、それにしても早すぎた。まるで、紅魔館の奥で謀略が組み立てられる前から、なにか外部でも動きがあったような……
レミリアは少し首を傾げたが、妖精たちはもともと、雰囲気には敏感な種族なのだ。そういう事だろうと考えたし、なにより幸先が良いと思った。
そのまま夜が更けて、やがて明ける頃には、吸血鬼たちの下になる在野勢力が、どんどんと積み上がり始めている。
「おはようレミィ、味方が増えるのは喜ばしい事だけど、代わりに “We few, we happy few, we band of brothers”とはいかなさそうね」
朝、主人が眠気覚ましの喫茶をしている時間に、ようやく図書館から出てきた友人が言った。
「私たちは恵まれた多数派みたいねレミィ」
「吸血鬼の身で聖人の祭日にかこつけるつもりはないわ、パチェ」
レミリアはにんまり笑いながら言った。
「――だが、どうせ吸血鬼のお嬢様の戦列に加わったところで、戦いそのものが起こる可能性は十に一つも無いよ。ただ参加して、ぼんやりその場にいてもらうだけでいい」
魅魔がつてを渡り歩いて吹聴した言葉は、そんな程度のものだった……結局、誰も率先して戦いたくなんてないが、ひっそり寄る辺を求めている、という状況に過ぎない。
「数が集まればいいんだ。それだけで圧力をかけられる。それだけで社会が変わるなんてこと、滅多に無いけど。今はそういう段階みたい」
それだけを力説、熱弁して回った。
夢幻館にも立ち寄った。
この湖にある館を、魅魔はつい紅魔館と比較してみてしまう。館の規模も、古さも、門番の仕事熱心さに関しても、だいたい同じくらいだったからだ。
それでも、まったく雰囲気が違った。夢幻館は、雑然と、自由で、秩序を放棄していた。屋敷の傍らにあるガラス張りの植物園は、とうに木々が突き破るに任せていた。エントランスに案内されてすぐ、住人の私物が目についたり、階段を上がりきったところの手すりにペーパーバックが何冊か積まれていたり、半端に中身が残った酒瓶が廊下に転がっていたりする。要するに紅魔館のような貴族趣味や整頓とは無縁で、ボヘミアン的だった。屋敷の主の性向がそのまま反映されているのだろう。
幽香自身にも、そんな調子の気まぐれな放浪癖の一面があるため、館に所在していない可能性もちらりと脳裏によぎったが、懸念は杞憂だった。
「……言っとくけど、私は別になにを起こす気もないわ」
「それでいい。むしろ騒動に加わって欲しくないんだ」
館の応接室には、幽香の他にも館に住み着いている者たち――使用人ではないようだが、かといって居候とも言いかねる――が、幾人もたむろして、客からは遠巻きに床や寝椅子にくつろいで、酒や煙草を喫していた。
魅魔は、彼女らしい押しつけがましさで、苺の入った籠ごと、ぽんと土産に置く。
「……あんたには、樹海の向こうにいる妖怪たちの窓口になって欲しい。別にあっちとこっち、どうしようもなく敵対しているわけじゃないだろ。交渉のラインが必要になる」
「知らないわ。だいたい、私たちって別に仲良くもなんともないでしょ」
「つれないこと言ってくれるなぁ、一緒に魔界へとブッ込みした仲なのに」
「霊夢や、魔理沙と一緒にね」
「私との思い出じゃだめなの?」
割と本気で傷つく。幽香はクスクスと笑った。
「冗談よ、あの時はけっこう楽しかった。……それで? 私とあんたが両サイドを繋ぐ連絡係になって、それでどうすんのよ? 板挟みになるだけだわ」
「……博麗の巫女を使う。彼女以外にこの事態を調停できる者は存在しない。博麗霊夢だけがこの事態を平和裏におさめる事ができる」
魅魔の言葉に、幽香の口元は引きつって、わななき、すぐ大笑いに変わった。
「あなた正気? いや、本当に、まさか! そんな! ここにきてそんなものに縋るなんて!――その発案、霊夢に話を通してあるの?」
「そこなんだな。神社には一度立ち寄ったけど、もぬけの殻だった。魔理沙に至っては、どこをほっつき歩いてるのかすらわからん」
「そうでしょうね……そうに違いない」
そぞろに呟く幽香。
「……しかし笑えるわ。そんな提案を私に聞かせたの、あなたで二度目よ」
「え?」
「うめえなこの苺」
「ほんとだわ」
幽香ではない二人の声に、魅魔ははっと目を向けた。すると見覚えのある二人が、見覚えのない服装をして、苺の入った籠に手を伸ばし、もしゃもしゃやっている。
「下手な変装だと思ったけど、意外にいけたわね……」
霊夢は、星飾りのついた真っ赤な帽子を脱ぎ捨てて、黒髪をかき上げながら言った。魔理沙も自分がかぶっている帽子の大きな飾り羽をしごきつつ、得意満面だ。
「――な、幽香。言っただろ? 魅魔様の魂胆は、結局そこに戻ってくるんだって」
「まさかまったくおんなじ事を言い始めるとは、びっくりよ」
幽香も苦笑いするしかなかったが、すぐ真顔に戻ってぼそりと尋ねた。
「……あんたら、結託して私をからかっているんじゃない?」
「こんな時にそんな馬鹿やれるほど大物じゃないよ」
「なにより、一番からかわれている気分なのは魅魔だと思うわ」
やがて妖怪の山を取り巻く野は、紅魔館に服属した妖怪たちで満ちた。
「んなこと知らないわよ」
八雲紫はぶつくさぼやきながら従者の式神を伴い、警戒状態といえる郷を知らぬ顔で歩いている。
「こっちゃ別になーんにもやましい事はないんだから、胸張って歩きなさい」
「ええ。なにより、この状況にはまだ秩序があります」
「これよりひどかった時を知っているものねぇ」
紫は視線を逸らしながら呟いた。視線の先には、人里へと続く要路を封鎖する検問。
「……しかし山の妖怪たちも、本当に腑抜けてしまったものねえ。どうせじっと引き籠ってやり過ごしていれば、山の下に集結した勢力もばらばらになってしまうと思っている」
「実際問題、こんな寄り合い所帯は一ヶ月もたなかったと思いますよ」
「その見立ても正しいでしょうね。……だが、正しいのと気に食わないのは両立する」
話しながら、二人はなんてことのないように検問を通過した。
「なにより時間が残されていないのはあちらも一緒……離脱派が勢い付き始めている」
「あなたのご友人も」と、紫の式神は苦笑いして言った。「妖怪の山内部から博麗大結界の離脱という発議が上がった時は、さすがに慌てていましたね。いや、面白がるどころでは無いはずなんですけど、でもあれは――」
「痛快に思えたでしょ」
紫も笑ったが、その笑いは心底のものではなかった。
「あいつは悪ふざけの総体みたいな存在だけど、自分の立場はわきまえているわ。いずれにせよ、妖怪の――山の中に住んでいる妖怪たちの立場は失墜した。今をやり過ごしても、同じ事は何度だって起こってくれるでしょう」
「収拾はつくのでしょうか」
「知らない。あとはもう、調停者となった博麗の巫女を信じるしかない」
この前日、博麗の巫女は、文字通り降って湧いたように、この緊張した情勢の中に登場していた。
「ここらへんがノーマンズランドだ!」
魔理沙は冷たい気流に負けないよう叫んだのは、数日の膠着状態の末、妖怪の山の山麓になんとなく形成された無人地帯の上空だった。瞬時に、彼女の喉の粘膜が水分を失って干上がる。
霊夢は、とんだ事になったなという様子で、苦笑いしながらかぶりを振る。うるんだ目を眼下に向けてみても、そこが魔理沙の言う通りの無人地帯とはわからない、真っ黒な影ばかりだ。曇り空に埋め尽くされた、月も隠れている夜だったからだ。
「……本当にこれで、上手くいくのかしら」
「どちらの陣営にも与さないという意志を見せるためにも、霊夢が身を置けるのは、この中間地点しかない。私はここにいるとアピールするためにも、昼間にのこのこ、そんな場所に降り立つのも間抜けだ」
だから、この場所に、この時間にいるのだった。
「んでもって、あとはもう、それぞれの陣営に話をつけにいった魅魔と幽香が、上手くやってくれる事を願うしかない!」
「はっはっは」
霊夢は乾いた笑いをするしかなかった。実際問題、口を開けて笑うとすぐに喉がひきつってしまうのだ。
「この計画、なにもかもが穴だらけよ――あのさ、仮にどちらかに強硬勢力がいて、徹底的に戦うつもりなら、どうするのよ?」
「そんな気概のある土地なら、さっさとそうなっていただろうね!」
「それもそうか……でも魅魔や、幽香がしくじったら?」
霊夢が最後の懸念を尋ねたものの、魔理沙は帽子の中から器用に取り出したミニ八卦炉に最終調整を加えながら、相手の心配は自分の技術的な心配以下のものだと言いたげに、乱暴に言い返した。
「友達の事を信じてやれよ。だめな時は、それはそれだろ。もう愛と勇気だけが友達さ」
「頭に餡子が詰まっている連中のような物言い……」
霊夢は言いかけて、クスリと笑った。
「私たちがそうでないって保証も無いわね。……ま、いいわ。やってくださいな。照明係さん」
「見てな」
魔理沙はミニ八卦炉を頭上に掲げると、曇天に向かって光を放った。
照明係の彼女がおこなった演出は、瞬時に幻想郷を照らし出した。先だって森近霖之助が改造してくれたこの火炉は、後世によく知られるような高出力のレーザーとしては、この時は使われなかった。光の出力を絞らずに拡散すれば、霧の八マイル先まで照らし出す事ができる、超強力な投光器となったのだ。その光は、真っ暗な夜空を貫くと、分厚い雲の層のスクリーンに反射して、夜闇の幻想郷全体に光をもたらした。
その思わぬまばゆさに、思わず二人はたじろぐ……が、両陣営から、すぐさま攻撃が加えられる雰囲気は無い。
「……想像以上に神々しい、鴨撃ちのような降臨になりそうだ」
「加茂氏がどうかしたの?……あんたこそ、大事な照明係なんだから撃ち落とされないようにね」
「裏方さんに優しい千両役者は大成するぜ。幸運を」
「どうかしら。鼻にもかけないイヤな役者だって、大成する割合はとんとんでしょうよ」
博麗霊夢は力を抜いて、ひらりと落下を始めた。秒速にして数フィートほどの、ゆるやかな降下――その間、一発の攻撃も飛んでこない。魅魔と幽香はしくじらなかった。両陣営の中枢から発された停戦命令は、既に前線にまで行き渡っていた。
吸血鬼が仲介の申し出を受け入れたのは、外部的な問題からだ。従う勢力が大きくなりすぎていたのだ。幻想郷の野に満ち満ちている妖怪妖精たちの中には、騒動を嗅ぎつけて別世界からやって来たような、血の気の多い出稼ぎ者も加わりつつあった(当然、その野の中にある人間たちの里は戒厳下に入った)。
旧来の妖怪たちが仲介の申し出を受け入れたのは、内部的な問題からだ。幻想郷からの離脱を目論む勢力は自分たちの与党を増大させるために。反離脱主義者も離脱の議事を先延ばしするために、時間稼ぎを欲したのだ(博麗大結界からの離脱が実際に可能かどうかについては、今もって議論の余地がある。重要なのはそれが政治的な切り札として使われた事だ)。
そこに魅魔と幽香の尽力があったのは確かだが、情勢の幸運が間違いなく彼女たちに味方していた。
のんびりとした降下の後、霊夢の足は幻想郷の土を踏んだ。その瞬間、彼女の心の内に、まったく緊張が無かったわけではない。状況を古典的に捉える事によって、気持ちを落ち着かせようとしたくらいだった。
「“この世は舞台、そして全ての男女は役者でしかない”ってね……」
彼女の舞台である無人地帯を形成しているのは、かつては人間によって耕作地として拓かれようとしたが、今や放棄された野っ原だった。単に地質が悪かったのか、妖怪たちの領域に近すぎたのか、土地に根差している神様の怒りに触れてしまったのか、あるいは全部か……
原因はわからなかったが、何かが破綻して、そうなったらしい。よくあることだ。
霊夢は、自分の出方を窺っているらしい両陣営の最前線に、右、左、右……と目を向けた。静かだが、その向こうには多くの目が光っている。それに博麗の巫女の仲介を知って、前線までやってきた報道記者たちのカメラのレンズも――ふと、ブン屋の事を思い出した。彼女はあそこにいるのだろうか。いないかもな。怪文書をばら撒いたり、魔理沙を山に招きこんだりした罪状で、牢にでもぶちこまれていそうだし(※実際されていた)。
「あんたら! 面白そうな事をしてるのね!」
霊夢は声を張り上げた。
「でも、私たち人間さんはめちゃくちゃメーワクしてんのよ! わかるでしょ? 妖怪さんたちの、しょーもないケンカなんかに巻き込まれてさぁ!」
実情がそう単純な事態ではないのは、もちろん彼女にもわかっていた。だが、霊夢がそう叫んだ瞬間、この吸血鬼異変は幻想郷分裂の危機をおし隠して、妖怪たちの無邪気なケンカと矮小化されて、定義付けられた。そういう事にした。そういう事にできる者が、もはや彼女しかいなかったから。
「しかもここ数日、あんたらお互いに睨み合っているだけじゃない! なさけない奴ら! だから、この妖怪どもの――あんたらのケンカ、博麗神社の博麗霊夢が預かるわ!」
その瞬間、博麗の巫女は、十数代に渡る歴史の中で、幻想郷の政治(祭祀的な“まつりごと”としての政治ではなく、即物的・現実主義的な面での政治)主導権を、初めて獲得した。
こうした展開を、少なくとも両陣営の一方は面白がった。
「話を聞く限り、博麗の巫女ってやつは平和の使者でもなんでもない。ただの喧嘩師みたいね」
と、紅魔館の主は心底感心しながら言った。
「……だから面白いわ。彼女はケンカを預かっただけ。いずれまた噴出するものがあると、わかっているに違いない」
「レミィ。状況は面白さを求める段階ではないわ」
「違う! 今こそ面白さを求めるべきよ!」
「……あなた今、超ノってるわレミィ」
パチュリーは感心して、嘆息した。
「ともかく、巫女さんの仲介が入って、吸血鬼異変は終了よ。悪霊さんのシナリオはそうだったでしょ。集まってくれた勢力には解散命令を出さなきゃ」
「できるかな」
「できなきゃ私たちが破滅よ。あんたのカリスマでもなんでも使って、どうにかするの」
「ま、なんとかするしかないのは、そうね。……でも表面上の撤収は可能かもしれないけどさ、パチェ」
レミリアはにんまり笑う。
「もはや幻想郷はコントロール不能よ」
とはいえ、一時的なものであるにせよ、事態が収束に向かっている事は歓迎されていた。
「この騒動のせいで、あやうく作付けの時期を逃しかねない状況ですからね」
八雲紫は人里に立ち入って訪れた屋敷で、あてこすりのようにそんな事を言われた。
「いつの時代も一緒ですよ。戦が起こると、民草は迷惑するばかり」
九代目御阿礼の子は、そういった年頃らしくないぼやきをして、年頃らしい苦笑いをする。それから、自分の手で淹れた紅茶を相手にも出した。
「それで、ご用件はなんでしょうか? 妖怪の賢者さん」
「賢者なんて、もはやその立場もないのですよ……と、言わせたかったのでしょうけれど」
紫は目の前の少女と同じような苦笑いをしたかったが、できなかった。
「……私たちの失脚後も、中枢に生き残っていた知り合いが、籍だけは消さないでいてくれたみたい。今回の事態に対処するために、復権致しました」
「友達に恵まれたんですね」
「どうかしら。今まで生きながらえさせてもらえたのも、こういった貧乏くじの処理に利用価値があるからとキープされていただけだわ」
「それでも、あなたを生かすという判断ができる方だったんです」
稗田阿求は、かたわらに積み上げてあるいくつかの文書を、紙質の手触りを楽しむためのもののように撫でた。
「……私は、そろそろ御阿礼の子としてのつとめを始めようかと思います」
「それで今度の騒動について意見を求めたい、と」
「八雲紫さんは妖怪の専門家ですからね。秘密結社の事件の時は、お世話になりました」
紫は相手の礼には答えず、紅茶で唇を湿し続けた。人里の陰でひっそりと起きた秘密結社の暴走と稗田家の乗っ取り計画は、直接指導したわけではなくとも、自分が思想的に煽ってしまったも同然の地下運動だったからだ。
その真相を知りつつ、阿求は礼を述べている。
やがて紫はティーカップから唇を離し、喋り始めた。
「――“妖怪は人間を襲って初めて存在意義が有る物だが、大結界が出来て以来、妖怪は簡単には人間を襲ってはいけなくなり、さらに食料は妖怪の食料係から提供されていた為、妖怪の気力は下がる一方だった。
「そんな幻想郷に突如外の世界から力のある妖怪、吸血鬼が現れ、あっという間に多くの妖怪達を部下にしてしまった。
「結局この騒動は、最も力のある妖怪が力業で吸血鬼を叩きのめし、様々な禁止事項を決めた契約を結び、和解した。”
「これが、今回起きた吸血鬼異変の、妖怪の山による公式見解ですわ」
「……“最も力のある妖怪”って、いったいどういう妖怪だったんですか?」
「みんなが居ると信じた時に居る、あの力の具象化ですわ」
二人は失笑した。
「また、様々な禁止事項とは? 和解をしたのなら、人里の外の混乱はどうでしょう?」
「……人里周辺の状況は私たちも憂慮しています。しかしそれは吸血鬼たちの陣営の問題ですし――」
「私たち人間にとっての危機は終わっていません」
阿求はぴしゃりとはねつけるように言い放った。
「むしろ、状況はより切迫したものになっています。直近で言えば数十年前、乙酉の年に起きた食糧危機にいっそう近づいている。――作物もですが、問題は塩の供給です。先の大戦でも、凶作の影響以上に、冬を越せなくなるほど塩が枯渇しかけた」
「……末端にまで規律が伝わりきらないのは、争乱につきものの事ですわ。それでも、もう少し待ってもらえれば」
テーブルに一冊の帳簿が置かれて、紫は言葉を止めた。
「どうぞご覧になってください。毎年度ごとに我々が作成しているものです」
紫は、阿求のほほえみに促されて帳簿を手に取ると、その内容に目を通して、所見を口にしながら考え始めた。
「……戸籍ではないようですが、人里に存在する家族の構成、年齢が記されていますね。年齢の書き方は――おそらく数え年。七つ以下の幼児にはより詳細な記述。子供たちの目方、目方を計測した月日、目方の前年からの増減、疾病・けが・障がい等の情報……そして……」
「最悪の非常事態に陥った際、その子供を他家のどこの子供と取り替えるか」
阿求は吐き捨てるように言った。
「稗田家がいつからこんなものを作成するようになったか知りませんが、幸いにも役立った事は一度もないし、これからだって役立って欲しくない」
「……役立った時、あなたたち里の人間は、妖怪以上に妖怪じみて見えるでしょうね」
とだけ言い返しながら思った。たしかに、妖怪が人間を喰らうなんて、ただ捕食者が自らの生理に従っているにすぎない。人間が人間を喰らう事の方が、よっぽど忌々しい。
そう考えこんでいると、阿求が振り回すように話題を変えた。
「ところで、あなたが専門家として主催した研究会の主旨は、妖怪と人間との理解を深めようというものでしたが、その目的のひとつは妖怪と人間に一つの線引きを行って、定義付ける事でしたね」
「物事の定義付けは学問の常だし、必要な行為でしょう」
「しかし学問とは、初めになにかあって、後からその領域に土足で踏み込んでいく行為でもある。……行為の良し悪しをあげつらうわけではなく、事実関係としてね」
「なにが言いたいの?」
「実際のところ、人間と妖怪の区別というのは、非常に曖昧なのではないでしょうか。実は、その境界を行き来する事自体が、あまりに容易くできるからこそ、その事実をごまかすため、もっともらしい理論を持ち出しているに過ぎないのでは……」
阿求の弁を聞きながら、紫は、どうして彼女がそんな疑念を持つに至ったのか、はたと思い当たった。あの獣人だ。その稀な知性によって年若い御阿礼の子を支えて、この人里で秘密結社と忍耐強い暗闘を繰り広げた、あの女――
「……彼女のようなものは例外的存在よ」
思わず口をついて出てしまったが、阿求は怪訝な顔も見せず、頷いた。
「定義を修正するより、例外を増やす方が簡単ですもんね」
しかし連中とんでもない札を切ってくれましたねと、紫の従者が帰路を行きながら呟いた。
「自分たちが妖怪化する可能性を唱えてくるなんて」
「人間を喰った人間が、そのまま鬼や妖になるかどうかなんて、この際どうでもいいわ。これ以上頭のおかしい勢力が増える事だけが悪夢よ」
「しかも頭のおかしい頭数だけで言えば、この幻想郷の最大勢力になりえます」
「心算通りの数字には、絶対になるはずがないとしてもね」
しかし紫は、阿求が言った事をも覚えている――“幸いにも役立った事は一度もないし、これからだって役立って欲しくない”。本音はこちらの方にあると思われる。彼らは破滅の瞬間まで、あくまで人間であり続けようとあがくのではないか。
ふたりが人里を出るときも、検問が撤収する気配は無い。
「……しかし、どこも別に、幻想郷の覇権など考えてなさそうなのが救われているわね」
「多少の分別があれば冷静にならざるを得ないでしょ、この状況は」
八雲藍は鼻を鳴らして、ふと、幻想郷のはずれの方向へと目を向けた。視線の先には博麗神社がある。
「博麗の巫女はどういう腹積もりでしょうか」
「わからない。でも、私たちはゲームの主導権を彼女に譲ったのよ。あとは彼女が寄越してくる妖怪さんの使者を待つしかない。……山の妖怪どももバカよねえ、内輪で寄り集まってぎゃあぎゃあ議論しても、意味無いのに」
「……あの巫女って、本当に人間なのかしら」
主人のぼやきを無視して、藍がぽつりと呟いた。どうやら、相変わらず阿求が提示した疑義に囚われて、考え続けているらしい。紫は苦笑いして言った。
「彼女たちが人間だと信じているなら、ただただ人間さんよ。それでいいんじゃない?」
「いいんですかね、そんなテキトーな感じで」
「学術的には赤点、しかし共同体の幻想を見せるには必要な曖昧さだ」
紫が思わず艶っぽい喘ぎを漏らしてしまうくらい唐突に、摩多羅隠岐奈がその背中から現れた。藍は顔をしかめる。
「結局、曖昧さを器としなければ、この郷はまとめきれないんだよ」
「ナカで動かないでよドスケベ――ところであなた様は、この、みじめな私めを使い走りにして、ご自分は大切な緊急閣議の真っ最中なのでは?」
「幻想郷離脱の発議は停止させた。お偉方は監禁中だ――ちょっと血も見たが、死者は出ていない」
そう言いつつも、自分の部下二人の、返り血などなんとも思っていないような表情を、隠岐奈はちょっと思い出した。
「……たぶん、まだ死者は出ていない、ことを願う」
「まったく、どこもかしこもで無法が行われている」
紫はぼやくくらいしか仕事がない。
「新秩序が必要だぜ霊夢!」
「急に大きい声出さないでよ魔理沙」
「でも必要だろ」
「大きい声を出す必要は無いわ」
微妙に噛み合っていない会話をしながら、博麗神社の畳の上に寝転がって、ふたりはぼんやり考え続けている。
「……実は私、ここから先の事は、なにも考えてない」
「知ってるわ。私だってそうよ」
先日の夜、幻想郷を己らの舞台として吸血鬼異変の調停を買って出るという啖呵を切ってのけた博麗霊夢と霧雨魔理沙だったが、夜明け前に神社の石段を上がって帰宅していく時に言い合ったのは、そんな調子の現状把握だった。
「とりあえず、一発何かしらぶち上げておけば、あとはどうとでもなる」
「素敵じゃん」
と、静かな高揚が依然として残っているうちはまだよかったが、それから半日も眠り込んでは、いっそう冷静にならざるを得ない。
「……しかしながら、なんも思い浮かばん」
そんな状態だった。
「とりあえず朝……お昼……あ? おゆはん? でも作るわ……」
「めちゃくちゃ混乱してんな」
霊夢がのそりと起きて勝手へと向かう。魔理沙は笑ってしまったが、すぐ真顔に戻った。
おそらく時間は残されていない。今の幻想郷はすべての事象が浮ついている。その浮つきが、収拾のつかない混乱に変質していくのは時間の問題だろう。新秩序が必要だと魔理沙がぶち上げたのは、当然の事を言ったにすぎない。大声を出す必要は無かった。
抑圧は不可能だ。
支配などは望むべくもない。
徳治を行っても従わない者はいるだろう。
自分たちは、ルールのみをこの地にそうっと置く事しかできない。
「でも、どんなルールを?」
そういう話を、霊夢が飯を持ってきた後もしてしまった。さすがに女の子らしくないとは思いつつも。
霊夢も、飯がまずくなるなどと突き放す事はしないで、じっと魔理沙の弁を聞いてやって、やがて口を開いた。
「……魔理沙、言ったでしょ。私たちは遊びのつもりでやろうって」
翌朝、霊夢は魅魔と幽香を使者に立てて、新秩序の提案を両勢力に行う事とした。
その道中、魅魔と幽香は互いの分かれ道に立つまでを、ぼそぼそ会話して歩いている。周囲は別に、のんきな田舎道などではない。殺気立っていて、出迎えにやって来たそれぞれの勢力が睨み合ってさえいたが、当人たちだけが何も無いようにのんびり歩き、雑談気分で言い合っている。
「あんたはどう思う?」
「理屈はわかるわ。争いを止めることは不可能だもの。それならば争いを積極的に肯定しつつ、ルールだけは敷いておく」
「しかも観念的で慣習法的なルールだ。妖怪には覿面に効く」
「だとしてもよ、だとしても……」
幽香はぷーっと膨れて、魅魔の方にちらりと目くばせする。言いたいことはお互い一緒で、口を揃えて叫んだ。
「……あまりに無法すぎる!」
しかし二人の声には落胆や怒りといった負の感情は無く、ただ痛快な響きだけがあった。
「“まだ気力の残っている妖怪達はこれでは不味いと思い、博麗の巫女に相談する事にした。
「巫女も大した異変の無い毎日にだらけきっていて、若干の戦闘は必要不可欠という妖怪の考え方に同意した。”
「……そういう顛末です」
「妖怪の山の公式発表としては、ですね」
どこに目がついていれば、大した異変が無いなど言えるのだろうか、と阿求も(紫さえも)思いつつ、そういう事にして欲しいのだろうと話を飲み込んだ。
先の訪問から、半月ほど経っている。ふたたび稗田邸を訪れた八雲紫は、もうひとつ文書を持ち出した。
「そして、こちらは新法の草案。立法に向けて動き出したばかりでまだまだ不完全なものですが、要旨はこのようになりました。あなたも各所への周知をお願いします」
「人里の中で積極的に決闘なんか行いたがる輩はいないと思いますがね……ともかくお任せください」
ところで、と阿求は話を変えた。
「こないだついてきていた従者の方は、今日はいないんです?」
「今日のところは買い出しついでに寄っただけですからね。今頃そこらで油揚げでも買ってるわ」
「急に所帯じみてきましたね」
「こちらにも生活がありますので」
紫が稗田邸を辞したときには、藍が先に買い出しを終えていて、外で待ってくれていた。胸元に抱えられた油っぽい新聞包みの中には、油揚げのスナック。
「……復権しても使い走り仕事が多いのは、どうにかならないのかしら」
「人里との縁を作っていたのが、あなたくらいのものですからねえ」
「まったく、公共のための謀略なんてするもんじゃないわ」
と、藍の買い食いに手を伸ばして、ちょとつまむ。やがて二人は人里を離れて、郊外の田んぼ道を去り、山道へと至っていた。
「しかも危機が過ぎたかと思えば、今度はこんな子供じみた新法案に振り回されて……ふざけているんですか? 博麗の巫女は」
「いいや。あの巫女は、秩序というものがどういうふうに敷かれるものか、よおくわかっている」
背後から声がして、藍はぎょっとした様子で振り返った。声の正体は、例によって摩多羅隠岐奈だった。
「いいかい式神さん。まず、秩序というものはだな――待てよ紫」
一応立ち止まって、話を聞くつもりの藍、さっさと先を行く紫、呼び止める隠岐奈。
「藍、先に行くけどそいつの相手をしてやっといて」
「嫌われていますね」
「あんまり仲良くなりすぎてもよくないみたいなんだ、私たちって」
紫がふんと鼻を鳴らしたのが、かすかに聞こえた。
「……まあ、そんな事はいい。そもそも秩序というものは、反対している者のためにあるわけではない。従う者のためにある。従わない者がいれば、勝手にさせておけ。そして従う者だけがルールの恩恵を受けて、力をつけられればいい。命名決闘法案はめちゃくちゃな内容だが、そういう構造だけはしっかりできている。今までの、決戦を避けて腑抜けていくしかなかった妖怪たちを見ていればわかるだろ。競争から降りて従わない者は、衰えていくばかりなんだ」
「それは理解できますよ。……でも、その結論が決闘方式だなんて」
「たしかに、博麗の巫女の趣味嗜好が大きく反映されている事は否めない。……そのうえ決闘方法自体は自由とされているが、彼女が大好きなおはじき遊び以外の方法は、結局廃れていくだろうな。……そういう自分自身の目論見を、彼女は隠そうともしていない。ただ自分の好きなゲームで遊びたいだけだ」
「……まあ、笛吹けども踊らず、とならない事を私も祈っておりますよ。なにせこちらも立場が盤石なわけではない」
「誰しもがそうだ、君も、私も、彼女だって。だから私は――ああ、戻ってきてくれた」
紫が踵を返して道を戻ってくるのを、隠岐奈は待っていたように言った。
「こいつ、私の悪口言ってたんじゃない? どうだった藍」
「微妙なところですね」
「博麗の巫女の悪口で盛り上がっていた」
隠岐奈はそう言うと、紫の前にちょっと詰め寄るように進んだ。
「これでお前の望み通り。人間と妖怪が対等に争う、大時代への復古だ。おめでとう」
「……こうでもしなければ、妖怪たちは自分の存在を維持しきれませんわ」
「ああ、もっと博麗の巫女の値打ちを上げていかなきゃな! 彼女の神格化を行おう。伝説を作り、唯一無二のものとして、これからも利用していこう。あの神社はこの郷に唯一のものだが、それ以前の、かつて上古にあったもののなごりだって、まったく無いわけではない……すべて潰そう。諸勢力を恭順させる必要は無いが、会盟を主催させるのだっていいかもしれない。権威化はやりつくしても際限が無いからな……おい、なんだ浮かない顔して。全部お前がやりたかった事だろうが」
摩多羅隠岐奈は、からかうように笑いかけた。
八雲紫は冷たい視線で返した。
「――なに? 私にその覚悟ができていないとでも?」
「できてないだろ。お前はいつもそういう奴だ。必要なものだけを取り入れ、要らないものは容赦なく滅ぼす……と見せかけて、いつかそれらが再発見されて、必要になった時を見越して、ひっそり保護し身元を保証しておく。いつもそういう事をしている」
「別に情からやっているわけじゃない。可能な限りはそうすべきよ」
「ああ、なんせ山あり谷ありどん底ありだった郷外れの神社を、数百年も陰ながら保護し続けたのも、そういうわけだもんな。……しかし今回はわけが違う。個人の・生前からの・計画的な・神格化は、策謀者の手から離れて暴走するのが常だ。歴史がそれを証明してくれているぜ」
隠岐奈はそう言うと、古い伝説の名前をずらずら、呪詛のように引き出した。
「厩戸皇子、上宮太子、等已刀弥々乃弥己等、等与刀弥々大王、法主王、上宮聖徳王、厩戸豊聡八耳命、厩戸豊聡耳皇子命、豊聡耳法大王、上宮之厩戸豊聡耳命、豊聡耳神子――聖徳太子」
どれも同一人物の呼び名だ。
「奴を宗教と権威の統合者に仕立てて政治利用を目論んだ豪族どもは、やがて神格化されたあいつを制御しきれなくなった。自分たちで退治不可能なバケモノを作っちゃったんだ。それと同じだ。半端な事をすれば、博麗の皇子――じゃなかった、巫女は、絶対に紫の言いなりにはならない」
「本人はごくごく気のいい少女だと聞いています」
紫は言った。
「そしてたくさんの長所と同じくらい、たくさんの短所もある、結局のところは普通の人間ですわ。やりようはある」
「ふうん」
隠岐奈は笑う。
「どんなふうに? あいつは人間で、お前は妖怪なのに」
「それが素晴らしいのよ。今後、彼女が異変で出会うすべてのひとびとは、まず敵対者になり、それから共に並び立つ者どもになるでしょう。彼女もそこまでは拒絶できない。命名決闘法案にはそういう仕掛けを仕込んだ。取り入る隙はある」
後年、博麗霊夢は、自分と八雲紫について「真に最強の二人」とまで発言する。
命名決闘法案――後のスペルカードルールと呼ばれる新秩序の草案は、各地にばら撒かれた。
「ふむ。“意味がそのまま力となる。”……ですか」
執務机に座る閻魔は、案文を呟くように読み上げ、続けた。
「……いささか観念的すぎるきらいがあって解釈に難がありますが、良いでしょう。私が他の十王に発議をかけます。細かい手直しや手続き、そういった手間は必要ですが、現行法とのすり合わせ自体はなんとかなります。ゲルマン法のいくつかの法典が参考になるでしょう」
「しかしまあ、なんとも無法な法ですね」
案文を運んできた部下の死神は、呆れながら独白のように呟いた。
「いや、あたいらが言えた話じゃないか。今からうちらの組織も、その無法な法の加担者になる――正確には、今日まで現状を追認するほかなかったこの土地における法を、無法を援けてでもこの機に成し遂げ、たしかな秩序を敷く……要するに、やっぱり現状の追認でしかない」
死神は不満げというより、自分たち公的機関の権能のなさを嘲笑うようだった。上司は苦く微笑んで言った。
「いつにも増してお喋りで、詠嘆的ですね」
「愚痴らせてくださいよ。ここ最近、此岸と彼岸との間を、使い走りのように行き来させられているんですもん――連中、あなたに会いたがらないんですよ。嫌われたもんですね」
「是非曲直庁一のサボり魔が、いいように使われてくれているんです。私には彼らを恨む理由がありませんよ。――それに、この土地の秩序は可能な者が整えてやればいい。たとえ行うのが未熟で、罪にまみれた者たちであってもいい。そもそもルールとは……」
と言いかけて喉の奥でなにかねばっこいものが絡まったようで、咳払いして言い直す。
「――ルールとは、常に不備があり、抜け道を持ち、破綻するまでは絶対に未完成ですからね。……ところで話が変わります。あなたは書を能くやると聞いておりますが」
「書?……まあ、ちょっとおぼえが有りますね。小野道風譲りの書き味ですが」
ふーん。と閻魔は考えを巡らす。
「それでは、事が起きたときには対策本部の看板でも書いてもらいましょうか」
「たいさくほんぶ……?」
現代的な言い回しそのものは飲みこむことができたが、その言葉が示すものにまでは、理解が追いついていない。
「何の対策……?」
上司は――四季映姫・ヤマザナドゥは、ため息をついた。
「あと三年以内に思い出しておきなさい……」
「さんねん……?」
是非曲直庁、来たるべき六十年周期の異変に備える。
「今このタイミングしかない。調略をかけろ。新法による決闘を持ちかけろ。なんだよ、どうとでもなるって……今のところ、ルールの細則がなーんにも決まっていないんだからな!」
河城氏を中核とする河童たち、一連の混乱に乗じて、数百年来の悲願であった玄武の沢水系の統一を達成する械闘を開始。
「……今度の騒動は、私たちにとっての奇貨といえる」
ほとんど暗闇の、掘りかけの坑道の中で、主人は従者に囁いた。互いの、石屑やら石炭の破片やらで粉っぽくなっている顔は、もう気にも留めていない。
従者は――菅牧典は、汚れた顔をぬぐい、目をしょぼつかせながらきっぱりと言った。
「……こんな強制労働から解放されるなら、私はどこまでもあなたについていきますよ」
「なにより百々世に情けない借りを作らずに済みそうね……お前がついてきてくれることに関しては、まったく疑っていないわ」
典は目をまん丸く輝かせた。
飯綱丸龍、幾度目かの失脚からまたしても復活、十年近くにおよぶ政争の末、妖怪の山の実権を掌握。
そういえば、この人はなにもご存じないのだなと思いながら、犬走椛は洞窟造りの拘置所の扉を開けた。
「もう来ないでくださいね」
「なんて言いぐさですかあなたは……それにしても、思ったよりちょっと長かったですね」
射命丸文はいけしゃあしゃあと房から出てくると、椛に向かってニヤッと笑った。
「それはそうと、ここ最近は扉越しに話し相手になってくれてありがとうございました。……全然隙が無かったのがいやらしいですけど」
「上役からそう言い含められていたので」
「私の事をバカかなんかだと思っているでしょう?」
「……別に。私はあなたたちの考え方に反対なわけではありませんよ。ただ、現状維持でも新しい世界でも、どっちでもいいってだけで」
「ま、狗らしい意見ですね。それじゃ」
それだけを言って、反響と湿気が充満する石の通路を自信満々に出ていく、颯爽とした背中に、椛はそれ以上声をかける事ができなかった。
射命丸文はまだ知らない。彼女が投獄され、吸血鬼異変が勃発した後、その仕事場は妖怪の山の守旧派によって接収されて、主筆の不在にもかかわらず新聞の発行が継続されていたのだ。もちろん、紙面の内容は文自身の政治スタンスとは対極。吸血鬼異変を否定し、博麗神社の仲介も批判する。また、事態が極まれば博麗大結界からの離脱も辞さないという、強硬な宣言までもが盛り込まれていた。
要するに、全てが過ぎ去った後ではジョークのような記事でしかない。
そしてこの記事で、文々。新聞は後にも先にもただ一度の、天狗の新聞大会における優勝を獲得するのだ。
「……お姫様は、もうちょっと奥座敷にお隠しになった方がいいかな?」
因幡てゐは、騒動の渦中に潜入していた妖怪兎たちの話を聞きながら思案する。
久々に酒を酌み交わすにも、目的があるのは明白だった。
「どうせ、地上のごたごたをちょっと見てこいなんて言われたんだろ」
伊吹萃香はクスクスと笑いながら言った。
「曲がりなりにも旧都の顔役やってるって聞いたけど、いいように使われてるね」
「用事にかこつけたのはそうだけど、会いたかったのも本当よ……役目の話なんてやめよう。酒が不味くなる」
星熊勇儀はそう言い返した。
「……でも、何がどうなっているか、聞きたいだろ?」
「うん」
それがねえ、と萃香はぼりぼり、だらしなく胸元を掻きながら言った。
「近頃どいつもこいつもだらしなくなっていてさぁ、どうせ今度の祭もつまらんのだろうなと飲んだくれてたら、いつの間にか終わってた……で、これ以上語る事がない」
萃香の正直極まりない弁を聞いて、勇儀はうんうんと頷いた。
「ま、どうせそんなところだろうと思っていたよ。……おかげで変な役目を気にせずに飲めるんだから恨むまい」
「一番だらしなかったのはワタクシなんですなぁ」
と、この旧友がもっとも言いそうにないたぐいの自虐が飛び出すので、これはちょっと危ういかな、と勇儀も思った。
「……こういうことを解決するのは、人間に任せときな」
私たちは起こす側だろうと、勇儀はちょっとの慰めのつもりで言った。萃香は目が覚めたような顔をして、それでも酔いは続いたまま首を振った。
「そっか、起こす側か……」
怠惰で飲んだくれの伊吹萃香が独力での異変を達成するまでには、もう数年を要する。
地上の混乱は、その周縁にもじわじわと動きをもたらしていた。
「あんな胡乱な連中、地上人らとの窓口には、絶対になりゃしませんよ。一度は天界から堕とされ、かといってもはや地上人にも馴染めない、半端者の一族です」
と意見をする事は、できなかった。彼女自身は、ただ天人の言いつけに従うためのお使い。竜宮の使い。ばらばらと幻想郷中に散らばり、不良天人どもを迎えに行くだけの、大勢の使者たちの一人。
彼女自身の微妙な気分に反して、お天気は快晴。風は強く、頬を撫で、衣服の表面をさらさらと流れていく。のろのろと地上に降り立ったのは、単に怠惰からだけではなくて、そのお天気が奇妙に心地よかったから。
良いお日和だ。こんな日はどこかに遊びに行きたい――なんて思うのは、ある意味では現状からの逃避かもしれない……だいたい、自分たちは身勝手な存在だ……天界にいると地上で遊びたくなるし、反対に地上にいれば天界に憧れを持つ。
――でも、それは逃避ではないですね、と彼女は思い直した。遊びも、憧れも、逃げではない。退屈な日常をどうにか変えていこうとする努力だろう。
彼女はこれから出会う相手に、なにかを予感している。こうした勘には自信があった。
やがて土くさい地上に降り立ち、道端で一人遊び――蟻の巣潰しをしていた少女に、もしもしと声をかけた。相手の身なりは小綺麗だったが、どうも人品があまり好ましくない。
「……なにあんた」
つっけんどんに尋ね返されて、永江衣玖は頭を掻いた。彼女は自分の勘に自信があるたちだったが、それも疑わしくなってきている。
比那名居一族、一度は堕落したにもかかわらず、このたびの騒動の余波を受けて、なんだかんだと天界への復権を果たす。
ドレミー・スイートは他人の寝床の上にトランプを広げて、クロンダイク・ソリティアに興じながら言った。
「……地上の一地方の権力闘争なんて、余人なら興味なしでしょうがね。しかし、あの土地には例の姫君と賢者が潜伏しています。あなたはそうした情報を月の中枢部と共有するわけでもなく、自分個人の胸中に留め置いている。いつまであの手札を伏せておくのでしょう?」
「永遠に伏せてやってもいいわ」
稀神サグメはそう言いつつ、山札から避けられていたジョーカーカードを手に取る。
「今あなたがやっている一人遊びと一緒ね。全てが行き詰まった時にこそ、場面をひっくり返す存在が必要よ」
そう言うと、行き詰まったソリティアの場に、乱暴にその鬼札を張った。
「こういうふうに」
「……そして私のゲームはわやくちゃになっちゃいました」
本来使われるはずがない切り札を場に放り込まれて、ドレミーは苦笑いをするほかない。
「ですが、手札は大切に伏せてばかりでいいものではありません。……やがて腐り、単なるババになってあなたを害する」
「そうでなくても、争いなんて行き詰まった結果に起こる、腐った札の張り合いでしかないわ」
「なにより自分たちが腐らないという保証も無い」
ドレミーは微笑んだ。
「月の軍隊と武官は、文官優勢による統制下にあって腐りかけ、脆弱になりつつある。このままでは、あなたたちはやがて新世界の力に追い落とされるでしょうね。夢見る月の都には未来なんて無いのかも」
「脅すような事を……」
「実感はあるんじゃないでしょうか? この文治官僚の帝国がどんなに安眠していようと、あなたの情報部に入ってくるものはどれも憂いばかりでしょう。その憂いがある限り、あの世界の姫君には価値がある」
「……最悪の場合、私の権限の範囲内だけでも中央の統制を離れて独自の動きを起こし、地上に遷都しつつ蓬莱山輝夜を擁立して、亡命王朝を打ち立てる、か」
サグメは鼻で笑った。
「夢みたいな話ね」
「ええ。しかし今夜のあなたは夢より現実の話がしたいようです。今度はどんな憂いが転がり込んできたんですか?」
気だるそうにのっそり寝床の上を動くドレミーに向かって、サグメは苦笑いを見せ、相談を始める。
十三年後、稀神サグメは遷都計画が進行する中でも月の都に残留して指揮を執り、敵の大攻勢を防ぎ続けている。
「なにがなんだかわけがわからないけど面白くなってきたわ!」
妖精たちは今日も元気だ!
同じ頃、アリスは魔界を出奔していた。
「もう、そこの境を越えると幻想郷だけど、友達がいるの……」
と、旅の道連れになった相手に向かって、照れくさそうに言った。ふっと微笑んだ相手は、向こうはかなりごたついているみたいだけど……と頭にかぶっているキャペリンハットの位置を直しながら、心配そうに言った。
「らしいわね……でも、あなただって行く場所は一緒なんでしょ? どうして行くのよ」
「諜報活動」
相手の言葉の意味を飲み込んで、異常に気がついた時には、アリスは追いかけてきた少女たちに取り囲まれていた。
「……連れ戻しに来たの?」
「逆よ。お見送りに来ました」
そう言ったのは夢子だった。神綺の最高傑作。
アリスは、そのひねこびた感受性でもってニヤッと笑った。
「夢子さんならそう言うでしょうね。私を追い出せて、せいせいしたでしょ?」
「困った子だとは思っていましたが別にそこまでは……」
夢子はそう言ったが、心の内に腕を突っ込まれたような戸惑いが、無いではない。思ってもみなかったというよりは、ただ自覚していなかっただけの感情にも思えた。
「……神綺様からの伝言です。あなたは好きに生きなさい」
「あの女はそう言うしかないでしょうね」
「そしてこれだけは忘れないように。“すべての造られたものに福音を”……」
「最初からそう言っておいて欲しかったわ」
「また、この境界を越えたら、あなたはこの魔界での地位を全て失います」
「なるほど。絶縁ってわけ」
「そこまで徹底していないわ。たまには戻ってきて、顔を出しなさいとも言っていました」
「ふうん。まあいいわ、行くわ」
「ああ、それともうひとつ。与えるものがあったのを忘れていました――」
「夢子さんって話運びの要領が悪いのね……で、なによ?」
アリスはその場で賜姓を受けて臣籍に降下し、以降はアリス・マーガトロイドと名乗るようになる。
その頃、博麗霊夢と霧雨魔理沙は……
「ありゃ、動かん」
「飲ませすぎだぜ」
散らかった博麗神社の座敷にへたり込む二人の間には、ぐるぐるになって活動を停止したアンドロイドが横たわっていた。
「急に倉庫から引っ張り出してきたから、びっくりしちゃった」
と言うのは、縁側に移動した幽香だった。もうもうとした埃っぽさから避難しながらも、自分が飲む分の一升瓶だけ、ちゃっかり確保している。
「……記憶に無いわ」
「記憶がぶっ飛ぶまで飲むな」
「教授たちはあらゆる平行世界の各方面から追っかけられているらしいし、アフターサービスには期待できないよ」
部屋の隅でまだまだ酒をちびちびやっている魅魔が、ぼそりと言った。
メイドロボットは物置に逆戻り。
「……ともかく、後のめんどくさい事は、できもしないのにコントロールしたがりの妖怪さんたちに、みーんな肩代わりしてもらったから」
「それでいいんだよ。やりたい方々にやってもらえば」
幽香と魅魔は、ここ何十日の展開に、心底疲れた様子だった。
「私、こういう事はもう絶対に協力してやらないから」
幽香が立ち上がりこの場を去ろうとしながら、ふと振り返ると、最後に一言添えた。突き放すようだが、とげのある調子ではない。
「次は期待しないでね」
これ以降、幽香は彼女らしい自由気ままな放浪の日々を送る。
「……一升瓶ひっ提げて出ていかれても、やっべえ女にしか見えないのよ」
残った三人は異口同音に言い合って、笑った。
「そういえば」
と、魔理沙がアルコールに舌を痺れさせながら言った。
「……魅魔の言う復讐って、どういうつもりだったんだ?」
「魅魔“様”とお言い」
「もう様なんて付けないよ」
即座に言い返されて、かえって愉快だったのか悪霊は大笑いしてしまった。それから、霊夢に向かって言う。
「良い方向に動いたかどうかはともかく、博麗の巫女として超メーワクしたでしょ?」
「いやまあめちゃくちゃ困ったけどぉ……」
「そしてこれからも困るわ。博麗の巫女は、この世界にとって無視できない存在になっちゃったから。そういう事」
「余計な仕事増やしてくれたわけね」
「急にイヤな言い方になったな……」
魔理沙が皮肉げにぼやいているうちに立ち上がった霊夢は、ふらりと勝手へと引っ込んでいって、少しして戻ってきた時には、葉物の切れ端などを集めた籠を抱えていた。
それを魅魔に押しつける。
「じゃあ、あんた暇でしょ。裏の池にいるお爺ちゃん亀に餌でもやっといて」
「あい……」
魅魔は事実上の隠居状態となって、幻想郷の表舞台から姿を消す。
そして博麗霊夢と霧雨魔理沙は――
「門を突破したようです」
「ははあ、窮屈なルールに対して一日の長があるとはいえ、実力もガチみたいねあいつら」
従者の報告を聞きながら、紅魔館の主は言った。
「今どこにいるの?」
「待ってください。通路の構造を操作して時間稼ぎをしていますが――あ。いっけね」
「……ん?」
「図書館にお通ししてしまいました」
「パチェにとっても、たまには良い運動になるでしょ。あんたも行ってきなさい咲夜」
「わかりました。奴らの切り札を全弾引っ剥がして、お嬢様の前にお届けしてやりますわ」
咲夜は来客の――物騒な来客の応対に出ていって、あとにはレミリアだけが残った。
この、本来は第二次吸血鬼異変とでも呼ばれるべきだった騒動は、戦間期に制定された偉大な新秩序、スペルカードルールの意義を強調するために、異変の連続性を意図的に打ち切られて、新たに紅霧異変の名称を与えられる事になる。
レミリア・スカーレットの独白。
「しかし、どうもみんな、最近は自分たちの運命に振り回されがちね……まあいいや、ここは月並みな言い回しだけど“All the world's a stage, And all the men and women merely players;”と言ってやりましょう。“この世は舞台、そして全ての男女は役者でしかない”のなら、運命だって、ステージの上で動き回るプレイヤーたちの筋書きにすぎないでしょ」
Player:博麗霊夢(役)、霧雨魔理沙(役)
「楽しい夜に」
「永い夜に」
「――なりそうね」
という、あの著名な割り台詞のくだりは、もっと淡々とやるべきなのではないかと、博麗霊夢(役)は常々思っている。
「そりゃあ、ドラマティックに、歌舞伎の見栄的にセリフを切った方が、互いの間は取りやすいと思うけどね。それでは博麗霊夢的じゃないと思うのよねえ」
「お前は博麗霊夢の何を知ってるんだよ」
霧雨魔理沙(役)は、相手のそうした愚痴を客席から聞いてやっていた。舞台上には作業用のボーダーライトの、白く殺風景な光ばかりが降り注いでいる。しかも博麗霊夢(役)は舞台衣装などを着ていない、ただの普段着姿。……それでも霧雨魔理沙(役)はよく知っていた。この生意気な役者にひとたびスイッチが入れば、たとえ普段着姿で、真っ白な作業灯の下であっても、伝説上の博麗霊夢が生き生きと復活する事を。
伝説上の博麗霊夢。
「実際の博麗霊夢なんか知ったこっちゃ無いけど、博麗霊夢的なるものはよく知っているつもりだわ」
「ま、ぶつくさ言っても明日には公開ゲネだ。もう閉めるからな」
と、霧雨魔理沙(役)は劇場の鍵を振り回して、もう帰り支度だという素振りを見せた。
「電気消してこいよ」
「はいはい」
博麗霊夢(役)は、舞台上に置いてあったバックパックを拾って、一度舞台袖に引っ込んでいく。ややあって作業灯が消灯されて、二人は互いの手元灯かりを頼りに、舞台下で合流した。客席足元の非常灯を頼りに出口に向かう。
「……あ、そうそう。明日は稗田家の方々がご覧になられるってさ」
「あ?」
博麗霊夢(役)が不機嫌そうな声を上げたので、霧雨魔理沙(役)はふっと苦笑いしてしまった。
「そう邪険にするなって。連中は口うるさいけど、この文化事業の出資者なんだ」
「はっ、あんたはそう割り切れるかもしれないけどね。あの演技が気に食わない、この解釈が気に食わない。言われるのはいっつもこっち、博麗霊夢だもん」
「それを言ったら、霧雨魔理沙なんて居たも居なかったかもわからん存在だぜ……」
博麗霊夢がこの幻想郷にスペルカードルールという新機軸を打ち立ててから〓〓〓年が経った今、彼女の歴史的受容には紆余曲折が積み重なり、その実態の把握は困難を極めている。
もちろん、彼女の実態が覆い隠されている原因が、意図的な政策を端緒とするのは、ほぼ間違いない。伝説化、神格化、政治利用、それが極まった末の反動である“人間としての博麗霊夢”観……どれもが過剰な毀誉褒貶に繋がり得るものであって、実際そうなった。
九代目御阿礼の子である稗田阿求が著したいくつかの史料さえも容赦のない疑古の対象となり、批判に晒された。後になってみれば、それら幻想郷縁起を始めとしたいくつかの書物は、確かに著者による一般化、分析、解釈、評価が混じってはいるが、それでも重要な同時代史料として扱われるべきだった。
そうした反動はドラスティックなものだったが、論争にも価値はあった。博麗霊夢という幻想郷史上最高(最強ではないだろうし、ましてや最良では絶対になかったが)の英雄が幻想郷の歴史にもたらした最大のエポックは、異変解決や妖怪退治などではなく(もちろん、その逸話や伝説は華々しく、分析に値するが、歴史的影響はあくまで限定的だ)、スペルカードルールの制定という認識で落ち着いた。後世の学識ある人々はそう見た。
霧雨魔理沙の扱いは、長らく非実在説を経由してきたために、いっそう怪奇なものとなっている。彼女の存在には早くから様々な疑義がつきまとってきた。なにせ博麗霊夢が顔を出す異変・騒動・事件に、必ずと言っていいほど同時に居合わせて、博麗の巫女が解決したはずの異変すら、彼女が華麗に解決したという異聞が残っていたりする。
博麗霊夢の伝説化という点では、もう一人の英雄譚はどうやら不都合なものだったらしい。彼女の存在は、常に博麗の巫女と異変解決を競っては出し抜かれる架空の人物――ハル王子に対するフォルスタッフのような、愛嬌あるトリックスターとして受容された。
もちろん、彼女のものとされる著作があり、史料にも彼女の名前が残っている以上、非実在説はありえない話だ。少なくとも、霧雨魔理沙のモデルとなる人物は確実に存在したとされている。
とはいえ、通俗的には霧雨魔理沙が架空の人物であろうという一般認識は、今でも根強い。
博麗霊夢(役)と霧雨魔理沙(役)は、壁に手をついて劇場の出口に向かっている。
「時々思うんだけど」
と博麗霊夢(役)がぼそりと呟いた。
「長生きしている妖怪さんたちはどう思うのかしらね、私たちの演劇」
「……当事者の方々が何も言わないのなら、これでいいんだろ。気にすんなよ。歴史上のリチャード三世の実像がたとえ良き領主・誠実な夫・情勢に翻弄された人物であったとしても、シェイクスピアの『リチャード三世』は、永遠に冷酷な簒奪者・卑劣な肉親殺し・稀代の悪人であるリチャード三世であっていい」
「ふふ、そのうち博麗霊夢に呪い殺されるかもね」
「可能性はある。うちらは稗田んちに睨まれるまでもなく、好き勝手しすぎだからな」
ふたりはクスクス笑い合って、客席後方の扉を押し開いた。
「で、なんで急にそんな話を……」
と尋ねた霧雨魔理沙(役)も、わかっていた。劇場の暗闇の中を歩いているとき、明らかに別の気配がした。二人きりのはずなのに三人分の息遣いがして、二人並んで歩ける通路なのに、なんとなく隙間をあけて詰めるように、身を寄せ合って歩いてしまうような、そんな雰囲気。
「……わかんない。なんかむしょうに、とにかくなんでも話したくなった」
相手がそう言ったのもごまかしだと、お互い察している。
「……どうせこの後飲むつもりだろ。うちならいい酒飲めるぜ」
「あんた明日ゲネだっつってなかった?」
「ふん、それくらいが博麗霊夢と霧雨魔理沙らしいだろ」
スペルカードルールは幻想郷に――それから幻想郷が関わっていく多くの紛争にまで、属人主義的法観念でもってあまねく適用されたが、当然の事ながらそれに反発する力も存在している。人間の巫女などが決めたルールは気に食わないというので、無視していこうという動きも、当然あった。
そもそも、このルールの根拠は博麗霊夢個人に帰属している。そして彼女は人間だ。せいぜい寿命は百年。その間、幻想郷は博麗霊夢を中心として、治世が回転していく事だろう――実際のところ、霊夢のやり口は常に馬上英雄的かつ直情的。敵をぶん殴る事のみに終始していて、統治や政治といったものとは、極めて無縁な存在だったが。
その百年をのらりくらりかわす事が、スペルカードルールを良しとしない妖怪たちの大戦略になった。つまり、それまで通りの無視を決めていれば、博麗の巫女は死ぬ。結局人間の寿命はそんなものだ。女子供の遊びなんか放っておいて、自分たちは、その間ここに在り続ければいい……。
彼女たちが永遠になる事までは考えていなかった。
「……それにしてもあの役者さんたち、二人によく似ていることだわ」
劇場に棲みつく悪霊さんは、他に誰も居なくなった暗闇の中で、ぼそりと呟いた。
三分四十八秒。
それが制限時間。道具屋の隅で埃かぶっていたジュークボックスにぎっしり詰みこまれたレトロな音源の、いちばん最初にあったトラックの時間。その音楽をスタートさせるや、道具屋を飛びだし、里を一巡りぶっ飛ばして、曲が終わる前に店に戻る。
それだけの遊び。もちろん、できるだけギリギリの時間に戻れるように経路を設計しているつもり。往来の人々に損害は与えたくないけれど、だからといって安全な道を選ぶ気にはなれない。
なんでって、遊びってそういうもんでしょ。常に追い込まれていて、流れるように変化する状況の中で、確かな事と不確かな事が入り混じっているのを、上手に処理していく。裏路地を抜け、運河を走り、地面に接するくらい低く急激なターンのたび、軸足にしたブーツのかかとが削れる。たまには痛い目にも遭うけど、ゲームの高揚がそれを忘れさせてくれる。
なにより空気が心地良い。この土地のこういう、澄みきった空気だけは、文句なしに自慢していいと思う。
里のはずれに至ると、外周をぐるりする間に、伸びあがるように高度を稼ぎ、その高さから降下する加速で、香霖堂の前に滑り込む。このラストスパートが効率的な方法なのかはわからない。ただ気分がいいだけだ。
店内に飛び込むと、音楽は終わっていた。
「遅かったわね」
と霊夢が言った。ジュークボックスの横にあった、ピンボールの筐体に前のめりに寄りかかっていて、こっちなんか見向きもしない。フリッパーで打ち返したボールがキノコバンパーにぶつかって弾ける音の方が大事そう。
「霖之助さん、ちょっと外に出てくるって」
「お前はお留守番か」
私は自分の帽子を、店内の入り口あたりにあった、西洋彫刻のミニチュアたちのどれかにかぶせる。三体のダビデ像の、ホワイトメタル製の軽薄な縮小版――ベルニーニ・ドナテッロ・ミケランジェロ……いずれに帽子をかぶせたかは、クイズにしとくよ。答えは教えないけどさ(ただ、このあとで帽子を取った時、裏布をどこか尖った場所に引っかけてしまって、嫌な音がした)。
「あんたの実家にでも顔出してんじゃないの」
「いやな話を聞いたな」
いやな話なので、霊夢の推測に対する私の所感は省く。
そのまま私が香霖がいつも腰かけている場所に座ろうとすると、あいつはまた話しかけてきた。
「座る前にお茶淹れてきてくれない?」
「はいはい」
ひと飛びしてきたあと喉が渇いている事に、言われてみて気がつく。別に文句を言い返したりはしない。あいつの茶の方がついでだ。
店の奥に侵入して湯を沸かしている間、壁によりかかって、アルゴリズムとパターンについて考えていた。ジャガード織機とウィリアム・モリス柄について。動作する織機のメカニズムと製作物の有機性とを頭の中に描くのは、暇つぶしにはもってこいだ。
そのうち湯が沸きあがろうかというところで、表の方から「ちりんちりん」というドアベルの――いや、ドアベルを模した声で、茶目っ気たっぷりに来店した少女の声。たぶん幽香の声。
幽香は妖怪だけど、かなり少女らしい少女だ。超マイペースで、お花好きで、語尾に(はぁと)……なによりお仕置きが大嫌い。これは大事なことだ。少女っていうものはお仕置きを受けるのが嫌いだからだ。逆に少年って奴らは、お仕置きを受けるのを求めている……ま、被虐嗜好の女の子だって当然いるんだろうけれど、それは、その子の中の少年がそうさせているだけだろうな……ごめん、テキトーなこと言った。
ただ、幽香が少女らしい少女だという事と、愛のない(愛があればいいのか? という話になると、またややこしい事になってくる気がするけど)懲罰を受けるのをめちゃくちゃ嫌っている事だけは、まず間違いないと思う。そういう女。
私が二人分のお茶を持って店の表に戻ると、霊夢はピンボールの前から外されてテーブルに肘ついていて、筐体に向かう幽香の背中に、ぶっきらぼうに言い放った。
「……言っとくけど、この店は妖怪なんかのたまり場じゃないからね」
「不良娘のたまり場でも無いはずだ……」
先細るような抗議の声を聞いて、私は振り返る。いつの間にか香霖も戻ってきていたのだ。その手元に刻み煙草の包みを認めて、私は言いたいことをちゃっちゃか言っていく。
「あれ……おかえり……どこ行ってたの……煙草を買いに出ていただけか」
「僕に何も言わせないつもりだね」
幽香も幽香で、そのそばで自分勝手に話を進めていた。
「いいじゃない。私がどこに現れたって」
と、ピンボールに向かいながら霊夢に話しかけて、ふふふと微笑んだ。
「それにあなたたちとつるむのも悪かない。一緒に魔界征伐に行った仲じゃない」
「……ありゃそんないかつい行動じゃないでしょ」
霊夢はそう言うものの、実態は観光旅行と強盗遠征の中間のような行為だったのは認めなければいけない。私たちは魔界に突入して、現地の人々とちょっと勇ましくやりあった――そして、略奪者らしく振る舞いもした。……略奪って、なんの話かって? 幽香がちょうどそれを説明してくれる。
「しかし奪うものはちゃっかり奪ってきた。すなわち技術と人材、要するに人質」
そう、人質。あの金髪。
……というふうに勝手に納得している私と比べて、霊夢は首を傾げていた。
「なんの話よ」
「あきれた。あの、魔界の小公女よ」
幽香は言いながら、ピンボール台から目を離そうともしない。
「利用価値のあるお嬢さんなんだから、屋根裏住まいにしてこき使うのはやめておいた方がいいわ」
「こき使ってたのは私だけじゃないもん。だいたい、すぐ魅魔のやつに取り上げられちゃったし」
霊夢がぶすっと言った。私はそれを聞いて笑っちゃう。
あれを小間使い程度に思っているのは、霊夢くらいのものだろう。
コイン一枚でさんざ粘った末に、幽香は店を出ていった。
「……霊夢も魔理沙も元気がいいのは良いことだと思うけど」
香霖がぼそりと言いながら、手にした本をポンと閉じた。数秒前に開いて、また閉じたばかりの本のくせに、その音にはなにか話題に区切りをつける力がある。
「無茶はしない方がいいと思う」
「お茶飲んだから帰るよ」
「うちは喫茶店じゃないんだよ……」
「知ってる。だからお金なんか払わない」
香霖堂の外に出てみると、なぜか霊夢までついてきて、私に向かって尋ねた。
「このあとの予定は?」
こいつがそんなことを他人に訊くのは、珍しい。私は薄灰色の曇り空を見上げながら、
「特に無いわ」
と答えた。こいつ、のんきだけど別に馬鹿じゃないんだよな。
「……無いから、明日の朝まで付き合えるよ」
「そこまで付き合わなくていい」
霊夢は苦笑いした。だけど、未来のことをいってしまうと、私たちの付き合いはそれ以上続く羽目になっちゃうんだよなぁ。
「で、霊夢はなにかしたい事があるんだ」
「そこよ。魅魔の居場所は知ってる? あんた、そんなのでもあいつの弟子なんでしょ」
「弟子になった覚えはありませーん」
「うそつけ」
霊夢の苦笑いは続いたが、それはやがてクスクス笑いに変わっていく。
「……話す気が無いのなら、無理矢理喋らせてやる」
言うと、あいつは一本指をぴんと立てて、それから相互に指し示した。
「決闘よ」
数分後、私は自分のとんがり帽子の横っ腹にあいた大穴に指を出し挿れして、なんとなくその裂け目を広げながら、霊夢の先を案内していた。森の中は昼間でも薄暗い。薄暗いが、ぼんやりとした冷ややかな輝きがあるのは、この森にある鉱物や植物が、自ずと発光しているからだった。
「……なあ、霊夢」
「まず私の質問に答えなさい」
「あい……」
「魅魔のやつ、あの人質を使って何をやらかす気よ」
私はまず、なにをどう、説明をつけてやろうかと考えた。人質の使いようなんていくらでもある。
「……魅魔様のやり口は古典的よ。人質として無理に拘束したりはしない。むしろ行うのは積極的な援助。自由に使える金をやって、後ろ盾になる。魔界にも恩を売る。それで社交界にも顔を出させて――」
「社交界ってなによ」
私は少し言いよどむふりをしたが、結局すぐ言った。
「……妖怪たちの社交界だ」
「黒い繋がりを隠す努力を、ちょっとはしなさい」
霊夢は呆れかえったが、別に咎めるつもりもなさそう。どうせ、わかっている事だったのだ。
「私だってそこまで魅魔様べったりじゃないから、よく知らないんだよ。……でも、やる事は想像できる。魔界から連れ帰ったお嬢さんを、お仕着せさせて、連れ回して、見せびらかす」
「あー、やだやだ。政治、社交、そういったもののためのお付き合い……お酒をまずくさせる、いちばん手っ取り早い方法よ」
「私もそれは思う」
だが、まずく感じない女だっている。……私だって、きっと霊夢ほどにはまずく感じていないんじゃないだろうか。
「魅魔も幽香も、なんか変よ」
「まあ、あいつらも近頃の騒動で名を上げたせいか、ここらでもいっぱしの有力者になっちゃったからな。色々あるんだろ」
私は知った口をきく。あの悪霊や妖怪たちの移ろいなど、そういうものだとはたしかに知っているが、それでも戸惑うところが無いでもない。
「こっちは万年、普通の魔法使いと妖怪神社の巫女さんなのに」
「どこが妖怪神社よ……。はぁ、あいつらの事情はわかんないわ」
わかんないとは言うが、霊夢だって本当はわかっているんだ。自分の知り合いたちが、無邪気であることができる季節を、なんだか過ぎ去りつつある事くらいは。
そんな感傷はさておき、今度は私が質問するターン。
「……それで霊夢。いつも乗っていた亀の爺さん、どうしたのよ」
さっきの決闘の時から、ずっと気になっていた事だった。
「あー、あれ。隠居させたわ。もう歳だしね」
「ほんとに? あいつに乗っていなきゃ空も飛べなかったのに」
「あんただって、実は箒無しでも飛べるんでしょ。知ってるんだからね――それで、私もやってみたら、できた」
私は思わず噴き出してしまって、ついでにこの、魔法の森の瘴気をいくらか吸い込んでむせ返る羽目になった。
「なに笑ってんのよ」
「だって、なにもかもがテキトーすぎるからさ」
でもそれが良い。個人的には、霊夢にはこんな調子であって欲しい。あまり真面目な顔をしていて欲しくはない。魅魔様や、幽香や、私なんかが胡乱な事に首を突っ込めるのも、こいつが元気に素直に単純に、妖怪をしばき倒していてくれるからなんだもの。
こみあげてきた胞子混じりの痰を、そのあたりの木の根元に吐き捨てた。
「……魅魔様に命じられて、私んちに住まわせてるんだ」
「そうでしょう。そうでなくてはならないわ」
すべてお見通しといった口調の霊夢。
「だから幽香はあんたに釘を刺しにきたのよ」
「でも、屋根裏住まいにしてこき使ってるってのも心外だぜ」
私は帽子をかぶり直して、言った。
「すっごいわがまま娘だもん。めそめそしている割に図々しい」
「自己紹介みたい」
「なんか言った?」
「イワヒバリの声でしょ。こんな森にもいるのねえ……」
見えすいたごまかしだったが、どうでもよかった。
「それより、あんたが家を空けているのに逃げたりしないの?」
「図々しいって言っただろ。我が物顔にしてやがる」
霊夢を案内して自宅に辿り着いたとき、魔界からやってきた少女は、節くれだった木の枝に紐を渡して、洗濯物を干している。よりによって私のズロースだった。
「お茶が……緑茶が欲しいわ」
「茶葉はそっちの戸棚だぜ」
「わかったわ。紅茶ね」
アリスのやつ、私たち二人の要望を無視して、自分の飲みたいものの準備を始めた。……うちのどこにも紅茶なんてものがあるはずないのに。どこから貰ってきたのやら。
あいつ、そのうち家主の私よりも物持ちになるぜ。
「そいで用事はなに? あんたが、人質である私の待遇改善に動いてくれている国際人道機関とかなら、話を聞いてやるけど……ほんと、ここはひどい家。散らかってるし、女の髪の生乾きのにおいがするし、出るのは三食みんな和食だし……」
「悪口か?」
思わず言ってしまう。
「なにより、最初の頃はミルクも無かったの。ミルクの無い紅茶は野蛮よ。……今度、ここの外にレンガを積んで、パン焼き窯でも作ろうかと思うの――それで焼き上げたパンを作って、薄切りに切り分けて、トースト。そのこんがりとした上っ面に、マーマレードをたっぷり盛ってやるの。かじる時は、ちょっと品が無いけれどカリカリと音を立てさせちゃって……言ってるそばから腹が立ってきた」
「腹は空かせるものだ」
私はささやかな茶々を入れる。
そこに霊夢が口を挟んだ。
「それにしても、あんたって魔界でも偉いお嬢さんだったのね。通りすがりに絡んできただけの、変な奴だとしか思わなかったわ」
「偉くもなんともないわ」
屈託を押し隠そうともせず、アリスは不機嫌に言った。気まぐれのように席を立って戸棚に向かうと、そこから洋酒の瓶を持ってきた。強い生の酒が、どぼどぼひっくり返すほどの勢いでティーカップに注がれていく。霊夢が私の方に、もの問いたげな視線を送ってきた。私に聞くな、話がややこしい。
アリスは酒をぐいと飲み下すと、恨めしそうに言った。
「……あの女、私の事なんか全然かえりみたりしていなかったのに」
やがて日も暮れるほどに、三人とも泥酔してしまった。
「いしかねぬゐに くちみほそ のせもたむるは をゑれよら」
「ひゃはは」
そんな調子だ。なにが面白いのかさっぱりわからない。
「とますわこきや あんろえめ おてなひけゆふ さえつへり」
アリスは完璧にくつろいでいた。左膝を椅子の上に立てて、スカートの陰にあるべき下着があられもなく見える様は、夢見るテレーズのよう。
「……あの世界は、あの女の作り物だからね。そりゃあ娘と言っちゃえばそうだけど、一個人の箱庭の中じゃ、愛情に濃淡も出てくるってものよ」
だからいじけているんだろうな。
アリスの魔界における立場がにわかに引き立てられたのは、人質として幻想郷に連れ去られた後の事だ。魅魔様がそうさせた。有能で、見込みのある娘だと。奪っていった口で売り込むのも滑稽な話だったけれど、とにかく、そういった事を聞いたあの女――神綺のやつは、この小娘の地位を正式な公女にまで引き上げて、私たちにも無碍にさせられないようにした。
この値の釣り上がりは商売のそれだ。彼女は商品。売り物にふさわしい、お人形さんのような顔と手足を持っている。……媚びるような愛嬌はまったく無いし、私は可愛くないと思うけれど、そういうところが可愛いと感じる連中も、いるには違いない。
アリスは相変わらず繰り言を続けている。
「……夢子さんって人がいたでしょ。あれが神綺の最高傑作。私はその他の有象無象……だったはずなのに、私が人質になったとたん、急に大切な存在になったみたい」
なんというか、気持ち悪いよな。そういうの。
「おぼえておきなさい。あの女は恐ろしい女よ」
存じ上げております。
……しかし私も神綺を恐ろしい女だと思っているが、アリスとはちょっと受け止め方が違う。あいつは本気でアリスを愛している。私は魅魔様に使われて外交役をやらされて、ちょくちょくと魔界とこっちを往来しているから、知っている。
言っとくけれど、あの小娘が対外的に大事な駒になったから、ママが慌てて愛しているような素振りを始めた、なんて意味じゃないよ。そんな政治的な、俗っぽい、欲得ずくの理由なら、私だってあの魔界の母を怖がったりはしない。やな話だけど、世の中そういうものだよなと思いながら、ひっそりと軽蔑するだけだ。――だが、あいつの娘たちへの愛情は本物だろう。不気味でしょうがない。神綺の、たくさんいる娘たちへの愛情は、全部本物なんだと思う。あの女は(たしかにあの女なんて呼びたくなる)それを証明できる。その時が近づいている。
私はぼんやり酔った頭で、家の戸口の方をちらりと窺った。目ざとい霊夢が不審を抱いたのか、首を傾げる。
(こいつは勘が良すぎる)
咄嗟に、フォンテーヌブロー派のように霊夢の胸元に手を伸ばして、その衣服越しの乳首をひねり上げた。羞恥と痛みによってあいつの酔いが一瞬でさめるのと掴みかかってくるのは同時だったが、その時にはもう、魔界からの団体旅行客たちが家の中になだれ込んできていた。
「どういうことなのよ!」
酔っ払いのねばついた唾が、そんな叫びとともに飛んできて、私の顔にもかかった。それをぬぐう事はできない。腰かけた椅子の背に、荒縄で後ろ手に縛りつけられていたからな。
霊夢も私と同様に拘束されていて、むっつり黙り込んでいた。この場で一番の当惑を見せているのは、旅装の女の子たちに抱えるように持ち上げられて、着々と身だしなみが整えてられていくアリス本人だ。
「これはどういうこと? 説明しなさいよ! あんたら怖気づいたわけ? あの悪霊さん、私たち魔界の力を借りて、この郷をどうこうするつもりだったんじゃないの?」
私はそっぽを向いて、黙り込んだままだ。
……でも、そうなんだよなぁ。たぶん魅魔様、そういうつもりなんじゃないかな、なんて思う。
だとしたら、えらい事なのよ。
「なんか答えなさいよ!」
「いろはにほへと」
「ふざけてんの?」
「……近頃は魔界とこっち、旅行客の往来が多いからな。それはともかく、これで手打ちよ。あんたを心底愛しているお母さんは、たとえ私たちと全面的に対立してでも、損得抜きであんたを取り戻すつもりなんだ……私自身は、そうまでして敵対するつもりはない。だからうちらのややこしい関係は、これでおしまい。何もなかったの。それだけ。これ以上の説明をあんたにするつもりはない」
そのうちに、救出部隊の離脱の準備は整ったようだった。アリスは泥酔した人質から、泥酔した旅行客へと見事に転身していて(なんか違いがあるのか?)、抱えるように連れ出されかけていた。
「じゃあね。お里に帰って、しばらくおとなしくしてな」
「なにがお里よ! 魔界はこっちなんかよりずっと栄えているのよ!」
相手側としても、今のアリスには黙ってもらいたかったのか、一人がテーブルの上にあった酒瓶を取り上げて、無理矢理、そのお人形さんのような口へ酒を注ぎ込む。ごぼごぼむせ返った次の瞬間には、噴水のようにほとんどを吐き出してしまって、飛沫がその場の全員に降りかかった。
でも、ようやくアリスもぐったりと力を失ったようだ。私は言う。
「……地元の居心地がいいのなら、そこで楽しく、快適に頑張ればいい。お別れね」
「おぼえてなさいよぉ」
「さあ、憶えている自信がないな」
「……代わりに私が、できるだけ憶えておいてやろうかしら」
この展開にはさすがに思うところがあったらしく、霊夢がぽつりと言ったが、こいつはきれいさっぱり忘れてしまうたちだからなぁ。
魔界からやってきた神綺の娘たちに、アリスが連れ去られて、家は静かになる。縛られて取り残された私と霊夢にとっては、ぼんやりするしかない時間がしばらく過ぎた。
やがて、私は唇に挟んでいた魔界行きの旅券――去り際、女の子の一人が口に咥えさせくれた――を、ぷっと吐き捨てた。彼女たちは逃げきるだろう。計画通りに事が進んだし、あの旅券だって私にとって必要になるものかもしれないけれど、今のところはなんだか腹立たしかった。あがけばあがくほど、縄の締まりがきつくなってきたからだ。
「……あいつら、結び目を塩水で濡らして行きやがったわ」
「信用されてないのね、あんた」
霊夢はのんきにごそごそと身をよじり始めたが、その動きは見る間に大きくなった。
「ありゃ。縄が解けた」
……相変わらずこいつはデタラメすぎる。なんの参考にもならん。
それでも手助けはしてくれるだろうと思って、ちょっと思わせぶりな視線を向けるが、霊夢のやつは立ち上がると大きくのびをして、そっぽを向いてしまった。
「あーあ、あんたと付き合ってるといつもひどい目に遭うわ。……あらためてお茶でも淹れようかな」
「たすけて……」
私はあっさり方針を変えて、憐れみたっぷりに霊夢にへりくだった。……情けないけど、こいつにはこれが一番効果あるんだよな。
霊夢は少し苦笑いしながら、なにか縄を断つものを探してくれるつもりのようで、あちらの物置にふらりと入っていきながら、私に聞こえるように言う。
「はぁ……まあいいけど。それより魔理沙、これを魅魔にはどう説明するつもりなのよ」
こいつも別に察しが悪いわけではないので、これが魅魔様の意向に逆らった行動だと、気がついているようだった。
「どうなっても知らないからね」
私だって、知ったものかよと言ってやりたい。
この件、私はほとんど使い走りの外交官役しかやっていなくて、悪巧みをしていたのは魅魔様と――そしてアリス自身だ。あいつは新たな自分の立場に戸惑いつつも、積極的に利用しようとして、政治的に、俗っぽく、欲得ずくで行動しようとしていた。あんなめそめそ屋だけど、あいつにはあいつの野心があったのかもね。……あるいは、自分の境遇に順応できず、ちょっとおかしくなっちゃってたのか。
ま、そんな事はどうでもいいか。
「……魅魔様も怒りはするだろうけど、すぐけろっとしちゃう方だからな。ほとぼりが冷めるまで身をひそめるよ」
「呆れるわ。相手の冷めやすさを信じて反逆するだなんて……都合よく忘れてくれたところで、あいつはいつか、なにかの拍子に思い出して、むかっ腹が立ってきて、あんたは時間差でぶん殴られるのよ」
なるほど。示唆に富む考察だ。その時は霊夢も一緒にぶん殴られてくれないかな。
「……あと、もうひとつ訊きたいんだけど」
霊夢は物置の奥を漁りながら、続けて尋ねた。
「あんた、単に成り行きまかせで魅魔のやつを出し抜いてみたかっただけ、っていう気持ちも、あったりする?」
賢い。
超賢いぜこいつは。
「……そうとも言うかもな!」
やがて、霊夢は錆びて古ぼけた手斧を手にして、私の目の前に戻ってきた。そして「私の好みの方法は、ややこしい結び目をほどくよりかは、断ち切る方なのよ」とかなんとか言いながら、有無を言わせない振りかぶり。
そりゃ、結果的には怪我ひとつしなかったけどさ。
なにもかもがデタラメなやつだ。
「うちは家具の修理とかしているわけじゃないんだよ」
「お茶と駄弁りとゲームと音楽以外に何があるのさこの道具屋……」
「充分すぎるほどに満喫していないかい……」
人里外れの道具屋に、霊夢の一撃によって背の部分が破壊された椅子を持ち込んで店主とかけあっていると、やがて相手が根負けしたように言った。
「……繕い物くらいならできるよ」
「ちょうどよかった! 帽子のこのあたりが、ちょいとみすぼらしい事になっていたの」
「わあでっかい穴」
壊れた椅子は店に放置してやった。
私について店にやってきた霊夢は、店内の、テーブル筐体のスペースインベーダーにかじりついている。黙々と画面上の侵略者を撃破していく、あいつ。
「お前ほんと、そういうゲーム上手いよな」
「褒めてくれたって、うちじゃ匿ってやらないからね」
「だいじょぶ。潜伏先は他にも考えてるから」
最悪、魔界への亡命って手もあり。でもアリスに向かってあんなお別れをしちゃった手前、その足でのこのこ再会する羽目になるのは、気が引けるんだよな……
「さっさと魅魔に取っ捕まって、お仕置きされてしまえ」
「あんまり痛いのは好きじゃないのよ」
「それでも顔は合わせなさい。まずは当人と話し合うのよ」
「……香霖、聞いたか?」
霊夢のやつが対話を持ちかけているぜ――と、からかおうとしたら、言った当人もなぜか戸惑っているらしい。インベーダーを一匹撃ち漏らして、膝で筐体を小突いた。
「僕は繕いもので忙しいんだ」
「あっそ。……でもさ、話し合ってどうにもならないことだって、あるでしょ?」
「じゃあ決闘をしなさい」
霊夢は私の問いかけに、そう答えた。表向きは対話を勧めても、彼女が心底見たいのはもちろんそちらの方だった。
「決闘、決闘か……ほんと好きだよね、霊夢は」
私は苦笑いした。
「でもさ、そんなお遊びをしたところで、なにが変わるっていうんだ?」
反語的問いかけ。
それから数分間、あいつは不機嫌そうに黙り込んでゲームに専念していたが、うまくいかない事が多くて、最後には地上を失陥した。
「帰るわ」
霊夢が神社へと帰っていく道に、堂々と肩を並べて私は歩いている。
「……匿ってやんないって言ったでしょ」
「あてにしている方向が、お前んちと偶然一緒なだけだ」
嘘はついていない。教授たちはとうに帰ってしまったけれど、あの遺構はまだ神社のすぐそばにあるからな。
霊夢もすぐに、その事に思い至ったらしい。
「……あー、あそこか。そういえばあんた、あの後もちょくちょくあそこに出入りしていたっけ」
「色々と仕掛けもあるのよ。逃げ込めば、たぶん三日はもつ」
「あっそ。準備がいいのね」
そりゃあねぇ……。
「霊夢も、なんかあったら逃げてくるといいぜ」
「なんかあったらって、なにがあるのよ」
「魅魔様が、博麗神社を滅ぼそうとしたりとかね」
「ふっ、なに言ってるのあんた――」
霊夢は鼻で笑いかけたけれど、すこし眉を寄せた。
「どういう事よ」
「出会った相手はみんな敵対者だ」
そういう可能性もあるってだけ。
……ただ、そんな思いつきが、ここんところずっと頭の中でぐるぐるし続けている私は、なにかおかしくなっているんだと思う。
そのまま霊夢が黙りこくったので、神社までの道のりはなにも会話がなかった。魅魔様が突然目の前にやってきて、私をぶん殴るというような事すら、ない。それでも、なにか、いやな、きりきりする予感だけはあって、直後の有り様を考えると、私はのこのこ罠に嵌りに行っていたんだと思う。だって夢幻遺跡に到着してみると、遺跡はもの見事に崩壊していて、入り口は完全に潰されていたんだもの。
(魅魔様はこっちの行動を先読みしている)
私が、その状況が意味しているものを悟って地面を蹴って逃げようとすると、霊夢が私の腕を引っ掴んだ。
「待ちなさいよ」
あいつは言った。
「匿ってあげるから」
Player:博麗霊夢(博麗靈夢)
魅魔のやつが神社におとないしてきたのは、その夜更けのこと。
「霊夢ぅ、開けてよぉ、入れてよぉ」
おどけた調子で縁の閉じきった雨戸をばんばんと叩いてくるので、さすがに起きるしかなくなって(あとで魔理沙に「お前よくこんな状況でぐっすり寝られたよな」と褒められた。照れるわ。)、外と同じくらいの勢いで内から雨戸をガンガンと蹴り返した。うっせえぞてめえいま何時だと思ってンのよ人間相手ならもうちょいまともな時間に来なさいよとかなんとか言っているうちに、ついうっかり、雨戸を蹴り飛ばしてしまった。
外にばたんと倒れた雨戸の下から、魅魔が這い出してくる。
「……魔理沙いる?」
「いるわ」
隠す必要ないでしょ。
「そう」
魅魔は別に怒りもせず、屋内に上がり込んだ。失礼すぎる。
「どこだい? 押し入れの中? 屋根裏? 縁の下?」
横・上・下と、魅魔の指がせわしなく振られた。
「霊夢の抜け殻の中……」
さっきまで私が居た形を保って空洞になっていた布団から、同衾していた魔理沙が這い出してきながら言った。私はなんとなく、その上に腰かけてやった。
「……そして霊夢の尻に敷かれた」
「仲良いねあんたらは」
「霊夢が機嫌良くいてくれる間だけはな」
魔理沙が嫌味っぽく言ってくれるけど、んなわけないでしょ。私いま、超絶不機嫌よ。
魅魔が口を開いた。
「ここに来るまで、大変だったわ。そのへんの野良をついでにのして、魔界に行って、戻って……幽香にも会ったな。だから、ここに来るまでに四人抜き」
「霊夢が五人目、私が六人目ってわけか……」
魔理沙が低く囁くようにぼやくと、その内臓が私のお尻の下で動くみたい。
「……あんたなに無駄に良い声出してんのよ?」
「霊夢に乗っかられているせいで、こんな声しか出ないの!」
ふうん。けっこう好みの声なのに。
「……それはそうと、魅魔はどういうつもりよ」
とにかく、押しかけてきたやつの相手はしなきゃいけなかった。
「魔理沙を引き渡してもらえれば、それでよろしいわ」
「本当? 本当ならそれでもいいんだけど……」
「おいふざけんなよ……」
腰の下で魔理沙が抗議するのが、なんだか私の芯を刺激するようで、ぞくぞくする。
「でも、あんたが博麗神社に復讐するつもりだって聞いたからね」
「誰に?」
「魔理沙に」
「じゃあ全部そいつの、でたらめよ」
魅魔は面白がっているみたいだった。
「だがそうか……復讐ねぇ。思いもしていなかったけれど、実際そうなるかも」
「はぁ?」
「あんたを困らせるのが復讐になるなら、これは復讐なのかもねって言ってるのさ」
「もう既に困っているわ。主に魔理沙のせいだけど」
「もっと困るんだ」
魅魔のやつ、そんなことを言いながら嬉しそうに、すうっと神社を出ていった。
意味深な、しゃらくさい事言いやがって。
こういう奴らがいるから、私はこの世界のすべてをぶちのめしてやりたくなるのよ。
蹴とばした雨戸は建てつけが悪くなっていたけれど、二、三回ほど下枠のあたりを蹴りつけて、なんだかいい感じにする(魔理沙には「壊すのも直すのも足って、足癖が悪すぎる」と言われた)。それから二人で一つの布団に横になって、寝つけないまま、ぼんやり天井を眺めていた。
「……魅魔様がやろうとしている事は、おそらく在野の妖怪たちの糾合だ」
魔理沙が、隣でぼそりと言った。
「山の方にいる、古風な妖怪さんたちに対抗しようとしているんだろう」
「お山ねぇ……ほとんど関わり無いから、よくわかんない」
別に、関わり無いならそれでいいとも思っていた。今だって、わざわざ首を突っ込むのも馬鹿馬鹿しい。
「あの山もさ、昔は色々あったらしいよ……私も偉そに言えるほどは詳しく知らないし、ほとんど又聞きだけど」
「そういう話を、妖怪たちとの社交の中で仕入れていたの?」
「みんな忘れっぽいし、自分に都合の良い話しかしやがらないけどね」
あんたそっくりよ、そういうの。
思わず笑ってしまいそうになったけれど、他の事の方が気になった。
「で、今、山でなにが起こっているのよ」
「率直に言うと、わからん。私も色々付き合いの手を伸ばしたけれど、あの樹海の向こうは謎だ」
こいつ、ワタクシは物知らずですと、偉そに言うじゃない。
「話にならないわ。それで、どうして私が今以上に困るのかしら」
「困らないわけがないだろ」
「でも復讐といえるほどは、困っちゃう気がしない。……だいたい、妖怪同士の諍いなんて、勝手にやってなさいよ。どうせ郷を崩壊させるほどじゃないでしょ、あんな雑魚どもが息巻いたって」
私が鼻を鳴らしたのを見て、魔理沙は笑った。
「果たしてそうかな」
「たとえ太古のおとぎ話のような力が奴らにあったとしても、私はぶちのめしてやるわ」
「つよい」
「当たり前でしょ。私は人間だもの」
人間が妖怪なんかに負けるわけがないでしょ。
「……妖怪といえば、幽香はどういう立場なのかしら。あんたに釘刺してたし」
「わからないけど、たぶん……あいつ、ああいう物騒な性格の割には、ややこしい事は嫌いだと思う。霊夢と同じタイプだな」
「どういう意味よ」
そっちの方がよほど健全だと思うわ。
「ともかくさ、わかんない事が多すぎる」
そう言いながら、魔理沙は布団の中で足を組み替えるように膝を立てた。引っ張られた布団から、私の足先がはみ出す。寒い。そこからしばらく布団の取り合いがあった後で、最終的に、どう考えても二人とも損をしているとしか思えない寝相になってしまった。
アホくさ。
「……わかんない事が多すぎんだよ」
魔理沙は、さっきと同じ事を言った。それがお気に入りの言葉になったのかしら、このオウム。
それにしても、このままちょっぴり寒々しい思いをしながら夜を明かすのか……なんて思っていると、外の方はもう朝の気配。
屋外の、境内の方で、物音がした。新聞配達さんみたい。
建てつけが悪くなった雨戸をふたたびぶち破った私たちは、配達にやってきた鴉天狗を、二人がかりで捕らえた。
「ぁ? ゃ?」
相手はあくび混じりにとぼけた声を上げて、それからちょいと抵抗したけど、魔理沙が縋るように取り押さえているところを、私が破れた雨戸でぶん殴ってやると、すぐ大人しくなった。
「……ちょうどよく、山の方の事情を知っていそうな奴が現れたじゃない」
「あまりに無法すぎる……」
とは言うけど、あんたの行動もめちゃくちゃだわ魔理沙。
「で、夜分遅くになんだこいつ」
「明け方早くの怪文書屋よ」
当時、私はそう認識していた。新聞屋さんだってわかったのはずいぶんあとの事。だって、こいつの書いているものなんて、どう考えても怪文書じゃない。
「とりあえず起こすか」
「血が出てるけど、勝手にこけたって事にしましょう」
私たちはそう言い合い、気を失っているそいつの膝を、思いきり蹴り上げた――ここを蹴とばされて目を覚まさないのは、死人か、目下死人に近づいているか、はなから感覚が無いやつだけ。
「……痛ったぁ」
勝手にこけたから痛いのよ。
「……急にうちから出てきて、悪かったよ。そしたらそっちがびっくりして、ずっこけたんだ」
魔理沙が図々しく言った。
「そうでしたっけ」
ブン屋(こう書いておけば、新ブン屋だろうが怪ブン書屋だろうが、間違いなくブン屋でしょ)は、頭からたらたらと血を流しながら言った。どうも意識が混乱しているらしい、かわいそうに。
手当てしてやりましょう、と言いながら私たちはブン屋を屋内に引きずり込んだ。
「あんた山からきたんでしょ」
「霊夢、治療が先だぜ」
「やりながら話を聞けばいいでしょ」
そう言いながら、寝所にある箪笥から、傷薬やらなんやらを取り出す。
「私、妖怪退治してんの」
「知っています。あなたは妖怪の山でも有名ですから」
「あんたは無名ね」
「つれないですね。こんなに新聞をばらまいて、名を売っているというのに」
「よそでどんなに有名だろうと、私が知らなければ無名と一緒よ」
やっぱり怪文書屋だわ。
「……そういえば、あんたの事、少しは知ってるかもな」
赤チンつきの脱脂綿をピンセットでつまんで振り回しながら、魔理沙がブン屋の基本情報を言い連ねた。名前、種族、職業、所在地、それに身長、スリーサイズ。
めちゃくちゃ知ってんじゃん。
「天狗の中じゃ変わり者だって聞くぜ」
「変わり者でなければ、山の外まで名は聞こえないでしょう。我々は――あー、ちょっと内向きの社会なんで」
自分がそうでない事を誇るように言うのね……なんて思いながら、私はちょっとだけ、ブン屋さんの気つけ用に(うそ。私もちょっぴり飲みたかった)おささを持ってきてやろうと気遣って、奥に引っ込んだ。
戻ると、魔理沙がブン屋に羽交い絞めにされて、人質に取られている。
「ありゃー、魔理沙……油断したわね」
「たしかに不覚だった」
魔理沙はあくまで現状を受け入れているように、虚無的に言った。
「私だって、ぶん殴られて蹴っ飛ばされたんです。これくらい当然の仕返しですよ」
「バレてたか」
ブン屋は不敵に微笑んで言うけれど、なんとなく、本気で対立するつもりはなさそう。
「あっそ。……このお酒と交換条件で魔理沙を解放ってことで、どう?」
「いいですよ」
「私は酒と等価かぁ……」
その減らず口、いつか身を亡ぼすと思うわ魔理沙。
「うええ、私たちのことがもう記事になってる」
ブン屋の新聞記事を読みながら、魔理沙はこぼした。こいつが言う私たちの事っていうのは、もちろん、昨日の魅魔やらアリスやらとのごたごたよ(運よく、私の名前は記事の中にはかけらも出ていなかった。まあ本当に関係ないんだけど)。
「なんかいやだなぁ……」
「といっても、こんな記事、山の中では、だぁれも興味を持ちませんがね」
ブン屋が新聞を奪い返しながら、つまらなさそうに言う。社会への不満って感じの言い方。
「みんな、外のことに興味なしなんですね。自分たちの内輪でなにもかも話を回して、自給自足できているような顔をしています」
ような顔ってことは、できてないんだ。
そんな調子で、こいつの不満たらたらな胸の内をもっとくすぐってみたいけれど、あまりやりすぎると今度はむっつり口を閉じてしまいそうな気もした。そもそも私、天狗たちの内情なんかに興味ないし。
「……ま、社会への愚痴ばかり言っていてもしょうがないわ」
「んだな」
魔理沙が女の子っぽくない、与太郎めいた相槌を打ってくれた。最近のこいつは、酔うとこんな感じ。あんたが男っぽいのも嫌いじゃないけど、あんまり男の子になってしまうのも良くないと思うわ。
そんな事を思っていると、ブン屋がぼそっと、言い訳めいた呟き。
「近頃は山も男社会なんでね……」
それで全部、説明がつくような顔をしているの。そんな事はあり得ないはずなのに。
「私も女性活動家になってやろうかって思うくらいですが……まあ、女子供と軽んじられているからこそ、こうした勝手な活動も目溢しされているので」
「ふうん。サフラジェットな話だ」
魔理沙が言う。急に知らない横文字を使わないで。
夜が明けきる前に、天狗はお山に帰っていった。門限でもあるのかしら。
私と魔理沙は奥の台所に引っ込んで、お茶漬けを作った。茶を沸かした釜がまだふつふつと熱気を立てているのを感じながら、私たちは冷や飯と塩辛い菜っ葉漬けに、番茶をぶっかけただけの朝食をすすり込んだ。
「……なにひとつわからん」
魔理沙がお茶漬け(隙間だらけの、まったく重みを感じさせない、熱い茶の中で軽やかに舞ってほとんど液体化している米粒)をさらさら飲み下してからそう言ったけれど、私はそれを鼻で笑ってやった。
「そりゃ、わかるわけがないでしょ。何も起こっていないんだからさ」
「でも魅魔様はなんか起こそうとしているぜ。霊夢を困らせようとしているかまではわかんないけど……」
「あいつは何も起こせやしないわ」
そう言って魅魔を嘲笑うつもりだったのに、不思議なことに自分が冷や水をかけられた気がする。
「あいつも昔はさ、この神社どころか全世界への復讐だなんて吹いてたけど、なんにもできなかった女じゃない。いっつもそうよ。結局、最後に照れが勝っちゃうんでしょうね」
「……懐かしい話を持ちだすなぁ」
すると魔理沙は、話の内容よりも古さについて思いを巡らせ始めた。そういえば、こいつも初めて出会った時はその頃だったっけ……なんて、私の方にも魔理沙が抱く懐かしさが浸透し始める。
「まあ、そうか。あんなもの、女子供のごっこ遊びでしかなかったもんな」
そんなもので世界を変えられるわけがないでしょと言わんばかりに、魔理沙が呟いた。よりによってこいつがそんな事を言うのを聞くと、鼻の奥にすっぱいものが滲み出てくる。
ほんとは否定して欲しかったのよ。
まるで七世紀のように、一週間が過ぎた……っていうのが、あの時期を説明するときの、魔理沙お気に入りの言い回しだったっけ。私たちはたまにはつるんだり、別の場所で別々の事をしていたけれど、その一週間はまったく没交渉。でも、そういうことがあっても当たり前よね。他人なんだもん。
「魔理沙は最近来てないよ」
ある日香霖堂に顔を出してみると、霖之助さんがそう言った。そういえば私もしばらく会っていなかった。
「……最近にも、基準が色々とあるんだけど?」
妖怪基準の最近だったらたまんないからね。
「ここ一週間、といったところかしら」
私が疑問を投げかけたら、思いもしていなかった方向から答えが反射してきた。幽香だった。店の隅っこにある、テーブル型筐体のブロック崩しゲームで遊んでいる。
「あの子、まだ魅魔に追っかけ回されてるんじゃないかしら」
「そりゃ結構なことね」
カワイソーなんて思いながら、私は言ったのよ。すると幽香が笑った。
「巫女さんがのんきなのも困りものよね……ま、いつも通りか。妖怪たちが何かを目論んだところで、無視して、見て見ぬふりしちゃえば、勝手に萎びていくもの。妖怪退治なんて、ほんとは必要ないものね。妖怪連中なんてその程度の存在よ。あなたは正しい」
「私とお話ししたいの?」
「どうかしら。あなたの意見を聞く気はないわ」
「……あんたらがどういう魂胆だろうと、そんな幼稚な煽りで」
と私が喋りかけたところで、幽香は言いとめた。
「私は、その“あんたら”の一味じゃないわ。個人的な独り言よ」
実態はどうあれ、そういう体で話したいようだった。
「……霖之助さん!」
「あいよ」
「コーラフロート!」
「私はクリームソーダ」
「内緒だけどうちは喫茶店じゃないんだ」
店主はぼやいたものの、結局注文そのものが出てきた。そんなのだから魔理沙なんかに舐めた口きかれんのよ、森近霖之助。
ともかく、二品が向かい合う形で、ブロック崩しの筐体の上に置かれて、それで話す準備は整った。私は自分の飲み物のコーラフロートにすぐ手をつけたんだけど、幽香はそれをのんびり見つめていて、自分のクリームソーダには手もつけず、ゆっくり、バニラアイスがメロンソーダを白く濁らせながら完全に融け去っていくのを待っていた。そういう飲み方が好きみたい。気持ち悪っ。
「……独り言を始めていい?」
と幽香が尋ねてきたのは、私がコーラの上のバニラアイスを、あらかた食べてしまったあとだった。
「独り言に許可なんて必要ないでしょうが」
私は言い返して、ずずずずずと音を立ててコーラを啜った。
「それじゃあ独り言を始め(ずずずずず)。話を聞きなさいよこの(ずずずずず)……」
ささやかで無邪気なサボタージュを阻まれたので、私はブロック崩しをやりながら話を聞く事にした。
「魅魔のやりたいことは、この土地における主導権を握る事よ」
「んなもん見りゃわかるわ」
まったく、誰もが世界を操りたいのよね。
「……しかしながら彼女には足りないものがある。すなわち、山に引っ込んでいる妖怪たちを率いるだけの、格式」
私は何も答えなかった。ディスプレイ上のボールの反射に集中し続けている。
「同じ妖怪といっても、あちらとこちらじゃ、羊歯と蘭くらいありようが違うわ。向こうは古典的な、昔ながらの、由緒のある妖怪……どうせ仮冒と僭称を繰り返したいいかげんなものでしょうに。それでも気位は高い。そいつらと対等なつもりになるなら、格式は超大事よ」
「あんたらには無いんだ」
「必要としていないと言ってちょうだい。私はああいうのはご勘弁よ……彼らの種族的紐帯は枷になることも少なくない。自分たちは恐らくこうなのだろうという、はなはだ頼りなく曖昧なものにすぎなかった同族意識が、こうであるべきだ、こうでなくてはならないという、厳格で教条主義的な定義を求めていく過程で、自分たちの存在を縛っていくものね」
「なにが言いたいのよ? あんたはどの立場でもの言ってるのよ?」
「私はただただ妖怪さんよ。それだけ」
ああそう、と私はぶっきらぼうに言い返すしかなかった。
「じゃあ勝手に妖怪さんを名乗っておきなさいな。私は人間さんよ。あんたらの定義問題なんかに、巻き込まないでちょうだい」
「ふむ」
幽香は少し考えこんだ。
「定義の話か……では私たち妖怪と対比するとき、あなたたち人間とはどういう存在になるかしら?」
「当たり前でしょ。妖怪を退治する存在よ」
「ぶっぶー!」
両手指を交差させ、腹の立つ表情とテンションで幽香は不正解を宣言して、続ける。
「あんたらなんかただの妖怪の糧よ」
幽香の一言を聞いて、私はブロック崩しの筐体を勢いよく蹴りつけてしまった。よくない衝撃だったんでしょう、プレイ中のゲーム画面が、ぶっつんと切れた。
「……そんな事を言うやつがいるのなら、私は順番にぶちのめしていくわ」
「その時、あなたが最初と最後に出会う敵は、きっと妖怪ではなく人間たちでしょうね。しかしまあ……腹が立ったでしょ?」
「ふん、欲しかった反応だった?」
「まあね。ムカついた?」
「ええ。超ムカついたわ」
「でしょうね。それで、みんな、そんなふうにムカついてるのよ。お前らはこうだって、押しつけるように決めつけられてはね」
「そういったご不満は、
ご自分で、
ご勝手に処理して欲しいわ」
「お前なんかこの世界にいなくていいって、そう言われて、みんなムカついてる」
「人の話聞きなさいよ。勝手にするがいいって言ってるの」
「あんたに言ってんのよ博麗の巫女」
「…………」
「そうやって、また消えていくつもり?」
「消えやしないわ」
「じゃあ、先の博麗の巫女や、更にそれ以前の巫女たちが、どんな女で、どんな人々だったか、知ってるの? みんな消えちまったわ」
「私は消えたりなんかしないって言ってんの」
「分の悪い賭けね。それで今まで負け続けているのに」
「ちゃらちゃらしゃらくさい事ばかり言いやがって」
と言って、私は立ち上がった。それでも幽香は柔らかな笑顔を維持している。
「そのムカつきは、私にぶつけられるべきものかしら?」
「あんたが煽ってるからそうなんでしょうよ」
「おかしいわ。私は独り言を喋っているだけ。なのに彼女は、どうしてこんなに怒るのかしら……」
私はこいつの胸倉を掴んで、店の外に引きずり出したかった。手も出かけた。それができなかったのは、幽香が、絶妙な間ですっと立ち上がったから。
「悔しかったら、あんたが全員ぶん殴ってでも、どうにかしてみなさいよ。……できなければ、博麗の巫女なんてものはこの世界から不要よ。そうなれないあんたらなんて、実を結ぼうとせず、見捨てられ、必要とされなくなって、あとはもうその場からいなくなってくれるのを、みんなから待たれているだけの存在」
私はまたしても手を出しそうになったけれど、またしてもそれがかなわなかった。机をぶっ叩くものすごい音が店内に響いて、私も幽香もそちらに顔を向けてしまった。
「……蚊だよ。耳元でぷんぷんうるさかったんだ」
絶対嘘だわ霖之助さん。
「逃げられちゃったけどね。ま、いいや。独り言を続けな、お嬢さん」
「独り言は勝手に終わらせられるから独り言っていうのよ、お兄さん」
そう言って悠々店から出ていこうとした幽香の顔面に、香霖堂の扉が内開きにめりこんだ。
あんたのそういう、間が良いのか悪いのかよくわからないところ大好きよ、魔理沙。
「いけね……どういう用事でここに顔出したのか、ド忘れしちゃった」
ひと騒ぎしたあとで、魔理沙がぽつりと呟いた。
店内の雰囲気は、ちょっと気まずい。霖之助さんは奥に引っ込んでお茶を用意していて、幽香は鼻の穴から紐をぷらつかせて、むっつりしている。
タンポンを鼻血止めに使うのは魔理沙のアイデアだった。アホか。
「いい気味だと思ってるでしょ」
「別に」
本当に思っていなかった。たしかに幽香には手ひどく侮辱されたけれど、時間をおいて、まあ言われてもしょうがないかって気分になってきていたし、こいつだって言いたくて言ったわけじゃないって、わかってるもん。
「私を煽り倒して、やる気にさせたかったんでしょ」
「まあね」
幽香が鼻の詰まった声で言った。
「個人的に、あなた自身の気持ちをちょっとつついてみたくなったのよ。少なくとも魅魔の目論見はそうだったんでしょ、魔理沙」
「よくわからんけどね」
魔理沙はえらそうに、はっきりしない答えをした。
「あんたが思っているほど、私はあいつとつるんじゃいないんで」
ついに魅魔の事をあいつ呼ばわりし始めた魔理沙。
「……でも、博麗の巫女の値をつり上げるつもりだったのはわかる。それも多分、最初っから――おっと、香霖の顔を見たら用事を思い出した」
霖之助さんが奥からお茶を持って戻ってきたのを見ると、魔理沙は話を中断して、スカートの中からごそごそ取り出したものを店主に投げつけた。
「それ、もっとパワーアップできるかなあ?」
霖之助さんは、受け取ったミニ八卦炉をまじまじと眺めて、答える。
「……君の経験値が充分に溜まっていて、なおかつ特定のマジックアイテムがあるなら」
「それならたんまり、店開きできるくらい。さいわいここ数年、怠惰でのんきな友人のおこぼれにあずかる事ができたんだ」
「待ちなさいよ、魔理沙」
私は話を引き戻さなきゃいけなかった。
「最初からって、どこの最初からよ」
「出会った時に決まっているでしょ」
幽香が話を引き継いだ。
「当代の博麗の巫女に実績を積ませる事で、その価値と格をつり上げる。すべては魅魔の迂遠で遠大な策謀よ。博麗の巫女の価値なんて、そういった事績でしか測る事ができないもんね――怖い顔しないでよ。私は、私人としての博麗霊夢の価値の話なんて、これっぽっちもしていないわ」
そう言いながら、血まみれのタンポンを鼻から引っこ抜いて、律儀に便所のサニタリーボックスに捨てると、今度こそ香霖堂から去ろうとする。
「……ま、迂遠で遠大というのも違うか。私たちの時間感覚は、人間どもとはちいっと違っているからね」
「待ちなさい。私を利用したいなら利用し尽くしなさいよ」
幽香の背中に声をかけて、呼び止めた。
「私さ、別に、利用されてるからってムカついてるわけじゃないのよ。そこは、利用してくれてありがとう、だわ――利用されない方がみじめだもん――それはそれとして、自分の価値を勝手に切り分けられて、あんたはこれだけと決めつけられて、それ以外をいらないものと扱われた事の方がムカつく」
「……それじゃあ私は、あなたをもっとムカつかせられる」
こちらを振り向きもせずに言う幽香の声は、すでに私を参照していないみたいだった。
「魅魔はあんたを見捨てたわ。……だって、どれだけ事件を起こして奮ってみても、博麗の巫女の値打ちは、ちっとも上がる気配がないんだもの。むしろその逆で、お山に住んでいる主流派の妖怪さんたちは、貴女を完全に軽んじている。綺麗なばかりの弾幕ごっこなんていうゲームに――ただの女子供の遊びなんぞにふけっている虚け者にしか見られていない」
幽香が出ていった後で、私たちも香霖堂を出た。
「利用されていた気分はどうだい?」
「べっつにぃ」
魔理沙が肩を並べて歩きながら尋ねてきたけど、自分でもびっくりした事に、さほどの感慨も湧いてこないのよね、これが。
「ま、楽しませてもらっていたわ」
「確かにな。私も楽しかったよ」
こいつは追憶のように言うけれど、私には過去形にさせる気は無かった。
「もっと楽しみたいわ。あいつらをぶちのめして」
「霊夢らしくてすごくいいと思う。……人生相談してやるより、暴れる楽しみを与えてやった方が、話が早そうなあたりとか」
と、少し言葉を選んで言った。発された言葉より、頭の中で慎重に選り分けられて排除された言葉の方が気になっちゃう。なにを言おうとしたのよ。
「……あいつら、体のいい御輿を探してただけなんだよ。博麗の巫女もそうだし、魔界の小公女だってそう、科学の世界からやってきた狂った教授なんてのもいたっけ」
「そういうのが気に食わないのよ。私じゃなくても、別に誰でも良いだなんて」
「言うなって……とにかく、魅魔も、幽香も、べつにこの土地の主流でもなんでもないって事だ。むしろよそ者、のけ者、じゃま者。その場からいなくなってくれるのを、みんなから待たれているだけの存在」
私は鼻で笑うようなため息しかつくことができなかった。悪口って、自分が言われてこたえる事を言うものなのよね。
「魅魔や幽香が“じゃない方”だとして、樹海の向こうにいる、主流の、古風な妖怪の方々って、そんなに強力な連中なのかしら」
幽香みたいな蘭と比べると、羊歯くらいありようが違う方々――
「そこな。私も個人的にちょっと調べてみたんだ」
魔理沙はどうやらここ一週間は魅魔のそばにいたわけではなく、むしろ対する側の懐に潜り込んでいたみたい。
「難しくはなかったよ。私たちの共通の友人の、あの新聞屋が、潜入する手引きをしてくれた」
「いつの間に友達になったのかしら」
きっと雨戸でぶん殴った瞬間からだわ。
「……まあ、そうだな。山の妖怪たちはありていに言って、自分たちの定義に縛られて、こちこちの、ぼやけた灰色、黴臭くて、蜘蛛の巣張って、泥まみれ。そんな連中」
「そんなダサい連中に、どうしてみんなそこまで必死なのよ」
「物事に遊びってもんが無いからだろうな。すべて必死で、切り捨てられまいとしている。だからみんなムカついてる。遊びを否定されて、今の霊夢がムカついてるみたいに」
「じゃあさ、私たちは遊びのつもりでいきましょ」
宣言のように魔理沙に告げた。
それはそうと、道は歩くほどに霧に包まれて、ひんやりしてきた。水辺が近いみたい。
Stage:幻想郷
紅いカーテンの長すぎる裾は床にたっぷりと接地していて、流血の洪水のように部屋の四隅に溢れている。紅いといえば、絨毯の床も深紅だ。毛足の加減のせいか、歩くたびにじゅくじゅくと汁気を含んでいるような、奇妙な感触がある。前後左右と足元がそんな状況ならば、天井が紅くないはずがない。血でも滴り落ちてきそうな天井だった。
そんな紅い応接室の中で、魅魔は自分だけが、妙に冷めている色使いをしている気がしていた。実際のところ、正面に座っている館の主人にしたところで、そこまでけばけばしく紅いばかりの装いではなかったにもかかわらず。
「……いったいこの土地に、なにがあったって言うの?」
「私に、私たちの――あー、いや。彼らの蹉跌と敗北の歴史を、全部ほじくり返して話せと?」
主人の問いかけにそう尋ね返す。あらかた用件を話し終えたあとで、質疑応答が行われていた。
「当たり前でしょ」
と言ったのは、主人ではなく、友人の魔女だった。それまで微熱持ちのようにソファにじっともたれかかり、人形とも変わらないような佇まいだった魔女は、今更もぞもぞと動き始めたのだ。
「恥も汚辱も聞いておかなきゃ、なにも始まらない。ね? レミィ」
「……私は聞きたくもないけど、彼女に聞かせてあげるつもりで話してちょうだい」
「失政、失策、失脚。そればかり」
魅魔はぶっきらぼうに言ってから、少し間をおいて言葉を継いだ。
「……ただ、やった事が間違っていたからこうなったとは言えないね。彼らが間違っていたと断言できるような、お気楽な思考を持てるなら、そこで話はおしまいなんだけど」
「間が悪かったのね」
女主人は、それだけぽつりと呟く。
私は今でも必要なことだったと思っているけれど、と魅魔は前置きしながら、話を続けた。
「……かつて、この郷を論理結界によって外界から隔離してしまおうという政策があった。それは実行されて、混乱を引き起こした。以降、結界は破綻こそしていないけれど、百年以上経った今現在の評価は、はなはだ難しいことになっている」
「興味深いわね。ある種の孤立主義かしら」
「ただの引き籠りとも、世界を拒絶したともいえる。……妖怪の立場が難しくなった時期でもあって、いわゆる時代の流れもあったんだろうね。お前らなんかいらないし、できれば早いところいなくなってくれないかなって、みんなから思われちゃって、なんかムカついて、気がついたらそうなった」
「きっついわね」
館の主人は、思わずくだけた調子で呟いてしまった。
「ちょっと同情しちゃうわ。こっちものんきに生きてきたけど、まあまあ色々あった身だし」
「それでも、あんたは運が良かった方でしょレミィ。ひとつ飛ばし前の世紀末と、それに続く大凋落の時代が訪れようとしたとき、なぜか人間の側から、勝手に吸血鬼の名前を高めてくれたんだから」
友人に言われた主人はすこし照れくさそうに肩をすくめたが、それでも屈託は無さそうだった。
「ま、おかげで痛快だった事もあるし、道化にされかけた事もあるわ。……でも、そんなの心の持ちようじゃない」
「では、今から御輿にされるのもやぶさかではないというわけだ」
魅魔が言ったが、主人はその言葉に答えようとはしなかった。
「……あなたたちは、この土地に結界を張った。それで?」
「みんながみんな、こんな施策に賛成したわけではない。むしろ反発の方が大きかった。今でも大きい」
「ふん、メリットもデメリットもわかりやすいからね。そうなるでしょうよ」
「……パチェは、この政策についてのメリットはどういう点だと思ってるの?」
「既存の世界と別の路線を歩むことができる」
「デメリットは?」
「既存の世界と別の路線を歩まざるをえない」
女主人は噴き出してしまった。
「……ふざけた答えだけど、そういうもんよレミィ。そんなムチャクチャをやるのなら、実行者は、今までの世界とはがらりと違ったグランドデザインを、この新世界の住民たちに提示してやらなきゃいけない。自分たちは愚かな旧世界とは違うってね。やっている事の正否なんてどうでもいい……重要なのは、共同幻想を見せられるか、それをやり通せるかやり通せないかって部分だけ」
魅魔はどんよりとした目をしながら頷いた。
「……当時、この郷を運営していた賢者たちはやり通せなかったわけだが、その原因は彼らの怯懦ばかりではなかったと思う。障害は大量にあった。まとめあげようとした相手は、派閥があり、種族で固まっていて、なにより存在意義の確保こそが第一義の妖怪たちだったからね。――それでも賢者たちは、断固としてこの政策をやり通そうとしたし、それら閥族の有力者たちの中にも、少しずつではあるが大結界の存在に賛成する陣営を形成できていた」
「その賢者たちが有していた権力は、どれくらいのものだったのかしら。……聞いていると、郷の諸勢力をまとめあげるどころか、つなぎ役にしかなれなかったようだけど」
「おっしゃる通り」
「賢者連とやらは、本当に単なる理論の提唱者でしかなかったわけね」
「しかしレミィ、まったく不可能な統治形態ってわけではないわ」
吸血鬼の館の女主人の嘆息に対して、友人の魔女は言った。魅魔も頷いた。
「――実際、賢者たちは、てんでばらばらな妖怪どもの首根っこを、うまいように掴めていた時期もあったんだ。やり口は典型的だが巧妙だったよ。直接的な権力の行使はせず、勢力の急所や要人にだけ影響力を保持しておくんだ。これなら種族的紐帯から生まれる、せこいプライドだって刺激せずに済む」
「……逆に言えば、そうしたプライドを刺激すれば、たちまちひっくり返される危険をはらむくらい危ない橋を渡っていたのね」
そう言った主人の興味が、直後にすっと別のものに移ったのを感じて、魅魔はその視線を辿る。いつの間にかキッチンワゴンが部屋の隅に運びこまれていて、のっぽの従者が柱のように立っていた。
饗されたのはサック酒。それに酒肴――鮮やかなピンク色をしたレバーパテを、薄切りの黒パンにたっぷり塗りつけたオープンサンド。それをもぐもぐやりながら女主人は尋ねた。
「……で、どうしてあんたらは失敗したの?」
「食糧政策の破綻」
五里霧中の彷徨の果てにその水辺にたどり着いた時、博麗霊夢と霧雨魔理沙は、地の果てにやってきたような心持ちになっていた。そこから向こうには、ぼんやりとした影しか見えない。だが、もし霧が晴れていれば、ここは単なる湖のほとりに過ぎないはずだった。
この水の向こうにあるものも、二人は知っている。人づてに聞いたことがあった。
「……アリスの紅茶のこと、覚えてるか?」
「なによ急に」
「正確には、紅茶に使っていたミルクだ。……あれは誰に貰ったものだろう。当然、しかるべき経路からやってきたものだ。――人質生活の中で、あいつは魔界からちびちび仕送りを受けていたけど、そういう品を自慢げに見せびらかす性格じゃない。ぶつくさ文句を言いながら、しぶしぶを装って、ありがたく使う事はあるだろうけどな」
「あんたら性根がそっくりさんだから、その分析自体はきっと正しいんでしょうよ。……それで? な・に・が・言いたいのよ?」
「紅茶用のミルクなんてものを融通できる奴らは限られている。少なくともこの土地では希少だ」
言うと同時に霧が晴れた。真っ赤な建造物が、霧に濡れて、色を濃くして佇んでいる。
「そういうことか……最近西の方から引っ越してきたあのお屋敷、吸血鬼が住んでるって聞いたことがあるわ」
「私も知ってる。湖の中の水城に棲み、人間の生血を絞る連中とは、さながら神州纐纈城だな」
「それとこのお濠よ。なんでも館の主がサメを飼っていて、渡ろうとすると食われるだなんて与太話を聞いた事がある」
「ドラッケンかよ」
魔理沙はひとしきり笑った後で、すんと真顔になって、言った。
「……魅魔は、今度はこの館の吸血鬼を御輿に担ごうとしている」
「まったくもって節操無しね。あいつこんな調子で、この郷じゅうのベルをがんがん鳴らしているんじゃない。山の向こうの古ぼけた妖怪さんたちが黙っちゃいないわ」
「その点はまったく問題ないんだ」
「そうなの?」
「山に潜入してみてわかった。彼らはもうなんの力も持っていない」
魅魔はじっと言葉を選び続けている。沈黙は、館の女主人のグラスを一度空っぽにさせるくらい長かった。
「……てっきり、食糧問題を解決した上で、この土地に引き籠ったものだと思ってたわ」
沈黙の時間をむりやり終わらせようと、魔女がぼそぼそ言った。魅魔も話を急かされた事にいらつきながらも、口をつけた酒精強化ワインの強さに痺れつつ、うんうんと頷く。
「もちろん色々な計算はあっただろう。見込み違いが同じくらいあったというだけの話だ」
「……私は、人間の里あたりがあんたらのための牧場になっているのだと思っていた」
と女主人が言ったのを、魅魔はかぶりを振って否定した。
「ところが不思議な話でね。大結界を真っ先に肯定し、賢者たちの有力な支持層になったのは、人里の人間たちだったんだ。彼らはごたごたした結界騒動の中で妖怪同士が競り合ってくれれば、自分たちは被害を受けない事を知っていたんだ」
そこで考え深げに言葉を切る。
「……近視眼的で場当たり主義的な立ち回りと言ってしまえばそれまでだが、終わってみると、一連の騒動と巧みに距離を置くことができていたのは人間どもだったと思う」
「きっと指導者に恵まれたのね」
「しかし、それでは食糧問題はどうするつもりだったのよ」
「結界の外から、こっそり、ちまちまと。あちらの世界(の、私たちを圧し潰しかねない膨大なリソース)から、問題にならない程度に一部を掠め取らせていただく。……えーえー、とぉっても不満でしょうよ。私だって、結界に反対していた奴らの気持ちも、わからんではないのよ」
館の主人が眉を顰めたのを見て、魅魔は言った。
「考えてみな。自信満々、自分たちの世界に引き籠ったくせに、実情は自給力もかつかつ、その日は満たされても誇りばっかり削られていく、卑屈な収奪の日々だ。……こんな事が続いたら、気持ちだって萎えるさ」
「レミィのように、そのへんのジレンマとうまく付き合えた者ばかりではないって事ね」
魔女が友人に言った。それから、今度は来客に言葉を向ける。
「でも、私も言いたいことはあるわ。中途半端。あんたらなにもかもが中途半端よ」
「その中途半端さのツケを払わされたってことなんだろう、けどね」
と言って、魅魔は視線を逸らしてみようとしたが、どこもかしこも部屋の紅色がついてくる。諦めたようにぼそぼそと話を続けた。
おかしくなったのは、大結界を敷いてから数十年経ってからだった――そう、ぶつくさとぼやいたけれど、実際のところ、食料供給のシステムは、不完全ながらも安定して、運用上のバグは都度都度洗い出され、バージョンアップのたびに洗練されてきていた。
だからまあ、なんだかんだで世の中回っていたって事なんだろう。同時に、妖怪たちの中で、大結界への理解も少しずつ深まってきていた……いや、どうだろう。理解というより、みんな状況に慣れてきたっていうのが正しいか。こんな調子だから、当然、完璧な政策ではありえなかった――手放しで褒め称える奴の方があやしいもんだ――し、良い面も悪い面もあったけれど、みんなそれを受け入れて、違う立場の連中、意見を異にする閥族も、表面上は手を組む姿勢を見せて、少しずつ良くしようとしてきた。
そのまま、このまま、もうちょっとの間、落ち着いた時期が続くんじゃないかっていう数十年が過ぎた。それが博麗大結界による平和だった。危うい平和、次の争乱のための休憩期間、結局のところは砂上の楼閣……なんとでも言いなさいよ。でも一時的には間違いなく平和だった。
むしろそれが良くなかったのかもな。だってさ、そういうシステムが本当の意味で完成されるのって、崩壊する瞬間じゃん。
たまんないよね。
……なにが悪かったかというと、そう。おっしゃる通りの中途半端さのせいだ。結界によって世界から独立して、大人になったような顔をしてみせていた私たちだったけど、実際は周縁の様々な世界に依存し、寄りかかりっぱなしだった。
あるときを境に、妖怪たち用の食糧の供給が滞りがちになった。お外では戦争が始まったらしい。こうした情報は、どんな結界で隔てられていても、水がしみいるようにこの郷にも浸透した。それに対しての反応はまちまちだった。人間たちなんかはのんきなもので、自分たちはそんな馬鹿馬鹿しい争い事に巻き込まれなくて良かったなんてね。
一方、妖怪たちは恐慌状態に陥っていた。戦乱からこっち、自分たちの食料になる人間たちが、ごっそりと減ってきていたんだ。
違う、違うんだって。別にあちらから取って来られる人間が、まったくいなくなってしまったわけじゃない。むしろ、この列島の人間たちは来たるべき決戦を想定して、都市から離れ、山間に避難し始めていた。だから私たちの領域は格好の狩場と化していたはずだった。
でも、結界の外に住んでいる人間は、もはや私たちなんかに恐怖の味や旨味を、これっぽっちも与えちゃくれなかった。……ああ、たしかに得体の知れないなにものかを恐れてはいたよ……でも、その相手は私たち妖怪じゃなかった。彼らはもっと具体的で確実に存在している脅威を、得体の知れないなにものかとして、慢性的に恐れていた。
あの戦争はこれまでとは決定的に何かが違った。
やがて、このままだと、来年の冬にはこちらもことごとく飢餓に陥るという試算まで出てくるに至って、山じゅうがおかしくなった。しかも、そんな慎重に扱われるべき情報が、なぜか下々の妖怪にまで漏洩した……こんな自分たちの首を絞める行為すら、権力闘争の道具の一つだったのかもな。あいつら、危機に瀕してもそんな鞘当てばかりしやがって――しかし話がそれた。
一部では妖怪たちの逃散が始まりかけていた頃、食糧統制と、それに冬眠政策が発動した――限られたリソースをやりくりするべく、冬を寝て越せる連中はほぼ強制的に眠らせようってわけ。
もちろん反発はあった。眠る者は起きているやつらに命を預けて、無防備をさらす事になるんだから。なんたって、どういうきっかけでも勢力間の抗争が起きかねない情勢下だった。今のうちに殺し合っておかなきゃ、やがてはそんな元気もなくなるところだった。
まあ、賢者たちも色々と対策を取っていたよ。まず、一つの勢力から一定割合以上の冬眠者を出さないように、ローテーションと管理体制を整備した。保証制度も敷いた。政治的パフォーマンスとして、賢者の一人が率先して冬眠についた。……仕組みを煩瑣にしたおかげで計画当初ほどの効果は見込めなくなったけれども、とりあえず政策は実行される事になった。
で、政変が起きた。いま述べたすべての懸念が、ハジけて、ぶっトんだ。
冬眠中の者が、同種族内の係争のあおりを食って虐殺された。そうした問題を避けるために、賢者たちはいささか強引な婚姻政策を進めたりして落ち着かせようとしていたけど、そんなものはなんの意味もなさなかった。むしろ無理に嫁がされた者が、率先して実家の肉親たちに手をかけすらした。……どうしてそんな惨事が起きたのかって、そりゃもう、そこのおうちの、のっぴきならない事情としか言いようがないよ。
一度そういうたがが外れてしまえば、二度目も、三度目も起こる。保証制度なんかは瞬時に意味をなさなくなった。
冬眠した賢者こそとんだ道化だった。目覚めてみると、全ての責任を背負いこまされて、あえなく失脚していたんだからな。
超ウける話だろ。
なに笑ってんだ。
賢者は、縁側から目線と同じ高さの青空を眺めていた。
「妖精たちの遊びか」
文字通り背中から知った声がしたが、無視する。もっとも、彼女がぼんやり眺めていたものが、宙に舞う妖精たちとそれらが放つきらびやかな光弾だったのは、たしかに正解だった。だから一層、無視してやりたくなった。
「――あんなもの単純な三角関数の応用だ」
声がそう続いて、声の主は、わざと体内の粘膜を刺激するように這いまわったあげく、背中から出てきた。
「相変わらず噂通りの生活らしいな。ガキどもの遊びを眺めて、ぼんやりしている」
「……たとえ表象の美しさであっても、見るべきところはあるわ」
喘ぎを噛み殺し、おぞけだつような官能に辟易しながら、賢者は友人に対して言い捨てた。
「なんの用?」
「実際主義者どもがついに天狗の中枢から一掃された。時間切れだな」
「ここ数十年、ずうっと隠居状態の私には知らない話ね。お茶でも飲んでく?」
すっとぼけて言うが早いか、式神が乾いたもてなしを盆に載せてやってきた。賢者はのろのろと立ち上がり、ふたつの座布団をぱんぱんとぶつけ合って部屋中に埃をまき散らしながら、相手にすすめた。
「……で、わざわざ出向いてきて、見当違いの勝利宣言ってわけ。暇そうね」
「私は別にどちら側にもついてない」
友人は鼻で笑った。
「というより、考え自体は今回失脚した連中寄りなんだぜ」
「あんたは機会主義的すぎるわ。ものごとの表舞台には立たず、裏でこそこそと」
「ははは、まいったな。心外な言われようだが特に否定する要素がない」
からっとした笑いを見せつけられて、言われた方は逆に、じっとりぶっすりとふくれるしかなかった。
友人はそのまま立ち上がり、勝手に、部屋の隅の書棚から書物をめくっては、ぱらぱらと流し読みし始めた。
「……だが、隠居して下野したあんたが、彼らの考え方をこっそりと醸成させていた部分はあるだろ。“妖怪の専門家、八雲紫氏”よ」
そう言って友人がページをめくる手を止めたのは、スクラップブックだった。新聞記事が貼られている。日付は第九十八季、弥生の二。見出しは『涸れ井戸から白骨死体が見つかる しかし、その正体は!?』。
「……こんなつまらん新聞に、だらしのない肩書きで寄稿しはじめたと思ったら、お前は人里に下りるようになって、私的に、妖怪についての研究会を主催し始めた。参加者は人間だけではなく妖怪たちも……妖怪が妖怪を研究するって、なんだ?」
「妖怪について研究するだけでなく、人間についても改めて考えるという事です。ただの食糧とみなすだけでなく、相互に理解し、そこから取れる知恵や情報はありがたくいただくべきよ」
ぷーっと、友人は嗤った。
「ぷーっ、ぷっぷっぷっぷっぷー。」
「嗤いすぎ」
「ああ、すまん。しかし面白かったんでな。ちょっと前まで、ただの食糧として見ていなかった連中に学びたいなんて、そりゃ筋が通らないぜ」
「あなたは違う相手を見ているようね。私は、人間って生き物を、そういう一面でのみ見ていた時期なんてこれっぽっちも無かった」
「そりゃ人道的だ」
友人はにこりともしなかった。紫はぼそぼそと言った。
「……あの戦争が終わって、食糧の供給はある程度回復しました。が、今でも結界の外に翻弄される体制であることは変わりない。人を知り、お外の情勢への理解を深めようとするのは、必要なことでしょ」
「理屈としてはね。しかし誤解を受けやすい考え方でもあった。博麗大結界を実行したのは私たち……しかもたかだか百年かそこら前の事だ。失脚したとはいえ、当時の指導者が、今度は開放的な方針に転換するなんて――私は意図が理解できるぜ。だが、そうもゆかない者がいる事を、お前がまず理解すべきだ。結界に振り回される妖怪たちの身にもなってみろ」
「別に結界を開放するつもりなんてないわ。博麗の巫女について考えていただけ」
「それがまずかったんだろ」
魅魔は、オープンサンドをもしゃもしゃと咀嚼しながら言った。
「戦後に出現した新派にとっては、かつての博麗の巫女がどういう存在であるかは、もはやどうだってよかったらしい……彼らは実際主義的当権派で、そのためにかえって事実のメカニズムについて関心がなかった。博麗の巫女は、この郷にとって重要な位置を占めていた時代があって、軽んじられていた時代も同じくらいある。それだけだ。その時その場の状況と、周囲の思惑とで、どうとでも価値は変動していた。だから今回も利用させてもらう。宗教権威とはそういうものだろう、と」
「こいつら相場師よ」
友人が警告する横で、紅い館の主人はうんざりとした表情になりながら尋ねた。
「……それで、その新派は、なにを目論んで巫女さんとやらの値を吊り上げようとしたのよ」
「かつての大時代! 偉大な人間さんの英雄と、強大な妖怪さんたちがどつき合う、神話時代への復古!」
言ったあとで自分でも馬鹿馬鹿しい物言いだと思い、魅魔はふっと鼻で笑ってしまう。館の主人とその友人は、ちっとも笑えないまま、顔を見合わせた。
「……笑える? レミィ」
「チョー笑えるわパチェ」
ちっとも笑っていない。
「……いささかロマン主義的すぎるけど、けっして夢見がちな結論ではない。むしろ極めて現実的だった……なぜなら妖怪自身がロマン主義的な存在で、夢見がちだということが現実だったからだ。結局、妖怪は人間との関係の中でしか自己を発見できない。その他の延命策は、どのみち先細りに至る手段だった」
「単純きわまりない結論ね」
「難しい年頃とはそういうものじゃないか。私たちは思春期だったんだよ」
魅魔がそこまで言った末に黙り込んだので、なにか薄皮が張ったばかりの感じやすい傷痕を撫でてしまったような、変な間があった。
「……でも、結局そんな時代は訪れなかったわけでしょ」
魔女が、あえて沈黙を破って言った。
「なにが起きたかはわかるわ。だって思春期なんて人それぞれ、やって来る時期も過ぎ去っていく時期も、考え方の深度や濃度も違うもの」
「そう。誰も彼もがその結論に至ったり、受け入れたりしたわけじゃなかった。だから博麗の巫女の復権は多数派に阻まれた……妨害の方法は簡単。どんなに騒がれようが、無視して、やり過ごす。それが妖怪たちの常道になったんだ。そりゃそうなるよね。まず妖怪と人間は、寿命が違う。無視してりゃあいつらはそのうちおっ死ぬ。時間切れ。こっちの勝ち」
「……そんなけち臭い戦い方してたら、あんたらの存在意義がさっぱり無くなって、ちょっとずつ力を失っていくんじゃないかしら?」
「ああ、そういう理屈の話をしちゃうんだ……で、だからなにさ?」
魅魔はそう言ってのけて、空虚に笑った。
「巫女は寿命で死んで、妖怪たちは生き残る。やがては結局、その事実だけが全てになっていくでしょうよ。……この土地の妖怪たちは、そんな手段によって常に人類に対して勝利を収めてきた」
「どんどんせこくなっていくわねあんたら」
「かつて天地を動かしたあの力がもう無いのさ……いや、はなからあったのかすらも怪しい」
「クソ世界だわ」
女主人は、彼女の数少ない日本語の語彙の中から、努力して言葉を選んだ末、それを発した。
「ここは非常に――えーと――クソ世界だわ。帰んな」
魅魔は、その答えがわかっていたように、ちいさく頷いて、立ち上がった。それでも応接室を出ていくまでの歩みはのろく、すこし後ろ髪を引かれるようでもある。主人は、そんな彼女にもう一言声をかけた。
「……ところで、あんたはいったい、どの立場で私に持ちかけ話をしたのよ」
「私はただの――博麗神社にちょっと古い因縁のある――そこらの悪霊でしかない。だけど、博麗の巫女を擁立しようとした連中の思想的欠陥は、局外者であればこそよくわかった。岡目八目よ」
「オカメ……?」
主人が首をかしげたものの、魅魔は構わず続けた。
「私は彼らのやり方を参考にしたけれど、馬鹿正直に妖怪と人間の対立をやるだけでは物足りないと思った。……たとえば、魔法と科学。たとえば、東洋と西洋。そういったものの対立まで、全部巻き込んで、揺さぶって、ムチャクチャしてやる。で、その中心には、なぜか常に博麗の巫女がいる。そっちの方が面白いと思った」
「私は西洋代表のつもりだったわけ」
「そういうアングルだったわ」
「なんだ、あなた相場師じゃなくて興行屋だったのね」
友人が考え深げに言った。
「ブッキングが叶わなかったのは、こちらとしても残念だわ。でも私たち、ここは隠居地のつもりでやってきたのよ。……ちりんちりん」
女主人が鈴の声真似をすると、従者はいつの間にか魅魔の隣にいた。
「お客様にお帰りいただきなさい――ご丁重に、歩いてく後ろの塵を払いながら」
のっぽの従者は命令に忠実だったが、しかし魅魔自身には虫けらほどの関心も持っていなかったようだ。魅魔が掃いて追い出されるように門前に出たかと思うと、もう見送りを放棄して、門番に立っている背の高い少女にちょっかいをかけ始めた。
「起きな、美鈴」
「起きてますよぉ」
「寝言で言うんじゃないよ」
魅魔は、放置された扱いを不快に思うでもなく、館の使用人二人のやりとりを耳に入れながら、霧の空から無数の紙切れがひらひら舞い落ちてくるのを、ぼんやり眺めていた。
門番とのくっつきそうな鼻先の間にゆっくり割って入った一枚を、従者はぐしゃりといらだたしげに握りつぶした。
「なんなのよこの――」
おしとやかな口から出かけた粗野な卑語が喉奥まで引っ込んだ理由が、くしゃくしゃの紙面から伝わった内容だったのは間違いない。
従者は忽然と消え去った。あとに残された魅魔は、自分と同じように目を丸くしている門番と、顔を見合わせた――が、相手の方は(少なくとも従者の消滅は)慣れっこというような照れ隠しの笑顔。
「……あ、苺あるんですよ。食べます? うちで作ったやつなんですけど」
人懐こく言って、ぱたぱたと奥に引っ込んでいった。持ち場放棄だ。
魅魔はため息をつきながら、なおもばらばらと降ってくる紙切れの一枚を手に取った。
紅魔館の主レミリア・スカーレット、幻想郷の現状変更を目論み、吸血鬼異変を発動させる。……という偽報が、幻想郷じゅうにばら撒かれた。
「私は知らないわ、ほんとに」
庭先に出た式神が腰をかがめたりのばしたり、地面や庭木のそこここに引っかかったビラを拾うのを縁側で見つめながら、紫は呟いた。
「わかってるよ。失脚した天狗どもの最後っ屁だろう」
隠岐奈は確信ありげに言った。
「あの湖に引っ越してきた吸血鬼のお嬢様は、担ぐ御輿として目をつけられていたからな」
「なんだか詳しいみたいだけど、その情報、せめて賢者の間だけでも共有してる?」
「するわけないだろ」隠岐奈はあっけらかんとしている。「全部、私的なところで情報を集めて、私的なところで情報を止めさせてもらっている」
「あんたときたら相変わらず……」
この話題をこれ以上続けると、口汚い罵り言葉が出てきてしまいそうな気がした。
「……まあいいわ。帰んないの? ちょっとした騒ぎになりかねないわよ」
「別にいらんだろ。どうせこの土地の愚図でのろまで腑抜けた妖怪どもは、またぞろ何も起きなかったふうを装って、無視を決め込むだけだろうからな」
隠岐奈も、そこだけはわずかに、生な感情を露出させた言いをした。
「……こんな世界、漬物石以下の存在価値しかないよ」
ところかわって。
霊夢と魔理沙は、自分たちの頭上にもひらひらしている紅魔館決起のビラの一つを手に取り、相変わらず湖のほとりで立ちつくしていた。
「……あんたいったいなにをしたの?」
「私は天狗さんたちに、自分の予測を教えただけだぜ。魅魔様がなにか……あの館の吸血鬼を利用して、なにかを起こすつもりがありそうだと……そしたら、これよ」
ふたたびビラを強調するように、ひらひらとそよがせる。赤・白・黒・濃緑色の色構成、ロシア構成主義風。
「どういうつもりでやったのかしら」
「知らん。……だが単なる在野の蜂起だとしても、それが天狗の一部まで噛んでいる騒動になったら、山の妖怪たちだって無視するわけにはいかないだろ。たぶんそういう事を狙った、怪文書」
「やっぱり怪ブン書屋だった」
へっへっへと、そこだけは愉快そうに霊夢が笑った。
「……で、これがどう面白くなるっていうのよ?」
「それなんだが、ここから先をひっかき回して、面白くさせられるのが、私たちしかいないみたいなんだ」
魔理沙がそう言って、霊夢がすごい顔をして、ふたりとも噴き出してしまう。
「なにそれ」
「私にも成り行きがよくわからないが、きっとゲームの順番が回ってきたんだな。それまで筐体にかじりついていた連中がようやくうんざりして、席をどいてくれた。たぶん、それだけなんだと思う」
「そんなもんかしら」
「そんなもんだろ」
「ま、なんでもいいわ。それじゃあ投入口にコインをぶちこんで、遊びましょ」
「待てって。重要なのはどう遊ぶか――」
魔理沙が考え始めるより前に、ひやりとしたものが首筋を撫ぜた。その冷感が比喩的な感覚でもなんでもなかったのを知ったのは、攻撃してきた妖精を、二人がかりで手早くぶちのめした後だ。
「氷の塊が飛んでくるより、冷気が伝わってくる方が早かったのね」
「やる気いっぱいなだけのバカで助かった……」
霊夢がその氷精を足蹴にして、膝頭を蹴り飛ばすと、たちまち足元の地面に冷気が流れて、霜柱が立った。
「……こんな雪ん娘、このあたりにいたかしら?」
「妖精の事なんていちいち気にしちゃいないよ――おい、起きろって。大丈夫か?」
魔理沙がしゃんと立たせた妖精は、くしゃくしゃの頭をぶるぶると振った。
「……なんであたいをぶん殴ったんだ?」
「そりゃ私たちが聞きたいよ!」
あまりの馬鹿馬鹿しさ加減に、霊夢と魔理沙は笑ってしまった。相手もなぜか笑った。
「ともかく、大事無いみたいで何よりだよ。――初めまして妖精さん。まずは丁重にご挨拶いたしまして」
魔理沙がおしとやかに礼を尽くすと、相手もそれを真似した。
「……ちょっと浮かれていたみたいね」
「そうね」
「なんで浮かれていたの?」
「浮かれるのに理由なんていらないわ。こちとら長いこと退屈してたのよ。……とはいえ、こんな土地でも、たまには退屈しのぎになる事件が起こるでしょ。それで、このへんの空気がぴりっとしたら、あたいたちは全身の髪の毛が逆立つの」
「髪の毛は全身には生えない」
霊夢がぼそりとつっこむ隣で、まだ、魔理沙は芝居がかった口調で続けた。
「……そりゃ面白いわ。しかし一人遊びとは寂しいわね。友達いないの?」
「いないわけがないでしょ! ちょっと呼びかけたら、いっぱい駆けつけてくれる」
「なるほど、友達がいっぱい……楽しそうねえ。私もあんたと友達になって浮かれたいところよ……しかし、こっちは遊んでいる暇が無いんだ」
「へえ。遊びが無いだなんて悲しい奴らなのね、あんたら」
妖精がそう言ったのを聞いて、魔理沙は霊夢に向かって視線を流した。
「――ま、それが妖精の楽しみ方の限界よね」
「あ?」
「お友達しか誘えない遊びっていうのは、結局そこまで止まりのものなのよ。一番面白くなる遊びをしたいなら、敵も、味方も、同じ箱にほうり込んで、思いっきり揺さぶってやるんだ。――私たちは、そんなもっと大きな遊びを起こそうとしているところ。どうしてって? そっちの方が楽しいから!」
そう言うと、魔理沙は相変わらず霧空から降り注いでくるビラの一枚を、宙からひったくって、妖精の鼻先につき出した。
「これは招待状だ! お友達を誘って、お友達のお友達も、お友達のお友達のお友達も、あなたにとってはお友達じゃない誰かにとってのお友達も、みーんな誘ってきてちょうだい!――集合場所はそこの館の、門の前」
と、湖の中の紅い館を指した、そこで、一旦声を落として、独白するように呟いた。
「……しかし、どう楽しくなるかという、もうちょっと具体的な謳い文句は必要だな。こちらとしても今後どうなるか、まったくわからんが」
「きっとだけど、暴れられて、いろんなものがぶん殴れるわ」
思案する魔理沙を押しのけて、霊夢が言った。
「浮かれた途端、こっちを襲ってくるんだものね。あんたら好きなんでしょ、そういうの」
「“The game is afoot”!」
友人が愉快そうに叫んで、笑って、やがて喘息の発作を起こして、吸入器の世話になる。紅魔館の主はそれを横目にしたあと、むっつりした表情で敷地内から回収された無数のビラに視線を移した。
「……で? 私にどうして欲しいわけ?」
「実を言うと、私とこの怪文書は一切関係ないんだ。それだけ言っておきたかった」
魅魔は腕に編み籠を提げて、そこにどっさり入っている苺を、むしゃむしゃ食べている。
「だから乗じるなって言いたいの? それとも乗ってくれと言いたいの?」
「関係ないと言っただろ。あとはあんたら次第なんだ。私の事なんか気にするな」
魅魔はそれだけを告げると、応接室から出ていった。
「……まあ、本音を言えば、この機に乗じて欲しいというのが気持ちでしょうね」
友人が、空咳を一つしたあとで言った。
「だからしないって言ってるでしょうが。私がここに移り住んだ理由は、綺麗な空気、お酒作りによく合う水、山と緑……」
「この土地を薦めてくれた魔界の旅行会社だって、その点はまったく嘘を言っていなかったでしょ。レミィ」
「それがなにさ、こんなの“O brave new world”とは言いかねる。bloody hellだわ」
「はっ、吸血鬼ならかえって喜びそうな言い回しじゃない」
「するわけないでしょ。全然ワクワクしないもの、こんなの」
と、本気でうんざりした様子で、ぶつくさぼやくのを見て、友人はぽつりと、力づけてやるように呟いた。
「……まあ聞きなさい私のお友達さん、新世界を探し求めるのに遅すぎるという事はないわ。“Come, my friends, 'T is not too late to seek a newer world”」
「……ワーズワスだっけ? それ」
「テニスンよ。無学な友人」
友人は親しげに笑って続ける。
「“We are not now that strength which in old days. Moved earth and heaven, that which we are, we are”」
「なにが言いたいのよ」
「あなたが現実から目を逸らしたがるのが、珍しかったから。しかもそれによって、かつて過ちを犯した――そして今回も犯しつつある、この土地の妖怪たちと、同じ轍を踏みかけている気がする。……だからさ」
ちょっとはしゃいでもいいんじゃない、と友人は言った。
「……やだ」
拒否には拒絶までのニュアンスはもはやなかったが、まだちょっと躊躇うものがあるようだった。
「この土地にはこの土地の流儀がある。郷に入っては郷に従えと言うじゃない」
「ところが、その体制が機能不全を起こして、あなたみたいなよそ者にまですがっているのよ。これで起たないのは、吸血鬼という貴種に泥を塗っている事にならない?」
また引き続き起きた、小さな咳の発作で、魔女はちょっと喋れなくなった。
「パチェ、私にもすべき事くらいわかっているわ。羽目を外した方がいいのもわかる」
「こほん……そうでしょうよ。むしろ、なにがあなたの心にまだ引っかかっているのか、私にはわかんないわ」
「たしかに我々は偉大で高邁な、夜の世界を統べる権利を持っている貴種だけれど、私自身はそこまで大げさな由縁もない。この古風な土地の者が、どこまでついてくるかしら」
友人はその言葉を聞いて、愉快でたまらないといったふうに叫んだ。
「そんな事で今まで悩ん――!」
ふたたび咳の発作。
「……ごほごほ。そんなしょーもない懸念が心の中につっかえていたなんて、私の知っているレミィらしくないわ」
「あなたが知らない私を見せられて、ちょっといい気分よパチェ」
レミリア・スカーレットはニヤリと友人に笑いかけ、立ち上がった。
「……しかし、そうね。あなたの言う通りだわ。この土地は少しつつけば全てが暴発しそう。みんなムカついてるんでしょ――おっと、パチェが咳きこみながら献策する必要はないわ。あなたがする意見は、どうせ一つでしょうよ。由緒正しい吸血鬼を称して、この郷で蜂起しろと」
「その通り。だからあなたは――」
「ええ、ツェペシュの幼き末裔を僭称するわ!」
予想以上の発想に、友人はよりいっそう咳きこんでしまった。その間、レミリアは部屋の中をうろうろと歩き回りながら、考えをまとめるように喋った。
「そんなに驚かないでよパチェ。世間というものは、変にせこい騙りより、大きな僭称の方が、ばれた後でも許容されやすいもの。……なので、私は胸をいっぱいに張って、吸血鬼史上もっとも偉大で高名な血統を背負うわ。私は、バサラブ朝はドラクレシュティ家の血を引く、すべての吸血鬼の頂点、異教徒と戦い抜いた偉大な英雄、ワラキア公ヴラド・ツェペシュの後裔よ!」
「……びっくりだわ!」
ようように息を整えて、パチュリー・ノーレッジは叫んだ。
同じ頃、魅魔は紅魔館の門前に立ち、苺のヘタを唇の上でしゃぶりつつ、壁面にナイフで留め置かれている門番を眺めていた。
「……さっきはありがと。この苺おいしいよ」
「そいつはよかったです……で、ものは相談なんですが」
「持ち場放棄の結果がその罰なら、私には助けようがない」
「とほほー……」
「私がしてやれる事は差し入れくらいだ。……ほれ、口開けな」
魅魔が籠の中からひとつ取った真っ赤な果実が、がっくりうなだれた門番の血色のいい唇に触れるかふれないかのうちに、従者が間に割って入ってきていた。
「……餌付けでもされてたの?」
「まずかったですかね」
「いや、別にいいんじゃないかしら」
とは言いながら、魅魔の手から苺の果実を上品に奪い、門番の口につけてやる従者。
「それを食べたら、外に出ている子たちを集めなさい」
またたく間に門番を解放した従者は、そう告げた。
「お嬢様がはしゃぐつもりのようなのでね」
と言ったのは、魅魔に対して発したのかもしれなかった。
「この屋敷の主人たちは、土地に詳しく、意見ができる者を必要としております。出たり、入ったりで忙しいけれど、またしても奥に戻ってくれないかしら?」
「どこまで力になれるかはわからないがな」
「少なくとも、もう急かして追い出すような事はしませんわ」
紅魔館の従者について、みたび門をくぐろうとした魅魔だったが、背中に快い鈴の音律が聞こえたので、ちらと振り返った。
門番が、緩やかに優雅に舞っていた。彼女の長い四肢がしなり、手先足先が震えるたび、美しい鈴の音が聞こえる――と、その足下に、またたく間に妖精たちが集ってきていた。門番が右手をかざせば右翼の陣は整然と進み、左手をうねらせれば左翼の子らが急派するだろう。本来なら勝手気ままであるはずの妖精たちが、そんなふうに統制の取れた動きができるとは、魅魔も知らなかった。
「だいたいねレミィ、野心ばかりおえらい方々が思っているほど、僭称なんて行為は気軽にできるもんじゃないのよ……最低限の辻褄合わせは必要だし、最終的には権力の承認だって」
「この際、最終段階に関しては考えない方向で、どうにかならないかしら?」
「やがては化けの皮を剝がされるわ」
「小細工を弄しようがしまいが、そんなもの遅かれ早かれでしょうが」
魅魔が応接室に戻ってみると、レミリアとパチュリーが謀議を進めていた。
「どんな高名だろうと、名乗りたいなら勝手に名乗ればいいさ。……この土地はそんなもんだ」
魅魔がその件に関して口添えしたのは、それだけだった。
「……とはいえ、多少の辻褄合わせが必要なのは確かだな」
「頑張ってねパチェ」
「……ふん、任せなさい。庶子、不義の子、私生児。そういったものを綴り合わせて、呪われた子を生み出してやる」
「あなた、友人に手心を加えようって気はないの?」
「ばっちりよレミィ。嘘の系図ならなんでもし放題。三人の親から一人の子を成したり、娘に孕ませたはずの子を母に産ませたり、男同士の交わりから女児を産み出す事も可能」
「なんか私が思ってたのと方向性違わない?」
楽しそうに図書館へと引っ込んでいった友人の背中に声をかけるレミリアだったが、そればかりに気を取られるわけにはいかなかった。
「……倫理観を置いてきぼりにしないようにね。ほんと頼むから――ああ咲夜、わかってるわ」
「サルーンにみんなを集めております」
「演説の一つもかまさなきゃ。……なにもかもが急だけど、みんな動揺してる?」
「それがさっぱり。むしろちょっと楽しそうです」
「ははあ、お気楽でいいわねぇ、妖精どもは」
「私もちょっと楽しんでおりますが」
「……しかし、この屋敷が息巻いているだけでは道化でしかないのよ。――そっちの力で、この土地の者を一部でも動かせられない?」
これは魅魔に尋ねた。
「できる限りの動きは演出しよう。これでも多少のあてはあるつもりだ」
まだ籠いっぱいにある苺を齧りながら魅魔は答えて、一度紅魔館を辞した。
レミリアがサルーンに向かうと、メイド妖精を始めとした使い魔たちが集合している。別に整然と居並んでいる様子もなく、いくつもの塊に集まって、ひそひそと話をしているような調子だ。
「おはよう! みんな!」
主人が言った時には、もう既に昼も押している時間だったのだが、この手の時間感覚の混乱は、昼と夜の者が混交するこの館では仕方のない事だった。
「……楽しげと聞いた割には、あんまり盛り上がってないみたいね」
「それはそれとしてすべてが急な事態なので」
従者がぼそりと口添えした。
「知恵は無くとも、お嬢様が無謀なやらかしをしようとしている少数派だという事は、ほんのり察しているようです」
「あんたもちょっと失礼よ……それはそれとして、妖精だもの。そういう雰囲気には敏感でしょうね――だけど、少数派であればあるほど、生き残って得られる名誉の分配は多くなる! 私はむしろ、この決起に加わる者が一匹でも多くあって欲しいとは、ちいっとも思わない!」
そう叫んだ声は、場の空気をいっぺんに支配した。そういう発声法を紅魔館の主は使って、召使たちのひそひそ話は完全に無くなった。
「もちろん名誉の分配は、金銭の分配ではない。食糧の分配でもない。そもそも衣食住をどうこうという話ですらない……名誉はただ名誉、それだけよ。それを価値無しと断じる輩もいるでしょう。
「でも私は名誉を貪る。名誉を貪ることがいやしい事なら、私はこの地上で最もいやしい存在になってやるわ。……あなたたちも、自分たちの名誉の取り分が減るなら、いっそ誰もここに馳せ参じない事を願ってやりなさい。
「なんなら、あなたたちがここから去っても構わない。それだけで私らの取り分が増えるわ。何度も言うように、今回の戦いで得られるのは名誉だけ。それ以上は望んで欲しくない。これだけ単純なら、損得勘定も簡単でしょ。私に命を預けて、共に死にたくない輩は、この場から去ってもいい。
「ああ、それにしても今日は清々しい日だわ。……なんてことのない、誰の祭日でもない、いつもの日常だったはずだけど。でも……今日から起こる異変を生き残った者は、これから毎年今日を思い出すたび、ちょっとは姿勢を正すつもりになれるんじゃないかしら。今日という日は、それほどのものよ。だから、決して忘れちゃだめだからね。
「もっとも、あんたたちの多くは妖精。教えた事もころっと忘れてしまうし、指示した事さえどこかへすっ飛んでしまうような手合い。今回の戦場の記憶なんてもの、自分の命一個と引き換えに無かった事になってしまうかもしれない……今回の戦場で傷を負っても、酒を飲んでは武勇伝として見せびらすような、そんな大層な痕は残らないかもしれない……。それでも、今日はきっと、あんたたちの価値を決める戦いの、始まりの日よ。
「……あんたたちは忘れる、妖精は特に忘れっぽい。確かにそう……それでも、ほんとうに忘れ去られる事だけは無いでしょう。今回私が起こす行動は、必ず、忘れっぽくない誰かが語り継いで、語り草にしてくれるもの。そうなればあんたらだって、この世界が終わるまでは永遠でしょ。
「たとえ少数派であっても、しあわせな少数派になるのよ。私たちは。
「そう、これは私たちの話。いやしい妖精も、お高くとまっている妖怪も、今日の思い出を持って、共有さえしていれば、なにがしかの繋がりを感じていられるでしょう……もっとも、安穏と腑抜けている事を良しとする連中だけは、この場に馳せ参じる事ができない我が身を恥じて、苦りきるでしょうけど。――私たちが好き勝手をした、吸血鬼異変の話を聞くたびにね!」
即興ではあったが、語り口の抑揚を巧みに操りきって、レミリアの演説は終わった。言葉の意味を使用人たちが理解できたのか、できなかったのか。それすらもわからないが、ともかく彼女の声ひとつで、染み渡るような感動がその場に浸透していた。
紅魔館の主は、サルーンの中を突っ切るように、居並ぶ使用人たちをかき分けるように練り歩いた。
「やりましょう、みんな。……ええ、今後ともよろしく」
と答えたのは、左右から召使たちが手を伸ばし、主人に触れたがったからだ。この幼くて可愛らしい主には、今やそれだけではない、なにかあやかりたいものが宿っていた。
「それにしても奇妙な事に相成ったわ……咲夜」
「御前に」
「かかしのように突っ立っているとはあんたらしくない。只今より戦時体制よ」
「ですね。……こら、あんたたち遊んでいないで」
咲夜はその場で、屋敷内のメイド妖精が全集合したついでを利用して、勤務体制を手早く編成しなおし始めた。その整然とした調子、日常業務のように非日常が組み上げられていくのを、なんだか気持ちの良いものとしてレミリアは眺めている。
「それにしても……」
「はい」
「勤務シフトが平時は一直で戦時は二直って、あんたら、今までずっと総員配置状態で仕事してたの?」
「なにか問題でも……?」
「ははっ、あんたの労働観念は一世紀以上遅れてるわ……」
「私だって休息の必要性は把握しております。でも、どうせ妖精たち(と美鈴)は、ちょっと目を離していれば、要領よくサボるのですし。戦時こそおおっぴらに休息が取れるという意識を刷り込んでおくのです――そうだわ、こんな時ですもの。彼らへの食事も特別良いものを作ってあげましょう」
「一世紀古いどころかスパルタ式だったわ」
などと言っているところへ、門の外に配置されていた妖精が駆け込んできて、なぜか野の妖精たちが続々と集まってきているという報告をもたらしてきた。
「……あの悪霊さんの手回しかしら?」
とも思ったが、それにしても早すぎた。まるで、紅魔館の奥で謀略が組み立てられる前から、なにか外部でも動きがあったような……
レミリアは少し首を傾げたが、妖精たちはもともと、雰囲気には敏感な種族なのだ。そういう事だろうと考えたし、なにより幸先が良いと思った。
そのまま夜が更けて、やがて明ける頃には、吸血鬼たちの下になる在野勢力が、どんどんと積み上がり始めている。
「おはようレミィ、味方が増えるのは喜ばしい事だけど、代わりに “We few, we happy few, we band of brothers”とはいかなさそうね」
朝、主人が眠気覚ましの喫茶をしている時間に、ようやく図書館から出てきた友人が言った。
「私たちは恵まれた多数派みたいねレミィ」
「吸血鬼の身で聖人の祭日にかこつけるつもりはないわ、パチェ」
レミリアはにんまり笑いながら言った。
「――だが、どうせ吸血鬼のお嬢様の戦列に加わったところで、戦いそのものが起こる可能性は十に一つも無いよ。ただ参加して、ぼんやりその場にいてもらうだけでいい」
魅魔がつてを渡り歩いて吹聴した言葉は、そんな程度のものだった……結局、誰も率先して戦いたくなんてないが、ひっそり寄る辺を求めている、という状況に過ぎない。
「数が集まればいいんだ。それだけで圧力をかけられる。それだけで社会が変わるなんてこと、滅多に無いけど。今はそういう段階みたい」
それだけを力説、熱弁して回った。
夢幻館にも立ち寄った。
この湖にある館を、魅魔はつい紅魔館と比較してみてしまう。館の規模も、古さも、門番の仕事熱心さに関しても、だいたい同じくらいだったからだ。
それでも、まったく雰囲気が違った。夢幻館は、雑然と、自由で、秩序を放棄していた。屋敷の傍らにあるガラス張りの植物園は、とうに木々が突き破るに任せていた。エントランスに案内されてすぐ、住人の私物が目についたり、階段を上がりきったところの手すりにペーパーバックが何冊か積まれていたり、半端に中身が残った酒瓶が廊下に転がっていたりする。要するに紅魔館のような貴族趣味や整頓とは無縁で、ボヘミアン的だった。屋敷の主の性向がそのまま反映されているのだろう。
幽香自身にも、そんな調子の気まぐれな放浪癖の一面があるため、館に所在していない可能性もちらりと脳裏によぎったが、懸念は杞憂だった。
「……言っとくけど、私は別になにを起こす気もないわ」
「それでいい。むしろ騒動に加わって欲しくないんだ」
館の応接室には、幽香の他にも館に住み着いている者たち――使用人ではないようだが、かといって居候とも言いかねる――が、幾人もたむろして、客からは遠巻きに床や寝椅子にくつろいで、酒や煙草を喫していた。
魅魔は、彼女らしい押しつけがましさで、苺の入った籠ごと、ぽんと土産に置く。
「……あんたには、樹海の向こうにいる妖怪たちの窓口になって欲しい。別にあっちとこっち、どうしようもなく敵対しているわけじゃないだろ。交渉のラインが必要になる」
「知らないわ。だいたい、私たちって別に仲良くもなんともないでしょ」
「つれないこと言ってくれるなぁ、一緒に魔界へとブッ込みした仲なのに」
「霊夢や、魔理沙と一緒にね」
「私との思い出じゃだめなの?」
割と本気で傷つく。幽香はクスクスと笑った。
「冗談よ、あの時はけっこう楽しかった。……それで? 私とあんたが両サイドを繋ぐ連絡係になって、それでどうすんのよ? 板挟みになるだけだわ」
「……博麗の巫女を使う。彼女以外にこの事態を調停できる者は存在しない。博麗霊夢だけがこの事態を平和裏におさめる事ができる」
魅魔の言葉に、幽香の口元は引きつって、わななき、すぐ大笑いに変わった。
「あなた正気? いや、本当に、まさか! そんな! ここにきてそんなものに縋るなんて!――その発案、霊夢に話を通してあるの?」
「そこなんだな。神社には一度立ち寄ったけど、もぬけの殻だった。魔理沙に至っては、どこをほっつき歩いてるのかすらわからん」
「そうでしょうね……そうに違いない」
そぞろに呟く幽香。
「……しかし笑えるわ。そんな提案を私に聞かせたの、あなたで二度目よ」
「え?」
「うめえなこの苺」
「ほんとだわ」
幽香ではない二人の声に、魅魔ははっと目を向けた。すると見覚えのある二人が、見覚えのない服装をして、苺の入った籠に手を伸ばし、もしゃもしゃやっている。
「下手な変装だと思ったけど、意外にいけたわね……」
霊夢は、星飾りのついた真っ赤な帽子を脱ぎ捨てて、黒髪をかき上げながら言った。魔理沙も自分がかぶっている帽子の大きな飾り羽をしごきつつ、得意満面だ。
「――な、幽香。言っただろ? 魅魔様の魂胆は、結局そこに戻ってくるんだって」
「まさかまったくおんなじ事を言い始めるとは、びっくりよ」
幽香も苦笑いするしかなかったが、すぐ真顔に戻ってぼそりと尋ねた。
「……あんたら、結託して私をからかっているんじゃない?」
「こんな時にそんな馬鹿やれるほど大物じゃないよ」
「なにより、一番からかわれている気分なのは魅魔だと思うわ」
やがて妖怪の山を取り巻く野は、紅魔館に服属した妖怪たちで満ちた。
「んなこと知らないわよ」
八雲紫はぶつくさぼやきながら従者の式神を伴い、警戒状態といえる郷を知らぬ顔で歩いている。
「こっちゃ別になーんにもやましい事はないんだから、胸張って歩きなさい」
「ええ。なにより、この状況にはまだ秩序があります」
「これよりひどかった時を知っているものねぇ」
紫は視線を逸らしながら呟いた。視線の先には、人里へと続く要路を封鎖する検問。
「……しかし山の妖怪たちも、本当に腑抜けてしまったものねえ。どうせじっと引き籠ってやり過ごしていれば、山の下に集結した勢力もばらばらになってしまうと思っている」
「実際問題、こんな寄り合い所帯は一ヶ月もたなかったと思いますよ」
「その見立ても正しいでしょうね。……だが、正しいのと気に食わないのは両立する」
話しながら、二人はなんてことのないように検問を通過した。
「なにより時間が残されていないのはあちらも一緒……離脱派が勢い付き始めている」
「あなたのご友人も」と、紫の式神は苦笑いして言った。「妖怪の山内部から博麗大結界の離脱という発議が上がった時は、さすがに慌てていましたね。いや、面白がるどころでは無いはずなんですけど、でもあれは――」
「痛快に思えたでしょ」
紫も笑ったが、その笑いは心底のものではなかった。
「あいつは悪ふざけの総体みたいな存在だけど、自分の立場はわきまえているわ。いずれにせよ、妖怪の――山の中に住んでいる妖怪たちの立場は失墜した。今をやり過ごしても、同じ事は何度だって起こってくれるでしょう」
「収拾はつくのでしょうか」
「知らない。あとはもう、調停者となった博麗の巫女を信じるしかない」
この前日、博麗の巫女は、文字通り降って湧いたように、この緊張した情勢の中に登場していた。
「ここらへんがノーマンズランドだ!」
魔理沙は冷たい気流に負けないよう叫んだのは、数日の膠着状態の末、妖怪の山の山麓になんとなく形成された無人地帯の上空だった。瞬時に、彼女の喉の粘膜が水分を失って干上がる。
霊夢は、とんだ事になったなという様子で、苦笑いしながらかぶりを振る。うるんだ目を眼下に向けてみても、そこが魔理沙の言う通りの無人地帯とはわからない、真っ黒な影ばかりだ。曇り空に埋め尽くされた、月も隠れている夜だったからだ。
「……本当にこれで、上手くいくのかしら」
「どちらの陣営にも与さないという意志を見せるためにも、霊夢が身を置けるのは、この中間地点しかない。私はここにいるとアピールするためにも、昼間にのこのこ、そんな場所に降り立つのも間抜けだ」
だから、この場所に、この時間にいるのだった。
「んでもって、あとはもう、それぞれの陣営に話をつけにいった魅魔と幽香が、上手くやってくれる事を願うしかない!」
「はっはっは」
霊夢は乾いた笑いをするしかなかった。実際問題、口を開けて笑うとすぐに喉がひきつってしまうのだ。
「この計画、なにもかもが穴だらけよ――あのさ、仮にどちらかに強硬勢力がいて、徹底的に戦うつもりなら、どうするのよ?」
「そんな気概のある土地なら、さっさとそうなっていただろうね!」
「それもそうか……でも魅魔や、幽香がしくじったら?」
霊夢が最後の懸念を尋ねたものの、魔理沙は帽子の中から器用に取り出したミニ八卦炉に最終調整を加えながら、相手の心配は自分の技術的な心配以下のものだと言いたげに、乱暴に言い返した。
「友達の事を信じてやれよ。だめな時は、それはそれだろ。もう愛と勇気だけが友達さ」
「頭に餡子が詰まっている連中のような物言い……」
霊夢は言いかけて、クスリと笑った。
「私たちがそうでないって保証も無いわね。……ま、いいわ。やってくださいな。照明係さん」
「見てな」
魔理沙はミニ八卦炉を頭上に掲げると、曇天に向かって光を放った。
照明係の彼女がおこなった演出は、瞬時に幻想郷を照らし出した。先だって森近霖之助が改造してくれたこの火炉は、後世によく知られるような高出力のレーザーとしては、この時は使われなかった。光の出力を絞らずに拡散すれば、霧の八マイル先まで照らし出す事ができる、超強力な投光器となったのだ。その光は、真っ暗な夜空を貫くと、分厚い雲の層のスクリーンに反射して、夜闇の幻想郷全体に光をもたらした。
その思わぬまばゆさに、思わず二人はたじろぐ……が、両陣営から、すぐさま攻撃が加えられる雰囲気は無い。
「……想像以上に神々しい、鴨撃ちのような降臨になりそうだ」
「加茂氏がどうかしたの?……あんたこそ、大事な照明係なんだから撃ち落とされないようにね」
「裏方さんに優しい千両役者は大成するぜ。幸運を」
「どうかしら。鼻にもかけないイヤな役者だって、大成する割合はとんとんでしょうよ」
博麗霊夢は力を抜いて、ひらりと落下を始めた。秒速にして数フィートほどの、ゆるやかな降下――その間、一発の攻撃も飛んでこない。魅魔と幽香はしくじらなかった。両陣営の中枢から発された停戦命令は、既に前線にまで行き渡っていた。
吸血鬼が仲介の申し出を受け入れたのは、外部的な問題からだ。従う勢力が大きくなりすぎていたのだ。幻想郷の野に満ち満ちている妖怪妖精たちの中には、騒動を嗅ぎつけて別世界からやって来たような、血の気の多い出稼ぎ者も加わりつつあった(当然、その野の中にある人間たちの里は戒厳下に入った)。
旧来の妖怪たちが仲介の申し出を受け入れたのは、内部的な問題からだ。幻想郷からの離脱を目論む勢力は自分たちの与党を増大させるために。反離脱主義者も離脱の議事を先延ばしするために、時間稼ぎを欲したのだ(博麗大結界からの離脱が実際に可能かどうかについては、今もって議論の余地がある。重要なのはそれが政治的な切り札として使われた事だ)。
そこに魅魔と幽香の尽力があったのは確かだが、情勢の幸運が間違いなく彼女たちに味方していた。
のんびりとした降下の後、霊夢の足は幻想郷の土を踏んだ。その瞬間、彼女の心の内に、まったく緊張が無かったわけではない。状況を古典的に捉える事によって、気持ちを落ち着かせようとしたくらいだった。
「“この世は舞台、そして全ての男女は役者でしかない”ってね……」
彼女の舞台である無人地帯を形成しているのは、かつては人間によって耕作地として拓かれようとしたが、今や放棄された野っ原だった。単に地質が悪かったのか、妖怪たちの領域に近すぎたのか、土地に根差している神様の怒りに触れてしまったのか、あるいは全部か……
原因はわからなかったが、何かが破綻して、そうなったらしい。よくあることだ。
霊夢は、自分の出方を窺っているらしい両陣営の最前線に、右、左、右……と目を向けた。静かだが、その向こうには多くの目が光っている。それに博麗の巫女の仲介を知って、前線までやってきた報道記者たちのカメラのレンズも――ふと、ブン屋の事を思い出した。彼女はあそこにいるのだろうか。いないかもな。怪文書をばら撒いたり、魔理沙を山に招きこんだりした罪状で、牢にでもぶちこまれていそうだし(※実際されていた)。
「あんたら! 面白そうな事をしてるのね!」
霊夢は声を張り上げた。
「でも、私たち人間さんはめちゃくちゃメーワクしてんのよ! わかるでしょ? 妖怪さんたちの、しょーもないケンカなんかに巻き込まれてさぁ!」
実情がそう単純な事態ではないのは、もちろん彼女にもわかっていた。だが、霊夢がそう叫んだ瞬間、この吸血鬼異変は幻想郷分裂の危機をおし隠して、妖怪たちの無邪気なケンカと矮小化されて、定義付けられた。そういう事にした。そういう事にできる者が、もはや彼女しかいなかったから。
「しかもここ数日、あんたらお互いに睨み合っているだけじゃない! なさけない奴ら! だから、この妖怪どもの――あんたらのケンカ、博麗神社の博麗霊夢が預かるわ!」
その瞬間、博麗の巫女は、十数代に渡る歴史の中で、幻想郷の政治(祭祀的な“まつりごと”としての政治ではなく、即物的・現実主義的な面での政治)主導権を、初めて獲得した。
こうした展開を、少なくとも両陣営の一方は面白がった。
「話を聞く限り、博麗の巫女ってやつは平和の使者でもなんでもない。ただの喧嘩師みたいね」
と、紅魔館の主は心底感心しながら言った。
「……だから面白いわ。彼女はケンカを預かっただけ。いずれまた噴出するものがあると、わかっているに違いない」
「レミィ。状況は面白さを求める段階ではないわ」
「違う! 今こそ面白さを求めるべきよ!」
「……あなた今、超ノってるわレミィ」
パチュリーは感心して、嘆息した。
「ともかく、巫女さんの仲介が入って、吸血鬼異変は終了よ。悪霊さんのシナリオはそうだったでしょ。集まってくれた勢力には解散命令を出さなきゃ」
「できるかな」
「できなきゃ私たちが破滅よ。あんたのカリスマでもなんでも使って、どうにかするの」
「ま、なんとかするしかないのは、そうね。……でも表面上の撤収は可能かもしれないけどさ、パチェ」
レミリアはにんまり笑う。
「もはや幻想郷はコントロール不能よ」
とはいえ、一時的なものであるにせよ、事態が収束に向かっている事は歓迎されていた。
「この騒動のせいで、あやうく作付けの時期を逃しかねない状況ですからね」
八雲紫は人里に立ち入って訪れた屋敷で、あてこすりのようにそんな事を言われた。
「いつの時代も一緒ですよ。戦が起こると、民草は迷惑するばかり」
九代目御阿礼の子は、そういった年頃らしくないぼやきをして、年頃らしい苦笑いをする。それから、自分の手で淹れた紅茶を相手にも出した。
「それで、ご用件はなんでしょうか? 妖怪の賢者さん」
「賢者なんて、もはやその立場もないのですよ……と、言わせたかったのでしょうけれど」
紫は目の前の少女と同じような苦笑いをしたかったが、できなかった。
「……私たちの失脚後も、中枢に生き残っていた知り合いが、籍だけは消さないでいてくれたみたい。今回の事態に対処するために、復権致しました」
「友達に恵まれたんですね」
「どうかしら。今まで生きながらえさせてもらえたのも、こういった貧乏くじの処理に利用価値があるからとキープされていただけだわ」
「それでも、あなたを生かすという判断ができる方だったんです」
稗田阿求は、かたわらに積み上げてあるいくつかの文書を、紙質の手触りを楽しむためのもののように撫でた。
「……私は、そろそろ御阿礼の子としてのつとめを始めようかと思います」
「それで今度の騒動について意見を求めたい、と」
「八雲紫さんは妖怪の専門家ですからね。秘密結社の事件の時は、お世話になりました」
紫は相手の礼には答えず、紅茶で唇を湿し続けた。人里の陰でひっそりと起きた秘密結社の暴走と稗田家の乗っ取り計画は、直接指導したわけではなくとも、自分が思想的に煽ってしまったも同然の地下運動だったからだ。
その真相を知りつつ、阿求は礼を述べている。
やがて紫はティーカップから唇を離し、喋り始めた。
「――“妖怪は人間を襲って初めて存在意義が有る物だが、大結界が出来て以来、妖怪は簡単には人間を襲ってはいけなくなり、さらに食料は妖怪の食料係から提供されていた為、妖怪の気力は下がる一方だった。
「そんな幻想郷に突如外の世界から力のある妖怪、吸血鬼が現れ、あっという間に多くの妖怪達を部下にしてしまった。
「結局この騒動は、最も力のある妖怪が力業で吸血鬼を叩きのめし、様々な禁止事項を決めた契約を結び、和解した。”
「これが、今回起きた吸血鬼異変の、妖怪の山による公式見解ですわ」
「……“最も力のある妖怪”って、いったいどういう妖怪だったんですか?」
「みんなが居ると信じた時に居る、あの力の具象化ですわ」
二人は失笑した。
「また、様々な禁止事項とは? 和解をしたのなら、人里の外の混乱はどうでしょう?」
「……人里周辺の状況は私たちも憂慮しています。しかしそれは吸血鬼たちの陣営の問題ですし――」
「私たち人間にとっての危機は終わっていません」
阿求はぴしゃりとはねつけるように言い放った。
「むしろ、状況はより切迫したものになっています。直近で言えば数十年前、乙酉の年に起きた食糧危機にいっそう近づいている。――作物もですが、問題は塩の供給です。先の大戦でも、凶作の影響以上に、冬を越せなくなるほど塩が枯渇しかけた」
「……末端にまで規律が伝わりきらないのは、争乱につきものの事ですわ。それでも、もう少し待ってもらえれば」
テーブルに一冊の帳簿が置かれて、紫は言葉を止めた。
「どうぞご覧になってください。毎年度ごとに我々が作成しているものです」
紫は、阿求のほほえみに促されて帳簿を手に取ると、その内容に目を通して、所見を口にしながら考え始めた。
「……戸籍ではないようですが、人里に存在する家族の構成、年齢が記されていますね。年齢の書き方は――おそらく数え年。七つ以下の幼児にはより詳細な記述。子供たちの目方、目方を計測した月日、目方の前年からの増減、疾病・けが・障がい等の情報……そして……」
「最悪の非常事態に陥った際、その子供を他家のどこの子供と取り替えるか」
阿求は吐き捨てるように言った。
「稗田家がいつからこんなものを作成するようになったか知りませんが、幸いにも役立った事は一度もないし、これからだって役立って欲しくない」
「……役立った時、あなたたち里の人間は、妖怪以上に妖怪じみて見えるでしょうね」
とだけ言い返しながら思った。たしかに、妖怪が人間を喰らうなんて、ただ捕食者が自らの生理に従っているにすぎない。人間が人間を喰らう事の方が、よっぽど忌々しい。
そう考えこんでいると、阿求が振り回すように話題を変えた。
「ところで、あなたが専門家として主催した研究会の主旨は、妖怪と人間との理解を深めようというものでしたが、その目的のひとつは妖怪と人間に一つの線引きを行って、定義付ける事でしたね」
「物事の定義付けは学問の常だし、必要な行為でしょう」
「しかし学問とは、初めになにかあって、後からその領域に土足で踏み込んでいく行為でもある。……行為の良し悪しをあげつらうわけではなく、事実関係としてね」
「なにが言いたいの?」
「実際のところ、人間と妖怪の区別というのは、非常に曖昧なのではないでしょうか。実は、その境界を行き来する事自体が、あまりに容易くできるからこそ、その事実をごまかすため、もっともらしい理論を持ち出しているに過ぎないのでは……」
阿求の弁を聞きながら、紫は、どうして彼女がそんな疑念を持つに至ったのか、はたと思い当たった。あの獣人だ。その稀な知性によって年若い御阿礼の子を支えて、この人里で秘密結社と忍耐強い暗闘を繰り広げた、あの女――
「……彼女のようなものは例外的存在よ」
思わず口をついて出てしまったが、阿求は怪訝な顔も見せず、頷いた。
「定義を修正するより、例外を増やす方が簡単ですもんね」
しかし連中とんでもない札を切ってくれましたねと、紫の従者が帰路を行きながら呟いた。
「自分たちが妖怪化する可能性を唱えてくるなんて」
「人間を喰った人間が、そのまま鬼や妖になるかどうかなんて、この際どうでもいいわ。これ以上頭のおかしい勢力が増える事だけが悪夢よ」
「しかも頭のおかしい頭数だけで言えば、この幻想郷の最大勢力になりえます」
「心算通りの数字には、絶対になるはずがないとしてもね」
しかし紫は、阿求が言った事をも覚えている――“幸いにも役立った事は一度もないし、これからだって役立って欲しくない”。本音はこちらの方にあると思われる。彼らは破滅の瞬間まで、あくまで人間であり続けようとあがくのではないか。
ふたりが人里を出るときも、検問が撤収する気配は無い。
「……しかし、どこも別に、幻想郷の覇権など考えてなさそうなのが救われているわね」
「多少の分別があれば冷静にならざるを得ないでしょ、この状況は」
八雲藍は鼻を鳴らして、ふと、幻想郷のはずれの方向へと目を向けた。視線の先には博麗神社がある。
「博麗の巫女はどういう腹積もりでしょうか」
「わからない。でも、私たちはゲームの主導権を彼女に譲ったのよ。あとは彼女が寄越してくる妖怪さんの使者を待つしかない。……山の妖怪どももバカよねえ、内輪で寄り集まってぎゃあぎゃあ議論しても、意味無いのに」
「……あの巫女って、本当に人間なのかしら」
主人のぼやきを無視して、藍がぽつりと呟いた。どうやら、相変わらず阿求が提示した疑義に囚われて、考え続けているらしい。紫は苦笑いして言った。
「彼女たちが人間だと信じているなら、ただただ人間さんよ。それでいいんじゃない?」
「いいんですかね、そんなテキトーな感じで」
「学術的には赤点、しかし共同体の幻想を見せるには必要な曖昧さだ」
紫が思わず艶っぽい喘ぎを漏らしてしまうくらい唐突に、摩多羅隠岐奈がその背中から現れた。藍は顔をしかめる。
「結局、曖昧さを器としなければ、この郷はまとめきれないんだよ」
「ナカで動かないでよドスケベ――ところであなた様は、この、みじめな私めを使い走りにして、ご自分は大切な緊急閣議の真っ最中なのでは?」
「幻想郷離脱の発議は停止させた。お偉方は監禁中だ――ちょっと血も見たが、死者は出ていない」
そう言いつつも、自分の部下二人の、返り血などなんとも思っていないような表情を、隠岐奈はちょっと思い出した。
「……たぶん、まだ死者は出ていない、ことを願う」
「まったく、どこもかしこもで無法が行われている」
紫はぼやくくらいしか仕事がない。
「新秩序が必要だぜ霊夢!」
「急に大きい声出さないでよ魔理沙」
「でも必要だろ」
「大きい声を出す必要は無いわ」
微妙に噛み合っていない会話をしながら、博麗神社の畳の上に寝転がって、ふたりはぼんやり考え続けている。
「……実は私、ここから先の事は、なにも考えてない」
「知ってるわ。私だってそうよ」
先日の夜、幻想郷を己らの舞台として吸血鬼異変の調停を買って出るという啖呵を切ってのけた博麗霊夢と霧雨魔理沙だったが、夜明け前に神社の石段を上がって帰宅していく時に言い合ったのは、そんな調子の現状把握だった。
「とりあえず、一発何かしらぶち上げておけば、あとはどうとでもなる」
「素敵じゃん」
と、静かな高揚が依然として残っているうちはまだよかったが、それから半日も眠り込んでは、いっそう冷静にならざるを得ない。
「……しかしながら、なんも思い浮かばん」
そんな状態だった。
「とりあえず朝……お昼……あ? おゆはん? でも作るわ……」
「めちゃくちゃ混乱してんな」
霊夢がのそりと起きて勝手へと向かう。魔理沙は笑ってしまったが、すぐ真顔に戻った。
おそらく時間は残されていない。今の幻想郷はすべての事象が浮ついている。その浮つきが、収拾のつかない混乱に変質していくのは時間の問題だろう。新秩序が必要だと魔理沙がぶち上げたのは、当然の事を言ったにすぎない。大声を出す必要は無かった。
抑圧は不可能だ。
支配などは望むべくもない。
徳治を行っても従わない者はいるだろう。
自分たちは、ルールのみをこの地にそうっと置く事しかできない。
「でも、どんなルールを?」
そういう話を、霊夢が飯を持ってきた後もしてしまった。さすがに女の子らしくないとは思いつつも。
霊夢も、飯がまずくなるなどと突き放す事はしないで、じっと魔理沙の弁を聞いてやって、やがて口を開いた。
「……魔理沙、言ったでしょ。私たちは遊びのつもりでやろうって」
翌朝、霊夢は魅魔と幽香を使者に立てて、新秩序の提案を両勢力に行う事とした。
その道中、魅魔と幽香は互いの分かれ道に立つまでを、ぼそぼそ会話して歩いている。周囲は別に、のんきな田舎道などではない。殺気立っていて、出迎えにやって来たそれぞれの勢力が睨み合ってさえいたが、当人たちだけが何も無いようにのんびり歩き、雑談気分で言い合っている。
「あんたはどう思う?」
「理屈はわかるわ。争いを止めることは不可能だもの。それならば争いを積極的に肯定しつつ、ルールだけは敷いておく」
「しかも観念的で慣習法的なルールだ。妖怪には覿面に効く」
「だとしてもよ、だとしても……」
幽香はぷーっと膨れて、魅魔の方にちらりと目くばせする。言いたいことはお互い一緒で、口を揃えて叫んだ。
「……あまりに無法すぎる!」
しかし二人の声には落胆や怒りといった負の感情は無く、ただ痛快な響きだけがあった。
「“まだ気力の残っている妖怪達はこれでは不味いと思い、博麗の巫女に相談する事にした。
「巫女も大した異変の無い毎日にだらけきっていて、若干の戦闘は必要不可欠という妖怪の考え方に同意した。”
「……そういう顛末です」
「妖怪の山の公式発表としては、ですね」
どこに目がついていれば、大した異変が無いなど言えるのだろうか、と阿求も(紫さえも)思いつつ、そういう事にして欲しいのだろうと話を飲み込んだ。
先の訪問から、半月ほど経っている。ふたたび稗田邸を訪れた八雲紫は、もうひとつ文書を持ち出した。
「そして、こちらは新法の草案。立法に向けて動き出したばかりでまだまだ不完全なものですが、要旨はこのようになりました。あなたも各所への周知をお願いします」
「人里の中で積極的に決闘なんか行いたがる輩はいないと思いますがね……ともかくお任せください」
ところで、と阿求は話を変えた。
「こないだついてきていた従者の方は、今日はいないんです?」
「今日のところは買い出しついでに寄っただけですからね。今頃そこらで油揚げでも買ってるわ」
「急に所帯じみてきましたね」
「こちらにも生活がありますので」
紫が稗田邸を辞したときには、藍が先に買い出しを終えていて、外で待ってくれていた。胸元に抱えられた油っぽい新聞包みの中には、油揚げのスナック。
「……復権しても使い走り仕事が多いのは、どうにかならないのかしら」
「人里との縁を作っていたのが、あなたくらいのものですからねえ」
「まったく、公共のための謀略なんてするもんじゃないわ」
と、藍の買い食いに手を伸ばして、ちょとつまむ。やがて二人は人里を離れて、郊外の田んぼ道を去り、山道へと至っていた。
「しかも危機が過ぎたかと思えば、今度はこんな子供じみた新法案に振り回されて……ふざけているんですか? 博麗の巫女は」
「いいや。あの巫女は、秩序というものがどういうふうに敷かれるものか、よおくわかっている」
背後から声がして、藍はぎょっとした様子で振り返った。声の正体は、例によって摩多羅隠岐奈だった。
「いいかい式神さん。まず、秩序というものはだな――待てよ紫」
一応立ち止まって、話を聞くつもりの藍、さっさと先を行く紫、呼び止める隠岐奈。
「藍、先に行くけどそいつの相手をしてやっといて」
「嫌われていますね」
「あんまり仲良くなりすぎてもよくないみたいなんだ、私たちって」
紫がふんと鼻を鳴らしたのが、かすかに聞こえた。
「……まあ、そんな事はいい。そもそも秩序というものは、反対している者のためにあるわけではない。従う者のためにある。従わない者がいれば、勝手にさせておけ。そして従う者だけがルールの恩恵を受けて、力をつけられればいい。命名決闘法案はめちゃくちゃな内容だが、そういう構造だけはしっかりできている。今までの、決戦を避けて腑抜けていくしかなかった妖怪たちを見ていればわかるだろ。競争から降りて従わない者は、衰えていくばかりなんだ」
「それは理解できますよ。……でも、その結論が決闘方式だなんて」
「たしかに、博麗の巫女の趣味嗜好が大きく反映されている事は否めない。……そのうえ決闘方法自体は自由とされているが、彼女が大好きなおはじき遊び以外の方法は、結局廃れていくだろうな。……そういう自分自身の目論見を、彼女は隠そうともしていない。ただ自分の好きなゲームで遊びたいだけだ」
「……まあ、笛吹けども踊らず、とならない事を私も祈っておりますよ。なにせこちらも立場が盤石なわけではない」
「誰しもがそうだ、君も、私も、彼女だって。だから私は――ああ、戻ってきてくれた」
紫が踵を返して道を戻ってくるのを、隠岐奈は待っていたように言った。
「こいつ、私の悪口言ってたんじゃない? どうだった藍」
「微妙なところですね」
「博麗の巫女の悪口で盛り上がっていた」
隠岐奈はそう言うと、紫の前にちょっと詰め寄るように進んだ。
「これでお前の望み通り。人間と妖怪が対等に争う、大時代への復古だ。おめでとう」
「……こうでもしなければ、妖怪たちは自分の存在を維持しきれませんわ」
「ああ、もっと博麗の巫女の値打ちを上げていかなきゃな! 彼女の神格化を行おう。伝説を作り、唯一無二のものとして、これからも利用していこう。あの神社はこの郷に唯一のものだが、それ以前の、かつて上古にあったもののなごりだって、まったく無いわけではない……すべて潰そう。諸勢力を恭順させる必要は無いが、会盟を主催させるのだっていいかもしれない。権威化はやりつくしても際限が無いからな……おい、なんだ浮かない顔して。全部お前がやりたかった事だろうが」
摩多羅隠岐奈は、からかうように笑いかけた。
八雲紫は冷たい視線で返した。
「――なに? 私にその覚悟ができていないとでも?」
「できてないだろ。お前はいつもそういう奴だ。必要なものだけを取り入れ、要らないものは容赦なく滅ぼす……と見せかけて、いつかそれらが再発見されて、必要になった時を見越して、ひっそり保護し身元を保証しておく。いつもそういう事をしている」
「別に情からやっているわけじゃない。可能な限りはそうすべきよ」
「ああ、なんせ山あり谷ありどん底ありだった郷外れの神社を、数百年も陰ながら保護し続けたのも、そういうわけだもんな。……しかし今回はわけが違う。個人の・生前からの・計画的な・神格化は、策謀者の手から離れて暴走するのが常だ。歴史がそれを証明してくれているぜ」
隠岐奈はそう言うと、古い伝説の名前をずらずら、呪詛のように引き出した。
「厩戸皇子、上宮太子、等已刀弥々乃弥己等、等与刀弥々大王、法主王、上宮聖徳王、厩戸豊聡八耳命、厩戸豊聡耳皇子命、豊聡耳法大王、上宮之厩戸豊聡耳命、豊聡耳神子――聖徳太子」
どれも同一人物の呼び名だ。
「奴を宗教と権威の統合者に仕立てて政治利用を目論んだ豪族どもは、やがて神格化されたあいつを制御しきれなくなった。自分たちで退治不可能なバケモノを作っちゃったんだ。それと同じだ。半端な事をすれば、博麗の皇子――じゃなかった、巫女は、絶対に紫の言いなりにはならない」
「本人はごくごく気のいい少女だと聞いています」
紫は言った。
「そしてたくさんの長所と同じくらい、たくさんの短所もある、結局のところは普通の人間ですわ。やりようはある」
「ふうん」
隠岐奈は笑う。
「どんなふうに? あいつは人間で、お前は妖怪なのに」
「それが素晴らしいのよ。今後、彼女が異変で出会うすべてのひとびとは、まず敵対者になり、それから共に並び立つ者どもになるでしょう。彼女もそこまでは拒絶できない。命名決闘法案にはそういう仕掛けを仕込んだ。取り入る隙はある」
後年、博麗霊夢は、自分と八雲紫について「真に最強の二人」とまで発言する。
命名決闘法案――後のスペルカードルールと呼ばれる新秩序の草案は、各地にばら撒かれた。
「ふむ。“意味がそのまま力となる。”……ですか」
執務机に座る閻魔は、案文を呟くように読み上げ、続けた。
「……いささか観念的すぎるきらいがあって解釈に難がありますが、良いでしょう。私が他の十王に発議をかけます。細かい手直しや手続き、そういった手間は必要ですが、現行法とのすり合わせ自体はなんとかなります。ゲルマン法のいくつかの法典が参考になるでしょう」
「しかしまあ、なんとも無法な法ですね」
案文を運んできた部下の死神は、呆れながら独白のように呟いた。
「いや、あたいらが言えた話じゃないか。今からうちらの組織も、その無法な法の加担者になる――正確には、今日まで現状を追認するほかなかったこの土地における法を、無法を援けてでもこの機に成し遂げ、たしかな秩序を敷く……要するに、やっぱり現状の追認でしかない」
死神は不満げというより、自分たち公的機関の権能のなさを嘲笑うようだった。上司は苦く微笑んで言った。
「いつにも増してお喋りで、詠嘆的ですね」
「愚痴らせてくださいよ。ここ最近、此岸と彼岸との間を、使い走りのように行き来させられているんですもん――連中、あなたに会いたがらないんですよ。嫌われたもんですね」
「是非曲直庁一のサボり魔が、いいように使われてくれているんです。私には彼らを恨む理由がありませんよ。――それに、この土地の秩序は可能な者が整えてやればいい。たとえ行うのが未熟で、罪にまみれた者たちであってもいい。そもそもルールとは……」
と言いかけて喉の奥でなにかねばっこいものが絡まったようで、咳払いして言い直す。
「――ルールとは、常に不備があり、抜け道を持ち、破綻するまでは絶対に未完成ですからね。……ところで話が変わります。あなたは書を能くやると聞いておりますが」
「書?……まあ、ちょっとおぼえが有りますね。小野道風譲りの書き味ですが」
ふーん。と閻魔は考えを巡らす。
「それでは、事が起きたときには対策本部の看板でも書いてもらいましょうか」
「たいさくほんぶ……?」
現代的な言い回しそのものは飲みこむことができたが、その言葉が示すものにまでは、理解が追いついていない。
「何の対策……?」
上司は――四季映姫・ヤマザナドゥは、ため息をついた。
「あと三年以内に思い出しておきなさい……」
「さんねん……?」
是非曲直庁、来たるべき六十年周期の異変に備える。
「今このタイミングしかない。調略をかけろ。新法による決闘を持ちかけろ。なんだよ、どうとでもなるって……今のところ、ルールの細則がなーんにも決まっていないんだからな!」
河城氏を中核とする河童たち、一連の混乱に乗じて、数百年来の悲願であった玄武の沢水系の統一を達成する械闘を開始。
「……今度の騒動は、私たちにとっての奇貨といえる」
ほとんど暗闇の、掘りかけの坑道の中で、主人は従者に囁いた。互いの、石屑やら石炭の破片やらで粉っぽくなっている顔は、もう気にも留めていない。
従者は――菅牧典は、汚れた顔をぬぐい、目をしょぼつかせながらきっぱりと言った。
「……こんな強制労働から解放されるなら、私はどこまでもあなたについていきますよ」
「なにより百々世に情けない借りを作らずに済みそうね……お前がついてきてくれることに関しては、まったく疑っていないわ」
典は目をまん丸く輝かせた。
飯綱丸龍、幾度目かの失脚からまたしても復活、十年近くにおよぶ政争の末、妖怪の山の実権を掌握。
そういえば、この人はなにもご存じないのだなと思いながら、犬走椛は洞窟造りの拘置所の扉を開けた。
「もう来ないでくださいね」
「なんて言いぐさですかあなたは……それにしても、思ったよりちょっと長かったですね」
射命丸文はいけしゃあしゃあと房から出てくると、椛に向かってニヤッと笑った。
「それはそうと、ここ最近は扉越しに話し相手になってくれてありがとうございました。……全然隙が無かったのがいやらしいですけど」
「上役からそう言い含められていたので」
「私の事をバカかなんかだと思っているでしょう?」
「……別に。私はあなたたちの考え方に反対なわけではありませんよ。ただ、現状維持でも新しい世界でも、どっちでもいいってだけで」
「ま、狗らしい意見ですね。それじゃ」
それだけを言って、反響と湿気が充満する石の通路を自信満々に出ていく、颯爽とした背中に、椛はそれ以上声をかける事ができなかった。
射命丸文はまだ知らない。彼女が投獄され、吸血鬼異変が勃発した後、その仕事場は妖怪の山の守旧派によって接収されて、主筆の不在にもかかわらず新聞の発行が継続されていたのだ。もちろん、紙面の内容は文自身の政治スタンスとは対極。吸血鬼異変を否定し、博麗神社の仲介も批判する。また、事態が極まれば博麗大結界からの離脱も辞さないという、強硬な宣言までもが盛り込まれていた。
要するに、全てが過ぎ去った後ではジョークのような記事でしかない。
そしてこの記事で、文々。新聞は後にも先にもただ一度の、天狗の新聞大会における優勝を獲得するのだ。
「……お姫様は、もうちょっと奥座敷にお隠しになった方がいいかな?」
因幡てゐは、騒動の渦中に潜入していた妖怪兎たちの話を聞きながら思案する。
久々に酒を酌み交わすにも、目的があるのは明白だった。
「どうせ、地上のごたごたをちょっと見てこいなんて言われたんだろ」
伊吹萃香はクスクスと笑いながら言った。
「曲がりなりにも旧都の顔役やってるって聞いたけど、いいように使われてるね」
「用事にかこつけたのはそうだけど、会いたかったのも本当よ……役目の話なんてやめよう。酒が不味くなる」
星熊勇儀はそう言い返した。
「……でも、何がどうなっているか、聞きたいだろ?」
「うん」
それがねえ、と萃香はぼりぼり、だらしなく胸元を掻きながら言った。
「近頃どいつもこいつもだらしなくなっていてさぁ、どうせ今度の祭もつまらんのだろうなと飲んだくれてたら、いつの間にか終わってた……で、これ以上語る事がない」
萃香の正直極まりない弁を聞いて、勇儀はうんうんと頷いた。
「ま、どうせそんなところだろうと思っていたよ。……おかげで変な役目を気にせずに飲めるんだから恨むまい」
「一番だらしなかったのはワタクシなんですなぁ」
と、この旧友がもっとも言いそうにないたぐいの自虐が飛び出すので、これはちょっと危ういかな、と勇儀も思った。
「……こういうことを解決するのは、人間に任せときな」
私たちは起こす側だろうと、勇儀はちょっとの慰めのつもりで言った。萃香は目が覚めたような顔をして、それでも酔いは続いたまま首を振った。
「そっか、起こす側か……」
怠惰で飲んだくれの伊吹萃香が独力での異変を達成するまでには、もう数年を要する。
地上の混乱は、その周縁にもじわじわと動きをもたらしていた。
「あんな胡乱な連中、地上人らとの窓口には、絶対になりゃしませんよ。一度は天界から堕とされ、かといってもはや地上人にも馴染めない、半端者の一族です」
と意見をする事は、できなかった。彼女自身は、ただ天人の言いつけに従うためのお使い。竜宮の使い。ばらばらと幻想郷中に散らばり、不良天人どもを迎えに行くだけの、大勢の使者たちの一人。
彼女自身の微妙な気分に反して、お天気は快晴。風は強く、頬を撫で、衣服の表面をさらさらと流れていく。のろのろと地上に降り立ったのは、単に怠惰からだけではなくて、そのお天気が奇妙に心地よかったから。
良いお日和だ。こんな日はどこかに遊びに行きたい――なんて思うのは、ある意味では現状からの逃避かもしれない……だいたい、自分たちは身勝手な存在だ……天界にいると地上で遊びたくなるし、反対に地上にいれば天界に憧れを持つ。
――でも、それは逃避ではないですね、と彼女は思い直した。遊びも、憧れも、逃げではない。退屈な日常をどうにか変えていこうとする努力だろう。
彼女はこれから出会う相手に、なにかを予感している。こうした勘には自信があった。
やがて土くさい地上に降り立ち、道端で一人遊び――蟻の巣潰しをしていた少女に、もしもしと声をかけた。相手の身なりは小綺麗だったが、どうも人品があまり好ましくない。
「……なにあんた」
つっけんどんに尋ね返されて、永江衣玖は頭を掻いた。彼女は自分の勘に自信があるたちだったが、それも疑わしくなってきている。
比那名居一族、一度は堕落したにもかかわらず、このたびの騒動の余波を受けて、なんだかんだと天界への復権を果たす。
ドレミー・スイートは他人の寝床の上にトランプを広げて、クロンダイク・ソリティアに興じながら言った。
「……地上の一地方の権力闘争なんて、余人なら興味なしでしょうがね。しかし、あの土地には例の姫君と賢者が潜伏しています。あなたはそうした情報を月の中枢部と共有するわけでもなく、自分個人の胸中に留め置いている。いつまであの手札を伏せておくのでしょう?」
「永遠に伏せてやってもいいわ」
稀神サグメはそう言いつつ、山札から避けられていたジョーカーカードを手に取る。
「今あなたがやっている一人遊びと一緒ね。全てが行き詰まった時にこそ、場面をひっくり返す存在が必要よ」
そう言うと、行き詰まったソリティアの場に、乱暴にその鬼札を張った。
「こういうふうに」
「……そして私のゲームはわやくちゃになっちゃいました」
本来使われるはずがない切り札を場に放り込まれて、ドレミーは苦笑いをするほかない。
「ですが、手札は大切に伏せてばかりでいいものではありません。……やがて腐り、単なるババになってあなたを害する」
「そうでなくても、争いなんて行き詰まった結果に起こる、腐った札の張り合いでしかないわ」
「なにより自分たちが腐らないという保証も無い」
ドレミーは微笑んだ。
「月の軍隊と武官は、文官優勢による統制下にあって腐りかけ、脆弱になりつつある。このままでは、あなたたちはやがて新世界の力に追い落とされるでしょうね。夢見る月の都には未来なんて無いのかも」
「脅すような事を……」
「実感はあるんじゃないでしょうか? この文治官僚の帝国がどんなに安眠していようと、あなたの情報部に入ってくるものはどれも憂いばかりでしょう。その憂いがある限り、あの世界の姫君には価値がある」
「……最悪の場合、私の権限の範囲内だけでも中央の統制を離れて独自の動きを起こし、地上に遷都しつつ蓬莱山輝夜を擁立して、亡命王朝を打ち立てる、か」
サグメは鼻で笑った。
「夢みたいな話ね」
「ええ。しかし今夜のあなたは夢より現実の話がしたいようです。今度はどんな憂いが転がり込んできたんですか?」
気だるそうにのっそり寝床の上を動くドレミーに向かって、サグメは苦笑いを見せ、相談を始める。
十三年後、稀神サグメは遷都計画が進行する中でも月の都に残留して指揮を執り、敵の大攻勢を防ぎ続けている。
「なにがなんだかわけがわからないけど面白くなってきたわ!」
妖精たちは今日も元気だ!
同じ頃、アリスは魔界を出奔していた。
「もう、そこの境を越えると幻想郷だけど、友達がいるの……」
と、旅の道連れになった相手に向かって、照れくさそうに言った。ふっと微笑んだ相手は、向こうはかなりごたついているみたいだけど……と頭にかぶっているキャペリンハットの位置を直しながら、心配そうに言った。
「らしいわね……でも、あなただって行く場所は一緒なんでしょ? どうして行くのよ」
「諜報活動」
相手の言葉の意味を飲み込んで、異常に気がついた時には、アリスは追いかけてきた少女たちに取り囲まれていた。
「……連れ戻しに来たの?」
「逆よ。お見送りに来ました」
そう言ったのは夢子だった。神綺の最高傑作。
アリスは、そのひねこびた感受性でもってニヤッと笑った。
「夢子さんならそう言うでしょうね。私を追い出せて、せいせいしたでしょ?」
「困った子だとは思っていましたが別にそこまでは……」
夢子はそう言ったが、心の内に腕を突っ込まれたような戸惑いが、無いではない。思ってもみなかったというよりは、ただ自覚していなかっただけの感情にも思えた。
「……神綺様からの伝言です。あなたは好きに生きなさい」
「あの女はそう言うしかないでしょうね」
「そしてこれだけは忘れないように。“すべての造られたものに福音を”……」
「最初からそう言っておいて欲しかったわ」
「また、この境界を越えたら、あなたはこの魔界での地位を全て失います」
「なるほど。絶縁ってわけ」
「そこまで徹底していないわ。たまには戻ってきて、顔を出しなさいとも言っていました」
「ふうん。まあいいわ、行くわ」
「ああ、それともうひとつ。与えるものがあったのを忘れていました――」
「夢子さんって話運びの要領が悪いのね……で、なによ?」
アリスはその場で賜姓を受けて臣籍に降下し、以降はアリス・マーガトロイドと名乗るようになる。
その頃、博麗霊夢と霧雨魔理沙は……
「ありゃ、動かん」
「飲ませすぎだぜ」
散らかった博麗神社の座敷にへたり込む二人の間には、ぐるぐるになって活動を停止したアンドロイドが横たわっていた。
「急に倉庫から引っ張り出してきたから、びっくりしちゃった」
と言うのは、縁側に移動した幽香だった。もうもうとした埃っぽさから避難しながらも、自分が飲む分の一升瓶だけ、ちゃっかり確保している。
「……記憶に無いわ」
「記憶がぶっ飛ぶまで飲むな」
「教授たちはあらゆる平行世界の各方面から追っかけられているらしいし、アフターサービスには期待できないよ」
部屋の隅でまだまだ酒をちびちびやっている魅魔が、ぼそりと言った。
メイドロボットは物置に逆戻り。
「……ともかく、後のめんどくさい事は、できもしないのにコントロールしたがりの妖怪さんたちに、みーんな肩代わりしてもらったから」
「それでいいんだよ。やりたい方々にやってもらえば」
幽香と魅魔は、ここ何十日の展開に、心底疲れた様子だった。
「私、こういう事はもう絶対に協力してやらないから」
幽香が立ち上がりこの場を去ろうとしながら、ふと振り返ると、最後に一言添えた。突き放すようだが、とげのある調子ではない。
「次は期待しないでね」
これ以降、幽香は彼女らしい自由気ままな放浪の日々を送る。
「……一升瓶ひっ提げて出ていかれても、やっべえ女にしか見えないのよ」
残った三人は異口同音に言い合って、笑った。
「そういえば」
と、魔理沙がアルコールに舌を痺れさせながら言った。
「……魅魔の言う復讐って、どういうつもりだったんだ?」
「魅魔“様”とお言い」
「もう様なんて付けないよ」
即座に言い返されて、かえって愉快だったのか悪霊は大笑いしてしまった。それから、霊夢に向かって言う。
「良い方向に動いたかどうかはともかく、博麗の巫女として超メーワクしたでしょ?」
「いやまあめちゃくちゃ困ったけどぉ……」
「そしてこれからも困るわ。博麗の巫女は、この世界にとって無視できない存在になっちゃったから。そういう事」
「余計な仕事増やしてくれたわけね」
「急にイヤな言い方になったな……」
魔理沙が皮肉げにぼやいているうちに立ち上がった霊夢は、ふらりと勝手へと引っ込んでいって、少しして戻ってきた時には、葉物の切れ端などを集めた籠を抱えていた。
それを魅魔に押しつける。
「じゃあ、あんた暇でしょ。裏の池にいるお爺ちゃん亀に餌でもやっといて」
「あい……」
魅魔は事実上の隠居状態となって、幻想郷の表舞台から姿を消す。
そして博麗霊夢と霧雨魔理沙は――
「門を突破したようです」
「ははあ、窮屈なルールに対して一日の長があるとはいえ、実力もガチみたいねあいつら」
従者の報告を聞きながら、紅魔館の主は言った。
「今どこにいるの?」
「待ってください。通路の構造を操作して時間稼ぎをしていますが――あ。いっけね」
「……ん?」
「図書館にお通ししてしまいました」
「パチェにとっても、たまには良い運動になるでしょ。あんたも行ってきなさい咲夜」
「わかりました。奴らの切り札を全弾引っ剥がして、お嬢様の前にお届けしてやりますわ」
咲夜は来客の――物騒な来客の応対に出ていって、あとにはレミリアだけが残った。
この、本来は第二次吸血鬼異変とでも呼ばれるべきだった騒動は、戦間期に制定された偉大な新秩序、スペルカードルールの意義を強調するために、異変の連続性を意図的に打ち切られて、新たに紅霧異変の名称を与えられる事になる。
レミリア・スカーレットの独白。
「しかし、どうもみんな、最近は自分たちの運命に振り回されがちね……まあいいや、ここは月並みな言い回しだけど“All the world's a stage, And all the men and women merely players;”と言ってやりましょう。“この世は舞台、そして全ての男女は役者でしかない”のなら、運命だって、ステージの上で動き回るプレイヤーたちの筋書きにすぎないでしょ」
Player:博麗霊夢(役)、霧雨魔理沙(役)
「楽しい夜に」
「永い夜に」
「――なりそうね」
という、あの著名な割り台詞のくだりは、もっと淡々とやるべきなのではないかと、博麗霊夢(役)は常々思っている。
「そりゃあ、ドラマティックに、歌舞伎の見栄的にセリフを切った方が、互いの間は取りやすいと思うけどね。それでは博麗霊夢的じゃないと思うのよねえ」
「お前は博麗霊夢の何を知ってるんだよ」
霧雨魔理沙(役)は、相手のそうした愚痴を客席から聞いてやっていた。舞台上には作業用のボーダーライトの、白く殺風景な光ばかりが降り注いでいる。しかも博麗霊夢(役)は舞台衣装などを着ていない、ただの普段着姿。……それでも霧雨魔理沙(役)はよく知っていた。この生意気な役者にひとたびスイッチが入れば、たとえ普段着姿で、真っ白な作業灯の下であっても、伝説上の博麗霊夢が生き生きと復活する事を。
伝説上の博麗霊夢。
「実際の博麗霊夢なんか知ったこっちゃ無いけど、博麗霊夢的なるものはよく知っているつもりだわ」
「ま、ぶつくさ言っても明日には公開ゲネだ。もう閉めるからな」
と、霧雨魔理沙(役)は劇場の鍵を振り回して、もう帰り支度だという素振りを見せた。
「電気消してこいよ」
「はいはい」
博麗霊夢(役)は、舞台上に置いてあったバックパックを拾って、一度舞台袖に引っ込んでいく。ややあって作業灯が消灯されて、二人は互いの手元灯かりを頼りに、舞台下で合流した。客席足元の非常灯を頼りに出口に向かう。
「……あ、そうそう。明日は稗田家の方々がご覧になられるってさ」
「あ?」
博麗霊夢(役)が不機嫌そうな声を上げたので、霧雨魔理沙(役)はふっと苦笑いしてしまった。
「そう邪険にするなって。連中は口うるさいけど、この文化事業の出資者なんだ」
「はっ、あんたはそう割り切れるかもしれないけどね。あの演技が気に食わない、この解釈が気に食わない。言われるのはいっつもこっち、博麗霊夢だもん」
「それを言ったら、霧雨魔理沙なんて居たも居なかったかもわからん存在だぜ……」
博麗霊夢がこの幻想郷にスペルカードルールという新機軸を打ち立ててから〓〓〓年が経った今、彼女の歴史的受容には紆余曲折が積み重なり、その実態の把握は困難を極めている。
もちろん、彼女の実態が覆い隠されている原因が、意図的な政策を端緒とするのは、ほぼ間違いない。伝説化、神格化、政治利用、それが極まった末の反動である“人間としての博麗霊夢”観……どれもが過剰な毀誉褒貶に繋がり得るものであって、実際そうなった。
九代目御阿礼の子である稗田阿求が著したいくつかの史料さえも容赦のない疑古の対象となり、批判に晒された。後になってみれば、それら幻想郷縁起を始めとしたいくつかの書物は、確かに著者による一般化、分析、解釈、評価が混じってはいるが、それでも重要な同時代史料として扱われるべきだった。
そうした反動はドラスティックなものだったが、論争にも価値はあった。博麗霊夢という幻想郷史上最高(最強ではないだろうし、ましてや最良では絶対になかったが)の英雄が幻想郷の歴史にもたらした最大のエポックは、異変解決や妖怪退治などではなく(もちろん、その逸話や伝説は華々しく、分析に値するが、歴史的影響はあくまで限定的だ)、スペルカードルールの制定という認識で落ち着いた。後世の学識ある人々はそう見た。
霧雨魔理沙の扱いは、長らく非実在説を経由してきたために、いっそう怪奇なものとなっている。彼女の存在には早くから様々な疑義がつきまとってきた。なにせ博麗霊夢が顔を出す異変・騒動・事件に、必ずと言っていいほど同時に居合わせて、博麗の巫女が解決したはずの異変すら、彼女が華麗に解決したという異聞が残っていたりする。
博麗霊夢の伝説化という点では、もう一人の英雄譚はどうやら不都合なものだったらしい。彼女の存在は、常に博麗の巫女と異変解決を競っては出し抜かれる架空の人物――ハル王子に対するフォルスタッフのような、愛嬌あるトリックスターとして受容された。
もちろん、彼女のものとされる著作があり、史料にも彼女の名前が残っている以上、非実在説はありえない話だ。少なくとも、霧雨魔理沙のモデルとなる人物は確実に存在したとされている。
とはいえ、通俗的には霧雨魔理沙が架空の人物であろうという一般認識は、今でも根強い。
博麗霊夢(役)と霧雨魔理沙(役)は、壁に手をついて劇場の出口に向かっている。
「時々思うんだけど」
と博麗霊夢(役)がぼそりと呟いた。
「長生きしている妖怪さんたちはどう思うのかしらね、私たちの演劇」
「……当事者の方々が何も言わないのなら、これでいいんだろ。気にすんなよ。歴史上のリチャード三世の実像がたとえ良き領主・誠実な夫・情勢に翻弄された人物であったとしても、シェイクスピアの『リチャード三世』は、永遠に冷酷な簒奪者・卑劣な肉親殺し・稀代の悪人であるリチャード三世であっていい」
「ふふ、そのうち博麗霊夢に呪い殺されるかもね」
「可能性はある。うちらは稗田んちに睨まれるまでもなく、好き勝手しすぎだからな」
ふたりはクスクス笑い合って、客席後方の扉を押し開いた。
「で、なんで急にそんな話を……」
と尋ねた霧雨魔理沙(役)も、わかっていた。劇場の暗闇の中を歩いているとき、明らかに別の気配がした。二人きりのはずなのに三人分の息遣いがして、二人並んで歩ける通路なのに、なんとなく隙間をあけて詰めるように、身を寄せ合って歩いてしまうような、そんな雰囲気。
「……わかんない。なんかむしょうに、とにかくなんでも話したくなった」
相手がそう言ったのもごまかしだと、お互い察している。
「……どうせこの後飲むつもりだろ。うちならいい酒飲めるぜ」
「あんた明日ゲネだっつってなかった?」
「ふん、それくらいが博麗霊夢と霧雨魔理沙らしいだろ」
スペルカードルールは幻想郷に――それから幻想郷が関わっていく多くの紛争にまで、属人主義的法観念でもってあまねく適用されたが、当然の事ながらそれに反発する力も存在している。人間の巫女などが決めたルールは気に食わないというので、無視していこうという動きも、当然あった。
そもそも、このルールの根拠は博麗霊夢個人に帰属している。そして彼女は人間だ。せいぜい寿命は百年。その間、幻想郷は博麗霊夢を中心として、治世が回転していく事だろう――実際のところ、霊夢のやり口は常に馬上英雄的かつ直情的。敵をぶん殴る事のみに終始していて、統治や政治といったものとは、極めて無縁な存在だったが。
その百年をのらりくらりかわす事が、スペルカードルールを良しとしない妖怪たちの大戦略になった。つまり、それまで通りの無視を決めていれば、博麗の巫女は死ぬ。結局人間の寿命はそんなものだ。女子供の遊びなんか放っておいて、自分たちは、その間ここに在り続ければいい……。
彼女たちが永遠になる事までは考えていなかった。
「……それにしてもあの役者さんたち、二人によく似ていることだわ」
劇場に棲みつく悪霊さんは、他に誰も居なくなった暗闇の中で、ぼそりと呟いた。
行き詰った現況を憂い、あざけり、引っ掻き回す様がまさに幻想郷の歴史といったように感じました
断片的な公式設定から信じられないくらい整合性のある話が練り上げられていて本当に読んでよかったと思いました
最高です