数日前、気まぐれにやってきた紫にこんなことを聞いたことがあった。
「幻想には持ち主がいる。じゃあ幻想郷は、一体誰の幻想なの?」
と。その時には答えを得ることは出来なかった。
ただ紫は悲しそうな、気まずそうな表情を浮かべ、調べておくわ、とだけ言って何処かへ行ってしまったのだ。
他にも、隠岐奈や華扇にも聞いたがどれも芳しくなかった。
魔理沙やアリスはまず知らないだろうし論外だから、あとは異変の首謀者達に聞くぐらいだろうか。
「はぁ…行きますか。」
誰のものとも知れない幻想の空へ飛び出した。
*
霧の湖のほとりに位置する吸血鬼の館、紅魔館。
珍しく起きていた門番をのし、時を操るメイドを掻い潜り、今は紅い吸血鬼の前に立っていた。
「あら霊夢。貴方が此処へ来るなんて珍しいわね。」
〈永遠に幼い紅き月 レミリア・スカーレット〉
ご挨拶のグングニルを躱し、針を数本投げる。
決着をつけなくとも満足したようで、愉快そうに蝙蝠のそれのような翼が揺れていた。
「で、一体何の用かしら?」
「…はぁ。そうね、単刀直入に言うわ。あんたは…紫に幻想郷について聞いたことがある?」
「えっ?…じゃなかった。し、知らないわよ。聞こうと思ったこともないし。」
本当だろうか。
懐疑的な表情の霊夢に紅色の魔力弾が迫る。
「っ。あぶなっ!」
弾が肩を掠め、数滴血が飛び散る。
「あらあら。いつもの勘はどうしたのかしら?」
「っなんで…なんでよ…!」
さあね、と肩をすくめるレミリアの真紅の双眼にはナイフよりも鋭い冷涼な光が宿っていた。
つい、と目線をあげた霊夢は表情を消す。
レミリアは満足げに微笑む。
「そう。それでいいのよ。いい子ね、霊夢。」
「あ…ぅ…。」
まともな言葉も出ずに黙り込む。
それはそうだろう。感情から浮いてしまえば、他人に感情を伝えるためのツールに過ぎない言葉なんて、使えるわけがないのだから。
表情も失せ、とても儚い、触れればすぐにでも壊れてしまうような空気が霊夢を包んでいた。
神霊『夢想封印』
紅符『不夜城レッド』
虹色の弾と紅色の弾がぶつかり合い、相殺する。
彼女が本気を出したことを知り、レミリアが歓喜の声を上げる。
「博麗はこうでなくちゃ!さすが霊夢ね!私も吸血鬼の血が騒ぐわ…!」
「……。」
夢符『封魔陣』
神槍『スピア・ザ・グングニル』
床に撒かれた大量の符を強大な魔力の槍で叩き潰す。
何枚か潰し損ねた符から清らかな光が溢れ、レミリアの体を焼いた。
それをすぐに再生し彼女は霊夢から距離を取る。
「あー危ない。火傷しちゃうじゃない。……もう、私が独り言言ってるみたいじゃない、恥ずかしくなってくるから突っ込んでくれる?」
「……ぁ…。」
「え?」
少し不満そうな顔をしていたレミリアは自分の耳を疑った。
霊夢が、口を開いていた。そこから、鈴の音のように高く細い声が漏れている。
「…れ…み……ぁ。」
「霊夢…?」
しかしその淡い希望もすぐにきた衝撃で霧散する。
退魔の札が腕に張り付き肌を焼いていた。
それを無視し霊夢に向き直る。
「っ霊夢!貴女は…。」
「吸血鬼、レミリア・スカーレット。」
「…何、よ。」
「幻想郷の掟に基づき、貴女を——」
ぞくりと背筋が震え、体の芯から恐怖が侵食してくる。
終わった。ただ単純に、そう思った。
自らのせいで“自分”を失った巫女を前にして。
「——殺すわ。」
漠然とした恐怖の体現。
人々の畏怖の象徴。
紛れもない第13代博麗の巫女、博麗霊夢がそこにいた。
自身が異変を起こした時とは比べ物にならない霊力が彼女の体を包んでいる。
どちらかといえば、ヒトよりも神に近いような。
自身の理解の及ばない禁忌の領域に踏み込んだ者が発する凛とした冷たい、神秘的、とでもいうのだろうか。そんな“気”を彼女は放っていた。
「——。ど、どうしちゃったのよ霊夢。笑えない冗談だわ。」
背筋を嫌な汗が伝う。
どう足掻いても、自分では相手に勝てないと彼女の一挙手一投足から思い知らされる。
霊夢が私を一瞥し、そっと宙に浮く。
だんだんとその身体が透け始め、向こう側の様子が窺えるようになる。
『夢想天生』
霊夢の、文字通りの“切り札”が発動した。
「——!」
全身が切り刻まれる。
四肢から力が抜けていく。
痛みが遠のき意識が希薄になる。
『さようなら。レミリア・スカーレット。この幻想は終わらせるべきだわ。』
幾重にも重なって聞こえた彼女の声が遠のき、視界が暗転した。
*
「…来たわね。」
廊下の向こうから響いてきた足音に5人の少女が緊張した面持ちで頷き合う。
〈完全で瀟洒なメイド〉十六夜咲夜
〈華人小娘〉紅美鈴
〈知識と日陰の少女〉パチュリー・ノーレッジ
〈名もなき小さな悪魔〉小悪魔
〈悪魔の妹〉フランドール・スカーレット
この館の主であるレミリアが死んだことは妖精メイドが伝えたため周知の事実だが、特に咲夜は霊夢への怒りを露わにしていた。
「霊夢…!絶対に殺してやる…!」
「…ふぅ。落ち着きなさい、咲夜。私たちが今ここで感情に負け全滅したところで、レミィは浮かばれないわ。」
「そーそー。さくやはマジメすぎ。わたしたちはこう、ドーンと構えて霊夢と戦えばいいのよ。」
「…パチュリー様、妹様。お見苦しいところを見せました。申し訳ございません。」
「いいよー!ていうかわたし、特に怒ってないモン。謝んなくても別にいいんだけどね。」
「そ、そうでございましたか…。」
こうして話していると、以前の妹様みたいだな、と咲夜は思う。
レミリアが起こした紅霧異変以来、フランドールを含めた全員が外へよく出るようになった。
パチュリーは魔理沙の元へ逢瀬を果たしに、レミリアとフランドールは霊夢のところへイタズラをしに、美鈴も来客が増えたことで仕事が多くなり、給料が上がったと喜んでいた。
小悪魔は比較的外へ出ないが最近は霧の湖に住んでいる氷精や宵闇妖怪に誘われて鬼ごっこをしている姿をよく見かける。楽しそうだから見ているこちらまで癒やされるし、何より彼女は真面目に仕事をしてくれているので見逃してやっている。
その前、レミリアが異変を起こす直前。
フランは塞ぎ込み、何日も部屋にこもって食事もしなかった。
最低限の片付けをしに部屋に入った咲夜もレーヴァテインを投げつけられ、時を操る能力がなければ死んでいたような状況だったのだ。
その時の彼女は、虚空を見つめたまま自分には理解できない言葉を呟き笑っていた。
かろうじて話せる日でも、話が噛み合うことはなかった。今の会話は、その記憶を思い出させる。
「……霊夢は、変わってしまったのですね。」
「…そう、なのかなぁ?まあ、わたしが止めていいようなカンジじゃなかったけどね。」
「えぇ。……彼女は、私たちの知っている霊夢ではない。なら話は簡単だわ。ボコボコにして、誰に何を吹き込まれたのか聞き出せばいい。その後で我が紅魔館のメイドにするのよ。」
パチュリーはいたずらっ子のような笑みを浮かべ、廊下の先を睨みつけている。
彼女は意外に血の気が多い。それに苦労させられた経験も大いにあったが、逆に微笑ましくも思っていた。
「……そうですね。まぁあの霊夢のことですから。働かせるより先に研修が必要ですわね。それもとっても長い研修が。」
「ふふ。私たちが死ななければ、だけれどね。」
廊下のはるか向こうから響いていたように思えた終焉の足音が、わずか数メートルまで近づいていた。
「——さぁ、紅魔館の生き残り共。私を殺せるかしら。」
今までの何倍もの威圧感。純粋な恐怖で足がすくむ。
ついさっきまでの燃え上がるような復讐の念は無情にも崩れ去り、頭は自らの保身を考え始める。
どうしようもない自己嫌悪が、真っ赤な華を咲かせた。
「——あ。」
咄嗟に能力を発動する。
止まった時の中で、自分だけが死へと動いてゆく。
他の4人が驚愕の表情でこちらを見つめたまま止まっている。
いとも簡単に、気配を揺らすこともなく霊夢は私の胸を針で貫いていた。
かくんと膝が折れ、時間が進み始める。
「咲夜!」
パチュリーがその深い熟慮を湛えた瞳に暗く重い絶望を映す。
フランドールが、一気に自身の狂気を爆発させる。
小悪魔が悲痛な叫び声を上げる。
美鈴がこちらに駆け寄り、必死に止血しようとする。
愛しい自分の仲間たちを、自分のせいで絶望の底に叩き落としてしまった。
そんな自責ばかりが頭を巡る。
「咲夜さん…!し、死なないでくださいよ……!ま、まだ、ずっと、ずっとずっと、一緒に居るって、言ってくださいよ……!嫌だぁ…逝かないで……お願い…。」
泣き叫びながらも、必死に手を動かし私を生かそうとする。
その手に、私はそっと触れた。
「咲夜さん…?だ、駄目ですよ。そんなことしたら。あ、あぁ、嫌、やめて、やめて!いやぁぁぁ!」
私はそっと、美鈴の手を引き剥がす。
血が溢れるけれど、気にしない。
「いい、のよ…美鈴…。私が…馬鹿だった、だけ…。だから、あなたは…生きて、いて…。ありがとう……。」
必死に言葉を紡ぐたび、意識が遠のいていく。
最後に視界に映ったのは、涙でくしゃくしゃの美鈴の顔だった。
『全くもう…可愛い顔が台無しじゃない。でもそんなところも…可愛いわ、美鈴。』
——“私”が終わった。
*
ぱたりと、咲夜の手が床に落ちる。
死の間際に彼女に何かを囁かれていた美鈴は目の前の状況を飲み込めず、眼を見開いたまま、笑いながら何かを呟く。
「咲夜さん…?咲夜さん。咲夜さん!…………あは。あはは。馬鹿だなぁ。私ったら。咲夜さんはもういないんだから。さっさと死ねばいいのに。あはは。あはははははは。……もう疲れたし終わりにしよう。死んじゃお。ふっ。ふふ。あっはははははははは!」
美鈴が自らに気弾を放つ。
何度となく見てきた自傷が、今回ばかりは、いつもと違った。
「美鈴?あなたまさか……。」
自分でぼろぼろになりながら、気怠げに美鈴がこちらを見る。
光を宿さない瞳には、どす黒い絶望の淵が覗いていた。
「……なんですか、パチュリー様。」
「美鈴。死ぬことは許しません。咲夜もきっと…あなたに生きて欲しかったはずよ。だから……やめなさい…私にこれ以上……愛する者の死を見せつけないで…。」
限りなく絶望した彼女の眼に、敵対の意思が浮かび上がる。
「なんで邪魔するんですか。もういない人のことなんてわかるわけないですよね。パチュリー様は結局自分が傷つきたくないだけです。そんな自己防衛に私を巻き込まないでください。じゃ、さよなら。お世話になりました。次会う時が来ないことを祈っています。」
「っ美り」
目の前で、気弾が弾け、彼女の身体が飛び散る。
その光景は嫌というほど目に焼きつき、頭の中でループする。
——声も出なかった。
何も言わない、何も言えないまま、美鈴“だったモノ”をかき集める。
忘れてしまわないように。
彼女の与えてくれた温もりが消えないように。
「……美鈴の…馬鹿…!」
「…パチュリー様。まだ終わっていません。私たちは…まだ負けていません。」
いつの間にかそばに来ていた小悪魔が気遣うように言う。
私はかろうじて頷き、立ち上がる。
「あら、もう負けたと思っているのかしら。……まだよ。あなたたちにとっての地獄は終わらない。全員死ぬまでね。」
霊夢は信じられないような饒舌さで挑発してくる。
軽く肩をすくめて、その喧嘩を買う。
「私は…私たちは…吸血鬼、レミリア・スカーレットの配下。だったら、最後まで足掻いてみせる。この地獄をあなただけの蹂躙の場にはさせない。——行くわよ。」
火符『ディスカッションフレイム』
無数の魔法陣を展開し、四方八方から火炎弾を発射する。
それはさながら言葉を炎に置き換えた討論のようだった。
迸る火の粉が霊夢の巫女装束の袖を焦がしたとき、彼女に異変が起きた。
「♪——。」
「え?」
「♪——。」
「霊、夢?」
彼女の口から、信じられないほど高い音の羅列が溢れ出ていた。
耳に、頭に突き刺さるような高音は明確な意味を持たず、ただひたすらに溢れ出している。
高濃度の霊力を伴うそれは私でさえ意識しないと耳が取れそうなほどだった。
ダメージを最小限に抑えるために、自分の中に、深く、深く潜り込む。
「♪——!」
「いやぁぁ!」
「っ小悪魔!」
甲高い悲鳴に我に返ってそちらを見ると、耳が焦げた小悪魔がいた。
彼女は目に涙を溜め、私の名前を呟くと倒れた。
「…小悪魔?」
「パ、チュ…リー…さ、ま…。」
駆け寄ってその手を握っても、帰ってくるのは無機質な物体の感触だけだった。
死んだ。小悪魔は死んだ。
その事実が、何よりも私を痛めつける。
それでも、進まなければ。
止まった者に待っているのは、限りない絶望と親しい者の死のみ。
——それが、博麗霊夢の作り上げた“地獄”。
儚い幻想に、終焉をもたらすモノ。
私はそれを、狂ってしまった彼女を、止めなければならない。
「諦めたりなんか、絶対にしないわ。私は何としてでも、あなたを止める。」
月符『ルナティック・デス・サークル』
青白い魔力を込めた弾が満月を模した円に広がり、その中心に捉えた標的に向かって飛び始める。
ほっと一息ついた時。
「——パチュリー。」
「ッ!?」
ぞくりとした。
圧倒的な威圧感に。
絶対的な存在感に。
神秘的な秘匿感に。
そしてそれが、私への引導だった。
「さようなら。」
その言葉だけが、私に渡された三途の川の船賃だった。
*
「フラン。」
「なに?」
「愛してるわ。」
「もう、くすぐったいな。言わなくてもわかってるよ。」
「そんなこと言わないの。せっかく改めて言ってあげてるのに。」
「そうかなぁ。」
「そうよ。」
「じゃあいいか。」
「そう言ってもらえて嬉しいわ。」
「うん。」
「ねぇ、フラン。」
「ん?」
「私は誰だと思う?」
「……え?何、言ってるの?」
「あなたに、見つけて欲しい。“私”を。フラン、あなたにしか頼めない。」
「え…。だ、だって、□□はここにいるじゃない。わたしの、目の前に。どういうことなの…?」
「詳しいことは言えない。でも、フラン。」
「…何。」
「“この幻想は永遠ではない”、それだけは覚えていて。そうすれば、あなたにだけは私を見つけられる力がつく。全て、幻想の神が教えてくれる。それは、博麗の巫女を探す準備のようなものよ。」
「博麗の巫女…。知ってるけど、どうして?」
「あなたの力は幻想を切り捨てるように終わりへ導くことができてしまう。私の力は幻想を育て守るために存在している。その矛盾は、より早くこの幻想に終焉をもたらす。だから、あなたに私を探して欲しい。そうしている間だけは、私とあなたの波長は調和する。」
「だから、探せる力を私に?」
「そうよ。犠牲は厭わない。」
「おかしいよ。だって、いつもそんなこと言わないじゃない。□□がそんなことしたら、お姉様も、魔理沙も、みんないなくなっちゃうじゃん。誰もいなくなったら、□□は幸せなの?」
「幸せ、というのは少し違うわ。でも、その後で私たちも消える。完全な無の空間にだけ、私は存在することができる。」
「霊夢…。…………え。霊、夢?」
「……覚えてたの?」
「わからない、けど…わたしは、あなたを知ってる。でも知らない。変な感じ。」
「そう。まぁいいわ。もう私たちに残された時間は少ない。探して頂戴。私を。博麗霊夢、その本質を。」
*
「ん…。」
月の光が差し込む部屋で、私は飛び起きた。
ドアを粉砕し、人影を探す。
曲がり角を曲がるたびに揺れる七色の宝石をぶら下げた羽が、今日だけはうざったくってしょうがなかった。
——いない。いない。誰もいない。
何もかもが、存在しない。
「…ぇさま。お姉さま!どこにいるの!返事してよ!咲夜も、パチュリーも、美鈴も、小悪魔も、私をおいて逝かないで!みんないなくならないで!」
冷たい玄関ホールで、声を張り上げて叫ぶ。
叫べど叫べど、誰も現れない。
「なんで…なんで無視するのよ!」
シャンデリアを壊す。
花瓶をばらばらにする。
床に亀裂を入れる。
何をやっても、返ってくるのは残酷な静寂のみ。
「あ、あぁぁ…。」
力が抜ける。
「あぁぁぁ…。」
吐息が漏れる。
「あぁうぁぁぁぁぁぁぁぁ!」
景色から、色が消えた。
止まらない、止まらない。
全て壊し尽くすまで、止まらない。
「あっははははははははははは!!!!」
ひとりの破壊神の、誕生でした。
「幻想には持ち主がいる。じゃあ幻想郷は、一体誰の幻想なの?」
と。その時には答えを得ることは出来なかった。
ただ紫は悲しそうな、気まずそうな表情を浮かべ、調べておくわ、とだけ言って何処かへ行ってしまったのだ。
他にも、隠岐奈や華扇にも聞いたがどれも芳しくなかった。
魔理沙やアリスはまず知らないだろうし論外だから、あとは異変の首謀者達に聞くぐらいだろうか。
「はぁ…行きますか。」
誰のものとも知れない幻想の空へ飛び出した。
*
霧の湖のほとりに位置する吸血鬼の館、紅魔館。
珍しく起きていた門番をのし、時を操るメイドを掻い潜り、今は紅い吸血鬼の前に立っていた。
「あら霊夢。貴方が此処へ来るなんて珍しいわね。」
〈永遠に幼い紅き月 レミリア・スカーレット〉
ご挨拶のグングニルを躱し、針を数本投げる。
決着をつけなくとも満足したようで、愉快そうに蝙蝠のそれのような翼が揺れていた。
「で、一体何の用かしら?」
「…はぁ。そうね、単刀直入に言うわ。あんたは…紫に幻想郷について聞いたことがある?」
「えっ?…じゃなかった。し、知らないわよ。聞こうと思ったこともないし。」
本当だろうか。
懐疑的な表情の霊夢に紅色の魔力弾が迫る。
「っ。あぶなっ!」
弾が肩を掠め、数滴血が飛び散る。
「あらあら。いつもの勘はどうしたのかしら?」
「っなんで…なんでよ…!」
さあね、と肩をすくめるレミリアの真紅の双眼にはナイフよりも鋭い冷涼な光が宿っていた。
つい、と目線をあげた霊夢は表情を消す。
レミリアは満足げに微笑む。
「そう。それでいいのよ。いい子ね、霊夢。」
「あ…ぅ…。」
まともな言葉も出ずに黙り込む。
それはそうだろう。感情から浮いてしまえば、他人に感情を伝えるためのツールに過ぎない言葉なんて、使えるわけがないのだから。
表情も失せ、とても儚い、触れればすぐにでも壊れてしまうような空気が霊夢を包んでいた。
神霊『夢想封印』
紅符『不夜城レッド』
虹色の弾と紅色の弾がぶつかり合い、相殺する。
彼女が本気を出したことを知り、レミリアが歓喜の声を上げる。
「博麗はこうでなくちゃ!さすが霊夢ね!私も吸血鬼の血が騒ぐわ…!」
「……。」
夢符『封魔陣』
神槍『スピア・ザ・グングニル』
床に撒かれた大量の符を強大な魔力の槍で叩き潰す。
何枚か潰し損ねた符から清らかな光が溢れ、レミリアの体を焼いた。
それをすぐに再生し彼女は霊夢から距離を取る。
「あー危ない。火傷しちゃうじゃない。……もう、私が独り言言ってるみたいじゃない、恥ずかしくなってくるから突っ込んでくれる?」
「……ぁ…。」
「え?」
少し不満そうな顔をしていたレミリアは自分の耳を疑った。
霊夢が、口を開いていた。そこから、鈴の音のように高く細い声が漏れている。
「…れ…み……ぁ。」
「霊夢…?」
しかしその淡い希望もすぐにきた衝撃で霧散する。
退魔の札が腕に張り付き肌を焼いていた。
それを無視し霊夢に向き直る。
「っ霊夢!貴女は…。」
「吸血鬼、レミリア・スカーレット。」
「…何、よ。」
「幻想郷の掟に基づき、貴女を——」
ぞくりと背筋が震え、体の芯から恐怖が侵食してくる。
終わった。ただ単純に、そう思った。
自らのせいで“自分”を失った巫女を前にして。
「——殺すわ。」
漠然とした恐怖の体現。
人々の畏怖の象徴。
紛れもない第13代博麗の巫女、博麗霊夢がそこにいた。
自身が異変を起こした時とは比べ物にならない霊力が彼女の体を包んでいる。
どちらかといえば、ヒトよりも神に近いような。
自身の理解の及ばない禁忌の領域に踏み込んだ者が発する凛とした冷たい、神秘的、とでもいうのだろうか。そんな“気”を彼女は放っていた。
「——。ど、どうしちゃったのよ霊夢。笑えない冗談だわ。」
背筋を嫌な汗が伝う。
どう足掻いても、自分では相手に勝てないと彼女の一挙手一投足から思い知らされる。
霊夢が私を一瞥し、そっと宙に浮く。
だんだんとその身体が透け始め、向こう側の様子が窺えるようになる。
『夢想天生』
霊夢の、文字通りの“切り札”が発動した。
「——!」
全身が切り刻まれる。
四肢から力が抜けていく。
痛みが遠のき意識が希薄になる。
『さようなら。レミリア・スカーレット。この幻想は終わらせるべきだわ。』
幾重にも重なって聞こえた彼女の声が遠のき、視界が暗転した。
*
「…来たわね。」
廊下の向こうから響いてきた足音に5人の少女が緊張した面持ちで頷き合う。
〈完全で瀟洒なメイド〉十六夜咲夜
〈華人小娘〉紅美鈴
〈知識と日陰の少女〉パチュリー・ノーレッジ
〈名もなき小さな悪魔〉小悪魔
〈悪魔の妹〉フランドール・スカーレット
この館の主であるレミリアが死んだことは妖精メイドが伝えたため周知の事実だが、特に咲夜は霊夢への怒りを露わにしていた。
「霊夢…!絶対に殺してやる…!」
「…ふぅ。落ち着きなさい、咲夜。私たちが今ここで感情に負け全滅したところで、レミィは浮かばれないわ。」
「そーそー。さくやはマジメすぎ。わたしたちはこう、ドーンと構えて霊夢と戦えばいいのよ。」
「…パチュリー様、妹様。お見苦しいところを見せました。申し訳ございません。」
「いいよー!ていうかわたし、特に怒ってないモン。謝んなくても別にいいんだけどね。」
「そ、そうでございましたか…。」
こうして話していると、以前の妹様みたいだな、と咲夜は思う。
レミリアが起こした紅霧異変以来、フランドールを含めた全員が外へよく出るようになった。
パチュリーは魔理沙の元へ逢瀬を果たしに、レミリアとフランドールは霊夢のところへイタズラをしに、美鈴も来客が増えたことで仕事が多くなり、給料が上がったと喜んでいた。
小悪魔は比較的外へ出ないが最近は霧の湖に住んでいる氷精や宵闇妖怪に誘われて鬼ごっこをしている姿をよく見かける。楽しそうだから見ているこちらまで癒やされるし、何より彼女は真面目に仕事をしてくれているので見逃してやっている。
その前、レミリアが異変を起こす直前。
フランは塞ぎ込み、何日も部屋にこもって食事もしなかった。
最低限の片付けをしに部屋に入った咲夜もレーヴァテインを投げつけられ、時を操る能力がなければ死んでいたような状況だったのだ。
その時の彼女は、虚空を見つめたまま自分には理解できない言葉を呟き笑っていた。
かろうじて話せる日でも、話が噛み合うことはなかった。今の会話は、その記憶を思い出させる。
「……霊夢は、変わってしまったのですね。」
「…そう、なのかなぁ?まあ、わたしが止めていいようなカンジじゃなかったけどね。」
「えぇ。……彼女は、私たちの知っている霊夢ではない。なら話は簡単だわ。ボコボコにして、誰に何を吹き込まれたのか聞き出せばいい。その後で我が紅魔館のメイドにするのよ。」
パチュリーはいたずらっ子のような笑みを浮かべ、廊下の先を睨みつけている。
彼女は意外に血の気が多い。それに苦労させられた経験も大いにあったが、逆に微笑ましくも思っていた。
「……そうですね。まぁあの霊夢のことですから。働かせるより先に研修が必要ですわね。それもとっても長い研修が。」
「ふふ。私たちが死ななければ、だけれどね。」
廊下のはるか向こうから響いていたように思えた終焉の足音が、わずか数メートルまで近づいていた。
「——さぁ、紅魔館の生き残り共。私を殺せるかしら。」
今までの何倍もの威圧感。純粋な恐怖で足がすくむ。
ついさっきまでの燃え上がるような復讐の念は無情にも崩れ去り、頭は自らの保身を考え始める。
どうしようもない自己嫌悪が、真っ赤な華を咲かせた。
「——あ。」
咄嗟に能力を発動する。
止まった時の中で、自分だけが死へと動いてゆく。
他の4人が驚愕の表情でこちらを見つめたまま止まっている。
いとも簡単に、気配を揺らすこともなく霊夢は私の胸を針で貫いていた。
かくんと膝が折れ、時間が進み始める。
「咲夜!」
パチュリーがその深い熟慮を湛えた瞳に暗く重い絶望を映す。
フランドールが、一気に自身の狂気を爆発させる。
小悪魔が悲痛な叫び声を上げる。
美鈴がこちらに駆け寄り、必死に止血しようとする。
愛しい自分の仲間たちを、自分のせいで絶望の底に叩き落としてしまった。
そんな自責ばかりが頭を巡る。
「咲夜さん…!し、死なないでくださいよ……!ま、まだ、ずっと、ずっとずっと、一緒に居るって、言ってくださいよ……!嫌だぁ…逝かないで……お願い…。」
泣き叫びながらも、必死に手を動かし私を生かそうとする。
その手に、私はそっと触れた。
「咲夜さん…?だ、駄目ですよ。そんなことしたら。あ、あぁ、嫌、やめて、やめて!いやぁぁぁ!」
私はそっと、美鈴の手を引き剥がす。
血が溢れるけれど、気にしない。
「いい、のよ…美鈴…。私が…馬鹿だった、だけ…。だから、あなたは…生きて、いて…。ありがとう……。」
必死に言葉を紡ぐたび、意識が遠のいていく。
最後に視界に映ったのは、涙でくしゃくしゃの美鈴の顔だった。
『全くもう…可愛い顔が台無しじゃない。でもそんなところも…可愛いわ、美鈴。』
——“私”が終わった。
*
ぱたりと、咲夜の手が床に落ちる。
死の間際に彼女に何かを囁かれていた美鈴は目の前の状況を飲み込めず、眼を見開いたまま、笑いながら何かを呟く。
「咲夜さん…?咲夜さん。咲夜さん!…………あは。あはは。馬鹿だなぁ。私ったら。咲夜さんはもういないんだから。さっさと死ねばいいのに。あはは。あはははははは。……もう疲れたし終わりにしよう。死んじゃお。ふっ。ふふ。あっはははははははは!」
美鈴が自らに気弾を放つ。
何度となく見てきた自傷が、今回ばかりは、いつもと違った。
「美鈴?あなたまさか……。」
自分でぼろぼろになりながら、気怠げに美鈴がこちらを見る。
光を宿さない瞳には、どす黒い絶望の淵が覗いていた。
「……なんですか、パチュリー様。」
「美鈴。死ぬことは許しません。咲夜もきっと…あなたに生きて欲しかったはずよ。だから……やめなさい…私にこれ以上……愛する者の死を見せつけないで…。」
限りなく絶望した彼女の眼に、敵対の意思が浮かび上がる。
「なんで邪魔するんですか。もういない人のことなんてわかるわけないですよね。パチュリー様は結局自分が傷つきたくないだけです。そんな自己防衛に私を巻き込まないでください。じゃ、さよなら。お世話になりました。次会う時が来ないことを祈っています。」
「っ美り」
目の前で、気弾が弾け、彼女の身体が飛び散る。
その光景は嫌というほど目に焼きつき、頭の中でループする。
——声も出なかった。
何も言わない、何も言えないまま、美鈴“だったモノ”をかき集める。
忘れてしまわないように。
彼女の与えてくれた温もりが消えないように。
「……美鈴の…馬鹿…!」
「…パチュリー様。まだ終わっていません。私たちは…まだ負けていません。」
いつの間にかそばに来ていた小悪魔が気遣うように言う。
私はかろうじて頷き、立ち上がる。
「あら、もう負けたと思っているのかしら。……まだよ。あなたたちにとっての地獄は終わらない。全員死ぬまでね。」
霊夢は信じられないような饒舌さで挑発してくる。
軽く肩をすくめて、その喧嘩を買う。
「私は…私たちは…吸血鬼、レミリア・スカーレットの配下。だったら、最後まで足掻いてみせる。この地獄をあなただけの蹂躙の場にはさせない。——行くわよ。」
火符『ディスカッションフレイム』
無数の魔法陣を展開し、四方八方から火炎弾を発射する。
それはさながら言葉を炎に置き換えた討論のようだった。
迸る火の粉が霊夢の巫女装束の袖を焦がしたとき、彼女に異変が起きた。
「♪——。」
「え?」
「♪——。」
「霊、夢?」
彼女の口から、信じられないほど高い音の羅列が溢れ出ていた。
耳に、頭に突き刺さるような高音は明確な意味を持たず、ただひたすらに溢れ出している。
高濃度の霊力を伴うそれは私でさえ意識しないと耳が取れそうなほどだった。
ダメージを最小限に抑えるために、自分の中に、深く、深く潜り込む。
「♪——!」
「いやぁぁ!」
「っ小悪魔!」
甲高い悲鳴に我に返ってそちらを見ると、耳が焦げた小悪魔がいた。
彼女は目に涙を溜め、私の名前を呟くと倒れた。
「…小悪魔?」
「パ、チュ…リー…さ、ま…。」
駆け寄ってその手を握っても、帰ってくるのは無機質な物体の感触だけだった。
死んだ。小悪魔は死んだ。
その事実が、何よりも私を痛めつける。
それでも、進まなければ。
止まった者に待っているのは、限りない絶望と親しい者の死のみ。
——それが、博麗霊夢の作り上げた“地獄”。
儚い幻想に、終焉をもたらすモノ。
私はそれを、狂ってしまった彼女を、止めなければならない。
「諦めたりなんか、絶対にしないわ。私は何としてでも、あなたを止める。」
月符『ルナティック・デス・サークル』
青白い魔力を込めた弾が満月を模した円に広がり、その中心に捉えた標的に向かって飛び始める。
ほっと一息ついた時。
「——パチュリー。」
「ッ!?」
ぞくりとした。
圧倒的な威圧感に。
絶対的な存在感に。
神秘的な秘匿感に。
そしてそれが、私への引導だった。
「さようなら。」
その言葉だけが、私に渡された三途の川の船賃だった。
*
「フラン。」
「なに?」
「愛してるわ。」
「もう、くすぐったいな。言わなくてもわかってるよ。」
「そんなこと言わないの。せっかく改めて言ってあげてるのに。」
「そうかなぁ。」
「そうよ。」
「じゃあいいか。」
「そう言ってもらえて嬉しいわ。」
「うん。」
「ねぇ、フラン。」
「ん?」
「私は誰だと思う?」
「……え?何、言ってるの?」
「あなたに、見つけて欲しい。“私”を。フラン、あなたにしか頼めない。」
「え…。だ、だって、□□はここにいるじゃない。わたしの、目の前に。どういうことなの…?」
「詳しいことは言えない。でも、フラン。」
「…何。」
「“この幻想は永遠ではない”、それだけは覚えていて。そうすれば、あなたにだけは私を見つけられる力がつく。全て、幻想の神が教えてくれる。それは、博麗の巫女を探す準備のようなものよ。」
「博麗の巫女…。知ってるけど、どうして?」
「あなたの力は幻想を切り捨てるように終わりへ導くことができてしまう。私の力は幻想を育て守るために存在している。その矛盾は、より早くこの幻想に終焉をもたらす。だから、あなたに私を探して欲しい。そうしている間だけは、私とあなたの波長は調和する。」
「だから、探せる力を私に?」
「そうよ。犠牲は厭わない。」
「おかしいよ。だって、いつもそんなこと言わないじゃない。□□がそんなことしたら、お姉様も、魔理沙も、みんないなくなっちゃうじゃん。誰もいなくなったら、□□は幸せなの?」
「幸せ、というのは少し違うわ。でも、その後で私たちも消える。完全な無の空間にだけ、私は存在することができる。」
「霊夢…。…………え。霊、夢?」
「……覚えてたの?」
「わからない、けど…わたしは、あなたを知ってる。でも知らない。変な感じ。」
「そう。まぁいいわ。もう私たちに残された時間は少ない。探して頂戴。私を。博麗霊夢、その本質を。」
*
「ん…。」
月の光が差し込む部屋で、私は飛び起きた。
ドアを粉砕し、人影を探す。
曲がり角を曲がるたびに揺れる七色の宝石をぶら下げた羽が、今日だけはうざったくってしょうがなかった。
——いない。いない。誰もいない。
何もかもが、存在しない。
「…ぇさま。お姉さま!どこにいるの!返事してよ!咲夜も、パチュリーも、美鈴も、小悪魔も、私をおいて逝かないで!みんないなくならないで!」
冷たい玄関ホールで、声を張り上げて叫ぶ。
叫べど叫べど、誰も現れない。
「なんで…なんで無視するのよ!」
シャンデリアを壊す。
花瓶をばらばらにする。
床に亀裂を入れる。
何をやっても、返ってくるのは残酷な静寂のみ。
「あ、あぁぁ…。」
力が抜ける。
「あぁぁぁ…。」
吐息が漏れる。
「あぁうぁぁぁぁぁぁぁぁ!」
景色から、色が消えた。
止まらない、止まらない。
全て壊し尽くすまで、止まらない。
「あっははははははははははは!!!!」
ひとりの破壊神の、誕生でした。
もう一作の方でもコメントしてくださった通り、過激なグロ表現等は今後控えるよう努力します。
改めて、アドバイスありがとうございます。
作者様のやりたいことが前面に出ていてとてもよかったと思います
あっさりとやられていく紅魔館メンバーが儚かったです
この後もいくつか続くと思うのでそちらの方、見てくださると幸いです。
紅魔館のメンバーがそれぞれ仲間の事を思っているのがすごくよく伝わって、悲しくて、嬉しくて、とても虚しい気持ちになりました
改めて素晴らしい作品だと思いました