Coolier - 新生・東方創想話

さらば眠れる逆さ姫

2023/12/28 01:47:40
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 私はいつも「間違い」の側に立っている。

 そう。世界には正しきものと邪なるものがある。言い換えようか? 世界は光と闇に分かれている。
 べつに良い悪いの問題じゃない。重要なのは、自分がどっちに立ってるかってことだ。
 
 光か?

 それとも薄暗い闇の側か?

 ……私が立っているのは闇の方だった。正しさとはなにか? が、生まれながらにわからなかった。
 思うに「正しさ」とは淡い色のようなもので、遺伝的に特定の色相が見分けられない者があるように、私は事物の正しさと邪さが見分けられないんだろう。
 言うなれば、正邪盲。

 そう考えればほら……良いとか悪いじゃないよな?
 だって仕方のないことだ。人が鳥のように飛べないのとおんなじだ。

 ――だから私も気に留めなかった。

 闇の側もそれはそれで過ごしやすいしな。青天白日の下じゃ生きづらかろう。
 なんでもそっちじゃ無制限の自由はなく、責任という檻に雁字搦めにされているとか。
 ムカつく奴がいても殴りとばしたらいけない。欲しい物があっても奪い取ったらいけない。だってお天道様が見てるから。互いが互いを見守っているから。
 こっちから見ればそんなのはただのディストピアだね。

 ……とどのつまり、私は日陰の水があっていたのさ。

 正しさよりも邪でありたい。人であるより鬼でいたい。

 だからそうした。

 そうしてきた。今までずっと。

 そしてきっと、これからもそうしていく。

 そう思っていたんだ。

 あいつに会うまでは。

 最初はそうでもなかった。あんな奴は都合のいい玩具でしかなかったし、用済みになったら捨てるつもりだった。

 だけど、だけどさ?
 
 あいつはあまりにも陽の光の当たる世界の住人だったから。私という影の世界の定住者にさえ平然と笑みを向けるくらい! あいつの微笑むのを見て、微笑みかけられてはじめて、私は自分のいる世界が嫌になったんだ。

 ……もちろんあいつは私に騙されていたさ。私の本性を知らずに無邪気に能天気に笑ってただけだ。

 でも。それでもさ! わけもわからず私に愛想よくしていた、ただそれだけだとしても!

 だとしても。

 あいつははじめて私と一緒にいてくれたんだ。一緒に笑って、意味もなく駄弁って、果てしない夢を二人で見て。

 だから引きずり込もうとしたんだ。あいつも薄暗がりの住人になればよかった。
 光の側には眩しくって踏み込めないから、向こうが落ちてくりゃよかった。
 そうすれば一緒にいられる。そうすれば……。

 ――でも。終にそうはならなかったんだよな?

 自明だった結末。世界は光と闇に分かれていて、その境界はきっと絶対にひっくり返りはしないってこと。

 光と闇の世界に束の間かけられた橋が最後には脆く崩れ去ることなんて、わらべでも知っている。その点で賢いのは人間だ。奴らは意固地なほどに己の領分を守る。貴族の子供と物乞いの子供が遊ばないのはそういう理由だ。それと同じこと。あいつは姫で、私は天邪鬼だった。それだけだ。

 そして私はまた独りになった。でもそれは元に戻っただけ。
 なにも変わりはしない。

 なんにも。

「………………あ」

 甘ったるいにおいで目が覚めた。長い夢を見ていた気がする。悪い夢を。
 悪いのは好きだが、悪夢は嫌いだ。悪夢の中にはいつも知らない私が出てくる。弱い私。泣き虫の私。良い子の私。ぜんぶぜんぶくそくらえ。そんなものは虫酸が走る。
 だから目元を拭おうとして……その時になって初めて、手元の重みに気がついたんだ。

「……あ?」

 甘いにおいは手元の煙管が吐き出していた。こんなものを持って眠りこけていたのか? 火もつけたまま?
 瑠璃色の彩色に金箔で施された二枚貝の模様。高そうな煙管だ。
 こんなものに見覚えはないが、とりあえず一服いただく。だって私が持ってたんだ、そりゃ私のものだろう? もっとも他人にものならなお良いが。人の金でする一服は最高だ。

「ちぇ。ケチな葉ぁ使ってんな」

 そう言いつつ口元が解けるのを抑えられん。
 高い煙草を燻らす時に特有のあの、豊かなにおいの海に溶けていくような感覚。幻想郷には大抵のものがあるが、良質な煙草だけはなかなかお目にかかれない……もとい、口にできないんだ。
 堪えられずもう一服いただく。脳天からとろけていく。とろけていく……。

「どう? 月の民の煙管は」

 聞き覚えのある声がした。夜の闇にさす月光のような声。

「ははぁ……誰だったかな? ぼんやりしちまってわからんね」
「お気に召したみたいでなにより。ところで丁寧口調はやめたの? そっちのほうが好きだよ」

 っと……そうだ。なぜ私はこの人に……大切なこの人にこんな失敬な言葉遣いを?
 いかんな、脳みその奥の奥までぼけてやがる。

「……いえいえ。安い葉にケチを付けていたところです」
「値段のつけようもないっていう意味では、たしかに高い葉っぱじゃないかもね」

 笑い声が響く。そいつは私の笑い声だ。なぜかはわからん。でも不思議とわらっちまって。
 たぶんこんなに波風のない、凪いだ心持ちがあんまり久々だったものだからだろう。

「正邪は煙管持つと様になるね」

 声の主が私の隣に腰を下ろす。煙管と同じ瑠璃色の髪。
 煙管をまわしてやると、両手で重そうに受け取り、吸口に齧りつくような不格好で一服していた。

 いちおう、弁護しておいてやる。これはけして彼女の行儀が悪いからじゃないし、箸より重いものを持ったことがないからでもない。
 一寸とは言わないまでも彼女の上背は一尺ほどしかないんだ。自分の背丈ほどもある煙管を吸おうとしたら誰でも、あんな不格好になるだろう?

「月の民、とおっしゃいましたか? 月の品なら納得できる品質ですがね、汚れだの何だの言いつつしっかり嗜好品は愉しむ連中ですよ。とはいえ、ケチで差別主義者の連中がよくまあ私らに譲ってくれたもんだ」
「ぷふぁ~~」

 彼女が――姫がゆっくりと煙を吐き出す。吹けば飛ぶほどの煙でも姫には巨人の一服だ。

「そりゃあね、月の連中も私たちの機嫌はとっておきたいんでしょ。あいつら今の幻想郷じゃ赤子にすら勝てるか怪しいもの」
「はて……」

 脳裏に浮かぶ違和感を煙が覆っていく。考えがまとまらない。ひょっとしたら酒も飲んでいたのか……いや、きっとそうだ。
 読めたぞ。おそらく一杯やった後に一服いれていて、そのまま寝落ちしちまったんだな。だから記憶も曖昧だし、こうも頭がぼんやりする。なんとも情けないな。

「ふふ、極楽だね」

 姫が私の腰元にもたれかかる。猫のような小動物の例に漏れず、姫は平熱が私よりも高い。湯たんぽに寄り添われているような感じがする。

「……見ない間に月世界はずいぶん弱体化したようですね?」
「連中がわざわざこっちにくればの話だけど。こうして朝貢を受ける以外は幻想郷は鎖国状態だし、小槌の魔力も月までは届かないし」
「小槌の? もうそんなに魔力を取り戻したんですか?」
「あっはは! さっきからどうしたの、正邪? 取り戻すもなにも小槌の魔力は無尽蔵だよ。忘れちゃったの? よっぽど煙を吸いすぎたのね! あはは! かわいい!」

 姫が笑う。まばゆい陽射しのように屈託なく。
 だから私も笑った。姫が笑うってことはそいつが可笑しいってことだ。疑問を差し挟む余地がどこにある?

「……ん?」
 
 どうしたんだ正邪、笑みには仏頂面で、仏頂面には嘲笑で返すのがおまえの礼儀だろう?
 それに小槌の魔力が無尽蔵だって? それはただの勘違いで実際には吸収と放出を繰り返すだけの――

「もう一服いかが?」

 私は差し出されるまま煙管を口にする。

 それでえーっと……? だから小槌が……小槌? 笑みには仏頂面で……。

 おかしいな。

 なにか肝心なことを忘れている気が……肺が膨らむ……無尽蔵の魔力なんて……煙が満ちる……なにか……肺が膨らむ、煙が満ちる、満ちる……。

「どうしたの? 顔、怖いよ?」
「い、いえ……ちょっと深く吸いすぎたかな……」

 姫は笑顔で小首をかしげる。私も曖昧に微笑む。笑うのは苦手だ。特にこんな風に笑うのは。
 けれど姫が笑えば私も笑うんだ。だって姫は、姫だけは、私に心から笑みを向けてくれる人だから。

 私の大切な人。私の姫。姫……でも姫は、姫はもういないはずじゃ? だって私が、私が裏切った。嫌われた。見下された。軽蔑されたんだ。
 だからあの笑みは二度と……二度と……しかし……それなら今、目の前で微笑む姫は?

「怖い夢を見ていたんだね?」
「え?」
「寝てる正邪、すごく苦しそうだったわ。きっと怖い夢を見たんだ」

 夢。そう、たしかに嫌な夢を見た。どんな夢だったか思い出そうとしてもできない。
 煙管を咥える。煙を味わう。いい気分だ。掛け値なしに。煙を吐き出す。甘いにおい。いいにおい……。

「ええ、たしかに夢を見て……しかし何かとっても……とても大切な夢だった気がするんです……」
「ただの夢だわ。だって思い出せないんだもの。大切な夢は覚えているものだよ」

 大切な夢なら覚えているはず。確かにそうかもしれない。
 それに他人の夢の話ほど退屈なものはない。所詮は目覚めた時に忘れる程度の些事にすぎないのに、姫に向かってこんな話を。

「そう、些事にすぎないわ」
「些事に……」
「それよりも正邪、私たちにはもっと大切な夢があるじゃない。幻想郷をひっくり返す夢! レジスタンスとしての夢が! 大切な夢ってそれのことじゃない? 半ば完了してるとはいえ、まだ道半ば――!」

 そう言って立ち上がった姫の手元には、いつしか黄金に眩い小槌が握られていた。
 魔力を秘めた打ち出の小槌。
 側にいるだけで空間がビリビリと震えるのがわかる。しかし姫は涼しい顔でそれをかざす。

「正邪、思い出して。私たちがなにを目指してきたのか。私たちがなにを成し遂げてきたのか!」

 記憶は未だ曖昧だった。成し遂げてきたこと……なんだ? そんなものはなにもない……私はなにも成し遂げられなかった。
 だがそれは夢か……。

「私たちがしたこと……」

 姫の丸い瞳に私の間抜けな顔が覗く。どうしても思い出せない。
 とはいえ……だ。私は小槌を手にとって見る。革命を成し遂げるほどの反則魔力は紛れもなく健在だった。
 そう。ならやることは、成し遂げるべきことは一つだろう? 浜の真砂は尽きるとも、世に反逆の種は尽きまじ、だ。

「その顔、やっとレジスタンスの顔に戻ったね?」
「ええ……この小槌を持ってると落ち着きます」
「そう。なら正邪が持ってていいよ。どうせ私たちの仕事はしばらくないんだし。幻想郷中に満ちた魔力はもはや制御する必要すらない。革命は着実に進行中よ」
「それは……よかったです」

 よかった。それは良いことだよな?
 私たちには月の民すらひれ伏す反則無敵の小槌があって、それを使える姫がいて、姫に仕える私がいて。
 それより大切なことなんてないよな?

「そういえばね」

 姫が微笑む。また私に向けて。私に向けて、だ!
 そうとも。それより大切なことがあるか? いやありはしない。ありはしないんだ……だが、「また」?

 姫はずっと私に微笑んでくれる人だ。今までも、これからも……「また」なんておかしいじゃないか?
 まるで一度でも姫が私の側から……離れたような……。

 なにかが喉奥で引っかかっている。頭痛のような違和感がする。
 けれどその違和感は、煙管から甘いにおいが吐き出されるたびにほどけて、消えていった。消えていくということは、やっぱり重要ではない証左だろうか……。

「ねえねえ、他の葉もあるんだよ。紅魔館からのやつ、白玉楼からのやつ、妙蓮寺からの……組織ってのは大変だね?」
「え?」
「だからさ、私たちのおかげで強者と弱者がひっくり返りつつあるでしょ? だから力を奪われた当主たちが慈悲を求めて私たちに差し出してくるの。それでどうしようか、正邪?」
「どうするって……」
「彼女たちは生きるべきか、死ぬべきか」

 小槌によって力を奪われた有力者たち。そうか。生殺与奪の権限は今や私たちにある。私の胸元におさまった黄金の打ち出の小槌がこの世の絶対正義なんだ。
 とはいえ……この月の葉よりうまいものがあるとも思えない。もう少しこいつを燻らすのも悪くない。

「……まあ、一服してから考えましょう。小槌の魔力は無尽蔵なんだ、焦る必要もない」

 そう、なにも焦る必要はない。必要なものはここにすべて揃っているんだから。そうだよな?


 ◯


「嫌よ」

 開口一番、霊夢さんの答えは簡潔で冷徹だった。私はなにを期待していたんだろう?

「あんな天邪鬼を助けるなんて混沌を自ら蘇らせること、するわけないでしょ? むしろいなくなって喜ばしいじゃない。清々するわ」

 めっきり冬めく博麗神社に寒風が吹き抜けていく。
 こんな時、私が鬼だったら良かったのにといつも思う。鬼だったら、私があの怪力乱神の豪傑鬼だったら? 霊夢さんはこんな風に答えただろうか?
 誰かと話す時、私はいつだって見下される側だ。文字通り。

「あんたもね、あんな奴を気にかける必要なんてないでしょう。騙されて散々にひどい目にあわされて……なんでまだ関わろうとするのよ」

 とはいえたしかに、たしかに霊夢さんの言葉は事実だ。
 あんな奴、あんな天邪鬼を助ける……そんな義理、私にはもうない。むしろあいつがいなくなっていの一番に清々するべき立場なのに。一族の無念を利用されて、小槌と自分自身を利用されて……ほんとに酷い奴だけど……それでも。

「霊夢さんの気持ちは正しいと思う。迷惑かけてごめん。他を当たってみるから」
「……あのね、針妙丸。こんな態度を取るのは私だけじゃないと思うわ。言いたかないけど、あいつは幻想郷一の――」
「嫌われ者だって言うんでしょ? そんなのわかってるよ。あいつ性格最悪だもん。平気で嘘つくし、人を騙しても気にしない。相手が笑えば仏頂面で、仏頂面には嘲笑で返すろくでなしの天邪鬼」
「だったら」
「それでも!」

 それでも。
 あいつは天邪鬼で、友達もいないひねくれ者で。私が見捨てたらいよいよ一人になってしまう。
 そんなのあんまりだ。

「……はぁ。同情心で関わるべき相手じゃないわよ」
「同情なんかじゃない」
「じゃあ、なに?」

 私は口をつぐむ。
 核心を突かれて言い返せなかったから……じゃない。
 言ってもきっと霊夢さんにはわからない。あの広い広い逆さ城で何十年も一人、一族の罪と復讐を背負う姫として孤独に暮らしてきた私のことなんて。

「話してもわかり合いえないやつっているものよ、針妙丸」

 そう。話してもわかり合えないことはある。
 以前に誰かから聞いたことがあるんだ。世界は光と闇に分かれているって。正しい方と邪な方に分かれてるって。
 霊夢さんはきっと光の側にいる。どうしようもなくまっさらで、まっとうで。
 けれど私は、それにあいつも、等しく闇の側から生まれた妖怪。この溝が埋まることはきっとない。例え一緒の神社で過ごして、同じ釜の飯を食べていたとしても、光と闇の境界がひっくり返ることはありえないんだ。

「ありがとう。心配してもらってるのにごめん。私一人でもなんとかしてみる。だから気にしないで!」
「なんとかって……なんか私が酷いやつみたいだけど」
「そんなことないよ。私も思うもん。同情心だけで関わるべき相手じゃないって。だから霊夢さんも関わる必要はないよ」

 ……もちろん、強がりなんだけどね。頼みの綱の霊夢さんはダメで、彼女の言う通り他の有力者もきっと同じ反応をするだろう。

 それもしかたないよね? 私の人徳不足なんだ。正邪の人徳は最初から期待してないし。

「……ただいま」

 浮かばれない気持ちを抱え、私は戻る。幻想郷の外れ、鬱蒼とした雑木林にひっそりと建てられた山小屋へと。
 ここはとある天邪鬼な妖怪の何個目かの秘密シェルター。といってもほぼ廃屋に過ぎないけど。おまけに当の妖怪がひどいものぐさなものだから中は荒れ放題! 傾いた扉からは隙間風が吹き込んでやまない。だからすっごく寒いんだ。
 出かけ際にせめてと火を起こしてきた囲炉裏はとっくに燻りきっていて、妙に甘ったるいにおいの煙を吐き出している。もう一度火を灯さないとこっちまで凍えてしまいそう。

「ん……しょっ! 小人用の火箸とか売り出してもいいのにっ!」

 普通の大人ならなんてこと無い仕事でも、私はいっつも時間がかかる。小人だから。世界の殆どを規定する人々とは物差しが違うから。
 でも自分でできるなら良いほうだよね? 一人じゃできないことはもっともっといっぱいあるから。

「どりゃっ……! これでもかっ……!」

 とにかく苦心してまた火を起こして、それで……いよいよ逃げ道がない。
 戻ってきてからの間ずっと目を向けないようにしてきた方向――部屋の隅へと、私は向き合う。

 粗末なむしろの上に横たわるのは物言わぬ死体――じゃない! まだ生きている。
 でも意識はない。いつもの憎ったらしい調子は嘘のように消え、ただ静かに瞳を閉じた妖怪――鬼人正邪が寝かされている。

 もちろん傍からはただ眠っているだけのようにしか見えない(あるいは死体のようにしか)。
 というか実際に正邪はただ眠っているだけだ。息もしてるし、口に運んでやれば食事もするし水も飲む。

 問題は、あまりにも長く眠り続けてるってこと。

 ……私がこのアジトで正邪を見つけたのはいつだっけ? 一週間前? あるいはもっと?

 ただ、鬼人正邪というお騒がせ妖怪が幻想郷から消えてからの計算なら、間違いなく一ヶ月は前のことだ。
 正邪はひねくれものだけど寂しがり屋だから、いつだって厄介事を起こさずにはいられない性分なはず。それが一ヶ月ほど前から突然、火の消えたように姿を見なくなった。もちろん誰も気にしなかったけど。

 そりゃそうだよね? 正邪がいなくなって喜ぶ人は多いけど、悲しむ人なんていないから。

 だから、私がようやくこのアジトで正邪を見つけた時、ほとんど骨と皮のようになっていた。妖怪でなきゃとっくに死んでただろう。妖怪ですら、あともう一ヶ月も水も飲まずに眠り続けてたら……。

「こら正邪や! 食事を持ってきてやったのにそんな寝っ転がって! 今のあんたでも口にできるように粥にしてやったぞ! 私に感謝して食え! 聞いてるの!?」

 まあ食事と言っても私の運べる量なんてたかが知れてるけど、とにかく口にむりやり突っ込む。水も無理やり飲ませる。そりゃあもうだばだば飲ませる。
 人間相手なら窒息とかを気にしたほうが良いだろうけど、妖怪だし大丈夫だよね……たぶん。

 とにかく散々苦労してお世話してやって、その間も小屋の中はいっこうに温まらなくて。隙間風がひどすぎるからほとんど吹きさらしみたいな状態なんだ。
 しかもいちばん壁の歪みが無い所に正邪を寝かせちゃったせいで最悪。少しでも風を避けようとすると私は、ちょこんと正邪の枕元に蹲ることにならざるをえない。
 ごうごうとうなる風の音も意に介さず正邪は寝息一つたてない。でも心配になって手をかざすとちゃんと息はしてる。迷惑なやつ。

「正邪ぁ……らしくないよ。いったい誰にやられたんだよ」

 いったい何故こんなことに?
 霊夢さんの助力を得られなかったからなんとも言えないけど、これは病気の類じゃない……と思う。きっと妖術や呪いの系列だ。しかも強烈なやつ。

 そうでなきゃ、いくら正邪が弱っちいとは言えここまで手も足も出ないはずがない。
 だって正邪の「何でもひっくり返す程度の能力」は、ある程度の害意ならひっくり返せるんだ。「セルフリジェネみたいなもんですよ」と前に言ってた。意味はよくわからないけど、とにかく無駄に生命力は強いってことらしい。きっとそんなだからしょっちゅう喧嘩を売りまくるんだろう。ゴキブリみたいな奴だわ。
 
 ともかく。

 強烈な力の持ち主なんて幻想郷にはいくらでもいる。おまけに正邪に迷惑をかけられた人(例えば可哀想な小人族のお姫様とか)も掃いて捨てるほどいるから、犯人を特定することはほぼ不可能だ。いっそ向こうからトドメを刺しに来てくれたら楽なのに。

「ああもうバカ! いつもいつも見境なく敵ばっか作って!」

 言ってもしかたない。
 正邪は天邪鬼だし、天邪鬼にとって嘘と裏切りはきっと呼吸をするより当たり前のものなんだ。
 まったく、よくそんなで生きてられるものだ。いったい正邪には世界がどんな風に見えてるんだろう? 騙すにしか値しないつまらない世界。自分を糾弾するだけのろくでなし共。その何もかもを見下しているのかしら? ひょっとして……私も?

「正邪……もしかして私、お節介をしてるだけなのかな?」

 正邪は答えない。そりゃそうだ。答えられないから苦労してるんだ。

 きっとこのまま見捨ててしまえば楽なんだろう。
 正直なところ、正邪はこうなっても仕方ないほどの事をしてきた。当然の報いなんだ。私が面倒を見てやる義理はなんにもない。
 
 ――同情心で関わるべき相手じゃないわよ。

 悔しいくらい霊夢さんの言葉は正しかった。でも、正邪みたく正論に笑って毒を吐き返す気概は私にはない。

 私は何時間もそうして枕元にうずくまっていた。正邪は目覚めない。こうして眠っているとただのあどけない少女に見える。それがいっそう私の胸を締め付ける。

「……黙ってたらきれいなのにねぇ」

 ごうごうと凍えるほどの風が私たちを包み込む。本当にこのままじゃ凍え死んでしまう。
 だからきっと、もうここにいる意味もない。
 
 私は顔を歪めて立ち上がる。両足が痺れてがびがびだ。
 それでもゆっくりと筵から離れて、扉に向かって進む。

「じゃあね、正邪……」

 山小屋を立ち去る時に振り返った正邪は、やっぱりピクリとも動かなかった。
 奇跡が起きて声が届く、とか……そんな夢を見るほど私の根っこは明るくない
 外、もう薄暗い。囲炉裏の弾ける乾いた音がした。


 ◯


「どうしたの?」

 ハッとして顔をあげると、姫がきょとんと瞳を丸くしていた。

「あ、いえ……今なんだか、針妙丸の声が……」
「私の? 当たり前じゃない。だって私はここにいるんだよ」
「え、あれ? そういえばそうですよね……おかしいな」

 だけど今のは姫の声じゃなかった気がする……いやいや、自分で姫の声がしたって言ったんだよな?
 まったくどうかしてる。単なる気の所為に違いない。

「あははっ。正邪ったら、もうそんなに酔いがまわったの? まだ一杯目に口をつけたばかりじゃない。それとも別のを持ってこようか?」
「ん、いえ……」
「ほら、これなんてどう? 幻想郷じゃ珍しい葡萄酒だって! やっぱり紅魔館からの貢物は舶来品が多くて楽しいね」
「あそこの当主は見栄っ張りの派手好きでしたからね……今はどうなってるんでしょう?」
「さあ。どうでもいいじゃない、落ちぶれた元強者たちのことなんて。わあ~! こっちは葉巻だよ! 私の上背くらいある! ね、どんな味がするのかな」
「あはは……あんまり煙ばかり吸ってると体に障りますよ、姫」

 とはいえ私自身ずっと頭がぼんやりしっぱなしだ。
 もうどれだけこうしてるんだっけ? この宴会の間で二人きりで。

 ……小槌の魔力によって落ちぶれた連中が差し出してきた貢物は、本当に山のようにあった。
 煙草や酒だけじゃなく、外の世界のものや、もっとずっと得体のしれないものまであった。

 中でも私たちが気に入ったのは「てえぷれこおだあ」という機械で、姫と同じくらいの背丈の箱に何十人分もの奏者が封じ込められている。
 軽く酒を飲んでから、煙管を片手に、穏やかな金管楽器と麗しい弦楽器のハーモニーの中で姫と二人身を寄せる。ちょうど今は「きよしこの夜」が流れていた。これは時の流れから遊離するような気分だった……。

「ねえ、正邪」
「なんでしょうか?」
「私たち、ようやく報われることができたよね?」

 酔いが回って眠いのか、姫がとろんとした目で私を見上げる。

「私たち、もう虐げられる弱者じゃない。吸血鬼も、亡霊も、鬼も僧侶も為政者も、地獄の極道連中だって、もう私たちを無視できないわ」
「ええ、小槌の魔力は本当に反則的だ」
「それにね」
「はい?」
「ここには正邪がいてくれる」

 酒、思わず吹き出しそうになった。
 急にこの方はなにを言うんだ? 私を同列に語るのはどう考えても無理がある。ていうかおかしいだろうに。

「…………それは。ええっと、私なんかがいて、それでどうだっていうんです? 私は天邪鬼。ろくでなしの天邪鬼です。誰からも愛されない、カオスと混乱を撒き散らすだけが取り柄の女です」

 言ってて少し悲しくなるが、とはいえそれが私という妖怪なんだ。鬼人正邪という存在なんだ。

 嫌われ者。
 
 はみ出しもの。

 鼻つまみもの。
 
 永遠孤独な天邪鬼。

「あははは! そうですよぉ姫! きっと私がいなくなっても悲しむ人はいないでしょう! いや、むしろ厄介者が消えて喜ぶに決まってるのさ! それが私! 鬼人正邪でございます!」

 ああ――だいぶ酒がまわってきているな。
 こんな風に姫にぶつけたってなんの意味もないのに。むしろ嫌われるだけ。嫌われるのは嫌だ。世界中の全員に嫌われても構わないけど、姫だけには、姫だけには――

「私は嫌いになんかならないよ」
「はっ……」
「あなたがいなくなったら私は悲しい。ねえお願い。そんな風に自分を卑下しないで」

 いつの間にか姫は、私の膝の上にちょこりと乗っかっていた。
 ああ、あたたかな体温。姫の差し出すままに煙管をもう一服する。
 嗚呼……。

「私もね、夢を見たの」
「夢、ですか?」
「怖い夢。あなたがいなくなってしまう夢。あなたに裏切られる夢を見た」

 夢。夢か。夢とはなんなんだろう? もう一つの現実。ただのカオティックな幻想。それとももっと深い意味のあるものなのだろうか?
 それにしても……私が姫を裏切るだって?
 ありえない話だ! 私を受け入れてくれるのは世界にたった一人、姫だけなのに!

「ひどい夢ですね」
「うん。私はとても傷ついて、殺してやりたいほどあなたを恨んだ。だからそれが夢だとわかった時……私がどれほど安堵したかわかる? その夢の中で、私がどんなに恐ろしかったかわかる? あなたが裏切るなんて、そんなこと! そんなことがもしあったら、きっと私、正気じゃいられない。世界で一番大切な正邪。それがひっくり返ったら、きっと私は世界で一番あなたを憎むだろうから」

 そうだ。私は裏切り者の天邪鬼。いつだって人を裏切って、自分勝手で……。
 でも姫だけは。姫の信頼だけは別だ! そんなことするわけがない。だってそんなことをすれば、その時は、その時こそ私は――永遠の一人きり。
 
 姫のいない世界。
 
 悪い夢。本当にくそったれな悪夢の世界だ。

「正邪」
「は、はい」
「もう二度と私を置いて行かないで」

 膝の上の小さな命が震えていた。私に全幅の信頼を置いてくれるこの人は、ああ、なんて得難い存在なんだろう。
 幸福だ、と。自分をそんな風に思ったのは初めてのことだった。
 たしかに私は世界中のすべてに嫌われている。そうとも。だって私も世界の全部が嫌いだから。
 
 でも。だけど、たった一人だけ。姫だけは私の味方でいてくれる。姫だけは! それが姫だから。
 
 嗚呼、ずっと求めていたんだ、この温もり。だけど手放してしまった。手放して……それはいつ? 私がいつ姫の手を放したりしたのか? 姫を……裏切るようなことを……そんなことを……

「正邪もきっと同じ夢を見ていたのかもね」
「……え?」
「正邪は、私を裏切る夢を見たんだ。そして私は正邪に裏切られる夢を見た」

 夢を。同じ夢。おんなじ。
 そうなんだろうか。そうなのかもしれない。先程から重なる孤独の記憶は、そうか、夢の記憶なのか……。

「そうかもしれません……こんなにも姫は近くにいるのに、それなのに、私にはなんだか妙なんです。それがとっても有り得ない奇跡のような気がする。私が幸せになるなんておかしいって、さっきからどんなに酒を飲んでも、煙草をくゆらせても、そんな気がしてしまって……先ほどの姫の言葉通り、私は姫から憎まれるべき存在なんじゃないかって。誰よりも深い信頼を裏切ったこの薄汚い天邪鬼めが……この私が……!」
「正邪」

 うなだれた私の頬を姫の小さな手がそっと触れる。あたたかい。涙がこぼれてしかたない。あたたかいんだ。なんでこんなにあたたかなんだろう。

「大丈夫だよ、正邪。私はどこにもいかない。正邪もどこにもいかない。ここで二人、今まで虐げられてきた分を取り返すまで、ずうっと一緒だよ」
「はい……はいっ……」

 今、姫が私に背を向けて座っていてよかったと思う。この顔を見られるのはあんまりに恥ずかしいから。
 ううん、伸ばした姫の指先は涙に濡れているし、姫を抱きしめる私の両腕もふるえている。
 それでもいい。それでいいんだ。

 だって私は幸福なんだ。


 ◯


「……むかしむかし」

 美声だがどこか人を馬鹿にしたような声音の主が、静かに語り始める。

「あるところに、天邪鬼と呼ばれる妖怪がおりました。
 彼女こそは世に二つとなきつむじ曲がりのへそ曲がり。天下を統べる天子が『白』と仰せられればたちまち『黒』と叫ばずにはいられない。けして権力には従わず、情にも靡かず、退かず媚びず省みず。故に天邪鬼。

『もしこの世に自由と呼べるものがあるなら、きっとそれは私みたいな姿だろうさ』

 そう嘯く通り、彼女はあらゆるものから自由でした。責任からも運命からも自由でした。天下泰平の時は逆徒を率いて混乱をばら撒き、乱世の世には暴君を弑虐して民を解き放つ。そこには自由がありました。ただただ無制限の自由だけがありました。何人も彼女を繋ぎ止めておくことはできない。彼女こそは舫綱を解かれた舟でした。彼女こそは無限の大海を切り開く勇者でありました。
 
 しかし、あるいは?
 果てしなき自由は終わりなき不自由となにが違うのか?
 無限の大海を征くことと、永遠の大河に流さるること。もしかしたらそれは同じことを意味してるのでは?

 ……さて。

 撒き散らした反逆と混乱の報酬は永遠の孤独でした。天邪鬼は嫌われ者。いつも一人ぽっちで立っていました。

『で? 人間のように群れる必要がどこにある?』

 彼女はそんな些事を意に介しませんでした。
 世界の姿が変わり、妖怪が幻想と呼ばれて久しい時代でも彼女は変わりませんでした。
 むしろ新しい世界には新しい玩具がたくさんありましたね? とうてい遊びきれないほどの玩具が。
 
 そしてきっと『それ』も彼女にとっては玩具にすぎなかったのでしょう。無限の退屈を紛らわすための児戯にすぎなかったのでしょう。
 だから……たまたま手に取った『それ』が実は彼女にとって途方もない価値を持つものだったとしても、やっぱり彼女は気がつけなかったでしょう。
 やがて玩具は壊れ、あるいは壊し、またしても彼女は一人になりました。壊れてから、もう同じ二度と玩具を手に入れることはできないと理解しました。
 
 でもそれは元に戻っただけ。なにも変わりはしないこと。

『どうせ私は天邪鬼だ』

 そう、彼女は天邪鬼でした。

『私は孤高なる反逆者だ』

 彼女は孤高なる天邪鬼でした。
 けれど怯える犬ほど無闇に牙を剥きたがるものなのだと、はたして彼女は知っていたんでしょうかね?
 
 けっきょく彼女はただの孤独で愚かな天邪鬼。
 永遠にひとりぼっちのまま、誰を理解することもなく、誰からも理解されることもなく、己が惨めさを理解することさえなく、最後の最後まで一片の愛すら知らないまま、無限の荒野を彷徨い続けるだけでした。

 ……しかしその様を見ていたのが天空に昇る銀の月。お月さまは哀れな天邪鬼に慈悲を与えることに決めました。

 ふと天邪鬼が顔をあげると、さっきまで無人の荒野だった景色は立派なお城の中でした。お城の中には見目麗しい姫君が住んでおり、天邪鬼へと微笑みかけます。

『さあ、天邪鬼さん。今までお寒かったでしょう。どうかいつまでもこのお城にいてください』

 もちろん素直に応じる天邪鬼ではありません。しかしお姫様は見抜いていました。天邪鬼は本当は、もう一人ぽっちに疲れ切っていることに。
 だからお姫様は天邪鬼に魔法の煙管を与えました。それは一度口にするだけで心に満ちたつらい思い出がするりほどける魔法の煙管。さらに再び口にすればひねくれた心がまっすぐとなり、三度口にすれば永久の幸福を得られるのです。

 そうして無限の孤独は埋まり、天邪鬼はお姫様といつまでも幸せに暮らしましたとさ。

 めでたしめでたし……」

 かくして、お決まりの言葉で始まった物語はお決まりの言葉で幕引きとなった。声の主はどこか満足げに息を吐いたが、返ってきたもう一つの声は冷ややかだった。

「それで? わざわざ呼びつけて私への当てつけ? 随分と手が込んでること」

 意外な酷評を受けた語り手が困ったように首をすくめる。その動きに合わせて彼女の腰掛けた薄ピンク色のバランスボールのような物体がはずみ、長いナイトキャップの先端がふらふら揺れた。

「わかってると思いますが、これはただの御伽噺じゃありませんよ。貴女の能力から逃れての報告をするために仕方なく」
「はあ、また妙な手を思いついたものね……報告なら最初と最後の部分だけでいいじゃないの」
「むかしむかし、めでたしめでたし。じゃ意味不明ですよ」
「……そうでは無い。悪かったわよ、急に無茶を言ったのは。だけどこの仕事は――」
「とと、それ以上は! ただでさえ無茶だったのにひっくり返されたらたまりません。あくまで御伽噺ですよ、この物語はフィクションです!」

 ナイトキャップの人物のニヤけた口元に、再び相手はため息をつく。片方の背中にだけ伸びた翼がどこか疲れたように萎れていた。

「とにかく、そのかわいそうな天邪鬼はついにお城から出られなかったのね?」
「出られなかったというより出なかったんですが。まあ想定したプロットの範疇でしょう」
「プロットはプロットにすぎない。私は結末だけが知りたい」
「結末は語ったとおりですよ。少なくとも物語は完結しています」

 翼の人物が、二人の周囲にふよふよと浮かぶ桃色の球体を手に取って力を込める。水風船のように破裂するものと思っていたのだろうが、予想外の弾力に彼女は眉をしかめた。

「少なくとも、とは?」
「おや……こりゃ失言でしたか」
「ドレミー、くれぐれも言うようだけど物語は結末が最重要よ」

 ドレミーと呼ばれた人物はまたしても肩をすくめるのみで、ちっとも悪びれた風ではない。
 翼の人物も慣れたものなのか、呆れて桃色の物体を手放した。それは僅かに加速度を得て、緑色の格子模様が永遠に続くこの完全に平面な超空間の暗黒の、果てることなき彼方果てまで、ゆっくりゆっくり漂っていった。

「……物語はちゃんとプロット通りです。落ち度があるとすればサグメ様のほうですけどね? こんな物語は誰も読まないと聞いてたのに、意外や意外、オチが気に食わないから書き直そうとするファンがおりまして」
「はた迷惑なファンもいたものね……いくら二次創作を制限してなかったとはいえ」
「まったくです。原作へのリスペクトはないんでしょうかねぇ」

 沈黙。

 ややあって、サグメと呼ばれた人物がまた口を開く。

「で? まさかオチが書き換えられるのを黙って見てるわけじゃないでしょうね?」
「……そう心配する必要はありません。過激なファンとはいえ、実際に物語の世界に入れるわけでもありませんから。そんなのは誰かの夢の中に入るようなもの、でしょう?」
「出来はしないと?」
「少なくとも普通はね。とはいえ、現にここに夢を操る力を持った獏がおりますように、物語を書き換える力を持つ者もいないとは限らない。なにせこの物語の舞台は幻想郷なんですからねぇ」
「……仮に。仮にもしそんな力を持つ者がいたとしたら」

 サグメは少しだけ息を吐く。ドレミーの表情は張り付いたような笑みのままだ。

「あなたはお話の結末を守れるの?」
「幻想郷に著作権はありませんが、精一杯やってみることは可能でしょう。ま、相手にもよりますけど。しかし問題はそこじゃない」
「まだなにか?」
「ええ、ありますよ。おおありです。そもそもこんな取るに足らない主人公の物語は誰も読まない……と、そう約束されましたよね? 主人公がどんなに悲劇的な結末を迎えようと、誰も読まない以上は関係ない。困るのは当の主人公だけだ、と。だから私は執筆を引き受けたんです。しかしこれじゃ話が違う」

 ドレミーはあくまで笑顔のままだが、声音には少なくない怒りが込められていた。明らかに意図的な語気の強まり。
 実際彼女は口調こそ敬語だが、目線はあくまでサグメと対等を維持し続けている。
 サグメがため息でそれに応じた。

「言ってる意味がわからないわ」
「バッドエンドは嫌いなんです、私。特にね、誰かに読まれるとわかっていながらバッドエンドで締めくくるのは大嫌いです」
「それは知らなかった」
「たくさんの悪夢を見てきましたから。夢は現実を写す鏡。この世には物語よりも悲惨な現実が多すぎると思いませんか? ならせめて物語の中でくらい幸せであってほしい。そう願うのは可笑しいですかね?」
「……」
「蜃気楼の城、蜃気楼の姫君、蜃気楼の幸福……いくら奸佞邪智の天邪鬼とは言えあんまりです。私には哀れでならない」
「……じゃあどうすると? 物語は白紙にアンドゥされて、それでお終い?」
「引き受けた仕事はちゃんとやりますよ。ていうか白紙に戻したら主人公、消えちゃいますからね? 物語は完結しちゃってるんですから。しかし誰かがこのお話の結末を気に食わないと言うのなら、それはまた一つの解釈です。私はそれを尊重するでしょう」
「…………そう。つまりあなたはこう言いたいわけね。やるべきことはやった、後のことは知らん――と」
「そこまで不真面目じゃありませんがねぇ」

 サグメはもう何度目かもわからないため息をつく。自らの能力のため口を開きにくい彼女は、どうしてもため息が癖になってしまう。
 あまり可愛げはないな、と。そう自覚してはいるのだけれど。

「ドレミー、一つ言ってなかったことがあるわ」
「なんです?」
「個人的には私もバッドエンドは好きじゃない」
「……それはそれは。お優しいお月さまですね」

 ドレミー・スイートのニヤけた口元が今日一番の弧を描いた。


 ◯


 寒い。数日来ないうちに山小屋はいっそう歪んでいる気がした。あいも変わらず寒々しい隙間風が吹き込む中、正邪はまだ目を覚ましていない。
 私も数日ぶっ続けで幻想郷を飛び回ったせいでへとへとだ。こんなに寒いのに眠気はますますひどくなる。正邪の冷たい指先を握りしめる。かわいそうな正邪。

「ごめんね。正邪を助けられる人、見つからなかった。ずっとこの小屋にいても意味がないと思って、だからあちこち探したんだけど……だめだった。みんな正邪とは関わりたくないんだって。酷い話だよね」

 正邪は応えない。死んだように瞳を閉じ、口は固く結ばれたままだ。
 小屋の近くで誰か焚き火でもしたのか、薄っすらと甘い煙のにおいがした。なんだかそれが死者を黄泉に送り出す香のかおりのようで、涙があふれる。

 正邪。
 
 ねえ正邪。
 
 いったいあなたの意識は何処へ行ってしまったの?
 
 空虚な闇に囚われて空っぽになってしまったの?
 
 それともなにか夢を見ているの? だとしたら、どんな夢? 天邪鬼のあなたはどんな夢を見るの……。

「正邪、ねえ正邪……あなたはこんなこと聞いたら笑うかもしれないけど、一度はあなたを追い詰めた奴がなにをって怒るかもしれないけど……正邪、私ね、あなたがいないと寂しいよ……」

 冷たくなった正邪の手を握りしめる、私の小さな指先。
 
 ああ。なんで私はこんなに弱いんだろう。弱い私たちは奪われてばっかりだ。
 
 ねえ正邪。あなたは私のことを騙したつもりかもしれないけど……本当はね。私は信じてみたかったんだよ。あなたの騙る夢の世界、弱者と強者がひっくり返った笑えるくらい最高の世界を見てみたかったんだよ。騙されてもよかったんだ。だって私が信じてる限りは嘘も現実の希望だったから。

 ……ううん。やっぱりそれも嘘。本当は希望とか夢とか、どうでもよかった。

 ねえ、正邪。あなたは知ってる? 生まれてからずっと逆さ城に閉じこもっていた私にとって、あなたとの出会いにどんな意味があったのか。
 ねえ、正邪……なんて、知るわけないよね。もし知ってたらあなたは笑うだろうね。また私を利用するかもね。この弱みにつけ込んで……それでも。

「それでもさ、正邪……あなたは私を……私を孤独から救ってくれた……たといそれが"悪い友達"だっとしても。革命なんて意味のない夢だったとしても、それでも……! それでも私は、あなたのおかげで初めて生きる意味を見つけた……だからお城を出られた、だからあなたに従いていったんだよ……?」

 例えそのあとにてひどく裏切られたとしても、逆さ城から出ない一生よりはずっとマシ。
 例えそのあとに打ち出の小槌の魔力を使い果たして小人から戻れなくなったとしても、自由を知らないよりはずっとずっとマシ。
 
 それにね、正邪。私に自由を教えてくれたあなたは誰よりもかっこよくて、あこがれで――きっと私は誰よりも、他の誰よりも、あなたのことが――。
 
 ああ、寒い。

 寒くて、眠くて、頭に白い靄がかかったみたい。

 せめて、正邪。最後まで一緒にいてあげるから。私に出来ることはもう、それくらいしか無いから。

 ね、正邪…………。

 ………………………………。

「お師匠様ー、こいつ死にましたー!」
「舞っ! まだ死んでないでしょ! お師匠様すみません、秘密裏に監視せよというご命令でしたがこれ以上は危険だったので、その……連れてきちゃいました」

 ……誰? 
 聞いたこともない誰かの声。二人の子供の声。だけど正邪大丈夫だよ、誰が来ても私が側にいるからね。

「舞、里乃、よくやったね。いずれこっちから出向こうと思っていたんだ。もうさがっていいよ」
「「はいっ!」」

 二人分の気配が消える。でもまだ、更に大きくて強烈な気配が残っていた。それは妖気とも違う……むしろ神気に近いような。
 でも、神様が私たちになんの用だろう? もしかして――死神?

「さて……小人の姫よ。そなたの偉大なる御先祖様と誇り高き血統に敬意を表し、まずは非礼をお詫びしよう。突然にこのような場所に呼び出して申し訳ない。しかし事は急を要するもので――あー、えっとね、まずは目を開けてもらえないかな? 本当に敵意とかないから。大丈夫だから!」

 べつにその言葉に安心したわけじゃないけど、私はゆっくりと体を起こした。さっきまであれだけ死に体だったのに、なぜだか今は生命力が全身に満ち満ちている。
 あの忌まわしい寒さもどこにもなかった。むしろ春の日のような暖かさが背中の方から漂ってきていた。
 
 ……かといってここは桜並木の中なんかでもなかった。薄暗い空間に無数の扉が並んでいる。
 地上にあるものもあれば、空中に取り付けられた扉もある。開かれていたり、閉じていたり、半開きだったり、壊れていたり……まるで異界。

 ただ私の目の前で車椅子のようなものに腰掛けている神様には、見覚えがあった。

「あなたは……たしか、後戸の神様?」
「ほう! 覚えてもらえていたとは! 宣伝活動に精を出した甲斐もあったな! その通り、私は後戸の絶対神秘――摩多羅隠岐奈だ!」

 なぜだがかなり嬉しそうに摩多羅なんちゃらが宣言する。名前を覚えてもらっただけで喜ぶなんて、この人、正邪並みに友達がいないのかな?

「その神様が何の要件?」
「あんまり怖い顔をするなよ。そう庇わなくったって天邪鬼に手を出したりしないさ」

 摩多羅に言われてはじめて、私が正邪を守るように立っているんだと気がついた。無意識に剣まで抜いて。
 もしやと思ったけど生命力を取り戻したのは私だけらしく、正邪の瞳は閉じたままだ。

「……あなたが正邪を眠らせたの?」
「否だ。だが天邪鬼の動向は気にかけていた。しばらく姿を見ないと思ってね」
「驚き! 幻想郷に正邪を心配する人がいたんだ」
「そなたのようにか?」
「あ、えっと――わ、私はまた正邪が何かやらかしたんじゃないかと思っただけで!」

 かっと耳が熱くなる。たしかに正邪を心配してはいたけど! だけど! こんな風に人から言われるとすごく恥ずかしい。

「まあそちらの心配と私のそれとは質が違うだろう。私は単に面白い見世物屋が何処に行ったのか知りたかったんだ」
「正邪が面白い……? あなたたしか、幻想郷を統治する賢者なんでしょう? 正邪は邪魔者じゃないの? 幻想郷をひっくり返そうとしたのに」

 まあ、それは私もだけど。当然そのことを承知してるはずの摩多羅はくつくつと肩を震わせながら、大仰に瞳を細めた。

「たしかに賢者は幻想郷を創ったが、為政者でも警察でもないのだよ。それに停滞を遠ざけるためには時にトリックスターも歓迎すべきだ。もっともあいつはそう思って無いかもしれんが……」
「あいつ? それって八雲なんちゃらのこと?」
「おっと喋りすぎだ! こんな愚痴を言うためにそなたを呼んだわけではない」

 こほん、と小さく咳払いを一つして、摩多羅は続けた。

「単刀直入に行こう。その天邪鬼を眠らせた犯人についてだが――どうも月の民のようだ」
「月の!? 正邪のバカ! 喧嘩を売っちゃいけない相手くらいわかんないの!?」

 まあ、ダメだとわかっているほど飛び出していくのが正邪だけど。

「理由まではわからんがね。それよりハウダニットだが、天邪鬼の精神は夢の世界に囚われている。だから目覚めないんだ。月の民は夢の世界の支配者とコネクションがあるからな。おそらく直接の実行犯はあの獏だろう」
「じゃあ正邪は無理やり悪夢を見せられてるってこと?」
「……悪夢か。どうだろうな。あるいは目覚める気もなくなるほど素晴らしい夢なのかも」
「でも夢の世界に囚われてるなんて……いったいどうすれば……」
「あー、おっほん。うぉっほん!」

 突然に咳き込み始める摩多羅を私が訝しげに見やると、また控えめに咳払いをした。どうもこの神様、寂しがりなうえに目立ちたがり屋らしい。

「……こほん! 本題に入ろう」

 さっき単刀直入に行こうって言ったのに、まだ本題じゃなかったんだ。
 そう言いたいのを堪える。だって私たちを助けてくれてるわけだし――はあ、私ってこんなに口が悪くなかったけどな。正邪が感染ったのかも。
 ……なんてどうでもいい考えは、次の一言で跡形もなく吹き飛んでしまった。

「天邪鬼を助ける方法が一つだけある」

 ドキリ。心臓が跳ね上がる。
 正邪を助ける方法。正邪を助けてあげられる!

「教えて! 正邪を助けられるなら私どんなことでもする! お願いします!」
「もとよりそのつもりだよ。それにこれは、そなたにしかできない方法でもある。あれを見なさい」

 私はその通り従う。正邪を助けられるなら悪魔にだって従うわ。
 そう思って振り向いた先には、やはりというか扉があった。材質は燃え尽きた炭のような真っ黒で、そこに血液めいた赤黒い色合いの矢印模様が乱雑に描かれている。

 ……なんて痛々しいんだろう。最初の印象はそれだった。この扉の主はさぞかし世界を憎んでいたに違いない、と――否が応でも感じさせるだけの気迫を秘めていた。そしてそんな奴のことを、私は一人しか知らない。

「これ……正邪の扉……?」

 我ながら意味不明な気がしたけど、摩多羅は真面目な顔つきで首肯いた。

「ふむ、わかるものなのか。御名答だね。これは鬼人正邪の心の世界に通じる戸だ」
「心の世界……ね。そんなところにも扉を繋げられるんだ」
「私にかかれば当然――と言いたいところだけど、お察しの通り心の中に世界なんてものは存在しない。心の内側は吹き荒れる感情の嵐のようなものだ。そんな所に突っ込めばたちまちバラバラになってしまう……普通ならばね。しかし今、天邪鬼の精神世界は"夢の世界"として区切られ、ある程度の現実性を維持している。『水』という物質そのものに入るのは難しくとも、区切られた桶に満たされていれば入ることができるだろう。それと同じ理屈だな」

 よくわかんなかったけど、とにかく夢の世界に入れるらしい。それさえわかれば十分だ。

「じゃあその扉の向こうから正邪を連れてくればいいんだね」
「いや。この扉の先は鬼人正邪の内側に向いているんだから、それは無理だ。扉の中から部屋そのものは取り出せないだろう? しかし難しく考える必要もない。明晰夢というやつを知ってるかな? 夢はそこが夢だとわからないから恐ろしいだけなのさ。ようするに目を覚まさせてやればいいんだ。外から起こすことができなくとも、夢の中でそこが夢だと理解させてやれば自ずと夢の世界は崩壊する」
「えーっと……ようするに直接行って叩き起こせばいいってわけ?」
「そのとーり!」

 ぽん! と摩多羅が手を叩いた拍子に提の音が響く。今のって……もしかして正解ってことなのかな?
 最初は大物ぶって嫌な奴かと思ったけど、存外、気さくで面白い神様なのかもしれない。
 
 あるいは。
 
 これからとっても酷いことが起こるから、せめてそれを紛らわせようとしてくれてるだけか。
 私は正邪の扉に手をかけようとする。と、案の定摩多羅は思い出したかのように告げた。

「一つ助言をしよう。夢の世界はとても不安定だ。その世界に入るということは、世界の一部になるということでもある。その覚悟はできているか?」
「……戻ってこれないかもしれないって言いたいんでしょ」
「その程度で済めば幸いかもしれん」
「……」
「時に、立ち止まることは恥ではない。結局私は面白がって天邪鬼を蘇らせようとしてるに過ぎない。なんのリスクも負っていないし、また負う気もない。だからそなたがどのような決断をするにせよ、私は責めない。その権利もない」

 私は正邪を振り返る。横たえられたままの正邪を。
 ……答えはきっと、最初から決まっていた。あの日、あの時、世界の暗がりしか知らなかった少名針妙丸が、自由なる天邪鬼に出会った……その瞬間から。

「待っててね、正邪」

 今度こそ、私は扉に手をかけた。


 ◯


 沈んでいく。沈んでいく。私は煙の中へ中へと沈降して、沈んで、落ちて、乾ききって、さみしくなって。
 ひっくり返すんだ。なにもかも。ひっくり返そう。この世界の不条理すべて。かなしみすべて。私の孤独をすべて。

 正邪。大丈夫だよ。あなたには私がいるもの。あなたは孤独じゃない。あなたはもう一人じゃない。

 私は手を伸ばす。姫がそれを取って。あたたかくて。やさしくて。
 嫌なんです。もう嫌なんです、なにもかもが嫌なんです。嫌われるのが嫌なんです。目を背けられるのが嫌なんです。でも私は、私は天邪鬼だから。みんなと同じができないんです。
 
 そうだね。正邪はたくさん苦しんだんだよ。もう頑張らなくていいんだよ。

 ああ、姫が笑う。私も笑う。沈む沈む底へと沈む。私の底へ。そこへ。私もそこへ。どうかお側に、姫。

 私はどこにも行かないよ。

 ああ、ああ、アア、嗚呼……よかった。それなら安心だ。姫だけは私に微笑んでくれるんだ。荒野に生えた林檎の木。私のための生命の果実。
 これでもうなにもひっくり返す必要はない。私は幸福だから。世界は安心だから。
 でも。
 でもそうしたら、私はなに?

 正邪。

 私は正邪。天邪鬼の鬼人正邪だ。でも、もう、なにもひっくり返すことはない。全ては巡航。ようそうろう。

 正邪。鬼人正邪。私の愛しい天邪鬼。甘い夢の中へ中へ沈み沈みゆく愛しい哀れな天邪鬼。

 嗚呼、姫がわらふ。わたしもわらふ。わらふわらべがふたりゐる。

 正邪。あなたは。

 わたしは。

 ――もう目覚めなくて良いのよ。


 ◯


「正邪ぁあああああああああ! 起きろぉおおおおおおおお! 私が来てやったぞぉおおおおおおおおおお! どこだぁああああああああああああ!」

 叫んでみた。めいっぱい叫んでみた。きっと小人に出せる最大っていう声量で叫んでみた。

「正邪やぁあああああああああああああああああああああああああああああああああああ!!!!!!!!!」

 叫んで……みたけど。喉が涸れるほどの大声は灰色の空にむなしく響くだけだった(というか響きすらしなかった)。
 この鬱屈とした灰色の空。灰色の荒野。舞い上がった砂埃はそのまま宙空で静止している。大地はひび割れ、地上にはなんにもない。
 ここが正邪の心の中の世界。この永遠に空空漠漠の灰色が続く世界が、鬼人正邪という妖怪の精神のヴィジョン。

「はぁ……はぁ……な、なんて……はぁ……こ、声が……」

 とにかく、なんて寂しい世界だろう。これだけの虚無を心に抱えて生きていくのはいったいどんな気分なの?
 きっと私なら一夜と保たず気が狂ってしまう。こんなに寂しい世界、いっそ死んだほうがマシだと思える。それほどまでに。

 ……ううん、感慨にふけっている場合じゃない。後戸の神の摩多羅なんたらいわく、今、正邪の心は急速に夢に蝕まれつつあるらしい。
 私の侵入が夢の世界の支配者に気が付かれたんだろうか。あるいは単に正邪の心がもう限界を迎えているのか。

 どちらにせよ時間がない。それだけは確か。
 
 でも見渡す限りが灰色の荒野なんだ。いったいどこへ行けばいいんだろう……?
 正邪のことだから心に標識があるような几帳面さ、もちろん期待してなかったけど。それでもここまでなにもないなんて――

『……め……小人の姫よ。聞こえているか』
「摩多羅……さん!? こっちには来ないんじゃ?」

 背中の方から声が聞こえて慌てて振り返る。けれど誰もいなかった。
 そういえば後戸の神は人の背中に扉をつけて監視するらしい。前に霊夢さんから聞いたことがある。
 たぶん摩多羅さんはまだ現実にいて、声だけをこっちに飛ばしてるんだろう。

『想像より夢の世界のセキュリティが甘くってな。あの獏めにしては珍しく……いや、わざとか……? まあ、こうして交信するくらいはできそうだ』

 夢にもセキュリティとかあるんだろうか? ともかく。

「こっちが見えてるんですか? この寂しい荒野が見えますか!?」
『いや声だけだ。しかしその様子だと天邪鬼探しは難航中か?』
「うん。私はもっと、扉に飛び込んだらいきなり巨大な正邪に襲われるみたいなのを想像してたんだけど」
『いったいどういう……まあいい。夢の世界は精神の世界だ。距離も時間もそこではあまり意味がない。小人の姫よ、強く思え。天邪鬼のことを強く強く』
「……なにを思えば?」
『なんでもいいよ。そこは夢の中なんだ。強く願えば必ず影響が生まれる。もちろんある程度は夢の支配者によって制御されてるだろうが、それも絶対じゃない。まして天邪鬼の精神世界ならなおさらだ』
「わかった。わかったけど……でも! そういうことは入る前に言ってよ!」
『あ、ごめんね……』

 運良く交信できなかったら私、さっそく正邪の中で迷子になるところだった。正邪のためになんでもするとは言ったけど犬死にはごめんだ。
 ともかく神様がバックアップならこんなに頼れることもない……そう思ったけど、現実は甘くなかった。

『それでは健闘を祈る』
「あ、え、もう切っちゃうの?」
『完全に夢の世界に入ったそなたと違い私は、あくまで部外者だ。夢と現の狭間を曖昧にすると天邪鬼の精神に悪影響がでるかもしれん。交信は最低限に留めた方がいいだろう』
「ま、まあこれいじょう正邪がおかしくなったら困るか……」

 悔しくなんてない。どうせ私は一人でも正邪を助けるつもりだったし。ほんとだし!
 それにもう摩多羅さんには十分すぎるくらい手伝ってもらった。ここからは私の頑張る番だ。
 摩多羅さんとの交信が終わってから私は深呼吸を一つ。

「で、正邪のことを強く思え……だっけ?」

 思うだけならさっきからずっとそうしてる。だって正邪を思ってるからこんなとこまで来てやったんだ。
 けれど正邪は見つからない。夢の荒野はあてどもなく広がるばかり。焦燥感は増すばかり。
 
「正邪ぁ~~~~~~! 出てこぉ~~~~い!!」

 静寂。反応なし。

「正邪やぁああ~~~~~~っ!! 出てきてよぉ~~~~っっ!!」

 反応なし。

「正邪お願い! あなたを助けたいの! だから姿を見せて!」

 ……反応なし!
 あっそ。そっちがその気なら――

「もう知らない! 出てこなくていい! 弱虫泣き虫意気地無し! そうやって一生夢の中に引きこもってな! 私は現実に帰るから! バーカ!」

 …………反応、なし。
 天邪鬼の逆張り精神に訴えてもダメだった。夢の世界はピクリともしない。
 
 ひょっとして摩多羅さんが間違えてるんだろうか? でもあの人は幻想郷の賢者と呼ばれるほどの神様。私が間違っている可能性のほうがずっと高い。

 もう一度最初から考えてみる。摩多羅さんの言葉はこうだった。

――小人の姫よ、強く思え。天邪鬼のことを強く強く。

 ……う~ん、だからやってるってば! こっちはもう嫌になるくらい正邪のことを考えっぱなし。

 だとしたらなにが足りない? 一体なにが?

 強く思え。
 強く――私の思いの強さが足りないってこと? でもそれは最悪の可能性だ。腕に力を込めるのと違って、これ以上正邪を強く思えと言われてもどうしようもない。
 あるいは摩多羅さんは見誤っていたのかもしれない。摩多羅さんが想像していたほど私の正邪への思いは……強くない?

「……正邪、そうなの?」

 たしかに私には正邪よりも長く付き合った人、いない。だから正邪への気持ちが――良い時も悪い時もあったけど――私の持てる一番強い思いだった。そのはずだった。
 だけどそんなものじゃ足りない……? 私は正邪しか知らなかったから勘違いしているだけで、本当はもっと強い思いがたくさんあるの……?

 例えば愛。例えば憎しみ。
 私はそのどちらも強く強く正邪に向けて持っていた、そのつもりだった!

 でもこの夢の世界は一向に無関心。
 その程度の気持でここまで来たのか? そう私をあざ笑うように空虚な静寂を湛えたままで。
 
「……どうして?」

 正邪、なんでなの!? きっとそれもいつもの天邪鬼で、私のことをあざ笑いたいだけなんでしょ!?
 違うなら――どうして応えてくれないの?

 それとも……本当に……?

 本当に私の思いは、覚悟は、正邪へのこの気持ちは、最初から掃いて捨てるほどの価値しかなかったの……?

「ひっ」

 違う。世界は無関心ですらなかった。
 突如、ぱっくりと大地が裂けた。私は虚空に投げ出される。重力――夢の世界だと言うのに――が私をすかさず掴み、灰色の空すらみるみる遠ざかっていく。

「な、なに!? 正邪怒ってるの!? 私が中途半端な気持ちだけで来たから!? ほ、本当はあなたのことなんて大して考えちゃいないんだって――違うよ! 違う! 私はあなたのために、ここまで……! ほんとに……!」

 世界が余所者を排除しようとしている。私は叫びながらもどこか冷静に理解していた。
 まるで白血球が体内のウィルスを駆逐するように、正邪の心が私を放り出そうとしている!

『……の姫よ! どうした!? 何が起きている!』
「摩多羅さん私間違えちゃったみたい……! ごめんね、ごめんね正邪っ……! 助けてあげられなくてごめんね……!」
『……おい!? どう……に……姫よ……! そな……か……! な…………!』

 ごうごうとうなる風の音に摩多羅さんの悲鳴がかき消される。
 
 おかしいな。私、どこで間違っちゃったんだろう。
 私の正邪への気持ち、嘘だったのかな? そんなつもりないのに。あるいはだからこそたちが悪いのか。

 ああ、亡者たちの手が見える。裂けた大穴の底で私が落ちてくるのを待っている。
 正邪、彼らはあなたのなに? あなたが苦しめた人々? あなたを苦しめた人々? 痛いほどの悲しみの念が目に見えるようだよ、正邪。あの空虚な荒野の下にまだこんな地獄を隠し持っていて。そんなこといつもおくびにも出さないで、一人ぼっちで。

 ほんとに、正邪……あなたってなんてバカなんだろう。なんて不器用な天邪鬼。

「……うん。いいよ」

 やっぱりあなたが怒る気持ち、ちょっとわかった。
 だって私、考えてみたらまだ正邪のことなにも知らないもんね。心にこんな虚無を抱えていたことも、その下にさらなる地獄をうずめていたことも、ぜんぶぜんぶ知らなかった。
 それなのにあなたを助けるなんてだいそれたことをのたまって。怒るのも無理ない。

 だから、いいよ。

 このまま私を呑み込んで――


 ◯


甘い甘い甘い甘い甘い甘い甘い
  夢の夢の夢の夢の夢の夢の夢の夢の夢の夢の夢の夢の夢の
    私私私私私私私私私は小人の少名の鬼人が天から銀の月に輝く黄金のひっくり返った逆さ城!
    
姫! 姫! 姫! 姫! 姫! 姫! 姫! 姫! 姫!! 姫!!!

「さあさあ私こそは天下に二つとなき傲岸不遜の謀反人!天邪鬼の鬼人正邪でございます!皆々々様どうか!」

 「どうか!」
「  私を見て
   見て」
「私をどうか御覧ください!」    見て
      見て!
  御覧あれ!!

 私は正邪の中に落ちてここは天下逆さまひっくりかえってああほんとうにあなたを私はしらなかったってわかったの

 そう。

 私だけが姫だけの愛が愛愛愛愛愛愛愛愛愛愛なんてこんなこんな世界大嫌いだ消えちまえ消えちまえ消えちまえ消えちまえ消えちまえ消えちまえ消えちまえ消えちまえ消えちまえ消えちまえ消えちまえ消えちまえ消えちまえ消えちまえ消えちまえ消えちまえ消えちまえ消えちまえ消えちまえ消えちまえ消えちまえ消えちまえ消えちまえ消えちまえ消えちまえ消えちまえ消えちまえ消えちまえ消えちまえ消えちまえ消えちまえ消えちまえ消えちまえ消えちまえ消えちまえ消えちまえ消えちまえ消えちまえ消えちまえ消えちまえ消えちまえ消えちまえ消えちまえ消えちまえ消えちまえ消えちまえ消えちまえ消えちまえ消えちまえ消えちまえ消えちまえ消えちまえ消えちまえ消えちまえ消えちまえ消えちまえ消えちまえ消えちまえ消えちまえ消えちまえ消えちまえ消えちまえ消えちまえ消えちまえ消えちまえ消えちまえ消えちまえ消えちまえ消えちまえ消えちまえ消えちまえ消えちまえ消えちまえ消えちまえ消えちまえ消えちまえ消えちまえ消えちまえ消えちまえ消えちまえ消えちまえ消えちまえ!どうです素晴らしいでしょう誰にもこんな反逆ができますかできませんよ私だけが私だけが!
 
  だから

 私はこんなにかわいそうなのに。こんなにかわいそうじゃないですか?

「「「「「アっハハハハ! キヒハハハハハ! 誰もおまえを愛さない!! 愛するわけない!! ハハハッ! アハハハハハハッ!」」」」」
 
 だれもわたしをみ
 か      て
 ら      く
 お      れ
 ま      な
 え      い
 な      の
 んてきえちまえ!
 
 みんなきらいだきらいきらいきらい!

 わたしがきらい
 
 ぜんぶきらいだ
 
 きらいだ!!!!!!
 
 だってさみしいんだ。かなしいつらいくるしいいやださみしいさみしいさみしいさみしいさみしいの!

 ざまあみろだざまあみろおまえのような天邪鬼は不幸にな成るべきだ鳴から從前有一個愚蠢而可憐的惡魔但他是一個無助的叛徒愚蠢而自私背叛了別人所以他突然又變得孤獨了為了排解孤獨他開始犯下罪行他的惡行越來越猛烈但他的孤獨感卻越來越深從未消失事實上他意識到人們只是在養鬼指責他的荒謬想法恭喜你!!!!

 嗚
 呼
 
 だれか

 愛してよ。

 おねがい。


 ◯


「あー危なかった」

 甘ったるいにおいで目が覚めた。
 長い長い夢を見ていた気がした。悪い夢を。けれど一瞬のようでもあった。
 顔をあげると、妙に長いナイトキャップのようなものを被った、これまた妙な出で立ちの女性が私に呆れた瞳を向けていた。

「まったく後戸の神も人が悪いですねぇ。というよりあれは無責任か。夢の世界についてよく知らないくせに、よくもまあこんな純粋な子を放り込んだもんです。もっともそれを信じてほいほい着いていく方もいく方ですが」
「あなた……前にも会ったことがある気がする」
「どうも。会ったとしたらたぶん夢で。そうでもないかな? うーん、なにぶん毎夜凄まじい量の夢をさばいてるもので、現実でのことってすぐ忘れちゃうんですよねぇ」
「えと、私は少名針妙丸」
「もちろん知ってますよ。よく巨人になる夢を見てるでしょう、わかりやすい人は好きですね。私はドレミー・スイート。起きたら忘れてますが、とりあえずお見知りおきを」
「……ここは?」

 世界は薄桃色だった。足元は不思議な弾力のある床で――ううん、床じゃない。私たちは泡のような球形の泡の中にいた。私からすれば広いけど、ドレミーさんの背丈より少し高いくらいの直径しかない。
 薄桃色なのは泡の膜の色だった。それは半透明で、向こうには暗闇が続いていた。暗闇の先は――ぼんやりと見えるなにか。あれは……私?
 どこかお城のような場所で、私と正邪がなにか話している。話の内容までは読み取れないけど……その場所、見覚えがある。だってそこは

「逆さ城だ」
「ええ、今はちょっとした些末な記憶に退避してるので。けどここはまだ鬼人正邪の夢の中ですよ」
「私……どうなったの?」
「あなたはイドに落ちたんです」
「井戸?」
「あるいはエスとも。つまり無意識領域。夢の世界は自我と無意識の交わる空間なんです。そこであんなにぐらぐらしてたら、そりゃあイドに落っこちますよ」
「ぐらぐら……? 私が不安がってたからってこと……?」
「ええそうですよまったく……私ですら人の無意識領域は危険だからめったに立ち入らないのに。もう少し気がつくのが遅れたらあなた、自己認識がでろでろになっちゃいましたよ」
「で、でろでろ……!?」

 言葉の意味はよくわからなかったけど、とにかく私の身に恐ろしいことが起こりかけていたみたい。そしてドレミーさんは私を助けてくれたんだ。
 だんだん思い出してきた。夢の世界の支配者は獏のような姿をしていて、たしかその名前がドレミー・スイート……あれ?
 たしか正邪を眠らせたのって、月の民と繋がった夢の世界の支配者なんじゃないっけ?
 つまりこの人が正邪を夢に閉じ込めた元凶……?

「あ、その顔。ひょっとして気がついちゃいましたぁ? 私が犯人だって」
「あなたが」

 ドレミーさんの口元が、瞬間、三日月のように弧を描く。その時反射的に斬りかからなかったのは何故だろう?
 私は自分でも不思議なくらい冷静だった。むしろドレミーさんが驚いていた。
 理由はなんとなく察しがつく。頭の中でまだ誰かの泣く声が響いてる。ううん、それは頭の中じゃない。きっとイドの中で少し混ざったんだ。正邪の心の残滓が、私の心に少しだけ。

「イドを見たんです」
「ええ、そう」
「正邪の無意識の心を」
「……」
「これまで私、正邪にとってこの世界は取るに足らないものなんじゃないかって思ってた。つまんない世界、つまんない奴らって心では何もかも見下してるからあんなに反逆的なんだって。だからあんなに嫌な奴なんだって」
「ふうむ」
「だけど正邪、泣いてたんだ。イドの中で。騒々しすぎてちらっとしかわからなかったけど……自分を見てほしい、愛してほしいって泣いてたんだ。そんなの思ってもいなかったわ! 正邪は自由で、誰よりも孤高に自由を謳歌して――だけど、そうじゃないのかもしれない。ううんそうなんだろうけど、それも正邪の一部ではあって……でも――私、なんにも見えていなかったんだ」

 これは単なる独り言。だけどドレミーさんは興味深そうに私を注視したまま、時折手元の本に目を落としたりしていた。あそこには何が書かれてるんだろう。閻魔様の文帖みたいなもの?

「それで、今は?」
「今は正邪のこと、前より少しだけ理解できた気がする」
「……近しい人のことほどわからないものです。かけがえのない相手だからこそ手放すまいと必死になって、夢想と現実の乖離に気が付けない。そして破滅を迎える」

 ドレミーさんの瞳は哀しげだった。正邪を閉じ込めてる人がなぜこんなに哀しげな目をするんだろう。
 彼女が薄桃色の被膜にそっと手を伸ばすと、外に見えていた逆さ城が消えた。そういえばここは正邪の記憶の片隅なんだっけ。ならあそこに映っていたのは、まだなにも知らなかった頃の私。まだ正邪の嘘も、世界の広さも美しさも汚さも、なにも知らなかった頃の私。
 それも消えた。

「今、私はあなたに二つの選択肢を提示できます」

 その瞬間、ドレミーさんの気配が変わるのがわかった。さっきまでは迷子の私を助けてくれた優しい獏のお姉さん。でもその優しさは鳴りを潜め、得体のしれない妖気が彼女の中に満ちるのがわかった。
 そういえばここは夢の中。この人は夢の世界の支配者だ。
 さっき剣を抜いて斬りかからなかったことを今更ながら安堵する。現実世界ならいざしらず、ここで彼女に勝てるわけない。

「一つはこのまま目覚めること。夢なんて所詮夢。それを見てる当人以外にはね。夜が明けたら忘れてしまうわ」

 す、とドレミーさんが指を伸ばす。
 でもそうしたら正邪は二度と目覚めない。そんなのダメだ。私の覚悟はもう決まってる。たとえどんな障壁が待っていても、正邪を助けるためにここに来たんだ。
 にしても、その時の私はどんな顔をしていたんだろう。ドレミーさんの重々しいため息が響いた。

「……もう少し早くあなたが来れたらよかった。もっとも、そうさせなかったのは私なんだけど」
「どういうこと……?」
「私が受けた仕事はただ天邪鬼を夢に閉じ込めることではない。心のアキレス腱である無意識を利用して、鬼人正邪という人格そのものを完全に消滅させること」
「そ、それは、も、戻せるの……?」
「自我というものはそもそも、色も形も大きさもバラバラな無数のブロックを複雑に組み上げて作られた、一つの傑作のようなもの。通常の状態ではブロックは固く結びついていて取り外すことはできない。だから私は鬼人正邪を夢の世界に閉じ込め、少しずつ少しずつ心をやわらかくしていった。硬い肉を調理する時、まずはじっくりコトコトと煮込むように。そうしてやわらかくなった心というブロックを丁寧に取り外していく。外から外から。一つずつ一つずつ」

 ドレミー・スイートは淡々と言葉を続ける。
 私は……言ってる意味がよくわからなかった。人格を完全に消滅させる。心というブロックをバラバラにする……。
 嫌悪感が先に来て脳がそれ以上の理解を拒む。哀しげな瞳が私を見やった。

「そんなの……あんまりにも惨いよ……」

 天国から地獄。イドを見て、正邪のことが少しわかった気がしたんだ。希望が見えた気がしたんだ。見えた気がしただけだった。
 気がつけば私の手は剣にかかっていた。腕に渾身の力を込めてそれをおさえる。指先の一本一本にまで殺意が満ちるのを必死になって留めた。こんなものどうせ役には立たないし、なにより、正邪はそれだけのことをされても仕方ない奴だ。何度殺されたって文句の言えない天邪鬼。ドレミーさんを責めるのはお門違いというもの。
 むしろこの切っ先を突き立てたいのは……私自身だ。遅きに失した無能な小人を殺してやりたい。
 ううん。死んだってなんの意味もない。ここに来る前だったら諦められたかもしれないけど。正邪の心を覗く前だったら。
 正邪、泣いてたんだ。一人ぼっちでさみしいさみしいって泣いていた。あんなもの見せられて今更諦められない! なんてずるい奴! これだから正邪って嫌い!

「戻す方法は無いんですか……バラバラだった心を元に戻す方法!」
「不可能ではない。しかしそれは、膨大な煉瓦の山から砕け散る前のバベルの塔を再現するようなもの」
「でも。でもそれしか方法がないのなら、それなら! 例え何千時間、何億何兆時間かかっても私はやる!」
「残念ながらそんな時間はないわね。自我という枠を失えば夢の世界も長くは保たない。あなたも体験したでしょう? さっき、不安定になったあなたの心に反応してイドへの裂け目が生まれたのを。夢の世界は簡単にほつれる。じきにあれより酷い破滅が起こる」
「じゃあどうすれば!?」
「……さっきも言った通り、提示できる選択肢は二つ」

 ドレミーさんは人差し指に次いで中指も伸ばす。しなやかできれいな指だと思った。強く気高い人の手だ。妙なことにその美しさが私の冷静さを呼び戻した。この人のしたことは許せないけど、不思議と敵意より敬意を呼び起こす気迫が満ちていた。
 そもそも彼女は問答無用で私を追い出すことだってできるはず。目的が正邪の抹殺なら、私は間違いなく追い出すべきイレギュラー。だのに。

 ……唐突に私の衝動が静まったので、ドレミーさんはまた意外そうに目を丸くした。ほんの一瞬だけ。すぐにまた口を開いた。

「たしかに鬼人正邪の自我を一から組み直すことはもう不可能。でもね、心という器は時に驚くほど柔軟なの。自分の名前すら思い出せないある記憶喪失の患者が、どんな薬や医学的処置を施しても元に戻らなかったのに、母親に叩かれた頬の痛みから子供時代を――そして自分自身を刹那のうちに取り戻したという。これは私の仮説にすぎないけれど、おそらく心にはブループリントの機能が備わっているんでしょうね。あるいはバックアップ機能――どちらにせよ、些細なきっかけがバラバラだったブロックを瞬く間に修復した事例は少なくない」
「それなら――」
「問題は。問題はね、その"些細なきっかけ"がなんなのかは誰にもわからないということよ。おそらく本人にすらわからない。イドの底の底に沈んでしまっているのか、あるいは全て勘違いで、たまたま運が良かった事例に惑わされているだけなのかも……」
「……でも! 今度こそ他に方法は無いんだよね?」
「残念ながら私の知る限りでは」
「ならそれに賭けるしかない」
「本当にいいのね……? 次またイドへと落ちたりしたら、そうでなくとも夢の世界が完全に崩落してしまえば、もう私ですらあなたを助けられない。はっきり言ってこれは自殺行為。もしこんな事になった元凶が私自身になかったら、どんな手を使ってもあなたを止めている」
「時間がないんでしょ。急いで」

 ドレミーさんはもう諦めたようにため息をついて、虚空へと手を伸ばした。なにをしてるのかはわからないし邪魔しちゃいけないのかもしれないけど、この機会がドレミーさんと話せる最後のような気がして、思わず聞いてしまった。

「ねえ、ドレミーさんはどうして私たちを助けてくれるの? あなたの仕事は正邪を……その、殺すことなんだよね? なのに」
「私、バッドエンドは嫌いなの」

 間髪入れずのドレミーさんの答えは、申し訳ないけど意味不明。
 その間に向こうの仕事は終わったらしい。私たちの眼前の空間がひずみ、解け、まとまり、歪んだ裂け目となる。奇妙な景色だった。その裂け目には薄さというものがなく、色もなかった。ただただなんらかのエネルギーで満ちていた。もしかしたらそれは正邪の溶け出た自我そのものなのかもしれない。

「さあ通路が開いた。ここを抜ければその先が鬼人正邪の自我深層部。言うなれば鬼人正邪という人格そのものが座す空間。そこであなたはありったけの刺激をぶつけてみて。それが"些細なきっかけ"になることを祈って」
「……ありがとう」
「私には感謝してもらう権利なんかない。代わりと言ってはなんだけれど、一つだけ忠告しておくわ。これから出会う鬼人正邪の人格はいわば丸裸の状態。あなたの知っている鬼人正邪とはかけ離れているかもしれない。その覚悟はいい?」
「私が幻滅するかもしれないってこと? 生憎だけど正邪って妖怪はね、一日一緒にいるだけで百個も幻滅ポイントを見つけられるやつなの!」

 もうドレミーさんはなにも言わなかった。私の強がりにも、なにも。
 足、少しだけ震える。ここを抜ければもう正邪と呉越同舟――ちがう、一蓮托生だ。怖くないと言えば嘘になる。逃げ出したい気持ち、痛いほど。私の中の理性ってやつが、なんだって正邪のために死のうとするんだって今更のようにがなり立てる。

 だから。

 私は裂け目へと飛び込んだ。


 ◯


「……正邪、いるの?」

 口を開くと甘いにおいがした。胸焼けがしそうなほど強烈な、それはほとんど腐敗臭と言っても良いくらいの。
 飛び込んだ裂け目の先は濃密な紫煙で満ちていた。おかげで辺りは薄暗くよく見えない。ただ、割れた酒瓶やひび割れた煙草の木箱、綿の飛び出した座布団なんかがところどころまとまって落ちていて、その度に小人の私は危うく蹴躓きそうになった。

「なにここ……宴会場みたいだけど……」

 その割に生命の気配はまるで無い。宴会場だとしても、盗賊に襲われて人々が皆殺しにされた後という感じだ。
 実際、濃い煙の香に混じって血肉の瘴気がした。腐敗臭の源はそれか。
 しかしいったいなんの血、なんの肉……?
 まさかもう正邪の自我は溶け切って、屍体しか残っていないんじゃ……。

「正邪やぁ! ここにいるのはわかってるんだぞ! おとなしく出てこい! 一緒に帰ろう!」

 叫びは煙の中へ虚しく残響するだけだった。やなりここもあの荒野と同じ、無限の静寂に満ちているの?

 ……ちがう、ダメだ、諦めるな針妙丸。もう時間が少ない。どんな兆候も見逃せば致命的。ここには必ず正邪がいる。それはわかってるんだ。まずはあいつを見つけないと――!

 私は息を殺し、身じろぎを殺し、心臓の音まで殺すつもりで、体中全身全霊を傾けて僅かな異変の兆候を探る。
 甘い煙はもはや出所もわからない濃度で、腐敗臭もそこかしこから漂ってくる。だからそれらは意識から消す。煙の向こうにはどこまでも続く闇。これも消す。視界には頼らない。嗅覚にもだ。
 触覚も意味はない。味覚ははなから期待してないとして……残る頼みは……耳。

(……)

 ただひたすら、ひたすらに耳を澄ます。他にできることはない。鍾乳洞で暮らす盲目の昆虫にでもなった気分だ。いや、彼らのような優れた感覚器官は私にはない。
 無力。闇の中で一人。原始的な恐怖が胸の底から湧き立つ。すると今度はするすると疑念が湧いてくる。どんなに戸を閉めても入ってくる瘴気のように。
 そもそも本当に正邪はここにいるんだろうか? ドレミー・スイートは正邪を夢に閉じ込めた張本人。常識で考えればその人が私を手助けするなんてありえるのか? 出口のない迷宮に取り残されただけだとしたら……そしたら…………

(考えるな! 耳を澄ませ!)

 恐怖、不安、ことごとく歯を食いしばって無視する。静かに、静かに……。

 そうしてどれくらいの時間が経ったろう? ふと摩多羅さんの言葉を思い出す。夢の世界には時間も空間も無いとか、そんなことを。だから実は何百年も私は耳だけの存在になっていた可能性だってあった。
 でもそれは唐突に終わった。

(……聞こえる)

 なにかの音楽のようだ。遠く遠くにかすか聞こえるだけだけど、確かに聞こえた。
 かと思うとその音楽は唐突に大きく響き始めた。
 その曲はもうすぐ目の前から流れていた。

(ちがう、大きくなったんじゃない)

 直感で理解できた。今、私が近づいたんだ。ここは夢だ。忘れていた。ここれでは時間も空間も意味がない。容易にそれらは歪む。
 それでも慎重に音の源に近づく。噛みついてきたりはしなかった。拳大ほど(つまり私の頭ほど)の大きさの機械がゆっくりとまわって音楽を吐き出し続けている。

「……オルゴール?」

 きよし、このよる。
 あまりに場違いな、穏やかな旋律。
 けれど私が呆然とそれを見つめている間に、間に、音程はどんどんとはずれていった。清い夜が燃え落ちていった。まるで私の出現に身悶えするように。それを拒むように。
 
 音楽が完全に止まる。

 私の目が見開かれる。

 なぜ今まで気がつかなかったんだろう。

 その先に正邪がいる。

「正っ……」

 飛びついて、跳ね除けられた。なに――見えないガラスのようなものがそこにある。どういうこと? もうすぐ先に正邪がいるのに。そこにいるのに!

「正邪っ! 正邪っ開けて! 通して!」

 拳を打ち付けてもびくともしない。こんなに近くて、なのにこんなにも遠い。
 どんなに叩いても叫んでも見えない壁は音すら通さず、正邪は顔を上げすらしなかった。虚ろな瞳のまま何事かぶつぶつと話しかけ続けている。
 誰に……? こっちにも向こうの声が聞こえないから内容はわからない。でも……まさかだよね? 正邪の胸元には、小人ほどのサイズのぬいぐるみが抱かれていた。藍色の毛糸であしらわれた髪の毛、瞳代わりの紅玉色のボタン……それと頭に被せられた、ひび割れたお椀。

 それがなんのイミテーションなのか、嫌でもわかった。
 正邪はなおも意味のない言葉を吐き出し続けながら、愛おしそうにそのぬいぐるみをなでつけたり、抱きしめたり。
 明らかに常軌を逸している。醜くて。情けなくて。惨めで哀れで……。
 なのに。
 なのに、正邪……どうして?
 どうしてあなたはそんなに幸せそうなの?
 ひょっとしてあなたは――。

 ……漂う濃密な紫煙に意識がぶれそうになる。
 だめだ、だめだ! 私は正邪を幸せにしに来たのか? 違う! 力づくでも連れて帰る! 迷ってる暇なんかない! そもそもあんなの幸せとは呼べない!
 だから私は叫ぶ。光の消えた正邪の瞳に向けて。
 それは普段の正邪の反抗心に爛々と輝く瞳とは似ても似つかない――けれどどこか見覚えのある瞳。いったいどこで? いいえ、今はそんなことどうだっていい。

「起きろ! 正邪起きろ! それは虚無だ! ただの幻だ! 蜃気楼なんだ! そんなものに取り込まれちゃダメだ!」

 聞こえやしない。わかってる。ドレミーさんに抜かなかった剣を今度こそ握りしめる。
 そういえば今の正邪を見て、やっぱりドレミーさんのことちょっと許せなくなった。正邪の持つ荒々しさ、ふてぶてしさ、その何もかもが失せて。いまはもう迷子になった子供のよう。
 やっぱり許せない。あの時あの場所で、どうなってもいいから斬り伏せてしまえばよかったって。

 ……でもそうはしなかった。しなかったから、今ここにいる。代わりに私はその怒りを両手に込め、見えない壁に剣をかざした。

「待ってて――」

 振り下ろす剣。鋭い音と共に切っ先が弾かれた。関係ない。再び振り下ろす。弾かれる。振り下ろす。弾かれる。振り下ろす!
 弾かれても関係ない。切っ先と壁がぶつかり合うたびの鈍い振動、身体がバラバラになりそう。
 それでも他に手がないのなら、一万回でも、一億回だって、私は――


 ◯


 所変わって、後戸の国。

「ええいなんなんだあの壁は!」

 そう叫ぶのはこの空間の主、摩多羅隠岐奈。しかしその側に立つはいつもの二童子ではない。ひょろながいナイトキャップに獏のような尾。夢の世界の管理人……ドレミー・スイート。
 二人は今、この世界の無数に開かれた扉のうち一つを凝視していた。
 急拵えの木枠にかわいらしい獏の人形があしらわれたそれの向こうでは、ひどいノイズ越しにではあるが、透明な壁を切り付け続ける小人の姿が見える。

「獏よ! たしかに少名姫を助けてくれたのは感謝している。それにそなたの力添えがなければ、こうして夢の世界の様子を捉えることもできなかった。しかしこれはあんまりだ! こんな残酷な仕打ちを見せるためにここまで現れたのか!?」

 いつになく色を失った摩多羅に対し、ドレミーはあくまで冷静にこたえる。しかし彼女にしても、平時の余裕げな笑みはなりを潜めていた。

「あれは私の所業ではない」
「ならなんだと」
「あれは特別なものでもなんでもない……そもそも希薄化したあの自我領域から鬼人正邪を見つけ出した、その時点で驚くべき奇跡だわ。私ですら入り口に送るので精一杯だった……やはり無理なの……?」
「ああもう一人で納得するんじゃない! なにかないのか!? あの壁を突破する方法は!」

 ドレミーが考え込む間にも、扉の向こうの小人は剣をふるい続ける。壁はびくともしない。
 やがて握った手から血が滴りはじめる。が、彼女はそれすら意に介さない。ただそうすることのみが己という存在の全てだというように、吠え猛り、狂ったように刃をふるう。
 ……だが、壁はただただ冷徹にそれを跳ね返し続ける。やはりそれが己の全てであるかのように。

「あれは鬼人正邪の心理的なバリア。誰もが持っている心の壁。会いたくない人。嫌な仕事。重い病。悲しい別れ。この世は心がとうてい受け入れられない艱難辛苦で満ち満ちている。そんな時、人は心のバリアを生み出す。なにも特別なことじゃない。見たくないから見ない。見ても言わない。言っても聞かない。そう、そして破滅を迎えるとしても、それでも……辛いことは嫌だから」
「つまり」

 摩多羅が苦虫を百万匹噛み潰したような顔で呻く。

「あれは天邪鬼自身が作り出したものなのか……?」
「そう。もっと簡潔に言えばこうなるわ。鬼人正邪は目覚めたくないと思ってる」
「まだ寝ていたいと……? バカを言え! だってそれは、それは……あんまりじゃないか! 少名姫がここまでやってるというのに! 全部無駄だったのか? 天邪鬼は最初から……夢の世界の方が……幸せだったと……?」
「フェアに言えば、そう思うような夢を私が見せたわけだけど。心を溶かす魔法の煙で……」
「本当になにも手はないのか!? 後戸の神秘と夢の世界の支配者! その二人がただ指を咥えて見ているしかないなどと!」

 おそらくドレミーもまた同じ思いを抱いていた。振り絞るような、苦しげな声で、答えた。

「心という装置は複雑怪奇。文字通り神ですら紐解けぬほどに。あなたは軽々にそこへの扉を開いてしまった。私もまた、夢の秩序を預かる者としてこんな仕事を引き受けるべきではなかった。まだまだ未熟者ですね、お互い……」

 ドレミーはがっくりと肩を落とす……が。
 摩多羅は承知しなかった。座椅子ごと飛び出し、後戸の国に横たえられたままだった正邪の体躯を掴み上げる。

「感慨に耽ってる場合か! こら天邪鬼! 少名姫があんなに頑張ってやってるのに起きたくないだとぉ!? 貴様どこまで天邪鬼なんだ!」

 ぐわしぐわしと前後に揺さぶられても正邪はぴくりとも応じない。むしろ慌てたのはドレミーの方だった。

「ちょちょちょおおお!? ダメよそんなふうに揺すっちゃ!? 精神と肉体は裏表! 万が一のことがあったらどうするの!?」

 しかし摩多羅、ショック療法継続。
 ぐわんぐわんと正邪が揺れる。やめてやめてと獏が泣く。

「起きろぉおおおお天邪鬼ぅうううう!!」
「やめて! ほんとにやめて! この神秘怖い! 助けてサグメ! サグ……」

 その時、ドレミー・スイートに電流走る。

「ど、どうした獏よ。急に黙ると怖……」
「それだぁあああ! なんで最初から気がつかなかったのよ私のバカバカバカ!」
「……ついに壊れたか。やはり夢の世界など支配するものじゃないなぁ」
「ちがう! あなたどこでもドアの神様でしょう!? 今すぐ月の都に繋いで! いーまーすーぐーにー!」
「ちょ、ちょっと落ち着いて……なんかキャラ崩壊してない?」
「はーーやーーくーー!!」
「むぎゅ……わかったわかったから首絞めないで! げほっ……しかしいきなり月と言われても時間がかかるぞ……直通は無理だから複数のルートを経由して……いや逆探知されると面倒だからファイアウォールも噛ませないと……」
「なんでもいいから急いで!! 稀神サグメを呼び出して!!!!」

 ……などと。
 仲良くすったもんだする二人は気がついていなかった。先ほどまで針妙丸を映していた扉が今はもう、茫漠たる砂嵐を映すだけになっていたことを。


 ◯


 もうどれくらい剣を振り下ろしただろう。両肩は今にも外れそうだった。腕は痺れきってとっくに感覚がない。握りしめた手からは後から後から赤色が後から後から滴り続けている。
 透明の壁には僅かに、本当に僅かにだけど傷のようなものがはいっていた。このまま続けていればいつかは、いつかは正邪に――

「っ!?」

 今までと違う甲高い音。予期していた支えが失われてつんのめり、私は地を噛んでいた。
 なに――と思って、すぐにわかった。剣が、私の針剣が半ばから砕け折れていた。

「……そう。それで? その程度なの正邪?」

 なんとなく、わかる。この壁はドレミーさんや夢の世界の悪意じゃないって。最初に触れたときからそんな気がしてた。
 この壁は正邪の一部だ。だって同じだもの。イドの底で感じたあの息苦しさ。それとおなじ狂おしい孤独をこの障壁は纏っている。
 だからこれは勝負だ。私の意地と正邪の意地との。

「まだ剣は半分も残ってる。ううん、剣なんかなくったって! 手も足も残ってる! それが無くなったら食らいついてやる。ご先祖様はまち針一本で鬼を倒したんだ。私たち一族はしつこいよ!」

 残った剣の半分を逆手にもってひび割れに突き立てる。そうしようとした。
 ぐらり、と足元が揺らぐ。さっきの剣が砕けたのとは違う、今度は明らかにこの空間全体が鳴動していた。
 気のせいかと思うまもなく振動はさらに激しく、強く。

 ――そんなに時間はない。

 ドレミーさんの言葉通りらしい。そりゃあ、見ればわかる。壁一枚挟んだ先の正邪を見れば。
 口元からは涎が垂れていて、瞳は虚ろ。
 たしかにこんな正邪は見たくなかった。正邪はもっと不遜で、傲慢ちきで、いつでも意地の悪い笑みを浮かべていて……そんなものを取り戻そうとしてるなんて我ながら不思議。客観的に考えてみれば。
 で、どこのどいつが客観的に生きるっていうの?

「……正邪、私が来たからってびびってるんでしょ」

 もちろん答えなんか返ってこない。ならこっちのものだ。これは正邪のビビリだ。そういうことにする。
 折れた刃を下――そうとして。地鳴りが酷い。両足に力がこもらない。それに……もうずっと両手にも力が入らないんだ。

「あっ……」

 ガクン、と地面が大きく傾いた。正邪のスペルカードみたいだなってぼんやり思う。よろめいた拍子に剣が滑り落ちていって――手を伸ばしても届かないほどの奈落へ瞬く間に消えた。

「そ……そろそろ我慢の限界ってわけ……」

 傾斜はますますひどくなる。もう剣どころじゃない。私まで滑落しないようにするのがやっとだ。
 正邪もまた奇妙な浄瑠璃人形みたいな動きで床にしがみついているけど――それで壁が消えたりはしなかった。あ、そう。どんなに自分を失っても頑固さだけは変わらないって……こんなとこだけ貫徹で……!

「このわからず屋……! 一体なにがそんなに嫌なの……! そんなに私が嫌なの……!?」

 しがみつく。最後の最後までしがみつく。私にはそれしかできない。最初からずっと。正邪と会った時からずっとそうだ。
 私はあなたにしがみつくばかり。あなたの考え。あなたのゆく道にしがみつくことしかできなかった。なにも知らない私を見出したあなた。たとえそれが打ち出の小槌の魔力のためでも。革命のための道具でしかなくっても……! 私はあなたがいたから! あなたにしがみついて、ようやくお城の外へ出て! だからここまでこれたのに!
 それなのに……!

 これで終わりなの……? 結局なにもできないまま。革命も成し遂げられず。正邪も助けられずに……?

「嫌だっ……」

 しがみつくばかりだったんだ。あなたの背中を見てばかりだったんだ。
 だけどやっと大きくなれたの。身体は前より小さくなっても、私の世界はずっと大きく広くなったの。
 だからやっと! やっとあなたと並んで歩けるようになった! そうしてもいいと思えるようになったのに! こんなところで終わるなんていやっ!

「だからいい加減に起きろよ! バカ正邪っ!」

 ……その時、ほんの一瞬正邪と目が合ったような気がした。
 ただの偶然かもしれない。
 すぐにまた瞳から光は退き、人形へと戻っていったから。

 ――ここまでか。

 世界の傾斜はもうほとんど垂直に近い。正邪の夢の世界ならこのまま180度ひっくり返るのも時間の問題だろう。あるいはそれを待たず崩落するのか。もはや私はたいして気にもしてなかったけど。

 それより私はただ頭上に正邪を見つめていた。もはや二度と振り向いてくれないとわかってはいても、ただそうしていたかったんだ。
 もうなにも出来ることがなくなって、せめて瞳だけは食らいつきたかったのかもしれない。最後の一秒まで。最期の一息まで。
 
 ああ、力が抜けていく。落ちる、落ちる、イドへと至る奈落へと。
 けれど、そうね、私は正邪のイドへと落ちる。なら少なくとも正邪の中へと溶けていくんだ。
 
 ざまあみろ。

 あなたを一人ぼっちになんかさせてやらないんだから。

 じゃあ、さよなら――

「あっ」

 その時ふと、尽きぬ紫煙を黄金色の輝きが切り裂いた。
 幻かと思えた輝きは正邪の懐から漏れ出ている。正邪自身はそれに気がついていない。取り押さえるまもなく黄金色の輝きが落つ。真っ逆さまに。正邪の真下にいる私に向かって。
 反射的に手に取った。そのせいで三小人身近くもずり落ちたけど、出っ張ったものを掴んで危うく九死に一生を得る。なにかと思えばさっき砕け散った剣の切っ先部分じゃないか。すっ飛んだ勢いで地面に突き刺さっていたらしい。やっぱりおまえも小人族の道具だ、見上げた執念深さ!

 それにしてもこれは……こんなものがなぜここに?
 もちろん決まってる。ここは正邪の心の中なんだ、ここにあるのは正邪が求めたものだけだ。

「正邪……まだこんなものに縋っていたんだね。なんて情けない……情けないけど、でも、おかげで――」

 剣先が足場になってくれたおかげで私は二本の足で立つことができた。つまり、両手でそれを構えることができた。
 正邪の落とした黄金の――打ち出の小槌を。

「おかげであなたを助けられる」

 打ち出の小槌。小人族に伝わる秘宝。無尽蔵の魔力でどんな願いでも叶える――というのは正邪の勘違いにすぎなくて。小槌は魔力の吸収と放出を繰り返すだけにすぎなかった。
 だからといって小槌に価値が無いというわけでもない。つまり物は使いようってこと。例えば、今ある私のありったけの力を小槌に食わせたらどうなるか――集団の力が個々人の力の総和ではないように、小槌という一点に集中した私の魔力は世界のルール一つくらい余裕で書き換えられるものになる。

「――あとが怖いけど!」

 それでもいい。死ぬよりマシだ。正邪を失うよりずっとマシだ。ずっとずっとずっとずっとマシだ。
 小槌に魔力が満ちていくのがわかる。久しぶりの感覚、この反則的な高揚感。自分が無敵の巨人になるような気分。
 もちろん全てはまやかしだ。ただの力の前借り。それは悲しいくらいに蜃気楼にすぎなくて。
 でも、だからこそ……人がまやかしにすがりたくなる気持ちはよくわかる。夢の世界に閉じこもりたいって正邪の気持ち、苦しみ、絶望……痛いくらいわかる。

 わかるんだ。

 わかるからさ……ちょっとくらい分けてくれてもよかったのにね。なにも特別なことじゃないのに。こんなことは誰だって持つ弱さだってのに。

 さみしいなら言ってほしかった。つらいなら泣き叫んでほしかった。

 正邪、私は悔しい。

 私たちはそんな弱さも見せ合えないくらいの仲だったの?

 私はそんなにも信頼できない奴だった?

 揺らぐ空間の中でなお、あなたはその人形を抱きしめて語りかけている。
 それは私なの、正邪? その人形は私よりも信頼できる?

 ……いいえ。

 いいえ、きっと違うわ。だって私、あなたのその瞳を見たことがあるもの。ようやく思い出した!
 まだ私が井戸の中の姫君だったころ、あなたは時々――本当に時々だけど、そんな瞳を向けてきたんだ!

 自分より弱い者を見つめる瞳。

 自分より小さな者に甘える瞳。

 世間の常識を知らない幼さと優しさを利用しようとする瞳。

 強い者は怖いから。大きな人は怖いから。弱い心を見透かされ、幼さを看破され、現実と向き合わされるのが怖いから。

 そういえばあなたは天邪鬼だものね。いわば永遠の思春期を生きている。永遠に子供で居続けたいと思ってる。
 だから私を引きずり込もうとした。子供の側に。この世界には結局、大人の世界と子供の世界しかないんだもの。大人になる前の私を捕まえて永遠の幼き姫に仕立て上げようとしたんだ。幻想郷そのものをひっくり返すなんていう子供みたいな夢を見せて。

 だから今もそうして無垢な私をイミテートした人形と空疎な会話ごっこを続けてる。
 そう、あの頃の私にはあなたしかいなかったから。あなたが世界の全てで、あなたの言うことはどんなことでも正しかったから。そう信じるしかなかったから!
 でもまさかそんな、そんなものがあなたの心の底にあるものなの!? 心の壁をすべて取り払われて、最後に残ったものがそれ!? ただ昔の私に甘えることがあなたの願い!?

 たしかにあなたは一日いるだけで幻滅ポイントが百個も見つかるような奴だけど。でもそれは「うわぁこいつクズだなぁ」って幻滅であって。
 これは違う。こんなのは違う。こんな情けないのは!

 このロリコン正邪!

 ていうかもう情けないを通り越してなんかだんだん腹立ってきた。こっちはここまで死ぬ思いで来てやったってのに! なのに! 最後はこんなロリータコンプレックスで殺されかけたなんて!

 小槌を握る手に力が尚々こもっていくのがわかる。魔力が増々漲るのがわかる。怒りで!

 ――叩き起こしてあげるわ。

 そして、私は跳んだ。

「いいかげん起ぉきろぉおおおおおおお正邪ぁああああああああ!!」

 振り下ろした小槌は、今度は弾かれなかった。
 バキ、と正邪の心の壁に蜘蛛の巣模様が入り――瞬間、砕け散る。

 夢の世界もろともに。


 ◯


 風が吹いている。爽やかとはいいがたい、とはいえ不快でもない。生まれたての、まだ何者でもないといった風。
 一歩、踏み出す。波紋が広がった。もう一歩。同心円状に広がるそれはま白き水平線までランダムな減衰を繰り返しながら消えていく。
 ここはどこだろう?
 灰色の空に浮かぶ、時が止まったように静止した雲たち。それをそのまま映し出す鏡のような水面。
 少なくとも現実ではない気がする。ということはまだ正邪の心の中か。
 でも、そんなことよりも。

「正邪」

 鬼人正邪がそこにいた。生まれたままの、一糸まとわぬ姿のまま、両膝を抱えてうずくまっていた。それでちょうど私と同じくらいの位置に頭がある。うずくまっているから顔は見えないけど。
 相変わらず白とも黒ともはっきりしない髪が水に濡れ、ちらちらと輝いていた。

「……なんで来たんだよ」
「ん」

 浅い息が漏れでる。うまく二の句が継げない。
 さっきまであれだけ腹立たしかったのはどこへやら。
 気まずい沈黙。

「ね、ねえ」
「……」
「やっと話せたね……? なんだか、そのぅ……すごく久しぶりな気がする」
「……」

 正邪は応えない。
 ひきつる喉をなんとかおさえ、私は声を振り絞る。

「あのさぁ! 私、すごく頑張った!」
「……」
「まず正邪がいきなり姿を見せなくなって探しまわったでしょ? 幻想郷中の人に頭下げて助けてもらえないか頼んだ! まあ誰も助けてくれなかったけど……あ、でも摩多羅さんが助けてくれた! それから危険だーって言われても正邪の夢の世界に入ったでしょ? それでイドに落ちたり、ドレミーさんに会ったり、そっからが特に大変だった! まず正邪を見つけるので一苦労だし、見つけてもなんか透明な壁に遮られちゃうし! ねえあれって正邪が作った壁でしょ? もう少し常識的な強度にしておいてよ! 打ち出の小槌がなかったらどうなってたか――」
「……」
「聞いてる……?」
「……」
「お、怒ってるの……?」
「……」
「えと……」

 なんて言おう。なにを言おう?
 すっかり頭が真っ白になってしまって。
 生まれて初めてこの人と話すような。

 それで、正邪がぶっきらぼうに答えた。

「……答えろよ」
「な、なに?」
「なんで来たんだ!」
「それは正邪を助けるために――」
「ちがう!」

 悲鳴のような絶叫。正邪の憎悪に満ちた気迫が増幅され、かと思うと急速にしぼんでいく。なよなよと。

「……そんなのちがう。嘘に決まってる。私を助けに来る奴なんているわけない。ぜんぶぜんぶ嘘だ。おまえは私を笑いに来たんだ!」
「なんでそうなるの!? あなたを笑うためにここまでって……私そんなに暇じゃない! 正邪が心配だから助けに来たに決まってるでしょ!?」
「嘘だ!!」

 ああ、また閉じていく。正邪の心のバリアが閉じていく気がする。
 あの馬鹿げた硬さの壁はもうないけど……そんなものなくったって、いつでも私たちは心のバリアに遮られているんだ。

「……おまえは私を嫌ってる」
「そんなことない! なんでだよ! 私は正邪のこと大好きだよ! だって正邪は私のはじめての友達なんだもん! 逆さ城で一人ぼっちだった私にできたはじめての友達! 嫌いになんかならない!」
「あぁあぁあああぁああ嘘だ嘘だ嘘だっ! 誰も私のことを好きになったりしない! 私に友達なんていない! おまえは私を笑いに来たんだっ!」
「正邪……? どうして……」

 そりゃ、正邪のことクズだなと思ったことはたくさんあるけど。
 でもそれとこれとは別の話だ。
 いったいどうしたらいいんだろう。私は文字通り正邪の心そのものと相対してるというのに、今なお彼女の心が理解しきれてない。

 私が言葉を失っていると、やがて正邪はぽつりと

「……じゃあ、抱きしめてくれよ」

 捨て鉢な、言葉の内容からは信じられないほど絶望と苦悩に満ちた声の震え。

「抱きしめて、私は生きててもいいんだってささやいてくれよ。また生きたいって思えるようにしてくれよ。愛してるって言ってくれよ! なぁ! 私のこと好きならそうしてくれよ! 言えよ! なぁ!」

 その時正邪がどんな顔をしていたのか。相変わらずうずくまって両膝の間に顔を埋めていたからわからなかった。
 でも。
 例えどんな顔をしていようと。涙でぼろぼろになってようと、鬼の形相で怒り狂っていようと関係ない。きっと何度同じ選択を迫られても、その度に私は同じ答えをしただろう。

「やだ」
「……は?」
「いやだって言ったの」
「てめっ……馬鹿にしてるのか!? さっきあれだけ抜かしといてなにを――」
「それで本当に正邪が満たされるなら、いいけど」

 そう。きっと何度だって拒絶しただろう。こんな意味のないロリコン正邪の求めなら。

「抱きしめろって言われて抱きしめる私で満足なら、べつにいいけど。それで生きたいって思えるなら、いくらでもそうするけど。愛してるって言葉だけでいいなら、いくらでも言うけど」
「……」
「それでもいい?」
「…………」
「あのね、正邪」

 もう私は覚悟を決めた。考えてみればここでは正邪は丸裸で、それはアンフェアってやつだ。
 私もまた裸で正邪と向き合わなきゃ、きっと先には進めないんだ。

「私はね、正邪から生きる意味を教えてもらったんだよ。逆さ城の外に出ていく勇気をもらったんだよ。まだあの頃、一族を蔑む人で満ち満ちた世界が恐ろしくてたまらなかった私に、反逆という立ち向かう意味を与えてくれたんだよ」
「……」
「でもそれは、正邪が与えようとして与えてくれたものじゃなかった。もちろんあなたは意図して私をその気にさせて小槌を使いたかったわけだけど、けして勇気づけるのが目的じゃなかったでしょ? あなたの言葉がたまたま私の心に響いて、偶然そうなっただけなの」
「……」
「だから逆にね、騙されていたとかは関係なかった。もちろんすごく困ったし、幻想郷中の人に迷惑をかける事になったけど……それはそれで、これはこれ。正邪が私に与えてくれたものは、ある意味、正邪自身でも台無しにすることなんかできないんだ。それはきっとわざと与えようとするほど与えられないもの。生きる意味。生きる喜び。生きる勇気……」
「……」
「あのね正邪、ドレミーさんが言ってたの。人の心は例えバラバラになっても些細なきっかけで立ち直ることができる。ただしそのきっかけがなんなのかは誰にもわからないって。私にとっての些細なきっかけはあなただった。それがどんなに困難で、貴重で、偉大な仕事だったかあなたにはわかる!?」
「…………知るかよ」
「本当はね、ほんとは、私が貰っただけのものをあなたに返してあげたいんだけど。だけどさっきも言った通り、それは与えようとするほど与えられないもの。ひょっとすると私ではけっして与えられないものなのかも。偶然、たまたま、あなた自身が見つけるしかないものなの」

 けれど、もし。もしそれを与えられるのが私ならどんなにいいだろう。
 正邪はまた長く長く永く沈黙して、それからぽつりと、

「……じゃあどうして」
「正邪?」
「……じゃあ、どうして来たんだよ!? なにもできることがないくせにどうして!」
「それは……」
「迷惑なんだよ! ぜんぶぜんぶなにもかもお節介なんだ! もうほっといてくれ! 私を一人にしてくれよ! 一人のほうがずっとマシなんだ! 誰かといると嫌な思いをするばっかりだ! 私には正しいことがわからない! どうしようもなく闇の側で、カビ臭くて薄暗い世界でしか生きられないんだ! だからなにをやってもズレて、笑われて、嫌われて、疎まれて、蔑まれて、孤立して、さみしくて――もう嫌なんだよ! ぜんぶぜんぶ嫌いだ! みんなひっくり返っちまえばいい!」

 沈黙。そして子供のすすり泣く声。

「……それでも。それでも姫だけは、姫だけは私を受け入れてくれた。だけど私が壊したんだ。私が裏切って、嘘ついて、だから姫はいなくなってしまった……やっとまた会えたのに……姫……」

 結局それが正邪の本音だった。
 辛いから、嫌だから、それを受け入れてくれる人が欲しかった。それが私だった。最初の目当てが小槌だったのかどうかは、もうわからない。
 確かなことは一つだけ。ただ甘えるだけの、甘やかすだけの私と正邪の関係は終わってしまった。正邪の言う通り、正邪自身の手によって。

「なにも知らない幼かった小人姫はもう死んだわ」
「……そうだ。私が殺したんだ」
「だけどそれは相変わらず私でもある。前より少し大人になっただけで、私は私」
「……ちがう。おまえはただの少名針妙丸だ。裏切り者の天邪鬼を憎むただの小人だ。私のことを嫌いな大勢のうちの一人だ……!」
「はぁ。ほんとになにもわかってないんだね……」

 ま、しかたない。
 私も正邪のことぜんぜんわかってなかったし、今だけは特別に許してあげる。

「……なにしてんだよ」

 私は正邪の隣に腰を下ろす。同じように両膝を抱えて、蹲るように座る。ただ顔だけは空を見上げておく。深い意味はない。ただそうしたかったんだ。

「べつに。ただ並んで座ってるだけ」
「……ほっといてくれって言ったろ」
「そうしてるじゃない。ただ隣で勝手に座ってるだけだってば」
「……」
「そういえばね。私、あなたの無意識を見たの」
「……」
「底なしのさみしさが荒れ狂う暴風雨のようだった。だからあなたのさみしさ、今ならわかる」
「……わかるもんか」
「そう。たしかに本当の意味ではわからない。私はあなたじゃないから」

 私は正邪じゃない。正邪は私じゃない。
 一つになれたら、もしかしたら楽だったんだろうけど。わかり合う必要もなくて。怖いことも辛いこともなくて。
 でも、正邪みたいなやつと一つになるなんてやっぱりごめんだね。

「たしかに私はなにもできない。あなたのしてくれた一億分の一の恩返しもできないのかもしれない。でも、こうして並んで座ることはできる。ただあてどもなく言葉をかわして、悩みがあれば一緒に考えて、苦しい時は共に泣いて……あなたが悪夢に囚われたら、こうして側まで来て。そうすることはできる」
「……嘘だ。おまえもきっとすぐ私を裏切る」
「その時は」

 まあありえない話でもないけど。相手が正邪ならね。とはいえ、

「その時はきっと私がおかしくなってる。私は弱っちい小人で、いつだって間違えてばかりだもん。だから今度は……あなたが私を連れ戻してよ。私を正気に戻してよ」
「……意味不明だ。理解できない。なんでそんなこと言えるんだよ。なんでそうまでしてくれるんだよ!?」

 真横に座っているからか、正邪の慟哭が震えとなって伝わってくる。私は小人だから、正邪の悲しみ痛みもずっと増幅されて身体に響く。

「なんでっ! なんで私を助けになんか来れるんだよ!? 私は嫌われ者の天邪鬼だぞ!? 見捨ててくれよ! 裏切ってくれよ! 怖いんだよおまえが! 裏切りに裏切りで応えないおまえが! 私を嫌いにならないおまえが怖い! 怖い! 怖いんだ……なんでなんだよ……わかんないよ……」
「……ほんとうにわからないの?」

 それは少し……さみしい。
 でもしかたない。思えばこんな風に互いの心をぶつけ合うのも初めてだ。そりゃあうまくはいかない。
 だけどやっぱり……恥ずかしいな。

「そんなのは……」

 ええい、ままよ。

「そんなの! 愛してるからに決まってるじゃん……! バカなの!?」
「な…………」
「う…………そ、そういうことだから……………」

 あーあ。
 言っちゃった言っちゃった。
 私の顔、たぶん耳の先まで赤くなってる。もうほぼ反射的に私、取り繕う。

「いいいいやいやいやあのねっ!? 友達としてだからね!? 友達として愛してるって言ってるの! 勘違いしないで――ってなに!? また世界がふ、ふるえててててっ!?」

 ああもうめちゃくちゃ!
 さっきバリアと戦ってた時みたいな胸の底に突き上げてくる地鳴りが、ぐらぐらぐらぐら。
 慌てて立ち上がろうとして、つんのめって、ずっこけて、また地を噛む――そう思った。

 目の前に水面がある。痛くない。誰かに掴まれた腕以外。

「……ちがう」

 私を掴んでくれたのは、すんでのところで助けてくれたのは正邪だった。腕、めちゃくちゃ痛いけど。力はいりすぎだけど!
 ていうか正邪も……顔、真っ赤だけど。

「……ちがうからな!? この地響きとかはたまたまだ! べ、べつにうれしいわけじゃないからな!?」
「あ、あはは……」

 はぁ。文字通り心が震えてるってわけ?
 鬼人正邪。天邪鬼のくせにこいつ……ほんとわかりやすいんだ!
 
「言っておくがな! 立ったのはおまえの言葉が響いたりしたからじゃないぞ!? 未だに私の邪悪さに気が付かない様を見てたらバカバカしく思えてきただけだ! こんな大物の鴨がいながら引きこもってるなんてな!」
「……あははっ。なによ、急に調子取り戻しちゃって。相変わらず嫌な奴!」

 ほんとにばかみたいだ。散々苦労して結局なに? 結局こいつはなんで元気になったのよ。
 なんとか震える台地の上でバランスをとる。ああこんな時に針剣があれば杖になるのに。あいつは真の宝具だったなぁ。

「っとっと……っと」
「なにしてんだよ……ほら掴まれ!」
「ありがと~正邪ってば優しいんだから~!」
「うるっさいな……それより、なあ……針妙丸」
「ん?」

 なんだか久々に名前で呼ばれた気がする。
 顔をあげると正邪がものすごい速さでそっぽを向いて――それから、呟いた。

「……ありがとな」

 一瞬、聞き間違いかと思った。あの正邪が。あの正邪がお礼を言った!?
 そんなことって! そんなことありえるんだ!?

「あ、おい!? その顔やめろ! そのニヤケ顔! いいかこれっきりだぞ!? 私が素直にものを言うのは金輪際ないからな! わかったらさっさと出てけ! 心ん中に誰かいるのってすごく不快なんだよ! 特におまえみたいなちょろちょろしたチビは特に!」
「うん! うん……うん?」
「……なにしてんだよ。さっさと出てけってば。締まらない奴だな」

 ふと。
 どうしてこんな重要なことを忘れていたんだろう?
 さーっと胸の底が冷たくなっていく……。

「……そういえば私、ここからどうやって出ればいいんだろう?」
「はぁ? そもそもどうやって入ってきたんだよ。まさか口から昇ってきたわけでもないだろ?」
「あ、うん。摩多羅隠岐奈っていう神様に心の扉を開いてもらったの」
「隠岐奈ぁ? ああ、あの胡散臭い奴か。なるほどそれで合点がいったよ。さっきから人様の心に土足で踏み込もうとする奴らがいてさ……締め出してたんだが、ちぇ。お迎えってわけか」

 瞬間、なにもなかった空間にぱかりと扉が開いた。その向こうには摩多羅さんと……なぜかドレミーさんがいた。しかも二人とも涙目だし……なんで?

「おお小さき姫よ! 無事だったか!」
「まもなくこの心象世界は崩壊するわ! 急いで!」

 揺れはますますひどく、悩んでる時間は無さそうだった。
 私は扉の枠縁に飛び乗り、振り返って叫ぶ。
 
「正邪!」
「あ?」
「先に外で待ってるから! いまさら怖気づくなよ!」
「はっ! 私を誰だって思ってるんだ? 逆襲の天邪鬼――鬼人正邪様だ! この借りは絶対返してやるからおまえこそ怖気づくな!」
「ああああ早く扉閉めて閉めて! 巻き込まれる!」

 ほとんど二人に引きずり込まれながら、私は――閉まる扉の向こう側に見た。
 靭やかな二本の足で立つ正邪を。その顔に浮かぶ、やわらかな微笑みを。









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