一、
蛍雪の光とはいうが、確かに真昼なのに薄暗い粗末な山小屋の中、窓の外から差し込む雪明かりのみを頼りに写経を続けていると、この頃白蓮の心を悩ませ続けていたある出来事が、憂鬱な気分が徐々に消え去ってゆくようであった。
そのとき、何者かが小さな山小屋の戸を叩いて耳に痛いくらいの静寂を破り、白蓮がはっと顔を上げた。
誰? なんて間抜けな問いを投げるつもりはない。住み慣れた命蓮寺を離れて、弟子たちともしばし別れて、彼女はいま、ひとりきりで妖怪の山に籠っている。
山の妖怪は縄張り意識が強い。まして仏教の商売敵たる風神が我が物顔で鎮座していれば尚更、白蓮にとっては近寄り難い場所――と言いたいところだが、白蓮にこの山小屋を貸したのは他でもないその風神なのである。
「ちょっとお邪魔するわよ」
「お邪魔しているのは私の方ですよ」
「言葉の綾だわ」
神奈子は気さくに踏み入れてきた。風神は寒さなど平気であろうに、神奈子はショールをまとって冬らしい格好をしている。白蓮は写経の手を止めて神奈子を振り返った。神奈子は身震いして、ショールをいま一度強く身体に巻きつけた。
「あら、寒いと思ったら、焚き火すらつけてないの? 薪はちゃんと渡したはずよね」
「あまり寒くないので。それに、修行中ですから」
「そのまま滝行でも始めるつもりかしら、こんな雪の日に。溺死だけはしないでね、死体が哨戒天狗に見つかったら問い詰められるのは私なんだから」
神奈子は苦笑いしてみせる。「それで」と神奈子は正面に腰を下ろした。
「居心地はどう?」
「ここは静かでとても落ち着きます。うちはなんと言いますか、大所帯な上に、いまは季節柄、どうしても騒がしくなるものですから」
「そうねえ。師走も半ばを過ぎたってのに、住職様がこんな山奥に引っ込んでるのはおかしな話だわ。今年は年末商戦を捨てるの?」
「いえ、もう二、三日としないうちに帰ろうと思います。さすがにそう長いことお寺を空けられないと、本当なら気が咎めていたのですが……」
「とにかくひとりになって心を落ち着けたかった。そういう話だったわね?」
白蓮はうなずいた。はじめに白蓮が神奈子の元を単身で訪れ、どこか山の中に身を置かせてほしいと頼んだとき、神奈子は事情を深く聞かず、どの妖怪の縄張りにも入っていない山小屋の場所を快く教えてくれたのだった。
神奈子がこうも気前がいいのは何か裏があるからだとは思ったものの、帰るつもりのなかった白蓮はそのまま借り受けたのである。
「いやね、そんな不安そうな目をしなくてもいいじゃない。こう見えて私はフランクな神様よ」
「神奈子さんの親切は身に沁みています。だからこそ、かえって気を揉むといいますか……」
「そう? 私は嬉しかったんだけどね。貴方がこういうときにいの一番に頼るのは神子だと思ってたから」
その名前が出たとき、白蓮は努めて平静を装おうとしたが、かえって不自然さが露呈してしまったらしい。神奈子の忍び笑いが癪に触って、白蓮はわざとつっけんどんに答えた。
「あの人とはそこまで馴れ馴れしくありません」
「そう思っているのは貴方たちだけ。みんなとっくに腹を割った付き合いをしてるもんだと思っているのよ。そうでしょ? 元々、貴方のストイックな修行法って仙人じみたところがあったものね。本来の相性自体は悪くなかったんだと思うわ」
「……」
「そんな貴方が神子じゃなくて、二番手の私のところに来るってことは、神子には言えない……というか、神子が元凶みたいな悩みなのでしょう?」
やはり神奈子には多くを説明せずとも、薄々見透かされていたようだ。
神奈子はまるで預言者のように粛々と述べた。
「貴方と神子に何かあった。それも、いい方向の変化が」
「どうして悪い方向だと思わないのです」
「そうだったら貴方はもっと不機嫌なはずよ。いい変化が期待できるはずなのに、貴方はかえって決まり悪くなって、かといって弟子には相談もできなくて、折しも師走に入ってお寺はもうじき大忙し。だから貴方はせめてかきいれどきの年末年始に突入する前に、心を鎮めようと山籠りにきたのでしょう?」
――ご明答、としか言いようがない。彼女に神子のような能力はないはずだが、なんといっても太古の昔から人間の営みを見守り続けてきた神様、千年生きた白蓮といえど年季の違いを実感せざるを得ない。
神奈子は満足げに笑っている。これならまだ弟子たちの元にいた方が気が楽だったろうか、と悩み始める白蓮であった。
「でも不思議ね。貴方のとこの弟子たちってそんなに頼りないかしら」
「うるさいのよ、あの子たち」
当人のいないところであんまり陰口みたいなことを言うのは悪いと思いつつ、つい神奈子に向かって愚痴ってしまう。
「私の気持ちは置いてけぼりで『なんで早く返事しないんですか?』『あの人待ってますよ』って急かしたり、聞こえよがしに唆したり、私のいないところでも勝手に盛り上がっていたり。神霊廟と聞けばいつもは臨戦体制に入るのに、今回ばかりはまるでみんなして神子の味方になったみたいで」
「それも神子の仁徳、カリスマかしら。厄介よねえ、うちの早苗も純粋だから、下手したらあいつの口車に載せられるんじゃないかと気が気じゃないときがあるわ」
早苗ってそんなに純粋だといえるのか、と疑問に思うが、神奈子はお構いなしにすっかり親心モードに入っているようである。
「白蓮、クリスマスって知ってる?」
「はい?」
唐突な問いである。白蓮は聞き慣れない横文字にまつわる出来事をかろうじて思い出した。
「西洋の年末のお祭り……ああ、そういえばもうじきでしたっけ」
「十二月の二十五日ね。日本じゃ二十四日のクリスマス・イヴの方が盛り上がりがちだけど。うちもね、早苗が小さいときからずっとお祝いしてきたのよ」
「そうですか」
クリスマスにせよ守矢の思い出話にせよ、白蓮はついていけないが、神奈子の語りは止まらない。こんなおしゃべり好きのマダムみたいな人だったろうかと首をかしげる。
「あの頃の早苗ったら可愛かったのよ。あ、いまも充分可愛いと思ってるわよ?」
「疑ってませんよ」
「早苗、うちに入ってきたサンタさんを捕まえるんだって、一晩中寝ないで張り込むつもりでいるの。純粋よねえ、煙突もない家だってのに、素直にサンタクロースを信じて。夜遅くなっても必死に目を凝らして起きていようとするもんだから、ご両親がどうにか寝かしつけようと苦労なさって……寝てくれないと用意したプレゼントを枕元に置けないものね。いつも私と諏訪子が、ご両親に気づかれないようにこっそり早苗を説得してやってたのよ」
神奈子は微笑ましげな眼差しだった。早苗だっていつまでも小さな子供ではないだろうに、神奈子からすれば永遠の愛娘のようなものらしい。
「大事な風祝が異国の聖人を慕うのに、寛容なんですね」
「いいのよ、サンタに私たちの信仰を奪われるわけでもあるまいし。クリスマスっていうのは、家族で過ごすイベントでもあるから。外の世界の連中は恋人の祭典だと勘違いしてる輩も多いけど」
「あら、そうなんですか? 西洋の恋人たちのお祭りは二月だと聞きましたけど」
「そうなんだけど、日本人の宗教観はいい加減で無責任なのよ。あいつらときたら本当に無知で愚かで、私も外の世界でどれだけ苦労したか……」
このままでは苦労話と愚痴が延々と続いてしまうと自分でも気づいたのか、神奈子は咳払いして、
「まあ、そんなこんなで、うちにはいまもちゃんとクリスマスツリーを飾る習慣があるの」
「神社の中に置くんですか?」
「今更でしょう、日本人が宗教をごっちゃ混ぜにしたがるのなんて。神と仏を一緒に祀ると決めたときだって、人間は大喧嘩してたじゃない」
白蓮は思わず苦笑いする。おそらく物部と蘇我の争いを指しているのだろうが、あれを〝大喧嘩〟の一言で済ませていいものか。
――違うね、あんなものはブラフでしかない。茶番だよ、茶番。物部も蘇我も、私の掌の上で踊るだけなのさ。
脳裏にいつか彼女から直接聞いた言葉が蘇って、白蓮は即座に首を振った。
「まあ、別にいいと思うけどね。家族にせよ恋人にせよ、クリスマスを平和に仲良く過ごしてくれるんだったら……」
神奈子の声音が変わる。ようやく本題に入ったのだと察した白蓮は背筋を伸ばした。
「白蓮、貴方は知ってる? 山には時々、死にたがりの人間がわざと入ってくるってこと」
「……一応は」
「あれもこんな雪の日だったのよ。そう、奇しくも十二月の二十四日……クリスマスだったわ、人間の男女二人が心中したというニュースが届いたのは。あの人間たちは、クリスマスがなんのイベントなのかを知っていたのかしら」
神奈子は神妙な面持ちで、懐からやや古びた新聞を取り出した。見慣れない名前の鴉天狗が作ったらしい新聞の三面に、ピンボケた男女二人の後ろ姿を写した写真と【山奥に消えた人間の男 心中か】との見出しがあった。発行の日付は三年前の十二月二十四日である。
「あの、これだけでは、ただ人間が山に入ったとしか読めませんが」
「あのねえ、貴方が超人だからって人間も同じだと考えちゃ駄目よ。普通の人間が雪の降る山に、しかもこんな軽装で入ってきたらほぼ確実に死ぬわよ。運良く凍死しなくても妖怪に喰われてお陀仏ね」
「でも運良くどちらからも逃れた可能性も」
「ないわ。数日経ってから、比較的新しい人間の死体が雪の中に埋もれてたって報告を受けてるから」
神奈子に淡々と説明されて、白蓮もわずかな希望を捨てざるを得なかった。どうしてこの新聞記事を作った鴉天狗は人間に警告しなかったのか、なんて責めるつもりはない。元より『山にみだりに入ってはいけない』と人間たちの間で充分に警告はされているのだ。妖怪からすればいい鴨でしかなかったのだろうから。
「それにしたって、男女二人が連れ立って歩いてるからって【心中か】はないと思いますが」
「そこは私も同意。どうせゴシップを書くしか能がない三流記者なんでしょ。心中なんて、いつの時代の話をしてるんだか。こいつの無能はあとではっきり判明したわ」
「と、いいますと」
「確かに人間の死体は見つかったのよ。服装もまあ、乱れていたけどこの写真に写っているのと同じらしかった。――ただ、男と女、二人の人間が山に入ったのに、死体は女のものしか見つからなかった」
白蓮は息を呑む。ところが、神奈子は白蓮ほど深刻な顔はしていない。
「人間の死体が見つからないなんて、山では珍しいニュースじゃないのよ。というか、幻想郷全体がそうでしょう? どこかで妖怪に食べられたんだろう、で片付けられておしまい、ミステリーみたいな謎なんかどこにもない」
「そ、そうですが」
神奈子の言う通り、人里では『山に入ったっきり帰って来ない人間は、山姥に始末されたのだ』と信じられているくらいである。かくいう命蓮寺も『妖怪に遺体を荒らされたくないから』という理由で、火葬希望者が土葬希望者より圧倒的に多いのである。
では、なぜ神奈子はわざわざ山で死んだ人間の話を持ってきたのか? 神奈子は外の雪を見守りながら続けた。
「死体が見つかってからさらに数日……年が明けた頃だったかしら。誰かが『山に雪女らしき妖怪が出る』と言い出したのよ。別に雪女なんて珍しくないでしょ、と思ったんだけど、『そいつは件の心中事件で死んだ女の成れの果てじゃないか』って噂が流れて。そいつは毎年、冬になると山のある一帯に……ま、狭い範囲だけど……大雪を降らせるのよ。私の見た感じだと、雪女より念縛霊に近い気がしたけどね」
「念縛霊……」
「ええ。自分が死んだ場所から動けなくなっているみたい」
思わずその言葉に耳を留めたのは、命蓮寺のムラサが同じく念縛霊の一種だからだ。ここまできて、白蓮は神奈子がこの話を持ちかけてきたおおよその理由が見えてきたのだった。
神奈子は口元をつり上げ、不敵に笑った。
「白蓮。私とビジネスの話をしましょうか」
やはり来たか。神奈子が単なる親切心で山に居候させてくれる理由がない、タダより高い話はないと警戒していたので、あまり驚きはしなかったが。
「妖怪退治の依頼なら、私より霊夢さんの方が適任だと思いますよ」
「違う。貴方にはそいつを成仏させてほしいのよ」
「そんなこと言われましても」
白蓮はまだ素直にうなずかない。
「神奈子さんの話、少しおかしいですよ。男女二人が山に入ったのに、どうして女の死体と妖怪しか出てこないのか、とか。どうして三年も前の話をいまになって私に持ちかけてくるのか、とか」
「そうね。男は知らないけど、いま貴方に話した理由なら簡単よ。このままだと、そいつがより厄介な妖怪に化けそうだから」
神奈子はもっともらしく言うが、白蓮は納得しなかった。ならば雪女が出現した時点でさっさと手を打っておけばよかったのに――いや、神奈子はおそらく、雪女を本気で脅威だとは見做していないのだ。いまも昔も。
山に大雪を降らせるといったって、風神の神奈子なら雪雲を文字通り吹き飛ばしてしまえるに違いない。行動範囲の制限される念縛霊相手ならなおさらだ。そして厄介な妖怪に化けかかっているいまも、神奈子はその気になれば簡単に雪女を始末できるはずなのだ。男のことをすっとぼけ続けているのも不審である。
白蓮がもう少し粘って情報を引き出そうとしているのに気づいたのか、神奈子は、
「まあ、無理だというなら引き受けてくれなくても構わないのよ。それで貴方を山から追い出したりもしないし。いざとなったら私の相棒に呪殺してもらえばいいだけだからね」
笑みすら浮かべて、さらっと『蚊を潰してもらえばいいだけだからね』とでも言うような調子で言い切る神奈子に、白蓮は背筋が寒くなるのを感じた。
おそらく神奈子は本当にそれを諏訪子に頼むし、諏訪子も『仕方ないなあ』と言いながら赤子の手をひねるように雪女を殺すのだろう。
「貴方は……」
白蓮の声が上擦った。
「貴方は、もっと慈悲のあるお方だと思っていました」
「もちろん慈悲はあるわ、神様ですもの。だから私より慈悲深そうなお坊さんに相談してるんじゃない」
「脅しにしか聞こえませんよ」
「あのね白蓮。私だって罪のない人間や妖怪を好き勝手に殺していいなんて思ってないわよ。……あら、心中は仏教だと罪になるんだったかしら?」
「なるかならないかでいえば、仏教というより民間信仰ですが……」
「いえ、そうじゃなくて、むしろ雪女にとってこれは幸運なのよ。私だったら自分の脅威になりそうな輩に容赦しないけど、貴方は必ずしもそうではないでしょう。私はあの雪女に関しては、今年の冬がタイムリミットだと思っていた。私が動かなくても、他の妖怪が動くわ。そんなタイミングで白蓮、ちょうど貴方が山に入ってきた。だから私は貴方に依頼をしたの。タダで山小屋を貸したお代としてね」
どうやら、神奈子の中ではすでに白蓮が雪女の調伏に向かうのは既定路線のようである。白蓮としても、いまし方存在を知らされたばかりとはいえ、心中したはずの男は見当たらず、無慈悲な神の手に裁かれかけている哀れな雪女をどうにか救えないものか、と義心が動いているのがはっきりとわかる。もはや山に入る前に感じていた神子に関する憂鬱などどこかに吹き飛んでいた。
「わかりました。その雪女の場所を教えてください?」
「本当? ありがたいわ、貴方なら絶対に引き受けてくれると思ったのよ」
途端に邪気のない満面の笑みを見せる神奈子に現金なものを感じて、白蓮はため息をつく。完全に話のペースを神奈子に握られてしまった。
ともあれ、白蓮は山小屋を借りるお代として、雪女調伏の依頼を引き受けたのだった。
◇
人里では「もういくつ寝ると」とお正月までの日を数える歌を口ずさむ子供に混じって、「きよしこの夜」を調子はずれに歌う人間がいる。
――あの人間、この歌が讃美歌だってわかっているのかな。そもそも讃美歌がなんなのかわかっているのかな。あの歌、『神の子が母の胸に眠っている』と歌っているんだぞ。私と同じように厩で生まれたとされる神の子の伝説をな。何もわかっていないんだろうなあ。いつの世も大衆音楽とはそういうものだからなあ。ふふっ。
神子は道ゆく人々が思い思いに口ずさむ歌をひとつ残らず聴き分けては、日本の年末らしい無節操なごった煮の騒がしさにひとりでくすくす笑って、そしてまた目下自分を悩ませる出来事を思い出して、ひとりため息をつくのである。
――なんで我が師は、クリスマスとやらに目をつけたんだか。
青娥から『クリスマスに配る予定のプレゼントが盗まれた』と相談を受けたのが、つい先刻のことだった。
「貴方は、まだ懲りずに押し売りと強盗を働くつもりなのか」
「まあ、人聞きの悪い。れっきとしたボランティアですわ」
「どこがボランティアだ」
真顔で言い切る青娥に神子はため息をつく。
クリスマスとは、聖ニコラウスなる白髭の聖人がプレゼント配りをお題目に他人の家に不法侵入する行事――とは、排他的な鴉天狗の弁だが、要は西洋のめでたい年末イベントである。壁抜けの術を操る青娥は、どこでこの行事を聞きつけたのか、数年前からこの時期になると白髭と赤服をまとい、聖ニコラウスことサンタクロースの真似事をしているのだ。
「私は確かにプレゼントを置いていっています。それは確かな証言者がいますよ」
「でも金品を受け取るし、家主が不在なら代わりに金品を盗み取るじゃないか」
「そりゃあ貴方、お金なくして宗教家なんて生業が成立しますか。ボランティアは必ずしも無償奉仕を意味しないのよ?」
神子は呆れてものも言えない。百歩譲って青娥に雀の涙ほどのボランティア精神があったとしても、忍び込まれる人間からしたら単なる迷惑な訪問販売や強盗と大差ない。自分の師匠に真っ当な倫理観など今更期待していないが、宗教活動の名の元に堂々と犯罪行為をしでかされては神子は胃が痛くなる。
「今年も選りすぐりのプレゼントを用意して、ラッピングも完璧でしたのに……それを盗み出す不届き者が現れたのですよ!」
「自業自得としか言えないね」
「盗人が相手だからって盗みを肯定していい理由にはなりません」
自ら盗人だと認めた上でこの開き直りっぷりである。理にかなっているだけに、神子は反論しにくい。
「太子様、私のプレゼントを盗んだ不届き者を捕まえてくださいな」
「なんで私が。そもそも、貴方ほどの仙人が誰かにものを盗まれるなんて、迂闊ではないか?」
「まあ、太子様は加害者の責任を追及するより先に被害者を落ち度を責めるんですか? 聖人らしからぬ振る舞いですこと」
お前も加害者なんだよ、と突っ込む気にすらなれない。第一、神子にはこの邪仙の所有物を盗もうと企む蛮勇な輩がいるとも思えないのだが、かといって虚偽の窃盗被害をでっちあげるほど青娥も暇人ではない。
「お願いですよ。何年もこの活動を続けてきた成果か、中には私の訪問を楽しみにしてくれるいたいけな子供もいるのよ。せっかくのクリスマスに、サンタクロースのプレゼントが届かないなんて……その子の悲しむ顔を思うと、私、胸が潰れそうですわ」
「いたいけな子供に目を覚ましてもらういい機会だろう」
「もう、太子様ったら! 西洋のイベントだからって軽んじるものではありません。それともなんです、クリスマスを前にしてご自分の恋路の雲行きが怪しくなったからって、クリスマスを呪っていらっしゃるの? 二十四日には『クリスマス中止のお知らせ』なる怪文書が神霊廟名義であちこちのご家庭に届くのかしら」
「誰がそんなことするか!」
「嫌ねえ、クリスマスが恋人たちの祭典だなんて、浅はかな人間たちの思い込みなのに、あろうことか正真正銘の聖人たる太子様が鵜呑みにするとは」
「そんなもの知るか! 私はクリスマスなんてちっとも詳しくないんだからな!」
青娥のいつものからかいだというのに、思わず語気を荒げてしまったのは、青娥がよりにもよって〝恋路〟なんて持ち出すからだ。
別にクリスマスに恨みも呪いもないが、この頃、神子の恋路の雲行きが怪しかったのは事実である。
詳細な事情を説明すると長くなるので簡潔にまとめれば、神子には(いいな)と思う女がいた。その女も、神子に対する言葉の端々や、何気ない所作、眼差しに漂う気配から、神子を憎からず思っているのだと察せられた。
両思いならば行きつく道は一直線、まっしぐら……とはいかない。自分の思いをはっきり言葉で伝えて互いの気持ちを確認し合っていないのだから当たり前だ。
『なあ』
あるとき、神子は業を煮やしてさりげない体を装って問いかけた。
『私たちはこのままの関係でいいと、お前は思っているのか』
女は――白蓮はわずかに動揺しながら、すぐに平静を取り戻して、
『このままの関係と言いますと?』
『だから、油断ならない商売敵だとか、けれど必要とあらば手を取り合う半ば戦友のようなものだとか……それでいいのか』
『……そのどちらも、私たちの関係を言い表す言葉として、殊更不適切だとも思いませんけど』
白蓮が悩みながら出した答えはなんとも煮え切らないものだった。神子は軽い肩透かしを覚えた。
白蓮は決して鈍感ではない。神子がはっきり言葉にせずとも、神子が言いたいことは、思いは汲み取っているはずだ。なのにまだるっこしい言い逃れをするのは、彼女が僧侶という職業柄、色恋に慎重にならざるを得ないからだろう。
このまま神子が曖昧な言い方を続ければ、白蓮は神子がはっきり言わないのをこれ幸いとばかりに口実にして逃げてしまう。
『たとえそれらが相応しかったとしても、私は物足りないと思う。……白蓮が好きだから』
なので神子はきっちり逃げ道を塞ぐことにした。それは同時に神子の退路も断つことを示していたが。
白蓮は目を大きく見開いた。この期に及んで『友達として』だとか『同業者として』だとかいう逃げ道を探す気はなかったようだ。
白蓮はつとめて動揺を神子に見せまい、悟られまいと尽力しているようだった。それでもさっと頬に差した赤みを、神子は見逃しはしなかったが。
『……少し、考えさせてもらってもいいでしょうか』
『構わないよ』
などと余裕ぶって答えたが、白蓮は相当悩んでいるのか、未だにはっきりした返事をもらえず神子はやきもきしている。
神子は決して短気な性格ではなかった。むしろ待つことには慣れていて、白蓮はああ見えて自らの生業に誇りを持ち、生真面目に修行に取り組むたちだから、どうしたって心の整理には時間がかかるだろう、と一度は鷹揚に構えてみたものの。ひとりの女として、一日でも早く色良い返事がほしいという乙女心が神子にもあるのだった。
師走というタイミングも悪かったのかもしれない。青娥はクリスマスがどうのと言っていたが、仏教徒の白蓮にとっては法会や年越しの支度が何より重要だ。だから時間がかかったって致し方ない、と自分に言い聞かせながら、つい足が命蓮寺に向いてしまったとき、出迎えた一輪は『あいにくですが』と申し訳なさそうに答えた。
『聖様はお留守です。何やら山に籠って修行をするとかで……年の瀬の潔斎でしょうか?』
などと一輪もすっとぼけていたが、白蓮の山籠りの原因が自分にあることなど神子にはお見通しだ。
逃げられた、と苛立ったのはほんの一瞬のこと、即座に山へ向かおうとした神子を一輪は雲山とともに引き留めた。
『そっとしておいてあげてくださいな。すぐに戻ると聖様もおっしゃってましたし……私たちも余計な口出しをしちゃったから、聖様、一層いたたまれないんだと思います』
『そうは言っても……』
『神子様、源氏物語ってわかりますか?』
『はあ?』
さすがに唐突で意味がわからない。神子はぼんやりと外の世界では定期的に源氏がブームになるらしいこと、近年またその兆しがあるようで古文が地獄だと件のオカルト女子高生が愚痴っていたことなどを思い出して、そもそも命蓮寺の妖怪は多くが平安生まれであると思い至ったのであった。
『おおまかなあらすじくらいならわからんでもないが』
『宇治十帖まで?』
『あらすじだけなら』
『じゃあ神子様、ラストに出家した浮舟が薫の使いを拒んだ理由がわかるでしょう』
本当に終盤も終盤の話じゃないか、と思いながら、神子はおぼろげな記憶を手繰り寄せる。現代人にとっての古文も飛鳥生まれの神子にしてみれば〝新文〟とでも言うべき代物で、しかも平安貴族の書き散らす仮名文字は独特の複雑さがあってかなり読みづらい。あんな長ったらしい、それも千年前の小説らしき何かを読むくらいなら紅楼夢でも読んでおけと思ってしまう、あっちの方が道教要素あるし。
それはさておき浮舟――この女性はまず薫という男の恋人になるが、ふとしたきっかけで薫の友人・匂宮とも関係を持ってしまう。ふたりの男のどちらも選べず、進退極まった浮舟は入水自殺を試みるもかろうじて生還、死にきれなかったのならせめて出家がしたいと願い、ついに出家する。のちに浮舟の生存を知った薫が浮舟のいる宇治の山へ使いを寄越すが、浮舟は心乱れ涙に暮れながらも『人違い』だと使いを突っぱねるのであった。
『私が思うに、あれ、まず呑気に使いなんかやってないで薫本人が浮舟に会いに来いよって話なんですけど』
『かといって薫が来たところで浮舟は還俗するのか?』
『そこなんですよねー。来るのが薫だろうが匂宮だろうが、浮舟はぜったいにあそこで浮世に戻っちゃ駄目なんです。そこで物語が閉じるからいいんです』
『どうだかね』
神子は納得しかねる。最後に帰ってきた使いの報告を聞いた薫が(誰か浮舟を匿っている男がいるのか)と邪推をして宇治十帖ならびに源氏物語は幕を閉じるのだが、あのラストはあまりにすっきりしない。そもそも光る君を死なせた後も主人公を薫に据えて物語を続けるなら、薫の物語できっちり終わらせるべきである――という論争を、神子は一輪と繰り広げるつもりはなかった。
要は一輪は、
(神子様、貴方がじかに迎えに行ったって、聖様は帰ってきません。薫と同じように追い返されるのが関の山です)
と言いたいわけだ。それにしたってまだるっこしい言い方をする。
『お前たちはそろって源氏フリークか何かか』
『まあ、平安生まれはだいたい源氏が好きですよ。マミゾウさんとナズーリンがちょっと違うかな』
『あの若手の山彦は疎そうだが』
『響子はチョロいので沼に落とすのは結構楽です』
『お前は後輩をなんだと思っているんだ』
『まあ沈めるのはムラサの方が圧倒的に得意なんですけどね、舟幽霊だけに』
『同僚もなんだと思っているんだ』
うんざりしてきたが、おそらく白蓮も源氏については一輪以上に語れるはずである。
『あの物語の何がそこまでいいんだか』
『素敵じゃないですか。恋と愛の世界に迷った女が、出家をして迷いを立ち切り、男を突き放し、生まれ変わる! まさに仏教的だわ。源氏も立派な仏教文学ですよ』
『出家なんぞで救われてたまるか、あんなのを仏教的な女人救済の物語として読むくらいなら、単なるやんごとない身分の男女の惚れた腫れたの恋愛小説とでも読んだ方がマシだ』
『ははーん?』
道教を是とし仏教に救いを見出さなかった神子の正直な見解である。しかしこの発言は目の前にいるひとりの(雲山も勝手に頭数に入れられているらしいが、いいのだろうか)源氏フリークに火をつけてしまったらしい。
『なるほど、神子様、貴方ならそう言うでしょうとも。ならこの際、いっそ藤壺の出家まで遡って女人出家の是を語りましょうか』
『どこまで遡るつもりだ!』
十人の話を同時に聴けるのだから、命蓮寺の源氏フリークどもが束になってかかってきても、神子は全員捌ける自信がある。自信はあるが、十人くらいの源氏フリークの相手をいっぺんにするのは、普通に嫌だ。
『まあそれは冗談としまして』
『冗談にしては本気で議論をふっかけるつもりだったろう』
『お願いです、今日はこのままお引き取りください。山にも行かないでください。聖様がいつまでも戻らないようでしたら、私たちで連れ戻しに行きますから、ね?』
困りきった顔の一輪に嗜められ、神子はしぶしぶ引き返したのだった。
それからしばらくは、努めて白蓮のことは考えないようにしようとしていたのだが、日が経つに連れて、神子は(もしや白蓮は考えを整理しているうちに心変わりをして、それこそ浮舟のように、思いをすっぱり断ち切る気ではあるまいか)と少し不安になった。
いまどき恋愛禁止の僧侶なんて時代錯誤もいいところだが、白蓮がその点に柔軟かつ寛容な考えを示すかは、神子にもわからない。困った、と弱りきっているところに、盗まれたクリスマスプレゼントの話を持ちかけてきたのが青娥である。
「太子様、キリスト教で重要なのは隣人愛だと言いますよ。汝の隣人を愛せよ。悪くない言葉じゃありませんか。ほら、貴方のそばに困っている隣人がいますよ?」
「貴方は困っている隣人がいたらいつも迷わず助けるのか」
「時と場合によるわ」
この邪仙が最後の審判で裁かれる瞬間を拝めないのが残念である。
しかし、このまま問答を続けても、青娥が引っ込む気配はなさそうだ。神子は自分でも弁舌爽やか、口達者な自覚はあるが、残念ながらこの邪仙に口で勝てた試しは一度もない。青娥はひたすらもっともらしい理屈を並べ立てながら、神子にお願いの眼差しを投げ続けるのみである。
とうとう観念して、神子は折れた。
「盗まれたプレゼントの行方に心当たりはあるのか?」
「まあ、さすがは我らが聖徳太子様! 豊聡耳様! 心優しき皇子の鑑! 聖人とはかくあるべきだわ」
青娥が心にもない褒め言葉を真心を込めて連ねるのを無視して、神子は手短に犯人らしき人物の情報を聞いた。
「人里の男よ。それもかなりの手練ね。見張りの芳香が気づいて私を起こしてくれたときには、もう盗まれた後だったもの」
「やはりあれは番人としてなんの役にも立たんな」
「私の可愛い芳香の悪口はいくら太子様でも許しませんよ」
そうして神子は人里に赴いたわけだが、情報収集自体は簡単なものだ。日頃から布教活動のために足繁く人里に赴き講演会などのイベントを繰り返している神子である、里の人間の大半が神子を歓迎してくれる。
「何か困ったことはありませんか。ほんの些細なことでもいいのです。何でもこの豊聡耳に気軽に相談してくださいな」
神子がそう言えば人間がわっと群がって口々に相談ごとを捲し立てる。やれ飼い猫が逃げ出した、今晩のおかずの献立が決まらない、子供の成績が芳しくない、クリスマスって結局なんの行事なんだ、最近四十肩がひどくて困る、こないだ神子様が言ってた健康法はあまり効果がなかった、など、大半はたわいもない日常の相談事であるが。
神子は持ち前の能力でそのすべてを聴き分け、すべてに的確な返事をする。こうした地道な活動を続けるのもまた、のちに大きな成功を掴む秘訣なのだ。
しかし、神子が故意に「年末は何かと忙しく、人の出入りが多くなって大変でしょう。戸締りは気をつけていますか」などと話を振ってみても、泥棒被害にあったという話は出てこない。被害はないに越したことはないのだが、師匠が師匠なぶん、盗難被害のヒアリングを神子が行うとマッチポンプじみていてあまり気分が良くない。
「……もし」
そのとき、背後からかすかに囁く初老の男の声を、神子は聴き逃さなかった。
「ああ、そのままで構いやせん。あっしもこう人の多いところでは話しづらいもんでさあ。太子様、もしお時間をいただいてもよろしいなら、も少し静かなところで、あっしの話をちと聞いてくれやしませんかね」
神子は振り返らないまま「ええ、わかりました」と他の人間への返事に紛らわせて答えた。経験上、こういう人間は訳ありの曰くつきだとすぐにわかる。それでも男の低く小さな声に潜む欲望から、今回の事件について何がしかのヒントを得られると気づいて、神子はしばしののち、自然に人混みを避けて路地裏の方へ身を滑らせていった。
二、
白蓮が神奈子の話を頼りにたどり着いた場所は、深山の中でも閑散とした銀世界であり、高くそびえ立つ杉の木が雪に紛れてちらちら見える程度である。
(そういえば、信州には冬になると雪女が山姥の姿になって現れる、という伝承があるそうね)
もっともここは山姥の聖域ではないし、神奈子の念縛霊に近いという話を信じるなら、件の雪女は山姥ではないはずだが。
なお、神奈子は白蓮に雪女の出現する地域を教えたあとは、防寒具を惜しみなく貸し与えて「それじゃあよろしく」と見送ったのである。白蓮に同行するつもりははなからなかったらしい。
白蓮は乾いた雪が降り積もる地面を一歩一歩踏み進める。間違っても遭難してくたばるようなヘマはしないが、ひとりきりで歩く山道というのはどうも心細い。
(雪女になった女性は、行きは男と一緒に山を登ってきたはずだった)
白蓮が踏み進めるに連れて、雪が一層激しさを増し、猛吹雪となって白蓮に襲いかかる。間違いなく、この吹雪の中に雪女がいる。白蓮は懐の数珠を強く握った。
「――誰!」
冴え冴えとした鋭い一声が白蓮に突き刺さった。吹雪が一段と強くなって、まともに目を開けられない。
白蓮は臆せず声の主の元まで歩み寄り、まつ毛に降りかかる雪を払いのけて、雪女の姿を見た。
(――あら、綺麗な人……)
場違いにも初めに浮かんだのは呑気な感想だった。肌は雪のように青白く、身体は不健康に痩せ細り、傷跡だらけで、眼は怒りと恨みに爛々と血走っているものの、頬がもう少しふっくらとして健康的な紅潮があり、真っ青な唇に鮮やかな紅を差したのなら、絵にも描けない美しさであったろうと思わせる面影があった。吹雪に逆立つ悪鬼のような髪も、生前は豊かな緑髪だったのだろう。何より着物が、冬の雪山に似つかわしくないぼろっちい薄着ながら、生地の質感や施された刺繍の綿密さは上等で、白蓮はこの女は元は裕福な家の娘だったのかもしれないと思った。
雪女は吹雪にも怯まずやってきた白蓮を不審に思っているようだった。
「誰よ、貴方は」
「聖白蓮、命蓮寺の住職です。守矢神社の祭神・八坂神奈子さんの依頼で、貴方を成仏させにきました」
「守矢? ……ああ」
念縛霊といえどさすがに神奈子の名は知っているのか、雪女は訝しむように白蓮を見つめた。吹雪が少し落ち着いたようだった。
「あの偉そうな神様ですか。前に私のところに来たときは『早いとこあの世へ旅立ちなさい。妖怪として第二の人生を歩むというなら止めませんけど』などと言いまして、『どちらにせよ私はここから動けないんです。まずは私を解放してください』と頼んだら、『考えましょう』と答えたくせにそれきり音沙汰なしで。私は神にも見放されたのかと思っていたのに、今になってお坊さんを使いによこすとは、何を考えているのやら」
「こちらに神奈子さんがいらしたんですか」
「そうですよ。おかげで私は危うく無神論者になるところでしたわ」
刺々しい口調からして、神奈子に恨みを抱いているらしい。もっともだ。彼女も忙しいのだろうが、もう少しお膝元の民や妖怪の声を聞いたっていいだろうに。
「貴方はここから一歩も動けないのですか?」
「ええ。動き回れるのは、この大きな杉の木の周りだけ。その先へ行こうとすると、空でも地上でも、まるで金縛りにあったように動けなくなるんですよ。見えない鎖が私を縛り付けているみたい」
雪女が忌々しげに空に手を伸ばすと、また天気が荒れて吹雪になった。本当にこの雪女が吹雪を起こしている。しかし、白蓮がここまで歩いてきた山道は降雪といっても穏やかなもので、彼女の吹雪は局地的にしか起こせないらしい。
「ああ、嫌。どんなに恨んでも怒っても、この憎しみは尽きることがないのに、どうして私が怒るたびにいちいち雪が吹き荒れるのよ」
「それは、貴方が雪女になってしまったからでしょう」
「雪女。……そうですね、死んだ人間が雪女になるなんて話は聞いたことありませんでしたけど、雪山で死ぬとそうなるのでしょうか。それとも私の名前がいけないのかしら。私が降らせる雪は〝小雪〟なんて、可愛らしいものではないけれど」
「貴方は小雪さんというの?」
白蓮は思わず聞き返した。元は人間なら名前があって当然なのだが、神奈子が雪女としか言わないから白蓮も忘れかけていたのだ。
「ええ、そうです。……懐かしいわ。私の名前を呼んでくれる人なんて、もういないと思っていたのに」
雪女、小雪は寂しげな微笑を浮かべた。怒りが鎮まって穏やかな表情をすると、いかにもたおやかな年頃の乙女といった風情で、とても神奈子が命すら狙っている危険な妖怪とも見えないのだった。
「それで、貴方は本当に私を成仏させるつもりでいらしたの?」
「はい。元を糺せば神奈子さんの依頼ですが、貴方がここに留まるのを嫌だとおっしゃるなら、私はぜひその手助けをしたいと思います」
白蓮は本心から言った。白蓮には小雪が危険か否かなどあまり問題にならない。ただ、自らの望みとは裏腹に寂しい雪原にひとりで拘束されて嘆いている小雪を見ていると、昔のムラサを思い出して、どうしても放って置けないと心が揺さぶられたのだった。
「ふ、ふ、ふ……」
小雪は小さく笑いを漏らした。白蓮を嘲る響きがあった。
「噂だけは聞いたことがありますわ、聖白蓮さん、高名な尼さんだとか。いままでどのような調伏を成功させてきたか知りませんが、本当に貴方に私を成仏する力があるのかしら。貴方は私の恨みの深さを、私がどのような最期を迎えたかを、知らないでしょう?」
「男の人と二人で山に入って、山の妖怪たちは心中だと思っているようですが、男の死体が見つからなかったとか……」
「見つかるはずがないわ!」
突如、小雪は甲高く叫んだ。
「だってあの人は、あの男は、ここで私と死んで来世で一緒になろうと誓いながら、私を裏切ったのよ!」
叫ぶと同時に吹雪が吹き荒れ、小雪は雪の中に突っ伏してさめざめと泣き出した。
白蓮はすぐには返事ができなかった。男の消息を「もしや」と疑ってはいたものの、目の前で泣き咽ぶ女を揺さぶって詳細を聞き出すのは憚られた。
やがて、小雪は涙を拭って、真っ赤な目で白蓮を見上げた。
「やっぱり何もご存知ないのね……いいわ。お坊様。もし貴方の、私に向けるお慈悲がいっときの気まぐれでないのなら、哀れな女の話を聞いてくださいな。私とあの男に何があったのかを」
小雪は切々と語り始めた。
◇
――私の父は厳格な人でした。
いえ、殴ったり怒鳴ったりはしませんの。それなりに愛情はあったと思いますし、家は裕福で、衣食住といった生活の基礎には何ひとつ困ることがありませんでした。ただ、ものの考え方が古風な上に頑固なたちで、「男女七歳にして席を同じゅうせず」だの「嫁入り前の娘が軽々しく男と口を聞くんじゃない」だの、いったいいつの時代の話をしているのかと首を傾げたくなる話を口うるさく繰り返すのです。母は気の弱い人で、父の教育方針に口出しできないのでした。
幼いときから、子供心にも父をおかしな人だと思っていましたが、かといって反抗するなんて考えは一切なく、粛々と父に従っていました。私は厳格な父ともの静かな母の元で大事に育てられて、いずれ両親の決めたしかるべき人の嫁になるのだと思っていました。あの人に出会うまでは……。
それは秋の日のことでした。まだ残暑が続くかと思っていたのに、急に朝晩がめっきり冷え込むようになって、私は寒さでいつもよりずいぶん早く目が覚めたのです。家の女中たちもまだ寝ているようだったので、私が自ら火を起こそうと、離れから薪を取ってきて、水を汲みに井戸まで行って……そこに、見知らぬ男の人がうずくまっていたのです。
とてもびっくりしました。人間って、あんまり驚くと声も出ないんですね。金縛りにあったみたいに身体も動かなくて、そしたら男の人が私に気づいて、「水をくれ」と言ったのです。声をかけられてようやく我に返りましたが、今度は見知らぬ男が家の敷地にいる実感が湧いてきて、怖くて身体が震えてきたのです。
でも、その人、よく見ると怪我をしてずいぶん弱っているようなのです。自分で井戸水を汲み上げることもできないくらい。それに気づいた私はどうしたことでしょう、大急ぎで自分の部屋まで戻って、両親が眠っているのをいいことにそちらも漁って、手当てに必要な道具をぜんぶ揃えて男の人のところまで戻ってきたのです。身体が勝手に動いたとしか言いようがありません。後になってから「見知らぬ男の人を介抱したなんて知られたら、父がどんなに怒るだろう」と恐ろしくなったのでした。
その人に話を聞きますと、危険な生業のために怪我を負ったとだけ言って、あとは詳しいことは何も教えてくれませんでした。私がいつ家の者が目を覚ますかと焦りながらどうにか手当てを終えると、その人は『ありがとう』と残して、どこかへ去って行きました。怪我をした野良猫のようにふらっと立ち寄って、ふらっと消えた人でした。
その人の姿が見えなくなってからも、私はずっとどきどきしていました。寒くて目を覚ましたことなんかすっかり忘れていました。だって、私、父以外の男の人とまともに口をきくなんて、生まれて初めてだったかもしれませんから。その人はたぶん二十五、六ほどでしたか、当時の私はまだ十六の小娘でしたから、ずいぶん大人の男性に見えたのを覚えています。私は人知れずずっと「あの人はいったいどこのどなただったのかしら」と気になりながら、やはり父の目を恐れて、訪ね当てることもできないのでした。それに、もう会うこともないのだろうと半ば諦めてもいましたし……。
ところが何日か後になって、その人がまたうちに現れたのです。秋本番になったと思いきやまた夏のような暑さが戻ってきて、私がひとりで庭に出て風に当たっていた夜に。その人は初めて会ったときに比べるとずいぶん綺麗な格好をしていて、何やら手に包みを下げていたのでした。
『こないだのお礼に参りました』
――私は魔法にかけられたみたいに、その人の手を取って、誰にも内緒で私の部屋に引き入れました。
お坊様、私を愚かだと思いますか? 思い返して、私も愚かだと呆れます。けれど恋という魔法にのぼせた若い娘なんて、そんなものだとも思いませんか。
あの人は優しい人でした。厳格な父が不器用に与える愛とは異なる、生身の男性の温もりと優しさを初めて知った気がしました。私がまともに男性とお付き合いしたことがないのを、とんでもない箱入り娘だと呆れるかと思いきや「ご両親に大事にされているのだね」と微笑み、「もし私が嫁にくださいと頼んでも、お父様は承知してくださらないだろうね」とおっしゃって。ああ、本当に結婚を申し込んでくれたのなら、私は父母への恩を振り捨てて、身ひとつであの人の胸に飛び込んだでしょう。
それから私たちは人目を忍んで、こっそり逢引きというものをするようになりました。とはいえ、私ひとりで男の人の訪れを家の者全員から隠すのは不可能でしたから、私にとって気心の知れた、信頼のおける女中二人を言いくるめて、恥ずかしながら金品も握らせて、いわば買収して共犯者にしたのです。
あの人は自分の多くを私に教えてはくれませんでした。住んでいる場所も、仕事のことも、自分の名前すらも。危険な生業だから、下手に話して私を厄介ごとに巻き込みたくないと言うのです。愚かにも私はそれを愛情の証と自惚れて、鵜呑みにしました。
家族に秘密を抱えてまで、あの人と交わす逢瀬はほんの僅かだけ。それでも私は幸福でした。あの人のことなどほとんど知らない、この恋は誰にも知られてはいけない、誰にも祝福されない、もし知られたら父がどんなに咎めるか恐ろしい、それにあの人は、〝本当に〟私のことを心から愛してくれているのだろうか? 私だけを……私の心にはいつも不安が絶えず影のように付き纏っていたのに、それすらも恋を燃え上がらせる燃料としかならないのでした。
ですが、そんな幸福も長くは続かなかったのです。
日に日に寒さが厳しくなる冬のある日でした。あの人は血相を変えて私の元にやってきました。曰く、仕事で大きな過ちを犯し、仲間の信頼を失い、もはや人里に自分の居場所はないと絶望した面持ちで告白するのです。
そのときの私の衝撃は言葉では言い尽くせないものでした。だって、この幻想郷には人里のほかに、人間の住む場所がどれだけあるというのです? あの人が里を去ってしまったら、私はもう二度とあの人に会えなくなる。
悲しみのあまりほろほろと涙を流す私を見て、あの人はこう言いました。「これもまた神の思し召しというものだろう。私たちはこの世では結ばれない運命だったのだ。……私はもう死のうと思う。この世で思い通りになることは何ひとつなく、貴方とも別れてしまうなら、いっそ潔く死にたい」
「ひとりで死ぬなんておっしゃらないで」私は思わず涙ながらに取りすがりました。「貴方が死出の道に赴く覚悟なら、どうか私も連れていって」
あの人は驚いて、早まってはいけないとあれこれ私を説得しようとしましたが、私の心はもう決まっていました。だってあのときの私は、若い身空で死に向かう恐怖よりも、不謹慎ながら、これでやっとあの人を私だけのものにできるという喜びに震えていたのですから。
私の決意が翻らないのを知って、とうとうあの人も折れました。そして約束したのです。「次に雪が降ったら、その日に二人で山の奥に入って、来世で一緒になろう」と。
私は密かに身の回りの整理をして、二人の女中にも別れを告げ、来たる雪の日の心中の支度を整えました。そして約束の日――師走の二十四日に、朝から雪が降り続けて、昼には大雪になって、この日だと思った私が密かに家を出て山の入り口まで向かうと、あの人もまた死に支度を終えて私を待っていたのでした。
二人で雪の山道を登る道すがら、私は恋にのぼせて寒さを感じていませんでした。だってこんなの、まるで物語にのみ聞く、男女の愛の心中ではないですか。
この世の名残り、夜も名残り、死にに行く身をたとふれば、あだしが原の道の霜、一足づつに消えて行く、夢の夢こそ哀れなれ……近松の有名な人形浄瑠璃を、私はこの目で見たことはありませんが、家の書斎で読んだことはありました。あの美しいしらべが心に焼き付いて離れず、私は自分がお初、あの人が徳兵衛になったような気持ちで、二人で深雪の道を歩いて行きました。
山奥の、決して人間が入ってこれない場所に辿り着いて、大きな杉の木の元に私たちふたりは腰を下ろしました。お初と徳兵衛のように、互いの身体を木に縛りつけようとしたのです。
けれどあの人、かじかんで手元が狂うのか、なかなか私を縛れなくて……もしや私を殺すのを躊躇っているのかと思って、お初のごとく「早く」と急かした、そのときでした。
あの人は急に縄を捨てて、氷のように冷たい手で私の首を掴み、恐ろしい力で締めてきたのです。驚きはしましたが、まだ私はあの人がすぐに後を追うものと信じていました。
ところがあの人、手が震えて私をうまく絞め殺せなくて、私も苦しくなって激しくえづきました。次の瞬間、あの人は懐に携帯していた小刀を取り出して、私を滅多刺しにしたのです。
そのときになって私もおかしいと思ったのです。殺すのならひと思いに首か胸を突いてくれればいいのに、あの人は気が狂ったみたいに、急所の見当もつけずにただ闇雲に小刀を振りかざすばかりで……私は長く苦しみました。かろうじて「やめて」と言ったはずなのに、あの人は聞いてくれませんでした。
しばらくして、私がもはや助かるまいという状態になって、身じろぎすらできないでいるのを見ると――あの人は、虫の息の私を雪の中に置き去りにして、どこかへ逃げていったのです。私のことなど振り返りもせず。
ああ、短い人生とはいえ、あのとき以上に私が絶望したことなどあったでしょうか! 私はあの人と一緒に死ぬはずだったのに、来世で結ばれるはずだったのに、あの人は土壇場で自分が死ぬのが怖くなって、私だけを殺して逃げ出した! 私を裏切った! 私は絶望の中で、ひとりで息絶えるのを待つことしかできませんでした。肌に触れる雪の冷たさが、そのままあの人の冷たさのようでした。
それでも、せめて死んですぐにあの世に行けたら、地獄でもいいからこの世を去れたらよかったのに、私の未練があまりに強すぎたためなのか、気がついたら私は霊体となって、雪に中途半端に埋もれた自分の死体を見つめていたのでした。
私はすぐにあの人の行方を追おうと思った。けれど私はこの杉の周りから動くことができなかった。私の魂は縛られてしまったのです。
もしかしたら、あの人が心を改めて、戻ってきてくれるかもしれない――そんな甘い希望は血のにおいを嗅ぎつけた妖怪たちによって無惨にも打ち砕かれました。
お坊様、貴方にわかりますか。私の死体が、妖怪たちに貪り食われるのを止めることもできず、ただ見つめることしかできない絶望が、恐怖が、悔しさが。
あの人への愛は憎しみに変わり、負の感情が強い怨念となって、私を念縛霊へと変えて、成仏も叶わず、いまなお私をこの地に縛り付けているのです。私の怨念が昂るたびに大雪が降るのは、私が死んだあの雪の日を思い出させるためでしょうか。それでいまの私は雪女と呼ばれているのですね。
お坊様、お願いです。私を少しでも哀れだと思ってくださるのなら、あの人を……いえ、あの男を私のところへ連れてきてください。
いいえ、ご心配には及びませんわ。お坊様の手を汚させるような真似はいたしません。私が自ら、この手であの男を殺します。私が味わったものと同じ絶望を味わわせて、同じ雪の中に無惨な死体を埋めてやります。
お願いです、お坊様。私を哀れと思し召しなら、どうか、どうか……私は、あの男の亡骸を、私が死んだこの場所に埋めない限り、心の穴も埋まらないのです。未練が晴れないのです。私の心はいつも冷たい大雪で荒れています。
お坊様、どうか、あの男を、あの人を、私のもとに……。
◇
(どうしましょう……)
小雪の話を聞き終えた白蓮は、小雪のいる杉の木の元を離れて、ひとり宛てもなく山の中を彷徨い歩いていた。
小雪の告白は、白蓮の同情を誘うには充分すぎるほどで、なんとしても力になりたいと思わせた一方で、長年数多の人間や妖怪の悩みを聞き続けてきた白蓮は、小雪の話にところどころ滲む不自然さにも気づいていた。
小雪は嘘をついている、とまでは断定しない。ただ、彼女の主観的な真実を語っているだけで、おそらく事実とは食い違う部分や、彼女が憎しみにかられて大袈裟な口ぶりになったところや、自分にとって話しづらい箇所をわざとぼかしたり黙秘していた部分もあるだろう。
いや、小雪の話がすべて真実かなどは問題ではなくて、彼女が未練を晴らすべく『逃げたあの男を殺したいから連れて来てくれ』と白蓮に懇願したことの方が遥かに問題である。
僧侶として、殺人幇助などできるはずがない。いくら自分を裏切り殺した相手とはいえ、小雪が誰かを殺すところなど見たくない。けれど彼女の憎悪は深く、それ以上に自分が死んだ場所から動けないまま三年もひとりきりで過ごした彼女の嘆きを思うと、白蓮はせめて逃げた男の行方について、何か手がかりは見つからないかとしらみつぶしにだだっ広い山の中を探し歩くしかないのだった。
(考えるのよ、考えるのよ、白蓮。ムラサのときをよく思い出しなさい)
ひとりで雪山を歩き続ける傍らで、白蓮はひたすら小雪のことを考え続けている。
死んだ場所から動けない、未練のために成仏もできない念縛霊という点で、小雪はムラサに似ていた。かつてのムラサも深い憎悪を胸に宿し、海上を通りかかる舟を次々に沈めて多くの罪なき人間を海の藻屑にしていた。
けれどムラサは、本当は人殺しを望んでいたのではない。ムラサはただ、唐突に訪れた自らの死を受け入れられず、悲しみと憎しみのあまり、舟を転覆させて自分と同じ溺死の苦しみを味わわせることで憂さ晴らしとしていたのだ。
白蓮はムラサの調伏を持ちかけられたとき、時間をかけて彼女を海に縛り付けるものの正体は何かと考えた。その結果、彼女は自分を溺れさせた舟を探し続けているのではないかと見当をつけ、ムラサにその舟とそっくりに誂えた新たな舟を与えてやった。結果、ムラサは晴れて海の呪縛から解き放たれた。
小雪の縛られた地からは離れたはずなのに、雪がいっそう強くなった。白蓮はほとんど寒さを感じないが、並の人間にはひとたまりもないだろう。
(ムラサもこんな冷たい海の底にいた。小雪さんもきっと、愛する人の温もりを失って、冷たい雪の中で苦しんでいるのね。何とかして彼女を解放しなければ……あそこは開けた地のわりには、周りの峰々の木が陰になってろくに日が差し込まないんだもの。彼女を日の当たる場所へ連れ出せたら――)
そのとき、白蓮の脳裏によぎったのは、長い冬の雪を溶かす麗らかな春の陽光ではなく、周囲の目を余さず奪わずにはいられない、眩い日輪そのものの輝きを持ったひとりの聖人だった。
(いやね、私ったら。あの人とのいざこざで山に籠ったのに、こんなときにあの人がそばにいて、知恵を貸してくれたら、一緒にこの問題を解決してくれたら、なんて、都合よく願っている)
日が傾いたせいか、山は一段と暗くなり、寒さも増してゆく。白蓮は自分から遠ざけたはずのただひとりの温もりを恋しく思った。
◇
神子が路地裏に身を潜めてほどなくして、ひとりの男がやってきた。歳は四十を過ぎたであろう中年男、背丈は低く、神子と並んでも大した差がない。服装こそ里の人間に混じっても浮かない格好をしているものの、身体のあちこちに古傷の跡が目立ち、片目は潰れかけているが若い頃は『苦み走った良い男』と評される風体でもあったと思う。こいつが先ほど神子にひそひそと声をかけてきた男に違いないだろう。
「ここでよかったでしょうか。耳を澄ませてみましたが、どこぞに身を隠して聞き耳を立てる不届き者もいないようだし、最適だと思ったのですが」
「ええ、充分でさあ。改めて、あっしの頼みを聞いてくだすってありがとうごぜえやす」
「お礼を言うには早いわ。まだ貴方の話は何も聞いていないも同然なのですから」
「しかし、名高き太子さんには、あっしの言いたいことなどとうにお見通しなんでしょう?」
男は豪快に笑うが、神子が感じ取ったのは、この男が青娥のプレゼントを盗んだ犯人について、何がしかの鍵を握っているということと、この男のおおよその素性についてだけだ。
「貴方は……」
「ああ、堅苦しい言葉遣いはなしにしてくだせえ。公人として品行方正な態度を貫くのはご立派だが、密談ってえのはもっと気楽に、身分も忘れて肩の力を抜いてやるもんでさあ」
「……なら敬語はやめさせてもらう」
男の独特かつ軽妙な口調に促され、神子も公に出るときの顔は一旦捨てることにした。
「単刀直入に言うが、お前はカタギの人間じゃないな。かといってヤクザ者のように血で血を洗う争いに身を投じる風でもない。極悪非道の人間の生臭い欲望のにおいもしない。しかし清廉潔白な人間の清らかな欲望もあまり感じない。――お前、盗人だろう」
「ご明察でさあ」
男はにやっと笑った。
「太子さん。あんた、里にしょっちゅう来なさるが、人間の里をどんな場所と見ていらっしゃる?」
「どうと言われてもな」
神子の記憶に新しいのは年末の忙しさに奔走する、あるいは無邪気にはしゃぐ大人や子供の数々。商人はここが掻き入れどきと腕まくりし、子供は覚えたての『クリスマス』という単語を連呼して親にプレゼントをねだり、貧しい家の者も手製のしめ縄飾りを玄関に飾って新年を待ち侘びているようである。見るからにありふれた平穏な日本の年末風景である。
「小さな困りごとや諍いの相談は受けるが、ここの人間たちはどいつもこいつも呑気で、大きな争いを起こそうという気概はない。争ってほしくなどないし、平和でいいことだ」
「そうでしょうとも。里の外には人間を狙う危険な妖怪どもが跋扈しているっちゅうに、人間同士でわざと対立を起こす馬鹿がいるもんか。あんたの言う通り、表向きはみんな平和に身の丈のあった暮らしをしている。と、いっても」
男は口元を歪めた。
「いくら天の神様が人の上に人を作らんでも、馬鹿な人間は勝手にどちらが強いのどちらが偉いのと格差をつけたがるもんでしてねえ。人里にも富める者と貧しい者、健やかなる者と病める者がいます。それはおわかりですな」
「もちろん」
いまは大結界に閉ざされている幻想郷も、元は外の世界の一角を隔離して作られたものだ。様々な身分の人間が住んでいるのはおかしなことではない。
「人間は生まれる場所を、生んでくれる親を選べない。不平等なものでさあ。富める者がぶくぶく財を肥え太らせる傍らで、貧しい者がくる日もくる日も湯ばかりの薄い粥に甘んじているなんて、納得できねえ」
「だから鼠小僧のごとく富める者から盗みを働いていると。いっぱしの義賊気取りか? 大した正義漢だな」
「なあに、どんな大義名分があろうと盗みは盗み、あっしがお天道様に顔向けできる人間じゃねえってことぐらいわかってまさあ」
あっはっは、豪快に笑う男を前に、さて、どうしたものかと神子は考える。
男は盗人だと白状した。が、神子に対する少しも後ろめたさを滲ませない大胆不敵な態度からして、こいつは〝青娥のプレゼントを盗んだ犯人ではない〟とわかりきっていた。
ならさっさとこいつが握っているであろう真犯人の情報を吐き出せと掴みかかってもいいのだが、大人しく男の話に耳を傾けているのにも理由がある。
こいつは明確に権威や権力を嫌い、かといってそれらを打破する腹積りはなく、ただ、それこそ身の丈にあったささやかな抵抗で、世の中や自分の暮らしへの不満を訴えているのだ。それがどんなに歪な主張であろうと、かつて為政者だった神子は、民の声を黙殺するわけにはいかない。
「しかし、お天道様の子孫のあんたはこうして取るに足らぬあっしの声に耳を傾けてくださる。ずいぶんお優しいこって」
「我が道教の一門に賛同してくれそうな者を取りこぼしたくないものでね」
「あいにく、あっしはどこの宗教も拝みやせんよ。神仏に救われる身の上だと思ってないんでね」
「やれやれ、いままでどれだけの悪事を働いてきたのだ。お前の罪次第では、義賊を騙り強奪の限りを尽くした大悪党として、私がこの場で斬り捨ててやっても構わんのだが」
無論、霊夢や魔理沙のようなのはともかく、何の力もない人間に襲いかかる主義は神子になく、本気で殺すつもりなど微塵もない。ただ、無意識に剣の鞘に手が触れたのを男は見逃さず、
「おっ、本気であっしを斬りやすか。そいつが噂に聞く七星剣ですか、見事な拵えで。あっしは何人目の鉄錆になりやすか?」
「覚えてないね」
「そいつはいけねえな、あんたのような他者を蹴落としてまで天辺にのし上がった奴は、どんなちっぽけな、道端に転がる石っころのようなつまらない人間だってひとりも忘れちゃいけねえんだ」
「お前の名は私の心の中に未来永劫刻んでやるよ。もっとも、私はまだお前の名前を知らないが」
「あっはっは、これじゃどっちが悪党だかわかりゃしねえ。斬りたきゃどうぞ斬りなせえ。なあに、人間、ジタバタしたってどうせいつかは死ぬんでさあ、十五で初めて盗みに手を染めて以来、自分はいつ死んでもおかしくない身と思い定めて参りやした。あっしにゃ絆(ほだし)となる女房もガキもいねえ、仲間は数日ばかり悲しんだのちにまた日常に帰るだろう、死ぬのはちっとも怖かねえ、あの世で待ち受ける閻魔さんの裁きだって怖かねえ!」
「威勢がよくてよろしいが、本当に死んでも未練はないと言い切れるのか? 人間は生きてこそ意味があるというのに」
「そうですねえ、強いて言うならこんな誰もいない路地裏で朽ち果てるのでなく、正式にお縄について市中引き回しの末に見せしめの斬首、というのはちと古臭いが、ま、できればド派手に天下の大悪党だと喧伝してもらいたいもんでさあ」
されば同時に貧民の窮状も知れ渡ろう、という魂胆か。神子は眉間に皺を寄せる。ある種の人間は不思議なことに死をまったく恐れない。むしろ死んで花実は咲くのだと言わんばかりに荘厳さを湛えて死地へ赴き、燃え尽きそうな灯火の炎が最期にひときわ明るく燃えるように、凄まじい生命力の足掻きを見せつける。そういう人間は往々にして時の為政者を苦しませるものだ。
「馬鹿を言うな、カッコつけ野郎。何が死ぬのは怖くないだ。不死身の蓬莱人でも人間を超越した魔法使いでもない、ただの吹けば飛ぶ中年男のくせに。もっと生への欲望を見せろ、人間なら人間らしく生きたいと言え、罪の意識があるなら一生抱えて生きて贖え」
「おや、さっき斬り捨てて構わんと啖呵を切ったお方と同じとは到底思えねえお言葉で」
「私は死にたがりの心情なんて理解したくないものでね」
神子はそっけなく言い捨てる。
神子はいままでに一度も死にたいと願ったことがない。飛鳥の世に生まれ、人間の定命に疑問を持ち、若き日より絶えず政への野心を燃やし、大王の座への見果てぬ夢が破れたことでいっそう道教にのめり込み、永遠の命を希求し、ついには長き眠りの果てに現代に生まれ変わった。
生き物は〝生きたい〟と願うのが当然じゃないのか。そこに疑いを挟む余地などないはずである。
「あんたは誤解なすってる。あっしは人間すべからく潔く死すべしだなんて思っちゃいねえ。ただ、世の中には困窮した人間が、将来になにひとつ希望の持てない人間がいることを知ってもらいたいだけなんでさあ」
「……それが、お前が私を呼び止めた理由か」
「いいや、まだありやす。あんたにとっちゃこっちが本題だってのに、つい長話をしちまった」
男は人目を憚るように辺りを注意深く見渡してから、ぼそっと告げた。
「あんた、何か盗まれたな」
「私ではない。盗まれたのは私の知り合いだ。高級な簪だとか言っていたが、盗んだのはお前じゃないんだろう」
「確かに、あっしが簪なんて手にした覚えはありやせんし、あんたの知り合いがどこにお住まいかなんて知る由もねえ。ただ、近頃、上質な反物だの口紅だの髪飾りだの、いかにも女の喜びそうなものばかり盗んでいく男の話なら知ってますぜ。どこぞの女に惚れ込んで、贈り物を貢いで気を引こうって魂胆でしょう」
神子は(ようやくここまで辿り着いたか)と思いながら、男の話に耳を傾けた。女物を盗むからって、すぐに恋路と結びつけるのはいかがなものかと思うが、それは男の勘というやつなのだろう。
「盗人に等級なんざつけたかねえが、決して弱きから盗みは働くまいと決め込んでいるあっしからすれば、そいつは自分より弱い奴から強奪を繰り返してゆく下衆の極みでさあ」
男の口ぶりは次第に苦々しくなってゆく。神子は〝弱い奴〟と聞いて訝しんだ。青娥はどう見たってか弱い女じゃない……と言いたかったが、あの邪仙は必要とあらばいくらでも弱々しく庇護欲を駆り立てられるような無力な女を演じられる。その盗人は何らかの理由で青娥の住まいに侵入する方法を見つけ、高級な簪を奪っていったのだろうか。
「そいつはどこにいる」
男は神子の元に近寄り耳打ちした。見下している盗人といっても一応は同業者、情報を漏らしたと知られれば、この男はいずれ報復に合うかもしれない。人間相手とはいえ、事と次第によっては盗人を捕まえるのに手荒な手段を使わなければならないかもしれない、神子は腹を括った。
「どこの女かは知っているか?」
「どうにもはっきりしやせん。あやつが意図的に情報を掻き乱しているのか、曖昧な憶測しか流れてこないもんで。あっしが一度真偽を確かめようとしたら邪魔されて、まあえらい目に合いやしたよ。あやつは恋の奴隷だ。盲目だ。盗まれた品を取り返して、身勝手な恋に溺れた馬鹿な男の目を覚ましてやってくだせえ」
男は半ば憐れみのようなものすら滲ませてそう言った。
――恋、か。
盗品を貢いだところで、いや、高価な品を贈り続けたところで、女が振り向いてくれるものか。モノで女の心を買おうとしているなら馬鹿の極みとしか言いようがないし、青娥の盗人はこの男の言う通り、愚か者のようだ。
確かに恋は人を愚かにさせる。現に、いまの神子だって……青娥の件で忘れかけていたはずのもうひとつの気がかりが蘇ったせいなのか、神子はそのまま男の元を立ち去ろうとして、つい尋ねてしまった。
「お前、妻子はいないといったが、本当にずっと独り身なのか? 私はお前のような男はいけすかないが、中にはお前が盗人でもついて行きたい、生涯を共にしたいと言ってくれる女がいたんじゃないか? あるいは、お前自身がどこぞの女を見初めて……」
神子の不躾な質問に、男は笑った。歳よりも老け込んだ目に、一瞬、少年のような輝きが宿ったのを神子は見逃さなかった。
「いやしたよ。若い頃に、あっしが生涯でただひとり、心底惚れぬいた女が。女の方も、ひょっとしたらあっしを憎からず思ってくれていたかもしれやせん。けど、あっしはその頃にはもう盗みを働く毎日だった。あの娘を盗人の嫁なんぞにさせられねえ、あっしは身を引きやしたよ。風の噂じゃ、そのあとに娘は平凡だが誠実な男と結婚して、子沢山のおっ母さんになって、いまも幸福に暮らしているとか……」
男はいままでで一番、穏やかで優しい顔をしていた。たとえ自分と結ばれずとも、惚れた女が幸せなら自分も幸せ、とでもいうのか。
(そんなもんだろうか)
神子にはいまひとつ納得がいかなかったが、束の間、懐かしい思い出に浸っている男の心象を荒らすのも憚られた。
「ところでお前、聞きそびれていたが、名前は?」
今度こそこれが最後の質問だと思って尋ねると、男は首を振って、
「名乗るほどの者じゃございやせん」
「馬鹿を言え、名前を聞かなきゃ後日お前に礼をできないだろ」
「いけねえや。あんたは支配欲の権化みたいなお方だが、希望ある未来を志そうという信念がある。あんた、人間たちがこぞって厭世観に取り憑かれたときも、希望を集めて回っていやしたね」
神子は虚を突かれた。臆さず〝支配欲の権化〟と言い切ったのにも驚かされたが、この男は日陰に身を潜めて暮らす中で、いままでの神子の活動をしかと見届けていたというのか。
「あっしは大昔の権力者なんぞに媚びるのはまっぴらだが、あんたの実力と実績は認めてるんでさあ。盗人に関わったと知られちゃ、せっかく積み上げてきた名声に傷がつきますぜ」
「いいから教えろ。偽名でも構わないから」
神子は半ば意地になって食い下がった。彼が盗みを働かずとも貧困に喘ぐ人間を助けられるよう、衣服や食糧品をふんだんに届けてやるつもりだった。これしきのことで評判が落ちるなどと気にしていられるものか、貧しき者病める者がいると知っておきながら見て見ぬふりを貫く方が、為政者としてよっぽど恥である。――神子のモットーはいつだって〝人の為に動く〟なのだ。
男は神子の剣幕に押されて、肩をすくめると、
「では、〝五右衛門〟とでも呼んでくだせえ」
よりにもよってその名前を名乗るか――神子はぷっと吹き出してしまった。自らを日陰者だと自認しながら、やはりこの男は、根っからの悪党になりきれないのだ。
神子は五右衛門に必ず礼をすると約束して別れた。ひとりで路地裏の奥へ進む間、脳裏をよぎるのは五右衛門が語った生涯一度の恋の話だった。
あの男は、惚れた女を自らの手で幸せにしたいとは思わなかったのだろうか。足を洗って女のために真っ当な生き方をしようとは思わなかったのだろうか。
否。犯した罪は決して消えないとわかっているからこそ、男は真の幸せを願って突き放したのだ。女が別の男と結ばれたと聞いても、嫉妬も恨みもせず……。
「とんだカッコつけだな」
神子は容赦なく一蹴する。自分なら、惚れた相手がどこの誰とも知れぬ余所者に攫われるのを『幸あれ』なんて気持ちで見送れやしない。神子だったら……。
(ああ、駄目だ)
想像するだけで、途端にどす黒い感情に心が塗りつぶされそうになって、神子は頭を振った。自分が欲深いのなんて今更だが、それでもこの感情は彼女にぶつけては駄目だ。五右衛門のように潔く身を引くなんてできやしないが、神子だって、愛した相手には幸せであってほしいと思っている。
◇
神子は五右衛門に教えられた盗人の隠れ家を一直線に目指す。商店や長家の立ち並ぶ賑やかな大通りから外れるにつれて、貧相な身なりの者が――師走の空の下だというのに、地面に後座を敷き烏天狗の古新聞を身体に巻きつけて寒さを凌ぐ者、着古した薄い着物で声を枯らしてうろうろ歩き続ける棒手振り、疲れ切った顔で泣き続ける赤ん坊を必死にあやす痩せぎすの母親。人里にも宿を持たず、通りの隅で路上生活を送る者が散見されたが、それは貧困層のほんの一部でしかなかった。
(赤貧洗うが如しか)
五右衛門が神子を批判的に見ているのも無理はない。結局、お前は自分を慕ってくれる都合のいい支持者しか目に入っていないじゃないかと言われても、文句は言えないだろう。
とはいえ、いまは自省は後にして青娥の頼み事を片付けなければならない。浮浪者たちの溜まり場に、男の隠れ家があるという。充分に気をつけろと五右衛門は忠告したが、いかな荒くれ者であろうとただの人間にやられる神子ではない。
寒さを凌ぐため、余りの材木を集めてどうにか小屋の形にしたのうな、犬小屋にも劣る住まい。その中で、薄い藁の上に寝そべる痩せた男がいるようである。
「誰だ」
気配に気づいたのか、男はすぐさま懐刀を手に取り警戒心露わに小屋の外を睨む。しかしそこにいるのが神子だと気づいた途端、男はぽかんと間抜けな顔をして、
「なんだ、あんた、よく里で講演会やらをやってる聖人様か。なんでこんな掃き溜めみたいな場所に?」
「私の知り合いの依頼でね、高価な簪を盗まれて困っていると騒いでいる。私の持てる限りの力で手掛かりを手繰りよせたらここまでたどり着いたわけだが、お前、何か知っていることはないか」
「簪ぃ?」
神子が五右衛門のことは伏せて遠回しに尋ねると、男はしばし、シラを通してやり過ごそうか、どうせ何もかも見透かされるのだから洗いざらいぶちまけようか、悩むそぶりを見せたのちに、ニヤニヤと口元を歪めた。
「ああ、そうさ。門番のキョンシーを掻い潜って麗しの仙女から簪を盗み出したのはおれさ。本当なら羽衣を盗んでやりたかったがね」
「残念だな、あいつは羽衣を奪われたからって地上に縛り付けられるタマじゃないんだ」
「そうかい、そういやあの仙女ってあんたのお仲間だったか。つくづくおれには女運がねえや」
男は完全に開き直って笑うばかりである。神子に対して少しも詫びるそぶりを見せない。神子は改めて芳香の警備がザルすぎる、青娥がわざと芳香をそうしているのか、と疑問に思った。
「で、あんた自らおれをしょっぴきに来たのか」
「盗んだものを大人しく返してくれるんだったら、お前の生活事情次第では、情緒酌量の余地ありと見做してやってもいい」
男の笑みはますます歪んだ。
「返すのは無理だ」
「何?」
「おいおいすっとぼけなさんな、どうせあんた、もう全部知ってるんだろう。誰がチクったんだか知らないが、おれがあの女に入れ込んでるのは盗人仲間の間じゃ周知の事実よ」
神子は五右衛門が『あの男は恋に狂って盗品を貢いでいる』と言ったのを思い出す。とっくに青娥の簪はその女に渡してしまったのだろう。
「お前ね、盗んだものを渡されて喜ぶ女がいるか。それともそいつはお前と同じ盗人か?」
「アホウめ、盗人の妻が必ずしも盗人なわけないだろ」
妻? 神子は首をかしげる。どう見たってこのおんぼろ住まいは男ひとりしかいないように見えるし、通い妻だというなら五右衛門の話が嘘になるが、五右衛門は神子に嘘を伝えた風ではなかった。
「まさか、お前が勝手に結婚したと思い込んで……」
「そこまでおれは落ちぶれちゃいねえよ。後家だ、後家。あの女は、俺の仲間だった男の未亡人なのよ」
男はけっ、と吐き捨て、べらべらと女の素性を話し始めた。
「男女の縁を結ぶのは出雲の神様だったか、如来様だったか? どっちにせよ妙ちきりんな縁組をするもんだ。あんな外面がいいだけの悪行三昧の男に、しっかりした姉さん女房ができるとはね」
「手の施しようのない悪タレを善良な女とくっつけるのは雨月物語の頃からある話だ」
「いや、そいつらは親の決めた結婚なんかじゃなかったさ。何やら幼い頃から馴染みがあったとかで、女はあの男を懸命に世話していた。糟糠の妻ってやつか。ああ、でもきちんと籍を入れたわけじゃないらしいから、正しくは内縁の妻だな。まあ、色々苦労はしていたようだが、傍目にはうまくやっているように見えた。あの男がよそに女を作るまではな」
にわかに醜聞めいた話になってきた。男は回想に耽りながら、ほうとため息をつく。
「あの男、盗みの帰りに、どこぞの深窓のお嬢さんを見初めちまったのさ。もちろん女房には内緒で、こっそり逢引きしているらしかった。おれは気になって一度跡をつけたことがあったんだが……いやあ、まるで歌麿の浮世絵から抜け出したような別嬪さんだった。歳は十五、六か、浮世のしがらみを何も知らなそうな初心なところがまた男心をそそったんだろうな。言っちゃあ悪いが、あの男の女房はお世辞にも美人とはいえねえ、はっきり言ってブスだったからな、若い美女に心が移るのも仕方ねえや」
神子はニヤケ面の男の頭を笏で思い切りぶん殴りそうになって、かろうじて踏みとどまった。自分だって十人並み以下の容姿のくせして、よくも自分勝手に他人の容姿をジャッジする権利があると思い込んでいるものだ。
「女の方は、男の浮気に気づいていたのか」
「さあね。ただ、仮にも女房のいる盗人の男が、深窓のお嬢さんと結ばれるなんて世間が許さねえだろう。女は気づいてたとしても、いっときのはしかみたいなもん、いずれは自分のところに戻ってくるって思ってたんじゃねえかな。ところが、あの男ときたら外道だからな。結局は若いお嬢さんの方を選んじまったんだ」
男は急に真面目な顔つきになって、神子の顔をじっと見てつぶやいた。
「ちょうど、三年前の雪の降る夜だった。あの男は、自分の女房を真冬の冷たい川に突き落とした」
神子は息を呑む。真冬の川に落とすなど、れっきとした殺人行為だ。若い女に心移りしたからって、元の妻を殺すことはないだろうに。
「その後、男は行方を眩まし、時を同じくしてある良家のお嬢さんも行方不明になったと騒ぎになった。まあ、つまりそういうことだ。それきりなんの噂も聞かないから、おれはどっかでくたばったと思うがね。女の方は、運良く気づいた人間がいたおかげで、溺死も凍死もせずに助かった。だけど……可哀想になあ、女が身籠っていた子供は、あれが原因で流れちまった」
「子供がいたのか!?」
さすがに神子も驚いて声が高くなった。話の流れからしてろくでもない外道の極みなのだろうとは想像がついたが、自らの子にまで手をかけるなど……。
衝撃が落ち着いてくると、神子はさも女に深く同情しているそぶりのニヤケ面の男も胡散臭く見えてくる。ここまでその夫婦の事情に詳しいとなると、単なる盗人仲間ではなくよほど親しい友人だったのだろう。下衆の極みと五右衛門も言った通り、目の前にいるのもまたろくでなしだ。
「可哀想になあ、夫は自分を捨てて若い女と逃げ、生まれてくるはずだった我が子は抱けずじまいで、自分ひとりだけ生き残っちまった。一命は取り留めたものの、半分は狂人みたくなってるよ。他に頼れるやつもいなくて、可哀想で、つい様子を見に行っちまうんだ」
「それで貢ぎ物攻撃か。さっきはブスだと躊躇いもなく言い切ったくせに」
「それは、まあ、言葉の綾ってやつですよ。可愛くないと思っていた女も、不幸のどん底に落ちてやつれた顔をしているのを見ていると、何とか力になりたいって思うのが人情ってやつでしょう」
「ふん」
神子は鼻で笑う。人情といえば聞こえはいいが、こいつが持っているのは下心だけだ。あわよくば亡き友の未亡人をモノにできないかと舌なめずりし、憐憫をそそられる女に一方的に尽くす自分に酔っているだけだ。遮断したくたってできない下衆な欲望が、神子にははっきり聴こえている。
「その女はどこにいる?」
「簪を取り返しに行くのか。あんまりあの女に近づかない方がいいと思うがね。来る者全員を半狂乱になって追い返しにかかるから」
「お前ね、そんな精神状態の女を医者に診せもせず、ただ盗品ばかり押しつけているのか」
「里の医者は全員匙を投げちまったよ。噂に名高い蓬莱のお医者様ならなんとかできるかもしれないが、残念ながらおれはあの竹林を抜けられそうにないんでね」
神子はうんざりした。結局、この男も女に執心していると言いながら、口先ばかりで、本気で親身になって女を助ける気はないのだ。
「なら私が診てやるよ。医学の心得はないが、健康長寿を是とする道教の仙人だからね」
神子が男を脅しつけるように尋問すると、男はあっさり女の住処を教えた。
三、
(ああ、どうしましょう)
白蓮は当て所なく雪山を歩いている。小雪を殺して逃げた男を探すといったって、真冬の妖怪の雪山だ、白蓮にはその男がいまも生きているとは到底思えないのだ。
(どこかでのたれ死んだか、妖怪に襲われたか……運良く山を降りられたんだとしても、別人に扮して、小雪さんのことなど何もなかったかのように振る舞っているかもしれない)
第一、白蓮の元には手掛かりが少なすぎる。山の中を歩き回るといっても、最初に山に入った際、神奈子に『みだりに妖怪のテリトリーに近づくな』と釘を刺されて行動範囲を制限されているのだ。我が物顔で山の上に鎮座しているような神奈子だって、他の妖怪たちからすれば新参と大差ない。
できるだけ不要な揉め事は起こさず、平穏に過ごしたい。その思いは白蓮も同じなので、あらかじめ立ち入るなと言われた区域には近寄らないようにしているのだが、そんな有り様でどうやって消えた男の消息がつかめよう。
(これじゃ妖怪から聞き込みもできないじゃない。素直に教えてくれるかは別として。さっきたまたますれ違った白狼天狗には、見事に無視されてしまったし)
八方塞がりの白蓮は、やはり神奈子の元へ一旦戻ろうかと考えた。神奈子は初めから事件の詳細を把握している風だったし、消えた男について何も知らないということはないと思うのだ。
疲れはさほど感じないが、辺り一面の銀世界もいい加減見飽きてきた。ここらで引き返そう、と踵を返したところで――。
「そこにいるのは誰だ?」
背後から何者かに呼び止められた、と思ったら、刃物が飛んできた。さっと身を翻してかわしたが、白蓮の左頬をわずかに掠ったようだった。
(いけない、うっかり妖怪のテリトリーに入り込んだか?)
白蓮は巻物に手をかけつつ、攻撃してきた妖怪の正体を注意深く観察する。
――冬になると雪女が山姥の姿になって現れる。いや、ここは信州ではないけれど。
雪の中に紛れてしまいそうな、風にたなびく白銀の髪。装束もまた白銀で統一されていたが、その独特な意匠はどこかで見た覚えがある、と思考を巡らせて、稗田家の編纂する幻想郷縁起だったと気づいた。
「貴方、もしかして山姥ですか?」
「ああ、ここはうちのなわばりだべ。お前は見たところ人間ではないようだが、越冬の保存食にされたくなかったらとっとと帰ってくんろ」
山姥は見るからに苛立って、隙あらばもう一度刃物を、大きな包丁を投げつけてくるつもりであろう。
山姥は山の妖怪の中でもとりわけ単独行動を好み、滅多に他者と交流を持たないという。それでもやっと見つけた話せる妖怪だったので、白蓮は山姥の怒りを買うのを覚悟で食い下がった。
「勝手に貴方の聖域に侵入して申し訳ありません。どうしてもこの山の中で見つけたいものがあるのです」
「なんだ、密猟者か?」
「違います、人を探しているんです。人間の男を」
「はあ? こんな冬の雪山に人間が来るもんか。最後にうちが人間を捌いたのだって、もういつのことだったか……うん?」
怪訝そうな顔をしていた山姥だったが、ふと目を瞬いて、
「いや、つい最近、やっぱりお前みたく侵入してきた人間の男がいたべな」
「本当に?」
白蓮は「やっと見つけたか」と思いつつ、早合点しないように、逸る気持ちを抑えて問いかけた。
「それはいつのことです。どれくらいの年齢の、どんな格好の男でしたか」
「そんな細かいとこまで覚えてないが、ひい、ふう、みい……あ、ちょうど三年前の冬だったべ」
三年、という単位を白蓮はしかと聞いた。人間からすれば最近という感覚ではないが、滅多にテリトリーの外に出ない妖怪にとっては最近の出来事に入るのだろう。
それはちょうど、小雪が男と共に心中に来た年であり、小雪が殺された年でもある。その男が小雪の心中相手である可能性は高い。
しかし――山姥は、さきほど人間を〝捌いた〟と言わなかったか?
「あの、その侵入してきた人間は……」
「いつもだったら適当に脅して帰してやるんだけどなあ。そいつ、血まみれの小刀を持って、うちを見るなり大声を上げやがった。うちの警告もまったく聞かず、小刀を振り回して襲いかかってくるもんだから、うちも頭に来てこの包丁の餌食にしてやったんだべ」
「……そのあとの、死体は?」
「残るわけないべ。三枚下ろしにして食ってやったんだから」
白蓮は黙り込んだ。逃げた男が生きている可能性は低いと思っていたが、よりにもよって山姥の聖域に侵入し、本人は正当防衛のつもりだったのだろうが無謀にも襲いかかり、食い殺されてしまっていたとは。それが心中するはずだった女を殺してひとりで逃げた男への報いか。
では、小雪の〝男の死体を自分のそばに埋めたい〟という願いは、叶わぬものではないか。
「なんだ? 今更返せと言われても無理だべ。警告はしてやったんだからな」
「ええ、襲いかかってきた侵入者へ反撃した貴方に非があるとは言いません。ただ……そうですね、変なことを聞くようですが、その男を殺してから、男の霊が身の回りに現れるといった経験はありませんか」
「何言ってんだべ。うちが人間を捌くたびにそいつが幽霊になってたんじゃ、うちの聖域はいまごろ大量の幽霊で溢れかえってるべな」
心底不思議そうに返す山姥を見て、白蓮は〝男もまた霊体でこの世に留まっているかもしれない〟という最後の望みすら捨てざるを得なかった。
「それで? あんたはまだうちに聞きたいことがあるのけ?」
「……いいえ。充分です。どうもありがとうございました」
「ああ、気をつけて帰れよ」
山姥に見送られて、白蓮はとぼとぼ雪道を歩いた。
男は山姥に喰われて死んだ。死体もなければ霊になってもいない。その事実で小雪は納得してくれるだろうか。かえってやりきれない思いが増し、未練を強化させ、成仏を困難にするだけではないだろうか。
(それでも、やっと男の行方がはっきりしたのだから……小雪さんに伝えないと)
白蓮の足取りは重い。白蓮がひとりで背負うには、この問題はあまりに重い。どうしてひとりで山に入ってしまったんだか、せめて誰かが一緒にいてくれれば相談もできたのに、弟子たちの誰かか、それとも……。
(ああもう、未練がましいことを)
自ら遠ざけた相手をなぜ求めてしまうのか、白蓮は雪道を転がるように、小雪の待つ大杉の木の元へ走った。
「まあ、お坊様。あまりに遅いから、てっきり私を置いて山を降りてしまったのかと思っていましたよ」
小雪は白蓮をにこやかに迎えながら、当て擦るように言う。男に裏切られたせいか、疑り深くなっているようだ。
「貴方をひとりで置いてけぼりになんてしませんよ。……ただ、小雪さんにとってあまり良くない知らせを知ったもので、どうしようかと悩んでいたのです」
「そうなんですか?」
小首をかしげる小雪に向かって、白蓮は腹を括って一息に告げた。
「小雪さん。貴方を殺した男はもう死んでいます」
「……死んだ? あの人が?」
「はい。山姥の聖域に立ち入って、山姥に骨まで食い尽くされました。魂すらもうこの世にはいないようです」
「……あの人が、いない」
「ですから、申し上げにくいんですが、貴方の望みを叶えることは不可能です」
「……そう」
白蓮は小雪が怒り狂って猛吹雪を起こすのを覚悟していたが、意外にも小雪はもの静かだった。やがて、ふ、ふ、ふ、と彼女の癖なのであろう忍び笑いが聞こえた。
「私、本当は心のどこかで、そうなんじゃないかって思っていたんです」
小雪は口元を袖口で覆ったまま続けた。
「あんな薄着で、後戻りできないように死ぬための道具以外は何も持たずに来たんですもの。生き延びられるはずがなかったんだわ。でも、私はこの通り、ここから動けない身ですから。あの人の死を確かめる術がなくて……空を飛ぶ妖怪の噂で聞いたような気もするけど、はっきりしたことは何もわからないままでしたから、どうしても諦めきれなかったの。そう。なら、あの人は真っ直ぐに地獄へ堕ちたのね」
「小雪さん、貴方ももう、あの世へ行きましょう」
白蓮は懸命に言い募った。
「仇を討てないのはさぞ無念と思われますが、貴方の恨む相手はもうここにはいないのです。私は僧侶ですから……少しでも来世の罪が軽くなるよう善処しますから、どうか思い切って未練を断ち切って――」
「ごめんなさいね、お坊様。まだるっこしい頼みをしないで、最初から正直にお願いすればよかったんだわ」
「……小雪さん?」
小雪の様子に違和感を覚えて、白蓮は背筋が寒くなる。小雪は成仏を望んでいるのではない。そもそも、このまま小雪を行かせてしまっていいものか。白蓮はまだ、彼女の〝嘘〟を確かめないままではないか。
動揺する白蓮の前で、小雪はあくまで静かに笑っている。
「小雪さん。いまなら、貴方はすべてを正直に私に打ち明けてくれますか。貴方の身の上話を聞いて、少し引っ掛かりを覚えたのです」
「そうですか。感情が昂って、あまり冷静にお話しできませんでしたものね」
「貴方はまず、厳格なお父様のお話から始めました。貴方は実の父に逆らえず、父の怒りが恐ろしくて、男との恋を〝許されないこと〟だといつも怯えている風でした。でも……」
「なあに、親子の関係を疑っているんですの?」
「いいえ。きっと、貴方の父は本当に厳しくて昔気質な人なのでしょう。貴方がいつも父の顔色を伺っていたのも、嘘ではないのでしょうね。ですが……小雪さん。貴方が怯えていたのは、本当にお父様だけだったのでしょうか?」
白蓮は小雪の話を思い起こす。
『あの人は自分の多くを私に教えてはくれませんでした』
『この恋は誰にも知られてはいけない、誰にも祝福されない』
『あの人は、〝本当に〟私のことを心から愛してくれているのだろうか? 私だけを……私の心にはいつも不安が絶えず影のように付き纏っていた』
『これでやっとあの人を私だけのものにできる』
長年、人間や妖怪の悩みを聞いてきただけあって、相談事を打ち明ける者が、語りたくないことをどのように伏せるか、あるいは偽るか、その癖を白蓮は熟知している。小雪は事実を少し膨らませながら、真相を隠すタイプだった。
心臓が嫌な音を立てるのを抑えきれない白蓮に対し、小雪の口角はゆっくり上がってゆく。
「小雪さん、誰なんです、私に本当に連れてきてほしかった相手は――」
「……そうよ。あの人には私の他に〝女〟がいるって、私、本当は気づいていたの」
雪がまた一段と激しくなった。
「私、ずっと怖かったの。不倫の恋をしてしまったからではないわ。父が怖かったのも本当だけど、あの人が私を捨てて、他に付き合っていた女の元に行ってしまうんじゃないか、それがずっと怖かったの。だから私と心中しようと言ってくれたときは、あの女より私を選んでくれるんだって嬉しかったのに! ええ、そうよ! あの人は私に甘い言葉を囁く傍らで、ずっとあの女のことを考えていたんだわ! あの人は私を殺した後、あの女のところへ帰ろうとしていたのよ!」
猛吹雪の中で「小雪さん!」と白蓮は叫んだが、吹雪の轟音にかき消されたようだった。
「お坊様、私の復讐する相手はもういないなんて嘘よ!」
「小雪さん、心を鎮めて!」
白蓮は小雪にしがみついて取り縋ったが、小雪は天を仰いで笑っている。
どうしてこんなことになってしまったのだ、男の死がはっきりして、復讐は已む無く中断、それで終われなかったのか。小雪の負った傷と恨みはそれだけ深いというのか。
「お坊様、あの女を私のところへ連れてきて」
「できません! しっかりして、貴方の恨みの矛先は間違っている! 貴方が死んだのは男のせいであって、その女性は関係ないはずだわ!」
「本当に? 愛した男の、他の女を恨むのが間違っていると、本当に思うの?」
小雪はふっと目を細めた。白蓮を憐むような眼差しであった。
「お坊様。貴方に事情を話したのは、貴方が風神の使いで来たからではないわ。まして高徳のお坊様だからでもないわ。女の勘というやつかしら。私ね、貴方を一目見たときに、貴方が心の同類だってわかったのよ」
白蓮の青ざめた頬に、小雪の白く冷たい指先が添えられる。
白蓮が山に入ったのは、神子との一件で懊悩していたから。その神子には、神子には……。
「お坊様。貴方も嫉妬を抱えているんでしょう?」
――ああ、どうして私たちは、恋の淵に身を投げてしまったのかしら……。
◇
人里からだいぶ外れた奥まった場所に、その女の住まいはあった。女の名前は透子だと、ニヤケ面の男から聞いている。
神子が声をかけようとするなり、中から何かを投げつけられた。
「またあんたなの!? いい加減、私のことはほっといてよ! 帰れ、帰れったら!」
女は金切り声を上げながら次々にものを投げてくる。神子は投げられるものをかわしながら、その中できらりと金色に光るものが飛んできたのを見逃さなかった。
それを掴んで確かめると、漆黒の艶やかな簪であった。螺鈿の絵は細かく描き込まれ、高級な金粉がふんだんにあしらわれ、投げられた衝撃で歯の一部が欠けているものの、見るからに上等な品物である。これが青娥の盗まれた簪だ。おそらく誰かに贈るためでなく、金持ちに高値で売りつけるために誂えたものだろう。
目当ての品物を取り戻したからって、神子は帰りはしない。例のニヤケ面の男だと勘違いして興奮している女を刺激しないように注意を払いながら、神子は陽の光がよく入るように入り口を広く開けて自分の姿を見せた。
「人違いですよ。貴方が透子さんですね」
神子は平然と言ったが、内心では部屋の荒れように閉口していた。男が贈りつけたであろうさまざまな品物が床に散らばっており、ろくに掃除もしていないのか、古新聞と生ゴミが散らかって部屋全体が悪臭に満ち、中にいる女――透子も、着古した古着に伸び切ったざんばら髪とひどい有様であった。
「誰、あんた、誰よ」
「豊聡耳神子、またの名を聖徳太子。貴方、私の道場に来ませんか」
気づいたら神子はそう口走っていた。あまりに透子が気の毒で不健康な有様なので、仙界で養生させようかと思ったのだ。しかし透子の警戒心を逆撫でしたらしく、
「私をここから追い出すっていうの!」
「違います、失礼ながら貴方はずいぶん痩せて、冬なのにろくな着物もない。このままでは貴方の健康に……」
「いやよ! 私がいなくなったら、あの子はひとりぼっちになってしまうじゃないの、あの子は、あの子は……ああ!」
透子は髪を振り乱し、顔を覆って泣き出した。このままでは埒が開かないと判断した神子は、さっと透子の元へ忍び寄り、首の後ろを叩いた。
「少しお寝みなさい」
前のめりに倒れた身体を受け止めて、神子はため息をついた。本当に薄っぺらい、裏地すらない着物一枚しか着ていない。男が贈ったものの中には綿入りの暖かそうな着物もあるのに、意地でもあのニヤケ面の情けに縋るまいという覚悟は立派だが、このままでは本当に死んでもおかしくない。
透子の握りしめられた手のひらから、小さな赤い巾着が転がり落ちた。これも男から押し付けられたものかと思いきや、中を開いて、神子は顔を歪めた。
背守が縫い付けられた手製の小さな白い衣は、赤子の産着になるはずだったものだろう。部屋には仏壇も位牌もなく、せめてこの産着を形見として肌身離さず持つしかできなかったのだ。
(どうしたものか……)
一瞬、白蓮に水子の供養を頼もうかと考えたが、彼女がかつて水子供養を拒否していたのを思い出した。
『外の世界の僧侶たちは何を考えているのでしょう。水子を供養しなければ親や先祖に祟りをなす? 愚かなことを。貴方だって、水子供養なんて古い仏教経典の中に見出した覚えはないでしょう。地蔵の和讃も平安の頃に聞いた覚えはありません。あんなの、最近になって僧侶や他の宗教家がお金儲けのためにでっちあげた変な儀式です。赤子を亡くした、あるいは堕さざるを得なかった親や女への脅しですよ、脅し。そんなものに加担したくありません』
――いや、そもそも白蓮はいま、寺にいないじゃないか。
こういうとき、咄嗟に彼女を思い出して頼りたくなってしまう自分が情けない。かといって、このまま赤子を亡くした女を道場に連れ帰るには、厄介な邪仙の存在を思い出して、神子はまたため息をつくのだった。
しばらくして透子は目を覚ました。さすがに神子に会った当初の興奮はいくばくか落ち着いているようだった。改めて顔を見たが、確かに美人の鑑とは言い難いし、彼女の人生を襲った悲劇のためにやつれているものの、あのニヤケ男が言うほど不器量にも見えない。
「勝手に上がり込んだ挙句、手荒な真似をして申し訳ありません」
「いえ、あの……ごめんなさい。私ったら、ずいぶん失礼なことを」
「驚かせた私が悪いのです」
「……貴方は、神子さん、だったかしら。救世観音の生まれ変わりだと里の人々は噂しています」
神子は(おや)と訝しんだものの、素知らぬ顔で話を続けた。
「そんな伝説もありましたね。後世の人間の作り物かもしれませんが」
「……あの子が貴方を連れてきてくれたのかしら」
また涙のにじむ透子を見て、神子は肩をすくめる。救世観音は民衆に人気の菩薩だ。彼女が望むならもう少しそのふりを続けてやってもいいかと思っていると、
「神子さん、貴方がいらした理由を伺ってもいいかしら」
「貴方を助けるため……と言えたらよかったのですがね。私の知り合いが盗みに遭いまして、取るに足らぬ簪なのですが、それが何やら巡り巡って貴方のところにあるらしいと噂に聞いたので、失礼ながら伺った次第です」
「そんなにお気を遣わなくとも。あの男が盗んだのですね?」
穏やかに微笑する透子を見て、神子の疑念はますます深まる。狂人が束の間、正気を取り戻したというには、透子の口ぶりや姿勢や挙措はしっかりしているし、神子についてもいろいろ知っているようだ。
神子に頭を下げる所作も自然だった。
「あの男が迷惑をかけて申し訳ありません」
「いえ、貴方が謝る必要はありません。恋に盲目な男が悪いのです。お気の毒に、貴方に相手にされないがために、あの男は貴方を狂人に仕立ててしまった」
「あら、あいつはそう言ってました?」
透子はからりと笑った。やはりその顔に狂気はどこにもない。
おかしいとは思っていたのだ。狂ったようだと聞いていた割には、透子にはまともな人間なら必ず備えている十の欲が――死への欲望が大きく、だいぶ偏りが見られたものの、生への希求も含めて、すべてちゃんと揃っていた。「もうお気づきですね」と透子は続けた。
「私は狂ってなどいませんよ。もっとも、狂人は自分が『狂人だ』なんて認めないでしょうけど。あの男があんまりにもしつこくて、疎ましくて、私のために盗みを働くのも情けなくて、いっそ夫と我が子を失った絶望のあまり、気が狂れてしまった――ということにしてしまえば、あの男も気味悪がって逃げるかと思っていましたの。あまり効果はなかったようですがね。あの男、他にも貴方に余計なことを色々と吹き込んだのでしょうね」
透子の言葉は澱みない。思えば透子は不健康な状態だったが、三年もの間、狂気に冒され続けた人間というには、透子に病の影がほとんど見当たらなかったのである。かといって、決して夫と子を失った傷が浅かったのではない。
透子は悲しみに満ちた目で、真っ赤な巾着を撫でた。
「私は、本当にあの子のところへ行ってしまおうかと思うことがあります」
「それは……」
「あの男から逃げたいから、だけではありませんよ。ただ、もう私は疲れて生きている意味がわからなくなりそうなのです。この三年、何度も死んでしまおうと思ったのに、結局今日まで生きてしまいました」
「そのまま生き続けて、死にたいなどという望みは捨ててしまった方がよろしいかと」
神子は声を硬くして言う。道士として、目の前で人間をみすみす死なせてたまるものか。透子はうっすら笑った。
「我が子を流産して、夫には若い女と逃げられ、挙句薄気味悪い男に執着されて、こうも疲れ果てた女によくも『生きろ』とお説教ができますね」
「お説教くさくて結構。私はどんな事情があろうと、人間は健康な身体で長生きするべきだと考えているものでしてね」
「それで『道場に来ませんか』なんて言ったんですか? あのときの貴方ときたら……おかしな宗教勧誘にしか見えませんでしたよ」
神子は思わず口籠る。この女、人生に疲れきってやつれているわりには、したたかである。これ以上、誰かに身勝手に振り回されるのは嫌だという強い意志がある。
「あの男、私のことをどのくらい話しました」
「まあ……貴方の言うとおり、夫と子を失って半狂乱になっている女だと」
「そう。我が子への哀愁ばかりに囚われて、私を殺しかけて逃げた夫や、夫を奪った女への恨みなど、ころっと忘れていると思い込んでいるのね」
透子の顔に翳りが浮かんで、神子は嫌な予感がした。
死に惹かれる彼女にも生への欲望はある。深い恨みと憎しみに裏打ちされた生への執着が。
「透子さん、貴方、『このまま生きるべきか否か、それが問題だ』なんて言わないでくださいよ」
「ああ、ハムレットも復讐心を隠して狂人のふりをしていたのでしたっけ。私も同じですよ。復讐のために生きるか、諦めて死ぬか。――神子さん、貴方、私に生きてほしいのですよね?」
――自分の命を質に脅す奴がいるか!
人間、生を謳歌すべしの精神を捻じ曲げて自分の発言を反故になどできないし、復讐などやめておけと言って透子が大人しく聞くとも思えない。
「透子さん。まさか二人の行方を追うつもりですか。どこへ消えたかもわからないのに」
「知っていますよ。あのしつこい男の目を掻い潜って、あちこち情報を集めてましたから。お相手の女の家の周りまで行って、ようやくそれらしき話が入ってきましたよ。女中が口を割ってくれました。夫は私を殺した後、女と連れ立って、山に心中に行ったとか」
神子は(あの間抜けなニヤケ面め)と舌打ちしたくなった。透子に執着しているわりには、透子の行動を見逃しすぎだ。
嘲笑を浮かべる透子の手は、自ずと自らの頬に向かう。
「その女、若くてたいそうな美人だったとか。男って、長年連れ添った糟糠の妻を簡単に捨てて若い女に走ってしまえるのね。そりゃあ私は美しくないし、もう三十一の年増ですけど」
「そう卑下するものではありません。……その男と、そんなに長い付き合いだったのですか」
「無理に慰めたり、話を変えたりする必要はありませんよ。まあ、連れ添った時間が長かったぶん、恨みが余計に深くなってしまったのかもしれません。夫と出会ったのは寺子屋でしたから」
神子は目を瞬く。なら幼馴染かと思いきや、透子は首を横に振る。
「夫は……辰夫というのですが、羽振のいい商人の跡取り息子で、親の威光を笠に着て、子分たちを引き連れて暴れ回る、寺子屋では評判の悪ガキでした。大人しい子供だった私はいつも彼を遠巻きに見つめているだけで、話したことなどほとんどありませんでしたよ。それが初恋かと聞かれれば、たぶんそうかもしれませんが」
「失礼ですが、そんな男に目をつけた貴方は趣味が悪い」
「ええ本当に。けれどあの年頃の女の子って、文武両道の優等生より、少し悪いくらいの男の子の方が気になってしまう。そんなものだと思いませんか」
「さあ、少女時代の私は政への野心に燃えていたので、年頃の娘らしいことなんてさっぱり」
神子がそっけなく言うと、透子はまた笑った。
「寺子屋を卒業した後は、しばらく彼に会いませんでした。彼は実家を継ぐために扱かれていたのでしょうし、私は私で、家で独学で勉強を続けて……当時は先生になりたいと思っていたものですから。ところが、彼の実家が何がしかのトラブルが原因で潰れたと聞いた一年後、私が十八の年に、ばったり彼と再会したんです。ずいぶんやつれていました。私がどう声をかけたものか迷っていると、彼の方から「久しぶり」と言って、私の名前を呼びました。まさか彼が私を覚えているとは思っていなかった。……そのまま、成り行きで一緒になってしまいました」
「情に流されたのですか? 初恋が再燃して? まさか富裕層から転落した男が、悪タレを卒業して別人のように生まれ変わっていたとでも?」
「いいえ、彼は実家の再興も新たな職を探すこともままならず、ご存じの通り、盗みに手を染め出しました。私は内職で少ないながらも稼いで家計を支えた」
「そんな男と一緒になるなんて、普通の親は反対しますよ」
「ええ、反対されたまま私が家を飛び出したものだから、勘当されてしまいました」
「愚かな」
神子は聞いているうちに苛立ってきた。自分の生きたい人生を捨ててまで、将来性のない、悪党に身を落とした男と添い遂げる道を選ぶなんて馬鹿げている。そこまで辰夫とかいう男が魅力的だったのか? それとも、恋は盲目の言葉通り、恋のあやにくな魔法が透子を変えてしまったのか?
「確かに私は愚かでした。実家の店が潰れてから彼の父は酒に溺れて、母は出て行って。父を恨み母を恋う彼の愚痴を聞いていたら、私がこの人のそばにいてあげなくては、そんな気持ちになってしまったんです」
そんなの、典型的な駄目男に嵌ってしまう駄目女の常套句じゃないか。
「痴れ者だ、本来の貴方はそこまで愚かではなかったはずなのに」
「ええ。あの人と一緒になって、私は何度も『本当にこれでいいのか』と自問自答し続けていました。彼は正式に祝言を挙げたり籍を入れようと言ってくれなかった。そのうち盗人から足を洗うと思ったのに、ちっとも治らなかった。それでも、いつかは彼も変わるんじゃないか……そんな希望を捨てられなくて、ずるずると居続けてしまった。さすがによそに女を作ったと聞いたときは、もう別れてやろうと本気で思いましたが、そのときには私のお腹に彼の子がいた。私はいつも決断が遅すぎるんです。このまま別れて、ひとりで子供を育てていけるのか、この子には父親が必要なんじゃないか、かといって、不実な彼が父親になった途端、生まれ変わるとはさずかに私も期待できない……いっそ実家に頭を下げて勘当を解いてもらおうか。迷っているうちに、私は彼に、あの人に、真冬の川に突き落とされてしまった」
語り終えた透子は自嘲の笑みと、亡き我が子への憐憫と、自分を欺いた男女への恨みの混ざった、複雑な表情をしていた。
「貴方は辛抱や忍耐を美徳と捉えるタイプですかね」
「かつての私はそうでした。でも、もうたくさん。ぐずぐず迷って躊躇っているから、他人にいいように利用されてしまう。私が死ぬ前に、せめてあの二人の亡霊でも拝んでやらないと気が済まない」
「……貴方、まさか」
神子は冷たい汗が吹き出す。透子の夫と浮気相手の女は山に入って心中したという。ただの人間が真冬の雪山から無事に帰れはしまい。寒さか妖怪の襲撃で死ぬに違いない。
今更、危険を冒して透子が単身雪山に入って、何になるというのだ?
「おやめなさい。貴方、復讐に生きると言いながら、結局死ぬ気でしょう」
「二人が生き延びているなんて思っていませんけど、ならばせめて、私の人生をめちゃくちゃにした二人の亡霊にでも一矢報いなければ、死んでも死にきれない」
「二人がそこに留まっている確証などない。心中した男女は、来世で結ばれるとか……」
「そんなの迷信でしょう。まっとうな宗教家の言うこととは思えませんね」
「ならせめて、雪が溶けた後に」
「もう耐えるのは嫌だと行ったでしょう。貴方が来るのがもう少し早かったらよかったのね。止めるのなら私は死にます。死んであの子に会いに行きます」
「賽の河原に大人の霊はいない! 貴方が死んだって、我が子に再会できるはずがないんだ!」
「――あら、太子様ったら何をおっしゃるの。死んだ子供に会いたいなら、私が会わせてあげるけど?」
そのとき、透子の部屋の壁に突然穴が空いて、神子がよく知る邪仙が顔を出した。
「青娥!? 貴方まで何をしに来たんだ!」
動転に継ぐ動転で珍しく焦っている神子に対し、透子は侵入者にちっとも狼狽えず、
「仙人が来たと思ったら、お次は死神のお迎えかしら」
「いやね、私は鎌なんか持ってないわよ。青娥娘々、いみじくもこのお方の師匠ですわ」
青娥はにっこり笑って神子の肩に手を添える。睨みつける神子に眉を下げて、
「貴方の帰りが遅いから、何を手こずっているのかと思えば、慈善事業の最中だったのね。私のプレゼントはどうなったの?」
「ちゃんと取り戻したよ、少し欠けているが私の責任ではないね」
神子は煩わしげに件の簪を青娥に投げた。青娥は隅々まで確認して、
「ああ、これなら直せるわ。跡も目立たなくして、充分に高く売り付けられる。どうもありがとう、やはり太子様は頼れるお方ですわ」
「詐欺の片棒を担がされたと思うとあまり気分は良くないがね」
「あら、それこそ今更」
青娥はけらけら笑って、改めて透子に向き直った。
「さて、貴方、亡くなった人に会いたいと願っているのね」
「本当に、今日は胡散臭い宗教家が立て続けに来る日なのね。壺か、水か、絵画か、私には何を売りつけるつもりかしら」
「私を外の世界の悪徳宗教家と同じにしてもらっては困りますわ。貴方、楊貴妃や李夫人の話をご存知かしら」
「……どちらも亡くなって、悲しんだ男が道士に『亡き人に逢わせてくれ』と頼んだのでしたっけ」
「そう。あいにく反魂香はいまは持ち合わせておりませんが、道士は死者の魂を尋ね当てることだってできるのです。……ねえ。わざわざ山なんかに行かずとも、私の力なら――」
青娥がそれ以上何事かを言う前に、神子は青娥の肩を掴んで仙界の入口を開いた。突然仙界に飛ばされ、青娥は気を悪くしたらしかった。
「まあ、師匠になんて乱暴な振る舞いをするの」
「あの人の生傷を抉るような真似はやめろ」
神子は冷や汗でじっとり身体が濡れているのに気づいた。
表面上は、透子は狂気に冒されることもなく、平穏に生きているように見える。けれどそれは彼女の負った悲しみと絶望と憎悪の深さの証左であり、青娥のせいで彼女がますます傷つくのは阻止したかった。
「貴方のことだ、例の养小鬼の術を使おうとしたんだろう」
「ええ。もしかしたら、あの女の流した子を私が使っていたかもしれないわ。他人の子供はこちらが責任を取らなくていいから楽なのよね」
「青娥。私はいまここで、いちいち貴方を咎めはしない。けれどその術、長くは保たないはずだったね」
「子供って、時が経つに連れて自我が出てくるものですからね。素直に言うことを聞かなくなって、可愛くないのよ。適当なところで離して新しいのを補充しないといけないのが、この術の泣きどころね」
「貴方の傀儡になった子供の霊などを見せられてあの人が喜ぶと思うか」
「親とは我が子がどんな変わり果てた姿になっても愛しい、会いたいと思うものだと聞きましたけど?」
「我が子と夫を捨てた貴方に親心など語られたくない」
「あら? 私にそんなことを言うの?」
青娥はくすくす笑って、神子の手を払いのけた。
「貴方は私にお説教をできる立場かしら。貴方だって、私と同じ。お妃さまと、我が子として引き取った子供たち、すべてを捨てて仙人になってしまったではありませんか」
胸を突かれたようで、すぐには言葉が出なかった。
目の前の女は、決して神子を咎める仕草を見せない。ただ、懐かしい知己を見るように、親愛を込めて神子を見つめるだけだ。
「お気の毒にね。お妃さまの中には、自分が死んで初めて、貴方に裏切られたと気づいた方もいらしたのではないかしら」
「……」
「でも仕方ないわ、女の人生に伴侶や子供は邪魔だもの。貴方にとっては、妃も子も、すべては政の道具に過ぎなかったんですものね。あら、そんな顔をしなくたっていいじゃない。貴方だって気づいているんでしょ? あのお坊さんが逃げていったのも、貴方に捨てられるのを恐れたからじゃないかって」
「……青娥」
神子はやっとのことで声を絞り出した。みっともなく掠れ震えていた。
青娥は方や我が子を捨て他人の子を玩具にする邪仙。透子は方や我が子を失った心の闇に惑う悲しき母。この世はなんと不条理で不平等なのだろう。
けれど我が師に外道を見出すとき、自らもまた外道の所業を思い出さねばならなくなる。
「貴方がそんな人だから、私は師は貴方以外に持つまいと思ったんだ」
「本当? 師匠冥利に尽きるわ」
「貴方は私の鑑である。良くも、悪くも」
母はかくあるべし、妻はかくあるべし、女はかくあるべし。そのどれにも青娥は縛られない。初めて会ったときから、あらゆる束縛から自由であり続ける姿に、神子は惹かれてしまったのかもしれない。
しかし、青娥は自由であると同時に、無法の人である。法の名の元に――言い換えればそれは神子の意のままにという意味になるが、自らの和を広めたい神子としては、無法は受け入れられない。
青娥の邪悪に眉をひそめながら、もはや無用と突き放せないのは、神子の中に憧憬と嫌悪が同居するからかもしれない。
そんな弟子の胸中などおかまいなしに、青娥は無邪気に笑った。
「まあ、私のプレゼントを無事に取り戻してくれたのですから、今回はそれでよしとしてあげましょうか。あの女、放っておいて大丈夫?」
「毒を喰らわば皿まで」
ほっといたら透子に死なれていたなんて結末は夢見が悪い。青娥を置いて神子が再び透子の元へ戻ると、透子はやはり驚きもせずに出迎えた。
「私のことなど、放っておけばいいものを」
「私の師が変なことを言って、気分を悪くしていないかと思いまして」
「人の弱みにつけこむ輩には慣れています。あの人、貴方よりずっと邪悪そうでしたね。仙人とはみんなあんなものでしょうか」
「……仙人とは、本質的には、自分のやりたいことを好きにやるものです」
神子は腹をくくって透子に切り出した。
「貴方、山に登りたいんでしたね。貴方を苦しめた二人の亡霊か亡骸でも見つければ、貴方の心は晴れますか」
「そんなのわかりませんけど、少なくとも何もせずに死ぬよりはマシかと思います」
「どうしても行くというなら、せめて私を供人に加えてくれませんか」
「あら、仙人のお供とは心強い。復讐を手伝ってくれるのですか?」
「それは貴方が自分で何とかなさい。ただ、先にも言った通り、私は貴方を死なせるわけにはいかない」
透子は神子を見て、目を細めた。
「それは私への労りではなく、貴方の名誉に傷がつくのを恐れているためね?」
「そうです」
開き直ってきっぱり言い切ると、透子はからっと笑った。
「いいですね。貴方のそういう正直さは、信頼できそうです」
神子は支度を整えるために仙界に戻った。万が一のときは、透子を無理矢理仙界に飛ばしてしまうしかない。布都と屠自古に「この後、私は人間の女を仙界に送り込むかもしれないが、決して青娥に近づけないこと。お前たちはそいつを何があっても守るように」と厳重に言い含めておいた。
『あのお坊さんが逃げていったのも、貴方に捨てられるのを恐れたからじゃないかって』
違う、とも言えないのが歯痒いところだった。
本当はもう気づいている。彼女の一挙手一投足を見逃さなければ、彼女が心の奥底に慎重に秘めている欲望を聴き逃さなければ。
彼女が何に気を病んで、悩みを抱えて、山に入ってしまったのか、神子はわかっているのだ。
四、
「男の人って、結局は行きずりで関係を持っただけの若い女より、前からいた女の方を選ぶのね。お坊様、改めてお願いするわ。あの人の心を占めるあの女を連れてきて」
「できません」
白蓮は小雪の頼みを頑なに跳ねつける。
「人里をしらみつぶしに探し回れば、お坊様、貴方なら見つけるのは容易いはずだわ。貴方は私より丈夫で物知りでしょう?」
「貴方はその女が……貴方の愛した男と付き合っていた女が、どこの誰だか知らないまま恨んでいるのですね」
「知らないわ。想像だけはいろいろとしてみたけど。私と同じ年くらいの、けれど私よりも大人びて学問の心得もある、頭のいい女かしら……それとも、あの人とお似合いの年頃で、主婦としては有能だけど、女としては面白くないタイプかしら……あるいは私なんか足元にも及ばないくらいの絶世の美女で、もしかしたらその正体は人間ではないのかしら。そうやって想像をめぐらせるたびに、私はどうしようもなく不安になって、欠点だらけで何の取り柄もない女だったらいいのにと願った。そこまでひどくなくても、せめて少しでも私に勝ち目があると思わせてくれる女であってほしいと思った」
切実な告白に、白蓮は心が痛んだ。束の間の幸福の傍らで、小雪はずっと不安に打ちのめされていた。嫉妬という怪物が絶えず彼女の心を喰らいつくそうとしていた。
小雪は悩ましげにため息をつく。
「私だけを見てほしかった。私だけが必要だって、他の女なんかいらないって言ってほしかった。……でも、そんなわがまま、一言も言えなかったの。言ったらあの人、困って、面倒な女だと思って、私の前からいなくなってしまうと思ったから」
「……そんなに自信がなかったんですか。貴方は、若くて綺麗じゃない」
「みんなそう言ってくれたわ。けどそれって、裏を返せば若さと美しさ以外になんの取り柄もないってことよね。当たっているわ。寺子屋にも通ってなくて、そのせいじゃなくても私って元から賢くないし、家に籠められてばかりいたから世間知らずだし、男の子と付き合うどころか女の子の友達だってろくにいなかった。だからこそ、私にはたったひとりのあの人がすべてで、あの人が私を連れ出してくれる王子様のように思っていたのに……」
小雪は玉のような涙を流す。心なしか、雪が湿度を増したようだった。
白蓮は胸元を押さえる。私だけを見てほしい。千年経っても、女の切実な願いが変わらない。彼女に〝心の同類〟と言われたからではないけれど、まるで自分の心の中を言い当てられ、その言葉に胸を貫かれたようだった。
小雪は白蓮に労りの眼差しを向ける。
「お坊様、苦しそうね。貴方も同じ気持ちを知っているの? 気も狂いそうな不安と、身を焼くような嫉妬と、そんな自分が嫌で嫌でたまらなくなる気持ちが」
「私は八苦を滅した尼です。この世の苦しみなどすべてまやかしなのです。貴方も捨ててしまいなさい」
「男を知らない女に説教されたくないわ」
白蓮はぎょっとする。事実ではあるが、そんなあからさまな言い方をされるのは初めてだった。
「……それも女の勘、ですか」
「ええ。私は賢くないから、勘に頼るしかないのよ。八苦ってなんです。貴方が高名なお坊さんなのはわかるけど、私には恋に悩み愛に苦しんでいる女にしか見えないわ」
目が眩むようだった。彼女は仏教のことをほとんど知らない。わかりやすく噛んで含めるように教え諭せる自信は、いまの白蓮にはなかった。
吹雪が白蓮の身体に降り積もり、白蓮の身も心も重くしてゆく。小雪の苦しみがそのまま流れ込んでくるようで、自分の苦しみがいや増すようで、辛かった。
「あら、ごめんなさい。私、この雪を抑える方法を知らないのよ。でも貴方ならまだ耐えられるわよね? 大丈夫よね? 私、貴方に死んでほしいんじゃないの。わかるでしょう?」
「小雪さんは、私が……」
白蓮は事の成り行きを思い起こす。
そもそも、どうして神子に退路を塞がれてしまったとき、素直に首を縦に振れなかったのか。あのとき、白蓮の心の中に湧き上がってきた感情は、喜びと驚きの他に、何があったか。
どうして雪の山にひとりで来てしまったのか。
「小雪さん、貴方は、私も嫉妬を抱えていると言ったら、喜ぶんですか」
小雪の頬に血が昇り、ぱっと子供のような笑顔が浮かんだ。
「もちろん。そうでしょ、やきもちを妬かないのが余裕のある大人の女の嗜みだなんて嘘よ。そんなのただの都合のいい女よ。嫉妬はおかしなことじゃないわ、普通のことよ、ねえ?」
「できれば、私の中にこうも醜い感情が生まれるなんて、知りたくなかった」
「そうでしょう。好き好んで嫉妬の炎に焼かれたりなんかしないわ。あの人に、他の誰かがいなければ、味わわなくて済んだのよ」
「それでは小雪さん、本当に私が貴方と同じだと思っているんですか」
「ええ。お坊様、いままで誰にもそれを打ち明けられなかったのでしょう。嬉しいわ。素直に私に話してくれたの、光栄に思うわ」
「……ならば失礼ながら、貴方は人生経験の足りない小娘でしかないわ」
小雪は目を丸くする。自分が何を言われたのか、わからないようだった。
白蓮はぐっと腹に力を入れて立ち上がる。
「あの人と私を一緒くたに〝聖人〟と呼ぶ人がいますが、あの人は私とは比べ物にならない仰々しい伝説をいくつも抱えているんですよ。現にあの人がこの世界に復活してから、あの人の伝説にまつわる者たちが次々に立ち現れるようになった」
あるいは、部下に与えた能面の付喪神。あるいは、その部下と同じ伝説を共有していると思わしき秘神。あるいは、主人を乗せて空を駆けた愛馬。
「ま……あの風神と同等か、それ以上の偉い人を恋人にしているの?」
「恋人ではないわ、私は。でもあの人にはしかるべきお妃さまがいたはずよ。それも、四人も」
「あら……」
にわかに話の規模が大きくなって、小雪は困惑しているようだった。
思い出すだけで身体の芯からめらめらと何かが燃え立つのを感じる。山に来てからちっとも寒さを感じなかったのは、心身を鍛えてきたからではなく、この思いのためではなかったか?
あのとき、白蓮は歓喜に包まれるより先に、神子の後ろに見知らぬ四人の女性の幻影が見えてしまった。
全身が焦がれて、苦しくて、息が止まりそうだった。白蓮がいままで味わったことのない、できれば一生無縁でいたかった感情だった。そんな未知の感情に心を支配されかけるほど、白蓮はどうしようもなく、神子を好きになっていた。
女人というのは、よほどのことがなければ歴史に諱が残らない。紫式部、清少納言、藤原道綱母、菅原孝標女。どれも本名ではない。
どのような虚飾に塗れていようと、妃は〝聖徳太子の妃〟として歴史の大河の中にれっきとした名を残し、いまなおときには民衆の興味を掻き立てるような素朴で可憐な恋物語とともに真実として語り継がれているではないか。
それに引き換え、編年すら定かでない絵物語にかすかに〝命蓮上人の姉の尼公〟として刻まれ、諱すら残らない我が身の頼りなさときたら……。
「そうですよ、私は自分では会ったこともない、これから会うかもわからない、何も知らない女の影に怯えていたのです。私はね、あの人の言葉や思いを疑っているわけではない。あの人も嘘を言っていなかった。けれどもし、お妃さまたちがやってきたら……あの人は私よりそっちの方が好きかもしれないって、わかってしまうかもしれない。小雪さん。いまでこそ貴方は復讐すると勇ましいことを言うけれど、生きている間はただ怯えていただけでしょう。その女から好きな男を奪い取るだけの度胸も自信もなかったのでしょう」
「ま……!」
「安心してください、私も自信がありません。自信がないとは、そのまま読んで字の如く自分を信じられないってことです。だから少し心を鎮めて信じる力を取り戻そうと、単身山に来たのです。……神奈子さんはどこまでお見通しだったのかしら。貴方と私を、こんなタイミングで引き合わせるとは」
白蓮はため息をついた。考えてみれば、神奈子が三年もこの哀れな乙女の念縛霊を放置していたのは何かおかしかった。
小雪は白蓮と同じではないけれど、彼女の叫びはそのまま白蓮が心に浮かんでも決して口にできない叫びの代弁のようだった。しかるべきときに、しかるべき人物が、小雪の前に立ち現れるのを待っていたのか――神の采配は残酷である。
「考えてもみてくださいよ。あの人も私も、複数の妻を持つのがおかしくない時代の生まれでした。私は僧侶でしたから、男女や夫婦の愛憎の世界とは無縁でしたが、あの人はそうじゃない。いえ、いまさらそれを咎めようとは思いません。あの人より後に生まれた私にそんな権利はない。……ただ、もしも、あの人の妃までこちらにやってきて、あの人が私を同列に侍らそうとでも考えているなら、『馬鹿にするな』って私は嫉妬を通り越して憤怒でおかしくなったかもしれない」
小雪に口を挟む隙を与えず、白蓮は次々に畳みかける。
こうなったら、自分の中にある嫉妬をひとつ残らず、薪をくべるように燃やしてしまうしかない。小雪が悲哀と憎悪と嫉妬の念縛霊なら、白蓮はそれ以上の激情を見せるしかない。
「『すべて人に一に思はれずは、なににかはせむ。ただいみじう、なかなか憎まれ、悪しうせられてあらむ。二、三にては、死ぬともあらじ。一にてを、あらむ』……清少納言がこんなとを書きつけているのを読んだときは、なんてことを言うんだと呆れましたが、よくよく思い返せば、私も彼女と同じ一乗の法の人なのでした」
「え、ええと……」
「要は好きな人に一番に思われたいってことです」
「そんなの当然だわ。誰だって貴方が一番好きだ、他の人なんて目に入らない、貴方だけが特別だと言ってほしいでしょう」
「だけど貴方は『そうでなければ死んだ方がマシ』とまでは思えないでしょう」
言い放ってから、白蓮は驚く。よもやかつて不死を求めた自分の口から『死んだ方がマシ』なんて言葉が、激情に任せてだとしても滑り落ちるとは思っていなかった。
「うわべだけ何事もないみたく平静を装ってお妃さまたちと仲良くするなんてできない、けれどお妃さまたちと争うなんてもっと嫌」
なのに、何も知らない弟子たちは呑気に囃し立てるから。神子に『どうだったの』と聞ける勇気もなかったから。『わが身をうしなひてばや』とまでは考えずとも、最悪の場合、恋心を氷の中に閉じ込めるしかないとまで覚悟するしかなかった。たとえ我が身が決して燃え尽きることのない情念に終生苛まれる運命になったとしても……。
「いっそあの人が本当に私を憎んでくれるなら……あの人、元は私を憎んでいたんじゃないのかしら。私だって、最初は好きじゃなかったはずだもの。だけどあの人、もう私を憎んでくれそうにない。私の方から憎んでやろうとも……思えない。駄目ね。昔からそうだったの。私は、一度好きになった相手のことは、なかなか嫌いになれないみたい。ならもう他人みたくよそよそしくして、周りに不自然と思われない程度の当たり障りのない付き合いに留めて、もう二度と愛欲の道に迷うまいと、私は世を捨てて……拾ったり捨てたりを繰り返してきたこの俗世を何度でも捨てて、今度こそ仏の信仰への道を一筋に生きるしかないのかしら」
「だったら!」
小雪が悲鳴のように叫んだ。
「だったら貴方は、愛する人を殺せない人ね。私なら殺せたわ。お坊様、初めに貴方に『あの男を殺したいから連れてきてくれ』と頼んだのは、口から出まかせではなかったのよ。万に一つでも生きていたなら、私はあの人をこの手で殺した。あの人を他の女に取られないためなら、殺人鬼になったってよかったの」
「私は貴方を人殺しにしたくありませんね」
「お坊様! 貴方のことを教えて、貴方は愛する人を殺せるの、殺せないの、どっちなの!」
白蓮は小雪のもはや己の復讐とは関係ない、必死な問いかけの答えを、長く長く考える。
「……できます」
小雪は「嘘だわ」とつぶやいた。
「貴方には絶対にできない。仏様の教えに背くからとかじゃなくて、貴方が持つ深い愛のために殺せないのよ。人魚姫と同じね」
「あら、四苦八苦や枕草子はわからないのに人魚姫は知っていたの」
「あまり古い話はむずかしくて読めないわ……いえ、そうじゃなくて! 貴方にできるはずがないわ!」
「ならば〝殺す〟を〝成仏させる〟と言い換えればいいかしら」
白蓮が微笑むと、小雪の表情が凍りついた。
「あの人、尸解仙なんですよ。一度肉体を捨てて、魂だけを無機物に……あの人は剣だと言っていたわ……そこに移して、無機物を生前と全く同じ姿に変えてしまう術でこの世に蘇った人なの。それでも仙人の末端だというけれど、あんなのは死体を動かしているのと変わりはしないわ。つまりね、小雪さん、私があの人の成仏に成功したとしても、人殺しにはならないのよ」
「そんなの詭弁だわ」
「あの人は私に成仏させる力なんてないとたかを括っているようだけど、どうかしら。やってみなければわからないでしょう。仮初の器なんて、とても脆く儚いものだから」
小雪はもはや、呆然と黙って白蓮を見つめるばかりだった。
白蓮は密かに様子を伺う。ここまで言えば、小雪も諦めてくれるだろうか。若くして死んだせいか、浅慮で、思い込みが激しくて、その場の感情で簡単に動いてしまうが、それだけ根が素直だということだ。
いまの彼女は、自分の中で膨れ上がってしまった恨みのぶつけ先が見つからなくて、苦しくて、少し癇癪を起こしているだけだ。本当は自分でも認めている通り、臆病で繊細な心がある。
――もう、解放されていいのよ。
恨みのために杉の根元に縛られた娘が憐れで、白蓮は何としても助けてやりたい。白蓮がじっと小雪を見守っていると、
「……なら、殺して」
小雪は、呻くように告げた。
「貴方の愛する人を、私の目の前で殺してくれたら、復讐なんて忘れるわ」
「……小雪さん」
「わかっているの。私、おかしくなっちゃったのね。私は成仏するべきなんでしょう、あの女を恨むのは筋違いなんでしょう、だけど、そんな理屈で納得したくないのよ! 私のこの思いはどこにぶつければいいの! ……お願い、お坊様。私、もうこんな寂しいところに居続けたくない……私を、自由にして……」
やはり無理だったかと思いつつ、そうだろうと白蓮は納得している。
小雪は認めたくないのだ。自分がつまらない男に入れ込んで、心中覚悟で深山に入ったのに、騙されてあたら命を失ったと。
自分の愚かさを自覚しながら、それでもかつて男を心から愛したことを忘れられない。愛を否定してしまったら、自分を否定するようで、恐ろしいから。彼女は恨みと呪いを抱えながら、囚われの身から救い出してくれる誰かを待ち続ける悲劇のシンデレラだ。
白蓮にはもうわかっている。ムラサに与えた舟のように彼女を解放する鍵は、裏切った男を超える白馬の王子様だ。
(駄目よ、小雪さん。どんなに待っても王子様なんて来ないの。貴方自身が現実を見つめて、前に進まないと――)
身体が火照って汗が噴き出てくる。どうして神子をここに連れてくることができよう。この場で神子と殺し合いなど繰り広げても無意味だし、かといって小雪の言う女を探し出して突き出すわけにもいかない。
(ああ、神子)
連れてなど来れないと思ったそばから、白蓮はいまここに神子がいてくれたらと強く願った。
彼女なら、何か現状を打破するいい知恵を貸してくれるんじゃないか。悩み苦しむ小雪を前になす術もなく立ち尽くす白蓮に『何をやってるんだ』と呆れた眼差しを投げながら、彼女なりの考え方で、彼女なりの方法で、救いの手を差し伸べてくれるんじゃないか。
(いやだ、何を弱気になっているの)
都合のいい考えをすぐに打ち消す。自分までシンデレラ・シンドロームに侵食されそうになってどうする。白蓮だって人妖の平等と救済を掲げる宗教家だ。たとえ白蓮ひとりきりでも、道が見えなくても、自分の力でどうにかしなければ。
そのとき、白蓮と小雪しかいないはずのこの場所に、何者かの気配が現れた。
神奈子であろうか? いや、違う。それも、気配はふたつ――。
「ああ、お坊様、認めていいわ、貴方は本物の御仏の使いよ! 私の勘がそう言っている!」
小雪が色めき立って叫んだ。小雪のやけに紅潮した頬に、いままでで一番明るい表情に、白蓮は嫌な予感がよぎり、それは非情にも的中した。
「まさかあちらから出向いてくれるなんて思いもしなかった。あの女よ! あいつこそが、私が憎んでやまない女!」
◇
冬の日暮れは早い。薄暗い雪の中を、神子は透子を伴ってふたりで歩く。
当てもなく雪山まで来てしまった――防寒具は貸し与えた、神子は神経を尖らせて透子の動向に絶えず注意を払っている。万に一つでも彼女を死なせはしない。
「神子さん。貴方に聞きたいことがあるのですが」
透子が不意に沈黙を破った。透子はやはり落ち着き払って、神子をまじまじと見つめて、淡々とした口調である。
「複数の女を渡り歩く人間の心理とは、どのようなものでしょう」
「透子さん。それがあの男の居場所を探る手掛かりになるとは限らないし、貴方の物差しで私というものが推し量れるとも思わない方がいい」
引き攣った笑いのようなものがこぼれかけて、神子は肩をすくめる。透子は引かなかった。
「でも、聖徳太子には四人の妃がいたはずです。菟道貝蛸皇女、膳部菩岐々美郎女、刀自古郎女、橘大郎女」
「さすがに貴方はよくお勉強されている。まあ、いましたよ、四人ともちゃんと。それは後世の作り話ではない。私は女ですが、当時は男ということにしておいた方が何かと融通が利くと思っていましたから。透子さん、現代を生きる貴方には難しいかもしれないが、古代の為政者は個人の恋愛感情のためでなく、政のために結婚をするのです」
透子が眉をひそめた気配がした。
「もちろん愛情がなかったとは言わないが、それは二の次。当時の大王は国を支配する体制が確立していないもので、地盤が危うい。なればこそ血縁の近い皇族や、地方で力を持つ豪族と力を合わせる必要がある。私は、私と手を組み、かつ有能な働きを見せてくれそうな者の娘を四人、選んだわけです」
神子の叔母・推古天皇の娘、古来より皇族との縁が深かった豪族膳傾子の娘、飛鳥の世に急進的に勢力を伸ばした蘇我馬子の娘、推古天皇の息子・尾張皇子の娘。神子は父母双方から蘇我の血を引いているため、ほとんどは血縁者同士の結婚である。
「まあ、大変でしたね。当時は後宮なんてものはないから、妃をひと所に集めたりなんかしないし、妃に用があれば妃の実家にそれぞれ通う必要があるし、子供も妃の……というか、女の一族で面倒を見るのが慣わしでしたから」
「なら夜離れが続いても、他の妃の機嫌を取るためだと言い訳ができると」
「単なる愛と嫉妬の問題じゃありませんよ。私はむしろ妃の背後にいる一族の動向を最も気にしていた」
結婚もまた政の一環なら、妃たちとのやりとりも自然、緊張を孕んだものになる。まして神子は自分の野心のため、神子並みの聡明さは望めなくとも、政の心得がある女ばかりを選んだ。妃は神子の策を支える助言をする傍らで、自分の一族にとって利になる条件を抜かりなく突きつけてくるのである。神子はそんな駆け引きにもまた面白みを感じて、妃との交流を遊戯感覚で楽しんでいたのを覚えている。
もちろん、夫婦らしく心安らぐ時間や、情の通い合うときがなかったとは言わない。神子は神子なりに彼女たちを大事にした。それが一方通行でなかった自信もある。――しかし、彼女たちが普通とは違う夫婦生活にどこまで納得していたのかといえば、いまの神子のそばに、妃たちがひとりもいないのが答えではないだろうか。
「確かに、古代と現代を簡単に比べられるものではありません」
透子はやはり淡々と口を挟む。
「私は現代の生まれで、貴方の結婚をひどく倒錯したものとみなしているかもしれません。けれど、人間が他人にされて嫌なことなんて、あまり変わらないのではありませんか」
「そこに貴方の私怨が混じっていないと言い切れますか」
「なら神子さんはスセリヒメや磐之媛の嫉妬をどう解釈します」
「あっはっは!」
神子は思わず笑ってしまった。どちらも嫉妬深さで有名な古代の女神や皇后である。無論、彼女たちの嫉妬は愛情の不満よりも自らの威光を示すためのものだ、という解釈は、透子には通じないだろう。
「いいですね、貴方の嫉妬を軽んじるなという姿勢。……あのとき、貴方のように、真っ向から尋ねてくれたのなら……」
透子は不審に思うだろうが、構わない。神子の脳裏によぎったのは、あのときの白蓮がほんのわずかに見せた嫉妬である。うわべを取り繕おうとしたがる彼女は、心の中で抑えきれない不安を、神子には決して気取られたくないという気配がありありとあった。
貴方のお妃さまの伝承はなんなの、あの人たちもこっちへ来るの、どういう仲だったの、誰が一番好きだったの、私に好きだって言ったのは嘘になるの?
そうやって神子に取り縋って言いたい放題言ってくれたら、こっちもそれなりの言い訳を用意して、誠意を尽くし、言葉を尽くし、彼女が心の平穏を取り戻すまで、何度でも宥めることもできたのに。白蓮はひとりで心の中に勝手に問題を生み出して、抱えて、逃げてしまった。
(そんなに私が信用ならないか。私がどんな思いでいるか……わからないお前じゃないはずなのに)
思い出せば苛立ちが募ってくる。透子の問題がなかったら、一輪の忠告を無視して真っ先にこの山のどこかにいる白蓮を探していたかもしれない。
(私が過去に誰とどんな付き合いをしていようが、いまのお前への思いが嘘になるものか!)
神子が会ったこともない命蓮とかいう後世の坊主の姉なんて肩書はどうでもいい。
神子が惹かれたのは、聖白蓮という、不遜にも豊聡耳神子を封印せんと試み、臆することなく何度も目の前に立ちはだかったひとりの女だ。
「どうして貴方がそんな顔をするんですか」
気がついたら、透子が訝しみながら神子の顔を覗き込んでいた。
「いやね。貴方が私を嫉妬を知らぬ者のように言うものだから、つい嫌なことを思い出しまして」
「貴方のような人が誰に嫉妬をするのかしら。充分すぎるほど自信がおありで、誰かに負けるとも思えないのに……」
「嫉妬は理屈でないと、貴方の方がおわかりでしょう」
厳密に言えば、白蓮の嫉妬と神子の嫉妬は異なる。白蓮の過去には、神子以外の誰もいない。隠し通せる性格ではない。それは確かだ。
けれどもし、神子が聴き逃しているだけで、彼女の過去にそういう人物のひとりやふたりがいてもおかしくないのだとしたら……。
「そいつの墓の場所を聞き出して、墓の中を暴いて、二度と復活も蘇生も転生もできないように――」
口に出してから(あれっ)と神子は目を瞬く。自分はいま、なんだかとんでもないことを口走らなかっただろうか。確かに昔の自分には政敵を容赦なく屠る非情さがあったが、こんな感情は持ち合わせていただろうか?
透子の方を振り返ると、度し難いものを見るように顔が引き攣って歪んでいた。
「スセリヒメや磐之媛も裸足で逃げ出すような苛烈さですね」
「貴方、よく私に神話のたとえを吹っかけましたね」
神子がさりげなく話題を逸らすと、透子もそれ以上は深掘りをしなかった。
「貴方の考えを聞きたいだけです」
「なら私の厭う神の話を聞かせましょう」
「……ニギハヤヒかしら」
「ちょっと近い。その兄弟のニニギですよ」
邇邇芸命。天照大御神の孫のため天孫と呼ばれる。天降ったニニギはコノハナサクヤヒメという美しい乙女と恋に落ち、結婚した。だがニニギはサクヤヒメから懐妊の報告を受けるなり、『たった一晩で身籠るなど怪しい。他の男の子でないか』ととんでもない疑いをかけた。サクヤヒメは正真正銘のニニギの子だと証明するために、産屋に火を放って三人の子を出産したのである。
「天孫ともあろう神がなんと下賤で無責任な疑いを持つことか。さすがに私も信じられない思いでした。この逸話からわかるのはひとつ。神代の昔から、男は救いようのない馬鹿だ」
「……」
「一例で足りないならラーマーヤナの試しを引き合いに出してもいい。そこでもやはり男が妻に不貞の疑いをかけ、妻は貞操を証明するべく大地の神に訴えかけ、めでたく貞操を認められたものの、妻は地の底に消えていったのです」
「……」
「そんなものですよ、男って。私は一時期男になりすましたけれど、男心なんてものはついぞわからなかった。透子さん。そんなくだらない男に、貴方が命をかけてまで復讐する価値なんてないと思いませんか」
神子は意味深長に目配せする。
何度か会話をしているうちに、いかに本来の透子が聡明で落ち着きのある、肝の据わった女性であるかが見えてきた。神子の妃もこういう才気煥発で遠慮のないタイプが多かったのを懐かしく思い出させる。
我が子を代償に急死に一生を得て、三年でここまで自力で回復したところからしても、自己再生能力が高いと見える。おそらく神子があと少し手助けしてやれば、透子は社会に戻ることも不可能ではない。
だが、大袈裟に泣き喚いたり叫んだり、狂態を晒さないぶん、神子にはかえって透子の内面に潜む負の欲望の強さがひしひしと感じられるのである。彼女の心の奥底に沈澱して凝り固まった、深い嘆きと怒りと悲しみと憎しみが。
透子はふ、と小さく笑った。
「今更引き返すわけがありません。私が命を懸けてここまで来ていると、貴方もおわかりだから、ついてこられたのではありませんか?」
「……」
神子も『これ以上の説得は無理だ』と諦めるしかなかった。
思うに透子も神子と同じく理屈で動くタイプであり、普段の彼女なら神子の話でそれなりに納得をして、矛を納めてくれただろう。
――もし、ここに白蓮がいてくれたなら。
白蓮は情の人だ。いささか絆されやすいところがあるが、決して感情的というわけではなく、相手の心に深く寄り添って悩みの元凶を聞き出してくれる。ああいう人物の一言が、意外にも理屈で固めようとする心に響いたりもするものだ。
(まったく、今頃どこにいるのやら)
雪山を当てもなく歩くわけにもいかないから、正規の道で山頂を目指すということで、透子も納得している。もし脇道に入るとしても必ず神子が護衛につく。透子は山に入りさえすれば何かが見つかると信じているようだが、彼女の気が済むならそうさせてやるしかない。
「ねえ、神子さん」
ふと、透子が立ち止まる。
「吹雪ですよ」
「はい? こんな雪、大したこと……」
「いえ、あっちの方に」
透子の指さす方を見やれば、薄暗い視界でも奥の一帯だけが猛吹雪に見舞われているのがわかった。
「なんでしょう。冬になると雪女のような妖怪が出没すると聞きますが、そいつの仕業でしょうかね」
「……」
「透子さん?」
「こんな吹雪の日だったわ。あの男が逃げていったのは」
神子は顔を強張らせる。あの吹雪の中へ進もうというのか。
「透子さん、いま一度確認しますが、貴方はこの山で仇を見つけようが見つけまいが、たとえあの吹雪の中に何者かがいたとして、そいつが貴方の仇でなくても、もはや過ぎ去ったことだと諦めて帰れますか。くどいようですが、私は貴方を死なせられない」
「ええ。何もなければ、帰ってあの子の後を追います。ですからいまは、行かせてくれますね」
神子は(本当に、いざとなったら仙界に幽閉するしかないかもしれない)と腹を括って、吹雪の荒れる黒い雲の方角へ進んだ。
不思議なことに、吹雪は強さを増したり、弱くなったり、あるいは雪が粉っぽくなったり湿り気を帯びたり、短時間でしょっちゅう模様を変える。寒気を操る妖怪の仕業で片付けるには違和感がある。
(……まずい)
吹雪の元凶に近づくに連れて、神子は耳当てを強く握りしめる。透子と同等か、あるいはそれ以上に強い憎しみの声は、単なる遭難者の成れの果てとは到底思えない。
しかし神子を更に驚かせたのは、そのすぐそばから、神子のよく知る十欲の持ち主の声が聴こえてきたからだ。
(――どうして)
透子はまだ気づいていない。退くか、進むか、神子が決めるしかない。
(どうしてお前がここにいるんだ……白蓮)
やがて、吹雪の中のふたりが――真っ白な着物の見知らぬ妖怪と、いつもの白黒の衣装を着た白蓮が、神子たちに気づいた。
白蓮はたいそう驚いた顔をしていた。次の瞬間、白蓮はどこからともなく金色に輝く独鈷杵を取り出し、そこに光の刃を纏った。
「神子!」
叫ぶと同時に、白蓮が凄まじい勢いで駆け寄ってくる。
(待て、何を考えている、お前まで気が狂れてしまったのか)
けれど神子の中にどよめきが起きたのは一瞬で、神子は即座に白蓮の叫びの理由を悟った。
「透子さん!」
驚きのあまり硬直する透子を庇うように立ち塞がると、白蓮は躊躇なく杵の先端を神子の胸に突き立てた。吹き出した血は寒気の中ですぐに凍りつき、神子はそのまま意識を手放した。
◇
手ごたえは、確かにあった。
前のめりに倒れ込む神子の身体を受け止めると、背後で神子が『透子さん』と呼んだ見知らぬ女性が、「神子さん!」と叫びながら神子の胸元に手を当てた。何度も心臓の音を確かめて、震える手で首筋に触れて、やがて呼吸も心音も完全に停止してしまったと理解したのだろう。呆然と動かなくなった神子を見つめた。
「う、嘘でしょう……?」
背後から、これまた驚愕の表情で口元を覆い立ち尽くす小雪の声が聞こえてきた。
「ねえ、お坊様、その人、ま、まさか……」
「豊聡耳神子。私が愛した人よ」
小雪は唖然として、すぐに透子と同じように神子の身体に触れた。手首を取って脈がないのを知ると、信じられないといった面持ちで白蓮を見た。
「嘘よ。貴方が、本当に殺してしまったの?」
「小雪さん。貴方が〝殺せ〟と言ったのに、そんな顔をするのはおかしくありませんか」
「嘘よ!」
「ああ、そうでしたね。私はこの人を成仏させたのです。僧侶ですから、殺生を犯すはずがありません」
「狂っているわ」
強い非難と驚愕を湛えた眼で、透子は白蓮を見つめている。
「貴方、命蓮寺の住職でしたよね。神霊廟の神子さんとは何かと対立していると噂に聞いていましたが、よもや命を奪うような真似を犯すとは」
「これでよかったのよ」
動転するふたりをよそに、白蓮は神子の身体を仰向けに起こして、膝の上に頭を乗せた。表情は安らかで、眠っているようにしか見えない。頬をなぞると、猛吹雪のためか、ひどく冷たかった。
「この人、死神の迎えだって撃退してしまうんだもの。だったら、せめて最期は私の……。私が弟子たちと一緒にこの世界に辿り着いたとき、この人は私よりひと足早くこの世界にやってきていて、あの地の底深くの霊廟の中で眠っていた。私はこの人を封印するつもりだった。妖怪の脅威だと思ったから、私の法力で寺を建てて復活を阻止しようとした。あのときは失敗してしまったけれど、ようやくあるべきところに治ったんだわ」
緊張で凍りついた空気が充満する中で、白蓮は初めて〝寒い〟と感じた。
おそらくは、透子が小雪の言う恋敵で間違いない。本当なら透子にどうして神子と一緒にここまで来たのか聞きたかったのだが。
冷たい神子の身体を、白蓮はそっと抱きしめた。
「馬鹿な人。〝命長ければ恥多し〟って、この人が知らないわけがないのに。私も長寿の肉体を手に入れて、長生きをして、永遠の命なんてそんなに執着するほどのものでもなかったとようやくわかったわ。……これでよかったのよ。物部と蘇我の争いの真相も、この人が本当は仏教を信仰してはいなかったことも、復活して永遠を手に入れようとしたことも……すべて白日の下に晒されないまま、ずっと眠り続けていた方が、あの人も私も苦しまなくて済んだのよ」
「違うわ!」
小雪が耐えかねたように叫んだ。その目から憎悪と恨みは消えて、ただ悲しみだけが浮かんでいる。
「わかっているでしょう、お坊様。過去をなかったことになんてできないの。貴方が愛した人を殺しても、貴方がその人を愛した事実や、貴方とその人との間にあったことは、雪のように消えてなくなりはしないわ……」
小雪が顔を覆って泣き出すと、雪までもがまるで空の涙のように、しとしとと湿り気を帯びて白蓮らの身体を濡らした。神子の身体が雪に濡れないように覆い被さって、
「そうでもないわ、小雪さん。貴方には黙っていたけど、何もなかったことにする手段はまだ残っているのよ。……私がこの場にいる全員の記憶を消してしまえばね」
空気が一気に冷えた気配がした。こういう打ち明けはフェアではなかっただろうか。けれど小雪も最初からすべてを明かさなかったのだからおあいこだ。
「嘘ではないわ。少々手間はかかるけど、不可能ではないの」
「お坊様」
「忘れましょう。すべて隠してしまいましょう。貴方たちの苦しみも、私たちの罪も、このまま雪の中に埋めるように……」
乾いた音が響いた。透子が白蓮の頬を張ったらしかった。
「これだから貴方たち人ならざる者は信用できないのよ」
白蓮をはたいた透子は、怒りに震えていた。
「人間そっくりの姿で親しげに近寄ってくる奴も、世にも恐ろしい化け物の姿で襲いかかってくる奴も、どっちも同じよ。あんたたちは人間を、私たちをなんだと思っているの。自分たちより愚かな、ひ弱な、矮小な、醜い、露の命の、取るに足らない劣った生き物だと馬鹿にして見下して、都合よく使い捨てるつもりでいるんでしょう!」
白蓮は静かに耳を傾けた。透子の叫びは、そのまま人ならざる者への憤りというより、自分を裏切った男への強い怒りをぶちまけているように聞こえた。
「そんなんだから、あの男みたく、人の人生を簡単に踏み躙ってしまえるのよ……」
怒りと悔しさのためか、透子の目尻に涙が浮かぶ。しかし透子は即座に涙を拭って、未だ啜り泣きを続ける小雪を睨みつけた。
「ねえ、そこの貴方。貴方でしょう、私の夫だった男と逃げたのは」
透子の一声が鋭く響く。透子は、もう神子にも白蓮にも目をくれず、真っ直ぐに小雪だけを見つめていた。
「貴方、私のことも殺すの」
小雪の涙が一瞬で止まり、即座に透子を睨み返した。
「殺すわ」
口にしてまた憎悪が再燃してきたのか、吹雪が冷たく身体に当たる。
「失った過去を取り戻せないと、不毛なことだとわかっていても、そうするしかないの。だって、そうでしょう。貴方がいるから、あの人は私のことだけを見てくれなくて、最後の最後で、私を裏切って、逃げて、貴方のところへ帰ろうとして……」
「帰る? 自分で殺した女のところにどうして帰ってくるっていうのよ」
「え?」
小雪が唖然とする。小雪は透子のことをほとんど何も知らないはずだった。そして透子もまた、小雪の事情をすべては知らない。
「あの人はね、貴方と駆け落ちする直前に、私を川に突き落としたの」
透子の淡々とした告白に、小雪は息を呑む。
「真冬の凍りつくような冷たい川の中よ。本当に死ぬかと思ったし、引き上げられてからもしばらくは床を離れられなかったし、いまも生きているのが不思議なくらい。あの男は私があれで確実に死んだと思ったでしょうね。……死んでしまったのは、何の罪もないあの子だけなのに」
目を伏せて平べったいお腹をさする仕草で、小雪はその意味するところを察したらしかった。
「嘘!」
みるみる小雪の顔が青ざめてゆく。白蓮も内心(まさかそこまでとは)と反吐が出る思いを抱えていた。
「嘘、嘘でしょ……そんな、それじゃあの人、自分の子供まで……」
「心中相手を土壇場で殺して逃げるような男だったんでしょう。身籠った妻を殺すくらい、なんの良心の咎めもなかったでしょうよ」
「……」
小雪は信じられないと言いたげに目を見開いていたが、透子がどこまでも冷静に、小雪から目を逸らさないまま語るので、じわじわ本当のことだと信じる気になってきたようだった。
やがて、小雪は歯を食いしばって、苦々しげに透子に告げた。
「その男、逃げた後、山の中で山姥に食い殺されたんですって。霊すら見かけないそうよ」
「……そう。因果応報だわ。あんな男、妖怪に魂まで噛み砕かれてしまえばいいのよ」
「……」
「私もね、貴方を殺そうと思っていたのよ。夫に裏切られただけならまだしも、あの子を亡くしてしまったのが、あまりに無念で、申し訳なくて……でも」
透子は、小雪の擦り切れた着物から覗く切り傷に目を留めた。
「その傷、あの人にやられたの?」
「え? ええ」
小雪はしばらくどう説明したものかと迷っていたが、やがて思い切って襟を開いた。
真っ白な肌の胸と腹の中心に残る、夥しい刺し傷の跡――透子は眉をひそめる。
「ひどいじゃない。まあまあ、ほとんど刺す必要のないところにまで刃物を突き立てて。もっと楽に死なせてあげる殺し方があるでしょうに。不器用な男には何をやらせても駄目ね。若い女の子の体をこんな滅多刺しにしなくてもいいのに」
「あの……」
「それだけじゃありません。小雪さんの死体は、念縛霊になった小雪さんの目の前で妖怪に食われてしまったんです」
「お坊様!」
白蓮の口添えを咎めるように小雪は叫んだ。いちいち同情を誘うようなことを言わなくてもいいじゃないか、と言いたげに、決まり悪そうに俯く。先ほどまでの威勢はどこへやら、すっかり萎らしくなっていた。
「私も因果応報です。妻子のある男の人を奪ったから」
「あの子は、まだ生まれてすらいなかったのにね。お互い、悲惨な目に遭ったものね。あんな男に引っかかったばかりに」
透子の言葉に小雪への憎しみや当て擦りはなく、むしろ小雪に同情するかのようであった。たちまち、小雪の目からぼろぼろと大粒の涙が溢れ、しゃっくりが上がった。
「よしなさい。私は、あの子が死んだのまで貴方のせいだとは思っていないのよ。あの子を殺したのは、あの男」
「だって……ひどいわ。あんまりにも、ひどいわ」
小雪が恋敵の透子に心底同情し、見ず知らずの赤子の死を哀れみ、本気で男に憤っている様子に、透子も少し困惑しているようだった。
「ごめんなさい。私に貴方を殺す資格なんてなかった。貴方にこそ私は殺されるべきだったわ」
「やめて、これ以上、私を殺人鬼に仕立てようとしないで。もう、いいのよ。どうせあの男への復讐は叶わないし、あの子も帰ってこない。……どうしてかしらね。人里で貴方の情報を集めていたときは、貴方を憎く思うことが何度もあったのに、いざ顔を合わせたら、貴方がとても可哀想になってきた」
透子は深くため息をついて「貴方、いくつだったかしら」と聞いた。
「十六でした」
「ならちょうどあの男の十歳下。本当に、何を考えていたんだか。こんな若くて、しかも美人の女の子、他にいくらでもお似合いの年頃の相手を見つけられるのに。自分がそのチャンスを潰してはいけないと、あの男、そういう配慮がまったく頭になかったわけね」
「いえ、違うんです、私があまりに愚かだったから。私、他の男の人を知らないんです。経験がないから、刷り込みみたく初めてのこの人が一番だ、すべてだなんて思い込んで」
「私はあの男より二つ上だったのに騙されたわ。私は貴方以上の愚か者よ」
「違うわ。透子さん、だったかしら。私たち、もうとっくにわかっていたはずなんです。自分の傷を抉るのが嫌で、目を逸らしているだけで……」
小雪が懸命に言い募ると、透子はふっと、まるで妹か娘を見るような柔らかな眼差しで小雪を見つめた。
「あの男は、とんでもない男のクズだった。私たちが愛する価値などどこにもなかった。――そうよね? 小雪さん」
「はい。恨むべきはたったひとり。だから……透子さん、私はもう貴方を恨まない」
「……私も、貴方を恨んでなんかいないわ」
小雪は涙に濡れた目で透子を見つめ、透子はその眼差しを受け止める。いつのまにか雪までも柔らかな粉雪に変わっていた。
「――ようやく、貴方たちふたりの未練が解けたわけか」
白蓮の腕の中で、神子が突然起き上がり、ふたりに言葉をかけた。小雪と透子は揃って化け物を見るような目を向けた。
「え、嘘、え、えっ!?」
「どういうことです、確かに心臓も呼吸も止まっていたはずなのに……」
「っ痛て……白蓮、本気で急所を狙ってきただろ」
「そうでもしないと小雪さんを騙せそうになかったのよ」
神子は白蓮に文句を言い、白蓮も神子を軽くいなす様に、ふたりの女は目を丸くするばかりである。
「あ、あの、まさか、きょ」
「キョンシー? あれはそんな即席で出来上がるものではありません。第一、この女は死体を操れるほど外道に堕ちていない」
「小雪さん、この人は尸解仙だと説明したでしょう。いまの身体は無機物が元になっていると」
「……ああ、なるほど」
透子が先に事態を飲み込んだらしかった。
「そこの住職さん……白蓮さん? は、最初から神子さんを殺してなどいなかったのですね」
「白蓮が私に突撃しながらある頼み事をしてくるものでね。それでどう決着がつくんだか私にも不明でしたが、まあ、こいつのことだから、貴方たちふたりにとって気の毒な結果にはならないだろうと。お望み通り、尸解仙の術を一部解除したのです。ほんの少しだけ、私の身体は無機物と同じになっていた」
「じゃあ、脈が止まっていたのも」
「この人が自主的に術を解除したためであって、私の攻撃はただの目眩しです。小雪さんと透子さんには、私が殺めたようにしか見えてなかったでしょうがね」
「まあ……私ったら、また簡単に騙されてしまったのね。もう救いようがないわ」
「大丈夫よ、小雪さん。貴方は自分で卑下するほど愚かではありません」
顔を覆ってうなだれる小雪に、白蓮は片目をつむってみせた。
「貴方の言う通りよ。私は、どうなっても愛した人を殺せないの」
「まあ!」
呆気に取られたのちに、小雪は明るく笑った。
神子は白蓮にもっと色々なことを言いたそうだった。白蓮も神子に言いたいことがあった。けれどそれは、ふたりがそれぞれ連れてきた女たちのために、後回しにすることにした。
結果的にふたりの悔恨が解けたせいか、元は恋敵であったはずの透子と小雪は、すっかり意気投合していた。
「私が馬鹿だったんです。あの男が怪我をしていたのを助けて、お礼にと再び現れたのを見て、運命の出会いだなんて舞い上がって。あまりに子供っぽいことでした」
「あら、やっぱりあのときからだったの。あの男が怪我をして帰ってきて、運良く知り合いに手当てをしてもらえたとか言ってたけど、それにしてはずいぶん上等で清潔な包帯を巻いているから変だとは思ったのよ。思えばあの日から不自然な帰りが多くなって……あの手当は貴方だったのね」
「ま……! そんな早くから気づいてたんですか」
「初めの一回はいいのよ。貴方だって単なる親切心だったのでしょう。なのにあの男ときたら、何を勘違いしたんだか……自分の身の程をわかっていないのよ。盗人の男が、若い女の子の家に通って、女の子がどんな迷惑を被るかちっとも考えていないんだから」
「そのまま引きずりこんだ私が愚かだったのです。ああもう、腹立たしいわ。あの男に、私が心中する価値なんて……私ったらころっと騙されて、もう、何をやっていたんだか」
「私も昔に戻れるんだったら十八の私に言ってやるわ。無視して立ち去りなさい、さもないと勘当されるのよ、と。本当に男を見る目がなかった」
「あのときの私ったら盲目だったとしか思えませんわ。せめてもう少し、いい男を見る目を養えていたら……」
「いい男ねえ。探せばいるのかもしれないけど、私はもう男はこりごり。だけど本当に、どうすればあのときの私にいい男の見分け方がわかったのかしら」
ふたりは元凶の男への愚痴、悪口、昔の自分への後悔で盛り上がって、もはや白蓮も神子も口を挟んで仲介してやる必要がないのだった。
「いい男の見分け方ね。それは私にもわからないが」
ふたりの会話を眺めていた白蓮は、不意に同じように黙ってふたりを見守っていた神子に肩を引き寄せられる。もう身体はすっかり元通りになっているようだ。
「いい女の見つけ方なら知っているよ」
などとまあ、格好をつけて言うものだから、白蓮も驚いてしまった。あばたもえくぼだとか蓼食う虫も好き好きだとか言うが、神子は本当に自分を〝いい女〟だと言ってしまえるのか?
小雪と透子は神子の宣言に、顔を見合わせて苦笑いした。
「それは、私たちには到底真似できそうにないわ」
その後もしばらく愚痴合戦は続いて、積もる話がようやく終わった頃に、小雪は「透子さん」と呼びかけて、その手を握った。
「私はあの男に殺されて死んでしまったけど、貴方は生きてね」
透子は驚いて目を見開く。小雪は心を込めて、真剣に透子を見つめた。
「もちろん、私の分まで長く生きてって意味じゃありません。あの男に奪われてしまった、貴方自身が生きるはずだった人生を取り戻してください」
「……」
「……って、さっきまで透子さんを殺そうとしていた私が言えた口ではなかったわ」
小雪が取り消そうとするのを、透子は「まったく」とため息混じりに遮った。
「貴方のそういう短絡的なところはどうかと思うわ。私が貴方の知り合いだったら、いの一番にその甘ったれた性格を指導していたでしょうね」
「ああ、恐ろしいこと。でも、透子さんのお小言なら、父の古臭いお説教より素直に聞けそうよ」
「本当に、おめでたいんだから。今更人生を取り戻せって、私、もう三十一よ」
「充分にお若いかと」
「ええ、若いです」
「小娘の私が言うのはともかく、人生の先輩の聖人ふたりがおっしゃるのだから間違いないわ。まだまだこれから、再婚だって……いえ、透子さんはもう必要ないのね。貴方は私よりずっと賢い人だもの。自分の好きなように生きるべきです」
「そういえば、透子さん、かつて先生になりたかったとおっしゃっていましたね」
神子も口を挟むと、小雪は感嘆して、
「素敵だわ。噂に聞く半人半獣の先生みたく教壇に立つの? 想像するだけで格好いいわ」
「いえ、寺子屋はもうあの先生で足りているみたいだから、今更私の入る隙など……」
「なら希望者のお宅を直接訪ねればいいのではないかしら」
白蓮もまた助言を挟む。
「要は托鉢のようなものと言いますか、勉強を教えて、そのお代をいたただいて。なんだったかしら、外の世界で言うところの」
「家庭教師」
すかさず神子が補足する。
「いいんじゃないでしょうか。里では寺子屋を出た後はすぐ家業を継ぐ準備に入る、という者も多いようですが、それでも勉学に野心を燃やす者は古今東西絶えない。寺子屋より高等な教育を希望する者の受け皿になって差し上げてはいかが」
「いいじゃない、透子さん、お坊様と道士様の言う通りにしましょうよ。困ったときは、このおふたりがきっと貴方を助けてくれるわ」
三人から代わる代わる励ましの声をかけられるも、透子はまだ白蓮と神子に疑惑の眼差しを投げ続けている。警戒心の強い透子は先ほどの白蓮の芝居もあって、素直に信じられないようだ。神子は苦笑して、
「私が道中に余計な話をお聞かせして、男性不信を通り越して有機体不信になっているようですね」
「ゆ、有機体?」
「大丈夫ですよ、透子さん。この女は簡単に他人の記憶をいじったりなんかしません。人間の中には、こいつを人間を恨む人間の敵と見做す輩もいるようですが、むしろこの女は人間が大好きです」
「ちょっと、神子」
白蓮は焦る。事実ではあるが、どうして神子は迷わず断言できるのか。
「こいつはやたらと猜疑心が強いし、かと思えば〝仏教ブーム〟なんて見え透いた嘘で簡単に舞い上がるし、臭いものに蓋をしたがる癖がなかなか治らないし、お節介であちこちの妖怪を寺に引き取りたがるし、とんでもなく厄介なやつに違いないのですが」
そこまで言わなくたっていいじゃない。不満げな白蓮を見下ろして、神子は得意げに笑う。
「かつて人間に裏切られたような身なのに、未だに人間と妖怪は平等に暮らせると本気で信じている。だから、貴方も小雪さんも、どちらも助けようとした。どうしようもない馬鹿な夢想も、ここまで一直線なら、信頼に値すると思いませんか」
白蓮は驚く。神子は、自分のことをそんなふうに思っていたのか。
神子の話で、ほんの少し透子の疑念が揺らいだようだった。今度は白蓮が畳み掛けた。
「透子さん、この人は口が上手いから、さぞとんでもないことを吹き込んだでしょうね。だいたいこの人は人格者を気取りながら未だに邪仙と交流があるし、大昔の権威を振りかざすところがあるし、和を建前に我欲を押し付けたがるし、格好つけだし目立ちたがりだし自分勝手だし、何よりとんでもない嘘つきだし……」
「こら、フォローしてやった相手をそこまで貶すか」
「だけど、私はこの人の〝人のために動く〟という信念を疑ったことは、一度もないのです」
お望み通りフォローしたわよ、と神子を見やれば、神子は透子と揃って目を瞬いた。
そうだ、と白蓮は口にして改めて思う。なんだかんだ言いながら、ときにぶつかりながら、それでも白蓮は神子を信じているのだ。
反論しようとしたのであろう透子は、結局所在なさげに視線を彷徨わせる。その手を迷いなく小雪が握った。
「ね、透子さん。貴方が生きていたからこそ、私は貴方と話ができるのよ」
「……」
「大丈夫よ。一度男に裏切られて、私もひどく拗ねちゃったけど、そんな男のためにこれからの人生も放り出す必要はないの。だから、どうか、これからも生きて」
生きて、という言葉が力強く反響した。やがて、透子の頬に涙が一筋、伝う。涙は後から後から溢れて、透子は堰を切ったように泣き出した。
「この三年、私は何度も死のう死のうと考えて、結局果たせずじまいだったけど……本当は私は死にたくなかったんだって、生きたかったんだって、改めて思ったわ。……小雪さん、ありがとう」
心から安堵する白蓮の横で、神子は肩をすくめる。自分が『人間は生きるべきだ』と理屈っぽく言っても解きほぐせなかった、透子の硬く凍りついた心を解かすのが、十六の若い娘による心からの激励であったとは。それも、元は恋敵の――などと考えているらしかった。
長い間張り詰めていた緊張の糸がようやく切れたのか、透子は雪の中にうずくまってぼろぼろ泣いた。その背中を撫でる小雪の手は、慰めのように振り注ぐ柔らかな淡雪は、とても優しかった。
五、
そろそろ疲労の限界であろうと神子が判断を下し、透子は先に神子の仙界へ送られた。新しい生活を始めるためにも、しばらくあのニヤケ面の男がうろつく住まいから離れて、ゆっくり心身の養生をした方がいいとの考えで、白蓮も同意だった。
透子は養生が終わったら、実家に戻って勘当を解いてもらうべく頭を下げるつもりでいるらしい。そのときは神子と白蓮も付き添い、彼女があの男と一緒になってからどんな苦労があったかをつぶさに補足して、親に許してもらえるよう一緒に説得をする心算だった。
すべてが決まってから、透子はおずおずと白蓮に切り出した。
「あの、ごめんなさい、さっきは思いきり叩いてしまって……」
「ああ、大丈夫ですよ」
「でも、頬に傷が」
「これは山姥に包丁を投げられたときのものですから、透子さんのせいではありません」
「何がどうしたら山姥に包丁を投げられる羽目になるんだ」
神子は呆れた目をしつつ、再び透子に向き直って、
「何かあったら私の弟子に遠慮なく申しつけてください。それから、貴方が望むのであれば、貴方のお子さんの供養はこちらの女がやってくれると思いますが、どうなさいます」
白蓮の袖を引いて言うと、白蓮も透子も揃って目を見張った。
「いいのでしょうか。そういえば水子を供養するなんて風習、聞いたことがありませんでしたが。ご迷惑でないかしら」
「迷惑ではありません」
白蓮はきっぱり言い切った。
「お墓を作ってお供え物をあげたい、命日にお経をあげたい。何でも構いません。水子についてはこちらも正式な供養の形式を用意しているわけではないので、不慣れではありますが、透子さん、貴方の心が少しでも穏やかになるのでしたら、私たちはなんでも力になります」
白蓮は以前、水子供養などおかしな風習だと否定していたのを返上して、本心からそう言った。仏の教えに背くかどうかより、目の前で困っている人に寄り添う方が宗教家のあるべき姿だと思ったからだ。
透子はふたりに深々と「これからもお世話になります」と頭を下げて、最後の最後に小雪と握手を交わして別れた。これが今生の別れと、ふたりとも理解していたのであろう。
「では、小雪さん。次は貴方の番ですね」
透子を送ったあと、白蓮は小雪に向き合った。元より小雪を成仏させるために来たのだった。
「本当に行ってしまっていいのか。亡くなったとはいえ、貴方にはこのまま力の制御を覚えつつ妖怪として生きる道も……」
「いえ、道士様、もういいんです」
見送りを渋る神子に向かって、小雪は言い切る。
「本来なら、私は三年も前に死んであの世に向かっているはずでした。やっとこの場所から自由になれる、それだけで充分です。それに、妖怪になったらあの風神とか、他に住む妖怪とかとうまく折り合いをつけてやっていかなければならないのでしょう? 誰かの顔色を伺って生きるのはもう疲れたわ」
「小雪さん。私は貴方の罪が少しでも軽くなるよう尽力しますが、最終的な裁きを下すのは閻魔様です。浄土への旅立ちを約束できないことは、ご承知ください」
「あら、お坊様、そんなこと気にしなくたっていいわ。覚悟はできているし、地獄に堕ちるとしても、ちょっと楽しみではあるのよ」
「はい?」
白蓮も神子も揃って首を捻る。小雪の笑顔は冴え冴えと冷たく、雪もまた冷たく降り注ぐ。
「向こうであの男に会ったら、私と透子さんと透子さんのお子さん、三人ぶんきっちり報復してやろうと思っていたの。私の罪が重くなっても構いやしないわ。浮気された女の恨みは深いと教えてやらないとね」
ふ、ふ、ふと笑う小雪を前に、白蓮も神子も苦笑いするしかないのだった。理由がなんであれ、活力が漲っているのは良いことだと言うべきか……。
白蓮が数珠を手に教を唱え、神子も合掌をする。少しずつ、小雪の身体が雪の中に透けてゆく。
「お坊様。転生ってやはり時間がかかるのかしら」
「貴方の罪次第ですね。ですが輪廻転生とは、本来仏教的には……」
「いいじゃないか、外で異世界転生が溢れかえるこのご時世に解脱を説くのはナンセンスだ」
「邪魔しないでください、私は貴方みたく仏教に適当じゃないんです」
「適当とはなんだ、私は大真面目に解釈した上で使える道具として利用してやろうと……」
「ふふっ、じゃあいつかは解脱を目指すということにしておくわ。でもね、もしも私が生まれ変われるんだったら、親の言うことはほどほどに聞き流して、女友達をたくさん作って、ボーイフレンドもいっぱい作って、いつか最高の男を自分で捕まえてみせるわ。……お坊様、道士様。私を解放してくれて、ありがとう」
小雪は最後に白蓮の手をぎゅっと握った。それから白蓮と神子、ふたりにそれぞれ微笑みかけて、白銀の雪の中に消えていった。途端に雪は降り止み、雪女になりかけた念縛霊はどこにもいなくなった。
「……さて」
長かった一日がようやく終わりそうで、白蓮はため息をついた。
「神奈子さんに報告しなくては」
「なんだ、やっぱりあの風神が一枚噛んでいたのか」
「神奈子さんの依頼だったんですよ、小雪さんのことは。そういう貴方は?」
「青娥の頼みを聞いているうちに成り行きでこうなった。そういえば、お前の山籠りは?」
「そのあたりの話は、まとめて後でしましょう」
ひとまず神子を制して、白蓮は小雪の件が片付いたことと山を降りることを神奈子に報告した。神奈子は満足そうに『そう、やっぱり一番いいところに収まったわね。ま、私としては、私に良くしてくれる妖怪がひとりくらい増えてもよかったんだけどね』と言った。神の采配とは、理解し難いものだ。
山小屋を引き払って人里に降りれば、里はとっぷり日が暮れていたものの、相変わらず大勢の人々がごった返して賑やかだった。神子は白蓮の隣を歩いている。
「やはり年末は騒がしいわね。山が静かだったぶん、余計にそう感じるわ」
「色んな宗教のイベントが立て込んでいるからね。私も今年は忙しい。お前もついているとはいえ、透子さんの保護もあるし、青娥を見張らないといけないし、五右衛門に送りつけるお歳暮も用意しなければ」
「ご、五右衛門?」
「後で話すよ。でも十二月の二十五日って、別に聖人の誕生日とはっきり決まっているわけではないんだそうだ」
「あら、そうなの?」
「まあ、そのへんはやっぱり伝承の曖昧さだよな。サンタクロースにしたってそうだ」
「あの白いひげのお爺さん、あんまり見かけないわね。やっぱり天狗の抗議が大きいのかしら。そうだ、貴方、何やら山でずいぶんニニギを悪く言ったそうじゃない」
「それがどうした?」
「大丈夫なの、よりによって妖怪の山で」
「大丈夫も何も、山の神だったらどちらかといえば天津神と対立した国津神の方……」
「違うわ、天狗たちは我らの祖先は猿田彦って鼻高々じゃない。その猿田彦が導いたのが天孫ニニギよ」
「……なるほど。ニニギを悪く言うと天狗を敵に回すんじゃないかって? 私は天孫の子孫だから関係ないよ、第一あいつはイワナガヒメを送り返した時点で言語道断なんだ」
「ああ、醜女だからと結婚を断った……確かにひどい話だけど」
「醜女がなんだ、大人しく妻に迎えておけば石(いわ)のごとき長寿が約束されたものを。あいつのせいで私たちは木の花のごとき短命になってしまった」
「えっ、貴方がニニギを嫌ってる理由ってそっち?」
「ああ腹が立つ。つまるところ、かつてのお前が死を恐れたのも、元凶の少しはニニギにあるんじゃないか」
「……天のニニギも、子孫にこうもこき下ろされては、困惑しているんじゃないかしら」
などと他愛ない談話が続くものの、なかなか本題に入れない。神子は会話が途切れるたびに、じっと白蓮の目を見つめて、話を促そうとする。
「……あのね、神子」
ようやく腹を括って、白蓮は口を開く。
「私って、自分でもびっくりするくらい重い女だったみたいなの。貴方が言ってくれるほどいい女じゃないわ。嫉妬深くて、面倒くさくて、貴方が愛想尽かすかもしれない」
「……お前ね、開口一番何を言い出すかと思いきや」
神子は大きくため息をついて、白蓮の手首を強く掴んだ。
「また逃げるつもりか」
じろりと睨まれて、思わず後退りしそうになったが、小雪が最後の握手を思い出す。小雪は『負けないで』と言いたげだった。
恋敵を蹴散らせという意味ではない。挫けそうな自分の心に屈するなという意味だ。白蓮はざわめく心を鎮めて、
「私からは逃げないわ。貴方が私の元を去ってしまうのが怖かっただけ」
いざ口にしたら、すんなりと自分の不安も迷いも認めることができた。そうだった。自分も案外、臆病なところがまだ残っているのだった。
神子は虚を突かれたように黙り込んで、ゆっくりと様々なことを考えるそぶりを見せた末に、またため息をついた。
「そんなに信用ないかな……と言いたいけど、今日一日、色んな人間と会ってみてわかった。私は生まれつきこういう能力で、聴きたいことも聴きたくないこともすべて聴こえてしまうから、無意識のうちに自分に都合のいい情報ばかりを選んでしまっているんだ」
耳当てをとん、と指で叩く。
「それでも貴方はなるべく公明正大であろうとしているんでしょう」
「そりゃあできれば多くを拾いたい。それでも気がつけば何かを取りこぼす。思いもよらないことを突きつけられる。修行不足だな」
「貴方が修行不足なら、私はどうなるんです。貴方は貴方なりの善を尽くしているじゃない」
「なんでそんなに励まそうとするんだ」
「だって、自信を失くした貴方はいつもの貴方じゃないみたいですもの」
「失くしてなんかいない、いないんだが……どっかの誰かさんにつられたかもね」
誰に、と言いかけて、恨みがましくこちらを見る目に気づく。
笑いのお面を見て吹き出してしまうように、感情は伝染する。神子が珍しく意気消沈して見えるのが、ここしばらく自信を失くしかけていた白蓮の影響だと言われたら、否定はできない。山に籠っていたときは、白蓮ばかりがひとりで悩んでいるように感じたが、『時間をくれ』とだけ残して置き去りにされてしまった神子の心境はいかがなものか。
白蓮は少し悩んだ末に、思い切って尋ねた。
「貴方のお妃さまのこと、聞いてもいい?」
「お前からそう言ってくれなきゃ私も話しづらかった」
神子があからさまにホッとするのを見たら、途端にドキドキしてきた。改まって聞くのはやはり怖かったが、このまま耳を塞ぎながら怯え続けるのも嫌だった。
「お前も源氏物語を読むんだろう」
「読みますよ」
「なら、葵の上の心境とか、なんとなくわかるんじゃないか」
葵の上――最初は皇太子妃にと望まれていたが、臣下である源氏の正妻になった、源氏より年上の高貴な女性である。容姿も教養も非の打ち所のない姫君だが、源氏は彼女の完璧さに物足りなさを感じて、夫婦仲は長らく冷え切っていた。
(それにしたって『わかるんじゃないか』とは、よく言ってくれたものね)
白蓮は内心苦笑する。何せこの葵の上、作中では極端に台詞が少なく、彼女の心内を深く掘り下げる文章もなく、和歌を披露されることもなく、描写されるのは夫である源氏の目を通した姿ばかり。端的に言えば何を考えているか非常に読み取りづらい人物なのだ。
そんな葵の上の『これは事実と受け取ってもいいんじゃないか』と言える数少ない要素が、『源氏の浮気を快く思っていない』ということだ。要するに、神子は政略結婚の話をしたいのだろうと白蓮は思った。
「私には四人の妃がいた。政の野心のためだけに結婚した、誰が一番偉いとも序列のない妻たちが。残念ながら、彼女たちは誰ひとり、いまの私のところには来てはくれないんだ。私は政の手腕ならそんじょそこらの男には絶対に負けない自信があるけど、複数の女にいっぺんに言い寄るのは……男って、わからないね。なんであんな何食わぬ顔で上手くやり過ごせるんだろう」
神子は同調を求めるように笑った。白蓮は、こういう話題は自分より透子の方が聞き手として適任なんじゃないかと思った。
神子は気を取り直して話を続けた。かなり気を遣って話しているように見えた。
「私なりに腐心はしたさ。ただ、表向きは男のように振る舞って民衆を騙せても、結局私は女だからね。いかに神の子と讃えられた私でも、子供を授ける力はない。……彼女たちなら、私の他にいくらでも相応しい婿を見つけられたのに……私と結婚した妃たちは、平凡な女なら何事もなく叶えられた女の人生の幸せを、私のために潰されたようなものだ」
「……だけど、貴方の時代の女性は、まだ……」
「ああ、〝貞女〟なんて概念はないね。何なら私の方から内緒で男を作ってもいいとも言った。それはそれとして、私は私なりに、彼女たちを……愛したと思うし、彼女たちからもそれを感じるときがあった。それでも、私が本当に望んでいたことは、誰にも言えなかった」
尸解仙になる計画のことだ。彼女たちの口から外に情報が漏れるのを恐れたのか、リスクのある計画から遠ざけたかったのか。あるいは両方かもしれないと白蓮は思った。
不意に神子は空を仰いで、乾いた笑いをこぼした。まるで死に別れた妃たちが遥か天上から悠然と見下ろしているのを、悟っているとでも言いたげに。
「私の密かな企みから徹底的に遠ざけたとか、政略のために騙したとか、妃は仏教を厚く信仰していたとか、そもそも妃の方が私より先に死んだとか。心当たりはいろいろあるけど、四人全員にいい顔をしようとして、結局私は四人全員にそっぽを向かれたのさ。ざまあないね。十人の声を一度に聴けるといっても、こんなもんだ。……信じる?」
白蓮は頷いた。神子がわざと悪ぶっているそぶりはあるが、嘘をついてはぐらかしている気配はなかった。
「だから私は、せっかくこの世界で新しく生まれ変わったんだから、もうプレイボーイの真似事なんてやめて、今度は私が惚れた相手を一途に追いかけようと思ったのに。そいつときたら山に逃げ込むから、困ったものだ。どう思う?」
「……ごめんね」
「まあ、今回だけは、あの一瞬で私を信頼してくれたのがわかったから、見逃してやってもいいよ」
萎らしくなったかと思えば、また偉そうな口ぶりに戻る。思えばあのとき、神子が透子と共に山に来たのを知って、もしや自分を追いかけてきたのか、どうして小雪の恋敵の透子を連れてきているのか、疑問が山のように湧いてきたのに、傍らで殺意を漲らせる小雪を見たら、咄嗟にあの作戦が閃いたのである。
小雪は感情と言動が一致するタイプで、決断が早く、良くも悪くもその場の雰囲気に流されやすい。ならば小雪が動くより先に、白蓮がその場を支配する空気を作らねばと思った。
あのとき、白蓮は無我夢中で神子に頼んだのだ――『私はもう誰にも死んでほしくないの、神子、お願い、手伝って!』
白蓮は無意識のうちに神子なら即座に理解してくれるだろうと思った。甘えかもしれないが、確かにあのとき、白蓮は神子に心からの信頼を預けていた。神子は何も聞かず白蓮の芝居に乗ってくれた。神子が仮死状態になってくれなかったら、透子の命は本当に危うかったかもしれない。神子もまた、白蓮を信頼してくれたのだ。
神子はそのときのことを思い出しているのか、上機嫌だが、白蓮は申し訳なさが募ってゆく。神子が妃たちのことを語るのに、白蓮の心を傷つけまい、かといって妃の誇りも貶すまいと細やかに心を配っているのを思うと、胸が痛くなる。
「どうした?」
「ごめんなさい」
「いや、だからもういいんだって。お前が信じてくれるなら、私はそれだけで――」
「ごめんなさい。貴方が悪いんじゃないのよ。貴方が過去に誰と関係を持とうが、私に口を挟む権利なんてないのに、勝手にやきもちを妬いて勝手に不安になっていたの」
白蓮の吐露に、さすがに神子も足を止めた。
「私、経験不足なのよ。これしきのことで心を乱すなんて、自分でもみっともないと思う」
「白蓮」
「こんなことになるなら、出家する前に誰かと適当に付き合うなり結婚するなりしておけばよかった。そうしたら……」
その先は言葉が続かなかった。神子はいままでに見たこともない、驚くべき表情で、白蓮を見ていた。白蓮は雪山で未練が氷解する前の小雪を思い出し、こちらをまっすぐに射抜く神子の眼差しの意味に気づいた瞬間、
――焼け焦げて灰になってしまいそう。
けれど神子は瞬く間にその表情を隠してしまった。
「白蓮、落ち着きなさい」
自分の心に走った動揺などなかったかのように、白蓮を嗜める言い方をする。
「経験があるとか、ないとか、そんな多寡を競うのはくだらなくないか」
「……」
「それに、お前はひとつ思い違いをしている。私は嫉妬されるのは別に嫌じゃない」
「えっ?」
目を瞬くと、神子は楽しげににやにやしている。
「普通、不愉快じゃないの? それこそ相手を信頼していないみたいで」
「なんとも思っていない相手に嫉妬なんかしないだろう? それもまた愛情の証と思えば悪くない」
「あ、あい……」
その通りではあるが、なんだかいたたまれない。今更気づいたが、白蓮は雪山で、意識のない神子の前であれこれあからさまな言葉を言ってしまったのだった。何せ小雪を助けねば、この場の誰も死なせるものかと頭がいっぱいで、狂女を演じるのに全力で、他に気を配る余裕がなかった。仮死状態になったくせにしかと覚えているとは、どれほど聡い耳を持っているのだろう。
ともかく、嫉妬と信頼の問題は神子の中では切り離されているらしい。
「でも、嫉妬や情念もほどほどにしないと困るものよ。六条御息所のように死後まで化けて出られたらたまったものじゃないでしょう」
「いいね、死後まで追いかけてくれる愛というのは。お前はどうせ私より先に行ってしまうのだろうしな。自ら出向いてくれるなら、反魂香も必要ない」
「貴方ってなんか変よ!」
「冷たいなあ。あのときの、雪が溶けてしまいそうなほどの熱い愛の告白は、抱擁は、どこへ行ってしまったのだろう」
「勝手に記憶を盛ってません!? あれはあくまで小雪さんが気がかりで――」
「あのね、四人もいてひとりも追っかけてきてくれなかったことに、私はそれなりの衝撃を受けているんだ。少し捻くれていても察してくれ」
わざと白蓮の肩に寄りかかった神子は本気で拗ねているらしかった。その横顔を見ても、白蓮は不思議と腹が立たないし、あの身を焦がすような嫉妬も、想像していたようには燃えてこないのだった。
おそらく先ほどの神子の眼差しを受けたせいだ。本来なら恐れ慄くとか気味悪がるだとか、疎ましく思わなければならないはずなのに、嫌でないどころか、自然と頬は熱くなって、そわそわと落ち着かない。もしかしたら自分も神子のことを言えないくらい、変なのかもしれない。
(もう一度、あの眼差しを私にくれないのかしら)
けれどその望みは諦めねばなるまい。その感情は、抱える本人にとっては辛く苦しいものだと白蓮にもわかるから。
白蓮は、改めて神子の話を頭の中で整理する。神子は、単に八方美人が露呈して妃たちに愛想を尽かされたのではない――白蓮はそう思っている。
白蓮の手前、うまくいかなかった関係だと強調しているが、神子は器用な人だ。彼女の言う通り、妃たちには慎重に接し、彼女なりの愛もあったのだろう。
けれど、神子は器用すぎた。
男を装いながら女である。仏教を広めながら道教を信仰している。救世主のように振る舞いながら独裁者も真っ青な排他的な思考を押し隠している。いくつもの矛盾する顔を持つ神子について行くのは並の神経ではできまい。神子は部下について『やる気がない』と愚痴をこぼすが、逆に布都たちがそれだけ能天気だからこそ、神子の部下が務まるとも言える。
偽りだらけの夫婦関係に、妃たちが『これでいいのか』と疑問に思っても不思議ではない。それでも今生限りのことなら、一族のため、己の栄達のため、神子の野心のために妃たちは心を合わせてともに政を行っただろう。
しかし神子は永遠の命を欲して未来に生まれ変わろうとした。もうついて行けない、私は私の行きたい道を行くと見限ってしまったとしても、妃たちが薄情だとは思わない。彼女たちは主君に忠誠を誓う部下ではなく、夫と対等な関係にある妻なのだから。
「どうした、まだごちゃごちゃ考えているのか」
「いえ」
白蓮の心にもう迷いはなかった。
いまなら素直に信じられると思った。自分のことも、神子のことも。
神子は何やら不服そうに白蓮を見上げていた。
「なら、そろそろ答えをくれてもいいと思うんだけど」
「え?」
「いいか白蓮、私は絶対にお前から逃げない。思いが多少重くたって、受け止められる。まあ、嫉妬に関しては私もだいぶひどいみたいだから、後で透子さんに確認するといい」
「私の知らないところで何があったんです……」
「安心していいよ。白蓮。いまの私はお前しか見えてない」
息が止まりそうだった。勝利を確信した神子はすっかり自信を取り戻したらしく、情熱的な言葉で白蓮をじりじり追い詰めてゆく。先ほど神子を仮死状態に追いやったのは白蓮なのに、今度は白蓮の方が息の根を止められそうになっている。
手首を掴む力が強くなる。逃すまいというより、縋り付くような仕草だった。
「お前もそろそろ、私が『一番好きだ』と言って」
思わず上擦った声が出そうになった。先日とは別の理由でまた逃げ出したくなるかと思ったけれど、かっと熱くなった身体の芯も、じわじわ熱を帯びる握られた神子の手の体温も、むしろ白蓮をここに留まらせたいと思わせるものであった。おぼろげに聞こえる耳慣れないクリスマスソングも、人々の喧騒も、どんどん遠くなる。
どうせ、すべてなかったことにはできないのだ。白蓮が放った言葉も、神子から聞いた言葉も、ふたりが長い年月を過ごす間に起こった、お互いが深くは知らないそれぞれの過去も。一度明るみに出てしまったら、もう後には戻れないし、やり直しもきかないし、逃げ道もとっくに塞がれてしまった。
なら、前に進むしかないじゃないか。
――大丈夫、負けない。
勇気を出して、白蓮はその一言を告げた。
空から花びらが降り注ぐように、ふたりの上に真っ白な風花が舞った。
蛍雪の光とはいうが、確かに真昼なのに薄暗い粗末な山小屋の中、窓の外から差し込む雪明かりのみを頼りに写経を続けていると、この頃白蓮の心を悩ませ続けていたある出来事が、憂鬱な気分が徐々に消え去ってゆくようであった。
そのとき、何者かが小さな山小屋の戸を叩いて耳に痛いくらいの静寂を破り、白蓮がはっと顔を上げた。
誰? なんて間抜けな問いを投げるつもりはない。住み慣れた命蓮寺を離れて、弟子たちともしばし別れて、彼女はいま、ひとりきりで妖怪の山に籠っている。
山の妖怪は縄張り意識が強い。まして仏教の商売敵たる風神が我が物顔で鎮座していれば尚更、白蓮にとっては近寄り難い場所――と言いたいところだが、白蓮にこの山小屋を貸したのは他でもないその風神なのである。
「ちょっとお邪魔するわよ」
「お邪魔しているのは私の方ですよ」
「言葉の綾だわ」
神奈子は気さくに踏み入れてきた。風神は寒さなど平気であろうに、神奈子はショールをまとって冬らしい格好をしている。白蓮は写経の手を止めて神奈子を振り返った。神奈子は身震いして、ショールをいま一度強く身体に巻きつけた。
「あら、寒いと思ったら、焚き火すらつけてないの? 薪はちゃんと渡したはずよね」
「あまり寒くないので。それに、修行中ですから」
「そのまま滝行でも始めるつもりかしら、こんな雪の日に。溺死だけはしないでね、死体が哨戒天狗に見つかったら問い詰められるのは私なんだから」
神奈子は苦笑いしてみせる。「それで」と神奈子は正面に腰を下ろした。
「居心地はどう?」
「ここは静かでとても落ち着きます。うちはなんと言いますか、大所帯な上に、いまは季節柄、どうしても騒がしくなるものですから」
「そうねえ。師走も半ばを過ぎたってのに、住職様がこんな山奥に引っ込んでるのはおかしな話だわ。今年は年末商戦を捨てるの?」
「いえ、もう二、三日としないうちに帰ろうと思います。さすがにそう長いことお寺を空けられないと、本当なら気が咎めていたのですが……」
「とにかくひとりになって心を落ち着けたかった。そういう話だったわね?」
白蓮はうなずいた。はじめに白蓮が神奈子の元を単身で訪れ、どこか山の中に身を置かせてほしいと頼んだとき、神奈子は事情を深く聞かず、どの妖怪の縄張りにも入っていない山小屋の場所を快く教えてくれたのだった。
神奈子がこうも気前がいいのは何か裏があるからだとは思ったものの、帰るつもりのなかった白蓮はそのまま借り受けたのである。
「いやね、そんな不安そうな目をしなくてもいいじゃない。こう見えて私はフランクな神様よ」
「神奈子さんの親切は身に沁みています。だからこそ、かえって気を揉むといいますか……」
「そう? 私は嬉しかったんだけどね。貴方がこういうときにいの一番に頼るのは神子だと思ってたから」
その名前が出たとき、白蓮は努めて平静を装おうとしたが、かえって不自然さが露呈してしまったらしい。神奈子の忍び笑いが癪に触って、白蓮はわざとつっけんどんに答えた。
「あの人とはそこまで馴れ馴れしくありません」
「そう思っているのは貴方たちだけ。みんなとっくに腹を割った付き合いをしてるもんだと思っているのよ。そうでしょ? 元々、貴方のストイックな修行法って仙人じみたところがあったものね。本来の相性自体は悪くなかったんだと思うわ」
「……」
「そんな貴方が神子じゃなくて、二番手の私のところに来るってことは、神子には言えない……というか、神子が元凶みたいな悩みなのでしょう?」
やはり神奈子には多くを説明せずとも、薄々見透かされていたようだ。
神奈子はまるで預言者のように粛々と述べた。
「貴方と神子に何かあった。それも、いい方向の変化が」
「どうして悪い方向だと思わないのです」
「そうだったら貴方はもっと不機嫌なはずよ。いい変化が期待できるはずなのに、貴方はかえって決まり悪くなって、かといって弟子には相談もできなくて、折しも師走に入ってお寺はもうじき大忙し。だから貴方はせめてかきいれどきの年末年始に突入する前に、心を鎮めようと山籠りにきたのでしょう?」
――ご明答、としか言いようがない。彼女に神子のような能力はないはずだが、なんといっても太古の昔から人間の営みを見守り続けてきた神様、千年生きた白蓮といえど年季の違いを実感せざるを得ない。
神奈子は満足げに笑っている。これならまだ弟子たちの元にいた方が気が楽だったろうか、と悩み始める白蓮であった。
「でも不思議ね。貴方のとこの弟子たちってそんなに頼りないかしら」
「うるさいのよ、あの子たち」
当人のいないところであんまり陰口みたいなことを言うのは悪いと思いつつ、つい神奈子に向かって愚痴ってしまう。
「私の気持ちは置いてけぼりで『なんで早く返事しないんですか?』『あの人待ってますよ』って急かしたり、聞こえよがしに唆したり、私のいないところでも勝手に盛り上がっていたり。神霊廟と聞けばいつもは臨戦体制に入るのに、今回ばかりはまるでみんなして神子の味方になったみたいで」
「それも神子の仁徳、カリスマかしら。厄介よねえ、うちの早苗も純粋だから、下手したらあいつの口車に載せられるんじゃないかと気が気じゃないときがあるわ」
早苗ってそんなに純粋だといえるのか、と疑問に思うが、神奈子はお構いなしにすっかり親心モードに入っているようである。
「白蓮、クリスマスって知ってる?」
「はい?」
唐突な問いである。白蓮は聞き慣れない横文字にまつわる出来事をかろうじて思い出した。
「西洋の年末のお祭り……ああ、そういえばもうじきでしたっけ」
「十二月の二十五日ね。日本じゃ二十四日のクリスマス・イヴの方が盛り上がりがちだけど。うちもね、早苗が小さいときからずっとお祝いしてきたのよ」
「そうですか」
クリスマスにせよ守矢の思い出話にせよ、白蓮はついていけないが、神奈子の語りは止まらない。こんなおしゃべり好きのマダムみたいな人だったろうかと首をかしげる。
「あの頃の早苗ったら可愛かったのよ。あ、いまも充分可愛いと思ってるわよ?」
「疑ってませんよ」
「早苗、うちに入ってきたサンタさんを捕まえるんだって、一晩中寝ないで張り込むつもりでいるの。純粋よねえ、煙突もない家だってのに、素直にサンタクロースを信じて。夜遅くなっても必死に目を凝らして起きていようとするもんだから、ご両親がどうにか寝かしつけようと苦労なさって……寝てくれないと用意したプレゼントを枕元に置けないものね。いつも私と諏訪子が、ご両親に気づかれないようにこっそり早苗を説得してやってたのよ」
神奈子は微笑ましげな眼差しだった。早苗だっていつまでも小さな子供ではないだろうに、神奈子からすれば永遠の愛娘のようなものらしい。
「大事な風祝が異国の聖人を慕うのに、寛容なんですね」
「いいのよ、サンタに私たちの信仰を奪われるわけでもあるまいし。クリスマスっていうのは、家族で過ごすイベントでもあるから。外の世界の連中は恋人の祭典だと勘違いしてる輩も多いけど」
「あら、そうなんですか? 西洋の恋人たちのお祭りは二月だと聞きましたけど」
「そうなんだけど、日本人の宗教観はいい加減で無責任なのよ。あいつらときたら本当に無知で愚かで、私も外の世界でどれだけ苦労したか……」
このままでは苦労話と愚痴が延々と続いてしまうと自分でも気づいたのか、神奈子は咳払いして、
「まあ、そんなこんなで、うちにはいまもちゃんとクリスマスツリーを飾る習慣があるの」
「神社の中に置くんですか?」
「今更でしょう、日本人が宗教をごっちゃ混ぜにしたがるのなんて。神と仏を一緒に祀ると決めたときだって、人間は大喧嘩してたじゃない」
白蓮は思わず苦笑いする。おそらく物部と蘇我の争いを指しているのだろうが、あれを〝大喧嘩〟の一言で済ませていいものか。
――違うね、あんなものはブラフでしかない。茶番だよ、茶番。物部も蘇我も、私の掌の上で踊るだけなのさ。
脳裏にいつか彼女から直接聞いた言葉が蘇って、白蓮は即座に首を振った。
「まあ、別にいいと思うけどね。家族にせよ恋人にせよ、クリスマスを平和に仲良く過ごしてくれるんだったら……」
神奈子の声音が変わる。ようやく本題に入ったのだと察した白蓮は背筋を伸ばした。
「白蓮、貴方は知ってる? 山には時々、死にたがりの人間がわざと入ってくるってこと」
「……一応は」
「あれもこんな雪の日だったのよ。そう、奇しくも十二月の二十四日……クリスマスだったわ、人間の男女二人が心中したというニュースが届いたのは。あの人間たちは、クリスマスがなんのイベントなのかを知っていたのかしら」
神奈子は神妙な面持ちで、懐からやや古びた新聞を取り出した。見慣れない名前の鴉天狗が作ったらしい新聞の三面に、ピンボケた男女二人の後ろ姿を写した写真と【山奥に消えた人間の男 心中か】との見出しがあった。発行の日付は三年前の十二月二十四日である。
「あの、これだけでは、ただ人間が山に入ったとしか読めませんが」
「あのねえ、貴方が超人だからって人間も同じだと考えちゃ駄目よ。普通の人間が雪の降る山に、しかもこんな軽装で入ってきたらほぼ確実に死ぬわよ。運良く凍死しなくても妖怪に喰われてお陀仏ね」
「でも運良くどちらからも逃れた可能性も」
「ないわ。数日経ってから、比較的新しい人間の死体が雪の中に埋もれてたって報告を受けてるから」
神奈子に淡々と説明されて、白蓮もわずかな希望を捨てざるを得なかった。どうしてこの新聞記事を作った鴉天狗は人間に警告しなかったのか、なんて責めるつもりはない。元より『山にみだりに入ってはいけない』と人間たちの間で充分に警告はされているのだ。妖怪からすればいい鴨でしかなかったのだろうから。
「それにしたって、男女二人が連れ立って歩いてるからって【心中か】はないと思いますが」
「そこは私も同意。どうせゴシップを書くしか能がない三流記者なんでしょ。心中なんて、いつの時代の話をしてるんだか。こいつの無能はあとではっきり判明したわ」
「と、いいますと」
「確かに人間の死体は見つかったのよ。服装もまあ、乱れていたけどこの写真に写っているのと同じらしかった。――ただ、男と女、二人の人間が山に入ったのに、死体は女のものしか見つからなかった」
白蓮は息を呑む。ところが、神奈子は白蓮ほど深刻な顔はしていない。
「人間の死体が見つからないなんて、山では珍しいニュースじゃないのよ。というか、幻想郷全体がそうでしょう? どこかで妖怪に食べられたんだろう、で片付けられておしまい、ミステリーみたいな謎なんかどこにもない」
「そ、そうですが」
神奈子の言う通り、人里では『山に入ったっきり帰って来ない人間は、山姥に始末されたのだ』と信じられているくらいである。かくいう命蓮寺も『妖怪に遺体を荒らされたくないから』という理由で、火葬希望者が土葬希望者より圧倒的に多いのである。
では、なぜ神奈子はわざわざ山で死んだ人間の話を持ってきたのか? 神奈子は外の雪を見守りながら続けた。
「死体が見つかってからさらに数日……年が明けた頃だったかしら。誰かが『山に雪女らしき妖怪が出る』と言い出したのよ。別に雪女なんて珍しくないでしょ、と思ったんだけど、『そいつは件の心中事件で死んだ女の成れの果てじゃないか』って噂が流れて。そいつは毎年、冬になると山のある一帯に……ま、狭い範囲だけど……大雪を降らせるのよ。私の見た感じだと、雪女より念縛霊に近い気がしたけどね」
「念縛霊……」
「ええ。自分が死んだ場所から動けなくなっているみたい」
思わずその言葉に耳を留めたのは、命蓮寺のムラサが同じく念縛霊の一種だからだ。ここまできて、白蓮は神奈子がこの話を持ちかけてきたおおよその理由が見えてきたのだった。
神奈子は口元をつり上げ、不敵に笑った。
「白蓮。私とビジネスの話をしましょうか」
やはり来たか。神奈子が単なる親切心で山に居候させてくれる理由がない、タダより高い話はないと警戒していたので、あまり驚きはしなかったが。
「妖怪退治の依頼なら、私より霊夢さんの方が適任だと思いますよ」
「違う。貴方にはそいつを成仏させてほしいのよ」
「そんなこと言われましても」
白蓮はまだ素直にうなずかない。
「神奈子さんの話、少しおかしいですよ。男女二人が山に入ったのに、どうして女の死体と妖怪しか出てこないのか、とか。どうして三年も前の話をいまになって私に持ちかけてくるのか、とか」
「そうね。男は知らないけど、いま貴方に話した理由なら簡単よ。このままだと、そいつがより厄介な妖怪に化けそうだから」
神奈子はもっともらしく言うが、白蓮は納得しなかった。ならば雪女が出現した時点でさっさと手を打っておけばよかったのに――いや、神奈子はおそらく、雪女を本気で脅威だとは見做していないのだ。いまも昔も。
山に大雪を降らせるといったって、風神の神奈子なら雪雲を文字通り吹き飛ばしてしまえるに違いない。行動範囲の制限される念縛霊相手ならなおさらだ。そして厄介な妖怪に化けかかっているいまも、神奈子はその気になれば簡単に雪女を始末できるはずなのだ。男のことをすっとぼけ続けているのも不審である。
白蓮がもう少し粘って情報を引き出そうとしているのに気づいたのか、神奈子は、
「まあ、無理だというなら引き受けてくれなくても構わないのよ。それで貴方を山から追い出したりもしないし。いざとなったら私の相棒に呪殺してもらえばいいだけだからね」
笑みすら浮かべて、さらっと『蚊を潰してもらえばいいだけだからね』とでも言うような調子で言い切る神奈子に、白蓮は背筋が寒くなるのを感じた。
おそらく神奈子は本当にそれを諏訪子に頼むし、諏訪子も『仕方ないなあ』と言いながら赤子の手をひねるように雪女を殺すのだろう。
「貴方は……」
白蓮の声が上擦った。
「貴方は、もっと慈悲のあるお方だと思っていました」
「もちろん慈悲はあるわ、神様ですもの。だから私より慈悲深そうなお坊さんに相談してるんじゃない」
「脅しにしか聞こえませんよ」
「あのね白蓮。私だって罪のない人間や妖怪を好き勝手に殺していいなんて思ってないわよ。……あら、心中は仏教だと罪になるんだったかしら?」
「なるかならないかでいえば、仏教というより民間信仰ですが……」
「いえ、そうじゃなくて、むしろ雪女にとってこれは幸運なのよ。私だったら自分の脅威になりそうな輩に容赦しないけど、貴方は必ずしもそうではないでしょう。私はあの雪女に関しては、今年の冬がタイムリミットだと思っていた。私が動かなくても、他の妖怪が動くわ。そんなタイミングで白蓮、ちょうど貴方が山に入ってきた。だから私は貴方に依頼をしたの。タダで山小屋を貸したお代としてね」
どうやら、神奈子の中ではすでに白蓮が雪女の調伏に向かうのは既定路線のようである。白蓮としても、いまし方存在を知らされたばかりとはいえ、心中したはずの男は見当たらず、無慈悲な神の手に裁かれかけている哀れな雪女をどうにか救えないものか、と義心が動いているのがはっきりとわかる。もはや山に入る前に感じていた神子に関する憂鬱などどこかに吹き飛んでいた。
「わかりました。その雪女の場所を教えてください?」
「本当? ありがたいわ、貴方なら絶対に引き受けてくれると思ったのよ」
途端に邪気のない満面の笑みを見せる神奈子に現金なものを感じて、白蓮はため息をつく。完全に話のペースを神奈子に握られてしまった。
ともあれ、白蓮は山小屋を借りるお代として、雪女調伏の依頼を引き受けたのだった。
◇
人里では「もういくつ寝ると」とお正月までの日を数える歌を口ずさむ子供に混じって、「きよしこの夜」を調子はずれに歌う人間がいる。
――あの人間、この歌が讃美歌だってわかっているのかな。そもそも讃美歌がなんなのかわかっているのかな。あの歌、『神の子が母の胸に眠っている』と歌っているんだぞ。私と同じように厩で生まれたとされる神の子の伝説をな。何もわかっていないんだろうなあ。いつの世も大衆音楽とはそういうものだからなあ。ふふっ。
神子は道ゆく人々が思い思いに口ずさむ歌をひとつ残らず聴き分けては、日本の年末らしい無節操なごった煮の騒がしさにひとりでくすくす笑って、そしてまた目下自分を悩ませる出来事を思い出して、ひとりため息をつくのである。
――なんで我が師は、クリスマスとやらに目をつけたんだか。
青娥から『クリスマスに配る予定のプレゼントが盗まれた』と相談を受けたのが、つい先刻のことだった。
「貴方は、まだ懲りずに押し売りと強盗を働くつもりなのか」
「まあ、人聞きの悪い。れっきとしたボランティアですわ」
「どこがボランティアだ」
真顔で言い切る青娥に神子はため息をつく。
クリスマスとは、聖ニコラウスなる白髭の聖人がプレゼント配りをお題目に他人の家に不法侵入する行事――とは、排他的な鴉天狗の弁だが、要は西洋のめでたい年末イベントである。壁抜けの術を操る青娥は、どこでこの行事を聞きつけたのか、数年前からこの時期になると白髭と赤服をまとい、聖ニコラウスことサンタクロースの真似事をしているのだ。
「私は確かにプレゼントを置いていっています。それは確かな証言者がいますよ」
「でも金品を受け取るし、家主が不在なら代わりに金品を盗み取るじゃないか」
「そりゃあ貴方、お金なくして宗教家なんて生業が成立しますか。ボランティアは必ずしも無償奉仕を意味しないのよ?」
神子は呆れてものも言えない。百歩譲って青娥に雀の涙ほどのボランティア精神があったとしても、忍び込まれる人間からしたら単なる迷惑な訪問販売や強盗と大差ない。自分の師匠に真っ当な倫理観など今更期待していないが、宗教活動の名の元に堂々と犯罪行為をしでかされては神子は胃が痛くなる。
「今年も選りすぐりのプレゼントを用意して、ラッピングも完璧でしたのに……それを盗み出す不届き者が現れたのですよ!」
「自業自得としか言えないね」
「盗人が相手だからって盗みを肯定していい理由にはなりません」
自ら盗人だと認めた上でこの開き直りっぷりである。理にかなっているだけに、神子は反論しにくい。
「太子様、私のプレゼントを盗んだ不届き者を捕まえてくださいな」
「なんで私が。そもそも、貴方ほどの仙人が誰かにものを盗まれるなんて、迂闊ではないか?」
「まあ、太子様は加害者の責任を追及するより先に被害者を落ち度を責めるんですか? 聖人らしからぬ振る舞いですこと」
お前も加害者なんだよ、と突っ込む気にすらなれない。第一、神子にはこの邪仙の所有物を盗もうと企む蛮勇な輩がいるとも思えないのだが、かといって虚偽の窃盗被害をでっちあげるほど青娥も暇人ではない。
「お願いですよ。何年もこの活動を続けてきた成果か、中には私の訪問を楽しみにしてくれるいたいけな子供もいるのよ。せっかくのクリスマスに、サンタクロースのプレゼントが届かないなんて……その子の悲しむ顔を思うと、私、胸が潰れそうですわ」
「いたいけな子供に目を覚ましてもらういい機会だろう」
「もう、太子様ったら! 西洋のイベントだからって軽んじるものではありません。それともなんです、クリスマスを前にしてご自分の恋路の雲行きが怪しくなったからって、クリスマスを呪っていらっしゃるの? 二十四日には『クリスマス中止のお知らせ』なる怪文書が神霊廟名義であちこちのご家庭に届くのかしら」
「誰がそんなことするか!」
「嫌ねえ、クリスマスが恋人たちの祭典だなんて、浅はかな人間たちの思い込みなのに、あろうことか正真正銘の聖人たる太子様が鵜呑みにするとは」
「そんなもの知るか! 私はクリスマスなんてちっとも詳しくないんだからな!」
青娥のいつものからかいだというのに、思わず語気を荒げてしまったのは、青娥がよりにもよって〝恋路〟なんて持ち出すからだ。
別にクリスマスに恨みも呪いもないが、この頃、神子の恋路の雲行きが怪しかったのは事実である。
詳細な事情を説明すると長くなるので簡潔にまとめれば、神子には(いいな)と思う女がいた。その女も、神子に対する言葉の端々や、何気ない所作、眼差しに漂う気配から、神子を憎からず思っているのだと察せられた。
両思いならば行きつく道は一直線、まっしぐら……とはいかない。自分の思いをはっきり言葉で伝えて互いの気持ちを確認し合っていないのだから当たり前だ。
『なあ』
あるとき、神子は業を煮やしてさりげない体を装って問いかけた。
『私たちはこのままの関係でいいと、お前は思っているのか』
女は――白蓮はわずかに動揺しながら、すぐに平静を取り戻して、
『このままの関係と言いますと?』
『だから、油断ならない商売敵だとか、けれど必要とあらば手を取り合う半ば戦友のようなものだとか……それでいいのか』
『……そのどちらも、私たちの関係を言い表す言葉として、殊更不適切だとも思いませんけど』
白蓮が悩みながら出した答えはなんとも煮え切らないものだった。神子は軽い肩透かしを覚えた。
白蓮は決して鈍感ではない。神子がはっきり言葉にせずとも、神子が言いたいことは、思いは汲み取っているはずだ。なのにまだるっこしい言い逃れをするのは、彼女が僧侶という職業柄、色恋に慎重にならざるを得ないからだろう。
このまま神子が曖昧な言い方を続ければ、白蓮は神子がはっきり言わないのをこれ幸いとばかりに口実にして逃げてしまう。
『たとえそれらが相応しかったとしても、私は物足りないと思う。……白蓮が好きだから』
なので神子はきっちり逃げ道を塞ぐことにした。それは同時に神子の退路も断つことを示していたが。
白蓮は目を大きく見開いた。この期に及んで『友達として』だとか『同業者として』だとかいう逃げ道を探す気はなかったようだ。
白蓮はつとめて動揺を神子に見せまい、悟られまいと尽力しているようだった。それでもさっと頬に差した赤みを、神子は見逃しはしなかったが。
『……少し、考えさせてもらってもいいでしょうか』
『構わないよ』
などと余裕ぶって答えたが、白蓮は相当悩んでいるのか、未だにはっきりした返事をもらえず神子はやきもきしている。
神子は決して短気な性格ではなかった。むしろ待つことには慣れていて、白蓮はああ見えて自らの生業に誇りを持ち、生真面目に修行に取り組むたちだから、どうしたって心の整理には時間がかかるだろう、と一度は鷹揚に構えてみたものの。ひとりの女として、一日でも早く色良い返事がほしいという乙女心が神子にもあるのだった。
師走というタイミングも悪かったのかもしれない。青娥はクリスマスがどうのと言っていたが、仏教徒の白蓮にとっては法会や年越しの支度が何より重要だ。だから時間がかかったって致し方ない、と自分に言い聞かせながら、つい足が命蓮寺に向いてしまったとき、出迎えた一輪は『あいにくですが』と申し訳なさそうに答えた。
『聖様はお留守です。何やら山に籠って修行をするとかで……年の瀬の潔斎でしょうか?』
などと一輪もすっとぼけていたが、白蓮の山籠りの原因が自分にあることなど神子にはお見通しだ。
逃げられた、と苛立ったのはほんの一瞬のこと、即座に山へ向かおうとした神子を一輪は雲山とともに引き留めた。
『そっとしておいてあげてくださいな。すぐに戻ると聖様もおっしゃってましたし……私たちも余計な口出しをしちゃったから、聖様、一層いたたまれないんだと思います』
『そうは言っても……』
『神子様、源氏物語ってわかりますか?』
『はあ?』
さすがに唐突で意味がわからない。神子はぼんやりと外の世界では定期的に源氏がブームになるらしいこと、近年またその兆しがあるようで古文が地獄だと件のオカルト女子高生が愚痴っていたことなどを思い出して、そもそも命蓮寺の妖怪は多くが平安生まれであると思い至ったのであった。
『おおまかなあらすじくらいならわからんでもないが』
『宇治十帖まで?』
『あらすじだけなら』
『じゃあ神子様、ラストに出家した浮舟が薫の使いを拒んだ理由がわかるでしょう』
本当に終盤も終盤の話じゃないか、と思いながら、神子はおぼろげな記憶を手繰り寄せる。現代人にとっての古文も飛鳥生まれの神子にしてみれば〝新文〟とでも言うべき代物で、しかも平安貴族の書き散らす仮名文字は独特の複雑さがあってかなり読みづらい。あんな長ったらしい、それも千年前の小説らしき何かを読むくらいなら紅楼夢でも読んでおけと思ってしまう、あっちの方が道教要素あるし。
それはさておき浮舟――この女性はまず薫という男の恋人になるが、ふとしたきっかけで薫の友人・匂宮とも関係を持ってしまう。ふたりの男のどちらも選べず、進退極まった浮舟は入水自殺を試みるもかろうじて生還、死にきれなかったのならせめて出家がしたいと願い、ついに出家する。のちに浮舟の生存を知った薫が浮舟のいる宇治の山へ使いを寄越すが、浮舟は心乱れ涙に暮れながらも『人違い』だと使いを突っぱねるのであった。
『私が思うに、あれ、まず呑気に使いなんかやってないで薫本人が浮舟に会いに来いよって話なんですけど』
『かといって薫が来たところで浮舟は還俗するのか?』
『そこなんですよねー。来るのが薫だろうが匂宮だろうが、浮舟はぜったいにあそこで浮世に戻っちゃ駄目なんです。そこで物語が閉じるからいいんです』
『どうだかね』
神子は納得しかねる。最後に帰ってきた使いの報告を聞いた薫が(誰か浮舟を匿っている男がいるのか)と邪推をして宇治十帖ならびに源氏物語は幕を閉じるのだが、あのラストはあまりにすっきりしない。そもそも光る君を死なせた後も主人公を薫に据えて物語を続けるなら、薫の物語できっちり終わらせるべきである――という論争を、神子は一輪と繰り広げるつもりはなかった。
要は一輪は、
(神子様、貴方がじかに迎えに行ったって、聖様は帰ってきません。薫と同じように追い返されるのが関の山です)
と言いたいわけだ。それにしたってまだるっこしい言い方をする。
『お前たちはそろって源氏フリークか何かか』
『まあ、平安生まれはだいたい源氏が好きですよ。マミゾウさんとナズーリンがちょっと違うかな』
『あの若手の山彦は疎そうだが』
『響子はチョロいので沼に落とすのは結構楽です』
『お前は後輩をなんだと思っているんだ』
『まあ沈めるのはムラサの方が圧倒的に得意なんですけどね、舟幽霊だけに』
『同僚もなんだと思っているんだ』
うんざりしてきたが、おそらく白蓮も源氏については一輪以上に語れるはずである。
『あの物語の何がそこまでいいんだか』
『素敵じゃないですか。恋と愛の世界に迷った女が、出家をして迷いを立ち切り、男を突き放し、生まれ変わる! まさに仏教的だわ。源氏も立派な仏教文学ですよ』
『出家なんぞで救われてたまるか、あんなのを仏教的な女人救済の物語として読むくらいなら、単なるやんごとない身分の男女の惚れた腫れたの恋愛小説とでも読んだ方がマシだ』
『ははーん?』
道教を是とし仏教に救いを見出さなかった神子の正直な見解である。しかしこの発言は目の前にいるひとりの(雲山も勝手に頭数に入れられているらしいが、いいのだろうか)源氏フリークに火をつけてしまったらしい。
『なるほど、神子様、貴方ならそう言うでしょうとも。ならこの際、いっそ藤壺の出家まで遡って女人出家の是を語りましょうか』
『どこまで遡るつもりだ!』
十人の話を同時に聴けるのだから、命蓮寺の源氏フリークどもが束になってかかってきても、神子は全員捌ける自信がある。自信はあるが、十人くらいの源氏フリークの相手をいっぺんにするのは、普通に嫌だ。
『まあそれは冗談としまして』
『冗談にしては本気で議論をふっかけるつもりだったろう』
『お願いです、今日はこのままお引き取りください。山にも行かないでください。聖様がいつまでも戻らないようでしたら、私たちで連れ戻しに行きますから、ね?』
困りきった顔の一輪に嗜められ、神子はしぶしぶ引き返したのだった。
それからしばらくは、努めて白蓮のことは考えないようにしようとしていたのだが、日が経つに連れて、神子は(もしや白蓮は考えを整理しているうちに心変わりをして、それこそ浮舟のように、思いをすっぱり断ち切る気ではあるまいか)と少し不安になった。
いまどき恋愛禁止の僧侶なんて時代錯誤もいいところだが、白蓮がその点に柔軟かつ寛容な考えを示すかは、神子にもわからない。困った、と弱りきっているところに、盗まれたクリスマスプレゼントの話を持ちかけてきたのが青娥である。
「太子様、キリスト教で重要なのは隣人愛だと言いますよ。汝の隣人を愛せよ。悪くない言葉じゃありませんか。ほら、貴方のそばに困っている隣人がいますよ?」
「貴方は困っている隣人がいたらいつも迷わず助けるのか」
「時と場合によるわ」
この邪仙が最後の審判で裁かれる瞬間を拝めないのが残念である。
しかし、このまま問答を続けても、青娥が引っ込む気配はなさそうだ。神子は自分でも弁舌爽やか、口達者な自覚はあるが、残念ながらこの邪仙に口で勝てた試しは一度もない。青娥はひたすらもっともらしい理屈を並べ立てながら、神子にお願いの眼差しを投げ続けるのみである。
とうとう観念して、神子は折れた。
「盗まれたプレゼントの行方に心当たりはあるのか?」
「まあ、さすがは我らが聖徳太子様! 豊聡耳様! 心優しき皇子の鑑! 聖人とはかくあるべきだわ」
青娥が心にもない褒め言葉を真心を込めて連ねるのを無視して、神子は手短に犯人らしき人物の情報を聞いた。
「人里の男よ。それもかなりの手練ね。見張りの芳香が気づいて私を起こしてくれたときには、もう盗まれた後だったもの」
「やはりあれは番人としてなんの役にも立たんな」
「私の可愛い芳香の悪口はいくら太子様でも許しませんよ」
そうして神子は人里に赴いたわけだが、情報収集自体は簡単なものだ。日頃から布教活動のために足繁く人里に赴き講演会などのイベントを繰り返している神子である、里の人間の大半が神子を歓迎してくれる。
「何か困ったことはありませんか。ほんの些細なことでもいいのです。何でもこの豊聡耳に気軽に相談してくださいな」
神子がそう言えば人間がわっと群がって口々に相談ごとを捲し立てる。やれ飼い猫が逃げ出した、今晩のおかずの献立が決まらない、子供の成績が芳しくない、クリスマスって結局なんの行事なんだ、最近四十肩がひどくて困る、こないだ神子様が言ってた健康法はあまり効果がなかった、など、大半はたわいもない日常の相談事であるが。
神子は持ち前の能力でそのすべてを聴き分け、すべてに的確な返事をする。こうした地道な活動を続けるのもまた、のちに大きな成功を掴む秘訣なのだ。
しかし、神子が故意に「年末は何かと忙しく、人の出入りが多くなって大変でしょう。戸締りは気をつけていますか」などと話を振ってみても、泥棒被害にあったという話は出てこない。被害はないに越したことはないのだが、師匠が師匠なぶん、盗難被害のヒアリングを神子が行うとマッチポンプじみていてあまり気分が良くない。
「……もし」
そのとき、背後からかすかに囁く初老の男の声を、神子は聴き逃さなかった。
「ああ、そのままで構いやせん。あっしもこう人の多いところでは話しづらいもんでさあ。太子様、もしお時間をいただいてもよろしいなら、も少し静かなところで、あっしの話をちと聞いてくれやしませんかね」
神子は振り返らないまま「ええ、わかりました」と他の人間への返事に紛らわせて答えた。経験上、こういう人間は訳ありの曰くつきだとすぐにわかる。それでも男の低く小さな声に潜む欲望から、今回の事件について何がしかのヒントを得られると気づいて、神子はしばしののち、自然に人混みを避けて路地裏の方へ身を滑らせていった。
二、
白蓮が神奈子の話を頼りにたどり着いた場所は、深山の中でも閑散とした銀世界であり、高くそびえ立つ杉の木が雪に紛れてちらちら見える程度である。
(そういえば、信州には冬になると雪女が山姥の姿になって現れる、という伝承があるそうね)
もっともここは山姥の聖域ではないし、神奈子の念縛霊に近いという話を信じるなら、件の雪女は山姥ではないはずだが。
なお、神奈子は白蓮に雪女の出現する地域を教えたあとは、防寒具を惜しみなく貸し与えて「それじゃあよろしく」と見送ったのである。白蓮に同行するつもりははなからなかったらしい。
白蓮は乾いた雪が降り積もる地面を一歩一歩踏み進める。間違っても遭難してくたばるようなヘマはしないが、ひとりきりで歩く山道というのはどうも心細い。
(雪女になった女性は、行きは男と一緒に山を登ってきたはずだった)
白蓮が踏み進めるに連れて、雪が一層激しさを増し、猛吹雪となって白蓮に襲いかかる。間違いなく、この吹雪の中に雪女がいる。白蓮は懐の数珠を強く握った。
「――誰!」
冴え冴えとした鋭い一声が白蓮に突き刺さった。吹雪が一段と強くなって、まともに目を開けられない。
白蓮は臆せず声の主の元まで歩み寄り、まつ毛に降りかかる雪を払いのけて、雪女の姿を見た。
(――あら、綺麗な人……)
場違いにも初めに浮かんだのは呑気な感想だった。肌は雪のように青白く、身体は不健康に痩せ細り、傷跡だらけで、眼は怒りと恨みに爛々と血走っているものの、頬がもう少しふっくらとして健康的な紅潮があり、真っ青な唇に鮮やかな紅を差したのなら、絵にも描けない美しさであったろうと思わせる面影があった。吹雪に逆立つ悪鬼のような髪も、生前は豊かな緑髪だったのだろう。何より着物が、冬の雪山に似つかわしくないぼろっちい薄着ながら、生地の質感や施された刺繍の綿密さは上等で、白蓮はこの女は元は裕福な家の娘だったのかもしれないと思った。
雪女は吹雪にも怯まずやってきた白蓮を不審に思っているようだった。
「誰よ、貴方は」
「聖白蓮、命蓮寺の住職です。守矢神社の祭神・八坂神奈子さんの依頼で、貴方を成仏させにきました」
「守矢? ……ああ」
念縛霊といえどさすがに神奈子の名は知っているのか、雪女は訝しむように白蓮を見つめた。吹雪が少し落ち着いたようだった。
「あの偉そうな神様ですか。前に私のところに来たときは『早いとこあの世へ旅立ちなさい。妖怪として第二の人生を歩むというなら止めませんけど』などと言いまして、『どちらにせよ私はここから動けないんです。まずは私を解放してください』と頼んだら、『考えましょう』と答えたくせにそれきり音沙汰なしで。私は神にも見放されたのかと思っていたのに、今になってお坊さんを使いによこすとは、何を考えているのやら」
「こちらに神奈子さんがいらしたんですか」
「そうですよ。おかげで私は危うく無神論者になるところでしたわ」
刺々しい口調からして、神奈子に恨みを抱いているらしい。もっともだ。彼女も忙しいのだろうが、もう少しお膝元の民や妖怪の声を聞いたっていいだろうに。
「貴方はここから一歩も動けないのですか?」
「ええ。動き回れるのは、この大きな杉の木の周りだけ。その先へ行こうとすると、空でも地上でも、まるで金縛りにあったように動けなくなるんですよ。見えない鎖が私を縛り付けているみたい」
雪女が忌々しげに空に手を伸ばすと、また天気が荒れて吹雪になった。本当にこの雪女が吹雪を起こしている。しかし、白蓮がここまで歩いてきた山道は降雪といっても穏やかなもので、彼女の吹雪は局地的にしか起こせないらしい。
「ああ、嫌。どんなに恨んでも怒っても、この憎しみは尽きることがないのに、どうして私が怒るたびにいちいち雪が吹き荒れるのよ」
「それは、貴方が雪女になってしまったからでしょう」
「雪女。……そうですね、死んだ人間が雪女になるなんて話は聞いたことありませんでしたけど、雪山で死ぬとそうなるのでしょうか。それとも私の名前がいけないのかしら。私が降らせる雪は〝小雪〟なんて、可愛らしいものではないけれど」
「貴方は小雪さんというの?」
白蓮は思わず聞き返した。元は人間なら名前があって当然なのだが、神奈子が雪女としか言わないから白蓮も忘れかけていたのだ。
「ええ、そうです。……懐かしいわ。私の名前を呼んでくれる人なんて、もういないと思っていたのに」
雪女、小雪は寂しげな微笑を浮かべた。怒りが鎮まって穏やかな表情をすると、いかにもたおやかな年頃の乙女といった風情で、とても神奈子が命すら狙っている危険な妖怪とも見えないのだった。
「それで、貴方は本当に私を成仏させるつもりでいらしたの?」
「はい。元を糺せば神奈子さんの依頼ですが、貴方がここに留まるのを嫌だとおっしゃるなら、私はぜひその手助けをしたいと思います」
白蓮は本心から言った。白蓮には小雪が危険か否かなどあまり問題にならない。ただ、自らの望みとは裏腹に寂しい雪原にひとりで拘束されて嘆いている小雪を見ていると、昔のムラサを思い出して、どうしても放って置けないと心が揺さぶられたのだった。
「ふ、ふ、ふ……」
小雪は小さく笑いを漏らした。白蓮を嘲る響きがあった。
「噂だけは聞いたことがありますわ、聖白蓮さん、高名な尼さんだとか。いままでどのような調伏を成功させてきたか知りませんが、本当に貴方に私を成仏する力があるのかしら。貴方は私の恨みの深さを、私がどのような最期を迎えたかを、知らないでしょう?」
「男の人と二人で山に入って、山の妖怪たちは心中だと思っているようですが、男の死体が見つからなかったとか……」
「見つかるはずがないわ!」
突如、小雪は甲高く叫んだ。
「だってあの人は、あの男は、ここで私と死んで来世で一緒になろうと誓いながら、私を裏切ったのよ!」
叫ぶと同時に吹雪が吹き荒れ、小雪は雪の中に突っ伏してさめざめと泣き出した。
白蓮はすぐには返事ができなかった。男の消息を「もしや」と疑ってはいたものの、目の前で泣き咽ぶ女を揺さぶって詳細を聞き出すのは憚られた。
やがて、小雪は涙を拭って、真っ赤な目で白蓮を見上げた。
「やっぱり何もご存知ないのね……いいわ。お坊様。もし貴方の、私に向けるお慈悲がいっときの気まぐれでないのなら、哀れな女の話を聞いてくださいな。私とあの男に何があったのかを」
小雪は切々と語り始めた。
◇
――私の父は厳格な人でした。
いえ、殴ったり怒鳴ったりはしませんの。それなりに愛情はあったと思いますし、家は裕福で、衣食住といった生活の基礎には何ひとつ困ることがありませんでした。ただ、ものの考え方が古風な上に頑固なたちで、「男女七歳にして席を同じゅうせず」だの「嫁入り前の娘が軽々しく男と口を聞くんじゃない」だの、いったいいつの時代の話をしているのかと首を傾げたくなる話を口うるさく繰り返すのです。母は気の弱い人で、父の教育方針に口出しできないのでした。
幼いときから、子供心にも父をおかしな人だと思っていましたが、かといって反抗するなんて考えは一切なく、粛々と父に従っていました。私は厳格な父ともの静かな母の元で大事に育てられて、いずれ両親の決めたしかるべき人の嫁になるのだと思っていました。あの人に出会うまでは……。
それは秋の日のことでした。まだ残暑が続くかと思っていたのに、急に朝晩がめっきり冷え込むようになって、私は寒さでいつもよりずいぶん早く目が覚めたのです。家の女中たちもまだ寝ているようだったので、私が自ら火を起こそうと、離れから薪を取ってきて、水を汲みに井戸まで行って……そこに、見知らぬ男の人がうずくまっていたのです。
とてもびっくりしました。人間って、あんまり驚くと声も出ないんですね。金縛りにあったみたいに身体も動かなくて、そしたら男の人が私に気づいて、「水をくれ」と言ったのです。声をかけられてようやく我に返りましたが、今度は見知らぬ男が家の敷地にいる実感が湧いてきて、怖くて身体が震えてきたのです。
でも、その人、よく見ると怪我をしてずいぶん弱っているようなのです。自分で井戸水を汲み上げることもできないくらい。それに気づいた私はどうしたことでしょう、大急ぎで自分の部屋まで戻って、両親が眠っているのをいいことにそちらも漁って、手当てに必要な道具をぜんぶ揃えて男の人のところまで戻ってきたのです。身体が勝手に動いたとしか言いようがありません。後になってから「見知らぬ男の人を介抱したなんて知られたら、父がどんなに怒るだろう」と恐ろしくなったのでした。
その人に話を聞きますと、危険な生業のために怪我を負ったとだけ言って、あとは詳しいことは何も教えてくれませんでした。私がいつ家の者が目を覚ますかと焦りながらどうにか手当てを終えると、その人は『ありがとう』と残して、どこかへ去って行きました。怪我をした野良猫のようにふらっと立ち寄って、ふらっと消えた人でした。
その人の姿が見えなくなってからも、私はずっとどきどきしていました。寒くて目を覚ましたことなんかすっかり忘れていました。だって、私、父以外の男の人とまともに口をきくなんて、生まれて初めてだったかもしれませんから。その人はたぶん二十五、六ほどでしたか、当時の私はまだ十六の小娘でしたから、ずいぶん大人の男性に見えたのを覚えています。私は人知れずずっと「あの人はいったいどこのどなただったのかしら」と気になりながら、やはり父の目を恐れて、訪ね当てることもできないのでした。それに、もう会うこともないのだろうと半ば諦めてもいましたし……。
ところが何日か後になって、その人がまたうちに現れたのです。秋本番になったと思いきやまた夏のような暑さが戻ってきて、私がひとりで庭に出て風に当たっていた夜に。その人は初めて会ったときに比べるとずいぶん綺麗な格好をしていて、何やら手に包みを下げていたのでした。
『こないだのお礼に参りました』
――私は魔法にかけられたみたいに、その人の手を取って、誰にも内緒で私の部屋に引き入れました。
お坊様、私を愚かだと思いますか? 思い返して、私も愚かだと呆れます。けれど恋という魔法にのぼせた若い娘なんて、そんなものだとも思いませんか。
あの人は優しい人でした。厳格な父が不器用に与える愛とは異なる、生身の男性の温もりと優しさを初めて知った気がしました。私がまともに男性とお付き合いしたことがないのを、とんでもない箱入り娘だと呆れるかと思いきや「ご両親に大事にされているのだね」と微笑み、「もし私が嫁にくださいと頼んでも、お父様は承知してくださらないだろうね」とおっしゃって。ああ、本当に結婚を申し込んでくれたのなら、私は父母への恩を振り捨てて、身ひとつであの人の胸に飛び込んだでしょう。
それから私たちは人目を忍んで、こっそり逢引きというものをするようになりました。とはいえ、私ひとりで男の人の訪れを家の者全員から隠すのは不可能でしたから、私にとって気心の知れた、信頼のおける女中二人を言いくるめて、恥ずかしながら金品も握らせて、いわば買収して共犯者にしたのです。
あの人は自分の多くを私に教えてはくれませんでした。住んでいる場所も、仕事のことも、自分の名前すらも。危険な生業だから、下手に話して私を厄介ごとに巻き込みたくないと言うのです。愚かにも私はそれを愛情の証と自惚れて、鵜呑みにしました。
家族に秘密を抱えてまで、あの人と交わす逢瀬はほんの僅かだけ。それでも私は幸福でした。あの人のことなどほとんど知らない、この恋は誰にも知られてはいけない、誰にも祝福されない、もし知られたら父がどんなに咎めるか恐ろしい、それにあの人は、〝本当に〟私のことを心から愛してくれているのだろうか? 私だけを……私の心にはいつも不安が絶えず影のように付き纏っていたのに、それすらも恋を燃え上がらせる燃料としかならないのでした。
ですが、そんな幸福も長くは続かなかったのです。
日に日に寒さが厳しくなる冬のある日でした。あの人は血相を変えて私の元にやってきました。曰く、仕事で大きな過ちを犯し、仲間の信頼を失い、もはや人里に自分の居場所はないと絶望した面持ちで告白するのです。
そのときの私の衝撃は言葉では言い尽くせないものでした。だって、この幻想郷には人里のほかに、人間の住む場所がどれだけあるというのです? あの人が里を去ってしまったら、私はもう二度とあの人に会えなくなる。
悲しみのあまりほろほろと涙を流す私を見て、あの人はこう言いました。「これもまた神の思し召しというものだろう。私たちはこの世では結ばれない運命だったのだ。……私はもう死のうと思う。この世で思い通りになることは何ひとつなく、貴方とも別れてしまうなら、いっそ潔く死にたい」
「ひとりで死ぬなんておっしゃらないで」私は思わず涙ながらに取りすがりました。「貴方が死出の道に赴く覚悟なら、どうか私も連れていって」
あの人は驚いて、早まってはいけないとあれこれ私を説得しようとしましたが、私の心はもう決まっていました。だってあのときの私は、若い身空で死に向かう恐怖よりも、不謹慎ながら、これでやっとあの人を私だけのものにできるという喜びに震えていたのですから。
私の決意が翻らないのを知って、とうとうあの人も折れました。そして約束したのです。「次に雪が降ったら、その日に二人で山の奥に入って、来世で一緒になろう」と。
私は密かに身の回りの整理をして、二人の女中にも別れを告げ、来たる雪の日の心中の支度を整えました。そして約束の日――師走の二十四日に、朝から雪が降り続けて、昼には大雪になって、この日だと思った私が密かに家を出て山の入り口まで向かうと、あの人もまた死に支度を終えて私を待っていたのでした。
二人で雪の山道を登る道すがら、私は恋にのぼせて寒さを感じていませんでした。だってこんなの、まるで物語にのみ聞く、男女の愛の心中ではないですか。
この世の名残り、夜も名残り、死にに行く身をたとふれば、あだしが原の道の霜、一足づつに消えて行く、夢の夢こそ哀れなれ……近松の有名な人形浄瑠璃を、私はこの目で見たことはありませんが、家の書斎で読んだことはありました。あの美しいしらべが心に焼き付いて離れず、私は自分がお初、あの人が徳兵衛になったような気持ちで、二人で深雪の道を歩いて行きました。
山奥の、決して人間が入ってこれない場所に辿り着いて、大きな杉の木の元に私たちふたりは腰を下ろしました。お初と徳兵衛のように、互いの身体を木に縛りつけようとしたのです。
けれどあの人、かじかんで手元が狂うのか、なかなか私を縛れなくて……もしや私を殺すのを躊躇っているのかと思って、お初のごとく「早く」と急かした、そのときでした。
あの人は急に縄を捨てて、氷のように冷たい手で私の首を掴み、恐ろしい力で締めてきたのです。驚きはしましたが、まだ私はあの人がすぐに後を追うものと信じていました。
ところがあの人、手が震えて私をうまく絞め殺せなくて、私も苦しくなって激しくえづきました。次の瞬間、あの人は懐に携帯していた小刀を取り出して、私を滅多刺しにしたのです。
そのときになって私もおかしいと思ったのです。殺すのならひと思いに首か胸を突いてくれればいいのに、あの人は気が狂ったみたいに、急所の見当もつけずにただ闇雲に小刀を振りかざすばかりで……私は長く苦しみました。かろうじて「やめて」と言ったはずなのに、あの人は聞いてくれませんでした。
しばらくして、私がもはや助かるまいという状態になって、身じろぎすらできないでいるのを見ると――あの人は、虫の息の私を雪の中に置き去りにして、どこかへ逃げていったのです。私のことなど振り返りもせず。
ああ、短い人生とはいえ、あのとき以上に私が絶望したことなどあったでしょうか! 私はあの人と一緒に死ぬはずだったのに、来世で結ばれるはずだったのに、あの人は土壇場で自分が死ぬのが怖くなって、私だけを殺して逃げ出した! 私を裏切った! 私は絶望の中で、ひとりで息絶えるのを待つことしかできませんでした。肌に触れる雪の冷たさが、そのままあの人の冷たさのようでした。
それでも、せめて死んですぐにあの世に行けたら、地獄でもいいからこの世を去れたらよかったのに、私の未練があまりに強すぎたためなのか、気がついたら私は霊体となって、雪に中途半端に埋もれた自分の死体を見つめていたのでした。
私はすぐにあの人の行方を追おうと思った。けれど私はこの杉の周りから動くことができなかった。私の魂は縛られてしまったのです。
もしかしたら、あの人が心を改めて、戻ってきてくれるかもしれない――そんな甘い希望は血のにおいを嗅ぎつけた妖怪たちによって無惨にも打ち砕かれました。
お坊様、貴方にわかりますか。私の死体が、妖怪たちに貪り食われるのを止めることもできず、ただ見つめることしかできない絶望が、恐怖が、悔しさが。
あの人への愛は憎しみに変わり、負の感情が強い怨念となって、私を念縛霊へと変えて、成仏も叶わず、いまなお私をこの地に縛り付けているのです。私の怨念が昂るたびに大雪が降るのは、私が死んだあの雪の日を思い出させるためでしょうか。それでいまの私は雪女と呼ばれているのですね。
お坊様、お願いです。私を少しでも哀れだと思ってくださるのなら、あの人を……いえ、あの男を私のところへ連れてきてください。
いいえ、ご心配には及びませんわ。お坊様の手を汚させるような真似はいたしません。私が自ら、この手であの男を殺します。私が味わったものと同じ絶望を味わわせて、同じ雪の中に無惨な死体を埋めてやります。
お願いです、お坊様。私を哀れと思し召しなら、どうか、どうか……私は、あの男の亡骸を、私が死んだこの場所に埋めない限り、心の穴も埋まらないのです。未練が晴れないのです。私の心はいつも冷たい大雪で荒れています。
お坊様、どうか、あの男を、あの人を、私のもとに……。
◇
(どうしましょう……)
小雪の話を聞き終えた白蓮は、小雪のいる杉の木の元を離れて、ひとり宛てもなく山の中を彷徨い歩いていた。
小雪の告白は、白蓮の同情を誘うには充分すぎるほどで、なんとしても力になりたいと思わせた一方で、長年数多の人間や妖怪の悩みを聞き続けてきた白蓮は、小雪の話にところどころ滲む不自然さにも気づいていた。
小雪は嘘をついている、とまでは断定しない。ただ、彼女の主観的な真実を語っているだけで、おそらく事実とは食い違う部分や、彼女が憎しみにかられて大袈裟な口ぶりになったところや、自分にとって話しづらい箇所をわざとぼかしたり黙秘していた部分もあるだろう。
いや、小雪の話がすべて真実かなどは問題ではなくて、彼女が未練を晴らすべく『逃げたあの男を殺したいから連れて来てくれ』と白蓮に懇願したことの方が遥かに問題である。
僧侶として、殺人幇助などできるはずがない。いくら自分を裏切り殺した相手とはいえ、小雪が誰かを殺すところなど見たくない。けれど彼女の憎悪は深く、それ以上に自分が死んだ場所から動けないまま三年もひとりきりで過ごした彼女の嘆きを思うと、白蓮はせめて逃げた男の行方について、何か手がかりは見つからないかとしらみつぶしにだだっ広い山の中を探し歩くしかないのだった。
(考えるのよ、考えるのよ、白蓮。ムラサのときをよく思い出しなさい)
ひとりで雪山を歩き続ける傍らで、白蓮はひたすら小雪のことを考え続けている。
死んだ場所から動けない、未練のために成仏もできない念縛霊という点で、小雪はムラサに似ていた。かつてのムラサも深い憎悪を胸に宿し、海上を通りかかる舟を次々に沈めて多くの罪なき人間を海の藻屑にしていた。
けれどムラサは、本当は人殺しを望んでいたのではない。ムラサはただ、唐突に訪れた自らの死を受け入れられず、悲しみと憎しみのあまり、舟を転覆させて自分と同じ溺死の苦しみを味わわせることで憂さ晴らしとしていたのだ。
白蓮はムラサの調伏を持ちかけられたとき、時間をかけて彼女を海に縛り付けるものの正体は何かと考えた。その結果、彼女は自分を溺れさせた舟を探し続けているのではないかと見当をつけ、ムラサにその舟とそっくりに誂えた新たな舟を与えてやった。結果、ムラサは晴れて海の呪縛から解き放たれた。
小雪の縛られた地からは離れたはずなのに、雪がいっそう強くなった。白蓮はほとんど寒さを感じないが、並の人間にはひとたまりもないだろう。
(ムラサもこんな冷たい海の底にいた。小雪さんもきっと、愛する人の温もりを失って、冷たい雪の中で苦しんでいるのね。何とかして彼女を解放しなければ……あそこは開けた地のわりには、周りの峰々の木が陰になってろくに日が差し込まないんだもの。彼女を日の当たる場所へ連れ出せたら――)
そのとき、白蓮の脳裏によぎったのは、長い冬の雪を溶かす麗らかな春の陽光ではなく、周囲の目を余さず奪わずにはいられない、眩い日輪そのものの輝きを持ったひとりの聖人だった。
(いやね、私ったら。あの人とのいざこざで山に籠ったのに、こんなときにあの人がそばにいて、知恵を貸してくれたら、一緒にこの問題を解決してくれたら、なんて、都合よく願っている)
日が傾いたせいか、山は一段と暗くなり、寒さも増してゆく。白蓮は自分から遠ざけたはずのただひとりの温もりを恋しく思った。
◇
神子が路地裏に身を潜めてほどなくして、ひとりの男がやってきた。歳は四十を過ぎたであろう中年男、背丈は低く、神子と並んでも大した差がない。服装こそ里の人間に混じっても浮かない格好をしているものの、身体のあちこちに古傷の跡が目立ち、片目は潰れかけているが若い頃は『苦み走った良い男』と評される風体でもあったと思う。こいつが先ほど神子にひそひそと声をかけてきた男に違いないだろう。
「ここでよかったでしょうか。耳を澄ませてみましたが、どこぞに身を隠して聞き耳を立てる不届き者もいないようだし、最適だと思ったのですが」
「ええ、充分でさあ。改めて、あっしの頼みを聞いてくだすってありがとうごぜえやす」
「お礼を言うには早いわ。まだ貴方の話は何も聞いていないも同然なのですから」
「しかし、名高き太子さんには、あっしの言いたいことなどとうにお見通しなんでしょう?」
男は豪快に笑うが、神子が感じ取ったのは、この男が青娥のプレゼントを盗んだ犯人について、何がしかの鍵を握っているということと、この男のおおよその素性についてだけだ。
「貴方は……」
「ああ、堅苦しい言葉遣いはなしにしてくだせえ。公人として品行方正な態度を貫くのはご立派だが、密談ってえのはもっと気楽に、身分も忘れて肩の力を抜いてやるもんでさあ」
「……なら敬語はやめさせてもらう」
男の独特かつ軽妙な口調に促され、神子も公に出るときの顔は一旦捨てることにした。
「単刀直入に言うが、お前はカタギの人間じゃないな。かといってヤクザ者のように血で血を洗う争いに身を投じる風でもない。極悪非道の人間の生臭い欲望のにおいもしない。しかし清廉潔白な人間の清らかな欲望もあまり感じない。――お前、盗人だろう」
「ご明察でさあ」
男はにやっと笑った。
「太子さん。あんた、里にしょっちゅう来なさるが、人間の里をどんな場所と見ていらっしゃる?」
「どうと言われてもな」
神子の記憶に新しいのは年末の忙しさに奔走する、あるいは無邪気にはしゃぐ大人や子供の数々。商人はここが掻き入れどきと腕まくりし、子供は覚えたての『クリスマス』という単語を連呼して親にプレゼントをねだり、貧しい家の者も手製のしめ縄飾りを玄関に飾って新年を待ち侘びているようである。見るからにありふれた平穏な日本の年末風景である。
「小さな困りごとや諍いの相談は受けるが、ここの人間たちはどいつもこいつも呑気で、大きな争いを起こそうという気概はない。争ってほしくなどないし、平和でいいことだ」
「そうでしょうとも。里の外には人間を狙う危険な妖怪どもが跋扈しているっちゅうに、人間同士でわざと対立を起こす馬鹿がいるもんか。あんたの言う通り、表向きはみんな平和に身の丈のあった暮らしをしている。と、いっても」
男は口元を歪めた。
「いくら天の神様が人の上に人を作らんでも、馬鹿な人間は勝手にどちらが強いのどちらが偉いのと格差をつけたがるもんでしてねえ。人里にも富める者と貧しい者、健やかなる者と病める者がいます。それはおわかりですな」
「もちろん」
いまは大結界に閉ざされている幻想郷も、元は外の世界の一角を隔離して作られたものだ。様々な身分の人間が住んでいるのはおかしなことではない。
「人間は生まれる場所を、生んでくれる親を選べない。不平等なものでさあ。富める者がぶくぶく財を肥え太らせる傍らで、貧しい者がくる日もくる日も湯ばかりの薄い粥に甘んじているなんて、納得できねえ」
「だから鼠小僧のごとく富める者から盗みを働いていると。いっぱしの義賊気取りか? 大した正義漢だな」
「なあに、どんな大義名分があろうと盗みは盗み、あっしがお天道様に顔向けできる人間じゃねえってことぐらいわかってまさあ」
あっはっは、豪快に笑う男を前に、さて、どうしたものかと神子は考える。
男は盗人だと白状した。が、神子に対する少しも後ろめたさを滲ませない大胆不敵な態度からして、こいつは〝青娥のプレゼントを盗んだ犯人ではない〟とわかりきっていた。
ならさっさとこいつが握っているであろう真犯人の情報を吐き出せと掴みかかってもいいのだが、大人しく男の話に耳を傾けているのにも理由がある。
こいつは明確に権威や権力を嫌い、かといってそれらを打破する腹積りはなく、ただ、それこそ身の丈にあったささやかな抵抗で、世の中や自分の暮らしへの不満を訴えているのだ。それがどんなに歪な主張であろうと、かつて為政者だった神子は、民の声を黙殺するわけにはいかない。
「しかし、お天道様の子孫のあんたはこうして取るに足らぬあっしの声に耳を傾けてくださる。ずいぶんお優しいこって」
「我が道教の一門に賛同してくれそうな者を取りこぼしたくないものでね」
「あいにく、あっしはどこの宗教も拝みやせんよ。神仏に救われる身の上だと思ってないんでね」
「やれやれ、いままでどれだけの悪事を働いてきたのだ。お前の罪次第では、義賊を騙り強奪の限りを尽くした大悪党として、私がこの場で斬り捨ててやっても構わんのだが」
無論、霊夢や魔理沙のようなのはともかく、何の力もない人間に襲いかかる主義は神子になく、本気で殺すつもりなど微塵もない。ただ、無意識に剣の鞘に手が触れたのを男は見逃さず、
「おっ、本気であっしを斬りやすか。そいつが噂に聞く七星剣ですか、見事な拵えで。あっしは何人目の鉄錆になりやすか?」
「覚えてないね」
「そいつはいけねえな、あんたのような他者を蹴落としてまで天辺にのし上がった奴は、どんなちっぽけな、道端に転がる石っころのようなつまらない人間だってひとりも忘れちゃいけねえんだ」
「お前の名は私の心の中に未来永劫刻んでやるよ。もっとも、私はまだお前の名前を知らないが」
「あっはっは、これじゃどっちが悪党だかわかりゃしねえ。斬りたきゃどうぞ斬りなせえ。なあに、人間、ジタバタしたってどうせいつかは死ぬんでさあ、十五で初めて盗みに手を染めて以来、自分はいつ死んでもおかしくない身と思い定めて参りやした。あっしにゃ絆(ほだし)となる女房もガキもいねえ、仲間は数日ばかり悲しんだのちにまた日常に帰るだろう、死ぬのはちっとも怖かねえ、あの世で待ち受ける閻魔さんの裁きだって怖かねえ!」
「威勢がよくてよろしいが、本当に死んでも未練はないと言い切れるのか? 人間は生きてこそ意味があるというのに」
「そうですねえ、強いて言うならこんな誰もいない路地裏で朽ち果てるのでなく、正式にお縄について市中引き回しの末に見せしめの斬首、というのはちと古臭いが、ま、できればド派手に天下の大悪党だと喧伝してもらいたいもんでさあ」
されば同時に貧民の窮状も知れ渡ろう、という魂胆か。神子は眉間に皺を寄せる。ある種の人間は不思議なことに死をまったく恐れない。むしろ死んで花実は咲くのだと言わんばかりに荘厳さを湛えて死地へ赴き、燃え尽きそうな灯火の炎が最期にひときわ明るく燃えるように、凄まじい生命力の足掻きを見せつける。そういう人間は往々にして時の為政者を苦しませるものだ。
「馬鹿を言うな、カッコつけ野郎。何が死ぬのは怖くないだ。不死身の蓬莱人でも人間を超越した魔法使いでもない、ただの吹けば飛ぶ中年男のくせに。もっと生への欲望を見せろ、人間なら人間らしく生きたいと言え、罪の意識があるなら一生抱えて生きて贖え」
「おや、さっき斬り捨てて構わんと啖呵を切ったお方と同じとは到底思えねえお言葉で」
「私は死にたがりの心情なんて理解したくないものでね」
神子はそっけなく言い捨てる。
神子はいままでに一度も死にたいと願ったことがない。飛鳥の世に生まれ、人間の定命に疑問を持ち、若き日より絶えず政への野心を燃やし、大王の座への見果てぬ夢が破れたことでいっそう道教にのめり込み、永遠の命を希求し、ついには長き眠りの果てに現代に生まれ変わった。
生き物は〝生きたい〟と願うのが当然じゃないのか。そこに疑いを挟む余地などないはずである。
「あんたは誤解なすってる。あっしは人間すべからく潔く死すべしだなんて思っちゃいねえ。ただ、世の中には困窮した人間が、将来になにひとつ希望の持てない人間がいることを知ってもらいたいだけなんでさあ」
「……それが、お前が私を呼び止めた理由か」
「いいや、まだありやす。あんたにとっちゃこっちが本題だってのに、つい長話をしちまった」
男は人目を憚るように辺りを注意深く見渡してから、ぼそっと告げた。
「あんた、何か盗まれたな」
「私ではない。盗まれたのは私の知り合いだ。高級な簪だとか言っていたが、盗んだのはお前じゃないんだろう」
「確かに、あっしが簪なんて手にした覚えはありやせんし、あんたの知り合いがどこにお住まいかなんて知る由もねえ。ただ、近頃、上質な反物だの口紅だの髪飾りだの、いかにも女の喜びそうなものばかり盗んでいく男の話なら知ってますぜ。どこぞの女に惚れ込んで、贈り物を貢いで気を引こうって魂胆でしょう」
神子は(ようやくここまで辿り着いたか)と思いながら、男の話に耳を傾けた。女物を盗むからって、すぐに恋路と結びつけるのはいかがなものかと思うが、それは男の勘というやつなのだろう。
「盗人に等級なんざつけたかねえが、決して弱きから盗みは働くまいと決め込んでいるあっしからすれば、そいつは自分より弱い奴から強奪を繰り返してゆく下衆の極みでさあ」
男の口ぶりは次第に苦々しくなってゆく。神子は〝弱い奴〟と聞いて訝しんだ。青娥はどう見たってか弱い女じゃない……と言いたかったが、あの邪仙は必要とあらばいくらでも弱々しく庇護欲を駆り立てられるような無力な女を演じられる。その盗人は何らかの理由で青娥の住まいに侵入する方法を見つけ、高級な簪を奪っていったのだろうか。
「そいつはどこにいる」
男は神子の元に近寄り耳打ちした。見下している盗人といっても一応は同業者、情報を漏らしたと知られれば、この男はいずれ報復に合うかもしれない。人間相手とはいえ、事と次第によっては盗人を捕まえるのに手荒な手段を使わなければならないかもしれない、神子は腹を括った。
「どこの女かは知っているか?」
「どうにもはっきりしやせん。あやつが意図的に情報を掻き乱しているのか、曖昧な憶測しか流れてこないもんで。あっしが一度真偽を確かめようとしたら邪魔されて、まあえらい目に合いやしたよ。あやつは恋の奴隷だ。盲目だ。盗まれた品を取り返して、身勝手な恋に溺れた馬鹿な男の目を覚ましてやってくだせえ」
男は半ば憐れみのようなものすら滲ませてそう言った。
――恋、か。
盗品を貢いだところで、いや、高価な品を贈り続けたところで、女が振り向いてくれるものか。モノで女の心を買おうとしているなら馬鹿の極みとしか言いようがないし、青娥の盗人はこの男の言う通り、愚か者のようだ。
確かに恋は人を愚かにさせる。現に、いまの神子だって……青娥の件で忘れかけていたはずのもうひとつの気がかりが蘇ったせいなのか、神子はそのまま男の元を立ち去ろうとして、つい尋ねてしまった。
「お前、妻子はいないといったが、本当にずっと独り身なのか? 私はお前のような男はいけすかないが、中にはお前が盗人でもついて行きたい、生涯を共にしたいと言ってくれる女がいたんじゃないか? あるいは、お前自身がどこぞの女を見初めて……」
神子の不躾な質問に、男は笑った。歳よりも老け込んだ目に、一瞬、少年のような輝きが宿ったのを神子は見逃さなかった。
「いやしたよ。若い頃に、あっしが生涯でただひとり、心底惚れぬいた女が。女の方も、ひょっとしたらあっしを憎からず思ってくれていたかもしれやせん。けど、あっしはその頃にはもう盗みを働く毎日だった。あの娘を盗人の嫁なんぞにさせられねえ、あっしは身を引きやしたよ。風の噂じゃ、そのあとに娘は平凡だが誠実な男と結婚して、子沢山のおっ母さんになって、いまも幸福に暮らしているとか……」
男はいままでで一番、穏やかで優しい顔をしていた。たとえ自分と結ばれずとも、惚れた女が幸せなら自分も幸せ、とでもいうのか。
(そんなもんだろうか)
神子にはいまひとつ納得がいかなかったが、束の間、懐かしい思い出に浸っている男の心象を荒らすのも憚られた。
「ところでお前、聞きそびれていたが、名前は?」
今度こそこれが最後の質問だと思って尋ねると、男は首を振って、
「名乗るほどの者じゃございやせん」
「馬鹿を言え、名前を聞かなきゃ後日お前に礼をできないだろ」
「いけねえや。あんたは支配欲の権化みたいなお方だが、希望ある未来を志そうという信念がある。あんた、人間たちがこぞって厭世観に取り憑かれたときも、希望を集めて回っていやしたね」
神子は虚を突かれた。臆さず〝支配欲の権化〟と言い切ったのにも驚かされたが、この男は日陰に身を潜めて暮らす中で、いままでの神子の活動をしかと見届けていたというのか。
「あっしは大昔の権力者なんぞに媚びるのはまっぴらだが、あんたの実力と実績は認めてるんでさあ。盗人に関わったと知られちゃ、せっかく積み上げてきた名声に傷がつきますぜ」
「いいから教えろ。偽名でも構わないから」
神子は半ば意地になって食い下がった。彼が盗みを働かずとも貧困に喘ぐ人間を助けられるよう、衣服や食糧品をふんだんに届けてやるつもりだった。これしきのことで評判が落ちるなどと気にしていられるものか、貧しき者病める者がいると知っておきながら見て見ぬふりを貫く方が、為政者としてよっぽど恥である。――神子のモットーはいつだって〝人の為に動く〟なのだ。
男は神子の剣幕に押されて、肩をすくめると、
「では、〝五右衛門〟とでも呼んでくだせえ」
よりにもよってその名前を名乗るか――神子はぷっと吹き出してしまった。自らを日陰者だと自認しながら、やはりこの男は、根っからの悪党になりきれないのだ。
神子は五右衛門に必ず礼をすると約束して別れた。ひとりで路地裏の奥へ進む間、脳裏をよぎるのは五右衛門が語った生涯一度の恋の話だった。
あの男は、惚れた女を自らの手で幸せにしたいとは思わなかったのだろうか。足を洗って女のために真っ当な生き方をしようとは思わなかったのだろうか。
否。犯した罪は決して消えないとわかっているからこそ、男は真の幸せを願って突き放したのだ。女が別の男と結ばれたと聞いても、嫉妬も恨みもせず……。
「とんだカッコつけだな」
神子は容赦なく一蹴する。自分なら、惚れた相手がどこの誰とも知れぬ余所者に攫われるのを『幸あれ』なんて気持ちで見送れやしない。神子だったら……。
(ああ、駄目だ)
想像するだけで、途端にどす黒い感情に心が塗りつぶされそうになって、神子は頭を振った。自分が欲深いのなんて今更だが、それでもこの感情は彼女にぶつけては駄目だ。五右衛門のように潔く身を引くなんてできやしないが、神子だって、愛した相手には幸せであってほしいと思っている。
◇
神子は五右衛門に教えられた盗人の隠れ家を一直線に目指す。商店や長家の立ち並ぶ賑やかな大通りから外れるにつれて、貧相な身なりの者が――師走の空の下だというのに、地面に後座を敷き烏天狗の古新聞を身体に巻きつけて寒さを凌ぐ者、着古した薄い着物で声を枯らしてうろうろ歩き続ける棒手振り、疲れ切った顔で泣き続ける赤ん坊を必死にあやす痩せぎすの母親。人里にも宿を持たず、通りの隅で路上生活を送る者が散見されたが、それは貧困層のほんの一部でしかなかった。
(赤貧洗うが如しか)
五右衛門が神子を批判的に見ているのも無理はない。結局、お前は自分を慕ってくれる都合のいい支持者しか目に入っていないじゃないかと言われても、文句は言えないだろう。
とはいえ、いまは自省は後にして青娥の頼み事を片付けなければならない。浮浪者たちの溜まり場に、男の隠れ家があるという。充分に気をつけろと五右衛門は忠告したが、いかな荒くれ者であろうとただの人間にやられる神子ではない。
寒さを凌ぐため、余りの材木を集めてどうにか小屋の形にしたのうな、犬小屋にも劣る住まい。その中で、薄い藁の上に寝そべる痩せた男がいるようである。
「誰だ」
気配に気づいたのか、男はすぐさま懐刀を手に取り警戒心露わに小屋の外を睨む。しかしそこにいるのが神子だと気づいた途端、男はぽかんと間抜けな顔をして、
「なんだ、あんた、よく里で講演会やらをやってる聖人様か。なんでこんな掃き溜めみたいな場所に?」
「私の知り合いの依頼でね、高価な簪を盗まれて困っていると騒いでいる。私の持てる限りの力で手掛かりを手繰りよせたらここまでたどり着いたわけだが、お前、何か知っていることはないか」
「簪ぃ?」
神子が五右衛門のことは伏せて遠回しに尋ねると、男はしばし、シラを通してやり過ごそうか、どうせ何もかも見透かされるのだから洗いざらいぶちまけようか、悩むそぶりを見せたのちに、ニヤニヤと口元を歪めた。
「ああ、そうさ。門番のキョンシーを掻い潜って麗しの仙女から簪を盗み出したのはおれさ。本当なら羽衣を盗んでやりたかったがね」
「残念だな、あいつは羽衣を奪われたからって地上に縛り付けられるタマじゃないんだ」
「そうかい、そういやあの仙女ってあんたのお仲間だったか。つくづくおれには女運がねえや」
男は完全に開き直って笑うばかりである。神子に対して少しも詫びるそぶりを見せない。神子は改めて芳香の警備がザルすぎる、青娥がわざと芳香をそうしているのか、と疑問に思った。
「で、あんた自らおれをしょっぴきに来たのか」
「盗んだものを大人しく返してくれるんだったら、お前の生活事情次第では、情緒酌量の余地ありと見做してやってもいい」
男の笑みはますます歪んだ。
「返すのは無理だ」
「何?」
「おいおいすっとぼけなさんな、どうせあんた、もう全部知ってるんだろう。誰がチクったんだか知らないが、おれがあの女に入れ込んでるのは盗人仲間の間じゃ周知の事実よ」
神子は五右衛門が『あの男は恋に狂って盗品を貢いでいる』と言ったのを思い出す。とっくに青娥の簪はその女に渡してしまったのだろう。
「お前ね、盗んだものを渡されて喜ぶ女がいるか。それともそいつはお前と同じ盗人か?」
「アホウめ、盗人の妻が必ずしも盗人なわけないだろ」
妻? 神子は首をかしげる。どう見たってこのおんぼろ住まいは男ひとりしかいないように見えるし、通い妻だというなら五右衛門の話が嘘になるが、五右衛門は神子に嘘を伝えた風ではなかった。
「まさか、お前が勝手に結婚したと思い込んで……」
「そこまでおれは落ちぶれちゃいねえよ。後家だ、後家。あの女は、俺の仲間だった男の未亡人なのよ」
男はけっ、と吐き捨て、べらべらと女の素性を話し始めた。
「男女の縁を結ぶのは出雲の神様だったか、如来様だったか? どっちにせよ妙ちきりんな縁組をするもんだ。あんな外面がいいだけの悪行三昧の男に、しっかりした姉さん女房ができるとはね」
「手の施しようのない悪タレを善良な女とくっつけるのは雨月物語の頃からある話だ」
「いや、そいつらは親の決めた結婚なんかじゃなかったさ。何やら幼い頃から馴染みがあったとかで、女はあの男を懸命に世話していた。糟糠の妻ってやつか。ああ、でもきちんと籍を入れたわけじゃないらしいから、正しくは内縁の妻だな。まあ、色々苦労はしていたようだが、傍目にはうまくやっているように見えた。あの男がよそに女を作るまではな」
にわかに醜聞めいた話になってきた。男は回想に耽りながら、ほうとため息をつく。
「あの男、盗みの帰りに、どこぞの深窓のお嬢さんを見初めちまったのさ。もちろん女房には内緒で、こっそり逢引きしているらしかった。おれは気になって一度跡をつけたことがあったんだが……いやあ、まるで歌麿の浮世絵から抜け出したような別嬪さんだった。歳は十五、六か、浮世のしがらみを何も知らなそうな初心なところがまた男心をそそったんだろうな。言っちゃあ悪いが、あの男の女房はお世辞にも美人とはいえねえ、はっきり言ってブスだったからな、若い美女に心が移るのも仕方ねえや」
神子はニヤケ面の男の頭を笏で思い切りぶん殴りそうになって、かろうじて踏みとどまった。自分だって十人並み以下の容姿のくせして、よくも自分勝手に他人の容姿をジャッジする権利があると思い込んでいるものだ。
「女の方は、男の浮気に気づいていたのか」
「さあね。ただ、仮にも女房のいる盗人の男が、深窓のお嬢さんと結ばれるなんて世間が許さねえだろう。女は気づいてたとしても、いっときのはしかみたいなもん、いずれは自分のところに戻ってくるって思ってたんじゃねえかな。ところが、あの男ときたら外道だからな。結局は若いお嬢さんの方を選んじまったんだ」
男は急に真面目な顔つきになって、神子の顔をじっと見てつぶやいた。
「ちょうど、三年前の雪の降る夜だった。あの男は、自分の女房を真冬の冷たい川に突き落とした」
神子は息を呑む。真冬の川に落とすなど、れっきとした殺人行為だ。若い女に心移りしたからって、元の妻を殺すことはないだろうに。
「その後、男は行方を眩まし、時を同じくしてある良家のお嬢さんも行方不明になったと騒ぎになった。まあ、つまりそういうことだ。それきりなんの噂も聞かないから、おれはどっかでくたばったと思うがね。女の方は、運良く気づいた人間がいたおかげで、溺死も凍死もせずに助かった。だけど……可哀想になあ、女が身籠っていた子供は、あれが原因で流れちまった」
「子供がいたのか!?」
さすがに神子も驚いて声が高くなった。話の流れからしてろくでもない外道の極みなのだろうとは想像がついたが、自らの子にまで手をかけるなど……。
衝撃が落ち着いてくると、神子はさも女に深く同情しているそぶりのニヤケ面の男も胡散臭く見えてくる。ここまでその夫婦の事情に詳しいとなると、単なる盗人仲間ではなくよほど親しい友人だったのだろう。下衆の極みと五右衛門も言った通り、目の前にいるのもまたろくでなしだ。
「可哀想になあ、夫は自分を捨てて若い女と逃げ、生まれてくるはずだった我が子は抱けずじまいで、自分ひとりだけ生き残っちまった。一命は取り留めたものの、半分は狂人みたくなってるよ。他に頼れるやつもいなくて、可哀想で、つい様子を見に行っちまうんだ」
「それで貢ぎ物攻撃か。さっきはブスだと躊躇いもなく言い切ったくせに」
「それは、まあ、言葉の綾ってやつですよ。可愛くないと思っていた女も、不幸のどん底に落ちてやつれた顔をしているのを見ていると、何とか力になりたいって思うのが人情ってやつでしょう」
「ふん」
神子は鼻で笑う。人情といえば聞こえはいいが、こいつが持っているのは下心だけだ。あわよくば亡き友の未亡人をモノにできないかと舌なめずりし、憐憫をそそられる女に一方的に尽くす自分に酔っているだけだ。遮断したくたってできない下衆な欲望が、神子にははっきり聴こえている。
「その女はどこにいる?」
「簪を取り返しに行くのか。あんまりあの女に近づかない方がいいと思うがね。来る者全員を半狂乱になって追い返しにかかるから」
「お前ね、そんな精神状態の女を医者に診せもせず、ただ盗品ばかり押しつけているのか」
「里の医者は全員匙を投げちまったよ。噂に名高い蓬莱のお医者様ならなんとかできるかもしれないが、残念ながらおれはあの竹林を抜けられそうにないんでね」
神子はうんざりした。結局、この男も女に執心していると言いながら、口先ばかりで、本気で親身になって女を助ける気はないのだ。
「なら私が診てやるよ。医学の心得はないが、健康長寿を是とする道教の仙人だからね」
神子が男を脅しつけるように尋問すると、男はあっさり女の住処を教えた。
三、
(ああ、どうしましょう)
白蓮は当て所なく雪山を歩いている。小雪を殺して逃げた男を探すといったって、真冬の妖怪の雪山だ、白蓮にはその男がいまも生きているとは到底思えないのだ。
(どこかでのたれ死んだか、妖怪に襲われたか……運良く山を降りられたんだとしても、別人に扮して、小雪さんのことなど何もなかったかのように振る舞っているかもしれない)
第一、白蓮の元には手掛かりが少なすぎる。山の中を歩き回るといっても、最初に山に入った際、神奈子に『みだりに妖怪のテリトリーに近づくな』と釘を刺されて行動範囲を制限されているのだ。我が物顔で山の上に鎮座しているような神奈子だって、他の妖怪たちからすれば新参と大差ない。
できるだけ不要な揉め事は起こさず、平穏に過ごしたい。その思いは白蓮も同じなので、あらかじめ立ち入るなと言われた区域には近寄らないようにしているのだが、そんな有り様でどうやって消えた男の消息がつかめよう。
(これじゃ妖怪から聞き込みもできないじゃない。素直に教えてくれるかは別として。さっきたまたますれ違った白狼天狗には、見事に無視されてしまったし)
八方塞がりの白蓮は、やはり神奈子の元へ一旦戻ろうかと考えた。神奈子は初めから事件の詳細を把握している風だったし、消えた男について何も知らないということはないと思うのだ。
疲れはさほど感じないが、辺り一面の銀世界もいい加減見飽きてきた。ここらで引き返そう、と踵を返したところで――。
「そこにいるのは誰だ?」
背後から何者かに呼び止められた、と思ったら、刃物が飛んできた。さっと身を翻してかわしたが、白蓮の左頬をわずかに掠ったようだった。
(いけない、うっかり妖怪のテリトリーに入り込んだか?)
白蓮は巻物に手をかけつつ、攻撃してきた妖怪の正体を注意深く観察する。
――冬になると雪女が山姥の姿になって現れる。いや、ここは信州ではないけれど。
雪の中に紛れてしまいそうな、風にたなびく白銀の髪。装束もまた白銀で統一されていたが、その独特な意匠はどこかで見た覚えがある、と思考を巡らせて、稗田家の編纂する幻想郷縁起だったと気づいた。
「貴方、もしかして山姥ですか?」
「ああ、ここはうちのなわばりだべ。お前は見たところ人間ではないようだが、越冬の保存食にされたくなかったらとっとと帰ってくんろ」
山姥は見るからに苛立って、隙あらばもう一度刃物を、大きな包丁を投げつけてくるつもりであろう。
山姥は山の妖怪の中でもとりわけ単独行動を好み、滅多に他者と交流を持たないという。それでもやっと見つけた話せる妖怪だったので、白蓮は山姥の怒りを買うのを覚悟で食い下がった。
「勝手に貴方の聖域に侵入して申し訳ありません。どうしてもこの山の中で見つけたいものがあるのです」
「なんだ、密猟者か?」
「違います、人を探しているんです。人間の男を」
「はあ? こんな冬の雪山に人間が来るもんか。最後にうちが人間を捌いたのだって、もういつのことだったか……うん?」
怪訝そうな顔をしていた山姥だったが、ふと目を瞬いて、
「いや、つい最近、やっぱりお前みたく侵入してきた人間の男がいたべな」
「本当に?」
白蓮は「やっと見つけたか」と思いつつ、早合点しないように、逸る気持ちを抑えて問いかけた。
「それはいつのことです。どれくらいの年齢の、どんな格好の男でしたか」
「そんな細かいとこまで覚えてないが、ひい、ふう、みい……あ、ちょうど三年前の冬だったべ」
三年、という単位を白蓮はしかと聞いた。人間からすれば最近という感覚ではないが、滅多にテリトリーの外に出ない妖怪にとっては最近の出来事に入るのだろう。
それはちょうど、小雪が男と共に心中に来た年であり、小雪が殺された年でもある。その男が小雪の心中相手である可能性は高い。
しかし――山姥は、さきほど人間を〝捌いた〟と言わなかったか?
「あの、その侵入してきた人間は……」
「いつもだったら適当に脅して帰してやるんだけどなあ。そいつ、血まみれの小刀を持って、うちを見るなり大声を上げやがった。うちの警告もまったく聞かず、小刀を振り回して襲いかかってくるもんだから、うちも頭に来てこの包丁の餌食にしてやったんだべ」
「……そのあとの、死体は?」
「残るわけないべ。三枚下ろしにして食ってやったんだから」
白蓮は黙り込んだ。逃げた男が生きている可能性は低いと思っていたが、よりにもよって山姥の聖域に侵入し、本人は正当防衛のつもりだったのだろうが無謀にも襲いかかり、食い殺されてしまっていたとは。それが心中するはずだった女を殺してひとりで逃げた男への報いか。
では、小雪の〝男の死体を自分のそばに埋めたい〟という願いは、叶わぬものではないか。
「なんだ? 今更返せと言われても無理だべ。警告はしてやったんだからな」
「ええ、襲いかかってきた侵入者へ反撃した貴方に非があるとは言いません。ただ……そうですね、変なことを聞くようですが、その男を殺してから、男の霊が身の回りに現れるといった経験はありませんか」
「何言ってんだべ。うちが人間を捌くたびにそいつが幽霊になってたんじゃ、うちの聖域はいまごろ大量の幽霊で溢れかえってるべな」
心底不思議そうに返す山姥を見て、白蓮は〝男もまた霊体でこの世に留まっているかもしれない〟という最後の望みすら捨てざるを得なかった。
「それで? あんたはまだうちに聞きたいことがあるのけ?」
「……いいえ。充分です。どうもありがとうございました」
「ああ、気をつけて帰れよ」
山姥に見送られて、白蓮はとぼとぼ雪道を歩いた。
男は山姥に喰われて死んだ。死体もなければ霊になってもいない。その事実で小雪は納得してくれるだろうか。かえってやりきれない思いが増し、未練を強化させ、成仏を困難にするだけではないだろうか。
(それでも、やっと男の行方がはっきりしたのだから……小雪さんに伝えないと)
白蓮の足取りは重い。白蓮がひとりで背負うには、この問題はあまりに重い。どうしてひとりで山に入ってしまったんだか、せめて誰かが一緒にいてくれれば相談もできたのに、弟子たちの誰かか、それとも……。
(ああもう、未練がましいことを)
自ら遠ざけた相手をなぜ求めてしまうのか、白蓮は雪道を転がるように、小雪の待つ大杉の木の元へ走った。
「まあ、お坊様。あまりに遅いから、てっきり私を置いて山を降りてしまったのかと思っていましたよ」
小雪は白蓮をにこやかに迎えながら、当て擦るように言う。男に裏切られたせいか、疑り深くなっているようだ。
「貴方をひとりで置いてけぼりになんてしませんよ。……ただ、小雪さんにとってあまり良くない知らせを知ったもので、どうしようかと悩んでいたのです」
「そうなんですか?」
小首をかしげる小雪に向かって、白蓮は腹を括って一息に告げた。
「小雪さん。貴方を殺した男はもう死んでいます」
「……死んだ? あの人が?」
「はい。山姥の聖域に立ち入って、山姥に骨まで食い尽くされました。魂すらもうこの世にはいないようです」
「……あの人が、いない」
「ですから、申し上げにくいんですが、貴方の望みを叶えることは不可能です」
「……そう」
白蓮は小雪が怒り狂って猛吹雪を起こすのを覚悟していたが、意外にも小雪はもの静かだった。やがて、ふ、ふ、ふ、と彼女の癖なのであろう忍び笑いが聞こえた。
「私、本当は心のどこかで、そうなんじゃないかって思っていたんです」
小雪は口元を袖口で覆ったまま続けた。
「あんな薄着で、後戻りできないように死ぬための道具以外は何も持たずに来たんですもの。生き延びられるはずがなかったんだわ。でも、私はこの通り、ここから動けない身ですから。あの人の死を確かめる術がなくて……空を飛ぶ妖怪の噂で聞いたような気もするけど、はっきりしたことは何もわからないままでしたから、どうしても諦めきれなかったの。そう。なら、あの人は真っ直ぐに地獄へ堕ちたのね」
「小雪さん、貴方ももう、あの世へ行きましょう」
白蓮は懸命に言い募った。
「仇を討てないのはさぞ無念と思われますが、貴方の恨む相手はもうここにはいないのです。私は僧侶ですから……少しでも来世の罪が軽くなるよう善処しますから、どうか思い切って未練を断ち切って――」
「ごめんなさいね、お坊様。まだるっこしい頼みをしないで、最初から正直にお願いすればよかったんだわ」
「……小雪さん?」
小雪の様子に違和感を覚えて、白蓮は背筋が寒くなる。小雪は成仏を望んでいるのではない。そもそも、このまま小雪を行かせてしまっていいものか。白蓮はまだ、彼女の〝嘘〟を確かめないままではないか。
動揺する白蓮の前で、小雪はあくまで静かに笑っている。
「小雪さん。いまなら、貴方はすべてを正直に私に打ち明けてくれますか。貴方の身の上話を聞いて、少し引っ掛かりを覚えたのです」
「そうですか。感情が昂って、あまり冷静にお話しできませんでしたものね」
「貴方はまず、厳格なお父様のお話から始めました。貴方は実の父に逆らえず、父の怒りが恐ろしくて、男との恋を〝許されないこと〟だといつも怯えている風でした。でも……」
「なあに、親子の関係を疑っているんですの?」
「いいえ。きっと、貴方の父は本当に厳しくて昔気質な人なのでしょう。貴方がいつも父の顔色を伺っていたのも、嘘ではないのでしょうね。ですが……小雪さん。貴方が怯えていたのは、本当にお父様だけだったのでしょうか?」
白蓮は小雪の話を思い起こす。
『あの人は自分の多くを私に教えてはくれませんでした』
『この恋は誰にも知られてはいけない、誰にも祝福されない』
『あの人は、〝本当に〟私のことを心から愛してくれているのだろうか? 私だけを……私の心にはいつも不安が絶えず影のように付き纏っていた』
『これでやっとあの人を私だけのものにできる』
長年、人間や妖怪の悩みを聞いてきただけあって、相談事を打ち明ける者が、語りたくないことをどのように伏せるか、あるいは偽るか、その癖を白蓮は熟知している。小雪は事実を少し膨らませながら、真相を隠すタイプだった。
心臓が嫌な音を立てるのを抑えきれない白蓮に対し、小雪の口角はゆっくり上がってゆく。
「小雪さん、誰なんです、私に本当に連れてきてほしかった相手は――」
「……そうよ。あの人には私の他に〝女〟がいるって、私、本当は気づいていたの」
雪がまた一段と激しくなった。
「私、ずっと怖かったの。不倫の恋をしてしまったからではないわ。父が怖かったのも本当だけど、あの人が私を捨てて、他に付き合っていた女の元に行ってしまうんじゃないか、それがずっと怖かったの。だから私と心中しようと言ってくれたときは、あの女より私を選んでくれるんだって嬉しかったのに! ええ、そうよ! あの人は私に甘い言葉を囁く傍らで、ずっとあの女のことを考えていたんだわ! あの人は私を殺した後、あの女のところへ帰ろうとしていたのよ!」
猛吹雪の中で「小雪さん!」と白蓮は叫んだが、吹雪の轟音にかき消されたようだった。
「お坊様、私の復讐する相手はもういないなんて嘘よ!」
「小雪さん、心を鎮めて!」
白蓮は小雪にしがみついて取り縋ったが、小雪は天を仰いで笑っている。
どうしてこんなことになってしまったのだ、男の死がはっきりして、復讐は已む無く中断、それで終われなかったのか。小雪の負った傷と恨みはそれだけ深いというのか。
「お坊様、あの女を私のところへ連れてきて」
「できません! しっかりして、貴方の恨みの矛先は間違っている! 貴方が死んだのは男のせいであって、その女性は関係ないはずだわ!」
「本当に? 愛した男の、他の女を恨むのが間違っていると、本当に思うの?」
小雪はふっと目を細めた。白蓮を憐むような眼差しであった。
「お坊様。貴方に事情を話したのは、貴方が風神の使いで来たからではないわ。まして高徳のお坊様だからでもないわ。女の勘というやつかしら。私ね、貴方を一目見たときに、貴方が心の同類だってわかったのよ」
白蓮の青ざめた頬に、小雪の白く冷たい指先が添えられる。
白蓮が山に入ったのは、神子との一件で懊悩していたから。その神子には、神子には……。
「お坊様。貴方も嫉妬を抱えているんでしょう?」
――ああ、どうして私たちは、恋の淵に身を投げてしまったのかしら……。
◇
人里からだいぶ外れた奥まった場所に、その女の住まいはあった。女の名前は透子だと、ニヤケ面の男から聞いている。
神子が声をかけようとするなり、中から何かを投げつけられた。
「またあんたなの!? いい加減、私のことはほっといてよ! 帰れ、帰れったら!」
女は金切り声を上げながら次々にものを投げてくる。神子は投げられるものをかわしながら、その中できらりと金色に光るものが飛んできたのを見逃さなかった。
それを掴んで確かめると、漆黒の艶やかな簪であった。螺鈿の絵は細かく描き込まれ、高級な金粉がふんだんにあしらわれ、投げられた衝撃で歯の一部が欠けているものの、見るからに上等な品物である。これが青娥の盗まれた簪だ。おそらく誰かに贈るためでなく、金持ちに高値で売りつけるために誂えたものだろう。
目当ての品物を取り戻したからって、神子は帰りはしない。例のニヤケ面の男だと勘違いして興奮している女を刺激しないように注意を払いながら、神子は陽の光がよく入るように入り口を広く開けて自分の姿を見せた。
「人違いですよ。貴方が透子さんですね」
神子は平然と言ったが、内心では部屋の荒れように閉口していた。男が贈りつけたであろうさまざまな品物が床に散らばっており、ろくに掃除もしていないのか、古新聞と生ゴミが散らかって部屋全体が悪臭に満ち、中にいる女――透子も、着古した古着に伸び切ったざんばら髪とひどい有様であった。
「誰、あんた、誰よ」
「豊聡耳神子、またの名を聖徳太子。貴方、私の道場に来ませんか」
気づいたら神子はそう口走っていた。あまりに透子が気の毒で不健康な有様なので、仙界で養生させようかと思ったのだ。しかし透子の警戒心を逆撫でしたらしく、
「私をここから追い出すっていうの!」
「違います、失礼ながら貴方はずいぶん痩せて、冬なのにろくな着物もない。このままでは貴方の健康に……」
「いやよ! 私がいなくなったら、あの子はひとりぼっちになってしまうじゃないの、あの子は、あの子は……ああ!」
透子は髪を振り乱し、顔を覆って泣き出した。このままでは埒が開かないと判断した神子は、さっと透子の元へ忍び寄り、首の後ろを叩いた。
「少しお寝みなさい」
前のめりに倒れた身体を受け止めて、神子はため息をついた。本当に薄っぺらい、裏地すらない着物一枚しか着ていない。男が贈ったものの中には綿入りの暖かそうな着物もあるのに、意地でもあのニヤケ面の情けに縋るまいという覚悟は立派だが、このままでは本当に死んでもおかしくない。
透子の握りしめられた手のひらから、小さな赤い巾着が転がり落ちた。これも男から押し付けられたものかと思いきや、中を開いて、神子は顔を歪めた。
背守が縫い付けられた手製の小さな白い衣は、赤子の産着になるはずだったものだろう。部屋には仏壇も位牌もなく、せめてこの産着を形見として肌身離さず持つしかできなかったのだ。
(どうしたものか……)
一瞬、白蓮に水子の供養を頼もうかと考えたが、彼女がかつて水子供養を拒否していたのを思い出した。
『外の世界の僧侶たちは何を考えているのでしょう。水子を供養しなければ親や先祖に祟りをなす? 愚かなことを。貴方だって、水子供養なんて古い仏教経典の中に見出した覚えはないでしょう。地蔵の和讃も平安の頃に聞いた覚えはありません。あんなの、最近になって僧侶や他の宗教家がお金儲けのためにでっちあげた変な儀式です。赤子を亡くした、あるいは堕さざるを得なかった親や女への脅しですよ、脅し。そんなものに加担したくありません』
――いや、そもそも白蓮はいま、寺にいないじゃないか。
こういうとき、咄嗟に彼女を思い出して頼りたくなってしまう自分が情けない。かといって、このまま赤子を亡くした女を道場に連れ帰るには、厄介な邪仙の存在を思い出して、神子はまたため息をつくのだった。
しばらくして透子は目を覚ました。さすがに神子に会った当初の興奮はいくばくか落ち着いているようだった。改めて顔を見たが、確かに美人の鑑とは言い難いし、彼女の人生を襲った悲劇のためにやつれているものの、あのニヤケ男が言うほど不器量にも見えない。
「勝手に上がり込んだ挙句、手荒な真似をして申し訳ありません」
「いえ、あの……ごめんなさい。私ったら、ずいぶん失礼なことを」
「驚かせた私が悪いのです」
「……貴方は、神子さん、だったかしら。救世観音の生まれ変わりだと里の人々は噂しています」
神子は(おや)と訝しんだものの、素知らぬ顔で話を続けた。
「そんな伝説もありましたね。後世の人間の作り物かもしれませんが」
「……あの子が貴方を連れてきてくれたのかしら」
また涙のにじむ透子を見て、神子は肩をすくめる。救世観音は民衆に人気の菩薩だ。彼女が望むならもう少しそのふりを続けてやってもいいかと思っていると、
「神子さん、貴方がいらした理由を伺ってもいいかしら」
「貴方を助けるため……と言えたらよかったのですがね。私の知り合いが盗みに遭いまして、取るに足らぬ簪なのですが、それが何やら巡り巡って貴方のところにあるらしいと噂に聞いたので、失礼ながら伺った次第です」
「そんなにお気を遣わなくとも。あの男が盗んだのですね?」
穏やかに微笑する透子を見て、神子の疑念はますます深まる。狂人が束の間、正気を取り戻したというには、透子の口ぶりや姿勢や挙措はしっかりしているし、神子についてもいろいろ知っているようだ。
神子に頭を下げる所作も自然だった。
「あの男が迷惑をかけて申し訳ありません」
「いえ、貴方が謝る必要はありません。恋に盲目な男が悪いのです。お気の毒に、貴方に相手にされないがために、あの男は貴方を狂人に仕立ててしまった」
「あら、あいつはそう言ってました?」
透子はからりと笑った。やはりその顔に狂気はどこにもない。
おかしいとは思っていたのだ。狂ったようだと聞いていた割には、透子にはまともな人間なら必ず備えている十の欲が――死への欲望が大きく、だいぶ偏りが見られたものの、生への希求も含めて、すべてちゃんと揃っていた。「もうお気づきですね」と透子は続けた。
「私は狂ってなどいませんよ。もっとも、狂人は自分が『狂人だ』なんて認めないでしょうけど。あの男があんまりにもしつこくて、疎ましくて、私のために盗みを働くのも情けなくて、いっそ夫と我が子を失った絶望のあまり、気が狂れてしまった――ということにしてしまえば、あの男も気味悪がって逃げるかと思っていましたの。あまり効果はなかったようですがね。あの男、他にも貴方に余計なことを色々と吹き込んだのでしょうね」
透子の言葉は澱みない。思えば透子は不健康な状態だったが、三年もの間、狂気に冒され続けた人間というには、透子に病の影がほとんど見当たらなかったのである。かといって、決して夫と子を失った傷が浅かったのではない。
透子は悲しみに満ちた目で、真っ赤な巾着を撫でた。
「私は、本当にあの子のところへ行ってしまおうかと思うことがあります」
「それは……」
「あの男から逃げたいから、だけではありませんよ。ただ、もう私は疲れて生きている意味がわからなくなりそうなのです。この三年、何度も死んでしまおうと思ったのに、結局今日まで生きてしまいました」
「そのまま生き続けて、死にたいなどという望みは捨ててしまった方がよろしいかと」
神子は声を硬くして言う。道士として、目の前で人間をみすみす死なせてたまるものか。透子はうっすら笑った。
「我が子を流産して、夫には若い女と逃げられ、挙句薄気味悪い男に執着されて、こうも疲れ果てた女によくも『生きろ』とお説教ができますね」
「お説教くさくて結構。私はどんな事情があろうと、人間は健康な身体で長生きするべきだと考えているものでしてね」
「それで『道場に来ませんか』なんて言ったんですか? あのときの貴方ときたら……おかしな宗教勧誘にしか見えませんでしたよ」
神子は思わず口籠る。この女、人生に疲れきってやつれているわりには、したたかである。これ以上、誰かに身勝手に振り回されるのは嫌だという強い意志がある。
「あの男、私のことをどのくらい話しました」
「まあ……貴方の言うとおり、夫と子を失って半狂乱になっている女だと」
「そう。我が子への哀愁ばかりに囚われて、私を殺しかけて逃げた夫や、夫を奪った女への恨みなど、ころっと忘れていると思い込んでいるのね」
透子の顔に翳りが浮かんで、神子は嫌な予感がした。
死に惹かれる彼女にも生への欲望はある。深い恨みと憎しみに裏打ちされた生への執着が。
「透子さん、貴方、『このまま生きるべきか否か、それが問題だ』なんて言わないでくださいよ」
「ああ、ハムレットも復讐心を隠して狂人のふりをしていたのでしたっけ。私も同じですよ。復讐のために生きるか、諦めて死ぬか。――神子さん、貴方、私に生きてほしいのですよね?」
――自分の命を質に脅す奴がいるか!
人間、生を謳歌すべしの精神を捻じ曲げて自分の発言を反故になどできないし、復讐などやめておけと言って透子が大人しく聞くとも思えない。
「透子さん。まさか二人の行方を追うつもりですか。どこへ消えたかもわからないのに」
「知っていますよ。あのしつこい男の目を掻い潜って、あちこち情報を集めてましたから。お相手の女の家の周りまで行って、ようやくそれらしき話が入ってきましたよ。女中が口を割ってくれました。夫は私を殺した後、女と連れ立って、山に心中に行ったとか」
神子は(あの間抜けなニヤケ面め)と舌打ちしたくなった。透子に執着しているわりには、透子の行動を見逃しすぎだ。
嘲笑を浮かべる透子の手は、自ずと自らの頬に向かう。
「その女、若くてたいそうな美人だったとか。男って、長年連れ添った糟糠の妻を簡単に捨てて若い女に走ってしまえるのね。そりゃあ私は美しくないし、もう三十一の年増ですけど」
「そう卑下するものではありません。……その男と、そんなに長い付き合いだったのですか」
「無理に慰めたり、話を変えたりする必要はありませんよ。まあ、連れ添った時間が長かったぶん、恨みが余計に深くなってしまったのかもしれません。夫と出会ったのは寺子屋でしたから」
神子は目を瞬く。なら幼馴染かと思いきや、透子は首を横に振る。
「夫は……辰夫というのですが、羽振のいい商人の跡取り息子で、親の威光を笠に着て、子分たちを引き連れて暴れ回る、寺子屋では評判の悪ガキでした。大人しい子供だった私はいつも彼を遠巻きに見つめているだけで、話したことなどほとんどありませんでしたよ。それが初恋かと聞かれれば、たぶんそうかもしれませんが」
「失礼ですが、そんな男に目をつけた貴方は趣味が悪い」
「ええ本当に。けれどあの年頃の女の子って、文武両道の優等生より、少し悪いくらいの男の子の方が気になってしまう。そんなものだと思いませんか」
「さあ、少女時代の私は政への野心に燃えていたので、年頃の娘らしいことなんてさっぱり」
神子がそっけなく言うと、透子はまた笑った。
「寺子屋を卒業した後は、しばらく彼に会いませんでした。彼は実家を継ぐために扱かれていたのでしょうし、私は私で、家で独学で勉強を続けて……当時は先生になりたいと思っていたものですから。ところが、彼の実家が何がしかのトラブルが原因で潰れたと聞いた一年後、私が十八の年に、ばったり彼と再会したんです。ずいぶんやつれていました。私がどう声をかけたものか迷っていると、彼の方から「久しぶり」と言って、私の名前を呼びました。まさか彼が私を覚えているとは思っていなかった。……そのまま、成り行きで一緒になってしまいました」
「情に流されたのですか? 初恋が再燃して? まさか富裕層から転落した男が、悪タレを卒業して別人のように生まれ変わっていたとでも?」
「いいえ、彼は実家の再興も新たな職を探すこともままならず、ご存じの通り、盗みに手を染め出しました。私は内職で少ないながらも稼いで家計を支えた」
「そんな男と一緒になるなんて、普通の親は反対しますよ」
「ええ、反対されたまま私が家を飛び出したものだから、勘当されてしまいました」
「愚かな」
神子は聞いているうちに苛立ってきた。自分の生きたい人生を捨ててまで、将来性のない、悪党に身を落とした男と添い遂げる道を選ぶなんて馬鹿げている。そこまで辰夫とかいう男が魅力的だったのか? それとも、恋は盲目の言葉通り、恋のあやにくな魔法が透子を変えてしまったのか?
「確かに私は愚かでした。実家の店が潰れてから彼の父は酒に溺れて、母は出て行って。父を恨み母を恋う彼の愚痴を聞いていたら、私がこの人のそばにいてあげなくては、そんな気持ちになってしまったんです」
そんなの、典型的な駄目男に嵌ってしまう駄目女の常套句じゃないか。
「痴れ者だ、本来の貴方はそこまで愚かではなかったはずなのに」
「ええ。あの人と一緒になって、私は何度も『本当にこれでいいのか』と自問自答し続けていました。彼は正式に祝言を挙げたり籍を入れようと言ってくれなかった。そのうち盗人から足を洗うと思ったのに、ちっとも治らなかった。それでも、いつかは彼も変わるんじゃないか……そんな希望を捨てられなくて、ずるずると居続けてしまった。さすがによそに女を作ったと聞いたときは、もう別れてやろうと本気で思いましたが、そのときには私のお腹に彼の子がいた。私はいつも決断が遅すぎるんです。このまま別れて、ひとりで子供を育てていけるのか、この子には父親が必要なんじゃないか、かといって、不実な彼が父親になった途端、生まれ変わるとはさずかに私も期待できない……いっそ実家に頭を下げて勘当を解いてもらおうか。迷っているうちに、私は彼に、あの人に、真冬の川に突き落とされてしまった」
語り終えた透子は自嘲の笑みと、亡き我が子への憐憫と、自分を欺いた男女への恨みの混ざった、複雑な表情をしていた。
「貴方は辛抱や忍耐を美徳と捉えるタイプですかね」
「かつての私はそうでした。でも、もうたくさん。ぐずぐず迷って躊躇っているから、他人にいいように利用されてしまう。私が死ぬ前に、せめてあの二人の亡霊でも拝んでやらないと気が済まない」
「……貴方、まさか」
神子は冷たい汗が吹き出す。透子の夫と浮気相手の女は山に入って心中したという。ただの人間が真冬の雪山から無事に帰れはしまい。寒さか妖怪の襲撃で死ぬに違いない。
今更、危険を冒して透子が単身雪山に入って、何になるというのだ?
「おやめなさい。貴方、復讐に生きると言いながら、結局死ぬ気でしょう」
「二人が生き延びているなんて思っていませんけど、ならばせめて、私の人生をめちゃくちゃにした二人の亡霊にでも一矢報いなければ、死んでも死にきれない」
「二人がそこに留まっている確証などない。心中した男女は、来世で結ばれるとか……」
「そんなの迷信でしょう。まっとうな宗教家の言うこととは思えませんね」
「ならせめて、雪が溶けた後に」
「もう耐えるのは嫌だと行ったでしょう。貴方が来るのがもう少し早かったらよかったのね。止めるのなら私は死にます。死んであの子に会いに行きます」
「賽の河原に大人の霊はいない! 貴方が死んだって、我が子に再会できるはずがないんだ!」
「――あら、太子様ったら何をおっしゃるの。死んだ子供に会いたいなら、私が会わせてあげるけど?」
そのとき、透子の部屋の壁に突然穴が空いて、神子がよく知る邪仙が顔を出した。
「青娥!? 貴方まで何をしに来たんだ!」
動転に継ぐ動転で珍しく焦っている神子に対し、透子は侵入者にちっとも狼狽えず、
「仙人が来たと思ったら、お次は死神のお迎えかしら」
「いやね、私は鎌なんか持ってないわよ。青娥娘々、いみじくもこのお方の師匠ですわ」
青娥はにっこり笑って神子の肩に手を添える。睨みつける神子に眉を下げて、
「貴方の帰りが遅いから、何を手こずっているのかと思えば、慈善事業の最中だったのね。私のプレゼントはどうなったの?」
「ちゃんと取り戻したよ、少し欠けているが私の責任ではないね」
神子は煩わしげに件の簪を青娥に投げた。青娥は隅々まで確認して、
「ああ、これなら直せるわ。跡も目立たなくして、充分に高く売り付けられる。どうもありがとう、やはり太子様は頼れるお方ですわ」
「詐欺の片棒を担がされたと思うとあまり気分は良くないがね」
「あら、それこそ今更」
青娥はけらけら笑って、改めて透子に向き直った。
「さて、貴方、亡くなった人に会いたいと願っているのね」
「本当に、今日は胡散臭い宗教家が立て続けに来る日なのね。壺か、水か、絵画か、私には何を売りつけるつもりかしら」
「私を外の世界の悪徳宗教家と同じにしてもらっては困りますわ。貴方、楊貴妃や李夫人の話をご存知かしら」
「……どちらも亡くなって、悲しんだ男が道士に『亡き人に逢わせてくれ』と頼んだのでしたっけ」
「そう。あいにく反魂香はいまは持ち合わせておりませんが、道士は死者の魂を尋ね当てることだってできるのです。……ねえ。わざわざ山なんかに行かずとも、私の力なら――」
青娥がそれ以上何事かを言う前に、神子は青娥の肩を掴んで仙界の入口を開いた。突然仙界に飛ばされ、青娥は気を悪くしたらしかった。
「まあ、師匠になんて乱暴な振る舞いをするの」
「あの人の生傷を抉るような真似はやめろ」
神子は冷や汗でじっとり身体が濡れているのに気づいた。
表面上は、透子は狂気に冒されることもなく、平穏に生きているように見える。けれどそれは彼女の負った悲しみと絶望と憎悪の深さの証左であり、青娥のせいで彼女がますます傷つくのは阻止したかった。
「貴方のことだ、例の养小鬼の術を使おうとしたんだろう」
「ええ。もしかしたら、あの女の流した子を私が使っていたかもしれないわ。他人の子供はこちらが責任を取らなくていいから楽なのよね」
「青娥。私はいまここで、いちいち貴方を咎めはしない。けれどその術、長くは保たないはずだったね」
「子供って、時が経つに連れて自我が出てくるものですからね。素直に言うことを聞かなくなって、可愛くないのよ。適当なところで離して新しいのを補充しないといけないのが、この術の泣きどころね」
「貴方の傀儡になった子供の霊などを見せられてあの人が喜ぶと思うか」
「親とは我が子がどんな変わり果てた姿になっても愛しい、会いたいと思うものだと聞きましたけど?」
「我が子と夫を捨てた貴方に親心など語られたくない」
「あら? 私にそんなことを言うの?」
青娥はくすくす笑って、神子の手を払いのけた。
「貴方は私にお説教をできる立場かしら。貴方だって、私と同じ。お妃さまと、我が子として引き取った子供たち、すべてを捨てて仙人になってしまったではありませんか」
胸を突かれたようで、すぐには言葉が出なかった。
目の前の女は、決して神子を咎める仕草を見せない。ただ、懐かしい知己を見るように、親愛を込めて神子を見つめるだけだ。
「お気の毒にね。お妃さまの中には、自分が死んで初めて、貴方に裏切られたと気づいた方もいらしたのではないかしら」
「……」
「でも仕方ないわ、女の人生に伴侶や子供は邪魔だもの。貴方にとっては、妃も子も、すべては政の道具に過ぎなかったんですものね。あら、そんな顔をしなくたっていいじゃない。貴方だって気づいているんでしょ? あのお坊さんが逃げていったのも、貴方に捨てられるのを恐れたからじゃないかって」
「……青娥」
神子はやっとのことで声を絞り出した。みっともなく掠れ震えていた。
青娥は方や我が子を捨て他人の子を玩具にする邪仙。透子は方や我が子を失った心の闇に惑う悲しき母。この世はなんと不条理で不平等なのだろう。
けれど我が師に外道を見出すとき、自らもまた外道の所業を思い出さねばならなくなる。
「貴方がそんな人だから、私は師は貴方以外に持つまいと思ったんだ」
「本当? 師匠冥利に尽きるわ」
「貴方は私の鑑である。良くも、悪くも」
母はかくあるべし、妻はかくあるべし、女はかくあるべし。そのどれにも青娥は縛られない。初めて会ったときから、あらゆる束縛から自由であり続ける姿に、神子は惹かれてしまったのかもしれない。
しかし、青娥は自由であると同時に、無法の人である。法の名の元に――言い換えればそれは神子の意のままにという意味になるが、自らの和を広めたい神子としては、無法は受け入れられない。
青娥の邪悪に眉をひそめながら、もはや無用と突き放せないのは、神子の中に憧憬と嫌悪が同居するからかもしれない。
そんな弟子の胸中などおかまいなしに、青娥は無邪気に笑った。
「まあ、私のプレゼントを無事に取り戻してくれたのですから、今回はそれでよしとしてあげましょうか。あの女、放っておいて大丈夫?」
「毒を喰らわば皿まで」
ほっといたら透子に死なれていたなんて結末は夢見が悪い。青娥を置いて神子が再び透子の元へ戻ると、透子はやはり驚きもせずに出迎えた。
「私のことなど、放っておけばいいものを」
「私の師が変なことを言って、気分を悪くしていないかと思いまして」
「人の弱みにつけこむ輩には慣れています。あの人、貴方よりずっと邪悪そうでしたね。仙人とはみんなあんなものでしょうか」
「……仙人とは、本質的には、自分のやりたいことを好きにやるものです」
神子は腹をくくって透子に切り出した。
「貴方、山に登りたいんでしたね。貴方を苦しめた二人の亡霊か亡骸でも見つければ、貴方の心は晴れますか」
「そんなのわかりませんけど、少なくとも何もせずに死ぬよりはマシかと思います」
「どうしても行くというなら、せめて私を供人に加えてくれませんか」
「あら、仙人のお供とは心強い。復讐を手伝ってくれるのですか?」
「それは貴方が自分で何とかなさい。ただ、先にも言った通り、私は貴方を死なせるわけにはいかない」
透子は神子を見て、目を細めた。
「それは私への労りではなく、貴方の名誉に傷がつくのを恐れているためね?」
「そうです」
開き直ってきっぱり言い切ると、透子はからっと笑った。
「いいですね。貴方のそういう正直さは、信頼できそうです」
神子は支度を整えるために仙界に戻った。万が一のときは、透子を無理矢理仙界に飛ばしてしまうしかない。布都と屠自古に「この後、私は人間の女を仙界に送り込むかもしれないが、決して青娥に近づけないこと。お前たちはそいつを何があっても守るように」と厳重に言い含めておいた。
『あのお坊さんが逃げていったのも、貴方に捨てられるのを恐れたからじゃないかって』
違う、とも言えないのが歯痒いところだった。
本当はもう気づいている。彼女の一挙手一投足を見逃さなければ、彼女が心の奥底に慎重に秘めている欲望を聴き逃さなければ。
彼女が何に気を病んで、悩みを抱えて、山に入ってしまったのか、神子はわかっているのだ。
四、
「男の人って、結局は行きずりで関係を持っただけの若い女より、前からいた女の方を選ぶのね。お坊様、改めてお願いするわ。あの人の心を占めるあの女を連れてきて」
「できません」
白蓮は小雪の頼みを頑なに跳ねつける。
「人里をしらみつぶしに探し回れば、お坊様、貴方なら見つけるのは容易いはずだわ。貴方は私より丈夫で物知りでしょう?」
「貴方はその女が……貴方の愛した男と付き合っていた女が、どこの誰だか知らないまま恨んでいるのですね」
「知らないわ。想像だけはいろいろとしてみたけど。私と同じ年くらいの、けれど私よりも大人びて学問の心得もある、頭のいい女かしら……それとも、あの人とお似合いの年頃で、主婦としては有能だけど、女としては面白くないタイプかしら……あるいは私なんか足元にも及ばないくらいの絶世の美女で、もしかしたらその正体は人間ではないのかしら。そうやって想像をめぐらせるたびに、私はどうしようもなく不安になって、欠点だらけで何の取り柄もない女だったらいいのにと願った。そこまでひどくなくても、せめて少しでも私に勝ち目があると思わせてくれる女であってほしいと思った」
切実な告白に、白蓮は心が痛んだ。束の間の幸福の傍らで、小雪はずっと不安に打ちのめされていた。嫉妬という怪物が絶えず彼女の心を喰らいつくそうとしていた。
小雪は悩ましげにため息をつく。
「私だけを見てほしかった。私だけが必要だって、他の女なんかいらないって言ってほしかった。……でも、そんなわがまま、一言も言えなかったの。言ったらあの人、困って、面倒な女だと思って、私の前からいなくなってしまうと思ったから」
「……そんなに自信がなかったんですか。貴方は、若くて綺麗じゃない」
「みんなそう言ってくれたわ。けどそれって、裏を返せば若さと美しさ以外になんの取り柄もないってことよね。当たっているわ。寺子屋にも通ってなくて、そのせいじゃなくても私って元から賢くないし、家に籠められてばかりいたから世間知らずだし、男の子と付き合うどころか女の子の友達だってろくにいなかった。だからこそ、私にはたったひとりのあの人がすべてで、あの人が私を連れ出してくれる王子様のように思っていたのに……」
小雪は玉のような涙を流す。心なしか、雪が湿度を増したようだった。
白蓮は胸元を押さえる。私だけを見てほしい。千年経っても、女の切実な願いが変わらない。彼女に〝心の同類〟と言われたからではないけれど、まるで自分の心の中を言い当てられ、その言葉に胸を貫かれたようだった。
小雪は白蓮に労りの眼差しを向ける。
「お坊様、苦しそうね。貴方も同じ気持ちを知っているの? 気も狂いそうな不安と、身を焼くような嫉妬と、そんな自分が嫌で嫌でたまらなくなる気持ちが」
「私は八苦を滅した尼です。この世の苦しみなどすべてまやかしなのです。貴方も捨ててしまいなさい」
「男を知らない女に説教されたくないわ」
白蓮はぎょっとする。事実ではあるが、そんなあからさまな言い方をされるのは初めてだった。
「……それも女の勘、ですか」
「ええ。私は賢くないから、勘に頼るしかないのよ。八苦ってなんです。貴方が高名なお坊さんなのはわかるけど、私には恋に悩み愛に苦しんでいる女にしか見えないわ」
目が眩むようだった。彼女は仏教のことをほとんど知らない。わかりやすく噛んで含めるように教え諭せる自信は、いまの白蓮にはなかった。
吹雪が白蓮の身体に降り積もり、白蓮の身も心も重くしてゆく。小雪の苦しみがそのまま流れ込んでくるようで、自分の苦しみがいや増すようで、辛かった。
「あら、ごめんなさい。私、この雪を抑える方法を知らないのよ。でも貴方ならまだ耐えられるわよね? 大丈夫よね? 私、貴方に死んでほしいんじゃないの。わかるでしょう?」
「小雪さんは、私が……」
白蓮は事の成り行きを思い起こす。
そもそも、どうして神子に退路を塞がれてしまったとき、素直に首を縦に振れなかったのか。あのとき、白蓮の心の中に湧き上がってきた感情は、喜びと驚きの他に、何があったか。
どうして雪の山にひとりで来てしまったのか。
「小雪さん、貴方は、私も嫉妬を抱えていると言ったら、喜ぶんですか」
小雪の頬に血が昇り、ぱっと子供のような笑顔が浮かんだ。
「もちろん。そうでしょ、やきもちを妬かないのが余裕のある大人の女の嗜みだなんて嘘よ。そんなのただの都合のいい女よ。嫉妬はおかしなことじゃないわ、普通のことよ、ねえ?」
「できれば、私の中にこうも醜い感情が生まれるなんて、知りたくなかった」
「そうでしょう。好き好んで嫉妬の炎に焼かれたりなんかしないわ。あの人に、他の誰かがいなければ、味わわなくて済んだのよ」
「それでは小雪さん、本当に私が貴方と同じだと思っているんですか」
「ええ。お坊様、いままで誰にもそれを打ち明けられなかったのでしょう。嬉しいわ。素直に私に話してくれたの、光栄に思うわ」
「……ならば失礼ながら、貴方は人生経験の足りない小娘でしかないわ」
小雪は目を丸くする。自分が何を言われたのか、わからないようだった。
白蓮はぐっと腹に力を入れて立ち上がる。
「あの人と私を一緒くたに〝聖人〟と呼ぶ人がいますが、あの人は私とは比べ物にならない仰々しい伝説をいくつも抱えているんですよ。現にあの人がこの世界に復活してから、あの人の伝説にまつわる者たちが次々に立ち現れるようになった」
あるいは、部下に与えた能面の付喪神。あるいは、その部下と同じ伝説を共有していると思わしき秘神。あるいは、主人を乗せて空を駆けた愛馬。
「ま……あの風神と同等か、それ以上の偉い人を恋人にしているの?」
「恋人ではないわ、私は。でもあの人にはしかるべきお妃さまがいたはずよ。それも、四人も」
「あら……」
にわかに話の規模が大きくなって、小雪は困惑しているようだった。
思い出すだけで身体の芯からめらめらと何かが燃え立つのを感じる。山に来てからちっとも寒さを感じなかったのは、心身を鍛えてきたからではなく、この思いのためではなかったか?
あのとき、白蓮は歓喜に包まれるより先に、神子の後ろに見知らぬ四人の女性の幻影が見えてしまった。
全身が焦がれて、苦しくて、息が止まりそうだった。白蓮がいままで味わったことのない、できれば一生無縁でいたかった感情だった。そんな未知の感情に心を支配されかけるほど、白蓮はどうしようもなく、神子を好きになっていた。
女人というのは、よほどのことがなければ歴史に諱が残らない。紫式部、清少納言、藤原道綱母、菅原孝標女。どれも本名ではない。
どのような虚飾に塗れていようと、妃は〝聖徳太子の妃〟として歴史の大河の中にれっきとした名を残し、いまなおときには民衆の興味を掻き立てるような素朴で可憐な恋物語とともに真実として語り継がれているではないか。
それに引き換え、編年すら定かでない絵物語にかすかに〝命蓮上人の姉の尼公〟として刻まれ、諱すら残らない我が身の頼りなさときたら……。
「そうですよ、私は自分では会ったこともない、これから会うかもわからない、何も知らない女の影に怯えていたのです。私はね、あの人の言葉や思いを疑っているわけではない。あの人も嘘を言っていなかった。けれどもし、お妃さまたちがやってきたら……あの人は私よりそっちの方が好きかもしれないって、わかってしまうかもしれない。小雪さん。いまでこそ貴方は復讐すると勇ましいことを言うけれど、生きている間はただ怯えていただけでしょう。その女から好きな男を奪い取るだけの度胸も自信もなかったのでしょう」
「ま……!」
「安心してください、私も自信がありません。自信がないとは、そのまま読んで字の如く自分を信じられないってことです。だから少し心を鎮めて信じる力を取り戻そうと、単身山に来たのです。……神奈子さんはどこまでお見通しだったのかしら。貴方と私を、こんなタイミングで引き合わせるとは」
白蓮はため息をついた。考えてみれば、神奈子が三年もこの哀れな乙女の念縛霊を放置していたのは何かおかしかった。
小雪は白蓮と同じではないけれど、彼女の叫びはそのまま白蓮が心に浮かんでも決して口にできない叫びの代弁のようだった。しかるべきときに、しかるべき人物が、小雪の前に立ち現れるのを待っていたのか――神の采配は残酷である。
「考えてもみてくださいよ。あの人も私も、複数の妻を持つのがおかしくない時代の生まれでした。私は僧侶でしたから、男女や夫婦の愛憎の世界とは無縁でしたが、あの人はそうじゃない。いえ、いまさらそれを咎めようとは思いません。あの人より後に生まれた私にそんな権利はない。……ただ、もしも、あの人の妃までこちらにやってきて、あの人が私を同列に侍らそうとでも考えているなら、『馬鹿にするな』って私は嫉妬を通り越して憤怒でおかしくなったかもしれない」
小雪に口を挟む隙を与えず、白蓮は次々に畳みかける。
こうなったら、自分の中にある嫉妬をひとつ残らず、薪をくべるように燃やしてしまうしかない。小雪が悲哀と憎悪と嫉妬の念縛霊なら、白蓮はそれ以上の激情を見せるしかない。
「『すべて人に一に思はれずは、なににかはせむ。ただいみじう、なかなか憎まれ、悪しうせられてあらむ。二、三にては、死ぬともあらじ。一にてを、あらむ』……清少納言がこんなとを書きつけているのを読んだときは、なんてことを言うんだと呆れましたが、よくよく思い返せば、私も彼女と同じ一乗の法の人なのでした」
「え、ええと……」
「要は好きな人に一番に思われたいってことです」
「そんなの当然だわ。誰だって貴方が一番好きだ、他の人なんて目に入らない、貴方だけが特別だと言ってほしいでしょう」
「だけど貴方は『そうでなければ死んだ方がマシ』とまでは思えないでしょう」
言い放ってから、白蓮は驚く。よもやかつて不死を求めた自分の口から『死んだ方がマシ』なんて言葉が、激情に任せてだとしても滑り落ちるとは思っていなかった。
「うわべだけ何事もないみたく平静を装ってお妃さまたちと仲良くするなんてできない、けれどお妃さまたちと争うなんてもっと嫌」
なのに、何も知らない弟子たちは呑気に囃し立てるから。神子に『どうだったの』と聞ける勇気もなかったから。『わが身をうしなひてばや』とまでは考えずとも、最悪の場合、恋心を氷の中に閉じ込めるしかないとまで覚悟するしかなかった。たとえ我が身が決して燃え尽きることのない情念に終生苛まれる運命になったとしても……。
「いっそあの人が本当に私を憎んでくれるなら……あの人、元は私を憎んでいたんじゃないのかしら。私だって、最初は好きじゃなかったはずだもの。だけどあの人、もう私を憎んでくれそうにない。私の方から憎んでやろうとも……思えない。駄目ね。昔からそうだったの。私は、一度好きになった相手のことは、なかなか嫌いになれないみたい。ならもう他人みたくよそよそしくして、周りに不自然と思われない程度の当たり障りのない付き合いに留めて、もう二度と愛欲の道に迷うまいと、私は世を捨てて……拾ったり捨てたりを繰り返してきたこの俗世を何度でも捨てて、今度こそ仏の信仰への道を一筋に生きるしかないのかしら」
「だったら!」
小雪が悲鳴のように叫んだ。
「だったら貴方は、愛する人を殺せない人ね。私なら殺せたわ。お坊様、初めに貴方に『あの男を殺したいから連れてきてくれ』と頼んだのは、口から出まかせではなかったのよ。万に一つでも生きていたなら、私はあの人をこの手で殺した。あの人を他の女に取られないためなら、殺人鬼になったってよかったの」
「私は貴方を人殺しにしたくありませんね」
「お坊様! 貴方のことを教えて、貴方は愛する人を殺せるの、殺せないの、どっちなの!」
白蓮は小雪のもはや己の復讐とは関係ない、必死な問いかけの答えを、長く長く考える。
「……できます」
小雪は「嘘だわ」とつぶやいた。
「貴方には絶対にできない。仏様の教えに背くからとかじゃなくて、貴方が持つ深い愛のために殺せないのよ。人魚姫と同じね」
「あら、四苦八苦や枕草子はわからないのに人魚姫は知っていたの」
「あまり古い話はむずかしくて読めないわ……いえ、そうじゃなくて! 貴方にできるはずがないわ!」
「ならば〝殺す〟を〝成仏させる〟と言い換えればいいかしら」
白蓮が微笑むと、小雪の表情が凍りついた。
「あの人、尸解仙なんですよ。一度肉体を捨てて、魂だけを無機物に……あの人は剣だと言っていたわ……そこに移して、無機物を生前と全く同じ姿に変えてしまう術でこの世に蘇った人なの。それでも仙人の末端だというけれど、あんなのは死体を動かしているのと変わりはしないわ。つまりね、小雪さん、私があの人の成仏に成功したとしても、人殺しにはならないのよ」
「そんなの詭弁だわ」
「あの人は私に成仏させる力なんてないとたかを括っているようだけど、どうかしら。やってみなければわからないでしょう。仮初の器なんて、とても脆く儚いものだから」
小雪はもはや、呆然と黙って白蓮を見つめるばかりだった。
白蓮は密かに様子を伺う。ここまで言えば、小雪も諦めてくれるだろうか。若くして死んだせいか、浅慮で、思い込みが激しくて、その場の感情で簡単に動いてしまうが、それだけ根が素直だということだ。
いまの彼女は、自分の中で膨れ上がってしまった恨みのぶつけ先が見つからなくて、苦しくて、少し癇癪を起こしているだけだ。本当は自分でも認めている通り、臆病で繊細な心がある。
――もう、解放されていいのよ。
恨みのために杉の根元に縛られた娘が憐れで、白蓮は何としても助けてやりたい。白蓮がじっと小雪を見守っていると、
「……なら、殺して」
小雪は、呻くように告げた。
「貴方の愛する人を、私の目の前で殺してくれたら、復讐なんて忘れるわ」
「……小雪さん」
「わかっているの。私、おかしくなっちゃったのね。私は成仏するべきなんでしょう、あの女を恨むのは筋違いなんでしょう、だけど、そんな理屈で納得したくないのよ! 私のこの思いはどこにぶつければいいの! ……お願い、お坊様。私、もうこんな寂しいところに居続けたくない……私を、自由にして……」
やはり無理だったかと思いつつ、そうだろうと白蓮は納得している。
小雪は認めたくないのだ。自分がつまらない男に入れ込んで、心中覚悟で深山に入ったのに、騙されてあたら命を失ったと。
自分の愚かさを自覚しながら、それでもかつて男を心から愛したことを忘れられない。愛を否定してしまったら、自分を否定するようで、恐ろしいから。彼女は恨みと呪いを抱えながら、囚われの身から救い出してくれる誰かを待ち続ける悲劇のシンデレラだ。
白蓮にはもうわかっている。ムラサに与えた舟のように彼女を解放する鍵は、裏切った男を超える白馬の王子様だ。
(駄目よ、小雪さん。どんなに待っても王子様なんて来ないの。貴方自身が現実を見つめて、前に進まないと――)
身体が火照って汗が噴き出てくる。どうして神子をここに連れてくることができよう。この場で神子と殺し合いなど繰り広げても無意味だし、かといって小雪の言う女を探し出して突き出すわけにもいかない。
(ああ、神子)
連れてなど来れないと思ったそばから、白蓮はいまここに神子がいてくれたらと強く願った。
彼女なら、何か現状を打破するいい知恵を貸してくれるんじゃないか。悩み苦しむ小雪を前になす術もなく立ち尽くす白蓮に『何をやってるんだ』と呆れた眼差しを投げながら、彼女なりの考え方で、彼女なりの方法で、救いの手を差し伸べてくれるんじゃないか。
(いやだ、何を弱気になっているの)
都合のいい考えをすぐに打ち消す。自分までシンデレラ・シンドロームに侵食されそうになってどうする。白蓮だって人妖の平等と救済を掲げる宗教家だ。たとえ白蓮ひとりきりでも、道が見えなくても、自分の力でどうにかしなければ。
そのとき、白蓮と小雪しかいないはずのこの場所に、何者かの気配が現れた。
神奈子であろうか? いや、違う。それも、気配はふたつ――。
「ああ、お坊様、認めていいわ、貴方は本物の御仏の使いよ! 私の勘がそう言っている!」
小雪が色めき立って叫んだ。小雪のやけに紅潮した頬に、いままでで一番明るい表情に、白蓮は嫌な予感がよぎり、それは非情にも的中した。
「まさかあちらから出向いてくれるなんて思いもしなかった。あの女よ! あいつこそが、私が憎んでやまない女!」
◇
冬の日暮れは早い。薄暗い雪の中を、神子は透子を伴ってふたりで歩く。
当てもなく雪山まで来てしまった――防寒具は貸し与えた、神子は神経を尖らせて透子の動向に絶えず注意を払っている。万に一つでも彼女を死なせはしない。
「神子さん。貴方に聞きたいことがあるのですが」
透子が不意に沈黙を破った。透子はやはり落ち着き払って、神子をまじまじと見つめて、淡々とした口調である。
「複数の女を渡り歩く人間の心理とは、どのようなものでしょう」
「透子さん。それがあの男の居場所を探る手掛かりになるとは限らないし、貴方の物差しで私というものが推し量れるとも思わない方がいい」
引き攣った笑いのようなものがこぼれかけて、神子は肩をすくめる。透子は引かなかった。
「でも、聖徳太子には四人の妃がいたはずです。菟道貝蛸皇女、膳部菩岐々美郎女、刀自古郎女、橘大郎女」
「さすがに貴方はよくお勉強されている。まあ、いましたよ、四人ともちゃんと。それは後世の作り話ではない。私は女ですが、当時は男ということにしておいた方が何かと融通が利くと思っていましたから。透子さん、現代を生きる貴方には難しいかもしれないが、古代の為政者は個人の恋愛感情のためでなく、政のために結婚をするのです」
透子が眉をひそめた気配がした。
「もちろん愛情がなかったとは言わないが、それは二の次。当時の大王は国を支配する体制が確立していないもので、地盤が危うい。なればこそ血縁の近い皇族や、地方で力を持つ豪族と力を合わせる必要がある。私は、私と手を組み、かつ有能な働きを見せてくれそうな者の娘を四人、選んだわけです」
神子の叔母・推古天皇の娘、古来より皇族との縁が深かった豪族膳傾子の娘、飛鳥の世に急進的に勢力を伸ばした蘇我馬子の娘、推古天皇の息子・尾張皇子の娘。神子は父母双方から蘇我の血を引いているため、ほとんどは血縁者同士の結婚である。
「まあ、大変でしたね。当時は後宮なんてものはないから、妃をひと所に集めたりなんかしないし、妃に用があれば妃の実家にそれぞれ通う必要があるし、子供も妃の……というか、女の一族で面倒を見るのが慣わしでしたから」
「なら夜離れが続いても、他の妃の機嫌を取るためだと言い訳ができると」
「単なる愛と嫉妬の問題じゃありませんよ。私はむしろ妃の背後にいる一族の動向を最も気にしていた」
結婚もまた政の一環なら、妃たちとのやりとりも自然、緊張を孕んだものになる。まして神子は自分の野心のため、神子並みの聡明さは望めなくとも、政の心得がある女ばかりを選んだ。妃は神子の策を支える助言をする傍らで、自分の一族にとって利になる条件を抜かりなく突きつけてくるのである。神子はそんな駆け引きにもまた面白みを感じて、妃との交流を遊戯感覚で楽しんでいたのを覚えている。
もちろん、夫婦らしく心安らぐ時間や、情の通い合うときがなかったとは言わない。神子は神子なりに彼女たちを大事にした。それが一方通行でなかった自信もある。――しかし、彼女たちが普通とは違う夫婦生活にどこまで納得していたのかといえば、いまの神子のそばに、妃たちがひとりもいないのが答えではないだろうか。
「確かに、古代と現代を簡単に比べられるものではありません」
透子はやはり淡々と口を挟む。
「私は現代の生まれで、貴方の結婚をひどく倒錯したものとみなしているかもしれません。けれど、人間が他人にされて嫌なことなんて、あまり変わらないのではありませんか」
「そこに貴方の私怨が混じっていないと言い切れますか」
「なら神子さんはスセリヒメや磐之媛の嫉妬をどう解釈します」
「あっはっは!」
神子は思わず笑ってしまった。どちらも嫉妬深さで有名な古代の女神や皇后である。無論、彼女たちの嫉妬は愛情の不満よりも自らの威光を示すためのものだ、という解釈は、透子には通じないだろう。
「いいですね、貴方の嫉妬を軽んじるなという姿勢。……あのとき、貴方のように、真っ向から尋ねてくれたのなら……」
透子は不審に思うだろうが、構わない。神子の脳裏によぎったのは、あのときの白蓮がほんのわずかに見せた嫉妬である。うわべを取り繕おうとしたがる彼女は、心の中で抑えきれない不安を、神子には決して気取られたくないという気配がありありとあった。
貴方のお妃さまの伝承はなんなの、あの人たちもこっちへ来るの、どういう仲だったの、誰が一番好きだったの、私に好きだって言ったのは嘘になるの?
そうやって神子に取り縋って言いたい放題言ってくれたら、こっちもそれなりの言い訳を用意して、誠意を尽くし、言葉を尽くし、彼女が心の平穏を取り戻すまで、何度でも宥めることもできたのに。白蓮はひとりで心の中に勝手に問題を生み出して、抱えて、逃げてしまった。
(そんなに私が信用ならないか。私がどんな思いでいるか……わからないお前じゃないはずなのに)
思い出せば苛立ちが募ってくる。透子の問題がなかったら、一輪の忠告を無視して真っ先にこの山のどこかにいる白蓮を探していたかもしれない。
(私が過去に誰とどんな付き合いをしていようが、いまのお前への思いが嘘になるものか!)
神子が会ったこともない命蓮とかいう後世の坊主の姉なんて肩書はどうでもいい。
神子が惹かれたのは、聖白蓮という、不遜にも豊聡耳神子を封印せんと試み、臆することなく何度も目の前に立ちはだかったひとりの女だ。
「どうして貴方がそんな顔をするんですか」
気がついたら、透子が訝しみながら神子の顔を覗き込んでいた。
「いやね。貴方が私を嫉妬を知らぬ者のように言うものだから、つい嫌なことを思い出しまして」
「貴方のような人が誰に嫉妬をするのかしら。充分すぎるほど自信がおありで、誰かに負けるとも思えないのに……」
「嫉妬は理屈でないと、貴方の方がおわかりでしょう」
厳密に言えば、白蓮の嫉妬と神子の嫉妬は異なる。白蓮の過去には、神子以外の誰もいない。隠し通せる性格ではない。それは確かだ。
けれどもし、神子が聴き逃しているだけで、彼女の過去にそういう人物のひとりやふたりがいてもおかしくないのだとしたら……。
「そいつの墓の場所を聞き出して、墓の中を暴いて、二度と復活も蘇生も転生もできないように――」
口に出してから(あれっ)と神子は目を瞬く。自分はいま、なんだかとんでもないことを口走らなかっただろうか。確かに昔の自分には政敵を容赦なく屠る非情さがあったが、こんな感情は持ち合わせていただろうか?
透子の方を振り返ると、度し難いものを見るように顔が引き攣って歪んでいた。
「スセリヒメや磐之媛も裸足で逃げ出すような苛烈さですね」
「貴方、よく私に神話のたとえを吹っかけましたね」
神子がさりげなく話題を逸らすと、透子もそれ以上は深掘りをしなかった。
「貴方の考えを聞きたいだけです」
「なら私の厭う神の話を聞かせましょう」
「……ニギハヤヒかしら」
「ちょっと近い。その兄弟のニニギですよ」
邇邇芸命。天照大御神の孫のため天孫と呼ばれる。天降ったニニギはコノハナサクヤヒメという美しい乙女と恋に落ち、結婚した。だがニニギはサクヤヒメから懐妊の報告を受けるなり、『たった一晩で身籠るなど怪しい。他の男の子でないか』ととんでもない疑いをかけた。サクヤヒメは正真正銘のニニギの子だと証明するために、産屋に火を放って三人の子を出産したのである。
「天孫ともあろう神がなんと下賤で無責任な疑いを持つことか。さすがに私も信じられない思いでした。この逸話からわかるのはひとつ。神代の昔から、男は救いようのない馬鹿だ」
「……」
「一例で足りないならラーマーヤナの試しを引き合いに出してもいい。そこでもやはり男が妻に不貞の疑いをかけ、妻は貞操を証明するべく大地の神に訴えかけ、めでたく貞操を認められたものの、妻は地の底に消えていったのです」
「……」
「そんなものですよ、男って。私は一時期男になりすましたけれど、男心なんてものはついぞわからなかった。透子さん。そんなくだらない男に、貴方が命をかけてまで復讐する価値なんてないと思いませんか」
神子は意味深長に目配せする。
何度か会話をしているうちに、いかに本来の透子が聡明で落ち着きのある、肝の据わった女性であるかが見えてきた。神子の妃もこういう才気煥発で遠慮のないタイプが多かったのを懐かしく思い出させる。
我が子を代償に急死に一生を得て、三年でここまで自力で回復したところからしても、自己再生能力が高いと見える。おそらく神子があと少し手助けしてやれば、透子は社会に戻ることも不可能ではない。
だが、大袈裟に泣き喚いたり叫んだり、狂態を晒さないぶん、神子にはかえって透子の内面に潜む負の欲望の強さがひしひしと感じられるのである。彼女の心の奥底に沈澱して凝り固まった、深い嘆きと怒りと悲しみと憎しみが。
透子はふ、と小さく笑った。
「今更引き返すわけがありません。私が命を懸けてここまで来ていると、貴方もおわかりだから、ついてこられたのではありませんか?」
「……」
神子も『これ以上の説得は無理だ』と諦めるしかなかった。
思うに透子も神子と同じく理屈で動くタイプであり、普段の彼女なら神子の話でそれなりに納得をして、矛を納めてくれただろう。
――もし、ここに白蓮がいてくれたなら。
白蓮は情の人だ。いささか絆されやすいところがあるが、決して感情的というわけではなく、相手の心に深く寄り添って悩みの元凶を聞き出してくれる。ああいう人物の一言が、意外にも理屈で固めようとする心に響いたりもするものだ。
(まったく、今頃どこにいるのやら)
雪山を当てもなく歩くわけにもいかないから、正規の道で山頂を目指すということで、透子も納得している。もし脇道に入るとしても必ず神子が護衛につく。透子は山に入りさえすれば何かが見つかると信じているようだが、彼女の気が済むならそうさせてやるしかない。
「ねえ、神子さん」
ふと、透子が立ち止まる。
「吹雪ですよ」
「はい? こんな雪、大したこと……」
「いえ、あっちの方に」
透子の指さす方を見やれば、薄暗い視界でも奥の一帯だけが猛吹雪に見舞われているのがわかった。
「なんでしょう。冬になると雪女のような妖怪が出没すると聞きますが、そいつの仕業でしょうかね」
「……」
「透子さん?」
「こんな吹雪の日だったわ。あの男が逃げていったのは」
神子は顔を強張らせる。あの吹雪の中へ進もうというのか。
「透子さん、いま一度確認しますが、貴方はこの山で仇を見つけようが見つけまいが、たとえあの吹雪の中に何者かがいたとして、そいつが貴方の仇でなくても、もはや過ぎ去ったことだと諦めて帰れますか。くどいようですが、私は貴方を死なせられない」
「ええ。何もなければ、帰ってあの子の後を追います。ですからいまは、行かせてくれますね」
神子は(本当に、いざとなったら仙界に幽閉するしかないかもしれない)と腹を括って、吹雪の荒れる黒い雲の方角へ進んだ。
不思議なことに、吹雪は強さを増したり、弱くなったり、あるいは雪が粉っぽくなったり湿り気を帯びたり、短時間でしょっちゅう模様を変える。寒気を操る妖怪の仕業で片付けるには違和感がある。
(……まずい)
吹雪の元凶に近づくに連れて、神子は耳当てを強く握りしめる。透子と同等か、あるいはそれ以上に強い憎しみの声は、単なる遭難者の成れの果てとは到底思えない。
しかし神子を更に驚かせたのは、そのすぐそばから、神子のよく知る十欲の持ち主の声が聴こえてきたからだ。
(――どうして)
透子はまだ気づいていない。退くか、進むか、神子が決めるしかない。
(どうしてお前がここにいるんだ……白蓮)
やがて、吹雪の中のふたりが――真っ白な着物の見知らぬ妖怪と、いつもの白黒の衣装を着た白蓮が、神子たちに気づいた。
白蓮はたいそう驚いた顔をしていた。次の瞬間、白蓮はどこからともなく金色に輝く独鈷杵を取り出し、そこに光の刃を纏った。
「神子!」
叫ぶと同時に、白蓮が凄まじい勢いで駆け寄ってくる。
(待て、何を考えている、お前まで気が狂れてしまったのか)
けれど神子の中にどよめきが起きたのは一瞬で、神子は即座に白蓮の叫びの理由を悟った。
「透子さん!」
驚きのあまり硬直する透子を庇うように立ち塞がると、白蓮は躊躇なく杵の先端を神子の胸に突き立てた。吹き出した血は寒気の中ですぐに凍りつき、神子はそのまま意識を手放した。
◇
手ごたえは、確かにあった。
前のめりに倒れ込む神子の身体を受け止めると、背後で神子が『透子さん』と呼んだ見知らぬ女性が、「神子さん!」と叫びながら神子の胸元に手を当てた。何度も心臓の音を確かめて、震える手で首筋に触れて、やがて呼吸も心音も完全に停止してしまったと理解したのだろう。呆然と動かなくなった神子を見つめた。
「う、嘘でしょう……?」
背後から、これまた驚愕の表情で口元を覆い立ち尽くす小雪の声が聞こえてきた。
「ねえ、お坊様、その人、ま、まさか……」
「豊聡耳神子。私が愛した人よ」
小雪は唖然として、すぐに透子と同じように神子の身体に触れた。手首を取って脈がないのを知ると、信じられないといった面持ちで白蓮を見た。
「嘘よ。貴方が、本当に殺してしまったの?」
「小雪さん。貴方が〝殺せ〟と言ったのに、そんな顔をするのはおかしくありませんか」
「嘘よ!」
「ああ、そうでしたね。私はこの人を成仏させたのです。僧侶ですから、殺生を犯すはずがありません」
「狂っているわ」
強い非難と驚愕を湛えた眼で、透子は白蓮を見つめている。
「貴方、命蓮寺の住職でしたよね。神霊廟の神子さんとは何かと対立していると噂に聞いていましたが、よもや命を奪うような真似を犯すとは」
「これでよかったのよ」
動転するふたりをよそに、白蓮は神子の身体を仰向けに起こして、膝の上に頭を乗せた。表情は安らかで、眠っているようにしか見えない。頬をなぞると、猛吹雪のためか、ひどく冷たかった。
「この人、死神の迎えだって撃退してしまうんだもの。だったら、せめて最期は私の……。私が弟子たちと一緒にこの世界に辿り着いたとき、この人は私よりひと足早くこの世界にやってきていて、あの地の底深くの霊廟の中で眠っていた。私はこの人を封印するつもりだった。妖怪の脅威だと思ったから、私の法力で寺を建てて復活を阻止しようとした。あのときは失敗してしまったけれど、ようやくあるべきところに治ったんだわ」
緊張で凍りついた空気が充満する中で、白蓮は初めて〝寒い〟と感じた。
おそらくは、透子が小雪の言う恋敵で間違いない。本当なら透子にどうして神子と一緒にここまで来たのか聞きたかったのだが。
冷たい神子の身体を、白蓮はそっと抱きしめた。
「馬鹿な人。〝命長ければ恥多し〟って、この人が知らないわけがないのに。私も長寿の肉体を手に入れて、長生きをして、永遠の命なんてそんなに執着するほどのものでもなかったとようやくわかったわ。……これでよかったのよ。物部と蘇我の争いの真相も、この人が本当は仏教を信仰してはいなかったことも、復活して永遠を手に入れようとしたことも……すべて白日の下に晒されないまま、ずっと眠り続けていた方が、あの人も私も苦しまなくて済んだのよ」
「違うわ!」
小雪が耐えかねたように叫んだ。その目から憎悪と恨みは消えて、ただ悲しみだけが浮かんでいる。
「わかっているでしょう、お坊様。過去をなかったことになんてできないの。貴方が愛した人を殺しても、貴方がその人を愛した事実や、貴方とその人との間にあったことは、雪のように消えてなくなりはしないわ……」
小雪が顔を覆って泣き出すと、雪までもがまるで空の涙のように、しとしとと湿り気を帯びて白蓮らの身体を濡らした。神子の身体が雪に濡れないように覆い被さって、
「そうでもないわ、小雪さん。貴方には黙っていたけど、何もなかったことにする手段はまだ残っているのよ。……私がこの場にいる全員の記憶を消してしまえばね」
空気が一気に冷えた気配がした。こういう打ち明けはフェアではなかっただろうか。けれど小雪も最初からすべてを明かさなかったのだからおあいこだ。
「嘘ではないわ。少々手間はかかるけど、不可能ではないの」
「お坊様」
「忘れましょう。すべて隠してしまいましょう。貴方たちの苦しみも、私たちの罪も、このまま雪の中に埋めるように……」
乾いた音が響いた。透子が白蓮の頬を張ったらしかった。
「これだから貴方たち人ならざる者は信用できないのよ」
白蓮をはたいた透子は、怒りに震えていた。
「人間そっくりの姿で親しげに近寄ってくる奴も、世にも恐ろしい化け物の姿で襲いかかってくる奴も、どっちも同じよ。あんたたちは人間を、私たちをなんだと思っているの。自分たちより愚かな、ひ弱な、矮小な、醜い、露の命の、取るに足らない劣った生き物だと馬鹿にして見下して、都合よく使い捨てるつもりでいるんでしょう!」
白蓮は静かに耳を傾けた。透子の叫びは、そのまま人ならざる者への憤りというより、自分を裏切った男への強い怒りをぶちまけているように聞こえた。
「そんなんだから、あの男みたく、人の人生を簡単に踏み躙ってしまえるのよ……」
怒りと悔しさのためか、透子の目尻に涙が浮かぶ。しかし透子は即座に涙を拭って、未だ啜り泣きを続ける小雪を睨みつけた。
「ねえ、そこの貴方。貴方でしょう、私の夫だった男と逃げたのは」
透子の一声が鋭く響く。透子は、もう神子にも白蓮にも目をくれず、真っ直ぐに小雪だけを見つめていた。
「貴方、私のことも殺すの」
小雪の涙が一瞬で止まり、即座に透子を睨み返した。
「殺すわ」
口にしてまた憎悪が再燃してきたのか、吹雪が冷たく身体に当たる。
「失った過去を取り戻せないと、不毛なことだとわかっていても、そうするしかないの。だって、そうでしょう。貴方がいるから、あの人は私のことだけを見てくれなくて、最後の最後で、私を裏切って、逃げて、貴方のところへ帰ろうとして……」
「帰る? 自分で殺した女のところにどうして帰ってくるっていうのよ」
「え?」
小雪が唖然とする。小雪は透子のことをほとんど何も知らないはずだった。そして透子もまた、小雪の事情をすべては知らない。
「あの人はね、貴方と駆け落ちする直前に、私を川に突き落としたの」
透子の淡々とした告白に、小雪は息を呑む。
「真冬の凍りつくような冷たい川の中よ。本当に死ぬかと思ったし、引き上げられてからもしばらくは床を離れられなかったし、いまも生きているのが不思議なくらい。あの男は私があれで確実に死んだと思ったでしょうね。……死んでしまったのは、何の罪もないあの子だけなのに」
目を伏せて平べったいお腹をさする仕草で、小雪はその意味するところを察したらしかった。
「嘘!」
みるみる小雪の顔が青ざめてゆく。白蓮も内心(まさかそこまでとは)と反吐が出る思いを抱えていた。
「嘘、嘘でしょ……そんな、それじゃあの人、自分の子供まで……」
「心中相手を土壇場で殺して逃げるような男だったんでしょう。身籠った妻を殺すくらい、なんの良心の咎めもなかったでしょうよ」
「……」
小雪は信じられないと言いたげに目を見開いていたが、透子がどこまでも冷静に、小雪から目を逸らさないまま語るので、じわじわ本当のことだと信じる気になってきたようだった。
やがて、小雪は歯を食いしばって、苦々しげに透子に告げた。
「その男、逃げた後、山の中で山姥に食い殺されたんですって。霊すら見かけないそうよ」
「……そう。因果応報だわ。あんな男、妖怪に魂まで噛み砕かれてしまえばいいのよ」
「……」
「私もね、貴方を殺そうと思っていたのよ。夫に裏切られただけならまだしも、あの子を亡くしてしまったのが、あまりに無念で、申し訳なくて……でも」
透子は、小雪の擦り切れた着物から覗く切り傷に目を留めた。
「その傷、あの人にやられたの?」
「え? ええ」
小雪はしばらくどう説明したものかと迷っていたが、やがて思い切って襟を開いた。
真っ白な肌の胸と腹の中心に残る、夥しい刺し傷の跡――透子は眉をひそめる。
「ひどいじゃない。まあまあ、ほとんど刺す必要のないところにまで刃物を突き立てて。もっと楽に死なせてあげる殺し方があるでしょうに。不器用な男には何をやらせても駄目ね。若い女の子の体をこんな滅多刺しにしなくてもいいのに」
「あの……」
「それだけじゃありません。小雪さんの死体は、念縛霊になった小雪さんの目の前で妖怪に食われてしまったんです」
「お坊様!」
白蓮の口添えを咎めるように小雪は叫んだ。いちいち同情を誘うようなことを言わなくてもいいじゃないか、と言いたげに、決まり悪そうに俯く。先ほどまでの威勢はどこへやら、すっかり萎らしくなっていた。
「私も因果応報です。妻子のある男の人を奪ったから」
「あの子は、まだ生まれてすらいなかったのにね。お互い、悲惨な目に遭ったものね。あんな男に引っかかったばかりに」
透子の言葉に小雪への憎しみや当て擦りはなく、むしろ小雪に同情するかのようであった。たちまち、小雪の目からぼろぼろと大粒の涙が溢れ、しゃっくりが上がった。
「よしなさい。私は、あの子が死んだのまで貴方のせいだとは思っていないのよ。あの子を殺したのは、あの男」
「だって……ひどいわ。あんまりにも、ひどいわ」
小雪が恋敵の透子に心底同情し、見ず知らずの赤子の死を哀れみ、本気で男に憤っている様子に、透子も少し困惑しているようだった。
「ごめんなさい。私に貴方を殺す資格なんてなかった。貴方にこそ私は殺されるべきだったわ」
「やめて、これ以上、私を殺人鬼に仕立てようとしないで。もう、いいのよ。どうせあの男への復讐は叶わないし、あの子も帰ってこない。……どうしてかしらね。人里で貴方の情報を集めていたときは、貴方を憎く思うことが何度もあったのに、いざ顔を合わせたら、貴方がとても可哀想になってきた」
透子は深くため息をついて「貴方、いくつだったかしら」と聞いた。
「十六でした」
「ならちょうどあの男の十歳下。本当に、何を考えていたんだか。こんな若くて、しかも美人の女の子、他にいくらでもお似合いの年頃の相手を見つけられるのに。自分がそのチャンスを潰してはいけないと、あの男、そういう配慮がまったく頭になかったわけね」
「いえ、違うんです、私があまりに愚かだったから。私、他の男の人を知らないんです。経験がないから、刷り込みみたく初めてのこの人が一番だ、すべてだなんて思い込んで」
「私はあの男より二つ上だったのに騙されたわ。私は貴方以上の愚か者よ」
「違うわ。透子さん、だったかしら。私たち、もうとっくにわかっていたはずなんです。自分の傷を抉るのが嫌で、目を逸らしているだけで……」
小雪が懸命に言い募ると、透子はふっと、まるで妹か娘を見るような柔らかな眼差しで小雪を見つめた。
「あの男は、とんでもない男のクズだった。私たちが愛する価値などどこにもなかった。――そうよね? 小雪さん」
「はい。恨むべきはたったひとり。だから……透子さん、私はもう貴方を恨まない」
「……私も、貴方を恨んでなんかいないわ」
小雪は涙に濡れた目で透子を見つめ、透子はその眼差しを受け止める。いつのまにか雪までも柔らかな粉雪に変わっていた。
「――ようやく、貴方たちふたりの未練が解けたわけか」
白蓮の腕の中で、神子が突然起き上がり、ふたりに言葉をかけた。小雪と透子は揃って化け物を見るような目を向けた。
「え、嘘、え、えっ!?」
「どういうことです、確かに心臓も呼吸も止まっていたはずなのに……」
「っ痛て……白蓮、本気で急所を狙ってきただろ」
「そうでもしないと小雪さんを騙せそうになかったのよ」
神子は白蓮に文句を言い、白蓮も神子を軽くいなす様に、ふたりの女は目を丸くするばかりである。
「あ、あの、まさか、きょ」
「キョンシー? あれはそんな即席で出来上がるものではありません。第一、この女は死体を操れるほど外道に堕ちていない」
「小雪さん、この人は尸解仙だと説明したでしょう。いまの身体は無機物が元になっていると」
「……ああ、なるほど」
透子が先に事態を飲み込んだらしかった。
「そこの住職さん……白蓮さん? は、最初から神子さんを殺してなどいなかったのですね」
「白蓮が私に突撃しながらある頼み事をしてくるものでね。それでどう決着がつくんだか私にも不明でしたが、まあ、こいつのことだから、貴方たちふたりにとって気の毒な結果にはならないだろうと。お望み通り、尸解仙の術を一部解除したのです。ほんの少しだけ、私の身体は無機物と同じになっていた」
「じゃあ、脈が止まっていたのも」
「この人が自主的に術を解除したためであって、私の攻撃はただの目眩しです。小雪さんと透子さんには、私が殺めたようにしか見えてなかったでしょうがね」
「まあ……私ったら、また簡単に騙されてしまったのね。もう救いようがないわ」
「大丈夫よ、小雪さん。貴方は自分で卑下するほど愚かではありません」
顔を覆ってうなだれる小雪に、白蓮は片目をつむってみせた。
「貴方の言う通りよ。私は、どうなっても愛した人を殺せないの」
「まあ!」
呆気に取られたのちに、小雪は明るく笑った。
神子は白蓮にもっと色々なことを言いたそうだった。白蓮も神子に言いたいことがあった。けれどそれは、ふたりがそれぞれ連れてきた女たちのために、後回しにすることにした。
結果的にふたりの悔恨が解けたせいか、元は恋敵であったはずの透子と小雪は、すっかり意気投合していた。
「私が馬鹿だったんです。あの男が怪我をしていたのを助けて、お礼にと再び現れたのを見て、運命の出会いだなんて舞い上がって。あまりに子供っぽいことでした」
「あら、やっぱりあのときからだったの。あの男が怪我をして帰ってきて、運良く知り合いに手当てをしてもらえたとか言ってたけど、それにしてはずいぶん上等で清潔な包帯を巻いているから変だとは思ったのよ。思えばあの日から不自然な帰りが多くなって……あの手当は貴方だったのね」
「ま……! そんな早くから気づいてたんですか」
「初めの一回はいいのよ。貴方だって単なる親切心だったのでしょう。なのにあの男ときたら、何を勘違いしたんだか……自分の身の程をわかっていないのよ。盗人の男が、若い女の子の家に通って、女の子がどんな迷惑を被るかちっとも考えていないんだから」
「そのまま引きずりこんだ私が愚かだったのです。ああもう、腹立たしいわ。あの男に、私が心中する価値なんて……私ったらころっと騙されて、もう、何をやっていたんだか」
「私も昔に戻れるんだったら十八の私に言ってやるわ。無視して立ち去りなさい、さもないと勘当されるのよ、と。本当に男を見る目がなかった」
「あのときの私ったら盲目だったとしか思えませんわ。せめてもう少し、いい男を見る目を養えていたら……」
「いい男ねえ。探せばいるのかもしれないけど、私はもう男はこりごり。だけど本当に、どうすればあのときの私にいい男の見分け方がわかったのかしら」
ふたりは元凶の男への愚痴、悪口、昔の自分への後悔で盛り上がって、もはや白蓮も神子も口を挟んで仲介してやる必要がないのだった。
「いい男の見分け方ね。それは私にもわからないが」
ふたりの会話を眺めていた白蓮は、不意に同じように黙ってふたりを見守っていた神子に肩を引き寄せられる。もう身体はすっかり元通りになっているようだ。
「いい女の見つけ方なら知っているよ」
などとまあ、格好をつけて言うものだから、白蓮も驚いてしまった。あばたもえくぼだとか蓼食う虫も好き好きだとか言うが、神子は本当に自分を〝いい女〟だと言ってしまえるのか?
小雪と透子は神子の宣言に、顔を見合わせて苦笑いした。
「それは、私たちには到底真似できそうにないわ」
その後もしばらく愚痴合戦は続いて、積もる話がようやく終わった頃に、小雪は「透子さん」と呼びかけて、その手を握った。
「私はあの男に殺されて死んでしまったけど、貴方は生きてね」
透子は驚いて目を見開く。小雪は心を込めて、真剣に透子を見つめた。
「もちろん、私の分まで長く生きてって意味じゃありません。あの男に奪われてしまった、貴方自身が生きるはずだった人生を取り戻してください」
「……」
「……って、さっきまで透子さんを殺そうとしていた私が言えた口ではなかったわ」
小雪が取り消そうとするのを、透子は「まったく」とため息混じりに遮った。
「貴方のそういう短絡的なところはどうかと思うわ。私が貴方の知り合いだったら、いの一番にその甘ったれた性格を指導していたでしょうね」
「ああ、恐ろしいこと。でも、透子さんのお小言なら、父の古臭いお説教より素直に聞けそうよ」
「本当に、おめでたいんだから。今更人生を取り戻せって、私、もう三十一よ」
「充分にお若いかと」
「ええ、若いです」
「小娘の私が言うのはともかく、人生の先輩の聖人ふたりがおっしゃるのだから間違いないわ。まだまだこれから、再婚だって……いえ、透子さんはもう必要ないのね。貴方は私よりずっと賢い人だもの。自分の好きなように生きるべきです」
「そういえば、透子さん、かつて先生になりたかったとおっしゃっていましたね」
神子も口を挟むと、小雪は感嘆して、
「素敵だわ。噂に聞く半人半獣の先生みたく教壇に立つの? 想像するだけで格好いいわ」
「いえ、寺子屋はもうあの先生で足りているみたいだから、今更私の入る隙など……」
「なら希望者のお宅を直接訪ねればいいのではないかしら」
白蓮もまた助言を挟む。
「要は托鉢のようなものと言いますか、勉強を教えて、そのお代をいたただいて。なんだったかしら、外の世界で言うところの」
「家庭教師」
すかさず神子が補足する。
「いいんじゃないでしょうか。里では寺子屋を出た後はすぐ家業を継ぐ準備に入る、という者も多いようですが、それでも勉学に野心を燃やす者は古今東西絶えない。寺子屋より高等な教育を希望する者の受け皿になって差し上げてはいかが」
「いいじゃない、透子さん、お坊様と道士様の言う通りにしましょうよ。困ったときは、このおふたりがきっと貴方を助けてくれるわ」
三人から代わる代わる励ましの声をかけられるも、透子はまだ白蓮と神子に疑惑の眼差しを投げ続けている。警戒心の強い透子は先ほどの白蓮の芝居もあって、素直に信じられないようだ。神子は苦笑して、
「私が道中に余計な話をお聞かせして、男性不信を通り越して有機体不信になっているようですね」
「ゆ、有機体?」
「大丈夫ですよ、透子さん。この女は簡単に他人の記憶をいじったりなんかしません。人間の中には、こいつを人間を恨む人間の敵と見做す輩もいるようですが、むしろこの女は人間が大好きです」
「ちょっと、神子」
白蓮は焦る。事実ではあるが、どうして神子は迷わず断言できるのか。
「こいつはやたらと猜疑心が強いし、かと思えば〝仏教ブーム〟なんて見え透いた嘘で簡単に舞い上がるし、臭いものに蓋をしたがる癖がなかなか治らないし、お節介であちこちの妖怪を寺に引き取りたがるし、とんでもなく厄介なやつに違いないのですが」
そこまで言わなくたっていいじゃない。不満げな白蓮を見下ろして、神子は得意げに笑う。
「かつて人間に裏切られたような身なのに、未だに人間と妖怪は平等に暮らせると本気で信じている。だから、貴方も小雪さんも、どちらも助けようとした。どうしようもない馬鹿な夢想も、ここまで一直線なら、信頼に値すると思いませんか」
白蓮は驚く。神子は、自分のことをそんなふうに思っていたのか。
神子の話で、ほんの少し透子の疑念が揺らいだようだった。今度は白蓮が畳み掛けた。
「透子さん、この人は口が上手いから、さぞとんでもないことを吹き込んだでしょうね。だいたいこの人は人格者を気取りながら未だに邪仙と交流があるし、大昔の権威を振りかざすところがあるし、和を建前に我欲を押し付けたがるし、格好つけだし目立ちたがりだし自分勝手だし、何よりとんでもない嘘つきだし……」
「こら、フォローしてやった相手をそこまで貶すか」
「だけど、私はこの人の〝人のために動く〟という信念を疑ったことは、一度もないのです」
お望み通りフォローしたわよ、と神子を見やれば、神子は透子と揃って目を瞬いた。
そうだ、と白蓮は口にして改めて思う。なんだかんだ言いながら、ときにぶつかりながら、それでも白蓮は神子を信じているのだ。
反論しようとしたのであろう透子は、結局所在なさげに視線を彷徨わせる。その手を迷いなく小雪が握った。
「ね、透子さん。貴方が生きていたからこそ、私は貴方と話ができるのよ」
「……」
「大丈夫よ。一度男に裏切られて、私もひどく拗ねちゃったけど、そんな男のためにこれからの人生も放り出す必要はないの。だから、どうか、これからも生きて」
生きて、という言葉が力強く反響した。やがて、透子の頬に涙が一筋、伝う。涙は後から後から溢れて、透子は堰を切ったように泣き出した。
「この三年、私は何度も死のう死のうと考えて、結局果たせずじまいだったけど……本当は私は死にたくなかったんだって、生きたかったんだって、改めて思ったわ。……小雪さん、ありがとう」
心から安堵する白蓮の横で、神子は肩をすくめる。自分が『人間は生きるべきだ』と理屈っぽく言っても解きほぐせなかった、透子の硬く凍りついた心を解かすのが、十六の若い娘による心からの激励であったとは。それも、元は恋敵の――などと考えているらしかった。
長い間張り詰めていた緊張の糸がようやく切れたのか、透子は雪の中にうずくまってぼろぼろ泣いた。その背中を撫でる小雪の手は、慰めのように振り注ぐ柔らかな淡雪は、とても優しかった。
五、
そろそろ疲労の限界であろうと神子が判断を下し、透子は先に神子の仙界へ送られた。新しい生活を始めるためにも、しばらくあのニヤケ面の男がうろつく住まいから離れて、ゆっくり心身の養生をした方がいいとの考えで、白蓮も同意だった。
透子は養生が終わったら、実家に戻って勘当を解いてもらうべく頭を下げるつもりでいるらしい。そのときは神子と白蓮も付き添い、彼女があの男と一緒になってからどんな苦労があったかをつぶさに補足して、親に許してもらえるよう一緒に説得をする心算だった。
すべてが決まってから、透子はおずおずと白蓮に切り出した。
「あの、ごめんなさい、さっきは思いきり叩いてしまって……」
「ああ、大丈夫ですよ」
「でも、頬に傷が」
「これは山姥に包丁を投げられたときのものですから、透子さんのせいではありません」
「何がどうしたら山姥に包丁を投げられる羽目になるんだ」
神子は呆れた目をしつつ、再び透子に向き直って、
「何かあったら私の弟子に遠慮なく申しつけてください。それから、貴方が望むのであれば、貴方のお子さんの供養はこちらの女がやってくれると思いますが、どうなさいます」
白蓮の袖を引いて言うと、白蓮も透子も揃って目を見張った。
「いいのでしょうか。そういえば水子を供養するなんて風習、聞いたことがありませんでしたが。ご迷惑でないかしら」
「迷惑ではありません」
白蓮はきっぱり言い切った。
「お墓を作ってお供え物をあげたい、命日にお経をあげたい。何でも構いません。水子についてはこちらも正式な供養の形式を用意しているわけではないので、不慣れではありますが、透子さん、貴方の心が少しでも穏やかになるのでしたら、私たちはなんでも力になります」
白蓮は以前、水子供養などおかしな風習だと否定していたのを返上して、本心からそう言った。仏の教えに背くかどうかより、目の前で困っている人に寄り添う方が宗教家のあるべき姿だと思ったからだ。
透子はふたりに深々と「これからもお世話になります」と頭を下げて、最後の最後に小雪と握手を交わして別れた。これが今生の別れと、ふたりとも理解していたのであろう。
「では、小雪さん。次は貴方の番ですね」
透子を送ったあと、白蓮は小雪に向き合った。元より小雪を成仏させるために来たのだった。
「本当に行ってしまっていいのか。亡くなったとはいえ、貴方にはこのまま力の制御を覚えつつ妖怪として生きる道も……」
「いえ、道士様、もういいんです」
見送りを渋る神子に向かって、小雪は言い切る。
「本来なら、私は三年も前に死んであの世に向かっているはずでした。やっとこの場所から自由になれる、それだけで充分です。それに、妖怪になったらあの風神とか、他に住む妖怪とかとうまく折り合いをつけてやっていかなければならないのでしょう? 誰かの顔色を伺って生きるのはもう疲れたわ」
「小雪さん。私は貴方の罪が少しでも軽くなるよう尽力しますが、最終的な裁きを下すのは閻魔様です。浄土への旅立ちを約束できないことは、ご承知ください」
「あら、お坊様、そんなこと気にしなくたっていいわ。覚悟はできているし、地獄に堕ちるとしても、ちょっと楽しみではあるのよ」
「はい?」
白蓮も神子も揃って首を捻る。小雪の笑顔は冴え冴えと冷たく、雪もまた冷たく降り注ぐ。
「向こうであの男に会ったら、私と透子さんと透子さんのお子さん、三人ぶんきっちり報復してやろうと思っていたの。私の罪が重くなっても構いやしないわ。浮気された女の恨みは深いと教えてやらないとね」
ふ、ふ、ふと笑う小雪を前に、白蓮も神子も苦笑いするしかないのだった。理由がなんであれ、活力が漲っているのは良いことだと言うべきか……。
白蓮が数珠を手に教を唱え、神子も合掌をする。少しずつ、小雪の身体が雪の中に透けてゆく。
「お坊様。転生ってやはり時間がかかるのかしら」
「貴方の罪次第ですね。ですが輪廻転生とは、本来仏教的には……」
「いいじゃないか、外で異世界転生が溢れかえるこのご時世に解脱を説くのはナンセンスだ」
「邪魔しないでください、私は貴方みたく仏教に適当じゃないんです」
「適当とはなんだ、私は大真面目に解釈した上で使える道具として利用してやろうと……」
「ふふっ、じゃあいつかは解脱を目指すということにしておくわ。でもね、もしも私が生まれ変われるんだったら、親の言うことはほどほどに聞き流して、女友達をたくさん作って、ボーイフレンドもいっぱい作って、いつか最高の男を自分で捕まえてみせるわ。……お坊様、道士様。私を解放してくれて、ありがとう」
小雪は最後に白蓮の手をぎゅっと握った。それから白蓮と神子、ふたりにそれぞれ微笑みかけて、白銀の雪の中に消えていった。途端に雪は降り止み、雪女になりかけた念縛霊はどこにもいなくなった。
「……さて」
長かった一日がようやく終わりそうで、白蓮はため息をついた。
「神奈子さんに報告しなくては」
「なんだ、やっぱりあの風神が一枚噛んでいたのか」
「神奈子さんの依頼だったんですよ、小雪さんのことは。そういう貴方は?」
「青娥の頼みを聞いているうちに成り行きでこうなった。そういえば、お前の山籠りは?」
「そのあたりの話は、まとめて後でしましょう」
ひとまず神子を制して、白蓮は小雪の件が片付いたことと山を降りることを神奈子に報告した。神奈子は満足そうに『そう、やっぱり一番いいところに収まったわね。ま、私としては、私に良くしてくれる妖怪がひとりくらい増えてもよかったんだけどね』と言った。神の采配とは、理解し難いものだ。
山小屋を引き払って人里に降りれば、里はとっぷり日が暮れていたものの、相変わらず大勢の人々がごった返して賑やかだった。神子は白蓮の隣を歩いている。
「やはり年末は騒がしいわね。山が静かだったぶん、余計にそう感じるわ」
「色んな宗教のイベントが立て込んでいるからね。私も今年は忙しい。お前もついているとはいえ、透子さんの保護もあるし、青娥を見張らないといけないし、五右衛門に送りつけるお歳暮も用意しなければ」
「ご、五右衛門?」
「後で話すよ。でも十二月の二十五日って、別に聖人の誕生日とはっきり決まっているわけではないんだそうだ」
「あら、そうなの?」
「まあ、そのへんはやっぱり伝承の曖昧さだよな。サンタクロースにしたってそうだ」
「あの白いひげのお爺さん、あんまり見かけないわね。やっぱり天狗の抗議が大きいのかしら。そうだ、貴方、何やら山でずいぶんニニギを悪く言ったそうじゃない」
「それがどうした?」
「大丈夫なの、よりによって妖怪の山で」
「大丈夫も何も、山の神だったらどちらかといえば天津神と対立した国津神の方……」
「違うわ、天狗たちは我らの祖先は猿田彦って鼻高々じゃない。その猿田彦が導いたのが天孫ニニギよ」
「……なるほど。ニニギを悪く言うと天狗を敵に回すんじゃないかって? 私は天孫の子孫だから関係ないよ、第一あいつはイワナガヒメを送り返した時点で言語道断なんだ」
「ああ、醜女だからと結婚を断った……確かにひどい話だけど」
「醜女がなんだ、大人しく妻に迎えておけば石(いわ)のごとき長寿が約束されたものを。あいつのせいで私たちは木の花のごとき短命になってしまった」
「えっ、貴方がニニギを嫌ってる理由ってそっち?」
「ああ腹が立つ。つまるところ、かつてのお前が死を恐れたのも、元凶の少しはニニギにあるんじゃないか」
「……天のニニギも、子孫にこうもこき下ろされては、困惑しているんじゃないかしら」
などと他愛ない談話が続くものの、なかなか本題に入れない。神子は会話が途切れるたびに、じっと白蓮の目を見つめて、話を促そうとする。
「……あのね、神子」
ようやく腹を括って、白蓮は口を開く。
「私って、自分でもびっくりするくらい重い女だったみたいなの。貴方が言ってくれるほどいい女じゃないわ。嫉妬深くて、面倒くさくて、貴方が愛想尽かすかもしれない」
「……お前ね、開口一番何を言い出すかと思いきや」
神子は大きくため息をついて、白蓮の手首を強く掴んだ。
「また逃げるつもりか」
じろりと睨まれて、思わず後退りしそうになったが、小雪が最後の握手を思い出す。小雪は『負けないで』と言いたげだった。
恋敵を蹴散らせという意味ではない。挫けそうな自分の心に屈するなという意味だ。白蓮はざわめく心を鎮めて、
「私からは逃げないわ。貴方が私の元を去ってしまうのが怖かっただけ」
いざ口にしたら、すんなりと自分の不安も迷いも認めることができた。そうだった。自分も案外、臆病なところがまだ残っているのだった。
神子は虚を突かれたように黙り込んで、ゆっくりと様々なことを考えるそぶりを見せた末に、またため息をついた。
「そんなに信用ないかな……と言いたいけど、今日一日、色んな人間と会ってみてわかった。私は生まれつきこういう能力で、聴きたいことも聴きたくないこともすべて聴こえてしまうから、無意識のうちに自分に都合のいい情報ばかりを選んでしまっているんだ」
耳当てをとん、と指で叩く。
「それでも貴方はなるべく公明正大であろうとしているんでしょう」
「そりゃあできれば多くを拾いたい。それでも気がつけば何かを取りこぼす。思いもよらないことを突きつけられる。修行不足だな」
「貴方が修行不足なら、私はどうなるんです。貴方は貴方なりの善を尽くしているじゃない」
「なんでそんなに励まそうとするんだ」
「だって、自信を失くした貴方はいつもの貴方じゃないみたいですもの」
「失くしてなんかいない、いないんだが……どっかの誰かさんにつられたかもね」
誰に、と言いかけて、恨みがましくこちらを見る目に気づく。
笑いのお面を見て吹き出してしまうように、感情は伝染する。神子が珍しく意気消沈して見えるのが、ここしばらく自信を失くしかけていた白蓮の影響だと言われたら、否定はできない。山に籠っていたときは、白蓮ばかりがひとりで悩んでいるように感じたが、『時間をくれ』とだけ残して置き去りにされてしまった神子の心境はいかがなものか。
白蓮は少し悩んだ末に、思い切って尋ねた。
「貴方のお妃さまのこと、聞いてもいい?」
「お前からそう言ってくれなきゃ私も話しづらかった」
神子があからさまにホッとするのを見たら、途端にドキドキしてきた。改まって聞くのはやはり怖かったが、このまま耳を塞ぎながら怯え続けるのも嫌だった。
「お前も源氏物語を読むんだろう」
「読みますよ」
「なら、葵の上の心境とか、なんとなくわかるんじゃないか」
葵の上――最初は皇太子妃にと望まれていたが、臣下である源氏の正妻になった、源氏より年上の高貴な女性である。容姿も教養も非の打ち所のない姫君だが、源氏は彼女の完璧さに物足りなさを感じて、夫婦仲は長らく冷え切っていた。
(それにしたって『わかるんじゃないか』とは、よく言ってくれたものね)
白蓮は内心苦笑する。何せこの葵の上、作中では極端に台詞が少なく、彼女の心内を深く掘り下げる文章もなく、和歌を披露されることもなく、描写されるのは夫である源氏の目を通した姿ばかり。端的に言えば何を考えているか非常に読み取りづらい人物なのだ。
そんな葵の上の『これは事実と受け取ってもいいんじゃないか』と言える数少ない要素が、『源氏の浮気を快く思っていない』ということだ。要するに、神子は政略結婚の話をしたいのだろうと白蓮は思った。
「私には四人の妃がいた。政の野心のためだけに結婚した、誰が一番偉いとも序列のない妻たちが。残念ながら、彼女たちは誰ひとり、いまの私のところには来てはくれないんだ。私は政の手腕ならそんじょそこらの男には絶対に負けない自信があるけど、複数の女にいっぺんに言い寄るのは……男って、わからないね。なんであんな何食わぬ顔で上手くやり過ごせるんだろう」
神子は同調を求めるように笑った。白蓮は、こういう話題は自分より透子の方が聞き手として適任なんじゃないかと思った。
神子は気を取り直して話を続けた。かなり気を遣って話しているように見えた。
「私なりに腐心はしたさ。ただ、表向きは男のように振る舞って民衆を騙せても、結局私は女だからね。いかに神の子と讃えられた私でも、子供を授ける力はない。……彼女たちなら、私の他にいくらでも相応しい婿を見つけられたのに……私と結婚した妃たちは、平凡な女なら何事もなく叶えられた女の人生の幸せを、私のために潰されたようなものだ」
「……だけど、貴方の時代の女性は、まだ……」
「ああ、〝貞女〟なんて概念はないね。何なら私の方から内緒で男を作ってもいいとも言った。それはそれとして、私は私なりに、彼女たちを……愛したと思うし、彼女たちからもそれを感じるときがあった。それでも、私が本当に望んでいたことは、誰にも言えなかった」
尸解仙になる計画のことだ。彼女たちの口から外に情報が漏れるのを恐れたのか、リスクのある計画から遠ざけたかったのか。あるいは両方かもしれないと白蓮は思った。
不意に神子は空を仰いで、乾いた笑いをこぼした。まるで死に別れた妃たちが遥か天上から悠然と見下ろしているのを、悟っているとでも言いたげに。
「私の密かな企みから徹底的に遠ざけたとか、政略のために騙したとか、妃は仏教を厚く信仰していたとか、そもそも妃の方が私より先に死んだとか。心当たりはいろいろあるけど、四人全員にいい顔をしようとして、結局私は四人全員にそっぽを向かれたのさ。ざまあないね。十人の声を一度に聴けるといっても、こんなもんだ。……信じる?」
白蓮は頷いた。神子がわざと悪ぶっているそぶりはあるが、嘘をついてはぐらかしている気配はなかった。
「だから私は、せっかくこの世界で新しく生まれ変わったんだから、もうプレイボーイの真似事なんてやめて、今度は私が惚れた相手を一途に追いかけようと思ったのに。そいつときたら山に逃げ込むから、困ったものだ。どう思う?」
「……ごめんね」
「まあ、今回だけは、あの一瞬で私を信頼してくれたのがわかったから、見逃してやってもいいよ」
萎らしくなったかと思えば、また偉そうな口ぶりに戻る。思えばあのとき、神子が透子と共に山に来たのを知って、もしや自分を追いかけてきたのか、どうして小雪の恋敵の透子を連れてきているのか、疑問が山のように湧いてきたのに、傍らで殺意を漲らせる小雪を見たら、咄嗟にあの作戦が閃いたのである。
小雪は感情と言動が一致するタイプで、決断が早く、良くも悪くもその場の雰囲気に流されやすい。ならば小雪が動くより先に、白蓮がその場を支配する空気を作らねばと思った。
あのとき、白蓮は無我夢中で神子に頼んだのだ――『私はもう誰にも死んでほしくないの、神子、お願い、手伝って!』
白蓮は無意識のうちに神子なら即座に理解してくれるだろうと思った。甘えかもしれないが、確かにあのとき、白蓮は神子に心からの信頼を預けていた。神子は何も聞かず白蓮の芝居に乗ってくれた。神子が仮死状態になってくれなかったら、透子の命は本当に危うかったかもしれない。神子もまた、白蓮を信頼してくれたのだ。
神子はそのときのことを思い出しているのか、上機嫌だが、白蓮は申し訳なさが募ってゆく。神子が妃たちのことを語るのに、白蓮の心を傷つけまい、かといって妃の誇りも貶すまいと細やかに心を配っているのを思うと、胸が痛くなる。
「どうした?」
「ごめんなさい」
「いや、だからもういいんだって。お前が信じてくれるなら、私はそれだけで――」
「ごめんなさい。貴方が悪いんじゃないのよ。貴方が過去に誰と関係を持とうが、私に口を挟む権利なんてないのに、勝手にやきもちを妬いて勝手に不安になっていたの」
白蓮の吐露に、さすがに神子も足を止めた。
「私、経験不足なのよ。これしきのことで心を乱すなんて、自分でもみっともないと思う」
「白蓮」
「こんなことになるなら、出家する前に誰かと適当に付き合うなり結婚するなりしておけばよかった。そうしたら……」
その先は言葉が続かなかった。神子はいままでに見たこともない、驚くべき表情で、白蓮を見ていた。白蓮は雪山で未練が氷解する前の小雪を思い出し、こちらをまっすぐに射抜く神子の眼差しの意味に気づいた瞬間、
――焼け焦げて灰になってしまいそう。
けれど神子は瞬く間にその表情を隠してしまった。
「白蓮、落ち着きなさい」
自分の心に走った動揺などなかったかのように、白蓮を嗜める言い方をする。
「経験があるとか、ないとか、そんな多寡を競うのはくだらなくないか」
「……」
「それに、お前はひとつ思い違いをしている。私は嫉妬されるのは別に嫌じゃない」
「えっ?」
目を瞬くと、神子は楽しげににやにやしている。
「普通、不愉快じゃないの? それこそ相手を信頼していないみたいで」
「なんとも思っていない相手に嫉妬なんかしないだろう? それもまた愛情の証と思えば悪くない」
「あ、あい……」
その通りではあるが、なんだかいたたまれない。今更気づいたが、白蓮は雪山で、意識のない神子の前であれこれあからさまな言葉を言ってしまったのだった。何せ小雪を助けねば、この場の誰も死なせるものかと頭がいっぱいで、狂女を演じるのに全力で、他に気を配る余裕がなかった。仮死状態になったくせにしかと覚えているとは、どれほど聡い耳を持っているのだろう。
ともかく、嫉妬と信頼の問題は神子の中では切り離されているらしい。
「でも、嫉妬や情念もほどほどにしないと困るものよ。六条御息所のように死後まで化けて出られたらたまったものじゃないでしょう」
「いいね、死後まで追いかけてくれる愛というのは。お前はどうせ私より先に行ってしまうのだろうしな。自ら出向いてくれるなら、反魂香も必要ない」
「貴方ってなんか変よ!」
「冷たいなあ。あのときの、雪が溶けてしまいそうなほどの熱い愛の告白は、抱擁は、どこへ行ってしまったのだろう」
「勝手に記憶を盛ってません!? あれはあくまで小雪さんが気がかりで――」
「あのね、四人もいてひとりも追っかけてきてくれなかったことに、私はそれなりの衝撃を受けているんだ。少し捻くれていても察してくれ」
わざと白蓮の肩に寄りかかった神子は本気で拗ねているらしかった。その横顔を見ても、白蓮は不思議と腹が立たないし、あの身を焦がすような嫉妬も、想像していたようには燃えてこないのだった。
おそらく先ほどの神子の眼差しを受けたせいだ。本来なら恐れ慄くとか気味悪がるだとか、疎ましく思わなければならないはずなのに、嫌でないどころか、自然と頬は熱くなって、そわそわと落ち着かない。もしかしたら自分も神子のことを言えないくらい、変なのかもしれない。
(もう一度、あの眼差しを私にくれないのかしら)
けれどその望みは諦めねばなるまい。その感情は、抱える本人にとっては辛く苦しいものだと白蓮にもわかるから。
白蓮は、改めて神子の話を頭の中で整理する。神子は、単に八方美人が露呈して妃たちに愛想を尽かされたのではない――白蓮はそう思っている。
白蓮の手前、うまくいかなかった関係だと強調しているが、神子は器用な人だ。彼女の言う通り、妃たちには慎重に接し、彼女なりの愛もあったのだろう。
けれど、神子は器用すぎた。
男を装いながら女である。仏教を広めながら道教を信仰している。救世主のように振る舞いながら独裁者も真っ青な排他的な思考を押し隠している。いくつもの矛盾する顔を持つ神子について行くのは並の神経ではできまい。神子は部下について『やる気がない』と愚痴をこぼすが、逆に布都たちがそれだけ能天気だからこそ、神子の部下が務まるとも言える。
偽りだらけの夫婦関係に、妃たちが『これでいいのか』と疑問に思っても不思議ではない。それでも今生限りのことなら、一族のため、己の栄達のため、神子の野心のために妃たちは心を合わせてともに政を行っただろう。
しかし神子は永遠の命を欲して未来に生まれ変わろうとした。もうついて行けない、私は私の行きたい道を行くと見限ってしまったとしても、妃たちが薄情だとは思わない。彼女たちは主君に忠誠を誓う部下ではなく、夫と対等な関係にある妻なのだから。
「どうした、まだごちゃごちゃ考えているのか」
「いえ」
白蓮の心にもう迷いはなかった。
いまなら素直に信じられると思った。自分のことも、神子のことも。
神子は何やら不服そうに白蓮を見上げていた。
「なら、そろそろ答えをくれてもいいと思うんだけど」
「え?」
「いいか白蓮、私は絶対にお前から逃げない。思いが多少重くたって、受け止められる。まあ、嫉妬に関しては私もだいぶひどいみたいだから、後で透子さんに確認するといい」
「私の知らないところで何があったんです……」
「安心していいよ。白蓮。いまの私はお前しか見えてない」
息が止まりそうだった。勝利を確信した神子はすっかり自信を取り戻したらしく、情熱的な言葉で白蓮をじりじり追い詰めてゆく。先ほど神子を仮死状態に追いやったのは白蓮なのに、今度は白蓮の方が息の根を止められそうになっている。
手首を掴む力が強くなる。逃すまいというより、縋り付くような仕草だった。
「お前もそろそろ、私が『一番好きだ』と言って」
思わず上擦った声が出そうになった。先日とは別の理由でまた逃げ出したくなるかと思ったけれど、かっと熱くなった身体の芯も、じわじわ熱を帯びる握られた神子の手の体温も、むしろ白蓮をここに留まらせたいと思わせるものであった。おぼろげに聞こえる耳慣れないクリスマスソングも、人々の喧騒も、どんどん遠くなる。
どうせ、すべてなかったことにはできないのだ。白蓮が放った言葉も、神子から聞いた言葉も、ふたりが長い年月を過ごす間に起こった、お互いが深くは知らないそれぞれの過去も。一度明るみに出てしまったら、もう後には戻れないし、やり直しもきかないし、逃げ道もとっくに塞がれてしまった。
なら、前に進むしかないじゃないか。
――大丈夫、負けない。
勇気を出して、白蓮はその一言を告げた。
空から花びらが降り注ぐように、ふたりの上に真っ白な風花が舞った。
オリキャラの構成の仕方がとても良かったと感じています。この二人が居てくれたからこそ、ひじみこが吹っ切れることが出来たという構図が美しかったと思いました。一生幸せになれ。
聖と神子がそれぞれ関わっていた出来事がひとつにまとまっていく様がとてもワクワクしました
素晴らしかったです
「生きる」ということに関して、死にたがりだった五右衛門とか透子が心を変えていくところも好きです。「生きる」ということを諦める理由なんてそうそう無いのだと思わされます、1000年スケールで生き延びている人だって悩むのだから。
タイトル通りすべてがさらけ出されたとき、とても気持ち良い感情を得られました。
完璧超人・人の超越者として描かれがちな巫女が、この作品では人間味のある普通のヒトのように描かれており、聖と対等な立場で誠実に向き合っている様子がとても胸に来ました。
二人の女性も描写も良かったです。蘇我屠自古と刀自古郎女が別扱いなのも興味深く良かったです。
有難う御座いました。