「おいしいわね」
今日は中秋の名月だ。それは幻想郷も同じであり、ありとあらゆる人神妖霊その他いっぱいが至るところで空を見上げている。白玉楼の主、西行寺幽々子もまた、忠実な従者に握ってもらった団子を口にしながら見上げていた。
「でも、残念でしたね。今年は曇りです」
「そうねえ」
魂魄妖夢の言う通り、空には雲が厚く垂れこめている。金色の輝きがあるべき場所には、上等な綿が背後の明かりを漏らしているにすぎない。かといって、完全に見えない訳でもない。輪郭程度であればかろうじて判別がつくこの現状は、はたして喜ばしいことなのか。
「今年は雨月ね」
積み上げられたお団子を摘まみ上げる。口に運ばれかけたお団子は、一転して空に向かって持ち上げられた。はるか彼方に浮く綿に添えられたお団子は、月に見えなくもない。
「そうだ。妖夢、島台は用意してくれた?」
「ありますよ。でも、今日は宴会でもありませんよね? どうしてですか」
小柄な少女の影が縁側に消える。ゴソゴソと何かを掴む音がした後、やがて長方形の箱を両手で持った少女の影が現れた。
「お待たせしました。これ、うちの備品だったんですね」
ドスンと床に置かれたその箱は、三尺ほどの大きさがある。上から覗き込むと、一面に砂が敷かれているのがわかった。向かって左、つまり幽々子から見て右側には、平坦に均された砂に、波打ち際のような曲線が描かれている。一方その反対側、幽々子から見て左側には、二つの砂山が円錐状にうず高く盛られている。俯瞰してみれば、台は右から左へと、徐々に傾斜がきつくなっていく。なだらかな曲線が、段階を踏んで急峻な円錐へと移り変わるその様は、さながら縮小された海と山のようだ。
「なんか、枯山水みたいですね。あ、お人形もありますよ」
「わざわざ作ってくれてありがとう。これ、細かくて大変だったでしょう」
妖夢が作った人形は、男女を象った人形が二対と、真ん丸の月が一個。それに寝殿らしき二軒の家屋。男女の人形は、片方が公家らしき男とその伴侶、もう片方は狩衣を纏った男とそのお供のように見える。どちらも高位の人間なのだろう。それらを膝の横に置き、幽々子が話す。
「これ、今では島台と呼ばれているのよね。私が小さかったころは、洲浜と呼ばれていたのよ」
「洲浜、ですか。なんだか、幻想郷とは縁が無さそうな名前ですね」
「あら、そんなことも無いのよ? 洲浜は主に海から離れた宮中で用いられていたの。いわば、地上に造られた小さな海ね。むしろ、縁は深いと言えない?」
「なるほど、たしかにそうかもしれません。幽々子様の言う通りですね」
そんな妖夢をニコニコと見つめる幽々子。
「どうかされましたか?」
「いえ、なんでもないのよ。じゃあ、始めましょうか」
「始める? えっと、私は何をすれば?」
「そうねえ。説明するよりも見た方が早いと思うのだけど」
「そうですか。じゃあ、お団子もひとついただきますね」
そうして妖夢がお団子を手に取ると、幽々子もまた口を開く。
あしびきの 山のあなたに住む人は
山に見立てた二つの砂盛。海側の山の山麓に、公家らしき夫婦の人形が置かれる。続いて二人の目前に、一軒の住まいが立てられる。二人の顔を覗き込めば、どこか高い場所を見ようと顔を見上げている。何を見ようというのだろうか。
少なくとも奥の山は目に入らないだろう。きっと、手前の山が視界いっぱいに広がっているはずだ。それほどまでに手前の山容は偉大なのだから。
その姿に釣られるように、妖夢も顔を上げた。
下の句を読み上げようとする主人と目が合った。ときおり差し込む雲透きが、ゆっくりと上がっていく口角を照らし出す。
待たでや秋の 月を見るらむ
最も左端に築かれた山の裾野に、狩衣を纏った男とそのお供が据えられる。その背後には、山向こうと同様に平屋の家屋が。そしてこちらの男女もまた、上空に目を向けている。空を見上げた二人は、どんな景色を見ているのだろうか。
「月は見えるかしら」
「いえ、見えません。曇っているので」
「そうねえ。じゃあ、この二人ならどうかしら」
狩衣の男と、そのお供。二人が見上げる先、白々とした山頂付近に、妖夢お手製の月が置かれた。さくり、と微かな音を立てた山からは、砂粒がぱらぱらと崩れ落ちていく。
「これなら見えます。いいなあ」
いま、狩衣の男とお供の視界には、大きな満月が煌々と輝いている。それもただの月ではない。雄大な山影を従えた霊妙なる月球なのだ。それは、私たちが欲する景色でもある。
「羨ましいわねえ。でも、今の私たちはこっち」
幽々子の指さす先には公家らしき夫婦の姿が。こちらも眼前に聳えたつ山を見上げている。ただ、山向こうの二人が見事な十五夜を披露された反面、こちらの二人は相変わらず山だけを視界に入れている。そのことに気が付くと、途端に公家の夫婦に愛着がわいてきた。それに、心なしか夫婦の肩が下がったような。
「まるで、今の私たちですね。山はありませんが」
「山の向こうは月が見えていると思うと羨ましくて仕方ない。そんな意味の歌なのよ」
「人形の配置そのままじゃないですか」
「そう。そのまま。でも、もしこの人形が無かったら、ここまで感情移入できたかしら」
「……できなかったと思います」
「この洲浜、洲浜台はね。歌合のときに使われたの。左右に分かれた二人が歌を詠みながら、それに合わせて人形を置いていく。歌を可視化して、より深く味わおうという工夫のひとつね」
「幽々子様も、その場に参加したことがあるのですか?」
「いいえ、私はないわよ。洲浜台が使われたのは、高位の者が参列する場だけだったから。それに、私が詠み始めたころには廃れていたし」
会話はそこで終わった。さらさらとした夜風を全身に浴びながら、無言でお団子を口にする二人。
ときおり空を見上げるも、月は顔を露にしない。ただ、雲間からわずかな月明かりを漏らすだけだ。
「雲の向こうに居る人は、今頃お月様を堪能しているのでしょうね」
「天人もお月見するのでしょうか」
「するでしょうねえ。もしかしたら、月の兎たちもお団子を食べているかも」
「いやそれはないでしょう。何を見るんですか」
「案外、私たちを見ていたりして」
不意に幽々子が洲浜を覗く。
「どうしたんですか?」
「いいえ、洲浜の方で、何かが動いた気がしたのだけど」
「いるとしたら亡霊ですが……でも、あそこに入るには大きすぎますよ」
「そうよね。気のせいでしょう――あっ」
「今度はどうしました」
幽々子に向けられた銀色の星は、呆れたようにじっとりとしている。
「お団子、無くなっちゃった。お代わりちょうだい?」
「…………わかりました。新しく作るので、少し時間をいただきますね」
深く深いため息のあと、妖夢は台所の方へと歩いて行ったのだった。
妖夢が廊下に消えて、数十秒の後。
「こんにちは」
幽々子は洲浜に声をかけていた。
「別に警戒しなくたっていいのよ。危害を加える気なんてさらさら無いのだから」
妖夢とは正反対の膝の傍らに置かれたお皿。そこからお団子を摘まみ上げ、口にする。
「もちろん人払いも済ましているのよ? お団子作りには少なくとも四半刻は掛かるんだから」
海のない世界に造られた人工の山と浜。生命を感じさせない純白の世界には、同じく中身のない人形が二人、月を見上げている。その二人を羨むように、夫婦の人形が、ひとつ山を越えた向こうの浜辺から、月の姿を思い浮かべている。
そして、その夫婦に背後に立つ寝屋、その陰から困り果てたように空を見上げる人型が一体。黄色いリボンを頭に結わえ、右腰には刀剣を帯びている。二つに結んだ葵の総髪が、梅紫の衣にしだれかかる。
「別に、あなたと戦おうだなんて思ってはいません。西行寺幽々子」
普段であれば凛とした気高き剣士であっただろう。しかし、箱庭の浜辺に降り立った綿月依姫は、いまや道に迷い途方に暮れた旅人と大差ない。
「その節はお世話になりました。それで、これはどういう状況? なぜあなたがここに?」
「いま、私も同じ質問をしようと思っていたのですが――それより、ここはどこですか?」
質問を質問で返してはいけない。そうだとわかっていても、この状況では誰もが依姫と同じ反応をするだろう。それどころではないのだから。
「ここは冥界よ。冥界の管理人さんのお家」
「冥界? だからここは生命を感じないのですね」
「それもあるわねえ」
そういうと、依姫は寝屋の壁に寄りかかり、下を向いてしまった。目を細めてみると、口元に手を添えているのがわかる。何か考え事に耽っているのだろうか。あるいは泣いてしまっているのかもしれない。もし泣いてしまっていたら可哀想なので、真実を伝えようか。
「長考中のところ悪いのだけど、ひとついい?」
「お構いなく」
「あなた洲浜って知ってる?島台でもいいのだけど」
「はい。月の都にもありますよ」
「あら、そうなの。今、その洲浜の中にいるのよ」
ごめんね~と、言葉をつづけながらお団子を摘まみ上げる。すると、何か軽いものが倒れるような音が耳朶を叩いた。
「それはつまり――いや、どういうことですか。ここは冥界なのでは?」
先ほどまで自立していたはずの寝屋が、いつの間にか横に倒れている。依姫は幽々子の言葉によほど驚いたのだろう。その驚きを勢いそのまま立ち直った結果、反動でお家が倒れてしまったのだ。そこまで驚かなくても、と思いながら続ける。
「そう、そこは冥界。冥界のお屋敷に置かれた、洲浜の中。あなたは今、偽物の海と山に囲まれているのよ」
すると依姫はまた、その場に立ちつくしてしまった。嗚呼とため息をこぼして、力なく俯いている。
「西行寺幽々子。あなたのおかげで、今、私の身に起こっていることがわかりました」
「あら。よかったら、教えてもらえないかしら」
依姫は現状を理解できたようだが、幽々子にはさっぱりわからない。なぜ、月の民が冥界に居るのか。なぜ、月の民は小さくなっているのか。そもそも、自身が小さくなっていることに気が付いた直後に、なぜ現状の確認をできるのか。普通、縮んでしまった身体に戸惑うだろう。しかも、相手は月面に攻め込んだ軍勢の首魁、その友人である。いつ剣を交えてもおかしくない相手を目前に、しかも弱体化した状態で、こうも堂々と相対できるとは。
「私の姉、綿月豊姫が、任意の対象を瞬間的に長距離移動させる権能を持つことは、ご存知ですよね」
「以前、紫がそんなことを言っていた気がするかも」
「……そうですか。それで、その権能なのですが、便宜的に”海と山を繋げる能力”と、我々は名付けています。海と山、隔絶した二つの物を繋げると名付けることで、この権能の”長距離を移動させる”という面を強調する狙いです。名は体を表す、というでしょう」
正確には違いますが、わかりやすい方がいいので。そう締め括った依姫は、どこか誇らしげだ。
「お姉さんのことが好きなのねぇ」
「本来であれば、妖怪の山にある聖域に降り立っていたはずなのですが。ですが、今回は、その名が仇になってしまったようです」
「あら、月の民がどうして妖怪の山に?」
「それはお答えできません」
「そう、残念。――それで、お姉さんのお名前がどうしたの? ここは冥界よ、綿なんて自生していない。決して豊かな場所ではないと思うのだけど」
「私の姉、綿月豊姫の権能は、海と山を繋げる能力です。月の海と妖怪の山を繋げるはずだったのですが、なぜか海と山を再現した箱庭と繋がってしまいました」
「あらあら、それは災難な」
「きっと、姉の能力と洲浜が、引かれ合ってしまったのでしょう。思えば姉の能力も、姉の心の内次第で移動先が変わります。今回のトラブルも、そういった主観的なところに原因があるのでしょうね」
依姫は、月を見つめながらそう言った。無論その月は偽物であるが、彼女は本物であると信じきっているようだった。
そんな依姫を見つめながら、幽々子は友人の言葉を思い出す。
かつて八雲紫は、綿月豊姫の能力について、”量子もつれ”という現象がキーであると話していた。続いて量子もつれとは一体何なのか、それをどのように綿月豊姫は応用しているのか、それらを懇々と教えてくれたあと、最後に彼女はこう言ったのだ。
『物事は観測するまでわからない。綿月豊姫は、その”観測”ができるのよ』
つまり、綿月豊姫の能力とは、「対象の行先を観察し、転移先を確定させる」能力なのだろう。もしかしたら、直接観察する必要すらもなく、ただ頭の中に思い浮かべるだけで良いのかもしれない。少なくとも、転移させたい場所、瞬間移動の行先についての知識が必要であることは確かだ。しかし、行先の知識が必要であるということは、言い替えれば、一切の知識を持たない場所には転移させることはできないとも言える。
また、月の民は地上を嫌う。たとえ白玉楼を知っていたとして、そこがどこにあるかまでは知らないだろう。曖昧な情報を頼りに送り出すには、地上はあまりに危険すぎる。もちろん、妖怪の山にある聖域とやらは別なのだろうが。
では、なぜ綿月依姫は冥界の箱庭に転移してきたのだろうか。その原因は定かではない。ただ、幽々子にはひとつ思い当たる節があった。
月の都では、洲浜台が今でも用いられているという。
「あなた、さっき月の都にも洲浜台があると、そう話していたわよね」
もし、綿月豊姫が能力を行使する際に歌合のことを考えていたら。
「はい。催し事の他、月夜見様の趣味で歌合を実施する際にも用いられます」
もし、綿月豊姫がその場で句を聞いていたら。
「歌合もするの?あなたたち、意外と最近まで地上にいたのね」
綿月豊姫が、眼前に再現される句の光景に心を奪われていたら。
「は、はあ……それはよくわかりませんが。きっと、今頃月の都では歌合が開かれているはずです。姉も、豊姫も同席しています」
月の都で開かれたという歌合。その場で偶然、先ほど私が詠んだ句が、同じく選ばれた。綿月豊姫は、洲浜に描かれる世界に胸を奪われてしまい、無意識に転移先と定めてしまった。そんな偶然が、もしかしたら起きてしまったのかも。
「この句ではありませんが、よく似た句が詠まれると聞いています」
心の内を明かしてみると、依姫はそう答えた。よく似た句、といえば。
おそく出づる月にもあるかな足引の 山のあなたも惜しむべらなり
「そ、それです、間違いなくその句でした!なぜそれを知って?」
「さっき私が詠んだ歌。あれの本歌、つまり元ネタが、この歌なの」
ようやく月が、山の上に姿を現した。山向こうの人は、月が見えなくなってかわいそうだな。
「意味は、こんな感じ。あなたと出会う直前に私が詠んだ歌は、この歌をもとに着想を少し変えたものなの」
「だから、ですか」
「わからないけどね。もしかしてあなた、端の山あたりに転移されたんじゃない?」
「あ、そうです!いま、月が見えている山の麓に送られました!」
依姫を妖怪の山に送り出す際、豊姫は歌合の場で歌を聞いていた。そこには洲浜があり、歌の内容が忠実に再現されていた。その光景に心躍り夢中になった豊姫は、無意識のうちに『そこに行きたい』と感じた。その結果、豊姫が”観察”した場所は『洲浜台にて再現された短歌の世界』と確定され、依姫は白玉楼の洲浜台に転送された。
これが、今回起きた現象のおおまかな流れだろう。これにて一件落着だ。
「あなた、本当に災難ね」
「本当です。次からは雑念の少ない環境でお願いしたいですね」
「そうねえ。でも、今回は偶然に偶然が重なった結果ですし。そこまでお姉さんにさせるのも、少しやりすぎじゃないかしら」
「その通りかもしれませんが、しかし、月の使者は月と地上を行き来することが役目です。いわば公務ですので、歌合を観戦しながら実施することではありません。やはり、姉にはきつく言わなくてはいけませんね」
気が付けば、依姫の態度はとても柔らかいものとなっていた。敵対者同士とはいえ、二人は共に一つの問題に立ち向かい、解決した者同士である。その経験は、月と地上の間に刻まれた深い溝を、僅かながら確実に埋めていた。
「お世話になりました。私はそろそろ月に戻らせていただきます」
「そうねえ。お姉さんに、しっかり文句言うのよ」
「はい。ところでひとつお願いがあるのですが、よろしいでしょうか」
「あら、どうしたのかしら。今ならなんでも聞くわよ」
「ありがたいです。この浜辺に水を貯めることは可能でしょうか? 水面に映した月を通って戻ろうと思うのです」
そういって、依姫は空を指さす。洲浜ではない、天然の空を指さしながら。しかし、当然ながら月はそこにない。厚く垂れこめた雲があるだけである。
洲浜台をずらしながら幽々子は告げる。
「……ごめんなさい。見ての通り今日はあいにくのお天気で」
「くっ……なるほど。わかりました。では、あちらの月をお願いします」
指さす先には妖夢お手製のお月様が。しかし、偽物でも大丈夫なのだろうか。
「うっ……これは、たしかに」
手に取って見せつけると、依姫はとたんに顔をしかめて、苦虫をかみつぶしたような顔をした。
「どうしましょうねぇ」
「どうしましょうか。本当に、どうしましょうか」
二人の間に気まずい沈黙が流れる。万事休す、これでは依姫が月に戻れない。そして、早くしないと妖夢が戻ってきてしまう。わざわざお団子が無くなったと嘘をついて、厨房に向かわせたのである。はやく依姫を見送って、このお団子たちを食べてしまわなくては。いや、まずは食べる方が先だろうか?
焦りに駆られた幽々子は、近くのお団子を一つまみ。そのまま口元に運ぶ。そして、閃いた。
「そうだ、雨月があるじゃない」
「雨月、ですか?」
「そう、雨月よ。月が雲で見えないときはね、お団子を月に見立てて食べるの。それを応用しましょう」
「な、なるほど。先ほどの月に比べれば、お団子の方がまだ月に見えますね。……いえ、水に映せばそのものでしょう」
そうと決まれば善は急げだ。幽々子は手元の水差しを傾けると、洲浜台へ水を流し込む。勢いよく砂に打ち付けられた水は、初め滝のように落ちていたが、水が溜まっていくにつれ、徐々に滴のように垂れ落ちていった。それらが生んだ波紋はやがて波を作り出し、押し寄せる浜辺にはやがて波打ち際が作り出される。当然ながら、波紋は一定ではない。同時多発的に生まれた波は不規則に浜辺へと押し寄せる。押し寄せた波は浜を削り浸食した。
海のない陸に造られた人工の浜辺、洲浜台。そこにはいつしか、海岸線が生まれていた。
その上空に、お団子を掲げる。揺らめくお団子は、立派な月だ。
「これなら大丈夫です!幽々子殿、ありがとうございます!」
「これくらい、なんともないわよ。それよりほら、早く戻りましょう」
「あ、その前に、ひとつ。ここまで力を尽くしてもらったお礼をしたいのですが。なにか、叶えてほしい願いはありますか?」
「嬉しいわ。でも、うーん、お願いねぇ」
口元に手を当て考え込む幽々子。これは長考になるか、と思えばすぐに顔を上げた。両目をキラキラさせながら、依姫に告げる。
「あの雲を払ってもらえないかしら。たしか持っていたわよね、すごい扇子を」
幽々子の言う雲は、もちろん月を隠す忌々しい雲である。あの雲を払いのけ、本物の月を見たい。それが、幽々子の願いだった。
「わかりました。姉に伝えておきます」
「ありがとうねえ。これで私も羨んでもらえるかしら」
「きっと、人里の人々が羨むでしょう。では、失礼します」
そして、依姫は返事を待たずに水に飛び込んだ。水面に映る月はしばらくの間激しく乱れていたが、やがて落ち着きを取り戻す。途端に部屋が静かになった。その静寂になんだか体がムズムズしてきて、幽々子は洲浜に触れてみる。水の深さは第一関節の半分くらい。これでは、いかに体が小さいとはいえ、飛び込んでも全身が隠れるはずがない。
「こんなのでも、戻れるのね」
それでも依姫は居ないのだ。いないのだから、無事に戻ったというほかない。
「まるで超常現象。面白いこともあるものねぇ」
そう独り言ちると、なぜか返事が返ってきた。
「なにかあったんですか? あ、これは作り立てのお団子です」
「妖夢、ありがとうね。別に何もないわよ」
「はあ、そうですか」
何気ない会話を装いながら、作り立てのホカホカお団子と、それが積まれたお皿を、さりげなく妖夢の死角に移動させる。この、食べられなかったお団子を隠すために。
「ねえ、せっかくだから、縁側に下りて食べてみない?」
「別に構いませんが。月は見えませんよ?」
「それはどうかしら。そろそろ、月が見えてもいいと思うの」
しかし、相変わらず空は曇天だ。しかも、先ほどよりも雲が増えている。もう、月の輪郭すら見えない。
「やっぱり見えませんよ。諦めて戻りましょ……わっ」
そのとき、一陣の風が吹いた。その風は、そよ風程度の強さでありながらも、込められた霊力は常を外れているように感じられる。亡霊である幽々子ですら、思わず目を瞑るほどの威力である。はるか38万キロ隔てた冥界でこの威力、至近で煽られては身体が持たないだろう。
「あ、見てください! 雲が晴れましたよ!」
「あら、本当」
妖夢の声に目を開くと、空に黄金のお団子が浮かんでいた。垂れこめていた雲は散り散りになり、いまや見る影もない。霞ひとつない、晴天だ。
「雲はどこにいったのでしょう」
「さっきの風に吹き飛ばされたのよ。素粒子レベルでね」
「まさか、そんなことあるわけないです」
満面の笑みを浮かべながら、妖夢はいう。幽々子もまた、嬉しそうに微笑み返す。そして、洲浜台に立つ人形たちを手に取りながら、問いかける。
「妖夢、さっき詠んだ歌、覚えてる?」
「はい。覚えています。えっと……」
あしひきの山のあなたに住む人は 待たでや秋の月を見るらむ
「そう、大正解。じゃあ、私からは――」
端の山に立て掛けられた偽物の月。それを手に取ると、手前の山頂に突き立てる。
ようやく、月が昇ってきたな。きっと、公家の夫婦も、そんな言葉を交わしているだろう。
おそく出づる月にもあるかな足引の 山のあなたも惜しむべらなり
「結局、わたしひとりで楽しんじゃった」
「なんですか? これ」
「見て。月が綺麗ねえ」
二人のお月見はこれからだ。
今日は中秋の名月だ。それは幻想郷も同じであり、ありとあらゆる人神妖霊その他いっぱいが至るところで空を見上げている。白玉楼の主、西行寺幽々子もまた、忠実な従者に握ってもらった団子を口にしながら見上げていた。
「でも、残念でしたね。今年は曇りです」
「そうねえ」
魂魄妖夢の言う通り、空には雲が厚く垂れこめている。金色の輝きがあるべき場所には、上等な綿が背後の明かりを漏らしているにすぎない。かといって、完全に見えない訳でもない。輪郭程度であればかろうじて判別がつくこの現状は、はたして喜ばしいことなのか。
「今年は雨月ね」
積み上げられたお団子を摘まみ上げる。口に運ばれかけたお団子は、一転して空に向かって持ち上げられた。はるか彼方に浮く綿に添えられたお団子は、月に見えなくもない。
「そうだ。妖夢、島台は用意してくれた?」
「ありますよ。でも、今日は宴会でもありませんよね? どうしてですか」
小柄な少女の影が縁側に消える。ゴソゴソと何かを掴む音がした後、やがて長方形の箱を両手で持った少女の影が現れた。
「お待たせしました。これ、うちの備品だったんですね」
ドスンと床に置かれたその箱は、三尺ほどの大きさがある。上から覗き込むと、一面に砂が敷かれているのがわかった。向かって左、つまり幽々子から見て右側には、平坦に均された砂に、波打ち際のような曲線が描かれている。一方その反対側、幽々子から見て左側には、二つの砂山が円錐状にうず高く盛られている。俯瞰してみれば、台は右から左へと、徐々に傾斜がきつくなっていく。なだらかな曲線が、段階を踏んで急峻な円錐へと移り変わるその様は、さながら縮小された海と山のようだ。
「なんか、枯山水みたいですね。あ、お人形もありますよ」
「わざわざ作ってくれてありがとう。これ、細かくて大変だったでしょう」
妖夢が作った人形は、男女を象った人形が二対と、真ん丸の月が一個。それに寝殿らしき二軒の家屋。男女の人形は、片方が公家らしき男とその伴侶、もう片方は狩衣を纏った男とそのお供のように見える。どちらも高位の人間なのだろう。それらを膝の横に置き、幽々子が話す。
「これ、今では島台と呼ばれているのよね。私が小さかったころは、洲浜と呼ばれていたのよ」
「洲浜、ですか。なんだか、幻想郷とは縁が無さそうな名前ですね」
「あら、そんなことも無いのよ? 洲浜は主に海から離れた宮中で用いられていたの。いわば、地上に造られた小さな海ね。むしろ、縁は深いと言えない?」
「なるほど、たしかにそうかもしれません。幽々子様の言う通りですね」
そんな妖夢をニコニコと見つめる幽々子。
「どうかされましたか?」
「いえ、なんでもないのよ。じゃあ、始めましょうか」
「始める? えっと、私は何をすれば?」
「そうねえ。説明するよりも見た方が早いと思うのだけど」
「そうですか。じゃあ、お団子もひとついただきますね」
そうして妖夢がお団子を手に取ると、幽々子もまた口を開く。
あしびきの 山のあなたに住む人は
山に見立てた二つの砂盛。海側の山の山麓に、公家らしき夫婦の人形が置かれる。続いて二人の目前に、一軒の住まいが立てられる。二人の顔を覗き込めば、どこか高い場所を見ようと顔を見上げている。何を見ようというのだろうか。
少なくとも奥の山は目に入らないだろう。きっと、手前の山が視界いっぱいに広がっているはずだ。それほどまでに手前の山容は偉大なのだから。
その姿に釣られるように、妖夢も顔を上げた。
下の句を読み上げようとする主人と目が合った。ときおり差し込む雲透きが、ゆっくりと上がっていく口角を照らし出す。
待たでや秋の 月を見るらむ
最も左端に築かれた山の裾野に、狩衣を纏った男とそのお供が据えられる。その背後には、山向こうと同様に平屋の家屋が。そしてこちらの男女もまた、上空に目を向けている。空を見上げた二人は、どんな景色を見ているのだろうか。
「月は見えるかしら」
「いえ、見えません。曇っているので」
「そうねえ。じゃあ、この二人ならどうかしら」
狩衣の男と、そのお供。二人が見上げる先、白々とした山頂付近に、妖夢お手製の月が置かれた。さくり、と微かな音を立てた山からは、砂粒がぱらぱらと崩れ落ちていく。
「これなら見えます。いいなあ」
いま、狩衣の男とお供の視界には、大きな満月が煌々と輝いている。それもただの月ではない。雄大な山影を従えた霊妙なる月球なのだ。それは、私たちが欲する景色でもある。
「羨ましいわねえ。でも、今の私たちはこっち」
幽々子の指さす先には公家らしき夫婦の姿が。こちらも眼前に聳えたつ山を見上げている。ただ、山向こうの二人が見事な十五夜を披露された反面、こちらの二人は相変わらず山だけを視界に入れている。そのことに気が付くと、途端に公家の夫婦に愛着がわいてきた。それに、心なしか夫婦の肩が下がったような。
「まるで、今の私たちですね。山はありませんが」
「山の向こうは月が見えていると思うと羨ましくて仕方ない。そんな意味の歌なのよ」
「人形の配置そのままじゃないですか」
「そう。そのまま。でも、もしこの人形が無かったら、ここまで感情移入できたかしら」
「……できなかったと思います」
「この洲浜、洲浜台はね。歌合のときに使われたの。左右に分かれた二人が歌を詠みながら、それに合わせて人形を置いていく。歌を可視化して、より深く味わおうという工夫のひとつね」
「幽々子様も、その場に参加したことがあるのですか?」
「いいえ、私はないわよ。洲浜台が使われたのは、高位の者が参列する場だけだったから。それに、私が詠み始めたころには廃れていたし」
会話はそこで終わった。さらさらとした夜風を全身に浴びながら、無言でお団子を口にする二人。
ときおり空を見上げるも、月は顔を露にしない。ただ、雲間からわずかな月明かりを漏らすだけだ。
「雲の向こうに居る人は、今頃お月様を堪能しているのでしょうね」
「天人もお月見するのでしょうか」
「するでしょうねえ。もしかしたら、月の兎たちもお団子を食べているかも」
「いやそれはないでしょう。何を見るんですか」
「案外、私たちを見ていたりして」
不意に幽々子が洲浜を覗く。
「どうしたんですか?」
「いいえ、洲浜の方で、何かが動いた気がしたのだけど」
「いるとしたら亡霊ですが……でも、あそこに入るには大きすぎますよ」
「そうよね。気のせいでしょう――あっ」
「今度はどうしました」
幽々子に向けられた銀色の星は、呆れたようにじっとりとしている。
「お団子、無くなっちゃった。お代わりちょうだい?」
「…………わかりました。新しく作るので、少し時間をいただきますね」
深く深いため息のあと、妖夢は台所の方へと歩いて行ったのだった。
妖夢が廊下に消えて、数十秒の後。
「こんにちは」
幽々子は洲浜に声をかけていた。
「別に警戒しなくたっていいのよ。危害を加える気なんてさらさら無いのだから」
妖夢とは正反対の膝の傍らに置かれたお皿。そこからお団子を摘まみ上げ、口にする。
「もちろん人払いも済ましているのよ? お団子作りには少なくとも四半刻は掛かるんだから」
海のない世界に造られた人工の山と浜。生命を感じさせない純白の世界には、同じく中身のない人形が二人、月を見上げている。その二人を羨むように、夫婦の人形が、ひとつ山を越えた向こうの浜辺から、月の姿を思い浮かべている。
そして、その夫婦に背後に立つ寝屋、その陰から困り果てたように空を見上げる人型が一体。黄色いリボンを頭に結わえ、右腰には刀剣を帯びている。二つに結んだ葵の総髪が、梅紫の衣にしだれかかる。
「別に、あなたと戦おうだなんて思ってはいません。西行寺幽々子」
普段であれば凛とした気高き剣士であっただろう。しかし、箱庭の浜辺に降り立った綿月依姫は、いまや道に迷い途方に暮れた旅人と大差ない。
「その節はお世話になりました。それで、これはどういう状況? なぜあなたがここに?」
「いま、私も同じ質問をしようと思っていたのですが――それより、ここはどこですか?」
質問を質問で返してはいけない。そうだとわかっていても、この状況では誰もが依姫と同じ反応をするだろう。それどころではないのだから。
「ここは冥界よ。冥界の管理人さんのお家」
「冥界? だからここは生命を感じないのですね」
「それもあるわねえ」
そういうと、依姫は寝屋の壁に寄りかかり、下を向いてしまった。目を細めてみると、口元に手を添えているのがわかる。何か考え事に耽っているのだろうか。あるいは泣いてしまっているのかもしれない。もし泣いてしまっていたら可哀想なので、真実を伝えようか。
「長考中のところ悪いのだけど、ひとついい?」
「お構いなく」
「あなた洲浜って知ってる?島台でもいいのだけど」
「はい。月の都にもありますよ」
「あら、そうなの。今、その洲浜の中にいるのよ」
ごめんね~と、言葉をつづけながらお団子を摘まみ上げる。すると、何か軽いものが倒れるような音が耳朶を叩いた。
「それはつまり――いや、どういうことですか。ここは冥界なのでは?」
先ほどまで自立していたはずの寝屋が、いつの間にか横に倒れている。依姫は幽々子の言葉によほど驚いたのだろう。その驚きを勢いそのまま立ち直った結果、反動でお家が倒れてしまったのだ。そこまで驚かなくても、と思いながら続ける。
「そう、そこは冥界。冥界のお屋敷に置かれた、洲浜の中。あなたは今、偽物の海と山に囲まれているのよ」
すると依姫はまた、その場に立ちつくしてしまった。嗚呼とため息をこぼして、力なく俯いている。
「西行寺幽々子。あなたのおかげで、今、私の身に起こっていることがわかりました」
「あら。よかったら、教えてもらえないかしら」
依姫は現状を理解できたようだが、幽々子にはさっぱりわからない。なぜ、月の民が冥界に居るのか。なぜ、月の民は小さくなっているのか。そもそも、自身が小さくなっていることに気が付いた直後に、なぜ現状の確認をできるのか。普通、縮んでしまった身体に戸惑うだろう。しかも、相手は月面に攻め込んだ軍勢の首魁、その友人である。いつ剣を交えてもおかしくない相手を目前に、しかも弱体化した状態で、こうも堂々と相対できるとは。
「私の姉、綿月豊姫が、任意の対象を瞬間的に長距離移動させる権能を持つことは、ご存知ですよね」
「以前、紫がそんなことを言っていた気がするかも」
「……そうですか。それで、その権能なのですが、便宜的に”海と山を繋げる能力”と、我々は名付けています。海と山、隔絶した二つの物を繋げると名付けることで、この権能の”長距離を移動させる”という面を強調する狙いです。名は体を表す、というでしょう」
正確には違いますが、わかりやすい方がいいので。そう締め括った依姫は、どこか誇らしげだ。
「お姉さんのことが好きなのねぇ」
「本来であれば、妖怪の山にある聖域に降り立っていたはずなのですが。ですが、今回は、その名が仇になってしまったようです」
「あら、月の民がどうして妖怪の山に?」
「それはお答えできません」
「そう、残念。――それで、お姉さんのお名前がどうしたの? ここは冥界よ、綿なんて自生していない。決して豊かな場所ではないと思うのだけど」
「私の姉、綿月豊姫の権能は、海と山を繋げる能力です。月の海と妖怪の山を繋げるはずだったのですが、なぜか海と山を再現した箱庭と繋がってしまいました」
「あらあら、それは災難な」
「きっと、姉の能力と洲浜が、引かれ合ってしまったのでしょう。思えば姉の能力も、姉の心の内次第で移動先が変わります。今回のトラブルも、そういった主観的なところに原因があるのでしょうね」
依姫は、月を見つめながらそう言った。無論その月は偽物であるが、彼女は本物であると信じきっているようだった。
そんな依姫を見つめながら、幽々子は友人の言葉を思い出す。
かつて八雲紫は、綿月豊姫の能力について、”量子もつれ”という現象がキーであると話していた。続いて量子もつれとは一体何なのか、それをどのように綿月豊姫は応用しているのか、それらを懇々と教えてくれたあと、最後に彼女はこう言ったのだ。
『物事は観測するまでわからない。綿月豊姫は、その”観測”ができるのよ』
つまり、綿月豊姫の能力とは、「対象の行先を観察し、転移先を確定させる」能力なのだろう。もしかしたら、直接観察する必要すらもなく、ただ頭の中に思い浮かべるだけで良いのかもしれない。少なくとも、転移させたい場所、瞬間移動の行先についての知識が必要であることは確かだ。しかし、行先の知識が必要であるということは、言い替えれば、一切の知識を持たない場所には転移させることはできないとも言える。
また、月の民は地上を嫌う。たとえ白玉楼を知っていたとして、そこがどこにあるかまでは知らないだろう。曖昧な情報を頼りに送り出すには、地上はあまりに危険すぎる。もちろん、妖怪の山にある聖域とやらは別なのだろうが。
では、なぜ綿月依姫は冥界の箱庭に転移してきたのだろうか。その原因は定かではない。ただ、幽々子にはひとつ思い当たる節があった。
月の都では、洲浜台が今でも用いられているという。
「あなた、さっき月の都にも洲浜台があると、そう話していたわよね」
もし、綿月豊姫が能力を行使する際に歌合のことを考えていたら。
「はい。催し事の他、月夜見様の趣味で歌合を実施する際にも用いられます」
もし、綿月豊姫がその場で句を聞いていたら。
「歌合もするの?あなたたち、意外と最近まで地上にいたのね」
綿月豊姫が、眼前に再現される句の光景に心を奪われていたら。
「は、はあ……それはよくわかりませんが。きっと、今頃月の都では歌合が開かれているはずです。姉も、豊姫も同席しています」
月の都で開かれたという歌合。その場で偶然、先ほど私が詠んだ句が、同じく選ばれた。綿月豊姫は、洲浜に描かれる世界に胸を奪われてしまい、無意識に転移先と定めてしまった。そんな偶然が、もしかしたら起きてしまったのかも。
「この句ではありませんが、よく似た句が詠まれると聞いています」
心の内を明かしてみると、依姫はそう答えた。よく似た句、といえば。
おそく出づる月にもあるかな足引の 山のあなたも惜しむべらなり
「そ、それです、間違いなくその句でした!なぜそれを知って?」
「さっき私が詠んだ歌。あれの本歌、つまり元ネタが、この歌なの」
ようやく月が、山の上に姿を現した。山向こうの人は、月が見えなくなってかわいそうだな。
「意味は、こんな感じ。あなたと出会う直前に私が詠んだ歌は、この歌をもとに着想を少し変えたものなの」
「だから、ですか」
「わからないけどね。もしかしてあなた、端の山あたりに転移されたんじゃない?」
「あ、そうです!いま、月が見えている山の麓に送られました!」
依姫を妖怪の山に送り出す際、豊姫は歌合の場で歌を聞いていた。そこには洲浜があり、歌の内容が忠実に再現されていた。その光景に心躍り夢中になった豊姫は、無意識のうちに『そこに行きたい』と感じた。その結果、豊姫が”観察”した場所は『洲浜台にて再現された短歌の世界』と確定され、依姫は白玉楼の洲浜台に転送された。
これが、今回起きた現象のおおまかな流れだろう。これにて一件落着だ。
「あなた、本当に災難ね」
「本当です。次からは雑念の少ない環境でお願いしたいですね」
「そうねえ。でも、今回は偶然に偶然が重なった結果ですし。そこまでお姉さんにさせるのも、少しやりすぎじゃないかしら」
「その通りかもしれませんが、しかし、月の使者は月と地上を行き来することが役目です。いわば公務ですので、歌合を観戦しながら実施することではありません。やはり、姉にはきつく言わなくてはいけませんね」
気が付けば、依姫の態度はとても柔らかいものとなっていた。敵対者同士とはいえ、二人は共に一つの問題に立ち向かい、解決した者同士である。その経験は、月と地上の間に刻まれた深い溝を、僅かながら確実に埋めていた。
「お世話になりました。私はそろそろ月に戻らせていただきます」
「そうねえ。お姉さんに、しっかり文句言うのよ」
「はい。ところでひとつお願いがあるのですが、よろしいでしょうか」
「あら、どうしたのかしら。今ならなんでも聞くわよ」
「ありがたいです。この浜辺に水を貯めることは可能でしょうか? 水面に映した月を通って戻ろうと思うのです」
そういって、依姫は空を指さす。洲浜ではない、天然の空を指さしながら。しかし、当然ながら月はそこにない。厚く垂れこめた雲があるだけである。
洲浜台をずらしながら幽々子は告げる。
「……ごめんなさい。見ての通り今日はあいにくのお天気で」
「くっ……なるほど。わかりました。では、あちらの月をお願いします」
指さす先には妖夢お手製のお月様が。しかし、偽物でも大丈夫なのだろうか。
「うっ……これは、たしかに」
手に取って見せつけると、依姫はとたんに顔をしかめて、苦虫をかみつぶしたような顔をした。
「どうしましょうねぇ」
「どうしましょうか。本当に、どうしましょうか」
二人の間に気まずい沈黙が流れる。万事休す、これでは依姫が月に戻れない。そして、早くしないと妖夢が戻ってきてしまう。わざわざお団子が無くなったと嘘をついて、厨房に向かわせたのである。はやく依姫を見送って、このお団子たちを食べてしまわなくては。いや、まずは食べる方が先だろうか?
焦りに駆られた幽々子は、近くのお団子を一つまみ。そのまま口元に運ぶ。そして、閃いた。
「そうだ、雨月があるじゃない」
「雨月、ですか?」
「そう、雨月よ。月が雲で見えないときはね、お団子を月に見立てて食べるの。それを応用しましょう」
「な、なるほど。先ほどの月に比べれば、お団子の方がまだ月に見えますね。……いえ、水に映せばそのものでしょう」
そうと決まれば善は急げだ。幽々子は手元の水差しを傾けると、洲浜台へ水を流し込む。勢いよく砂に打ち付けられた水は、初め滝のように落ちていたが、水が溜まっていくにつれ、徐々に滴のように垂れ落ちていった。それらが生んだ波紋はやがて波を作り出し、押し寄せる浜辺にはやがて波打ち際が作り出される。当然ながら、波紋は一定ではない。同時多発的に生まれた波は不規則に浜辺へと押し寄せる。押し寄せた波は浜を削り浸食した。
海のない陸に造られた人工の浜辺、洲浜台。そこにはいつしか、海岸線が生まれていた。
その上空に、お団子を掲げる。揺らめくお団子は、立派な月だ。
「これなら大丈夫です!幽々子殿、ありがとうございます!」
「これくらい、なんともないわよ。それよりほら、早く戻りましょう」
「あ、その前に、ひとつ。ここまで力を尽くしてもらったお礼をしたいのですが。なにか、叶えてほしい願いはありますか?」
「嬉しいわ。でも、うーん、お願いねぇ」
口元に手を当て考え込む幽々子。これは長考になるか、と思えばすぐに顔を上げた。両目をキラキラさせながら、依姫に告げる。
「あの雲を払ってもらえないかしら。たしか持っていたわよね、すごい扇子を」
幽々子の言う雲は、もちろん月を隠す忌々しい雲である。あの雲を払いのけ、本物の月を見たい。それが、幽々子の願いだった。
「わかりました。姉に伝えておきます」
「ありがとうねえ。これで私も羨んでもらえるかしら」
「きっと、人里の人々が羨むでしょう。では、失礼します」
そして、依姫は返事を待たずに水に飛び込んだ。水面に映る月はしばらくの間激しく乱れていたが、やがて落ち着きを取り戻す。途端に部屋が静かになった。その静寂になんだか体がムズムズしてきて、幽々子は洲浜に触れてみる。水の深さは第一関節の半分くらい。これでは、いかに体が小さいとはいえ、飛び込んでも全身が隠れるはずがない。
「こんなのでも、戻れるのね」
それでも依姫は居ないのだ。いないのだから、無事に戻ったというほかない。
「まるで超常現象。面白いこともあるものねぇ」
そう独り言ちると、なぜか返事が返ってきた。
「なにかあったんですか? あ、これは作り立てのお団子です」
「妖夢、ありがとうね。別に何もないわよ」
「はあ、そうですか」
何気ない会話を装いながら、作り立てのホカホカお団子と、それが積まれたお皿を、さりげなく妖夢の死角に移動させる。この、食べられなかったお団子を隠すために。
「ねえ、せっかくだから、縁側に下りて食べてみない?」
「別に構いませんが。月は見えませんよ?」
「それはどうかしら。そろそろ、月が見えてもいいと思うの」
しかし、相変わらず空は曇天だ。しかも、先ほどよりも雲が増えている。もう、月の輪郭すら見えない。
「やっぱり見えませんよ。諦めて戻りましょ……わっ」
そのとき、一陣の風が吹いた。その風は、そよ風程度の強さでありながらも、込められた霊力は常を外れているように感じられる。亡霊である幽々子ですら、思わず目を瞑るほどの威力である。はるか38万キロ隔てた冥界でこの威力、至近で煽られては身体が持たないだろう。
「あ、見てください! 雲が晴れましたよ!」
「あら、本当」
妖夢の声に目を開くと、空に黄金のお団子が浮かんでいた。垂れこめていた雲は散り散りになり、いまや見る影もない。霞ひとつない、晴天だ。
「雲はどこにいったのでしょう」
「さっきの風に吹き飛ばされたのよ。素粒子レベルでね」
「まさか、そんなことあるわけないです」
満面の笑みを浮かべながら、妖夢はいう。幽々子もまた、嬉しそうに微笑み返す。そして、洲浜台に立つ人形たちを手に取りながら、問いかける。
「妖夢、さっき詠んだ歌、覚えてる?」
「はい。覚えています。えっと……」
あしひきの山のあなたに住む人は 待たでや秋の月を見るらむ
「そう、大正解。じゃあ、私からは――」
端の山に立て掛けられた偽物の月。それを手に取ると、手前の山頂に突き立てる。
ようやく、月が昇ってきたな。きっと、公家の夫婦も、そんな言葉を交わしているだろう。
おそく出づる月にもあるかな足引の 山のあなたも惜しむべらなり
「結局、わたしひとりで楽しんじゃった」
「なんですか? これ」
「見て。月が綺麗ねえ」
二人のお月見はこれからだ。
ふたりの会話が機知に富んでいてとてもよかったです
相変わらず何もわかっていない妖夢も妖夢らしくてかわいらしかったです