「尤魔、いるー?」
ある日、八千慧がカワウソ霊を連れて旧血の池地獄まで饕餮を訪ねにきた。あらゆる有機体の怨嗟と憎悪に塗れたこの地に好んで住む者など、饕餮とちやりくらいしかいない。
饕餮は血の池を先割れスプーンでかき混ぜるのを止めて、八千慧を振り返った。
「おー、八千慧か。なんだ、また地上制圧に乗り出す気か?」
「そっちの計画は目下凍結中。にしても、まだここに居座ってるんだ。畜生界にはもう戻らないの?」
「まさか。この呪いに満ちた臭いがたまらなくって、しばらく留守にしてるだけだ。心配しなくともオオワシ霊の目は光らせている。けどここは居心地いいし、いっそ本拠地にしてもいいかとは思っているね」
「ふーん。ま、住み慣れた地元を離れて悠々自適の一人暮らしってのも悪くないかもね」
「ひとりじゃないぞ? オオワシ霊の一部は引き連れてきたし、ちやりもいる」
「あ、そっか」
八千慧は遠くで血の池からじかに血を啜るちやりを眺めながら「まあいいや」と座った。
「で、要件はなんだ? まさか手土産もなしに無益なガールズトークをしにきたわけでもあるまい」
「そうだった。ちょっと聞いてよ尤魔ー、最近早鬼のやつが変なのよ」
「あいつは元から変だったろ」
「そうなんだけど……最近はまして変っていうか」
八千慧は苛立ってきたのか、尻尾でしきりに地面を叩いている。血しぶきで服が汚れるのは気にしていないらしい。
饕餮は内心(そら来た)と思っていた。八千慧がこうやってふらっと現れるときは大抵驪駒早鬼絡みだと相場は決まっているのだ。八千慧にあのじゃじゃ馬ならしは荷が重いだろうとは思っていたが、饕餮の知らないところでしょっちゅう喧嘩をしているようだ。
「強いやつが好きってのはわかるけど、この頃はあの人鬼のとこにばっか出入りしてるんだよ」
「あー」
だいたいすべての事情を把握した饕餮は虚無の声を上げた。要は痴情のもつれというか、ジェラシーだ。
旧地獄の改革を主導した鬼・日白残無に対する評価は真っ二つだ。その唯一無二のカリスマ性に素直に惹かれる者、あいつのせいで見捨てられたといつまでも恨みを抱く者。どちらにせよ、残無の影が心に残り続けるという意味では同じなので、これもまたすべて残無の掌の上なのかもしれない。
早鬼はわかりやすく前者である。単純明快な筋肉馬鹿なので、シンプルに強いやつが大好物なのだ。八千慧は残無の実力を正当に評価しつつ、本人に対する感情は複雑であるらしい。饕餮は言わずもがな後者、というか元より他人にあまり興味のないおひとり様主義なので〝どうでもいい〟がより正確かもしれない。
「いや、あいつの実力は私にも充分にわかる、わかるけどさ。だからって私がやつに劣るとも思わないし」
「そうだな。少なくとも尻尾のハリと鱗のツヤと角の瑞々しさはお前の方が魅力的だ」
「あ、わかるー?」
八千慧は得意げに鼻を鳴らす。そもそも残無には角はともかく尻尾と鱗はないし、心にもない美辞麗句を盛ったが、八千慧が〝生き生きとしている〟のは事実である。饕餮としては八千慧の秘訣とやらに感化されたちやりが妙な時間に寝たり起きたりするようになって若干迷惑しているのだが。
「やっぱ美容に動物性コラーゲンは大事よ。畜生界は生きのいい食材がすぐに調達できるから便利ね。あと鉄分。まあ尤魔はこんな血液たっぷりの場所に住んでるんだから鉄分に困ることはないか」
「クックック、こちとら生まれてこのかた貧血になったことはない」
「わー、さすが」
遠くでちやりは「あいつら何をそんなに盛り上がっているんだ?」と不審に思っているが、無意味な会話の繰り返しは獣たちの日常である。
しかし八千慧の機嫌がよかったのもこのあたりまで、本題に戻ればやはり眉根を寄せ始める。
「あいつのどこがそんなにいいんだ?」
「少なくともコマ犬の特質をころっと忘れてたどっかの誰かさんよりはいいんだろうよ」
「あのくらいの計算違いは日常茶飯事だって!」
だとしたら八千慧の計画は何ひとつうまくいかないだろう。
このまま残無と早鬼の愚痴を垂れ流され続けてもたまらないので、饕餮は重い腰を上げて詰め寄った。
「八千慧、お前、畜生界の理を忘れたか? この世は強い者が正義だ。お前のものが奪われたなら戦って奪い返せばいいんだよ」
「そうはいっても、残無と戦おうと考えると、なーんか身体中から力が抜けちゃって……」
八千慧は肩を落とす。やっと八千慧らしい馬鹿元気を取り戻したかと思ったのに、未だに虚無が抜けきらないらしい。つくづく厄介な人鬼である。
「それでも、もう手は打ったわ」
「ほう?」
「部下のヨモツシコメに美天をけしかけた」
何がどうしてそうなった。ヨモツシコメこと日狭美に手を出しても残無はお礼参りに立ち上がるようなやつではないし、搦手にしても斜め上すぎる。しかも八千慧はよりによって残無の元スパイを(人のことは言えないが)未だに重用しているのか。血も涙もない鬼畜生に見えて意外と部下を重んじるやつである。
「あいつは残無一筋でしょう? ムカつくけど早鬼も残無のカリスマ性を気に入ってる。で、やっかみなのかわからないけど、なぜか最近、あのヨモツシコメが執拗に地獄から私を付け狙ってくるようになって。鬱陶しいから美天に任せてるのよ」
「おいおい、とんだ四角関係だな」
饕餮にとっては他人事なので盛大に笑い飛ばした。日狭美からすれば自分が慕ってやまない残無を早鬼に横取りされたと逆恨みしているのだろうが、それにしたって八千慧を狙う意味がわからない。早鬼に直接『この泥棒天馬!』と突っかかればいいのである。
八千慧も八千慧だ、残無に上手い手出しの手段が見つからないからって日狭美と争ってどうする。早鬼を『この浮気者!』と直接ぶん殴ればいいものを。
そして饕餮が思うにあの筋肉馬鹿は自分が置かれた状況を何も理解していない。まあ自分の知らないところで二人が争っていると言われてもわけがわからないだろうが。
「美天の成果も芳しくないのよ。訓練が足りなかったかな。尤魔、お前ならどうする?」
「くだらねー。それでノコノコ私のとこに来たのか? お前のお得意の頭脳と搦手でどうにかしろよ。お前ら二人の痴話喧嘩を仲裁してやる義理なんて私にはないね」
「そうか……残念ね」
饕餮がそっけなく言い放つと、八千慧は深くため息をつく。
そんな恨みがましい目で見られても、ないやる気は振り絞れない。インテリを気取るくせに八千慧は何もわかっていないのだ。早鬼は強いやつに滅法弱いが、八千慧が持ち前の賢しさを活かしてよく観察すれば、早鬼が誰が一番好きなのかを見抜くくらい容易いだろうに。
饕餮は気まぐれに首を突っ込んで火傷を負いたくはない。そのまま八千慧を追い返すつもりだったが、八千慧は「残念だなー」と繰り返して、
「尤魔が協力してくれるんだったら、お礼に満漢全席奢ろうと思ってたんだけどなー」
そのとき、この世にあるまじき暴食の獣は勢いよく食いついた。
「八千慧、いまなんて言った?」
「だから満漢全席奢るって」
『き、吉弔様、正気ですか!?』
途端に色めき立つのはカワウソ霊だ。
『いけません! 他の誰に奢るのも吉弔様の自由ですが、剛欲同盟だけは、いや、饕餮だけはいけません!』
『あいつらのエンゲル係数がヤバいのは考えなくてもわかるでしょー!』
『食事なんか奢った日にはうちの財政が破綻します!』
『今からでも取り消して!』
「お前たち、金は貯めるためにあるんじゃない、使うためにあるのよ」
『イヤー!!』
阿鼻叫喚の部下とは対照的に、八千慧は腹を括って落ち着き払っている……かと思いきや額にわずかに冷や汗が滲んでいる。自分から言い出しておいて早速後悔しているらしい。それでも撤回するそぶりがないのは仁義を通す気なのか、単なる意地なのか。
まさに綸言汗の如しだなーと思いながら、饕餮はすかさず八千慧に詰め寄った。頭の中は早くも豪勢な四八珍でいっぱいだった。
「本気か? 本気なんだな?」
「本気も本気、オオワシ霊とチュパカブラの同伴も許可する」
「天火人な。いいんだな、あとで嫌だって言っても聞かないぞ?」
「こっちも簡単に約束を反故にしたらメンツが立たないからね」
「マジかよ。あの隠岐奈だってどんなに『奢れ』って脅しても頑なに『ワリカンで』としか言わなかったんだぞ?」
「お前とワリカンでも食事に行けるんだったら大した度胸だよ」
あるのは度胸ではなく経済力である。隠岐奈とは石油の件がひと段落した際、手打ちと称して一度だけ食事に出かけたのだった。
まるで乗り気じゃなかった饕餮は一転、本気で八千慧の相談に乗ってもいい気になってきた。こちとら隠岐奈と折半とはいえ石油の利権を得たのだ、いくら暴食でも食い扶持には困っていないが、他人に奢られる機会など滅多にない。
「うわちょっとヨダレがヤバいんだけど」
「ああすまん」
滝のように流れていたヨダレを拭き取り、同じく『奢りか!?』『奢りだ!』『剛欲同盟始まって以来の慶事だ!』『しかもあの鬼傑組持ちだぞ!』と大いに盛り上がっているオオワシ霊をたしなめ、「え、私も行っていいのか?」と聞くちやりに「いいぞ」と答え、饕餮は景気良くスプーンを血の池から持ち上げた。
「よーし、交渉成立だ。で、お前のターゲットは? 残無か、早鬼か、日狭美か」
「とりあえず鬱陶しいストーカーから片付けてよ。ついでに早鬼の脳みそをカチ割ってきてもいいけど」
「それはお前が自分でやりな」
旧血の池地獄の留守をちやりに預けて、饕餮はオオワシ霊とともに地獄へ赴いた。
◇
「海八珍、禽八珍、草八珍、山八珍。どこから食ってやろうかなー」
饕餮は鼻唄まじりに、オオワシ霊の脚にぶら下がって地獄の業風の中を飛んでいた。
『饕餮様、本当に私たちも同席してよろしいんですか?』
「ああ、お前らも好きなもん好きなだけ注文して、鬼傑組の財布をすっからかんにしてやりな」
『よっしゃ!』
『私、フカヒレだけ永遠につつきたい!』
『麻婆豆腐!』
『青椒肉絲!』
歓喜のオオワシ霊たちがけたたましく鳴きわめく。
さて、八千慧ご指名のストーカーもとい日狭美を探しているのだが、絶望的に広大な地獄を長時間彷徨うのは勘弁したい、地獄はろくな食い物もないし……などと考え始めたそのとき、
「あら、地獄へようこそ」
あまりにタイミングよく日狭美は現れたのだった。畜生界からの客を待ち伏せしていたと見える。
「よお、いつぞやの宴会以来だな、悪質ストーカー」
「地獄はいつでも誰でもウェルカムです。私は自分の仕事を果たしているだけに過ぎませんわ」
「どこがだ。目をつけたやつを見境なしに地獄に引き摺り込みまくって、そのうち上からお叱りがくるぞ」
「うふふ。素直に叱っていただけるならどれほどいいでしょうねえ……。それで、貴方はどうしてこんなところへ? 自らお出ましなんて、地獄行きの心当たりでもおありですか?」
心当たりがあるどころか、ありすぎて逆にどれが本命か思い当たらないレベルだ。とりあえず手近なところから思い出してみた。
「旧血の池地獄の時間経過がよくわからんのをいいことに、定時を誤魔化してオオワシ霊を働かせたことか?」
『ちょっ、饕餮様!?』
『いつのまにそんなことしてたんですか!』
『残業代を! 残業代を支払ってください!』
途端にオオワシ霊たちが頭上でギャーギャー喚き立てる。いずれバレると思っていたので饕餮は平然としていた。
「ああ、悪かったよ。今回の件がうまくいったらボーナス弾んでやるから」
『ボーナスはありがたいですけど!』
『それはそれ、これはこれ!』
『残業代払ってください!』
「わかった、わかった」
「そんなみみっちい罪だけでは地獄に堕ちませんよ」
顔が隠れているので表情はよく見えないが、日狭美は笑っているらしい。残無の手下なだけあって、あれこれ腹に抱えていそうなのが気味が悪い。
「まだるっこしいからはっきり聞く。お前、なんで八千慧に絡んでるんだ?」
「と言いますと、貴方は吉弔の差金でこちらへ? あんなに仲の悪い畜生たちがまた手を組んだのですか? 珍しいことが重なりますね」
「すっとぼけんな。お前のストーキングを追っ払ってほしいんだとよ。八千慧になんの恨みがある?」
「別に恨みなんてありませんけど。そんなの、残無様に振り向いていただくために決まっているでしょう」
饕餮は(やっぱりな)と思う一方で納得がいかない。日狭美の思考回路は山葡萄の蔓以上に絡みまくって他者からは理解しにくいのだ。
「お前が鬱陶しいのは早鬼の方じゃないのかよ」
「もちろん鬱陶しいわ。あの馬女ときたら、私の残無様にちょっとお声をかけられただけでいい気になって、頻繁に助言だの手解きだのを伺いに来るように……ああ、思い出すだけでも忌々しい! 〝あいつは私の残無様に付き纏った〟ただそれだけの理由で地獄に堕としてもいいでしょう」
なんかどっかで聞いたことある台詞だな、いつから残無はお前のになったんだ、と呆れながら、饕餮は口惜しげに服の裾を握り締める日狭美を見つめる。やはり早鬼が馴れ馴れしく残無の元に来るのはよく思っていなかったようだ。
「だったら素直に早鬼を追っ払えばいいだろ」
「そんな当たり前のことをしたって残無様はなんとも思わないわ。残無様は驪駒だけに目をかけているわけではありませんからね」
「あの鬼め、何枚舌を持ってやがるんだか。閻魔王も引っこ抜くのに苦労するだろうよ」
「わざと命令に背いたり、仕事を間違えたりしても残無様は叱ってくださらないんですもの。だったら私が余計な仕事をたくさんこなしたら、少しは困ってくださるかと思いまして」
そんなことで八千慧が絡まれたのかよ、と饕餮はさすがに気の毒に思った。とどのつまり、日狭美は残無に構われたい一心であれこれ関係のない他人を巻き込みまくっているのだ。面倒臭いにもほどがある。
「まあ、残無様が吉弔を気にかけているのも間違いではありませんから。もちろん貴方も」
「言っておくが私と八千慧はそこまで残無を気に入ってないぞ。いや、八千慧も社交辞令は得意だけどな」
「なんですって? 残無様の魅力がわからないとは、所詮は畜生風情か……」
お前は残無を独占したいのかしたくないのかどっちなんだ。嫌気がさしてきた饕餮だったが、満漢全席が待っていると思うと面倒臭いストーカー相手だろうが俄然やる気が湧いてくる。
こいつを倒して八千慧の奢りで満漢全席を食う! それだけで頭がいっぱいだった。
「お前たちの痴情のもつれなんか知るか。ストーカーは失せろ!」
「まあ、さすが畜生界の流儀は地獄に劣らず乱暴だわ!」
饕餮が得物を振りかざせば、日狭美はすかさず蔓を放って距離を取る。逃げようとすれば日狭美はこの上なく厄介だが、真正面から相手にするなら饕餮にとってはさほど脅威ではない。
「即刻八千慧から手を引けい!」
「なんなんです、さっきから八千慧八千慧と」
訝しげに口元を歪めた日狭美が、ふと納得したように手を打った。
「なるほど、貴方が吉弔のために躍起になるのはそういうことでしたか」
「は?」
「三つの組織の頭で三角関係とは複雑ですね。つらいですよね、自分の思いが一方通行で報われないのは……なぜでしょう、急に貴方に親近感が湧いてきたわ」
「何を勘違いしてるんだお前は!」
饕餮は危うく足元の蔓で転びそうになった。勝手に同情されるわ自己完結されるわ擦り寄られるわで頭が痛い。要は日狭美の中で
【早鬼←八千慧←饕餮】
の図式が出来上がっているのだろうが、饕餮はあくまで己の食欲のために動いているのであって、その行動原理には八千慧への義理すらない。まして恋慕などあるわけがない。
(冗談じゃない、誰があんなサイコパスヤローと。罷り間違ってそんなことになってみろ、文字通り馬に蹴られて終わるじゃねーか)
ムカっ腹の立ってきた饕餮は、改めて目の前の日狭美を獲物としてきっちりロックオンした。
「オオワシ霊ども、気合いを入れろ! 満漢全席の前に葡萄狩りだー!」
『御意!』
士気を上げたオオワシ霊たちが日狭美めがけて、執拗に追跡してくる蔓にも負けず次々に勢いよく突撃してゆく。
(数ならこっちが圧倒的に有利なんだ、このまま押し切る!)
若干早鬼の脳筋じみた考えだが、勝てさえすればなんでもいいのだ。
――と、そこへ、なぜか赤いオーラをまとった動物霊が空中から次々に降下してきた。
「なっ!?」
『驪駒様、やはり見張りの言う通りでした!』
『饕餮様! こやつらは頸牙の!』
「その勝負、ちょっと待った! 話はすべて聞かせてもらったぞ!」
漆黒の翼を羽ばたかせ、部下のオオカミ霊とケルベロス(山犬)を引き連れて颯爽と降り立ったのは早鬼である。
「尤魔。知らなかったよ。私が残無様にあれこれ話を伺っている間に、妙な事態が起きていたんだね」
「お前……」
早鬼は饕餮を見つめて、静かにそう言った。
正直に言えば、いいところで勝負の邪魔してくれたなという不満とちょうどいいタイミングで来たもんだなという感心が半々だったが、饕餮は少し早鬼を見直す思いだった。
早鬼は脚力と筋力とスピードだけなら畜生界随一だと饕餮も認めるが、頭脳はてんで駄目でこちらから誘導してやらないと何も理解できないやつだとばかり思い込んでいた。元を糺せば(少々理不尽だが)早鬼が残無を気に入ったせいでこんな事態になっているのだ、本人が事情を察してくれたならありがたい。
と、思いきや。早鬼の眼は怒りに赤く燃えているのだった。
「まさかお前と八千慧がそんなことになっていたなんて、この裏切り者の泥棒羊!」
「お前までこいつの戯言を信じくさってどうする!!」
前言撤回、早鬼はどうしようもない筋肉大馬鹿だった。単に状況を何も把握していないだけならまだマシだ、無駄に行動力のある馬鹿に誤情報など与えてはいけない。
完全に誤解して報復に足技を浴びせてくる早鬼を得物で防げば、足元に日狭美の蔓が忍び寄ってくる。
「これが修羅場ですか。今日の成果は大量だわー」
「お前のせいだろうが! 他人事みたく言ってんじゃねー!」
この最凶キャッチ、饕餮と早鬼を部下諸共まとめて地獄に引き摺り込むつもりだ。油断すれば蔓に絡め取られそうになる、かといって日狭美に集中しすぎると早鬼の速攻がかわせなくなる。オオワシ霊も予期せぬ事態に翻弄されている。
(なんだってんだ、私はタダ飯が食いたかっただけだってのに!)
その欲望こそが饕餮の災難の大元なのだが、日狭美はともかく早鬼の誤解を解くだけなら手間はかからないだろうと、饕餮はめげずに早鬼の説得を試みることにした。
「こんにゃろ、尤魔、お前っていつもそうだ、ひとりでコソコソ動き回って美味しいとこだけ持って行きやがる!」
「よく聞け脳筋馬鹿! 私と八千慧はお前が思っているような仲ではな……」
そのとき、再び何者かが忍び寄る気配を感じて、また日狭美かと避ける。しかしそいつは日狭美の蔓ではなかった。
「え? お前は」
『た、大変です吉弔様ー!』
おどろおどろしい緑色のオーラを纏ったカワウソ霊が逃げ出した先には、ご自慢の長い尻尾をゆらめかせる八千慧と孫悟空(猿神)が立っていた。
「や、八千慧!?」
「ごめん尤魔。やっぱりお前にぜんぶ任せっきりは間違ってると思って私も出撃したわ。ああ、心配しなくても約束通り満漢全席は奢るから」
「それを聞いて安心したぜ」
だったら最初からお前が動けよ、と思ったものの、やっぱりタダ飯と天秤にかけたら些末ごとだ。
(いや、待てよ?)
呑気な方向に傾きかけた思考を止めて、饕餮は現状を整理する。
早鬼は八千慧が饕餮と浮気したと思っている。
八千慧は早鬼が残無と浮気したと思っている。
(いま、この二人がぶつかったらとんでもないことになるんじゃね?)
「八千慧、見損なったぞこの浮気ヤロー! ちょっと見ない間に私から尤魔に鞍替えするとはな!」
「はあ!? なっ……んだってえ!」
饕餮が見越した通りだった。濡れ衣を着せられた八千慧が即座にブチキレた。そりゃそうだ。
「誰があんなちんちくりんを相手にするか! いやまあ私もタッパはそんなにない……そこは認める……けど少なくとも尤魔よりは上でしょう!」
「おい八千慧お前あとで覚えてろよ」
「そんな言い訳が通用すると思ってるのか、おチビのビッチどもめ! インテリ気取りのお前のことだ、私には想像もつかないような美辞麗句の数々で尤魔を誘ったんだろうが! ああくそ、お前らはいつも寄ってたかって私を馬鹿だ馬鹿だと見下してるもんな! 尤魔も尤魔だ、あのおチビときたら、孤独大好きを装って狙った獲物はまんまと自分の懐に納めちまうのが得意技なのさ!」
「おい早鬼お前も後で旧血の池地獄に集合な」
「チビ、チビって連呼するな、胸糞悪い!」
「事実じゃないか! だいたいなー、お前って私の好みからは完全に外れてるんだよ! 私が好きなのは太子様とか残無様みたいなわかりやすく強くて賢くてカリスマのある……」
「またか、この頃は二口目には残無残無! そんなに残無がいいなら残無の女になっちまえ!」
「いいえ私の残無様には指一本触れさせませんわ!」
「八千慧は何もわかってない! 私を見事に誑かして、調子にのって尤魔まで毒牙にかけて、さてはお得意の搦手で二つの組織を乗っ取ろうってんだな!」
さすがにそんなハニトラ紛いの戦術を八千慧が使うか? と饕餮は疑問に思った。
「言わせておけば、馬鹿ほど無駄に口数が多くて早口だな。わかってないのは早鬼、お前なんだよ。まずは尤魔をよく見てみろ!」
「は?」
急に矛先がこちらに向いて困惑すると、八千慧は饕餮にしつこく絡みつく日狭美を指差している。
「尤魔もチビだから、私よりもあいつみたいなスラッと背が高い痩身麗人の方が好みなのよ!」
「いやいや待てい!」
八千慧までなんちゅう誤解をバラ撒こうとしてるんだと噛みつけば、八千慧は目配せで(察して)とアピールしてくる。どうやら即興で作り出した苦肉の策らしい。
つまるところ、早鬼の誤解を解くために、饕餮が真に執着している相手は日狭美だと誘導したいのだろう。
(無理があるだろ!)
日狭美が残無一筋なのは早鬼にもわかることであり、饕餮だってこんな変態じみたストーカーとどうこうなんて、嘘でも精神的ダメージがひどい。
「え? そ、そういうことなの?」
「信じた!?」
「えー尤魔、趣味悪……いや、暴食の尤魔だからこそか……?」
馬鹿だからなのか八千慧の言葉だからなのか、素直に受け止めかけている。八千慧も早鬼の思考回路ならある程度までは読めるのだろうか。
しばらく考えてから、早鬼は「そうか!」と手を打った。
「八千慧と日狭美に二股かけてるのか!」
「ちげーよ!!」
馬鹿の思考は斜め上にカッ飛ぶので、結局、饕餮への新たな誤解が積み重なっただけだった。早鬼の中の饕餮のイメージはいったいどうなっているのだ。
『まあ饕餮様だからね……』
『正直何人にツバつけてても驚きません』
「お前らまとめて照り焼きにされたいみたいだな!」
饕餮が部下に制裁を振るっている横で、日狭美はスンッと冷めた顔つきになって、
「あいにく私は残無様一筋ですから、貴方のような子羊はちょっと……それに、いくら報われないからって二股はどうかと思いますよ? 恋は一途でなければ」
「お前は何重に勘違いを重ねるつもりだ!」
饕餮が散々な目に合っている間にも、早鬼と八千慧の喧嘩は止まらない。
「お前なー、自分が手玉に取ってるつもりで逆に弄ばれてどうするんだよ! 尤魔だけは絶対にやめとけ!」
「だから私と尤魔は何もないって言ってるでしょう!? それより早鬼、私が好みじゃないってどういうことだ!」
「今更そこに食いつくのかよ」
「ああそうさ、お前みたいな正々堂々を嫌って搦手だなんだと小細工ばかり使うやつはいけすかないんだ! 挙句の果てにターゲットを籠絡したらもう用無しと言わんばかりに私を捨てるのか? これが本当の〝当て馬〟ってか、ちっとも笑えねえよ! 残無様と違って自分の部下はなんだかんだで見捨てないくせに……くそっ、鬼畜生め!」
「馬鹿じゃないの? 私こそ、お前みたいな単純な筋肉馬鹿は嫌いだよ。なのに一直線に私の心に強引に踏み込んで……なまじおべっかの上手いやつよりタチが悪いわ!」
「しょうがないだろ惹かれちまったんだから! その活きのいい角と尻尾にゃ誰だって釘付けになるよ、背丈は大したことないけどな!」
「また背丈のことを言ったな! ふん、背が届かずともこの長く伸びた角さえあれば充分だ、生き馬の目を抜くが如くお前の目を潰せばいいだけだからな!」
「残念だったな、私は生き馬ではなく死に馬だ! お前は亀の歩みに見えて手が早いがあいにく私は畜生界最速ときてる、ちっぽけな鹿子を蹴飛ばすのは私の方が速い!」
「だから小さいって言うな!」
「お前ら喧嘩がしたいのかノロケを撒き散らしたいのかどっちなんだ」
早鬼も八千慧も罵倒を浴びせたと思えば歯が浮くような殺し文句を吐きにかかる、それの繰り返し。本人たちは真剣に争っているつもりなのだから始末に追えない、ひどい修羅場だ。ここって修羅界だったっけ? と饕餮は現実逃避しそうになった。
そこで油断したのがまずかったのか、気がついたら饕餮の足に葡萄の蔓が絡みついていた。しまった、と思ったときには日狭美の罠の中にいた。
「ふっふっふ、地獄から簡単に逃れられると思うなよ」
『コラー! 饕餮様を放せー!』
「さあ饕餮尤魔さん、この後私と女子会でもしません?」
「は? なんでだよ」
「せっかくですから片思い同盟で仲良くしましょう? 私が残無様と出逢ってからいまに至るまでの愛の軌跡を、残無様の言葉では表し尽くせない魅力を夜通しみっちりお聞かせしますから」
「誰が行くか!!」
未だに勘違い続行中の日狭美に全力で抵抗する。なんでどいつもこいつも饕餮の元にたかって来るんだ。饕餮自身は孤独を愛する一匹羊のつもりなのに。
オオワシ霊たちが必死に蔓をついばんで饕餮を救出しようとする中、口論を続けていた早鬼と八千慧はついに実力行使に出るようだ。
「もう話にならん! 慧ノ子! お前の実力をあの頭でっかちに見せてやれ!」
「なんの! 美天、お前に汚名返上のチャンスを与えてやる! あの筋肉馬鹿を黙らせろ!」
いままで控えていた二人のそれぞれの新しい仲間、慧ノ子と美天が戦闘に引き摺り出された。元の主人に見捨てられてなまじ残留を決めたばっかりに、組長の諍いに巻き込まれて気の毒だ。というか早鬼も八千慧も自分で戦わないんかい。
「やあやあ、我こそは鬼傑組の遊撃隊員にして幻想郷の斉天大聖、孫美天なり!」
「知らざあ言って聞かせやしょう、鬼も震える地獄の番犬ケルベロスとは、頸牙組地上隊隊長、三頭慧ノ子、私のことよ!」
何やら歌舞伎や源平合戦を彷彿とさせる壮大な名乗り合いが始まった。
(なんであいつら揃いも揃って新入りに妙な設定を盛ってるんだろうな)
たぶんうちの新入りの方が強いぞアピールと他の組への牽制のつもりなのだろう。茶番にもほどがあるが。
幸か不幸か、ぶつかり合うのは文字通りの犬猿だともっぱらの評判な慧ノ子と美天。犬を嫌う美天が真っ先に顔を歪めた。
「ケルベロス? ふっ、バタくさい犬なんかに負けるかよ。こちとら雷に撃たれた石から生まれて、そのまま周りの猿たちに求められるがままに猿山の王になったが……えーと、なんか定命の儚さが虚しくなっちゃって、そしたら仙人になればいいとか残……八千慧様が言うからさ、不老不死を目指して……八千慧様のとこでしばらく修行してたら、あれ、名前なんだっけ、あの金色のあれ……どっかのビルのオブジェにありそうなやつ」
「觔斗雲?」
「そう、それに乗れるようになった!」
八千慧に仕込まれた斉天大聖の設定はまだ完璧に覚えられていないらしい。捏造された経歴というよりうろ覚えの西遊記のあらすじな上、天敵から助け船をもらっている始末である。
「それから聖域の幽霊を食ったけど、それがまずかったのかな、業を煮やした……ええと、テン……天火人じゃなくて……あっ、天帝! 天帝がお釈迦様に泣きついて、私は囚われ、あわや地獄行きの危機。そこから私を助け出してくれたのが誰であろう、ざ……八千慧様よ!」
何度か八千慧と残無を間違えかけている上に時系列がゴチャゴチャである。事実と西遊記が中途半端に混ざっているのもややこしい。結局、残無に見捨てられた美天の心がいまなお残無にあるのか、それとも義理のある八千慧にあるのか、饕餮にはよくわからなかった。
「どうだか、貴方の語りはずいぶんうろ覚えで怪しいものね。早鬼様が言うには、ケルベロスといえば名高き地獄の番犬よ、その生みの親は……えっと、なんかすごい神様だとか」
「何それ、聞いたことないけど」
「とにかく西洋の偉い神様って早鬼様が言ってたの! ケルベロスは地獄の番をしていた頃に……なんだっけ、あのあれ……なんか冥府の妻を訪ねに男の人が来るんだけど」
「イザナギのこと?」
「いや、それが早鬼様はイザナギじゃないって言うのよ。その人は竪琴が得意らしくて」
「ああ、ならイザナギじゃないわね」
「でもね、早鬼様が言うにはその人、冥府の妻を連れて帰ろうとして『決して振り返ってはいけない』って見るなのタブーを突きつけられるのよ」
「え、じゃあやっぱイザナギじゃないの?」
「それが違うっぽいの、そいつの妻は黄泉竈食ひをしてなかったらしいから」
「じゃあイザナギじゃないのか」
なんだかやりとりが漫才じみてきている。おそらく慧ノ子が正解を思い出せないイザナギっぽい人の正体は竪琴でケルベロスを眠らせたギリシャ神話のオルフェウスである。こちらも早鬼に与えられた設定がうろ覚えのようだ。
(早鬼も八千慧も新入りに何を叩き込んでるんだよ。いくら出自や来歴を盛ったって、肝心の実力がなきゃ無意味だろうが)
なお、ある日を境にチュパカブラを自称するようになったちやりを放置している自分のことは棚の上である。
そして組長二人はといえば、渦中の部下をほったらかしてまだ口論中である。早鬼は『話にならん』と言ったのをもう忘れているらしい。
(畜生界の繁華街で先に待ってようかな)
一応、八千慧の依頼は『日狭美を片付けろ』だったはずだが、あの体たらくでは八千慧も忘れてそうだ。饕餮が戦いより食欲を優先したくなってきたところで、そうは問屋が下すまいと絡みついた蔓が再び強く締め上げてきた。
「地獄からは何人たりとも逃しませんよ? すべては残無様のために!」
「お前はお前の欲望のために動いてるだけだろーが!」
饕餮は力任せに引きちぎるが、次から次へと新しい蔓が伸びてくる。
『饕餮様、ここは一旦退却しましょう! このカオスはいくら饕餮様でも切り抜けられません!』
「黙れ! ここで退けば約束も白紙だ!」
『そんなに満漢全席が食いたいんですか!!』
「八千慧の金で満漢全席が食いたい!!」
『なら仕方ありません!!』
食欲。それは何物にも勝る饕餮を突き動かす最大の欲望である。同じく強欲のオオワシ霊もよく心得ているので、さっさと説得を諦めて引き下がった。
とはいえ地獄の魔の手はあまりに妄執に満ちて粘着質、オオワシ霊も疲弊してきている、いかに饕餮でも逃げ切れるかどうか……。
「さあ、大人しくお縄につきなさい!」
「――いや、饕餮を連れ去ることは決してできまい、ヨモツシコメよ!」
そこへ背後に扉が突然開いて、饕餮のよく知る絶対秘神が現れた。
「え、隠岐奈!? 何しに来たんだ」
「大地の所有権をめぐる争いが一段落したと思ったら今度は饕餮の所有権をめぐる争いが発生した。合ってる?」
「甚だ不本意だがだいたい合ってる」
「ならそこをはっきりさせればすべては丸く治まるでしょう」
饕餮は「私は誰の所有物でもねえよ」と言ったが、人間霊を奴隷扱いしていた身では説得力がない。
隠岐奈は警戒心を剥き出しにする饕餮をいい笑顔で見下ろすばかりだ。
西洋の演劇では、物語が錯乱すると全能の神を出して強引に舞台を収束させる手法があるという。隠岐奈はあらゆる神格を同時に持つ、全能とまではいかなくとも混沌とした神だ。
まさか彼女がデウス・エクス・オキナとしてこの混沌を治めてくれるのか……あまりありがたくない話だ。
「まあ、落ち着きなさい。そこのお前は驪駒早鬼といったか」
「え、私?」
「お前は誤解をしている。よく聞け、饕餮尤魔は吉弔八千慧のものではない」
怪訝そうな顔をする早鬼に対して、摩多羅隠岐奈は威風堂々たる佇まいで言い放った。
「饕餮は私のものだ!」
「誰がお前のものだ、誰が!!」
饕餮はすかさず得物を振り上げた。この絶対秘神、一応は秩序側のくせに混沌が好きすぎるのか、場を治めるどころかさらなる混沌を撒き散らしに来ただけである。
饕餮が隠岐奈に殴り掛かろうとしたそのとき、どこからともなくスキマが開き、とっくに廃線となったとおぼしき列車が現れ、猛スピードで見事に隠岐奈を轢いていった。
「あら、ごきげんよう」
スキマから現れた女はすぐに地獄の景観から浮きまくっている廃線を引っ込めると、気絶した隠岐奈を脇に抱えて優雅に饕餮と向き合った。初対面であったが、饕餮は一発でこいつが賢者の八雲紫だとわかった。隠岐奈によく似た装束と胡散臭い笑みが何よりの証拠だ。
「貴方が噂の饕餮ね? ごめんなさいねぇ、〝うちの〟隠岐奈がしょっちゅう迷惑をかけて。困ったことに〝うちの〟隠岐奈ったら私の知らないところで勝手に動き回るのが好きなのよ。貴方も〝うちの〟隠岐奈が何やら世話になっているそうで」
世話になっているというか、単なる厄介なビジネスパートナーである。紫はやたらと隠岐奈を〝うちの〟と連呼するが、饕餮の体感としては〝私の〟と言われているくらいの圧はあった。
(こいつもジェラシーかよ、面倒くせえな。ここには面倒くさい女しか集まってこないのか。誰もこんな信用ならない秘神を横取りしたりしねえよ)
嫉妬の妖怪が猛威を振るっているのかと疑いたくなるジェラシー祭りだ。
ちなみに八雲紫の従者たる八雲藍は、紫のそばにいた。しかし饕餮たちには一瞥もくれず一言もしゃべらなかった。
「いやお前はせめて何か言えよ! 面倒臭い状況に巻き込まれたからって他人のふり決め込むな!」
「あ、藍じゃない。おひさー」
「やっぱあいつって昔の畜生界にいたよな? 雰囲気が変わってるから見間違いかと思った」
八千慧と早鬼に話しかけられても、藍は辛抱立役のごとく無言を貫いている。下手に関わらない方が身のためだとよくわかっているのだ。
「さあ藍。地獄に長居は無用よ、さっさと帰りましょう」
「お前ら本当に何をしに来たんだ」
「そこで三蔵法師一行はかの牛魔王と対峙して……そう、名前は忘れたけど有名な扇が絡んでるっぽいわ」
「ケルベロスは守護獣らしいけど、そういえば私は幼い女の子を見守っていたし、その子はカード集めに一時期熱中していたのよね」
「どういうことだ? 結局尤魔は何股かけてるんだ」
「いつまでそこにこだわるつもり? だからお前は筋肉馬鹿なんだよ!」
「んだとお!?」
「逃がさない、絶対に逃がさない……ああ、残無様! 恋する女は皆、大木に絡みつく蔓だわ、出過ぎた真似をする私をぜひお叱りになって!」
紫は畜生たちの争いに興味はないのかさっさと隠岐奈を回収して撤収しようとするし、美天と慧ノ子は犬猿ロールを従順に守ってもはや名乗りの体をなしていない語り合戦を続けているし、賢者の乱入で水を差された早鬼と八千慧も依然とピリピリしているし、日狭美の蔓はやっぱりしつこく絡みついてくるし、
(もーこいつら、どいつもこいつも、全員面倒くせえ!!)
ついに饕餮の怒りがとどまるところを知らない暴食を凌駕した。いや、正確には暴食の対象が八千慧の奢りから別のものにスライドした。
『と、饕餮様、まさかアレを……!?』
『大変だ! 饕餮様が形態を変える!』
『え、機種変?』
『馬鹿モン! アレが来るんだよ!』
『退却ー、今度こそ一旦退却だ! 全員、饕餮様から離れろ!』
いち早く危険を察知したオオワシ霊たちが散り散りになる。
暴食の獣は、いままさにすべてを吸収する形態に変化しようとしていた。
(もう知ったことか。お前らのわがままも結構、欲望剥き出しも結構。欲は私の大好物だ。ただし、私が誰よりも強欲であることを、いま一度知らしめてやる必要がありそうだな!)
饕餮はこの場のすべてを自分の餌として吸収しようと思った。
「全員、ひとり残らず、私の血肉になれ!!」
早鬼と八千慧が今度こそまずいと気がついたときにはもう遅い、この世に存在してはならないグリードモンスターが地獄で猛威を振るうと思われた。
そのときだった。
「ええい、いい加減鎮まらんか、畜生どもめ!」
眩い光と聞き慣れた声が聞こえた刹那、無礙光が欲望の渦巻く地獄の一帯をあまねく照らしたようだった。
◇
「ふーん、ずいぶん高い店を押さえたもんだな」
「満漢全席出してくれて貸し切りにできる中華料理店がここしかなかったんだよ」
「けどこの人数はさすがに狭くないか。おいお前ら、もう少し詰めろ」
『驪駒様、これ以上は限界です……新入り、お前がズレろ』
「ちょっ、押さないでよ」
「あいたっ! なんで犬が私の隣なのよ!」
『はいはい、慧ノ子さんとオオカミ霊と美天の席は離した方がよさそうですね』
「いいんすか、私までこんなゴーカな席に連れてきちゃって」
「いいに決まってんだろ、他でもない鬼傑組組長様が言ったんだからよー、なあ八千慧!」
「ああそうだよ。こうなったらきっちり元を取るまで食べなきゃ承知しないぞ、尤魔!」
八千慧はヤケクソ気味に答えた。元は充分取れるし、それより材料が切れるまで食い尽くして店が潰れないかを心配した方がいい。
とまれかくまれ、普段は滅多に揃わない三組織が畜生界のある高級料理店に勢揃いしたわけだが、いかんせん全員が部下を表に引き連れてきたせいで宴会用の広々とした席も窮屈に感じる。
ようやっと表に現れた残無が〝虚無〟によって争いを平定し、戦う気を削いだために、地獄の畜生たちはすべて大人しくなった。彼女が真のデウス・エクス・オキナもといデウス・エクス・マキナだったわけだ。
「この間、和睦の祝宴を開いたばかりであろう。これ以上の争いは無意味じゃ」
饕餮は元はといえばお前のせいだろうがと吐き捨てたかったが、戦意喪失によりその言葉は虚無に消えた。
そして結局、残無は日狭美を叱ろうとしなかったのだが(今回の日狭美の行動も彼女の掌の上だったのかはわかりかねる)、日狭美は争いを一瞬で虚無に返した残無の勇姿に素直に感激していたのだった。
「残無様、なんという圧倒的なお力……いつ拝見しても惚れ惚れしますわ……日狭美はどこまでも貴方について行きます。一生かけて、必ずや残無様を振り向かせてみせます!」
初心に返って『残無を追いかける』と決意を新たにした日狭美は、八千慧へのストーカー行為もこれまでだとすっぱりやめるようである。
騒動をややこしくしていった連中が全員帰ったら、豪風の吹く地獄に残されるのは、三組織の組長たちだけだ。
「あー、その。八千慧」
「……何よ、早鬼」
争う気を失くしたといっても、直ちに和解するわけではない。早鬼も八千慧も気だるげに、そして気まずげにお互いを見るともなしに見つめている。最初に活気のない捨て台詞を吐くのは早鬼だった。
「なんだよ、残無様が出てきた途端に腑抜けやがって。弱い八千慧になんか興味はないね」
「あっそう。お前も間抜け面に拍車がかかったように見えたけど。私も弱い早鬼なんてつまらないから嫌いだよ」
おいおいまだ喧嘩するつもりかよ、と饕餮はうんざりする。残無が残した虚無の置き土産だけではないであろう、徒労感が凄まじく、いまの饕餮には食欲しか残っていなかった。おそらく饕餮のこの欲望だけは何者にも消すことはできまい。
「だって仕方ないだろ、あの残無様に『こんなことを打ち明けるのはお前だけだ』とか言われたら、なんでも力になりたくなっちゃうよ」
「それ、私も言われたけど」
「えっ」
「右に同じ」
「ええっ」
とりあえず今回ばかりは八千慧に加勢してやると、早鬼は唖然と口を開く。やっぱり早鬼だけは残無のおべんちゃらに気づいていなかったようだ。
早鬼の身体がわななく。さすがに残無への憧れも冷めるか……と思いきや、早鬼は武者震いでなく、感動で震えているらしかった。
「あの源頼朝も自分に従う武者たちに『真に頼れるのはお前だけだ』と言って回ったそうだが……さすが、やっぱり人の上に立つ者は違うなあ!」
「早鬼、お前ってやつは……」
八千慧は怒りに拳を振るわせている。何なら同じタイミングで殴ってやろうかと饕餮が構えていると、
「憧れるんなら普通、頼朝じゃなくて義経でしょう!」
「そっちかい!」
八千慧は八千慧で妙なこだわりを持っているらしかった。まあ確かに単純な戦の強さも知名度も義経の方が圧倒的に上なのだが。
『もー、あいつら何を言ってるんだか……』
「まったくだ。悪源太義平の良さがわからないとは解せん」
『饕餮様も参加するんです!?』
そのまま不毛な三つ巴の争いが起こるかと思いきや、やはり三人とも戦意より虚無が勝つのか、諍いは長引かなかった。
「まあ、なんだ。悪かったよ、ろくに人の話も聞かずに暴走して」
意外にも早鬼はあっさり自分の非を認めた。いや、元より早鬼は単純なので結果はきちんと引き受けるたちであった。
それを聞いて、八千慧もいくばくか態度を和らげた。
「それは私の台詞。気が昂るままに後先考えず行動するのは……頭脳派組織の頭としてはまずかったわね」
「私もお前も残無様に敵わないという意味では互角というか、お互い様だったな」
相変わらず気だるい空気ではあったが、二人の表情は憑き物が落ちたように穏やかだった。
「じゃあ今回は停戦ということで」
「異議はなし」
「落ち着くとこに落ち着いたようで何よりだ」
そうと決まれば、饕餮はそのまま二人きりにしといてやろうなんて優しさを行使する気は一切ない。
得物を担ぎ、やる気をなくし気味のオオワシ霊たちを引っ立てて、饕餮は八千慧に詰め寄った。
「私との約束、忘れちゃいないだろうな? 鬼傑組組長、吉弔八千慧様」
「……ふん、馬鹿にするなよ。店はもう予約してある。さっさとあのチュパカジンを呼んできたらどう?」
「天火人な。その言葉、確かに聞いたぞ」
というわけで饕餮は旧血の池地獄にとんぼ返りしてちやりを呼び出し、八千慧に連れられて、念願の満漢全席にありついたのである。
「まったく、尤魔も意地が悪いよな」
前菜をあっという間に平らげた早鬼が不満を漏らす。
「さっさと誤解だって言ってくれればいいものを。複数の女をつまみ食いとは、さすが剛欲同盟長とか思っちゃったよ」
「言葉に気をつけろ、頸牙組組長。聞く耳持たなかったのはお前だろうが。いまから桜鍋パーティーに変更したっていいんだぜ?」
「おっと、ジンギスカンの材料が何か言ってるな。いや、やっぱり私の気分はラムステーキだ!」
「次の料理来るから座ってくれない?」
八千慧が軽く嗜めるや否や、すかさず大皿が運ばれてきたので、早鬼も饕餮も大人しく座り、饕餮は改めて滅多に口にできない珍味の数々に舌鼓を打つのだった。
なお、犬猿の仲で争っていた慧ノ子と美天は組長命令で一応の和睦をし、それぞれの組長の元に寄り添って、空いた皿を避けたり酒をお酌したり、動物霊たちと一緒に甲斐甲斐しく働いて回っている。
ちやりは根がインドアなせいか、賑やかな宴会の場に呼ばれて少し緊張気味ではあるが、純粋に運ばれてくる料理を楽しんでいるようだ。
そしてオオワシ霊たちはというと。
『饕餮様、お皿分けましょうか!』
『お前抜けがけするなよ、取り分けるのは私だ!』
『なら私はお酌を!』
『あっ、先割れスプーンがない! 店員呼んできましょうか?』
『おい、酒が切れてるぞ! さっさと追加注文しろー!』
「ええい、うるさい! お前ら、大人しく自分の皿だけつついてな!」
饕餮がぴしゃりと叱れば、オオワシ霊たちはたちまち大人しくなる。忠誠心が高いのは結構だが、食事はひとりで没頭したい饕餮からすれば何かと世話を焼きたがる部下たちは鬱陶しくてならない。その点、ちやりはといえば、饕餮には目もくれず初めて食べる料理の数々に魅了されている。自分奔放な仲間ほど気楽なものはない。
饕餮たち剛欲同盟の豪快な食べっぷりを目にした早鬼は呆気に取られて、
「……八千慧、マジで自腹切る気か? この先苦労するぞ」
「いいのよ、しばらくカワウソ霊たちの減給が決定しただけだから」
『きっ、吉弔様、そんな殺生な……』
まるでこれが最後の晩餐であるかのように泣く泣くフカヒレを頬張るカワウソ霊である。この中から果たして何人のユダが出ることやら。なんだかんだ言ってカワウソ霊はみんな八千慧を慕っているので、ひとりも出ないだろうと饕餮は思った。
何せ、元はスパイだった美天ですら鬼傑組残留を決めるレベルだ。それが八千慧のカリスマゆえなのか、『この人ちょっと頼りないから私たちで支えないと』という義務感からくるものなのかは判断に困るところだが。
ところで早鬼は勝手に自分も奢ってもらえるものだと勘違いしているようだが、八千慧はあくまで『剛欲同盟の支払いを鬼傑組が持つ』と約束したのであり、頸牙組の食べたぶんはすべて早鬼の自腹である。あとでオオカミ霊が泣きそうだ。
早鬼と八千慧はちょうど向かい合うような位置の席に座っている。八千慧の食べ方はこの中で一番大人しい。饕餮は暴食だが作法は必ずしも野卑ではなく、ただ凄まじいスピードで凄まじい量を平らげてゆくので『吸い込まれるように皿から料理が消えていく』という表現が最も似つかわしい。そして早鬼は筋肉馬鹿らしくワイルドにがっつくかと思いきや、意外にも下品さはない。
「なんだ? お前の皿はちゃんと目の前にあるだろ」
「いや。早鬼って案外食べ方は大人しいっていうか、上品だよね」
「これでも昔の私は高貴な人に仕えた身だからね。太子様の評判を落とす真似はできない」
早鬼の何気ない言葉で八千慧の空気がピリついたのが饕餮にはわかった。さすがに宴席をぶち壊すほど八千慧は無粋ではなかったが。
(早鬼も無神経なとこは治らないよなー、わざわざ八千慧の前で他の女の名前を出すなっての。いや、そんなことでいちいち機嫌を損ねる八千慧が面倒くさいだけか)
ひとまず白酒を呑みながら静観していると、最初こそ平静を装って食事を続けていた八千慧だったが、やがてヤケになったのか一気に黄酒を煽った(畜生の、それも霊体だからこそできる所業である)。
「どうせ私は貴人との縁もなければ、残無にも敵わないし、策略だってうまくいかないときもあるよっ」
悪酔いでもしてるのか、八千慧にしては珍しい卑屈さだと饕餮は思った。八千慧はインテリを気取るわりには少々詰めが甘く、馬鹿元気が空回りする節は見られるものの、自分の実力には相応の自信を持っており、決して自己卑下をする性格ではなかったはずだ。
八千慧はサルの脳みそを食い千切り(よくその名前の食べ物を美天の隣で食えるものだ、と饕餮は心の中で思った)、席を立って早鬼に詰め寄った。
「それでも搦手だけは畜生界の誰にも負けはしない。早鬼。どんな手段を使ってでも、お前の心は必ず奪い返してやる」
「……へーえ」
何やら剣呑な、あるいは情熱的な宣戦布告を受けて、早鬼は一旦熊の手にかじりつこうとしたのを止めて、にやりと微笑んだ。
「お前は相変わらず、私には思いつかない愉快なことを考えるな」
「何が?」
「すでにお前に奪われてるものを、どうやって奪い返すつもりなんだよ」
その一言でまた八千慧の空気が変わった。
気を利かせた美天と慧ノ子がオオカミ霊とカワウソ霊とともに席を移動する。メインディッシュが一通り出尽くしたのか、タイミングよくデザートが運ばれてきた。桃饅頭の甘ったるい香りが大きなテーブルに充満した。
「あーはいはい、どーもごちそーさんでした!」
桃饅頭にかぶりつきながら饕餮は吐き捨てた。
どうせ放っておけばこうなるとわかっていたのに、手を貸してしまったのはタダ飯の魅力ゆえだ。この二人は些細なことですぐに喧嘩をしてそのたびにどちらかが「聞いてくれ!」と饕餮の元に駆け込んでくる。故意なのか、タイミングを見計らっているのか、二人が同時に来ることはなぜかないが。
惚れた腫れたのはしかじみた乱痴気騒ぎに渦巻く欲望もまた好物であるが、他所から高みの見物を決め込んで貪るのがいいのであって、自分が渦中に巻き込まれるなどもってのほかだ。
饕餮は色気より食い気を地で行き色恋沙汰を「くだらねーめんどくせーあほくせー」とあしらう、孤独を愛する群れない羊である。そもそも畜生界のイデオロギーにどっぷり浸かりきっているのに、今更ロマンティックラブイデオロギーなどにかぶれるわけがない。なんなら今回の件でさしもの饕餮も食あたり気味であり、おひとり様主義に拍車がかかったきらいもある。
しかし、あの妄執ストーカー、もとい日狭美は八千慧への付き纏いこそやめたものの、饕餮への妙な勘違いからくる同情はやめてくれたのだろうか。旧血の池地獄にまで押しかけられたら面倒だ。
(なんか適当な虫除けでも用意しとくか)
世の中、恋愛ばかりがすべてでもなし、至高でもなし、誰かと番うのは煩わしいが、地獄のストーカーに付き纏われるのとどちらがマシかと聞かれれば目クソ鼻クソ。
とりあえず手頃なところで妥協するかと周りを見やる。オオワシ霊たちは不満があればデモもストもきっちり起こすし、決して組織の長を盲信してはいないが、全員揃って饕餮を慕っているので、誰かひとりを特別扱いすると揉め事の種になって面倒である。
ふと、隣の席にいるチュパカブラ……もとい天火人を見る。ちやりは出された料理すべてに手をつけたものの、結局は慣れた味に近いものが一番気に入ったのか、先ほどからずっとスッポンの生き血ばかりを啜り続けている。
八千慧は『似た者同士』と評したが、確かにちやりの自由気ままでのらくらした性格は饕餮と波長が合う。ちやりは残無に怨念ゆえに惹かれているものの、流石にあの人鬼とヨモツシコメの厄介さは身に染みていることだろう。ちやりを囲ったところで目をつけられる心配もないわけだ。
「おーい、ちやり」
「へい、なんすか」
「お前は今日から私の女な」
「へ……はあっ!?」
口をあんぐり開けるちやりをよそに、饕餮は杏仁豆腐のおかわりを追加で頼んだ。
ある日、八千慧がカワウソ霊を連れて旧血の池地獄まで饕餮を訪ねにきた。あらゆる有機体の怨嗟と憎悪に塗れたこの地に好んで住む者など、饕餮とちやりくらいしかいない。
饕餮は血の池を先割れスプーンでかき混ぜるのを止めて、八千慧を振り返った。
「おー、八千慧か。なんだ、また地上制圧に乗り出す気か?」
「そっちの計画は目下凍結中。にしても、まだここに居座ってるんだ。畜生界にはもう戻らないの?」
「まさか。この呪いに満ちた臭いがたまらなくって、しばらく留守にしてるだけだ。心配しなくともオオワシ霊の目は光らせている。けどここは居心地いいし、いっそ本拠地にしてもいいかとは思っているね」
「ふーん。ま、住み慣れた地元を離れて悠々自適の一人暮らしってのも悪くないかもね」
「ひとりじゃないぞ? オオワシ霊の一部は引き連れてきたし、ちやりもいる」
「あ、そっか」
八千慧は遠くで血の池からじかに血を啜るちやりを眺めながら「まあいいや」と座った。
「で、要件はなんだ? まさか手土産もなしに無益なガールズトークをしにきたわけでもあるまい」
「そうだった。ちょっと聞いてよ尤魔ー、最近早鬼のやつが変なのよ」
「あいつは元から変だったろ」
「そうなんだけど……最近はまして変っていうか」
八千慧は苛立ってきたのか、尻尾でしきりに地面を叩いている。血しぶきで服が汚れるのは気にしていないらしい。
饕餮は内心(そら来た)と思っていた。八千慧がこうやってふらっと現れるときは大抵驪駒早鬼絡みだと相場は決まっているのだ。八千慧にあのじゃじゃ馬ならしは荷が重いだろうとは思っていたが、饕餮の知らないところでしょっちゅう喧嘩をしているようだ。
「強いやつが好きってのはわかるけど、この頃はあの人鬼のとこにばっか出入りしてるんだよ」
「あー」
だいたいすべての事情を把握した饕餮は虚無の声を上げた。要は痴情のもつれというか、ジェラシーだ。
旧地獄の改革を主導した鬼・日白残無に対する評価は真っ二つだ。その唯一無二のカリスマ性に素直に惹かれる者、あいつのせいで見捨てられたといつまでも恨みを抱く者。どちらにせよ、残無の影が心に残り続けるという意味では同じなので、これもまたすべて残無の掌の上なのかもしれない。
早鬼はわかりやすく前者である。単純明快な筋肉馬鹿なので、シンプルに強いやつが大好物なのだ。八千慧は残無の実力を正当に評価しつつ、本人に対する感情は複雑であるらしい。饕餮は言わずもがな後者、というか元より他人にあまり興味のないおひとり様主義なので〝どうでもいい〟がより正確かもしれない。
「いや、あいつの実力は私にも充分にわかる、わかるけどさ。だからって私がやつに劣るとも思わないし」
「そうだな。少なくとも尻尾のハリと鱗のツヤと角の瑞々しさはお前の方が魅力的だ」
「あ、わかるー?」
八千慧は得意げに鼻を鳴らす。そもそも残無には角はともかく尻尾と鱗はないし、心にもない美辞麗句を盛ったが、八千慧が〝生き生きとしている〟のは事実である。饕餮としては八千慧の秘訣とやらに感化されたちやりが妙な時間に寝たり起きたりするようになって若干迷惑しているのだが。
「やっぱ美容に動物性コラーゲンは大事よ。畜生界は生きのいい食材がすぐに調達できるから便利ね。あと鉄分。まあ尤魔はこんな血液たっぷりの場所に住んでるんだから鉄分に困ることはないか」
「クックック、こちとら生まれてこのかた貧血になったことはない」
「わー、さすが」
遠くでちやりは「あいつら何をそんなに盛り上がっているんだ?」と不審に思っているが、無意味な会話の繰り返しは獣たちの日常である。
しかし八千慧の機嫌がよかったのもこのあたりまで、本題に戻ればやはり眉根を寄せ始める。
「あいつのどこがそんなにいいんだ?」
「少なくともコマ犬の特質をころっと忘れてたどっかの誰かさんよりはいいんだろうよ」
「あのくらいの計算違いは日常茶飯事だって!」
だとしたら八千慧の計画は何ひとつうまくいかないだろう。
このまま残無と早鬼の愚痴を垂れ流され続けてもたまらないので、饕餮は重い腰を上げて詰め寄った。
「八千慧、お前、畜生界の理を忘れたか? この世は強い者が正義だ。お前のものが奪われたなら戦って奪い返せばいいんだよ」
「そうはいっても、残無と戦おうと考えると、なーんか身体中から力が抜けちゃって……」
八千慧は肩を落とす。やっと八千慧らしい馬鹿元気を取り戻したかと思ったのに、未だに虚無が抜けきらないらしい。つくづく厄介な人鬼である。
「それでも、もう手は打ったわ」
「ほう?」
「部下のヨモツシコメに美天をけしかけた」
何がどうしてそうなった。ヨモツシコメこと日狭美に手を出しても残無はお礼参りに立ち上がるようなやつではないし、搦手にしても斜め上すぎる。しかも八千慧はよりによって残無の元スパイを(人のことは言えないが)未だに重用しているのか。血も涙もない鬼畜生に見えて意外と部下を重んじるやつである。
「あいつは残無一筋でしょう? ムカつくけど早鬼も残無のカリスマ性を気に入ってる。で、やっかみなのかわからないけど、なぜか最近、あのヨモツシコメが執拗に地獄から私を付け狙ってくるようになって。鬱陶しいから美天に任せてるのよ」
「おいおい、とんだ四角関係だな」
饕餮にとっては他人事なので盛大に笑い飛ばした。日狭美からすれば自分が慕ってやまない残無を早鬼に横取りされたと逆恨みしているのだろうが、それにしたって八千慧を狙う意味がわからない。早鬼に直接『この泥棒天馬!』と突っかかればいいのである。
八千慧も八千慧だ、残無に上手い手出しの手段が見つからないからって日狭美と争ってどうする。早鬼を『この浮気者!』と直接ぶん殴ればいいものを。
そして饕餮が思うにあの筋肉馬鹿は自分が置かれた状況を何も理解していない。まあ自分の知らないところで二人が争っていると言われてもわけがわからないだろうが。
「美天の成果も芳しくないのよ。訓練が足りなかったかな。尤魔、お前ならどうする?」
「くだらねー。それでノコノコ私のとこに来たのか? お前のお得意の頭脳と搦手でどうにかしろよ。お前ら二人の痴話喧嘩を仲裁してやる義理なんて私にはないね」
「そうか……残念ね」
饕餮がそっけなく言い放つと、八千慧は深くため息をつく。
そんな恨みがましい目で見られても、ないやる気は振り絞れない。インテリを気取るくせに八千慧は何もわかっていないのだ。早鬼は強いやつに滅法弱いが、八千慧が持ち前の賢しさを活かしてよく観察すれば、早鬼が誰が一番好きなのかを見抜くくらい容易いだろうに。
饕餮は気まぐれに首を突っ込んで火傷を負いたくはない。そのまま八千慧を追い返すつもりだったが、八千慧は「残念だなー」と繰り返して、
「尤魔が協力してくれるんだったら、お礼に満漢全席奢ろうと思ってたんだけどなー」
そのとき、この世にあるまじき暴食の獣は勢いよく食いついた。
「八千慧、いまなんて言った?」
「だから満漢全席奢るって」
『き、吉弔様、正気ですか!?』
途端に色めき立つのはカワウソ霊だ。
『いけません! 他の誰に奢るのも吉弔様の自由ですが、剛欲同盟だけは、いや、饕餮だけはいけません!』
『あいつらのエンゲル係数がヤバいのは考えなくてもわかるでしょー!』
『食事なんか奢った日にはうちの財政が破綻します!』
『今からでも取り消して!』
「お前たち、金は貯めるためにあるんじゃない、使うためにあるのよ」
『イヤー!!』
阿鼻叫喚の部下とは対照的に、八千慧は腹を括って落ち着き払っている……かと思いきや額にわずかに冷や汗が滲んでいる。自分から言い出しておいて早速後悔しているらしい。それでも撤回するそぶりがないのは仁義を通す気なのか、単なる意地なのか。
まさに綸言汗の如しだなーと思いながら、饕餮はすかさず八千慧に詰め寄った。頭の中は早くも豪勢な四八珍でいっぱいだった。
「本気か? 本気なんだな?」
「本気も本気、オオワシ霊とチュパカブラの同伴も許可する」
「天火人な。いいんだな、あとで嫌だって言っても聞かないぞ?」
「こっちも簡単に約束を反故にしたらメンツが立たないからね」
「マジかよ。あの隠岐奈だってどんなに『奢れ』って脅しても頑なに『ワリカンで』としか言わなかったんだぞ?」
「お前とワリカンでも食事に行けるんだったら大した度胸だよ」
あるのは度胸ではなく経済力である。隠岐奈とは石油の件がひと段落した際、手打ちと称して一度だけ食事に出かけたのだった。
まるで乗り気じゃなかった饕餮は一転、本気で八千慧の相談に乗ってもいい気になってきた。こちとら隠岐奈と折半とはいえ石油の利権を得たのだ、いくら暴食でも食い扶持には困っていないが、他人に奢られる機会など滅多にない。
「うわちょっとヨダレがヤバいんだけど」
「ああすまん」
滝のように流れていたヨダレを拭き取り、同じく『奢りか!?』『奢りだ!』『剛欲同盟始まって以来の慶事だ!』『しかもあの鬼傑組持ちだぞ!』と大いに盛り上がっているオオワシ霊をたしなめ、「え、私も行っていいのか?」と聞くちやりに「いいぞ」と答え、饕餮は景気良くスプーンを血の池から持ち上げた。
「よーし、交渉成立だ。で、お前のターゲットは? 残無か、早鬼か、日狭美か」
「とりあえず鬱陶しいストーカーから片付けてよ。ついでに早鬼の脳みそをカチ割ってきてもいいけど」
「それはお前が自分でやりな」
旧血の池地獄の留守をちやりに預けて、饕餮はオオワシ霊とともに地獄へ赴いた。
◇
「海八珍、禽八珍、草八珍、山八珍。どこから食ってやろうかなー」
饕餮は鼻唄まじりに、オオワシ霊の脚にぶら下がって地獄の業風の中を飛んでいた。
『饕餮様、本当に私たちも同席してよろしいんですか?』
「ああ、お前らも好きなもん好きなだけ注文して、鬼傑組の財布をすっからかんにしてやりな」
『よっしゃ!』
『私、フカヒレだけ永遠につつきたい!』
『麻婆豆腐!』
『青椒肉絲!』
歓喜のオオワシ霊たちがけたたましく鳴きわめく。
さて、八千慧ご指名のストーカーもとい日狭美を探しているのだが、絶望的に広大な地獄を長時間彷徨うのは勘弁したい、地獄はろくな食い物もないし……などと考え始めたそのとき、
「あら、地獄へようこそ」
あまりにタイミングよく日狭美は現れたのだった。畜生界からの客を待ち伏せしていたと見える。
「よお、いつぞやの宴会以来だな、悪質ストーカー」
「地獄はいつでも誰でもウェルカムです。私は自分の仕事を果たしているだけに過ぎませんわ」
「どこがだ。目をつけたやつを見境なしに地獄に引き摺り込みまくって、そのうち上からお叱りがくるぞ」
「うふふ。素直に叱っていただけるならどれほどいいでしょうねえ……。それで、貴方はどうしてこんなところへ? 自らお出ましなんて、地獄行きの心当たりでもおありですか?」
心当たりがあるどころか、ありすぎて逆にどれが本命か思い当たらないレベルだ。とりあえず手近なところから思い出してみた。
「旧血の池地獄の時間経過がよくわからんのをいいことに、定時を誤魔化してオオワシ霊を働かせたことか?」
『ちょっ、饕餮様!?』
『いつのまにそんなことしてたんですか!』
『残業代を! 残業代を支払ってください!』
途端にオオワシ霊たちが頭上でギャーギャー喚き立てる。いずれバレると思っていたので饕餮は平然としていた。
「ああ、悪かったよ。今回の件がうまくいったらボーナス弾んでやるから」
『ボーナスはありがたいですけど!』
『それはそれ、これはこれ!』
『残業代払ってください!』
「わかった、わかった」
「そんなみみっちい罪だけでは地獄に堕ちませんよ」
顔が隠れているので表情はよく見えないが、日狭美は笑っているらしい。残無の手下なだけあって、あれこれ腹に抱えていそうなのが気味が悪い。
「まだるっこしいからはっきり聞く。お前、なんで八千慧に絡んでるんだ?」
「と言いますと、貴方は吉弔の差金でこちらへ? あんなに仲の悪い畜生たちがまた手を組んだのですか? 珍しいことが重なりますね」
「すっとぼけんな。お前のストーキングを追っ払ってほしいんだとよ。八千慧になんの恨みがある?」
「別に恨みなんてありませんけど。そんなの、残無様に振り向いていただくために決まっているでしょう」
饕餮は(やっぱりな)と思う一方で納得がいかない。日狭美の思考回路は山葡萄の蔓以上に絡みまくって他者からは理解しにくいのだ。
「お前が鬱陶しいのは早鬼の方じゃないのかよ」
「もちろん鬱陶しいわ。あの馬女ときたら、私の残無様にちょっとお声をかけられただけでいい気になって、頻繁に助言だの手解きだのを伺いに来るように……ああ、思い出すだけでも忌々しい! 〝あいつは私の残無様に付き纏った〟ただそれだけの理由で地獄に堕としてもいいでしょう」
なんかどっかで聞いたことある台詞だな、いつから残無はお前のになったんだ、と呆れながら、饕餮は口惜しげに服の裾を握り締める日狭美を見つめる。やはり早鬼が馴れ馴れしく残無の元に来るのはよく思っていなかったようだ。
「だったら素直に早鬼を追っ払えばいいだろ」
「そんな当たり前のことをしたって残無様はなんとも思わないわ。残無様は驪駒だけに目をかけているわけではありませんからね」
「あの鬼め、何枚舌を持ってやがるんだか。閻魔王も引っこ抜くのに苦労するだろうよ」
「わざと命令に背いたり、仕事を間違えたりしても残無様は叱ってくださらないんですもの。だったら私が余計な仕事をたくさんこなしたら、少しは困ってくださるかと思いまして」
そんなことで八千慧が絡まれたのかよ、と饕餮はさすがに気の毒に思った。とどのつまり、日狭美は残無に構われたい一心であれこれ関係のない他人を巻き込みまくっているのだ。面倒臭いにもほどがある。
「まあ、残無様が吉弔を気にかけているのも間違いではありませんから。もちろん貴方も」
「言っておくが私と八千慧はそこまで残無を気に入ってないぞ。いや、八千慧も社交辞令は得意だけどな」
「なんですって? 残無様の魅力がわからないとは、所詮は畜生風情か……」
お前は残無を独占したいのかしたくないのかどっちなんだ。嫌気がさしてきた饕餮だったが、満漢全席が待っていると思うと面倒臭いストーカー相手だろうが俄然やる気が湧いてくる。
こいつを倒して八千慧の奢りで満漢全席を食う! それだけで頭がいっぱいだった。
「お前たちの痴情のもつれなんか知るか。ストーカーは失せろ!」
「まあ、さすが畜生界の流儀は地獄に劣らず乱暴だわ!」
饕餮が得物を振りかざせば、日狭美はすかさず蔓を放って距離を取る。逃げようとすれば日狭美はこの上なく厄介だが、真正面から相手にするなら饕餮にとってはさほど脅威ではない。
「即刻八千慧から手を引けい!」
「なんなんです、さっきから八千慧八千慧と」
訝しげに口元を歪めた日狭美が、ふと納得したように手を打った。
「なるほど、貴方が吉弔のために躍起になるのはそういうことでしたか」
「は?」
「三つの組織の頭で三角関係とは複雑ですね。つらいですよね、自分の思いが一方通行で報われないのは……なぜでしょう、急に貴方に親近感が湧いてきたわ」
「何を勘違いしてるんだお前は!」
饕餮は危うく足元の蔓で転びそうになった。勝手に同情されるわ自己完結されるわ擦り寄られるわで頭が痛い。要は日狭美の中で
【早鬼←八千慧←饕餮】
の図式が出来上がっているのだろうが、饕餮はあくまで己の食欲のために動いているのであって、その行動原理には八千慧への義理すらない。まして恋慕などあるわけがない。
(冗談じゃない、誰があんなサイコパスヤローと。罷り間違ってそんなことになってみろ、文字通り馬に蹴られて終わるじゃねーか)
ムカっ腹の立ってきた饕餮は、改めて目の前の日狭美を獲物としてきっちりロックオンした。
「オオワシ霊ども、気合いを入れろ! 満漢全席の前に葡萄狩りだー!」
『御意!』
士気を上げたオオワシ霊たちが日狭美めがけて、執拗に追跡してくる蔓にも負けず次々に勢いよく突撃してゆく。
(数ならこっちが圧倒的に有利なんだ、このまま押し切る!)
若干早鬼の脳筋じみた考えだが、勝てさえすればなんでもいいのだ。
――と、そこへ、なぜか赤いオーラをまとった動物霊が空中から次々に降下してきた。
「なっ!?」
『驪駒様、やはり見張りの言う通りでした!』
『饕餮様! こやつらは頸牙の!』
「その勝負、ちょっと待った! 話はすべて聞かせてもらったぞ!」
漆黒の翼を羽ばたかせ、部下のオオカミ霊とケルベロス(山犬)を引き連れて颯爽と降り立ったのは早鬼である。
「尤魔。知らなかったよ。私が残無様にあれこれ話を伺っている間に、妙な事態が起きていたんだね」
「お前……」
早鬼は饕餮を見つめて、静かにそう言った。
正直に言えば、いいところで勝負の邪魔してくれたなという不満とちょうどいいタイミングで来たもんだなという感心が半々だったが、饕餮は少し早鬼を見直す思いだった。
早鬼は脚力と筋力とスピードだけなら畜生界随一だと饕餮も認めるが、頭脳はてんで駄目でこちらから誘導してやらないと何も理解できないやつだとばかり思い込んでいた。元を糺せば(少々理不尽だが)早鬼が残無を気に入ったせいでこんな事態になっているのだ、本人が事情を察してくれたならありがたい。
と、思いきや。早鬼の眼は怒りに赤く燃えているのだった。
「まさかお前と八千慧がそんなことになっていたなんて、この裏切り者の泥棒羊!」
「お前までこいつの戯言を信じくさってどうする!!」
前言撤回、早鬼はどうしようもない筋肉大馬鹿だった。単に状況を何も把握していないだけならまだマシだ、無駄に行動力のある馬鹿に誤情報など与えてはいけない。
完全に誤解して報復に足技を浴びせてくる早鬼を得物で防げば、足元に日狭美の蔓が忍び寄ってくる。
「これが修羅場ですか。今日の成果は大量だわー」
「お前のせいだろうが! 他人事みたく言ってんじゃねー!」
この最凶キャッチ、饕餮と早鬼を部下諸共まとめて地獄に引き摺り込むつもりだ。油断すれば蔓に絡め取られそうになる、かといって日狭美に集中しすぎると早鬼の速攻がかわせなくなる。オオワシ霊も予期せぬ事態に翻弄されている。
(なんだってんだ、私はタダ飯が食いたかっただけだってのに!)
その欲望こそが饕餮の災難の大元なのだが、日狭美はともかく早鬼の誤解を解くだけなら手間はかからないだろうと、饕餮はめげずに早鬼の説得を試みることにした。
「こんにゃろ、尤魔、お前っていつもそうだ、ひとりでコソコソ動き回って美味しいとこだけ持って行きやがる!」
「よく聞け脳筋馬鹿! 私と八千慧はお前が思っているような仲ではな……」
そのとき、再び何者かが忍び寄る気配を感じて、また日狭美かと避ける。しかしそいつは日狭美の蔓ではなかった。
「え? お前は」
『た、大変です吉弔様ー!』
おどろおどろしい緑色のオーラを纏ったカワウソ霊が逃げ出した先には、ご自慢の長い尻尾をゆらめかせる八千慧と孫悟空(猿神)が立っていた。
「や、八千慧!?」
「ごめん尤魔。やっぱりお前にぜんぶ任せっきりは間違ってると思って私も出撃したわ。ああ、心配しなくても約束通り満漢全席は奢るから」
「それを聞いて安心したぜ」
だったら最初からお前が動けよ、と思ったものの、やっぱりタダ飯と天秤にかけたら些末ごとだ。
(いや、待てよ?)
呑気な方向に傾きかけた思考を止めて、饕餮は現状を整理する。
早鬼は八千慧が饕餮と浮気したと思っている。
八千慧は早鬼が残無と浮気したと思っている。
(いま、この二人がぶつかったらとんでもないことになるんじゃね?)
「八千慧、見損なったぞこの浮気ヤロー! ちょっと見ない間に私から尤魔に鞍替えするとはな!」
「はあ!? なっ……んだってえ!」
饕餮が見越した通りだった。濡れ衣を着せられた八千慧が即座にブチキレた。そりゃそうだ。
「誰があんなちんちくりんを相手にするか! いやまあ私もタッパはそんなにない……そこは認める……けど少なくとも尤魔よりは上でしょう!」
「おい八千慧お前あとで覚えてろよ」
「そんな言い訳が通用すると思ってるのか、おチビのビッチどもめ! インテリ気取りのお前のことだ、私には想像もつかないような美辞麗句の数々で尤魔を誘ったんだろうが! ああくそ、お前らはいつも寄ってたかって私を馬鹿だ馬鹿だと見下してるもんな! 尤魔も尤魔だ、あのおチビときたら、孤独大好きを装って狙った獲物はまんまと自分の懐に納めちまうのが得意技なのさ!」
「おい早鬼お前も後で旧血の池地獄に集合な」
「チビ、チビって連呼するな、胸糞悪い!」
「事実じゃないか! だいたいなー、お前って私の好みからは完全に外れてるんだよ! 私が好きなのは太子様とか残無様みたいなわかりやすく強くて賢くてカリスマのある……」
「またか、この頃は二口目には残無残無! そんなに残無がいいなら残無の女になっちまえ!」
「いいえ私の残無様には指一本触れさせませんわ!」
「八千慧は何もわかってない! 私を見事に誑かして、調子にのって尤魔まで毒牙にかけて、さてはお得意の搦手で二つの組織を乗っ取ろうってんだな!」
さすがにそんなハニトラ紛いの戦術を八千慧が使うか? と饕餮は疑問に思った。
「言わせておけば、馬鹿ほど無駄に口数が多くて早口だな。わかってないのは早鬼、お前なんだよ。まずは尤魔をよく見てみろ!」
「は?」
急に矛先がこちらに向いて困惑すると、八千慧は饕餮にしつこく絡みつく日狭美を指差している。
「尤魔もチビだから、私よりもあいつみたいなスラッと背が高い痩身麗人の方が好みなのよ!」
「いやいや待てい!」
八千慧までなんちゅう誤解をバラ撒こうとしてるんだと噛みつけば、八千慧は目配せで(察して)とアピールしてくる。どうやら即興で作り出した苦肉の策らしい。
つまるところ、早鬼の誤解を解くために、饕餮が真に執着している相手は日狭美だと誘導したいのだろう。
(無理があるだろ!)
日狭美が残無一筋なのは早鬼にもわかることであり、饕餮だってこんな変態じみたストーカーとどうこうなんて、嘘でも精神的ダメージがひどい。
「え? そ、そういうことなの?」
「信じた!?」
「えー尤魔、趣味悪……いや、暴食の尤魔だからこそか……?」
馬鹿だからなのか八千慧の言葉だからなのか、素直に受け止めかけている。八千慧も早鬼の思考回路ならある程度までは読めるのだろうか。
しばらく考えてから、早鬼は「そうか!」と手を打った。
「八千慧と日狭美に二股かけてるのか!」
「ちげーよ!!」
馬鹿の思考は斜め上にカッ飛ぶので、結局、饕餮への新たな誤解が積み重なっただけだった。早鬼の中の饕餮のイメージはいったいどうなっているのだ。
『まあ饕餮様だからね……』
『正直何人にツバつけてても驚きません』
「お前らまとめて照り焼きにされたいみたいだな!」
饕餮が部下に制裁を振るっている横で、日狭美はスンッと冷めた顔つきになって、
「あいにく私は残無様一筋ですから、貴方のような子羊はちょっと……それに、いくら報われないからって二股はどうかと思いますよ? 恋は一途でなければ」
「お前は何重に勘違いを重ねるつもりだ!」
饕餮が散々な目に合っている間にも、早鬼と八千慧の喧嘩は止まらない。
「お前なー、自分が手玉に取ってるつもりで逆に弄ばれてどうするんだよ! 尤魔だけは絶対にやめとけ!」
「だから私と尤魔は何もないって言ってるでしょう!? それより早鬼、私が好みじゃないってどういうことだ!」
「今更そこに食いつくのかよ」
「ああそうさ、お前みたいな正々堂々を嫌って搦手だなんだと小細工ばかり使うやつはいけすかないんだ! 挙句の果てにターゲットを籠絡したらもう用無しと言わんばかりに私を捨てるのか? これが本当の〝当て馬〟ってか、ちっとも笑えねえよ! 残無様と違って自分の部下はなんだかんだで見捨てないくせに……くそっ、鬼畜生め!」
「馬鹿じゃないの? 私こそ、お前みたいな単純な筋肉馬鹿は嫌いだよ。なのに一直線に私の心に強引に踏み込んで……なまじおべっかの上手いやつよりタチが悪いわ!」
「しょうがないだろ惹かれちまったんだから! その活きのいい角と尻尾にゃ誰だって釘付けになるよ、背丈は大したことないけどな!」
「また背丈のことを言ったな! ふん、背が届かずともこの長く伸びた角さえあれば充分だ、生き馬の目を抜くが如くお前の目を潰せばいいだけだからな!」
「残念だったな、私は生き馬ではなく死に馬だ! お前は亀の歩みに見えて手が早いがあいにく私は畜生界最速ときてる、ちっぽけな鹿子を蹴飛ばすのは私の方が速い!」
「だから小さいって言うな!」
「お前ら喧嘩がしたいのかノロケを撒き散らしたいのかどっちなんだ」
早鬼も八千慧も罵倒を浴びせたと思えば歯が浮くような殺し文句を吐きにかかる、それの繰り返し。本人たちは真剣に争っているつもりなのだから始末に追えない、ひどい修羅場だ。ここって修羅界だったっけ? と饕餮は現実逃避しそうになった。
そこで油断したのがまずかったのか、気がついたら饕餮の足に葡萄の蔓が絡みついていた。しまった、と思ったときには日狭美の罠の中にいた。
「ふっふっふ、地獄から簡単に逃れられると思うなよ」
『コラー! 饕餮様を放せー!』
「さあ饕餮尤魔さん、この後私と女子会でもしません?」
「は? なんでだよ」
「せっかくですから片思い同盟で仲良くしましょう? 私が残無様と出逢ってからいまに至るまでの愛の軌跡を、残無様の言葉では表し尽くせない魅力を夜通しみっちりお聞かせしますから」
「誰が行くか!!」
未だに勘違い続行中の日狭美に全力で抵抗する。なんでどいつもこいつも饕餮の元にたかって来るんだ。饕餮自身は孤独を愛する一匹羊のつもりなのに。
オオワシ霊たちが必死に蔓をついばんで饕餮を救出しようとする中、口論を続けていた早鬼と八千慧はついに実力行使に出るようだ。
「もう話にならん! 慧ノ子! お前の実力をあの頭でっかちに見せてやれ!」
「なんの! 美天、お前に汚名返上のチャンスを与えてやる! あの筋肉馬鹿を黙らせろ!」
いままで控えていた二人のそれぞれの新しい仲間、慧ノ子と美天が戦闘に引き摺り出された。元の主人に見捨てられてなまじ残留を決めたばっかりに、組長の諍いに巻き込まれて気の毒だ。というか早鬼も八千慧も自分で戦わないんかい。
「やあやあ、我こそは鬼傑組の遊撃隊員にして幻想郷の斉天大聖、孫美天なり!」
「知らざあ言って聞かせやしょう、鬼も震える地獄の番犬ケルベロスとは、頸牙組地上隊隊長、三頭慧ノ子、私のことよ!」
何やら歌舞伎や源平合戦を彷彿とさせる壮大な名乗り合いが始まった。
(なんであいつら揃いも揃って新入りに妙な設定を盛ってるんだろうな)
たぶんうちの新入りの方が強いぞアピールと他の組への牽制のつもりなのだろう。茶番にもほどがあるが。
幸か不幸か、ぶつかり合うのは文字通りの犬猿だともっぱらの評判な慧ノ子と美天。犬を嫌う美天が真っ先に顔を歪めた。
「ケルベロス? ふっ、バタくさい犬なんかに負けるかよ。こちとら雷に撃たれた石から生まれて、そのまま周りの猿たちに求められるがままに猿山の王になったが……えーと、なんか定命の儚さが虚しくなっちゃって、そしたら仙人になればいいとか残……八千慧様が言うからさ、不老不死を目指して……八千慧様のとこでしばらく修行してたら、あれ、名前なんだっけ、あの金色のあれ……どっかのビルのオブジェにありそうなやつ」
「觔斗雲?」
「そう、それに乗れるようになった!」
八千慧に仕込まれた斉天大聖の設定はまだ完璧に覚えられていないらしい。捏造された経歴というよりうろ覚えの西遊記のあらすじな上、天敵から助け船をもらっている始末である。
「それから聖域の幽霊を食ったけど、それがまずかったのかな、業を煮やした……ええと、テン……天火人じゃなくて……あっ、天帝! 天帝がお釈迦様に泣きついて、私は囚われ、あわや地獄行きの危機。そこから私を助け出してくれたのが誰であろう、ざ……八千慧様よ!」
何度か八千慧と残無を間違えかけている上に時系列がゴチャゴチャである。事実と西遊記が中途半端に混ざっているのもややこしい。結局、残無に見捨てられた美天の心がいまなお残無にあるのか、それとも義理のある八千慧にあるのか、饕餮にはよくわからなかった。
「どうだか、貴方の語りはずいぶんうろ覚えで怪しいものね。早鬼様が言うには、ケルベロスといえば名高き地獄の番犬よ、その生みの親は……えっと、なんかすごい神様だとか」
「何それ、聞いたことないけど」
「とにかく西洋の偉い神様って早鬼様が言ってたの! ケルベロスは地獄の番をしていた頃に……なんだっけ、あのあれ……なんか冥府の妻を訪ねに男の人が来るんだけど」
「イザナギのこと?」
「いや、それが早鬼様はイザナギじゃないって言うのよ。その人は竪琴が得意らしくて」
「ああ、ならイザナギじゃないわね」
「でもね、早鬼様が言うにはその人、冥府の妻を連れて帰ろうとして『決して振り返ってはいけない』って見るなのタブーを突きつけられるのよ」
「え、じゃあやっぱイザナギじゃないの?」
「それが違うっぽいの、そいつの妻は黄泉竈食ひをしてなかったらしいから」
「じゃあイザナギじゃないのか」
なんだかやりとりが漫才じみてきている。おそらく慧ノ子が正解を思い出せないイザナギっぽい人の正体は竪琴でケルベロスを眠らせたギリシャ神話のオルフェウスである。こちらも早鬼に与えられた設定がうろ覚えのようだ。
(早鬼も八千慧も新入りに何を叩き込んでるんだよ。いくら出自や来歴を盛ったって、肝心の実力がなきゃ無意味だろうが)
なお、ある日を境にチュパカブラを自称するようになったちやりを放置している自分のことは棚の上である。
そして組長二人はといえば、渦中の部下をほったらかしてまだ口論中である。早鬼は『話にならん』と言ったのをもう忘れているらしい。
(畜生界の繁華街で先に待ってようかな)
一応、八千慧の依頼は『日狭美を片付けろ』だったはずだが、あの体たらくでは八千慧も忘れてそうだ。饕餮が戦いより食欲を優先したくなってきたところで、そうは問屋が下すまいと絡みついた蔓が再び強く締め上げてきた。
「地獄からは何人たりとも逃しませんよ? すべては残無様のために!」
「お前はお前の欲望のために動いてるだけだろーが!」
饕餮は力任せに引きちぎるが、次から次へと新しい蔓が伸びてくる。
『饕餮様、ここは一旦退却しましょう! このカオスはいくら饕餮様でも切り抜けられません!』
「黙れ! ここで退けば約束も白紙だ!」
『そんなに満漢全席が食いたいんですか!!』
「八千慧の金で満漢全席が食いたい!!」
『なら仕方ありません!!』
食欲。それは何物にも勝る饕餮を突き動かす最大の欲望である。同じく強欲のオオワシ霊もよく心得ているので、さっさと説得を諦めて引き下がった。
とはいえ地獄の魔の手はあまりに妄執に満ちて粘着質、オオワシ霊も疲弊してきている、いかに饕餮でも逃げ切れるかどうか……。
「さあ、大人しくお縄につきなさい!」
「――いや、饕餮を連れ去ることは決してできまい、ヨモツシコメよ!」
そこへ背後に扉が突然開いて、饕餮のよく知る絶対秘神が現れた。
「え、隠岐奈!? 何しに来たんだ」
「大地の所有権をめぐる争いが一段落したと思ったら今度は饕餮の所有権をめぐる争いが発生した。合ってる?」
「甚だ不本意だがだいたい合ってる」
「ならそこをはっきりさせればすべては丸く治まるでしょう」
饕餮は「私は誰の所有物でもねえよ」と言ったが、人間霊を奴隷扱いしていた身では説得力がない。
隠岐奈は警戒心を剥き出しにする饕餮をいい笑顔で見下ろすばかりだ。
西洋の演劇では、物語が錯乱すると全能の神を出して強引に舞台を収束させる手法があるという。隠岐奈はあらゆる神格を同時に持つ、全能とまではいかなくとも混沌とした神だ。
まさか彼女がデウス・エクス・オキナとしてこの混沌を治めてくれるのか……あまりありがたくない話だ。
「まあ、落ち着きなさい。そこのお前は驪駒早鬼といったか」
「え、私?」
「お前は誤解をしている。よく聞け、饕餮尤魔は吉弔八千慧のものではない」
怪訝そうな顔をする早鬼に対して、摩多羅隠岐奈は威風堂々たる佇まいで言い放った。
「饕餮は私のものだ!」
「誰がお前のものだ、誰が!!」
饕餮はすかさず得物を振り上げた。この絶対秘神、一応は秩序側のくせに混沌が好きすぎるのか、場を治めるどころかさらなる混沌を撒き散らしに来ただけである。
饕餮が隠岐奈に殴り掛かろうとしたそのとき、どこからともなくスキマが開き、とっくに廃線となったとおぼしき列車が現れ、猛スピードで見事に隠岐奈を轢いていった。
「あら、ごきげんよう」
スキマから現れた女はすぐに地獄の景観から浮きまくっている廃線を引っ込めると、気絶した隠岐奈を脇に抱えて優雅に饕餮と向き合った。初対面であったが、饕餮は一発でこいつが賢者の八雲紫だとわかった。隠岐奈によく似た装束と胡散臭い笑みが何よりの証拠だ。
「貴方が噂の饕餮ね? ごめんなさいねぇ、〝うちの〟隠岐奈がしょっちゅう迷惑をかけて。困ったことに〝うちの〟隠岐奈ったら私の知らないところで勝手に動き回るのが好きなのよ。貴方も〝うちの〟隠岐奈が何やら世話になっているそうで」
世話になっているというか、単なる厄介なビジネスパートナーである。紫はやたらと隠岐奈を〝うちの〟と連呼するが、饕餮の体感としては〝私の〟と言われているくらいの圧はあった。
(こいつもジェラシーかよ、面倒くせえな。ここには面倒くさい女しか集まってこないのか。誰もこんな信用ならない秘神を横取りしたりしねえよ)
嫉妬の妖怪が猛威を振るっているのかと疑いたくなるジェラシー祭りだ。
ちなみに八雲紫の従者たる八雲藍は、紫のそばにいた。しかし饕餮たちには一瞥もくれず一言もしゃべらなかった。
「いやお前はせめて何か言えよ! 面倒臭い状況に巻き込まれたからって他人のふり決め込むな!」
「あ、藍じゃない。おひさー」
「やっぱあいつって昔の畜生界にいたよな? 雰囲気が変わってるから見間違いかと思った」
八千慧と早鬼に話しかけられても、藍は辛抱立役のごとく無言を貫いている。下手に関わらない方が身のためだとよくわかっているのだ。
「さあ藍。地獄に長居は無用よ、さっさと帰りましょう」
「お前ら本当に何をしに来たんだ」
「そこで三蔵法師一行はかの牛魔王と対峙して……そう、名前は忘れたけど有名な扇が絡んでるっぽいわ」
「ケルベロスは守護獣らしいけど、そういえば私は幼い女の子を見守っていたし、その子はカード集めに一時期熱中していたのよね」
「どういうことだ? 結局尤魔は何股かけてるんだ」
「いつまでそこにこだわるつもり? だからお前は筋肉馬鹿なんだよ!」
「んだとお!?」
「逃がさない、絶対に逃がさない……ああ、残無様! 恋する女は皆、大木に絡みつく蔓だわ、出過ぎた真似をする私をぜひお叱りになって!」
紫は畜生たちの争いに興味はないのかさっさと隠岐奈を回収して撤収しようとするし、美天と慧ノ子は犬猿ロールを従順に守ってもはや名乗りの体をなしていない語り合戦を続けているし、賢者の乱入で水を差された早鬼と八千慧も依然とピリピリしているし、日狭美の蔓はやっぱりしつこく絡みついてくるし、
(もーこいつら、どいつもこいつも、全員面倒くせえ!!)
ついに饕餮の怒りがとどまるところを知らない暴食を凌駕した。いや、正確には暴食の対象が八千慧の奢りから別のものにスライドした。
『と、饕餮様、まさかアレを……!?』
『大変だ! 饕餮様が形態を変える!』
『え、機種変?』
『馬鹿モン! アレが来るんだよ!』
『退却ー、今度こそ一旦退却だ! 全員、饕餮様から離れろ!』
いち早く危険を察知したオオワシ霊たちが散り散りになる。
暴食の獣は、いままさにすべてを吸収する形態に変化しようとしていた。
(もう知ったことか。お前らのわがままも結構、欲望剥き出しも結構。欲は私の大好物だ。ただし、私が誰よりも強欲であることを、いま一度知らしめてやる必要がありそうだな!)
饕餮はこの場のすべてを自分の餌として吸収しようと思った。
「全員、ひとり残らず、私の血肉になれ!!」
早鬼と八千慧が今度こそまずいと気がついたときにはもう遅い、この世に存在してはならないグリードモンスターが地獄で猛威を振るうと思われた。
そのときだった。
「ええい、いい加減鎮まらんか、畜生どもめ!」
眩い光と聞き慣れた声が聞こえた刹那、無礙光が欲望の渦巻く地獄の一帯をあまねく照らしたようだった。
◇
「ふーん、ずいぶん高い店を押さえたもんだな」
「満漢全席出してくれて貸し切りにできる中華料理店がここしかなかったんだよ」
「けどこの人数はさすがに狭くないか。おいお前ら、もう少し詰めろ」
『驪駒様、これ以上は限界です……新入り、お前がズレろ』
「ちょっ、押さないでよ」
「あいたっ! なんで犬が私の隣なのよ!」
『はいはい、慧ノ子さんとオオカミ霊と美天の席は離した方がよさそうですね』
「いいんすか、私までこんなゴーカな席に連れてきちゃって」
「いいに決まってんだろ、他でもない鬼傑組組長様が言ったんだからよー、なあ八千慧!」
「ああそうだよ。こうなったらきっちり元を取るまで食べなきゃ承知しないぞ、尤魔!」
八千慧はヤケクソ気味に答えた。元は充分取れるし、それより材料が切れるまで食い尽くして店が潰れないかを心配した方がいい。
とまれかくまれ、普段は滅多に揃わない三組織が畜生界のある高級料理店に勢揃いしたわけだが、いかんせん全員が部下を表に引き連れてきたせいで宴会用の広々とした席も窮屈に感じる。
ようやっと表に現れた残無が〝虚無〟によって争いを平定し、戦う気を削いだために、地獄の畜生たちはすべて大人しくなった。彼女が真のデウス・エクス・オキナもといデウス・エクス・マキナだったわけだ。
「この間、和睦の祝宴を開いたばかりであろう。これ以上の争いは無意味じゃ」
饕餮は元はといえばお前のせいだろうがと吐き捨てたかったが、戦意喪失によりその言葉は虚無に消えた。
そして結局、残無は日狭美を叱ろうとしなかったのだが(今回の日狭美の行動も彼女の掌の上だったのかはわかりかねる)、日狭美は争いを一瞬で虚無に返した残無の勇姿に素直に感激していたのだった。
「残無様、なんという圧倒的なお力……いつ拝見しても惚れ惚れしますわ……日狭美はどこまでも貴方について行きます。一生かけて、必ずや残無様を振り向かせてみせます!」
初心に返って『残無を追いかける』と決意を新たにした日狭美は、八千慧へのストーカー行為もこれまでだとすっぱりやめるようである。
騒動をややこしくしていった連中が全員帰ったら、豪風の吹く地獄に残されるのは、三組織の組長たちだけだ。
「あー、その。八千慧」
「……何よ、早鬼」
争う気を失くしたといっても、直ちに和解するわけではない。早鬼も八千慧も気だるげに、そして気まずげにお互いを見るともなしに見つめている。最初に活気のない捨て台詞を吐くのは早鬼だった。
「なんだよ、残無様が出てきた途端に腑抜けやがって。弱い八千慧になんか興味はないね」
「あっそう。お前も間抜け面に拍車がかかったように見えたけど。私も弱い早鬼なんてつまらないから嫌いだよ」
おいおいまだ喧嘩するつもりかよ、と饕餮はうんざりする。残無が残した虚無の置き土産だけではないであろう、徒労感が凄まじく、いまの饕餮には食欲しか残っていなかった。おそらく饕餮のこの欲望だけは何者にも消すことはできまい。
「だって仕方ないだろ、あの残無様に『こんなことを打ち明けるのはお前だけだ』とか言われたら、なんでも力になりたくなっちゃうよ」
「それ、私も言われたけど」
「えっ」
「右に同じ」
「ええっ」
とりあえず今回ばかりは八千慧に加勢してやると、早鬼は唖然と口を開く。やっぱり早鬼だけは残無のおべんちゃらに気づいていなかったようだ。
早鬼の身体がわななく。さすがに残無への憧れも冷めるか……と思いきや、早鬼は武者震いでなく、感動で震えているらしかった。
「あの源頼朝も自分に従う武者たちに『真に頼れるのはお前だけだ』と言って回ったそうだが……さすが、やっぱり人の上に立つ者は違うなあ!」
「早鬼、お前ってやつは……」
八千慧は怒りに拳を振るわせている。何なら同じタイミングで殴ってやろうかと饕餮が構えていると、
「憧れるんなら普通、頼朝じゃなくて義経でしょう!」
「そっちかい!」
八千慧は八千慧で妙なこだわりを持っているらしかった。まあ確かに単純な戦の強さも知名度も義経の方が圧倒的に上なのだが。
『もー、あいつら何を言ってるんだか……』
「まったくだ。悪源太義平の良さがわからないとは解せん」
『饕餮様も参加するんです!?』
そのまま不毛な三つ巴の争いが起こるかと思いきや、やはり三人とも戦意より虚無が勝つのか、諍いは長引かなかった。
「まあ、なんだ。悪かったよ、ろくに人の話も聞かずに暴走して」
意外にも早鬼はあっさり自分の非を認めた。いや、元より早鬼は単純なので結果はきちんと引き受けるたちであった。
それを聞いて、八千慧もいくばくか態度を和らげた。
「それは私の台詞。気が昂るままに後先考えず行動するのは……頭脳派組織の頭としてはまずかったわね」
「私もお前も残無様に敵わないという意味では互角というか、お互い様だったな」
相変わらず気だるい空気ではあったが、二人の表情は憑き物が落ちたように穏やかだった。
「じゃあ今回は停戦ということで」
「異議はなし」
「落ち着くとこに落ち着いたようで何よりだ」
そうと決まれば、饕餮はそのまま二人きりにしといてやろうなんて優しさを行使する気は一切ない。
得物を担ぎ、やる気をなくし気味のオオワシ霊たちを引っ立てて、饕餮は八千慧に詰め寄った。
「私との約束、忘れちゃいないだろうな? 鬼傑組組長、吉弔八千慧様」
「……ふん、馬鹿にするなよ。店はもう予約してある。さっさとあのチュパカジンを呼んできたらどう?」
「天火人な。その言葉、確かに聞いたぞ」
というわけで饕餮は旧血の池地獄にとんぼ返りしてちやりを呼び出し、八千慧に連れられて、念願の満漢全席にありついたのである。
「まったく、尤魔も意地が悪いよな」
前菜をあっという間に平らげた早鬼が不満を漏らす。
「さっさと誤解だって言ってくれればいいものを。複数の女をつまみ食いとは、さすが剛欲同盟長とか思っちゃったよ」
「言葉に気をつけろ、頸牙組組長。聞く耳持たなかったのはお前だろうが。いまから桜鍋パーティーに変更したっていいんだぜ?」
「おっと、ジンギスカンの材料が何か言ってるな。いや、やっぱり私の気分はラムステーキだ!」
「次の料理来るから座ってくれない?」
八千慧が軽く嗜めるや否や、すかさず大皿が運ばれてきたので、早鬼も饕餮も大人しく座り、饕餮は改めて滅多に口にできない珍味の数々に舌鼓を打つのだった。
なお、犬猿の仲で争っていた慧ノ子と美天は組長命令で一応の和睦をし、それぞれの組長の元に寄り添って、空いた皿を避けたり酒をお酌したり、動物霊たちと一緒に甲斐甲斐しく働いて回っている。
ちやりは根がインドアなせいか、賑やかな宴会の場に呼ばれて少し緊張気味ではあるが、純粋に運ばれてくる料理を楽しんでいるようだ。
そしてオオワシ霊たちはというと。
『饕餮様、お皿分けましょうか!』
『お前抜けがけするなよ、取り分けるのは私だ!』
『なら私はお酌を!』
『あっ、先割れスプーンがない! 店員呼んできましょうか?』
『おい、酒が切れてるぞ! さっさと追加注文しろー!』
「ええい、うるさい! お前ら、大人しく自分の皿だけつついてな!」
饕餮がぴしゃりと叱れば、オオワシ霊たちはたちまち大人しくなる。忠誠心が高いのは結構だが、食事はひとりで没頭したい饕餮からすれば何かと世話を焼きたがる部下たちは鬱陶しくてならない。その点、ちやりはといえば、饕餮には目もくれず初めて食べる料理の数々に魅了されている。自分奔放な仲間ほど気楽なものはない。
饕餮たち剛欲同盟の豪快な食べっぷりを目にした早鬼は呆気に取られて、
「……八千慧、マジで自腹切る気か? この先苦労するぞ」
「いいのよ、しばらくカワウソ霊たちの減給が決定しただけだから」
『きっ、吉弔様、そんな殺生な……』
まるでこれが最後の晩餐であるかのように泣く泣くフカヒレを頬張るカワウソ霊である。この中から果たして何人のユダが出ることやら。なんだかんだ言ってカワウソ霊はみんな八千慧を慕っているので、ひとりも出ないだろうと饕餮は思った。
何せ、元はスパイだった美天ですら鬼傑組残留を決めるレベルだ。それが八千慧のカリスマゆえなのか、『この人ちょっと頼りないから私たちで支えないと』という義務感からくるものなのかは判断に困るところだが。
ところで早鬼は勝手に自分も奢ってもらえるものだと勘違いしているようだが、八千慧はあくまで『剛欲同盟の支払いを鬼傑組が持つ』と約束したのであり、頸牙組の食べたぶんはすべて早鬼の自腹である。あとでオオカミ霊が泣きそうだ。
早鬼と八千慧はちょうど向かい合うような位置の席に座っている。八千慧の食べ方はこの中で一番大人しい。饕餮は暴食だが作法は必ずしも野卑ではなく、ただ凄まじいスピードで凄まじい量を平らげてゆくので『吸い込まれるように皿から料理が消えていく』という表現が最も似つかわしい。そして早鬼は筋肉馬鹿らしくワイルドにがっつくかと思いきや、意外にも下品さはない。
「なんだ? お前の皿はちゃんと目の前にあるだろ」
「いや。早鬼って案外食べ方は大人しいっていうか、上品だよね」
「これでも昔の私は高貴な人に仕えた身だからね。太子様の評判を落とす真似はできない」
早鬼の何気ない言葉で八千慧の空気がピリついたのが饕餮にはわかった。さすがに宴席をぶち壊すほど八千慧は無粋ではなかったが。
(早鬼も無神経なとこは治らないよなー、わざわざ八千慧の前で他の女の名前を出すなっての。いや、そんなことでいちいち機嫌を損ねる八千慧が面倒くさいだけか)
ひとまず白酒を呑みながら静観していると、最初こそ平静を装って食事を続けていた八千慧だったが、やがてヤケになったのか一気に黄酒を煽った(畜生の、それも霊体だからこそできる所業である)。
「どうせ私は貴人との縁もなければ、残無にも敵わないし、策略だってうまくいかないときもあるよっ」
悪酔いでもしてるのか、八千慧にしては珍しい卑屈さだと饕餮は思った。八千慧はインテリを気取るわりには少々詰めが甘く、馬鹿元気が空回りする節は見られるものの、自分の実力には相応の自信を持っており、決して自己卑下をする性格ではなかったはずだ。
八千慧はサルの脳みそを食い千切り(よくその名前の食べ物を美天の隣で食えるものだ、と饕餮は心の中で思った)、席を立って早鬼に詰め寄った。
「それでも搦手だけは畜生界の誰にも負けはしない。早鬼。どんな手段を使ってでも、お前の心は必ず奪い返してやる」
「……へーえ」
何やら剣呑な、あるいは情熱的な宣戦布告を受けて、早鬼は一旦熊の手にかじりつこうとしたのを止めて、にやりと微笑んだ。
「お前は相変わらず、私には思いつかない愉快なことを考えるな」
「何が?」
「すでにお前に奪われてるものを、どうやって奪い返すつもりなんだよ」
その一言でまた八千慧の空気が変わった。
気を利かせた美天と慧ノ子がオオカミ霊とカワウソ霊とともに席を移動する。メインディッシュが一通り出尽くしたのか、タイミングよくデザートが運ばれてきた。桃饅頭の甘ったるい香りが大きなテーブルに充満した。
「あーはいはい、どーもごちそーさんでした!」
桃饅頭にかぶりつきながら饕餮は吐き捨てた。
どうせ放っておけばこうなるとわかっていたのに、手を貸してしまったのはタダ飯の魅力ゆえだ。この二人は些細なことですぐに喧嘩をしてそのたびにどちらかが「聞いてくれ!」と饕餮の元に駆け込んでくる。故意なのか、タイミングを見計らっているのか、二人が同時に来ることはなぜかないが。
惚れた腫れたのはしかじみた乱痴気騒ぎに渦巻く欲望もまた好物であるが、他所から高みの見物を決め込んで貪るのがいいのであって、自分が渦中に巻き込まれるなどもってのほかだ。
饕餮は色気より食い気を地で行き色恋沙汰を「くだらねーめんどくせーあほくせー」とあしらう、孤独を愛する群れない羊である。そもそも畜生界のイデオロギーにどっぷり浸かりきっているのに、今更ロマンティックラブイデオロギーなどにかぶれるわけがない。なんなら今回の件でさしもの饕餮も食あたり気味であり、おひとり様主義に拍車がかかったきらいもある。
しかし、あの妄執ストーカー、もとい日狭美は八千慧への付き纏いこそやめたものの、饕餮への妙な勘違いからくる同情はやめてくれたのだろうか。旧血の池地獄にまで押しかけられたら面倒だ。
(なんか適当な虫除けでも用意しとくか)
世の中、恋愛ばかりがすべてでもなし、至高でもなし、誰かと番うのは煩わしいが、地獄のストーカーに付き纏われるのとどちらがマシかと聞かれれば目クソ鼻クソ。
とりあえず手頃なところで妥協するかと周りを見やる。オオワシ霊たちは不満があればデモもストもきっちり起こすし、決して組織の長を盲信してはいないが、全員揃って饕餮を慕っているので、誰かひとりを特別扱いすると揉め事の種になって面倒である。
ふと、隣の席にいるチュパカブラ……もとい天火人を見る。ちやりは出された料理すべてに手をつけたものの、結局は慣れた味に近いものが一番気に入ったのか、先ほどからずっとスッポンの生き血ばかりを啜り続けている。
八千慧は『似た者同士』と評したが、確かにちやりの自由気ままでのらくらした性格は饕餮と波長が合う。ちやりは残無に怨念ゆえに惹かれているものの、流石にあの人鬼とヨモツシコメの厄介さは身に染みていることだろう。ちやりを囲ったところで目をつけられる心配もないわけだ。
「おーい、ちやり」
「へい、なんすか」
「お前は今日から私の女な」
「へ……はあっ!?」
口をあんぐり開けるちやりをよそに、饕餮は杏仁豆腐のおかわりを追加で頼んだ。
これだけキャラをたくさん出しておいてやっていることが痴話喧嘩なのが妙に平和でとてもよかったです
ドタバタが勢いだけで消化されておらず、ちゃんと筋が通った話になっていたのが良かったです