Coolier - 新生・東方創想話

あの暗い地の底に貴方にも言えない秘密を置いてきたの

2023/08/25 21:27:05
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※この作品は獣王園のネタバレを含みます



「星。貴方って妖獣なの?」
 藍の唐突な問いかけに、最近はさしたる仏事もなく比較的のんびりしている星は首をかしげる。藍は仕事が終わって暇だったので、例によって命蓮寺に転がり込んで茶と茶菓子をご馳走様になっていたのだった。
「貴方が妖獣だと思うんだったら、そう見てくれてもいいけど?」
「そんな雑な認識やカテゴライズの話じゃなくてさあ。貴方自身は自分をどう思っているのよ?」
「もちろん妖怪よ。だけど虎の妖怪だからか、妖獣と捉える人もいるわね。前に鴉天狗に『妖獣の成り上がり』ってあだ名をつけられたの」
「……貴方っていつも『虎でござい』って顔をしてるけど、見れば見るほどそこまで虎っぽくないような……」
「ちょっと、やめて」
 まじまじ見過ぎたのか、藍は手のひらで押し除けられた。星はよく観察すれば、髪の毛だとか瞳だとか、そこかしこに虎らしき面影はあるものの、いつも毘沙門天を真似た格好をしているせいで〝虎〟より〝仏像〟というイメージが先にくるのである。
 せめて彼女の部下のように耳や尻尾があればわかりやすいのだが。前に『なんで生やさないの?』と聞いたら『生やそうと思って生えるものでもないでしょ』と返された。そういうものだろうか。藍には生まれつき耳と尻尾がちゃんとあったのでよくわからない。
「急にどうしたの。今までそんなこと聞かなかったじゃない」
「だってほら、最近あった動物霊や妖獣達の騒ぎが……」
「ああ、そういえばナズーリンもなんか動いてたっぽいわ。マミゾウさんと組んで。いつまで経っても掃除から戻ってこないと思ったら」
「動いてたっぽいわ、ってねえ」
 まるで他人事みたいな物言いに藍は脱力する。彼女が俗世と距離を置く僧侶だからなのか、それとも藍が敬愛する紫に似た放任主義なのか、ナズーリンは寺住まいのわりにはかなり自由に動き回っているらしかった。
 ――それとも、やはり星が〝妖獣〟ではないから、今回の騒動に対する興味が薄いのだろうか?
 藍なんて『なんだか霊達が騒がしいみたいよ』と紫に言われて気が進まないながらも調査に出かけて、成り行きで旧地獄やその果てまで行く羽目になってしまって、望んでもない(と、思っているのは本人だけだ)仕事が増えてゆくばかりだったというのに。
「私、一応そのナズーリンと闘ったんだけど?」
「え? うちのナズーリンが何か粗相でもしたかしら」
「いや、なんか怪しいなって思っちゃったから念のため……」
「ちょっと、人の部下を勝手に不審者扱いしないでちょうだい」
「それはごめん」
 星は星なりに部下を大事にはしているのだろうが、良くも悪くもベタベタしない。過保護になりがちな藍とは対照的だ。
「そういえば、貴方は自分の式神を調査によこしたりはしないの?」
「あれはまだ未熟で頼りないから……それに私自身が紫様の使いだからね。橙だけを走らせたって意味がないのよ」
「もうちょっと経験を積ませてあげた方がためになると思うけど。それとも貴方は放任主義だったっけ?」
「どちらかといえばそのつもり。でも最近自由にさせすぎたのかなあ、橙ったら化け猫仲間の影響で死体に興味を持つようになっちゃって……」
「あら、そんなこと。うちのナズーリンなんて千年前から死体に興味津々だったわよ」
「貴方は部下にどんな指導をしてるの」
「一応、お寺に住まう身なのだから軽薄な言動は慎みなさいと言い聞かせてはいるのだけどね。他でもないかつての私が人喰い虎だったのだから、説得力がないのかもしれないわ」
 星はあっけらかんと笑うが、藍は耳をぴくりと動かす。
 その昔、人間達を恐怖に陥れた人喰い虎は聖の手解き――調伏と呼ぶべきか? により更生し、毘沙門天の代理にまで登り詰めたとは、すでに聞き及んでいる。今の星に猛虎の面影はない。
(思えば私も、昔は人の肉を喰っていたのだっけ)
 一方的に星の過去を把握しておいてなんだが、今はすでに紫の式神として落ち着いている藍は、自分の過去はあまり思い出したくない。別に隠すべき恥ずべきことだとも思っていないが、仏教を厚く信仰する彼女に、畜生界に一時期身を置いていた頃に何をしていたのか、知られたくなかった。
 難しい顔をする藍を何と思ったのか、星は「話を戻しましょうか」と苦笑して、
「私が妖獣かどうか知りたいんだっけ? まあ、少なくとも、私は藍みたいに長生きした動物の変化でないのは確かよ。昔は……っていうか、今も外の世界に野生の虎はいないからね。私は未知に対する漠然とした人間の恐怖心の集まりから生まれたようなものだから」
「うん。概念の実体化みたいなものね」
 妖怪にはそういった普通ではない誕生をする者は珍しくない。紫だってどこでどう生まれたんだかとんと見当がつかない、その来歴は神秘のベールに包まれているのである。
(紫様なら、そういった神秘も武器になるんだろうけど……)
 藍の星に対する疑念は晴れない。星ははっきり〝妖怪〟だと言い切るし、生い立ちからしてそうだと見做していいだろう。妖獣に比べて肉体に重きを置かないところも、いかにも妖怪の性質らしい。精神に重きを置けば、存在の定義はその妖怪の持つ力次第では非常に危ういものになるが、現在の星にその心配はなさそうである。
 ただ、自らの定義が他者の認識に依存するなら、星は本当に〝妖獣〟だとも言い切ってしまえるわけだ。
 普段の藍はなんでも白黒つけたがる性格でもないのに、捉えどころのない、はっきりしない問題が、藍を落ち着かなくさせる。それは式神として、狂いのない正確な答えを弾き出す性質からくるのだろうか。
 目の前の少女は妖獣か、妖怪か。拠り所は肉体か、精神か。仏教に帰依するので精神寄りに見える一方で、星はたまに獣らしい一面も覗かせる。大人しそうに見えるのは爪を隠しているだけなのか、本当に爪など持っていないからなのか。
「藍? どうしたの?」
「妖怪と妖獣。その境界線は、どこにあると思う?」
「妖の隣に怪獣を置いてみたらはっきりするかしらね」
「そんな頓知を聞きにきたんじゃないんだよ」
「だって、あんまり出し抜けなんだもの。貴方がそんなに境界とやらを気にするのは、紫さんの影響?」
「そっちが仏教徒なのは聖の影響じゃないの」
「それはそうだけど」
 星は難しい顔で湯呑みを回す。それは藍の投げかける定義の答えに迷っているというより、湯呑みの底に残った茶葉のかすをうまいこと冷めた湯に溶かしてできるだけ渋みを薄めよう、という動きに見えるのだった。
「そうね。例えば『諸行無常、是生滅法』の続きを知りたいと思って、私も貴方もノータイムで羅刹に身を投げたとするじゃない」
「えらく思い切りのいい雪山童子に擬せられたなあ。羅刹って毘沙門天の眷属なんだから、間違っても貴方は食べられないんじゃない?」
「じゃあもっと簡素に鬼でいいわ、鬼――実際は帝釈天様なんだけど。そいつに血肉を持つ身を投げたら、肉体依存の貴方は教えを得られる。私は得られない。それが、貴方と私の違いなのよ」
 藍は星の抽象的な話を、茶菓子のせんべいと一緒にじっくり噛み砕く。
 藍は身を捨ててまで続きの句を知りたいとも思わないのだが、雪山童子の逸話に限らず、仏教には『肉体への執着を捨てなさい』といった趣旨の話が少なくない。それは仏教を作った人間が肉体に依存する動物だからであり、いわば人間の人間による人間のための教えである。
 ならば精神に依存しない傾向の妖獣は比較的人間に近く、妖怪は人間から遠い。肉体への執着が薄ければ捨てるものも捨てられないだろう。
 そう考えると、妖怪に対して仏教を広めようとする命蓮寺の姿勢は無理があるのでは? と藍は思わなくもないのだが、あえて口には出さない。星の前で迂闊に仏教の話を振ると、ありがたくも長々しいお説教が始まるので、仏教トークはほどほどで切り上げると決めているのだった。
 せんべいを飲み下して「たとえ私がそれで涅槃に至れるにしたってさ」と続けた。
「そこまでするには、まず紫様にお伺いを立てなくちゃいけないわ」
「思い切りの悪いこと。貴方にとって重要なのは悟りより〝ゆかり〟なのね」
「仏との〝ゆかり〟は僧侶の貴方が取り持ってくれるくらいでいいよ」
 そもそも藍の信心は趣味道楽に近い。あわよくば各宗教のいいとこ取りだけしたい、というのが神にも仏にも縁のある賢しい化け狐の考えである。
「まあ、だから、私のことは妖怪でも妖獣でも、貴方の見たいように見ればいいわ。うちのぬえだって見方によっては妖獣だもの」
「……あのね、自分の存在意義の見解を他人に丸投げするのは危なくない? 私だって、こう見えても九尾の妖狐として、ちゃんと紫様以外に拠り所を持っているんだよ」
「あら、誰が他人に存在意義を委ねるなんて言ったの?」
 いたずらっぽく笑う星を見て、藍は考える。星の拠り所は聖じゃないのか。いや、聖がいなくなっても千年生きたのだから、そうでもないのか。
 ならば仏教だろうか。しかしその教えは藍には妖怪向きとは思えない……。
(あ、そうか)
 藍ははたと気がつく。
 先ほど、藍が仏教トークを打ち切るために飲み込んだセリフはもう一つある。『身を捨てても教えを得られないなら、精神依存の貴方はどうやって悟りの境地にたどり着くの?』
 宗教の本分は心の平穏、精神の安定である。肉体への執着云々に囚われないぶん、妖怪は精神の琢磨のみに時間を割けるというわけだ。
 肉体への執着が薄いと示した時点で、星の中の定義は定まっているのだ。己の中にこれといった正解があるなら、私は私だ、と、他人にどう思われたって平気なのだろう。
「藍。心配しなくたって、精神依存の妖怪にも仏の教えは届くものよ。少なくとも私はそうだった。今では人の肉になんか興味もないもの」
「なら、今の貴方は人間の死体を前に何を思うの?」
「そりゃあもちろん、僧侶として慈悲の心を持ちます」
「じゃあ僧侶になる前の貴方だったら?」
「死体かあ、可食部が少なくて残念だなあってとこかしら」
「いくらなんでも正直すぎない?」
「だって僧侶は嘘をついちゃいけないのよ」
 藍が興味本意で薮をつつくと蟒蛇なんか目じゃない大虎が飛び出してくる。戒律を保とうとする心がけは立派だが、そのぶっちゃけは仏教倫理的にどうかと思う。
 嘘をつかないのと言わなくていいことまでしゃべるのは別だよなあと思いながら、藍は星が死体とそうでない人間の肉の味の違いを知っているらしいのが気になった。
「橙の教育の参考までに聞くけど、死体と生身の可食部の違いって何?」
「もちろん心の有無よ。恐怖心を持った生身の人間の肉が一番美味かったの。魂の抜けた死体は感情が抜け落ちてるから味も落ちるのよ」
「聞かなきゃよかった……ああでもお燐も似たようなことを言ってたかな……」
「仮にも妖獣の貴方がそれを知らないなんて。それとも貴方は意外と草食系?」
「バリバリに肉食系よ。だけど私はそこまでグルメじゃないの。死んでようが生きてようが、腹が膨れればなんだっていいじゃない」
「そこもきっと私と貴方の違いなんだわ」
 その通りだろうと藍は思う。こうして短い時間で会話をするだけでも、妖獣と妖怪の、もとい藍と星の違いはどんどん明らかになってくる。
 思えば藍は地底から聖白蓮とその仲間達が復活し、命蓮寺という珍妙な寺ができたのを見て、
(新しい宗教勢力かあ。紫様はあんまり興味がないみたいだけど、一応探っとこうかな)
と、持ち前の進んで自らを忙しくしたがる性格のせいで命蓮寺をひそかに訪ねるようになり、その縁で虎妖怪の星と出会い、気がつけば尊敬する主人やら手のかかる部下やらの話題ですっかり意気投合していたのだった。
 ゆえに今までの藍にとっての星は『馬の合う相手』であったのだが、何度も会って会話を重ねるにつれて、思ったほど自分達は似ていないと気づいた。当たり前だが、他人なのだからまったく違う相手である。
 幻想郷全土を能動的に動き回るか本拠地で静かに勤行に励むか、行動の傾向が違う。物事の捉え方が違う。仏教に、というより宗教に対する姿勢が違う。それこそ二人の間に妖怪であるか、妖獣であるかの境界線が横たわるように。
 では藍は星が妖獣であってほしいのか? と考えてみる。
 改めて目の前の少女を見る。猫のようなくせっ毛。実は虎も猫同様にマタタビに弱い。年齢やそれに伴う精神面での成熟という大きな差はあるけれど、彼女はどことなく藍が溺愛する橙と重なる。虎も〝ネコ科〟の動物だからかもしれない。
「別に何もかも同じじゃなくても、手を取り合う方法なんていくらでもあるわ。ねえ。そんなに私が妖獣であってほしかったの?」
「……いいや」
 たぶん星も度重なる藍の問いかけを不審に思ってきたのであろう、その質問に藍はゆるやかに首を振る。
「私は何となく、貴方に妖獣として仲間意識を抱きたかったのかもしれない。それは否定しないよ」
 一般的に、妖獣は同朋意識が強い。同族の狐に対しては近すぎるがゆえの敵対心を持つこともあるが(どこぞの管狐がいい例だ)、橙を可愛がるのも彼女が妖獣だからという面があった。
「でもね、今は貴方が妖怪だという立場で安心しているのよ。もし、貴方が動物の肉体を媒介せず、けれど霊体でもない生身を持つ妖怪なら、貴方は死んでも畜生界には堕ちないだろうから」
 藍は数多の畜生が、動物霊が、獣達がひしめき合う畜生界の実態をよく知っている。かつてはあの饐えたにおいに満ちた場所が藍にとって心地よかったこと、次第に強い者だけが力づくで奪い合い支配し合う野蛮で闘争的なイデオロギーに嫌気がさして、自ら去ってしまったこと。
 けれど目の前の彼女は。僧侶という生業である以上、畜生界のことは書物の知識だけでもよく知っているであろうし、生涯無縁でいるのは難しいかもしれないが、弱きを助け争いを嫌う聖白蓮の理想に共感する彼女は、あの陰惨で血生臭い世界を、知らずに済むかもしれない。
 そんな藍の少しばかり独りよがりな願望をどう受け取ったのか、星は困ったように笑って、
「別に畜生道は動物の堕ちる地獄ってわけじゃないのよ」
「わかってるけど……あれっていわば、野蛮で外道な獣道みたいなものだと思うから。貴方は何も見ない方がいいよ」
「辿り着けばきっと見せてあげるわ、とは言わないのね」
「それはけもの道」
 だから星には辿り着かないでほしいのに、と頭を抱える藍を見て、星は目元を緩める。
「貴方は優しいのね」
「優しいのかな」
「世の中には憎い相手はおろか、愛しい相手にまで堕ちるところまで堕ちてほしいって、仄暗い欲望を抱えている人もいるのよ」
「あー……そういう手前勝手な気持ちは私にはないね」
 藍の脳裏に瞬時に浮かんだのは、やはり敬愛する主人の紫である。
 藍は自分が九尾という高等な生き物である自覚があるが、紫は藍ごときなど足元にも及ばない、もっと気高く優美で、幻想郷に対する愛情が人一倍深くて、桁外れの頭脳を持っていて、けれど一皮剥けばただの困ったちゃんで、魅惑的な謎に満ち溢れた、藍には到底解析不可能な大妖怪だ。
 藍が自ら高嶺の花と定義してしまっているせいかもしれないが、紫の言葉は単純なわりには難解で、桁外れな思考回路がまったく読めなくて、けれど紫にレベルの低い次元に落ちてほしいとは望まないのである。
 今回も藍は徒労を重ねて畜生界くんだりまで調査に行ってきたのに、やっぱり紫からは『ちょっと何言ってるかわからないですね』としか言いようのない返答しかもらえなかったが、藍に向かって噛んで含めるような易しい物言いをする紫はもっと想像しづらい。
「私には紫様が少しも理解できないけど、かといって紫様に私と同じ目線まで降りて来て話をしてほしいとはちっとも思わないんだ」
「それはいい心がけだと思うわ」
「むしろ私ごときに紫様が理解できてしまうのだったら、いっそ私にとっての永遠の謎でいてほしい」
「ごめん。やっぱり前言撤回。貴方は優しいんじゃなくて理想が高いタイプね、別ベクトルで身勝手よ」
「何さ、貴方だって聖白蓮に高嶺の花でいてくれって思わないの?」
「それは……」
 星は今日初めて本気で困った顔をした。そもそも蓮の花は湿地に咲くのであって高嶺に咲かないだろうとは考える余裕もないらしい。難しげに眉をひそめて、唸り声まで漏らして、かなり長い逡巡の末に、
「……そう願わないように心がけているわ」
と、やっと絞り出したのである。藍はなんだか悪いことをした気分になった。
「あのさ、私の前では嘘をついてもいいよ? 別にどっかの下賤な狐みたく告げ口なんかしないし」
「心がけの問題なのよ、言霊っていうでしょう。仮初にでも口に出したら本当になりそうで……ああ、違うわ、聖はきっと私達に聖女のように崇められるのを望んでいない。かといって私は聖に穢れてほしいわけでもないの」
 星は頭を抱えて煩悶している。藍の能天気な部分は、星にそれほど大事に思える相手がいることを微笑ましく感じるのだった。
「ただ、真っ白な新雪の中に、私の足跡を一つ残しておきたいような、そんな気持ちなのよ」
「足跡一つね」
 そのつぶやきは獣の呻きに似ていた。積もりたての雪の中に獣の肉球がスタンプされているのを想像したら頬が緩んだが、星が聖を新雪と例えたのは、一見美しく見えるだけの純白の雪原の下に、癒えない傷跡があると知っているからだ。
 決して敬愛する人の傷跡になりたくない。古傷をえぐる真似もしたくない。だけど、せめて自分の存在が何がしかの足跡を残すものであってほしい――そんな複雑な煩悶が見てとれた。
「貴方も優しくて身勝手な人だね」
「ああもう、やめましょうよこんな話。貴方と理想を語り合うのは難しいわ」
「私が理想を語り合える相手だって? 狐をあんまり信用しちゃ駄目よ、私は貴方と違って嘘をつくことにそこまで罪悪感がないから」
「だけど、私を心配してくれる気持ちが本当だってことはわかっているわ」
 藍は目を瞬く。虎の威を借る狐を持ち出すまでもなく、虎にとって狐はもっとも信用ならない獣だろうに。
 呆気に取られる藍を見て話題転換の好機と思ったのか、星はくすくす笑って、
「でもね、気持ちはありがたいけど、僧侶に対しては畜生道よりまず天狗道に堕ちないかどうかを心配してほしいものね」
「天狗って、別に、あいつらは厄介な妖怪だけど、そんな大したものでもないでしょう?」
「妖狐からはそう見えても、僧侶からはそう見えないのよ」
「そうかな……」
 星は毅然と言い張るが、藍は釈然としない。昔の日本で天狗が『アマツキツネ』、すなわち天を駆ける狐だと捉えられていた縁もあって、藍はそこまで天狗を悪く思っていないのだが、平安生まれの星は仏敵としての印象が強いのかもしれない。実際に鴉天狗は命蓮寺にちょっかいを出しているらしいので、余計に警戒心を抱くのだろう。
 日本における天狗の歴史の始まりは仏教の歴史の始まりと同時だともいうが、末法に入る頃には『名高き高僧こそが真っ先に天狗道に堕ちる』と当時の僧侶の堕落ぶりを痛烈に揶揄されていたものだ。
(でも、堕落した破戒僧の成れの果てが必ずしも天狗のみとは思えない。外道に堕ちるっていうのは……)
 それこそ、人の道理に外れた存在を畏れ敬い忌み嫌い〝鬼〟と称していたように。
 とはいえ大真面目に天狗道に堕ちるのを不安に思っているらしい星に向かって、他にもこんな恐ろしい道がと脅かすつもりはない。
「天狗にせよ、畜生界にせよ、真っ当な僧侶が目指す場所ではないわね。貴方はすべての罪を精算して浄土に行くべきなんだ。……堕ちてきちゃ駄目だよ」
「堕ちないわ。そのために私は日々精進を重ねているの」
「お寺に籠って修行を積むのはいいことだけどね。貴方は興味ないかもしれないけど、今回、畜生界の獣が便乗して動いていたのも事実なんだ。もう少しお寺の外側の動向にアンテナを張った方がいいよ」
「あら、私にお説教?」
「釈迦に説法でも言わせてもらうよ。いい? どんなに弱々しく見えても畜生界の獣に手を出しちゃ駄目だ。特に、無害な子羊を装った輩にはくれぐれも気をつけてね」
「それって饕餮でしょ? 藍、饕餮を知ってるの」
「知らない。何も知らない」
「あ、嘘だ」
「知らないったら! 紫様の式神として忙しくしている私が何を知っているっていうんだ」
 忠告のつもりで墓穴を掘ってしまったようだ。藍はもちろん饕餮を知っている。饕餮だけでなく、吉弔も、驪駒も、畜生界にいる獣達はだいたい顔見知りだ。
 命蓮寺の妖怪達は長年地底に封印されていた者が多いのもあって、元より地上の他の妖怪に比べると地底世界についてはかなり詳しい方だ。中には旧血の池地獄を始めとした旧地獄の騒動を知っている者もいるだろう。
 以前の石油騒動で動いていたのは舟幽霊だったか。星はすでに舟幽霊を通して饕餮という妖怪について何か知っているかもしれない。その縁を辿った先に、藍がいることに気づいてしまうかもしれない。
「好奇心はネコ科を殺すよ? 饕餮なんかのことを知ってどうするの」
「饕餮は羊の身体に虎の牙で財宝をも貪る妖怪。元は大陸の神獣よね。私のルーツだってある意味大陸だと言えなくもないし、ちょっと気になるのよ」
「それだけわかっているなら充分だ。私は貴方ほど詳しくもなければ知りたくもないから、話せることなんか何もないよ」
 藍は饕餮の草食動物らしからぬ獰猛な牙を思い出した。星はお世辞にも強い妖怪ではない。おそらく饕餮の性格からして僧侶かつ毘沙門天の化身である星に興味を示すことはないだろうが、用心には用心を――藍はもはや己の過去が知られることより、饕餮が星に危害を加えることを危ぶんでいるようだった。あの見境のない暴食の獣が、間違っても穏やかな虎を喰ってしまわないように。
 藍は、ほんの少しの好奇心が垣間見える――やっぱりその目は橙に少し似ている――星の目から視線を逸らして、わざとそっけなく言い放つ。
「いい? 私は妖狐だから嘘をつくし貴方を騙すよ。貴方に対して必ずしも誠実な付き合いができるとは保証できないよ。〝それ〟が貴方と私の違いだ」
「そういうことをありのまま喋っちゃうところは、ある意味誠実だと言えなくもないわ」
 優しく微笑みながらそう言われてしまうと、藍はなんだかいたたまれない。星は自分より年下ではないかと藍は踏んでいるのだか、僧侶なだけあって性格や立ち振る舞いはいつも落ち着きがありおっとりしている。「いや、ああ見えて修行はスパルタだよ」とはナズーリンの弁だ。
「私の役目はあくまでお寺を守ることと、信仰を集めること。お寺の外の調べものは他のみんながやってくれるわ。……安心して、貴方がそうまで知られたくないと思うことを、私は自ら暴いたりしない」
「……」
「だからそんなに突き放すような言い方をしないで」
「仕方ないじゃない。貴方と私は違う存在なんだから」
「違うって素敵なことよ。貴方は私にないものを持っていて、私は貴方にないものを持っている。そういう違う者同士が手を取り合って生きていくのが聖の……いいえ、私の理想でもあるの」
 星は嘘をつかない、というより、嘘が苦手な性格ではあるのだろう。だからといって即座に信用するのも早計だろうが、少なくとも星は藍の私的な領域に土足で踏み入ったりはしない。それだけは信じられる。
 そして聖の理想は、部分的には紫の理想と重ならないわけでもない。――だからだろうか、最初こそ調査目的だったのに、あっさり命蓮寺に対する警戒を解いてしまったのは。
「……本当に、知らないよ。嘘つきに騙されて、私に威を借られたと気づいた時には遅いんだ」
「嘘つきだと詰ってほしいみたいな言い方ね」
「お坊さんならそう戒めるべきでしょう」
「〝嘘を吐くべからず〟ってわざわざ戒律にあるのは、生き物はなべて嘘つきだからよ。人も獣も嘘をつく。なら、嘘をどう咎めるか、封じるかより、その嘘にどうやって向き合うかを考える方が建設的じゃない?」
 そういうものか、と藍は目を瞬く。
 彼女だって無条件に嘘を許すわけではないだろう。それでも自分は嘘つきだと白状する藍を、星は大目に見て付き合ってくれるのだ。
 藍は残った茶を飲み干す。だいぶぬるくなったはずなのに、腹の底はぽかぽかと温かい。この心地良い気分のまま命蓮寺を発とうと思って、藍は立ち上がった。
「そろそろお暇するね」
「もう帰るの?」
「私が確かめたかったことは確認できたから」
 門前まで見送りについてくる星を振り返って、藍は再び念を押した。
「修行がんばって。どこにも堕ちないでね」
「そんなに心配? 大丈夫よ、今も存分にがんばってるから」
「それから、私も貴方の嘘はいつでも許すつもりでいるから、覚えておいて」
 呆気に取られる星を残して発とうとした瞬間、後ろから星に尻尾をつかまれた。
「星?」
「あっ、ごめんなさい! 勝手に触って」
「いや、いいんだけど」
 橙ならともかく、星がこんな行動を取る試しがなかったので少し驚いた。何か言い残したことがあるのかと思いきや、星は藍の尾がすり抜けた両手を所在なさげに見つめて、あれこれ弁明を考えているような素振りを見せたのちに、
「私も尻尾や耳があった方がいいかしら」
 ぽつんとそう言った。あからさまな方便だとわかった上で、藍は微笑んで、
「いいんじゃない? 貴方は今のままで充分可愛いから」
 絶句した星をおいて、藍は今度こそ命蓮寺を後にした。
 藍が星に確かめたかったことは、あらかたはっきりした。
 彼女の自認は妖怪である。嘘が苦手である。畜生道より天狗道を恐れている。地底については、命蓮寺の他の妖怪に比べたらあまり知らなさそうに見えた。
 けれど、藍には気がかりがある。あれこれ質問責めにしたわりには、本当に聞きたかったことは、結局聞けずじまいだった。
 好奇心は猫を殺すとは、可愛い可愛い我が式神のおかげでよく知っている。
 幸いにも星は橙ほどの好奇心はない。世捨て人よろしく、寺の外側で起きる事件にはあまり関心を持たず、ただ自分の仕事と勤行に専念しているようにも見える。しかし星が動かなくとも、トレジャーハンターを自称する彼女の部下・ナズーリンが宝のにおいを嗅ぎ回るうちにひょっと辿り着くかもしれない。あるいは寺の意思に関係なく動く命蓮寺のジョーカー・マミゾウが子分を駆使して調べ尽くすかもしれない。
 いいや、そもそも星は寺の外側に興味がなくとも、逆に寺の内側の、仲間の事情には敏感なはずだ。地底にいた仲間達から「あそこはひどい場所よ」と愚痴混じりに詳細を聞かされているかもしれない。
 命蓮寺そのものに幻想郷への害意はなくとも、そこに住まう妖怪達は藍にとって厄介なやつらばかりではないか。
(あーあ。私ってとどのつまり、ネコ科の動物に滅法弱いんだわー)
 藍はため息をついた。それでも星との交流を断とうとは思わないあたり、藍はいつのまにかずいぶん星を気に入ってしまったというか。彼女を可愛いと思うけれど、橙を猫可愛がりする気持ちとは少し違う。橙の命運は今も藍の頭脳と指揮にかかっているわけだが、星にそんな世話を焼く必要はない。星を支えているのは仏の教えと毘沙門天の法力と聖の理想――まさしく仏法僧に依って自立しているのだ。
 これも因果ってやつかなあ、と普段はあまり口にしない仏教用語を思い浮かべながら、藍はぼんやり考える。
 命蓮寺の妖怪達は、今も地底を恐れ嫌っている。当たり前だ、地底は地上で忌み嫌われた妖怪の住まう場所で、地獄を始めとした死者の世界は亡者を責め立てる場所だ。饕餮を始めとした変な妖怪でもなければ、普通、好んで住み着こうとは思わない。
 もし、三宝を敬い毘沙門天に帰依する星に、藍があの野蛮なイデオロギーにいっときでもかぶれていたと知られたら。
 失望はされないだろう。けれど結局、藍は自分が好意を持った相手に――それこそ紫を崇拝するように、橙を溺愛するように、美しいと思った相手にいつまでも美しいままでいてほしい、身勝手な欲望を抱いているのだ。
 
 どうか、貴方は何も知らないままでいて。
 ――けれど、貴方は本当に、あの暗い地の底のことを何も知らないの?

 胸に去来する猜疑心を、藍は強いて振り払う。
 妖狐は嘘つきだ。騙し化かしてこその妖獣だ。だけど、『貴方の嘘を許す』といったあの言葉だけは、嘘にしたくなかった。自分の過去を知られるのも嫌だけれど、嘘の苦手な彼女を困らせるのはもっと嫌だった。
 藍は今一度星のいる命蓮寺を振り返ろうとして、やめた。畜生の理から解き放たれた獣には、理性と知性を。そのまま迷わず主人の待つ邸へ真っ直ぐに飛んだ。



「諸行無常。是生滅法。生滅滅已。寂滅為楽」
 雪山童子が羅刹から――厳密には帝釈天から得た四句偈を、星は一人静かに唱える。
「畜生界の獣は肉体を持たない霊体だから、地上での活動を困難とすると聞く。でも、藍は……どう見たって生身の肉体を持った妖獣だわ」
 生きるものは死ぬ、それがこの世の理である。しかし死者の蘇生譚は仏教説話でも枚挙に暇がない。
「紫さんが生死の境界を操って蘇生させる……いいえ、あの人はそんなことはしないでしょう。藍は何がしかの方法で、自力で畜生界から解脱、いえ、抜け出したのね。堕ちる時はどうやって? あそこは生きた獣もいる場所なのかしら。だったら、生きた私は……」
 畜生界にはまだ星の知らない秘密が隠されているようだ。
旧血の池地獄に潜む饕餮が気になるのも本当だ。聖が先の石油騒動で饕餮という謎めいた妖怪のことをいたく気にしていたため、何か情報が引き出せるなら星も進んで藍に探りを入れただろう。
 ただ、星自身は、藍の方が気になる。それも仏教徒としての関心というより、個人的な興味だ。それでつい、藍の帰り際に尻尾を触ってしまった。温かくてふさふさしていた。生身の獣の体温だった。まあ、苦し紛れの言い訳をしたら、藍は藍で冗談めかした返答をよこしてきたわけだが。
「あんな言葉一つで機嫌が取れると思っているなら、馬鹿にしているわ。私も大概だけど誤魔化し方が下手くそすぎるのよ」
 などと言いながら、嘘でも別にいいか、と頬が緩みそうになるのを引き締めて、藍はどこまで星の隠しごとに気づいているのだろうか、思いを馳せる。
 星が八雲藍という妖獣を知りたいと思う時、必然的に畜生界のことを知らなければならなくなる。
 けれど、藍は星が畜生界について知るのを恐れている。
「ナズーリンだって地底にいたのよ。ムラサも、一輪も、雲山も。それで私一人だけ何も知らないままでいられると、本当に思う?」
 星は嘘をつくのが苦手であり、自分に正直であるよう心がけているが、かといってすべてを洗いざらい白状するわけでもないし、言ってはならないこと、言うべきでないことの区別を自分なりにつけている。沈黙はどんな雄弁にも優る〝嘘〟だ。恩人である聖を見捨てたあの時から星はずっと嘘つきだ。
 藍が何も聞かないのなら星は何も言わずに素知らぬ顔をするけれど。星はとっくに、あの暗い地の底に何があったのかを知っている。
 ただ、仲間達は皆「あんまり触れたくない」「もう行きたくない」「思い出したくない」と地底世界について語ることに消極的なので、星の知る情報は人伝に聞いたものばかりなのだが。
 星は自身の生い立ちに関する秘密をほとんど持たない。何なら聖がすでに神奈子や神子相手に話しているので、そこから広まっているだろう。
 一方で藍が紫に仕える前にどこで何をしていたのかは杳として知れない。数多の国を騒がせた九尾の妖狐の伝説は有名だが、藍は必ずしもその九尾と同一ではないかもしれない。
 あの妖獣はどこから来て、何者で、どこへ行くのか。
 真正面から確かめようとすれば拒まれ、搦手で探ろうとすればのらくらかわされる。藍が恐れているのは本当に饕餮を始めとした野性的な畜生界の獣達のことだけだろうか? あるいは『饕餮を知ろうとするな』という警告すら、目眩しでしかないのではないか?
「ああ、これは欲だわ。知的好奇心なんてポジティブな言葉で片付けられない、極めてエゴイスティックな欲」
 星はため息をつく。自らの好奇心のために死んだって星は自業自得だと納得できるが、藍はそうでもないのだろう。
 気がつけば藍と親しくなった。彼女の嘘を許せると思った。けれど命蓮寺の仲間ほど、気の置けない相手とまではいかない。本当の意味では親密ではないのだ。
 星は藍を知りたい。藍のように謎は謎のままであってほしいとか、もたらされる情報が嘘か真かなどどうでもいいとは思えなくて、神秘のベールに隠された彼女の素顔が見たかった。
 しかしながら、藍とこれからも仲良くいるためには、自分と相手の抱える暴くべきでない秘密を秘密のまま、風にも当てじと守ることも必要なのだろう。幸か不幸か、命蓮寺の妖怪達は隠し事をするのが、見て見ぬふりをするのが得意だった。

 ――どうか、好奇心が虎の私を殺す前に、私の浅ましい好奇心を殺してしまって。

「御仏よ。毘沙門天よ。どうか私が軽率な言動で、優しいあの人を傷つけないために、秘密を守り続ける力をお貸しください。我、仏を念じ、法を聞き、僧を敬わん。南無三宝、南無三宝」


まあ書くしかないよね?
そんなわけで獣王園の藍に関する新情報だけでも頭がパンクしそうなんですが(それに比べて星はEDにすら出番なかったのな)、今回ナズーリンの地底暮らしが確定したっぽくて、最近の智霊奇伝の展開と合わせて結局星蓮船の星のおまけテキストはどう解釈すれば…?星はどこにいたの…?とあれこれ考えずにはいられませんでした。
朝顔
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コメント



0.100簡易評価
1.90奇声を発する程度の能力削除
良かったです
2.80夏後冬前削除
これは完全に嵐の前の静けさという感じがしました。ここから実際に星が饕餮と出逢って始まるストーリーをぜひ読みたいなと思いました。
4.100南条削除
面白かったです
汚いものを知ってほしくないというのもなかなかにエゴい藍様がとてもよかったです
獣王園はキャラの深堀りの宝庫でした
5.100名前が無い程度の能力削除
脳を破壊されました
6.90めそふ削除
面白かったです。終盤の知られたくないのと知りたいという互いのエゴがいり乱れる様が良かったなと思いました。
7.100名前が無い程度の能力削除
藍星は良いですね。
だべるだけのお話はストーリーとしては面白くならないことが多いですが、今回は興味深いキャラの語りだったので面白かったです。
饕餮が絡む壮大なストーリーの前日譚のようで、思わず続きが気になってしまう面白さがありました。有難う御座いました。
9.90東ノ目削除
藍は畜生界のイデオロギーを捨てた今の自分にもっと誇りを持つべきだと思いました。それはそれとして面白かったです