この奇妙な事態を記録するのはおそらく私の役割なのだろう。稗田の家系はいつだってこういうふうに記録を行ってきた。日々起こる種々の異変は元より、博麗の巫女の代替わりであるとかあるいは龍神様のお目覚めであるとか、あるいは湖の畔に建てられた紅い洋館で、子どもたちへのハロウィーンのお菓子配布が行われているとか、そんなことも私は記録している。最近では天狗の新聞なんかも記録媒体として出てきたりはしてきたし、活版印刷技術なんかも一部の民草や妖怪の間に導入されてきたりはしている。稗田の家にも天狗の新聞やら民間の瓦版なんかは多く収蔵されているが、その正確さが保証されていない(もっとも完璧な正確さなんて私も含め、誰かの目というレンズを通した時点でもはや存在しないのだけど)以上、他ならぬ私こそが、後世へとこの事態をできるだけ正確に報告する義務があるのだ。
さて、今回起こったのは、死者の蘇り、である。
といってもスリラー映画のように、墓の下から腐った死体がぞろぞろと這い出てくる、というものでは無論ない。
三途の川の向こうに旅立ったはずの人たち、その年齢、性別、亡くなった時期、それらに規則性は見いだせないが、その人たちが現世へと帰ってきたのである。無論足はちゃんとある。肉体にも触れることができる。なぜか服はちゃんと着ている。この状態で頭を打ってぽっくり死んだりしたらどうなるかは私は知らない。
ぞろぞろとどこからか彼らは戻ってきたのである。
あちらにいた頃のことを尋ねても大した答えは返ってこないが、こちらにいた頃の記憶ははっきりしているという。
「阿求、まるで小説みたいね!」
小鈴はわくわくした様子だった。戻ってきた人は数えてみたところ、大体100人ほどに上るらしい。小鈴のところには帰ってきた人はいないものの、かつてのお得意様なんかの中には帰ってきたた人が何人かいるそうだ。ちなみに、なんでも聞くところによると、小鈴は以前外来本でそんな話を読んだことがあるのだそうだ。映像化もされたらしい。
「でもこうやって現実に死者は蘇っている。これは小説でもなんでもない」
そうつぶやく私と小鈴の前を、先日川で溺れて亡くなった良作さんが通りかかった。
私達の姿を見ると、生きていたときと同じく元気な挨拶をしてきたので私も挨拶を返した。
「いやあ、ありがたい、親父とお袋にお別れも言えなかったしさ、それにあんな風に馬鹿な死に方をしたら親父とお袋になんて詫びたらいいのかわからんからな」
良作さんはそう言って笑い出した。でも私は知っている。良作さんは知っているかどうかは知らない。いや、きっと薄々感づいているはず。それはこの現世に戻ってきた人たち全てが同じなのだろう。この世に戻ってきた人たちがいつまでもこの世に留まっている、なんて許されるはずはない。きっといつかは戻らなければならない。元々現世にいた人たちも、黄泉から戻ってきた人たちも、誰もがそのことに気づいている、そう私は肌で感じている。でもそれを立証する手立てなどどこにもない。人の細かな所作や表情からその人間の奥底を見抜くなんて、実際に長大な年月を生き続けた者にしか許されない行為なのだろう。
良作さんを見送って、私は小鈴に聞いてみる。
「小鈴さ」
「ん? どうしたの?」
「その話、結局、戻ってきた人たちは現世に留まるの?」
「いや、そんなことはないよ。まあ、ネタバレはしたくないからあんまり詳しくは言わないけど……」
「亡くなった人が帰ってきました。亡くなった人たちといつまでも幸せに暮らしました。めでたしめでたし。流石にそんなはずないものね」
「でも……私はハッピーエンド、だったと思うな、あのお話のラストは。あんまり好きな終わり方じゃないけどね」
さて、今回の異変には色々な人が関わった。私がここで紹介できるのはその極々一部である。本当は全てを書き記したい。この異変に関わった人たち全員の思いの丈であるとかそういうものを。そんな途方もない欲望にとらわれる。でも、何かを記録する、というのはそういうものではないのだ。何かは必ず抜け落ち、不完全なものにしかならないのである。でもその不完全さに無理に抗うのではなく、むしろその不完全さゆえに生じる間隙に思いを馳せてほしいのだ。それでこそ冥利に尽きる、というものである。
私はまず、プリズムリバー姉妹の屋敷を訪れた。
プリズムリバー伯爵の亡き後、こうやって幻想郷にやってきたときはまだ、彼女たち、ではないはずだった。レイラさん一人であった。そこにルナサさんにメルランさん、リリカさんが加わった。レイラさんの亡き後、堀川雷鼓さんを加えて今もまた四人である。レイラさんがご存命の頃は彼女たちは楽団を組んでいなかったらしい。レイラさんが亡くなった後、彼女たちはよく冥界の方に演奏をしに行っていたそうである。おそらくは、レイラさんに自らの演奏を聴いてもらうために。
私が屋敷の扉を開けると、賑やかな音楽が耳に入ってきた。ホールのソファに座っているのがきっとレイラさんだ。その周りでルナサさん、メルランさん、リリカさん、そして堀川さんの4人が演奏を行っている。私が入ってきたことに気づくと皆演奏を止め、こちらに挨拶をしてきた。レイラさんも立ち上がり、こちらの方に近づき、頭を下げる。
「こんにちは、お会いするのは初めてでしょうか? 稗田阿求さん」
「ええ、しかしまだ私が阿求ではない頃にきっとお会いしているのでしょう」
私はそう言って、レイラさんに頭を下げる。どことなくだが、彼女には面影があった。いや、逆である。彼女の面影がプリズムリバー三姉妹に引き継がれているのだ。
「でも……少し驚きました。私、やっぱり打楽器が足りないな、と思ってたんですけど、いつの間にか新しいメンバーを加えるなんて」
「好評なんですよ、ホリズムリバーは」
私はそう返す。レイラさんの表情は朗らかだった。いや、どこか安心している、そんな風に感じられた。プリズムリバー三姉妹を生み出したのは他ならぬ彼女である。もちろん、プリズムリバー三姉妹の行動への責任がレイラさんにある、とかそんな親と子の関係のようなことを言いたいわけではない。仮に彼女らが悪霊とか怨霊のようなものになったとしても、別にそれは彼女ら自身が選択したことなのだから、それをレイラさんに問うことはお門違いだろう。しかしである、私は思うのだ。彼女とてやはりほっとしたのだろう。自分が冥界へと旅立った後、彼女たちが人々を楽しませ、あまつさえ新メンバーまで加えたそのことに。
「ねえ、阿求さん」
「どうしました?」
「一曲聞いてもらってもいいですか? 私、生前は歌が好きだったんですよ。よく姉たちには聴いてもらっていたんですけど、年老いてからはなかなか披露する機会がなくて」
「いいですね。人里ののど自慢大会をたまに見たりするんですけど、誰かが歌うのを聴くのはやっぱりどこか心地が良い。あ、音痴な人はちょっと勘弁してほしいんですけど」
「安心してくださいな。私とて貴族の娘。基礎的な音楽教育は受けておりますから」
先程までバックミュージックのように響いていた音楽が止まる。
そして再び、先程とは違った音色が奏でられる。
前奏が終わり、伴奏とともにレイラさんは歌い始める。
Voi che sapete
che cosa è amor,
donne, vedete
s’io l’ho nel cor.
Quello ch’io provo
vi ridirò,
è per me nuovo,
capir nol so.
Sento un affetto
pien di desir,
ch’ora è diletto,
ch’ora è martir.
私が聞いたことのない外国語、おそらくはヨーロッパの言語だろう、その歌詞の意味は私はわかることはない。ただ、屋敷中に響き渡る、その歌声はのど自慢大会で耳にしたどの歌声より遥かによく通る。全くといっていいほどにかすれることもなく、そして少しも音程を外すことがなかった。
私は聴き惚れていた。死んでいたはずの方の歌声に、こんなにも心の底から揺さぶられるということ、その事実だけをみれば実に奇妙なことであった。しかし、実際に私は聴き惚れている。黄泉がえりがなければレイラさんの歌声を聴くこともなかった。だからこそ私は思わずこの異変に感謝したくなってしまった。
演奏が終わる。自然パチパチと拍手をしていた。レイラさんと他の4人がたった一人の観客に向かい一礼をした。
「ありがとうございます……こうやって5人で誰かに聴いてもらうのはきっと最初で最後になるのでしょうね」
「ねえ、レイラさん、この曲はなんていう曲なんですか?」
「モーツァルトの歌曲『フィガロの結婚』です。その中の『恋とはどんなものかしら』ですね。伯爵の小姓であるケルビーノという少年が、思いを寄せる伯爵夫人に自作の歌を歌い上げる場面です」
「なぜこの歌を?」
「……私が一番得意としていた、からですかね……」
そう語るレイラさんの言外に私は含みを感じたけれども、私はそれ以上突っ込むことはしなかった。私は5人にお礼を言って屋敷を後にした。
私は帰路、あの言外に含んでいた意味を少し考えていた。
あとで小鈴に『フィガロの結婚』についての外来本がないか聞いてみることにしよう。
「で、『フィガロの結婚』について知りたい、と」
「まあ、そういうこと」
小鈴に頼んでみたところ、運良くオペラについての本が入荷していたみたいだったので助かった。私は外国語を読むことができないので小鈴に解説を頼む。
「これによると『フィガロの結婚』は喜劇なのよね。フィガロとスザンナが結婚してめでたしめでたし、で終わるんだけど、それまでのたった一日の間のお話」
「レイラさんの歌ったあの場面は?」
「あの場面って『恋とはどんなものかしら』のこと? まあ他愛もない場面よ。ケルビーノって男の子が思春期らしい恋心を語る場面」
恋、か。私はレイラさんの生前のことは少しだけであるが知ってはいる。
彼女が家族と別れ、幻想郷に来たのもまだ若い頃だったはず。
もし彼女が家族と離別することなくいたら、どうなっていたのだろうか? それはおそらくレイラさん自身が一番よく考えていたことであろう。
普通に誰かと恋をして、普通に誰かと結ばれ、そして普通に家族に囲まれて亡くなっていったのだろうか? 彼女が外の世界で生きていたのは激動の時代である。そんな風にうまくいくかどうかなんてはわからない。いつだってこういう予想は楽観的になってしまうものだ。
確かに彼女は「姉たち」を生み出し、そして彼女たちに囲まれて亡くなった。その意味で彼女は幸せに過ごし、幸せに亡くなったのかもしれない。
それでも。彼女はやはり「普通に」生を全うしたかったのかもしれない。彼女の屈託のない表情からは無論そんなことはうかがい知ることはできない。こんなもの、私の勝手な妄想にすぎない。
だけど、こうやって現世に戻ってきたレイラさんには彼女なりに得たものはあるのではないだろうか? 例えば堀川雷鼓との出会いは彼女の生前にはなかったことである。こうやってあの世から戻るってきたからこそ、レイラさんはプリズムリバーではない、ホリズムリバーと出会うことができた。無論、それが失われたなにかの足しになるという類のものではないのかもしれない。それでも。私はその邂逅、あるいはその再会を喜ばしいものである、と思いたいのだ。彼女のあの所作や表情、そして4人の演奏を背景とした歌声を思い出すとそう思えてならない。
さて、私が今度訪れるのは白玉楼である。
お目当ては魂魄妖夢の師である魂魄妖忌さんである。
白玉楼の中では西園寺さんと妖夢さんがいつものように戯れている。
西行妖の影で彼はその二人の姿をじっと見つめていた。
「こんにちは、妖忌さん」
「おお、稗田さんですか。女性、なのですね」
妖忌さんはそう言うと深々と頭を下げる。
レイラさんが若い姿で戻ってきたのとは対照的に、妖忌さんは年老いた姿で戻ってきた。私は彼が死んでいた、ということをこの事態で初めて知ることとなった。いつのまにか妖忌さんはどこかに消えていたからだ。誰にも理由を告げることなく。
肉体的には若い頃よりも遥かに衰えているはず。しかしおそらくは、これが彼の全盛期なのだろう。半分は人間ではあるが半分は霊である。人間というものは肉体とともに精神も衰えるのが常であるが、それはそのまま半人半霊の方々に当てはまるわけではない。無論何もせずにただ怠惰に過ごしていれば人間のそれを辿ることとなるであろうが、目の前にいるのはただ己の剣の技を数百年にも渡り磨き続けた人物である。
「重要なのは心、ですよ」
私の考えていることを読んでいるかのように、彼はそう告げた。
「そう考えると、妖夢さんはまだまだ、と言ったところですかね?」
彼は黙ってうなずいた。
「まあ、妖夢さんも頑張ってはいるんですけどね……あのご主人に振り回されている、という感じですけど」
「振り回されているようではまだまだです。大体妖夢は本気の幽々子様に剣で勝てるかどうかもまだ怪しい。でも、それは逆に言えば伸びしろがある、ということでもありますが」
「会いに行かなくてもよろしいのですか?」
「私が亡くなった、ということは幽々子様はとうにご存知です。一応こちらに戻ってきてから一度挨拶には行きましたけど、元々あの方は私を少し苦手としておりましたからね。まあ、予想通り微妙な反応でしたよ。妖夢の方には会いに行くつもりはありません。今更会いに行ったところで何も言うことなんてないのです。自分の進む道ぐらい、自分で切り開かなければなりません」
妖忌さんはそう私に告げた。
そこに迷いのようなものは感じられない。心の底からそう思っているように感じられた。ところで先程から聞こうか聞くまいか迷っていたことがある。
あんまりこういうことを聞くのもどうかとは思っている。、
だけどこの機会を逃したらもう二度と聞く機会はなくなる、ということを思い出し、尋ねてみることにした。
「妖忌さん」
「いかがなさいました?」
「あなたがいなくなった後、この桜が一度満開になりかけたのをご存知ですか?」
私がそう尋ねたところ、彼は少し驚いた顔をした。知らなかったらしい。そりゃあ、死んだ後のことだもんね……
「初耳ですね」
「ちなみに首謀者はあそこで妖夢さんにだる絡みしている方です」
「そうでしたか……妖夢の方は?」
「幽々子さんの仰せのままに動いていました」
「もう少しきちんと言っておくべきだったのでしょうか。少なくとも妖夢には。西行妖についてなにか」
「まあ、結局桜は満開にはなりませんでしたし、二人ともこの桜について何も知らなかったので、許してあげてください」
「私は別に構わないのですが、結局これは幽々子様の問題に帰着するわけで……」
妖忌さんはそう述べる。
そして私から側にある、決して満開になることのない桜の木の方へと目をやり、ぽつり、ぽつり、と言葉を紡ぎ始めた。
「以前……西行妖が満開になったことがあります。ええ、私がまだまだ若かったころです」
その言葉にはどこか悔恨の念が宿っている、私にはそんな気がした。
「ええ、とても、とても美しかった。私もそれまで、そしてあの後も、色々なものを見てきました。美しいものも、醜いものも、そうでないものも。でもあの光景はそのどれよりも美しく、そして禍々しかった。無理もありません。多くの人の血を吸い、己を美しくする糧としてきた樹ですから。随分と昔のことです。しかし私はあの光景を鮮明に覚えている」
妖忌さんはそこで口をつぐんだ。
私はあえてそれ以上聞くことはしなかった。きっとそれは彼にとっては忌まわしい記憶に違いない。思い出すのも憚られるものの、思い出さずにはいられない、そんなある意味では血塗られた思い出、なのだろう。
私が転生のたびに記憶を失うことの一応の利点の一つはこういう、自らを蝕む呪いのような記憶から開放されることがある。確かに生きている間には嫌なことだってたくさんあるものだ。そんなものからきれいさっぱりおさらばできるのは楽といえば楽ではある。
「伝えなくてもいいんですか? 妖夢さんに西行妖のことを」
「いえ……大丈夫です」
「なぜ?」
「先程自分の進む道は自分で切り開かなければならない、と私は言いましたが、そういうことです。私は確かに一度妖夢に伝えたはず。それを聞いていなかったのは妖夢の責任です。確かに今の妖夢は半人前といっても差し支えがないでしょう。それでも、いつかは一人前にならねばならない。いずれ妖夢にもわかる日が訪れると思いますし、私がその先回りをするのは忍びない。イレギュラー、と言うのでしょうか? こういうときのことを。私は本来、ここに戻ってくるはずではなかった。そして妖夢にはそういう特例がなくとも精進していってもらいたい、そう思うのですよ」
寂しくはないのか、と私は思わず聞きたくなった。
でも止めておいた。そんなこと、彼自身が一番良く分かっているはずである。そして妖夢さんもいつの日かその気持ちを理解するに至るのかもしれない。なにせ二人ともに剣の道を突き進んでいる。達人というものはいつだって孤独なものなのだと相場は決まっている。
「でも、少しだけ安心しました。幽々子様は私のこと、少し苦手ではありましたけど、妖夢のことは可愛がっているようで」
「いやあ、あれ、可愛がっている、って言えるんでしょうか?」
人が死ぬと頼りになるのはお坊さんであると相場は決まっている。
では人が蘇るとどうなるのだろうか?
気になった私は命蓮寺を訪れることにした。
「阿求さん、よくいらしてくれましたね……御存知の通り、人里の方は色々と大変で、これが天変地異かなにかの前触れだと思ってこちらに尋ねてこられる方も多いのですよ」
白蓮さんはいつものように朗らかに私の方に笑みを向けてくれる。
私に限らず、誰に対しても基本、白蓮さんはそういう顔をする。
別に死者が蘇っているからといって、なんら変わることはないようにも思えた。
「まあ、幽霊やらなにやらがひしめくこの地ではこういうことがあってもおかしくはないのではないでしょうか。でも阿求さん……この事態の原因は今のところ、分かってはいるのですか?」
「うーん、聞くところによると是非曲直庁の方で色々とごたつきがあってこういうことになっているらしいですけど」
「あの時々人里にやってくる閻魔様も大変でしょうね」
白蓮さんは心配そうにそうつぶやく。
あの方には私も度々お世話になっているから、その言葉には思わず頷いてしまう。
「しかし……私は蘇った方々やその周りの方々に同情してしまいます」
「それはなぜ?」
「彼らは一度死を経験している。これから先、彼らがどうなるのかは私にはわからないのです。しかし人は死には逆らうことはできません。死という事象は不可逆なものです。ですから、彼らはいずれあちらの方へと戻ることになるのでしょう?」
私はどう答えるべきか迷っていた。
小鈴のあの話を思い出していた。外の世界ではそういう小説があって、その作中では蘇った後生き残った人もいたらしい。無論、だからといって今目の前で起こっているこの現象が同じような経過を辿る、というわけではない。言うなれば、どうなるかはわからない、ということしかわかっていない。でも、私は是非曲直庁が関係しているのならば、このままで終わる、ということはないだろうと確信している。彼らは公正だ。当然生き死にについても。だったら死ぬべき人間が生きている、ということを許したままにしておく、ということはまずありえない。当然この後の事態は白蓮さんの述べる通りの経過を辿ることになるのは想像に難くない。
思えば白蓮さんもかつて死を恐れた一人である。
私は何度も肉体の死、というものを経験しているから、それを長いスパンの中のたまに発生するイベントぐらいにしか思っていないけれども、普通の人間にしてみればそれは人生の終着点なのだ。生き死にに関わってきた白蓮さんだからこそ、彼らが再び直面することになる、死、というものの重みを十分にわかっているだろうし、再び引き裂かれることになる互いの悲しさ、というものも理解しているのだろう。
「先程も述べたように、再び訪れる死、というものは辛く悲しいものです。でも……この出来事はひとときの救いをもたらすとともに、軋轢をも生み出すものなのかもしれません」
「軋轢、ですか?」
「ええ。誰しも生前言えなかったこと、言っておきたかったこと、そういうことはあると思います。会っておきたかった人もいるかもしれません。そういう人たちにチャンスを与えてくれた、そういう意味で救い、なのかもしれません。しかし……それは言ってしまえば死者の訪れがなかった人たち、そういう人たちにとってはこれもまた辛いことではあるのでしょう。人の間に不和を生じさせないようにする、というのはいつだって難しいことです。どんなことであれ、それが万人に訪れることのない限り、持つ人を見るときに持たない人の心のなかにねたみやそねみが生じてしまう」
私にそう告げる白蓮さんは表情にどこか、微妙に影を落としているように思われた。
その微妙な表情の陰りを私は解釈することがどれだけできるというのだろうか。ただ、私が勝手に考えることではあるが、もしかしたら、そのねたみやそねみ、というのは白蓮さん自身が感じてしまったことではないのだろうか。僧侶という身であるからこそ、そういった負の感情はあまり望ましいものではない、というのは容易に伺える。
私は白蓮さんに尋ねることはしない。私のその仮定が正しければ、それはきっと、彼女の心のなかにそっとしまっておきたい微細な感情であるだろうから。
黄泉から帰ってこなかった、こんな千載一遇の事態においてもついに会うことができなかった、その相手。
この寺院の名前を冠しているその人にもう一度会うことを、心の何処かで、奥底で、希求していた。無論、そんな風に思うことは別に不思議なことではないだろう。しかし彼女は忍耐の人だ。白蓮さん自身がそう望んでいたのを認めることを決して許さないであろう。
これとて勝手な想像に過ぎない。しかし、もし仮にこの想像が正しいとすれば、白蓮さんが彼に会ったときにかけたかった言葉は一体どんなものなのだろうか。
彼女は死ぬことも老いることもない。
だからこそ、老いて死んでいった彼、に対してどのような言葉をかけるのだろうか、それともかけないのだろうか。
目の前にいる一人の女性の心中をうかがい知ることは私には決してできない。
博麗の巫女のことは私は随分と長い間書き記してきた。
幻想郷は博麗の巫女とともにあり、その代替わりは幻想郷の歴史においては一つの節目である。
霊夢さんのところを訪れると、いつものように縁側でお茶をすすっている。
私を見ると、こっちに来なさいよ、と言ってくれた。
私もそのお誘いに乗り、縁側にちょこんと座り、一緒になってお茶をすする。
湯呑のお茶が半分ぐらいになったところで、霊夢さんの方から話を振ってくれた。
「大変みたいね、人里の方は」
「ええ、死者の蘇り、というのは流石にこの幻想郷の歴史にも前例がありませんから」
「それであんたは色々な人のところを回っているわけ?」
「ええ、こういうときこそ」
「そんなのあの天狗の新聞記者にでも任せておけばいいのに。文もはたても大忙しよ。文なんて蘇った人たちを集めた座談会の特集記事を編纂するんだって息巻いていたというのに」
「私はそういう柄じゃないんで……」
「なによ、あんたこの間、色々と集めて座談会開いてたじゃない」
「あれはあれ、これはこれです」
私はそう言ってまたお茶をすする。
「まあ……あんたがやりたいのはきっと一人ひとりに向き合ったインタビュー、なんでしょ?」
「そういうことです。こういうときは稗田だからこそできることを私はやりたいですからね」
「ああ、そうそう、文には言ってなかったけど、私のところにも蘇った人、来たわ」
霊夢さんはお茶をすすりながら平然とそう言い放つ。
「えっと……どなたですか?」
「先代よ、先代の巫女。ごめん、私も名前忘れちゃった。文に教えたらどうせ探し回るに決まってるし、あの人はそういうの好きじゃなさそうだから言わないでおいた。だからできればこれは内密にしてもらえるように頼みたいところね」
「わかりました……私と霊夢さんの間だけの話にします」
「ありがとう。まあ、あの人には悪いけど、私、あの人が亡くなっていたってこと、今回の件で初めて知ったのよね」
「少し前に魂魄妖忌さんのところに伺いましたけど、まあ、私も妖忌さんが亡くなっていた、ということ、知らなかったですから。それで、どんな感じでした?」
「一応少しは話したわ。涙ながらのなんとやら、みたいな感じではなかったわね。別にそんなに語ることもない。他愛もない話ってやつ。とりあえずねぎらいの言葉はかけてもらえたわ。……紫のやつはあの人が蘇ったことを知っているのかどうかは知らないけど、まあ、あいつだったらこの後の経過も大体予想付いているでしょうし。そもそも紫、あの人が亡くなっていたってこと、知っていたのかしら?」
「さあ……」
私は言葉を濁しておいた。霊夢さんはそれ以上そのことについて私に尋ねることはしてこなかった。お茶をすする音だけがのどかな神社に響いていた。死者が蘇っている、ということとこういう話をしている、ということを除けば、いつもの日常とあまり変わることはないように思えた。
これは言ってしまえば、霊夢さんにしか知らないこともあれば、稗田の人間しか知らないこともある、あるいは幻想郷の賢者たちのみが知り得ることもある、ただそれだけの話なのだ。
横目で霊夢さんの表情を伺う。これまたいつもどおりの横顔で、他の人達のように感情を伺うことは極めて難しい。
「ねえ」
「なんでしょうか?」
「あの人、多分私にしか会いに来ていない、と思うのよね。まあ、名前すら覚えていない私が言うのもなんだけど……」
「なぜそう思うんですか?」
「勘よ、勘」
「またいい加減な……」
「それだけじゃなくて、私があの人だったら一人か二人を除いてそういうことをしないように思えるから、さ」
霊夢さんはそう言うとお茶を飲み干した。
「それじゃ、インタビュー頑張ってね」
そう私に告げると縁側から降りて境内の方に向かい、いつものように掃除を始めた。
元よりオフレコを前提とした話だから、これ以上考えることもない。
私がなにかこれ以上付け加えることはきっと野暮だ。
きっと霊夢さんの言う通りなのだろう。
ただ、霊夢さんの言葉に出てきた、一人か二人、それが誰なのかだけは少し気になったけど。
結局私は記憶から今日の出来事を振り払い、博麗神社を後にした。
もうこの記録も終わりに近づいている。でももう少しだけお付き合い願いたいのだ。
最後は僭越ながら私の話をさせてもらいたい。
ほうぼうへのインタビューを終え、私が屋敷に戻ると四季様が訪ねてきた。
転生のたびにはいつもお世話になっているし、四季様もたまにこちらを訪れるのでそこまで珍しい、というわけではない。ただ、是非曲直庁が関わっているであろう今回の件についてなにか話があるのだろうから、そのうち訪ねて来られるであろうことは容易に予想がついた。
「今回あなたが色々と蘇った人に尋ね回っていると聞きまして……」
「ええ、やはり稗田の家系の人間ですから」
「それは全然いいんですけど、すみませんね、こうやってまたあなたの仕事を増やしてしまいまして」
「いえいえ、全然大丈夫です。でも、どうしてこういうことが起こったのでしょうか?」
「毎年お彼岸の時期はこの世とあの世の距離がぐんと近くなるのですが、今年はその影響が非常に大きかったようです。一応対策はしましたので、これから先こういうことは起きることはおそらくないかとは思います。あなたも含め、こちらが色々とご迷惑をおかけしたこと、私からお詫びします」
そう言って四季さまは頭を下げる。そういう振る舞いをされるとこちらとしてもどう返せば良いのかわからなくなってしまう。
「でも……みんな喜んでましたよ。蘇った人もその関係している人も」
「そうなのかもしれません……しかし、死、というのは元来覆すことのできないことです。それが今回一時とはいえ覆ってしまった。それはよろしいことだ、とは私は言うことはできません。こちらの方では小町ぐらいですかね、めでたいことだ、なんて言っていたのは」
覆すことのできない、か。
それは私には当てはまることはない。私にとっては死、というのは肉体が滅びることである。あるいは記憶を失うこと、もしかしたらそれが死、を意味するのかもしれない。ただ、私は自分の大事な記憶については書き残すことにしている。そうであれば、死、というのは私にとっては何を意味するのだろうか?
「あなたとは随分と長い間、ええ、あなたが阿禄であったぐらいからでしょうかね、そのときからの付き合いです」
「そうですね……私は阿禄であった頃のことは覚えていません。でも私が阿禄であったときのことは阿禄が大なり小なり書き残してくれています」
「……では、覚えていますか? あなたが阿禄であった頃、とても仲が良かった喜八、という男の子が流行り病にかかって亡くなったこと」
「えっと、そういうことがあったのですか?」
四季さまは何かを思うように、目をつぶり、頷いた。
そしてゆっくりと両の眼を開いた。
「あるいはこんなこともありました。あなたが阿質であったときのことです。あなたと何人もの友人たちがよく川遊びをしていたこと。私の記憶が正しければ、あなたと一緒にいたのは源蔵、小吉、みよ、他にも色々……」
「……そういったことはなにかに記載されているのですか?」
「稗田の家の蔵を探せばきっと当時の人別帳は出てきます。そしてそこに彼らの名前は記載されているでしょう。しかし、私が今述べたことはどこにも記載されていません。ただ、私の記憶の中に残っているだけです……あなたが覚えていないのであれば」
私はしばらく何も言うことができないでいた。
私はあえて目を向けないようにしていたのかもしれない。死、というのは肉体だけでなく、その人のすべて、例えば記憶すらも奪い去る、ということに。確かに亡霊になったり不死になったり、といろいろと手段はあるのだろう。しかし向こうに逝ってしまった人たち、転生し、別の魂となった人たち、そんな魂が元より持ち合わせていた記憶などはその時点で消え去ってしまうのだろう。
「なぜ、そんなことを今更私に教えるのですか? ひどいじゃないですか、覚えてもいない、そんなことを今更言うなんて! だって私は忘れてしまっている、きっと彼らは私と仲良く過ごしていたのでしょう? だったら……」
「だったら、なんでしょうか?」
「だったら……」
私はその次の言葉が言えなかった。
言えるはずもない。なんと言えばよいのだろうか?
思い出そうとしなければよかった? 知らなければよかった? それとも出会わなければよかった? いずれも正解にはきっと程遠い。
私は自然俯いていた。
「きっと……そうなのでしょうね。今の私だって、転生した暁にはおおよそのことを忘れてしまう。そして頭の中にあるすべてを書き記す、なんてことはできやしない。そしてこの幻想郷の今現在ある存在すべてを伝えていく、なんてことは不可能なんです」
「一つ、あなたに尋ねてもよろしいですか?」
「……なんでしょう」
「あなたはこの事態についてどう感じていたのですか?」
「……正直に言うと、羨ましく思う部分もありました。誰しもが再会を喜んでいたりそうでなかったり、というのに、私一人が蚊帳の外にいるように思えて。皆、記憶の中の誰かと相手を照らし合わせ、そして色々な感情を沸き起こらせていた。誰からも忘れ去られた人、あるいは誰とも縁のない人、今回の関係者の中でそういう人を私は見つけ出すことができなかった。誰しもが誰かとの再会や邂逅を喜んだり喜ばなかったりしていました。それを見て私は少しだけ、妬いてしまったんです。私も……過去の自分、いえ、それはもはや、血の繋がりのある他人、といっていいのかもしれませんが、彼ら、あるいは過去の自分とつながりのある人たち、彼らと出会いたかった、そういう気持ちはありました。ええ、記憶がないからこそ……」
「そうですか……ごめんなさい、そういう思いをさせてしまって」
「いえ……いいんです。ただ……思うんです。今回色々な人の話を聞き、そして、四季様の話も伺って、今、私の中に浮かんできたこと、ではあるんですけど……」
「といいますと?」
「私とて掬いきれないことはたくさんあるはずなんです。些末なことのように思えてそうでないこと、そういうものってきっとたくさんあると思うんです。文字で伝えられることなんてほんの僅かだし、それが画像や映像に変わったところでありのままを継承していくなんてことは不可能です。私が忘れてしまった阿禄や阿質のときのことは四季様が覚えていてくださいました。でも彼だったり彼女だったりが抱いてきたこと、きっと四季さまが知らないまま永遠に埋もれてしまったことってたくさんあると思うんです。……おそらくは、私の親友との思い出、それも多かれ少なかれ、そうなる運命にあるのでしょう。それは間違いなく悲しいことです。私が今回の出来事の中で出会ってきた人たちにも、きっと私には告げていない心の内、このまま事態が収束したらもう表に出てくることのない心中、永遠に埋もれてしまう感情、というものがあるはずなんです」
「私が言うのもなんですけど……私はそのような心の内を職務以外で進んで白日の下に晒したい、とは思いません。そうなれば確かに、その心中はどこかへと霧散してしまうことでしょう」
「でも……私はそれでも今この瞬間のこの心に感じていることを大切にしたいんです。もしかしたらかつての私はそういう思い出を自分の中だけに秘めておく、ということを選んでいたのかもしれません。それを非難するつもりはありません。ただ、私はもっと色々なことを書き記したい。些末なこともそうでないものも大事にしたい。そしてそれでもこぼれ落ちる諸々や、その結果として生まれざるを得ない間隙に対して、いつか私の書き記すものを読む未来の誰かに思いを馳せてほしいんです」
「そうですか……では、例えば今回のこと、どれだけ書き残すつもりなのですか?」
「デリケートな部分もあるので今回は私の思った具体的なことはあまり書かないつもりです。でも、その人たちの間にあるものであるとか関係性とかそういったのは可能な範囲で書き記そうかな、と思っています」
「……これだけ大事になってしまうと、私もなんと言い訳をすればよいのかわからない部分もありました。繰り返しになりますが、すみませんでした」
「いえ、むしろありがとうございます、ですよ。会ったことのない人にも今回会うことができました。それはきっと私にとっては良いことだったんです」
「そういってもらえると助かります……いえ、あなたがそう思うの、私は嬉しいんですよね」
結局、蘇った人たちはその後、死神たちの舟に乗せられて向こう側へと帰っていった。
別れるのが嫌だと泣き叫んだりした人がいたのは事実である。無論お互いに何も言わず、ただ静かに別れを告げた人がいたのもまた確かだ。
私にも私以外の人たちにとっても、今回の出来事は忘れがたいものとなった。
受け止め方は人それぞれではあるが、いずれにせよ、こうやって蘇った死者と再会し、邂逅し、語らい、そして別れを告げる、少なくとも私にとってはそういった体験が今この時間を大切にしつつも、まだ見ぬ将来に思いを馳せていくための一助となったことは言うまでもない。
さて、今回起こったのは、死者の蘇り、である。
といってもスリラー映画のように、墓の下から腐った死体がぞろぞろと這い出てくる、というものでは無論ない。
三途の川の向こうに旅立ったはずの人たち、その年齢、性別、亡くなった時期、それらに規則性は見いだせないが、その人たちが現世へと帰ってきたのである。無論足はちゃんとある。肉体にも触れることができる。なぜか服はちゃんと着ている。この状態で頭を打ってぽっくり死んだりしたらどうなるかは私は知らない。
ぞろぞろとどこからか彼らは戻ってきたのである。
あちらにいた頃のことを尋ねても大した答えは返ってこないが、こちらにいた頃の記憶ははっきりしているという。
「阿求、まるで小説みたいね!」
小鈴はわくわくした様子だった。戻ってきた人は数えてみたところ、大体100人ほどに上るらしい。小鈴のところには帰ってきた人はいないものの、かつてのお得意様なんかの中には帰ってきたた人が何人かいるそうだ。ちなみに、なんでも聞くところによると、小鈴は以前外来本でそんな話を読んだことがあるのだそうだ。映像化もされたらしい。
「でもこうやって現実に死者は蘇っている。これは小説でもなんでもない」
そうつぶやく私と小鈴の前を、先日川で溺れて亡くなった良作さんが通りかかった。
私達の姿を見ると、生きていたときと同じく元気な挨拶をしてきたので私も挨拶を返した。
「いやあ、ありがたい、親父とお袋にお別れも言えなかったしさ、それにあんな風に馬鹿な死に方をしたら親父とお袋になんて詫びたらいいのかわからんからな」
良作さんはそう言って笑い出した。でも私は知っている。良作さんは知っているかどうかは知らない。いや、きっと薄々感づいているはず。それはこの現世に戻ってきた人たち全てが同じなのだろう。この世に戻ってきた人たちがいつまでもこの世に留まっている、なんて許されるはずはない。きっといつかは戻らなければならない。元々現世にいた人たちも、黄泉から戻ってきた人たちも、誰もがそのことに気づいている、そう私は肌で感じている。でもそれを立証する手立てなどどこにもない。人の細かな所作や表情からその人間の奥底を見抜くなんて、実際に長大な年月を生き続けた者にしか許されない行為なのだろう。
良作さんを見送って、私は小鈴に聞いてみる。
「小鈴さ」
「ん? どうしたの?」
「その話、結局、戻ってきた人たちは現世に留まるの?」
「いや、そんなことはないよ。まあ、ネタバレはしたくないからあんまり詳しくは言わないけど……」
「亡くなった人が帰ってきました。亡くなった人たちといつまでも幸せに暮らしました。めでたしめでたし。流石にそんなはずないものね」
「でも……私はハッピーエンド、だったと思うな、あのお話のラストは。あんまり好きな終わり方じゃないけどね」
さて、今回の異変には色々な人が関わった。私がここで紹介できるのはその極々一部である。本当は全てを書き記したい。この異変に関わった人たち全員の思いの丈であるとかそういうものを。そんな途方もない欲望にとらわれる。でも、何かを記録する、というのはそういうものではないのだ。何かは必ず抜け落ち、不完全なものにしかならないのである。でもその不完全さに無理に抗うのではなく、むしろその不完全さゆえに生じる間隙に思いを馳せてほしいのだ。それでこそ冥利に尽きる、というものである。
私はまず、プリズムリバー姉妹の屋敷を訪れた。
プリズムリバー伯爵の亡き後、こうやって幻想郷にやってきたときはまだ、彼女たち、ではないはずだった。レイラさん一人であった。そこにルナサさんにメルランさん、リリカさんが加わった。レイラさんの亡き後、堀川雷鼓さんを加えて今もまた四人である。レイラさんがご存命の頃は彼女たちは楽団を組んでいなかったらしい。レイラさんが亡くなった後、彼女たちはよく冥界の方に演奏をしに行っていたそうである。おそらくは、レイラさんに自らの演奏を聴いてもらうために。
私が屋敷の扉を開けると、賑やかな音楽が耳に入ってきた。ホールのソファに座っているのがきっとレイラさんだ。その周りでルナサさん、メルランさん、リリカさん、そして堀川さんの4人が演奏を行っている。私が入ってきたことに気づくと皆演奏を止め、こちらに挨拶をしてきた。レイラさんも立ち上がり、こちらの方に近づき、頭を下げる。
「こんにちは、お会いするのは初めてでしょうか? 稗田阿求さん」
「ええ、しかしまだ私が阿求ではない頃にきっとお会いしているのでしょう」
私はそう言って、レイラさんに頭を下げる。どことなくだが、彼女には面影があった。いや、逆である。彼女の面影がプリズムリバー三姉妹に引き継がれているのだ。
「でも……少し驚きました。私、やっぱり打楽器が足りないな、と思ってたんですけど、いつの間にか新しいメンバーを加えるなんて」
「好評なんですよ、ホリズムリバーは」
私はそう返す。レイラさんの表情は朗らかだった。いや、どこか安心している、そんな風に感じられた。プリズムリバー三姉妹を生み出したのは他ならぬ彼女である。もちろん、プリズムリバー三姉妹の行動への責任がレイラさんにある、とかそんな親と子の関係のようなことを言いたいわけではない。仮に彼女らが悪霊とか怨霊のようなものになったとしても、別にそれは彼女ら自身が選択したことなのだから、それをレイラさんに問うことはお門違いだろう。しかしである、私は思うのだ。彼女とてやはりほっとしたのだろう。自分が冥界へと旅立った後、彼女たちが人々を楽しませ、あまつさえ新メンバーまで加えたそのことに。
「ねえ、阿求さん」
「どうしました?」
「一曲聞いてもらってもいいですか? 私、生前は歌が好きだったんですよ。よく姉たちには聴いてもらっていたんですけど、年老いてからはなかなか披露する機会がなくて」
「いいですね。人里ののど自慢大会をたまに見たりするんですけど、誰かが歌うのを聴くのはやっぱりどこか心地が良い。あ、音痴な人はちょっと勘弁してほしいんですけど」
「安心してくださいな。私とて貴族の娘。基礎的な音楽教育は受けておりますから」
先程までバックミュージックのように響いていた音楽が止まる。
そして再び、先程とは違った音色が奏でられる。
前奏が終わり、伴奏とともにレイラさんは歌い始める。
Voi che sapete
che cosa è amor,
donne, vedete
s’io l’ho nel cor.
Quello ch’io provo
vi ridirò,
è per me nuovo,
capir nol so.
Sento un affetto
pien di desir,
ch’ora è diletto,
ch’ora è martir.
私が聞いたことのない外国語、おそらくはヨーロッパの言語だろう、その歌詞の意味は私はわかることはない。ただ、屋敷中に響き渡る、その歌声はのど自慢大会で耳にしたどの歌声より遥かによく通る。全くといっていいほどにかすれることもなく、そして少しも音程を外すことがなかった。
私は聴き惚れていた。死んでいたはずの方の歌声に、こんなにも心の底から揺さぶられるということ、その事実だけをみれば実に奇妙なことであった。しかし、実際に私は聴き惚れている。黄泉がえりがなければレイラさんの歌声を聴くこともなかった。だからこそ私は思わずこの異変に感謝したくなってしまった。
演奏が終わる。自然パチパチと拍手をしていた。レイラさんと他の4人がたった一人の観客に向かい一礼をした。
「ありがとうございます……こうやって5人で誰かに聴いてもらうのはきっと最初で最後になるのでしょうね」
「ねえ、レイラさん、この曲はなんていう曲なんですか?」
「モーツァルトの歌曲『フィガロの結婚』です。その中の『恋とはどんなものかしら』ですね。伯爵の小姓であるケルビーノという少年が、思いを寄せる伯爵夫人に自作の歌を歌い上げる場面です」
「なぜこの歌を?」
「……私が一番得意としていた、からですかね……」
そう語るレイラさんの言外に私は含みを感じたけれども、私はそれ以上突っ込むことはしなかった。私は5人にお礼を言って屋敷を後にした。
私は帰路、あの言外に含んでいた意味を少し考えていた。
あとで小鈴に『フィガロの結婚』についての外来本がないか聞いてみることにしよう。
「で、『フィガロの結婚』について知りたい、と」
「まあ、そういうこと」
小鈴に頼んでみたところ、運良くオペラについての本が入荷していたみたいだったので助かった。私は外国語を読むことができないので小鈴に解説を頼む。
「これによると『フィガロの結婚』は喜劇なのよね。フィガロとスザンナが結婚してめでたしめでたし、で終わるんだけど、それまでのたった一日の間のお話」
「レイラさんの歌ったあの場面は?」
「あの場面って『恋とはどんなものかしら』のこと? まあ他愛もない場面よ。ケルビーノって男の子が思春期らしい恋心を語る場面」
恋、か。私はレイラさんの生前のことは少しだけであるが知ってはいる。
彼女が家族と別れ、幻想郷に来たのもまだ若い頃だったはず。
もし彼女が家族と離別することなくいたら、どうなっていたのだろうか? それはおそらくレイラさん自身が一番よく考えていたことであろう。
普通に誰かと恋をして、普通に誰かと結ばれ、そして普通に家族に囲まれて亡くなっていったのだろうか? 彼女が外の世界で生きていたのは激動の時代である。そんな風にうまくいくかどうかなんてはわからない。いつだってこういう予想は楽観的になってしまうものだ。
確かに彼女は「姉たち」を生み出し、そして彼女たちに囲まれて亡くなった。その意味で彼女は幸せに過ごし、幸せに亡くなったのかもしれない。
それでも。彼女はやはり「普通に」生を全うしたかったのかもしれない。彼女の屈託のない表情からは無論そんなことはうかがい知ることはできない。こんなもの、私の勝手な妄想にすぎない。
だけど、こうやって現世に戻ってきたレイラさんには彼女なりに得たものはあるのではないだろうか? 例えば堀川雷鼓との出会いは彼女の生前にはなかったことである。こうやってあの世から戻るってきたからこそ、レイラさんはプリズムリバーではない、ホリズムリバーと出会うことができた。無論、それが失われたなにかの足しになるという類のものではないのかもしれない。それでも。私はその邂逅、あるいはその再会を喜ばしいものである、と思いたいのだ。彼女のあの所作や表情、そして4人の演奏を背景とした歌声を思い出すとそう思えてならない。
さて、私が今度訪れるのは白玉楼である。
お目当ては魂魄妖夢の師である魂魄妖忌さんである。
白玉楼の中では西園寺さんと妖夢さんがいつものように戯れている。
西行妖の影で彼はその二人の姿をじっと見つめていた。
「こんにちは、妖忌さん」
「おお、稗田さんですか。女性、なのですね」
妖忌さんはそう言うと深々と頭を下げる。
レイラさんが若い姿で戻ってきたのとは対照的に、妖忌さんは年老いた姿で戻ってきた。私は彼が死んでいた、ということをこの事態で初めて知ることとなった。いつのまにか妖忌さんはどこかに消えていたからだ。誰にも理由を告げることなく。
肉体的には若い頃よりも遥かに衰えているはず。しかしおそらくは、これが彼の全盛期なのだろう。半分は人間ではあるが半分は霊である。人間というものは肉体とともに精神も衰えるのが常であるが、それはそのまま半人半霊の方々に当てはまるわけではない。無論何もせずにただ怠惰に過ごしていれば人間のそれを辿ることとなるであろうが、目の前にいるのはただ己の剣の技を数百年にも渡り磨き続けた人物である。
「重要なのは心、ですよ」
私の考えていることを読んでいるかのように、彼はそう告げた。
「そう考えると、妖夢さんはまだまだ、と言ったところですかね?」
彼は黙ってうなずいた。
「まあ、妖夢さんも頑張ってはいるんですけどね……あのご主人に振り回されている、という感じですけど」
「振り回されているようではまだまだです。大体妖夢は本気の幽々子様に剣で勝てるかどうかもまだ怪しい。でも、それは逆に言えば伸びしろがある、ということでもありますが」
「会いに行かなくてもよろしいのですか?」
「私が亡くなった、ということは幽々子様はとうにご存知です。一応こちらに戻ってきてから一度挨拶には行きましたけど、元々あの方は私を少し苦手としておりましたからね。まあ、予想通り微妙な反応でしたよ。妖夢の方には会いに行くつもりはありません。今更会いに行ったところで何も言うことなんてないのです。自分の進む道ぐらい、自分で切り開かなければなりません」
妖忌さんはそう私に告げた。
そこに迷いのようなものは感じられない。心の底からそう思っているように感じられた。ところで先程から聞こうか聞くまいか迷っていたことがある。
あんまりこういうことを聞くのもどうかとは思っている。、
だけどこの機会を逃したらもう二度と聞く機会はなくなる、ということを思い出し、尋ねてみることにした。
「妖忌さん」
「いかがなさいました?」
「あなたがいなくなった後、この桜が一度満開になりかけたのをご存知ですか?」
私がそう尋ねたところ、彼は少し驚いた顔をした。知らなかったらしい。そりゃあ、死んだ後のことだもんね……
「初耳ですね」
「ちなみに首謀者はあそこで妖夢さんにだる絡みしている方です」
「そうでしたか……妖夢の方は?」
「幽々子さんの仰せのままに動いていました」
「もう少しきちんと言っておくべきだったのでしょうか。少なくとも妖夢には。西行妖についてなにか」
「まあ、結局桜は満開にはなりませんでしたし、二人ともこの桜について何も知らなかったので、許してあげてください」
「私は別に構わないのですが、結局これは幽々子様の問題に帰着するわけで……」
妖忌さんはそう述べる。
そして私から側にある、決して満開になることのない桜の木の方へと目をやり、ぽつり、ぽつり、と言葉を紡ぎ始めた。
「以前……西行妖が満開になったことがあります。ええ、私がまだまだ若かったころです」
その言葉にはどこか悔恨の念が宿っている、私にはそんな気がした。
「ええ、とても、とても美しかった。私もそれまで、そしてあの後も、色々なものを見てきました。美しいものも、醜いものも、そうでないものも。でもあの光景はそのどれよりも美しく、そして禍々しかった。無理もありません。多くの人の血を吸い、己を美しくする糧としてきた樹ですから。随分と昔のことです。しかし私はあの光景を鮮明に覚えている」
妖忌さんはそこで口をつぐんだ。
私はあえてそれ以上聞くことはしなかった。きっとそれは彼にとっては忌まわしい記憶に違いない。思い出すのも憚られるものの、思い出さずにはいられない、そんなある意味では血塗られた思い出、なのだろう。
私が転生のたびに記憶を失うことの一応の利点の一つはこういう、自らを蝕む呪いのような記憶から開放されることがある。確かに生きている間には嫌なことだってたくさんあるものだ。そんなものからきれいさっぱりおさらばできるのは楽といえば楽ではある。
「伝えなくてもいいんですか? 妖夢さんに西行妖のことを」
「いえ……大丈夫です」
「なぜ?」
「先程自分の進む道は自分で切り開かなければならない、と私は言いましたが、そういうことです。私は確かに一度妖夢に伝えたはず。それを聞いていなかったのは妖夢の責任です。確かに今の妖夢は半人前といっても差し支えがないでしょう。それでも、いつかは一人前にならねばならない。いずれ妖夢にもわかる日が訪れると思いますし、私がその先回りをするのは忍びない。イレギュラー、と言うのでしょうか? こういうときのことを。私は本来、ここに戻ってくるはずではなかった。そして妖夢にはそういう特例がなくとも精進していってもらいたい、そう思うのですよ」
寂しくはないのか、と私は思わず聞きたくなった。
でも止めておいた。そんなこと、彼自身が一番良く分かっているはずである。そして妖夢さんもいつの日かその気持ちを理解するに至るのかもしれない。なにせ二人ともに剣の道を突き進んでいる。達人というものはいつだって孤独なものなのだと相場は決まっている。
「でも、少しだけ安心しました。幽々子様は私のこと、少し苦手ではありましたけど、妖夢のことは可愛がっているようで」
「いやあ、あれ、可愛がっている、って言えるんでしょうか?」
人が死ぬと頼りになるのはお坊さんであると相場は決まっている。
では人が蘇るとどうなるのだろうか?
気になった私は命蓮寺を訪れることにした。
「阿求さん、よくいらしてくれましたね……御存知の通り、人里の方は色々と大変で、これが天変地異かなにかの前触れだと思ってこちらに尋ねてこられる方も多いのですよ」
白蓮さんはいつものように朗らかに私の方に笑みを向けてくれる。
私に限らず、誰に対しても基本、白蓮さんはそういう顔をする。
別に死者が蘇っているからといって、なんら変わることはないようにも思えた。
「まあ、幽霊やらなにやらがひしめくこの地ではこういうことがあってもおかしくはないのではないでしょうか。でも阿求さん……この事態の原因は今のところ、分かってはいるのですか?」
「うーん、聞くところによると是非曲直庁の方で色々とごたつきがあってこういうことになっているらしいですけど」
「あの時々人里にやってくる閻魔様も大変でしょうね」
白蓮さんは心配そうにそうつぶやく。
あの方には私も度々お世話になっているから、その言葉には思わず頷いてしまう。
「しかし……私は蘇った方々やその周りの方々に同情してしまいます」
「それはなぜ?」
「彼らは一度死を経験している。これから先、彼らがどうなるのかは私にはわからないのです。しかし人は死には逆らうことはできません。死という事象は不可逆なものです。ですから、彼らはいずれあちらの方へと戻ることになるのでしょう?」
私はどう答えるべきか迷っていた。
小鈴のあの話を思い出していた。外の世界ではそういう小説があって、その作中では蘇った後生き残った人もいたらしい。無論、だからといって今目の前で起こっているこの現象が同じような経過を辿る、というわけではない。言うなれば、どうなるかはわからない、ということしかわかっていない。でも、私は是非曲直庁が関係しているのならば、このままで終わる、ということはないだろうと確信している。彼らは公正だ。当然生き死にについても。だったら死ぬべき人間が生きている、ということを許したままにしておく、ということはまずありえない。当然この後の事態は白蓮さんの述べる通りの経過を辿ることになるのは想像に難くない。
思えば白蓮さんもかつて死を恐れた一人である。
私は何度も肉体の死、というものを経験しているから、それを長いスパンの中のたまに発生するイベントぐらいにしか思っていないけれども、普通の人間にしてみればそれは人生の終着点なのだ。生き死にに関わってきた白蓮さんだからこそ、彼らが再び直面することになる、死、というものの重みを十分にわかっているだろうし、再び引き裂かれることになる互いの悲しさ、というものも理解しているのだろう。
「先程も述べたように、再び訪れる死、というものは辛く悲しいものです。でも……この出来事はひとときの救いをもたらすとともに、軋轢をも生み出すものなのかもしれません」
「軋轢、ですか?」
「ええ。誰しも生前言えなかったこと、言っておきたかったこと、そういうことはあると思います。会っておきたかった人もいるかもしれません。そういう人たちにチャンスを与えてくれた、そういう意味で救い、なのかもしれません。しかし……それは言ってしまえば死者の訪れがなかった人たち、そういう人たちにとってはこれもまた辛いことではあるのでしょう。人の間に不和を生じさせないようにする、というのはいつだって難しいことです。どんなことであれ、それが万人に訪れることのない限り、持つ人を見るときに持たない人の心のなかにねたみやそねみが生じてしまう」
私にそう告げる白蓮さんは表情にどこか、微妙に影を落としているように思われた。
その微妙な表情の陰りを私は解釈することがどれだけできるというのだろうか。ただ、私が勝手に考えることではあるが、もしかしたら、そのねたみやそねみ、というのは白蓮さん自身が感じてしまったことではないのだろうか。僧侶という身であるからこそ、そういった負の感情はあまり望ましいものではない、というのは容易に伺える。
私は白蓮さんに尋ねることはしない。私のその仮定が正しければ、それはきっと、彼女の心のなかにそっとしまっておきたい微細な感情であるだろうから。
黄泉から帰ってこなかった、こんな千載一遇の事態においてもついに会うことができなかった、その相手。
この寺院の名前を冠しているその人にもう一度会うことを、心の何処かで、奥底で、希求していた。無論、そんな風に思うことは別に不思議なことではないだろう。しかし彼女は忍耐の人だ。白蓮さん自身がそう望んでいたのを認めることを決して許さないであろう。
これとて勝手な想像に過ぎない。しかし、もし仮にこの想像が正しいとすれば、白蓮さんが彼に会ったときにかけたかった言葉は一体どんなものなのだろうか。
彼女は死ぬことも老いることもない。
だからこそ、老いて死んでいった彼、に対してどのような言葉をかけるのだろうか、それともかけないのだろうか。
目の前にいる一人の女性の心中をうかがい知ることは私には決してできない。
博麗の巫女のことは私は随分と長い間書き記してきた。
幻想郷は博麗の巫女とともにあり、その代替わりは幻想郷の歴史においては一つの節目である。
霊夢さんのところを訪れると、いつものように縁側でお茶をすすっている。
私を見ると、こっちに来なさいよ、と言ってくれた。
私もそのお誘いに乗り、縁側にちょこんと座り、一緒になってお茶をすする。
湯呑のお茶が半分ぐらいになったところで、霊夢さんの方から話を振ってくれた。
「大変みたいね、人里の方は」
「ええ、死者の蘇り、というのは流石にこの幻想郷の歴史にも前例がありませんから」
「それであんたは色々な人のところを回っているわけ?」
「ええ、こういうときこそ」
「そんなのあの天狗の新聞記者にでも任せておけばいいのに。文もはたても大忙しよ。文なんて蘇った人たちを集めた座談会の特集記事を編纂するんだって息巻いていたというのに」
「私はそういう柄じゃないんで……」
「なによ、あんたこの間、色々と集めて座談会開いてたじゃない」
「あれはあれ、これはこれです」
私はそう言ってまたお茶をすする。
「まあ……あんたがやりたいのはきっと一人ひとりに向き合ったインタビュー、なんでしょ?」
「そういうことです。こういうときは稗田だからこそできることを私はやりたいですからね」
「ああ、そうそう、文には言ってなかったけど、私のところにも蘇った人、来たわ」
霊夢さんはお茶をすすりながら平然とそう言い放つ。
「えっと……どなたですか?」
「先代よ、先代の巫女。ごめん、私も名前忘れちゃった。文に教えたらどうせ探し回るに決まってるし、あの人はそういうの好きじゃなさそうだから言わないでおいた。だからできればこれは内密にしてもらえるように頼みたいところね」
「わかりました……私と霊夢さんの間だけの話にします」
「ありがとう。まあ、あの人には悪いけど、私、あの人が亡くなっていたってこと、今回の件で初めて知ったのよね」
「少し前に魂魄妖忌さんのところに伺いましたけど、まあ、私も妖忌さんが亡くなっていた、ということ、知らなかったですから。それで、どんな感じでした?」
「一応少しは話したわ。涙ながらのなんとやら、みたいな感じではなかったわね。別にそんなに語ることもない。他愛もない話ってやつ。とりあえずねぎらいの言葉はかけてもらえたわ。……紫のやつはあの人が蘇ったことを知っているのかどうかは知らないけど、まあ、あいつだったらこの後の経過も大体予想付いているでしょうし。そもそも紫、あの人が亡くなっていたってこと、知っていたのかしら?」
「さあ……」
私は言葉を濁しておいた。霊夢さんはそれ以上そのことについて私に尋ねることはしてこなかった。お茶をすする音だけがのどかな神社に響いていた。死者が蘇っている、ということとこういう話をしている、ということを除けば、いつもの日常とあまり変わることはないように思えた。
これは言ってしまえば、霊夢さんにしか知らないこともあれば、稗田の人間しか知らないこともある、あるいは幻想郷の賢者たちのみが知り得ることもある、ただそれだけの話なのだ。
横目で霊夢さんの表情を伺う。これまたいつもどおりの横顔で、他の人達のように感情を伺うことは極めて難しい。
「ねえ」
「なんでしょうか?」
「あの人、多分私にしか会いに来ていない、と思うのよね。まあ、名前すら覚えていない私が言うのもなんだけど……」
「なぜそう思うんですか?」
「勘よ、勘」
「またいい加減な……」
「それだけじゃなくて、私があの人だったら一人か二人を除いてそういうことをしないように思えるから、さ」
霊夢さんはそう言うとお茶を飲み干した。
「それじゃ、インタビュー頑張ってね」
そう私に告げると縁側から降りて境内の方に向かい、いつものように掃除を始めた。
元よりオフレコを前提とした話だから、これ以上考えることもない。
私がなにかこれ以上付け加えることはきっと野暮だ。
きっと霊夢さんの言う通りなのだろう。
ただ、霊夢さんの言葉に出てきた、一人か二人、それが誰なのかだけは少し気になったけど。
結局私は記憶から今日の出来事を振り払い、博麗神社を後にした。
もうこの記録も終わりに近づいている。でももう少しだけお付き合い願いたいのだ。
最後は僭越ながら私の話をさせてもらいたい。
ほうぼうへのインタビューを終え、私が屋敷に戻ると四季様が訪ねてきた。
転生のたびにはいつもお世話になっているし、四季様もたまにこちらを訪れるのでそこまで珍しい、というわけではない。ただ、是非曲直庁が関わっているであろう今回の件についてなにか話があるのだろうから、そのうち訪ねて来られるであろうことは容易に予想がついた。
「今回あなたが色々と蘇った人に尋ね回っていると聞きまして……」
「ええ、やはり稗田の家系の人間ですから」
「それは全然いいんですけど、すみませんね、こうやってまたあなたの仕事を増やしてしまいまして」
「いえいえ、全然大丈夫です。でも、どうしてこういうことが起こったのでしょうか?」
「毎年お彼岸の時期はこの世とあの世の距離がぐんと近くなるのですが、今年はその影響が非常に大きかったようです。一応対策はしましたので、これから先こういうことは起きることはおそらくないかとは思います。あなたも含め、こちらが色々とご迷惑をおかけしたこと、私からお詫びします」
そう言って四季さまは頭を下げる。そういう振る舞いをされるとこちらとしてもどう返せば良いのかわからなくなってしまう。
「でも……みんな喜んでましたよ。蘇った人もその関係している人も」
「そうなのかもしれません……しかし、死、というのは元来覆すことのできないことです。それが今回一時とはいえ覆ってしまった。それはよろしいことだ、とは私は言うことはできません。こちらの方では小町ぐらいですかね、めでたいことだ、なんて言っていたのは」
覆すことのできない、か。
それは私には当てはまることはない。私にとっては死、というのは肉体が滅びることである。あるいは記憶を失うこと、もしかしたらそれが死、を意味するのかもしれない。ただ、私は自分の大事な記憶については書き残すことにしている。そうであれば、死、というのは私にとっては何を意味するのだろうか?
「あなたとは随分と長い間、ええ、あなたが阿禄であったぐらいからでしょうかね、そのときからの付き合いです」
「そうですね……私は阿禄であった頃のことは覚えていません。でも私が阿禄であったときのことは阿禄が大なり小なり書き残してくれています」
「……では、覚えていますか? あなたが阿禄であった頃、とても仲が良かった喜八、という男の子が流行り病にかかって亡くなったこと」
「えっと、そういうことがあったのですか?」
四季さまは何かを思うように、目をつぶり、頷いた。
そしてゆっくりと両の眼を開いた。
「あるいはこんなこともありました。あなたが阿質であったときのことです。あなたと何人もの友人たちがよく川遊びをしていたこと。私の記憶が正しければ、あなたと一緒にいたのは源蔵、小吉、みよ、他にも色々……」
「……そういったことはなにかに記載されているのですか?」
「稗田の家の蔵を探せばきっと当時の人別帳は出てきます。そしてそこに彼らの名前は記載されているでしょう。しかし、私が今述べたことはどこにも記載されていません。ただ、私の記憶の中に残っているだけです……あなたが覚えていないのであれば」
私はしばらく何も言うことができないでいた。
私はあえて目を向けないようにしていたのかもしれない。死、というのは肉体だけでなく、その人のすべて、例えば記憶すらも奪い去る、ということに。確かに亡霊になったり不死になったり、といろいろと手段はあるのだろう。しかし向こうに逝ってしまった人たち、転生し、別の魂となった人たち、そんな魂が元より持ち合わせていた記憶などはその時点で消え去ってしまうのだろう。
「なぜ、そんなことを今更私に教えるのですか? ひどいじゃないですか、覚えてもいない、そんなことを今更言うなんて! だって私は忘れてしまっている、きっと彼らは私と仲良く過ごしていたのでしょう? だったら……」
「だったら、なんでしょうか?」
「だったら……」
私はその次の言葉が言えなかった。
言えるはずもない。なんと言えばよいのだろうか?
思い出そうとしなければよかった? 知らなければよかった? それとも出会わなければよかった? いずれも正解にはきっと程遠い。
私は自然俯いていた。
「きっと……そうなのでしょうね。今の私だって、転生した暁にはおおよそのことを忘れてしまう。そして頭の中にあるすべてを書き記す、なんてことはできやしない。そしてこの幻想郷の今現在ある存在すべてを伝えていく、なんてことは不可能なんです」
「一つ、あなたに尋ねてもよろしいですか?」
「……なんでしょう」
「あなたはこの事態についてどう感じていたのですか?」
「……正直に言うと、羨ましく思う部分もありました。誰しもが再会を喜んでいたりそうでなかったり、というのに、私一人が蚊帳の外にいるように思えて。皆、記憶の中の誰かと相手を照らし合わせ、そして色々な感情を沸き起こらせていた。誰からも忘れ去られた人、あるいは誰とも縁のない人、今回の関係者の中でそういう人を私は見つけ出すことができなかった。誰しもが誰かとの再会や邂逅を喜んだり喜ばなかったりしていました。それを見て私は少しだけ、妬いてしまったんです。私も……過去の自分、いえ、それはもはや、血の繋がりのある他人、といっていいのかもしれませんが、彼ら、あるいは過去の自分とつながりのある人たち、彼らと出会いたかった、そういう気持ちはありました。ええ、記憶がないからこそ……」
「そうですか……ごめんなさい、そういう思いをさせてしまって」
「いえ……いいんです。ただ……思うんです。今回色々な人の話を聞き、そして、四季様の話も伺って、今、私の中に浮かんできたこと、ではあるんですけど……」
「といいますと?」
「私とて掬いきれないことはたくさんあるはずなんです。些末なことのように思えてそうでないこと、そういうものってきっとたくさんあると思うんです。文字で伝えられることなんてほんの僅かだし、それが画像や映像に変わったところでありのままを継承していくなんてことは不可能です。私が忘れてしまった阿禄や阿質のときのことは四季様が覚えていてくださいました。でも彼だったり彼女だったりが抱いてきたこと、きっと四季さまが知らないまま永遠に埋もれてしまったことってたくさんあると思うんです。……おそらくは、私の親友との思い出、それも多かれ少なかれ、そうなる運命にあるのでしょう。それは間違いなく悲しいことです。私が今回の出来事の中で出会ってきた人たちにも、きっと私には告げていない心の内、このまま事態が収束したらもう表に出てくることのない心中、永遠に埋もれてしまう感情、というものがあるはずなんです」
「私が言うのもなんですけど……私はそのような心の内を職務以外で進んで白日の下に晒したい、とは思いません。そうなれば確かに、その心中はどこかへと霧散してしまうことでしょう」
「でも……私はそれでも今この瞬間のこの心に感じていることを大切にしたいんです。もしかしたらかつての私はそういう思い出を自分の中だけに秘めておく、ということを選んでいたのかもしれません。それを非難するつもりはありません。ただ、私はもっと色々なことを書き記したい。些末なこともそうでないものも大事にしたい。そしてそれでもこぼれ落ちる諸々や、その結果として生まれざるを得ない間隙に対して、いつか私の書き記すものを読む未来の誰かに思いを馳せてほしいんです」
「そうですか……では、例えば今回のこと、どれだけ書き残すつもりなのですか?」
「デリケートな部分もあるので今回は私の思った具体的なことはあまり書かないつもりです。でも、その人たちの間にあるものであるとか関係性とかそういったのは可能な範囲で書き記そうかな、と思っています」
「……これだけ大事になってしまうと、私もなんと言い訳をすればよいのかわからない部分もありました。繰り返しになりますが、すみませんでした」
「いえ、むしろありがとうございます、ですよ。会ったことのない人にも今回会うことができました。それはきっと私にとっては良いことだったんです」
「そういってもらえると助かります……いえ、あなたがそう思うの、私は嬉しいんですよね」
結局、蘇った人たちはその後、死神たちの舟に乗せられて向こう側へと帰っていった。
別れるのが嫌だと泣き叫んだりした人がいたのは事実である。無論お互いに何も言わず、ただ静かに別れを告げた人がいたのもまた確かだ。
私にも私以外の人たちにとっても、今回の出来事は忘れがたいものとなった。
受け止め方は人それぞれではあるが、いずれにせよ、こうやって蘇った死者と再会し、邂逅し、語らい、そして別れを告げる、少なくとも私にとってはそういった体験が今この時間を大切にしつつも、まだ見ぬ将来に思いを馳せていくための一助となったことは言うまでもない。
黄泉がえりの話それぞれは単体としてどれも少しの寂しさを感じつつも
とても素敵に読めました。
反面、この話のまとめ方については、いまいちピンとこなくて、
まあ……そういうものか……という印象でした。
所々に引っ掛かりを感じるのにすらすら読める不思議な文章でした。
妖忌が蘇ったことで初めて死んでいたことがわかるというのが巧妙でよかったです
また最後のシーンで映姫が阿求に対して「そういってもらえると助かります……いえ、あなたがそう思うの、私は嬉しいんですよね」と言い添えていたのが、
ただ業務で付き合っているのではなく少なからず好意のようなものを持っているように感じたので〆方もとても好みでした。
面白かったです。