今日も今日とて夜が更け行く命蓮寺。普段なら夜の勤行を終えた修行僧達が眠りにつく時刻だが、今宵は一同が大部屋に集まって、各々遊び道具やら菓子やら、そして僧侶には禁忌であるはずの酒まで持ち込んで、たいそう騒がしい雰囲気である。
「庚申待ちをやるなんていつぶりかしら」
いの一番に秘蔵の徳利を開けた一輪は、遠慮なく並々と盃に酒を注いでゆく。久々に嗅ぐ芳醇な香りに気を良くして、立ち上がって一同に呼びかけた。
「みんな、酒は持ったか!」
「持った持った! そろそろ乾杯のご発声と行こうじゃないの」
「それじゃあマミゾウさんお願い! この中で一番年長っぽいし!」
「これこれ、人を年寄り扱いするでない。まあ、今宵は特別に見逃してやろう。では、庚申待ちの決して誰も寝てはならぬ夜に……乾杯!」
「かんぱーい!」
マミゾウの合図と共に盃やら猪口やらを突き合わせ、一輪は中身をぐいっとあおる。傍らの雲山も、今日ばかりは小うるさい文句を言わず、素直に酒を楽しんでいる。雲山も相当の酒好きなのだ。
今宵はいつもの夜ではない。十干と十二支を組み合わせた干支の、六十日に一度回ってくる〝庚申〟の日である。
人間の体内には三尸の虫が住んでおり、庚申の夜になると、眠っている人間の身体から抜け出してその罪を天帝に報告しに行く――古来よりそんな言い伝えがあった。
そのため、庚申の夜は、夜通し遊び明かして眠らずにいることで、三尸の虫に密告されないようにする。といっても、それは口実にすぎず、多くの人間は単なる夜更かしに興じているのだ。
庚申待ちは元は古代中国で発生した風習で、日本では平安期に貴族層に定着し、時代を経て民衆にも普及した。響子をのぞく平安生まれの妖怪達は元人間が多いのも相まって、当然のように庚申待ちを知っているのだった。
今宵、聖は『出張夜通し読経ライブ』の予定が入ったとかで不在である。あの奇妙なイベントをぜひ我が家でと所望する客がいるのなら相当な変わり者か、あるいは庚申待ちの夜更かしをしたかったのかもしれない。
おかげで鬼の居ぬ間の洗濯とばかりに、申し訳程度に庚申待ちにかかせない青面金剛像を部屋の中央に配置して、修行僧達は酒盛りに興じているのである。なお、発案者はマミゾウだったのに毎度のことながらぬえは行方不明だった。
早くも心地よい酩酊に浸り始めた一輪は、高級そうな酒をじっくり味わうマミゾウに絡み始めた。
「マミゾウさーん、いいお酒呑んでんじゃん。ちょっと融通してくんない?」
「いいや、こいつは美宵ちゃんから儂にと特別にもらったものじゃから譲れないのう。どうしてもというなら、儂とこいつで勝負せんかい?」
「えー、マミゾウさん絶対強いじゃん! 私に勝ち目ないよ」
マミゾウが持ち込んだ花札を見て、一輪は速攻で勝負を断る。一応〝こいこい〟程度ならルールを知っているが、抜け目ないマミゾウのことだ、花札に何かを仕込んでいるかもしれない。
諦めた一輪は蔵から引っ張り出してきた碁盤の表面を磨く。千年経っても、庚申待ちでやることは平安の貴族達が韻塞ぎだの双六だのに熱中していた頃と大して変わりない。
「星、一局やらない?」
碁盤と碁石を整えた一輪は、一人で菓子をつまんでいた星に声をかける。白と黒の石がつまった入れ物を見て、星は口元をつり上げる。
「いいけど、どうせ一輪は雲山と二人がかりなんでしょう? 二対一じゃ不公平よ」
「だってあんた強いんだもの。それぐらいのハンデはくれたっていいでしょ?」
「しょうがないわね」
星は笑って許してくれた。星は昔からやたらと囲碁が強かったのである。おそらく今も本因坊か藤原佐為が取り憑いているに違いない。
「それじゃあ一輪達が白でいいわ」
「うわ、余裕っぷりムカつくー。雲山、けちょんけちょんに負かしてやりましょ」
星と一輪・雲山の勝負がスタートする。背後では響子がマミゾウに花札を習って、ムラサが「あー違う違う、紛らわしいけどそれは萩じゃなくて藤よ」と口出しをしていた。
時刻は子の刻を迎えようとしている。朝の早い修行僧には少々瞼が重くなってくる時刻だが、久々の酒盛り件庚申待ちという非日常の熱気に包まれているせいか、まだ誰もあくびひとつしない。
「考えてみれば人間時代はともかく、今は妖怪なんだから、夜更かしなんてどうってことないわね」
「だけど私達の生活リズムってもう完全に昼型よ。お客さんは人間も来るんだから」
「そうね、でも私はちっとも眠くないや……あ、星、そこ置いちゃうの?」
「ええ、お次をどうぞ」
「よし。うーんと、そうね……え、雲山、そっち? 私はここがいいと思うんだけどなあ……」
「あら、序盤からずいぶん攻めるわね」
「だって星は後半の詰め方エグいもん」
口を尖らせれば、星は余裕のある笑みを見せる。さっきから菓子をつまんでばかりだと思ったが、星は酒を呑んでいなかった。
「ちょっと星、あんた一人だけシラフで通すつもり? ノリ悪いよ」
「やめてよ、アルハラ反対」
「カマトトぶるんじゃないわよ、あんたが酒好きなのはみんな知ってるんだからね」
「まあまあ、懐かしいものを貰ったから、お酒を入れる前に味わっておきたかったの」
星は自らの皿に盛られた菓子を示した。見た目は四角餅のようで、人里の兎達の団子屋の新商品かと思いきや、
「あれ、これってもしかして〝餅餤〟?」
「そうよ」
「わー、懐かしい」
一輪は物珍しさに目を輝かせる。餅餤は唐くだものの一種で、切り刻んだ鳥の子や野菜を餅で挟んだものだ。星が手にしているのは、さすがに僧侶に贈られたもののためか、野菜しか入っていない。
一輪は星に分けてもらった餅餤をかじる。ところが、かじった瞬間、口に広がり切らない味気なさに肩透かしを喰らった。どうも記憶の中の唐くだものほどの美味を感じない。
「……なんか味薄くない?」
「昔は調味料が希少だったんだからこんなものよ」
「うーん、そうだったっけ? 昔はたまに聖様が持ち帰ってくるお菓子はご馳走様みたいなものだったのになあ。私達、いつのまにか舌が肥えちゃったのね」
「そこでこそ質素倹約、粗食の勧めよ。これからも慎ましやかな食生活を心がけましょうね」
「そうね、僧侶は何をおいてもいのちだいじに」
とか立派なことを言ってるが、不飲酒戒を破った酒盛りが続くことには誰もツッコミを入れない。
「それにしても、平安のお菓子なんて今どき珍しいわ。星、よく手に入れたわね」
「ご厚意なのよ。外の世界でも何やら昔の食べ物を作るのが流行ってたみたいだし、懐かしい味を思い出してはどう? って」
「あー、流行ったのは蘇だったか醍醐だったか……私達は食べたことないけどね」
星は穏やかに笑っていた。長生きの妖怪で平安の頃を知る者で、星のためにわざわざ肉を除いてまで餅餤をこしらえてくれる者。確かに酒の肴で終わらせるのは勿体ない。
そう思うと分けてもらったのが申し訳ないので、手をつけていない残りを返そうとしたその時、包み紙から一枚の薄い紙が落ちた。
「あら?」
「あっ、それは!」
星が拾うより先に、一輪は薄い藍色の紙にうっすらと文字が透けるのを見てしまった。
薄い紙といえば、昔の恋文によく使われた薄様である。星の慌てぶりからしてもそうに違いない。しめしめ、と思いながら広げてみれば、果たしてそこには一首の和歌がしたためられていた。
「おやおやぁ、僧侶ともあろうものが恋文なんか受け取っちゃってー」
「返して、返してったら!」
「えーと……ずいぶん達筆ねえ、見たことない筆跡だわ」
慌てる星をよそに一輪は書きつけられた和歌を読む。いつの時代もラブレターは盗み見られるものだ。
筆跡は、墨の濃淡も筆使いも申し分ないが、あまりにかっちりしすぎて少々情緒に欠ける。和歌の内容はシンプルで、大意は『これを贈った私を貴方は〝冷淡〟だとは思わないでしょうね』といったところである。
一度読んだだけで、一輪には文の贈り主がわかった。相手が僧侶ゆえに遠慮しているのか、はっきりいって恋文としては定石すぎて、文字も機械のように精密に整っていて面白みがないのだが、さすがに星の前でそんなことは言わない。
「星も隅におけないわねえ」
「もー、やめてったら、盗み読みなんてよくないことよ」
「うっかりしまい忘れるあんたが悪いの。で、なんて返事したの?」
「それはまあ、『貴方の志の深さを思えばどうして〝冷淡〟だなんて恨みましょう』ってとこかしら」
「緩い緩い。そこはやっぱ定石だけど『貴方の冷淡さは元より身に染みてます』って突っぱねなきゃ」
「いいから恋文の定石より囲碁の定石に集中なさい!」
一輪からやっと文を奪い返して、星は苛立たしげに碁盤を指した。なお、彼女達が冷淡、冷淡と繰り返すのは餅餤と掛けているためだが、古の縁語や掛詞は現代ではただの駄洒落にしか聞こえないのが悲しいところである。
さて、あまり星の機嫌を損ねても面倒なので一輪も囲碁に戻る。星は慌て透かして一手を誤るかと思いきや、むしろ闘争心に火をつけてしまったのか、攻めは手強くなる一方である。
(うーん。もっと他に星を揺さぶるネタはないかしら)
一輪の心を知り尽くした雲山は「余計な搦手を考えるんじゃない」と思っているようである。
残念ながら星はもう平静を取り戻したらしかった。
「そういえば、庚申待ちといえば、昔はこんな話があったわね」
などと、星は手を止めないまま一輪に語りかける。目配せがいわくありげで、一輪は碁盤から星の顔に視線を移す。
「昔、さる帝の女御様が、庚申待ちの夜更かしをしていたのだけど、夜明け間際に眠ってしまったの。おそばの女房達は『今更お寝みになるなんて』と笑って見ていたけど、そのまま寝かせて差し上げることにしたのね。だけどお客様が見えて、女御を起こそうと身体を揺すったら……女御はこと切れていたのよ。まるで魂を吸い取られたように、ほんのわずかな間に亡くなってしまったの。それ以来、女御の一族は庚申待ちをやらなくなったそうよ」
急に重めな話題が降ってきて、一輪もさすがに手を止める。ずいぶん古い、しかも不吉な話題を持ち出してくるものだ。
まさかからかいの仕返しに一輪の心を乱そうとしているのだろうか。いくらなんでも、と一輪は眉をひそめた。
「もしかしたら、眠っている間に三尸の虫に密告されたせいで、女御は儚くなってしまったのかしらね」
「星、それってあくまで噂よ、噂。その女御様がまだ若いのに頓死したから、変な憶測を立てられてるだけよ」
「高貴な方は煩わしい噂に振り回されてお気の毒ね。その点、私達は雅な生まれでもない妖怪だから気楽だけど……ところで一輪、次はどうするの?」
「えっ?」
碁盤に視線を戻せば、一輪が石をおける場所はどこにもない。雲山に相談したが、投了する他ないようだ。
悠々と笑う星を前に、やられた、と一輪は頭を抱えた。
「相変わらずエグいやつ……。精神攻撃まで仕掛けてくるなんでズルいじゃない」
「一輪が先に仕掛けたんだからおあいこよ」
「もーしょうがない、私達の負けよ、負け。せっかくだから負けわざをやってあげる。星、何か欲しいものある?」
「そうねえ」
星がのんびり考えている後ろで、「うわー!!」と響子の絶叫が上がった。
「あとちょっと! あとちょっとで青タン揃ったのにー!!」
「ふぉっふぉ、甘いのう。自分の手札ばかりでなく相手の手札もようく見んと」
「響子、あんまり欲張らない方がいいよ。調子にのってこいこい続けても、相手に上がられたら稼いだ点もパーなんだから」
「うう……!」
どうやらマミゾウと響子の花札も勝負がついたらしい。負かされた響子はやけになって酒瓶を手に取るが、勢いよく逆さに振っても酒は数滴漏れるだけだ。
「あれ? もう空ですか?」
「おや、儂が呑み干してしまったようじゃ」
「もー、お酒も取られるし花札も負けるし散々よ……」
「そう拗ねるな。とっておきの秘蔵酒の隠し場所を教えてやろう」
「えっ、ほんとですか!?」
マミゾウに隠し場所を耳打ちされ、響子は嬉々と席を立つ。一輪は星と目配せして笑った。
「響子ったら単純なんだから。酔いが回るのが早いわねえ、いつもより騒がしいわ。明日の朝、聖にお説教されるのは覚悟しないとね」
そう言う星の視線は一輪の抱える一升瓶に向かっている。
「ねえ、負けわざしてくれるんだったら、一輪秘蔵のお酒を私にも分けてよ」
「あーっ、星もついに呑む気になったわね?」
「どうせみんなの酒盛りを止められなかった時点で私も連帯責任で怒られるんだもの。それなら呑まなきゃ損損」
「ひゅー、わかってるぅ」
一輪は負けた悔しさも忘れてすかさず徳利を取り出す。苦労して手に入れた上物なのだが、この際星に呑まれても構いやしない。飲み会におけるお酒の付き合い方は人それぞれといっても、やはりシラフがいるより酔っ払いだらけの方が楽しいのだ。
星は注がれた酒を一気に飲み干し、虎らしい呑みっぷりに一輪と雲山はやんやの喝采を浴びせる。一気飲みは大変危険なので人間の読者諸君は真似しないように。
「じゃあマミゾウさん、次は私と勝負しよう」
先ほどまで響子が座っていた席を占めて、ムラサが身を乗り出した。
「いやあ、相手をしてやりたいのは山々なんじゃが、儂はちと呑みすぎた。少し休ませてくれんか」
「え、もう? ペース早すぎません?」
マミゾウは見る者の眠気を誘うような大あくびをする。しかし妖怪の夜はまだこれから、他の修行僧達の目は爛々と輝いている。すかさずブーイングが飛び交った。
「えー、今日は庚申待ちですよ? 寝たら駄目なんですよ? ねえ一輪、雲山」
「星、響子呼び戻してきてよ、マミゾウさんに向かって爆音波出してもらおう」
「響子はうちの目覚まし時計じゃないのよ?」
「なあに、ちいと横になるだけよ、儂がたかがこれしきの酔いで眠ったりなどするものか……」
と言いながら、早くもマミゾウはうつらうつら船を漕いでいる。マミゾウとの花札は諦めて、ムラサは碁盤に目をつけた。
「星、次は私とやってよ」
ムラサは勝利の美酒を味わう星に果敢に挑み掛かる。星も嬉々として勝負に乗った。
「いいわ。先に何か賭けておく?」
「今から勝った気でいるんじゃないわよ。そうね、私が負けたら地底の美味しいご飯のお店で奢ってあげるわ」
「あら、素敵ね。私は……こないだナズーリンが見つけてきたお宝、いらないからムラサにあげようか?」
「ちょっとー、また例のガラクタじゃないでしょうね? 不用品の押し付けは勘弁してよね」
そうしてムラサと星の一局が始まった。ごろりと寝そべったマミゾウはまだ起き上がりそうにないので、一輪は酒を呑みつつ雲山と共に二人の勝負を見守った。久々に仲間と楽しく飲む酒は旨みが違う。一輪はいつもより心地よい酩酊に浸り、気分が雲のようにふわふわと浮上するのを実感していた。
「あら、もうこんな時間?」
一輪が壁の時計を見てつぶやく。気がつけば子の刻はとうに周り、日付も変わって草木も眠る丑三つ時。
現代でこそ、深夜の零時が日付の変わり目で干支も辛酉になるが、昔は日の出が新しい一日の始まりであった。庚申待ちは昔の習わしに合わせて日の出まで続くのである。
「いつから私達は子の刻が日付の変わり目って染みついたのかしら」
一輪のぼやきに、ムラサは勝負に熱中したまま、そして酒を絶やさないまま答える。
「地上に出てからじゃなかったっけ? 地底じゃいつも暗くて日付感覚が独特だったのよね」
「明治の頃は外の人間達も新暦に戸惑っていたわ。幻想郷でも、古い妖怪達は今でも旧い暦に合わせた生活をしているそうよ」
と、付け加えるのは地上暮らしが長かった星だ。こちらも呑むスピードが速い。
「うーん、聖様だっけ? 人里に近いからうちも人里の暦に合わせましょうとか言い出したのは」
「でもたまに旧暦の方で話してるときもあるわ、聖って」
「いちいち使い分けるのめんどくさくない? 妖怪寺なんだし旧暦オンリーでよかったんじゃないの?」
「あら、ハイカラを売りにする一輪らしくもない。時代遅れね」
「なんだと?」
聞き捨てならない星の台詞に一輪は食い下がる。一輪は自他共に認めるハイカラ少女だが、そうは言っても平安生まれ、古いしきたりもそれなりに尊重する方である。
そのまま軽い口論になるかと思いきや、「静かにしてよ、私集中してるんだから」とのムラサの文句により口喧嘩は打ち切りとなった。
さて勝負の行方はというと、景気良く酒をあおる星に負けじとムラサも酒を注ぎ足しながら打ち続けたが、やがてムラサの負けで勝負は終わった。
「うーわー。あんた昔より強くなってない?」
「私だけじゃなくて、今度はナズーリンとも打ってみたらいいわ」
「あいつも強いんだっけ。あんたが鍛えたんでしょ?」
「昔、手持ち無沙汰の時にね。説法は聞いてくれないから」
「そういえば今日はナズーリンいないの?」
「三尸の虫なんて馬鹿馬鹿しくて信じられないんですって」
「夜更かしの口実みたいなもんなのに、相変わらずノリ悪いなあ」
「そうね、ようやく観念してお寺に住むようになったと思ったのに、相変わらず修行には不真面目だし、お経の一つも覚えないくせに逃げ口上ばっか達者になるし、主人としては頭の痛い話だわ。あの子が何かやらかして聖に文句言われるのは私なのに」
星は部下の愚痴を肴に酒を煽る。まるで中間管理職のぼやきである。ずいぶんハイスピードで呑んでいるなとは思っていたが、酔いが回ってきたようだ。顔は赤らみ、連続で勝負に勝ったのに機嫌もなんだか悪そうだ。
「そういえば、どうして庚申の日に三尸の虫が身体から出ていくって言われてるのかしらね。他の日じゃ駄目なのかな」
何となく嫌な予感のしたムラサは話題を逸らそうと試みる。とはいえ、誰も庚申信仰の起源を知らないので、話題は続きそうにない。
「あ、思い出した。こないだ布都が言ってたんだけど」
と、一輪は風水やら大陸の占いに詳しい友人を引き合いに出す。
「庚も申も五行に当てはめると金でしょう。金の気が天地に充満する時は、人々の心が荒廃しやすいらしいのよ。だからチクリ魔の三尸の虫には都合がいいんじゃない?」
「ああ、確かにお金は人の心を貧しくさせるわ」
「そっちの金じゃないから」
星の不機嫌が加速した気がして、一輪はしくじったなと思う。星は金銭感覚に厳しいというかうるさく、シラフよりもかえって場をシラけさせかねない。財宝神の化身なんて生業だから仕方ないのかもしれないが。
「だいたいねえ、最近の人間ときたら」
と、星の愚痴は続く。完全に酔っ払っているのか、『最近の若者は』みたいな調子で管を巻く。
「普段は『神も仏もありゃしない』なんてペシミストぶって人の信仰を揶揄するくせに、都合のいい時だけ『神様助けてください』なんて虫が良すぎるのよ。神仏をなんだと思ってるの、罰当たりだわ」
「あー、そう、そうね」
「だけど星は本物の神様じゃないんだからそんなに気にしなくても……」
「気にするわよ。千年も代理やってたらそっちもある意味本業よ」
まずい、と一輪はムラサと雲山と揃って顔を見合わせる。
普段は大人しく真面目な修行僧も、酔うと大虎である――要は酒癖がものすごく悪いのだ。こうやって口が悪くなり始めたらかなりの危険信号だ。
「貴方達にわかる? 何かあればすぐに金をくれ、億万長者にしてくれとせがまれる私の気持ちが。いいえ、わかりっこないわ」
「いやいや、わかるわかる、大変なんだよね」
「気安くわかるとか言わないでよ、安易な同調は腹が立つわ」
めんどくせえなこいつ。朝令暮改どころじゃない矛盾っぷりに対する一同の心は一つだった。
酔っ払った星はかなりタチが悪いというか、気が大きくなる上にうざったい絡み酒である。
ムラサは酔っても普段とあまり変わらないが、酔いどれだらけの飲みの場ではかえって貧乏くじを引きやすい。一輪はひたすら気持ちよくなって気分上々だが、のらくら立ち回るだけで絡み酒をかわす技量があるとは言えない。雲山は酩酊して口数がさらに少なくなるので論外である。
「僧侶やりながら神の代理なんて二足の草鞋を履くようなものよ、呑まなきゃやってられないわ。ああ、頭が痛い……」
「それはストレスじゃなくてお酒のせいじゃない?」
「星、あんたもう水飲みなさい、明日しんどいわよ」
仕方なく一輪は空の盃に水をついでやる。余談だがナズーリンは酔いどれ星のウザ絡みを合コンさしすせそだけで乗り切っている。
「ちょっと一輪、なんで星に酒呑ませたの」
「やー、久々に気持ちよく酔っ払えたせいか、星の酒癖をすっかり忘れてたわ」
「勘弁してよ、星は酔いが醒めたら、今度は自己嫌悪と二日酔いで面倒くさくなるんだから」
「いやあんたも止めなかったでしよ、私だけ責めないでよ」
二人は星に聞こえないようにこそこそ愚痴を漏らす。一輪は『止めときゃよかった』という後悔と『呑んじゃったもんは仕方なくない? みんなで呑む方が楽しいし』という開き直りの気持ちが三七である。要はまったく反省していないし、次回の飲み会でも懲りずに星に酒を薦めるであろう。
「星に限らず、酔うとみんなだいたい悪い方向に人格が変わるよね」
「そうそう、甘えたになるとか絶対嘘よ。シラフの演技だって」
「え? 雲山は酔っ払うとたまーに甘えてくるけど?」
「ここ千年で一番知りたくなかった情報だわ」
ムラサの明日使えない無駄知識が一つ蓄積されたところで、後ろからいびきが聞こえてくる。振り返れば散らばった花札の上で寝こけたマミゾウの姿があった。
「やだ、マミゾウさんったら。横になるだけとか言っといて爆睡じゃない」
「あーあ、三尸の虫に告げ口されちゃうよ。『誰も寝てはならぬ』って言ったくせに」
二人は親切心から揺り起こしてやるが、高価な酒が寝酒になってしまったのか、マミゾウはちっとも起きる気配がない。
仕方なしに、起こすのは諦めて一輪はムラサと賭けなしで一局やることにした。
「ムラサ、マミゾウさんの言う『誰も寝てはならぬ』ってあれだよね、かぐや姫の亜種みたいな話に出てくるやつ」
「トゥーランドットね。求婚する王子に三つの謎を突きつけるお姫様。どこの国のいつの時代でも花婿候補は試練を与えられるさだめなのね」
「だけどトゥーランドットは謎を解けない男を処刑するのよ、かぐや姫のほうが優しいんじゃないかしら」
「でもかぐや姫の求婚者だって一人死んじゃってるからなあ」
「あれは事故みたいなもんだから、宇宙人に惚れたのが運の尽きよ」
かぐや姫本人がここにいないのをいいことに、二人は好き放題言いまくる。夜明けまでまだ時間はある上に、マミゾウは寝てしまったし、泥酔した星は一人でぶつぶつぼやいているしで、手持ち無沙汰なのである。
「あれ、そういえば、響子遅くない?」
どちらが優勢ともなく碁盤の石だけが増えてきたところで、ムラサが顔を上げる。マミゾウの秘蔵酒を取りに向かったはずの響子は、まだ戻ってこない。
「え、まさか響子も寝落ちしてる?」
「やだなー、廊下で寝てたりとかしないよね、みっともない」
「ていうかマミゾウさんも響子も庚申待ちの趣旨わかってんの? 寝るなっつーの」
仕方なしにぬるい対局を放り出して、一輪は雲山とムラサと共に響子を迎えに行くことにした。
マミゾウの秘蔵酒の隠し場所は聖を除く修行僧全員が知っている。木を隠すならというのか、大胆にも聖の出入りもある台所に隠してあるのだ。「儂は修行僧ではないからの、お前さん達より気楽な身分じゃて」との言い分である。
命蓮寺に電気は通っていないので、ランプの仄かな明かりだけで暗い台所を照らす。
「響子ー、いる?」
「さっさと帰ってきてよ、みんなでそのお酒呑もう?」
元は響子にのみ贈られたはずが、マミゾウが寝てしまったのをいいことに、都合よくタカる気満々である。いつもなら山彦らしく呼べばすぐに「はーい」と元気の良い返事が返ってくるはずが、台所はしんと静まり返っている。一輪は床に寝そべっていないかと、間違って踏んづけないよう慎重に探るが、響子は見つからない。
「あれー、どこ行っちゃったのよ」
例の秘蔵酒の隠してある戸棚の前を照らして、一輪は首をかしげる。ちゃっかり酒をいただいて別の場所を探そうかと思ったところで、床に落ちている何かにつまづいた。
「あいたっ」
コケた一輪は床と口づけすることなく、無事に雲山の腕に抱き止められる。
誰が最後の掃除当番だったか、などと恨めしく思っている一輪の手元に、雲山がつまづきの元凶を拾って差し出した。
「何これ?」
ランプで照らしてみれば、それは両手で楽に抱き抱えられるサイズの猿の人形だった。木彫りの猿の目はどことなく不気味で、口を塞いだポーズをとっている。
「一輪、響子見つかった?」
「ねえ、うちにこんな猿の人形なんてあったっけ」
雲山が拾ったものをムラサにも見せれば、ムラサは首をひねる。
「いや、私は見たことないけど。聖様がどこかでもらってきたとか?」
「こんな薄気味悪い猿人形を?」
もらってしまったのなら仕方ないが、台所に放置しないでほしい。仏教的には台所に飾るのは大黒様と相場が決まっているのだ。
ところで肝心の響子はどこへ行ってしまったのだろうか。
「一応別の部屋も見てきたけど、響子どこにもいなかったんだよ」
「なら、もしかして戻ってるんじゃない? 私達と入れ違いになっちゃったのかも」
「それもそうね」
一輪達は勝手に納得して、謎の猿人形と秘蔵酒を手土産に元の大部屋へ戻る。
ところが三人が戻ってみれば、だだっ広い部屋には星が一人で酒を呑んでいるだけである。響子が戻っていないどころか、マミゾウの姿もなかった。
「あれ、マミゾウさんもいないの?」
「お手洗いとかじゃない? あ、いや、私さっき響子を探しに厠も行ったけど、誰ともすれ違わなかったわ」
「酔いと眠気覚ましに外に出たのかしら。ねえ星、マミゾウさん……」
どこ行ったか知らない? と聞こうとしたところで、一輪は目を瞬く。マミゾウが枕代わりに寝そべっていた座布団の上に、一輪の腕の中にある猿人形とよく似た猿人形が落ちているのだ。
「え、えー?」
一輪はすぐさま拾い上げて手元のそれと見比べる。デザインはよく似通っていて、サイズからしても同じ作者の作り物だと思われる。ただ異なるのが、座布団の上に鎮座していた猿は両手で目を覆うポーズを取っているのだ。
「マミゾウさんが化けてる……とかじゃないよね」
「なわけないでしょ」
「じゃあ落とし物? さっきもマミゾウさんの秘蔵酒の近くにこれが落ちてたんだし」
「ていうか猿も気になるけど、結局二人はどこ行っちゃったのよ?」
「女御の祟りよ」
唐突に、それまで無言で酒を呑み続けていた星が切り出した。顔は真っ赤、身体はフラフラ、漂う酒のにおい、完全に出来上がりといった感じで、目は据わっている。
出し抜けかつ不穏な言い分に一輪とムラサは「はあ?」と眉をひそめる。
「え、何? さっきの与太話まだ引きずってんの?」
「長年破邪の毘沙門天を務めてきた私にはわかるわ。聖の留守をいいことにか、命蓮寺に何かよからぬものが出入りしているのよ。私達に敵意を持った何かがね」
「えーと……星、響子とマミゾウさんがそのよからぬものとやらに襲われたとでも言いたいの?」
「ええ。きっと庚申待ちの夜に死んだ女御の霊よ」
一輪は雲山とムラサと揃って顔を見合わせる。幻想郷には幽霊だの亡霊だの怨霊だのがうじゃうじゃいるので亡き女御の霊がいたとしても驚かないが、命蓮寺が女御の霊に目をつけられる理由がまったくわからない。が、目の前の酔いどれ毘沙門天は本気であり、語り口は妙に真に迫っている。
「女御の祟りよ。死んだ女御は未練を持っていて、自分と同じように庚申待ちの夜に眠った者を、道連れにしようとしているんだわ」
「うーん。星、ひょっとしてマミゾウさんがいなくなる瞬間を目撃しちゃったの? その時に霊が見えたの?」
「怨霊は通常、人の目には見えないもの……ちょっとお酒を注ぎ足そうと目を離した隙に気がついたら忽然と消えていたの。驚くべき早業ね、修行を積んだ私でも全容を捉えることは不可能だったわ」
「ただ見逃してるだけじゃない!」
ムラサがいなくなった響子のぶんまで盛大に叫ぶ。この大虎、酒が入ったせいで見事に役立たずと化している。だから星に呑ませるべきじゃなかったのよ、とムラサは改めて一輪を恨めしく思う。
しかし星はめげずに「祟りよ」と因習村の老人みたいに繰り返す。
「庚申の夜に最も警戒するべきは三尸の虫だけじゃなかったんだわ」
「あのさ星、怨霊が猛威を奮ってた平安時代はとっくのとうに終わってるんだけど」
「そうとなれば早速退治しなければね。何度も不届き者の侵入を許したと知られたら命蓮寺の沽券に関わるもの」
「あんたの大虎っぷりが知れ渡る方が命蓮寺の信頼ガタ落ちの危機なんだけど。てかどこ行くの?」
「決まってるでしょ、鬼門よ」
星はふらふらと立ち上がり、宝塔と鉾を引っ下げて歩き出す。
「よくないものは鬼門から入ってくる。鬼門は丑寅。私は寅丸星。ふふふ……久しぶりに血が騒ぐわ」
星の目は爛々と獣らしい獰猛さに燃えているが、その足取りは千鳥足で、大変頼りない。
「あーあ、いつも荒事は苦手だとか抜かしてるくせにこういうときだけ強気なんだから」
「止めなくてよかったの?」
「少しは夜風にあたって酔いを醒ましてくればいいわ」
もし星が太刀打ちできなかったとしても、自分と雲山が揃っているなら怖いものなど何もない――自分達が萃香に一撃で昏倒させられたことは都合よく忘れてそう思い込むのだった。
「星の言う女御の祟りって本当かなあ」
「まさか。ムラサ、あんたまで呑みすぎてんじゃないの? 百歩譲って女御の霊がいるんだとしても、この猿達は何なのよ」
「だよねー。さすがに千年前に青面金剛様の前に三猿がいるとこは見た覚えないしなあ」
だよねーあははと笑って済ませるつもりが、ムラサの言葉に引っかかりを覚える。
「今、『三猿』って言った?」
「え? だってこれ『言わざる』と『見ざる』じゃないの? ポーズ的に」
ムラサに言われて猿人形を見てみれば、確かに日光東照宮などで有名な三猿のうち、二つのポーズを二体の猿人形が取っているのであった。庚申に『申』がつくことから、三尸の虫と呼応する三猿信仰が庚申信仰と結びついて後世に出来上がっていったのだ。
「ふーん、じゃあ残り一体の『聞かざる』もどっかに落ちてるのかしら」
などとムラサと雑談を続けているうちに、一輪ははたと気づく。
星が戻らない。響子の時を彷彿とさせる感覚である。
「星、遅くない?」
「……うん」
完全にフラグが立った予感しかしなかった。
普段の星ならともかく、今の酔いどれ星はあんまり信用できない。単に怨霊に返り討ちにされただけならいいが――三人が鬼門に駆けつけた頃には時すでに遅し、星の姿はどこにもなかった。そして、星が消されたと思わしき現場には、耳を塞いだ猿の人形が落ちていた。
「聞かざる……」
ぽつんとつぶやいたムラサの声は心なしか震えていた。どこかに落ちているのかとは言ったが、本当に三猿が揃ってしまった。消えた命蓮寺の仲間達と引き換えに。
「ねえ、一輪……」
「ええ、わかってるわ」
深夜に一人また一人と失踪する仲間達。
置き去りにされた共通のアイテム。
庚申待ちの夜に死んだ女御の話。
まるでミステリーかホラーみたいな話じゃないか――。顔面蒼白のムラサを見て、一輪はしかとうなずいた。
「ここに化け物の絵を飾りましょう」
「違うわ!!」
ここに教会を建てようみたいなノリで言う一輪にムラサはずっこけた。一輪は歯牙にもかけずぺらぺらと御宅を並べてゆく。
「ほら、昔はよくあったじゃん、鬼門にわざと恐ろしい化け物の絵を飾っておくの。それで魔除けにするやつ。清少納言だって清涼殿の丑寅の隅にある化け物の絵がマジ怖いって書いてるし。やー、気休めとはいえ、うちらもさっさとそれやっとくべきだったね」
「さっきの平安時代はとっくに終わったって話はどこ行ったの!? だいたい私達はほとんどがド庶民出身であってやんごとない人達のことなんかどうでもいいから!」
ムラサがあんまりなことを喋っているが、命蓮寺に連なる者のうち、例えば商売敵の豊聡耳神子のような『いとやんごとなききわ』と呼べる身分の者は残念ながら一人もいないのであった。
「あれだよあれ! 閉ざされた空間で次々に人が消されるとか、こんなのもう、誰もいなくなるとか手毬唄とか、見立ての連続殺人事件が起きるやつだよ!」
「まだ死んだと決まったわけじゃないでしょ」
「だ、だって! じゃあ星はどこに行ったの? 響子は? マミゾウさんは?」
「そりゃあわかんないけど、何よ、女御の祟りを本気にするの?」
「女御じゃなくても、三回連続でこんなことが起きたら、何かヤバいやつが動いてるとしか思えないじゃん! 神隠しが現実の命蓮寺で起きてるのよ!」
おそらく完全に酔いが醒めたのであろうムラサの恐慌ぶりに、一輪はため息をつく。ムラサは舟幽霊なのに意外と小心者である。怨霊の仲間みたいな舟幽霊が怨霊や祟りを怖がっていては話にならない。
それにしても、神隠しなんて言われたら、幻想郷では某スキマ使いしか思い浮かばないが、残念ながらあの賢者が命蓮寺の妖怪を攫うもっともらしい動機がない。どう見ても犯人っぽいのに真犯人たりえない、そういう意味では紛らわしくてズルいやつである。
「神隠しにしても殺人事件にしてもさあ。誰がなんのためにやるのよ。私達、なんか恨みを買うようなことしたっけ?」
「……」
「ムラサ、あんたまさか」
ムラサは急におしだまる。よっぽど自らの罪が後ろめたいのかと思いきや、一輪と雲山に恨めしげな視線を寄越しているのである。
「一輪、人のことばっかさんざん責めておいて、あんたは自分が地底時代にやらかしたこと忘れてない?」
「……あっ」
「あっじゃない!」
ようやく一輪は地底にいた頃の雲山やムラサ(とぬえ)達とやらかしたあれやこれやを思い出す。具体的に何をやらかしたのかは彼女達の名誉のために伏せておこう。
「あー……あの頃の私達、若かったわね? 何も怖いものなんてなくて、怖かったのは雲山の優しさぐらいだわ」
「神田川に沈めてやろうか。あーもー、ただでさえ生きてるうちに地獄を見る羽目になってしんどい思いをしたのに、死んだらあれらの罪のためにまた地獄に行かなきゃならないなんて!」
「ムラサはもう死んでるんじゃない?」
「死んでるけど死んでないのよ!」
パラドクスである。あるいは哲学である。だからこそムラサは哲学的な仏教に救いを求めるのかもしれない。知らんけど。
「大丈夫よ、仏様は慈悲深いから。妖怪の私達はまだ人生長いんだし、地道に功徳積んできゃなんとかなるって」
「なんであんたは昔っからそう楽観主義なのよ!」
一輪(と雲山)の能天気ぶりに嫌気がさしたムラサがぬえとの交流を深めていくことになったとはもっぱらの噂である。
一輪からすればムラサが悲観主義すぎるのである――と言いたいところだが、一輪は酔いが未だに醒めないせいで能天気思考に拍車がかかっているのは否めない。
そう、一輪はこの期に及んでまだ酔っ払っている。まるで雲の上を歩くようなふわふわとした心地で、酩酊のせいか、あるいは懐かしい庚申待ちのせいか、平安時代と現代を交互にトリップしているような感覚すらある。
心地よい酩酊は一輪から持ち前の思慮分別や頭の回転の速さを根こそぎ奪って、ノリの良さと楽観主義だけを残していくのだった。楽しい飲み会では良き話し相手だが緊急時にはまるで役に立たない。
「わかった、わかった。私達の罪は一〇八じゃ収まりきらないほどあるのは認めましょう」
「それは煩悩の数よ?」
「揚げ足を取るな。恨みを買ってる心当たりがありすぎるのもわかった。女御じゃなくても誰が祟りに来てもおかしくないわ。だけど、残された三猿人形の意味は結局何?」
一輪にそう言われて、ムラサはようやく大人しくなる。
一輪は気味の悪い三猿人形をじっと見つめる。一体目の『言わざる』を見た時に感じた既視感は三猿信仰であったかと納得しかけるも、一輪にはまだ引っかかりがある。
この三猿、どこかで見たことがあるような。もちろん日光東照宮ではない。青目金剛の絵図に添えられた三猿の絵でもない。ならどこだろうと雲山に意見を求めるも、雲山も酔いが回って頭が働かないようである。
「そういえば、どこにどの猿が置いてあったのか、それにも意味があるのかしらね」
ムラサは少し落ち着きを取り戻したのか、改めて一輪達と共に三猿を観察し直す。
響子がいなくなった時に置かれてあったのは『言わざる』。うるさいから黙れということか。
マミゾウは『見ざる』。メガネをかけるくらいだから視力はいい方ではなかったはずだが、マミゾウは犯人にとっての何かきまり悪いものでも見てしまったのだろうか。
「で、星が『聞かざる』。なんでだろう?」
「あれじゃない? 毘沙門天って別名を多聞天とも言うじゃん」
「本物の多聞天じゃないから、多くを聞いてくれないってこと?」
「なんかこじつけくさいなあ」
「そんはこと言ったらだいたいの見立て殺人はこじつ」
「それ以上いけない」
なんらかのタブーに触れかけた一輪をとどめたところで、ムラサはうんうん唸り出す。一輪もほろ酔いの脳みそに鞭打ってどうにか既視感の正体を捻り出そうとするが、何も思いつかない。
「一輪、どうしよう」
ぼんやり考え続ける一輪に訴えかけるムラサは青い顔をしていた。よっぽど祟りだか神隠しだかが怖いのかと思いきや、口元を押さえている。
「吐きそうなんだけど」
騒ぎすぎて、酔いが醒めたのはいいが吐き気が襲ってきたようだ。
「お手洗い行ってくれば?」
「やだよ! この流れで一人で行きたくないよ、絶対攫われるじゃん!」
「いいじゃん、今どき女子の集団トイレをやるような年頃でもあるまいしー」
「……ならここで吐いていいわけ? あんただって嫌でしょ?」
「たとえゲロっても規約に引っかからない程度の描写に抑えられるから大丈夫よ」
「もうやだ、この酔っ払い本当にやだ。ああぬえ、今からでも帰ってきて私を助けて」
「大丈夫だって、要は庚申待ちの間に寝たやつが消されるんでしょ? 寝なきゃいいのよ、怖くない怖くない」
「あんたの能天気思考が一番怖いわ!」
「しょうがないなあ。じゃあ魔除けの陀羅尼とか唱えといてあげるから。それともあれかな、吉備津の釜みたく」
「ぎゃー!!」
部屋中にお札をあちこち貼って、と言おうとしたところで、突然叫び出したムラサに一輪もさすがにビビる。悪心を起こした割には意外と元気である。
「な、何よ、私なんか変なこと言った?」
「こんな時に怪談なんか持ち出さないでよ! ラストのホラーシーンをありありと思い出しちゃったじゃない!」
「えー……じゃあ代わりに耳なし芳一作戦は」
「私を聞かざるにする気か! ああ、私の未来は血の池地獄のように血みどろよ。私も今に正太郎と同じ末路を辿る羽目になるんだわーっ!!」
「あんた一体どんだけ悪いことやらかしちゃったのよ」
もしかしてムラサはまだ酔っているのか、星とは別ベクトルで面倒くさい酔っ払いだなと一輪は自分を棚に上げて思う。なお、吉備津の釜とは放蕩三昧のドラ息子正太郎が、遊女に入れ込んで良妻・磯良を騙して捨てた結果、亡き磯良の怨霊に復讐される話である。やっと正太郎の恐ろしい長い夜が明けたと思ったのに、外は真っ暗、そして悪鬼と化した亡き妻が――ムラサは暗闇も苦手だった。本当に舟幽霊なのか?
再び恐慌状態に陥ったムラサではあったが、結局込み上げる吐き気には勝てず、一人で厠に向かうのであった。
一輪は雲山と二人、星のいなくなった鬼門でムラサを待っている。
「まったく、どいつもこいつも世話が焼けるんだから」
彼女達に世話をかけているのが自分だという自覚はかけらもない一輪である。
「え、何、雲山。一人で行かせてよかったのかって? ムラサなら大丈夫よ、あれだけ騒がしけりゃ寝落ちはしそうにないし」
寡黙な雲山は「今また新たなフラグが立てられた気がする」と思ったようである。
一輪は大きく伸びをして、東の空を眺める。時刻はおそらく寅の刻を迎えようとするところだろうか、空はまだ暗く、夜明けにはもう少し時間がかかる。
「あーあ、せっかく楽しい庚申待ちの夜だったのになあ。怨霊だか神隠しだか知らないけど、変なやつのせいで台無しよ」
一輪は『女御の祟り』には懐疑的だが、平安生まれの妖怪かつ幻想郷に暮らす身であるので、怨霊や祟りの存在は肯定する。先日も宮出口とかいう怨霊のせいで命蓮寺はえらい目に遭わされたものだ。
それにしても、と一輪は命蓮寺の鬼門を改めて見やる。よくないものは鬼門から、と星は言うが、誰かに侵入された形跡はない。響子の消えた台所やマミゾウの消えた大部屋もそうだ。
もしも命蓮寺に何者かが侵入して、仲間を攫っているのであれば、そいつはどこからどうやって入って、誰にも見つからず消えてゆくのだろうか。
「やっぱスキマ妖怪とか後戸の秘神とか……」
酔っ払って頭が働かないせいか、都合の悪いことはぜんぶ賢者のせいにしたくなってきた。
「どう思う、雲山? 私達をこんな風に脅かして得をするやつって、誰だと思う?」
一輪が寡黙な相棒の答えを待っていたその時だった。厠の方角から地獄の亡者みたいな悲鳴が聞こえてきた。
「え!?」
一輪は即座に雲山と共に厠へ駆け込む。
「ちょっとムラサ、いる? いるの?」
厠の戸を激しく叩くが返事はない。もし吐瀉物まみれで倒れてたら掃除と介抱はどうしようという考えが頭をよぎるが、勇気を出して一輪は扉を蹴破った。
個室の厠にムラサはいなかった。ついでに言えば汚れてもいなかった。ただ、厠の床には、一輪達が集めた三猿人形と同じ猿の人形が、おどろおどろしい雰囲気と共に鎮座しているのである。
「四体目?」
一輪は目を瞬く。三猿とはその名のとおり三体しかいないのではなかったか。実は知られざる四体目の存在が……なんて、出来の悪い都市伝説ではあるまいし。そいつはなぜか虫取り網に似た奇妙な道具を携えており、顔や姿形は三猿と同じものの、あまりに異質すぎる雰囲気をまとっていた。
「……雲山、どうしよう」
さすがの一輪も相棒に縋らざるを得なかった。
「厠の床に落ちてた人形を持ち帰るのは嫌なんだけど……」
寡黙な雲山は「洗いなさい」ともっともらしい忠告を与えた。叫び声を上げた事実からしても、ムラサは眠ったわけではないのだ。なのにムラサは消えてしまった。原因を探るためには、四体目の猿を調べるしかないのである。
一輪は厠の手洗い場で丁寧に猿人形を洗い、鬼門に置いてきた三猿と並べてみた。この四体目も、作り手は三猿と同じ人物としか考えられない。
「うーん、四体目の猿……四猿……しざる……死ざる?」
ムラサはすでに死んだ――本人は生きているとも言うが、舟幽霊である。一度死んだ者はもう死ぬことはないという意味か。あるいは『死、去る』で死が遠のくという意味かもしれない。
一輪は再び四体の猿人形を観察する。やはり単なるデジャヴではない、どこかでこれらの猿を見た覚えがある。
「ねえ雲山、どっかで三猿や庚申待ちにまつわる噂を聞かなかったっけ、その中に四猿の話とかあったりして……雲山?」
そこで一輪は相棒の異変に気づいた。今まで寡黙すぎてたまにしか喋らなかったので気づくのが遅れたが、彼は必死に襲い来る睡魔と闘い続けていたのだ。一輪の不安に応えるように、雲山は「もう眠くてたまらない」と言ったようであった。
一輪は激しく動揺した。これまで仲間達が消えてしまっても『なんとかなるさ』とお気楽に構えられていたのは、ひとえに雲山という頼もしき永遠の相棒が傍らに居続けたためだ。え、お酒の酩酊のおかげ? それはそうかも……。
とにかく一輪は尋常でなく焦って、瞼の重たそうな雲山に必死に呼びかけるのであった。
「雲山、駄目よ、眠っちゃ駄目! 今眠ったら、二度と起きられなくなっちゃう!」
寡黙な雲山は「そんな真冬の登山みたいな」と思っているようである。しかし相棒の窮地なので一輪は必死だった。
「しっかりして、夜明けはすぐそこよ、庚申の夜はもう少しで終わるのよ! そうしたらきっと神隠しだって……雲山、起きてったら! ええい、これでも食らえ、目覚ましビンタ! ああ、ちっとも効果がない! ならあれよ、眠り続ける相手を覚ます方法といえば昔からチューがお約束よ! あ、でも私キスなんてしたことない……雲山に私の初めてをあげちゃうなんて……いいや背に腹は変えられるものか! 人工呼吸みたいなもんよ、私の天使のキッスを食らえ!」
寡黙にして昔気質な雲山は「一輪に悪魔のキッスで起こされるくらいなら永遠の眠りについた方がマシだ」と思っているらしい。無言で首を振り続け断固拒否の姿勢を徹底し、今にも眠ってしまいそうな雲山に、一輪は我を忘れてすがりつく。
「雲山、私達はずっと一蓮托生でしょう! 病める時も健やかなる時も、とかじゃないけど運命共同体なのよ、あんたが嬉しい時は私も嬉しい、悲しい時は悲しい、あんたが悪酔いしてリバースしたら私ももらいゲロするし!」
最後のは一蓮托生ではない。
あまりに取り乱して相棒にすがりつく一輪に雲山も親父心をくすぐられたのか、一輪、と普段より優しく呼びかけるのだった。
「え? 何?」
一輪は雲山のあえかな声を一文字でも聞き漏らすまいと耳をそばだてている。雲山は薄れゆく意識の中で、うしろ、と言ったらしかった。
「な、何よ、誰がいるっていうのよ」
一輪は恐る恐る振り返る。心なしか、普段の命蓮寺には一切流れていないはずの、異常な気質が混じっている気がする。これが犯人の残り香であろうか。
しかし、たとえどんなに恐ろしい怨霊であっても、強大な妖怪であっても、得体の知れない神であっても、我が相棒は命に替えても守る――できればその心意気を他の仲間達相手にも発揮してほしいものだ。
ところが、一輪が金輪を両手に振り返っても、そこには誰もいなかった。
「逃げたのかしら。星の言う通り、逃げ足の速いやつだったらどうしよう……雲山?」
一輪が安堵半分、警戒半分に振り返ると、一輪の相棒はそこにいなかった。まるで煙が空の雲へ立ち昇るように、跡形もなく消え失せてしまった……一輪は愕然と膝をつく。
「……何よ。何よ、雲山! それで私を守ったつもり? 馬鹿にしないでよ!」
一輪は悔しさのあまり床を殴りつける。雲山は一輪の自分への意識を逸らすため、わざと目を離させる真似をしたのだ。
「馬鹿、馬鹿! あんた一人だけカッコつけて消えられたら、私はどうしたらいいのよ!」
あまりに悔しくて涙すら滲んできた一輪の視界に、異物が転がっているのが映った。
まさかと思えば――さっきまで雲山がいた場所に落ちていたのは、五体目の猿の人形である。
四体目がいるなら、五体目がいてもおかしくないのだろうか。ならば、この猿は命蓮寺の妖怪をすべて根絶やしにするまで増え続けるのであろうか?
一輪は恐る恐る、震える手で猿人形を拾う。そいつはやはり今までの猿と同じデザインだが、どうしたことか、四体の猿と比べて作りが荒っぽく、どんなポーズを取っているのかすら判別できない、はっきり言って未完成品だ。
しかし不完全なものにしか宿らない芸術性というものがあるのか、荒削りゆえのおどろおどろしさは四体の猿が持つそれに勝るとも劣らない。
背中には、禍々しい文字が呪詛のように切り刻まれている。一輪は固唾を飲んで、荒れた文字を解読してゆく。そこに刻まれていたのは……。
【五猿でござる】
「やかましいわ!!」
一輪は思わず五猿を床に叩きつけた。四猿の時点でちょっと怪しかったが、もはやこじつけすら放棄したただの駄洒落である。
しかしあまりのくだらなさのおかげで一輪は相棒が消えた不安も恐怖も吹っ飛び、平静を取り戻した。
「オーケー雲居一輪、私はサイコーに冷静よ」
一輪は雲山の尊い犠牲でトリップ感覚も落ち着き、しつこかった酔いがようやく、本当にようやく醒めたようだ。もっと早く醒めてほしかった。
「最後に残ったからって私は首をくくったりなんかしないわ。ええ、この私が命蓮寺の珍事件を解決してやろうじゃない、聖様の名に賭けて!」
他人の褌で盛大に相撲を取ったところで、一輪は黙々と考える。
「だいたいねー、庚申待ちの祟りなんて聞いたことないわ。星は庚申待ちの夜に亡くなった女御がどうとか言ってたけど、それって後世に〝狂疾の帝〟なんて大層不名誉な呼び名を頂戴した冷泉帝の女御・藤原超子のことでしょ。超子の兄弟があの藤原道長よ。時のお偉いさん達に囲まれて、藤原の政争のゴタゴタに巻き込まれて、罪のない女御まで面白おかしく死因を吹聴されることになったのよ。亡くなられたのはお気の毒だとしても、庚申の日だったのは偶然の一致にすぎないはず。馬鹿げてるわ!」
とまあ、歴史物語の裏側にある陰湿な権力闘争を根拠に女御の祟り説を粉砕し、一輪はまたも不気味な猿人形達と対峙する。
「うん、やっぱり間違いない。私は確かにこの猿達を見たことがあるのよ。やっつけ仕事の五体目はともかく、この独特な四体目のポーズは見覚えがあるわ。それにほんのわずかだけど、この猿の、特に五体目の周りにはよそ者の気配が残ってる。犯人が残していったものに違いないわ。星やムラサの言った通り、敵意のあるよそ者が入り込んでいたのは事実なのよ」
徐々に真実に辿り着いてゆく一輪の背後がほんの少し明るくなった気がして、はっと振り返る。
まだはっきりと日が昇る様を目視できるわけではないが、東の空が白み始めていた。夜が明けてゆく。平安の頃なら、夜明けが新しい一日の始まりであり、庚申の日の終わりだ。
そして一輪は、あたかもトゥーランドット姫が求婚者の王子に突きつけられた一つの謎を夜明けと共に解き明かしたように、朝日の中で答えを見つけたのだ!
「思い出した。ようやく犯人がわかったわ。どこかの名探偵が言う通り、真実はいつも一つなのよ」
一輪は五体の猿を指差し、高らかに宣言した。
「こんなしょーもないアイテムを思いつくような人って、一人しかいないもの! ――そうでしょ、神子様!」
「悪かったな、しょーもなくて」
その時、忍者屋敷のように命蓮寺の廊下の床がガタッと開いて、その下から猛禽類の耳に似た特徴的な髪型がのぞいた。命蓮寺の永遠の商売敵、神霊廟の長・豊聡耳神子である。一輪は再び金輪を握りしめる。
「やっぱり貴方だったんですね!」
「そうだよ。気づくのが遅過ぎたな」
「私達の仲間をどこにやったんです。雲山は? 私達に恨みがあるのはわかりますけど、どうしてこんなことをしたんですか」
「そういっぺんに聞くな」
神子はよっこい聖徳太子と廊下の上に這い上がる。
「正解に辿り着いたお前には一つ一つきちんと答えてやるよ。まずは……」
「いいえ、それはみんなを集めた上で、私からも説明します」
神子が開けっぱなしだった仙界と命蓮寺の繋ぎ目から、またも見慣れた影が顔を出した。現れたのは――我らが住職・聖白蓮その人である。
「ええっ、聖様!? ど、どうしてそんなとこに!」
「事情はこの人の仙界で説明します、貴方もついてきなさい」
「は、はい……」
色々と聞きたいことはあるのだが、毅然とした態度にどこか剣呑なものを感じて、一輪は大人しく従うのだった。
「あっ、一輪さん!」
「おや、お前さんもとうとうお縄についたかい」
「当たり前よ、一輪だけ逃げるなんて許さないんだから」
一輪が連れられたのは神霊廟にある道場の一室だった。
果たしてそこには命蓮寺の仲間達が元気な……いや、正確には少々やつれた姿で揃い踏みしているのだった。特に星などはいつもよりも早く酔いが醒めたのか、二日酔いと自己嫌悪にえらく苦しんで一輪に気づきもしない。
「雲山!」
一輪はその中でいち早く相棒の姿を見つけて、駆け寄って抱き合った。
「ああよかった、雲山も無事だったのね! あんたがいないとほんの少しの間でも寂しかったわ」
「その情けを少しは私達にも分けてほしいものね」
ムラサが皮肉っぽく言うが、一輪は意にも介さない。
「さて、全員が揃ったところで、改めて今回の事件の真相を話そうじゃないか」
神子は笏を手に音頭を取ると、一輪が抱えてきた五体の猿人形を指差した。
「そもそも、お前達平安生まれの仏教徒は忘れているようだが、庚申待ちとは、元々道教の中で生まれた行事だ」
「いえ、覚えてましたよ。……ちょっとお酒で記憶が飛んでただけで」
一輪の苦しい言い訳に、聖の眼差しが一段と険しさを増した気がした。
神子の言う通り、庚申待ちは大陸由来というか、道教由来の行事である。それが日本に入って仏教やら民間信仰やらと融合して独自の発展をするといういつものパターンである。
この四猿は道教布教の目的で神子が独自に編み出したものだ。前に鴉天狗の新聞で四猿人形と一緒に庚申信仰について語る神子の記事を読んだのを、一輪はさっきやっと思い出したのだった。何せ猿達のデザインがすっげえキ……奇抜すぎて一輪の美的センスとどうしても相容れない代物だったので、早々に記憶から抹消していたのだ。
神子は一輪が抱えたままの五体の猿人形を指し、鼻で笑う。
「もちろんそれぞれの猿には意味がある。礼あらざれば見るなかれ、礼あらざれば聞くなかれ、礼あらざれば言うなかれ。これまた古の良き典なり」
「じゃあムラサの『死ざる』は?」
「お化けは死なない、病気もなんにもない」
「いや死ぬ時は死にますし病気だってしますけど」
「ああ、入道に残した五猿はお前が床に投げたから『投げつけざる』と命名しよう。礼あれば物を粗末に扱うなかれ」
「もはや庚申待ちと何も関係ないじゃないですか」
やっぱり途中からただの駄洒落だった。ついでに言えば三猿の由来は道教でも仏教でもなく儒教の教えなのだが、この三教はよくごっちゃにされがちなので混ざっててもいいのかもしれない。
「だいたいね、お前達のやっている庚申待ちは道教の目的からは大いにズレている。お前達、まさか本当に天帝とやらの存在を信じているのか? 三尸の虫は閻魔王の使いだぞ?」
「いいえ、日本に入ってきた時点で大陸のそれとはもう別物なのよ」
そこへ聖が口を挟む。神子もまた演説を邪魔されたせいか眉をつり上げて応戦する。
「お前も天帝を信じるのか。よほど死後の罪の報いが恐ろしいらしい」
「貴方にとっては天の帝なんかいない方がいいんですものね。自分が一番上に立ちたいんだもの、目障りだから地獄を引き合いに出すだけ」
「いやはや、さすがに千年以上お上を牛耳った邪教の使徒は言うことが違う」
「負け惜しみにしか聞こえませんよ。素直におっしゃい、民のためなど大義名分でただ有名になりたいだけだと」
「なら民間に浸透するためなら手段を厭わない仏教のやり手ぶりはどうだ。だいたい青面金剛ってなんだ、私はそんな仏を広めた覚えはないぞ」
「貴方の生きていた時代とは何もかもが違うんです、仏教だって進歩します。古い時代の聖人は引っ込んでなさい」
「ならばお前にも退場願おうか、千年前の魔女よ」
「痴話喧嘩は後にしてもらっていいですかね!」
一輪が痺れを切らして叫んだ。誰かが止めに入らなければずーっと言い争いを続けそうな二人である。
「そもそも聖様はどうして神子様の道場にいるんですか。夜通し読経ライブの予定は?」
「行き先は告げてはいませんでしたね。神子が今夜、いえ、昨夜の依頼人その人ですよ。目の前で夜通しお経を聞かせてきました」
「悪いな、勝手にお前達の親分を貸し切った」
「いや、別にいいですけど……神子様、よくもあんな変なイベントを一人っきりで鑑賞する気になりましたね」
「まあまあ面白かったよ」
「私にとっても有意義でした。ワンマンライブはいいものですね」
「あれをワンマンライブっていうのかなー……」
一輪はいまいち納得いかないが、聖は満足そうである。
「まあ、このように命蓮寺住職としての私の仕事はおかげさまで充実していて、とても喜ばしいことです。ですが、弟子達の指導はうまくいかないようだと常々痛感していましてね」
聖の冷ややかな目が一輪達に向けられて、一同はぎくりと身体をこわばらせる。
心当たりがあるなんてレベルじゃない、聖が日頃から厳しく酒を呑むなと言い聞かせていたのに、つい先ほどまで寺で飲み会を開いてどんちゃん大騒ぎしていたのである。
「それで、うちの弟子達がたるんでるんじゃないかって神子に相談したんです」
「商売敵にしないでくださいよ」
「最近の貴方達の言動はあまりに目に余るんですよ。ろくすっぽお経の勉強もせず、長所といえば大声ばかりでご近所迷惑」
どきっと響子が肩を跳ねさせる。
「居候の身を弁えず、勝手にほっつき歩いたり修行僧達を甘言でそそのかしたりして」
「いやはや、儂はお前さんの弟子じゃないんだから、ちっとは見逃してくれんかのう」
マミゾウは呑気に笑うが聖は笑わない。
「お酒に溺れて気を大きくして、ありもしない祟りをでっちあげて吹聴したり」
星のどんよりした空気が重くなった。このままでは一日中自己嫌悪を引きずりそうだ。
「妄語に惑わされて平静を失くしたり。それに未だに水辺に行っては悪さをしているとか」
ムラサが震えて返事もしない。全員が揃う前によっぽど絞られたのだろうか。
「無口は仕方ないにしても、仲間の不徳を止める力がまったくなかったり」
雲山はいつもと変わらないが重い沈黙を保つ。これに関しては一輪もさすがに申し訳ないなと思った。
「そして一輪。貴方の酒飲みは本当に、本当に、本当にひどい」
「いや星の方が酒癖はひどいですよ!?」
「私は頻度の話をしているんです。そりゃあ私だって、あまり古い習わしに縛られるのもどうか、悟りの妨げにならないのなら、たまの飲酒くらい目を瞑ってもいいのではないか……そう考えたこともありましたが、昨夜の貴方達を見る限り、飲酒を続けながらでも悟りの境地に至れそうな者は一人もいませんでしたね」
せめてもう少し早く気づいてくれればね、とでも言いたげな口ぶりにぐうの音も出ない。全員酔っ払って醜体しか晒していなかった。
「それに一輪、貴方はお寺でこっそり飲むだけでは飽き足らず、こちらの布都さんとも暇があれば私の目を盗んで飲み歩いているようですね」
「ちょっと神子様!?」
「もちろんチクったよ。こちらとしても布都がお前との交流を優先して修行のやる気をなくしたら困るからね」
元々布都にやる気はあまりないのだが、しかしこの地獄耳もとい豊聡耳、その能力ゆえに三尸の虫より厄介なチクリ魔である。
つまるところ、神子と聖はお互いの利害が一致したわけだ。いがみ合うより協力する方がお互いのためだと一輪は呑気に考えていたが、あまり結託されてもそれはそれで厄介だなと思う。
「そしたら神子は少し脅かしてやりなさいって言うものだから。折しも貴方達が庚申待ちにかこつけて酒盛りをやるという噂が入ってきたので、お灸を据えるにはちょうどいい機会だと思ったんです」
「で、神子様に協力してもらって連続誘拐事件を起こしたんですか」
「神隠しと言え。私の仙術にかかればワープも監視もやりたい放題だからな」
要するに、神子は読経ライブを聴く傍らで仙界と命蓮寺を繋げて一同を監視し、隙のあるやつが一人になった瞬間に攫って即座に道を閉ざし、攫われた者は仙界で聖からありがたいお説教を受ける、というルーティンを繰り返していたのである。トリックも何もあったもんじゃない。
「ただ、悪酔いしてた舟幽霊はともかくそこの化け狸だけはちょっと危なかったね」
「狸寝入りで逆に侵入者を捕まえてやろうと思っておったのに、お手が早いもんじゃ」
「えっ、マミゾウさん寝たふりしてたの!?」
「私達は完全に寝落ちしたもんだと……」
酒に強いマミゾウが早々と寝るのはおかしいとは思っていたが、見事に騙された一輪達は確かに酔い過ぎていたのかもしれない。
考えてみれば、神子も聖もその気になれば自分一人だけで誰にも気づかれず人を攫ったり記憶を消したりする神隠しを起こせるのだった。どう考えても聖人の所業ではないし、本人達も進んでそんなことをやる性格ではないが。
「しかしお前達ときたら隙だらけで、攫うのが簡単すぎたよ。修行が足りないんじゃないか?」
商売敵に煽られても反論できない一輪は拳を握りしめるしかなく、計画が成功した聖は満足げに笑っている。
「おかげで目が覚めたでしょう?」
「ええ、徹夜明けの朝日の眩しさもあってお目々ぱっちりです」
「私も倉庫で眠っていた四猿ちゃんが日の目を浴びて嬉しい限りだよ」
「そういえば、結局あの猿を残していった理由はなんだったんです?」
「ヒントとアピールだよ。庚申待ちは仏教だけのものではない。それにお前達ときたら、ちっとも私の出入りに気づかないものだから。本当に良くないものが入ってきても知らないからなというありがたい忠告だ」
誇らしげな神子の背後には、猿の人形の作りかけが三体ほど転がっている。神子が自分で彫ったんだろうか、ご苦労なことだ。
なお、四体目の正式名称は『逃さざる』である。長生きしたい仙人にとって人の寿命を縮める三尸の虫は本当にお邪魔虫なのだ。
「五猿は急拵えだったので出来がいまいちなんだが、仕方ないね」
「出来栄えよりネーミングの方が問題だと思いますよ」
「まあ出すのが五体で済んでよかったよ。お前達はやたら大所帯な上に何人常駐しているか把握できないから、こっちも猿を何体追加するべきかわからなくって」
「確かにうちは出入りが多いですね」
「私も実は今日何人お寺にいるのかわからなくて」
「いや聖様は把握しててくださいよ!」
ぬえが勝手にいなくなったりマミゾウが勝手にうろついたりナズーリンがいつのまにか無縁塚から寺に引っ越してたりするんだから仕方ない。
「さて、せっかくだから記念として四猿ちゃん達はお前達にプレゼントしよう」
「これ受注生産だったはずですよね。なんで余ってるんですか」
「『届いたら思ったより怖かった』と送り返されたんだ。素直に受け取るがいい。三尸の虫を捕まえて食べてくれる優れモノだ」
「捕まえるだけならまだしも食べるのは仏教的にアウトなんで無理です」
一輪は丁重にお断りした。そうでなくとも神子の作るものは新しい希望の面然り、四猿ちゃん然り、センスがおか……独特過ぎて平安生まれの妖怪達には受け付けないのである。
しかし一輪達は酒を呑んだり恋にうつつを抜かしたりするくせに、不殺生戒だけはかなり重く受け止めるのはなぜだろう。逆に不殺生戒さえ破らなければ何をしてもいいと思っているのならそれはそれで考えものである。
「まあ、昨夜のことはいいお勉強だと思っておきますよ。一連の謎は解けてすっきりしましたし、私達はそろそろお暇しましょうか。もうすぐ朝のお勤めが始まる時間ですし、いつまでも道場に留まっているわけには」
「お待ちなさい、一輪」
キリのいいタイミングを見計らって帰宅を申し出たつもりが、聖に抜け目なく呼び止められて心臓が跳ねる。
「で、ですが聖様、もう庚申の夜は明けましたよ?」
「いいえ。庚申待ちが終わろうが、私のお説教は終わっていません。小賢しい真似をして逃げようとするんじゃありません」
しかも一輪の目論見までバレている。朝のお勤めとか言ったものの、久々に酒を呑みまくった上に徹夜で騒ぎ明かしたので、寝不足も相まっていい加減頭が痛くなってきたのだ。正直、帰ってさっさと寝たい。
しかし普段温厚な聖は、珍しく本気で怒っているらしかった。聖の後ろに憤怒の不動明王や愛染明王の影が見える。
「とはいえ、貴方達の狼藉ばかりを責めるのも殺生な話でしょうね。弟子の不徳は師の不徳。私も貴方達への対応が甘かったのだろうと見に染みていますよ」
「それは殊勝なお心がけで……」
「ですから今回は恥を忍んでこの人にもよくよく忠告や訓戒をいただきました。私も良き師を目指しますから、貴方達にも良き弟子になってもらわなければ困りますよ」
「存分に諭しておいた、さぞお前達のためになるだろう」
何を余計なことをしてくれるんだ、と恨みがましい目で神子を見るが、どこ吹く風と言わんばかりに涼しい顔である。
「さあ、お寺に帰ったら、不飲酒戒の心得をみっちり叩き込んであげましょう。私のお説教が終わるまで、誰も寝てはなりませんよ」
聖の表情は穏やかな微笑の形なのに、目がまったく笑っていない。トゥーランドットの優雅なアリアの代わりに、どこからともなく例の処刑用BGMが流れ出した気がした。
(やーばーい)
この中で一番厳しいお説教を覚悟した一輪は冷や汗ダラダラで永遠の相棒を振り返るが、無の表情でただ首を振るばかりである。神子は「それじゃあ、よい一日を」と間髪入れずに仙界と命蓮寺を繋いで一輪達全員を送り返してしまった。唯一の蜘蛛の糸は無慈悲にも断ち切られたのだった。
都合が悪いことや不吉なことが起こればなんでも怨霊のせいで片付けられていた平安時代は遠く過ぎ去った。今の一輪にとっては怨霊はおろか、天にまします帝よりも、地獄に鎮座する閻魔王よりも、目の前にいる聖白蓮の方がよっぽど恐ろしいのである。
かくして一輪は他の修行僧共々、徹夜と二日酔いでガンガン頭の痛む中、聖によるあしびきの山鳥の尾のしだり尾よりも長々しいお説教を懇々と聞かされる羽目になったのだった。
この事件以降、『庚申待ちの夜はさっさと寝るに限る』が命蓮寺の不文律となったそうな。
「庚申待ちをやるなんていつぶりかしら」
いの一番に秘蔵の徳利を開けた一輪は、遠慮なく並々と盃に酒を注いでゆく。久々に嗅ぐ芳醇な香りに気を良くして、立ち上がって一同に呼びかけた。
「みんな、酒は持ったか!」
「持った持った! そろそろ乾杯のご発声と行こうじゃないの」
「それじゃあマミゾウさんお願い! この中で一番年長っぽいし!」
「これこれ、人を年寄り扱いするでない。まあ、今宵は特別に見逃してやろう。では、庚申待ちの決して誰も寝てはならぬ夜に……乾杯!」
「かんぱーい!」
マミゾウの合図と共に盃やら猪口やらを突き合わせ、一輪は中身をぐいっとあおる。傍らの雲山も、今日ばかりは小うるさい文句を言わず、素直に酒を楽しんでいる。雲山も相当の酒好きなのだ。
今宵はいつもの夜ではない。十干と十二支を組み合わせた干支の、六十日に一度回ってくる〝庚申〟の日である。
人間の体内には三尸の虫が住んでおり、庚申の夜になると、眠っている人間の身体から抜け出してその罪を天帝に報告しに行く――古来よりそんな言い伝えがあった。
そのため、庚申の夜は、夜通し遊び明かして眠らずにいることで、三尸の虫に密告されないようにする。といっても、それは口実にすぎず、多くの人間は単なる夜更かしに興じているのだ。
庚申待ちは元は古代中国で発生した風習で、日本では平安期に貴族層に定着し、時代を経て民衆にも普及した。響子をのぞく平安生まれの妖怪達は元人間が多いのも相まって、当然のように庚申待ちを知っているのだった。
今宵、聖は『出張夜通し読経ライブ』の予定が入ったとかで不在である。あの奇妙なイベントをぜひ我が家でと所望する客がいるのなら相当な変わり者か、あるいは庚申待ちの夜更かしをしたかったのかもしれない。
おかげで鬼の居ぬ間の洗濯とばかりに、申し訳程度に庚申待ちにかかせない青面金剛像を部屋の中央に配置して、修行僧達は酒盛りに興じているのである。なお、発案者はマミゾウだったのに毎度のことながらぬえは行方不明だった。
早くも心地よい酩酊に浸り始めた一輪は、高級そうな酒をじっくり味わうマミゾウに絡み始めた。
「マミゾウさーん、いいお酒呑んでんじゃん。ちょっと融通してくんない?」
「いいや、こいつは美宵ちゃんから儂にと特別にもらったものじゃから譲れないのう。どうしてもというなら、儂とこいつで勝負せんかい?」
「えー、マミゾウさん絶対強いじゃん! 私に勝ち目ないよ」
マミゾウが持ち込んだ花札を見て、一輪は速攻で勝負を断る。一応〝こいこい〟程度ならルールを知っているが、抜け目ないマミゾウのことだ、花札に何かを仕込んでいるかもしれない。
諦めた一輪は蔵から引っ張り出してきた碁盤の表面を磨く。千年経っても、庚申待ちでやることは平安の貴族達が韻塞ぎだの双六だのに熱中していた頃と大して変わりない。
「星、一局やらない?」
碁盤と碁石を整えた一輪は、一人で菓子をつまんでいた星に声をかける。白と黒の石がつまった入れ物を見て、星は口元をつり上げる。
「いいけど、どうせ一輪は雲山と二人がかりなんでしょう? 二対一じゃ不公平よ」
「だってあんた強いんだもの。それぐらいのハンデはくれたっていいでしょ?」
「しょうがないわね」
星は笑って許してくれた。星は昔からやたらと囲碁が強かったのである。おそらく今も本因坊か藤原佐為が取り憑いているに違いない。
「それじゃあ一輪達が白でいいわ」
「うわ、余裕っぷりムカつくー。雲山、けちょんけちょんに負かしてやりましょ」
星と一輪・雲山の勝負がスタートする。背後では響子がマミゾウに花札を習って、ムラサが「あー違う違う、紛らわしいけどそれは萩じゃなくて藤よ」と口出しをしていた。
時刻は子の刻を迎えようとしている。朝の早い修行僧には少々瞼が重くなってくる時刻だが、久々の酒盛り件庚申待ちという非日常の熱気に包まれているせいか、まだ誰もあくびひとつしない。
「考えてみれば人間時代はともかく、今は妖怪なんだから、夜更かしなんてどうってことないわね」
「だけど私達の生活リズムってもう完全に昼型よ。お客さんは人間も来るんだから」
「そうね、でも私はちっとも眠くないや……あ、星、そこ置いちゃうの?」
「ええ、お次をどうぞ」
「よし。うーんと、そうね……え、雲山、そっち? 私はここがいいと思うんだけどなあ……」
「あら、序盤からずいぶん攻めるわね」
「だって星は後半の詰め方エグいもん」
口を尖らせれば、星は余裕のある笑みを見せる。さっきから菓子をつまんでばかりだと思ったが、星は酒を呑んでいなかった。
「ちょっと星、あんた一人だけシラフで通すつもり? ノリ悪いよ」
「やめてよ、アルハラ反対」
「カマトトぶるんじゃないわよ、あんたが酒好きなのはみんな知ってるんだからね」
「まあまあ、懐かしいものを貰ったから、お酒を入れる前に味わっておきたかったの」
星は自らの皿に盛られた菓子を示した。見た目は四角餅のようで、人里の兎達の団子屋の新商品かと思いきや、
「あれ、これってもしかして〝餅餤〟?」
「そうよ」
「わー、懐かしい」
一輪は物珍しさに目を輝かせる。餅餤は唐くだものの一種で、切り刻んだ鳥の子や野菜を餅で挟んだものだ。星が手にしているのは、さすがに僧侶に贈られたもののためか、野菜しか入っていない。
一輪は星に分けてもらった餅餤をかじる。ところが、かじった瞬間、口に広がり切らない味気なさに肩透かしを喰らった。どうも記憶の中の唐くだものほどの美味を感じない。
「……なんか味薄くない?」
「昔は調味料が希少だったんだからこんなものよ」
「うーん、そうだったっけ? 昔はたまに聖様が持ち帰ってくるお菓子はご馳走様みたいなものだったのになあ。私達、いつのまにか舌が肥えちゃったのね」
「そこでこそ質素倹約、粗食の勧めよ。これからも慎ましやかな食生活を心がけましょうね」
「そうね、僧侶は何をおいてもいのちだいじに」
とか立派なことを言ってるが、不飲酒戒を破った酒盛りが続くことには誰もツッコミを入れない。
「それにしても、平安のお菓子なんて今どき珍しいわ。星、よく手に入れたわね」
「ご厚意なのよ。外の世界でも何やら昔の食べ物を作るのが流行ってたみたいだし、懐かしい味を思い出してはどう? って」
「あー、流行ったのは蘇だったか醍醐だったか……私達は食べたことないけどね」
星は穏やかに笑っていた。長生きの妖怪で平安の頃を知る者で、星のためにわざわざ肉を除いてまで餅餤をこしらえてくれる者。確かに酒の肴で終わらせるのは勿体ない。
そう思うと分けてもらったのが申し訳ないので、手をつけていない残りを返そうとしたその時、包み紙から一枚の薄い紙が落ちた。
「あら?」
「あっ、それは!」
星が拾うより先に、一輪は薄い藍色の紙にうっすらと文字が透けるのを見てしまった。
薄い紙といえば、昔の恋文によく使われた薄様である。星の慌てぶりからしてもそうに違いない。しめしめ、と思いながら広げてみれば、果たしてそこには一首の和歌がしたためられていた。
「おやおやぁ、僧侶ともあろうものが恋文なんか受け取っちゃってー」
「返して、返してったら!」
「えーと……ずいぶん達筆ねえ、見たことない筆跡だわ」
慌てる星をよそに一輪は書きつけられた和歌を読む。いつの時代もラブレターは盗み見られるものだ。
筆跡は、墨の濃淡も筆使いも申し分ないが、あまりにかっちりしすぎて少々情緒に欠ける。和歌の内容はシンプルで、大意は『これを贈った私を貴方は〝冷淡〟だとは思わないでしょうね』といったところである。
一度読んだだけで、一輪には文の贈り主がわかった。相手が僧侶ゆえに遠慮しているのか、はっきりいって恋文としては定石すぎて、文字も機械のように精密に整っていて面白みがないのだが、さすがに星の前でそんなことは言わない。
「星も隅におけないわねえ」
「もー、やめてったら、盗み読みなんてよくないことよ」
「うっかりしまい忘れるあんたが悪いの。で、なんて返事したの?」
「それはまあ、『貴方の志の深さを思えばどうして〝冷淡〟だなんて恨みましょう』ってとこかしら」
「緩い緩い。そこはやっぱ定石だけど『貴方の冷淡さは元より身に染みてます』って突っぱねなきゃ」
「いいから恋文の定石より囲碁の定石に集中なさい!」
一輪からやっと文を奪い返して、星は苛立たしげに碁盤を指した。なお、彼女達が冷淡、冷淡と繰り返すのは餅餤と掛けているためだが、古の縁語や掛詞は現代ではただの駄洒落にしか聞こえないのが悲しいところである。
さて、あまり星の機嫌を損ねても面倒なので一輪も囲碁に戻る。星は慌て透かして一手を誤るかと思いきや、むしろ闘争心に火をつけてしまったのか、攻めは手強くなる一方である。
(うーん。もっと他に星を揺さぶるネタはないかしら)
一輪の心を知り尽くした雲山は「余計な搦手を考えるんじゃない」と思っているようである。
残念ながら星はもう平静を取り戻したらしかった。
「そういえば、庚申待ちといえば、昔はこんな話があったわね」
などと、星は手を止めないまま一輪に語りかける。目配せがいわくありげで、一輪は碁盤から星の顔に視線を移す。
「昔、さる帝の女御様が、庚申待ちの夜更かしをしていたのだけど、夜明け間際に眠ってしまったの。おそばの女房達は『今更お寝みになるなんて』と笑って見ていたけど、そのまま寝かせて差し上げることにしたのね。だけどお客様が見えて、女御を起こそうと身体を揺すったら……女御はこと切れていたのよ。まるで魂を吸い取られたように、ほんのわずかな間に亡くなってしまったの。それ以来、女御の一族は庚申待ちをやらなくなったそうよ」
急に重めな話題が降ってきて、一輪もさすがに手を止める。ずいぶん古い、しかも不吉な話題を持ち出してくるものだ。
まさかからかいの仕返しに一輪の心を乱そうとしているのだろうか。いくらなんでも、と一輪は眉をひそめた。
「もしかしたら、眠っている間に三尸の虫に密告されたせいで、女御は儚くなってしまったのかしらね」
「星、それってあくまで噂よ、噂。その女御様がまだ若いのに頓死したから、変な憶測を立てられてるだけよ」
「高貴な方は煩わしい噂に振り回されてお気の毒ね。その点、私達は雅な生まれでもない妖怪だから気楽だけど……ところで一輪、次はどうするの?」
「えっ?」
碁盤に視線を戻せば、一輪が石をおける場所はどこにもない。雲山に相談したが、投了する他ないようだ。
悠々と笑う星を前に、やられた、と一輪は頭を抱えた。
「相変わらずエグいやつ……。精神攻撃まで仕掛けてくるなんでズルいじゃない」
「一輪が先に仕掛けたんだからおあいこよ」
「もーしょうがない、私達の負けよ、負け。せっかくだから負けわざをやってあげる。星、何か欲しいものある?」
「そうねえ」
星がのんびり考えている後ろで、「うわー!!」と響子の絶叫が上がった。
「あとちょっと! あとちょっとで青タン揃ったのにー!!」
「ふぉっふぉ、甘いのう。自分の手札ばかりでなく相手の手札もようく見んと」
「響子、あんまり欲張らない方がいいよ。調子にのってこいこい続けても、相手に上がられたら稼いだ点もパーなんだから」
「うう……!」
どうやらマミゾウと響子の花札も勝負がついたらしい。負かされた響子はやけになって酒瓶を手に取るが、勢いよく逆さに振っても酒は数滴漏れるだけだ。
「あれ? もう空ですか?」
「おや、儂が呑み干してしまったようじゃ」
「もー、お酒も取られるし花札も負けるし散々よ……」
「そう拗ねるな。とっておきの秘蔵酒の隠し場所を教えてやろう」
「えっ、ほんとですか!?」
マミゾウに隠し場所を耳打ちされ、響子は嬉々と席を立つ。一輪は星と目配せして笑った。
「響子ったら単純なんだから。酔いが回るのが早いわねえ、いつもより騒がしいわ。明日の朝、聖にお説教されるのは覚悟しないとね」
そう言う星の視線は一輪の抱える一升瓶に向かっている。
「ねえ、負けわざしてくれるんだったら、一輪秘蔵のお酒を私にも分けてよ」
「あーっ、星もついに呑む気になったわね?」
「どうせみんなの酒盛りを止められなかった時点で私も連帯責任で怒られるんだもの。それなら呑まなきゃ損損」
「ひゅー、わかってるぅ」
一輪は負けた悔しさも忘れてすかさず徳利を取り出す。苦労して手に入れた上物なのだが、この際星に呑まれても構いやしない。飲み会におけるお酒の付き合い方は人それぞれといっても、やはりシラフがいるより酔っ払いだらけの方が楽しいのだ。
星は注がれた酒を一気に飲み干し、虎らしい呑みっぷりに一輪と雲山はやんやの喝采を浴びせる。一気飲みは大変危険なので人間の読者諸君は真似しないように。
「じゃあマミゾウさん、次は私と勝負しよう」
先ほどまで響子が座っていた席を占めて、ムラサが身を乗り出した。
「いやあ、相手をしてやりたいのは山々なんじゃが、儂はちと呑みすぎた。少し休ませてくれんか」
「え、もう? ペース早すぎません?」
マミゾウは見る者の眠気を誘うような大あくびをする。しかし妖怪の夜はまだこれから、他の修行僧達の目は爛々と輝いている。すかさずブーイングが飛び交った。
「えー、今日は庚申待ちですよ? 寝たら駄目なんですよ? ねえ一輪、雲山」
「星、響子呼び戻してきてよ、マミゾウさんに向かって爆音波出してもらおう」
「響子はうちの目覚まし時計じゃないのよ?」
「なあに、ちいと横になるだけよ、儂がたかがこれしきの酔いで眠ったりなどするものか……」
と言いながら、早くもマミゾウはうつらうつら船を漕いでいる。マミゾウとの花札は諦めて、ムラサは碁盤に目をつけた。
「星、次は私とやってよ」
ムラサは勝利の美酒を味わう星に果敢に挑み掛かる。星も嬉々として勝負に乗った。
「いいわ。先に何か賭けておく?」
「今から勝った気でいるんじゃないわよ。そうね、私が負けたら地底の美味しいご飯のお店で奢ってあげるわ」
「あら、素敵ね。私は……こないだナズーリンが見つけてきたお宝、いらないからムラサにあげようか?」
「ちょっとー、また例のガラクタじゃないでしょうね? 不用品の押し付けは勘弁してよね」
そうしてムラサと星の一局が始まった。ごろりと寝そべったマミゾウはまだ起き上がりそうにないので、一輪は酒を呑みつつ雲山と共に二人の勝負を見守った。久々に仲間と楽しく飲む酒は旨みが違う。一輪はいつもより心地よい酩酊に浸り、気分が雲のようにふわふわと浮上するのを実感していた。
「あら、もうこんな時間?」
一輪が壁の時計を見てつぶやく。気がつけば子の刻はとうに周り、日付も変わって草木も眠る丑三つ時。
現代でこそ、深夜の零時が日付の変わり目で干支も辛酉になるが、昔は日の出が新しい一日の始まりであった。庚申待ちは昔の習わしに合わせて日の出まで続くのである。
「いつから私達は子の刻が日付の変わり目って染みついたのかしら」
一輪のぼやきに、ムラサは勝負に熱中したまま、そして酒を絶やさないまま答える。
「地上に出てからじゃなかったっけ? 地底じゃいつも暗くて日付感覚が独特だったのよね」
「明治の頃は外の人間達も新暦に戸惑っていたわ。幻想郷でも、古い妖怪達は今でも旧い暦に合わせた生活をしているそうよ」
と、付け加えるのは地上暮らしが長かった星だ。こちらも呑むスピードが速い。
「うーん、聖様だっけ? 人里に近いからうちも人里の暦に合わせましょうとか言い出したのは」
「でもたまに旧暦の方で話してるときもあるわ、聖って」
「いちいち使い分けるのめんどくさくない? 妖怪寺なんだし旧暦オンリーでよかったんじゃないの?」
「あら、ハイカラを売りにする一輪らしくもない。時代遅れね」
「なんだと?」
聞き捨てならない星の台詞に一輪は食い下がる。一輪は自他共に認めるハイカラ少女だが、そうは言っても平安生まれ、古いしきたりもそれなりに尊重する方である。
そのまま軽い口論になるかと思いきや、「静かにしてよ、私集中してるんだから」とのムラサの文句により口喧嘩は打ち切りとなった。
さて勝負の行方はというと、景気良く酒をあおる星に負けじとムラサも酒を注ぎ足しながら打ち続けたが、やがてムラサの負けで勝負は終わった。
「うーわー。あんた昔より強くなってない?」
「私だけじゃなくて、今度はナズーリンとも打ってみたらいいわ」
「あいつも強いんだっけ。あんたが鍛えたんでしょ?」
「昔、手持ち無沙汰の時にね。説法は聞いてくれないから」
「そういえば今日はナズーリンいないの?」
「三尸の虫なんて馬鹿馬鹿しくて信じられないんですって」
「夜更かしの口実みたいなもんなのに、相変わらずノリ悪いなあ」
「そうね、ようやく観念してお寺に住むようになったと思ったのに、相変わらず修行には不真面目だし、お経の一つも覚えないくせに逃げ口上ばっか達者になるし、主人としては頭の痛い話だわ。あの子が何かやらかして聖に文句言われるのは私なのに」
星は部下の愚痴を肴に酒を煽る。まるで中間管理職のぼやきである。ずいぶんハイスピードで呑んでいるなとは思っていたが、酔いが回ってきたようだ。顔は赤らみ、連続で勝負に勝ったのに機嫌もなんだか悪そうだ。
「そういえば、どうして庚申の日に三尸の虫が身体から出ていくって言われてるのかしらね。他の日じゃ駄目なのかな」
何となく嫌な予感のしたムラサは話題を逸らそうと試みる。とはいえ、誰も庚申信仰の起源を知らないので、話題は続きそうにない。
「あ、思い出した。こないだ布都が言ってたんだけど」
と、一輪は風水やら大陸の占いに詳しい友人を引き合いに出す。
「庚も申も五行に当てはめると金でしょう。金の気が天地に充満する時は、人々の心が荒廃しやすいらしいのよ。だからチクリ魔の三尸の虫には都合がいいんじゃない?」
「ああ、確かにお金は人の心を貧しくさせるわ」
「そっちの金じゃないから」
星の不機嫌が加速した気がして、一輪はしくじったなと思う。星は金銭感覚に厳しいというかうるさく、シラフよりもかえって場をシラけさせかねない。財宝神の化身なんて生業だから仕方ないのかもしれないが。
「だいたいねえ、最近の人間ときたら」
と、星の愚痴は続く。完全に酔っ払っているのか、『最近の若者は』みたいな調子で管を巻く。
「普段は『神も仏もありゃしない』なんてペシミストぶって人の信仰を揶揄するくせに、都合のいい時だけ『神様助けてください』なんて虫が良すぎるのよ。神仏をなんだと思ってるの、罰当たりだわ」
「あー、そう、そうね」
「だけど星は本物の神様じゃないんだからそんなに気にしなくても……」
「気にするわよ。千年も代理やってたらそっちもある意味本業よ」
まずい、と一輪はムラサと雲山と揃って顔を見合わせる。
普段は大人しく真面目な修行僧も、酔うと大虎である――要は酒癖がものすごく悪いのだ。こうやって口が悪くなり始めたらかなりの危険信号だ。
「貴方達にわかる? 何かあればすぐに金をくれ、億万長者にしてくれとせがまれる私の気持ちが。いいえ、わかりっこないわ」
「いやいや、わかるわかる、大変なんだよね」
「気安くわかるとか言わないでよ、安易な同調は腹が立つわ」
めんどくせえなこいつ。朝令暮改どころじゃない矛盾っぷりに対する一同の心は一つだった。
酔っ払った星はかなりタチが悪いというか、気が大きくなる上にうざったい絡み酒である。
ムラサは酔っても普段とあまり変わらないが、酔いどれだらけの飲みの場ではかえって貧乏くじを引きやすい。一輪はひたすら気持ちよくなって気分上々だが、のらくら立ち回るだけで絡み酒をかわす技量があるとは言えない。雲山は酩酊して口数がさらに少なくなるので論外である。
「僧侶やりながら神の代理なんて二足の草鞋を履くようなものよ、呑まなきゃやってられないわ。ああ、頭が痛い……」
「それはストレスじゃなくてお酒のせいじゃない?」
「星、あんたもう水飲みなさい、明日しんどいわよ」
仕方なく一輪は空の盃に水をついでやる。余談だがナズーリンは酔いどれ星のウザ絡みを合コンさしすせそだけで乗り切っている。
「ちょっと一輪、なんで星に酒呑ませたの」
「やー、久々に気持ちよく酔っ払えたせいか、星の酒癖をすっかり忘れてたわ」
「勘弁してよ、星は酔いが醒めたら、今度は自己嫌悪と二日酔いで面倒くさくなるんだから」
「いやあんたも止めなかったでしよ、私だけ責めないでよ」
二人は星に聞こえないようにこそこそ愚痴を漏らす。一輪は『止めときゃよかった』という後悔と『呑んじゃったもんは仕方なくない? みんなで呑む方が楽しいし』という開き直りの気持ちが三七である。要はまったく反省していないし、次回の飲み会でも懲りずに星に酒を薦めるであろう。
「星に限らず、酔うとみんなだいたい悪い方向に人格が変わるよね」
「そうそう、甘えたになるとか絶対嘘よ。シラフの演技だって」
「え? 雲山は酔っ払うとたまーに甘えてくるけど?」
「ここ千年で一番知りたくなかった情報だわ」
ムラサの明日使えない無駄知識が一つ蓄積されたところで、後ろからいびきが聞こえてくる。振り返れば散らばった花札の上で寝こけたマミゾウの姿があった。
「やだ、マミゾウさんったら。横になるだけとか言っといて爆睡じゃない」
「あーあ、三尸の虫に告げ口されちゃうよ。『誰も寝てはならぬ』って言ったくせに」
二人は親切心から揺り起こしてやるが、高価な酒が寝酒になってしまったのか、マミゾウはちっとも起きる気配がない。
仕方なしに、起こすのは諦めて一輪はムラサと賭けなしで一局やることにした。
「ムラサ、マミゾウさんの言う『誰も寝てはならぬ』ってあれだよね、かぐや姫の亜種みたいな話に出てくるやつ」
「トゥーランドットね。求婚する王子に三つの謎を突きつけるお姫様。どこの国のいつの時代でも花婿候補は試練を与えられるさだめなのね」
「だけどトゥーランドットは謎を解けない男を処刑するのよ、かぐや姫のほうが優しいんじゃないかしら」
「でもかぐや姫の求婚者だって一人死んじゃってるからなあ」
「あれは事故みたいなもんだから、宇宙人に惚れたのが運の尽きよ」
かぐや姫本人がここにいないのをいいことに、二人は好き放題言いまくる。夜明けまでまだ時間はある上に、マミゾウは寝てしまったし、泥酔した星は一人でぶつぶつぼやいているしで、手持ち無沙汰なのである。
「あれ、そういえば、響子遅くない?」
どちらが優勢ともなく碁盤の石だけが増えてきたところで、ムラサが顔を上げる。マミゾウの秘蔵酒を取りに向かったはずの響子は、まだ戻ってこない。
「え、まさか響子も寝落ちしてる?」
「やだなー、廊下で寝てたりとかしないよね、みっともない」
「ていうかマミゾウさんも響子も庚申待ちの趣旨わかってんの? 寝るなっつーの」
仕方なしにぬるい対局を放り出して、一輪は雲山とムラサと共に響子を迎えに行くことにした。
マミゾウの秘蔵酒の隠し場所は聖を除く修行僧全員が知っている。木を隠すならというのか、大胆にも聖の出入りもある台所に隠してあるのだ。「儂は修行僧ではないからの、お前さん達より気楽な身分じゃて」との言い分である。
命蓮寺に電気は通っていないので、ランプの仄かな明かりだけで暗い台所を照らす。
「響子ー、いる?」
「さっさと帰ってきてよ、みんなでそのお酒呑もう?」
元は響子にのみ贈られたはずが、マミゾウが寝てしまったのをいいことに、都合よくタカる気満々である。いつもなら山彦らしく呼べばすぐに「はーい」と元気の良い返事が返ってくるはずが、台所はしんと静まり返っている。一輪は床に寝そべっていないかと、間違って踏んづけないよう慎重に探るが、響子は見つからない。
「あれー、どこ行っちゃったのよ」
例の秘蔵酒の隠してある戸棚の前を照らして、一輪は首をかしげる。ちゃっかり酒をいただいて別の場所を探そうかと思ったところで、床に落ちている何かにつまづいた。
「あいたっ」
コケた一輪は床と口づけすることなく、無事に雲山の腕に抱き止められる。
誰が最後の掃除当番だったか、などと恨めしく思っている一輪の手元に、雲山がつまづきの元凶を拾って差し出した。
「何これ?」
ランプで照らしてみれば、それは両手で楽に抱き抱えられるサイズの猿の人形だった。木彫りの猿の目はどことなく不気味で、口を塞いだポーズをとっている。
「一輪、響子見つかった?」
「ねえ、うちにこんな猿の人形なんてあったっけ」
雲山が拾ったものをムラサにも見せれば、ムラサは首をひねる。
「いや、私は見たことないけど。聖様がどこかでもらってきたとか?」
「こんな薄気味悪い猿人形を?」
もらってしまったのなら仕方ないが、台所に放置しないでほしい。仏教的には台所に飾るのは大黒様と相場が決まっているのだ。
ところで肝心の響子はどこへ行ってしまったのだろうか。
「一応別の部屋も見てきたけど、響子どこにもいなかったんだよ」
「なら、もしかして戻ってるんじゃない? 私達と入れ違いになっちゃったのかも」
「それもそうね」
一輪達は勝手に納得して、謎の猿人形と秘蔵酒を手土産に元の大部屋へ戻る。
ところが三人が戻ってみれば、だだっ広い部屋には星が一人で酒を呑んでいるだけである。響子が戻っていないどころか、マミゾウの姿もなかった。
「あれ、マミゾウさんもいないの?」
「お手洗いとかじゃない? あ、いや、私さっき響子を探しに厠も行ったけど、誰ともすれ違わなかったわ」
「酔いと眠気覚ましに外に出たのかしら。ねえ星、マミゾウさん……」
どこ行ったか知らない? と聞こうとしたところで、一輪は目を瞬く。マミゾウが枕代わりに寝そべっていた座布団の上に、一輪の腕の中にある猿人形とよく似た猿人形が落ちているのだ。
「え、えー?」
一輪はすぐさま拾い上げて手元のそれと見比べる。デザインはよく似通っていて、サイズからしても同じ作者の作り物だと思われる。ただ異なるのが、座布団の上に鎮座していた猿は両手で目を覆うポーズを取っているのだ。
「マミゾウさんが化けてる……とかじゃないよね」
「なわけないでしょ」
「じゃあ落とし物? さっきもマミゾウさんの秘蔵酒の近くにこれが落ちてたんだし」
「ていうか猿も気になるけど、結局二人はどこ行っちゃったのよ?」
「女御の祟りよ」
唐突に、それまで無言で酒を呑み続けていた星が切り出した。顔は真っ赤、身体はフラフラ、漂う酒のにおい、完全に出来上がりといった感じで、目は据わっている。
出し抜けかつ不穏な言い分に一輪とムラサは「はあ?」と眉をひそめる。
「え、何? さっきの与太話まだ引きずってんの?」
「長年破邪の毘沙門天を務めてきた私にはわかるわ。聖の留守をいいことにか、命蓮寺に何かよからぬものが出入りしているのよ。私達に敵意を持った何かがね」
「えーと……星、響子とマミゾウさんがそのよからぬものとやらに襲われたとでも言いたいの?」
「ええ。きっと庚申待ちの夜に死んだ女御の霊よ」
一輪は雲山とムラサと揃って顔を見合わせる。幻想郷には幽霊だの亡霊だの怨霊だのがうじゃうじゃいるので亡き女御の霊がいたとしても驚かないが、命蓮寺が女御の霊に目をつけられる理由がまったくわからない。が、目の前の酔いどれ毘沙門天は本気であり、語り口は妙に真に迫っている。
「女御の祟りよ。死んだ女御は未練を持っていて、自分と同じように庚申待ちの夜に眠った者を、道連れにしようとしているんだわ」
「うーん。星、ひょっとしてマミゾウさんがいなくなる瞬間を目撃しちゃったの? その時に霊が見えたの?」
「怨霊は通常、人の目には見えないもの……ちょっとお酒を注ぎ足そうと目を離した隙に気がついたら忽然と消えていたの。驚くべき早業ね、修行を積んだ私でも全容を捉えることは不可能だったわ」
「ただ見逃してるだけじゃない!」
ムラサがいなくなった響子のぶんまで盛大に叫ぶ。この大虎、酒が入ったせいで見事に役立たずと化している。だから星に呑ませるべきじゃなかったのよ、とムラサは改めて一輪を恨めしく思う。
しかし星はめげずに「祟りよ」と因習村の老人みたいに繰り返す。
「庚申の夜に最も警戒するべきは三尸の虫だけじゃなかったんだわ」
「あのさ星、怨霊が猛威を奮ってた平安時代はとっくのとうに終わってるんだけど」
「そうとなれば早速退治しなければね。何度も不届き者の侵入を許したと知られたら命蓮寺の沽券に関わるもの」
「あんたの大虎っぷりが知れ渡る方が命蓮寺の信頼ガタ落ちの危機なんだけど。てかどこ行くの?」
「決まってるでしょ、鬼門よ」
星はふらふらと立ち上がり、宝塔と鉾を引っ下げて歩き出す。
「よくないものは鬼門から入ってくる。鬼門は丑寅。私は寅丸星。ふふふ……久しぶりに血が騒ぐわ」
星の目は爛々と獣らしい獰猛さに燃えているが、その足取りは千鳥足で、大変頼りない。
「あーあ、いつも荒事は苦手だとか抜かしてるくせにこういうときだけ強気なんだから」
「止めなくてよかったの?」
「少しは夜風にあたって酔いを醒ましてくればいいわ」
もし星が太刀打ちできなかったとしても、自分と雲山が揃っているなら怖いものなど何もない――自分達が萃香に一撃で昏倒させられたことは都合よく忘れてそう思い込むのだった。
「星の言う女御の祟りって本当かなあ」
「まさか。ムラサ、あんたまで呑みすぎてんじゃないの? 百歩譲って女御の霊がいるんだとしても、この猿達は何なのよ」
「だよねー。さすがに千年前に青面金剛様の前に三猿がいるとこは見た覚えないしなあ」
だよねーあははと笑って済ませるつもりが、ムラサの言葉に引っかかりを覚える。
「今、『三猿』って言った?」
「え? だってこれ『言わざる』と『見ざる』じゃないの? ポーズ的に」
ムラサに言われて猿人形を見てみれば、確かに日光東照宮などで有名な三猿のうち、二つのポーズを二体の猿人形が取っているのであった。庚申に『申』がつくことから、三尸の虫と呼応する三猿信仰が庚申信仰と結びついて後世に出来上がっていったのだ。
「ふーん、じゃあ残り一体の『聞かざる』もどっかに落ちてるのかしら」
などとムラサと雑談を続けているうちに、一輪ははたと気づく。
星が戻らない。響子の時を彷彿とさせる感覚である。
「星、遅くない?」
「……うん」
完全にフラグが立った予感しかしなかった。
普段の星ならともかく、今の酔いどれ星はあんまり信用できない。単に怨霊に返り討ちにされただけならいいが――三人が鬼門に駆けつけた頃には時すでに遅し、星の姿はどこにもなかった。そして、星が消されたと思わしき現場には、耳を塞いだ猿の人形が落ちていた。
「聞かざる……」
ぽつんとつぶやいたムラサの声は心なしか震えていた。どこかに落ちているのかとは言ったが、本当に三猿が揃ってしまった。消えた命蓮寺の仲間達と引き換えに。
「ねえ、一輪……」
「ええ、わかってるわ」
深夜に一人また一人と失踪する仲間達。
置き去りにされた共通のアイテム。
庚申待ちの夜に死んだ女御の話。
まるでミステリーかホラーみたいな話じゃないか――。顔面蒼白のムラサを見て、一輪はしかとうなずいた。
「ここに化け物の絵を飾りましょう」
「違うわ!!」
ここに教会を建てようみたいなノリで言う一輪にムラサはずっこけた。一輪は歯牙にもかけずぺらぺらと御宅を並べてゆく。
「ほら、昔はよくあったじゃん、鬼門にわざと恐ろしい化け物の絵を飾っておくの。それで魔除けにするやつ。清少納言だって清涼殿の丑寅の隅にある化け物の絵がマジ怖いって書いてるし。やー、気休めとはいえ、うちらもさっさとそれやっとくべきだったね」
「さっきの平安時代はとっくに終わったって話はどこ行ったの!? だいたい私達はほとんどがド庶民出身であってやんごとない人達のことなんかどうでもいいから!」
ムラサがあんまりなことを喋っているが、命蓮寺に連なる者のうち、例えば商売敵の豊聡耳神子のような『いとやんごとなききわ』と呼べる身分の者は残念ながら一人もいないのであった。
「あれだよあれ! 閉ざされた空間で次々に人が消されるとか、こんなのもう、誰もいなくなるとか手毬唄とか、見立ての連続殺人事件が起きるやつだよ!」
「まだ死んだと決まったわけじゃないでしょ」
「だ、だって! じゃあ星はどこに行ったの? 響子は? マミゾウさんは?」
「そりゃあわかんないけど、何よ、女御の祟りを本気にするの?」
「女御じゃなくても、三回連続でこんなことが起きたら、何かヤバいやつが動いてるとしか思えないじゃん! 神隠しが現実の命蓮寺で起きてるのよ!」
おそらく完全に酔いが醒めたのであろうムラサの恐慌ぶりに、一輪はため息をつく。ムラサは舟幽霊なのに意外と小心者である。怨霊の仲間みたいな舟幽霊が怨霊や祟りを怖がっていては話にならない。
それにしても、神隠しなんて言われたら、幻想郷では某スキマ使いしか思い浮かばないが、残念ながらあの賢者が命蓮寺の妖怪を攫うもっともらしい動機がない。どう見ても犯人っぽいのに真犯人たりえない、そういう意味では紛らわしくてズルいやつである。
「神隠しにしても殺人事件にしてもさあ。誰がなんのためにやるのよ。私達、なんか恨みを買うようなことしたっけ?」
「……」
「ムラサ、あんたまさか」
ムラサは急におしだまる。よっぽど自らの罪が後ろめたいのかと思いきや、一輪と雲山に恨めしげな視線を寄越しているのである。
「一輪、人のことばっかさんざん責めておいて、あんたは自分が地底時代にやらかしたこと忘れてない?」
「……あっ」
「あっじゃない!」
ようやく一輪は地底にいた頃の雲山やムラサ(とぬえ)達とやらかしたあれやこれやを思い出す。具体的に何をやらかしたのかは彼女達の名誉のために伏せておこう。
「あー……あの頃の私達、若かったわね? 何も怖いものなんてなくて、怖かったのは雲山の優しさぐらいだわ」
「神田川に沈めてやろうか。あーもー、ただでさえ生きてるうちに地獄を見る羽目になってしんどい思いをしたのに、死んだらあれらの罪のためにまた地獄に行かなきゃならないなんて!」
「ムラサはもう死んでるんじゃない?」
「死んでるけど死んでないのよ!」
パラドクスである。あるいは哲学である。だからこそムラサは哲学的な仏教に救いを求めるのかもしれない。知らんけど。
「大丈夫よ、仏様は慈悲深いから。妖怪の私達はまだ人生長いんだし、地道に功徳積んできゃなんとかなるって」
「なんであんたは昔っからそう楽観主義なのよ!」
一輪(と雲山)の能天気ぶりに嫌気がさしたムラサがぬえとの交流を深めていくことになったとはもっぱらの噂である。
一輪からすればムラサが悲観主義すぎるのである――と言いたいところだが、一輪は酔いが未だに醒めないせいで能天気思考に拍車がかかっているのは否めない。
そう、一輪はこの期に及んでまだ酔っ払っている。まるで雲の上を歩くようなふわふわとした心地で、酩酊のせいか、あるいは懐かしい庚申待ちのせいか、平安時代と現代を交互にトリップしているような感覚すらある。
心地よい酩酊は一輪から持ち前の思慮分別や頭の回転の速さを根こそぎ奪って、ノリの良さと楽観主義だけを残していくのだった。楽しい飲み会では良き話し相手だが緊急時にはまるで役に立たない。
「わかった、わかった。私達の罪は一〇八じゃ収まりきらないほどあるのは認めましょう」
「それは煩悩の数よ?」
「揚げ足を取るな。恨みを買ってる心当たりがありすぎるのもわかった。女御じゃなくても誰が祟りに来てもおかしくないわ。だけど、残された三猿人形の意味は結局何?」
一輪にそう言われて、ムラサはようやく大人しくなる。
一輪は気味の悪い三猿人形をじっと見つめる。一体目の『言わざる』を見た時に感じた既視感は三猿信仰であったかと納得しかけるも、一輪にはまだ引っかかりがある。
この三猿、どこかで見たことがあるような。もちろん日光東照宮ではない。青目金剛の絵図に添えられた三猿の絵でもない。ならどこだろうと雲山に意見を求めるも、雲山も酔いが回って頭が働かないようである。
「そういえば、どこにどの猿が置いてあったのか、それにも意味があるのかしらね」
ムラサは少し落ち着きを取り戻したのか、改めて一輪達と共に三猿を観察し直す。
響子がいなくなった時に置かれてあったのは『言わざる』。うるさいから黙れということか。
マミゾウは『見ざる』。メガネをかけるくらいだから視力はいい方ではなかったはずだが、マミゾウは犯人にとっての何かきまり悪いものでも見てしまったのだろうか。
「で、星が『聞かざる』。なんでだろう?」
「あれじゃない? 毘沙門天って別名を多聞天とも言うじゃん」
「本物の多聞天じゃないから、多くを聞いてくれないってこと?」
「なんかこじつけくさいなあ」
「そんはこと言ったらだいたいの見立て殺人はこじつ」
「それ以上いけない」
なんらかのタブーに触れかけた一輪をとどめたところで、ムラサはうんうん唸り出す。一輪もほろ酔いの脳みそに鞭打ってどうにか既視感の正体を捻り出そうとするが、何も思いつかない。
「一輪、どうしよう」
ぼんやり考え続ける一輪に訴えかけるムラサは青い顔をしていた。よっぽど祟りだか神隠しだかが怖いのかと思いきや、口元を押さえている。
「吐きそうなんだけど」
騒ぎすぎて、酔いが醒めたのはいいが吐き気が襲ってきたようだ。
「お手洗い行ってくれば?」
「やだよ! この流れで一人で行きたくないよ、絶対攫われるじゃん!」
「いいじゃん、今どき女子の集団トイレをやるような年頃でもあるまいしー」
「……ならここで吐いていいわけ? あんただって嫌でしょ?」
「たとえゲロっても規約に引っかからない程度の描写に抑えられるから大丈夫よ」
「もうやだ、この酔っ払い本当にやだ。ああぬえ、今からでも帰ってきて私を助けて」
「大丈夫だって、要は庚申待ちの間に寝たやつが消されるんでしょ? 寝なきゃいいのよ、怖くない怖くない」
「あんたの能天気思考が一番怖いわ!」
「しょうがないなあ。じゃあ魔除けの陀羅尼とか唱えといてあげるから。それともあれかな、吉備津の釜みたく」
「ぎゃー!!」
部屋中にお札をあちこち貼って、と言おうとしたところで、突然叫び出したムラサに一輪もさすがにビビる。悪心を起こした割には意外と元気である。
「な、何よ、私なんか変なこと言った?」
「こんな時に怪談なんか持ち出さないでよ! ラストのホラーシーンをありありと思い出しちゃったじゃない!」
「えー……じゃあ代わりに耳なし芳一作戦は」
「私を聞かざるにする気か! ああ、私の未来は血の池地獄のように血みどろよ。私も今に正太郎と同じ末路を辿る羽目になるんだわーっ!!」
「あんた一体どんだけ悪いことやらかしちゃったのよ」
もしかしてムラサはまだ酔っているのか、星とは別ベクトルで面倒くさい酔っ払いだなと一輪は自分を棚に上げて思う。なお、吉備津の釜とは放蕩三昧のドラ息子正太郎が、遊女に入れ込んで良妻・磯良を騙して捨てた結果、亡き磯良の怨霊に復讐される話である。やっと正太郎の恐ろしい長い夜が明けたと思ったのに、外は真っ暗、そして悪鬼と化した亡き妻が――ムラサは暗闇も苦手だった。本当に舟幽霊なのか?
再び恐慌状態に陥ったムラサではあったが、結局込み上げる吐き気には勝てず、一人で厠に向かうのであった。
一輪は雲山と二人、星のいなくなった鬼門でムラサを待っている。
「まったく、どいつもこいつも世話が焼けるんだから」
彼女達に世話をかけているのが自分だという自覚はかけらもない一輪である。
「え、何、雲山。一人で行かせてよかったのかって? ムラサなら大丈夫よ、あれだけ騒がしけりゃ寝落ちはしそうにないし」
寡黙な雲山は「今また新たなフラグが立てられた気がする」と思ったようである。
一輪は大きく伸びをして、東の空を眺める。時刻はおそらく寅の刻を迎えようとするところだろうか、空はまだ暗く、夜明けにはもう少し時間がかかる。
「あーあ、せっかく楽しい庚申待ちの夜だったのになあ。怨霊だか神隠しだか知らないけど、変なやつのせいで台無しよ」
一輪は『女御の祟り』には懐疑的だが、平安生まれの妖怪かつ幻想郷に暮らす身であるので、怨霊や祟りの存在は肯定する。先日も宮出口とかいう怨霊のせいで命蓮寺はえらい目に遭わされたものだ。
それにしても、と一輪は命蓮寺の鬼門を改めて見やる。よくないものは鬼門から、と星は言うが、誰かに侵入された形跡はない。響子の消えた台所やマミゾウの消えた大部屋もそうだ。
もしも命蓮寺に何者かが侵入して、仲間を攫っているのであれば、そいつはどこからどうやって入って、誰にも見つからず消えてゆくのだろうか。
「やっぱスキマ妖怪とか後戸の秘神とか……」
酔っ払って頭が働かないせいか、都合の悪いことはぜんぶ賢者のせいにしたくなってきた。
「どう思う、雲山? 私達をこんな風に脅かして得をするやつって、誰だと思う?」
一輪が寡黙な相棒の答えを待っていたその時だった。厠の方角から地獄の亡者みたいな悲鳴が聞こえてきた。
「え!?」
一輪は即座に雲山と共に厠へ駆け込む。
「ちょっとムラサ、いる? いるの?」
厠の戸を激しく叩くが返事はない。もし吐瀉物まみれで倒れてたら掃除と介抱はどうしようという考えが頭をよぎるが、勇気を出して一輪は扉を蹴破った。
個室の厠にムラサはいなかった。ついでに言えば汚れてもいなかった。ただ、厠の床には、一輪達が集めた三猿人形と同じ猿の人形が、おどろおどろしい雰囲気と共に鎮座しているのである。
「四体目?」
一輪は目を瞬く。三猿とはその名のとおり三体しかいないのではなかったか。実は知られざる四体目の存在が……なんて、出来の悪い都市伝説ではあるまいし。そいつはなぜか虫取り網に似た奇妙な道具を携えており、顔や姿形は三猿と同じものの、あまりに異質すぎる雰囲気をまとっていた。
「……雲山、どうしよう」
さすがの一輪も相棒に縋らざるを得なかった。
「厠の床に落ちてた人形を持ち帰るのは嫌なんだけど……」
寡黙な雲山は「洗いなさい」ともっともらしい忠告を与えた。叫び声を上げた事実からしても、ムラサは眠ったわけではないのだ。なのにムラサは消えてしまった。原因を探るためには、四体目の猿を調べるしかないのである。
一輪は厠の手洗い場で丁寧に猿人形を洗い、鬼門に置いてきた三猿と並べてみた。この四体目も、作り手は三猿と同じ人物としか考えられない。
「うーん、四体目の猿……四猿……しざる……死ざる?」
ムラサはすでに死んだ――本人は生きているとも言うが、舟幽霊である。一度死んだ者はもう死ぬことはないという意味か。あるいは『死、去る』で死が遠のくという意味かもしれない。
一輪は再び四体の猿人形を観察する。やはり単なるデジャヴではない、どこかでこれらの猿を見た覚えがある。
「ねえ雲山、どっかで三猿や庚申待ちにまつわる噂を聞かなかったっけ、その中に四猿の話とかあったりして……雲山?」
そこで一輪は相棒の異変に気づいた。今まで寡黙すぎてたまにしか喋らなかったので気づくのが遅れたが、彼は必死に襲い来る睡魔と闘い続けていたのだ。一輪の不安に応えるように、雲山は「もう眠くてたまらない」と言ったようであった。
一輪は激しく動揺した。これまで仲間達が消えてしまっても『なんとかなるさ』とお気楽に構えられていたのは、ひとえに雲山という頼もしき永遠の相棒が傍らに居続けたためだ。え、お酒の酩酊のおかげ? それはそうかも……。
とにかく一輪は尋常でなく焦って、瞼の重たそうな雲山に必死に呼びかけるのであった。
「雲山、駄目よ、眠っちゃ駄目! 今眠ったら、二度と起きられなくなっちゃう!」
寡黙な雲山は「そんな真冬の登山みたいな」と思っているようである。しかし相棒の窮地なので一輪は必死だった。
「しっかりして、夜明けはすぐそこよ、庚申の夜はもう少しで終わるのよ! そうしたらきっと神隠しだって……雲山、起きてったら! ええい、これでも食らえ、目覚ましビンタ! ああ、ちっとも効果がない! ならあれよ、眠り続ける相手を覚ます方法といえば昔からチューがお約束よ! あ、でも私キスなんてしたことない……雲山に私の初めてをあげちゃうなんて……いいや背に腹は変えられるものか! 人工呼吸みたいなもんよ、私の天使のキッスを食らえ!」
寡黙にして昔気質な雲山は「一輪に悪魔のキッスで起こされるくらいなら永遠の眠りについた方がマシだ」と思っているらしい。無言で首を振り続け断固拒否の姿勢を徹底し、今にも眠ってしまいそうな雲山に、一輪は我を忘れてすがりつく。
「雲山、私達はずっと一蓮托生でしょう! 病める時も健やかなる時も、とかじゃないけど運命共同体なのよ、あんたが嬉しい時は私も嬉しい、悲しい時は悲しい、あんたが悪酔いしてリバースしたら私ももらいゲロするし!」
最後のは一蓮托生ではない。
あまりに取り乱して相棒にすがりつく一輪に雲山も親父心をくすぐられたのか、一輪、と普段より優しく呼びかけるのだった。
「え? 何?」
一輪は雲山のあえかな声を一文字でも聞き漏らすまいと耳をそばだてている。雲山は薄れゆく意識の中で、うしろ、と言ったらしかった。
「な、何よ、誰がいるっていうのよ」
一輪は恐る恐る振り返る。心なしか、普段の命蓮寺には一切流れていないはずの、異常な気質が混じっている気がする。これが犯人の残り香であろうか。
しかし、たとえどんなに恐ろしい怨霊であっても、強大な妖怪であっても、得体の知れない神であっても、我が相棒は命に替えても守る――できればその心意気を他の仲間達相手にも発揮してほしいものだ。
ところが、一輪が金輪を両手に振り返っても、そこには誰もいなかった。
「逃げたのかしら。星の言う通り、逃げ足の速いやつだったらどうしよう……雲山?」
一輪が安堵半分、警戒半分に振り返ると、一輪の相棒はそこにいなかった。まるで煙が空の雲へ立ち昇るように、跡形もなく消え失せてしまった……一輪は愕然と膝をつく。
「……何よ。何よ、雲山! それで私を守ったつもり? 馬鹿にしないでよ!」
一輪は悔しさのあまり床を殴りつける。雲山は一輪の自分への意識を逸らすため、わざと目を離させる真似をしたのだ。
「馬鹿、馬鹿! あんた一人だけカッコつけて消えられたら、私はどうしたらいいのよ!」
あまりに悔しくて涙すら滲んできた一輪の視界に、異物が転がっているのが映った。
まさかと思えば――さっきまで雲山がいた場所に落ちていたのは、五体目の猿の人形である。
四体目がいるなら、五体目がいてもおかしくないのだろうか。ならば、この猿は命蓮寺の妖怪をすべて根絶やしにするまで増え続けるのであろうか?
一輪は恐る恐る、震える手で猿人形を拾う。そいつはやはり今までの猿と同じデザインだが、どうしたことか、四体の猿と比べて作りが荒っぽく、どんなポーズを取っているのかすら判別できない、はっきり言って未完成品だ。
しかし不完全なものにしか宿らない芸術性というものがあるのか、荒削りゆえのおどろおどろしさは四体の猿が持つそれに勝るとも劣らない。
背中には、禍々しい文字が呪詛のように切り刻まれている。一輪は固唾を飲んで、荒れた文字を解読してゆく。そこに刻まれていたのは……。
【五猿でござる】
「やかましいわ!!」
一輪は思わず五猿を床に叩きつけた。四猿の時点でちょっと怪しかったが、もはやこじつけすら放棄したただの駄洒落である。
しかしあまりのくだらなさのおかげで一輪は相棒が消えた不安も恐怖も吹っ飛び、平静を取り戻した。
「オーケー雲居一輪、私はサイコーに冷静よ」
一輪は雲山の尊い犠牲でトリップ感覚も落ち着き、しつこかった酔いがようやく、本当にようやく醒めたようだ。もっと早く醒めてほしかった。
「最後に残ったからって私は首をくくったりなんかしないわ。ええ、この私が命蓮寺の珍事件を解決してやろうじゃない、聖様の名に賭けて!」
他人の褌で盛大に相撲を取ったところで、一輪は黙々と考える。
「だいたいねー、庚申待ちの祟りなんて聞いたことないわ。星は庚申待ちの夜に亡くなった女御がどうとか言ってたけど、それって後世に〝狂疾の帝〟なんて大層不名誉な呼び名を頂戴した冷泉帝の女御・藤原超子のことでしょ。超子の兄弟があの藤原道長よ。時のお偉いさん達に囲まれて、藤原の政争のゴタゴタに巻き込まれて、罪のない女御まで面白おかしく死因を吹聴されることになったのよ。亡くなられたのはお気の毒だとしても、庚申の日だったのは偶然の一致にすぎないはず。馬鹿げてるわ!」
とまあ、歴史物語の裏側にある陰湿な権力闘争を根拠に女御の祟り説を粉砕し、一輪はまたも不気味な猿人形達と対峙する。
「うん、やっぱり間違いない。私は確かにこの猿達を見たことがあるのよ。やっつけ仕事の五体目はともかく、この独特な四体目のポーズは見覚えがあるわ。それにほんのわずかだけど、この猿の、特に五体目の周りにはよそ者の気配が残ってる。犯人が残していったものに違いないわ。星やムラサの言った通り、敵意のあるよそ者が入り込んでいたのは事実なのよ」
徐々に真実に辿り着いてゆく一輪の背後がほんの少し明るくなった気がして、はっと振り返る。
まだはっきりと日が昇る様を目視できるわけではないが、東の空が白み始めていた。夜が明けてゆく。平安の頃なら、夜明けが新しい一日の始まりであり、庚申の日の終わりだ。
そして一輪は、あたかもトゥーランドット姫が求婚者の王子に突きつけられた一つの謎を夜明けと共に解き明かしたように、朝日の中で答えを見つけたのだ!
「思い出した。ようやく犯人がわかったわ。どこかの名探偵が言う通り、真実はいつも一つなのよ」
一輪は五体の猿を指差し、高らかに宣言した。
「こんなしょーもないアイテムを思いつくような人って、一人しかいないもの! ――そうでしょ、神子様!」
「悪かったな、しょーもなくて」
その時、忍者屋敷のように命蓮寺の廊下の床がガタッと開いて、その下から猛禽類の耳に似た特徴的な髪型がのぞいた。命蓮寺の永遠の商売敵、神霊廟の長・豊聡耳神子である。一輪は再び金輪を握りしめる。
「やっぱり貴方だったんですね!」
「そうだよ。気づくのが遅過ぎたな」
「私達の仲間をどこにやったんです。雲山は? 私達に恨みがあるのはわかりますけど、どうしてこんなことをしたんですか」
「そういっぺんに聞くな」
神子はよっこい聖徳太子と廊下の上に這い上がる。
「正解に辿り着いたお前には一つ一つきちんと答えてやるよ。まずは……」
「いいえ、それはみんなを集めた上で、私からも説明します」
神子が開けっぱなしだった仙界と命蓮寺の繋ぎ目から、またも見慣れた影が顔を出した。現れたのは――我らが住職・聖白蓮その人である。
「ええっ、聖様!? ど、どうしてそんなとこに!」
「事情はこの人の仙界で説明します、貴方もついてきなさい」
「は、はい……」
色々と聞きたいことはあるのだが、毅然とした態度にどこか剣呑なものを感じて、一輪は大人しく従うのだった。
「あっ、一輪さん!」
「おや、お前さんもとうとうお縄についたかい」
「当たり前よ、一輪だけ逃げるなんて許さないんだから」
一輪が連れられたのは神霊廟にある道場の一室だった。
果たしてそこには命蓮寺の仲間達が元気な……いや、正確には少々やつれた姿で揃い踏みしているのだった。特に星などはいつもよりも早く酔いが醒めたのか、二日酔いと自己嫌悪にえらく苦しんで一輪に気づきもしない。
「雲山!」
一輪はその中でいち早く相棒の姿を見つけて、駆け寄って抱き合った。
「ああよかった、雲山も無事だったのね! あんたがいないとほんの少しの間でも寂しかったわ」
「その情けを少しは私達にも分けてほしいものね」
ムラサが皮肉っぽく言うが、一輪は意にも介さない。
「さて、全員が揃ったところで、改めて今回の事件の真相を話そうじゃないか」
神子は笏を手に音頭を取ると、一輪が抱えてきた五体の猿人形を指差した。
「そもそも、お前達平安生まれの仏教徒は忘れているようだが、庚申待ちとは、元々道教の中で生まれた行事だ」
「いえ、覚えてましたよ。……ちょっとお酒で記憶が飛んでただけで」
一輪の苦しい言い訳に、聖の眼差しが一段と険しさを増した気がした。
神子の言う通り、庚申待ちは大陸由来というか、道教由来の行事である。それが日本に入って仏教やら民間信仰やらと融合して独自の発展をするといういつものパターンである。
この四猿は道教布教の目的で神子が独自に編み出したものだ。前に鴉天狗の新聞で四猿人形と一緒に庚申信仰について語る神子の記事を読んだのを、一輪はさっきやっと思い出したのだった。何せ猿達のデザインがすっげえキ……奇抜すぎて一輪の美的センスとどうしても相容れない代物だったので、早々に記憶から抹消していたのだ。
神子は一輪が抱えたままの五体の猿人形を指し、鼻で笑う。
「もちろんそれぞれの猿には意味がある。礼あらざれば見るなかれ、礼あらざれば聞くなかれ、礼あらざれば言うなかれ。これまた古の良き典なり」
「じゃあムラサの『死ざる』は?」
「お化けは死なない、病気もなんにもない」
「いや死ぬ時は死にますし病気だってしますけど」
「ああ、入道に残した五猿はお前が床に投げたから『投げつけざる』と命名しよう。礼あれば物を粗末に扱うなかれ」
「もはや庚申待ちと何も関係ないじゃないですか」
やっぱり途中からただの駄洒落だった。ついでに言えば三猿の由来は道教でも仏教でもなく儒教の教えなのだが、この三教はよくごっちゃにされがちなので混ざっててもいいのかもしれない。
「だいたいね、お前達のやっている庚申待ちは道教の目的からは大いにズレている。お前達、まさか本当に天帝とやらの存在を信じているのか? 三尸の虫は閻魔王の使いだぞ?」
「いいえ、日本に入ってきた時点で大陸のそれとはもう別物なのよ」
そこへ聖が口を挟む。神子もまた演説を邪魔されたせいか眉をつり上げて応戦する。
「お前も天帝を信じるのか。よほど死後の罪の報いが恐ろしいらしい」
「貴方にとっては天の帝なんかいない方がいいんですものね。自分が一番上に立ちたいんだもの、目障りだから地獄を引き合いに出すだけ」
「いやはや、さすがに千年以上お上を牛耳った邪教の使徒は言うことが違う」
「負け惜しみにしか聞こえませんよ。素直におっしゃい、民のためなど大義名分でただ有名になりたいだけだと」
「なら民間に浸透するためなら手段を厭わない仏教のやり手ぶりはどうだ。だいたい青面金剛ってなんだ、私はそんな仏を広めた覚えはないぞ」
「貴方の生きていた時代とは何もかもが違うんです、仏教だって進歩します。古い時代の聖人は引っ込んでなさい」
「ならばお前にも退場願おうか、千年前の魔女よ」
「痴話喧嘩は後にしてもらっていいですかね!」
一輪が痺れを切らして叫んだ。誰かが止めに入らなければずーっと言い争いを続けそうな二人である。
「そもそも聖様はどうして神子様の道場にいるんですか。夜通し読経ライブの予定は?」
「行き先は告げてはいませんでしたね。神子が今夜、いえ、昨夜の依頼人その人ですよ。目の前で夜通しお経を聞かせてきました」
「悪いな、勝手にお前達の親分を貸し切った」
「いや、別にいいですけど……神子様、よくもあんな変なイベントを一人っきりで鑑賞する気になりましたね」
「まあまあ面白かったよ」
「私にとっても有意義でした。ワンマンライブはいいものですね」
「あれをワンマンライブっていうのかなー……」
一輪はいまいち納得いかないが、聖は満足そうである。
「まあ、このように命蓮寺住職としての私の仕事はおかげさまで充実していて、とても喜ばしいことです。ですが、弟子達の指導はうまくいかないようだと常々痛感していましてね」
聖の冷ややかな目が一輪達に向けられて、一同はぎくりと身体をこわばらせる。
心当たりがあるなんてレベルじゃない、聖が日頃から厳しく酒を呑むなと言い聞かせていたのに、つい先ほどまで寺で飲み会を開いてどんちゃん大騒ぎしていたのである。
「それで、うちの弟子達がたるんでるんじゃないかって神子に相談したんです」
「商売敵にしないでくださいよ」
「最近の貴方達の言動はあまりに目に余るんですよ。ろくすっぽお経の勉強もせず、長所といえば大声ばかりでご近所迷惑」
どきっと響子が肩を跳ねさせる。
「居候の身を弁えず、勝手にほっつき歩いたり修行僧達を甘言でそそのかしたりして」
「いやはや、儂はお前さんの弟子じゃないんだから、ちっとは見逃してくれんかのう」
マミゾウは呑気に笑うが聖は笑わない。
「お酒に溺れて気を大きくして、ありもしない祟りをでっちあげて吹聴したり」
星のどんよりした空気が重くなった。このままでは一日中自己嫌悪を引きずりそうだ。
「妄語に惑わされて平静を失くしたり。それに未だに水辺に行っては悪さをしているとか」
ムラサが震えて返事もしない。全員が揃う前によっぽど絞られたのだろうか。
「無口は仕方ないにしても、仲間の不徳を止める力がまったくなかったり」
雲山はいつもと変わらないが重い沈黙を保つ。これに関しては一輪もさすがに申し訳ないなと思った。
「そして一輪。貴方の酒飲みは本当に、本当に、本当にひどい」
「いや星の方が酒癖はひどいですよ!?」
「私は頻度の話をしているんです。そりゃあ私だって、あまり古い習わしに縛られるのもどうか、悟りの妨げにならないのなら、たまの飲酒くらい目を瞑ってもいいのではないか……そう考えたこともありましたが、昨夜の貴方達を見る限り、飲酒を続けながらでも悟りの境地に至れそうな者は一人もいませんでしたね」
せめてもう少し早く気づいてくれればね、とでも言いたげな口ぶりにぐうの音も出ない。全員酔っ払って醜体しか晒していなかった。
「それに一輪、貴方はお寺でこっそり飲むだけでは飽き足らず、こちらの布都さんとも暇があれば私の目を盗んで飲み歩いているようですね」
「ちょっと神子様!?」
「もちろんチクったよ。こちらとしても布都がお前との交流を優先して修行のやる気をなくしたら困るからね」
元々布都にやる気はあまりないのだが、しかしこの地獄耳もとい豊聡耳、その能力ゆえに三尸の虫より厄介なチクリ魔である。
つまるところ、神子と聖はお互いの利害が一致したわけだ。いがみ合うより協力する方がお互いのためだと一輪は呑気に考えていたが、あまり結託されてもそれはそれで厄介だなと思う。
「そしたら神子は少し脅かしてやりなさいって言うものだから。折しも貴方達が庚申待ちにかこつけて酒盛りをやるという噂が入ってきたので、お灸を据えるにはちょうどいい機会だと思ったんです」
「で、神子様に協力してもらって連続誘拐事件を起こしたんですか」
「神隠しと言え。私の仙術にかかればワープも監視もやりたい放題だからな」
要するに、神子は読経ライブを聴く傍らで仙界と命蓮寺を繋げて一同を監視し、隙のあるやつが一人になった瞬間に攫って即座に道を閉ざし、攫われた者は仙界で聖からありがたいお説教を受ける、というルーティンを繰り返していたのである。トリックも何もあったもんじゃない。
「ただ、悪酔いしてた舟幽霊はともかくそこの化け狸だけはちょっと危なかったね」
「狸寝入りで逆に侵入者を捕まえてやろうと思っておったのに、お手が早いもんじゃ」
「えっ、マミゾウさん寝たふりしてたの!?」
「私達は完全に寝落ちしたもんだと……」
酒に強いマミゾウが早々と寝るのはおかしいとは思っていたが、見事に騙された一輪達は確かに酔い過ぎていたのかもしれない。
考えてみれば、神子も聖もその気になれば自分一人だけで誰にも気づかれず人を攫ったり記憶を消したりする神隠しを起こせるのだった。どう考えても聖人の所業ではないし、本人達も進んでそんなことをやる性格ではないが。
「しかしお前達ときたら隙だらけで、攫うのが簡単すぎたよ。修行が足りないんじゃないか?」
商売敵に煽られても反論できない一輪は拳を握りしめるしかなく、計画が成功した聖は満足げに笑っている。
「おかげで目が覚めたでしょう?」
「ええ、徹夜明けの朝日の眩しさもあってお目々ぱっちりです」
「私も倉庫で眠っていた四猿ちゃんが日の目を浴びて嬉しい限りだよ」
「そういえば、結局あの猿を残していった理由はなんだったんです?」
「ヒントとアピールだよ。庚申待ちは仏教だけのものではない。それにお前達ときたら、ちっとも私の出入りに気づかないものだから。本当に良くないものが入ってきても知らないからなというありがたい忠告だ」
誇らしげな神子の背後には、猿の人形の作りかけが三体ほど転がっている。神子が自分で彫ったんだろうか、ご苦労なことだ。
なお、四体目の正式名称は『逃さざる』である。長生きしたい仙人にとって人の寿命を縮める三尸の虫は本当にお邪魔虫なのだ。
「五猿は急拵えだったので出来がいまいちなんだが、仕方ないね」
「出来栄えよりネーミングの方が問題だと思いますよ」
「まあ出すのが五体で済んでよかったよ。お前達はやたら大所帯な上に何人常駐しているか把握できないから、こっちも猿を何体追加するべきかわからなくって」
「確かにうちは出入りが多いですね」
「私も実は今日何人お寺にいるのかわからなくて」
「いや聖様は把握しててくださいよ!」
ぬえが勝手にいなくなったりマミゾウが勝手にうろついたりナズーリンがいつのまにか無縁塚から寺に引っ越してたりするんだから仕方ない。
「さて、せっかくだから記念として四猿ちゃん達はお前達にプレゼントしよう」
「これ受注生産だったはずですよね。なんで余ってるんですか」
「『届いたら思ったより怖かった』と送り返されたんだ。素直に受け取るがいい。三尸の虫を捕まえて食べてくれる優れモノだ」
「捕まえるだけならまだしも食べるのは仏教的にアウトなんで無理です」
一輪は丁重にお断りした。そうでなくとも神子の作るものは新しい希望の面然り、四猿ちゃん然り、センスがおか……独特過ぎて平安生まれの妖怪達には受け付けないのである。
しかし一輪達は酒を呑んだり恋にうつつを抜かしたりするくせに、不殺生戒だけはかなり重く受け止めるのはなぜだろう。逆に不殺生戒さえ破らなければ何をしてもいいと思っているのならそれはそれで考えものである。
「まあ、昨夜のことはいいお勉強だと思っておきますよ。一連の謎は解けてすっきりしましたし、私達はそろそろお暇しましょうか。もうすぐ朝のお勤めが始まる時間ですし、いつまでも道場に留まっているわけには」
「お待ちなさい、一輪」
キリのいいタイミングを見計らって帰宅を申し出たつもりが、聖に抜け目なく呼び止められて心臓が跳ねる。
「で、ですが聖様、もう庚申の夜は明けましたよ?」
「いいえ。庚申待ちが終わろうが、私のお説教は終わっていません。小賢しい真似をして逃げようとするんじゃありません」
しかも一輪の目論見までバレている。朝のお勤めとか言ったものの、久々に酒を呑みまくった上に徹夜で騒ぎ明かしたので、寝不足も相まっていい加減頭が痛くなってきたのだ。正直、帰ってさっさと寝たい。
しかし普段温厚な聖は、珍しく本気で怒っているらしかった。聖の後ろに憤怒の不動明王や愛染明王の影が見える。
「とはいえ、貴方達の狼藉ばかりを責めるのも殺生な話でしょうね。弟子の不徳は師の不徳。私も貴方達への対応が甘かったのだろうと見に染みていますよ」
「それは殊勝なお心がけで……」
「ですから今回は恥を忍んでこの人にもよくよく忠告や訓戒をいただきました。私も良き師を目指しますから、貴方達にも良き弟子になってもらわなければ困りますよ」
「存分に諭しておいた、さぞお前達のためになるだろう」
何を余計なことをしてくれるんだ、と恨みがましい目で神子を見るが、どこ吹く風と言わんばかりに涼しい顔である。
「さあ、お寺に帰ったら、不飲酒戒の心得をみっちり叩き込んであげましょう。私のお説教が終わるまで、誰も寝てはなりませんよ」
聖の表情は穏やかな微笑の形なのに、目がまったく笑っていない。トゥーランドットの優雅なアリアの代わりに、どこからともなく例の処刑用BGMが流れ出した気がした。
(やーばーい)
この中で一番厳しいお説教を覚悟した一輪は冷や汗ダラダラで永遠の相棒を振り返るが、無の表情でただ首を振るばかりである。神子は「それじゃあ、よい一日を」と間髪入れずに仙界と命蓮寺を繋いで一輪達全員を送り返してしまった。唯一の蜘蛛の糸は無慈悲にも断ち切られたのだった。
都合が悪いことや不吉なことが起こればなんでも怨霊のせいで片付けられていた平安時代は遠く過ぎ去った。今の一輪にとっては怨霊はおろか、天にまします帝よりも、地獄に鎮座する閻魔王よりも、目の前にいる聖白蓮の方がよっぽど恐ろしいのである。
かくして一輪は他の修行僧共々、徹夜と二日酔いでガンガン頭の痛む中、聖によるあしびきの山鳥の尾のしだり尾よりも長々しいお説教を懇々と聞かされる羽目になったのだった。
この事件以降、『庚申待ちの夜はさっさと寝るに限る』が命蓮寺の不文律となったそうな。
命蓮寺の面々がどんちゃん騒ぎしてるだけで楽しいのにそこから一人また一人と消えていく展開にドキドキしました
とてもよかったです
ちゃんと痴話喧嘩パートが入っていてよかったです。みこひじ
夏っぽさのある会談風味小噺で良かったです。ありがとうございました
一人だけしみじみと三度も念を押される一輪に笑ってしまいました。
面白かったです。