私は猫である。名前はまだない。
ごめんなさい、半分ウソ付きました。名はあるけど姓はないが正解です。
橙と書いて「ちぇん」と読む立派な名前、これに相応しい名字を授からんと精進の日々である。
私の主は八雲藍、その藍さまの主は八雲紫。どちらも幻想郷を昔から管理している大妖怪だ。今の私は二人のお手伝いをしながら野良猫達のリーダーもやっている。
いつか私も、八雲姓を。それを目指して頑張る私に、紫さまが重大任務を授けられた。もちろん、紫さま自らが動けば一瞬で終わってしまうけど、それでは後継者が育たない。心無いやつ(主に神社の巫女)は無駄に意味深なだけの胡散臭い妖怪だとか言うけれど、紫さまはいつも幻想郷の未来を見据えて行動しているのだ。
さて、そんな私は現在、その心無い巫女が住んでいる博麗神社の床下に身を潜めていた。何でも、八雲の縄張りであるこの場所に最近「虫」が入り込んでいるらしい。
たかが虫、されど虫だ。例えば伝染病の原因がその病原菌を持った蚊だったり、無菌の部屋に胡麻みたいな小さい虫一匹が入り込んだだけでカビが大増殖したり、そういう事もあるのだと藍さまが教えてくれた。
つまり虫のせいで博麗の巫女が汚染されないか危険性の報告、あわよくば駆除。猫特有の神出鬼没さを見込んだ紫さまが私にこの大任を与えたのだった。
もちろん、虫というのは例え話。本当に病原菌をばら撒く土蜘蛛妖怪なんかが居たら巫女が自分でボッコボコにするだろう。私が何日か見張った結果、確認できたのは一匹の害獣。そいつはいつの間にか神社に現れ、巫女のペット的立場でしれっと過ごしている。
許さん。私が藍さまに可愛がってもらえるまでどれほどの時間がかかったと。何の積み重ねも無いやつがのうのうとエサを貰ってるなんて肉食獣として気に入らない。
そんな博麗霊夢みたいに頭が春爛漫でのほほんとしてアホっぽいやつ、仕留めるのは簡単なはず。一人で隙だらけになる時間がきっと──。
──来た。台座に座ってぼんやりと空を眺めている。
大チャンスと見た私は、まさしく猫まっしぐらで境内へ飛び出す。
名はあるが、名乗りなど不要。向こうにも名前ぐらい有るだろうが聞く価値もない。ごちゃごちゃ名前を聞くなんて女々しい。
どうせ死ぬ相手に言葉は要らない。私は全身全霊で空中からの回転攻撃を敢行した。
「しぇえ!?」
完全に不意を突かれた相手はただコミカルなポーズで驚くしか出来ない。獲ったッ!
回転の勢いに乗った私の剛爪が、そいつの心臓を抉り出す。本当にその直前、だった。
「フゥッ!?」
爪が空を切る。確かにそこに居たはずのターゲットは、爪の先端が食い込む刹那、陽炎のようにかき消える。渾身の一撃は盛大に土埃を巻き上げるだけで終わってしまった。
「……念のために分身しておいたのよ。最近ずっと妙な殺気を感じていたから」
「残像とはね、やってくれるじゃない」
標的の座っていた台座の影から、そいつがひょっこりと姿を見せた。
小鬼を思わせる一本の小角に、苔のような暗い緑色でぐるぐる巻きのロングヘアー。どこで買ってきたのか神社には不釣り合いな南国風のシャツ。
神社には不釣り合いな恰好のくせして妙に馴染んでいる虫。もとい、犬だ。
「私は橙。お前、名前は?」
アンブッシュに失敗したからには名乗るのが流儀。それが八雲の教えの一つ。
「狛犬の高麗野あうんだけど、まさか知らずに襲ってくるとは思わなかったわ。貴方、確か八雲の式神じゃない。それがどうしてこんな奇襲を」
「私が八雲の式だからだよ。逆に聞くけれど、お前は何で神社に居るの?」
「博麗神社の狛犬だから。何かおかしな処があるとでも?」
「その狛犬が、どうして妖怪化して喋ってる! 自分に何があったか思い出してみろ!」
そもそもは幻想郷中の四季がめちゃくちゃになった天空璋異変の時だ。各地の調査で飛び回っていた霊夢が一旦神社に戻ったら、こいつはさも当然のように神社の番犬役を気取っていた。
こいつが妖怪になる力を与えたやつこそ、異変の元凶、摩多羅隠岐奈。紫さまと同じく幻想郷を管理する立場にありながら、弱者に面白半分で力を与えて環境のバランスを崩していくクソヤローだ。
「摩多羅の力を受け取った外来種が神社に居たら巫女までマタラ汚染される! 紫さまはこれを阻止するために私を向かわせたんだ!」
「……いやいやおかしいでしょう。私が居る程度で霊夢さんが摩多羅神に染まるって? 逆に八雲の影響力ってそんなに低いのかしら」
「そんなはずあるか! でも最近の巫女は頭ユルユルの懐ガバガバになってる気がするし、何か悪い虫が付いてるに違いないんだよ!」
「柔らかくなった、と言いましょうよ。霊夢さんだって人間の女の子なんだから人間性を取り戻したって……あ、でも」
狛犬は縁側の方をちらりと見た後、私に向き直った。
「貴方、八雲の遣いで来たんだから神社自体に敵意は無いのよね?」
「ん、まあ。巫女を腐らせるやつを調べてこいって言われたんだよ」
式の自覚があるのなら八雲らしい振る舞いを心掛けなさい。藍さまにそう言われていたのを思い出して、一度爪を引っ込める。八雲は優雅に、霊妙に、粛々と。
「確かにちょっと、困った子は居るのよ……ただどうしても言いづらいところがあって」
別に聞いてもいないのに、その困った子について狛犬がつらつらと問題を語りだすのだった。
──ちゅんちゅんと、雀が一日の始まりを告げる。
生い茂る木々の隙間から差し込む光に刺激され、私はゆったりと目を覚ました。
まずは薪に火を点け、湯を沸かす。玄武の沢から汲んできた水は清らかで、適当に摘んできた野草を煮出しただけでも風味は格別だ。何ならそんじょそこらの茶人共の、反吐が出る作法を守った一杯より上だと思っている。
幻想郷の転覆を狙った天邪鬼、鬼人正邪を捕らえよ。そう指名手配されてからもうどれだけ経っただろう。追跡者もとっくに飽きているからこんな洞穴でのキャンプ生活など終わりでもいいのだが、私はすっかりこの野良暮らしに馴染んでしまっていた。
一応、帰ろうと思えば帰れる場所はある。私と一緒に一時期レジスタンスをやっていた小人もといクソチビ、少名針妙丸の逆さ城だ。あいつは世間知らずでお人好しの馬鹿だから、向こうからもう一度住んでくださいお願いしますと頭を下げれば居候してやらなくもない。
そんな事を考えていたら、そういえば食料の備蓄が尽きてきたのを思い出す。たまにはあいつの嫌がる顔を見るのも悪くないし、飯でもたかりに行くかと喉を潤した、そんな折だった。
「っ……ああー、いたいた! 良かったよぉ、正邪がここに居てくれて!」
茂みから鼠のようにガサガサと飛び出してきたのは、そのクソチビこと針妙丸だった。私から行くつもりだったのに、そっちから来るとは気に入らん。
「……なんだテメェ、お前に飲ませる物なんてセンブリ茶しかないぞ」
「お茶は出してくれるんだね、って今はそれどころじゃなくて!」
それどころじゃない事情は全く語らず、針妙丸は適当な樽を選んでその中に潜り込んだ。が、すぐに顔を覗かせた。
「かっらぁ! なにコレ、バカ!」
「猿酒の樽だよバーカ。そのまま漬け込み酒の一部になっちまえ」
医者が言うところの急性アルコール何たらは流石に勘弁か、針妙丸はびちゃびちゃと酒を滴らせて樽から這い出てきた。とは言ってもまだ物陰に隠れて周囲を警戒しっ放しだ。
「……んで、何をやった。コソ泥か? それとも結婚詐欺か?」
「正邪と一緒にしないで。私は何もやってない!」
「後ろめたい奴はみんなそう言うもんだ。その様子じゃ一晩中逃げ回ったか? お前よっぽどとんでもない奴らに追われて……」
──ガサッ。
「チェェエエエエエ!!!」
「サァアアアアアア!!!」
とんでもなく知能の低そうな奴らが、とんでもない回転力で突っ込んできたのだった。
そりゃまあ私だって妖怪だし、それなりの修羅場だって潜ってきてるつもり。だからって前方宙返りしながら突っ込んでくる奴と、錐揉み回転で角をドリルにして突っ込んでくる奴を同時に相手なんてした事が無い。
だから、こいつらがその回転力のせいで自爆しなければ確実に殺られていただろう。
「うぉぇっぷ……」
「ぼ、ぉろろ……」
「ぅ、ひっく……」
二人は目を回し、一人は酒が回り、洞穴には三人の死体が転がっていた。
「……センブリ茶、飲むか? めちゃくちゃ苦いぞ」
「あ、ありがとう……」
追いかけっこ続きでよっぽど喉も乾いていたのか、三人はとろみが付くまで煮込んだ薬湯をぐびぐびと飲み干し、揃いも揃って死にかけのババアみたいに顔をぐしゃぐしゃに歪めた。慣れてくるとこの苦みがクセになるんだが、こいつら素人にはレベルが高すぎたようだ。
「お前ら、隙間妖怪の下僕の下僕と神社の狗だな。狩るならこんなチビよりもっと食いでのある獲物にしろよ」
「よりにもよって一寸法師なんか食べるわけないでしょーが……」
猫の方が顔芸を保ったまま言い返す。まあ小人なんて腹の中で暴れ回る寄生虫、好きで食う奴は居ないか。
「この高麗野あうん、霊夢さんを汚す寄生虫を駆逐するまではぁああ……」
狗も落ち武者のように呪怨たっぷりでにじり寄る。率直に言わなくてもキモい。
「よく分からんが、お前ってやっぱり虫けらだったんだな」
「違うし! もうほんっとワケ分かんない!」
針妙丸はぷんぷんと河豚のように膨れながら勢いでセンブリ茶を口に含み、数秒後にぷーっと毒霧を吹き出した。私はこれを知っている。敵を察知した虫が臭い液を出して威嚇するやつだ。
「そこの狗は巫女を汚したとか言ってたな。お前のナリでよくアレを襲えたもんだ」
「本当に何もしてないんだって。あのさあ、いい加減まともに会話をしてくれる? こっちには幻想郷の猛者共を手玉に取った鬼人正邪が付いてるんだけど?」
「付いてねーよ」
「でもどっちに付くかと聞かれたら私を選んでくれるんでしょ?」
「悪態ならいくらでも付いてやるがな」
ちょっと担ぎ上げてやっただけでここまで増長しやがって、私はこいつのこういう所が嫌いだ。
「……いいよ。紫さまも駆除を第一目的にしたわけじゃなかったし」
「お茶もご馳走になっちゃったし、一度牙を引っ込めるのがスジかしらね」
猫と狗が尻尾を丸めて胡坐をかいた。暴れられても困るが、だからってここは話し合いの場でもない。だけど針妙丸も当然のように私の真横に座ってるし、こっちに拒否権なんて無いのだろう。茶なんか出すんじゃなかったクソが。
「少名針妙丸、お前が巫女を堕落させている。だから八雲の名において私達が矯正しに来たんだ」
ババアの威を借る猫ってところか。じゃあババアと巫女で直接やり合えよめんどくさい、という気持ちはきっと間違いじゃないと思う。
「まずさあ、ちっちゃいヤツってズルいじゃん?」
猫が、あらゆる「小」と付く存在に喧嘩を売りやがる所から話は始まった。
「いや、この中で一番ズルいのどう見てもお前だと思うけど。何なの式の式って」
小人がもっともな意見を言い返す。実際、前世で何したらただの野良猫が九尾の狐に見込まれるってのか、あの世で閻魔と寝たんじゃなかろうか。
「いいや、式の命令をい~~~~~っぱい頭に詰め込まれる立場になったら恵まれてるなんて思わない。だから私はズルくない!」
「じゃあ私だって大変だからズルくないし。自分に合う服なんて売ってないから全部お下がりか自分で縫ってるんだけど?」
「この際ズルいかズルくないかはどうでもいいわ。私はね、前々からお前に言いたかったの! 霊夢さんをこれ以上誑かすなと!」
狗が言うにはこうらしい。
このチビは打ち出の小槌を振りまくった反動で元々小さい体がクソ縮み、その間はあろう事か退治しに来た相手の神社でぬくぬくと保護されていた。(そもそも使わせまくったのは私なのだが。ざまあ)
こいつも最初こそ謙虚だったらしいが馴染んだ今となってはこの通り、弱者特権を盾にして口汚く相手をディスる餓鬼と化していたのだ。
「正邪、自己紹介してる?」
「うるせえ、私の独白に入ってくんなミジンコ」
話を戻す。私に言わせりゃ自分の力だけで生きられない、産まれながらの奴隷種族なんて反吐が出る。だが猫もさっき僻んだように、人間は小さくて可愛い生き物って奴にクソ弱い。それこそ寄生虫そのものだろうが見た目だけで甘やかす。それは妖怪に真のスカーレットデビルと恐れられる博麗の巫女ですら例外じゃなかった。
小人が菓子を食いたいと言やカステラを買ってくるし、寒いと言や懐にしまい込み、椀が欠けたと言や最高級の漆塗りと(金欠で買えないくせに)睨めっこ。挙句の果てには部屋の一画を小人用生活空間として飾り立ててしまう。
そんな様だから小人が上がり込んだ月の財政は火の車、らしい。ちなみにお燐とかいう猫に化けた本物の火車が来る日もある。後は言うに及ばず。
「いや、どう考えても巫女がダメだろ」
「それ、禁句だから」
狗は尖った耳をぱたんと畳み、聞かざる体勢を取った。お前の飼い主だろ、お前が何とかしろよ。
「あうんちゃんさあ、仮に私が居なかったとするじゃない? そしたら霊夢がキビキビ働くようになると本気で思ってる?」
「ああ、うん……今よりは!」
「ほら微妙な返事。本当の問題は別なの分かってるくせに共通の敵を作り出して団結したフリしてる。革命家とかに多いんだよねえこういうの」
「よりによって貴方にだけは言われたくないわ」
狗が元革命家の小人を恨めしそうに見つめる。チビで雑魚のくせに、小人族の姫だけあって生意気に教養はあるのだ。その上デカい態度相応の勇敢さまで持ってやがる。
無意味な仮定だが、こいつが小人じゃなければ救世主気取りの宗教屋に混じって人間共の羨望を集める大人物になっていたかもしれない。どう足掻いても天邪鬼以外になれない私と違ってこいつには英雄の資質が──。
「ねえ、正邪もそう思うよね?」
「あァ? お前が大物になんて成れるかよ阿呆が」
「はいはい、やっぱり話を聞いてなかったね。まあ私も霊夢が神社を潰しかけるぐらい大事にしてくれるとは思ってなかったし、それに甘えすぎた事も悪かったよ。だからこそ、みんなに問うんだけど」
チビ助が首を回して私達を仰いだ。
「霊夢がこんなになってるのを放置してる、甘やかしてる奴って誰だと思う?」
私の脳裏に浮かんだ一匹の化け物。そしてこいつは他の奴らの中にも等しく顔を覗かせたようだ。
私達の意見はこの時初めて完全に一致した。
──本当は分かっていた。欲しいものがあったら自ら勝ち取る以外に無いことは。
開けた口に餌を運んでもらえるのは未熟な雛鳥だけ。だけどそうしている間は私の望みも叶わない。
藍さまに認められて、紫さまに認められて、一人前になりたい。それだって確かに私の願望ではあるけれど、立派な従者なんかがゴールじゃない。百獣の王だって私と同じネコ科なのだ。だったら私にだって資格はある。
鬼人正邪という妖怪は、私から見ればあまりにも恵まれない惨めな存在だ。それでもこいつは悪知恵を絞り、道具を使いこなし、遂には幻想郷を逃げ回りきってみせた。紫さまですら正邪こそが最強の天邪鬼と認めたのだ。
いつから私は飼い猫に成り下がってしまったのだろう。たとえ勝ち目は薄くても、上を睨んで己の意思を貫き通せ。きっと紫さまはその事を伝えたかったに違いない。だから私は──。
「今こそ、八雲紫との決着を付ける時だッ!」
「……ほえ?」
紫さま、いいや紫は呑気にお煎餅を齧っていた。
場所は戻って博麗神社。この時間帯の紫は監視という名目で霊夢にちょっかいをかけている事が多い。冷静になって尊敬の情を捨ててみれば、何だこの様は。小娘と一緒に縁側で食べかすを溢している、こんなヤツの式神になんてどうして私は!
「そうだそうだー、こんなヤツなんて今すぐ下剋上だー」
後ろでは最強の反抗期娘がエールを送ってくれている。今の私は百人力、まさに解き放たれた野獣だ。九尾の狐を従える妖怪にだって遅れを取りはしない!
「橙? 何がどうなってそんな四人パーティを組んでいるの? 分かるように説明してちょうだい」
「全てはお前の身から出た錆、って事だよ」
パーティの戦士担当、針妙丸が煌びやかな装飾のハンマーを紫に向ける。
「貴方は霊夢さんの保護者面してますけど、私の方がずっと前から見守ってましたからね!」
戦士担当、あうんも一歩前に出る。霊夢がどっちも保護者じゃないわと言いたげな顔をしているのは見て見ぬふりだ。
「飼い犬、いや猫に手を嚙まれるとはこの事だなァ? お前が君臨していたのは砂上の楼閣だったんだよ」
そして戦士担当の正邪。私も今こそ、彼女のように牙を取り戻す時が来た。下剋上! 反骨精神! ビッグサクセス!
「お前がいっつも全部お見通し~、みたいな胡散臭い言い方だから霊夢だって適当になるんだよ。反省しろ!」
隷属の身なれど巨悪に敢然と立ち向かう、私こそが勇者だ。この世に悪の栄えた試し無し、最後は必ず正義によって退治され、地球に平和が訪れる。よく分からないけどこいつが居なくなれば何か世の中が良くなるに違いない!
「あー……橙、自分が何を言っているか分かっているの? もしかしておやつのチュールを買い忘れていたの、まだ怒ってる?」
「八雲の名において、博麗神社に纏わりつく虫を駆除する。覚悟しろ、隙間妖怪!」
「うん、私がその八雲なんだけど?」
もはや語ることはない。ここから先は私自身の力で道を切り開く時。そう、拳で!
針妙丸がハンマーを振り上げたのを皮切りに、私達は一斉に飛び掛かった。
従者の私だから知っている弱点が、八雲紫にはある。このまま殴っても紫は自分の隙間空間に逃げ込んで空振りに終わってしまうだろう。だけど、もしそれが塞がっていたら?
例えば魂魄さん家から虹川さん家に行くとして、そこに辿り着くまでの道筋は無数にあっても毎回同じ場所を通るものだ。それはその道がよく知ってたり、楽だったり、最短だったりで。
つまり紫の生み出す隙間も何でも有りのように見えて、癖でいつも通ってしまう座標がある。今回は私自身の結界術であらかじめそこを占領してやった。
これで咄嗟の逃げ道が通れなかった紫には隙が生じる。この手が通じるのは一回だけど、それで十分。一発で片を付けてしまえばいい!
針妙丸の針剣が、あうんの牙が、正邪の変な矢印が、そして私の剛爪が紫を──!
「……はい。自分達の罪状を、もう一回よーく復唱してみなさい」
「私達は、人の家の庭で勝手に暴れようとしました。あと霊夢さんを舐めてました。ごめんなさい」
百獣の王、目覚める。
腑抜けだなんてとんでもない。霊夢は相変わらずの殺戮マシーンだった。
『人の家で勝手に何してんの!』
そう叫ぶやいなや、針妙丸を針で足止めし、あうんの顔面へお祓い棒の一文字を叩き込み、正邪の顎に陰陽玉がクリーンヒット、そして私には無数のお札が飛来。これら一連の動きを矢継ぎ早に繰り出し、そして返す刀でついでに紫さまもお腹に前蹴りを喰らっていた。
『アンタも、お茶請け食べて良いなんて言ってないんだけど!?』
言っても無駄で諦められていたけど不満だったみたい。喧嘩両成敗、結局私達は五人揃って霊夢の前で正座させられたのだった。
「クソが。誰だよ神社に襲撃かけようとか言ったバカは……」
「なにさ、正邪だってノリノリだったくせに。久々に私と一緒に暴れられるからってはしゃいじゃって」
「んなわけあるかゾウリムシ。大体お前が発端だろうが」
「私じゃない、小槌の影響。しょうがない、済んだこと。」
「その逃げはもう通用しないのも分かってるわよねえ?」
霊夢はおもむろに発電機を引っ張り出すと、そのコンセントにプラグを差し込んだ。
自分の手を汚さず小動物なら確殺できる、最強の拷問器具が博麗神社にも最近導入されていたのだ。その名はズバリ、電子レンジ──。
「針妙丸、橙。どっちから行く? ああいや、小槌で小さくしちゃえば誰でも入るわよねえ。どうする?」
「ごごごごめんなさいごめんなさい! 橙の方が暖かい場所好きだと思います!」
「ふざけんな! お前なんか毎日味噌汁の具になってるようなもんじゃん!」
「橙、八雲らしくもっと淑女な喋りをね?」
そんな事を言ってる紫さまだって月人に土下座した時以来の無様な姿を晒している。それは私だって同じなのだけど。
そして当の電子レンジはというと直接正邪の頭に落とされていた。無惨。
「あのー……私達も一応は霊夢さんを思っての行動だったわけでして、この可愛さに免じて許してくれますか?」
あうんが飼い主の足元にすり寄り、つぶらな瞳で顔を見つめた。
「うっ……」
クリティカルヒット。
これが冴えないハゲの中年男性とかだったら問答無用で殺されているだろうけど、実際可愛いから許される。それがペット特権というやつだ。
「橙もちょっと野生が戻ってきちゃっただけで、本当は紫さまの事も大尊敬してるんです。許してくれますか……?」
「じゃあ聞くけれど、藍と私ならどちらをより尊敬してる?」
「え゛っ!? そ、そんなの勿論ゆん……紫さまに決まってますけど!」
「うん、混ざりかけたわね。あの子も私の一部みたいなものだから良いけど」
ヨシが出た。藍さまあっての私であり、紫さまあっての藍さまだ。それによって橙あっての紫さまという三段論法が成り立つ。私達は三位一体、三人いれば楽団でもお笑い芸でも何でもできるのだ。ああ、素晴らしきかな八雲家。八雲家よ、永遠なれ──。
「なんかおめでたい雰囲気出してるけど、あんた達はそれで済まないわよ」
それでは誤魔化せなかった。
「ここ数日ずぅっと視線を感じていたの。寝てる時もお風呂の時もガサガサ聞こえて全然気が休まらなかったんだけど。これが野良猫の仕業ならしょうがないけど、飼い主の紫が命令していたのよねえ?」
「違うのよ。これも貴方を気にかけて指示したのであって、この美貌に免じて許して……」
「黙れウーパールーパー!」
妖怪の血を幾度となく吸ってきた無慈悲なお祓い棒が、今再び私と紫さまの頭を断罪するのであった。
私は橙である。名字はまだない。
大妖怪にして幻想郷を守護する八雲の姓を授からんと精進の日々である。
追いつこうにも追いつけない、ずっと遠くにあった主の後ろ姿。だけどそれは私が勝手に思っていただけで、本当は案外手を伸ばせば届く距離にあったのかもしれない。
なぜなら、それが今は眼の前で私と同様に、もんどり打って地に伏しているからであった。
ごめんなさい、半分ウソ付きました。名はあるけど姓はないが正解です。
橙と書いて「ちぇん」と読む立派な名前、これに相応しい名字を授からんと精進の日々である。
私の主は八雲藍、その藍さまの主は八雲紫。どちらも幻想郷を昔から管理している大妖怪だ。今の私は二人のお手伝いをしながら野良猫達のリーダーもやっている。
いつか私も、八雲姓を。それを目指して頑張る私に、紫さまが重大任務を授けられた。もちろん、紫さま自らが動けば一瞬で終わってしまうけど、それでは後継者が育たない。心無いやつ(主に神社の巫女)は無駄に意味深なだけの胡散臭い妖怪だとか言うけれど、紫さまはいつも幻想郷の未来を見据えて行動しているのだ。
さて、そんな私は現在、その心無い巫女が住んでいる博麗神社の床下に身を潜めていた。何でも、八雲の縄張りであるこの場所に最近「虫」が入り込んでいるらしい。
たかが虫、されど虫だ。例えば伝染病の原因がその病原菌を持った蚊だったり、無菌の部屋に胡麻みたいな小さい虫一匹が入り込んだだけでカビが大増殖したり、そういう事もあるのだと藍さまが教えてくれた。
つまり虫のせいで博麗の巫女が汚染されないか危険性の報告、あわよくば駆除。猫特有の神出鬼没さを見込んだ紫さまが私にこの大任を与えたのだった。
もちろん、虫というのは例え話。本当に病原菌をばら撒く土蜘蛛妖怪なんかが居たら巫女が自分でボッコボコにするだろう。私が何日か見張った結果、確認できたのは一匹の害獣。そいつはいつの間にか神社に現れ、巫女のペット的立場でしれっと過ごしている。
許さん。私が藍さまに可愛がってもらえるまでどれほどの時間がかかったと。何の積み重ねも無いやつがのうのうとエサを貰ってるなんて肉食獣として気に入らない。
そんな博麗霊夢みたいに頭が春爛漫でのほほんとしてアホっぽいやつ、仕留めるのは簡単なはず。一人で隙だらけになる時間がきっと──。
──来た。台座に座ってぼんやりと空を眺めている。
大チャンスと見た私は、まさしく猫まっしぐらで境内へ飛び出す。
名はあるが、名乗りなど不要。向こうにも名前ぐらい有るだろうが聞く価値もない。ごちゃごちゃ名前を聞くなんて女々しい。
どうせ死ぬ相手に言葉は要らない。私は全身全霊で空中からの回転攻撃を敢行した。
「しぇえ!?」
完全に不意を突かれた相手はただコミカルなポーズで驚くしか出来ない。獲ったッ!
回転の勢いに乗った私の剛爪が、そいつの心臓を抉り出す。本当にその直前、だった。
「フゥッ!?」
爪が空を切る。確かにそこに居たはずのターゲットは、爪の先端が食い込む刹那、陽炎のようにかき消える。渾身の一撃は盛大に土埃を巻き上げるだけで終わってしまった。
「……念のために分身しておいたのよ。最近ずっと妙な殺気を感じていたから」
「残像とはね、やってくれるじゃない」
標的の座っていた台座の影から、そいつがひょっこりと姿を見せた。
小鬼を思わせる一本の小角に、苔のような暗い緑色でぐるぐる巻きのロングヘアー。どこで買ってきたのか神社には不釣り合いな南国風のシャツ。
神社には不釣り合いな恰好のくせして妙に馴染んでいる虫。もとい、犬だ。
「私は橙。お前、名前は?」
アンブッシュに失敗したからには名乗るのが流儀。それが八雲の教えの一つ。
「狛犬の高麗野あうんだけど、まさか知らずに襲ってくるとは思わなかったわ。貴方、確か八雲の式神じゃない。それがどうしてこんな奇襲を」
「私が八雲の式だからだよ。逆に聞くけれど、お前は何で神社に居るの?」
「博麗神社の狛犬だから。何かおかしな処があるとでも?」
「その狛犬が、どうして妖怪化して喋ってる! 自分に何があったか思い出してみろ!」
そもそもは幻想郷中の四季がめちゃくちゃになった天空璋異変の時だ。各地の調査で飛び回っていた霊夢が一旦神社に戻ったら、こいつはさも当然のように神社の番犬役を気取っていた。
こいつが妖怪になる力を与えたやつこそ、異変の元凶、摩多羅隠岐奈。紫さまと同じく幻想郷を管理する立場にありながら、弱者に面白半分で力を与えて環境のバランスを崩していくクソヤローだ。
「摩多羅の力を受け取った外来種が神社に居たら巫女までマタラ汚染される! 紫さまはこれを阻止するために私を向かわせたんだ!」
「……いやいやおかしいでしょう。私が居る程度で霊夢さんが摩多羅神に染まるって? 逆に八雲の影響力ってそんなに低いのかしら」
「そんなはずあるか! でも最近の巫女は頭ユルユルの懐ガバガバになってる気がするし、何か悪い虫が付いてるに違いないんだよ!」
「柔らかくなった、と言いましょうよ。霊夢さんだって人間の女の子なんだから人間性を取り戻したって……あ、でも」
狛犬は縁側の方をちらりと見た後、私に向き直った。
「貴方、八雲の遣いで来たんだから神社自体に敵意は無いのよね?」
「ん、まあ。巫女を腐らせるやつを調べてこいって言われたんだよ」
式の自覚があるのなら八雲らしい振る舞いを心掛けなさい。藍さまにそう言われていたのを思い出して、一度爪を引っ込める。八雲は優雅に、霊妙に、粛々と。
「確かにちょっと、困った子は居るのよ……ただどうしても言いづらいところがあって」
別に聞いてもいないのに、その困った子について狛犬がつらつらと問題を語りだすのだった。
──ちゅんちゅんと、雀が一日の始まりを告げる。
生い茂る木々の隙間から差し込む光に刺激され、私はゆったりと目を覚ました。
まずは薪に火を点け、湯を沸かす。玄武の沢から汲んできた水は清らかで、適当に摘んできた野草を煮出しただけでも風味は格別だ。何ならそんじょそこらの茶人共の、反吐が出る作法を守った一杯より上だと思っている。
幻想郷の転覆を狙った天邪鬼、鬼人正邪を捕らえよ。そう指名手配されてからもうどれだけ経っただろう。追跡者もとっくに飽きているからこんな洞穴でのキャンプ生活など終わりでもいいのだが、私はすっかりこの野良暮らしに馴染んでしまっていた。
一応、帰ろうと思えば帰れる場所はある。私と一緒に一時期レジスタンスをやっていた小人もといクソチビ、少名針妙丸の逆さ城だ。あいつは世間知らずでお人好しの馬鹿だから、向こうからもう一度住んでくださいお願いしますと頭を下げれば居候してやらなくもない。
そんな事を考えていたら、そういえば食料の備蓄が尽きてきたのを思い出す。たまにはあいつの嫌がる顔を見るのも悪くないし、飯でもたかりに行くかと喉を潤した、そんな折だった。
「っ……ああー、いたいた! 良かったよぉ、正邪がここに居てくれて!」
茂みから鼠のようにガサガサと飛び出してきたのは、そのクソチビこと針妙丸だった。私から行くつもりだったのに、そっちから来るとは気に入らん。
「……なんだテメェ、お前に飲ませる物なんてセンブリ茶しかないぞ」
「お茶は出してくれるんだね、って今はそれどころじゃなくて!」
それどころじゃない事情は全く語らず、針妙丸は適当な樽を選んでその中に潜り込んだ。が、すぐに顔を覗かせた。
「かっらぁ! なにコレ、バカ!」
「猿酒の樽だよバーカ。そのまま漬け込み酒の一部になっちまえ」
医者が言うところの急性アルコール何たらは流石に勘弁か、針妙丸はびちゃびちゃと酒を滴らせて樽から這い出てきた。とは言ってもまだ物陰に隠れて周囲を警戒しっ放しだ。
「……んで、何をやった。コソ泥か? それとも結婚詐欺か?」
「正邪と一緒にしないで。私は何もやってない!」
「後ろめたい奴はみんなそう言うもんだ。その様子じゃ一晩中逃げ回ったか? お前よっぽどとんでもない奴らに追われて……」
──ガサッ。
「チェェエエエエエ!!!」
「サァアアアアアア!!!」
とんでもなく知能の低そうな奴らが、とんでもない回転力で突っ込んできたのだった。
そりゃまあ私だって妖怪だし、それなりの修羅場だって潜ってきてるつもり。だからって前方宙返りしながら突っ込んでくる奴と、錐揉み回転で角をドリルにして突っ込んでくる奴を同時に相手なんてした事が無い。
だから、こいつらがその回転力のせいで自爆しなければ確実に殺られていただろう。
「うぉぇっぷ……」
「ぼ、ぉろろ……」
「ぅ、ひっく……」
二人は目を回し、一人は酒が回り、洞穴には三人の死体が転がっていた。
「……センブリ茶、飲むか? めちゃくちゃ苦いぞ」
「あ、ありがとう……」
追いかけっこ続きでよっぽど喉も乾いていたのか、三人はとろみが付くまで煮込んだ薬湯をぐびぐびと飲み干し、揃いも揃って死にかけのババアみたいに顔をぐしゃぐしゃに歪めた。慣れてくるとこの苦みがクセになるんだが、こいつら素人にはレベルが高すぎたようだ。
「お前ら、隙間妖怪の下僕の下僕と神社の狗だな。狩るならこんなチビよりもっと食いでのある獲物にしろよ」
「よりにもよって一寸法師なんか食べるわけないでしょーが……」
猫の方が顔芸を保ったまま言い返す。まあ小人なんて腹の中で暴れ回る寄生虫、好きで食う奴は居ないか。
「この高麗野あうん、霊夢さんを汚す寄生虫を駆逐するまではぁああ……」
狗も落ち武者のように呪怨たっぷりでにじり寄る。率直に言わなくてもキモい。
「よく分からんが、お前ってやっぱり虫けらだったんだな」
「違うし! もうほんっとワケ分かんない!」
針妙丸はぷんぷんと河豚のように膨れながら勢いでセンブリ茶を口に含み、数秒後にぷーっと毒霧を吹き出した。私はこれを知っている。敵を察知した虫が臭い液を出して威嚇するやつだ。
「そこの狗は巫女を汚したとか言ってたな。お前のナリでよくアレを襲えたもんだ」
「本当に何もしてないんだって。あのさあ、いい加減まともに会話をしてくれる? こっちには幻想郷の猛者共を手玉に取った鬼人正邪が付いてるんだけど?」
「付いてねーよ」
「でもどっちに付くかと聞かれたら私を選んでくれるんでしょ?」
「悪態ならいくらでも付いてやるがな」
ちょっと担ぎ上げてやっただけでここまで増長しやがって、私はこいつのこういう所が嫌いだ。
「……いいよ。紫さまも駆除を第一目的にしたわけじゃなかったし」
「お茶もご馳走になっちゃったし、一度牙を引っ込めるのがスジかしらね」
猫と狗が尻尾を丸めて胡坐をかいた。暴れられても困るが、だからってここは話し合いの場でもない。だけど針妙丸も当然のように私の真横に座ってるし、こっちに拒否権なんて無いのだろう。茶なんか出すんじゃなかったクソが。
「少名針妙丸、お前が巫女を堕落させている。だから八雲の名において私達が矯正しに来たんだ」
ババアの威を借る猫ってところか。じゃあババアと巫女で直接やり合えよめんどくさい、という気持ちはきっと間違いじゃないと思う。
「まずさあ、ちっちゃいヤツってズルいじゃん?」
猫が、あらゆる「小」と付く存在に喧嘩を売りやがる所から話は始まった。
「いや、この中で一番ズルいのどう見てもお前だと思うけど。何なの式の式って」
小人がもっともな意見を言い返す。実際、前世で何したらただの野良猫が九尾の狐に見込まれるってのか、あの世で閻魔と寝たんじゃなかろうか。
「いいや、式の命令をい~~~~~っぱい頭に詰め込まれる立場になったら恵まれてるなんて思わない。だから私はズルくない!」
「じゃあ私だって大変だからズルくないし。自分に合う服なんて売ってないから全部お下がりか自分で縫ってるんだけど?」
「この際ズルいかズルくないかはどうでもいいわ。私はね、前々からお前に言いたかったの! 霊夢さんをこれ以上誑かすなと!」
狗が言うにはこうらしい。
このチビは打ち出の小槌を振りまくった反動で元々小さい体がクソ縮み、その間はあろう事か退治しに来た相手の神社でぬくぬくと保護されていた。(そもそも使わせまくったのは私なのだが。ざまあ)
こいつも最初こそ謙虚だったらしいが馴染んだ今となってはこの通り、弱者特権を盾にして口汚く相手をディスる餓鬼と化していたのだ。
「正邪、自己紹介してる?」
「うるせえ、私の独白に入ってくんなミジンコ」
話を戻す。私に言わせりゃ自分の力だけで生きられない、産まれながらの奴隷種族なんて反吐が出る。だが猫もさっき僻んだように、人間は小さくて可愛い生き物って奴にクソ弱い。それこそ寄生虫そのものだろうが見た目だけで甘やかす。それは妖怪に真のスカーレットデビルと恐れられる博麗の巫女ですら例外じゃなかった。
小人が菓子を食いたいと言やカステラを買ってくるし、寒いと言や懐にしまい込み、椀が欠けたと言や最高級の漆塗りと(金欠で買えないくせに)睨めっこ。挙句の果てには部屋の一画を小人用生活空間として飾り立ててしまう。
そんな様だから小人が上がり込んだ月の財政は火の車、らしい。ちなみにお燐とかいう猫に化けた本物の火車が来る日もある。後は言うに及ばず。
「いや、どう考えても巫女がダメだろ」
「それ、禁句だから」
狗は尖った耳をぱたんと畳み、聞かざる体勢を取った。お前の飼い主だろ、お前が何とかしろよ。
「あうんちゃんさあ、仮に私が居なかったとするじゃない? そしたら霊夢がキビキビ働くようになると本気で思ってる?」
「ああ、うん……今よりは!」
「ほら微妙な返事。本当の問題は別なの分かってるくせに共通の敵を作り出して団結したフリしてる。革命家とかに多いんだよねえこういうの」
「よりによって貴方にだけは言われたくないわ」
狗が元革命家の小人を恨めしそうに見つめる。チビで雑魚のくせに、小人族の姫だけあって生意気に教養はあるのだ。その上デカい態度相応の勇敢さまで持ってやがる。
無意味な仮定だが、こいつが小人じゃなければ救世主気取りの宗教屋に混じって人間共の羨望を集める大人物になっていたかもしれない。どう足掻いても天邪鬼以外になれない私と違ってこいつには英雄の資質が──。
「ねえ、正邪もそう思うよね?」
「あァ? お前が大物になんて成れるかよ阿呆が」
「はいはい、やっぱり話を聞いてなかったね。まあ私も霊夢が神社を潰しかけるぐらい大事にしてくれるとは思ってなかったし、それに甘えすぎた事も悪かったよ。だからこそ、みんなに問うんだけど」
チビ助が首を回して私達を仰いだ。
「霊夢がこんなになってるのを放置してる、甘やかしてる奴って誰だと思う?」
私の脳裏に浮かんだ一匹の化け物。そしてこいつは他の奴らの中にも等しく顔を覗かせたようだ。
私達の意見はこの時初めて完全に一致した。
──本当は分かっていた。欲しいものがあったら自ら勝ち取る以外に無いことは。
開けた口に餌を運んでもらえるのは未熟な雛鳥だけ。だけどそうしている間は私の望みも叶わない。
藍さまに認められて、紫さまに認められて、一人前になりたい。それだって確かに私の願望ではあるけれど、立派な従者なんかがゴールじゃない。百獣の王だって私と同じネコ科なのだ。だったら私にだって資格はある。
鬼人正邪という妖怪は、私から見ればあまりにも恵まれない惨めな存在だ。それでもこいつは悪知恵を絞り、道具を使いこなし、遂には幻想郷を逃げ回りきってみせた。紫さまですら正邪こそが最強の天邪鬼と認めたのだ。
いつから私は飼い猫に成り下がってしまったのだろう。たとえ勝ち目は薄くても、上を睨んで己の意思を貫き通せ。きっと紫さまはその事を伝えたかったに違いない。だから私は──。
「今こそ、八雲紫との決着を付ける時だッ!」
「……ほえ?」
紫さま、いいや紫は呑気にお煎餅を齧っていた。
場所は戻って博麗神社。この時間帯の紫は監視という名目で霊夢にちょっかいをかけている事が多い。冷静になって尊敬の情を捨ててみれば、何だこの様は。小娘と一緒に縁側で食べかすを溢している、こんなヤツの式神になんてどうして私は!
「そうだそうだー、こんなヤツなんて今すぐ下剋上だー」
後ろでは最強の反抗期娘がエールを送ってくれている。今の私は百人力、まさに解き放たれた野獣だ。九尾の狐を従える妖怪にだって遅れを取りはしない!
「橙? 何がどうなってそんな四人パーティを組んでいるの? 分かるように説明してちょうだい」
「全てはお前の身から出た錆、って事だよ」
パーティの戦士担当、針妙丸が煌びやかな装飾のハンマーを紫に向ける。
「貴方は霊夢さんの保護者面してますけど、私の方がずっと前から見守ってましたからね!」
戦士担当、あうんも一歩前に出る。霊夢がどっちも保護者じゃないわと言いたげな顔をしているのは見て見ぬふりだ。
「飼い犬、いや猫に手を嚙まれるとはこの事だなァ? お前が君臨していたのは砂上の楼閣だったんだよ」
そして戦士担当の正邪。私も今こそ、彼女のように牙を取り戻す時が来た。下剋上! 反骨精神! ビッグサクセス!
「お前がいっつも全部お見通し~、みたいな胡散臭い言い方だから霊夢だって適当になるんだよ。反省しろ!」
隷属の身なれど巨悪に敢然と立ち向かう、私こそが勇者だ。この世に悪の栄えた試し無し、最後は必ず正義によって退治され、地球に平和が訪れる。よく分からないけどこいつが居なくなれば何か世の中が良くなるに違いない!
「あー……橙、自分が何を言っているか分かっているの? もしかしておやつのチュールを買い忘れていたの、まだ怒ってる?」
「八雲の名において、博麗神社に纏わりつく虫を駆除する。覚悟しろ、隙間妖怪!」
「うん、私がその八雲なんだけど?」
もはや語ることはない。ここから先は私自身の力で道を切り開く時。そう、拳で!
針妙丸がハンマーを振り上げたのを皮切りに、私達は一斉に飛び掛かった。
従者の私だから知っている弱点が、八雲紫にはある。このまま殴っても紫は自分の隙間空間に逃げ込んで空振りに終わってしまうだろう。だけど、もしそれが塞がっていたら?
例えば魂魄さん家から虹川さん家に行くとして、そこに辿り着くまでの道筋は無数にあっても毎回同じ場所を通るものだ。それはその道がよく知ってたり、楽だったり、最短だったりで。
つまり紫の生み出す隙間も何でも有りのように見えて、癖でいつも通ってしまう座標がある。今回は私自身の結界術であらかじめそこを占領してやった。
これで咄嗟の逃げ道が通れなかった紫には隙が生じる。この手が通じるのは一回だけど、それで十分。一発で片を付けてしまえばいい!
針妙丸の針剣が、あうんの牙が、正邪の変な矢印が、そして私の剛爪が紫を──!
「……はい。自分達の罪状を、もう一回よーく復唱してみなさい」
「私達は、人の家の庭で勝手に暴れようとしました。あと霊夢さんを舐めてました。ごめんなさい」
百獣の王、目覚める。
腑抜けだなんてとんでもない。霊夢は相変わらずの殺戮マシーンだった。
『人の家で勝手に何してんの!』
そう叫ぶやいなや、針妙丸を針で足止めし、あうんの顔面へお祓い棒の一文字を叩き込み、正邪の顎に陰陽玉がクリーンヒット、そして私には無数のお札が飛来。これら一連の動きを矢継ぎ早に繰り出し、そして返す刀でついでに紫さまもお腹に前蹴りを喰らっていた。
『アンタも、お茶請け食べて良いなんて言ってないんだけど!?』
言っても無駄で諦められていたけど不満だったみたい。喧嘩両成敗、結局私達は五人揃って霊夢の前で正座させられたのだった。
「クソが。誰だよ神社に襲撃かけようとか言ったバカは……」
「なにさ、正邪だってノリノリだったくせに。久々に私と一緒に暴れられるからってはしゃいじゃって」
「んなわけあるかゾウリムシ。大体お前が発端だろうが」
「私じゃない、小槌の影響。しょうがない、済んだこと。」
「その逃げはもう通用しないのも分かってるわよねえ?」
霊夢はおもむろに発電機を引っ張り出すと、そのコンセントにプラグを差し込んだ。
自分の手を汚さず小動物なら確殺できる、最強の拷問器具が博麗神社にも最近導入されていたのだ。その名はズバリ、電子レンジ──。
「針妙丸、橙。どっちから行く? ああいや、小槌で小さくしちゃえば誰でも入るわよねえ。どうする?」
「ごごごごめんなさいごめんなさい! 橙の方が暖かい場所好きだと思います!」
「ふざけんな! お前なんか毎日味噌汁の具になってるようなもんじゃん!」
「橙、八雲らしくもっと淑女な喋りをね?」
そんな事を言ってる紫さまだって月人に土下座した時以来の無様な姿を晒している。それは私だって同じなのだけど。
そして当の電子レンジはというと直接正邪の頭に落とされていた。無惨。
「あのー……私達も一応は霊夢さんを思っての行動だったわけでして、この可愛さに免じて許してくれますか?」
あうんが飼い主の足元にすり寄り、つぶらな瞳で顔を見つめた。
「うっ……」
クリティカルヒット。
これが冴えないハゲの中年男性とかだったら問答無用で殺されているだろうけど、実際可愛いから許される。それがペット特権というやつだ。
「橙もちょっと野生が戻ってきちゃっただけで、本当は紫さまの事も大尊敬してるんです。許してくれますか……?」
「じゃあ聞くけれど、藍と私ならどちらをより尊敬してる?」
「え゛っ!? そ、そんなの勿論ゆん……紫さまに決まってますけど!」
「うん、混ざりかけたわね。あの子も私の一部みたいなものだから良いけど」
ヨシが出た。藍さまあっての私であり、紫さまあっての藍さまだ。それによって橙あっての紫さまという三段論法が成り立つ。私達は三位一体、三人いれば楽団でもお笑い芸でも何でもできるのだ。ああ、素晴らしきかな八雲家。八雲家よ、永遠なれ──。
「なんかおめでたい雰囲気出してるけど、あんた達はそれで済まないわよ」
それでは誤魔化せなかった。
「ここ数日ずぅっと視線を感じていたの。寝てる時もお風呂の時もガサガサ聞こえて全然気が休まらなかったんだけど。これが野良猫の仕業ならしょうがないけど、飼い主の紫が命令していたのよねえ?」
「違うのよ。これも貴方を気にかけて指示したのであって、この美貌に免じて許して……」
「黙れウーパールーパー!」
妖怪の血を幾度となく吸ってきた無慈悲なお祓い棒が、今再び私と紫さまの頭を断罪するのであった。
私は橙である。名字はまだない。
大妖怪にして幻想郷を守護する八雲の姓を授からんと精進の日々である。
追いつこうにも追いつけない、ずっと遠くにあった主の後ろ姿。だけどそれは私が勝手に思っていただけで、本当は案外手を伸ばせば届く距離にあったのかもしれない。
なぜなら、それが今は眼の前で私と同様に、もんどり打って地に伏しているからであった。
ずっこけながらも少しずつ覇道を邁進しようとしている橙がとてもよかったです
正邪のモノローグも面白かったです
読んでいて楽しかったです。